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(引用元:朝目新聞)
「gigazine」■戦前の列車の中はすっごく汚ないっ! - 虚構の皇国
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>(画像,山のような弁当ガラ)
『軍用鉄道発達物語』(熊谷直著,光人社,2009.5)
『写真に見る鉄道連隊』(高木宏之著,光人社,2011.12)
『遙かな空 泰緬鉄道 その生と死』(小林 弘忠著,毎日新聞社,2013.6)
陸軍鉄道隊
【質問】
日本統治下の朝鮮半島,台湾の鉄道開発は,どのように行われたのか?
【回答】
植民地というのは,欧米に於ては,製品の消費市場であると同時に,原材料の供給地と言う側面が強いと言えるのではないでしょうか.
日本の場合はどうかと言うと,19世紀末に世界の表舞台に登場してくる訳ですが,元々の工業的基盤の程度が低い為,生産物を作成する為の原材料の供給地と言う性格の植民地は,時代が下らないと成立しません.
つまり逆に言えば,製品の消費地という植民地形態も成立していない訳です.
日本にとっての植民地というのは,国土防衛と言う戦略的な位置づけもさることながら,これ以上本土に於て人口が増えない為の安全弁の役割,即ち余剰人口の吸収先としての役割がありました.
元々は,斯うした余剰人口の吸収先として,海外移民が考え出され,先ずは米国,次いで中南米の移民が考えられ,実行に移されたのですが,直ぐに現地と軋轢を生じて,移民そのものが上手く行かなくなります.
そうなると,視線は自然と未だ何処の勢力も余り重要視していない地,即ち,台湾やら朝鮮半島に目を付けていく訳で.
因みに,斯うした日本の考えを裏付けるものとして,朝鮮総督府鉄道局が纏めた資料では,朝鮮の収容人口限度を4000万人と見積もり,未だ2000万人の人口を収容可能である事,耕地面積や産米高を見ると最低でも数百万人を移植する事が可能で,内地の過剰人口を先ず朝鮮に移入する事を奨励しています.
そして,その人口が飽和状態に達すると食糧問題が発生する(人口が増えていくと,日本と朝鮮,台湾の農業生産だけでは日本の人口を食べさせる事が難しくなる)為,結果としてその食糧供給基地として,満蒙の大平原を確保してこれに充てる必要がある,としています.
この人口移住に必要なのが,交通手段の確保です.
幾ら人間を移しても,交通至便な所だけに集中させると結果的に耕地が細分化され,移民の生活が苦しくなります.
この為にも,植民地に於て,鉄道の敷設は重要視されました.
1927年以降の「朝鮮鉄道十二カ年計画」では,計画で新設する鉄道路線1,384kmの勢力圏面積を2,700平方里と計算し,1平方里辺り2,800人の人口を収容可能と仮定すれば,朝鮮全体で750万人収容出来,更に500万人までの増加に耐えうるとされていました.
このうち,耕地面積を人口1人につき1反2畝4歩とすれば,収容人口は540万人となり,更に300万人まで上乗せ出来ると弾いています.
この農業生産人口だけでなく,鉄道を敷設すると言う事は,雇用を創出すると言う事に繋がります.
欧米では,こうした鉄道敷設の上中流工程,即ち,列車の整備,運転,路線の設計,ダイヤグラムの作成,駅舎の管理,信号系統の管理などは自国民が行いますが,線路の敷設などの単純労働自体は現地労働力を使いますし,植民地の拡大と共に,運転や整備,信号系統の管理や駅舎の管理などの中流工程にも,現地人が採用されていきます.
ところが,日本の場合,その敷設作業などの単純作業迄も日本人が行った訳で,現地労働力と言うのは極力使わない様にしていました.
これにより,朝鮮半島に工事関係者も移住する事になり,京城~釜山間の京釜鉄道建設時には,その沿線にある水原・天安・金泉・大邱・密陽と言った都市部では,鉄道工事関係者が移住して人口が急増し,又,大田・三浪津と言った都市が誕生しました.
1935年の時点では,台湾・朝鮮・満鉄の合計が13万人,日中戦争で誕生した華北交通が20万人の約30万人が従事していましたが,このうちの半数15万人程度は日本人でした.
この時期,日本国鉄の従業員総数は23万人で,それに匹敵する規模があった訳です.
