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(朝目新聞より引用)


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「GIANTS BLOG」◆(2011/06/01)戦前の新聞見つけたから一面と野球記事上げてく+α

「神保町系オタオタ日記」■(2006-05-26) [トンデモ][サンカ][出版] 桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-05-24) [トンデモ][出版] 桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-05-25) [トンデモ][出版] 桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-05-27) [トンデモ][出版] 桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その4)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-11)[トンデモ]  鴎外のトンデモ,露伴の非科学(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-10)[トンデモ]  鴎外のトンデモ,露伴の非科学

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-17) [柳田國男][スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-18) [柳田國男][スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2012-12-19) 超国家主義者としての久米正雄

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-20) [スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-21) [スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その4)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-22) [スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その5)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-24) [スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その6)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-26) [スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その7)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-27) [スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その8)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-28) [スタール博士] お札博士スタールのトンデモ山脈(その9)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-07-08)[トンデモ][図書館] シュメールにハマッタ慶應義塾図書館員
 昭和3年

「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-08)[古本][カフェー] 神保町カフェブラジルに書痴二人
 昭和4年

「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-06)[古本] 戦争と古書業界

「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-08)■[スタール博士] GHQ言語将校ハーバート・パッシンの見たお札博士スタール

「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-27)[トンデモ][ヨコジュン] 8年かかったヨコジュンさんへの回答
 エジソン・バンドについて(昭和8年)

「神保町系オタオタ日記」■(2007/03/04)[文藝][森茉莉] 森茉莉は久しぶりに外出したか?
>杏奴と類のフランスへの画業修行(昭和6年11月出発)のことと思われる

「神保町系オタオタ日記」■(2007/03/07)[トンデモ][柳田國男] 柳田國男と仲木貞一の接触
>劇作家にして,映画監督でもあり,柳田の民俗藝術の会にも関与した仲木だが,その後,トンデモ世界の住民となり,藤澤や増田らとともに,特高に監視されていたと思われる.

「神保町系オタオタ日記」■(2007/03/09)[トンデモ][文藝] 『出版文化人名辞典』で見るトンデモ

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-10)[トンデモ][文藝] アルス社長北原鐡雄と大東亜宣伝連盟

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-12)[文藝] 諸岡存と高村智恵子

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-17)[文藝] 生方敏郎略年譜(未定稿)
>昭和12年     3月27日『古人今人』13号(昭和11年12月20日発行)中の「まことそらこと集」の国軍誹謗を理由に発禁処分

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-19)[トンデモ]皇戦会設立者の一人,鈴木寿雅の書いた記事

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-24)[文藝][森茉莉] 何と,貴司山治の展覧会が開催されていたよ
>昭和十一年五月に,新築地劇団十周年を記念公演として「洋学年代記」という芝居が上演されている.

「神保町系オタオタ日記」■[(2007-03-25)文藝] 馬場孤蝶の泊鴎会
>孤蝶を中心として文学について語り合う会

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-11)[サンカ] 戦後の三角寛のもう一つの姿
 「ほめよう運動」とは

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-04)[トンデモ] 剣山に隠されたソロモン王の秘宝をめぐる怪しい人達(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-05)[トンデモ] 剣山に隠されたソロモン王の秘宝をめぐる怪しい人達(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-09)[トンデモ][トンデモ] 仮性トンデモ本だった『秋田雨雀日記』

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-17)■[トンデモ][文藝] 諸岡存と夢野久作(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-18)■[サンカ] 三角寛に提供された『ウエツフミ』の出所

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-19)[文藝][森茉莉] 大槻憲二の東京精神分析学研究所

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-22)[文藝] 『ドグラ・マグラ』の校正をしていた柳田泉
 昭和10年

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-15)[出版] 国策出版社だったか,第一書房

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-16)[出版] 第一書房の廃業に振り回された社員たち

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-27)[出版][文藝] 第一書房の二人の社員

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-28)[出版] 日本読書新聞社に送り込まれた刺客,関根康喜

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-29)[図書館] 戦時読書運動と関係はあったか市橋善之助

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-07)[トンデモ] 女詩人としての山根菊子

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-10)[トンデモ] 諸岡存の『快食快眠快便』はトンデモ本に非ず
>実業之日本社,1939.5初版

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-11)[スメラ学塾] 謎のスメラ教育研究会

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-15)[トンデモ] 今成覚禅と九鬼文献

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-19)[スメラ学塾][谷崎潤一郎] 戦時下のトンデモ・ダ・ヴィンチ展
>日本世界復興会 情報局 陸海軍主催

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-21)[出版] 東方社顧問,天羽英二

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-09)[古本] ロッパをアッと言わせる大森の黄鶴堂
 古書店,昭和17年

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-08)[図書館] 東京帝国大学附属図書館司書増田七郎

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-11)[図書館][出版]東京帝国大学附属図書館司書鵜飼長寿

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-13)[スメラ学塾][出版] 悪の情報官鈴木庫三伝説の誕生

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-18)[図書館] 新潟県立図書館の大東亜文庫

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-20)[民族学] 東亜研究所 対 民族研究所

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-26)[スメラ学塾] 戦時調査室委員市河彦太郎

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-28)[スメラ学塾] 戦時調査室委員市河彦太郎(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-29) 夢野久作が夢見た大倉精神文化研究所の未来

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-30) 民族科学研究所研究員由良哲次

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-01)[民族学][トンデモ] 地名こそ神代文字なり!

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-09)[スメラ学塾] 藤澤親雄と共に「草の葉会」会員だった市河彦太郎

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-09) 『炭焼日記』に「興亜日本社」を見かける

「神保町系オタオタ日記」■(2007-11-17) 大東亜心霊学の誕生

「神保町系オタオタ日記」■(2007-11-20)[文藝][森茉莉]森類の結婚前後
 昭和16年,帝国ホテルでの結婚披露宴

「神保町系オタオタ日記」■(2007-11-30)[催眠術] 坪内逍遥的各種健康法
 昭和5〜7年

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-12)[柳田國男][図書館][民族学] 昔話の神様関敬吾
>あの当時の東大図書館は和漢書係,洋書係と二つの大きな系統に仕事が截然と分かれてゐて,二名の司書官が各々その一つを主裁して,仕事をする場所も建物の両翼に分れ,互に相犯すことがなかつた.

「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-19)[柳田國男] 西脇順三郎と柳田國男

「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-22)[柳田國男][図書館] 読書人協会と建設社

「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-26)[文藝] ショップガールも論じた北澤秀一

「神保町系オタオタ日記」■(2008-02-07)[文藝] 斎藤茂吉の見た徳田秋聲・山田順子カップル
>昭和2年2月19日 夕ヨリ歌舞伎座ニ改造社ニ招ガレテ行ク

「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-08)[文藝][森茉莉] 辰野金吾・隆一族の謎(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-10)[文藝] 日本文学報国会理事辰野隆

「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-18)[催眠術] 戦時下の霊術家

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-22)[文藝]幻の幸田露伴日本文学報国会長

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-24)[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-25)[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-30)[文藝] 山田順子のバー「彼女」
 昭和6年

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-14)[カフェー][出版] 改造社の山本実彦とカフェー
 昭和6年

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-15)[催眠術] 吉野作造は西式健康法
 昭和6年

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-15)[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その4)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-16)■[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その5)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-21)■[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その6)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-23)■[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その7)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-01)[出版] 『婦人画報』記者列伝(その7)
>昭和17年4月9日 九時半頃,婦人画報社の石橋京策君来り,興亜文学塾の講師を依頼さる.断る.

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-02)[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その8)
>戦時下の里見クは,宴会に出席してばかりいたわけではなく,島崎藤村の葬儀にも出席していた.

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-14) 大槻憲二と大東亜藝術院
>「大槻」は東京精神分析学研究所の主催者の大槻と見てよいだろう

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-15)[森茉莉] 鴎外全集完成祝賀会と森茉莉
 昭和14年

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-17)[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その9)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-19)[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その10)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-01)大槻憲二がフロイトに言及した最初期の著作
>『不同調』4巻5号(昭和2年5月1日)所収

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-13)[トンデモ][文藝]幸田露伴を取り巻くムー大陸信奉者

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-24)松居松翁の霊気術を受ける岡本綺堂

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-25)下中彌三郎の信仰新体制協議会

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-28)[トンデモ]戦時下のノストラダムスの大予言

「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-13)河竹繁俊も霊気療法

「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-15)[スメラ学塾][トンデモ]スメラ学塾ブーム来るか

「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-15)[スメラ学塾]市河彦太郎が蒔いたたんぽぽ文庫

「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-23)昭和初期の霊術家群像

「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-24)[文藝]小杉天外の喜寿祝賀会と里見とん
 昭和16年

「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-28)[トンデモ][スメラ学塾]ムー大陸の紹介者片岡貢司=片岡貢

「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-30)[文藝]「文藝家主催の改造社十年祝賀会」と里見とん

「神保町系オタオタ日記」■(2009-02-07)[文藝]しつこく戦時下の里見とん

「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-14)[スメラ学塾]まだまだあったスメラ学塾関係論文
 戦時下のレオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会

「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-22)フローレンス・ウェルスと天羽英二
 昭和16年頃

「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-25)[カフェー][文藝]里見とんとカフェ・タイガー
 昭和3年頃

「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-26)井上哲次郎の遺体を運ぶ串田孫一

「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-08)波多野春房と波多野烏峰は同一人物か

「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-24)[図書館]戦時下に再燃する図書館問題

「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-31)[図書館]神戸市立図書館の橋本正治

「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-25)[カフェー][ヨコジュン]肉食系女子本荘幽蘭に食われた堀岡良吉

「神保町系オタオタ日記」■(2010-09-23)[谷崎潤一郎]慶應卒業を控えた竹田龍児の就活

「神保町系オタオタ日記」■(2009-10-26)戦時下の上田壽,中野好夫,原田敏明

「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-08)[柳田國男][図書館]戦時下に秘画を見る柳田國男たち

「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-14)[出版]京都のあやす〜ぃ出版社

「神保町系オタオタ日記」■(2010-01-18)戦時下の美術史家−矢代幸雄の場合−

「神保町系オタオタ日記」■(2010-01-20)戦時下の美術史家−土方定一の場合−

「神保町系オタオタ日記」■(2010-01-25)戦時下の美術史家−矢代幸雄の場合−(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2010-02-22)西谷勢之介と田内長太郎

「神保町系オタオタ日記」■(2010-02-24)[石田幹之助]昭和10年のモラエス遺品展覧展

「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-04)岸本葉子さんと元総理
>戦前下田次郎という教育学者がいた

「神保町系オタオタ日記」■(2010-05-20)[出版]敗戦前後の戦線文庫

「神保町系オタオタ日記」■(2010/06/23)[出版][国木田独歩]科学知識普及協会の枝元長夫

「神保町系オタオタ日記」■(2010-10-10)[図書館]『中外』の内藤民治と民衆図書館

「神保町系オタオタ日記」■(2010-10-16)永井荷風と田端の天然自笑軒

「神保町系オタオタ日記」■(2010-10-18)山本飼山と堺利彦の売文社

「神保町系オタオタ日記」■(2010-12-19)[カフェー]神保町の茶房きゃんどる
>この店は昭和八年の創業

「神保町系オタオタ日記」■(2010-12-25)集英社創業85周年記念企画・コレクション戦争×文学

「神保町系オタオタ日記」■(2011-01-01)集英社創業85周年企画『コレクション戦争×文学』の内容案内ゲット

「神保町系オタオタ日記」■(2011-01-12)堺利彦の「ユウモアの夕べ」
 昭和3年

「神保町系オタオタ日記」■(2011-01-15)[図書館]戦場移動図書館

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-06)[村井弦斎]昔「三銭均一食道楽おとわ亭」,今「キッチンジロー」(その3)
 昭和8年

