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(画像掲示板より引用)


 【link】

「Togetter」◆(2013-06-12) 日中戦争は陸海軍の「百年の計」を無茶苦茶にした

「M_A_Suslov in Twitter」◆(2011/03/06) いわゆる『佐藤外交』について
http://twitter.com/M_A_Suslov/status/44381199581446144
http://twitter.com/M_A_Suslov/status/44381874717597696
http://twitter.com/M_A_Suslov/status/44382153076776960

『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著,芙蓉書房出版,2009/11/30)

 田中秀雄さん,ふたたび貴重な資料を発掘!

 このたび発掘・完訳されたのは,1938年に出版された『Behind the news in China』(著:F・V・ウィリアムズ)です.
 著者・ウィリアムズさんの経歴は次のとおりです.(本著著者紹介より)
――――――
<フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ(1890-?)
  Frederic Vincent Williams

 1890年生まれのアメリカ人.
 少年時代に外人部隊に所属したり,各地を放浪する冒険者のような生活を続け,その見聞を新聞紙上で発表することからジャーナリストの道に進む.
 サンフランシスコの新聞記者として,チャイナタウンの抗争事件を取材して有名となる.
 日中戦争の起こる前から極東を取材旅行しながら,共産主義の危険性に注目して,親日的立場から本書を執筆した.
 日米関係の悪化を懸念しつつ,ラルフ・タウンゼントらとともに発言を続け,真珠湾攻撃後にタウンゼントと同じく逮捕され,16ヶ月から4年という不定期刑を言い渡される.
 戦後の日本に再びやってきて,原爆を投下された長崎を訪れ,1956年にThe Martyrs of Nagasaki(長崎の殉教者)という本を出版している.>
――――――
 正確にいえば,南支調査会という調査団体が,発行翌年の昭和14年7月に『背後より見たる日支事変』という形で翻訳出版しています.
 ところがこの本,当時の時代背景から「伏字」がかなりあったそうです.
(当時三国同盟を結んでいたドイツとの絡みがある部分が,伏字になっているとのこと)

 そういうこともあり,
<本書は『Behind the news in China』の最初の全訳であると,誇りを持って言うことができる>
と田中さんは断言されています.

■田中さん

 本著を発掘・翻訳された田中秀雄さんについて少しご紹介します.

 まず,著者紹介からご経歴を引用します.
――――――
<田中秀雄(たなか・ひでお)
 1952年福岡県生まれ.
 慶應義塾大学文学部卒.
 日本近現代史研究家.
 軍事史学会,戦略研究学会等の会員.
 著書に
『映画に見る東アジアの現代』『石原莞爾と小沢開作』『石原莞爾の時代』(以上,芙蓉書房出版)
『国士・内田良平』(共著,展転社),
編著に『もうひとつの南京事件』(芙蓉書房出版),
共訳書に『暗黒大陸中国の真実』『アメリカはアジアに介入するな』(以上,芙蓉書房出版)
がある.>
――――――
 戦後教育を受けたわが国民のほぼすべてが,「無知のままで」放ったらかしにされている「わが近現代史」の再生,研究,啓蒙を図っておられる方といえましょう.

 田中さんといえば有名なのが,ラルフ・タウンゼントさんの著作発掘です.
『暗黒大陸中国の真実』
『アメリカはアジアに介入するな』
(いずれも芙蓉書房出版)
 この2作は,米人ジャーナリストの手になる,支那事変前後の支那の実情を正確に把握し,米の間違った対支政策を批判した書です.
 この発掘は大きな反響を巻き起こしました.
 70年以上前に出版された内容であるにもかかわらず,書かれている内容が,「現在の支那・支那人とそっくり」だったからです.

 そして今回,再び素晴らしい資料を発掘されました.

■ぜひ読んで欲しい

 冒頭にある序文(1938年(昭和13年)付)は,絶対に読んでいただきたいと思います.

 〔略〕

■事実と宣伝は違うもの

 本著全般を通じて流れているのは,
「支那の実情の紹介,支那の謀略宣伝工作のからくり・実際,支那の謀略は,日米対決を指向するもの」
という米社会に向けた警笛です.

