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「原田義昭 Blog」■「大刀洗平和記念館」と渕上宗重氏のこと
『沖縄特攻』(アーノルド・S・ロット著,朝日ソノラマ文庫,1983.5)
特攻隊は戦艦や空母といった,大型の目標ばかりねらっていたのかと思ったら,駆逐艦など小型艦艇にも体当たりしていて意外だったというか,特攻隊員は無念だったろうなと.
やはり一番でかい奴に行きたかっただろう.
あと,特攻機は思ったよりも命中していた.
アーロン・ワードにたどり着く前に,どれだけ食われていたかは分からないが.
賛否両論の戦法だけど,全くの無駄死にではなかったかと,思いたい.
――――――軍事板,2009/06/18(木)
『孤島への特攻』(木俣滋郎著,朝日ソノラマ文庫,1982.3)
今日ブックオフで拾ってきた本.
大戦後半に,米海軍の泊地になってたウルシー環礁への,回天による玄作戦,及び銀河による丹作戦(梓特攻隊)がメインの本.
彩雲による偵察とか,伊400型による嵐作戦などの周辺作戦も取り上げられてる.
巻末には特攻隊員の名簿付き.
特攻以前のウルシーの泊地化までの経緯をざっと読めるのが,面白いと思います.
日本側がウルシー放棄したときに,置き土産で機雷を仕掛けた話とか.
------------軍事板,2012/03/01(木)
『「最後の特攻隊」の真相 消された偵察機「彩雲」』(太佐順著,学研パブリッシング,2011.7)
半分まで読み進んだが,これ,今年のWW2航空物のベストかも知れない.
思わせぶりな題名よりも,「彩雲隊戦記」と割り切って書いた方が良かったのでは.
「死闘の水偵隊」の安永氏,「彩雲のかなたへ」の田中氏に続く,第3の彩雲本としてまとまって・・・はいないが,なかなか読ませる内容です.
末期の偵察機隊の微妙な空気を,よく書けていると思います.
「特攻隊が神様なら,日々未帰還になる彩雲隊の我々は何様か」
うーむ,なるほど.
宇垣本としても,なかなか痛烈.
鹿屋放棄や肝属川計画など,ふむふむ.
――――――軍事板,2011/07/06(水)
『桜,ななたび 鹿屋海軍特攻基地 わだつみのふるさと』(高橋みゆき著,梓書院,2012.5)
『朝鮮人特攻隊』(ベ・ヨンホン著,新潮新書)
当時日本の植民地だった朝鮮から,特攻隊員として出撃した人たちのうち,何人かのエピソードを集めている.
また,この本が執筆された前後の韓国情勢(いわゆる親日法)をめぐるごたごたについても記述されている.
特攻隊で戦死した兵士は親日派とみなされて,その家族は色々と大変なようだ.
著者は在日2世だが別に偏りなどはなく,きちんと文献の読み取りや聞き取りを行い,事実をを丁寧に追いかけている印象.
ただし,彼らの内面心理の探求などを深くやっているわけではないので,それを期待するとがっかりするかも.
天皇のため,当時まだ植民地だった祖国のため,家族のため.彼らが何を思い何のために死んでいったかは,誰にもわからないと思う.
――――――軍事板,2010/05/18(火)
『特攻 最後の証言』(『特攻最後の証言』制作委員会著,文春文庫,2013/11)
『特攻基地の少年兵 海軍通信兵15歳の戦争』(千坂精一著,光人社,2006.4)
どちらかというとほのぼの系,よもやま系だが,後半はちょっと哭いたというか,すごく切ない気持ちになっちゃうの.
――――――軍事板,2011/08/14(日)
『特攻隊員の命の声が聞こえる』(神坂次郎著,PHP文庫,2001.8)
本人も特攻隊だったそうなんだけど,特攻隊の精神と,「阪神大震災で倒壊した家屋の下敷きになって焼死した少女」が,通じるものがあって感動したとか,被害者意識ばかりで何だかとても読むに耐えないものだった.
著者曰く,どちらにも「親を救うために自分が犠牲になる」ことを若者の精神として,
「笑いながら別れを告げたことは少女には特攻精神が宿っている」
と感動したらしい.
こんな下らない本の需要がどこにあったんだろうと(内容も薄っぺら),本気で思う.
こちらの感受性というものもあるけれど,やはり人それぞれの考え方があるのは事実.
他にも少しだけ,特攻関連の本(指揮官たちの特攻/戦場から届いた遺書/特攻-特別攻撃隊/ユキは17歳,特攻で死んだ)は読んでいるけれど,これは群を抜いて被害者意識とプライドの高さが伺える.
逆に隊員たちが被害者意識を感じさせないのは「特攻 最後の証言」かな.
インタビュー形式で,恣意的な編集がなされていないところがいい.
特攻の本は,特攻隊員本人が書くにしても後世の人間が書くにしても,同じことを扱ってるのに考え方ひとつで全然違う内容になったりするから,やっぱり本当に難しい,でも本当に深い分野だと思うわ.
――――――軍事板,2010/10/13(水)〜10/14(木)
『特攻とは何か』(森史朗著,文春新書,2006.7)
特攻とは何かについて考察した本ではなく,大西瀧治郎少将が何故特攻の父と呼ばれるようになったのか書いた本ではないか?
死んだ人の本心を考察するのはそりゃ無理ですわ.
特攻に反対したのは美濃部さんだけなのかね?
他にもいたんじゃね?
――――――軍事板,2010/06/19(土)
『ビジュアル解説 特攻がわかる本』(綜合図書,2013.8)
『燃える特攻基地セブを死守せよ フィリピン戦記』(「丸」編集部,光人社NF文庫,2012.2)
【質問】
神風の読み方は「かみかぜ」と「しんぷう」のどちらが正しいのでしょうか?
駆逐艦「神風」は「かみかぜ」だが「神風特攻隊」は「しんぷう〜」だ,と何かで読んだ気がするんですが
【回答】
神風特攻隊に関して言えば…….
猪口力平・中島正共著「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社,1984.7)によれば,「しんぷう」です.
神風隊の命名は,昭和19年10月20日の特攻隊編成式の前の晩に猪口中佐が大西瀧治郎中将に提案したものとされています.
同日朝,大西中将は
「この体当たり攻撃隊を神風(しんぷう)特別攻撃隊と命名し〜」
と訓示しています.
命名者に関しては源田参謀であるとの説もありますが,いずれにせよ当初現場では「しんぷう」と呼ばれていたようです.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/03/27(月)
青文字:加筆改修部分
ただし,「かみかぜ」も普通に使われています.
零式艦上戦闘機,略して零戦が,「れいせん」とも「ぜろせん」とも呼ばれたのと同じような事情と考えて結構.
【質問】
航空特攻は戦術的に正しかったのでしょうか?
【回答】
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6kamikaze_h.htm
航空特攻の発端は,レイテ沖海戦時,「大西中将の手持ちの部隊で空母の飛行甲板を使用不能にする」ということにあり,人道的に見れば狂っていますが,純粋に戦術的に見れば,必ずしも誤りとは言えません.
問題は,特攻がその後も続けられた点にあり,これについては,
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6kamikaze_k.htm
「効果はあったが,高くついた」
つまりコスト対効果を考えると,もっと上策もあったのでは?と言われています.
http://www.omura.info/kamikaze/japanese/
「通常爆撃を実施すべきだった」とする意見がそれです.
陸軍内では特攻実施前にも戦術上の見地から反対論があり,要旨以下のようだったそうです.
・武装,戦闘行動で(急降下爆撃に比べて)劣り結果的に不利
・体当たりの最大の欠点は落速の不足にあり,爆弾の落速の二分の一程度では
装甲甲板を貫徹できず(特攻主張派の言う)一機一艦撃沈は無理
この反論は鉾田の教導飛行師団が出したそうですが(19年8月),特攻推進をあくまで主張する航空本部と御用学者を集めて怪しげなデータをまとめた第三陸軍航空技術研究所に蹴られたとか.
航研が特攻に拘ったのは,既成の爆弾等の改善が出来なかった不首尾を糊塗するためではなかったかとも言われています.
【質問】
特攻をやるぐらいなら爆装零戦でスキップボムをやればよかった,なんて話を聞いたことありますが無茶ですか?
【回答】
陸軍も海軍もスキップボムの訓練を行っていた部隊があったが,例えば陸軍の呑龍の部隊など,それを実戦で試す前に特攻隊にされてしまった.
日本の航空機は打たれ弱いので,単純な直線機動のスキップボミングでは,あっさり撃墜されたんじゃないかという話もある.
実際には,日本軍もその辺考えて,急降下して引き起こし投弾という方式をとろうとしたが,飛行テクニックとしてなかなか難しく,一部の論者が言うほど簡単な戦術じゃなくなってしまった.
マリアナ沖のときも,当初は爆戦にスキップボミングをやらせようと考えてたが,戦闘訓練が間に合わず,緩降下爆撃に切り替えている.
で,爆弾抱えてほとんど機動性がなくなった爆戦は,空戦訓練未了だったこともあり,敵戦闘機にばたばたと落とされる結果となった.
どうも司令部の一部は,爆戦は敵戦闘機に対して耐性が高いと期待してたようだが,実際には非常にもろかった.
重い爆弾を着けている分,どうしても動きが鈍くなるからなぁ.
特攻のときも援護機をつけてるな.
爆弾を付けたまま蚊トンボみたいに落とされる,零戦の映像を見たけど,悲しくなってくる
ちなみに「丸エキストラ」あたりでは,その部隊の搭乗員手記として,スキップボミングを命中させた空母の艦橋に,そのまま機銃掃射を浴びせ・・・なんて勇ましい描写が出てくるが,真実は定かでは無い.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
特攻機の爆弾って,外れないようになってたんですか?
もし体当たりしなくても爆弾が中りそうなら,爆弾投下して帰ってきてはだめなんですか?
また,そんな例はありますか?
【回答】
機種によって様々なケースがありますが,日高恒太郎著「不時着ー特攻ー死からの生還者達」に,エンジン不調で,奄美に不時着した特攻機(九七艦攻)を,勤労動員で飛行場整備に駆りだされた人の目撃回想によると,
「爆弾つんどるぞ〜,逃げろ〜」
みたいなことを(民間人でも)言っていたので,不時着時は大抵爆弾(魚雷)等は投棄していたようです.
当時は完動機率の低下・技量の低下もありましたから,不時着とまではいかないまでも,不調で引き返す時も大概,投棄してから引き返したそうです(燃料節約の意味も)
部隊によっては例外もあるでしょうが,基本的には投棄していたのでしょう.