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-08)[カフェー]ナウカ社そばの田沢画房

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-28)[トンデモ]竹内文献について語る入江種矩

「神保町系オタオタ日記」■(2011-04-10)霊媒としての内山若枝

「神保町系オタオタ日記」■(2011-04-17)第2回大東亜文学者大会前後の久米正雄

「神保町系オタオタ日記」■(2011-04-26)日本におけるニコライ・レーリヒ受容史
 昭和7年,藝術関連

「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-09)[トンデモ]日本ピラミッドの父梅田寛一

「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-14)[カフェー]日本無産派詩人聯盟展覧会が開かれた神田ダブル

「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-22)川端康成が回想した久米正雄のパリ訪問

「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-23)久米正雄と画家林倭衛

「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-25)久米正雄が洋行送別会で述べた答礼

「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-28)日本文学報国会事務局長久米正雄が起こした現人神事件

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-24)菊池寛に殴られた上,訴えられた福山秀賢
婦人公論元編集

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-30)[図書館]東京帝国大学附属図書館司書加藤素治=北原放二

「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-01)[図書館]小野忠重と本郷図書館主任山田正佐

「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-02)[図書館]第一書房の長谷川巳之吉と帝国図書館司書官林繁三

「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-08)[出版]『婦人公論』編集長八重樫昊

「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-11)[坪内祐三]坪内祐三「日記から 50人,50の「その時」」

「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-29)[カフェー]昭和初期の仙台カフェー文化

「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-16)[カフェー]阿佐ヶ谷会が開かれたピノチオの喫茶店時代
 昭和2年

「神保町系オタオタ日記」■(2012-01-09)[図書館]慶應義塾大学図書館員加藤元彦
>「翌昭和三年の五月に私は日本へ帰った」

「神保町系オタオタ日記」■(2012-02-22)[出版]続報:八重樫旱
>昭和初期に『婦人公論』の黄金時代をつくった名編集者

「神保町系オタオタ日記」■(2012-05-20)小松左京と大正・昭和の挿絵画家

「まめ速」◆(2012/04/16)昭和11年の日記出て來たから一日づつ載っける

「無題のドキュメント」◆(2009/02/11)昔の新聞出てきた おばあちゃんが戦前の話してくれた

●書籍

『暗黒日記』(清沢洌著,山本義彦編,岩波文庫,2004)

 リベラル派のジャーナリスト,清沢洌が自分の見聞きした,1942年から1945年の戦時中の風俗や,新聞記事,ラジオニュース,政府発表,首相の演説を取り上げ,それに対する著者の感想,憤懣が綴られた日記です.
 昭和17年12月9日(同じ月の31日 ガタルカナル島撤退を決定)の日記には,
『東京市では,お菓子の格付けをするというので,みな役人が集まって.有名菓子を食ったりしている.』
とあり,
『役人がいかに暇であるか.』
と憤ってます.
(ま〜当然やがな〜)

 また,戦時中にさなれた変な提案の事も書いてあり,
「棒給制は米英的だから,日本的な給料制度を創造しよう!」
とか,
「サイパン,比島を取られても大丈夫! 中国には苦力が沢山いるから,その苦力に肩から肩へで中国の内陸を縦断し,日本国内に運び込めばOK!」
などと云う知識人の『トンでも』提案の事が書いてあり,(情けなくて)笑えます.

 最後に,昭和18年2月2日の東条首相演説より.
「戦争は二の場合に敗く.
 第一は陸海軍が割れる時.
 第二は民心が割れる時.
 しかしいずれも考えられず」
 あ〜,だったら,陸海軍が割れたまま戦争に突入した日本は,最初っから負け確定やん!(苦笑)

------------ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :軍事板,2002/01/22
青文字:加筆改修部分

『決戦下のユートピア』(荒俣宏著,文春文庫,1999)

 「お国の為に」と制限される自由,食料不足,統制経済による貧窮――等の紋切り型で語られる事の多い戦時下の生活だが,実際のトコはど〜だったか?,と云う本です.
「女中は嫁にできませんわ!」
と,傷痍軍人の息子の結婚に反対する母親の話や,でたらめな数字を並べて勧誘する悪質な保険屋の話.
 戦死した息子の霊を口寄せして,金を巻き上げる霊媒師の話など,普段見聞きするよ〜なモノとはちょっと違った銃後生活について書かれていており,戦時下の生活に,少しでも興味ある人にはお薦めな1冊だと思います.

------------ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :軍事板,2002/01/14

『「国民歌」を唱和した時代 昭和の大衆歌謡』(戸ノ下達也著,吉川弘文館,2010.8)

 研究そのものがそれほど存在していなかった「軍歌」――この本では「国民歌」と呼ぶが――研究の,嚆矢となる本がこれではないかと.
 新聞等が一般に募集した懸賞歌が,どのような理由で作られたのか?とか,「楽曲の周辺状況」を知るにはとても良い.
 ただし,「ここで紹介される曲がどんな曲なのか」というのは無い(楽譜や歌詞カード等がない)から,軍歌を調べる第一歩には向かない.
 しかし,近年はyoutubeなりニコニコ動画に音源転がってるから,原曲を聞きながら読むと,中々面白いんじゃなかろうかと思う.

――――――軍事板,2011/02/01(火)

『昭和二十年夏,女たちの戦争』(梯久美子著,角川書店,2010.7)

『神国日本のトンデモ決戦生活 広告チラシや雑誌は戦争にどれだけ奉仕したか』(早川タダノリ著,合同出版,2010.8)

 ありとあらゆるところに総力戦思想が紛れていた時代の,宣伝なんかの実例を見ることができるという点では,お勧め.
 「決戦型ブラウス」とか「決戦型住居」なんて,脳が煮えたような図版が見れるのが,中々面白い.
 ただ,著者の文体が俺は好きではない.
 テーマは良いんだけど,文章がなんか読んでて嫌いなんだ.
 理由がよくわからんのだけどね,自分でも.

――――――軍事板,2011/02/01(火)

『図説 着物柄に見る戦争』(乾淑子編著,インパクト出版会,2007.7)
『戦争のある暮らし』(乾淑子編,水声社,2008.8)

 今で言うところの戦隊ヒーローだとか仮面ライダーなんかの位置に,軍人や兵器がいた時代に作られた軍事物製品の話.
 上の本には着物柄といいつつ,着物以外の製品もあったりするのはご愛嬌だが,服飾史に興味がなくてもカラー図版見てるだけで,色々と面白い.

 下の本で俺が一番面白かったのは,最初に収録されてる軍事柄の子供用茶碗の話だな.
 こんな物が存在していたのかという点から,まず驚きだった,
 本当に良くも悪くも,身近に軍事が存在した時代だったのだということを実感できる.

――――――軍事板,2011/02/01(火)

『戦争と美術 1937-1945』(針生一郎他編,国書刊行会,2007.12)

 1万5000円値段は張るが,それだけの価値に見合う研究書兼戦争画画集.
 研究書としてみたら,この本が現在の戦争画研究の集大成と見ていいと思う.
 画集としてみた場合,一番で有名であろう藤田嗣治の作品が,許諾得られなくてカラー図版未収録なのが,非常に勿体無いが,それ以外は文句無し.
 現在は実物が何処行ったかわからん作品や,これで初めて見る絵なんてのも存在してるから,画集としての価値も非常に高い.

――――――軍事板,2011/02/01(火)
青文字:加筆改修部分

『帝國ニッポン標語集 戦時国策スローガン・全記録 増補・普及版』(森川方達編著,現代書館,1995.6)

 戦前の日本の各所で宣伝されたスローガンについての辞典.
 標語に使われる単語の解説がある以外は,本当にスローガンが並んでいるだけ.
 あんまり戦争とは関係ない標語も多数入ってるけど,よくもまあこれだけ集めたものだと思う.
 軍事板的に面白いのは,全然戦争関係ない分野ですら軍事色が混入していく,スローガンの変遷かな.

――――――軍事板,2011/02/01(火)
青文字:加筆改修部分

『わが住む村』(山川菊栄著,岩波文庫,1983.6)
 昭和11年の農村風景


 【質問】
 興亜奉公日って何?

 【回答】
 国民精神総動員運動の一環として,1939年8月,平沼内閣が毎月1日を「戦場の労苦を思い,自粛自制」する日と定め,翌9月より実施されたもの.
 早起き宮城遥拝,神社参拝,勤労奉仕,一汁一菜,料理店・待合などでの酒類販売禁止と営業時間短縮などが,その内容であり,警察による取り締まりも行われた.
 1942年1月,東條内閣によって毎月8月が大詔奉戴日と定められたため,興亜奉公日は廃止された.

 「皇アホウ交尾」と変換されてしまったのは秘密.

 【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.7

【ぐんじさんぎょう】,2011/01/06 20:40
を加筆改修


 【質問】
 当時の日本は英語を禁止されていたのか?

 【回答】
 良く「日本は戦争中,英語を禁止した」と言われていますが,文部省にしろ,内閣情報局にしろ,他に各官庁にしろ,明確な「英語の禁止令」を出したことは
ありません.

 たとえば海軍兵学校などは,最後まで入試に英語を残していました.
 陸軍は英語を使用しない方向で行っていたようですが,ロシア語は重視されていました.
 海軍の英語も同様ですが,敵が用いている言語を聞き取れないようでは戦争になりませんからね.

 陸軍士官学校が入試から英語を取っ払ったので,優秀な生徒をそちらに取られることを危惧した海軍兵学校も,入試から英語を撤廃しようかという話はあったようですが,井上成美が校長権限で却下しました.
 井上校長曰く,
「英語一つマスターする気の無い奴は海軍には必要ない.どこの国に自国の言葉しか話せない海軍士官がいるのか? よって自分が校長である間は絶対に許可しない」.

 また,当時の文部官僚は今と同じようなリベラル系(良くも悪くも)で,英語の教科書もちゃんと存在してます.

------------
昭和19年(1944年)の文部省の中等学校(旧制.現在の高校に相当)英語教科書二年用文章「ADMIRAL YAMAMOTO AND HIS HOUSE」.

 (1)
Isoroku Yamamoto was one of the greatest admirals that the world has ever seen.
Under his command, our navy won great victories in Pearl Harbour, off Malaya, off the Solomons,
and at many other places. He will be remembered for ever.

 (2)
Although he was a man of high position, he lived in rather a small house, for he loved a simple life.
One day one of his friend said to the admiral, "I am afraid your house is too small for you. What do you
say to moving to a lager one?"
The admiralanswered with a smile, "This house is indeed very small, but I have another one,
large enough for me. It is the Pacific Ocean."
------------

 後に英語教育は消えましたが,要するに戦況の悪化や学徒動員などで英語を含む全ての学業が吹っ飛んだというだけの話.

 但し,政府レベルでは
「極東」の使用禁止,
煙草の英語名禁止(大蔵省),
記者会見での英語使用の禁止(外務省),
駅構内の英語表示の禁止(鉄道省),
芸能人の英語風芸名の禁止(内務省),
英米音楽レコードの発売・演奏の禁止(内務省,内閣情報局),
基督教主義女学校の英語名禁止,
英語教科書からの英国国歌掲載禁止,
他教科からの敵色排除,
音階ドレミの禁止(文部省),
陸軍管轄学校の入試科目から英語の削除(陸軍省),
街頭英語看板の禁止(内閣情報局),
英語商標の禁止(特許局),
卓球試合での英語使用の禁止(警視庁保安課),
カフェーや飲食店などの欧風名の禁止(警察署)
などが行われた訳ですが,これは強固で統一的な意思の下で行われた訳ではなく,散発的であり,寧ろ,民間の自主規制(裏で政府の意思が働いた可能性は否定できませんが)が主な訳で.

 こうした措置は,1940年以後から徐々に進み,日本が破竹の勢いで進撃していた(とされていた)1942年にピークを迎えます.
 ところが,日本が守勢に回る1943年以後は少なくなり,1944年以後になると,殆どこうした動きが表に出ることは無くなりました.
 結局,政府もそんな些末な事に捕らわれる暇は無くなったと言うことではないか,と思ってみたり.
 英語教育すら,中等学校を始めとする教育機関では,必修でこそ有りませんが,選択科目と言う形で細々と行われてきました.

