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「D.B.E. 三二型」(2011/04/24)◆国産・ルーズベルト大統領マッチ入れ
「トンデモない一行知識の世界 2」◆(2011/03/31)似ているようで違う
―― 贅沢は敵だと贅肉は敵だ
戦時中の標語「ぜいたくは敵だ」について
『太平洋戦史文献解題』(井門寛著,新人物往来社,1971.8.15)
昭和16年末から45年末間に出版された単行本と,昭和20年8月から45年末間に出版された雑誌記事をまとめてある.
単行本については簡略な解説がついているが,雑誌記事は記事名のみ.
巻末には終戦時の陸海軍部隊編制・年表・著作者の索引がついている.
解説文を読んでるだけでも楽しいし,購入意欲がムラムラ沸いてくるんだが,掲載されてる本のほとんどが入手困難なんだよな.
特に雑誌なんかそうだし.
――――――軍事板,2010/02/27(土)
『日本の「南進」と東南アジア』(矢野日本経済新聞社,昭和50年1月)
【質問】
スピルバーグの映画「1941」の馬鹿エピソードの数々の内,一部は実話だという話を小耳に挟んだんですが,マジですか???
【回答】
真珠湾の直後,西海岸で,「日本の艦隊が来た」とか「潜水艦で日本兵が上陸した」とか流言蜚語が流れ,かなりのパニックになったのは事実.
海岸沿いの住民が,漁船や流木を日本の軍艦や潜水艦の潜望鏡と思い込んで軍に電話をかけてきた事件も頻発した.
▼ 以下,流言蜚語の例.
―――――
〔真珠湾攻撃直後,〕オアフ島の周囲のいたるところで,日本艦船が兵員上陸準備中の報告が飛び交った.
ハワイ諸島には日系人16万人がいた.
彼らの中からブラック・ドラゴン団の団員が集められて,アメリカ人を暗殺するに違いない.
日系人のメイドや執事たちは,彼らの家が日本の将軍用に指定されているから「スクラム」(消えろ)と,彼らの雇い主に命令した,と言われる.
このような噂は,後になって全部でたらめだったと判明した.
地元のニッポニーズで,非愛国的な行動をとった者はひとりもいなかった.
――――――『モリソンの太平洋海戦史』(Samuel Eliot Morison著,光人社,2003.8.31),p.89
▲
【質問】
日本軍占領下香港時代のブルース・リー Bruce
Lee について教えてください.
【回答】
1940年11月27日,中国系で広東演劇の役者の李海泉と,ドイツ系と中国系の混血の母親グレイスとの間に,サンフランシスコのチャイナタウンの病院で生まれたブルース・リーは,生後3ヶ月あまりで,サンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に,李小龍の芸名にて出演しているが,その後イギリスの植民地下の香港に帰国.
しかし太平洋戦争勃発により,香港は日本軍に占領されたため,香港映画の製作は止まり,その当時のリーも映画出演は行っていない.
また,リーにとっては最も古い記憶が,この日本軍占領時代だったという.
香港映画の製作が再開されたのは,戦後,英国の主権が戻って以降であり,リーも1947年の『富貴浮雲』(父親と共に子役出演)以降,子役として数多くの映画に出演するようになった.
【参考ページ】
http://zh.wikipedia.org/zh/%E6%9D%8E%E5%B0%8F%E9%BE%99
http://akhd.sakura.ne.jp/LEE/leeMain.html
http://kakutei.cside.com/dragon/
http://www11.big.or.jp/~dragon/basic.html
http://www.bruceleefoundation.com/index.cfm?pid=10378
【ぐんじさんぎょう】,2010/07/25 20:50
を加筆改修
(画像掲示板より引用)
【質問】
第2次大戦中,米軍は日系人をどのように扱ったのか?
【回答】
19世紀末から1920年代に掛けて,日本人移民達は米国西海岸を中心に苦闘していました.
当時の日系人は偏見と差別に曝され,使用人や庭師,野菜やフルーツ売り程度の職にしか就けず,例え高等教育を受けても,日系人社会の中でしか職を得ることが難しかったと言われてます.
しかし,その日系人社会の中でも階層があり,渡米して仕事をしていた人々やその子孫は日系人社会の中でも,安定した階層ですが,様々な理由でも一度日本に帰国し,再度渡米した所謂「帰米」と呼ばれる人々は,日系人社会からも偏見の目で見られました.
日本で,日本式の教育を受けた彼等にとって,米国で,米国式の教育を受けた日系人とは中々波長が合わず,特別視されました.
1941年12月8日,日本の真珠湾攻撃が起きると,米国社会に於て日系人は益々不利な立場に追い込まれていきます.
日系米人は,4-F(身体的,精神的,道徳的に兵役不適格)と言う指定を受け,後に4-C(敵性外国人.国籍,祖先の問題により兵役不許可)に変更されました.
当時,米軍に所属していた5,000名の日系2世米兵は,ほぼ全員が除隊または低い地位の単純作業を強要されることになります.
そして1942年2月,ルーズベルト大統領はあの悪名高い大統領行政令9,066号に署名し,米国西海岸に住む,12万人近い日本人移民の1世やその子供である日系2世が,強制収容所に収容された訳です.
1944年の段階でも,米議会に於て日系人強制収容所行政官であったジョン・L:ディヴィッド将軍は,次のように述べています.
――――――
ジャップはジャップだ.
彼等には誰一人として此処にいて欲しくない.
彼等は危険分子だ.
米国籍を持っているからと言って,必ずしもそれが忠誠心を意味するわけではない.
彼等が此の世から居なくなるまで,我々は日本人のことをずっと心配しなければならない.
――――――
え〜っと,誰が民主主義国家でしたっけ?(笑
とは言え,米国が手を拱いていたばかりではありません.
将来的な日本軍との戦闘を想定して,1941年11月1日に,西海岸に設置された米陸軍の師団が,サンフランシスコのプレシディオ陸軍基地に機密扱いの日本語学校を設置しました.
此処には日系人が3名教師としており,58名の2世と2名の日本に住んだことのある白人が6ヶ月の日本語集中訓練を受けました.
半年の集中レッスンの後,卒業出来た45名は,少数が教師としてその学校に残った以外は,殆どが情報活動を行う為に戦線に送られています.
5月下旬,大統領行政令9,066号に基づき,この学校も西海岸からミネソタに移転しました.
この頃までには,日本語学校第1期卒業生の活躍振りが前線から報告されており,陸軍も一部の過激分子を除いて,2世語学兵の有用性を認識し始めていました.
そこで,この日本語学校は国防総省の直轄となり,1942年6月1日に軍情報部語学学校(MISLS)として改組されました.
以後,6,000名に上る日系2世兵が,半年の日本語特訓を受けることになります.
一方,海軍は日系人排斥政策を採った為,別のアプローチを採りました.
こちらは白人に日本語を訓練すべく,1941年10月にカリフォルニア大学バークレー校とハーバード大学で特別プログラムを始めました.
しかし,ハーバード大学では教師が実践的な日本語指導をしなかったため,プログラムは自然消滅.
バークレー校では教師の殆どが日本人もしくは帰米2世で,日系人強制収容対象となったため,教員確保の為にプログラムはコロラド大学ボルダー校に移されました.
更に定員が増加して,此処で収容しきれなくなったことから,オクラホマのスティルウォーターにも分校が設置されました.
海軍の語学兵は,2つのタイプから成っていました.
1つは,宣教師やビジネスマンの親の元で日本や中国で生まれ育ち,日本語或いは中国語に多少の馴染みがある者達,もう1つは,全米の大学から選抜された語学の才能がありそうな成績優秀生で,日本語を0から学ぶ者達でした.
1年間の集中訓練後,日本語の能力レベルに関係なく,全員が海軍士官となり,海軍内で日本語関係の任務に就きました.
先日紹介した山下裁判で宣誓を拒否した通訳の士官達も,東京裁判のホーンスティン初代言語部長も海軍日本語学校の出身者です.
こうした人々の中には,後に川端康成や源氏物語を翻訳したエドワード・サイデンステッカーや,ドナルド・キーンもいたりします.
陸軍の方は短期間で成果を挙げられそうな訓練生を捜すのに苦労しました.
当時の事を2世の歴史家はこう述べています.
――――――
2世の大半は,完全に米国人化し過ぎていた.
面接を受けた最初の3,700名のうち,日本語が不自由なく話せたのは僅か3%に過ぎなかった.
まぁまぁの日本語が話せると判断された者が4%.
集中訓練の候補生に成り得る程度の日本語を知っている者が3%だった.
つまり,自分達の祖先の言葉について使い物になる程度知っている2世は,10人のうち1人しか居なかったと言う事だ.
最も優秀な者でさえ,軍事用語・語法については訓練を受ける必要が有った.
結局殆どの場合,最も適格とされたのは日本で教育を受けた帰米2世だった.
皮肉なことに彼等は,不忠を働く可能性が最も高いとして,真っ先に糾弾されていた集団だった.
結局,日本語能力を持つ人材の不足に苦しんだ軍は,日系人強制収容所から何百人と言う2世を募り,また,米国に対する帰米2世たちの日本語力や日本についての知識に,依存せざるを得なかったわけです.
――――――
彼等は家族,友人が「敵性外国人」として強制収容所に拘留されたままの状態で,米軍情報活動の為の訓練を受けたことになります.
MISLSに行くことは,2世たちにとって自分達の生まれた国である米国に対する忠誠心を示したいと言う事になりましたが,それは一方で,厳しい強制収容所暮らしを避ける道でもあった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/09 22:49
さて,MISLSで養成された2世達は,主に語学兵として太平洋戦線に派遣されます.
彼等はATISその他情報分析部隊に所属し,捕獲文書の翻訳,日本人戦争捕虜に対する尋問,日本兵や一般国民に対する投降の呼びかけ,暗号解読,プロパガンダ活動に従事しました.
因みに,海軍は日系人を表向き排除していましたが,既述の通り,海軍日本語学校の卒業生は情報活動をするだけの能力に至らず,屡々,2世語学兵が海軍に「貸し出される」事もありました.
彼等の活動のうち,日本敗戦までに翻訳した書類は,合計2,050万ページという膨大な量に上ります.
特に,日本で言う「海軍乙事件」,1944年3月31日,古賀峯一連合艦隊司令長官の搭乗機がパラオからダバオに赴く途中で不時着し,同機内にあった「Z作戦」計画書がフィリピン人ゲリラによって奪われ,米軍の手に渡った事件では,オーストラリアのブリスベーンにあったATISに持ち込まれた計画書を,2世語学兵達は迅速に翻訳し,これによって日本海軍の起死回生の手段だった「Z作戦」は米軍に筒抜けとなり,連合艦隊は大敗北を喫したのは,米国立公文書館の歴史家ブラッドシャーをして,「南太平洋戦線で最大の成功を収めた情報活動の一つ」と言わしめた出来事でした.
にも関わらず,海軍は2世を排斥し続け,陸軍も彼等を将校に登用する事を頑なに拒みました.
陸軍も彼等語学兵を統率する将校を必要としていましたが,MISLSの授業内容では2世の語学兵に能力的に太刀打ち出来ず,1943年,ミシガン大学に白人用日本語準備プログラム,謂わばMISLS予備校を設置し,その後,MISLSで白人向け特別プログラムを終了した訓練生は,卒業と同時に士官に任命され,語学兵達の指揮官と成りました.
ただ,日本語能力の低い士官の下で働いた2世語学兵達は,この差別待遇を腹立たしく思って居たようです.
一方,米軍はこれだけ大きな貢献を行った2世語学兵達に対し,完全な信用はしていませんでした.
この為,重要な機微情報作業には携わりませんでしたし,統括する白人士官に対し,部下の2世が正確に翻訳・通訳を行い,不正確な情報を提供しないよう監視することを密かに命じていたりします.
欧州戦線に渡った442連隊と違い,彼等の仕事は,民族のアイデンティティとの葛藤でもありました.
ある歴史家は彼等の立場をこう記しています.
――――――
より深いレベルで分析してみると,語学兵として軍情報部で働いた者達は,自分達のルーツにより関係した仕事をし,それ故心理的にも頼複雑な作業に従事した.
捕獲文書や無線通信を翻訳しようと,捕虜を尋問しようと,アイデンティティや継承文化の問題と対峙しなければならず,これは他の殆どの米兵には想像さえ出来なかった事だ.
彼等の殆どについて,6ヶ月の特訓で日本語を学ぶことは大きな試練だったが,両親や育った環境から吸収していた日本文化や日本社会についての知識や理解により,彼等は敵に対して固有の見方を持つ事が出来た.
当時は非常に稀なことだったのだが,彼等は敵を動物としてではなく,人間として見ることが出来たのである.
――――――
さて,戦後にはより一層彼等の必要性が増し,MISLSの学生数は戦後の方が多かったくらいでした.
訓練の内容も,軍事偏重から占領に当って必要とされた一般の日本語,日本文化を中心としたものに変わりました.
この様にして,戦後,GHQで活躍したMISLS卒業生は5,000名以上に上ります.
ただ,彼等のルーツは沖縄や広島が多かったりします.
広島に赴いた広島出身の語学兵達は,自分の肉親が郷里で被爆し,死亡したことを任務中に知ると言う悲劇を経験した者もいました.
しかし,彼等の活躍は戦後もずっと秘匿され,その活動の一端が人の目に触れるようになったのは,1970年代末に米政府が情報を開示してからです.
ATIS指揮官だったマシバー大佐は,自叙伝の中で次のように述べています.