同書にも,何回も出撃しなおした人の談話においては,その度に投棄していたとでています.
他の戦記でも概ねそのようなことが書いてありますが,他方,番線(針金)で爆弾を機体にぐるぐる巻きにされた特攻要員が,
「俺達を見くびるな・疑うのか」
と言った,怨嗟の声が聞かれたと言うのも事実であるようです.
軍事板
青文字:加筆改修部分
補足しとくと,末期には突入速度の不足を補うため(機体それ自体がブレーキになる),直前で投下してそのまま機体ごと突っ込む戦術を採用した事例も散見されます.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
何故日本軍は,対艦攻撃にレシプロ機による自爆攻撃を選んだのでしょうか?
普通に雷撃したり,ロケット弾を撃ち込んだ方が命中率が高いと思いますが.
【回答】
初期には確実な命中弾を出して少数機でも確実な効果を出すために行われた.
特攻が戦術として正式採用されると,技量未熟でとてもマトモに爆撃や雷撃はおろか,水平飛行すら困難な搭乗員ばかりだったので,とにかく何とか敵まで辿り付いて突っ込めという攻撃方法しか考えられず,即席練成の搭乗員で行える唯一の合理的な攻撃法だったと言える.
戦争が終結していない以上,当時の日本で(一部を除けば)唯一の戦闘継続可能手段に見えたのは確か.
たとえば台湾沖航空戦では312機が撃墜されて,重巡2大破,空母1小破.
レイテ沖海戦前後で,日本軍は実働で600機くらいをつぎ込んで,特段の損害を与えられず.
しかし,敷島隊は6機の特攻で,護衛空母1を撃沈,他3隻に損害を与えている.
これだけ見れば,特攻戦術に走るのが「合理的」に見えるのも無理はな.
あと,数字は確認してないけど,元々,初陣で撃墜されて戦死する者が多かったそうで,熟練した操縦士が少なくなった時点では,出撃が即,帰還を期さない特攻に近い状態になっていたから,命ずるほうも受けるほうも
「感覚がおかしくなっていた」
という面もあると思う.
しかし一応,サイパン以降でも,通常攻撃で大型艦を沈めた例が無いわけではない.
レイテでは,空母プリンストンが沈没.
彗星艦爆が,雲間から急降下爆撃を行った.
(直後に撃墜された)
九州沖航空戦では,正規空母フランクリンを大破させ,沈没寸前まで追い込んだ.
こっちは,彗星または銀河が行った通常攻撃.
(直後に撃墜された)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
特攻で敵艦を撃沈するには,1隻当たり特攻機がどれだけ必要と,日本海軍では見積もっていたのか?
【回答】
昭和20年3月2日,軍令部第1課長が海軍省に対して行った説明(防衛省戦史研究室所蔵資料.表題は失念)
各艦種撃沈に要する弾量
空母 桜花×1+80番爆弾×1,または95式魚雷×3
軽空母 桜花×1+80番爆弾×1,または95式魚雷×2
護衛空母 80番爆弾×1,または95式魚雷×2,または2式魚雷×3
戦艦 桜花×2,または95式魚雷×4,または回天×1
巡洋艦 桜花×1,または95式魚雷×2,または2式魚雷×2
駆逐艦 95式魚雷×1,または2式魚雷×1
輸送船 2式魚雷×1,または震洋×1
見ての通り,本来特攻戦備に伴う各種攻撃手段の威力評価です.
ちなみに,各攻撃手段は威力点という基準で評価されており,航空手段の場合
桜花(5),80番(3),50番(2),25番(1)
で,空母撃沈のための所要威力点は8点,とされました.
また水上・水中手段の場合
回天(8),95式魚雷(3),2式魚雷(2),震洋(1)
で,この場合は空母撃沈のための所要威力点は9点です.
つまり桜花×1+80番×1の代わりに,80番×2+50番×1でも良いことになります.
まあ,戦艦が25番×10で沈むかといえばまず否ですから,かなり大雑把な基準ではありますね.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
空母に特攻する時にベストな狙いは何処だったんですか?
【回答】
『筑波海軍航空隊 零戦特攻隊戦闘準則』より
――――――
目標
空母ハ飛行甲板ノ前部寄リニテ「リフト」
其ノ他ハ艦橋ノ付ケ根
輸送船ハ状況ニ依リ船艙口
―――――
他の隊の命令文書でも似たようなもので,空母の発艦能力を奪うために中央〜前部寄り,そして強度的な弱点であり航空運用の要であるエレベータが最適目標とされます.
ついでに言うと,複数機による突入の場合は前機突入破口を目指すべし,とあります.
ちなみに目標配分は
正規空母 25番×3 or 80番×1
特空母 25番×1以上 or 80番×1
戦艦 25番×2以上 or 80番×1
其の他 どちらか1
で,正直大型艦の撃沈狙ってません.
この程度で戦艦や空母が撃沈できるはずもなく,むしろ損傷による人的損害を狙っていた傍証といえるでしょう.
特に戦艦はそうで,艦橋スタッフという中核人材を葬ることに重点が置かれてます.
(艦橋は戦艦においてはもっとも防御が軽い割に重要な施設である,ためでもあります)
ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
これって大発見?
【旧日本軍の航空特攻作戦,命中効果率は56%=予想以上の戦果−米軍機密文書】
太平洋戦争末期,劣勢の旧日本軍が多用した航空機の体当たりによる米艦への特攻作戦で,米軍が至近自爆を含む特攻機の命中効果率を半年間で56%と算定し,日本側推定を大幅に上回っていたことが,米国立公文書館に保管されている米軍機密資料で分かった.日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26〜28%と推定していた.
戦史家の原勝洋氏が入手したこの資料は,未公開分を含む米側撮影の特攻写真340枚とともに,15日発売の「写真が語る『特攻』伝説」(原勝洋著,KKベストセラーズ社)で公表される.
時事通信,2006年11月15日7時1分
【回答】
……
∧_∧
(・(・・)・)
/JベタJ
~し―-J
その 「命中効果率を半年間で56%」 と云うのは,あくまでも 「特攻攻撃実行機とその命中率」 でしかないのよ. つまり 「命中効果率を半年間で56%」 には,米艦隊に到達する前に撃墜された特攻機や,米艦隊を発見できず未帰還になった機は含まれていないのよ.
実際,日本軍側が特攻機として出撃させた機数と,米軍側資料にある 「特攻機数」 にズレがあったりしましたから.
また,米軍の云う 『命中効果率』 には 「至近自爆を含む」 から,効果率が高くて当然,という意見もありますが,日本側が推定していたとされる 『特攻命中率』 (26〜28%) は,戦後になって,安延多計夫海軍大佐が 「至近命中」 も含めて出した比島〜台湾〜硫黄島期での特攻成功率 (27.1%) とほぼ同じであるので,米側の云う 『命中効果率』 と,日本側の 『特攻成功率』 と同じものと考えても問題はないでしょう.
ただ,日本側が 『特攻命中率』 として出した数字は,日本側が特攻機として出撃させた数を分母としたもので,特攻機として出撃していない (通常攻撃) 機が体当たりに成功したモノも 「特攻機による戦果」 として含まれているのよ.
具体的で分かりやすい例を挙げると,米軍側の資料 (「第二次世界大戦 米国海軍作戦年誌」) では,駆逐艦 「クラックストン」 「アンメン」 が1944年11月1日に双発機 (「銀河」) の特攻攻撃を受け,損傷したと記録され,日本側も特攻機による戦果として記録しているが,この日,日本軍は双発機を特攻作戦には投入していない.
まぁ 「命中効果率が半年間で56%」 と云うのは 「米艦船上空に到達した日本機で,特攻を行い命中したものの率」 としてなら評価できるでしょう.
ベタ藤原 in mixi
『特攻機』の命中率に関しては,Uボートによる撃沈数と船団の規模の相関関係に取り組んだ学者達が,数学を駆使して次に取り組んだ命題だった,とオペレーション・リサーチの教科書で読んだ気が.
まけらいおん in mixi
【質問】
日本以外で,正規軍が特攻による航空作戦を組織的におこなった例はないと思いますが,他国でこれをおこなわなかったのは,なぜでしょうか?
【回答】
一応,独ソ戦初期にはソ連軍機の一部がカミカゼまがいの体当たり攻撃を行ったり,また,戦争末期のドイツ空軍がそれをしようと部隊編成まで行ってますけどね.
詳しくは別項参照.
要は,戦闘行動に耐えうるだけの操縦士を日本が養成出来なかっただけです.
英国は本国は勿論,植民地からの人的資源の供給が豊富で,しかも操縦士の大量養成が行われ,ローテーションがきちんと出来ていました.
米国も,国土の広さから航空機が欠かせませんので,民間航空のパイロットはアマチュアも含めて大勢いましたから,こちらも人的資源は豊富でした.
ドイツも,末期こそどうしようもなくなりますが,初期の頃はグライダー航空などの活動を通じて操縦士を十分養成して戦争に臨んでいますし,ソ連もこれは同じです.
しかし,日本の場合,航空機自体の数が少なく,民間航空の基盤も脆弱で,燃料や機材が豊富でないので,勢い,質に頼る傾向がありました.
結果,緒戦期を除けば,段々と操縦士の養成が不可能となり,飛ばすだけでやっとと言う状況に陥ります.
これで戦果を挙げるのは不可能です.
そこで採用されたのが特攻作戦と言うことになります.
とりあえず,余計な戦闘行動は不要で,敵にまっすぐ突っ込むだけで済みますからね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/01/27
青文字:加筆改修部分
上記に関してですが,佐藤守氏がなぜ日本が特攻という手段をとったかについて,パイロット養成計画の不備という問題点を具体的に指摘した論考を二回に分けて書かれています.
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070601/1180667743
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070604/1180920574
戦争が始まっても平時の感覚から抜けられない,予算が弾力的に運用できないというつまらぬ官僚主義,パイロット増強計画をまとめた寺井義守海軍中佐が米国帰りであったために,なかなか彼の案が承認されなかったというつまらぬ派閥主義などが指摘されています.
だから,佐藤氏は国家の無策のために特攻という手段をとらざるを得なかった大西瀧治郎中将に対して同情的なのですが,当時は今の自衛官と違って軍人には政治的発言力がありましたから,この指摘は少し同業のよしみが強すぎるのではないかと思いました.
それはともかく,佐藤氏の論考は特攻の悲劇がなぜ起こったかを考える上で傾聴に値すると思います.
