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◆◆◆◆満州事変の正当性論議
<◆◆◆満州事変以降
<◆◆通史 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ
戦前のイメージ
(『のらくろ』より引用)
【質問】
満州事変は何の国際法違反ですか?
零戦 in コヴァ =推定林間
【回答】
ワシントン会議の中での海軍軍縮条約が「ワシントン条約」であり,同じく,中国・ベルギー・ポルトガルを含めて締結したのが「9カ国条約」ですが,その9カ国条約はの主旨は
[1]中国の主権,独立,領土的・行政的保全を尊重すること
[2]中国が自ら有力かつ堅固な政府を確立するため,完全にして障害のなき機会を供与すること
[3]中国の領土をとおして,いっさいの国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため,各国が尽力すること
[4]友好国の国民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため中国における情勢を利用すること,・および,友好国の安寧に害ある行動を是認することをさしひかえること,
一方,日本が日中戦争の講和条件として蒋介石に突きつけた諸要求が,
●支那は容共抗日政策を放棄し,日満両国の防共政策に協力すること
●所要地域に非武装地帯を設け,特殊の機構を設定すること
●日満支3国間に,密接な経済協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること
以上の他,『口頭説明』として次の細目を付加しました.
●支那は満州国を正式承認すること
●支那は排日および反満政策を放棄すること
●北支および内蒙古に非武装地帯を設定すること
●北支は支那主権の下において,日満支3国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定し,これに広汎なる権限を与え,日満支経済合作の実をあげること
●内蒙古に防共自治政府を設立すること
●支那は防共政策を確立し,日満両国の防共政策遂行に協力すること
●日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して,特殊機構を設けること.また上海市には租界外に特殊政権を設け,日支協力して治安維持と経済発展にあたること
●日満支3国は資源開発,関税,交易,航空,通信等に関して協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること
(付記)
●北支,内蒙古,中支の一定地域に必要な機関,日本軍が保障駐屯するのを認めること
●前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する
明らかに,9カ国条約の主旨の「中国主権の尊重」「領土保全」「列強既存利権の確約」に反してますよ.
9カ国条約は,「満州における日本の特殊利権」は保証していますが,「中国からの満州分離」は認めていません.
日本の満州利権の多くが清朝時代に締結されたものであり,その清朝の後継政権である中華民国領土に満州が含まれていないと言うのは無理があります.
中国の列強利権は,時の中国政権(地主)である清朝が列強へ特許として与えた(正確には奪われた)ものであり,地主不在となれば特許(利権)そのものが消滅します.
北支地帯の日満支共同管理体制なんて,9カ国条約締結諸国にとっては余計なお世話であり,北支からの欧米経済締め出しと受け止められてもしょうがないでしょう.
賠償金要求は,蒋介石政権の財政健全化に協力していた英国の努力へ水を差す行為です.
上海に,租界の指揮下に入らない軍隊を駐留させるなんて,南支に多くの利権を持つ欧州列強への挑戦と受け止められても仕方ないでしょ.
一番まずいのが,列強の利権が絡み合う大陸を対象にした外交交渉なのに,これら講和条件について,9カ国条約諸国への事前の根回しや説明を一切していない事です.
そして,極めつけが近衛の「蒋介石政権を相手とせず」の馬鹿強気発言.
これだけでも,明らかなワシントン体制の破壊と挑戦です.
日本が独断で中国ワシントン体制をリセットしようとしていると勘ぐらない列強はいないでしょう.
日本はもう少し,「世界の中の日本」と言う立ち位置を考えて,中国へ戦争をふっかかるべきでしたね.
あのアメリカだって,「世界の中のアメリカ」を考えて,国連であれだけ根回ししてイラクへ戦争ふっかけたのに.それより立場が遙かに弱かった日本が,自作自演・我田引水としか見られない独走行為をするとは,頭が足りなかったとしか言いようがありません.
【珍説】
中国は世界の列強国に分割統治されていた.
租界なんかも一杯あった.
当時,中国植民地政策は悪とはされてはいなかったのね.むしろ常識だったんだよ.
【回答】
まさに当時の日本はこのように考えて空気読まずに,満州以西へも侵攻しましたとさ.
でも米の呼びかけで,中国は独立国と認めて植民地化やめましょうという合意が,日本以外の国では出来ていた訳,残念ながら.
世界中の列強の決定に対し,そのような主張を振りかざして強引に楯突いた結果は言うまでもなし.
それに中国が分割統治されていたってのは,激しい間違い.
国土の大部分は国民党が統一していたし,租界なんてごく一部.
結局中国が巨大過ぎて,100年以上かけても列強各国は植民地化を果たせず,撤退したの.
当時の中国では列強各国は蒋介石政権を承認して植民地経営からは撤退済み.
国際的に独立国の合法政権と承認されてる中国に攻め込んだ日本は,空気読めなさ過ぎ.
軍事板
【反論】
中国の相次ぐテロに外交官達は,こう忠告した.
「中国が,外国に対する敵対と裏切りを続けるなら,遅かれ早かれ,1,2の国が我慢しきれなくなって,手痛いしっぺ返しをしてくるだろう」
それは一番被害を受けている日本がやるだろうと,内心誰もが思っていた.
そして満州事変は起きたのである!
ところが満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難いものだった.
以前,1927年に,南京で米英の居留民が中国に襲われ,米英は自衛のために南京を攻撃した.