 とは言え,民間の論調はそんなこととはつゆ知らず,只々英米憎しとか,英米排撃などの過激な論調を掲げる言論人が,かの武藤貞一(清沢冽に痛烈に批判された評論家)を始めとして,各界から出て来たりして,それを新聞が挙って取上げるものだから,一般世論に英語排撃の機運を醸成させてしまった訳です.


 そのため,例えばこんな話が.

------------
 〔アメリカからの帰国子女の佐藤さんによれば〕とにかく戦時下は説教ばかりで,車内で学校の英語の教科書を広げていて,
「敵性語を勉強するとは何事か,その閑があったら千人針を縫え」
と怒られたりした.

------------深田祐介著『われら海を渡る』(文春文庫,1984.5)

 つまり,基本的に英語の規制というのは民間での話なのです.
 これは裏返せば,欧米諸国に対する日本人の劣等感の発露とも言えるのはありますまいか.

 こうした論調は勿論英語教育をしている人々から出ることはありませんでした.
 あくまでも外野から出たものです.
 英語教育界からは,彼らの主張に対し,真っ当な反論をしていますが,声の大きさが全く違うので,その反論が取上げられることは全くと言って良いほどありませんでした.
 その反論の要旨は,
第一に,旧英語圏植民地である占領地に対しては,日本語を広めるための手段として英語が必要であること,
第二に,敵国の国情を知るためには,彼らの言葉が必要であること,
第三に,戦後に英米の進歩した科学文明を取り入れる為に,彼らの母語は必要
と言う,極めて当然の主張だったりします.

 今も昔も,民間の過剰な自主規制という日本人の性癖に,さしたる差はなかったわけで.

軍事板・改
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月09日22:23(青文字)


 【質問】
 敵性語排除キャンペーンの一連の流れを教えてください.

 【回答】
 書き出すとこうなります.

 昭和十五年三月 内務省が芸能人の英語芸名禁止
 昭和十五年四月 陸軍省が傘下の諸学校の入試科目から英語を削除
 昭和十五年九月 鉄道省が鉄道駅構内の英語表示禁止
 昭和十五年十月 文部省が米英風の校名禁止
 昭和十六年一月 東京銀座の所轄警察署がカフェーや飲食店等の欧米風名称禁止
 昭和十七年十月 警視庁保安課が卓球の試合での英語使用禁止
 昭和十八年二月 内閣情報局が英語の看板禁止
 昭和十八年五月 特許局が米英色を持つ商標を禁止

 さて,ここで藤原が問題にするのは……
 まぁ,藤原と云う人間を良くご存知の方はわかると思いますが〜

 
   ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (・(・・)・U < なぜに卓球で英語使用禁止?
  /JベタJ   \__________

 当時は,そんな槍玉に挙げられるぐらい,卓球ブームだったのか? (w`;

 そこら辺がワカラン!

ベタ藤原 in mixi,2007年07月30日
青文字:加筆改修部分

 だって,米式蹴球でも鎧球なんて言われた訳で.

 通達をするのに,卓球場の経営者を集め,東京卓球場組合を結成させた,と言う話なので,卓球も娯楽の一つとして流行ってたんじゃないですかねぇ.
 それに,温泉に卓球なんて定番じゃないですか(ぉ.

 因みに,英語の使用の他,試合前に礼をする事も通達しているでげす.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月30日


 【質問】
 戦前に艦船とか戦車とかのプラモはなかったんでしょうか?
 もしあったとしたら,スケールはどのくらいでしょうか?

 【回答】
 プラモなんてものは無かった.
 プラモデル,と言った場合の「プラスチック」,というものが開発されたのは戦後のことなので,戦前にはそもそも原料が存在してない.

 木を削った玩具みたいなものはあった.
 スケールは,基本的に
*インチ基準 1/32とか1/16とか
*メートル基準 1/100とか1/50とか
のニ通り.

 また,海軍なんかで,兵に敵艦の艦影を学ばせるためにスケールを統一した模型の玩具はあった.
 戦後,それを参考にして作られたのが,喫水線から上の艦影を再現した,あのウォータライン・シリーズだ.

 ちなみに戦車の模型の規格が1/35にほぼ統一されたのは,田宮模型が「リモコン パンサー戦車」を設計した際に,車内に電池を収納するところから逆算してスケールを決めたから.
 ミリタリー模型=TAMIYA になったので,1/35がデファクト・スタンダードになった.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ 戦時中の児童向け軍事雑誌『機械化』16号(昭和17年3月号)巻末には模型作りのコーナーがありますが,当然この時代は全て木製のフルスクラッチ!
 今回は戦車模型の作り方として何故かソ連のBT26戦車を作ろう,というコーナーが(笑)

 いやー,でも,これを当時の小学生が授業で作っていたというのも,かなり新鮮です.
 まさに父親の世代なので,今度実家に帰った時にでも世情を聞いてみたいところです.

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月28日02:19


 【質問】
 ムッソーリニ・ペンって何?

 【回答】
 イメージ戦略の行き過ぎの産物です.

 戦前,水兵をイメージしたセーラー万年筆が発売され好評を博しました.

 何それに負けてなるものか,と対抗して作られたのが,水兵より何気に強そうな,パイロット万年筆.

 そして,パイロットより偉いぞ! 凄いぞ!! って事でクラウン万年筆が作られたそうな.

 熾烈なイメージ合戦の果て,行き着いた先が伊太利亜統領ムッソリーニ.
 こうして 『ムッソーリニ・ペン』 が開発され発売されたとさ (w`;

 しかし,ちゃんとテナント料,払ったのだろうか? (w`;

ベタ藤原 in mixi

 大阪のメーカーですが,たぶん肖像権の使用料は払って無いでしょう(笑

 明治の頃から日本はヨーロッパの政治家を広告に使うことがしがしばあって,ビスマルク宰相の顔出しで有名な梅毒薬「毒滅」なんかも有名ですね.
 後に仁丹で有名になった森下南陽堂の製品です.

 それにしても気になるのは,大正末期〜昭和初期頃まではムッソリーニもイタリアを立て直した偉人の一人として盛んにマスコミに取り上げられ,時々広告にも使用されている点です.
 この後,ヒトラー人気が急上昇して影が薄くなるのですが.

 東京朝日新聞大正15年5月15日号掲載の,ムッソリーニの顔出しがあるカルピス広告もあります.

よしぞう in mixi


 【質問】
 戦前・戦中の日本にも「軍事オタク」って存在したのでしょうか?

 【回答】
 戦前には「航空朝日」とか「空」という,今の『航空ファン』のような航空機雑誌があって,それを愛読している航空機マニアは結構いました.
 自動車ジャーナリストの小林彰太郎は大戦当時,成蹊学園に通う中学生でしたが,同級生の義弟の福生の陸軍技術審査部の技術将校から陸軍の機体に関する情報を得,それを元にわいわい仲間内で討論していたとか.
 休日には成増の飛行場の二式単戦「鍾馗」(飛行47戦隊?)を自転車で二時間かけて見に行ったり,厚木の海軍航空隊の基地に4発の大型機が並んでいると聞いて見に行けば,それは「深山」だったり….

 あと,昔戦中に艦船マニアだった人が,「世界の艦船」でそのころの思い出を連載していたような.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 ひょんなことから,1945年6月1日発行の航空朝日と,5月15日発行の科学朝日を手に入れたことがあるのですが,こんな際まで,未だ雑誌が発行できたのかと言う驚き,よく流通ルートに乗ったなぁと言う驚きが先に立ちます.
 何しろ,もうこの頃には都市は灰燼に帰しつつあり,かつ,上空には敵の戦闘機が乱舞している状態ですから.

 でもって,科学朝日は定価35銭,航空朝日は定価50銭とあり,後者はそのまま回覧が出来るように,裏表紙に押印欄が設けてあったりします.

 科学朝日の頃は,まだ表紙を付ける余裕がありましたが,翌月発行の航空朝日は,完全に藁半紙を綴じたものになっています.
 この頃の回覧用紙も,もう既に底を突いており,度々藁半紙提供の呼びかけが為されていたりしますわな.

 さて,科学朝日ですが,見開きページにV1号発射基地の様子,連合国軍によって占領されたカレー基地の状態が不鮮明な写真で掲載されています.
 本文中にはV1号となっていますが,見出しは「流星弾」となっていました.
 その流星弾対策に英国が用いたのが,阻塞気球で,敵側の写真なのに,何故か掲載されていたり.

 本文になると,国内ニュースとして,木造船の天敵,船食虫退治の新手法として,硫酸銅と苛性ソーダで水酸化銅を作ることで,船食虫を寄せ付けないようにすると言った研究の成果や,パルプ廃液から染料を抽出するとか,水面偽装の方法,空襲時の簡易庁舎となるものを大蔵省が試作したり,鉄のセメントを作ってみたり.
 海外では,航空機用排ガス利用の防氷装置,サンダーボルトに配備された新型ロケット弾,XP-75,XP-54,XP-67,XP-55の紹介,英国のロケット砲,ペニシリン,英国の浮ドック(艦隊列車として紹介),桜花の活躍について連合国が報道したものが紹介されたり,特集記事には時節柄(笑),ブービートラップの作り方が掲載されたり,自給製塩法のやり方なんかも紹介されています.

 一方の航空朝日は,「大型機について」と題して,B-24とB-29の比較なんて記事が最初にあり,次に「気密室と酸素」という記事が掲載されています.
 コラムでは,米英のジェット機が紹介され,Lockheedで鋭意開発中とか(1955年には時速2400km/h以上で地上160kmの航空を飛ぶジェット輸送機が出現しよう,今後10年でジェット推進式ヘリコプターも出来るであろうと述べた),Vampireが量産に入ったとか書かれています.
 で,海外記事(ぉ)からは,英国Aeroplane誌からの転載記事で,Bristolの発動機開発主任技師の「過去及び未来の大馬力発動機」と題して,グリフォン,バルチャー,セイバーなんかが紹介されており,また,L-069Constellationの1944年に行われた記録飛行の様子が紹介されています.

 また,追悼記事として,セ号連絡飛行のキ77に乗り組んで消息を絶った塚越氏ら,朝日新聞航空部員の記事が掲載されたのも目を引きます.

 ニュースでは,PBY-6Aの性能,B-24Mの生産,P-70の紹介,P-63Bの性能,B-26Cの紹介,Northropの航空機生産,P-59Aの発動機性能,Consolidatedの生産状況,Sikorskyの公開実験,F-13A偵察機の性能に,P-40が100ドルで払い下げられている話題,Shortの新型飛行艇Shetlandについての紹介がありました.

 総じて,ドイツ降伏で,連合国余裕だなと言う感じなんですが,海外文献の情報をよく此処まで収集したな,と.
 しかも,ここまで淡々と報道出来るよな,と.
 もう,ここまできたら日本の敗勢は挽回出来ないところまで来ているので,何とか未来に残す何かを記事にしておきたい,と思ったのでしょうか.

 この同じ時期に,徳富蘇峰は一向,国民に,「死ねや,一億玉砕じゃ」と喚いていたわけで,でもって,戦後の日記では,「天皇が総て悪い」と責任転嫁しているのな.

 多分,清沢洌が敗戦以後も生きていたら,思い切り罵倒しているでしょうが,あんなのの生残りが,未だに大きな顔して大新聞の中に残っているのかと思うと,日本の民主主義未だし,と思わずにいられません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi

 昔の古本から,当時の軍オタが書いたと思われる,航空機のスケッチとかいろいろ描いてあるのが見つかったことがあるらしい.
 あと,海軍は軍縮条約期では世界で3番目の規模を誇っていたから,ほかに自慢できることの少ない日本では,そこらへんで好きになる人もいた.

軍事板

 ちなみに下記サイト「兵器生活」
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/
で,昭和20年の航空朝日やらの写真が載ってます.