――――――
二世の忠誠心,誠実さ,愛国心,能力がなければ,捕獲文書や戦争捕虜から得た情報に依存していた太平洋戦争は,遙かに危険に満ち,長引くものになって居たであろう.
米国は2世やその家族に十分な恩返しなど決して出来ない程の恩を受けている.
――――――
同じ様な事はマッカーサー元帥も,「実際の戦闘前にこれほど敵方について知識を有していた戦争は過去にも無かった」と述べています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/11 21:26
【質問】
大戦初期の日系アメリカ人収容の状況を教えられたし.
【回答】
スティーブン・スピルバーグの佳編に『1941』と言う「迷作」があります.
結構はちゃめちゃな設定だったりするのですが,冗談抜きで当時の米国人が日本に抱いていた心情描写が,誇張している中にも出ているものでした.
1941年12月7日(米国時間)の真珠湾攻撃では,人々の生活が一変しました.
取り分け,日系米人はそれまでの平穏な暮らしを完全に失ってしまいました.
真珠湾攻撃の後の数日間は,西海岸では『1941』の世界と同様に,混乱が拡がり,噂が噂を呼び,幾度も警報が鳴り,不夜城だった夜の街は真っ暗になってしまいました.
当然,こうした状態では日系米人の安全も保障されない,として,夜間外出禁止令が発令され,20時から翌朝6時まで外出が禁じられました.
また,日系米人達の身辺に破壊工作の徴候が見られなかったのに,1942年2月19日,ルーズヴェルト大統領は有名な大統領命令9,066号に署名します.
これにより,陸軍省は国家防衛の脅威と見做される人々を,指定された軍事地域から退去させる事が出来るようになりました.
この対象は,日系人凡そ11万人に達し,その60%以上は米国市民権を有しており,4万人が子供でした.
更にこれに輪を掛けるように,2月23日,日本の潜水艦がサンタ・バーバラ近郊のカリフォルニア州ゴレタを砲撃しました.
これは排日主義者に良い口実を与える事になり,西部防衛司令部司令官のデウィット中将は,直ちに西海岸3州の西半分とアリゾナ州の南部3分の1を第1軍自治区に指定し,全ての日系米人をこの地域から退去させるように命じました.
これに抗う事は国家犯罪となり,WCCA(戦時市民管理局)は元々3月23日までは,指定された軍事地域からの自主退去を求めていましたが,この日以降の自主退去を禁じました.
因みに,軍から立ち退きを命じられた日系米人の世話をする為に戦時転住局が設置され,ドワイト・D・アイゼンハワー将軍の弟であるミルトン・S・アイゼンハワーが初代局長に任命されました.
しかし,一部には懸念を抱いている良心的な人間達もいました.
5月始め,カリフォルニア州知事のカルバート・オルソンは,ルーズヴェルト大統領に手紙を書き,西部大学連盟は忠実な日系学生の立ち退きに懸念を抱いていると伝えました.
そして,彼は手紙にこう記しました.
――――――
この立ち退きは,学生達にとって不当であるだけでなく,米国にとっても痛手となるでしょう.
何故なら,戦中戦後を通じて,米国には二世の優れた指導力が必要となるからです.
――――――
これに対し,ルーズヴェルト大統領は即座に,こうした返事を認(したた)めました.
――――――
米国生まれの日系人学生達に対して,以下の事を印象づけなければならないと考えます.
即ち,米国民には,適正外国人と真の米国支持者を見分ける能力がある,と言う事です.
――――――
1942年3月31日から8月7日までの間に,日系人凡そ500人ずつの集団が,「市民立ち退き命令」に従い,兵士の監視の下に自宅から集住センター或いは収容所に向かいました.
この間,合計で108件の立ち退き命令が下されています.
立ち退きに当っては,日本人が住んでいる場所にある教会や公会堂に「市民管理所」が設置され,日系人はそこに報告して登録しなければなりません.
そして,家族毎に同じ番号の書かれた札を受け取りました.
仕事を片付け,家財を預けるか売払い,事業を整理し,家を処分し,決められた時間に所定の集合場所に集まるよう命じられ,出発の日には自分達で運べるだけの荷物を持ってくるように言われ,少なくとも寝具,下着,洗面用具,着替え,フォーク,スプーン,皿,椀,コップを必ず持参するように命じられました.
個人的な生活必需品は持ち込めましたが,ペットを連れて行く事は出来ませんでした.
こうして,日系人凡そ9.2万人が集住センターに移住し,此処で平均して100日程度過ごします.
集住センターは,ワシントン州ピュアラップとオレゴン州ポートランドを除き,残り14箇所は全てカリフォルニア州に設置されました.
出発当日,移住者達は家族毎の番号札を付け,荷物を持ち,凡そ500人ずつに分かれて所定の場所に集まります.
WCCA(戦時市民管理局)では緊急事態に備え,各集団に医師と看護婦を1名ずつ同行させ,衣料品と食糧を持たせました.
移動は主にバスで,病人だけを乗せた1台のバスには看護婦が1人付添いました.
一旦集住センターに着いた人々にとって,そこは安住の地ではありません.
移住者はバスや列車から降りると,ライフル銃を持った監視兵が並ぶ警戒線の間を歩いて集住センターに向かいました.
その周囲は有刺鉄線が巻かれ,死角の無いように監視塔が建ち,サーチライトが周辺を照らすようになっていました.
囲いの中に入ると,身体検査を受け,指紋を採られて,中には尋問された者もいました.
そして,全員に天然痘と腸チフスの予防接種を受けさせました.
移住者の大半は,仏教徒かプロテスタントの信者でした.
WCCAの方針で,センター内の礼拝が認められ,外から宗教関係の指導者を呼ぶ事も許されていました.
センターの管理者は,教会施設や礼拝の準備を手配してくれました.
勿論,白人の聖職者はセンター内に住む事が出来ませんでしたが,特別許可を貰えば中と外を行き来する事が出来ました.
一方で,センター当局は,集会が宣伝や扇動に利用されるのを恐れて,礼拝を監視し,基本的に日本語を禁じ,文書を検閲しました.
この集会での日本語禁止は,特に仏教徒の間で問題になりました.
と言うのも,英語を話せる僧侶が殆どいなかった為です.
とは言え,方針には従わざるを得ないので,仏教の式典の構成を改め,文書を全て英訳せねばなりませんでした.
集住センターには様々な建物がありました.
競馬場の馬小屋が移住者の住居となったり,博覧会場の展示場は食堂や体育館,病院,倉庫となりました.
しかし,人数が増えると馬小屋では足りなくなり,兵舎風のバラックが次々に建てられました.
一応,住戸は仕切られていましたが,1戸の広さは間口5m,奥行6mのものから,間口6m,奥行6mのものがあり,家族構成によって広さが異なっていました.
とは言え,家族内とは言えプライバシーは皆無で,居住者達は上からシーツを垂らして部屋を出来るだけ仕切り,プライバシーを確保しようと涙ぐましい努力をしました.
こうしたバラックには天井が無く,音は完全に筒抜けでした.
従って,赤ん坊の泣き声や咳や鼾,更には言い争いの声まで聞こえてくる始末です.
こうしたバラックは約14棟で1ブロックを構成し,それが1つの区となり,区の中からブロックリーダーが選出されました.
リーダーの殆どは,人望の篤い年配の日系一世でした.
ブロックごとにシャワー,洗面所,トイレが設置されていましたが,トイレには仕切りがありませんでした.
こうした状態には,収容者達も不満があったようでしたが,この生活は数ヶ月続き,遂に米国公衆衛生局は対応を迫られる事になりました.
そこで,公衆衛生局は移住者の中から医者と看護婦を雇い,センター内での伝染病の予防や一般診療を任せるようになります.
しかし,折角医者や看護婦がいても,医療機器や薬が殆どありませんでした.
この為,医者達が患者を診察しても必要なものが無い為,許可を貰って医療機器を取りに戻った事もありました.
例えば,カリフォルニア州フレスノに設置された集住センターにあった病院には,1つの広い部屋に簡易ベッドがいくつか置かれているだけで,薬と言えば,鉱油,ヨードチンキ,アスピリン,下痢止めのカオペクテート,アルコールとサルファ剤軟膏があるだけでした.
結局,集住センターでの生活は数週間の予想が大きく外れ,秋まで続きました.
集住センターは混雑し,非衛生的で健康を損ないやすい環境だった為,精神的に参る人も多く出ました.
また,組織が固まっていないので,例えば食堂係は一般収容者の中からくじ引きで選ばれ,それまで料理など殆ど,もしくは全然やった事が無くてもその任務に就かなければなりませんでした.
更に食器洗いや冷蔵保存設備が整っておらず,湯の供給も不充分,その上,害虫駆除やゴミ処理もきちんと行われていませんでした.
例えば,ピュアラップ集住センターでは,腐ったウインナーソーセージをみんなが食べた為に,集団食中毒が発生し,夜,公衆トイレに向かう多数の懐中電灯の明りを見て,監視兵は大規模な暴動が発生したのではないかと警戒態勢を敷いたという,笑えない話しもありました.
こうした環境から自らを改善する為に,また,日系人正規看護婦の不足もあって,看護助手を養成する集中講座が開かれました.
これには多くの人々が加わり,やがて彼女たちは看護助手として,正規看護婦や医者の補助として働くようになりました.
そして,この場所を離れて,更に奥地の収容所に向かっていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/30 23:20
【質問】
日系人収容所の環境は?
【回答】
日系人の殆どの人は立ち退きを求められ,精神的に参っていた人も多く,殆どの人が宗教に癒しを求めるようになります.
特にプロテスタント諸派は,こうした人々の救済を活発に行おうとしました.
しかし,FBIにより教会の日系指導者を逮捕し,モンタナ州ミズラの刑務所に収容してしまいます.
従って,彼らの跡を埋めたのは,白人牧師達でした.
1942年5月に,集住センターへの収容が始まるまでは教会で活動を続け,集住センターに収容されてからは,鉄条網越しに会話を交わしていました.
やがて,鉄条網の内側に設けられた場所で,定期的に面会出来る様になると,牧師達は収容者からの依頼を受け,時計やペンを持っていったり,靴を修理屋に持っていったりするようになり,街での買物を行うようになりました.
そんな交流も,8月終わりから9月始めにかけて,集住センターから収容所に人々が移送されて終わります.
ピュアラップ集住センターに収容されていた8,000人の日系人達は,列車によって3日かかってアイダホ州ミニドカの収容所へと移送されていきました.
牧師達は一家で毎日列車を見送りに行き,花束を日系人に渡していきます.
彼らの中には牧師達に,感謝の手紙を送る人々もいました.
一方,入院中の病人は移送列車から取り残されましたが,牧師達は毎週彼らを見舞いました.
残念ながら,2名が異境の地で土になりましたが….
また,教会の地下室では,収容された信者達の家財を預かっていました.
これらは屡々,収容所に送られています.
それは特に仕切りに使うカーテンや,クリスマスの催しの為の衣装だったりします.
因みに,彼らの家財は政府運営の保管所にも預けられる場合もありました.
と言うのも,既に書いた様に,個人が持って行ける荷物は非常に限られていたからです.
極端な場合は,1人に附きスーツケース1個だけでした.
残りの荷物は,その保管所に預けられましたが,これらの荷物を再び見る事は出来ませんでした.
1942年4月7日にWRAのミルトン・S・アイゼンハワー長官が西部10州,即ち,アリゾナ,コロラド,アイダホ,モンタナ,ニューメキシコ,ネヴァダ,オレゴン,ユタ,ワシントン,ワイオミングの各州知事や代表者と会見しました.
目的は,日系人を移住させる土地の計画について話し合う事でした.
アイゼンハワーの考えは,大恐慌当時に失業中の若者を雇用して道路建設や植林に従事させる為に設けた「市民保全部隊」と同様に,小規模なキャンプを50〜75個,内陸部に設置する事でした.
彼の論理では,日系市民は敵対行為で罰した訳ではなく,安全策を採る為に疎開させたというものでした.
そして,日系人達が中西部の州に再定住して普通の生活をしながら,地域に貢献できるようにして欲しいと願ったのです.
しかし,彼の考えには誰も耳を傾けませんでした.
彼らは日系人達が西海岸で危険な存在と呼ばれているのであれば,中西部に移住させても同じく危険な存在になるであろうと,声を荒げ,拳を振りかざして主張しました.
只1人,穏やかな姿勢を取っていたのが,コロラド州知事のラルフ・カーだけでした.
彼は,真面目な日本人が自分の州に移住してくる事に異議はないし,移住計画に協力する事は市民の義務であると考えていました.
仕方なしに,アイゼンハワーは妥協しました.
選べる道はただ一つ,市民達がつましくとも楽しく暮らせる様な収容所を作るだけだ.
彼らがそこで有益な仕事をし,学校を建て,劣悪な環境の中でも最低限の誇りを保てればいいのだ.
そして,収容所の場所探しが始まります.
敷地には8,000人以上の人々が生活するのに十分な広さが求められました.
その上,敷地は戦略的な施設から離れていて,しかも有益な仕事の出来る可能性が無くてはならないと言うものでした.
1942年5月,最初の収容者が強制収容所に収容されました.
日系人達にとっては,少なくとも集住センターよりはまともな生活が送れ,特に監視塔と鉄条網は取り除かれるだろうと考えていました.
その為にも,彼らは規則正しく,協力的に行動しようと決心していました.
ところが,選ばれた地は,先述のアイダホ州ミニドカやアーカンソー州ジェロームなどと言った場所です.