この時,米英は中国人を「野蛮人」と呼んだ.
同様に,満州で日本の居留民が中国人に襲われ,日本は自衛のために満州を攻撃したのに,米英は今度は日本人を「野蛮人」と呼んだのである.
国際連盟はリットン調査団を派遣.
その報告書は,日本の立場に理解を示しながらも,結論としては満州国を認めず,国際管理下に置くというものだった.
(小林よしのり「戦争論」3, p.219)
【再反論】
関東州の租借権と鉄道の敷設権は,満州を植民地化していい理由になどなりません.
リットン調査団の報告書は,事変後の「満足なる解決の条件」として,満洲における日本の利益の承認,内に対する治安維持,外に対する安全保障,満州の自治などを提案しています.
日本側の要求は全て満たされたはずでした.
治安維持を口実に元の権益以上の権益を武力によって強奪するならば,それはただの侵略でしかありません.
南京の例など,別に米英はその事件を利用して,南京周辺全域を占領したり傀儡国家を作ったりしたわけではありませんので,満州事変と比較すること自体無茶です.
もし仮に米英がそのようなものを作っていたら,やはり「野蛮」と非難されていたかもしれませんね.
「満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難い」? 「小林には理解しがたい」の間違いでしょう.
【珍説】
日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事.非難に値しない.
【事実】
最近議論してよく見かける主張に
「日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事だ,非難に値しない」
ってのがある.
まぁ,大体の場合
日本の戦争は聖戦だ!
↓
(突っ込み)戦争始めた時点では「資源の確保地」以上の事は決まっていませんが.
↓
そんなことは他の国もやっている!
ってパターンなんだけどね.
さて,少しでもデマを減らしたいと思うので書いておくが,上記はトンデモない間違い.
ヴェルサイユ条約※やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった.
故に,もはやWW1以降の植民地戦争は違法となる.
まぁ,特に満州事変は9カ国条約違反であり(満州事変は,自作自演の張学良爆破事件から,タンクー協定までを指す)満州国は国連から否定された.
満州国を承認した国は,枢軸国の影響が強いか,もしくは中立国であり,こんなのは「国際的な合意」を得ていない.
この「WW1以前」と「WW1以降」を認識していない人ってかなりいるんだよね.
たしかに,ケロッグ=ブリアン不戦条約には欠陥があったし,9カ国条約にもいろんな欠陥があった.
しかし,日本は批准していると言う事実を軽く見すぎ.
WW1以前とWW1以降の世界は違うし,WW2以前とWW2以降の世界はまた違うものなのだ.
※ 「ヴェルサイユ条約」で一応,民族自決原則が出てきて,「パリ講和会議」でケロッグ=ブリアン条約が結ばれました.
WW1後,それらの条約が「締結された」ということを言いたかっただけで.
ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日19:00
【質問】
ケロッグ=ブリアン条約に欠陥があっても批准してしまうと,その欠陥を甘受しなければならないということですか?
【回答】
もし問題があるのなら,それこそ国際社会を動かすべきだったんですよ.
ただ・・・当時の日本の無気力さからしてかなり難しいですねぇ・・・
そもそも満州事変自体,関東軍の暴走だし.
ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日 20:24
ますたーあじあさんのように,9カ国条約などに不満があるなら国際社会に訴えればよかったんですよ.
それこそ,満州でこそこそするよりも大々的にです.
「合法的」にやれば,あれほどひどい結果にはならなかったはずですしね.
本来ならこういうことは「外交の失敗例」として反面教師とすべきであり,自己の歴史の正当化に使うべきではないと思います.
それこそ結局は「何にも学んでいない」ということになるのではないでしょうか.
ヤン in mixi,2008年01月04日 20:46
【質問】
満州国に違法性はなく,れっきとした独立国だったのでは?
【回答】
まず,満州が中華民国領である事は疑いようのない事です.
それは中華民国成立当時から確認されている事で,軍閥も中華民国軍である事は変わりありません.
問題は中華民国唯一の正統政府がどこであったか,という事ですが,これが南京国民政府であるという事は,当の日本も承認した事です.
日本は中華民国を清の後継と認め,中国主権の条約にも調印し,満州地域の権益交渉も,中華民国相手にやってます.
満州を当時支配していた張学良も,それに合流しています.
よって,満州が中華民国の領土である事を疑える部分は,何処にも無いのです.
馬賊が跋扈していた程度では,言い訳にもなりません.
次に,満州事変と満州国独立は,日本軍が関与…むしろ主導ですかね…している時点で,九カ国条約に違反していると言えます.
合法的な独立とは言い難いものです.
ですから,満州事変の真相がどうであったとかは,独立の正当性にはあまり関係がありません.
問題は「日本が中華民国の領土保全という条約に違反した」という事であり,だからこそ満州国の独立はやはり違法性のある,不正な侵略でしょう.
国連決議でも,満州事変の正当性を認めた他国はゼロです.
むしろ国際連盟の採択案は,かなり日本に譲歩した物とも言えます.
日本邦人の満州での立場を,良く汲んでいる案でしょう.
当時の外務大臣よりはね.
ですので,満州事変は不正な侵略です.
戦争板,2010/08/13(金)〜08/16(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本が主張したように,満州は「化外の地」だったの?
【回答】
No.
1915年の日華条約で日本は,中華民国から満州権益租借期間の延長を取り付けている.つまりは満州の主権が中華民国にある事を認めている.
