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◆◆◆◆◆「バタアン死の行進」
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<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次大戦FAQ
(こちらより引用)
【質問】
当初の予定では,バタアン半島の捕虜移送の段取りはどのようなものだったのか?
【回答】
ジョン・トーランド著「But Not In Shame」によれば,次のようなものだったという.
「捕虜達を,マリベレスから約40km離れたバランガで集合させる.
バランガまでは徒歩を基本とする.
それぞれのバランガまでの距離は,次の通り.
・バガック周辺にいる米比軍第91師団は24km
・バタアン半島中央部にいる米比軍第11師団は約1km
・オリオン辺りにいる米比軍第31師団は約8km
である.
マリベレス周辺にいる米比軍第57師団が一番長く歩かなければならないが,捕虜達にとってそれほど困難な距離でもない.
その間,食糧は与えなくても,それぞれの割り当てで賄える.
バランガからサン・フェルナンドまでは,トラック200台を何度も往復させる.
サン・フェルナンドからは列車でカパスまで行き,そこから収容所までは12kmあまりなので徒歩行進させる.
食事は,日本軍が食べている物と同じ物を,バランガ,オラーニ,ルバオ,サン・フェルナンドで与える.
病人や負傷者は,約1000人を収容できるバランガとサン・フェルナンドの病院に入れる.
また,応急救護所や休憩所は,状況が許す限り快適なものを,道路沿いに設置する」
ハンプトン・サイズ『ゴースト・ソルジャーズ』(光文社,'03年)には,この計画が立てられるまでの経緯が述べられている.
それによれば,以下のようなものだったという.
〔略〕 南のバターンに部隊を進軍させるには,投降したアメリカ兵とフィリピン兵を動かさなければならない.その大半は歩くことができず,人間の瓦礫のように砲火線上の障害物となっている.彼らが集められた半島の南西端こそが,コレヒドール攻撃に最適の場所だった.
常に慎重な本間は,進軍の遅さを東京に叱咤され,一刻も早く島への砲撃を開始せよという巨大なプレッシャーに曝されていた.加えて,コレヒドールのウェーンライトが降伏を拒んでいるとなれば,バターンの捕虜は直ちに移動させなければならない――つまり次の行動に移れるよう,舞台から降りてもらうのだ.
本間将軍は,撤退に関するこの大問題に1ヶ月前から気付いており,その解決策を有能な将校達に考えさせた.
3月28日に,そのアイディアが披露された.紙上では,計画は理に叶い,人道的に思えた.捕虜はバターン先端から75マイル北にある,フィリピン軍の訓練施設だったオードネル収容所に収監される.バターンのイースト・ロードを通り,カブカーベン,ラマオ,リマイ,オリオン,ピラー,バランガ,オラーニ,ルバオを越えてサンフェルナンドで汽車に乗り,収容所手前のカパスに向かう.比較的丈夫な捕虜は歩くことになるが,決して無理な距離ではない――1日平均10マイル以内.食糧と救護所を用意し,病人は数百台の車両で輸送する.2棟の野戦病院が設置され,それぞれ千人が収容可能である.
しかしながら,計画には2つの致命的な欠陥があった.それはアメリカ軍の降伏の数日後にようやく判明した.
1つ目は,将校達が,投降する捕虜の数を大幅に低く見積もっていたことだ.本間の参謀は包囲攻撃の初期段階で,敵軍勢力を杜撰に調べた報告書に基づき,フィリピン・アメリカ軍の投降兵をせいぜい2万5千人程度と見ていた.
しかし実際には,軍属も含めて10万人近かった.撤退計画に関するあらゆる兵站要素――食糧,水,避難所,そして車両の配分――が完全に誤った計算に従って立てられていたのだ.
本間はすぐに,この数字が現実とかけ離れていることを察した.
『戻って計算をやり直せ』
彼は部下にぶっきらぼうに言った.
そして新たに弾き出された人数は約4万,それでもなお現実と6万人の開きがあった.
2つ目の重大な欠陥は,本間の参謀が,捕虜の健康状態と体力を極めて楽観的に捉えていた事だった.
計算では,ルソン部隊の70%以上は,オードネル収容所まで楽に歩いていけるはずだった.参謀達はフィリピン・アメリカ軍の飢えと病気の程度を全く理解していなかったのだ.
『我々は,守備隊の食糧事情の貧しさに殆ど気付いていなかった』本間は後に語る.『しかし少なくとも食糧に関して言えば,ルソン部隊はさらに数ヶ月は戦えるだろうと判断していた』
全体的に見て,本間はその計画を気に入ったようだった.目の前のコレヒドール攻略のことしか頭にはなかったものの(『どうすればあの難攻不落の要塞を短期間で落とせるか.それが最大の関心事であった』と彼は語っている),本間にとって捕虜を適切に扱うことは重要事項だった.
本間はアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜を,ジュネーブ条約に則った『友愛の精神』と,見落とされがちだが,帝国陸軍の高潔な理念に従って扱うよう,将校達に命じた.
東京の陸軍省は,日本兵が敵軍の手に落ちることを厳しく戒めていたが,天皇陛下自身は外国人捕虜を『不運な人々』と考え,『最大限の慈愛と優しさ』をもって接するよう指示していることを,本間は知っていた.
1904年から1905年にかけて行われた日露戦争で,帝国陸軍は捕虜を丁重に扱ったことから,内外に広く賞賛された.
1904年に制定された『俘虜取扱規則』には,はっきりと慈愛の精神が示されている――俘虜は博愛の心を以て之を取扱ひ,決して侮辱虐待を加ふべからず.
本間は少なくとも理論的には,このような言葉を信条としていた.自由主義者,そして国際派と言われるほど,同情心に満ちた将軍だったのだ.
同世代の優れた軍略家と比較すると,本間は繊細な気分屋で,人目を引く立派な容貌の持ち主だった.180cm余の体躯は,当時の日本人としては間違いなく大男である.
数世紀に渡って稲作を営んできた中流階級の地主の息子だった彼は,投獄された作家,司祭,そして政治家の流刑地として歴史的に有名な,本州西岸の佐渡島で生まれ育った.若い頃は能に夢中になり,出世を脅かすほどに恥も外聞もなく愛人を代え続けた.最初の妻を溺愛したが,彼女が不義を働いたと知り,離婚した.
本間の行動は常に議論を呼び,かなり常軌を逸していた.そして酒癖の悪さと,外見は美しいが社会的に好ましくない女性との野放図な恋愛沙汰によって,彼の経歴は傷つけられた.
本間の職責は実に多様で,1930年代半ばには陸軍省新聞班に籍を置き,日本の優れた作家,画家,そして劇作家を世話した.ずば抜けて知的な上に道義に篤く,少々女々しい人物,というのが友人の評である.本間と親交の深かった著名な小説家,今日出海(こんひでみ)は,この威風堂々たる将軍を,『生来の司令官』と書いている.