例えば,1929年の時点で,朝鮮総督府鉄道機関士は,日本人385名に対し,朝鮮人は僅かに6名.
一方では,京城の市電運転士は1名を除き,残りが朝鮮人でした.
これは,前者が軍事輸送を常に念頭に置き,万が一の場合の情報漏洩や命令拒絶に対応するのが第一義だったのに対し,後者は京城の市電其の物が民間経営で,賃金圧縮の必要があった為と,乗客との接触度合いが総督府鉄道より密で,朝鮮語の便宜が必要だったことが考えられます.
勿論,市電に軍事的考慮は不要ですし….
これは大戦の進行と共に,朝鮮では日本人社員が徴兵若しくは徴用され,代りに朝鮮人が充てられていく事で,変わっていきます.
1939年度の朝鮮総督府鉄道の全従業員42,300名余のうち,朝鮮人の割合が3~40%,これが1944年になると,朝鮮総督府交通局の全従業員94,224名のうち,朝鮮人は61,920名と比率がほぼ逆転してしまいます.
これは日本人は徴兵されるものの,朝鮮人の徴兵が太平洋戦争末期まで実施されなかった事も挙げられます.
もし太平洋戦争が無ければ,日本人の就職先として,これらの鉄道は今でも重要な役割を果たしていたのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月13日23:03
【質問】
日本統治下の朝鮮半島,台湾の鉄道事情はどうだったんでしょうか?
【回答】
現在,JRでは「上り」「下り」と言うのは,東京に行く方を上り,離れていく方を下りとしています.
国鉄時代からこれは変わらなかったりするのですが,朝鮮の場合,釜山から京城方面が「下り」,京城から釜山方面を「上り」としていました.
台湾の場合は,基隆から台北方面が「下り」,台北から基隆方面が「上り」.
樺太では,大泊から真岡方面が「下り」,真岡から大泊方面が「上り」.
つまり,東京に近い方を「上り」と設定していた訳です.
満鉄の場合はどうかと言えば,大連から奉天方面を「下り」,奉天から大連に向かうのを「上り」としています.
これは満州国が独立して,長春が新京と改称され,首都になっても,新京から大連方面の列車は「上り」の儘でした.
大連からは連絡船で日本に繋がっていますから,日本から見れば,東京に近いと言う事で,「上り」になった訳です.
食文化も,日本の影響を受けているものもあります.
韓国の鉄道駅では大抵,ホーム上に立ち食い饂飩屋があります.
この店舗は,そのまま「ウドン」,場合によっては「イルシクウドン(日式饂飩)」と名付けられています.
また,日本の駅弁でお馴染みの彩り添えの緑の笹代わりのビニール片や,弁当や軽食でお馴染みの太巻き「キムパプ」も,日本食の影響を受けたものです.
台湾の場合,駅売りの弁当は「飯包(ファンパオ)」と共に,「べんとう」を台湾語読みした「ピエンタン」も一般的な呼称として定着し,駅売店の看板にも「御弁当」が使われている事も少なくありません.
植民地時代の影響としては,食文化に関する一体化の面もありますが,列車の等級では明確な差別もありました.
現在のB寝台に相当する三等寝台車の登場は,日本では1931年の東京~神戸間が最初でした.
それまでは,長らく,一,二等のみの設定で,一等などは上層階級のものだったりします.
しかし,朝鮮鉄道では既に1923年に釜山と京城を結ぶ夜行列車に三等寝台車が設定されていました.
関釜連絡船も三等級に分かれていたのですが,夜行列車の三等寝台車,連絡船の三等は,日本の庶民が使用するもので,朝鮮人庶民階級は,列車なら三等座席車,連絡船は三等船室階下に設定された朝鮮人専用三等船室に詰め込まれています.
後者をして,日本人は「四等室」と呼んでいました.
また,満鉄の旅客収入を支える大きな柱は,日本人の輸送ではなく,季節労働者として移動する貧農や苦力に対して設定された,三等運賃を更に割り引いた特別運賃,別名「四等運賃」と呼ばれるものでした.
台湾の列車には,三等車と二等車が連結されていますが,日本人は専ら二等車に乗り,三等車は台湾人が利用するものでした.
但し植民地時代でも,三等車と二等車が混結されていた為,混雑する三等車の乗客が,二等車の便洗面所に行こうとして車掌とトラブルになり,それが中国語新聞に大きく取上げられる事もありました.
