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 【link】

『東急電鉄 車輌と技術の系譜 各時代で最新技術を取入れて進化したデハ1形から3020系までの歩み』(萩原俊夫著,かや書房,2019)

 時々出て来る,かや鉄BOOKと言うシリーズになります.
 著者は東急電鉄で車両開発に当たった人で,生粋の技術者です.
 なので副題にあるように,技術に観点を置いて,東急が未だ目黒蒲田電鉄や池上電気鉄道などを名乗っていた時代からの車両の解説を書いています.

 車両解説だけだと普通の鉄道関係の書籍になってしまって,余り差別化が為されないのですが,確かこの人の父が,東急電鉄を中心とした鉄道趣味の泰斗である荻原二郎さんだった筈.
 なので,父親が撮影した膨大な東急を中心とした車両の写真をふんだんに使用しています.
 普通,こうした写真は戦後のものが多いのですが,荻原二郎さんは,戦前から写真を撮り続けているので,流石に創立当初の写真は無いですが,東急電鉄発足前の東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄時代の写真が多数掲載されているのが大きな強みです.
 これによって,当時の車体の状態や機器の特徴などがわかり,それが戦後の更新でどう変わっていったかが一目瞭然で分かるようになっています.

 また,自身も車両譲渡の業務に関わってきたので,東急電鉄が当時多数抱えていた鉄道子会社に放出したり,あるいは中小鉄道会社,中には大手の名古屋鉄道にまで譲渡した車両の改造方法や引渡し後の状況などについても克明に書いているのも貴重な記録になります.
 萩原二郎さんと同じく,写真撮影が趣味でもあるので,自社の鉄道車両はおろか,各地に展開した譲渡車両の写真なんかも自分の手で撮影したものが公開されています.

 なお,箸休めのコラムとして,東急の車両や運転環境に造詣の深い人が登場しての記事も読み応えがあり,軽量ステンレス車開発の苦労とか,相互直通運転の調整とか,車両譲渡の実務についての事情なんて言う裏話も色々と書かれていています.

 埼玉に移ったことで都心がより遠くなって,東急沿線は更に乗りに行く機会がなくなり,特に今の状況は相互直通運転をしている目黒線以外はよく判らないのですが,久々に見に行きたくなりました.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2019-12-05
Railway 鉄路 Vasút|軍事板常見問題  第二次大戦別館
に,以下リンク

『名古屋鉄道車両史 上巻(創業から終戦まで)』(清水武・田中義人共著,アルファベータブックス,2019)

 タイトルを見れば分かるとおり,名鉄の車輌の紹介なのですが,現在の名古屋鉄道だけでなく,その前史である1898年の名古屋電気鉄道,尾西鉄道,豊川鉄道から始めて,初代の名古屋鉄道,美濃電気軌道,長良軽便鉄道,岐北軽便鉄道,谷汲鉄道,各務原鉄道,竹鼻鉄道,東濃鉄道(東美鉄道),愛知電気鉄道,知多鉄道,碧海電気鉄道,西尾鉄道,瀬戸電気鉄道,岡崎電気軌道,三河鉄道,渥美電鉄,名岐鉄道,そしてこれらが最終的に統合された現在の名古屋鉄道の1945年8月までの各社の車輌を紹介している大著になります.

 確かに1つの項目は小さい(大体1ページの半分)のですが,車輌の来歴,鋼体化改造,制御器の交換,昇圧あるいは降圧の対応などを狭いスペースに上手く纏めています.
 また,これらの車輌が何両製造され,何時から営業に入ったのか,そして最後がどうだったのかについてもちゃんと触れています.

 当然,文章だけで無く,車輌の形式写真についても掲載していて,戦後の写真だけでは無く,明治や大正期に於ける竣工写真なども多く掲載しており,これと下巻を見れば,名鉄の車輌について一通り分かる様になっている本です.

 大手私鉄でも,阪急や阪神の様に合併の規模が小さければまだ整理し易いのでしょうが,近鉄や東武,名鉄の様な合併に合併を繰返している会社だと,資料を保存するにも並大抵の苦労があったのでは無いかと推察します.
 関東圏の私鉄の場合は車庫や工場,社屋が空襲に遭ったりして,その辺の資料が焼失してしまったものも多いのでは無いでしょうか.

 確かに名鉄も空襲などは受けましたが,それでも関東圏に比べればまだマシな方では無いかと思います.
 それに,近年まで車体再生や制御器や電動機の流用などで,現物を稼働させてきたというのもあったでしょうね.

 資料が見事に整理されて,本としての体を為しています.
 共著ですが,作者は何れも名鉄のOBで,田中さんは退職後に名鉄資料館に在籍している方ですから,資料へのアクセスも容易だったのでは無いかとは思いますが,よくぞこんなややこしい来歴の車輌群を整理して纏められたものだ,とその努力に頭が下がる思いです.

 巻末には更なる資料として,車両形式変遷表や1944年の車両諸元表,車両形式図,竣工図,1943年現在の停車場配線略図などが掲載されており,資料的価値も高いです.
 単なる市販本でここまでのものは見た事が有りません.

 矢張り中の人がちゃんと仕事をすれば,こうした立派な本が出来るのだなと言う感じを受けましたし,他の会社もこんな本を出してくれれば良いのにとも思いました.
 これから下巻にも取りかかりますが,こちらも面白そうです.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2020-05-07 23:17

 【質問】
 日本軍の鉄道車輌の種類は?