しかし本間は,不幸にも武士道精神を備えた根っからの耽美主義者という自己矛盾を抱えていた.戦闘中にも写生と作詩に励んでいた彼は,『人文将軍』と呼ばれていた.
本間将軍がフィリピン・アメリカ軍を攻撃するよう命じられたことは,ある意味皮肉だった.本間は民主主義者で,西欧かぶれであることを公言し,それによって東条英機とも犬猿の仲だった.
本間は英語に堪能だった.アメリカに旅行したことがあり,アメリカ映画が大好きだった.数年に渡ってオックスフォードで学び,イギリス部隊と共にヨーロッパとアジアを見て周り,親英派を自負していた.〔略〕
1930年代に祖国を席巻した熱狂的国粋主義を公然と批判し,何年もの間中道主義を貫き通して戦争を迎えた.
報道によると彼は1938年,南京へ赴き,日本軍占領下で行われた残虐行為を詳細に記録して,現地の司令官を厳しく非難した――その勇気ある態度が,日本軍での立場を悪くしたといわれている.
本間に悲劇的な欠点があるとしたら,それは内省的になり過ぎた際に――一度や二度のことではない――命令の細部をなおざりにして,厄介な責任や詳細の分析を部下に押し付けたことだろう.仲間は彼を『机上の天才』と呼んだ.計画の段階で,戦略の微妙な問題点を本能的に掴み取ることはできるが,流動的な現実の戦闘にはついていけないのだ.
文人将軍は夢想家であり,心ここにあらずの楽観主義者だった.本間が捕虜に対して同情的だったとしても,実際に捕虜を収容所に運ぶ将校や下士官という数えきれないほどの部下達に,強い態度でそれを伝えられたかどうかは疑問である.
「しかしながら,計画は滞りなく実行できなかった」と,ルポライター鷹沢のり子は述べる.
以下引用.
北部ルソンのバギオ市のフィリピン軍学校を卒業して,第3師団の中隊長をしていたゴンザレスさん(当時25歳)は言う.
「私達は多くがマラリアや赤痢にかかっていた.私達は病気だった.
だからもし,私達が健康であれば『死の行進』にはならなかった.私達は若かった.フィリピン兵の殆どが20代だった.
どんなに健康でも,4月の約110kmの行進は苦痛ではあろうが,『死の行進』にはならなかったに違いない.
また,私達は栄養失調でもあった.
私達は病気だったが,もし充分な食糧が与えられていれば,『死の行進』にはならなかった」
(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.20-21)
ゴンザレスさんは,バタアン半島でのフィリピン兵達の様子を次のように語った.
「戦場では屋根は木の葉と空でした.ときには木によりかかって寝ました.毛布もなかった.
山の中ですから,夜になると寒く,体を丸めて寝るしかありません.
戦場で負傷した兵を運ぶ担架もないのです.木の蔓で作りました.
病人を診てくれる医者もいません.夜になって寝て,次の朝にはもう死んでいるというのもしばしばでした.
しかし死体を葬ることもなく,そのまま残して移動しました」
「戦場での生活は,特に食糧事情が悪かった.
主にお粥を食べていました.
ときどき鮭缶やミルクがあるときもあった.
しかし4月には,お粥さえありませんでした.
マンゴーの木々の若葉を取って食べた.市民から貰った動物も殺して食べた」
「しかも非衛生的でした.
我々が持っていた薬はヨードだけです.私は水を飲むとき,必ずヨードを使っていた.水筒に数滴落として飲みました.
味はよくなかったけれど,ヨードがなかったら兵士はもっと死んでいたでしょう」
「そういう状態で4月9日が来たのです.
こんなことで,どうしてサン・フェルナンドまで歩けるでしょう.
バランガまでさえも辛い行進でした」
(同 p.22)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
【質問】
捕虜達はトラック輸送されることはなかったのか?
【回答】
ルポライター,鷹沢のり子によれば,実際にトラック輸送された捕虜はいたという.
以下引用.
スタンレー・フォーク著「Bataan : The March of Death」によれば,ある米比軍少佐が率いる400名のアメリカ兵捕虜達は,バランガから日本軍のトラックに乗せられ,途中で停車することもなく,オードネル収容所まで運ばれたとあり,他にトラックで移送されたフィリピン人捕虜達もいたと書かれている.
バタアン「死の行進」経験者達に私が話を聞いたときにも,
「バランガからトラックに乗せられてオードネル収容所まで行った」
という人がいた.戦争中,古いタイヤや銃の弾丸などを集める仕事をしていたフローレンティノ・デ・ギアさん(当時22歳)だ.
彼は軍服を着ていたので,兵に間違えられ,マリベレスに近いラマオで捕まった.
身体検査をされて,妻の写真と1000ペソの大金を入れていた財布を盗られた.
ディナルピハンまで歩いて一夜を明かし,次の日にバランガに着いた.
そこからトラックに乗せられて,オードネル収容所まで運ばれている.
ギアさんによれば,トラック1台に60人ほどが乗せられ,同時に10台のトラックが出発したという.
その後も引き続きトラック輸送が行われたかどうかは,彼の話だけでは定かではないが,日本軍が最初に立てたトラック輸送案は,僅かな捕虜達にではあるが,実行されている.
前出の「Bataan : The March of Death」(バターン:死の行進)によれば,約1万名の捕虜達が移送されたとある.
(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.76-77)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
【質問】
「『飲まず食わずで包囲され続けた部下の体調では,長距離を歩くのはまず無理だろう』
キングはそれを見越して,日本軍が捕虜を北に輸送する場合に備え,かなりの数のアメリカ軍車両と十分なガソリンを用意しておいた」
「〔キングは〕日本軍の監視下でアメリカ軍のトラックを使い,捕虜を本間の望む所へ運びたいと申し出た.
中山は,それらの申し出をきっぱりと断り,キングからのどんな条件も申し出も,本間は聞き入れないだろうと断言した」
「アメリカ軍車両を使って捕虜を収容所へ運ぶというキング将軍の提案を,日本軍は断じて受け入れようとしなかった.
また,降伏前日,使えるものは全て壊さねばならないと誤解したアメリカ兵によって完全に破壊されたトラックも多かった.
結局,アメリカ軍車両の殆どは軍事用に没収され,バターン南部に日本軍の大砲を輸送するのに使用された」
という記述が『ゴースト・ソルジャーズ』(ハンプトン・サイズ著,光文社,2003.3)に見られるが,これは事実なのか?
【回答】
仮にこの話が本当であるとするならば,日本側関係者の
「俘虜を自動車輸送したくても,それは不可能だった」
という主張が崩れるが,しかし日本側の類書には,このキング提案についての記述は一切見られない.
米比軍の遺棄車両については,以下のような記述を当サイトではこれまでに発見している.
[quote]
無數の自動車が道いつぱいに遺棄されてあつた.
動くのは少數であつた.
[/quote]
―――火野葦平著『バタアン死の行進』」(小説朝日社,1952/10/5), P.50
[quote]
自動車廠はマニラ市内のマニラ・ホテルに隣接した旧フォード工場に倉庫,組立,補給部門が使用することになった.