ちなみにこの条約がなければ,満州の租借権は,満州事変の頃には租借期限切れになっている.
それを後から家外の地だの言い出しても筋が通らない.
おまけに柳条湖事件は石原莞爾と板垣征四郎の企んだ作戦だろ.
爆破しといて中国国民党軍の仕業にしたろ.
で,満州国設立だからな.
どうあがいても,日本の主張が国際的に認められる可能性はなかったろう.
おまけに,日本は「満州国の独立は決して日本の傀儡国家作りではなく,民族自決の国際原則に基づいた正しい独立」を建前としたが,満州や関東州に住む漢民族や満州族,モンゴル族は,中国国籍から強制的に満州国籍へ切り替えられたにも関わらず,日本人と朝鮮人は日本国籍のまま.
満州事変の仕掛け人である関東軍の石原莞爾は
「関東州は廃止して,日本人はみな満州国籍を取るべき」
と主張したが,無視された上に左遷.
満州在住の日本人は,日本国籍のままで満州国の官僚や国策会社の幹部に就き,その他「満州国民」としてのさまざまな権利を享受したにもかかわらず,義務に関しては「日本国民」としての治外法権を利用できることになった.
そのため,満州国は国民の定義を最後までウヤムヤにし続けた.
国民を定義できなかったから当然のことながら選挙は行えず,議会は存在せず,満州国は最後まで憲法を制定できなかった.
詳しくは
関東州(および満州国)
を参照されたし.
こうして,無理ある主張に依る矛盾は,最後まで満州国の国体に影響したのでしたとさ.
軍事板・改
上記についてですが,こちらのサイトに以下の内容が記述されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6mansyu-jin.htm
-------引用----------------------------------------------
当時の満州は,中国人の土地ではなかったのでしょうか?
まず,以下の電報を見ていてください.
「三,現今滿洲住民の殆ど全部が漢民族なることに顧み,宣統帝の擁立は滿洲自身に於ても不評判なるべく(後略)」
(「日本外交年表竝主要文書」 外務省編 原書房 P187)
これは,1931年11月1日,当時の外務大臣幣原喜重郎が,天津総領事桑島主計に宛てた訓電の一部です.
ここでは,はっきりと満州地方の住民は殆ど漢民族,つまり「中国人」であると言い切っています.
もう一つ,見てください.
「満蒙は漢民族の領土に非ずして寧ろ其関係我国と密接なるものあり 民族自決を口にするものは満蒙は滿洲及蒙古人のものにして滿洲蒙古人は漢民族よりも寧ろ大和民族に近きことをみとめさるへからず 現在の住民は漢人種を最大とするも其経済的関係亦支那本部に比し遥に密接なり」
石原莞爾「現在及将来に於ける日本の国防」
(「太平洋戦争への道」第七巻 資料編 P74)
「満州を日本が支配するのは正当だ」と言っているわけですが,それでも,人口的には,漢民族,すなわち「中国人」が最も多いということを認めています.
-------引用終わり----------------------------------------------
また上記サイト内のこちらのページでは,1937年12月末時点での人口構成比が紹介されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/jinkou-m.htm
-------引用----------------------------------------------
満州国の人口構成
康徳四年(一九三七年)一二月末現在
出典:平凡社 世界大百科事典昭和一四年(一九三九年)捕遺
〔文中の漢数字を算用数字に改め,比率がない場合は付け加えた〕
民 族 人 口 比率
漢民族 2,970.0万人 81.6%
満洲族 435.0万人 12.0%
蒙古族 98.0万人 2.7%
内地人 42.0万人 1.2%
朝鮮人 93.0万人 2.6%
欧米人 1.1万人 0.0%
合 計 3,639.1万人 100%
(日立デジタル平凡社「百科で見る20世紀」より)
-------引用終わり----------------------------------------------
上記人口構成表は1937年作成のものであり,満州国建国時である1932年2月とは時間的間隔がありますが,5年程度で大規模な人口構成の変動(2000万人以上の漢民族の流入)が起こったとは考えにくいため,満州国建国時でも漢民族が最大多数派であったことを示す資料として価値はあるといえます.
ちなみに「化外(けがい)」とは,
中華帝国の「王化」の及ばない野蛮の地で,中国の世界観によれば「中国の神聖不可分の領土」でないという意味.
http://www.geocities.jp/ikiiki49/page009.html
ではないかと.
【質問】
満州利権は守らなければならないものだったのでは?
【回答】
実態を無視して勝手にそう思い込んだのが,ケチのつき始めな訳でして.
対外市場は英米で,食糧は朝鮮・台湾.資源も英米.
あの当時でも,植民地との移出入市場における経済規模(移出入合計約9億)より英米(英3億,米14億,インド6億)その他との貿易市場の方がはるかに規模が大きい.
スローガンとは裏腹に,満州の存在は日本経済にとって重要性があるとは言えなかったのが本当のところ.
少なくとも,英米との関係悪化を忍んでまでやることでは決してなかった.
その現状分析から,英米協調路線,貿易立国路線を主張する石橋湛山の「小日本主義」も提唱されている.
「無駄な大陸への深入りは避ける」
ぶっちゃけこれにつきるんじゃないですかね.
日本が大陸に深入りした時点で
・大陸に利権を持つ列強,
・いまだに大陸利権を持っていないアメリカ,
・大陸中国の軍閥
との対立は避けられない.