 【回答】
九五式装甲軌道車

 ソキ.
 装軌兼用の鉄道車輌.
 銃塔はあるが固定武装なし.
 生産数100強.
 中国に現存.

鉄道工作車

 リキ.
 正式名称不明.
 九五式装甲軌道車の派生型クレーン車か.

九八式鉄道牽引車

 車輪交換で鉄道走行可能な自動貨車.
 軽便鉄道から広軌まで対応.

百式鉄道牽引車

 ビルマ方面の1mゲージにまで対応.

試製三式鉄道牽引車

 試作のみ.

臨時装甲列車

 日本陸軍最初の本格的装甲列車.
 一定数量産.
 基本は12両編制(警戒車2・重砲車2・軽砲車2・歩兵車2・機関車1など).
 15センチ榴弾砲・10センチ高射砲・75mm高射砲4など.
 車軸変更でシベリア鉄道乗り入れ可能.

九四式装甲列車

 日本陸軍の制式装甲列車.
 基本は8両編制(警戒車・火砲車3・機関車ほか)
 10センチ高射砲2・75mm高射砲2など.

九〇式二十四糎列車砲

 フランス製火砲を利用し製造.
 日本陸軍唯一の制式列車砲.

軍事板
青文字:加筆改修部分

7cmクラスのカノン砲を転用した,満州事変時の列車砲写真絵葉書
(よしぞうmaro' in mixi,2007年10月05日18:46)

100式鉄道牽引車@輸送学校
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 先日,ドラゴンから1/144模型が発売された装甲トロッコで質問です
http://www.dragonmodelsltd.com/html/14023-3.html
↑コレの左側の奴

 これはエンジンを搭載して自走するんでしょうか?
 あと,どう言った運用(単体で・これこれな編成で)をされていたんでしょうか?

 【回答】
 エンジン(ガソリンかディーゼルかは車輌によって異なりますが,概ねガソリンじゃないかと思います)自走します.
 基本的に軍用列車,或は装甲列車の前駆として,警戒に当たる運用,または,兵士を乗せた貨車を牽引し,線路の警備に当たる運用が主なものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 日本にも装甲で覆われた軍用列車ってあったんでしょうか?

 【回答】
 日本にもありました.
 満州事変当時,第一,第二装甲列車隊,中国本土へは第十一装甲列車隊が配置されています.
 装甲列車には二種類あり,軽装甲列車と重装甲列車があります.
 軽装甲列車は,8両編成.山砲2門を装備し,10mm厚の装甲板で覆われていました.
 重装甲列車は,九四式装甲列車と試製のものが作られ,十四年式10cm加濃砲2門,八八式7.5cm野戦高射砲2門,重機関銃14丁を有し,主砲は旋回可能な砲塔に乗せられています.

 また,中国軍の装甲列車も捕獲され使用されていますし,満鉄の機関車,貨車に,簡易急造の鉄板を張り巡らしたものもありました.

 更に,九一式広軌牽引車という,スミダ(今のいすゞの一つ)の六輪トラックを改造して,道路上をタイヤで,線路上を鉄輪で走る軌陸装甲車もありましたし,瓦斯電と三菱で製作された,九五式装甲軌道車という装軌と鉄輪を両方持ったものも作られており,これらは8mmの装甲を持ち,偵察,前路警戒任務に使用されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/09/26
青文字:加筆改修部分

91式広軌牽引車
よしぞうmaro' in mixi,2007年08月30日02:19


 【質問】
 「軽装甲列車」について教えられたし.

 【回答】
 高橋昇さんの「軍用自動車入門」(光人社)によると,昭和7年から陸軍兵器廠の指導の下,満鉄の大連鉄道工場で開発が始り,昭和8年5月に完成したものだそうです.

 その編成は,機関車×1,補助炭水車×1,指揮車×1,重砲車×2,軽砲車×2,歩兵車×2,材料車×1,警戒車×2の計12輛編成で機関車は,満鉄のソリイ型だったとの事.

 装甲化された重砲車の1輛には,10センチ高射砲1門が,もう1輛には15センチ榴弾砲1門が,機関銃4挺や騎兵銃10挺と共に装備され,軽砲車にはそれぞれに75ミリ野戦高射砲1門と機関銃4挺や騎兵銃10挺が装備されていたそうです.

 またこの車輌群は,シベリア鉄道の広軌線にも対応可能な車軸が備えられていたそうで,対ソ戦も完全に視野に入れていた事が伺えます.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月30日 00:34
青文字:加筆改修部分

昭和6年(1931年)発行の『満州事変写真帖』より
 しかも簡易装甲自動車のウーズレイCP装甲車も!(写真下)
 この2枚が写っているだけで大満足.
 でも何故「我戦車隊の活動」というタイトルで,装甲車の写真が?

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月28日02:26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦で日本が使用した列車砲について教えてください.
 ドイツの列車砲の技術か何か受け入れているのかな?
 実際に活躍する場面はあったのでしょうか?

 【回答】
 日本陸軍が制式化した列車砲はただ一種しかありません.
 九○式二十四センチ列車加農砲がそれです.
 この砲は輸入品で,大正14年にフランスのシュナイダー社と購入に関する交渉を行い,昭和3年に竣工しました.