当時,廠内の広場には各地から集めた車両が何千台と野ざらしにされ,それを修理,整備し,国防色に塗り替えて各部隊に支給したものだが,乗用車を半分に切って今の半トラックにしたり,ライトバンにしたりした.
当時の比島ではライトバンは良家の女中が市場の買い物ぐらいに使っていたようだ.
[/quote]
―――岡島竹司 in 『比島に散った野戦自動車廠の記録』(比島派遣野戦自動車廠戦友会,開発社,1989/8/15),p.30
[quote]
昭和17年もなかばを過ぎ比島も完全攻略なり,修理班はバターン半島の戦場整理を命ぜられ,半島の小さい町ラマオに駐留,米軍捕虜を使っての自動車の収集,解体,発送と大活躍だ.
[/quote]
―――野上春雄 in 同,p.32
したがって少なくとも多数の車両が修理可能な程度には遺されていたが,それ以外の点については現状では判断する材料がない.
一方,上掲『比島に散った野戦自動車廠の記録』のp.21&24には,こんな記述もある.
第2次バタアン戦において,マリベレス西海岸迂回上陸の準備には,上陸地点より約4kmの陸上を兵の担送によって軍需品輸送をしなければならず,その集積に困難をきたしていたという.
そのとき第22野戦自動車廠デナルピアン支廠出張所長平塚少尉は,彼我第一線陣地の中間の山の山腹に米軍自動車が数両遺棄してあるのを知り,夜陰に乗じて兵員数名と共に工具を携行し,遺棄自動車を修理.
途中敵陣地に察知されて銃砲火を浴びせてきたが,屈せずに修理作業を完了して2両を運転して持ち帰り,この車両により軍需品輸送が容易・迅速に可能となったという.
もしハンプトン・サイズが述べているように,
「アメリカ軍車両の殆どは軍事用に没収され,バターン南部に日本軍の大砲を輸送するのに使用された」
が事実だと仮定すると,上記のような軍需品輸送困難な事態が生じるとは考えにくい.
ゆえにこの仮定には矛盾が生じる.
こうした点を勘案すると,キングの勘違いか,履行されなかった命令か,「死の行進」を招いたことになる降伏を決めた自己に対する批判をかわす方便だったか,その他様々なことが考えられもするのだが.
この点について,どんなささやかな手がかりでもかまわないので,どなたかご教示いただければ幸いである.
なお余談だが,平塚少尉は本間司令官より昭和17年7月,賞詞を授与されたが,昭和19年10月下旬,レイテ島タクロバン出張所全員と共に玉砕したという…….
【質問】
いつ捕虜達を徒歩で移動させることになったのか?
【回答】
少なくとも1942/4/5には,命令が「徒歩をもって移動させよ」に変わっていたことが,「行進」の指揮隊長,平野庫太郎大佐(絞首刑)の軍事裁判での供述書から判明している.
以下,彼の供述書の部分を引用.
「昭和17年3月末頃,河根少将からの電話で,バターン陥落が近く,5万人ほどの捕虜を収容する場所が必要だと告げられた.
捕虜の輸送を命じられたのは昭和17年4月5日である.
命令は次のようなものだったと記憶している.
1. 捕虜は徒歩をもって移動させよ.
2. 行進はグループに分けて行う.
3. 1日の行進は5里から6里ぐらいにすること.
4. 行進途中で食事や休憩の場所を設けること.
自分は,河根少将からのこの命令書を部下に伝えるとき,次のような事を付け加えたのを覚えている.
1. 暑いので,捕虜を十分に休憩させ,水を与えること.
2. 病人や負傷兵の取り扱いには特に気をつけること.
3. 逃亡兵にはきをつけること.
4. 輸送はできる限り迅速に行うこと.……」
(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.77-78)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
【珍説】
さて実際にこの行進〔バタアン死の行進〕で死者が出たのか.出たとしても直接原因は心臓発作か,てんかんの類だろう.アメリカ政府に正確なところ回答を求めたい.
何が死の行進なのか.現地はマニラから日帰りできる.ぜひ足を伸ばしていただきたい.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.121)
【事実】
健康な人間にとっては日帰りできても,飢えて病気の兵隊にとってはそうでないことは,言うまでもありません.
「一月から四月まで,ほぼ三ヵ月半もの間,バターンの山中にひそんでいたため,ほとんどがマラリア,その他の患者になっていた」(京都新聞社編著,久津間保治執筆「防人の詩
: 悲運の京都兵団証言録」,京都新聞社,1976,
p.373)
というのが,捕虜の実情でした.
【珍説】
交通安全は自動車時ことばかり思いがちだが,歩いていても様々な災難が考えられる.
お伊勢参りも修験道の山伏も,三々五々目的地までひたすら歩き続けた.
この捕虜たちは集団であるだけに心強い.歩き疲れても助け手はいくらでもいる.全員に疲労が及べば行軍は続けられないし,沿道の住民は総出で手伝うだろう.
旅には助け合いが欠かせない.旅は道連れ,世は情である.疲れ切った兵士が通りかかって,助けない住民がいるだろうか.数々の美談がサンフェルナンドやその近郊に伝えられていなければならない.
その前に,行き倒れを葬った墓の残されているはずだ.
〔略〕
死の行進だと難癖をつけられたバターンの捕虜輸送作戦は,手に余る大量の捕虜を一時も早く安全な安定した環境に置くため,秩序を維持する最善の方法であり,見事に達成されたのだ.
これは戦史に例を見ない偉業であり,日本軍の快挙と言うべきではないか.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.202-203)
【事実】
捕虜達の証言によれば,足を止めれば殺されるため,落伍者をやむなく見捨てていったそうです.
また,別項でも述べられているように,捕虜を助けようとした住民の中には,日本兵に殴られたり殺されたりした者もいましたから,無闇に助けるわけにはいかなかったでしょう.
住民の援助については,日本兵は黙認したり,そうでなかったりと対応がまちまちでした.手に余る捕虜を抱え込まざるをえなかったことによる混乱が,そのような形で出たわけです.
【珍説】
古より,人は歩き続けた
〔略〕
だから人が道行きをするのは,原則として徒歩だった.
標準歩行速度は1km15分,1時間で4kmである.休憩時間を入れて1日14時間で,50kmは人の歩行の限界というべきだ.
〔略〕
ところが,バターンの行進は1日平均15km,通常の速度なら3時間半で済んでしまう.ゆっくり歩いても半日ではないか.いくら熱帯であっても,過酷な距離だとは思えない.
よほど急峻な地形密林の難路であっても,切り開く苦労は先頭集団だけではないか.
1万7千人も失われたのなら,道を埋め尽くすほどの死体が発生する.そんな状態で移動を強行できるのか.いくら強行軍でも,倒れた人は葬って進むものだ.戦闘中でさえ見捨てはしない.