 また,
・あまりに宣伝工作や謀略活動に無知・無防備であり過ぎる日本
・ではいかに伝えればいいのか?の実例
・共産主義の危険性
・わが国民の心理特性
・アメリカ人の心理特性
・支那人の心理・行動特性

を学べる内容にもなっています.

 事実と宣伝は違うのです.
 これについて,本書にある田中さんの解説から抜粋します.
――――――
<ここで私たちは事実と宣伝とは違うということを,まず肝に銘じておかなければいけないのです.
 私たち普通の日本人は,テレビのCMに間違いがないことを前提として生活しています.
 そこに出てくる商品の品質をほぼ疑わないものです.
 もしその商品に不都合があれば,リコールもできるのです.

 しかしたとえば国際関係で敵対する国家間では,相手側を打倒するためにあらゆる手段がとられます.
 戦争もその一つですが,そのほかに謀略や宣伝=プロパガンダというものもあるのです.
 簡単に言えば嘘八百を並べ立てるわけです.
 えげつない話ですが,それもまた国民をひとつにまとめていく方法でもあるわけです.
 そしてプロパガンダは相手側を屈服,あるいは第三国を味方につけることにも利用されます.

 ”南京事件”というものの構造もまた,この図式から離れて理解することはできません.
 真実と宣伝を明確に区別することから,南京事件の問題の解明は始まります.>(P140)
――――――
■感じたこと

 20世紀初頭の共産主義アジア侵入に伴い,大日本帝国指導部が最も懸念したのは東亜の共産化,とりわけ支那の共産化であったろうと思います.
 それが正鵠を射ていたことは,現在の東アジアを見れば分かります.
 満洲建国やそれに先立つシベリア出兵は,この観点から見る必要があるでしょう.

 しかしながら欧米諸国は,その懸念をあまり深く考えることなく,わが国を味方につける知恵を持たなかったように思います.
 またわが国も,あまりにプロパガンダに疎く,欧米世論を味方につける工作に無頓着に過ぎたように思います.

 そこをある力につけこまれ,プロパガンダや謀略を仕掛けられた挙句,支那大陸の共産統一,日米決戦という最悪のシナリオ(支那にとってはベスト)に引きずり込まれたのではないでしょうか.

 出発点は,
「各国家の,プロパガンダへの無知・無防備さ」
にあったのではないでしょうか?

 昭和13年当時にうまく対処できておれば,朝鮮戦争・ベトナム戦争は起きなかったかもしれません.

 諸国はこのことを反省したようで,戦後続々と情報機関が誕生しました.
 しかしながら,大東亜戦争で最大の犠牲をはらったにもかかわらず,戦後日本の指導部には,プロパガンダを行う機能・排除する機能すらありません.
 それ以前に,やる気をまったく感じません.
 やっているのは民間のみです.
 非常に不可解です.

 もしかしたらわが現代史の一面は,戦前から現在にいたるまで,一貫してある勢力のプロパガンダに嵌められっぱなしで弱体化する一方という姿なのかもしれません.
 結局得をしているのは,なんだか知らないうちにわが国が弱体化することに危機感を募らせている欧米でなく,わが国弱体化に成功し,大国の地位を占めるかも?の状況まで名を上げてきた「支那」ですね.

 支那は戦前から現在にいたるまで,一貫してわが国弱体化のための謀略を仕掛けつづけて,美味しい思いをしているということでしょう.

 いろいろ思うところを書きましたが,
・支那のプロパガンダはどのように行なわれているか?
・支那人のメンタリティや支那内の実情はどういうものか?
を70年前の段階で正確に伝えている本著の価値は非常に大きいです.

 なぜなら,今に至るもその構造はほとんど変わっていないからです.

■最後に

 ジャーナリストの手になる内容なので,文がこなれていて有機性があり読みやすいです.

 わが国弱体化を強いていると思われる「プロパガンダ」の何たるかを知り,支那の意図を知り,日米離間の謀略に飲み込まれたくないと思う方すべてに,自信を持ってオススメします.

 「7●1部隊」とか「三●作戦」とか「中●の旅」等に代表される,戦後日本で広く流布された「一般人向け支那プロパガンダ」を通じ,骨の髄まで打ちのめされ,タマを抜かれてしまった人にとっては,格好の活力回復剤となりましょう.

 最後の田中さんの解説だけでも求める価値があると思います.

 知り合いに広くすすめて欲しい本です.