バグってハニー by mail
また,同じく佐藤守氏のブログで,海軍の搭乗員増員計画がうまくいかなかったことに関し,寺井中佐自身の講演を書き起こしたものも紹介されていますのでお知らせします.
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070627/1182910497
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070628/1182994688
さらに,そのコメント欄ではこの資料を提供されたゼロ戦パイロットと同期の「13期K.K」という方が,この計画はやはり無理だったのではないかと指摘されています.
さらにまた,同期のパイロットで戦死された方の胸を打つ遺書も紹介されていますので,ぜひご覧ください.
【質問】
特攻について質問です.
一般的に,軍隊が何か作戦を立てるときは,いくら末期の日本軍といえども,その作戦に必要な人員や物資などを計算して,それから逆算してその作戦のための組織(経理部隊や衛生隊や輸送隊・・言い方が正しいかはわかりません)を作っていくのに,特攻の場合はそのような組織は作られなかった.
なぜなら,そのような組織を作ってしまうと,特攻そのものが軍全体の意思で行われた作戦だと理解され,戦争に勝とうが負けようが(勝つわけはないが),いずれ作戦の責任者が責任を取らされてしまうからだ.
よって,現実は軍上層部の意思で特攻という作戦を実行し,さらに一部に強制があったとはいえ,形式上はあくまで現場からの自発的な意思で特攻を行っているとすることが必要だった.
……という話を聞いたことがあります.
実際にはそのような意図はあったのでしょうか?
【回答】
実を言うと陸軍に関してはその通りなのです.
特攻隊を正式な軍隊編成に組み入れるか否かについては激論が交わされており,結局は要員と機材を前線に増加配備し,前線の部隊指揮官が臨機に編成するもの,という形式を採りました.
その理由は,天皇陛下の名において特攻を命令する建前になることを嫌ったもので,航空総監阿南惟幾大将の統制下,最後までこの形式を守り通しました.
よって,陸軍特攻隊は厳密には憂国の士達の集団であり,隊長には人事・教育・賞罰に関する権限がなかったのです(『特攻隊』として.通常の部隊指揮官としては権限を有す).
ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
特攻の手順を教えてください.
超低空で索敵→敵発見で急上昇,急降下と思っていますが,実際どうなのでしょう.
わざわざ発見してから上昇してると,狙い撃ちにされそうな気がするのですが・・・.
【回答】
特攻機の突入の手順には二種類ありました.
まずは,
*超低空で索敵→敵発見で急上昇,急降下
この場合は低空で接近し,目標を発見した後いったん高度300メートルまで上昇し,目標から約10キロの地点から降下を開始して最終約45度の突入角度で突入します.
利点としては,レーダーに捕まりにくいことと(約20キロ付近までは探知が困難),上空哨戒戦闘機が目視で発見することが困難なことです.
次に,
*高高度で接近し,目標発見後緩降下で突入
という方法もありました.
約6000メートル以上の高空で飛行すれば,レーダーには発見されるものの哨戒戦闘機がその高度に達するまでに時間がかかるために,特攻機が敵機を早めに発見して対応することが可能でした.
あまり角度をつけて突入すると,速度が付きすぎてコントロールが難しくなるため,角度の浅い緩降下で突入を行いました.
理想はこれらを組み合わせて敵の対応を困難にすることですが,実際は使用できる機体の数や錬度の問題で不可能でした.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
他にも,超低空でそのまま突っ込むなどの突撃法がとられています.
応用編ですが,島影を利用してレーダー探知から逃れ,そのまま一気に突っ込んだ例(リンガエン湾などで確認されています)もあります.
【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:Kamikaze
【質問】
レイテで神風特別攻撃隊として参加したのは,海軍兵学校の方々なんですか?
参加した全員の名前は分かりますか?
(軍歌好き ◆f9B5GYj5EY)
【回答】
フィリピンで第一神風特別攻撃隊が編成された際には,201航空隊副長の玉井中佐が第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将の命令により人選を行いました.
その際の人選は甲飛10期生※を中心として行われ,指揮官として海兵70期生の関行男大尉が指名されました.
しかし,その後の特攻では兵学校出身のパイロットは少なく,予科練出身の下士官と予備学校出身の士官パイロットが中心になっていきます.
(※甲飛10期生=第十期甲種飛行予科練習生)
比島方面作戦 特攻戦死者名簿
http://www.warbirds.jp/senri/22tokuko/101/101.html
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
予科練に入った学生達は,訓練を終えると他のポジションには入らず(向いてないから違う分野に行け,とかにはならず),みな全員が特攻隊員になったのですか?
【回答】
「予科練」とは「海軍飛行予科練習生教育練習航空隊」の略なので,全員がパイロットになることを前提にしています.
したがって操縦・機体整備・装備品整備・兵器整備・偵察といった飛行機関連の初期練習に回されるわけで
,
「飛行機は無理.潜水艦に乗れ」
というのは入隊前に言い渡されています.
しかし昭和19年秋以降に入隊した予科練生は,ほとんど飛行機に触れることなく
,回天・震洋をはじめとする水上水中特攻隊,あるいは本土決戦用の陸戦隊員へと鞍替えしてます.
なお,桜花・秋水には専用の練成航空隊がありましたが,末期の予科練成には遠すぎる存在でした.
各予科練の詳細は「等身大の予科練」をご一読ください.
http://joyo-net.com/syoseki/yokaren/yousei.html
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/08/17(水)
青文字:加筆改修部分
「桜花」一一型滑空練習機
(画像掲示板より引用)
【質問】
神風特別攻撃隊か,瑞鶴の囮作戦時の攻撃隊の中に,中学生レベルはいたのではないでしょうか?
当時の小中学生ってかなり小柄だったんじゃないでしょうか?
155cm前後で40〜50キロぐらいの子も,零戦で特攻させられたりしたのでしょうか?
【回答】
戦前の教育制度を調べればわかるが,陸海軍ともパイロットになるには,最低でも今の高専卒に相当する年齢になってる.
流石に中学生くらいの年齢はいない.
更に,空母艦載機搭乗員になるにはそこからまた専門的な訓練を受けるので,そんな極端に若いパイロットはいない.
戦前と現代では教育制度が異なっている事に注意しよう.
例えば,戦前の教育制度で「高等学校の生徒」と言うと,現代では大学の1年次くらいに相当する(一昔前の国立大学だったら教養課程だな).
戦前の中学とは,旧制中学のことで,戦後の学制では高校と同じ扱い..
有名な海軍の「予科練(飛行予科練習生)」でも,対象者は満15歳から20歳.
その予科錬では,戦争末期のときでさえ教育期間は半年取られており,旧制中学在学中に,予科錬に志願して卒業するまでにどう考えても9ヶ月はかかる.
さらに,予科錬でたてなんか空母に配属しないので,(そもそもペーペーは飛び立てない)どう考えても陸上基地でしばらくは訓練だわな..
なので,最低の年齢で採用されて入隊後即特攻に出撃したとしても今の高校1年生くらいやね.
尚「特攻」(神風攻撃)で戦死した人の平均年齢は20歳前後だ.
ちなみに陸軍の場合身長が152cm以上ないと「甲種合格」になりません.航空兵にもなれまっしぇん.
当時の日本人だと大人の男性でも,155cm前後で40〜50キロぐらいの人は普通にいた.
【質問】
特攻隊員への指導方針は?
【回答】
軍極秘 第十航空艦隊機密第101号 「特別攻撃隊指導指針」(防衛省戦史研究室所蔵資料)によれば,
特攻隊員指導方針
一,特別攻撃隊員ヲシテ根底アル決意ヲ堅メシムルコト
指導者ハ常ニ自己ヲ反省シ自身特攻隊員ノ気持ニ成リ切ルコトヲ念願スルヲ要ス
指導上ノ要点
(イ)戦局ノ現状ト日本ノ危機ニ就テ或程度ノ真相ヲ話スコト
(一)忠勇ノ士多数アリ個々ニハ幾多遺功ヲ奏シ大ナル戦果ヲ挙ゲ来リタリト雖モ大勢ノ赴クトコロ如何トモ致シ難ク今日ニ至レリ
右ノ原因ノ主ナルモノ
戦力(国力)ノ桁違ノ大差
使用兵器ノ性能ノ差
随而之ヲ補ヒ得ルモノ戦闘指導ノ優ト精神力ノ偉大ナル発揮ヨリ外ニナシ
(ニ)燃料ノ取得,飛行機生産ノ見込
(三)敵本土攻略ノ企図必須ナルコト,之ニ対スル本土防衛態勢ノ実情
(四)搭乗員各自の技量,教育見込
(ロ)帝国海軍ノ責任ト吾人ノ覚悟
(ハ)先輩ノ偉業
(ニ)体当攻撃ノ特徴及利点
(一)比較的未熟者ニテ実施シ得ルコト
(ニ)命中確実
(三)天候ニ禍ヒサルコト少シ
(四)敵戦闘機ニ食ハルコト比較的少シ
(五)敵空襲下発進シ易シ
(六)損傷アル機ト雖モ其レガ致命的ニアラザル限リ使用ス
(七)性能悪キ機材モ使用シ得
ニ,取扱及躾
(イ)取扱ヲ殊更ニ特別ニセザルコト,但シ宿舎等ヲ別ニスルハ気分ヲ一致セシムルニ必要ナリ
訓練上或ハ気分ノ弛張ニ依リテハ外出等ヲ停止スルコト
(ロ)特攻隊印ナリトシテ自棄的気分ヲ起サシメザルコト
現戦局ハ国民全部特攻タルヲ要スルニ到リ唯前後アルノミニシテ現在ノ特攻隊員ハ一足先ニ選手トシテ出掛ケ行クベキモノタルコトヲ銘記セシメ,飽ク迄謙虚ナル態度ヲ持セシムルコト
(ハ)躾ハ飽ク迄厳格ニナスコト
特攻隊員タルガ故ニ手ヲ弛メザルコト,斯クスルコトガ結局彼等ノタメニナル
死ニ至ル迄ノ真面目ナル行ガ死ヲ一層有意義タラシムルコトヲ教フルコト
(ニ)精神的不適或ハ行動不良ト認メタル者ハ抽出,他ニ転向セシムルコト
此ノ際新配置ニ就テハ慎重考慮スルコト
(ホ)病気ニ罹リタル時等ハ気力衰ヘ士気落チ勝チナリ,此ノ際ノ取扱ニハ特ニ注意シテ早速快復ニ努力スルカ,一旦特攻隊員ヲ免ズルコトモ必要ナルコトアリ
(ヘ)雑念生セザル様可及的訓練ヲ励行スルヲ要スルモ燃料等ニ制肘セラレ不如意ナル現状ニ於テハ課題ヲ与ヘ,或ハ運動其ノ他仕事ニ従事セシメ,努メテ活動明朗敢闘的ナル雰囲気ノ醸成持続ニ努ムルコト
〔略〕
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
艦攻や艦爆で特攻する時に,後部座席に人が乗る必要があったのですか?