大型企画 再録「設計家の夢」
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/sekkeitop.htm

新案・珍案兵器戦術博覧会 (一部誇大な表現アリ)
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/shinchin/shichin.htm

「うつす」といふ事
或る「航空朝日」伝で18万おまけ
http://www.warbirds.jp/heiki/180000.htm

ゆきかぜまる in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 戦前は大麻は合法だったんでしょうか?
 もし合法だったのなら,吸いまくって空腹を紛らわしたりしたんでしょうか?

 【回答】
 合法です.ですが戦前の日本人には大麻を喫煙する習慣は無かったとの事.
 それと,北海道辺りに行って自生してる麻を吸ってみれば理解出来るかと思いますが,日本の大麻は幻覚作用を引き起こすTHCの含有量が非常に少なく,吸った所でそんなに楽しい物ではありません.

 なお,幻覚作用が引き起こされる大麻草を吸うと,却ってお腹が空くので空腹は紛れないと思います.


 【質問】
 民間から軍への献金活動について教えてください.

 【回答】
 1931年のこと.
 満州事変が始まると,その中心師団の編成地である仙台を中心に慰問袋の作成運動が始まります.
 高崎では,ちょっと変わった運動が始まりました.
 それは会員が毎月5銭を積み立てて,その積み立てたお金を陸軍省に献納しようというものです.
 で,普通,こうしたお金は国庫に納められ,何に使われるか定かにはなりません.
 当然,議員のmineral water代金に消えるものもあったりする訳です(皮肉.

 そこで,高崎のこの団体は考えた.
「我々の献金は,陸軍の兵隊さんの頭を守る鉄兜の購入代金に充てて下さい」
として,献金2001円を差し出したのです.
 この献金を受けて,陸軍は政府に要望し,此処に指定献金の制度が出来ました.
 ちなみに,2001円は鉄兜89個分になったとか.

 次いで,各地で飛行機献納運動が起こります.
 とは言え,当時の飛行機は7〜8万円もする高価なもの.
 其処で,今度は市民運動ではなく,軍や県と言った官吏が表に出て来て,各市区町村に拠出金を割り当てる方式を採ることになりました.

 県の愛国機献納第一号も群馬県で,1932年3月で第7号が当たります.
 以後,1933年5月の山形県民号まで35県が先行しています.
 意外に,東京府や大阪府,京都府や愛知県の様な大都会が余り含まれていません.

 最後のグループになった山梨県民号なんかでは,丁度貧窮のどん底に喘いでいたのに,勝手に割当しやがって,とそれに反発した青年団が反対の声を挙げたりしています.

 で,六大都市圏でこうした愛国機献納運動が拡がらなかった代わり,生産施設である産業を守れと言う声が高まり,高射砲献金と言うのが発足しています.
 京都府では高射砲献金,豊橋,岡崎,浜松では三遠国防義会の防空献金,大阪府でも防空醵金計画が発足し,神戸,横浜,名古屋などでも防空兵器の献納組織が作られ,東京では浅草区民協議会などにより防空兵器が,名古屋でも個人献金で防空兵器セットが配備されました.
 大阪府の場合も,同様に府知事・大阪市長・商工会議所会頭によって醵金計画が作られ,更に第四師団が加わって四者主催となり,大阪毎日と大阪朝日が後援し,防空計画協議会が設立され,大阪防空のための装備品として,高射砲2門,照空灯1基,聴音機大小1基ずつを1セットとして,計6セット,100万円が献金目標となりました.

 醵金は1932年3月から5月末までの範囲で開始され,先ずは伊藤萬未亡人から16万5千円…これは防空兵器1セット分,住友は30万円を拠出し,南地芸者の会,これは大和屋の阪口祐三郎が率いた一派が1万652円,此処までで半額に達し,その他,三井・三菱が各5万円,大阪商船3万円,鴻池・山口・明治生命・野村徳七・和田忠左衞門が各2万円,武田長兵衛が5000円,松下幸之助も3000円を拠出しています.

 1932年と言えば,上海事変の勃発もあり,大阪からも第14師団が出征します.
 戦時色はいやが上にも高まりますが,民都大阪だけあって,軍の装備にも注文を付け,軍と共同ですが,防空計画の立案にも踏み込んでいます.
 これ,場合によっては統帥権干犯にも繋がる様な事態になっている訳で.

 そんな雰囲気の中,防空塔の名目で,日本一の高層建築の建築申請をしたり,松坂屋も高射機関銃を屋上に据え付けるためと称して,防空塔の建設を申請したりしています.
 これらは平時には展望台とか,広告塔にしようと言う魂胆があって,流石に大坂商人だなぁと思ったりする訳ですが….

 また,ブルーカラーの人々も負けてはいません.
「ブルジョアの手に防空施設を委ねるな」
と言って,プロレタリアートの連帯を掲げて期成同盟を作り,
「君らの一銭を高射砲に!」
と言う運動をして金持ちと張り合ったりしています.


 かくして大阪では異様な盛り上がりを見せていく訳です.
 13年後,それらの装備は何ら役に立たず,焦土と化してしまう訳なのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月15日22:13


 【質問】
 先ほど放送された「伊藤家の食卓」で,女学生が「慰問袋」を送った所,受け取った兵隊さんから返事が来て,文通が始まったという話が放送されました.
 このようなことは本当にあったのでしょうか?
 また,家族などでない人,アカの他人が前線の兵隊さんに手紙を送る事は許可されていたのでしょうか??
 前線の兵隊さんが全く見ず知らずの人に手紙を送るようなことは,機密保持の観点から許されていたのでしょうか?

 【回答】
 軍事郵便という制度があり,可能です.
 ただし検閲が入り,戦地の情報を書くことはできません.
 例えば,南の暑い所で大変だ みたいな事を書くのは大丈夫ですが,具体的な地名を書くのは駄目.
 また,戦争反対みたいなことも駄目.

 ただ,80過ぎのうちのバァさんに言わせると,番組の内容には違和感を覚えるそうです.
 慰安袋が盛んだったのは,太平洋戦争が始まる前,日中戦争の頃だそうで,当時ならまだ余裕があり,戦地の兵隊さんと文通するようなこともあったかもしれません.
 でも,太平洋戦争が始まる昭和16年頃からは,そんな余裕もなくなり,慰安袋も廃れたいったような記憶だそうです.
 そんな悠長な事をするより,借り出されて普通に工場で一日働かされていたそうです.

 まぁ,テレビに出演された方が「実話だ」と言われればそれまでですが,同時代を生きたうちのバーサンに言わせると
「なんだか,しっくりこない,まるで別の世界の話のようだ」
という感想になるそうです.

 ちなみに,番組に中でも手紙を書く再現映像はあっても,戦地から送られてきた手紙の映像はありませんでしたね.
 普通この手の話の場合,現物の手紙の映像を流すのが普通ではないか,と考えるのは邪推でしょうか?
 それとも,夫婦共に大事な手紙をすべてなくしてしまったのでしょうか??

 まぁ,貴方が疑問を持たれるのも分かるような気はします.

軍事板

▼ 【反論】
 えっと,自分の身内の証言を絶対化なさらないように.

 たとえば山田風太郎の戦中日記に,慰問袋で文通が始まって,若い女性と勘違いされてしまった,郷里の集落の老女の話が出てきます.
 彼が医学校に入ったあとの記事ですから,恐らく昭和18年くらいの日記です.
 地方などではそれくらいの時期でも,まだ慰問袋が行われ,文通などもあった証拠ですね.
 他にも暮らしの手帳の体験記やら,雑誌の慰問袋の付録やら色々あります.

閻魔さくや in FAQ BBS,2009年12月17日(木) 21時57分
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 兵藤二十八の本に,
「戦中の日本では,温泉旅行がブームだった」
と書いてあったのですが,本当でしょうか?
 「ぜいたくは敵」ではなかったのですか?

 【回答】
 その質問って,「日本有事」っ何だの第三章の39ページに書いてありますね,
 兵頭氏は,どこからその話持ってきたか解からないけど,在り得ると思う.


 なぜなら戦時中,日本陸軍が非常召集かけた時,石川県の中心金沢は全然ネオン自粛せず,戦争という緊張感内地無かった.
 出征する兵士の気持ちなんか考えてなかった.
 戦時中,内地緊張感一つ無かったのは間違いなく,日本国民にはB-29の空襲が在るまで「戦っている」という実感乏しかった事は間違いない.
 だから,1942年内地で温泉ブームあったと兵頭氏が在ったと言ってるのも,嘘じゃないと個人的に思う.

伊-400 :軍事板,2001/05/21(月)
青文字:加筆改修部分

 日中戦争が始まってから,軍需産業を中心にバブルっぽくなって,観光もそれなりに潤うんですよね.
 網島温泉とか鶴巻温泉とか,駅名から温泉とれってなったのは,昭和19年のことですからねえ.

憑かれた大学隠棲 in twitter ◆(2013.3.17)


 【質問】
 「登山道」とは?

 【回答】
 日本では古来,登山と言うと,人々の生活物資を運ぶ経済活動としての歩荷とか,深山を巡って,人間の限界に挑戦する修験道としての登山,後は,富士山などにお参りする宗教活動としての登山,更には高尾山の様に,精神病の治療などに滝に打たれに行く等と言ったもので,行っても精々が低山散歩くらいなもの,スポーツとしての登山と言う考えはありませんでした.

 明治になって欧米人がやって来ると,彼らは避暑,健康の為に,つまり,生活や信仰,物見遊山以外の登山を持ち込みます.
 明治期は大体が欧米人主体の登山活動なのですが,大正期になって人々の生活に余裕が出だした頃から,登山やスキー,ハイキングと言ったものを日本人達も行い始めました.

 特にこうした野外活動に目を付けたのは鉄道省でした.

 当時は政府の方針が建主改従と言う事で,全国に新線をぼこぼこ作っていたのですが,こうして建設した新線にはお客が乗らない様な路線もあり,原敬なんかは自選挙区に鉄道を敷いたのを受けて,
「猿でも乗せるのか?」
と問われ,
「規定により,猿は乗せないことになっております」
と答弁したのは有名な話.
 それだけ,空気輸送の鉄道路線が多かった訳で,建設すればするほど償却費は膨らみ,赤字が増大していきました.
 その対策として鉄道省が目を付けたのが登山やハイキング,それにスキーで,汚濁した空気の都市部を離れ,週末を綺麗な空気の田舎で過ごそうとか,山に行こうと言った宣伝文句を引っさげて,その普及に務めていきます.
 1921年には発足間もないJOAKの放送講座で「キャンピングとハイキング」と言う課目があり,これを担当したのは,東京鉄道局旅客課の人でした.

 当初は,レクリエーションとしての登山やハイキングだったのですが,満州事変を契機にして,日本の戦時体制が進んでいくと,その方向性が変わっていきます.
 確かに元々の赤字解消と言うのが目的ではありましたが,もう1つの目的は,国民の戦争への思想動員と体力増強です.
 この為,登山・ハイキング・スキー列車の特設と割引切符の販売,史跡・皇陵巡り等の行事の開催,ハイキングコース選定や懸賞募集,ハイキングの歌の懸賞募集,パンフレットやポスターによる大宣伝などが行われました.

 勿論,こうしたポスターには,「健康報国」とか「鍛錬で銃後の守りを」,「国民精神総動員」と言った文言が並んでいる訳です.
 こうした鉄道省の動きを支援するかの様に,文部省とか厚生省も「聖戦完遂」の為に「国民の体位向上」「健兵健民」策を打ち出し,登山やハイキングを奨励する様になります.

 アルピニスト達もこの動きに迎合し,登歩渓流会と言う団体の志馬寛と言う人は,1935年4月の会報で,「日本国民登山精神の確立」と言う長い論文を掲載し,「唯物的小乗的欧米アルピニズムを粉砕し,仏教,修験道,儒教,道教などの持つあらゆる形而上の思想に裏打ちされた日本的登山を」など,訳の分らない論陣を張っています.
 挙げ句,出て来たのが「日本的登山道」と言う考え方.
 これは「登る道」ではなく,茶道や柔道の「道」の事だったりします.
 とうとう,余暇で楽しむべきものを堅苦しく考える様になっていく訳です.