軍が先ず選定したマンザナーとポストンは,それぞれカリフォルニア州とアリゾナ州の砂漠のど真ん中にありました.
残り6箇所の用地も,不毛の砂漠の中にありました.
フェニックスに近いヒーラ・リバーは,強烈な暑さに襲われる場所であり,最北の施設であるアイダホ州ミニドカとワイオミング州ハートマウンテンは,厳しい冬の寒さと砂嵐で有名な場所でした.
カリフォルニア州トゥールレイクは乾湖の底にあり,ユタ州のトパーズは,グリースウッドと呼ばれる低木に覆われていましたし,コロラド州のアマチは蓬やユッカが点在する,乾涸らびた吹曝しの草原の中でした.
アーカンソー州ジェロームは逆に,樹木がうっそうと茂り,蛇が横行する沼地でした.
確かにそこは,馬小屋改造の集住センターよりはマシな,バラック建ての兵舎での生活でしたが,1部屋に家族5人が宛がわれ,大食堂で食事をし,洗面所は同じブロックの住民と共有する状態であり,到底,集住センターを上回る環境ではありませんでした.
強制収容所の方針書には,移住者達は食糧,住居,医療,教育が無償で受けられると明記され,移住者達はその中で働く機会が与えられました.
特に医師,看護師,教師が最も高い給与を与えられ,月額19ドル,労働者の大半は月額16ドルで,見習い工や看護助手は12ドルでした.
こんな給料でも働かなければ金銭を受けられない(日系人の口座は既に凍結されていた)ので,懸命に働きましたが,シアーズ・ローバックのカタログ販売による最低限の必需品すら,高価すぎて注文出来ませんでした.
育ち盛りの子供達の中には,靴さえありませんでした.
当然,こうした理不尽な状況に置かれたのですから,彼らの中には信頼関係が全くないと憤慨して,無理に白人達の方針に合わせる必要がないと考えた人も出て来ました.
それでも,収容所は完全に移住者達によって運営されていました.
移住者達は最善を目指して働き始めたのです.
ところで,異境の地にやってきて家族を養いながらも,途中で命運尽きて両親とも死んでしまったと言う,所謂孤児達にも,この強制収容は容赦なく襲いかかりました.
当時,日系の孤児達はカリフォルニア州にある3箇所の孤児院で生活していました.
しかし,日本が米国と戦端を開くと,数日の内にFBIは所謂「疑わしい」日本人や日系米人を拘留し始めました.
この出来事は,平和に学校に通っていた孤児達も翻弄しました.
孤児達は学校から即座に帰宅を命じられましたし,日系孤児院で働く外国籍の職員達もFBIによって逮捕され,投獄されてしまいました.
この為,孤児達を世話する人が誰もいなくなりました.
そこで,政府は孤児達を分散させる事を提案しましたが,ロサンゼルス地区内の孤児院の管理者だった日系人夫妻が,孤児達の互いの結びつきを大切にする為,彼らを離ればなれにしない様強く主張しました.
最終的に,収容所に孤児院を置く計画が認められ,1942年4月,日系人夫妻とカリフォルニア州児童福祉課の職員がマンザナーの収容所を訪れて,調査の結果,6月23日に日系人夫妻を管理者として,収容所内の孤児院「子供の村」が開かれました.
孤児達を収容するにはバラックは余りにも貧弱なので,収容者達の手によって,広く頑丈で,水道,手洗い,洗濯場の設備のある平家建てが3棟建てられました.
そして,この地で101人の孤児達がここで戦争が終わるまで生活を続けたそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/01 23:08
▼ さて,日系人達の収容所はWRA(戦時転住局)の管轄下に置かれていました.
集住センターは軍の管轄下ですから,少しは扱いが異なるかと思われていましたが,実質は全く変わりません.
収容所周辺は警備兵が絶えず巡回して,人の出入りを監視し,柵の傍で少しでも何か動くものが有れば誰何し,それに答えなければ,躊躇無く小銃を発射しました.
収容者達は良く収容所の端近くを散歩し,夕日を眺め,月が昇ってくるのを待ったりしていました.
柵の向う側の兵舎では,時折,兵士達が歌う声が聞こえます.
しかし,幾ら人間くさい所行が垣間見られても,彼らは所詮軍の象徴であり,鉄条網の向う側から,彼らが話しかける事があっても,日系人達は彼らに一度も親しみを示さなかったと言います.
先述の通り,収容所内では1ヶ月当り12〜19ドルの給与がその職能によって支払われ,追加として扶養家族に平均3ドルの衣料品手当を受け取っても到底十分な生活が出来ませんでした.
家族達は,持ち運べるだけの物を持っての移動だったので,収容所の厳しい環境に対する備えもなかったりします.
しかし,衣装棚の中身は丈夫な品物,特に靴は丈夫な物を選んで購入し,身なりはいつも清潔でした.
子供達の教育施設も,最初はとても貧弱なもので,授業はバラックで行われました.
始めの頃,教師用の机と椅子のある学校もありましたが,多くは椅子しか無く,子供達は床に腰を下ろしていたほどです.
備品はいつも手に入りにくく,トゥールレイクのタイピング・クラスでは,生徒達は誰もタイプライターを見た事がありませんでした.
その為,彼らは紙の上に円を描き,円の中に文字を書いてその上を指で圧す練習をしていました.
ミニドカでは,生物や化学の実験室は洗面所でした.
幸い,教科書に関しては各州から古い教科書の寄付が寄せられた他,フィラデルフィアにある「米国フレンド派奉仕委員会」から寄付がありました.
教育体系は,保育園,小学校,ハイスクール,成人教育の4段階で,教育過程は収容所が置かれた州の教育方針に従っており,トゥールレイク以外の学校は認可を受けていました.
皮肉な事に,その教育内容は「米国民としての自覚」に重点が置かれ,始業前の儀式では,「忠誠の誓い」を唱え,「吾が国家,そは汝のもの,自由の美しき国」の歌を斉唱しました.
勿論,この皮肉な場面は,白人教師達にとっては非常にきまりの悪い物でした.
働ける人々は殆どが働き,WRAが意図する地域社会の幻影を作ろうとしていました.
その為,収容者達は共同社会の活動を立ち上げようと努力しました.
とは言え,一所懸命家族の為に働き続けた一世達は,収容所生活の中で余暇が増えました.
婦人達も,食事支度の共同作業化や生活場面の制限のお陰で,空き時間を手に入れました.
こうした人々は,収容者や日系人以外の指導者による成人学級に参加する者が多く,学級の中には生け花や和裁,絵画,書道,木彫のクラスがあり,自己表現の為絵画を学ぶ者が多かったと言います.
収容所でのこうした余暇活動には政府の支援はなく,教会団体が備品の寄付をしました.
また,老若男女,一世二世問わず野球は人気で,さらに大抵の収容所には図書館がありました.
休日はみんな陽気に楽しみ,トパーズでは植樹祭をする時,ブロックごとに灌木の苗を配り,クリスマスには特別の料理や飾りがあり,「米国フレンド派協会」から寄贈された贈り物がありました.
正月は餅を食べて祝い,復活祭は盛大な野外儀式で祝いました.
仏教徒は灌仏会を祝う為に,パレードや踊りを披露しました.
此等の行事を主催する牧師や僧侶達は,WRAから報酬を受けられなかったので,信徒や国内の教会から寄付を受けました.
因みに,集住センターにいた頃は日本語で話す事も許されませんでしたが,収容所では日本語で話す事が許されていました.
グラナダ収容所は,収容者達が近隣に住むシャイアン族の首長であるオチ・ニーの娘に因んで,アマチと呼んでいました.
ここに住む人々の間では愛国精神が旺盛で,ボーイスカウトが宣伝活動を繰り広げ,金属スクラップの回収運動も行われました.
また,生徒会長主催のダンスパーティーの収益金はMarch
of Dimesなどの募金に寄付され,アマチ戦勝コンサートでは,戦勝記念債や記念切手を買う資金が集まり,1943年後半に赤十字が500ドルを募金する目標を掲げると,1,200ドルを集めました.
この他,米国農業教育振興会の少年少女達は戦勝農園を作り上げ,アマチ・ブルースター母の会は,休暇中の兵士達をもてなすダンスパーティーを開きました.
シルク・スクリーン印刷工場は,海軍養成ポスターを1943〜44年の間に6万枚も印刷しました.
収容所の人々がこんなに頑張って愛国精神を発揮していた1943年1月,日系人達に反感を抱く反対勢力が,収容所において日系人が甘やかされていると決めつけ,攻撃を始めました.
そこで,WRAは各収容所に30日分の献立表の提出を命じました.
当時,この給食費は,軍関係の割当より高額であってはならず,1人1日当り50セントと決められていましたが,1人当りの実際の費用はもっと低額でした.
あくまでも,収容所の食事は,誰も飢死しないと言うだけの代物だった訳です.
また,寒暖の差が大きい場所にあったにも関わらず,また,温暖な地域に住んでいた者も多く,運び込む荷物が少ない事から,初めての冬は誰も防寒対策が出来ていなかったのですが,何とか凍死は免れました.
最初の冬の間に,軍隊の配給品の余り物が防寒衣料の主役となり,古い水兵用のピーコートや陸軍の制服で,しかも,38〜44号の大きさの物が支給されたからです.
ただ,暖かいのですが,小柄な日本人には大きすぎました.
さて,1943年4月,反対勢力の攻撃は益々酷くなり,遂には内務長官ハロルド・イッケスがルーズヴェルト大統領に書簡を送りました.
それには,日系人収容所に不穏な動きがあり,国内の防衛に敵対する集団が出来つつあると言う聞き捨てならない内容が書かれていました.
とは言え,政府機関が表立って動くと,反対勢力に利用されかねない事を憂慮したルーズヴェルト大統領は,エレノア・ルーズヴェルト,つまり大統領夫人に調査を依頼します.
4月23日,ヒーラ・リバー収容所に到着した大統領夫人は,WRAのディロン・マイヤーと共に収容所内を視察しました.
舞い上がる埃の渦で人々の髪は白くなり,口の中で砂がザラザラし,眼が赤くなった様な場所で,彼女は病院の全ての病棟や学校,収容所内の活動全てを見て回り,疲れを知らぬ強靱さを発揮して,長官を驚かせました.
最終的に,彼女は,日系人達の優れた才能や根気強さに深く敬意を抱いて帰りました.
日系人達は風にも埃にも負けず,建設的な共同社会を作っている,と.
居住者の中には農民が多く,水路から水を引いて,不毛の荒れ地を生産力のある農地に変え,調理場に新鮮な野菜やメロン等を供給していました.
収容所の生塵は豚の餌となり,鶏は卵と鶏肉を,牛は牛乳と新鮮な肉を提供しました.
偽装網を作る工場では,予想以上の生産量の網を生産していました.
また,小さな日本庭園を作り,野菜や花,仮造りのベランダ,麻袋と梱包用の木枠の木片で作った即席の日覆いが設置されたりしていました.
そして,こうした状況を目の当たりにした大統領夫人は,大統領にこう報告しました.
「疑わしい点は全くありません」と.
ただ,母としての目から見ると,そこでは伝統的な家庭の姿が崩壊しかけている事が見て取れました.
人が多すぎ,そして忙しすぎるので,家族がバラバラになりかけていたのです.
そうして,大統領夫人は決心します.
この絆を取り戻すには,排除命令を緩和させて日系人達を元の場所に帰し,「独立して生産的な生活を再開させる」事であると.
そして,影に日に日系人達の再定住政策の見直しを,大統領に進言していくのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/02 23:26
▲
【質問】
日系人収容所の医療状況は?
【回答】
さて,少し時は遡り,1942年末の時点.
収容所の建物は徐々に整備されていましたが,病院施設の建設は遅れていました.
建物だけでなく,設備,補給品,各種医薬品等も大幅に不足,更に最大の問題は,医師と看護要員の圧倒的な不足でした.
医療用の備品として一応国の方から支給された物はありましたが,それは陸軍救急病院用の標準備品一式で,大の大人が治療を受ける場合には十分でしたが,子供用のワクチン,検査用の材料,妊婦用医薬品は全くなく,全て伝手で手に入れるしかありませんでした.
病棟のバラックには水道もストーブもなく,部屋の真ん中に電灯があるだけで,乳児や子供の世話をする母親は大変な苦労を強いられました.
人手不足のため,医療スタッフは1日14〜16時間のフル稼働勤務を余儀なくされました.
収容所の医療スタッフは,性別,人種,医学界の序列によって組織化されました.
最高位には,各収容所で雇入れた白人の男性医長が就き,彼は日系米人医師の管理監督を実施しました.
また,看護人もこれまた高給で雇われた白人の登録正看護婦(Registered
Nurse,略称はR.N..因みに,米国では登録正看護婦,看護学生,准看護婦,看護助手と言う序列であった)が実務経験の有無に関わらず,二世の登録正看護婦の管理者や看護助手の指導を勤めました.
つまり,収容所の病院運営は全て白人スタッフが行い,日系人達は労働力を提供するだけでした.
看護助手は収容所内から募集されましたが,これは二世女性のみに限定されました.
一世を外したのは,米国籍を持たない事,英語力の問題に,保健衛生に関わる訓練経験や専門知識の不足を挙げています.
但し,助産婦は一世の中に70名ほどいました.
しかし,当局はこうした経験豊富な出産介添人を採用する事はなかったのです.
兎も角,看護婦不足を解消する為に,当局は,二世のハイスクール生徒やその他希望者を対象に,看護助手や病院勤務員の訓練が実施されました.