時間の余裕は十分あった.介抱しなければならない人が数人出れば,行進は止まっただろう.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.151-152)
【事実】
状況が悪化している場合には脱落者は見捨てられ,倒れた人はそのまま白骨になろうが放置,という例は,日本軍の中でも普通に見られたことです.「白骨街道」などは有名ですな.
「○○○だったはずだ!」
ではなく,
「事実として●●●ということがあった」
でなければ,反証にはなりませんな.
【珍説】
行軍に落伍する者が出たとしても,初日から平均して出ることはない.マラソンでもウォークでも,前半に棄権するのはアクシデントである.
4日行程で集中するのは80〜90%歩いた付近だろう.
ゴールに近くなると,また元気が出るものだ.
ところが死者行方不明者は1万7千人と言われたり,2万1千人と言われたり,そのあたりはまったく無責任なのだ.人の命を軽んじていなければ,そんな根拠のない話はできない.
それでは大量の落伍者が出た情景を思い描いてみよう.
一人倒れれば,それを助けて介抱するには2人は必要だ.1mに一人ずつ並べたなら17km,道を覆い尽くして行進は完全に止まってしまう.
だいいち,落伍はしても,暫く休憩すれば後からついて行ける.途中に救護所はあっても満員だろうが,よほどのことでない限り,息を引き取ることはない.
1日15kmなら,炎暑を避けて早朝か夕涼みの時間に歩いても,比較的短時間で労せずに歩ける.
彼らの荷物は水筒一つであった.
気の毒なのは日本兵.40kg近い装具に銃剣つけて一刻の油断も許されない.
捕虜のほうは間違いなく気楽であった.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.175-176)
ところで1日15kmは,老人にとってさえ疲れるほどの距離ではない.
兵の若者達の中には中年の将校も混じっていたかもしれない.健康状態,栄養状態には個人差があったと考えられる.
それにしても,休息を禁じたり罰したりするわけはない.回復しないほど消耗したりするだろうか.
いくら個人差があっても,ひきつけでも起こさない限り,少し休憩すれば元気を取り戻す程度の行軍ではなかったか.
(同,p.185-186)
【事実】
マラソンやウォークと一緒にするのは,論理展開上いい加減としか言いようがありませんな.
また,捕虜達は炎天下に歩かされているというのに,「炎暑を避けて」という文言が出て来る事も不可解でなりません.
勝手な休息など許されなかったのも,すでに別項目で述べられている通りです.
【珍説】
「死の行進」は42年4月のことである.
43年10月10日,ロンドンにおいて万国赤十字極東捕虜局のキング委員は,
「日本の捕虜収容所では,今だかつて虐待行為は見られず,捕虜は十分に待遇されている」
と述べている.被抑留者親族会議における報告である.
さすれば名高い「バターンの行進」はどうなったんだ!
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.152)
【事実】
キングが知らなかっただけでしょ.赤十字には査察権限などありませんから.
ちなみにバタアン死の行進さえ,米国民に知られるようになったのは1944年2月に報道があってからです.
【質問】
カブカーベンのマリベレス第2病院の患者が,バタアン死の行進に参加させられたのは何故か?
【回答】
コレヒドール要塞からの砲撃に晒されていたため.
以下,ソース.
マラリアでカブカーベンの第2病院に入院し,その後,病院の職員として働いていたアーサー・ロベルト伍長は,マニラ法廷で次のような証言をした.
「日本軍はコレヒドール島を攻撃するために,第2病院の周りに大砲を備えつけた.
患者たちはコレヒドール島からの砲撃に晒され,数発の砲弾が病棟に当たった.
日本軍兵士は,
『病院を出て,北に向かって行進するように』
と命令した.
患者達を考慮することなどない.手足や指の切断をしたり,または骨折をしてギプスをつけた負傷兵もいた.
日本兵はフィリピン兵に
『ギプスを取って行進せよ』
とも命じた.病人のギプスをとって歩かせた日本兵もいた」
第2病院の患者達には,まさに「死の行進」だった.
スタンレー・フォーク著「Bataan : The March of Death」には次のように書かれている.
「患者達は病院を出ると,バタアン半島南部から来る捕虜の長い列に加わった.
ある者は一時凌ぎに,木の枝を松葉杖の代わりにして,びっこを引きながら歩いていた.
またある者はよろけながらも,緩くなった包帯をしっかりと掴んでいた.
僅かな人が食料と水を持っていた.
弱い患者は道端に倒れ,日本兵は日本刀〔原文ママ〕で斬りつけ,銃弾を浴びせた」
日本軍兵士達は,病院の食糧・乗り物・医療品や器具などを奪った.食糧の中では特に果物ジュースとミルクに興味を示した.
病院に残されたものは,黴のついた米,塩の塊,それに僅かな医療器具だけだった.
(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.35-36)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
【珍説】
バターン半島で降伏した米・フィリピン軍に相当数の民間人が伴ったと言われている.一説に4万1千人,一説に2万8千人.集計したとしても,時と所によって違ってくる.
〔略〕
軍は最大の消費者団体であり,巨大なマーケットである.そして,とびきり支払いが鷹揚なのだ.
商品などは客が納得しさえすれば何でもよい.荷物はいらない,身一つでもできる商売もある.
酒と女と歌とギャンブルは大っぴら.取り締まりの厳しいのは麻薬と性病.それも風紀と規律は弛緩していた.
もともとフィリピンの風土は女無しでは夜も明けぬ.何ヵ月も禁欲させるわけにはいかないのだ.
マリベレスに追い詰められた米・フィリピン軍は,多数の「からゆきさん」を含む民間人を伴っていた.
最後の拠点にあった軍需物資も,あいにく砲撃で殆ど焼失してしまった.
ただでさえ圧倒的多数の捕虜,それも首一つ図体の大きい兵士達ばかりではなく,民間人までも世話をかける.この地域で戦いの巻き添えになった哀れな人達ならまだしも,マニラから着いてきた余計者だと日本兵には映った.事実その通りだ.
何もこの行進が死の行進なら,死出の旅のお伴をすることになる.慰安婦の殉死があったのか.そんな麗しい美談は一切語られていない.
日本軍は捕虜の将官も特別扱いしなかった代わりに,民間人が例え売春婦でも差別はしなかった.困った時はお互い様だ.一緒に空きっ腹を抱えてサンフェルナンドへ辿り着いたのだ.
捕虜の行進についていった民間人に犠牲者が出たという話はなかった.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.203-205)
【事実】
フィリピン・パブか何かと間違っておられるようですな.
カトリック教の国であり,女系家族の国であるフィリピン人を,まるで馬鹿にしているわけで,そういった侮蔑が当時の日本兵にもあり,それが捕虜への暴行に繋がったことは想像に難くありません.
なお,「世界戦争犯罪事典」(秦郁彦,佐瀬昌盛,常石敬一監修:文藝春秋社刊)によれば,住民は現地で解放されております.