こう言った出来事があった為か,台湾では異なる等級を混結する列車は嫌われ,1980年に一時期,日本では都市間連絡特急に相当する?光号と,日本の座席指定急行に相当する復興号を混結した事がありましたが,復興号の乗車券で?光号に乗り込む乗客が続出し,こうした事もあり,混結列車は消滅してしまい,現在の優等列車は,路線や走行区間に関係なく,モノクラス編成で,運賃体系は列車別になっています.
因みに,今は高速鉄道が走っている台湾ですが,それが出来る前は,大都市間連絡特急として「自強号」,それより一つ格の落ちる地方都市間連絡特急を「?光号」,更に一つ格が落ち,指定席急行,自由席急行,通勤電車,一般列車でも冷房車の場合は「復興号」となり,快速・普通車は「普通車」と言う4段階の運賃に分かれます.
列車の格としては,自強号>?光号>復興号>通勤電車>快速(快車)>普通車の6段階に分かれていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月06日21:54
【質問】
清水トンネルについて教えられたし.
【回答】
清水トンネルが開通して,新潟と群馬の間を行き来出来る列車が走り出したのは1931年の事です.
今まで東京から新潟に向かうには,碓氷峠回りの信越本線か,郡山回りの磐越西線で通うくらいであり,新潟から更に湯沢への道は遠く,到底気軽に東京の人間が出掛ける訳には行きませんでした.
最短距離でも,水上まで汽車で行き,伊香保温泉を経由して山越えの道を歩くくらいで,一介の文士がおいそれと通える道ではありません.
それが,上越線が清水トンネルで関東と結ばれたことから,7時間と言いますから1日も掛からずに,東京から越後湯沢に辿り着ける様になります.
そして,1934年に書かれたのが,有名な『雪国』と言う訳です.
更に脱線ついでに書きますと,大抵この有名な出だしの情景で思い浮かべるのが,蒸気機関車に牽かれた客車なのですが(一部の映画やドラマでは正にこうした描写が為されていますが),勾配の急な長大トンネルを通過するのに,蒸気機関車では運転士が窒息するか,乗客が窒息するとか言う事故が発生したり,蒸気機関車では出力が上がらずに勾配を上れなくなる恐れがありました.
この為,この区間では最初から電気機関車牽引の列車で運転されています.
従って,出だしが蒸気機関車というのは間違い…などと書くと,情緒も糞もないとお叱りを受けそうですが…(苦笑.
もし,今後テレビドラマとか映画で『雪国』を撮るのならば,JR東海辺りからED18を借り受けて飯田線辺りに列車を走らせた方が良さそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/03 22:09
▼>もし,今後テレビドラマとか映画で『雪国』を撮るのならば,
>JR東海辺りからED18を借り受けて飯田線辺りに列車を走らせた方が良さそうです.
かなり些細な問題だとは思いますが,現実的に不可能だとは思います.
JR東海の所有するED18-2は,2005年に駆動系統に致命的な故障が生じ,走行自体が完全に不可能となってしまいました.
なにぶん古い形式だけに,部品の在庫がなく,ちょっとこの状態では撮影自体,完全に無理なような気がします.
疑問者 in FAQ BBS,2010/5/28(金) 5:47
青文字:加筆改修部分
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【質問】
戦前日本の地下鉄事情は?
【回答】
東京の地下鉄と言うのは考え自体は歴史が古く,1906年に早くも福沢桃介を中心とした東京地下電気鉄道が,免許を申請しますが,当時は交通の一元化と言う錦の御旗で東京市議会が反対したため,立ち消えとなりました.
その後,東武の根津嘉一郎の下で辣腕を振るった早川徳次が,ロンドンに行った時に地下鉄に着目し,帰国後,渋沢栄一らの協力で,1917年,軽便鉄道法に則って,東京軽便地下鉄道として路線の免許を申請しました.
当時,早川が東京の交通量を計るため,ポケットに入れた豆を使ったと言う逸話は有名です.
その東京の地下は江戸期まで海だったために,地盤は軟弱だと言われていました.
彼は信念の人だったりするので,その定説を疑問に思い,地盤を調べるために,市内の橋梁建設の際の資料を当たると,実は東京の地下の地盤が結構支持力が有ることが判りました.