 しかし,1937年7月に日中戦争が勃発し,8月に上海事変が起きて日本が戦争の道を転げ落ちていく様になると,ハイカーは激減します.
 世論が,
「この戦争の最中に登山やハイキングに現を抜かしている様な奴は,碌なもんじゃない」
と言う風向きに変わってきたからでした.
 中には,駅頭でスキーヤーが酔っ払いに殴られたなんて言う事件も起きています.

 ただ,こうした状況は一過性のもので,国民総動員体制の確立と共に,鉄道省や政府機関の宣伝が強化されると,登山者やハイカーが増えだし,ブームとなりました…が,それは現在の中高年登山と同じく,単にブームに乗っかってのなんちゃって登山者が多くなり,遭難が続出する様になります.
 1930年に19件30名,1931年17件20名,1932年11件24名と推移してきた遭難者は,1933年20件24名,1934年には31件40名と言う様に急増します.
 慌てた文部省は,1935年に「冬山の遭難防止について」と言う長文の通達を出して,自戒を求める騒ぎに発展しました.
 また,1940〜41年には,群馬県と富山県は余りの遭難者の多くに悲鳴を上げ,谷川岳一ノ倉沢や,劔岳周辺の積雪期登山禁止を打ち出したり,長野県は遭難防止通牒を出しています.
 それでも,登山者の遭難は多く,1941年には46件61名の遭難死を出しています.

 この頃になると,物資不足,社会不安が増大して人心荒廃も進み,それは登山者,ハイカー,スキーヤーも同じで,列車内で大酒を食らって高歌放吟したり,我先の座席占領,煙管乗車は当たり前,ゴミはポイ捨てするわ,山小屋の布団皮や泊まり合わせた人の登山靴を失敬してしまうわ,山の帰りがけの駄賃に農作物を失敬するわ,スキー場では人様の板を担いできてしまうと言った「事件」が頻発していました.
 そう言う意味では,現在の人々を余り悪くは言えません.

 この様な行為に対し,世論が批判を高めてくると,「野外活動の浄化・統制」の動きが出て来ます.
 まず,1937年9月,近衛内閣が打ち出したのが,「国民精神総動員運動」ですが,これは国民を戦争に動員する教化運動であり,「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の3つの標語が掲げられ,これが登山界にも持ち込まれます.
 例えば,「傷痍軍人慰問ハイク」「武運長久祈願ハイク」「国策摘み草ハイク」「国策ハイク」「新体制ハイク」等というものが当時の登山雑誌には並んでいます.

 次いで,1938年5月には「国家総動員法」が施行され,「戦争目的遂行の為の人的・物的資源の総てを統制運用する」と言うことになり,登山・ハイキング・スキーに重大な影響を及ぼすことになりました.
 例えば,ザイル用の麻やスキーワックスの輸入制限或いは禁止,ピッケル,アイゼン,カラビナの製造禁止,登山靴用の皮革,テント,ザック用のシート地の使用制限,更に小売税を導入したことに依る用具類への課税,スキー列車の削減と言った具合です.
 また,「軍機保護法」「要塞地帯法」「軍用資源秘密保護法」等,軍関連法令により登山,撮影禁止区域が設定されたり,地図の販売制限,気象統制なども行われるようになり,登山やハイキングへの締め付けも一層厳しくなります.

 この為,登山雑誌には,「登山・ハイキングの食糧は『代用食』にしよう」とか「服装は古物の再利用を」と言った提案が取上げられたり,物不足に便乗した用具価格の釣上げなどの悪徳商法の横行が取上げられたりしています.

 尤も,この時点での登山者やハイカーは増えこそすれ,減ることはありませんでした.
 と言うのも,「戦争のお役に立つ登山・ハイキング」や「銃後の体力作り」と言う大義名分を掲げて,「趣味や娯楽」としての登山を楽しんでいた大衆が多くいた為でした.

 この様な状況下に登場してくるのが,井上司朗と言う人物です.
 ペンネームを「逗子八郎」と言い,アルピニスト排撃,「皇国史観」に立った「日本的登山道」の強力な推進者で,軍部・官僚と登山界との橋渡し役を自認し,登山と登山団体の軍事化を図った中心人物です.
 実は井上は,内閣情報部の情報官でした.
 彼は皇国史観の権化みたいな男で,アルピニズムを「欧米の個人主義に毒されたもの」として徹底的に排撃して皇国史観に立った「日本的登山道」推進の論陣を張りました.
 例えば,「天皇の為の,お国の為の,戦争に勝利する為の登山をやれ」とか,「アルピニズムを排撃することは欧米思想との戦い,思想戦だ」などと言っています.

 1939年11月,井上は内閣情報部主催のある「懇談会」を,首相官邸で行います.
 出席者は陸軍軍人,鉄道省官僚,それに東京府下の有力山岳会幹部40数名で,「懇談」の中身は,アルピニズムに対する徹底攻撃,そして「国民精神総動員」に基づく,「日本的登山道」推進,「登山者の指導・統制」,更に「山岳聯盟作り」の提案でした.

 以後,日本の登山界は,「日本的登山道」を推進する為の「日本山岳聯盟」作りに邁進していきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/30 22:14
青文字:加筆改修部分

 さて,内閣情報部主催の「懇談会」で井上司朗に叱咤された東京の山岳会幹部は,日本山岳会の小島烏水を突き上げて,1940年6月,京浜山岳団体聯合会を結成します.
 次いで,関西の山岳界もこれに応じる形で,今西錦司,四谷龍胤,水野祥太郎等が中心になって,12月に「西日本登山聯盟」を結成しました.
 この「西聯」の綱領には,「我等ハ国策ニ翼賛シ,登山ヲ通ジテ精神鍛錬ト綜合的体位ノ向上ニ資シ,以テ真の日本登山道ヲ振興シ,高度国防国家ノ中核タル可キ皇国民ノ錬成ヲ期ス」とあります.
 一方の京浜山岳団体聯合会の規約は,「本会ハ山岳団体相互ノ連絡親睦ヲ計リ併セテ斯界ノ向上発展ヲ期スルタメノ共同事業ヲ行フヲ目的トス」としか書いていないので,意外に,関西の方がその調子が激越なのが判ります.

 こうした動きを背景に,1941年1月28日,日本山岳聯盟が結成されました.

 因みに当時,日本山岳会は,軍事用の電力確保を主目的とした尾瀬の水力発電所建設に一貫して反対し,その自然を守ろうと,当時としては一大キャンペーンを張っていたりします.
 但し,その構成員は有閑階級が多くて,エリート意識が強く,街の山岳会や,社会人登山者とは一線を画していました.
 つまり,一つの勢力として結集し切れてなかったが故に,それを権力側に突かれて,そのリベラルな体質ががらりと変質していき,遂には日本山岳聯盟結成により,瓦解するに至りました.

 日本山岳聯盟には男女併せて238名が名を連ねました.
 その中には,小島烏水,木暮理太郎,槙有恒,藤木九三,冠松次郎,今西錦司,松方三郎と,何れも日本登山界の重鎮達が顔を並べています.
 そして,冠松次郎が設立準備委員長に推され,結成までの段取りをすることになりますが,後に彼は,これと「日本岳聯」理事長の経歴と合わせて,「黒部の開拓者」としての輝かしい経歴に拭いがたい汚点を残すことになります.

 この日本山岳聯盟の結成大会には,厚生,文部,鉄道の各大臣,情報局総裁も出席して祝辞を述べます.
 そもそも,日本山岳聯盟の存在意義は何か,と言えば,綱領にはこうあります.
「吾等ハ日本登山精神ノ作興ヲ図リ以テ肇国ノ理想ニ邁進センコトヲ期ス」
 そして,規約にはこうありました.
「本聯盟ハ登山者ノ一致団結ニヨリ健全ナル登山道ノ確立ヲ図リ国土ノ認識ヲ深ムルト共ニ国民体力向上ニ努メ以テ高度国防国家建設ノ一翼タランコトヲ期ス」

 この「日本登山精神」と言うものは,
「端的に言えば,忠孝の道に徹したる登山精神の謂いであって,誤れる個人主義,自由主義乃至は英雄主義を脱却して崇高なる国体観念を基調とした国家主義的登山精神」
なのだそうです.
 これは登山やアルピニズムと言うものの精神を真っ向から否定するもので,謂わば,アルピニズムに対する決別宣言というものだったりする訳ですが….

 日本山岳聯盟は,こうして発足した訳ですが,理事長には準備段階から動いていた冠松次郎,常任理事には小野寺良三,井上司朗,小笠原勇八,出口林次郎,志馬寛,尾關廣,角田吉夫,中村謙,吉澤一郎,中司文夫,藤木九三,四谷龍胤,津田周二が就任しました.
 例の井上司朗もちゃっかり常任理事に就任し,企画部第二部長として睨みをきかせています.

 ところで,この日本山岳聯盟,鳴り物入りで発足したものの,半年の間,全く何もせず仕舞いでした.
 これは,運動を巡る役員間の意見対立や主導権争いが頻発して,体制作り,また何をするかの討議が出来なかった為でした.
 彼らがこの間決めたのは,会長に時の内務大臣で産業報国会理事長でもあった湯沢三千男と副会長に日本山岳会会長の木暮理太郎を選出したこと,他の団体との共催による講習会くらいでしたが,その中で,5月の会合で,敵性語排除の運動に協賛して,「ハイキング」という言葉を以後使わないと言う事が決められました.
「ハイキングなる文字に就て,岳聯関係者は今後此の言葉を使用せざる事に決定した」
とか
「ハイキングは抹殺する件〜ハイキングなる渡来語は現状の世相には軽薄であるので,今後岳聯関係者は一切使用を禁止し,全国的に此の運動を起こす」
としています.

 藤木九三などはこれに飛びついて,
「『ハイキング』なる言葉は敵性語なので,排撃するのは当然である」
として,ハイキングは今後,「遠足」と呼ぶべしなどと宣っています.

 登山用語自体にはドイツ語や英語由来のものがたくさんあるというのに,何故か「ハイキング」だけ目の敵にされています.
 以後,商業山岳雑誌である『徒歩旅行』は,『錬成旅行』に題名を替えたり,そのものずばりの『ハイキング』と言う雑誌は廃刊に追い込まれたりもしています.

 しかし,こうした世の中迎合的な動きに反発する人もいました.
 例えば,『霧の山稜』と言う文集を残し,1944年6月に西部ニューギニアで戦死した加藤泰三は,行軍登山推進派に痛烈な批判を浴びせていますし,戦後,勤労者山岳会創立の発起人の1人となった袋一平と言う人は,「登山=国民の権利」論を展開した他,「日本的登山道」に対して徹底的な反駁を行っています.
 仏文学者の桑原武夫も,1942年に雑誌に寄稿した「戦時下の登山」と題した文章の中で,「登山は元来趣味行為」なのに,「行軍力養成を登山団体の第一目的に掲げる」のはおかしいし,
「登山は必ずしも戦争に役立つ訳ではない」
と言う批判を行っています.
 桑原の文章は,逗子八郎こと井上司朗に噛付かれ,以後沈黙を余儀なくされるのですが,桑原も静かな怒りを湛えていたことが伺えます.
 更に,その数年前まで日本山岳会の副会長を務めた織内信彦と言う人は,1941年12月に雑誌に「登山と時代」と言う文章でこう書いています.

――――――
 登山はあくまで登山.
 平地行軍と混同するな.
 少しばかり外国の影響を受けた登山を,今更輸入物扱いし自由主義呼ばわりするのは,元を質せばポルトガルから来た天麩羅を,外来料理だとして排撃することと同じではないか.
――――――

 しかし,世論は,こうした正論に同調しませんでした.