 原著の復刻もして,世界中で販売して欲しいですね.

 オススメです.
 ぜひお読みください.

 追伸
 この機会に,タウンゼントさんの2作品もあわせ読まれるといいと思います.

――――――おきらく軍事研究会,平成21年(2009年)11月27日

『日中戦争下の日本』(井上寿一著,講談社,2007.7)


 【質問】
 支那事変って何?

 【回答】
 いわゆる日中戦争 Second Sino-Japanese War のことで,昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那,現中国の華北地方)周辺へと拡大し,8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那,現中国の華中地方)へ飛び火,やがて中国大陸全土へと拡散して全面戦争の様相を呈した戦い.
 日本では初め北支事変(ほくしじへん),後には支那事変(しなじへん)の呼称を用い,新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった.
 第二次大戦終結と共に,この戦争も終わりを告げた.

 【参考ページ】
http://www.wdic.org/w/MILI/%E6%94%AF%E9%82%A3%E4%BA%8B%E5%A4%89
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina1.html
http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/sinojapanese%20war.html
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/shiryou/senshi-shinajihen-index.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Sino-Japanese_War

【ぐんじさんぎょう】,2009/5/18 21:00
に加筆

 知人の研究者には,宣戦布告の有無を重要視して,「事変」という用語を使う人もいます.

鮭缶 in mixi,2009年05月17日 23:45

 イデオロギッシュすぎて,非マニアに説明する時に使うべきかどうか迷う言葉の一つ.

椋鳥 in mixi,2009年05月18日 02:48

 年配の方は普通に支那事変の呼称でごさまいます.

丼炒飯 in mixi,2009年05月18日 06:10

昭和12年10月10日〜25日に掛けて上野の松坂屋で開催された同盟通信社主催のイベント『支那事変展覧会』の豪華パンフレット

 日本軍将兵の軍装や兵器,捕獲した中国軍の兵器展示や,模型を使った中国戦線のジオラマ等かなり熱いイベントだった事が伺えます.
 この展覧会では捕獲兵器としてこのヴィッカース6トン戦車やカーチスホーク戦闘機が,日本軍兵器として92式重装甲車やサイドカー,90式水上偵察機まで,室内や屋上に展示するといった大掛かりなものでした.

 何よりも嬉しかったのは,ヴィッカース6トン戦車の展示写真があった事!

 砲塔後部のマルコーニG2A無線機用のボックスは確認出来ませんでしたが,迷彩パターンを見る限りは,郭恆健大尉のF型指揮戦車に見えます.

 ヴィッカースMk.E戦車は本国イギリスで正式採用されていないものの,世界各国に輸出されてルノーFT戦車の後継車として採用されてますね.

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月02日22:37
〜06月04日 01:19


 【質問】
 盧溝橋事件で,最初の1発目を撃ったのはどちらなのか?

 【回答】
 中国第29軍の偶発的射撃である可能性が高い.
 秦郁彦によれば,1986年に北京で刊行された金振中大隊長の手記には,当日,すなわち1937.7.7の夜,堤防に部下を配置していたこと,近づく日本軍への発砲を許可していた旨述べられているという.
 そして中国政府も,この金手記を否定していないという.

 詳しくは『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.74を参照されたし.

 【関連リンク】
『盧溝橋事件の研究』(秦郁彦著,東京大学出版会,1996.12)


 【質問】
 日中戦争の流れを,凄くテキトウに教えてください.

 【回答】
 盧溝橋事件発生!
→現地関東軍&日本政府「また銃撃事件か・・・ とっとと停戦,不拡大ね」
→陸軍参謀本部「チャーンス! これ口実に華北を分離して満州国の緩衝地帯化しよう!」

 蒋介石? 一撃すりゃ講和に応じるって.きっと.たぶん……と戦争やっているうちに上海事変発生.
 中国軍も主力を投入し,決戦.日本軍大勝利.

→現地軍「ヒャッハー! 一気に首都まで落としたるで!」
→参謀本部「よしよし,そろそろ講和を,って,あれ?」

 南京陥落
→政府&国民「ヒャッハー! 大勝利! 蒋介石なんてどうでもいいもんね!!」
→参謀本部(えーと,そろそろ攻勢限界なんですけど.てか戦争どうやって終わらせるのよ?)