また,井戸を使った地下水位の計測でも問題はなく,地下鉄建設に確信を抱いた訳で.
そして,当初免許申請したのは,浅草~上野~銀座~新橋~高輪と,上野~車坂~南千住の二つの路線でした.
で,1919年に地方鉄道法に基づき,免許が交付されます.
軽便鉄道法が廃止され,地方鉄道法がこの年の4月に公布された為です.
こうして,1920年に東京軽便地下鉄道は社名を東京地下鉄道に変更し,設立総会に臨みます.
ところが,その時期は第一次世界大戦後の揺り戻し不況の時代で,3月に株式市場の暴落がありました.
これによって,投資家達による資本金の払込みの動きは鈍く,当初予定の4000万円の資本金(建設費はうち3500万円)だったのが,1000万円に減らさざるを得ませんでした.
更に,設立総会では大荒れに荒れ,地下鉄は採算に合わない,会社は解散せよ,と息巻く株主達を相手に議長の根津嘉一郎が必死に牽制して,
「駄々っ子をダマクラカス様にして創立総会を乗り切ることが出来た」
と言う状態だったり.
1925年9月末,東京地下鉄道は先ず上野~浅草の間を工事することにし,大倉土木(今の大成建設)によって施行され,支払は完成後一年以内と言う寛大な条件でした.
こうして,1927年の年末から東洋初の地下鉄として,この区間が開業します.
レールの幅は標準軌,集電方式は第三軌条方式で,この時の車輌は,不燃性に留意した全鋼製車輌で,これまた日本でも珍しいもの(当時は木造もしくは台枠と外板のみ鋼製の半鋼製車輌が多かった)であり,車内は間接照明,吊手は発条入り,扉は現在と同じくドアエンジンによる自動開閉.
安全装置として,ニューヨークの地下鉄に倣った打ち子式ATSが装備されていました.
これは,前方に電車がいる場合は線路のアームが上がって,万一,前方に電車がいたのを無視して進むと,そのアームが車輌の空気弁を叩き,自動的にブレーキが掛かるという仕組みです.
最初は均一10銭の運賃だったので,改札口に10銭を投入して一人ずつターンスタイルを通る方式を採用し,話題となりました.
駅は,浅草は朱塗りの神社風,田原町のホーム壁上部は芸能人の紋が飾られています.
路線は1934年に漸く新橋に達しますが,時恰も不景気の時代で,東京地下鉄道の経営は一段と厳しさを増します.
そんな時,支援の手を差し伸べたのがその開業の賑わいを横目で見ていた百貨店です.
先ずは三井越後屋百貨店,即ち三越が開業前に店舗に直結する駅が欲しいと言う要望で,三越前停車場を建設し,駅のショーウィンドーを三越が占有することで,その建設費46万円を拠出します.
張り切った東京地下鉄道は,ホームと改札の間にエスカレーターを設置,デパートに続く地下道はイタリア産の大理石を使用しました.
また,万世橋まで延長した1930年には当時計画になかった上野広小路を建設しました.
これは工事が相当進んでから,早川徳次と大学で同級だった松坂屋の専務が頼み込んで急いで作った駅なので,上野から僅か500mしか離れていません.
1932年に三越前から日本橋を経て京橋まで開業しますが,この時には日本橋白木屋(今は無き東急百貨店)と高島屋が其々20数万円を受け取り,1934年に達した銀座でも,松屋から同じく20数万円を受け取って,店の近くに便利な様に駅を作りました.
これにより,日本橋は東京地下鉄道側負担ゼロ,銀座も半分負担で駅が作れた訳です.
これを営業に使わない手はない,と,1932年から上野広小路~神田(当時は直営の地下鉄ストアがあった)~三越前~日本橋の途中下車に使える「デパート巡り乗車券」を発売し,後にこの適用区間は銀座まで拡大されました.
ちなみに,荒俣さんが書いた『帝都物語』ではこの辺,渋沢栄一の指示によるとする場面が出て来ますが,これは事実ではないようですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月11日22:48
【質問】
戦時中の,鉄道に対する撮影規制について教えられたし.
【回答】
今日は寝っ転がって,鉄道関係の写真集をぼんやりと眺めていました.
何れもその道の先達が写した写真ですが,一つは京都の写真館の経営者で,京都を中心に関西の鉄道を写したもの.