 さて,1941年6月,開店休業状態だった岳聯は理事会で突如,「改組・拡充」を打ち出します.
 長らく権力闘争ばかりで何ら有意なことをしていなかったので,情報局から叱咤されてしまった訳です.
 8月の理事会では,冠松次郎はその職を追われ,後任に東工大教授でタカ派の御用学者である岸田日出刀が就任しました.
 無任所部長には井上司朗が座り,理事には藤木九三等著名登山者を充てますが,参与や参事のポストは全部陸軍軍人と官僚が独占してしまいます.
 しかも,岳聯の主務官庁である厚生省,情報局,陸海軍,鉄道,文部,農林,商工,宮内の各省の他,大政翼賛会,大日本産業報国会,大日本青少年団,東亜旅行社まで岳聯運動に関与することになりました.

 此の目的は,吉澤岳聯情報部長に依れば,次の通りです.

――――――
 情勢を急激に促進せしめたものは,かの6月22日に勃発した『独ソ開戦』であった.
 肇国以来の真の超非常時局に直面するに至った日本はその総力を挙げて臨戦態勢を急速に整備せねばならぬ必要に迫られた.
 国内の軍事,政治,経済,体育,芸術等あらゆる力は急激に国防の一点に集中せざるを得ぬ状勢にまで立ち至ったのである.
 此に於てか『日本山岳聯盟』は益々自らの責任の大なるを痛感し,指導理念の教化堅持を誓い,現在登山者の再教育に留まらず,全国民の『行軍力の錬成』運動を急速に展開し,此の『国民皆行軍』の基礎の上に『国民皆錬成登山』を建設し,此の錬成を通じて国民の『死生観』を確握せしめ,予備兵力の大増強を図り,国民皆兵,国民皆労の聖旨に副い奉らんことを決意した.
――――――

 その具体的方針として10項目を挙げていますが,そのうちの幾つかをあげると,次の通りです.

――――――
1. 「日本精神」「錬成の本義」の一貫理念に依り国民を錬成指導する軍,官,民一致の体制を以て,国民鍛錬の一部門を担当する.
2. 国民運動展開の為に指導者養成に力を注ぐ.
 指導者の資格は中央の軍,官,民構成の「指導者審議委員会」に於て為す.
 指導者網を強化し,全国的一元指導と一元組織を展開する.
3. 本部,支局(大阪)に於て「行軍力鍛錬」を取入れた「指導者養成会」を開く.
――――――

 そして,
「日本岳聯はこれまで登山運動の一元統合機関に留まっていたが,今回の改組を契機として,真に国防国家たるべき全国民の精神並びに体力に亘る国家的規模の錬成運動に飛躍したのである.
 従って,第一の対象は勿論,組織ある登山者に置いている」
としているものの,
「約300万を算する全国の講中その他未組織登山大衆を始め全国民を野外山地に於ける広範囲の錬成運動に導き,国民全般の日本精神昂揚,行軍力の強化,団体訓練の生活化並びに予備兵力の増強を図り,以て全国民均しく満身汗してこそ建設し得べき高度国防国家体制の完成に資すると共に,大政翼賛運動の強力なる一翼たらんことを期すこととなったのである」
と言い切っています.

 因みに,軍事組織でも何でもない,これ登山団体ですからね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/31 23:32
青文字:加筆改修部分

 さて,岳聯が改組してからは一層軍事色が濃厚となります.
 8月26日から5日間に亘って,第一回国民行軍力錬成指導者講習会を実施したのを皮切りに,陸軍戸山学校との連携を深め,様々な形での軍事訓練擬きの「集団行軍力養成登山」,即ち,鉄砲を担いだ集団歩け歩け運動を展開していきます.
 11月1日には「第十二回明治神宮国民錬成大会」(現在の国民体育大会の前身)では,1,000名の登山者が神奈川県丹沢山塊の大山から神宮外苑競技場までの70kmを,日の丸を先頭に大行軍した後,グラウンド中央で小銃を担いだ早駆けや匍匐前進の演錬を行って見せたりしていますが,その当時の服装は凡そアルピニストに似付かない戦闘帽と国民服,巻脚絆に草鞋掛け姿でした.

 そして遂に1941年12月8日,日本は太平洋戦争に突入します.
 この時,日本岳聯は1942年1月,湯沢三千男会長名で「誓明書」を発表し,「聖戦完遂に挺身する」誓いと「聯盟三原則」なるものを明らかにしました.

 「誓明書」のさわりはこんな感じです.

――――――
 昭和16年12月8日黎明畏クモ対米英宣戦布告ノ大詔ハ渙発セラレ今ヤ忍苦百年ノ歴史ハ一擲セラル.
 暴戻ナル米英ニ対スル膺懲ノ鉄槌ハ茲ニ断乎トシテ打チ下サレ,我忠勇ナル陸海軍将兵ノ勇戦奮闘ニヨリ緒戦既ニ全世界ヲ驚倒セシムル大戦果ハ挙リ一億国民ハタダ深キ感銘ニ心震フ許リナリ.
 我カ山岳聯盟ハ山地並ビニ野外ニ於ケル広汎ノ実践錬成ヲ通ジテ日本精神ノ昂揚ト国民体力ノ増強トヲ期シ以テ聖戦完遂ニ挺身シ来レルモノナリ.
 吾等ノ登山ヲ以テ単ニ一身ノ趣味乃至娯楽トノミ追究セズ真ニ皇国ニ伝統スル日本登山道ノ本義ニ則リ皇民ワレノ登山,スキー.日本ノ為ノ登山,スキー.大東亜共栄圏確立ノ為ノ登山,スキー.トシテ把握シ,忍苦ノ実践ヲ積ミ来リキ.
 全国ノ岳人達ヨ,今ゾ奮起セヨ,イザ殉忠ノ精神ト強靱ナル体力トノ育成ヲ目指シ,錬成登山,国防スキーニ邁進セヨ.
 斯テ錬成シタル心身ヲ捧ゲテ長期建設戦ニ打チ込ミ,炸裂セシメヨ.
 是,日本山岳聯盟ノ指導精神ナルト共ニ戦時体育行政ヲ貫ク根本方針ナリト信ズ.
――――――

 因みに聯盟三原則と言うのは,以下のものでした.

――――――
1. 終始一貫登山報国の信念を堅持すること
2. 個人的,享楽的登山を排し,皇国民たる精神並びに肉体の錬成を目的とする登山,特に共同精神の養成を主眼とする集団錬成登山を励行すること.
3. 輸送関係に協力し,規律統制ある集団旅行の真髄を発揮すること
――――――

 それでも,スポーツに対する弾圧は続きました.
 1942年4月8日,東条首相の強権発動により,「大日本体育協会」が解散に追い込まれ,新たに東条を会長とした「大日本体育会」が作られました.
 そして,それまで体協傘下にあって独自の活動をしていた運動競技団体の総てを強制的に解消し,大日本体育会の部会に再編してしまいました.
 つまり,これにより体育・スポーツの国家支配の完了を意味する訳ですが,その狙いは言うまでもなく,体育・スポーツを戦意昂揚の手段に替えて,体育・スポーツを根刮ぎ戦争に動員することになりました.

 例えば,日本陸上競技聯盟は陸上戦技部会と名称が変更され,その種目も,国防競技や戦技,つまり,戦争に役立つ体力作りと精神鍛錬を主眼としたものになりました.
 そして,手榴弾投げや短棒投げ,運搬競争,懸垂などおかしな「競技」がでっち上げられたのもこの頃でした.

 更に,英語の名称を冠したスポーツは,総て日本語に変換させられました.
 テニスは「庭球」,サッカーは「蹴球」,バスケットボールは「籠球」に,ラグビーは「闘球」,バレーボールは「排球」,ホッケーは「杖球」となり,アメフトなどは「鎧球」,ゴルフはまんま「打球」で,ヨットでさえ「帆艇」,ボクシングとレスリングは一本化して「重技」と,先ずは日本人お得意の形から入っていきます.

 以前も敵性語の話で取上げましたが,実は海軍とかは英語の教育を禁じてはいませんでした.
 寧ろ,民間が率先して突っ走った感じです.
 今回の名称変更にしても,米英渡りのカタカナの呼称を使っていては,敵である米英に対する敵愾心が失われてしまうと言う理由だったりします.
 今から見れば,相当馬鹿らしい理由だったりするのですが,当事者から見れば,大まじめだったのでしょう.

 その後,庭球など戦争に役に立たないスポーツや競技は冷たく扱われるようになり,重量挙げ,卓球,フェンシング,ゴルフは禁止されてしまいます.

 また,野球用語のストライクが「よし」や「本球」,ボールは「だめ」とか「外球」,デッドボールは「触体」になり,スチールが占塁なんて言うのは有名ですが,バッテリーも「対打機関」…何のこっちゃ…更に隠し球は「武士道に反する卑怯な行為だから禁止」などと珍妙な状態になったのもこの頃からでした.

 ところで,「スキー」に関しても改名せよと言う圧力が掛けられました.
 これはすったもんだの末,既に日本語化していると言うので,辛うじてそのまま残されましたが,それでもやれ「雪艇」にしろだの,いや「雪滑り」が良いだの,いやいや新しく「雪にしんにょうでスキーと読む漢字を作れ」だの姦しい議論もありました.

 以後,「スキーは兵器なり」と言う言い方が罷り通るようになり,スポーツや娯楽としてのスキーは逼塞し,「国防スキー」「戦技スキー」が主流になっていきました.

 更に競技団体名が日本語化されたのにあわせ,山岳雑誌には登山用語の見直し論や,日本アルプス解消論も出て来たりしますが,流石にこれは線香花火の様に消滅してしまったようです.
 尤も,山岳雑誌の「執筆者へお願い」と言う項には,「外来語はなるべく使わずに」と言う注文も載っていたりします.

 ともあれこの出来事はスポーツに対する死刑宣告とも言うべき出来事であり,以来,まともなスポーツは姿を消し,スポーツ界にとっては暗黒時代が到来したのです.

 因みに日本山岳聯盟は,当時,体協未加盟の団体でした.

 しかし,1942年12月8日,東条首相の一片の通達で,岳聯も「大日本体育会」の一部会にされてしまいました.
わざわざ発足日を12月8日にしたのjは,大詔奉戴日の記念だったりする訳です.
 こうして,岳聯は完全に国に乗っ取られてしまいました.
 接収された岳聯は,「大日本体育会行軍山岳部会」と改称され,部会長は陸軍中将鈴木春松,副部会長は陸軍少将大野宣明と完全に陸軍の植民地と化しましたが,勿論,黒幕の井上司朗は理事の椅子に納まっていました.
 また,山岳界からも志馬寛,藤木九三,鈴木勇,中村謙等が理事の椅子に齧り付いていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/01 23:44
青文字:加筆改修部分

 さて,大日本体育会行軍山岳部会となった岳聯ですが,大日本体育会に吸収されると,陸軍戸山学校との連携をいよいよ深め,行軍力養成と戦力増強を目的とした様々な講習会や演習を展開する様になります.
 特に,1943年10月31日から5日間に亘って奥穂高岳周辺で行われた「山岳戦技研究会」はその象徴的なものでした.
 その前に,9月から10月にかけ,日本山岳会関西支部が,新村正一,西岡一雄,跡部昌三,諏訪多栄蔵,前田光雄,島田真之介らの中心メンバーとして,机上演習である「山岳兵研究会」と言うのが開催されていました.

 その実践版となったのが,山岳戦技研究会な訳です.
 統監を務めたのは陸軍少将大野宣明,そして,陸軍戸山学校の将校達に混じって,藤木九三,小笠原勇八,星野重,高橋照,簑口治信,井上好三カ,前田光雄,井上奨等当代一流のアルピニストが,重火器,小銃,縄ばしごなどの兵器を動員して山岳軍事訓練に参加しました.