軍事板,2007/03/23(金)
青文字:加筆改修部分

報道写真
まだ支那事変初期の段階なので,こうして敵兵の墓を作る余裕もあったのが判ります.

よしぞう maro' in mixi,2007年12月20日03:48


 【質問】
 日中戦争のことが全く分からないので,一から勉強するための書籍を探してます.
 よってだいたいの流れをを知りたいので,初心者向けで読みやすく,史実に忠実なのがいいです.


 【回答】
 日中戦争という現象そのものを抑えた上で,本を探したほうがいいかも.
 てな意味では臼井勝美の『新版 日中戦争』(中公新書,2000年)とか.
 同著者の『満州事変』ともども,昔から出てる本を増補改訂した定評のある入門書.
 構成も大分手を入れてて,改訂前のものより各段に読みやすい.
 ただ政治・外交面の動きが主なので,軍事面はどうしても弱くなる.

 とりあえず知りたいなら小林英夫の「日中戦争」あたりが良いんじゃないかな….
 新書で買いやすいし.

 太平洋戦争研究会の本はよりムック本的だから,上の本を読みつつ,そっちを一緒に辞書代わりにするといいかも.

 同じ太平洋戦争研究会ならこっちもあるよ.
http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=978-4-569-66703-4
 内容は大差なかったはずだから,どっちかプラス臼井先生がいいかも

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ日中戦争は「支那事変」「日華事変」と呼ばれることがあるのですか?

 【回答】
 当時,宣戦布告がない武力衝突は須らく,事変と呼ばれていた.
 日中戦争もそうだ.日中の間に宣戦布告はなかった.
 そのため,最初期には「北支事変」,次いで「支那事変」と称された.
 日華事変という呼び方は,公式のものではないが,当時のマスコミで使われることがあったものだ.
 今でも防衛庁防衛研究所戦史室では「支那事変」と呼ぶ.厚生労働省でもそうだ.

 では何故,日華事変さえ宣戦布告出来なかったかと言うと,当時の米国の議会では,戦争当事国には戦略物資の輸出を禁じる法案が可決されていたからだ.
 日本は米国の石油,鉄に頼っている状態なので,「日本はあくまでも戦争では無い」と言い張る必要が有ったのだ.

 これは米国その他から軍事援助を受けている蒋介石政府にしても同じこと.
 国際法上,第三国は交戦国に対して軍事援助する事はできない.
 なので中国も日本に宣戦布告できなかった.

 蒋介石が対日宣戦布告するのは,日米開戦の直後になる.

 【余談】

------------
 あの,事変当時,
「支那側から発砲してきたので,わが軍が応戦した……」
って,そういうニュースがよくあるでしょう.
 〔著者の母親は,〕その「支那側」ってのを東海道の品川だと思って,
「ずいぶん近くで戦争があるんだね」
って……これにゃァふいちゃいましたよ.

------------林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.10

 【質問】
 小林よしのりの『戦争論』に
『支那事変(日中戦争というのは正確ではない)』
って書いてあったんですが,どうして正確じゃないんですか?
 そして,どうして支那事変が正確なんですか?

 【回答】
 日中戦争という場合,日本と中華民国+中国共産党軍との戦争全体を指すことになります.
 しかし歴史的には,これらの戦争はいくつかの期間に分割して呼称が付いています.

 満州事変,上海事変はほぼ連続して発生し,講和は一括しておこなわれていますが,武力衝突が起きた場所が違うので,別に呼ばれています.
 盧溝橋の武力衝突に始まる北支事変と第二次上海事変は連続して起き,総称して支那事変と呼ばれるようになりますが,この戦争は第二次大戦の終結まで継続します.
 日中戦争という呼称は,これらの区分を無視して全体を継続した戦争であったように呼んでいる点で,問題のある呼称ということです.

世界史板

 余談だが,この「事変」の繰り返しにより,思わぬところへの影響もあったという.
 以下引用.

 あのころは,幾たびか,事変が途中でおしまいになったことがあるでしょ?
 しばらくするとまた始まるってようなときで,あたしたちが〔慰問隊として〕行ってたときも,途中で平時編成になっちゃったんで,戦時体制を解かれたもんですから,ふたりの慰問隊は,もう何をしてもいいってことになった.