それを避ける策としては,桂ハリマン覚書を受け入れて,満鉄の共同経営&満州への米資本を受け入れていればよかったんだが…….
ちなみに山室信一「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)によれば,
「第一次大戦後の戦争が総力戦になった為に,陸軍,特に石原莞爾は長期持久戦の資源確保を目的として,満州領有を計画した」
そうである.
「山室 ただ世界史的な条件で一番重要なのは,第一次世界大戦の衝撃です.この戦争ではじめて人類は総力戦体制で戦争を行った.
石原莞爾などはとくにそのことを意識したわけです.
戦争に勝つためには,経済力,生産力を上げなければいけない.とりわけそのなかでも石炭と鉄が,当時の武器を生産するのに最も重要な資源でしたが,それは日本にない.
それを獲得できるのは満洲である.
そういう形で総力戦体制が与えた影響は甚大で,そこからおそらく異なる段階に入ったのではないかと思います.
二十世紀初頭の後藤新平の時代の満洲と,第一次大戦以後の満洲は,決定的に意味の異なる空間だと考えた方がいい.後藤などの時代の満洲は大豆などの農業生産地,穀倉でしかないわけですが,第一次大戦後には,総力戦体制を遂行するための最大の戦略物資基地になる」
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/kan/kan10.htm
ま,「将来の保険」に固執するあまり,現実に対する対応を誤ったのでは,元も子もありませんが.
913名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)01:14:28ID:???
満州事変が起きなければ放棄だから,大陸との火種がなくなるな.
その後にソ連が中国にチョッカイ出してきた場合も,満朝国境の防備さえキチッと固めてりゃ,日本は高みの見物.
国民党が悲鳴を上げだした後,日英米仏あたりで介入して恩を売る,と.
915名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:20:53ID:???
その前にドイツが茶々入れていると思われ.
晴天白日旗を描いたBf109とかJu87とかV号戦車とか・・・
916名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:26:26ID:???
するとスペイン内戦のラインナップが中国で激突?
917名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:34:36ID:???
流石に,欧米・日本が共産党支援と思えないしなぁ・・・.張作霖支援か?
924名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)07:25:47ID:???
それ以前から武器輸出で日本経済はウハー.
中国共産党相手なら89式戦車でも大活躍.
ソ連の進出でチハたんでT34を相手する事になって,当時のメイドインジャパンの悪評を証明する事になるかも知れんが.
931 :名無し三等兵 :2005/11/01(火) 13:51:01 ID:???
T34生産も平時は順調じゃないどころか,不良ありまくり不足部品ありまくり修理デキネーヨー!状態だったので,いいとこBT戦車だろ.
935名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)16:24:54ID:???
さらにそこに地方軍閥軍のマイナー兵器もさらっと登場.
PZLとかイカルスとかがJu86とかを迎撃に.
941名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:51:45ID:???
史実でも,その手のオファーはあったらしい.
あともう少しで成約と言う所でなくなったけど,国民党軍はドイツ兵器のお得意様だったからね.
942名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:59:34ID:???
まぁ戦前のドイツ貿易は対中のほうが利益があったからねー.
ぶっちゃけドイツ顧問団&国民党軍がもうチョイ頑張ってくれたら,日本も深入りしないですんだんじゃないかなぁ・・・
で,利害の一致した英米と友好関係・・・
ヲレも仮想戦記脳だ(笑).
【珍説】
仮に海洋貿易国への転身ができたとしても,その後の世界恐慌と世界経済ブロック化で,日本は貿易から締め出されアボーンしていただろう.
【事実】
それは後付けの歴史観.
実際には対米貿易額は世界恐慌後も特別変わらず,日米開戦まで増加し続けています.
(日中戦争あたりで一時期減りますが)
▼
そもそもブロック経済の要因が,「日本のように」為替ダンピングをかまして輸出攻勢を仕掛けてくる国への対応策なのです.
これは高橋財政による日本経済の回復の一翼を担った政策なので,迂闊に止められません.
ぶっちゃけ,
「ブロック経済ヤメレ!」
って文句を言っても,
「じゃあ,ダンピング止めろ」
って突っ込まれるだけ.
〔要出典〕
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
▼
この回答だと,日本等のソーシャル・ダンピングに対抗してブロック経済をやった様に読めます.
でもこれは間違いです.
ブロック経済は単なる自国経済保護の政策で,ソーシャル・ダンピングへの対抗を意図した物じゃありません.
第一,ブロック経済が施策された時には日本はまだ金解禁をしています.
軍事板,2010/08/11(水)
青文字:加筆改修部分
【関連リンク】
【質問】 1930年代のブロック経済について教えてください.
▲
【質問】
英連邦特恵制度って何?
【回答】
かつての「世界の工場」としての地位を失うにつれ,伝統の自由貿易政策からの転向を余儀なくされた英国が作った,排他的なブロック経済の制度.
英連邦内諸国相互間の貿易に対し,連邦外諸国との貿易に対する関税よりも,低率の関税を課し,または関税を免除するもので,1932年のオタワ会議で協定が結ばれた.
他方,1932年輸入税法で,一般の輸入商品全体に10%の従価税の課税を定め,これによって英国は自由貿易から決別した.
【参考ページ】
『世界関税史』(朝倉弘教著,日本関税協会,1983.6.5),p.379-381
【ぐんじさんぎょう】,2010/11/19 21:00
を加筆改修
【質問】
なぜ英国はブロック経済に走ったのか?