訓練は150時間,そのカリキュラムは,検温,清拭,浣腸,ベッドメイクの方法の他,当時の看護助手及び看護学生規律も同時に教えられました.
その規律は,「手を休めるな,清潔第一,患者と話しをするな,患者のベッドに腰掛けるな,医師や上長,登録正看護婦の面前では起立せよ」と言う物で,非常に時代錯誤な物だったりします.
看護助手は,教育が終わると,分娩室や新生児達の世話をする母親の助けをするのに主に配属されました.
こうして,日系人の収容期間中に約6,000名の乳児が収容所で誕生しました.
一方で幼児死亡率は,当時の全米のそれと比べても低かった可能性があるとされています.
これは農村部にいた収容者が,収容前に比べて頻繁に保健医療サービスを受けられた事が挙げられています.
因みにこの保健医療制度は,1941年に大統領が立ち上げた医学研究委員会(CMR)で軍事に関わる様々な医学研究の実施,特に兵士達の戦闘能力を低下させる感染症,性病,身体的不調に対する医学的対策を重要研究課題として取り組ませた結果で,これを収容所では忠実に実行した為,第2次大戦期の平均的米国人が受けていたサービスと同程度かそれ以上のサービスを受けられました.
看護助手達は,病院運営の重要な担い手でした.
例えば,アリゾナ州ボストン強制収容所の1944年の記録では,登録正看護婦は白人,黒人各5名,日系人4名でしたが,二世看護助手は75名に達していました.
ところで,第2次世界大戦では米国全体でも医療要員の不足が問題になっていました.
この為,管理者として政府から派遣されてきた白人スタッフの中には,質の低い者も多く,屡々日系人医師の方が教育程度が高かったり,最新医療に携わった経験を豊富に持っていたりする場合も多かったと言います.
この様な乖離がある場合,往々にして白人スタッフの方が居丈高になり,病院運営に支障を来す事もありました.
こうした場合,日系人医療スタッフは屡々ストライキを実施して白人スタッフの入れ替えを要求したりする事もありました.
彼らがこうした非常手段に訴えたのは,賃金の増額を求めての事ではなく,あくまでも患者達の健康を改善する方向に,病院を進ませる事が目的だった訳です.
とは言え,全ての治療が収容所で出来た訳ではなく,知的障害児の介護は収容所内では不可能でしたし,結核や神経衰弱と言った患者の内重病に陥った者は,州の各施設に送り出されていきました.
収容者の死亡原因の第3位は結核でした.
結核で死亡した人々の数は206名に達しました.
この結核は感染してから数十年でも発症する様な危険性がある上,感染者には不名誉の烙印が圧されたので,社会的に阻害される事を恐れた患者達は直ぐに治療を受けようとせずに,重症化するケースが多く,結核病棟で働こうという看護助手志願者が中々いなかったと言うのもあります.
収容所は家族単位でバラックに押し込まれ,洗面所や洗濯場,入浴場所を250名ほどで共有していたので,麻疹,百日咳,猩紅熱,水痘,結核,とびひなどが流行しました.
特に収容開始時は,保健プログラムが確立しておらず,感染症発症率は非常に高く,密集して暮らしていた為に幼児性疾患に罹る子供達は驚くほど多く,食品の取扱い方法にも問題があり,食中毒も頻発しました.
最盛時12,000人が収容された,1年目のグラナダ収容所で,感染症発生が最も多かったのが,水痘でした.
患者数は最高117名に達し,1942年のコロラド州では水痘患者の隔離を必須としていませんでしたが,公衆衛生担当官はこうした疾患に罹っている子供達の家から出ない様に勧告を行っています.
しかし,収容者の免疫力が強くなり,収容所内の環境衛生保護政策が改善された為に子供達の感染症発生率は年を追う毎に低下していきましたが,代わりに大人達がストレスで抵抗力が弱まった事から生じる大葉性肺炎や気管支肺炎が増加していきます.
また,埃も重要な健康上の問題でした.
殆どの収容所が砂漠地帯か半砂漠の乾燥地帯に建設された為でもあり,乾燥地域に建設された収容所では,植林の為に確保する水が補給出来ず,効果的とされる植林が出来なかった為もあります.
それでも,現状を改善すべく,人々は懸命に働きました.
ただ,人々が最も苦痛だったのは,先の見えない収容生活だったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/03 21:42
【質問】
日系人収容所での教育の状況は?
【回答】
基本的に,日系人が収容されたのは西部諸州やハワイ準州に住んでいた場合です.
それまでに,中部や東部へ自主的に移動した人の場合は,収容を免れる事が出来ました.
とは言え,当初は職場が殆ど無く,家政婦などで食いつないでいた人も多かったそうです.
また,収容された人々の中には,カレッジや大学,看護婦養成所などに通っていた人々もいました.
その数は3,500名に達します.
この問題を憂慮したWRA局長のミルトン・S・アイゼンハワーは,1942年5月,クエーカー派の指導者であるクラレンス・ピケットに電話を掛け,退校を余儀なくされた日系人学生の救済と再定住問題に協力する様,各種団体に呼びかけると共に,再定住計画を実行する全国規模の協議会を結成する様に依頼しました.
これに応えて,カリフォルニア大学バークレー校のロバート・ゴードン・スプロール学長等が75名の学生の転入支援を行ったのを始めとして,ピケットは協議会を組織して学生再定住プログラムを実行し,コロラド州のカー知事,カリフォルニア州オルソン知事,アイゼンハワーWRA局長のバックアップを得,その結果,秋までに250名の学生が143校で学ぶ為に収容所を離れる事が出来,最終的に4,500名が東部を中心とした各地の大学に受け入れられました.
現地までの旅費はWRAが負担し,授業料には奨学金,宗教団体や個人の慈善家からの寄付金が充てられ,学生達はアルバイトをしながら学業を続けました.
意外にも収容命令を下したルーズヴェルト大統領も,日系人学生の問題には心を砕き,アイゼンハワーWRA局長に善処を要請しています.
とは言え,後に,アイゼンハワー局長は回顧録でこう記しています.
「もし,大統領が人権問題をもっと深く理解していれば,集団収容命令を下す事は無かったろう」
と.
また,カリフォルニア大学の看護婦養成所校長のマーガレット・トレイシーも同様に日系人学生の今後を憂慮していた一人でした.
トレイシーは,1942年3月,全米看護婦教育連盟のクラリベル・ウィラーに手紙を書いて助言を求めました.
それには,カリフォルニア大学看護婦養成所には現在22名の日系人看護学生が在籍しているが,何れの学生もクラスで上位の成績を修めている事を伝え,教師達も日系人学生が授業でも実習でも平均以上の成績を修めている事に気がついていました.
トレイシーの手紙は,こう結ばれていました.
「米国のシエラ山脈以東の地域で,日系人学生を転入生として受け入れる看護婦養成所があるでしょうか?」
その後間もなく全米看護婦指導者会議が開かれ,ウィラーはその席上でトレイシーからの手紙を読み上げましたが,反応は捗捗しくなく,指導者達の結論は,此処で日系人学生の入学を許可する看護婦養成所は無いのではないかと言うものだったと言います.
例えば,書類審査もせずに,日系人と言うだけで断る大学,日系人の入学希望者に10ドルの費用を自己負担させ,身体検査まで受けさせた結果,「入学基準は満たしているが,方針として日系人は受け入れない」と木で鼻を括った様な対応をする大学もあったそうです.
こうした結論にも関わらず,トレイシーは学生達の為に最善を尽そうと決意し,コロラド大学看護婦養成所校長のヘンリエッタ・アダムス・ローランに連絡を取り,自校の学生達の為に勉強を続ける方法を模索しました.
ローランもそれに応え,コロラド州のカー知事の協力を取付け,更にカリフォルニア州とワシントン州の大学看護婦養成所の校長達と協力して,学生達の直接転入を実現させました.
こうして,カリフォルニア州の看護婦養成所の日系人は収容所送りを免れたのです.
尤も,この行動が仇になり,カー知事は次期選挙で上院議員への転身に失敗しましたが,その信念を貫く立派さは,保身だけに汲々としている某国の今の国会議員や県知事達に爪の垢を飲ませてやりたいほどです.
しかも,カー知事はこの事を悔やむ事はありませんでした.
後に,カーはこう発言しています.
「もし私たちが,日系人に対して人間愛や理解を示さなかったら,もし日本人に対して人権宣言による保護を認めなかったら,もし日系人から全米48州での居住権を取り上げ,その違憲行為に対する審理や告訴も行われなかったら,それは私たちが米国の全制度を破壊する事になるのだ」
1942年5月29日,全米日系人学生転住評議会がシカゴで結成されました.
評議会の会員には,各大学の学長や学部長,様々な宗派や信仰の教会指導者,学生YMCAや学生YWCA等が名を連ねました.
運営資金は教会役員や慈善団体からの寄付で賄われました.
そして,1942年末には学校及び日系人学生調査の為の行政手続が滞りなく進められるようになり,多数の学生が再定住センターから各教育機関に転出する環境が整いました.
1943年からはWRA自身もこの問題に関与し始めましたが,此処で最大の障害が資金調達の問題でした.
と言うのも,日系人達の口座は凍結され,財産は没収されていた為です.
また,家族がバラバラになるのを嫌ったり,収容者が気力を失ったりしていて,学生が強制収容所を出る動きは鈍いものでした.
因みに,この年,強制収容所に住む二世の米軍出兵意思確認及び全収容者の出所審査を同時に行う為,WRAは17歳以上の全収容者を対象に,米国に対する忠誠審査を実施します.
これを切っ掛けに,米国に対する忠誠を誓う者と日本に対する忠誠を誓う者に収容者は分断され,複数の強制収容所内で対立や混乱が発生しました.
この審査で米国に忠誠を誓った方を「忠誠組」,誓わなかった方は「不忠誠組」と呼び,後者に属する8,559名はツールレイク強制収容所に集め,1箇所に隔離する政策を採りました.
以後,この強制収容所にいた人々で「忠誠組」の人たちは,大多数を占める「不忠誠組」から村八分にされたり,嫌がらせを受けたりしています.
また,1944年には日本への帰国を希望し,米国国籍放棄申請を行った住民が5,700名に達し,その中でツールレイク強制収容所収容者の割合は95%を占めました.
こうした事も,学生が出ていきにくくなった要因の一つに挙げられています.
しかし,1942年6月にアイゼンハワー局長に代ってWRAの局長に就任したディロン・S・マイヤーは,日系人の出所または再定住を基本政策に定め,就任の月には早くも学生や季節労働者として採用された日系人の試験的出所計画を発表します.
そして,1943年には日系人の全米への拡散と再定住を基本方針とした再定住政策を本格化させる為に,本部をワシントンに移動させ,現地事務所をシカゴ,クリーヴランド,カンザス・シティ,ソルトレイク・シティ,デンバー,ニューヨーク,リトルロックと言った西海岸以外の諸都市に設置して現地への日系人再定住政策を支援し,仕事が見つかった者には旅費と1ヶ月分の生活費を支給して収容所から出所させていきました.
1943〜44年に出所した者の7割は15〜35歳の若年層でした.
1944年に入ると,その若年層が定住し,仕事を得た為に,家族を呼び寄せる様になるという動きが本格化します.
1945年1月に陸軍省が日系人立ち退き命令を撤回し,WRAが年末までの強制収容所閉鎖計画を発表すると再定住の動きは加速し,当時未だ残っていた約8万人が出所していきました.
そして,1946年3月には全収容者のセンター出所が完了した訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/04 21:54
さて,一部の人々の協力の下,日系人学生を再定住させるプログラムは徐々に進んでいきます.
しかし,日系人学生への偏見は未だ未だ強く,受け入れる所は未だ少数でした.
看護婦養成所については特に酷く,例えば,ネブラスカ州リンカーンで開かれた看護婦会議では,複数の看護婦養成所の校長が日系人から入学願書を受け取っていました.
校長達は彼女たちの入学を許可するか否かについて,看護教育学の客員教授に意見を求めましたが,この教授は入学を許可すべきではないという見解を示し,その理由として,日系人看護婦は医師や看護婦を始め,患者達からも信頼されないだろうと述べ,更に,学生達がFBIの調査を受ける可能性がある為,日系人は入学させない方が良いとまで言い切っていました.
この為,1944年の段階でも,ネブラスカ州で日系人学生の入学を許可したのは,州西部にある小さなカトリック系看護婦養成所,セント・ヨセフ看護婦養成所只1校だけで,それも1944年と1945年に各1人と言うものでした.
そんな中,米国の老舗看護雑誌であるAJNの社説では,日系人看護学生の問題について真剣に考える様,読者へ呼びかける記事が掲載されました.
看護婦養成所への入学を拒絶されたり,強制収容所に収容された為に看護課程を修了出来ずにいる日系人学生の問題を取り上げていました.
読者からは,それならば,強制収容所内の病院に看護婦養成所を設立してはどうかという意見が出されましたが,看護教育者からは,収容所内では臨床例が少ない為,学生達に十分な経験と教育を与える事が出来ないと指摘しました.
1943年の同誌の記事に依れば,強制立ち退きを受けて看護課程を中断せざるを得なかった371名の日系人学生のうち,学業を再開して課程を修了出来たのは84名に過ぎないとして,次の様な社説を掲載しています.
――――――
本誌の役割は,読者の目の前に事実を差し出し,この状況に対して慎重且つ,偏見に捕われない,柔軟な検討をする様,看護婦養成所の教職員,病院理事会の会員,市民の代表者諸氏に求める事であり,その結果として,偶々日本人を祖先に持った忠実な米国人女性達の問題を解決に導く事なのである.