林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.185

当時のポスター
(画像引用元:「ヴァーチャル・ミュージアム」


 【質問】
 日中戦争の開戦に至った経緯には,どのような背景があるのでしょうか?

 【回答】
 直接的には国民党軍が侵略してきた事.
 当時,張学良を排除してトップに立ったけれども,地盤の弱かった蒋介石が,上海の日本租界を攻撃して手柄を立てようとしたことが直接の原因.
 それに対して日本の軍部は懲罰の名目でなし崩しに戦闘を続け,結局南京まで進撃した.
 国民党の本拠地の南京は落としたが,蒋介石は逃げてしまったので,その後も「追撃」の名目でどんどん戦線が拡大し,後退不可能と化す.

 ブロック経済も背景としてあった.
 まあ直接の因果関係があるわけじゃないが.日本は華北に侵出しようとし,国府はナチスドイツに接近していった.
 ナチが送り込んだ軍事顧問団が作戦を立てて仕掛けてきたとゆー人もいる.
 まあ,向こうが仕掛けてきたから日本の自衛戦争っつーのは確かかもしれんが,国府を相手にせずって言っちゃぁおしまい.日本の侵略と言われても仕方ない.

 カイロ宣言やイラク戦争もそうだが,無条件降伏の要求は侵略の意思ありとされるのが当然.
 勝てば官軍でお咎めなしっつー狂った国もあるが.
 自衛戦争なら無条件降伏の要求なんて出来ないはずなんだけどなあ.


 【質問】
 田母神「論文」ですが,

――――――
 現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが,我が国は日清戦争,日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て,これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである.
 これに対し,圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが,昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない.
――――――

というのは妥当な主張なのでは?

 【回答】
 半分正解.

「武力で脅して結ばせた条約は無効!」
というのが国際ルールになったのは,
条約法に関するウィーン条約(1981/7/20発効)
だから,確かにそれ以前のものについては違法性はない.

(リアリストとしての私見で言えば,どうとでも恣意的に国際法を解釈してゴリ押しする国もある以上,「そもそも国際法上の違法・合法って何?という疑問が大いにあるが,議論が横道にそれるので,とりあえずそれは置いておく)

 でも,中国などが「侵略侵略」と騒ぎ,少なくともその点では国際世論も同じ認識(ここ重要)でいるのは,
「権益を守るために条約等に基づいて軍を配置した」
こと自体なのではなく,当時の日本軍の行動が「権益を守るための自衛」の枠を大きく外れていると見なされている点なんだよね.
 つまりタモさんは,国際世論からは侵略の構成要素だと思われていない点を指して,
「これは侵略ではなく正当!」
と言っているに過ぎないんだ.
 「天然」でやっているなら(どうも天然のようだけれど)ともかく,意図的にやっているのなら論点のすり替えだね.
 詭弁ではおなじみの手口だ.

 だから,条約に基づく軍の進駐にまで,中国が噛みついてくるなら,その点は堂々と反論すればいい.

 けれども,その後の中国全土への戦火の拡大までは,弁護しきれないと思うよ.
 必要最小限度の武力行使じゃないから.
 少なくともこれをして「自衛だ」と国際世論に認めさせるのは,どんなプロパガンダ工作をやっても難しいだろうね.
 プロパガンダ工作というのは,もともと説得力のある土台(見た目に分かり易い写真であるとか,象徴的な事件であるとか,歴史的に積もり積もっていた不信感とか)の上に幻の楼閣を築く作業であって,何もないところに土台を一から作る仕事じゃないからね.


 【質問】
 日中戦争では,日本政府の中にシナは一撃で屈服する,という論が幅をきかせていたそうですが,日清のような艦隊戦ならまだしも, どうやってあの広い大陸に兵を送り込んで一撃で屈服させられるというのでしょうか?

 【回答】
 一撃で屈服しかけたけど,近衛が馬鹿な講和条件突きつけておじゃんになりました.
 外交がゴミだと全く解決にならない証左.
 参謀本部は「全面戦争は勘弁してくれ」って言ってた.

軍事板

C 要クロスチェック


 【質問】
 支那事変を軍事的に解決するのは可能だったの?

 【回答】
 単純な比較はできないが,兵器生産額の推移を見ると
十六年は陸軍主要兵器約十億,海軍主要兵器十四億,陸海軍航空機約十億.
十九年は陸軍主要兵器約二十一億,海軍主要兵器約五十億,陸海軍航空機約五十億.