【回答】
パイロット一人では,警戒,航法,無線に不安があったため.
初期の陸軍重爆特攻でも,パイロットと航法員のみで特攻を行うケースがあったが,敵機の襲撃を受けても反撃が出来きずに撃墜されるケースが発生し,それなら…… ということで,搭乗員全部を乗せたりするようになりました.
また,艦攻や艦爆では無線機が偵察員席にあり,パイロット一人では無線を打てなかったり,特攻成功の際はそれを伝える長付を打たなければならなかったりで,無線員を乗せる必要があったワケです.
ペアの搭乗員と別れたくないといった心情的なものもあるかも知れませんが,特攻であっても航法,電信要員を乗せての出撃が殆どです.
ただし,特攻戦死者名簿をつらつらと眺めると,艦爆隊で単独特攻があります.
これは第三御盾隊の彗星に集中していて,後席に搭乗者を乗せた機体と必ずペアを組んでますが.
また,宇佐航空隊(練習航空隊)の九九艦爆にも単独突入があります.この隊も編隊長機は2名搭乗ですが.
【質問】
大西中将は「二千万を特攻に用いれば勝てる」と発言しましたが,一方で切腹し,「彼は勝っていても腹を切っていた」とも言われています.
やはりこの二千万特攻というのは立場上こう言わざるを得なかったでしょうか?
特攻隊を送り出すエピソードを聞いていると,どうも本気だとは思えないのですが.
【回答】
大西長官が昭和20年の2月の下旬から台湾在住の指揮下の各部隊に対し,繰り返し「特攻の重要性」を訓示していますが,その内容に
「100万の敵が本土に来襲せば,我は全国民を戦力化して300万,500万の犠牲を覚悟してこれを殲滅せよ」
というくだりがあります.
もちろん将官の訓示がこの一文で終わるわけも無く,
「今や飛行機や兵器は飛行機会社や兵器工場の製品ではなく,国民全部女子供までが勝って貰うために泣きながら作った,金にかえられない貴重なものである」
と続き,すべての航空機の「完全な戦力化」つまり特攻の必要性を説いたわけです.
これは指揮下部隊への訓示でしたが,毎日〔当時,東日〕の記者が一航艦の検閲を受けたと大本営にウソを言い,内地の新聞に載せます.
この記者は特攻を賛美していましたが,自分で記事を書けば検閲で消される.
そんなとき,部内限りのはずの訓示で大西長官が,「自分の言わんとしていることを言った」ので「彼の口を借りた」のだそうです.
5月10日に軍令部次長となった大西中将は抗戦論を展開しますが,その内容は
「99回負けても最後の1回で勝てばいい」
「いままで真の決戦は行われていない」
「本土こそが陸海空の戦力を総合できる」
「温存した航空機1万機と陸軍120万海軍100万の兵力を特攻隊とすることで上陸軍と刺し違える」
「そうすれば負けることは無い」
というものです.
航空のパイオニアで航空主兵論者である大西中将が,戦力の中核に航空機を据えるのは当然で,
「艦隊の無い海軍省は空軍省に脱皮させる」
とも言ってました.
「2000万を特攻」させるとするならあまりにも飛行機が足りません.
以上の記述は秋永芳郎の『海軍中将大西瀧治郎』(光人社文庫,1997.4)に拠ります.
500万というのも桁外れの犠牲ですが,一応,軍人という前提です.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 【反論】
上記回答,微妙にピントがずれているような気がします.
「二千万人特攻」が出てくるのは,昭和20年8月,ポツダム宣言受諾を巡るやり取りです.
まず8月10日夜,サンフランシスコ放送が,日本政府によるジュネーブ経由でのポツダム宣言受諾通告ニュースを流します.
翌11日,大西次長が豊田軍令部総長を訪ね,戦争継続を訴えます.
以下,阿川弘之著「米内光政」第20章より引用;
――――――
「たしかに戦勢は不利です.
われわれの努力が足りませんでした.
申し訳ないことです.
われわれが責任を負わなくてはなりません.
しかし,あと二千万人の日本人を特攻で殺す覚悟なら,決して負けはしません.
もう一度だけやらして下さい.
もう一度智恵を出させて下さい.
どうか,今しばらく戦争を継続させていただきたいと,陛下にお願いして下さい」
――――――
12日未明,バーンズ回答.
豊田総長は同日午前8時40分に梅津参謀総長と参内し,
「統帥部としては,本覚書の如き和平条件は断乎として峻拒すべきものと存じます」
と上奏.
米内大臣が立腹し,豊田総長を呼びつけて叱責.
続いて大西次長も,大臣室へやってきて口論を行う.
13日夜,大西次長は首相官邸へ乗り込んできて,会談中の鈴木首相,梅津豊田両総長,東郷外相に向かい言いました.
以下,前書より引用;
――――――
「高松宮様は何と申し上げても考え直して下さいません.
却って,海軍が陛下の御信用を失っているから,反省せよとのお叱りでございました.
ですから,米国の回答が満足であるとか不満足であるとかは事の末節であって,軍に対する陛下の御信任を得るため,かくかくの方法で勝ち抜くという必勝案を上奏して,御再考を仰がねばなりません」
と,例の二千万特攻論を持ち出し,「外相はどう考えますか」と東郷に訊した.
世上言われる「一億特攻」は一つの掛け声だが,大西の二千万は本気であった.
高木惣吉少将はこれについて,
「私も同じ海軍軍人として,大西中将の武将としての人格を高く評価し,その功績を認めるに吝かではないけれども,それで最後の勝利をどうやって保証できるか.
二千万人といえば,働きざかりの男子の総数である.
われわれは何のために戦い,何のために無辜の国民を殺すのか」
と,「私観太平洋戦争」の中にしるしている.
――――――
結論を言うと,軍令部次長だったときに言った二千万人特攻論は,本気だった,ということになるんではないでしょうか.
ちなみに,回答の中に出てくる「毎日の記者」は,後の社会部長で,イリオモテヤマネコ発見につながる標本を入手した戸川幸夫さんです.
同時に,東京新聞の中田記者という人も一緒にいて,同主旨の記事を書いたようなのですが,回答者が引用した「海軍中将大西瀧治郎」の中には詳述されていません.
なんでかというと,著者の秋永芳郎氏が,もともと毎日の記者だったから,というお話.
ぴぴ in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年08月03日
10:44
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
沖縄戦の米軍機動部隊への特攻戦ですが,少数で逐次攻撃するのではなくて,大量の特攻機を護衛をつけて運用し,飽和攻撃した方が良かったんではないでしょうか?
【回答】
まず現実的に不可能です.
陸上基地は広く分散しているため,同時に大部隊を集合させるような有機的運用は,当時の技術水準では(今でもかなり)無理でした.
それぞれの基地に,多くて数十機,そういう基地が数十箇所,というのが基地航空部隊の実情です.
ゆえに同時攻撃は多くても百数十機(米機動部隊1個群の1回分の攻撃にほぼ相当)がいいとこです.
そしてあなたのいう攻撃は,神雷桜花隊の悲惨な失敗という形で実証されてしまっています.
特攻機は大重量の爆弾を,無理やり積んでいるために動きが鈍く,護衛する側に大きな負担を強いるのです.
ゆえに沖縄戦の頃には,直接護衛するより戦闘機だけで先行し,突入路を開く間接支援に重点が移っています.
(直援も行われています)
で,逐次攻撃ですが,桜花隊においてはそのようなゲリラ的襲撃の方が,効果が上がることが戦訓で判明しています.
というより桜花隊は,全力出撃では犠牲が大きすぎるために逐次攻撃に移行したのですが.
第2回以後の神雷隊の攻撃は全て逐次で,相応に投下にも成功し,生還機もかなり出てます.
また,米艦隊側は四六時中緊張を強いられる逐次攻撃による,兵の消耗に終始悩まされています.
近年発見された「命中効果率56%」という数字は,艦隊が防空戦闘に入る段階まで特攻機の侵入を許してしまった場合,2機に1機以上が何らかの被害をもたらすというデータが残されているくらいで,米艦隊は特攻機を終戦まで恐れ続けていました.
ただしその一方で,この数字の母数は400機足らずに過ぎず,多くの特攻機が艦隊を視認する以前の段階で,防空戦闘機隊に阻止された実情をも表しています.
つまり,特攻を成功させる最大のカギはCAPの突破なのです.
ゆうかin職場 ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
神風特別攻撃隊はアメリカの制空護衛機がいない夜間低空で攻撃を仕掛けたら,もう少しマシな戦果を得られたんでしょうか?
【回答】
大戦末期の特攻隊員に,夜間低空でも目標にたどり着けるほどの腕はない.
経験の浅いパイロットに夜間飛行なんかさせたら,目標まで辿り着けないし,目標を捕捉して突入し命中させる事もできない.
経験の高いパイロットにそんなことやらせるなら,普通に雷爆撃させた方がいい.
また,観測してる機が「当たったかどうか」が判断でき辛くなる.
台湾沖航空戦みたいに「全機命中大戦果」を乱発するのがオチだな.
あと,米軍もその辺は予感してて,ちゃんとF6F夜戦型など,艦上夜間戦闘機を用意していた.
神風が本格化した硫黄島,沖縄戦の頃には,米空母夜間戦闘機隊は日本軍の夜間攻撃部隊をバカスカ落としてる.
実際は滅多に夜間攻撃は行われなかったので,ヒマでしょうがなかったそうだが.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
夜間戦闘機ってそんなに数がなさそうですが,それを上回る飽和攻撃(中空攻撃でも)ができれば,勝機はあったんでしょうか?
【回答】
だからまず,夜間に敵機動部隊まで飛んでいけるほどの腕のある搭乗員が,日本軍には絶対的に不足しているの.
夜でも迷わずに飛行できるだけのスキルを持った搭乗員が多数いれば,芙蓉部隊のように正攻法で十分な戦果が上げられるから,特攻で使い捨てにするのは愚の骨頂.