常識的に考えましても,「ただでさえ圧倒的多数の捕虜,それも首一つ図体の大きい兵士達ばかりで」これを持て余しているところに,さらに民間人を同行させる理由が見当たりません.「一緒に空きっ腹を抱えてサンフェルナンドへ辿り着」なきゃならん理由は,日本軍の側にも民間人の側にもありません.
したがって,民間人に犠牲者が出るはずが最初からありません.
【珍説】
〔バタアン死の行進の〕4日の間に脱走する機会はいくらでもあった.日本軍はむしろそれを望んでいた.人数が減ってくれれば負担が減るのだ.使役するにもおいそれと仕事は見つからない.保護するだけで当分はタダ飯を食わせなければならない.
だいいち,日本兵はフィリピン兵を敵だとは最初から思っていなかったんだ.
植民地を解放する目的で戦ったんだから,どうぞお逃げなさいといわんばかりだった.
4日立ってもアメリカ兵1200人,フィリピン兵1万6千人しか減っていなかった.内心もっと逃げてほしかった.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.121)
途中に救護所を設けて衛生兵を配置した.もとより絶対数が足りないのだから行き届きはしないけれど,倒れた捕虜を放置するようなことはしない.
医療の濃度は日本とアメリカでは差があって当然,日本式の介抱で贅沢は言わせない.見方によれば乱暴だったかもしれない.
炊き出しは,別途にあり合わせのコンデンス・ミルクをぶち込んだ粥が役に立った.腹の足しにはならなくても,疲れた体にこの上ない滋養になった.
(同,p.166)
あっけなく降伏した敵を軽蔑はしても,恨んではいなかった.フィリピン兵などは初めから敵とは思っていなかった.
おおっぴらに逃げろとはいえなくても,逃げてくれればこちらは助かるのである.
だから隙を作って追跡はしなかった.逃亡兵が出ても,処罰されることもなかった.
(同,p.167)
【事実】
脱走はおろか,歩みを止めただけでも斬られたり撃たれたりしたという証言が多いです.
捕虜は大半が栄養失調で水もなく,病気にもかかっていたわけですから,逃げてもすぐに捕まってしまいます.そのために,脱走のチャンスを狙っていたが,体力不足で果たせなかったというのが真相でしょう.
【質問】
捕虜に対し,水は十分に与えられたのか?
【回答】
不充分だったどころか,捕虜が水を飲む事を禁じた事例が多数発生している.
以下ソース.
弱りきった捕虜達が欲しがったものは水だった.
ルバオ周辺は水田が多く,掘抜き井戸も散在していた.
しかし捕虜達は,日本軍監視兵の支持に従わなければ水は飲めない.
ある者は日本軍警備兵の目を盗んで飲んだ.また,ある者は見つかって銃の柄で小突かれている.運の悪い者は刺殺・銃殺された.
〔略〕アリステオ・フェラーレンさん(当時25歳・米比軍第91師団)は,日本兵の目を盗んでサトウキビ畑の掘抜き井戸の水を一度だけ飲んだ.
「沿道にある掘抜き井戸から,水が惜しみなく流れているのです.
私はどうにも我慢ができませんでした.バガックから歩かされて,それまで全く水を飲んでいなかったのですから.
日本兵が見ていないのを知り,井戸まで走って行きました.
手ですくって数回ガブガブと飲みました.
もっと飲みたかったのですが,日本兵に見つかると殺されかねませんので,すぐに列に引き返しました.
これで私は生き延びることができたと思っています.
あんなに水が美味しかったことはなかった.体中に染み渡るようでした」
また,米比軍第2師団に所属していたジョン・ボール大佐(米人)は,ルバオからサン・フェルナンドの間で起きた出来事を,マニラ法廷で次のように証言している.
「あるフィリピン人捕虜が歩くのが遅くなって,どんどん離れていきました.周りの者達は言い続けた.
『起きろよ.早く.日本兵が来るぞ』
しかし彼は起き上がれなかった.意識が朦朧としていたのでしょう.
辺りの水田の掘抜き井戸からは,水が流れていました.
彼は井戸を見ると走り出した.
日本軍警備兵は,水を飲んでいる彼を殴り続けました.彼は立てなくなった.動くこともできないという状態でした.
すると日本兵は日本刀を出して,彼の肩胛骨の間を刺したのです」
私が会った元兵士は,
「日本兵がせめて水さえ自由に飲ませてくれていたら,死なずに済んだ捕虜はかなりいた」と言う.「暑い4月に水が飲めないのは,拷問を受けているようなものだ.日本兵はあまりにフィリピンの気候に無頓着だったのではないか」
と,彼は続けた.
ルバオにある倉庫に集められた捕虜達の中には,掘抜き井戸から流れる水を水筒に入れようとして並んでいる時に,機関銃で撃たれて死亡した者達がいた.
フィリピン偵察隊に属していたフィリッペ・マニンゴ中尉は,その時の様子をマニラ法廷で次のように語っている.
「4月14日頃でした.ほぼ150人のアメリカ人とフィリピン人捕虜達が水筒に水を入れるのを日本兵に許されました.
ところが彼らが水を入れている最中に,日本兵達は捕虜をめがけて射撃を始めたのです.
殆どが死にました.負傷した捕虜達は,死ぬまでほっておかれました」
(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
水の件については類書にも多く同様の記述があり,信頼性には問題ないようだが.
【珍説】
〔鷹沢〕氏は,オードネル収容所にいたアメリカ人捕虜の一文(サミュエル・モーディ著「Reprieve
from Hell 地獄からの逃避」)を引用して語らせる.
「(飯を)ひしゃくですくって手のひらに入れられた.……ウジが飯の間を這っている.ウジを取り出している捕虜もいた.……だが,中のほうからまたウジが現れると,彼は飯を床に捨ててしまった.ある者は泣いた」
飯にウジが沸くか.蝿は暖かい飯に卵を生まない.飯は炊いたらすぐ配るものだ.ウジが沸くまで何日も待たせるのか.それとも別のところでウジを養殖して飯に配合したとでも言うのか.
氏は百人分の食事さえ準備した体験はないのだろう.数万人の給食がどれほど大変なことか,分かってたまるか!
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.212)
【事実】
つまり三好は,数万人分の米飯を暖かい内にその数万人に配布可能と考えておられるようですが,それには控え目に見て数千もの炊飯機器が必要でしょう.
捕虜人数の見積もりが甘かった日本軍に,それだけの用意があったとは到底思えませんが.
同じ機器で炊飯を何度も行い,炊けた米飯は保管しておいたと考えるほうが自然であり,最初に炊いていたほうの米飯の保管状態が悪く,蛆が発生したとしても不思議ではありませんな.
日本軍における食料の衛生管理がどんなにお粗末だったかは,別項を参照してください.
【質問】
「バタアン死の行進」の途中,生き埋めにされた捕虜がいたというのは本当か?
【回答】
ルポライター鷹沢のり子は,そのように報告している.
以下引用.
バランガにやっと辿りついた捕虜達に与えられたのは,「おにぎりが1つ」だった.
それでは約40kmを歩いてきた捕虜達には残酷である.