 この研究を実施した背景には,ビルマ,中国国境線の高地,ビルマとインド,それに中国の3カ国に跨がるヒマラヤ前衛の高峻山岳,更にニューギニアの脊梁山脈で山岳戦が展開されていたことが発端です.
 残念ながらr,陸軍戸山学校の経験だけではこうした山岳戦の経験が足りない為に,高地に於ける行軍と効率的な物資輸送の方法,戦闘方法を経験者であるアルピニスト達の力を借りて実践しようとしたのでした.

 かねてから陸軍では将来の山岳戦に資する為に,木曽駒ヶ岳で諸兵科連合の踏破演習を実施していました.
 中御所谷の峻険を選んで馬匹を押し上げ,大砲を担ぎ,食糧を運び,岩壁をよじ登り,密林を切り拓いて3,000mの頂稜を突破する成果を収めていました.
 勿論,これもアルピニスト達の協力無くしてはなしえないものでした.
 また,戸山学校も単独で八ヶ岳に登攀しましたが,これにも多数のアルピニストが動員され,支援に当たっています.
 他にも,富士山の頂上に輜重馬を登攀させたり,雪の金精峠突破なども為しえており,この頃にやっと,山岳戦や高地作戦に対するノウハウを蓄積出来る様になったわけです.

 その集大成として企画されたのが,奥穂高岳周辺で実施した山岳戦技研究会でした.
 そのお膳立ても,行軍山岳部会の中に委員会を設け,アルピニストも厳選し,軍と一体となってこれを支援する体制を整えていきます.

 研究目標は,峻険な山地に於ける重量物の搬送通過方法の研究,荒天時の山岳通行の研究,夜間の謂わば通過方法の研究,高峻岳の徹宵突破方法の研究の4項目だったりします.

 元々,こうした戦技研究は民間の手を借りずとも,軍で行えば良い話ではありますが,日本陸軍には悲しいかな,本土にはこれだけ急峻な山岳地形が多いのに,想定戦場としていた中国大陸はだだっ広い平原ばかりですから,この辺りの研究が等閑にされてきました.
 しかし,太平洋戦争により,想定戦場が広がり,従来の平原よりも島嶼戦や山岳戦の様な想定外の戦場が発生してしまい,今までのノウハウが全く生かせなかったのです.

 因みに,陸軍戸山学校も全く山岳戦を考えなかったわけではなく,1928年に岩登り研究を始めていました.
 しかし,軍にコーチ出来る者等いないので,早大山岳部OBの安田利喜之助氏と言う人が臨時コーチとなり,安田氏は歩兵第3聯隊に入隊していた同じ早大山岳部OBの近藤正氏を助手として指名し,三つ峠で岩登りの指導を行っています.
 そして,この時の知見を元に,戸山学校では,予想される倹素な山岳地帯通過法を完成させ,これを『特殊地形(山岳)に於ける機動教令』としてまとめ,各部隊に配布しました.
 但し,その内容は,ロック・クライミングの技術のみが述べられているだけで,それ以外の山岳に於ける物資運搬方法とか,行軍登山の方法や悪天候の避け方などの具体的なものは述べられていなかったそうです.

 なお,戸山学校には一応,ソ連の『山岳軍事行動指針』,ドイツの『山岳狙撃部隊教範』,イタリアの『山岳部隊教範』は揃えられていたのですが,その内容を戸山学校の教職員がどれくらい理解していたのかは,1943年のどん詰まりになって,こうした訓練を行っている所からして推して知るべしです.

 また,此の訓練に参加したアルピニストの中に,「虎の威を借る狐」の様な連中もいて,山小屋の中の人を激怒させたりしています.

 こうした山岳戦技研究会は,1944年3月,北アルプス五滝岳遠見尾根に於て,大日本体育会大阪支部主催で開かれた「第二回戦技登山指導研究会」が最後になります.
 要は,もうこの頃には悠長に戦技研究をしている暇など無いと言う訳です.

 まぁ所詮は泥縄でしかないのですが,陸軍の底の浅さが透けて見えるだけだったりします.

 ところで,クライマー達も応召されて戦場に多くの人が散りました.
 日本最初にヒマラヤ登山に挑み,1936年10月にインド・ガルワールのナンダコットの初登頂に成功した立教大学の湯浅巌は1944年7月18日にサイパンで戦死,
朝鮮や台湾の山々に初登攀した神戸商大の山本明は1940年9月5日,山東省で戦死,
北アルプス前穂高岳奥又白四峰正面壁や劔岳チンネを開拓した大阪管見社登山部の北条理一は1945年8月10日に中支で戦病死,
同じく前穂高岳四峰正面松高ルートを拓いた東大の山崎次夫も1945年5月31日,房総半島布良沖で戦死.
 慶大山岳部で活躍した小森宮章正は1940年4月3日,奉天で戦病死し,
同じく慶大の山本雄一郎も1946年3月18日,シベリアの収容所で病没,
上越谷川岳一ノ倉沢や幕岩を踏破した昭和山岳会の小林康隆は1943年に戦死認定,
北アルプス霞沢岳三本槍を制した東大の中村徳郎も1944年にフィリピンで戦死しました.
 因みに,中村徳郎という人は,『ビルマの竪琴』に出て来る水島上等兵のモデルとされています.
 日本山岳会副会長を務めた黒田孝雄は,1945年8月17日,フィリピンで戦病死,
名画文集『霧の山稜』の著者である加藤泰三も,1944年6月25日,ニューギニア西部天水山で戦死
などなど,その数はざっと調査しただけで300人,末端の登山者まで入れると枚挙に暇がありません.

 加藤泰三はこう書き残しています.

――――――
 敵の飛行機が僕らの頭上に爆弾を落としていく様になれば,山に於ける錬成もヘチマもありません.
 山行を錬成訓練だの,心身鍛練だのと呼ばなくては気が済まなかったり,単なる山小屋をわざわざ道場と呼んだり,その他ポスターなどに見かける歯の浮く様な迎合的な言葉も苦々しい限りであります.
 何故山に行くのか?
 そう言った根本問題に立脚することを忘れて,『山は大勢で列を組んで登って行軍力の養成になるのが,最高の登山理念である』などと言うのも凡そ頭の悪い限りであります.
 ともかく山をダシに使って,その道の専門家面で碌でもないことを言って僕らを指導しようなどという連中を反対に指導してやるのが宜しいのです.
 若しも僕らまでダシに使って,時局に便乗して偉くなりたがられるのであったら甚だ迷惑です.
――――――

 残念ながら,時局に便乗して偉くなりたがった連中は,戦後も生き延びました.
 そして,大日本体育会行軍山岳部会は発展的解消を遂げて,日本山岳会が復興する訳ですが,権力者の提灯持ちをやった連中は全く追放されず,その時代に対する総括もなく,結局,戦時中の体制のまま,皮だけを替えて生き延びた訳です.

 まぁ,後に復活したとは言え,官僚や政治家,実業家が放逐されたのに対し,スポーツや文化系の団体,宗教団体はそうした形での放逐は殆ど為されなかった(勿論,その中には戦争犯罪追究に行き過ぎたものもあって,藤田嗣治の様に,そんな日本に嫌気が差して海外に行ってしまった人もいますが)訳で,最近も,徐々に宗教団体を中心に,こうした戦争への荷担に対する振り返りが進んでいます.

 しかしながら,スポーツ界は戦時中の体制が温存されてしまい,結局,振り返りが不十分なまま今まで来ている様な気もします.
 こうした空気を温存してしまったことが,戦後のスポーツ界で精神主義的体質が蔓延った原因となったのではないか,と思うのですがね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/02 23:52
青文字:加筆改修部分

 さて,日本の新聞やラジオから気象報道が消滅したのは,1941年12月8日の太平洋戦争勃発後のことです.
 しかし,余り知られていませんが,それよりも前に一度,気象情報が新聞やラジオから忽然と姿を消した時期がありました.
 関東大震災の様な天災の所為か,と言う訳でもなく,気象庁のストでもなく,機器の故障でもない.

 1938年6月に発行された関西の山岳雑誌『ケルン』のコラムにはこうあります.

――――――
 ネオンなど飾燈のたぐひが消されてゐるので,夜,街を歩いてゐてふと何かしら遠い田舎の町に来てゐるやうな感を抱かせられる.
 天気図と天気予報が一時発表せられなかったので,これまで測候所の機能が我々に与へてゐた功徳の大きさをしみじみ思はせられた.
 それもこれも聖戦のいみじき経験.
 よくよく噛み締めておかねばならない.
――――――

 これが何時起きたかと言えば,1938年5月28日から6月16日にかけての事.
 それも,特に断りもなく忽然と新聞の気象報道,つまり天気図と天気概況は姿を消し,6月17日には再び掲載が始まっています.
 既に日中戦争は始まっていますし,未だ,太平洋戦争には間があります.

 そうなると,更に謎は深まる訳です.
 ところが,奇妙なことに,縮刷版で確認すると,なるほど朝刊の気象報道は姿を消していますが,夕刊の気象報道は通常通り掲載されています.
 考えられるのは,当局が掲載不可にしなければいけなかった地域と,従来通り掲載しても良いと言う地域があったのではないか,と考えられます.

 それでは,当局が気象情報を掲載してはいけないと考えたのはどの辺りかと言う事に絞られていきます.
 新聞の縮刷版を見てみると,夕刊には掲載が為されています.
 大抵の場合,大新聞の縮刷版は,東京本社の最終版が残されているので,関東地区では掲載可であったと考えられる訳です.
 となると,『ケルン』の発行所は関西,すると関西では朝夕刊とも掲載不可になっていたと考えられます.
 関西の版は,大抵の場合,関西以西に配布されるものなので,少なくとも西日本や九州では気象情報が載っていなかったと言う推論が成り立つ訳です.

 ではそれを引き起こしたのは何か,と言う事になるのですが.

 この時期,1つの事件が起きています.
 これは,5月21日に行われた,中華民国空軍機による日本初空襲です.
 日本を初めて空襲したのは,1942年のドゥリットル空襲が最初であると,大抵の歴史の本には載っかっているのですが,確かに実際に爆弾を投下したのは米軍のそれが最初です.
 しかし,それに先立つ1938年5月21日,中華民国空軍の虎の子である快速爆撃機馬丁139WCが日本を初めて空襲していたのです.

 馬丁139WCは米国製のMartin139Wと言う爆撃機の中国名称です.
 米国で初めて全金属製で引込脚を備えた高速爆撃機として米陸軍航空隊に採用され,その発達型である139Wがタイ王国空軍や蘭印空軍に採用されました.
 時を同じくして,航空機の近代化を模索していた中華民国空軍も1936年に9機を購入し,1937年2月にそのうちの6機が到着して第8爆撃大隊第30中隊に配備され,上海の虹橋基地をベースに訓練を開始しました.
 しかし,1937年7月に勃発した日中戦争で出撃を重ねると,2ヶ月のうちに消耗し尽してしまいました.

 1938年2月,空軍外人部隊に配備されていた139WCの残存機が1403号機と1404号機の2機が,再び新編なった第14挺身中隊に配備されました.
 この挺身中隊は,日本本土空襲を企図した編制された部隊で,当初は爆弾を搭載してギリギリ往復出来る旧習を爆撃する予定でしたが,日本軍の侵攻が早く,基地から爆弾を搭載しての往復が出来ない為,それに替えて反戦ビラを搭載することになりました.

 5月20日,漢口を飛び立った2機の139WCは途中寧波で給油すると,一路,黄海を横断し,午前4時頃,長崎と熊本の球磨郡四浦,多良木,黒肥地,椎葉山奥,宮崎の富島付近に反戦ビラをばらまき,日本軍の妨害を受けることなく,再び黄海を越えて,無事に南昌及び玉山の基地に戻ることに成功しています.

 この出来事は,国内向けには一笑に付された出来事だったのですが(ダグラス型機が来襲などと新聞には書かれていたりする),軍部や政府は非常に衝撃を受け,139WCの行動半径が日本本土に及ばない様,中国空軍の基地の占領や破壊を進め,また,スパイに情報が渡らない様,西日本,九州地区の気象情報発行を差し止めた訳です.