 主な諸元は
*砲身:240mm53口径
*運行時全長/全高/最大幅:17.725mm/3.990mm/2.930mm
*総重量:133.412kg
*最大射程:50.000m

 この列車砲は,対ソ戦をにらんで満州の第四国境守備砲兵隊に配属されました.

 周知の通りソ連軍は昭和20年8月9日に満州に侵攻を開始しましたが,不幸にもこの際九○式二十四センチ列車加農砲は移動準備のために分解中でした.
 このため戦闘に用いることは叶いませんでした.
 戦後にこれを鹵獲したソ連軍は,これを自国に運び去ったとも言われていますが,詳細は不明です.

 なおこの砲を元にして,陸軍では国産新列車砲の計画を立て,一式二十四センチ列車加農砲として整備を図りましたが,戦局の悪化のため完成する事はありませんでした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/04/02(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本軍ではどのような機関車が使用されたのか?

 【回答】
 第二次大戦中,各国では軍用に鉄道を多く使用しています.

 ドイツがソ連に侵攻した時には改軌をして輸送路を延ばした,とか,米国は輸送用の標準大型蒸気機関車を多数量産し,末期にはJeepなどの車輌部品を多用したディーゼル機関車を製作し,日本に持ち込んで使用していました.

 御多分に洩れず,日本も習志野に鉄道聯隊を発足させて,軍用軽便鉄道の充実を図っています.

 その軍用軽便鉄道の演習用線路が今の新京成電鉄の路線の原型となっている訳で.

 また,20世紀初頭には満州の軍用補給路線に使うべく,米国アルコア社に蒸気機関車を多数発注しますが,これらは日露戦争に間に合わず,多くが民間に払下げられ,軸重がローカル線でも容易に導入出来る位のものだった為,鉄道会社のみ成らず,鉱山や工場専用線など,民間でも広く使われています.
 大手私鉄なんかでも,東武鉄道では随分遅くまで使用されていました.

 軽便鉄道用には,最初,英国式,ドイツ式,フランス式の機関車を導入しますが,日本の機関車に慣れた兵士からはフランス式は不評を買い,結局,ドイツ式の2輌を背中合せに連結した双合機関車と,重量を分散させ,1軸当たりの重量を小さくした5軸機関車などを使用します.

 1929年からは,これらの使用実績を元に川崎車輌などで国産化が進められ,これらは大陸に送られて,要塞建設などに使用されました.

 これらのうち,双合機関車は永久連結式ではなく,必要に応じて1輌でも走れる様になっていました.

 太平洋戦争の途中で,重点生産拠点となった工場にも,各種の鉄道聯隊の機関車が引き渡されていますが,双合機関車も1輌ずつバラされて各工場,鉱山に引き渡されています.

 また,大戦中に鉄道聯隊が,ソ連国境で使用する事を前提として,川崎車輌で開発させたものに,ドイツ製機関車を元にしたもので,5軸機関車のK2型と言うのがありました.
 これは47輌が生産されましたが,生産時期が1942~44年と日本が凋落を辿っていた時期と重なり,現地に送られたのは僅かに10輌程度しかありませんでした.

 残ったものは,生産増強用に工場や鉱山へと引き渡されています.
 この機関車の特徴は,大容量のボイラーを装備しているために力が強いこと,それにも関わらず,5軸なので1軸当たりの軸重が小さく,軽便規格の鉄道でも十分利用出来ることです.
 但し,曲線通過用に第1,5軸の車輪中央にボール状の部分を造り,その外側にギアを填め込んで車軸の動きを許し,第2,4軸からの動力伝達をギアにて行うと言う如何にもドイツ人好みの凝った造りで,保守の人の手を焼かせていたようです.

 とは言え,当時はモノのない時代,改造が不要(軌間は軍用軽便が600mm,鉱山などの軽便鉄道の軌間は610mm)で数があり,それなりに使えたので,敗戦後も効率化の為に軌間が国鉄と同じ狭軌に改軌されるまで,彼らはひたすら縁の下の力持ちを演じ続けた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月24日21:12


 【質問】
 D-51やD-52型蒸気機関車の戦時生産型は,平時に生産された物よりあらゆる面で簡素化されたそうなのですが,どのような物だったのでしょうか?

 【回答】
 D52の場合は,
煙管の長さを短縮(5500mm@D51→5000mm),
煙除け板・側歩み板・テンダーの炭庫側板は木製,
銅,鉛などの非鉄金属は極力鋼材化,
テンダーは台枠を廃して船底水槽式,
台車は構造簡単な菱形台車,
輪心は鋳鉄製
などとしています.
 工法簡略化では,主連棒の太端を丸ブッシュに,弁装置も鋳鋼製として接合箇所は機械仕上げとし,流線型,球面形状の部分はすべて直線化し,ドームカバーは角張ったものとなりました.

 ボイラーの部分も,排気膨張室を給水温め器の容器に兼用させ,給水の通過する細管群をそのまま挿入しています.
 設計者曰く,数年保てばよいという考えの下,設計の限界を確かめる現車試験をしたようなものと述べています.

 D51は,バネ装置釣合梁のピン位置を変更し,先従輪重量を動輪に転嫁.
 煙室前デッキに0.6tのコンクリートの死重を追加し,動輪上重量の増加(14.0t→15.0t)とともに,ボイラー圧力が15kg/cm^2に増加,シリンダー牽引力を8%増加しています.