そもそもそんな攻撃隊を編成できるんだったら,戦争に負けないよ.
それに米軍は夜間戦闘機も,各空母に4〜8機積んでんだから.
米軍の生産力をなめちゃいかん.
夜間型の艦戦が少数生産に終わったのは,日本が夜間攻撃を滅多にやらなかったから.
F6FやF4Uの夜戦型は,通常型にレーダーポッドなどの最低限の改造をしただけなので,その気になれば大量生産は十分可能だった.
無改造艦戦でも,母艦や護衛艦艇のレーダーで敵機を捕らえ,無線で誘導することも可能だしね.
本土決戦のために無意味に温存してた航空機を全部投入すれば,一回くらいは大戦果が挙げられたかもしれない.
でもそこで日本の航空戦力は,全部なくなってしまう.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
別に空中に障害物がある訳じゃないし,夜でも照明で照らせば離陸はできるでしょ?
夜に無灯火で車を運転しろって言ってるんじゃないんだから,なんで難しいの?
羅針盤で方向を決めて飛べばいいだけじゃないの?
後はベテランを飛ばして,敵艦のところで照明弾を落とせばいいんじゃないの
それともそんな事もできないへたくそに飛行機を任すほど,日本軍ってバカなの?
【回答】
計器飛行ってのはな,まさに夜に無灯火で運転するようなもんなんだよ.
夜間飛行というのは基本「計器だけ」で飛んで帰ってくることを言う.
目で見たものを信用せず,戦時中の日本製計器のみを頼るわけだ.
当時は今のように性能のいいナビゲーションシステムがないから,計器だけに頼って正確に目的地にたどりつくには,かなりの技量が必要とされる.
地文航法もやらない.
天測だけ.
羅針盤は誤差があるし,仮に機首方向を正確に目標に向けても,空の上は風が吹いているから,風下に流される.
昼間なら発炎筒を海に落として風を見ることもできるが,夜間ではそれもできない.
どのくらい風に流されたのかさえ,計器と六分儀と計算尺でやるわけだ.
職人芸だよ?
昼間だと,途中の島などの目印があるし,最終目標の機動部隊も,かなり遠方から視認できる.
しかし夜だと,本当に計器だけに頼らなければならないし,すぐ近くまで行かないと敵艦が見つけられない.
米軍は性能のいいレーダーを持っているから,間違いなく米軍の方が先に特攻機を見つけて,迎撃してくる.
ふみ(黄文字部分)他 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
熟練パイロットが操縦する先導機を数機付けても,無理なんでしょうか?
【回答】
うむ,無理.
ベテランの先導ってのは,昼間の特攻でもやってますが,
・先導機が事故や敵の攻撃で墜落したら,それで終わり
・先導機と上手く空中で合同できない可能性もある
あと,夜間の場合,
・先導機を見失う可能性が極めて高い
まさか敵前で,誘導用のライトを点けろとか言いませんよね?
なので,抜本的な解決にはなりません.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
関係者が語りたがらない特攻作戦はありますか?
【回答】
関係者が語りたくない特攻作戦の典型例は,陸軍最初の航空特攻だろう.
志願ではなく命令で編成された部隊で,隊長は体当たり攻撃反対の意見書を出した人物.
特攻専用に改造された機体で装備した部隊が編成されたのは,大西が特攻を決断したといわれる日より前なのだから.
実際の特攻作戦でも,隊員の一人は体当たりせずに投弾してから生還しており,悪運の強い彼は,この後何度も特攻出撃しても,必ず投弾してから生還しており,ついには終戦後,日本に復員してしまった.
特攻関連の資料は,この部隊をどう扱っているかでそのスタンスがわかる.
特攻隊を賛美する資料は,陸軍初の特攻部隊なのにできるだけ触れないように書かれているのが多い気がするな.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
菊水作戦における日本軍の投入兵力は?
【回答】
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」によれば,
菊水1号(4月6日)
特攻 計215機(未帰還162機)
爆戦×86,甲戦×4,艦爆×76,艦攻×45,銀河×4,
通常 計176機(未帰還16機)
彩雲×20,夜戦×18,甲戦×116,瑞雲×4,陸攻×12,艦攻×5,大艇×1
菊水2号(4月12日)
特攻 計103機(未帰還69機)
陸攻×8,桜花×8,爆戦×25,甲戦×6,艦爆×20,艦攻×22,銀河×12,百式司偵×2,
通常 計241機(未帰還45機)
彩雲×18,夜戦×17,甲戦×150,陸攻×13,銀河×15,飛龍×16,瑞雲×6,水偵×3,月光×3,
菊水3号(4月16日)
特攻 計177機(未帰還106機)
陸攻×6,桜花×6,爆戦×89,艦爆×34,艦攻×20,銀河×21,
通常 計239機(未帰還21機)
彩雲×14,夜戦×11,甲戦×166,艦爆×5,艦攻×11,銀河×20,飛龍×12,
菊水4号(4月18日)
特攻 計70機(未帰還32機)
陸攻×4,桜花×4,爆戦×11,甲戦×3,艦爆×28,艦攻×12,水偵×8,
通常 計201機(未帰還7機)
彩雲×17,夜戦×36,甲戦×94,艦爆×5,艦攻×23,陸攻×8,銀河×10,水偵×1,飛龍×6,瑞雲×1,
菊水5号(5月4日)
特攻 計136機(未帰還61機)
陸攻×7,桜花×7,爆戦×62,甲戦×5,艦爆×14,艦攻×13,水偵×28,
通常 計164機(未帰還4機)
彩雲×10,夜戦×22,甲戦×91,艦攻×9,陸攻×9,銀河×9,飛龍×7,瑞雲×7,
菊水6号(5月11日)
特攻 計69機(未帰還50機)
陸攻×4,桜花×4,爆戦×37,艦攻×10,銀河×8,水偵×6,
通常 計106機(未帰還3機)
彩雲×9,夜戦×10,甲戦×75,艦攻×7,陸攻×3,銀河×2,
菊水7号(5月24〜25日)
特攻 計107機(未帰還32機)
陸攻×12,桜花×12,爆戦×10,銀河×22,白菊×49,水偵×2,
通常 計254機(未帰還9機)
彩雲×21,夜戦×36,甲戦×131,艦攻×10,陸攻×17,銀河×13,瑞雲×15,大艇×1,水偵×1,飛龍×9,
菊水8号(5月27〜28日)
特攻 計51機(未帰還26機)
白菊×36,水偵×15,
通常 計157機(未帰還20機)
彩雲×3,夜戦×16,甲戦×85,艦攻×8,陸攻×15,銀河×12,瑞雲×3,水偵×2,大艇×1,飛龍×12,
菊水9号(6月3〜7日)
特攻 計23機(未帰還5機)
爆戦×13,甲戦×4,艦爆×6,
通常 計222機(未帰還13機)
甲戦×101,彩雲×21,夜戦×45,艦攻×19,陸攻×12,銀河×3,瑞雲×8,水偵×6,大艇×1,飛龍×6,
菊水10号(6月21〜22日)
特攻 計67機(未帰還28機)
陸攻×6,桜花×6,爆戦×25,甲戦×6,白菊×16,水偵×8,
通常 計188機(未帰還25機)
彩雲×6,夜戦×12,甲戦×121,艦攻×6,陸攻×9,銀河×4,瑞雲×16,水偵×2,飛龍×12,
夜戦は彗星,零戦,月光.
飛龍は陸軍より指揮を移管された部隊.
でもって,2月14日〜6月22日に至る海軍航空作戦は,
九州方面より出撃 延7095機
制空・直掩 3004機,偵察・哨戒 919機,攻撃 3167機
台湾方面より出撃 延783機
制空・直掩 109機,偵察・哨戒 94機,攻撃 580機
これらに加えて特攻出撃 延1868機
そして未帰還機は総計1339機,内特攻972機.
菊水作戦に呼応した陸軍の総攻撃
第6航空軍
第1次総攻撃(4月6〜7日)
特攻 118機
通常
艦船攻撃 襲撃機×2(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×10(未帰還2),制空 71(未帰還15),偵察 8(未帰還1),
第二次総攻撃(4月12〜13日)
特攻 90機
通常
艦船攻撃 襲撃機×4(未帰還0),飛行場攻撃 重爆×8(未帰還2),制空 68(未帰還5),偵察 3(未帰還0),
第3次総攻撃(4月16日)
特攻 50機
通常
艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×4(未帰還0)+戦闘機×11(未帰還8),制空 36(未帰還2),偵察 1(未帰還1),
第4次総攻撃(4月21〜22日)
特攻 36
通常
艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還1),飛行場攻撃 重爆×8(未帰還0)+襲撃機×3(未帰還3),制空 46(未帰還3),偵察 5(未帰還1),
第5次総攻撃(4月28日)
特攻 36
通常
艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還0),飛行場攻撃 重爆×7(未帰還0),制空 28(未帰還8),偵察 1(未帰還0),
第6次総攻撃(5月4日)
特攻 50
通常
艦船攻撃 襲撃機×5(未帰還5),飛行場攻撃 重爆×7(未帰還1),制空 30(未帰還4),偵察 3(未帰還1),
第7次総攻撃(5月11日)
特攻 40
通常
艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×5(未帰還1),制空 30(未帰還5),偵察 1(未帰還0),
第8次総攻撃(5月24〜25日)
特攻 70
通常
艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×26(未帰還10),制空 55(未帰還5),偵察 2(未帰還1),
第9次総攻撃(5月27〜28日)
特攻 39
通常
艦船攻撃 襲撃機×2(未帰還1),飛行場攻撃 重爆×4(未帰還2),制空 25(未帰還4),偵察 1(未帰還0),
第10次総攻撃(6月3日)
特攻 31
通常
艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 0,制空 36(未帰還3),偵察 1(未帰還0),
※第8次総攻撃には義烈空挺隊を含む.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【珍説】
〔特攻攻撃によって〕沖縄戦では沈没した艦船76隻,損傷164隻に及び,米軍将兵たちは戦場神経疲労症(シェル・ショック)に患って,一時は戦争遂行も危ぶまれるほどだったのである.
小林よしのり『戦争論』
【事実】
撃沈は26隻に過ぎず,しかも,撃沈した艦船は駆逐艦以下の小型艦艇に限られ,巡洋艦以上の大型艦は撃沈されていません.
特攻によって,アメリカ軍が戦闘不能状態に陥ったという事例もありません.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6kamikaze_k.htm
軍事板
もっとも,戦果は資料によって前後します.