【回答】
第1次大戦の体験が,帝国の結束強化への感情をかきたてたことが,直接の動機.
また,「世界の工場」としての位置は,英国にとってはWW1前からすでに過去の栄光になっていたこともあり,それでも自由貿易主義の基調を維持し続ける英国政府に対する,自由貿易批判の動きは絶えずくすぶり続けていた.
1870年代の不況は,英国農業に大打撃を与え,自由貿易批判の声は高まり,1903年にはチェンバレンが関税改革案の中に,英連邦特恵制度を含めていたが,1906年選挙での敗北により,英国の転向は第1次大戦後まで先延ばしされたに過ぎない.
【参考ページ】
『世界関税史』(朝倉弘教著,日本関税協会,1983.6.5),p.359-360 & 379
【ぐんじさんぎょう】,2010/12/01 21:30
を加筆改修
【質問】
ホーレー・スムート関税法って何?
【回答】
1930年にアメリカで制定された,保護主義的な関税法.
30年代の世界各国の関税引き上げを流行させた元凶扱いされることもある.
税率面のみならず,制度面でもASP評価制度や402条の関税評価額など,保護主義的で悪名高いものがあった.
ただ,南北戦争後の1864年関税法以来,第1次大戦まで伝統的にアメリカは,産業保護のために高関税を掛け続けており,急に保護主義に転じたという代物ではないと言える.
また,日本は対米輸出品に対する関税引き上げの動きを封じるため,日米間で種々の交渉が行われたが,ただ,日本の関税もこのころ高い水準にあり,1931年には平均24.0%という史上最高レベルにあったから,他国のことをとやかくは言えないんだよね……
【参考ページ】
『世界関税史』(朝倉弘教著,日本関税協会,1983.6.5),p.364-365 & 381-382
【ぐんじさんぎょう】,2010/11/26 21:10
を加筆改修
【質問】
1930年代の米国の通商政策は,保護主義一辺倒だったのか?
【回答】
必ずしもそうとは言えない.
1934年には互恵通商法が制定されているが,これは現行税率の50%の増減の範囲内で,外国と通商協定を締結する権限を,大統領に与えるというもの.
米国はこの法律に基づき,1936年末までに,キューバ,ブラジル,ベルギー,ハイチ,スウェーデン,コロンビア,カナダ,ホンジュラス,オランダ,スイス,ニカラグア,グァテマラ,フランス,フィンランド,コスタリカの15カ国と互恵通商協定を締結した.
【参考ページ】
『世界関税史』(朝倉弘教著,日本関税協会,1983.6.5),p.382
【ぐんじさんぎょう】,2010/12/03 21:40
を加筆改修
【質問】
米国が保護主義関税をかけるようになったのは,第2次大戦前が最初?
【回答】
否.
南北戦争後の1864年関税法以来,第1次大戦まで伝統的にアメリカは,産業保護のために高関税を掛け続けており,大戦前に急に保護主義に転じたわけではない.
その50年間に,有税品の平均担税率が40%を割ったのは,1873〜74年だけであり,それも38%台の数字だった.
これは,国内に広大な市場を持ち,豊かな資源に恵まれ,また,隣接した工業先進国を持たなかった米国にとっては,関税政策は第1に財政問題として,そして第2に産業保護の手段でしかなかったためだとされる.
【参考ページ】
『世界関税史』(朝倉弘教著,日本関税協会,1983.6.5),p.364-365
【ぐんじさんぎょう】,2010/12/05 21:20
を加筆改修
【質問】
高橋財政のアレを,「ソーシャル・ダンピングだ!」と国際社会が非難したというのは,ちょっと変です .
実際にそう非難されたという資料が欲しくなる部分ですね.
軍事板,2010/08/11(水)
青文字:加筆改修部分
【回答】
以下,資料.
――――――
日本が1931年(昭和6)末の金輸出再禁止以後,大不況下における世界貿易の縮小をよそに,棉布や雑貨などの工業製品の輸出を激増させたことは,33年頃よりイギリスなど諸外国の非難の的となった.
その際使われるようになったソーシアル・ダンピング(社会的投売)なる語は,高橋亀吉〔当時の経済学者.引用者注〕によれば単なるダンピング(不当廉売)ではなく,個々の資本家というよりも日本全体が損を出しつつ,商品を不当に安く売るという意味であり,
(1) 政府の補助政策,
(2) 円為替相場の暴落,
(3) 低賃金
によって生じたとするのが論点であるというが,(2)を為替ダンピング,(3)の低賃金その他の劣悪労働条件に基く投売りをソーシアル・ダンピングとして区別する見解もある.
〔略〕
今日から見れば,当時のイギリスなどの対日批判は実証的証拠に乏しく,上記(1)〜(3)に関しては様々な反証が提示されているが,〔略〕.
(阿部武司)
――――――『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.829
消印所沢,2010.9.18
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もう一つ資料を挙げる.
以下は,
『日本経済研究入門』(佐伯尚美・柴垣和夫編,東大出版会,1972.11.20),p.99-100
より引用.
――――――
1930年代の世界大恐慌の中で,日本は金本位制を維持できなくなり,円相場の急落が放置されることになるが,これを契機として日本商品の輸出は急増する.
世界貿易が価額・数量とも崩壊的に急減した1930年代初頭に,ひとり日本の輸出は数量が急増し,ために価額も他の国に比べれば僅かな減少を示すにとどまった.