隠していた金銭を取られずに持っていた捕虜達は,収容所前にいたフィリピン市民から米を買った.
「ここで米を炊いてはいけない」
と,日本軍から命令が出されていても,何人もが米を炊いて食べた.
前述〔当時47歳,米比軍曹長〕のジェームス・バルダサレさんは,3カップ分の米を炊いて食べた.
運悪く,その中の2人が日本軍に見つかった.
命令に背いたという理由で,彼らは生き埋めにされた.
バランガで生き埋めにされたのは,2人だけではなかった.
別の場所で7名が埋められている.マリベレスから行進してきた捕虜達だ.
彼らは衰弱しきっていた.回復の見こみがない状態だった.
4月14日,日本軍軍曹達は,衰弱した7人の捕虜達を防空壕に埋めた.
バルダサレさんが証言しているのは次の通りである.
「バランガには市民達が使っていた防空壕があった.
日本兵は弱った捕虜達をそこまで行進させた.
日本兵は私達に,フィリピン人兵士を防空壕に押し込めるように命令した.
それから私達は,彼らを生きたまま埋めた.
捕虜の顔辺りまで土がかぶったとき,一人がいきなり立ち上がって言った.
『私は生きている.ただ衰弱しているだけだ.私に必要なのは水だ』
しかし私達は助け出すことはできず,日本軍兵士に命令されて彼に土を被せた」
他の例も挙げよう.
「数人のアメリカ人とフィリピン人捕虜達が,穴を掘るように命令された.
日本兵は後ろで,刀を持って見張っていた.
掘られた穴に6人の死体が投げ込まれた.1人のアメリカ人と4人のフィリピン人はまだ生きていた.
1人がなんとか立ちあがり,憐れみを訴えるように両腕を伸ばした.そして両手を上げたまま叫んだ.というよりも,『アゥ! アゥ!』と唸り続けた.
すると,日本兵の一人が彼の顔を蹴った.
彼はその場に沈み込んでしまった.
何もできなかった.
日本兵は土を埋めるように命令した」
バランガで生き埋めにされた捕虜はまだいる.
4月19日のことであった.ホーマー・マーチン大尉(米人)は,マニラ法廷で次のように証言している.
「バランガにいるときに,10人ほどのフィリピン人兵士の病気が非常に悪化しました.長い道のりを歩いてきた過労と赤痢が原因でした.
彼らは用を足した後,立つことすらできずに,便所の前に横たわっていました.
日本軍の警備兵が,アメリカの下士官を数人ほど選び,どこかへ行きましたが,下士官達は戻ってくると,10人のフィリピン人兵士たちを連れて行きました.
暫くして下士官達が,何が起きたのかを話してくれたのです」
下士官達の話は,次のような内容であった.
下士官達は日本兵からシャベルを渡され,長い溝を掘るように指示された.
溝掘りが済むと,日本兵は重病のフィリピン人兵士達を連れて来るように言い,まだ生きている彼らを溝の中に運び入れた.
日本兵は下士官に,フィリピン人兵士の意識がなくなるまで頭を殴れと命じた.
拒むと,今度は下士官達に,溝に土を被せるように命令した.
背くこともできずに,10人のフィリピン人兵士達に土を被せた.
まだ体力が残っていたフィリピン人兵士が,溝の中から起き上がろうとした.
下士官は土を被せることができなくなった.
それを見た日本兵が,日本刀〔原文ママ〕を持ち出して,起きあがろうとするフィリピン人兵士を切りつけた.
そして,下士官に土を埋めさせた.
(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.52-54)
ただ,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものであり,週刊金曜日のカラーは,とにかくなんでもかんでも「日本軍が悪い」ということにしたがる傾向があることから,このソースだけで判断する事は避けたい.
例え「生き残りの証言」であっても,安易な信用が禁物なのは,南京虐殺問題や慰安婦問題に見られる通り.
【珍説】
〔バタアン死の行進は,〕深い恨みの敵兵だが,その生命を守るための移動だったのだ.
途中で酔狂にも「捕虜を生き埋めにした」だと.見てきたようなことを〔鷹沢のり子は〕書いている.
いくらノロノロの行軍でも,人を埋める穴を掘るには,歩きながらできるものではない.
指宿の浜辺じゃあるまいし,埋めてもらう人が気持ち良さそうに寝そべってくれるか.目撃者といわず見物人が大勢足を止めて行軍にならない.
歩かないと食にありつけないのに,何と言う道草をするのか.
鷹沢氏に聞こえたほど噂が伝わったのなら,戦犯で取り上げないはずはない.
ところが東京裁判でもマニラBC級でも,「生き埋め」などは一切なかった.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.165)
【事実】
動けないほど弱っていた捕虜を生き埋めにしたといわれておりますので,三好の言われることはいい加減な難癖でしかありません.
鷹沢本に不審点がないわけではないのですが,このような低次元な反論では,かえって鷹沢本の宣伝にしかなりませんので,ご注意ください.
また,「生き埋め」という表現を用いた訴因は,確かに比島地区裁判の中には見られませんが,「俘虜虐待殺害」「比人虐待殺害」といった訴因は多く見ることができます.その中に「生き埋め」も含まれていると見るのが自然でしょう.
極東軍事裁判も,公正さの上では非常に問題が多いのですが,だからといって虐待殺害があった事実までが消えるわけではありません.
*
【珍説】
捕虜輸送という困難な任務に従事している部隊は,住民が水や食べ物を援助するのは歓迎する.彼らは犯罪者の囚人ではない.刑罰のために歩かせているわけではないのだ.
「水を差し出したら,水筒を奪って馬に与えた」
「オレンジを取り上げてタイヤで潰した」
鷹沢氏はそれを信じるがゆえに採用している.氏は兵の立場にいたら,そうしたのだろう.そこまで底意地が悪い人なのだろう.
そんな陰険な行為をすれば,人々の反感を買い,日本軍全体の信頼を踏み躙り,今後の軍政を困難にすることは明らかであるのに,氏はその行為を是認しているのだ.
当時の純情な兵は,我々の近い身内だったのだ.鷹沢氏の祖父兄にも行軍や関係者もいたはずだ.もしそれが祖父であっても,何の躊躇いもなくそう言いきることができるのか.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.184)
【事実】
個人攻撃に走るのは.詭弁の特徴の一つですな.
鷹沢本に不審点がないわけではないのですが,そのような低次元な反論では,かえって鷹沢本の宣伝にしかなりません.
ハンプトン・サイズによれば,これは「米兵に行為を示す者への怒り」から出た態度であると説明されています.
最初の内,「見事な礼儀正しさと自制心を備えていた」日本兵も,「遅々として進まない捕虜の歩みに,怒りを覚えつつあった」わけで,怒りが飛び火したとしても何ら不思議ではありません.
それに,混乱した状況下にあって,今後の軍政を心配するほど余裕があった兵士が,そんなにいるとも考えられないのですが.