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-okinawa23.html
では24隻,
http://homepage1.nifty.com/usaki/eirei/tokkou1.html
では軍艦32隻+輸送船75隻,という数字もあり(信憑性に疑問符付),まったくの無根拠というわけでもありません.
小林氏が読んだ何かには「76隻」という数字が載っていたのでしょう.
ただし,その資料の信憑性を十分吟味せず,そのまま数字を使ったこと自体は,責めを負うべきです.
また,一時撤退を検討した記録は確かに残ってます.
ソッコー却下されていますが(苦笑
▼ また,歴史家のサミュエル・モリソンはその著書『モリソンの太平洋海戦史』(光人社,2003.8.31)の中で,特に危険だったレーダー・ピケット艦について言及していますが,体当たりされた艦艇の乗員の様々なエピソードを記した後,以下のように結んでいます.
――――――
レーダー・ピケットと他の艦船に対してカミカゼが行ったのは,自己破滅の猛攻撃だったが,かつてこのような炎の恐怖,責め苦の火傷,焼けつくような死に用いられた飛び道具や兵器は少なかった.
沖縄での戦いの中で,来る日来る日も〔原文ママ〕,縡の艦船の乗組員が示した持続する勇気,臨機の才,敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している.
――――――p.436
幾分は自国自讃も混じっているでしょうが,同書に述べられている具体的事例は,
「戦争遂行も危ぶまれる」
とは程遠い敢闘精神を確かに示しています.▲
【参考動画】
「ワレYouTube発見セリ」:アメリカからみた【神風特攻隊(KamikazeTokko)】第二次世界大戦
【質問】
先の大戦で,特攻命令を拒否した人は死刑ですか?
【回答】
「命令」の拒否になると軍法の対象になる.
その前の,隊員選抜の段階では決して強制しないよう,拒否自由であることを通達する命令文書が何通もある.
まあつまり,一旦志願して隊員になった後に出撃拒否をすれば,それは通常の軍令拒否であるから処罰の対象になる.
ただし特攻の特殊性から,メンタル面の影響は配慮するよう,これまた通達がある.
念のために言っておくが,拒否できない雰囲気だった,とか半強制っぽい感じの部隊も多かったことは否定しない.
しかし制度上は基本的に志願であり,それを拒否したところで特にペナルティはなかったということだ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
特攻は,中には強制もあったことは認めるが,全部がそうでなかったのでは?
【回答】
制度的には強制ですね.
軍板の住人の多くは,それを作戦にまで組み込んだことを問題としています.
まぁ広義の強制って奴だな.
特攻に限らず日本の社会はそういう風潮がある.やりたくないけどそれをクチにだせる空気じゃないってのは,悲しいかな,自己主張の弱い日本人には得てしてある.
【質問】
でも,自ら志願した若者もいたはずでは?
【回答】
本当に心の底から喜んで参加しのかは誰にも分かりません.
以下の引用文に見られるように,当時,毎日のように特攻隊員を見ていた人でさえ,別の一面には気がつかなかったようです.
軍隊,取り分け個人の兵士というのはですね,出来うるまで生き残って敵を倒すことが絶対条件なんです.これは軍事の基礎の基礎です.本来,全ての訓練,制度はその為にあるといって過言ではないのです.
古今東西,ありとあらゆる戦で組織が死を決したとき,それは負けるときのみです.
そして負けが決定的であるのに,ただ悪戯に引き伸ばすためだけの作戦を強要してはばからない組織は,すでに死に体も同然でしかありません.
つまり組織としては瓦解しているわけです.
軍板の住人は,おそらくほぼ全員が,国に残した人々のために,死を賭して立ち塞がろうと気高く出撃していった人々が居たことを疑ってはいません.
ですが,それを強要して憚らず,美談に仕立て,軍事組織としての本分を忘れたことに対して容認できないのです.
(以下,引用)
暗闇の坂道を山裾の搭乗員室に向かう.搭乗員室とは名ばかりで,道端の椰子の葉で葺いた堀っ建て小屋,土間に板を並べただけのものである.
その入り口に近づいた時,突然右手の暗闇から飛び出して来た者に大手を広げて止められた.
「ここは士官の来る所ではありません」と押し返してくる.
私はその声に聞き覚えがあって,むっとした.それは二〇三空の倉田上飛曹であった.厚木空の教員時代,同じ分隊におり,同じラバウル帰りの長野,山本の同年兵である.三人組で私の下宿へ押しかけて来ては妻の酌で飲んでいった奴である.
「何だ,倉田じゃないか.どうしたんだ」
私の声に彼も気がついた.
「あッ分隊士ですか.分隊士ならいいんですが,士官が見えたら止めるように頼まれ,番をしていたものですから」と変なことをいう.
不審に思ってわけを聞いてみると,
「搭乗員宿舎の中を士官に見せたくないのです.特に飛行長には見られたくないので,交代で立ち番をしているのです.飛行長が見えた時は,中の者にすぐ知らせるのです.しかし,分隊士ならよろしいですから見て下さい」
そう言われてドアを開けた.そこは電灯もなく,缶詰め空缶に廃油を灯したのが三,四個置かれていた.
薄暗い部屋の正面に,ポツンと十人ばかりが飛行服のまま,あぐらをかいている.そして,無表情のままじろっとこちらを見つめた目が,ギラギラと異様に輝き,ふと鬼気迫る,といった感じを覚えた.
左隅には十数人が一団となって,ひそひそ話している.ああ,ここも私たちの寝床ではない,と直感して扉を閉めた.
「これはどうしているのだ」
倉田兵曹に聞いた.彼の説明では,
「正面にあぐらをかいているのは特攻隊員で,隅にかたまっているのは普通の搭乗員です」
と言う.私は口早に質問した,
「どうしたんだ.今日俺たちと一緒に行った搭乗員たちは,みな明るく,喜び勇んでいたように見えたんだがなあ」
「そうなんです.ですが,彼らも昨夜はやはりこうしていました.目をつむるのが恐いんだそうです.色々と雑念が出て来て,それで本当に眠くなるまで,ああして起きているのです.毎晩十二時頃には寝ますので,一般搭乗員も遠慮して彼らが寝るまでは,ああしてみな起きて待っているのです.しかし,こんな姿は士官には見せたくない.特に飛行長には,絶対にみんな喜んで死んで行く,と信じていてもらいたいのです.だから,朝起きて飛行場に行く時は,みんな明るく朗らかになりますよ.今日の特攻隊員と少しも変わらなくなりますよ」
私は驚いた.今日のあのゆうゆうたる態度,嬉々とした笑顔,あれが作られたものであったとすれば,彼らはいかなる名優にも劣らない.
しかし,また,昼の顔も夜の顔もどちらも本心であったかも知れない.
甲飛四期生(私が筑波空で受け持ったクラスである)の某准士官がいた.
彼は妻帯者であり,准士官にもなっているので,技量も優秀なのは当然である.
彼が特攻出撃の前夜私のところに来て,
「特攻攻撃とは爆撃命中率百パーセントであれ,という意味ではないのですか.私は敵艦に完全に命中させる自信があります.その場合,生きて帰ってはいけないのでしょうか?」
と私に問いかけた.
私は返事に困った.
「いや,それはいけないのだ」
とは知っていながらも,彼を前にしては言えなかった
(中略)
翌朝,特攻隊は例の如く,出撃のため号令台の前に整列し宇垣長官のはなむけの言葉をちょうだいした.
「前日は,小官所要のため特攻隊の見送りができなかった.本日お前達が行ったら,昨日出撃していった者達によろしく伝えてくれ.みんなの成功を祈る」
長官の言葉が終わったとき,昨夜の准士官が,
「質問があります」
と言って手を挙げた.
長官は彼の方を見た.
「本日の攻撃において,爆弾を百パーセント命中させる自信があります.命中させた場合,生還してもよろしゅうございますか?」
彼が言い終えるや否や,長官は即座に大声で答えられた.
「まかりならぬ」
の言であった.
「かかれ」
の号令があって,彼は私のところに走り寄った.
「今聞いていただいたとおりです.あと二時間半の生命です.では,お先に」
と言い残して機上の人となった.
(岩井勉著「空母零戦隊」,文春文庫2001)
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
最近,つくづく「若い」ということの「純粋性」を思い知らされる.
歳をとればとるほど,魂に不純物が混じってきて,その分,言葉で粉飾することが身についてしまう.
言葉で自分自身を誤魔化して生きているやつの多いことよ.
特攻隊に続々志願したのも,若者たちだったことに,改めて思いが至る.
(小林よしのり from SAPIO 2003/8/30 & 9/3合併号,p.81)
【ツッコミ】
「言葉で自分自身を誤魔化して生きているやつ」とは勿論,小林本人のことですよね? まさか,普段,小林が中傷している人達のことではないですよね?
・拉致を「テロだ」と言ったり,「テロじゃない」と言ったり,
・「大東亜青年塾」名誉塾長なのに,「右翼団体とは関係ない.(ゴー宣 190章)」と言ったり,
・なぜか万景峰号等の北朝鮮船に対する厳しい臨検には反対したり,
(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3408/200306access.mp3)
等のウソでウソを上塗りするような発言を連発してきた小林本人のことですよね?
だいたい,
>「若い」ということの「純粋性」を思い知らされる.
など,かつて「純粋まっすぐ君」をあれだけ批判していた小林が,言っていいことではありませんね.
特攻隊の英霊達を,テメエのご都合主義で利用すんな.
????
▼ 俺は保阪氏マンセーではないけれど,例えば特攻隊に関連する本や記事の中では,現代2004年12月号と2005年1月号に掲載された,保阪氏の「60年目の特攻隊論」がいちばんバランス取れていると思う
端的に言えば,「英霊」とか「犬死」とか白黒二元論で見るのではなく,美談ではない事実として,彼らの心情や内面をありのままに知ろうという視点.
また,保阪氏と半藤氏の対談本「昭和の名将と愚将」の最後のところに曰く,特攻については,
「犬死ではない,しかし英雄ではない,我われは感情的になってはいけない」
だそうだよ.
他にも彼の本や記事はいろいろ読んでるけど,彼は決して「日本軍は最悪で評価はゼロ」という結論ありきで始まってるとは思わないよ.
世代的に憤りとか抑えられん部分があるのだろうとは思うが,それはしょうがないよね.
ただ,保阪が2007年に母校で公演した際,女学生から
「でも,この本(「昭和の名将と愚将」)の最後の方は,随分と感情的になっちゃってますよね」
って指摘されたとか.