――――――
そんな米国ですが,第2次世界大戦で国内は深刻な看護婦不足に陥りました.
これを補う為,1943年春に看護婦訓練所と協会は,病院グループと共同で看護婦訓練法案を起草しました.
1943年3月,オハイオ州選出の下院議員フランシス・ボルトンから,
「軍隊,公立病院,民間病院,保健機関,及び戦場に派遣する看護婦の訓練を実施する」法案
が提出され,同じ様に,上院でも同じ趣旨の法案が提出されましたが,上院の場合は,給付金管理及び割当業務に関して人種,宗教,肌の色を理由に差別をしない事を規定した条項が追加されていました.
上下両院で協議の結果,この法案は両院を全会一致で可決し,6月15日に看護婦訓練法として大統領の署名を経て公布される事になります.
こうして米国看護教練生部隊が結成されました.
教練隊が所属する訓練病院では,教練生達が看護業務の人手不足を補う事により,看護婦不足の緩和が期待されました.
最上級の教練生達は,退役軍人病院や陸軍病院を始め,公衆衛生機関など看護婦が不足している施設で働く機会が与えられ,又,入隊後9ヶ月間は,教練生の生活費,授業料,入学金は連邦政府が負担する事になっていました.
こうした財源を基に,各養成所は入学者数を増やしたり,出費の増加に対応したりした訳です.
看護教練生部隊への入隊は若い女性に限られましたが,教練隊計画に参加している養成所の入学要件を満たす事が条件でした.
入隊した教練生には,毎月の費用に相当する額と個人への手当金が支給され,教練背一は此等給付金とお引き換えに誓約書に署名し,戦争終結まで陸軍病院や民間病院の看護要員として奉仕する事を誓いました.
つまり,看護教練生部隊に入隊した二世女性については,強制収容所からの解放と共に生活費と教育を受ける機会を同時に手に入れる事になった訳です.
しかし白人は兎も角,有色人種,日系人や黒人にとってその壁は未だ未だ高いものでした.
フィラデルフィアの米国フレンド派奉仕委員会は,日系人の再定住に関する協議会を支援し,再定住問題の解決と教育の続行の為に努力を続け,協議会では,日系人に関する悪い噂を払拭しようと努め,米国に忠誠を示す日系人学生達が優秀である事を大学当局に訴え続けました.
例えば,諮問委員会の役員,ウォルター・ゴッドフレイは,看護教練生部隊の存在を知り,米国公衆衛生局の衛生監局長であるトマス・パレン博士に次の様な質問を8月19日に送っています.
――――――
次の様な指摘があります.
黒人や日系の米国人には,その様な奨学金(看護教練部隊の事を指す)を受けられないと言う事です.
この問題について,明快に応えて頂けませんか?
WAAC(女子陸軍補助部隊)等の組織には,黒人や日系人の入隊を制限する規定が無いにも関わらず,看護教練生部隊にこの様な制限がある事は,私には納得出来ません.
――――――
パレン博士は,この問題の回答を看護教練生部隊隊長のルシール・ペトリーに依頼しました.
ペトリーは,第78回連邦議会を通過した公法74の写しをゴッドフレイに送付して,冒頭の一節に注意を促しました.
そこには,「給付金管理及び割当業務に関して差別してはならない」と言う一節が書かれていました.
つまりこの条項こそ,日系人女性に対し,制服を着て働き,教育を続け,米国への忠誠心を示す機会を保障する法律の根幹だった訳です.
シカゴ収容者諮問委員会委員長のロランド・スロエーブは,看護教練生部隊が日系人の受入を認めた事を知り,直ちに各看護婦養成所にこの知らせを伝えました.
この頃には,養成所当局も日系人学生の真面目さ,患者や学業に対する熱心さ,米国への忠誠心を認め始めていました.
養成所当局も,文書でこう述べています.
「米国の民主主義を守る為の戦争においては,人種差別と解釈される行為に対して,強い圧力を掛けなければならない」
かくして,日系人学生たちが看護教練生部隊という場所を得て,社会に旅立っていく事が出来たのです.
それには無数の人々の有形無形の支援のお陰がありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/05 22:33
さて,1944年初夏,フィラデルフィアの米フレンド派奉仕委員会が管理する学生定住委員会では,1つの心配事を抱えていました.
学生達を送り出したのは良いのですが,彼らが上手く周辺の人たちとやって行けているのか,逆に,上手くやって行けなければ,強制収容所に収容されていた一世を中心とする残存者に,「そら見た事か」と言われ,この活動が頓挫しかねない可能性がありました.
そこで,大学生達は学生定住委員会の呼びかけに応じて,それぞれの収容所に戻って,ハイスクールの卒業生達と面会する事にしました.
帰京した大学生達は,いずれも,自分達が収容所の外で上手くやっている事を説明し,住民達の不安もそれで解消されたのです.
また,日系人の存在は,彼らが所属した社会での変革も齎しました.
例えば,フィラデルフィアの米国聖公会病院の看護婦養成所に来た日系人学生と白人学生は,当初,全く交流がありませんでした.
しかし,やがて学業を通じて日系人と白人との交流が始まり,日系人の持つ異文化を通じて,白人達も異文化への寛容の精神を学んでいきました.
因みに,この米国聖公会病院の看護婦養成所は南北戦争時代に作られた名門でしたが,その所長であったドラ・マチスは当時にしては進歩的な考えの持ち主でした.
前任者達が大卒だったのに対し,ドラは修士号を持っていたのも影響したのかも知れませんが,養成所の古い規則を次々に改革していきました.
例えば,看護学生は黒ストッキングと黒い靴を履かなければなりませんでしたが,それを止めたのもドラでした.
看護学生達にとって,この服装は一目で「看護学生」と分るもので,この格好の為,彼女たちは「新米さん」とからかわれていたからで,この改革は,看護学生達にとっては大いなる福音だったりします.
当然,こうした進歩的考えの持ち主だったことから,戦争初期に東海岸の諸州に於いて日系人看護学生の受入を行った2つの学校のうちの1つが,この米国聖公会病院看護婦養成所だったとしても驚くに値しません.
その後,看護婦不足により,日系人にも看護教練生部隊への門戸が開かれましたが,軍隊とは違い,米国全土で60以上の病院や地域共同体では,殆ど差別を受けることなく,350名の日系人が看護婦になる訓練を受ける事が出来ました.
それも,今まではミシシッピー川より東に住む米国人達は,日系人など見た事もなかった訳で,日系人の居住地域の拡大という意味でも革命的な出来事でした.
例えば,米国でも有名なメイヨー・クリニックと提携する,ミネソタ州ロチェスターのセント・メアリー病院看護婦養成所には42名という多数の日系人看護学生が在籍していました.
これは他の看護婦養成所よりも数が多かったりします.
因みに,看護教練生達は,卒業後,従軍看護婦として勤務する事を要請されていました.
従って,実地訓練で陸軍病院に派遣される事もあります.
そんな時,彼女たちは,若くして士官候補生と見做され,士官宿舎を宛がわれ,行進訓練など軍隊の日常訓練も課せられていました.
また,下士官や兵達とデートしてもいけないと言う規定もありました.
よって,男性の知り合いで,二世部隊などに勤務し,それが下士官や兵卒だったりしたら,先ず,軍規に従って最先任の大尉に申告し,許可を得た上で,制服を脱いで平服を着用する必要がありました.
大凡,看護教練生の訓練プログラムは2〜3年掛けて一人前の登録正看護婦に育て上げる事を目標としていました.
つまり,1943年に開始されたプログラムでは遂に戦争に間に合わなかった訳です.
看護教練生部隊への補充は,トルーマン大統領から軍医総監への命令により,1945年10月5日以降の教練生部隊への入学は停止されました.
とは言うものの,看護教練生は既に1,000を越す民間病院で働く看護婦の凡そ80%を占めていました.
この為,これを解散するのは混乱を招くと言う事が分り,部隊に所属している女性達は訓練を修了するまで留まる事が出来ました.
こうして,日系人看護教練生は,1945年後半から1946年に掛けて続々と登録正看護婦になっていき,彼女たちは看護を通じて米国社会に貢献していきます.
その中には,学士号を得た人もいましたし,優秀な成績で卒業賞を貰った人も居ました.
因みに,学士号を得るのは,全看護学生のうち,ほんの僅か5%弱でした.
その後,一部の看護教練生は,実家に帰って一家の再起の手伝いをした人もいましたし,平和になった為に新たに勉学の道に進んだ人も居ましたが,大多数の日系人看護教練生は,軍の病院で勤務する事を選びました.
その中には,日系人初の海軍士官になった人もいますし,陸軍看護部隊で大佐に上り詰めた人も居ます.
その一人,スー・クマガイと言う二世は,コロラド州アーカンソー渓谷に生まれ,19歳でカリフォルニアで働きに出て,ワイオミング州で家政婦の仕事に就きました.
その後,雇い主の転居でコロラド州デンバーに移り,家政婦をしながら看護婦養成所に通う事になりましたが,途中で太平洋戦争勃発,幸い,FBIの嫌がらせを受けた位で,コロラドでは収容所に入れられる事は無く,3年次になって看護教練生部隊に入隊しました.
時に,看護教練生部隊には人種差別は殆ど無いと言われていますが,入学時,彼女には制服が与えられず,白人看護教練生だけに与えられたと言います.
そんな仕打ちに耐え,1944年5月コロラド看護婦養成所の卒業証書を受けて登録正看護婦になりますが,正看護婦は徴兵される可能性があるという噂があって,米国陸軍看護部隊に入隊しました.
マサチューセッツ州フォート・デボンズで基礎訓練を終えると少尉に任官し,メイン州のキャンプ・エドワードに派遣され,傷痍軍人の受入作業を行っていました.
そこで13ヶ月服務した時に終戦となり,一旦予備役編入となりますが,復員兵援護法の適用を受けてコロラド大学看護婦養成所で精神科看護の勉強を続けて,学士号を取得します.
そして,1950年に民間人としてABCC(原爆傷害委員会)に志願し,広島近郊のキャンプ・クリハナの現地支局本部で症例研究を行う傍ら,日本人看護婦の為の教育テキストを整えて,原爆病院の看護婦教育も行いました.
1952年になると,朝鮮戦争の激化に伴い,予備役から再び召集され,再度日本に派遣されて,警察予備隊看護部隊の設立に参画し,最初の看護部隊隊員教育を行う事になりました.
彼女は,親が話していた東北なまりのある日本語と英語を操りながら,56名の警察予備隊の看護員に6週間コースの米軍仕込みの看護基礎教育を実施しました.
そして,彼女たちの地位向上の為,米国同様に士官の階級を与える様,当局側と交渉したりもしています.
流石に,頭の固い警察予備隊上層部との交渉の結果は,正看護婦達に米国陸軍の一等軍曹に相当する階級を与え,看護婦長に少尉の階級を与えるのが精一杯だったそうです.
朝鮮戦争終了後は,ドイツのシュツットガルト第4野戦病院看護部長に就任し,ブーツを履いて雑役も厭わず働き,ベトナム戦争が勃発すると,今度はサイゴンの外科病院病棟で看護婦長補佐として働きました.
1970年にベトナムから戻ってコロラドのフィッツシモンズ陸軍病院で陸軍看護婦としての任務を果たし,1973年に大佐で退役したそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/06 22:55
【質問】
アメリカの日系人は,財産全部没収されたんですよね?
【回答】
これは,不動産に限って言えば,
「急いで資産処分を迫られたために足元を見られ,二束三文で買いたたかれた」
が正しいと思います.
ただ,極一部の幸運なケースとして,近隣の白人社会と融和が進んでいた日系人は,当時の地価に見合った額に近い価格で売却することができたり,賃貸として家を貸しだし,収容生活後に元の家に戻れた人もいたそうです.
で,戦後,アメリカの日系人社会は現地への融和に努力を傾注することなります.
ちなみに南米の日系人の場合も,同様に収容所に送られています(なんとアメリカの収容所に).
その際,財産のほとんどが没収され,その多くがどうなったか解っていません.
どうもその多くが,収容にあたった役人や警官のポケットに入ったらしい.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【珍説】
米帝は日系人の殲滅を図るべく,収容所に閉じ込めた.
【事実】
誤り.大戦中に日系人の人口は増えてたりする.
日系人収容所での食糧事情もかなり良かった(少なくとも同時期の日本本土と比べれば).
米政府が日系人の市民としての権利を奪い,資産を引っ剥がした,という批判のほうが妥当だし,後に米政府から公的な謝罪が行われている.
なお,イタリア移民も収容所に入れられたことが,近年明らかになっている.
「ヒストリー・チャンネル」内「History's
Mysteries」および米下院議会決議2442号を参照の事.
【質問】
創氏改名では,どんな苗字に改められたのか?
【回答】
今回の稿を纏めるに当り,結構古い資料を用いています.
それこそ,30年くらい前のもの.
ちょっと裏取り出来ていなかったりしますので,最新の研究ではこれが否定されているかも知れない可能性が高かったりしますので,話半分でどぞ〜.
さて,中国・朝鮮では氏名のことは一般に「姓名」と呼んでいます.
姓は単に血筋を表すものであって,一つの祖から生まれた単系的血縁集団に属する成員であれば,身分の貴賤に関わりなく誰でも用いたものです.
古代中国での漢民族の代表的な姓とされるのは姜・姫・?(女偏に以)・?(女偏に爲)・?(女偏に咼)・姚など,何れも女を表す字を含んでいるものが多かったりしますが,これは母系制であった事を示すものとされ,その姓の呼び名には,始祖が採集・農耕生活を営んでいた黄土地域を流れる河川名に因んだものが多いとされています.