 後,D51の場合は,鋼材使用量が76t→67tに.銅使用量は2.4t→1.1t,鉛は1.2t→0.4tに減少し,金属材料の使用を極力減少させています.

 で,その内容ですが,死重搭載などの牽引力増加のほかに,生産工程の簡略化の手段として,
ボイラー内火室板の一部板圧の減少,
水面計,洗口栓など銅系材料への代用材使用,
棒類受金ブッシュの銅系台材料を鋳鉄台に変更,
動輪受金の厚さを減らし,ツバ付き脱出止めに変更,
動輪バランスウェイト用鉛を廃止して鋳鉄製に変更,
軸箱守シュー及び楔の銅系材料を鋳鉄製に,
車輪タイヤの止め輪を廃止して段付きに変更,
ピストンリング幅減少,
給水加熱器の銅製細管を鉄製に変更,
速度計・給水ポンプ圧力計廃止,
動力火格子装置の廃止,
暖房装置廃止,
運転室照明を最小限にして配線・灯具節約,
番号板は小型化し鋳鉄製に,
歩み板・除煙板・腰掛・炭庫板の木製化,
炭水車の車軸の短軸化,
炭水車台枠の骨組みを省略して荷重を水タンクに負担,
炭水車台枠の菱形枠化
を行っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/16(土)
青文字:加筆改修部分

 その使い勝手ですが,月刊「鉄道模型趣味」1989年10月号に,戦時中,戦時型D51蒸気機関車に新人機関士として乗務,引退した戦後,同機関車の鉄道模型を作った方のお話があります.
 それによれば,
・シリンダー気室圧力計が省略されていたため,運転中,どのぐらいの牽引力が出せるかわからず,速度計もないため,制限速度オーバーに神経を使った
まではまだマシで,
・ボイラー内の水面計のガラス管は材質が粗悪ですぐ割れたため,勘で水位を測った運転もしばしば.
・「給水温め器」が省略されていたことから,ボイラーに冷水を直接送り込むことになり,低カロリーの粗悪な石炭と相まって思うように蒸気が作れず,
「蒸気が作れない=圧力低下=水が思うように送れない,水位も不明」
空缶を焚く可能性と隣り合わせだった
ことに加えて,
・ボイラー缶胴の継手を,2列鋲継手から1列鋲継手か溶接に変更した一方で,缶使用圧力だけを14kg/c㎡から15kg/c㎡に,牽引力上昇の目的で変更したため,安全率は低下,運転するのにも冷や汗ものだった
とか.

ナンバーテン in FAQ BBS


 【質問】
 戦時中,内燃動車はどう使われたのか?


 【回答】
 元々,業界が魑魅魍魎状態だったことから,かなり危ない橋を渡って生き残りを謀ったが,燃料難によって客車として使われることが多かった.
 戦後まで生き残った車輌は,戦車用・軍用車輌用ディーゼル機関に換装され,さらに長く使われたという.

◇◇◇

 内燃動車,即ち,ガソリンなどの内燃機関を搭載した鉄道車輌の事ですが,客車の車体製作技術,即ち,或程度の大工仕事の出来る木工と機械工がいれば,後は中古機関を搭載して,ゴムタイヤの代わりに鉄輪を履かせて,線路を走行できるようにすると言うもので,日本車輌,川崎車輌,日立など大手の会社も勿論この車種への参入をしているのですが,極端に言えば簡単に作れてしまうので,そこいらの腕に覚えのある大工の集団が,ブローカー(高利貸)と組んで,田舎の鉄道会社に売りつけ(又は貸し付け)に行って購入資金(あるいは利子)を取る,と言うことも可能だったので,まるで詐欺のような車輌もあったりして,中々百鬼夜行状態….
 中にはたった一輛だけ製作して納品後,そのまま夜逃げというものもあったり….

 例えば,西武の堤康次郎が関係した多摩湖鉄道(今の西武多摩湖線)の車輌は,開業初日に運転中止,即日,別のメーカーに車輌発注とか(笑.

 また,最初の頃は羽振りが良く,独自技術を展開して,大手メーカーが追随に躍起になっていたのに,次第に大手メーカーの資金力,技術力に負け,遂には破産,消滅という中小企業もありました.
 特に,日本車輌が床下機関に於ける逆転機配置について,基本的な特許を取得してしまった後は,その特許を避けようと色々工夫して,大手も含め,悉く討ち死にしてるケースもあります.

 しかし,特許に関しては,斯様に抵触しないように各社躍起になっているのに,宣伝となると,その広告媒体に掲載した写真は,他社のを平気で使っているのが,何だかなぁな訳ですが.

 一方,鉄道会社と鉄道省,内務省との丁々発止も結構笑えるものがあって,鉄道会社が提出した図面を官庁側が精査して,
「車体幅が建築限界を超えているから是正」
「こんな定員はあり得ないから是正」
「こんな危険な機構は駄目,是正」
など,度々是正措置を発しているのですが,鉄道会社側は,
「はい,図面は直しました」
として,実際の車輌は全然直さず,指導前のままにしていたり,中には,そう言った許認可すら受けず,謂わば,闇車輌として動かし,監査が来てバレたり,まぁ,色々やってます.