もう一つは岡山の人で,電気店経営の傍ら,彼方此方に出かけて戦前の西日本地域の軽便鉄道を中心に写したものです.
特に後者は,そろそろ軍靴の足音が聞こえてきた1937~42年に掛けて西日本の彼方此方を回って,鉄道の写真を撮っていた猛者です.
当時は1937年に大改正された軍用資源秘密保護法(所謂,軍機保護法)が大手を振っていた時代.
趣味人がカメラを構えるのも命がけの時代で,駅のホームでカメラを構えると一般人からも白い目を向けられ,駅員からも注意を受けたそうです.
当時,これを恐い順に並べると,1に憲兵,2に特高,3に警察,4に鉄道員,5に一般人となるそうです.
1942年末になると写真材料も手に入らず,遂にその撮影行は中止を余儀なくされたそうですが….
例えば,東小倉から上添田を結んでいた小倉鉄道(現在は日田彦山線).
この鉄道路線は殆どすっぽり要塞地帯になっていたので,写真撮影を見つかったが最後,憲兵隊にスパイとして引き渡され,過酷な取調べが待っていると言う恐ろしい場所で,絶対撮影厳禁の場所だったそうです.
それを如何に掻い潜って撮影するかが,また趣味人の楽しみでもあったようで,要塞地帯を外れた呼野から彦山口辺りで写そうと言う事で,簡便な機材を選定し,写し方もさっとカメラを出し,構え,露出とピントを合わせて,さっと撮る術を身につけていったそうです.
また,未だ1940年頃はのんびりした時代で,自分が写した作品を持って行き,機関区の責任者に見せて撮影許可を頂くなどして,こうした軍機保護法を掻い潜っていました.
特に,未だカメラなんかは珍しい時代ですから,機関区課員の記念撮影なんかをしてあげると随分喜ばれ,そして便宜を図ってくれる会社が結構あったとか.
当時は趣味誌何かも数えるほどしか無く,趣味人との間で文通などして情報を集めていたそうですが,地方の鉄道事情なんかは分かろう筈もなく,撮影行中,思いもかけない鉄道に出会うこともあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/29 23:13
【質問】
京阪電車の跨線橋の由来について教えてください.
【回答】
天満橋から三条まで,大阪の鬼門を行く京阪電車は,今でこそ,途中まで堂々たる複々線になっていますが,敷設当初は,京街道上を走る併用軌道になっていました.
この地域は,低湿地や氾濫原が多く,線路を敷設するのはこの辺しかなかった訳です.
このうち,深草から墨染までの1.7kmは,京阪に於て,守口市以北では数少ない直線区間になっています.
この間,三つの跨線橋を次々と潜るこの区間を,運転士達は「単直」と呼んでいます.
この三本の跨線橋,先ず,深草駅すぐ南の跨線橋が「第一軍道」の跨線橋,聖母女学院の前の郵便局北側から,NTTに抜ける跨線橋が「第二軍道」の跨線橋,そして,藤森から200m南に行った所に「第三軍道」の跨線橋です.
本来は,「第一軍道」は府道中山稲荷線で,跨線橋の名称は「京阪跨線橋」,「第二軍道」は深草線第149号線で,跨線橋の名称は「西師団橋」,「第三軍道」は府道大津淀線で,跨線橋の名称は「西中郷橋」です.
「軍道」とか「師団橋」と言う名称が出て来た時点で,軍関係の何かか,と思うでしょうが,その通り.
1908年11月16日,当時の京都府紀伊郡深草村に陸軍第十六師団が移駐してきました.
この師団は,1906年に誕生した歩兵師団で,深草付近には師団司令部,歩兵第九聯隊,騎兵第二十聯隊,砲兵第二十二聯隊,輜重兵第十六大隊,工兵第十六聯隊を含み,憲兵屯所,兵器廠,病院,監獄までありました.
工兵第十六聯隊だけは,伏見町の御香宮にありましたが,殆どは深草村に設置され,深草・竹田両村の14万坪に広大な演習場が整備され,忽ち,周辺は軍都となっていきます.
師団司令部は,現在の聖母女学院に置かれていました.
ちなみに,藤森駅は,1941年8月31日まで師団前駅と称していました.
また,京都七条の塩小路橋から師団司令部前まで延びていた道は,現在も「師団街道」と呼ばれています.