これは不況に悩む欧米諸国の反発を招き,ことに輸出市場を同じくするイギリスは,折から太平洋会議を控えた国際世論操作の意味もあって,日本は不公正競争をしている,という非難を浴びせた.
不公正競争であるという論拠は,政府の補助が過大である,為替ダムピング〔原文ママ〕である,低労賃輸出つまりソシアルダムピングである,という3点であった.
これに対し,日本側は不公正競争ではないゆえんを述べて陳弁に務める.
欧米側の非難が日貨排斥につながるものだったからである.
そのさい,資本家団体,経済雑誌,ブルジョア経済学者らが多くの発言をしているが,この陳弁を最も統計的に展開したのは高橋亀吉であった.(8)
高橋は,政府補助はどの国も同じであるとして無視し,為替ダムピング論は実質的には否定する.
円相場がドルやポンドに比して下がり,それで輸出がしやすくなったことは否定しないが,もともと円は〔第1次〕大戦時の外貨蓄積によって1920年代に割高に保たれており,1930年の旧平価金解禁によっていっそう無理な水準に押し上げられていたのだから,円の信認が失われ,金本位制が廃止されれば,他の通貨より急速に下落するのは当然だ,というのである.
ソシアルダムピング論についてはさらに否定的である.
輸出伸張は過去の産業的発展の成果であり,また,イギリス資本主義が老化しているのに対して日本資本主義は若く,物価下落に順応する力に富む.
確かに日本の労働条件は,欧米に比べれば劣悪であり,それがあるいは利益増進,あるいは製品価格下落をもたらす根拠になっているが,労働条件が悪いのは,農業や中小企業やさらに女工が多く,要するに人口過剰だからであって,その条件のもとで不当に悪いわけではない.
――――――(8) 高橋亀吉『ソシヤルダンピング論』(千倉書房,1934年).
なお,ダムピング論議の紹介は,松井清『日本貿易史』第3巻(有斐閣,1963年)第3章にある.
ただし同書は,マルクス主義の影響を大きく受けており,そのため記述にバイアスがかかっている可能性が比較的高い.
▲
【質問】
当時の変動為替というのは,金の売買で成されていた所がありまして,世界恐慌と一緒に,金本位制が一旦無くなってしまった時には,為替レートは変動為替として機能してなかったのでは?
軍事板,2010/08/11(水)
青文字:加筆改修部分
【回答】
為替レートは金本位制のみにて決まるものではありません.
当時の円レートの流れをざっと説明しますと,
・1921年後半〜 :日本国内の金融市場の逼迫と,1923年の関東大震災により,円安が進展
・1929年7月〜 :金解禁を唱える民政党の浜口内閣成立直後から漸次円高に
・1931年10月〜 :英国の金本位制離脱により,大幅な円高ポンド安に
・ただし,日本の金輸出再禁止近しという観測から,円高ポンド安は一過性に終わる
・1931年12月〜 :高橋積極財政により円急落
・1934.10.20〜1939年10月 :1円=1シリング2ペンスでペッグ
・1939.10.25〜 :100円=23.4375ドルでペッグ
・1941.12.8〜 :敵性通貨として相場通告なし
以下,上記の根拠を引用.
――――――
1921年後半になると,日本国内の金融市場は次第に逼迫し始め,さらに23年9月の関東大震災によって円安が進展した.
このため,先に購入した外貨建て日本国債は,欧米に向けて再輸出されることになった.
〔略〕
その後,1927年後半に円安に向かったので,外貨投資は一時中断した.
28年に入ると,100円=47ドルに回復したことを受けて,再び活発になり,投資対象も外貨建ての日本国債に留まらず,外貨建ての東京国債,満鉄債,電力債に広がった.
〔略〕
張作霖爆殺事件の処理を巡る混乱から,田中内閣が崩壊し,1929年7月2日に浜口雄幸に組閣の勅命が下された.
民政党は既に同年初に,金解禁を党議で決定していた.
第1次世界大戦後の物価下落が欧米主要国よりも小幅であったために,輸入超過の傾向が続いたので,金本位制に復帰することによって,国内の物価水準を引き下げ,産業の合理化と国際競争力の強化を図ろうとする政策であった.
〔略〕
円レートは,浜口内閣成立直後の100円=43ドル台から漸次上昇を始め,1929年12月,高値は49ドルになった.
この間の29年10月24日の,暗黒の木曜日と呼ばれる米国株式市場での株価暴落,それに続く世界不況によって,輸出増大も阻まれ,我が国においても不況は深刻化していった.
〔略〕
1930年1月11日の金解禁後も為替相場は円高傾向を保ったが,内外金利差が大きいことに着目した投資家が,外債投資を活発に行った.
〔略〕
1931年9月18日,柳条湖事件が勃発し,9月20日にイギリスが金本位制から離脱した.
満州事変の勃発は,海外の投資家から,日本が国際強調路線を放棄し,中国侵略を本格化させる兆候と見られ,ロンドン市場の日本国債に大きなリスクプレミアムが求められた.
〔略〕
一方,イギリスが金本位制を離脱したことに伴って,円の対ポンド・レートは,1931年8月の1ポンド=9.84円から,10月には1ポンド=7.55円得と大幅な円高となった.
〔略〕
ポンドに対する円の上昇は,一過性に終わった.
ポンドの金本位制離脱は,日本の金輸出再禁止が近いという予想を生み,金解禁後安定していた為替市場では,円売りドル買いが活発になり,外債投資も拡大に向かった.