 図面だって,大工やら木工やら機械工,要は製図の専門教育を受けず,その場仕事でやっている人だと寸法などきちっとしたのを作るのは無理で,何処かの図面を使い回すと言うのもあったりして…建築図面の検査では無いけど,これで中々バレないのが不思議だ.

 更に,1938年以降の国家総動員以後の燃料油入手難の為の代燃装置の取付の時も,全台に取り付けた振りをして,実際には一部しか取り付けてなかったり,次第に資材が入手難になって,車体の新製そのものが受け付けられなかったら,休業していた会社の車輌を買い受け,そのまま使うのではなく,籍だけ残して実は新車にするとか,涙ぐましい努力をしていたり.
 こうまでして,虎の子の内燃動車を維持してきましたが,近くに軍事施設があって,ガソリンの特配を受けられた鉄道以外は,次々とエンジンを取り外されたり,機関を動かすことなくして,客車として使われ,今度は中古の蒸気機関車が引っ張りだことなったり.

 戦後まで何とか残った車輌は,戦車用,軍用車輌用ディーゼル機関に換装されて,更に長く使われたのですが,結局,時代の流れに取り残され,今となっては忘却の彼方で,資料も殆ど残っていない.

 ソースは「内燃動車発達史」(湯口徹著,ネコ・パブリッシング,2004.12)という上下巻ものの本です.
 ある意味,量産品の軍用の車輌,航空機,船舶よりも調べにくい分野であるのですが,「鉄道史料」と言う本も出ているくらい,先人達の弛まぬ努力でこうした分野の研究が進んでいるのに頭が下がる思いです.

眠い人 in mixi


 【質問】
 軍用貨車について教えてください.

 【回答】
 帝国陸軍の鉄道連隊で使用されていた貨車は,九七式軽貨車と呼ばれ,外側と内側に車軸を締め付けるボルトがあって,これを緩めることで,1000mm~1524mmの軌間まで使用することが出来ました.

 それまで,鉄道連隊には5t積みの九一式軽貨車がありましたが,その荷台を強化して積載量を8tに増やしたのが九七式.
 鉄道連隊が敷設する軽軌道や応急修復の劣悪な軌道状態でも使用出来る様に,車軸に当時としては貴重なベアリングを使っています.
 これによって,10m辺り枕木5本と言う状況でも使用出来たり,空車状態なら人2人が押せば動かすことが出来たりします.
 こうした貨車は1台に荷物を搭載している他,2両の軽貨車を繋ぎ合せてその上に長いレールを載せたり,無蓋車体を搭載して荷物や人員を運んだり,数両を組み合わせて橋桁などの重量物を運んだりと,色々重宝されていました.
 泰緬鉄道などでも,レール運搬に威力を発揮しています.
 この鉄道工事では,レールを搭載した貨車を続行させ,レールを降ろして敷設した後,その貨車は転覆させて線路外に押出し,次の貨車をその敷設したレールの上を走行させて…と言う使用法でした.
 こうして,延長415kmの路線を16ヶ月,即ち1日平均890mと言う驚異的なスピードで敷設された訳です.

 この貨車は数千両が生産され,大半は外地にて使用されて日本には戻ってきませんでした.
 しかし,千葉の鉄道連隊で使用された貨車などが敗戦後,民間に放出され,関東の私鉄に残っています.
 少なくとも茨城鉄道,小湊鉄道,西武鉄道などに残っていました.

 自衛隊の輸送学校に残されている現車は,西武鉄道から寄贈されたものです.
 西武鉄道では多数を保有していたらしく,今は無き西武山口線の新交通システムになる前に使っていた客車は,その台車が悉く九七式軽貨車改造だったそうです.
 多分,他にもいっぱいあったのかもしれません.

 知られざる旧軍の遺産,近くにも未だひょっこり残っているのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月19日22:33


 【質問】
 「私有貨車」とは?

 【回答】
 鉄道の世界には,鉄道会社が保有している貨車だけではなく,それ以外の団体が所有して,鉄道会社に運用を委託している貨車があります.
 それを一般に,私有貨車と呼んでいます.

 その殆どは私企業が所有していますが,国が保有していた私有貨車もありました.
 別に国有鉄道だから,国が保有するのは当たり前…ではなく,鉄道事業体とは別の国の団体です.
 戦前なら内務省,戦後なら建設省なんかが,工事用に軽便車輌を保有していましたが,数が多いのは,日本陸海軍だったりします.

 軍隊には補給も伴いますから,軍馬,食料品,武器,弾薬などの輸送には様々な貨車が必要です.
 また,航空機用燃料輸送用に,多数のタンク車を保有しています.

 当時の日本陸海軍の技術水準は,日本の化学工業の分野でもトップレベルにあります.
 燃料の研究は元より,毒ガスや,薬品研究などが結構為されていましたから….

 これを反映して,これらを輸送するタンク車の構造でも,最先端を行っていました.

 海軍火薬廠は,高圧ガス輸送用タンク車(1933年に開発したタ550形液化アンモニア輸送車)や,アルミニウム製タンク車(1935年に開発したタム100形濃硝酸専用車)で先鞭を付けています.
 海軍では他に,ゴムライニングタンク車だった塩酸タンク車の6割を相模海軍工廠で保有していました.

 これに負けじと,陸軍火薬火工廠では,ステンレス鋼製タンク体(1939年のタム5500形希硝酸専用車)を開発しています.
 陸軍造兵廠では,在来形式以外の30t積硝酸専用車とか30t積強硫酸専用車の開発も手がけています.