さて,1908年に師団が移駐してきた当時,京阪電気鉄道が深草村を南北に貫く形で工事を開始していました.
その線路を挟んで,東側に師団司令部,騎兵連隊,歩兵連隊,西側に兵器廠,練兵場,砲兵連隊,輜重兵大隊がありました.
従って,東側の歩兵連隊や騎兵連隊が演習場に向かうには,線路を渡らなければなりません.
しかし,軍としては,電車が来たので隊列を遮ると言う真似はしたくない,
かと言って,京阪としても,軍が通過するまで電車を止めたままと言うのは出来ない.
そこで,両者折衷と言うことで,跨線橋を建設することになった訳です.
この跨線橋を建設するのに,京阪は7,000円を支出します.
当時の京阪の資本金が700万円ですから,可成りの金額だったのではないか,と.
川崎造船所によって建設された跨線橋は,無事竣工するわけですが,1931年,再び問題が生じます.
開業当初は路面電車と同じようにポールで集電していたのですが,近代化,高速化の為に,パンタグラフ集電に切り替えようとしたのです.
ところが,この軍道跨線橋の高さが周囲の架線の高さより低く,そのままでは,走行中,急激に高さが低くなって,跨線橋を潜り抜けた時に離線の危険性が指摘されました.
当時でも軍相手の交渉には相当骨が折れたかと思いますが,結局,従来の跨線橋を一端撤去して,1m嵩上げの上,再度跨線橋を架け直したそうです.
また,同時に線路の側も掘り下げて高さを確保したので,この付近はアップダウンの起伏が多い区間になりました.
ちなみに,この工事が竣工した時,陸軍の担当者による検査が行われたのですが,検査当日は雨が降って京阪の社員が赴かず,軍の担当者が待ち惚けを食わされたみたいで,師団経理部からの通達書には,
「晴雨ニ係ラズ検査施行スベキニ付立会社ヲ当経理部ニ出頭セシメラレ度候也」
と書かれていたそうです.
要は,雨が降ろうが槍が降ろうが,検査確認に来い,と言うことだったり.
未だ,長閑な時代の一面です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月26日22:21
【質問】
東武鉄道の戦前・戦時中の状況は?
【回答】
東武鉄道の歴史は,1899年に北千住と久喜を結ぶ線路の開業で幕を開けます.
都心への延長線としては,1902年に北千住から吾妻橋(今の業平橋)に延びますが,1904年に曳舟から亀戸まで延長し,其処から総武鉄道(今の総武線)両国橋に乗入れることになったため,一旦,曳舟と吾妻橋の間は廃止されました.
しかし,貨物駅としての需要が出て来たため,曳舟と吾妻橋は1908年に再開業し,1910年には総武鉄道の国有化で,両国への乗り入れがし難くなったため,再び此の間を旅客化し,吾妻橋は浅草と改称しました.
以後,1931年に浅草花川戸に東武ビルを建設し,その地まで高架線を延長して,浅草雷門(今の浅草)と業平橋(元の浅草)が開業するまで,東武の始発駅は今の業平橋でした.
当時,1923年の関東大震災で東京下町の大部分が焼失した事から,東武は国鉄線への接続を企図し,浅草(今の業平橋)駅から,隅田川を越えて浅草花川戸を経て国鉄上野駅に達する路線の免許申請をしました.
これとかち合ったのが京成電鉄で,京成も上野を目指しており,両社は東京府議会やら何やらを巻き込んだ疑獄合戦を興した末,東武の上野乗り入れは却下され,京成に凱歌が上がりました.
結局,1931年に浅草雷門と業平橋の高架線が開業したのですが,当時はその間に隅田公園駅と言う駅がありました.
隅田公園の南縁に設けられた駅は,お花見や行楽客などを当て込んで設置された様です.
今はこの駅はありません.
1943年秋に駅の戦時統合が稟議され,亀戸線虎橋通駅,東上線玉淀駅と共に,この駅は廃止が決定しました.
但し申請時には,この駅だけ廃止ではなく3年間の休止に変わっています.
これらの駅は,行楽客などがメインであり,現在の非常時ではこれらの駅を維持するのが難しいこと,隣の駅との間隔が極めて短く,利用者への影響が少ないこと,更に,これらの駅を廃止することで生じる物的,人的資源を他に転用できること,と言う理由が挙げられています.
1945年3月9日夜に,東京大空襲がありました.