日本銀行は横浜正金銀行を通じて,100円=49.375ドルで大量のドル売りを行い,公定歩合を引き上げて防戦した.
公定歩合は,1931年10月5日に日歩1銭4厘から1銭6厘へ,さらに11月5日に日歩1銭8厘に引き上げられた.
また,外債投資を抑制するために,『日本銀行百年史』第3巻〔1983, p.504〕によると,日本銀行は11月2日から,4分利付仏貨公債を除く外貨公債を,抵当品,保証品とする扱いを停止した.
それでも大量の対外資金流出が続いた.
〔略〕
1931年12月12日に,組閣の大命が犬養毅に降下し,翌日の日曜日の閣議で金輸出禁止が決定された.
これ以降,36年の2・26事件で凶弾に倒れるまでの間,帝人事件で斎藤内閣が瓦解した直後の34年7〜11月を除いて,高橋是清が蔵相を務めたので,この期間は高橋積極財政期と呼ばれることが多い.
しかしその政策の根幹は,財政政策ではなく,通貨供給の増大と低金利政策の遂行にあった.
円安による輸出の促進
高橋是清は『随想録』[1999, p.179]で,1930年1月に「経済難局に処するの道」と題して,
「周知の如く我が国が各国に比し早く経済難局から脱し得たのは,輸出の躍進と,通貨の適正なる供給ということに負う所が大きい.
……金輸出再禁止政策が目指すところは右のごとく,一は貿易輸出の進展に機会を与えること,同時に二は国内に適正量の通貨を供給し生産と消費との間の失われた均衡を回復せしめ,もって両者の連絡,調節を円滑ならしめんとすること_あった」
と述べている.
高橋蔵相は,1931年12月13日の金輸出再禁止と,12月17日の銀行券の金兌換停止によって金本位制を離脱し,円レートの下落を容認し,輸出の振興を図った.
そして,公定歩合を32年3月12日に日歩1銭6厘(5.84%)に,6月7日に1銭4厘へ,さらに8月に1銭2厘(4.38%)に引き下げた.
これらによって,円レートの下落は加速した.
図表13-2〔割愛.引用者注〕に見るように,金輸出禁止の直前まで100円=49.845ドル(1ドル=約2円)の平価であったが,32年12月の安値は100円=20ドル(1ドル=5円)へと,1年で約6割も下落した.
しかし,急激な円安が産業界に悪影響を及ぼすという批判や,対外証券投資の増大によって通貨供給が収縮し,景気が抑制されるという懸念が強まった.
すでに金解禁と旧平価維持のために,大量のドル売り介入が行われ,日本銀行の金準備は1929年末の10.7億円から31年末4.7億円へと大幅に減少しており,日本銀行券の発行が抑制され,5%という効率の発行税がかかる制限外発行が状態となっていた.
そこで1932年6月の第62回帝国議会で,1899年(明治32年)以来33年ぶりに兌換銀行券条例が改正され,保証発行限度はこれまでの1.2億円から,一挙に10億円に拡大され,限外発行の税率も3%に引き下げられた.
『日本銀行百年史』第4巻[1984, p.133は,これによってわが国の通貨制度は管理通貨制度への第一歩を印したと見ることができると指摘している.
資本逃避防止法の導入
さらに,対外証券投資によって為替相場が撹乱されて乱高下したり,国内金利の低下が阻まれることがないように,外貨証券,海外不動産などの購入制限を内容とする資本逃避防止法を1932年7月に制定した.
海外市場で外貨建て日本国債の価格が大きく下落し,同時に円安が進展しており,外貨建て日本国債の購入が急増し,それが円安をさらに加速させ,銀行預金減少の一因ともなっていたからである.
『昭和財政史』第13巻[1963, p.115]は,
「議会に絶対多数を要する政友会が,平価5分の1切り下げを決議したことが,海外に非常に大きな反響を与えて,上海,大連筋の猛烈な思惑を呼び,6月下旬には為替相場は一気に30ドル台を割って,26ドルへ落ち込んでしまった」
と指摘している.
高橋是清は『随想録』[1999, p.181]において,
「国内正貨保有量を遥かに超えて多額の通貨を供給せんとする方策を樹てた以上,わが対外為替の下落は当然のことであった.
したがって資本逃避の風が見え,さらに低金利を徹底せしめんとすれば,資本逃避の傾向がますます助長されるのは,経済法則上免れ難いところであった.
そこでまずその防止方法として,資本逃避防止法や為替管理法を制定し,十分この方面の工作を行い,然るに後,低金利政策を進めることにしたのである」
と述べている.
金本位制から離脱した後,公定歩合の引き下げは1932年3月,6月と2度行われたが,この時点では5.11%(日歩1銭4厘)と,国際的に見てまだまだ高い水準にあった.
32年9月に金本位制を離脱したイギリスは,6%から32年6月には2%に引き下げていた.
またニューヨーク連銀は,32年に入ってから2月と3月に公定歩合を各0.5%引き下げ,2.5%としていた.
資本逃避防止法を制定した直後の為替相場は,一時小康を保ったが,円レートは1932年8月下旬には100円=25ドルを超えて下落が進んだ.
これには,8月16日の郵貯金利引下げの閣議決定(4.2%から3%へ),翌日の公定歩合の第3次引き下げによって,低金利政策が積極的に推進されたことの影響が大きい.