氏は父系制社会に於て姓から分かれ出た範囲の小さい血縁集団の名称で,社会的見身分の貴賤を区別する役割を持ち,多くの族の指導的地位にある有力者のみが家柄を表すものとして氏を称していたと言います.
氏の呼び名は,殷・周時代では天子から与えられたり,又は爵・官職或いは封邑などに因んで名付ける事が多かった様です.
春秋時代になると,天子及び諸侯の次男・三男が分かれ出た場合,それぞれ王子・公子を名乗り,その子は王孫・公孫・長孫・仲孫・季孫等を称しますが,3代目の曾孫になると,祖父である王子・公子の字を以て氏の呼び名としたので,此の時代に氏の数が急激に増えました.
戦国時代以降は,漢民族に同化した異民族,敵を避ける場合,官刑を恐れての亡命者達が新たに氏の呼び名を作る僅かな例外を除き,ほぼ固定化していきます.
これは氏族制度の強化と,家父長権威の増大が,祖先の祭祀を絶やさずに続けていく事を子孫の重大な責務とした為,先祖から継承した姓氏を尊び,その変更を極度に忌み嫌う風潮を創り出した結果に依るものとされています.
史書では,紀元1〜2世紀には一般庶民の間にも普遍的に姓氏の使用が為されている事が書かれて居ます.
こうして,最初は姓と氏が分かれていたのですが,社会構造が母系制から父系制に移り,血縁社会が地縁社会に移行するに従って,戦国時代の末期には姓と氏は両者全く同一視されることになっていきます.
以後は姓は専ら家姓を意味する言葉として用いられるようになり,女子が姓を名乗る場合は,姓の後に父系を表す「氏」を書き添える事になりました.
朝鮮では,中国からの亡命者や移民,朝貢による支配機構の文武官人の来住に伴い,家族の呼び名として紀元前3〜2世紀に姓氏の使用が知られるようになったと言われます.
紀元前後には慶州地方に朴,昔,金などの氏族連合が種族を構成していたとされていますが,現代と同じ姓が朝鮮史に現れだしたのは,紀元6〜7世紀の事です.
8世紀の統一新羅王朝の中葉から政治的・社会的上位にある官人グループが唐文化の摂取に伴い,唐人に倣って姓を用い始め,10世紀の高麗王朝初期には,一般庶民に当る常民や賤民に対しても創姓使用を奨励したと伝えられています.
中国の家姓の数は古書に記載されたものを整理すると3,700余種あるとされ,14世紀明朝初期の学者呉沈が,このうち代表的なものを選び,1,968姓を数えたと言われています.
近年になると,例えば,1970年頃だと,漢民族の姓としては,506姓(1字姓が約90%,2字姓が残り約10%)が記されているに過ぎません.
朝鮮の場合は,唐人の姓をそのまま用いたりしていますので,その数は古くは496姓あったと言われます.
しかし,18世紀中葉の李氏朝鮮英祖の頃の調べでは298姓となり,1956年版韓国「国会年鑑」では,296姓あるとされていました.
1960年12月1日付韓国経済企画調査局の韓国人姓別人口調査の結果でも248姓であり,1930年10月1日の朝鮮総督府による国勢調査の250姓とほぼ同数となります.
但し,英祖の調べから朝鮮総督府調査の200年の間に,106姓が消え,新たに58姓が増えています.
また,1930年と1960年の調査では数的には大差がないにも拘わらず,前回在ったもので30年後に確認出来なかった姓が12,新発見になった姓が10あって,消長は意外に激しい事が判ります.
朝鮮では金・李・朴・崔・鄭・尹を六大姓と称しています.
実態はと言うと,1960年の韓国の全人口比から見て100万人以上の姓は5つあります.
「金」544万人(21.8%),「李」371万人(14.8%),「朴」211万人(8.5%),「崔」119万人(4.8%),「鄭」109万人(4.3%)これだけで全人口の半数を超えます.
100万人以下50万人以上の姓は4つで総人口比8.7%.
「姜」59万人,「趙」55万人,「尹」52万人,「張」51万人.
以下,50万人以下10万人以上の姓は26姓(26.8%),10万人以下1万人以上の姓が54姓(9.5%)となっており,総人口の99%はこれら89種の姓を名乗る人々であり,残り1%,約27万人余が159種の姓を名乗っています.
人口1万人以下,1,000人以下,100人以下の姓がそれぞれ50余姓あって,1姓に1人,つまり韓国全土でこの人だけ使っていると言うのも,「磧」・「刑」の2姓あります.
1960年代当時,日本の外国人登録に記載のある中国姓(蒙古姓を含む)は475種であって,代表的な姓の数をほぼ網羅していると言えます.
また,韓国・朝鮮姓は,中国と共通の146姓を含み312種あります.
因みに,同時期の英米系外国人登録の姓は,Smithが最も多く,5万種類の姓があります.
日本の姓は,1898年7月16日戸籍法施行により創姓を中断するまで,古来からのものを含め約10万種と言われ,全て漢字姓で,1字姓4%,2字姓85%,3字姓10%,4字姓や5字姓が約200種とされています.
後,1960年代当時,外国人登録の記載に日本姓と言う分類もありました.
これが283種あります.
これは,1939年,戦時下の時局に対応し,民族融合政策の一環として朝鮮民事令を改正して朝鮮古来の姓名を日本流の姓名に改めさせた制度を作った後の所産です.
所謂,「創氏改名」と言われるものですが,日本の敗戦と朝鮮の独立復活と共に,1946年10月23日,姓氏復旧令が発せられ,大部分が元の朝鮮姓に復帰しますが,日本社会で引き続き生活する利便上から一部ではこれを通称名として依然併用しているものです.
このうち「金」を頭に付けた複字姓だけで,約30種あり,外国人登録の記載にある日本姓と言うのは,この複字姓の第1字目を分類したものです.
この通称名の創出は5つのパターンに分かれます.
1つ目は,朝鮮姓の上または下に1字を加えて複字姓にしたもので,例えば「田」に1字加えて「福田」,「辺」に1字加えて「渡辺」,「柳」に1字を加えて「一柳」,林に1字加えて「大林」「小林」,「金」に1字加えて「金本」「金光」など,「権」に1字を加えて「権藤」,「張」に1字で「張本」,「李」に1字で「李家」,「高」に1字で「高島」,「呉」に1字で「呉松」,「崔」に1字で「崔山」,「梁」に1字で「梁川」などがあります.
2つ目は,本貫若しくは出身の邑・面・里(日本の町・村・字)の名称の全部または1字を取入れたもので,例えば,「李」なら「光山」,「金」なら「金海」,「鄭」なら「河東」,「姜」なら「神農」,「任」なら「豊川」,「曹」なら「夏山」,「沈」なら「青松」,「申」なら「平山」,「星州李氏」なら「星山」,「清州漢氏」なら「清原」,「坡平尹氏」なら「平沼」等があります.
3つ目は先祖の由緒縁起に依るもので,密陽朴氏の場合は,「新羅王が蘿井の辺から発祥した」故事に基づき,「新井」,「三井」,「井上」などの姓を名乗っていますし,全州(完山)李氏の場合は,「李王を出している,国や王宮の本である」として,「国本」,「宮本」などの姓を名乗っています.
4つ目が朝鮮姓の扁やつくりを分解,除去して用いたもの,又は,朝鮮姓に扁,つくり,冠などを加えて用いたもので,例えば,「朴」からは「木村」「木下」,「崔」なら「山住」「佳山」,「張」なら「弓長」,「黄」なら「共田」や「横山」,「尹」なら「伊藤」,「申」なら「中一」,「鞠」なら「菊川」,「慎」なら「真田」,「呂」なら「宮田」,「金」なら「鈴木」などがあります.
5つ目は,最もシンプルで,朝鮮姓そのものを日本音に読み替えただけのもので,「林」なら「はやし」,「森」なら「もり」,「牧」なら「まき」,「原」なら「はら」,「秋」なら「あき」,「柳」なら「やなぎ」,「中」なら「あたる」とか「なか」,「南」は「みなみ」,「平」は「たいら」,「呉」なら「くれ」,「都」なら「みやこ」,「城」なら「じょう」とか「しろ」,「田」なら「でん」,「新」なら「あらた」とか「しん」,「南宮」なら「なんぐう」とか….
あ,誰ですか?
木下藤吉郎は,朝鮮人ニダなんて言ってるのは?
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/21 21:53
【質問】
太平洋戦争の時,日本はインドネシアを直轄領としようとしていた,と聞いていたのですが,どうなんでしょうか?
【回答】
「海上護衛戦」文庫版P84以降(第二章6)にこんな記述が.
以下抜粋.大意だけ
------------
(昭和十七年春,海軍省にて)
太平洋協会・西方氏(以下西方)「新占領地に日本名付けるから参加して下さい」
大井篤氏(以下大井)「過早ではないか.昭南なんてピンとこない.支那は同じ名前では?」
西方「全部変えるわけではなく,講和時に当然日本領になるところだけ研究.支那は友邦だから無し」
大井「シンガポールでいいじゃないか.日本軍がこれ以上進むのが心配だ」
西方「ハワイや豪州まで占領するそうじゃないですか.西太平洋全域を豪亜地中海にする案も既に」
(以下大井氏の攻勢限界点主張論)
------------
これを見る限り,シンガポールを日本領としようとしていた可能性は極めて高いと言っていいのでは?
軍事板,2005/07/12(火)
青文字:加筆改修部分
また,1941年11月20日の第70回大本営政府連絡会議に於いて,「南方占領地行政実施要領」を決定しています.
この時に,陸海軍の軍政主担任地域を決定しています.
陸軍は,香港,フィリピン,マレー,スマトラ,英領ボルネオ,ビルマを,
海軍はオランダ領ボルネオ,セレベス,モルッカ群島,小スンダ列島,ニューギニア, ビスマルク諸島,グァム島を担当しました.
その後,1943年1月14日に開かれた第128回大本営政府連絡会議で,ビルマ,フィリピンの独立,マレー,ジャワ,スマトラ,ボルネオ,セレベスの日本領土編入を決めましたが,実際には領土主権を変更するのであれば,講和後に編入しないと国際法上違法となる懸念が生じ,領土編入は行われていません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/12(火)
青文字:加筆改修部分
まあ当時の日本が目指してたのは,他の列強から植民地を奪取して,英国式の傀儡国家樹立&特に重要な場所を直轄領化だったろうから,東南亜細亜の中心であるシンガポール,石油の出るインドネシアは直接統治しようと思っててもおかしくはないわな.
学校とか作って日本語を教えてたのはジャワだよね?
軍事板,2005/07/12(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「南洋学院」とは?
【回答】
1942年,時の国策(南進)に拠って,日本外務省の管轄下,サイゴンにできた高等専門学校.
学生は,日本本土はもとより,台湾,満州含む全国から選抜された.
教科は「安南語=ベトナム語」「フランス語」「仏印経済」「熱帯衛生学」などなど.
校風は非常にリベラルな雰囲気が満ちており,大戦の原因を日本を含む「ブロック経済」にあるとする教授がいたり,
「私はクリスチャンだからこの戦争に反対する」
という生徒.また,
「この戦争は負ける.アメリカと戦って勝てるはずがない」
と言って憚らない生徒もいたという.
勿論,彼らはなんの咎めも受けていない.
敗戦後,ベトナムに残ろうと決心した学生も多かったが,残留生徒の中には,行方不明になった者も数多くいるという.
詳しくは,メールマガジン≪ WEB 熱線 第1138号
2009/02/16_Mon―アジアの街角から―≫を参照されたし.
ただし,同メール・マガジンの内容は玉石混交につき注意.
【質問】
南方占領地域における日本軍の対イスラーム政策は,どのようなものだったのか?
【回答】
太平洋戦争の開戦により,陸軍は破竹の勢いで蘭印,マラヤを占領しました.
その後,現地は軍政下に置かれますが,英領マラヤとシンガポールは蘭印のスマトラ島と共に陸軍第25軍の配下に置かれます.
一方,同じ英領でもボルネオにあるサラワクやサバ,ブルネイは陸軍ボルネオ守備隊の軍政下に置かれました.
第25軍司令部は昭南と名を変えたシンガポールに置かれました.
そして,占領行政を司る機関として,昭南軍政監部が置かれます.
この枠組みは,1943年5月に変り,第25軍司令部はスマトラ島のブキッティンギに移動し,第25軍の軍政はスマトラ軍政監部の下,スマトラ島のみに及ぶだけとなります.
変って,マラヤ,シンガポールを支配したのはシンガポールに移駐した第29軍で,この下で,馬来軍政監部が設置されました.
なお,この馬来軍政監部は後にペラ州クアラカンサルに移動しました.
スマトラには当時770万人の人口を持ち,その8割がムスリム,マラヤ・シンガポールには550万人の人口を持ち,そのうち235万人がムスリムとされていました.
つまり,宗教政策が非常に重要になります.
日本には占領地行政と言えば,中国での占領地行政の経験がありますが,この時は,日本式道徳の強制などの皇民化政策に拘り,これが中国人達の反発を買い,結果的に泥沼のパルチザン戦に突入した苦い経験となっており,太平洋戦争で新たに占領した地域については,特に宗教は不干渉政策をある程度の時期まで貫いています.
軍政期,これらの地域に対しては,日本の専門機関が調査研究を委託され,現地事情把握の為に様々な研究を行っていました.