 それでも,それをあざ笑うかの様に,5月30日にビラは撒かなかったものの,再び日本本土に139WCは近付いています.

 因みに,このビラの原稿は,桂林で日本人民反戦同盟を結成して,日本兵投降工作や捕虜教育を担当していた鹿地亘が書いたと言われています.
 戦後,この人は,1951年11月,GHQのキャノン機関に拉致され,1952年12月まで監禁されるという「鹿地亘」事件に巻き込まれています.

 余談ついでに,139WCはこの作戦が終わって撤退していった際,1機は成都の鳳凰山基地で事故に遭い,もう1機は防空用のダミーとして一生を終えたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/03 23:58
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前は色々なプロパガンダ・ソングが日本でもレコード化されていたそうですが,

 【回答】
 書庫から戦前のコロムビアレコードを持ってきました.

A面 『三國防共協定歌』 : 西條八十作詞・山田耕筰作曲
 一 輝く世界の 海原越えて 結ぶも頼もし 三つの腕
   呪いの赤魔を もろとも もろとも砕く
   信義の血潮の 高鳴る 高鳴る腕(かいな)
 二 魔の手ははびこる 東に西に
   コミンテルンの 爪牙は狂ふ
   いざ起ち守らん 世界の 世界の危機を
   使命は燦やく 防共 防共戦線
 三 櫻花のサムライ 薔薇の騎士が
   正義の白刃 抜きつれ起たば
   鎧袖一触 なんする なんするものぞ
   あとなく亡びん 思想の 思想の敵は
 四 ラインの森かげ アドリア海に
   友呼ぶ若者 歓声あがる
   いざいざ應へん 日出づる 日出づる國の
   義勇の熱血 たばしる たばしる我等

 〔略〕
(三番四番なんて良いですね.ちょっと宝塚っぽい?)

B面 『ファシストの歌』
 仁木他喜雄編曲とだけ書いてあるので元歌はイタリア,歌詞はそのまま邦訳でしょうか.

   いざ友よ 皆起て 未来めざし進め
   我等無敵軍勢 火水の中行く
   大胆に 勇敢に 大理想を樹て
   国民の協力に祖国を護れ
   青春よ 青春よ 若人の うるはしき
   見よファシズム救いたり
   われ等の自由を

 B面のもう一曲は,同じく仁木さん編曲とだけしか書いていませんが,これは紛れもなく『Horst Wessel Lied』です.

『ナチス党歌』

  旗高く列固く組め 歩武堂々 我等進む
  反動と赤とを 射てる友等 こころは ともに進む

 原曲の「SA marschiert〜」はさすがに一般の日本人にはなじみがなかったのか,「SA」は「我等」に言い換えられています.

バンケン in mixi,2006年08月02日 00:07

>『ファシストの歌』

 これこそ,イタリア版「Horst Wessel Lied」である有名なファシスト党歌「Giovinezza」(ジョビネッツァ/青春)です.
 対で入っているとはなかなかニクイですね.

 下記サイトの白いMP3マークをポチっとしてください.
 1939年バージョンが試聴できます.
http://ingeb.org/songs/giovinez.html

 右にはドイツ語バージョンの歌詞がありますが,これは完全に替え歌で,イタリア語版とは連動していません.

よしぞう(maro') in mixi,2006年08月02日 00:54

 「私の所有する戦前の軍歌集に載っている,「Giovinezza」の日本語版歌詞およびタイトルはこのようなものです.

「ファシストの歌(ファシスト賛歌)」

起てよ 若人
いざ奮ひ起て いざ
我等が行く手を
さへぎるものなし
今こそ日頃の力を示さむ
黒シャツ 黒シャツ 我等が同志
祖國の自由を 護れよ同志
進めや 黒シャツ 我等が同志

というものです.

 続いて,ナチスの歌(と,書いてあり,副題に ホルスト・ヴィッセルの歌)

声高らかに 隊伍も密に
突撃隊の足並み堅し
赤き敵手に倒れし戦友の
霊と共に進み行く

街路を開けよ 褐色隊に
街路を開けよ 突撃隊に
人みな仰ぐ 鈎十字
自由と生活の日明けそめぬ

集合喇叭高鳴れば
戦はんかな 準備あり
翻さんかな ヒットラー旗を
奴隷たるのも今一時ぞ

声高らかに 隊伍も密に
突撃隊の足並み堅し
赤き敵手に倒れし戦友の
霊と共に進み行く

と,まあいろいろあるんですね.

 そういえば,イタリア語版「リリー・マルレーン」なんてのもありますね.

黒江龍雄 by mail,2008年03月09日 16時54分

 関連項目:
 【質問】 北原白秋が「万歳ヒトラーユーゲント」を作詞したと言うのはマジですか?


 【質問】
 「撃ちてし止まむ」って何?

 【回答】
 古事記の神武東征の中に出てくる歌謡の一部.
 古事記によれば,忍坂・大室の八十建(=土雲族,日本書記では土蜘蛛族)を倒すために,宴を張り,料理人に化けた兵士が,神倭伊波禮毘古命の歌に合わせ,一斉に襲い掛かる計画を立てた.

 そして次のような歌が歌われた.
-----------------------------------
  忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも
  みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ
  みつみつし 久米の子等が 頭椎 石椎持ち 今撃たば良ろし
-----------------------------------
みつみつし:久米の枕詞
久米:久米部の人
頭椎:柄の頭が塊状をなした太刀
石椎:一種の石の武器
撃ちてし止まむ:撃たないでおくものか!
良らし:よろしい

http://blogs.yahoo.co.jp/leg1723/31014158.html
による,歌謡部分の意訳.

-------------------------------------
 忍坂の大室に沢山の八十建・土雲族が集まっている
 八十膳夫に化けた久米一族の武者が太刀と石斧で必ず倒せるだろう
 さあ,久米の者よ,土雲を一気に討ち取れ!! 
-------------------------------------

 そして歌い終わったとき,一斉に襲い掛かり,土雲族を壊滅させた,としている.
 「久米の子」とは,ニニギノ命が高千穂の峰に降臨したとき,梅雨払いした部隊であり,云わば神武天皇親衛隊.
 ただし実際には,河内の登美ビコ(長髄ヒコ)の滅亡は,神武から百年余りも後の,7代・孝霊,8代・孝元あたりのことだという.

 その後,万葉集には,
>みつみつし 久米の子等が 粟生には 韮一茎 そねが茎 そね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ
という形のものが掲載された.

 そして時代は遥かに下って1943.2.23,その言葉をキャッチフレーズとしたポスター5万枚を,陸軍省が戦意昂揚の為に配布した.
 以下は当時の新聞より引用.

--------------------
撃ちてし止まむ
受けて見よこの手榴弾

 米英撃砕の突撃路はいま開かれようとしている.
 彼らが呼号する鉄と火薬の防御陣がいかに固く長くとも,われらは征く.
 鉄火の嵐を衝いて,皇軍勇士は断じてゆくのだ!!
 幾たりかの戦友が倒れて行った.
 "大元帥陛下万歳"を奉唱して笑いながら死んでいった…….
 今こそ受けよ,この恨み,この肉弾!
 この一塊,この一塊の手榴弾に,戦友のそして一億の恨みがこもっているのだ.
 敵の生胆を,このロで,この爪で挟ってやるのだ!
 広×数万キロの戦線に,総進撃の喚声が,怒濤のようにどよもし,どよもす.
 戦友の屍を踏み越えて,皇軍勇士は突撃する.
 ユニオン・ジャックと星条旗を足下に蹂躙して,進む突撃路はロンドンヘ,そしてワシントンヘ続いているのだ……
 烈火の戦場精神は凝って百畳敷の大写真となった.
 別項社告のように,東京および大阪の三箇所に掲揚して「撃ちてし止まむ」の精神を呼びかけるのである.

-------------------(朝日新聞,同年2.28朝刊)

 苦戦すると,ナショナリズムを鼓舞するための,歴史や神話の掘り起こしに走るのは,どうやら世の東西を問わないようで.

 【参考ページ】
http://page.freett.com/postx/tero/siyamamu.html
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/23c1b4d63d3323780212d002a3009402
http://blogs.yahoo.co.jp/kamuiwakka128/4986960.html
http://viewmanyou.web.fc2.com/kodaikayou.html

ポスター
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq060811b.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq110829am.jpg

【ぐんじさんぎょう】,2011/09/01 20:30
を加筆改修

 センター試験の成績が思わしくないときに,
「お,オレは模試じゃクラスで一番だったんだぞぞぞぞぞ!!」
というようなもん.

 ちがうか__

ゆずこせう in mixi,2011年08月30日 07:53

 8代がB'zに見えて,
「わぁ,もう1300年以上活躍してんのか,B'z」
って思ってしまいました.

kureseki in mixi,2011年08月30日 08:07

 佐竹や山内みたいなだまし討ち.
 おおらかですな.

しまだ in mixi,2011年08月30日 09:06


 【珍説】
 戦前の日本のほうが,はるかに精神的生活レベルは高かった.
 親殺し子殺し,大量殺人などはなかった.
 売春や援交など考えらんない.

 【事実】
 DQNは底なしにDQNだったし・・ってかそれが普通.
 インテリ青びょうたんのほうが少数派.
 親殺し子殺しどころか,貧村じゃ間引きは当たり前.
 売春,援交?どころか,若い娘が奉公先でお手つきになるのは当たり前.
 貧乏人が女房や娘を売春宿に売るのもよくあった話.

 たとえば,昭和9年の大冷害を発端とする凶作では,東北地方を中心に6万人以上の女性が,身売りや出稼ぎに出なければならなかった.

 みんな貧乏だから,自分が貧乏だと気づかなかっただけ.
 『野麦峠』でも読め.

軍事板,2009/07/29(水)
青文字:加筆改修部分

 なお,戦前の有名な大量殺人事件としては,津山事件が挙げられる.
 1938.5.21未明,岡山県苫田郡西加茂村(したがって正確に言えば,津山市で起きた事件ではない)で,都井睦雄(当時21歳)が,2時間足らずで30人を殺害した後,荒坂峠の山頂にて猟銃自殺した,という事件.
 のちに横溝正史の『八つ墓村』のヒントともなった.

 また,川俣初太郎貰い子殺人事件というのもある.
 これは東京市目黒区在住の川俣初太郎(33歳)が,貰い子の広告を見ては,産婆のところへ言って養育費を受け取り,子供は殺していた事件.
 1933年に川俣は逮捕され,後に死刑になったが,逮捕されるまでに25人を殺害していたという.

 同様の養育費目当ての貰い子殺しは,戦前日本ではしばしば起きたとされている.

 他にも
1931年のノーシン店員毒殺未遂事件
(名古屋市のノーシン本店で,17歳の店員が朝食の味噌汁にアヒ酸を入れ,同僚を毒殺しようとしたもので,32人のうち7人重体,他も重傷)
1932年の浅口郡祖母一家惨殺事件
(18歳精米業者が,亡父の財産分与を巡る諍いから,祖母一家3人を日本刀で刺殺.そのうち一人は生後3日の赤ん坊)
1933年の小学生連続殺人事件
(大阪府北河内郡で,11歳の小学2年生が,9歳の女の子の小遣い銭2銭を盗んで逃走.女の子とその妹(6歳)およびその親戚の小学2年生(9歳)から,カネを返せと迫られたため,次々と殺害)
1934年の北葛飾郡一家皆殺し事件
(奈良県北葛飾郡の農家で,20歳の長男が「自分が命を投げ出したら,幾人くらい殺せるだろうか」試すため,家族の頭を斧で殴り,母親,次男,長女,三男を殺害,父親を重体とした)
などなど,探せばいくらでも出てくるのだが.

 【参考ページ】

少年犯罪データベース

津山事件を伝える新聞報道
1938.5.22 讀賣新聞夕刊


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