まあ特攻に関しては,費用対効果から語るべきだよな,本来は.
当時の日本人一人の値段に,特攻によって敵艦一隻を撃沈するのに必要な数をかけて,それが米軍の軍艦一隻とつりあうのかどうか.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
特攻隊に関して小林よしのりの描いたものを読むと,
特攻隊がこんなふうなイメージになってしまう(苦笑
(画像掲示板より引用)
【質問】
特攻作戦は,日本軍航空部隊の士気にどんな影響をもたらしたのか?
【回答】
目に見えて低下したという.
以下,岩本徹三「零戦撃墜王 空戦八年の記録」(光人社NF文庫)
より.
――――――
(フィリピン戦での航空総兵力による総攻撃の敗北に続いて)
「またもこの重大な戦局に際して,最後のたのみの綱の航空兵力は大半を失ったのである.その後,航空部隊の攻撃は,特攻一点張りとならざるを得なくなった.
この戦法が全軍に伝わると,わが軍の士気は目に見えて衰えてきた.
神ならぬ身である.
生きる道あってこそ兵の士気は上がる.
表向きは,みんな,つくったような元気を装っているが,かげでは泣いている.
こうしてまで,下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか.
勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった.
――――――p.333
グンジ in mixi,2010年07月18日23:36
考えてみれば,そうなって当たり前の話ではある.
【質問】
旧軍に終戦まで特攻を拒否し続けた航空部隊があったって本当ですか?
【回答】
有名なのは海軍の「芙蓉部隊」.
渡辺洋二氏の「彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団」(光人社)に詳しく載っています.
軍事板
上記で紹介されている書籍の紹介↓
http://plaza.rakuten.co.jp/eugene/3004
芙蓉部隊の基地の跡地の写真↓
http://sooshiya.web5.jp/sootakara/oosumi/iwagawakichi/index.html
米軍に見つからないよう,滑走路は巧妙にカモフラージュされていたそうです.
特攻ではなく夜間爆撃を選択した芙蓉部隊指揮官の美濃部正海軍少佐は,とことん合理主義を追求する人だったようです.
帝国海軍の悲劇はこのような軍人が例外だったということなのでしょう.
バグってハニー by mail
【質問】
特攻隊員が最後の無線通信で,「天皇陛下ばんざーい」って言って死んでいったってのはマジですか?
すごく考えたんだが,俺なら「おかあさーん」と言いそうなもんだが・・・
だいたい,通常任務での編隊内通話すらままならんというのに,特攻機にまともな機上無線機など積めるわけないのでは?
【回答】
フィリピン戦ならまだしも,沖縄では直援がつかないことが多い(突入路啓開の間接支援に重点が移っていた)から,自分で敵を発見し,自分で戦果を報告する必要があります.
だもんで通信計画はきっちり規定されてます.
それを担う無線・電信機材はむしろ必須アイテムと言えるものでした.
で,事例は多いとは言えませんが,「お母さん」も「天皇陛下万歳」も戦後の証言の形で残ってます.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
特攻隊の遺書には捏造があるの?
【回答】
「捏造」は無いが,出版された特攻隊員の遺書が収録時点で改竄された例は,枚挙の暇がないほど多い.
数年前,朝日から出た本の改竄を見つけた読売が喜んで記事にしたら,その後自社の本でも改竄があったことが判明して大恥を掻いた,なんて一件も.
ちなみに,「きけわだつみの声」にも「添削」がある.「愛国戦隊大日本」モードに入ってる人達も当然居たんだが,なにせ,岩波から出てる本なので,そういう部分はカットされてる.
なお,特攻隊員の遺書に必ずしも本音ばかり書かれているわけではない.一応,上官による検閲があるため.
unknown
▼ 以下は,「愛国」モードの遺書の一例.
三島由紀夫が,例の事件の前に読んで感涙したやつ.
「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより,身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを,朝な夕なに神仏に懇願すべきは,之親子の情にして当然なり.
然し時局は総てを超越せる如く重大にして,徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り.
大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ,正にそれ孝なりと決し,すべて一身上の事を忘れ,後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり」
陸軍の万朶隊や富嶽隊みたいに,
「前線に着いたら,いつの間にか特攻隊にされていた」
という例もある一方,こんな人もまたいたわけで.
軍事板,2009/05/17(日)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
なぜ『きけわだつみの声』などで,そうした「添削」がまかり通ったのか?
【回答】
「戦争体験」を政治利用したい政治勢力が戦後,主導権を握ったためだという.
そして,日本の軍国主義を徹底非難することは,当初軍国日本の解体を最優先しようとしていたGHQの占領目的に沿ってもいたので,彼らはGHQの庇護の下,そういう行為を推し進めることができたのだという.
以下引用.
――――――
戦争体験を如何に語り継ぐかで戦後,主導権を握ったのは左翼陣営だった.
左翼陣営は共産主義革命の到来は歴史の必然であり自明であって,
「現政権を打倒し革命を成就するためには全て(殺人,テロを含む)が許される」
というとの強い信念のもと,「戦争体験を政治の手段,政治の道具として利用しつくそう」とする.
ところが戦争体験の政治利用に反発を覚える人たちもいて,戦争体験は政治的に利用しないと意味が無いと思う左翼の間で,大きな論争が繰り返される.
左翼は戦争体験の改ざんを公然とすすめた.
「きけわだつみのこえ」に収録されたのは戦争を呪い,戦争で死ぬことの無意味さを嘆く左翼の政治目的に沿った声ばかりだが,当然ながら,出陣学徒兵たちが残した遺書はこうした趣旨のものばかりではなかった.
「自分のため家族のため国のため民族のために進んで死んでいきます」
という,絵に描いたような忠君愛国の遺書も多数あったわけだが,こうした「左翼の政治目的に不都合な真実」は全部カットされ,掲載されなかった.
それでも日本の軍国主義を徹底非難することは,当初軍国日本の解体を最優先しようとしていたGHQの占領目的に沿ってもいたから,GHQの庇護の下,左翼は大手を振って歴史の改ざんを推し進めることになる.
今から思うと,これがそもそもの「戦後日本の不幸」の始まりだったように思える.
こうした「戦争体験の政治利用」に対しオールドリベラリスト(田中耕太郎,和辻哲郎,竹山道雄など)や安田武,渡辺清ら少なからぬ人々が違和感を覚え,異議を唱えた.
オールドリベラリストと目された人たちは高い教養と常識を身につけた知の巨人たちであり,知識が浅く視野が狭い当時の若者たちのようには短兵急な共産主義革命の情熱に絡め取られなかった.
そして革命にはやる若者たちに対し,
「学生の本分は教養を磨くことだ」
と諭したのである.
ところが,傲慢にも当時の若者たちは,こうした知の巨人たちの讒言をものともせず,むしろ「黙れ,ジジイ」と罵声を浴びせたのである.
この罵声を煽ったのが共産主義者吉野源三郎率いる岩波書店の雑誌「世界」であり,そこに集った共産主義シンパの丸山真男,都留重人,羽仁五郎,加藤周一ら所謂進歩派知識人たちであった.
当初,オールドリベラリストも盛んに「世界」に寄稿していたが,やがてアカの吉野によってオールドリベラリストら「古い教養人」は「世界」から追放され,雑誌「心」に流れていく.
〔略〕
自分とは意見を異なる考え方をする人々に,ひたすら「保守反動」というレッテルを貼って,その意見を封殺し,人格を全否定し,罵倒しつくし罵詈讒謗を浴びせた連中は,私の目から見ると,まさに竹山道雄・田中耕太郎らが指摘するように戦前の右翼,ファシスト,青年将校と瓜二つである.
またその20年後に,今度は時代の寵児だった丸山真男がキャンパス内で左翼学生に拉致され罵声を浴びせられるのだから歴史は皮肉である.
〔略〕
――――――「塩津計」:左翼学生,日本共産党,全学連,全共闘が,いかに戦後の日本を毒したかというお話――『「戦争体験」の戦後史』(福間良明著,中公新書,2009.3)書評
要するに歴史「修正」ないし改竄をするようなヤツに,右も左もないということ.
【質問】
8回出撃し,体当たりをしないで敵艦に攻撃をし,終戦まで生き残った特攻隊員が居たって本当ですか?
【回答】
陸軍航空隊の佐々木友次伍長のことでしょうか?
昭和19年11月12日,万朶隊の1機として出撃するも,不時着,生還.
困ったことに,すでに特攻戦死の報告が上層部に上がっており,その後,上層部から
「お前はすでに死んだことになっているんだから,次の出撃で死ね」
と言われ続けたが,卓越した技量と,強運によって,何度出撃しても生還し,ついに終戦を迎えたという人です.
【質問】
神雷桜花隊の出撃概容を教えられたし.
【回答】
「真相・カミカゼ特攻」「ああ神風特攻隊」より
3月21日 第一神雷攻撃隊 出撃時刻1120
陸攻18機・桜花16機(全滅,桜花1機消息不明?)
4月01日 第二神雷攻撃隊 出撃時刻0229
陸攻6機・桜花3機(陸攻1機生還,さらに3機生還?)
4月12日 第三神雷攻撃隊 出撃時刻1230
陸攻5機・桜花8機(陸攻3機生還)
4月14日 第四神雷攻撃隊 出撃時刻1130
陸攻7機・桜花7機(全滅)
4月16日 第五神雷攻撃隊 出撃時刻0658,0710
陸攻6機・桜花6機(陸攻1機生還?)
4月28日 第六神雷攻撃隊 出撃時刻1625
陸攻4機・桜花4機(陸攻1機生還,さらに3機生還?)
5月04日 第七神雷攻撃隊 出撃時刻0522,0630
陸攻7機・桜花7機(陸攻1機生還,さらに1機生還?)
5月11日 第八神雷攻撃隊 出撃時刻0556,0605,0712
陸攻4機・桜花4機(陸攻1機生還?)
5月25日 第九神雷攻撃隊 出撃時刻不明
陸攻12機・桜花12機(陸攻9機生還?)
6月22日 第十神雷攻撃隊 出撃時刻0525
陸攻6機・桜花6機(陸攻2機生還?)
「生還?」 としたのは,特攻として功績が記録されておらず,この2冊だけからは詳細不明な機体です.
後に海軍神雷部隊戦友会編・「海軍神雷部隊」で補完し,第1・第9・第10は編隊攻撃,第6・第7・第8が単機攻撃なのはほぼ確定しました.
第5も単機の可能性が高そうです.