シンガポールへは1942年以来東京商科大学の教員が,マラヤやスマトラには満鉄調査部の研究員が派遣されていました.
また,シンガポールでは,満鉄調査部民族班がイスラーム問題を担当しています.
この調査結果のうち,最大のものは1943年4月に纏められた,「「マライ」及「スマトラ」ノ宗教」と題する173ページに上る膨大な調査報告であり,1944年7月には,「軍政下ニ於ケル宗教政策ノ経過」と題する39ページの報告が,また,同月には他に,「土侯関係宗教行政参考資料」と言う資料が出され,これには各州に於けるイスラーム行政関係の法律,規程,任命状をジャウィ(マレー語のアラビア語表記)から英語に翻訳し,更に日本語に翻訳したものが掲載されています.
こうした研究成果は,占領政策にも影響を及ぼし,当初はおっかなびっくり行っていた占領政策が,より積極的な動員政策に転回する切っ掛けともなりました.
特にマライに於けるスルタンの扱いが変っていきます.
英国による征服前には,マレー半島にはジョホール,ヌグリ・スンビラン,セランゴール,パハン,ペラ,トレンガヌ,ケダー,クランタン,ペルリスと言う9つの土侯国がありました.
英国の征服でも,この機構は其の儘残され,スルタンは宗教的事項を取り仕切る事についての絶対的権限を有していました.
日本の占領下では,土侯国は「州」となり,日本人の州長官が任命されましたが,スルタンについては引き続き慣習や宗教上の長として認められ,そのスルタンの下,イスラーム問題を司る宗教役人の組織が可成り整備された形で存在していました.
ジョホールの場合,最上級職に宗務長官が置かれ,その下に2本柱であるKahdi
Besar(州の最高位のカーディー)とMukti Besar(州の最高位のムクティ)が置かれています.
ムクティは,日本語では宗教法律顧問官と訳され,様々なファトワを出すのが主任務でした.
即ち,新たな事態や論叢に接して,イスラーム法に照らして判断を下す役割です.
カーディーは宗教裁判官と訳されていますが,婚姻,離婚,復縁を司ると共に,シャーリア違反を取締り,それに対する罰金や刑を科すのが主な役割です.
また,州の下の郡にも1名のカーディーがおり,その事務所にはナイブ,複数の事務官(クラニ)がおり,更にその管轄下にビラール,モスクの説教師であるイマームがいると言うピラミッド構造でした.
これらの職務は全て州中央の宗務事務所から任命され,日々の業務報告を上級事務所に提出すると共に,その職務に対しては一定額の給与が支払われています.
その給与の原資は,婚姻や裁判の手数料や罰金を直接得るのではなく,一旦,州の宗務事務所に上納し,自分たちは改めて一定額の供与を支給されていると言う形式をとっている官吏であった訳です.
こうした機構は,ジョホールだけではなく,各州でもほぼ同じように踏襲されていました.
とは言え,日本軍は彼等が行う宗教政策については不干渉を守っていましたが,それ以外のidentityに関する諸政策については無頓着で,日の丸掲揚,君が代唱和,皇居への敬礼は宗教役人に対しても強要していましたし,毎月8日には開戦の詔勅をマレー語に訳したものを読まされたりしています.
ところで,こうした占領期の資料ですが,大抵は日本軍の敗戦時に焼却処分となっています.
しかし,マレーに関しては馬来軍政監部の軍政顧問をしていた徳川義親侯爵が,1944年8月に任務終了後に帰国する際,多数の資料を持ち帰って,それを秘蔵していた為に,焼却を免れました.
これらの資料は,占領軍に接収され,米国に持ち帰られますが,その後,日本に返還され,防衛省防衛研究所戦史部に「徳川資料」として保存され,研究者が利用できるものとなっているそうです.
右派革命のパトロンやら,左翼活動家の梁山泊やら色々波瀾万丈の人生を送った人ではありますが,資料の散逸を防いだ事一つとっても,並の人間では出来ない人なのかも.
流石に,血は争えないという事でしょうかね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/26 22:50
【質問】
ビルマ作戦により雲南方面の援蒋ルートは戦争のほぼ全期間において遮断されました.
(ビルマルート切断は1942年5月,レド公路の打通は1945年1月)
代替のヒマラヤ空輸ルート(ハンプ越え)は,月間約1万トン程度の輸送能力.
また,対米開戦の時点で中国の生産能力は約80%喪失していたとも聞きます.
それにもかかわらず,国民党政府は継戦能力を維持できました.
疑問点は,ハンプ越え以外にも有力な援蒋ルートがあったのか?(ソ連→蘭州方面等)
・重慶まで後退した国民党政府にとっては,上記程度の補給能力でも充分であった.
・.ビルマルート切断までに,国民党政府はある程度の援助物資の備蓄に成功した.
・.「援蒋ルート切断による国民党政府の屈服」自体が,陸軍が抱いた幻想だった.
等を考えましたが,実態はどうだったのでしょうか?
【回答】
太平洋戦争勃発後は米国は大手を振って,ソ連や蒋介石軍を援助出来ました.
よって,ソ連経由蘭州を経て物資が蒋介石軍の元に流れ込むことになりました.
また,武昌陥落を見越して,支配地域の工場の機械類を奥地に運び込み,そこで工場を稼働させたりしています.
1940年頃には既にトラックや武器,弾薬の生産が開始され,1942年以降は航空機の開発すら行っていました.
とは言え,潤沢にこれらの物資があった訳ではなく,蘭州経由の補給については,ソ連が屡々これを流用するので,蒋介石がソ連側に抗議をしているケースもあります.
また,物資に関しては結構逼迫した状況で,スティルウェルとシェンノートとの物資を巡る主導権争いが勃発していたりします.
また,蒋介石のドクトリンとしては,日本軍を出来るだけ奥地に引き込み,補給を絶った状況にしておき,連合国有利な状態で最終決戦が行われるまで,徹底して自軍と日本軍との交戦を避けるよう命じています.
後,封鎖と言っても,中国の国土は些か広う御座んす故,点しか抑えていない日本軍の守備隊に対し,中国側の封鎖突破は極めて容易で,特に,太平洋戦争勃発前には,香港と言う外国領土が中国本土にありましたので,米国からやってきた物資は,まず香港に陸揚げされ,其処から封鎖突破のジャンク船などで本土に運んだり,香港で南方方面の貨物船に積み替えられて,公海上で物資を別の便船に乗せ替えると言うこともしています.
真に物資が逼迫しだしたのが,ビルマルートと,香港ルートを抑えられたから,と言うのがあったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006/10/17(火)
【質問】
太平洋戦争のとき,抗日運動に参加した華僑の忠誠心は,中国のほうに向けられていたのですか?
それとも,その華僑の住んでいる地域に向けられていたのですか?
言い換えれば,彼らは中国のために戦ったのですか? それとも住んでいる地域のために戦ったのですか?
シンガポールでの虐殺の話を聞くと,中国のために戦っていたかのように見えるんですけど.
【回答】
どちらでもない.
華僑の帰属意識は自分の属するコミュニティに向いている.
それは国のようなマクロなものじゃなく,血族や同郷者のような比較的ミクロなものだ.
これは質問の後者のようにもとれるのだが,土地ではなく土地に関わるコミュニティという点で異なっている.
シンガポールなんかも,中国や出身地が侵略された故の抵抗じゃなく,自らのコミュニティが侵された故の抵抗なのよ.
中国が侵略され云々は論拠の補強程度の意味しかないの.
軍事板
日本軍側に味方する中国の軍閥もいましたからね.
写真がたぶんその人達.
遠吠えするいぬ in mixi支隊
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
マレーでもシンガポールでもフィリピンでもインドネシアでも,中国系移民・華僑は自分の利益だけのために白人と組み,抗日ゲリラをやっていた「名誉西洋人」だった.
小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.248
【ツッコミ】
上述のように,「利益」という言い方は微妙に異なっていますね.
ところで,コミュニティのために戦うのは,小林言うところの「公」じゃないんですかね?
……って,「初めに結論ありき」の人間には,論理的整合性を求めるだけ無駄か…….
【質問】
米豪連絡線遮断に意味なんてありますかね?
オーストラリアに日本を攻略できるほどの軍事力は無いし,かえってこちらの戦力を消耗するだけで,連合国側がどんどん有利になっていくだけかと.
大日本帝國程度の生産力と軍事力の國が,超大国アメリカと戦う場合には,遠方まで勢力を広げずに,本土と本土周辺の重要拠点だけを確保して,相手と講和するまで粘る方が現実的なのでは?
【回答】
オーストラリアは当時自給自足ができず,輸入物資の殆どをアメリカに依存してたからな.
米豪遮断は遮断ラインのこっちにいるアメリカ軍のみならず,国家としてのオーストラリアまで兵糧攻めにするプランなのよ.
遮断に成功すれば,早晩世論に突き上げられたオーストラリアは手を挙げる.
手を挙げて軍門に降ってくれれば言う事無し.
中立に戻るだけでも,連合国が一枚岩でない事のアピールになるし,アメリカ軍の侵攻経路の選択肢から南太平洋が除外される.
アメリカ軍としても,イギリスの手前,オーストラリア侵攻する訳にもいかんからな.
つー訳で,米豪遮断てのは旨くいけば実に有意義な作戦なのよ.
【質問】
旧日本軍はマダガスカルの攻略を考えていた…って書いてあったんですけど,マジですか?
マダガスカルって,あのアフリカ東部にある巨大な島のことですよね?
いったい日本はどこまで戦線を広げようとしたんですか?
【回答】
マダカスカル攻略…っつーか,当時のマダカスカルは枢軸側.
(もともとフランスの植民地だったのが,ヴィシー・フランス政権誕生時にそのまま下に入った)
そして,ここを拠点に通商破壊をやられると,インドの連合軍が干上がりかねない状況だったので,連合軍がマダカスカル攻略戦を開始.
ヴィシーフランス軍(大半はマダカスカル総督によって編成された現地住民)が予想以上の善戦をし,日本もこれを支援するために潜水艦を派遣.
連合軍の戦艦を一隻大破,タンカーを一隻撃沈という戦果をあげたが,いかんせんそれ以上の支援は不可能で,ジリ貧になったマダカスカル軍は敗北しましたとさ.
つまり,日本が攻略するというよりは,ヴィシー政権にマダカスカルを保持してもらうために,そこまで進出せざるを得なかったということ.
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
米兵は日本人を動物扱いした.
(以下延々と,「実例」を挙げる)
小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.
【ツッコミ】
「そう言った事実もあった」事は確かだ.
ソースの光人社刊「アメリカ海兵隊よもやま物語」を探して読め.
良いヤンキーも悪いヤンキーもいたことが分かるぞ.
自分の勉強不足を棚に上げて,限られた知識と偏見でモノを言うな.
ネイティブにやって来た事やドイツ軍捕虜にやってきた事を考えれば,アメリカ人はハートマン流の「クソ共を平等に差別しない」だけの事じゃないか.
人種差別は悪?
だから何だ.あの時代はソレが当たり前だったんだ.
ソレを指弾するというなら,それこそアンタ達が嫌う「現代の価値観で,過去の事象を批判する」事じゃないのか?
異文化・異文明・異人種・異民族等に対する無理解と不寛容が生んだ悲劇なんて歴史上にゴロゴロ転がっている.
自分がソレを受けたらなら怒ればいい.
未だそんな事をしているヤツがいれば,その後進性を指弾すればいい.
そうでもなく過去の事象を選り好みして掘り返し,ソレを「他山の石」とするでもなく,恨だの怨だのと腹の足しにもナラン物に情熱を注ぎ,赤の他人たる当事者の子孫達にソレをぶつけるアホウの意見に同調する気は無い.
最高の復讐は,仇敵より幸せな人生を送り,仇敵の悔し涙を美酒とする事だ.
仇敵の血を飲んだところで,余計に喉が渇く事を知って欲しいもんだ.
一部の兵士や部隊の不逞な行為を取り上げて,全軍,ひいてはその国家国民を悪と決め付ける奴が多い.
反米厨もそうだし,反日厨,反韓厨も同様.
あと,軍の残虐行為で思い出したが,この種の議論でよく聞かれるのが
「お前らの軍隊も残虐なことやってるだろ」
っていう相殺論.
で,それに対する反論が
「他の軍隊がなにやってようと,お前らの軍隊が残虐な行為をしたんだから,それについて謝り続けるべき」
という謝罪論.
この二つの論に共通なのは,
「債務を弁済するように,残虐行為という過去を相殺や謝罪によって処理する」
ということ.
過去の事実なんて,債務と違って消えるはずがないのは自明の理で,相殺したり謝り続けたところで不満を解消する以上の効果を持たないわけだ.
この種の本質である事実というものに関する認識を根本的に誤っているのだから,論争が,エバケン曰く「不毛」なものになることは疑いの余地がない.
ところで小林よしのりは,日米不機嫌史を掘り起こす割には,昨今の中国における対日レイシズム的な暴動には目を瞑るんだよね.
何故?
634:名無し三等兵:2005/05/23(月)23:49:43ID:???
あと,なんでコヴァ〔小林よしのり信者〕は,いつも人種論に議論を還元したがるんだ?
637:名無し三等兵:2005/05/24(火)00:02:57ID:???
まぁなんだ,ある国民(ないしは民族)を一つの型にはめてしまうのは,脳みそに負担がかからないからな.
【質問】
太平洋戦争において真珠湾攻撃など緒戦でアメリカを強く叩けば,すぐ講和してくるとの読みが旧日本軍にはあったと言われていますが,読み通り本当に講和してきた場合,その後の日本はどういう軍事戦略を取る予定だったんですか?