これにより,本所,深川,浅草,京橋,日本橋,神田など旧東京の40%が焼失しました.
この火災は東武線も巻き込み,休止となっていた隅田公園駅も焼失してしまいました.
その後も東武は休止届けを繰り返していますが,1958年になると,結局この駅の復活をせずに廃止届けを出しています.
焼失した廃駅と言えば,京浜急行の旧平沼駅が有名ですが,こちらにも太平洋戦争の遺産と言うものがあったりしたのです.
ちなみに,今は痕跡が残っていないかも知れませんが,ちょっと前まで,この駅の上りホームの跡がありましたし,ホームに登る階段跡がくっきりと残っていました.
最近はこの辺りに乗らず,半蔵門線経由が多くなったので,確認が出来ていませんけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月10日21:42
【質問】
大阪電業合資会社とは?
【回答】
大阪電業合資会社(現・株式会社電業)は,1919年に創業した,電車部品類の製造会社.
創業者の濱谷勇太郎は,神戸で警察官をしていたが,同地の機材輸入業ヒーリング社(本社・英国)の支配人に見込まれて,同社を手伝うようになり,同社の日本撤退にあたってその残務処理をしたのが,商売を始めたきっかけ.
その頃,日本国内の鉄道電化の進展に伴い,そうした電車部品類を輸入に頼らず,国内で造ろうという機運が高まっていた中で,大阪電業を創業した.
1923年,関東大震災により,急遽関東地方へも資材を緊急供給することになり,知名度が全国区規模に.
昭和になり,戦争機運が高まってくると,銅やその合金などの,重要な資材供給が難しくなったため,関西民鉄協会と協議した上で,リンク方式を行うことに.
これは,鉄道業界内で使っている材料は,再生して業界内で使うというもの.
昭和14年,「大阪電業」に組織変更.
同年,東大阪市高井田に工場移転.
翌年,勇太郎逝去し,二代目の輝雄が社長就任.
現在の社名になったのは,昭和59年の事であるが,その遥か以前から「電業」は同社の愛称だったという.
現在では鉄道用電車線金具(電化の架線を支持・吊架する金具)の総合メーカーである.
同社の戦時中のエピソードは,掘ればまだまだ出てきそうなので,今後も緩くマーク.
【参考ページ】
塩野米松『ネジと人工衛星』(文春新書,2012.9.20), p.137-139
http://osaka-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/library/osaka-roudoukyoku/H24/new/25.2/young/19_21.pdf
http://tri-osaka.jp/dantai/g-kyoukai/z-dengyou.htm
http://astamuse.com/ja/corporation/39377
【質問】
満鉄って何?
3行で教えて!
Ki az Dél-mandzsúriai vasút?
Kérem, modja meg a három sorban!
【回答】
満鉄は正式名称を南満州鉄道株式会社と言い,鉄道事業を中心として広範囲にわたる事業を展開し,日本軍による満洲経営の中核となった国策会社.
日露戦争の結果,ロシアから譲渡された東清鉄道の南満州支線・長春~大連間などの経営のため,1906年に設立されたのが始まり.
鉄道のみならず,都市・炭坑・製鉄所から農地までも経営,さらに大学以下の教育機関・研究所も擁していたが,1945年,対日宣戦布告して侵攻してきたソ連軍によって接収された.
【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/南満州鉄道株式会社
http://web1.kcn.jp/mantetu/
http://ktymtskz.my.coocan.jp/agia/mantetu.htm
なお,満州国国有鉄道も別に存在していたので,混同しないように.
(こちらは「国鉄」または「国線」と呼ばれていた.
一方の満鉄は「社線」と呼ばれていたという)
【ぐんじさんぎょう】,2016/11/08 20:00
を加筆改修
【質問 kérdés】
目蒲線の歴史について教えられたし.
【回答 válasz】
目蒲線の前身の目黒蒲田電鉄は,渋沢栄一が構想した田園都市計画に対する交通手段を提供する為に設立された荏原電気鉄道で,これの経営陣に迎えられたのが,武蔵電気鉄道常務だった五島慶太でした.
因みに,彼を推戴したのは,阪急の経営者である小林一三.
渋沢栄一が構想したと言っても,彼は既に老齢で,その田園都市建設を実際に推進したのは,第一生命創業者の矢野恒太です.