また,資本逃避防止法は,その名が示すように資本の逃避の防止を目的としたものであって,輸出入に伴う為替取引を規制するものではなかった.
このため,低金利政策の進展を背景とする円安予想が強まり,輸入為替が殺到し,円安の予想が自己実現し,100円=25ドルを突破し,さらに11月末には100円=20ドルの大台を割り込む円安が進行したものと考えることができる.
――――――『国債の歴史』(冨田俊基著,東洋経済新報社,2006.6),p.406-410
消印所沢,2010.9.19
【質問】
両大戦間の保護貿易主義的な流れに,歯止めをかけようとする動きはなかったのか?
【回答】
国際連盟には,その規約の第23条にて,自由貿易を加盟国に要求していたが,何から手をつけてよいか判断に迷う状態で,非関税障壁に対する「税関手続きの簡易化に関する国際条約」が採択されたに過ぎない.
また,1927年には学識経験者を集めた国連経済会議が開かれ,自由貿易を加盟各国に勧告したが,効果は殆どなかった.
さらに1929年の国連総会では,とりあえず2〜3年間,関税引き上げを据え置く「関税休日」が,ベルギーおよび英国から共同提案されたが,1930年2月,同年11月,1931年3月に開催された関税休日会議は,いずれも流産に終わった.
【参考ページ】
『世界関税史』(朝倉弘教著,日本関税協会,1983.6.5),p.372-379
【ぐんじさんぎょう】,2010/12/07 20:50
を加筆改修
【珍説】
日本にとって満州は 経済・国防上,最重要な「生命線」と呼ばれる土地だった.
(小林よしのり「戦争論」3, p.215)
【事実】
上述のように,別に最重要でも何でもありません.
【質問】
上項目は如何なものなんでしょうか.
同項目には総力戦・生産力などの経済力についてのみ記載されていますが,実際はそれを重視したのではなく,やはりソ連の南下(ロシアの赤化なども),を恐れた結果ではないでしょうか?
うちの曾ジーさん(旧海軍佐官だったはず)も
「アメリカは怖くなかった.でもロシアは怖かった」
と申しておったそうです.
アメリカの太平洋を勢力圏にしたのも脅威に感じていたとは思いますが,満州に関してはやはりソ連ではないでしょうか?
【回答】
順序を間違えています.
極東ソ連軍が増強を始めたのは,満州での日本軍の軍事行動に刺激を受けたからであり,これは1932年からです.
この年からシベリア鉄道の複線化や国境のトーチカ陣地構築・ヴラディヴォストーク軍港再開などが行われます(山田朗「軍備拡張の近代史」より).
ちなみに1931年の極東ソ連軍は,6個ライフル師団のみ.戦車なし,航空機なし,です.
同時期の関東軍は師団2個,混成旅団2個,独立守備隊1個,独立飛行中隊3個です.
シベリアの国土面積を考えますと,脅威と呼べるほどのものではないですね.
ただし,純軍事的な意味としての意味においてなら,関東軍がソ連軍を「脅威」と感じたのは,ソ連軍が張学良軍に大打撃を与えた1927年からです.
それまでは仮想敵として意識すらされていないようで,対ソ作戦計画は具体性に乏しいものだったそうです.
関東軍において,具体的な対ソ作戦計画作成が行われるのは1933年からです.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
【質問】
「満州で日本軍が軍事的に刺激を受けたからであり,1932年から」
というのは日露戦争が入ってませんよね.
1896年(明治29)にはロシア軍が朝鮮・京城に入ったり,北清事変の際なかなか撤退しなかったり(日本もだけど),アジア(中国全土,上海など)周辺でのロシアによる中長期的脅威が認められたからsplendid isolationを崩さなかったイギリスが日本と同盟を組んだのではないでしょうか?
日露戦争後,政権が変わったからといっても,常に不凍港を求め続けていたことは事実だとは思うのですが.
【回答】
ご指摘の件ですが,ロシア革命の影響を軽視しておられるように感じます.
また,「恒に備えよ」は確かに軍事的常識ですが,将来生起するかもしれない不確かな脅威のために,それよりも優先度の高い事項を犠牲にするのは,論理的に正しい対応とは言えません.
東アジアにおけるワシントン体制と言うのは,ひとえに
「中国を列強の植民地的争奪の場としない」
という約束事で成立してたものですから,日本が一方的にこの約束事を破って満州侵攻に乗り出せば,列強の中で孤立することが必然です.
対ソの備えとしての満州侵攻(仮にそのような意図で行われたとして)が,そのリスクを冒してまでの優先事項であったか,非常に疑問です.
「将来,日米関係だってどうなるか分からない」
からと言って,「核武装して自主防衛」を唱えるようなもので,失礼ながら
「何を優先させるべきだったか?」
という視点が欠落しているように思われます.
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk
【質問】
満州国は日本の既得権益だったんじゃねーの?
【回答】
日本の満州に置ける正当な権益は,「点と線」だけ.
旅順大連を含む関東州の租借と,長春以南の満州鉄道と付属鉱山経営権,鉄道周囲幅1kmの警察権,1万人までの軍駐留権だけです.
満州全域=面を日本がどうこうする利権なんか,元地主の清朝もドコの列強も認めていませんでした.
まして国家創造の権利なんて,誰が日本に対して承認したんですか?
だからこそ,自作自演の攻撃を日本はでっち上げ,満州事変を起こして同地域を占領したわけです.
軍事板
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