 敗戦直前の1945年7月ですら,第二海軍火薬廠では20t積アルコール専用車を設計していました.

 アルコールと言えば,戦前の「ガソリン一滴は…」の時代.
 無水アルコールを輸送する為の専用車として,ガソリン輸送用標準車だった20t積のタサ700形を,アルコール輸送用にリファインしたタサ3000形が誕生し,これは1938~41年に掛けて,当時としては破格の80輌が生産されました.
 このほか,1941年以降は敵産管理法で没収したスタンダード石油やライジングサン石油のタンク車を,アルコール専用車に改造してタキ700形,タキ600形として使用しています.

 このアルコール輸送車が,1945年には足りなくなった為,30t積のタキ800形が計画されました.
 これは,ガソリン輸送用の貨車を改設計したもので,設計比重が0.79~0.81と大きくなった為,タンク容積は縮小され,途中での抜き取り,横流しを避ける為,マンホール蓋と液出口は施錠可能な構造となっています.
 結局,この貨車は資材不足で実現せず,30t積アルコール専用車は1954年に初めて登場しています.

 アルコールの他に,ブタン・ブチレンガスを輸送する為,液化石油ガスタンク車のルーツとも言うべき,5tBBタンク車が計画されていました.
 液化天然ガスの輸送用も含め,図面は残されていますが,実車は確認されていない幻の貨車です.
 大半は2軸車ですが,中には既存の長物車に32m^3の大型容器を搭載する簡易型も考えられていたようです.

 粉体貨物専用車も,石炭輸送車を元に戦前に計画されていたりと,工業の進展と共に,輸送用の車両も着実に進歩を遂げていたことが判ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月26日21:14


 【質問】
 陸海軍の工廠や弾薬庫で使用されていた無火式蒸気機関車について教えられたし.


 【回答】
 さて,蒸気機関車なのに石炭を焚かない機関車があるのを御存知でしょうか?
 石炭を焼べなければ,薪で?
 それとも重油を燃やす?

 いやいや,そもそも火を熾して,蒸気を発生させることは無かったりします.

 んじゃ,どうやって蒸気を発生させているのか…と言えば,他力本願.
 工場の高圧ボイラーでお湯を沸かして,それで出来た高圧蒸気をタンクに詰め,その蒸気を吹付けてピストンを動かすと言う仕組みです.
 当然,タンクの容量に限りがありますから,長距離を走る仕組みではありません.
 タンクを一杯繋いだら?と言う考えはありますが,それは本末転倒ですね.
 そもそも,貨車を運ぶのに貨車を繋がなくてどうしますか….

 本題がずれましたが,こうした機関車が開発されたのは,火を使ってはいけない場所,例えば可燃物だらけの火薬工場の中とか,炭砿とかそう言った場所で,馬に代わる効率的な運搬手段が必要とされたからです.
 今だと電気と言うのもありますが,それでも架線と集電装置の間で火花が飛ぶと致命傷ですから,普通の電気鉄道は利用出来ません.

 無火式蒸気機関車と言う名前が付けられたそれは,第一次大戦前後に欧州から輸入され,日本でも一部国産化されていた様です.
 日本では主に火薬工場,即ち,陸軍や海軍の工廠や弾薬庫で使用されていた様で,日本の使用で有名なのは,板橋にあった東京第二陸軍造兵廠本部(板橋火薬製造所)で用いられていたものです.

 しかし,燃費の悪さ(そりゃ,幾ら高圧蒸気を充填しても,冷えてくれば蒸気は無くなるし,止っていても蒸気は消費されるし,結構直ぐに無くなるし…)がネックとなって,電気での駆動が発達してくると,忽ち用済みとなって姿を消していって居ます.

 現在,こうした機関車の現物はないのか,と言えば,少なくとも10年位前までは,本溪湖煤鉄有限公司と言う中国の炭砿鉄道に,ドイツのボルジヒ製の車輌と,満鉄沙河口工場製の車輌が9両ほど残っている事が確認されています.
 経済発展著しい今では,もしかしたら残っていないかも知れませんが,現物が最近まであるとは物持ちの良さは流石中国ですねぇ.

 無火式蒸気機関車が消えた後には,バッテリー機関車が投入されました.
 これも蓄電池に充電して,その電力で動かすと言う仕組みで,架線から火花が散って,火薬類に引火することを避けた訳です.

 この方式の機関車は,今でも鉱山用に製造されています.
 今はもう消滅しましたが,西武山口線のおとぎ電車とか,小田急向ヶ丘遊園線のモノレールになる前の電車とか,上野動物園のおさるの電車がこの形式でした.
 そう言えば,西武山口線のものは,浜松の教会にあって動態保存されていたそうですが,今はどうなっているんでしょうね.

 鉱山と言えば,この前,ガソリン発電機を坑内で使用して死者が出たと言う事故がありましたが,大抵はバッテリー機関車が投入されています.
 ただ,バッテリーの充電設備が結構大きくて,小規模鉱山では経費が掛かりすぎます.
 そこで,無火式蒸気機関車ではないのですが,特に九州の炭砿では,圧搾空気式機関車を導入するケースが多かったみたいです.