しかし,彼も交通に関しては素人ですので,小林一三を招聘しようと考えました.
それに対して,彼が推挙したのが五島慶太だった訳.
荏原電気鉄道は田園都市株式会社から分離独立して目蒲電気鉄道となり,目黒線,大井町線の免許を引き継ぐと共に,武蔵電気鉄道と言う渋谷〜横浜を結ぶ免許と,調布から蒲田を結ぶ支線の免許のうち,支線部分の免許を引き継いで,これを建設することにします.
この目黒線と蒲田支線を加えると目蒲線になる訳ですが,そう言う意味では先祖返りした感じですね.
そうして,1923年3月には目黒〜丸子が開業し,9月に蒲田延伸予定でしたが,その際に関東大震災があった為,11月に開業がずれ込みました.
その関東大震災では,校舎を焼失した蔵前高等工業学校(今の東工大)の土地1.2万坪と,大岡山地区の9.1万坪の分譲地を等価交換し,蔵前校舎跡地は復興局に買い上げられ,一連の取引で,田園都市には80〜150万円に達する莫大な差益が入ったと言われています.
で,その差益を元手に,田園都市と目黒蒲田電鉄は,東京と横浜を結ぶ鉄道を建設しようとして未だに建設に着手できない武蔵電気鉄道の経営権を手に入れ,武蔵電気鉄道は東京横浜電鉄と改称し,更に4年後には,目蒲電気鉄道は,母屋であった田園都市も吸収合併してしまいます.
1926年,丸子多摩川(今の多摩川)から神奈川(現在の横浜〜反町の間)を開業し,目黒から神奈川までの直通運転を開始,多摩川〜蒲田は区間運転となります.
つまり,今の多摩川線の運転形態は,開業当時の先祖返りと言う訳ですね.
翌年,丸子多摩川〜渋谷が開業,田園調布〜丸子多摩川は目蒲から東横に転用され,目蒲線はその間に線路を造り複々線となりました.
更に神奈川からは高島(今は無き高島町)は1928年開業で,国鉄横浜駅が従来の高島町付近から現在位置に移転し,東横線も横浜を開業させました.
従来,目黒発の際は乗客がおらず,
「ガラ空き電車をご利用ください」
と言う人を食ったコピーを出して宣伝したこともありましたが,渋谷〜横浜乗り入れ以後,営業成績は急カーブを描き,乗客は4倍,収入は3倍になりました.
この利益を元手に,大井町線を建設し,目蒲線の連絡を洗足から大岡山に変更し,大井町線は大岡山〜二子玉川が1927年7月開通.
しかし,目蒲線との交差部の用地買収が遅れた為,自由が丘〜二子玉川を1929年11月に開業させ,大岡山〜自由が丘は12月にずれ込みました.
因みに,自由ヶ丘は元々九品仏と言う名前でしたが,連絡駅に決まった時,地名であった「衾」を予定していました.
ところが,町名が自由ヶ丘となったので,これを採用した訳で.
九品仏は,大井町線開業後,自由ヶ丘の一つ先の駅がそう名乗りました.
その後,池上電気鉄道を傘下に納めます.
これは当初,目黒〜大森の免許を持っていたのですが,大森付近の用地買収が上手くいかず,終点を蒲田に代えて,1922年に蒲田〜池上を開業します.
その後,池上〜雪ヶ谷(今の雪が谷大塚)に達したのが1923年ですが,其処で資金が尽き,川崎財閥傘下になります.
川崎財閥になってからは,後藤圀彦が専務になり,彼の手腕と川崎資本の力で五反田に達したのが1928年6月.
この間に,目蒲電鉄が全通したので,目黒を五反田に変更したのがこの時期です.
五反田から先は,山手線を越えて白金に行く免許を保持していたのですが,結局実現しませんでした.
そもそも,この鉄道の意義自体,目黒不動,洗足池,池上本門寺,御嶽神社の参拝客を目当てにしていた旧態依然の集客体制で,郊外型私鉄を目指していた目蒲などとは全然違います.
川崎財閥総帥の川崎肇と言う人は,日本火災保険の社長でした.
昭和初期には,池上を始め,京成,京王,王子,西武株を保有し,東武にも手を出していましたが,五島慶太の説得により,池上電鉄の株を手放し,以後,投資先を重機械工業へと変更していった訳です.
眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : 2008-05-17
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