アメリカの連合入りで自動的に連合国と戦争になるので,それを利用して,返す刀で英蘭植民地や豪州に振り分ける算段だったんでしょうか?
【回答】
ほとんど何も考えてなかったというのが結論.
ただ,陸海軍はアメリカさえ相手にしなくていいなら,東南アジアから欧州勢力を駆逐することは可能だと考えていた(実際それは達成できた).
なので,アメリカと講和し,東アジア地域から英仏欄を排除した後は,占領地を維持,防衛する・・・という戦略がとられた筈.
ただ,「大東亜共栄圏」がなんで「”大”東亜」なのかと言えば,これには「インドも含みます」という意味が込められているから.
なので,東南アジアを制圧して各地の傀儡政権を設立するのが一段落したら,こんどは英領インドへの侵攻作戦が行なわれた可能性が高い.
あくまでも予測だが.
また,オーストラリアに対しては,一応北東部〜東部への侵攻計画が考えられていたが,あまり積極的に行う計画ではなかった.
ニューギニア南岸とサモア,ソロモン諸島を制圧してアメリカとの連絡を絶ち,インド,中東(+アフリカ)方面とも断絶させて英連邦から離脱させ,親日中立を強要する・・・というのが目標にされていた.
ポートモレスビー攻撃やガダルカナルへの基地設営などは,この戦略に基づいて行なわれている.
◆◆◆東條英機
【質問】
東條英機についての評が比較的客観的に載っている本って心当たりないでしょうか?
【回答】
ロバート・ビュートー『東条英機(上・下)』(時事通信社,1961年)とか.
アメリカの歴史学者が書いた古い本だけど,生涯を追うオーソドックスでいい本.
最近,ゆまに書房の『歴代総理大臣伝記叢書』の一冊として復刊された.
ちなみにその叢書のガイドブック↓の東条英機の項を読むと,正直東条の伝記にあんまりいいのがないってのもわかる.
http://www.bk1.jp/product/02798426
入手しやすいのだと保阪正康著『東条英機と天皇の時代』(ちくま文庫)が,取材も丁寧でいい本だけれど,たまに感情が勝ちすぎる印象もあり.
保坂氏の本は良いんだけどな,基本的に一視点からしか書かれてないから注意がいるな.
まあ,本人の推測や感情的な文章と,事実とは分けて書かれてるから,気をつけて読めば大丈夫だけど.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
東条英機は何で戦時中に,色んな大臣を兼任しまくったんでしょうか?
【回答】
戦争指導のため.
日本以外の国を見れば分かるが,大抵は独裁的な体制になってる.
アメリカですら,だ.
大日本帝国憲法で改憲▼に要する手間を省いてなしで▲戦時体制を構築しようとしたら,そう言う手法になる.
正直,「東条幕府」なんて批判は筋違いもいいところなんだが.
▼それでも,海軍は情報を殆ど渡さなかったがなしな.▲
「大臣を多数兼任すれば,海軍の情報が手に入ると思ったんだが…」
と,東條は後年に漏らしてる.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦時中,東條英機が衆議院議員を徴兵させたって本当ですか?
【回答】
衆議院議員濱田尚友が現職のまま懲罰召集された事なら事実.
ただし,召集されたのは陸軍.
懲罰召集はたいていの場合,東条首相批判が原因.
東條批判者は様々な迫害を受けている.
以下は,秦郁彦「昭和史の争点」 東條英機の「戦争責任」より引用.
(1)中野正剛の自決
中野の論文に東條が激怒し,憲兵隊の監視下で自決に追い込まれる.
全国憲友会編「日本憲兵正史」では,陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに,自決を迫られたものと推定している.
(2)中村検事の召集事件
東條の圧力で中野を取り調べた検事局は,容疑不十分で釈放.
すると,その報復として,四十三歳の中村登音担当検事に召集令状が届く.
(3)松前重義の懲罰召集
反東條派の松前工務局長は召集対象外の43歳にも関わらず,二等兵で召集され爆薬船に乗せられ,南方に送られた.
冨永陸軍次官は
「これは東條閣下の直接の命令で,絶対に解除できぬ」
と述べている.
(4)塚本少佐の処罰転任
東條へ直言を試みて激怒を買い,即日サイパンの守備参謀に追いやられ戦死.
当直将校のとき,東條夫人から私用の車を要求されて断ったのが伏線になったともいう.
懲罰で玉砕地に追われた軍人は,ほかに数例ある.
(5)新名丈夫記者の懲罰召集
毎日新聞の新名記者の記事が東條を刺激し,陸軍へ一兵卒で召集された.
(6)谷田勇少将の左遷人事
早期終戦を説いた谷田少将は憲兵に調査されたあと,最前線のラバウルに転任させられた.
もし東京裁判がなく,代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた,と仮定した場合も,同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれたろう.
既定法の枠内だけでも,刑法,陸軍刑法,戦時刑事特別法,陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった.
容疑対象としては,チャハル出兵,陽高の集団虐殺,中野正剛以下の虐待事件,内閣総辞職前の策動などが並んだろう.
【質問】
「東條英機暗殺計画」について御教授くださいm(_ _)m
▼ 【回答】
戦局が悪化した1944年,異なる複数の暗殺計画があったことが知られている.
一つはいわゆる津野田事件.
もう一つは海軍の高木惣吉少将・神重徳大佐らのグループによる策謀だった.
前者は陸軍の津野田知重少佐が首謀したもので,
『秘録東條英機暗殺計画』(津野田忠重著,河出文庫)
によれば,1943年(昭和18年)津野田が大本営に移動する直前,上海で今田新太郎,浅原健三と東條打開の策を相談.
陸軍軍人の今田新太郎は満州事変以来の石原莞爾の側近で,浅原健三は石原莞爾のいわば政務秘書.
また,会合には東亜聯盟のつながりから,柔道家・牛島辰熊も参加していたという.
この東條打倒計画には
「やむを得ない場合は東條を暗殺する」
という一項が含まれていた.
1944年(昭和19年),東京に戻った津野田知重は,反東條派の将校らと接触して計画を練り上げ,『大東亜戦争現戦局に関する観察』というリーフレットをわずかな部数だけ制作する.
意見を聞くため,津野田知重は鶴岡の石原莞爾を訪ねた.
やむを得ない場合は東條を暗殺,という部分に石原莞爾は何も意見を言わなかったという.
1944年7月25日午後2時過ぎ祝田門付近で,柔道家の牛島辰熊が,毒ガスが詰まったガラス瓶を東城英機首相の乗った車に投擲する計画がなされた.
決行日は1944年7月25日午後2時過ぎ.
祝田門付近で牛島が,毒ガスが詰まったガラス瓶を東條英機首相の乗った車に投擲する計画だった.
祝田門で待ち伏せるのは,宮中での閣議から帰る東條の車が,祝田橋のカーブで徐行するため.
投擲するガス弾はニックネームを「チビ弾」または「茶瓶」と言うもので,直径10cmほどの緑色のガラス玉.
弾の中に容積の3分の1ほど,透明な液が入っている.
ガラス玉が割れ,空気に触れると,青酸ガスが発生.
カタログ上は風下50m四方の生物が死滅するとされていたが,投擲のため,標的から40〜50mの距離まで接近する必要があった.
投げた牛島もガスを吸って死亡する可能性があるが,それは覚悟の上だったという.
津野田はこれを習志野学校から入手したと見られる.▲
だが,決行一週前に東條内閣は総辞職したので▼計画は中止.
▲犠牲者は出なかった.
▼ かくして東條暗殺計画は未遂で終わったが,計画は発覚,9月に津野田らは憲兵隊に逮捕された.
津野田から計画を相談された三笠宮が,憲兵隊に漏らしたためだった.
裁判は終戦後も続いた.
判決は有罪.
ただし執行猶予がついた.
牛島辰熊は戦後,国際プロ柔道協会を結成するが,これはまた別の話.▲
軍事板,2005/07/11(月)
青文字:加筆改修部分
▼ 一方,海軍グループのほうの計画は次のようなものです.▲
サイパン戦の不始末,マリアナ海域での戦況悪化,北九州爆撃と言った状況にも関わらず,東条首相は,嶋田海相と共に,杉山陸軍参謀総長,永野海軍軍令部総長を元帥にして追い出し,それぞれがその後任に就任し,一気に権力を掌握します.
その後,高松宮の軍令部からの転出,近衛側近の酒井中将の解任,岡田大将と瀬島大佐の関東軍への転出,松永参謀本部戦争指導班長の中国戦線への転出,松前逓信院工務局長の二等兵としての召集,創価学会関係者の弾圧,毎日新聞の新名記者の政権批判記事に対する弾圧と召集などしたい放題の状況となっていきます.
事此処に至って,1944年6月22日の夜,神大佐は,小料理屋に元海軍中尉で,5.15事件で犬養毅を射殺した三上卓を呼び出して会合を持ちます.
翌23日に,高木惣吉と,神大佐が会合を持ち,次の7条件を示します.
1. 秘密保持と民間人の犠牲者を出さないために,三上卓は勿論,民間人とは一切関係を持たない.
2. 計画の実行者は7名
3. 決行後の脱出は一式陸攻を用い,パイロットと共に7名が搭乗するために,決行人員は7名となる.
決行後6名を脱出させ,現場には高木惣吉が残り,全責任を取る.
4. 決行日は火曜か金曜とする.これは,東条がその日10時にオープンカーに乗って行くからである.
5. 決行方法は自動車3台に7名が分乗して,東条首相のオープンカーに衝突させ自動車事故とする.
失敗したときは射殺する.
場所は海軍省手前の四つ角で,1台は海軍省に,大審院の壕側にもう1台,内務省に1台を配置し,
見張を警視庁前に置いて,東条の乗ったオープンカーが見えたら合図し,四つ角にさしかかるところで,
前と両方の進路から突入して襲撃する.
6. 決行者の脱出については,厚木基地司令の小園中佐が協力し,一式陸攻で決行者は台湾に脱出する.
7. 決行日は高木が決定し,決行日2日前に決行者に直接連絡する.
で,6月23日に東条首相はサイパン放棄を決め,24日,いよいよ臍を固めた高木惣吉は岡田大将を訪ね,決行を打ち明けます.
岡田は之に反対しますが,高木の決意は固く,決行前に必ず連絡させることを約束させて帰します.
それから岡田大将は,伏見宮元帥を訪ね,海軍内部の状況を報告し,伏見宮から天皇に上奏が行き,嶋田更迭,東条辞職の布石が打たれたため,暗殺決行は中止となりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/11(月)
青文字:加筆改修部分
この事件については,最近の新刊なら『かくて,太平洋戦争は終わった』(PHP文庫)が詳しいですよ.
著者は川越重男という方で,高木惣吉海軍少将の従兄弟にあたります.
高木惣吉少将は「終戦工作」の中心的役割を担った人で,東条内閣打倒工作(暗殺も含む)にも深く関わっています.
いわゆる,米内光政→井上成美→高木惣吉ラインですね.
いわゆる『高木資料』の原本は,高木家の断絶後に祭祀を引き継いだ川越氏が持っていたものであって,現在では「東条英機暗殺計画」の一級資料になっています.
本書は,従兄弟自らが筆を取った本ですね.
また,著者は「高木会」の主催者だそうです.
本自体は,阿川弘之氏の推薦文がオビにあるのと,カバー写真に使われた『御前会議』の貴重なスナップが乙です.
御前会議の写真は,正面から撮ったものが多くて,あまり迫力の無いものが多いのですが,この写真は斜め後方から撮った珍しいもので,アングルもずばり決まっている.
もちろん昭和天皇の顔もはっきり写っています.
イナゾウ中佐 :軍事板,2005/07/11(月)
青文字:加筆改修部分
▼ 他に1943年,右翼団体「勤皇まことむすび」が東條英機暗殺を示唆して検挙されているが,具体的な計画があったのかどうかは,google検索レベルの調査では不明.
【参考ページ Referencia Oldal】
秦郁彦『昭和史の秘話を追う』(PHP研究所,2012), p.161-181
https://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/f12ed55f4ca5416745db2bb3f2072f10
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=21587781&id=1963797287
加藤康男『三笠宮と東條英機暗殺計画: 極秘証言から昭和史の謎に迫る』(PHP研究所)
https://kotobank.jp/word/天野辰夫▲
【質問】
大東亜戦争中,軍部の力が強かったというのなら,なぜ東条英機内閣は倒されたんですか?
【回答】
元々海軍系の重臣は反東條だし,参謀総長兼任で,陸軍内部にも反感を抱く者がぽつぽつ出てきた.
さらに,サイパン失陥により,国民の間にも漸く東條に対する不信感が芽生えていた.
マリアナ決戦の敗戦を機に,重臣たちの倒閣運動は活発となったが,しかし東條も辞める気はさらさらなく,内閣を改造し,強力な挙国一致内閣をつくろうとした.
そこで国務大臣のポストを一つ空けるために岸信介に辞めて貰おうとしたが,裏から重臣の手が回っており,岸は辞表の提出を拒否.
内閣改造に失敗し,自分に対する(特に重臣たちの)反感の強さを痛感した東條が,失意のうちに桂冠した.
なお,これに関しては「軍閥」という映画が秀逸・必見!
【珍説】
(大正時代には民主主義も既にあった,とする自説に続けて)
もちろん大東亜戦争の最中も議会政治があり,政権交代は起こっている.
(小林よしのり「戦争論」3,p.68)
【事実】
上述のように,政権交代は議会政治の結果ではありません.