 この圧搾空気式機関車,コンプレッサーさえあれば空気をタンクに詰め込む事が出来ますから,大がかりな電気設備は不要で,結構導入された様です.
 しかし,これまた同じ様に,走行距離が短いと言う至極当然の論理で消えていきました.

 九州の筑豊地方にある鉱山博物館に現物はあるみたいですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月13日22:07

▼>無火式蒸気機関車

 これのバリエーションっていうのかどうか分からないですけれど,アイデアだけで終わった「畜勢式 C59」があります.
 川崎車輌の新免義彰氏が考案して,1941 年の機械学会における「車輌改善に関する募集論文」で 1 位をとったというもの.

 といっても,動物の勢いで走らせるという訳ではなくて (まてこら),本来の C59 の後ろに,無火室ボイラーと走り装置をつけた「畜勢機」を連結したもの.
 畜勢機は前半分が炭水車,後ろ半分が畜勢用の無火室ボイラーです.
 負荷が低いときに,本体側のボイラーで発生した温水や蒸気を畜勢機の無火室ボイラーに溜め込んでおきます.

 単に動軸を増やすだけなら,マレー式やガーラット式にするとか,あるいは重連運転にするとかいう手がありますが,畜勢式が面白いのは,畜勢機を使うと (理屈の上では) 無煙運転も可能になること.
 これをやるには,畜勢機自身に蒸気取出管を設けて,畜勢機に溜め込んでおいた温水を使った蒸気発生を行わせる必要があります.

 問題は,取り出した蒸気は飽和蒸気なので,それをどうやって過熱蒸気にするか.なにせ畜勢機には火室みたいな熱源がないですから.

 単に畜勢機に温水と蒸気を溜め込むだけでも,負荷が上がったときにそれを取り出してブースターとして使えるわけですが,これだと畜勢機の方の走り装置にも本体側から蒸気を送ってやらないとダメで,それ故に石炭を焚くのは止められないから,無煙運転は無理という話.

 下の参照記事にも書いてあったことですけれど,実用化しても複雑さが嫌われて,結局は普及しなかっただろうなあと思います.
 それに,いざブツを作ってみたら予想外の問題が出る,なんていうのもよくある話ですし.
 でも,たまにこういうすっ飛んだアイデアが出てくるのが,この世界の面白いところでもあります.

(参考 : 「鉄道ファン」1970 年 10 月号)

kojii.net ココログ別館,May 12, 2008


 【質問】
 焼玉機関の機関車について教えられたし.

 【回答】
 一般的に鉄道の機関と言えば,昔は蒸気機関,後に内燃機関,電気です.
 例外的に鉱山などでは,蒸気機関の一種で高圧蒸気を詰めた無火式,蒸気の代わりに圧搾空気を用いた空気機関車とか,バッテリーロコなんかを用いている訳ですが,一般的に石炭を燃料に水から蒸気を発生させる蒸気機関,ガソリン機関やディーゼル機関と言った内燃機関,電気でモータを回すなどの動力源があります.

 しかし,昔は下手物的な機関がありました.

 現在はディーゼル機関に駆逐されましたが,戦後まで船舶用として多数用いられていたのが,焼玉機関です.
 これは,始動時にバーナーで赤熱させた頭部の球状錬鉄あるいは鋳鉄製部品(熱球)内部に直接燃料を噴射し,スパークプラグ,気化器,タイミング調節などを必要としない2サイクルの内燃機関です.
 燃料噴射量調節や回転数設定は負荷に合わせ手動で行うものですが,最高回転数を超過しないガバナーは自動で,多くは単気筒,精度が低いのですが,安価で使用も製造も容易,燃料も質が低くとも良いという利点があります.
 反面,図体が大きく,圧縮比も低く,燃料使用量の多さの割に出力が低いと言う欠点を持ちます.
 因みに世界最大の焼玉機関は,1935年に貨物船用に生産された6気筒900馬力と言うもので,戦時中も内航用戦時標準船には4気筒320馬力の機関が搭載されています.

 元々は,漁船,農業,井戸や温泉,ボーリング用のポンプなどで多く使われましたが,これを鉄道に用いたものもありました.
 ま,今でも模型飛行機用のグローエンジンなんかがこの形態ですが….

 この焼玉機関に着目したのが,福岡鐵工所と言う大阪の会社です.
 此の会社は,大阪の南海鉄道(今の南海電鉄)難波駅南西にあった機械メーカーで,主に客車と貨車を製造していた町工場でした.
 とは言え,近くの南海鉄道を始め,摂津鉄道,関西鉄道,山陽鉄道,四国鉄道の客貨車,近江鉄道の開業時の客貨車,阪鶴鉄道のボギー車以外の2軸車全て,伊豫鉄道の客貨車など相当数を生産しています.
 しかし20世紀に入ると何故か,焼玉機関と精米機の生産に移っていきます.

 こうした下地があって,福岡鐵工所は5馬力の焼玉(石油)機関を搭載した機関車を開発しました.
 1903年の石油瓦斯発動機関車として特許を申請しましたが,中心部に焼玉機関を搭載し,フライホイールを駆動して後軸1軸の駆動輪の片側にチェーンで動力を伝えるもので,フライホイールは片方が低速用,もう片方が高速用とされていました.
 この設計思想は,軽便鉄道や馬車軌道の置換えに的を絞ったもので,実際に,試作車が筑後馬車軌道に入るや直ぐに採用が決定し,1904年から大量増備を果たして馬を置換えました.
 但し,採用に当っては国産チェーンの信頼性が乏しかった為,動力伝達は平歯車に変更されています.