このときはトルエン大尉・名無しさんと三人で議論を重ね,当初抱いていた私の「桜花は編隊出撃基本」という認識が誤りであると知ることができ,貴重な体験でありました.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
飛龍を改造した特攻機の名前は何ですか?
【回答】
丸メカニック「飛龍」によれば,以下のような種類がありました.
●「特別攻撃機ト号機」
昭和19年8月,爆撃装置を全部撤去し,後上方砲座後方に海軍の80番爆弾(800kg)2発を固定し,空母や戦艦に体当たりして一撃で撃沈しようとの目的で試作指示.
尾部が重くなり,尾部砲と同防弾板を廃止.
昇降舵には固定タブ追加.
生産は川崎航空機で行い,要求の全10機が翌9月に完成し,追加された5機も12月には完成.
一部が事故で失われ,残りはマニラにおいて空襲により破壊されたと伝えられる.
●特別攻撃機桜弾装備機
炸薬量1600kgの桜弾を無線席後方に搭載,巨大なフェアリングをかぶせた機体.
他の武装は全て撤去.
乗員も2名のみ(指揮官機は3名)
昭和20年2月に試作2機が完成したのみ.
他にサイパンまで往復して攻撃しようという,「特殊航続延長機」と「キ-67改長距離襲撃機」というものがありました.
これは特攻機とは主旨が異なりますが,人によっては特攻機扱いするかも.
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk :軍事板,2005/03/01
青文字:加筆改修部分
桜弾搭載機
(画像掲示板より引用)
【質問】
山岸章って誰?
3行以上で教えて!
【回答】
山岸章は日本海軍の予科練パイロットだった人物.
1929.7.28,現在の大阪市東淀川区東中島において,行商人の子として生まれる.
父親は仕事が長続きせず,職業を転々としていたため,幼少期は貧しい生活を送った.
啓発第二小学校卒業後,日本大学大阪中学校に入学するも,戦争のため兵庫県城崎に疎開.
1944年,旧制豊岡中学在学中,海軍甲種予科練習生に志願.
特攻隊員として大分県宇佐市の九三一海軍航空隊に配属されるも,特攻出撃前に終戦を迎える.
1945年,父親が疎開していた富山県に引き揚げ,父親の実家で農作業を手伝ったり,浮遊機雷の除去に従事したりした.
1946年,金沢逓信講習所業務科に入学.
1948年,同所を卒業し,富山県の郵便局に勤務.
1949年から労働運動に参加するようになり,全逓信従業員組合(全逓)の民主化同盟派の活動家として,日本共産党系労組と対立.
その後,電電公社(現NTTグループ)の労組委員長となり,「総評」や「同盟」などに分かれて対立していた労組を束ね上げ,1989年,「連合」を発足させた.
細川内閣誕生樹立に尽力するなど,政治にも積極的に関与したが,そのせいで労組が過度に政治的になり過ぎ,肝心の労働者向上のための運動が労組において後回しになる素地を作った印象も受ける.
2016.4.10,老衰のため死去.
【参考ページ】
http://www.asahi.com/articles/ASJ4H669BJ4HULFA03P.html
http://www.j-cast.com/2016/04/16264293.html
http://www3.grips.ac.jp/~oral/Japanese/Summary/yamagishi.htm
【ぐんじさんぎょう】,2016/04/26 20:00
を加筆改修
【質問】
今は亡き映画俳優の鶴田浩二は「自分は海軍予備学生出身の少尉か中尉で,零戦に乗っており,特攻隊員だった云々」と言っていたが,海軍関係の名簿にも大学の名簿にも名前は無かった.また関係者もそのような人物はいなかったと言っている.実際はどこかの航空基地の兵隊だったとある雑誌に載っていました.
本当ならヒドイ軍歴詐称であり,戦死された特攻隊員の方々に対する重大な冒涜だと思いますが,いかがでしょうか?
【回答】
詐称は本当.
しかし発覚しても弁明することなく,講演活動や多額の私財を投じて戦没者の遺骨収集などに黙々と尽力.
この活動が政府を動かすことになり,戦友会も心を動かされ,鶴田を温かく受け入れることになったという.
以下,ウィキペディアより引用.
上の記述の通り元海軍軍人であり,本人は特攻隊の出身,特攻崩れだとしていたが,実際には元整備兵であり,出撃する特攻機を見送る立場だった.
当然ながら,顔が売れるにつれ,同じ隊の戦友会にばれ,猛抗議を受けるが,一切弁明はしなかった.
黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し,日本遺族会にも莫大な寄付金をした.
この活動が政府を動かし,ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった.
また,各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った.
生涯を通じて,亡き戦没者への熱い思いを貫き通した.
これらの行動に,当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ,鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた.
ソースがWikipedeaでは証拠能力が低いと思うなら,自分で他を調べるなりしてちょ.
【質問】
B-29へも体当たり攻撃は行われたのですか?
【回答】
B-29への体当たり攻撃は,実は組織的に行われていました.
昭和19年11月からB-29による偵察行動が行われており,それに対してなんら手を打つことができなかった,東京の防空を担当する陸軍第十飛行師団では,武装や防弾装備を除去した軽量機での体当たり攻撃の実施を決定,各部隊で体当たり隊が組織されました.
こうして11月末より,明らかに軍事的効果としてはほとんど無意味な空対空特攻が開始されるのです.
後にこれらの部隊は「震天制空隊」と命名されました.
また例えば,2008年に話題になった,東京での不発弾撤去作業
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=491199&media_id=2
では,1トン爆弾というめったにない大物の撤去のため,過去にない大規模な避難が行われましたが,非常に珍しいことにこの爆弾を積んでいたB-29の行方がわかっています.
<調布不発弾>墜落B29から落下 中学生が克明スケッチ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=484598&media_id=2
記事の内容や手元の資料などから,投下時の状況を大体掴みました.
昭和20年4月7日に行われたこの空襲は,三鷹市にある中島飛行機武蔵製作所への攻撃で,101機のB-29による高度4500mからの昼間精密爆撃でした.
軍需工場への爆撃だったために威力のある1トン爆弾が使われたわけです.
この時迎撃に当たった陸軍飛行第244戦隊「とっぷう隊」の古波津里英(こはつさとひで)少尉操縦の飛燕がB-29に体当り,B-29は墜落して古波津少尉は落下傘降下して生還しました.
この功により,古波津少尉は武功徽章乙という非常に名誉ある勲章を授与されています.
地上から目撃されたのは,この古波津少尉の体当たりでした.
余談ですが,この4月7日の爆撃は初めてP-51戦闘機による護衛が付いた爆撃で,P-51を飛燕と勘違いした日本機が多数撃墜されています.
古波津少尉の突入は震天制空隊とは関係ない偶発的な突入だったようですが,いずれにせよそこまでしなければならなかった欧米との技術力の差と,軍部の無為無策ぶりが腹立たしく思われます.
なんにせよ日本が空襲によって多大な被害を受けた,その悲惨さは長く記憶にとどめないといけません.
ナオ in mixi,2008年05月19日14:05
青文字:改修部分
【質問】
特攻専用機「剣」が不採用になったのは何故?
【回答】
欠陥があまりにも多く,実用に適さなかったため.
キ115「剣」の試験飛行結果については「丸エキストラ 戦史と旅」Vol.19の高島亮一氏(キ115首席審査官)の手記と,
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/turugi1.html
のキ115主任設計者の青木邦弘氏の手記を読み比べると,興味深いと思います.
高島氏の手記では,開発者には
「あの機体は(心情的に)不採用にした」
と自分が語ったかの如く伝えられたけど,実際には欠陥があまりにも多く,実用に適さないので不採用にしたと述べ,「心情論」に関しては具体的に機体の問題点を列挙して,明確に否定していた筈です.
実機の飛行審査での高島氏の審査報告の記述を一部書きます.
(主に離陸と飛行特性に関してですが)
* 50kg以上の爆弾を搭載しての離陸は,投棄する脚の緩衝不良のため,バウンドするのと,舵の効き不十分で,操縦が難しく,転覆のおそれが多い.
* 翼が小さく,翼面荷重が大きく,安定板面積,舵面が小さいので,空中操作,旋回,航進,攻撃ともに難しく,特に爆弾搭載時甚だしい.
また飛行中の感想としては
「・・200km/時以上の速度を保って上昇する,上昇しながらも,横にフラフラする.横の安定性が悪い・・」
「・・水平,方向,横の安定性が悪く,常に三舵を激しく使って姿勢を保たねばならない・・」
「・・操縦桿とフットバーを動かさずにおくと,機は横滑りを始める.自分で安定する力がない.」
とあります.
高島氏の総評は
「空気力学的な検討を欠いた,未熟な飛行機」
とあります.
これに対する青木氏の反論なり評価が,氏の手記の中には見あたりません.
また,KF誌に連載されていた,渡辺洋二氏の「陸軍審査部航空隊」に,飛行特性についてのかなり具体的な証言録があります.
あまりにも安定性が悪く,審査部員の技術をもってしてさえ,まっすぐ飛ばすことさえ覚つかなかったとか.
事故損失率も計算されてますが,確か10機飛ばしても,突入点に至れる数は2,3機となっていました.
飛行審査官は,「審査を早く通せ!」との上層部と,「このままでの実用出来ない」とする自己の主張との板挟みになって,大変に苦労なさったそうです.
(結局は不採用で押し通しました)
「キ-115「剣」誕生秘話」では,「剣」の設計・試作について特に困難だったとの記述がありません,
むしろ「この素朴な小型機を造ることは,きわめて容易なことであった」と書かれています.
しかし,その容易な筈の機体の完成度にはかなりの問題がある点に,氏は全く触れていません.
(完成後はもう自分の手を離れたかの様に書いてあります)
最初に読んだ感想では,ただ「剣は特攻機ではなかった」・・これだけを言いたいが為に発表した手記の様な気がしました.
キ115「剣」
(画像掲示板より引用)
軍事板,2000/07/13(木)〜07/14(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
知覧特攻隊記念館は何で館内撮影禁止なんですか?
【回答】
博物館とか美術館が撮影禁止な理由として一番大きいのはカメラのフラッシュが展示品にダメージを負わせるから.
ただの光じゃん?って思うかもしれないが,この強い光ってのがけっこー物を痛める場合があるのよ,塗料の変色とか.
後は,展示物が借り物だった場合とかの著作権の問題.
それに,撮影禁止を条件に借り受けてるって事もある.
つか,ぶっちゃけ板違いだよな,これ…
詳しくは美術鑑賞板あたりで聞いてみた方がいいんじゃないか?
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