【質問】
バタアン攻略戦後,捕虜に対する虐殺命令を,辻ーん(辻政信)が出したというのは本当ですか?
【回答】
ほぼ事実と見て間違いない.
森山康平やハンプトン・サイズによれば,事件の経緯は,おおよそ次のようになる.
「辻はシンガポール攻略の後,参謀本部勤務となったが,作戦指導という立場で,第2次バターン攻略戦が始まる前からやってきていたのである.虐殺命令は,辻が各部隊の司令部を回って口頭で出した『私物命令』だった.
第141連隊長,今井武夫大佐は,キング少将降伏翌日の4月10日,旅団本部(第56旅団)の参謀から直接,名指しの電話を受け,捕虜の一律射殺の『大本営命令』を受けた.今井は事の重大さに驚き,命令を書面で貰いたいとしていったん電話を切り,今井部隊が連れていた捕虜数百名を急いで武装解除し,マニラ街道を北上するよう指示して釈放してしまった.
今井は,そんな乱暴な命令を大本営が下すはずがないし,したがって命令の書面は来ないだろうとは思ってはいたが,万一,命令書が届いても,射殺すべき捕虜がいないという状況を作ったのだった.
また,同じく第65旅団の第142連帯副官だった藤田相吉大尉は,やはり旅団本部の参謀から捕虜射殺の命令を電話で受け,その場で連隊長に伝達する事を拒否したと記録している.藤田は,
『私を軍法会議にかけてください』
と叫んで電話を切ったが,1時間後に同じ参謀から命令取り消しの電話が入った.
しかし今井によると,この命令のまま,多数の捕虜を射殺した部隊もあった(以上,今井・藤田の項は御田『バターン戦による』)」
(『マレー・シンガポール作戦』フットワーク出版,'91,P.268-270)
「バターンを包囲していた最期の数週間,杉山〔元・陸軍参謀総長〕は本間〔雅晴将軍〕のもたつきに業を煮やし,信頼する中佐をルソンに派遣して,本間の部隊に潜り込ませた.
全権を委任されたこの奇妙なスパイは,辻政信という,ラスプーチンのように特異な人物だった.太平洋戦争の忌わしい伝説の一つとして,気性の激しい,眼鏡をかけた辻中佐は,帝国陸軍内で,その階級を遥かに超える権限を備えていた.何か問題が起きるたびに,杉山は自分の目と耳,時には殺し屋として辻を派遣した.
辻は,魔法の力で死を逃れることもできると吹聴し,本間のように礼節を弁えた戦士には軽蔑されていたが,自分に絶対の忠誠を誓い,あらゆる命令に従う若い将校を配下に抱えていた.彼らには『作戦の神様』と呼ばれていた.
辻は『アジア人のためのアジア』というスローガンを掲げ,東洋を支配する事は日本の使命であると主張した.もしかしたら辻ほど,人種間の憎しみを煽り,大和民族の純血と優秀さを信じていた将校はいなかったかもしれない.彼が現れるところには必ず残虐行為が付き纏った.5千人以上の中国人が,辻一人のせいで命を落としたといわれている.辻は,闘争心を高めるために,敵の肉を食らう事を勧めた――墜落死した連合軍パイロットの肝臓を食べたこともあるらしい.
辻に関する話の多くは神話めいていたが,戦士として天才であることに異論はなかった.その圧倒的なカリスマ性と,自分は常に正しかったという事実を後ろ盾に,辻は,無難に任務をこなしているはずの上官を好き勝手に非難し,叱責した.
彼の出現は,佐官達にとって恐怖の的だった.辻は杉山の代理であり,辻が来るということは,参謀総長が不満であるということを意味していたのだ.
〔略〕
辻がバターン半島に現れた頃に蛮行が発生し,数十人の捕虜が殺害されたという報告もある.日本人歴史家の村上兵衛は,辻があるとき,部下の前で捕虜の扱い方を実践してみせたと記述している.
〈辻は言った.『この調子でやるんだ』〉と,兵衛は記す.〈いきなり彼は拳銃を抜き,捕虜の一人を撃ち殺した〉
〔バターンの米軍の〕幸福の数日後,本間の忠実な部下である今井武夫大佐は,怪しい$l物からの軍用電話を受け取った.受話器の相手は曖昧に師団参謀≠名乗り,即刻『投降者を全員射殺すべし』と今井に命じた.
そんな命令を本間が下すはずがないと今井は考え,その指令はどこから来たのかと尋ねた.
すると,この命令は大本営から直接来たもので,厳格に従わねばならないという答えが返ってきた.
今井は激怒して受話器を切った.
現実に大量処刑が行われることを恐れ,今井は非常処置を取った.最近投降してきた千人ほどのアメリカ兵とフィリピン兵捕虜を解放するよう部下に命じたのだ.捕虜はジャングルの中に放たれ,バターンに展開する日本軍に捕まらないよう,適切な逃走路を教えられた.
その怪しい将校は,同じ『全員処刑』命令を,軍用電話で生田少将にも伝えた.生田もまた,命令が本間の本部から来たものではないと確信して,それに取り合わなかった.
一日中,その偽指令が戦場指揮官の間を駆け巡った.
犯人は辻しかいないと思われたが,彼の罪が立証されることはなかった.
生田が疑ったとおり,命令は正規のものではなかった.本間は全く関知していなかったのだ.
『残念なことに,』とイギリスの軍事歴史家,アーサー・スインソン卿は記している.『辻の異常な性格を理解していなかった将校は,彼の命令通りに実行した』」
(ハンプトン・サイズ著『ゴースト・ソルジャーズ』光文社,'03,P.114-116)
今日出海の証言は,おそらく伝聞だが,もっと臨場感がある.
この時バタアンの南端まで占領したある部隊の参謀が,生田部隊長に面会に来た.
「軍司令部参謀部からの命令で,捕虜を秘密裏に殺せと言ってきたのですが,こちらの部隊にも伝達して,実施するように言われて来ました」
生田司令官は苦々しげに,
「それはご苦労.しかし本隊にはそんな命令は来ておらんが……」
「ですから,こちらでも実施するようにということで……」
「それは誰が言った?」
「大本営から参ったT参謀の伝言であります」
「強いて実施しなければならぬのなら,命令書が来てからやる.T参謀の意見はただ聞いたことにして置こう」
「すると実施せぬ方針ですね」
「それは答える限りではない」
「わが方に多大の損害を与え,4ヵ月近くも苦戦を舐めさせた憎むべき敵をかばうおつもりですか」
「一度降伏したものはもはや敵ではない」
「いや,それは戦争が済んだ時の事であります.現在は緒戦にすぎません.マッカーサーは南方へ逃亡しました.彼は再起を期して去ったのであります.
T参謀は,国際法なぞは欧米の得手勝手な法律であって,かかる法律を作った欧米的精神に対して戦いを挑んでいるのだから,国際法の適用は認めんと言っていました.
従って捕虜はことごとく抹殺してもこれを収容する必要なしとまで極論しております」
(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.140-142)
なお,この記述は,その場に居合わせた神保中佐からの伝聞と推測される.