 次いで,同じく九州の祐徳馬車鉄道が1904年から馬車鉄道と兼用で,更に満島馬車鉄道が購入,1908年には朝倉軌道が採用し,九州北部の軽便鉄道に於けるヒット商品となりました.
 特に筑後軌道(1907年社名変更)は大量47輛を導入し,祐徳軌道も13輛と続きます…が,好事魔多し.
 これ以上の採用はぱったり跡絶えました.

 と言うのも,当初,軌道に関する特許状は馬車鉄道を想定していた為,牽引は客車または貨車1両のみとされ,速度も時速8マイル(12.87km)以内と規制されていたのですが,それが緩和されたからです.
 緩和されてしまうと,蒸気機関車の方が馬力が出ますし,3輛程度なら牽引は簡単です.
 そうすると,馬力の低い石油発動機では太刀打ち出来ません.

 石油発動機関車は,これに対抗する為に7馬力に出力アップし,冷却方式も改善,更に,平歯車を使った動力伝達装置はベベルギアを用いた方式に変更されていきます.
 こうして,再び九州の鉄道を中心にこの石油発動機関車が改造(新規に製造されたのは無いと思われる)され,第二次のブームに沸きます.

 とは言え,久留米を走っていた南筑軌道の石油発動機関車,客車の総数の倍の数である50輛ほどを有していました.
 つまり,それだけ故障が多く,部品確保の為にもそうせざるを得なかった事が伺えます.
 例えば,北海道殖民鉄道の場合は,米国製のガソリン機関車が2輛~3輛充当されているたけです.

 折角のアイデアも,結局は蒸気機関車や後に導入されたT型フォード機関搭載の内燃気動車には到底及ばず,市場から退場していったのですが,1940年になっても未だ使用されていたりします.
 ただ,そのねぐらの中には10輛分以上の部品が堆く積み上げられていたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/29 23:13


 【質問】
 中島飛行機製のモノコック・トロについて教えられたし.

 【回答】
 戦時中隆盛を極めた中島飛行機は,戦後の財閥解体で消滅してしまいます.

 しかし,従業員を食べさせるために,色々な分野に進出しなければなりませんでした.
 航空機開発が解禁されるまで,その技術を生かして,自動車用エンジンを作ったり,自動車そのものを作ったり,バスのボディーを作ったり,スクーターを作ったり,電車や気動車を製作したり….
 正に糊口を凌ぐために,何にでも手を出していた状況です.

 中島飛行機大宮製作所でも例外ではなく,ラピッドスクーターの生産も行っていましたが,輸送機器の開発,生産も行っていました.

 その中で最初のヒット作となったのが,航空機の胴体構造を生かしたモノコック・トロでした.
 これは,森林鉄道で材木を運搬する貨車の事です.

 元々,こうした運材貨車は,多くが2軸4輪の台車を,2両繋げて,その間に木材を橋渡しで搭載したものです.
 多くは,林業で使われたわけですから,台車と鉄輪,ブレーキ装置さえあれば,自分たちで組上げられる木製が主流でした.
 しかし,こうした木製台車は当然台枠が木製で,それをボルトで留めて枠に加工しただけですから,耐久性に劣り,脱線しようものなら,台枠が変形し,再脱線し易くなってしまいます.
 また,こうした修理待ち車輌が多くなると,全体の輸送計画に影響を及ぼしたり,エアブレーキが搭載できないなどの不利が重なり,鋼製に一歩譲ることになります.

 耐久性の問題を解決したのが鋼製運材貨車で,溝形鋼を枠状に組立て,鋲接,後にプレス加工のものが主流となりました.
 しかし,これは逆に木製と違って価格が高く,木製の4倍に達しています.
 しかも自重も重く,鋼製貨車の重量を計算すると,木製より多くの車輌を牽引出来ません.

 大宮工場が開発したそれは,軽量モノコック構造を採用し,溝形鋼を加工するのは鋼製貨車と同じですが,これをコの字型にプレスして2個中心線上で付合わせて接続したもので,台車の角は丸みを帯び,角の接続の弱さを解消すると共に,急曲線での台枠同士の干渉も無く,内部の補強骨組みがモノコック構造によって簡略化出来たため,極めて軽く仕上げることが出来ました.
 この貨車の自重は580kgで,木製や鋼製のそれより100~300kgも軽く,従って,空車牽引で8組しか牽引出来なかったものが,これに換えると14組牽引出来る様になり,所要時間も4分短縮出来ることが判りました.
 更に車軸にもベアリングが付いて,運搬時に木材に付ける傷も少なくなり,更に機関車がブレーキを掛けると,慣性力で連結器が押され,それに続くブレーキてこを更に押してブレーキが掛かるという,自動ブレーキまで装備しています.

 とは言え,1949年に最初の製品が出来た時は,素人の悲しさ,台枠,転向台の強度計算に失敗して,実用に耐えられませんでしたが,1950年に改良型では,見事に営林署の採用を勝ち取りました.
 このモノコック・トロは富士重工の専売特許となり,全国の営林署で販売,使用されています.

 意外なところに,意外な会社の製品が使われていたりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月17日20:51
青文字:加筆改修部分


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