【質問】
パンティンガン川の虐殺とは?
【回答】
バタアン死の行進の最中に,パンティンガン川岸で行われた,日本軍による虐殺行為.
同地のコンクリート製記念碑によれば,
「1942年4月12日頃,パンティンガン川のほとりで,ほぼ400人の将校および士官であるフィリピン人捕虜の一団を刺殺・銃殺・斬首によって殺害」
したとされており,マニラにおける戦争裁判では,本間雅晴中将に対する,バタアン死の行進に関する11事例の中の一つとなっている.
この虐殺の生き残り,ペドロ・フェリックス(当時29歳)によれば,以下の通り.
フェリックスの連隊1500名は,投降後,緑色のトラック約20台に乗せられた.
乗りきれなかった者達は,バランガに向けて行進した.
フェリックスさん達はトラックでパンティンガン川まで来た.
この川は,バタアン半島の南部に位置しているマリベレス山からの支流で,タリサイ川へと合流して,半島の沿岸,バランガ市周辺からマニラ湾に流れ出る.
川は,橋が壊れていたために渡れなかった.
全員がその日は川の土手に寝て,次の朝,橋の修理をさせられた.
修理を終えたところへ,日本軍の立派な車が着いた.ある日本兵が,彼が第14軍第65旅団の奈良中将だと教えてくれた.日本軍の将校達も一緒だった.
フェリクスさん達は,
「そのまま行進しろ」
と命令された.
何があるのか分からないままに,川の土手を歩いた.
一時間ほど歩いたところで,日本兵が「止まれ」と命令した.
そのとき,日本人将校が叫んだ.
「気を付け! 佐官以上は手を上げろ」
中佐以上はいなかった.3人の少佐が手を上げた.
次いで尉官も手を上げさせられた.フェリックスさんは大尉だった.
「2等兵と市民はバランガへ向けて歩け」
と言われた.
そのとき,ある少佐が,
「私の祖母は日本人です」
と申し出た.
日本兵は,
「一緒に歩いて行け」
と別扱いにした.彼はとっさの嘘で危機を逃れた.
数人の日本兵が,丸めた電話線を持って現れた.数十人が繋がれるような長さに切ってある.
これから殺されるのだと思った.バタアン半島が陥落した時,生きていられるとは思わなかったから,静かな気持ちだった.
日本兵達はフィリピン人捕虜を3つのグループに分けて,それぞれを離れさせた.
約30人から35人ほどを後ろ手にして一列に繋いだ.アメリカ兵達は別に繋がれる.約20名ほどいた.
彼らは日本兵に,
「私達は降参したんだから,こんなことをしてはいけないんだ.なぜなんだ」
と怒っていたが,日本兵は答えなかった.
「日本兵の電話線の結び方はヘタクソだ」
「俺達はこんな結び方はしない」
などと言い合っていた.
彼らは別の場所に連れていかれたので,虐殺されたかどうかは定かでない.
ある兵が,
「何故こんなことになるのですか? 私の母は日本人です」
と通訳に言った.名前を聞いて,通訳は日本兵に告げた.
しかし,
「残念ですが……」
と,通訳はその兵に言った.彼の母は本当に日本人だった.
繋がれなかったフィリピン人少佐もいた.2人は体が衰弱しきっていた.
彼らが銃殺されたことは後で知る.
フェリックス大尉は端に繋がれた.
それからフェリックス大尉達は,再び歩くように言われた.
少し歩いてから,軍服を着ていない日本人が,タガログ語で「止まれ!」「座れ!」と命令した.
4列が1グループとされた.フェリックス大尉は1列目の左端だった.
他の2グループは,別方向に歩かされた.後に彼らの悲痛な叫び声を聞いたので,それほど離れていなかったと考えられる.
夕方になる少し前だ.
周りには木々が茂っていた.
「残念だが,こうならざるを得なかった.あなた方と戦ってから,私達は部下をずいぶん亡くした.
諸君らがもっと早く降参していれば,こんなことにはならなかった.
これがあなた方の運命だ.
今,欲しいものがあれば言いなさい.さしあげよう」
タバコが欲しいと言った兵がいる.日本兵は口に咥えさせて火をつけた.
水を欲しがった兵が何人かいる.フェリックス大尉も水を要求した.だが,「水はない」と言われて望みは叶えられなかった.
日本兵達は日本刀〔原文ママ.以下同〕を抜いた.
フェリックス大尉は通訳に頼んだ.
「殺すなら,前から拳銃で撃ってくれと頼んでくれませんか.うしろから刀で切られるのはいやです」
「申し訳ないが,それはできない」
と,通訳は答えた.
これから何が起こるのかは誰にも分かっていた.
日本兵達は日本刀を持って列の後ろに立ち,右から順番に兵の首を刎ねていった.刎ねきれなかった兵もいる.何度も日本刀で刺されて,苦しそうに呻き声を上げた兵もいた.フェリックス大尉は,右に繋がれた兵の首が2つ落ちたのを見た.
次はフェリックス大尉の番だ.彼の場合は首を刎ねられずに,いきなり刺された.何人もの首を刎ねていたので,日本兵は疲れていたのかもしれない.右脇腹を続けて2回刺された.日本刀が体を突き抜けた.刀が抜き取られると,フェリックス大尉は前かがみになった.
今度は肩胛骨の下を2回刺された.
どういう拍子にか,右隣のハシント少尉の足が大尉の首筋に乗っかった.痛みにもがいている内に,足がかぶさってきたと思われる.その内に彼は動かなくなった.
フェリックス大尉は,そのまま声を出さないように唇を固く閉じた.
日本兵達は,手をかけた兵士達の間を動き回っていた.呻き声を上げて,再び刺された兵もいる.
大尉は,死んだと思われたようだ.大尉は神に祈った.
「神様,もし,私を殺したいのなら,静かに死なせてください.
もし生きていて欲しいと思われるのなら,強い力をお与えください」
前屈みになった姿勢で,「もう,このまま死にたい」と思い,地面に鼻をつけて息をせずにいた.自殺しようとしたが,死ぬことはできなかった.
これは神が「生き長らえよ」と言っているのだと,大尉は思った.
それからは,生きていることが日本兵に分からないように動かないでいた.
隣の兵の足が首にかかっているおかげで,フェリックス大尉は日本兵の目から隠れることができたのだ.
その内に日本兵達の気配がなくなった.
それでも暫く動かなかった.
数時間は経っただろう.
〔略〕大尉は電話線を噛み始めた.ゆっくりと,しかし絶え間なく噛み続けた.やっと噛み切る事ができたのは2〜3時間後だ.長い時間に感じられた.使い過ぎた顎が他人のもののようだった.
(鷹沢のり子=ルポライター「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.60-65)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
そして大尉は,他の生存者達と合流,日本兵から逃げ回りながら,辛うじて帰宅する事ができた,という.
なお,これの主犯はやっぱり辻ーんらしい.
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