 本当の総動員体制を十二三年度中に築いていれば,百個師団は決して不可能な数字ではない.
 無論,生産設備の問題もあり三年はかかるだろうが.

 とはいえ,結局太平洋戦争であれだけの動員ができたのだから,それと同じ努力を三年前倒しでやっていれば,支那を降すこともできなくはない.
 まあ,勝った勝ったとお祭り騒ぎの政府と国民が,真剣に総動員に応じるかどうかは疑問だが.


 【珍説】
 日中戦争は,中共に仕掛けられてずるずるの戦争だった.

推定林間≒「一応仮コテ」

 【事実】
 悪いですが,中国を「中共」と呼ぶ癖が空気のように染み付いているからかもしれませんが,そのころは中国共産党はまだ一勢力に過ぎません.
 たしかに日本と交戦を声だかに叫んでいたのはやつらだけど.

 最初にでっち上げの柳条湖事件を口実に,正当な権益の何十倍もの他国領を軍事占拠し,支配している事が日中の緊張の原因.
 共産党が何を画策しようが,最初の火種が無ければ無意味.

 共産党が先に手を出したと言うが,正規軍を動かして中国領に攻め入ったのは日本が先.中国共産党軍がいつ,日本領に軍事的な攻撃を仕掛けて来たというのかな?
 加えて,日本が攻撃したのは満州事変でも盧溝橋でも上海でも中華民国軍であり,共産党軍ではないのだが.

 盧溝橋事件が共産党の陰謀,って奴は,とりあえず通史側の代表的見解である秦郁彦「盧溝橋事件の研究」でも読んだ方が.
 とは言っても,この本,7000円近くするけどな.

 なお,『戦士政治課本』というテキストは,存在自体は確認されたようだが,内容は不明.
 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』,P207〜P208より.

 第四は,『抗日戦士政治課本』の存在が確認されたことである.
 この本については,かつて葛西純一氏が,『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社,一九七四年)において,人民解放軍総政治部『戦士政治課本』の盧溝橋事件記述を「中国共産党謀略」説の論拠の一つとしてあげて以来,その所在が注目されていたが,中共中央文献研究室編『毛沢東年譜』中巻(人民出版社,文献出版社,一九九三年)の二三二頁の注にこの本についての言及が見られる.
 しかし,その内容については不祥.

 共産党が事態を煽る事が出来たのも,日本が満州を武力占拠していたから.どちらが先かは明らか.
(だから必死で満州事変と日華事変は別物と言ってたのだろうが) 

軍事板

盧溝橋
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 この人〔田母神〕だけでなく佐藤元空将もこの説を奉じてるみたいだけど,「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党」ってソースはなんですか?

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】

------
wikipedia

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは,葛西純一が,中国共産党の兵士向けパンフレットに,盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た,と証言していることであるが,葛西が現物を示していないことから,事実として確定しているとはいえない,との見方が大勢である.
-----

 共産党陰謀説の根拠はただ一つ,これだけです.

JSF

 軍事研究2001年3月号の「日本の戦史 80 牟田口中将とディマプール 五十」(太田嘉弘)で,

――――――
"東京裁判終了後に,中共軍政治部発行の初級革命教科書野中に「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があることが知られた.
(中略)
 のちに中共のナンバー・ツーまで上り詰めた劉少奇が,米国の記者に「あれは自分がやらせたのだ」と語ったのである."
――――――

ってあるんですよね.
 このシリーズのどっかで,この記者がライフの記者で1947年だかそのあたりの雑誌に載ったけど,日本では報道させられなかったとか何とかって読んだ気がするんですが,バックナンバー探しても見つからないんで,気のせいかもしれません.
 まぁ,この記事の信憑性は私には判断できません.

D.B.

 蘆溝橋事件中国共産党陰謀説は,英語版Wikipedia『劉少奇(Liu Shaoqi)』でも紹介されてますね.
 その出所は片岡鉄哉氏の『Resistance and Revolution in China』だそうです.

 ここがよくまとまっていますね.
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/inbou1.html

 秦郁彦氏曰く「妄想以外の何ものでもなさそうだ」

バグってハニー

 そもそも「論文」のフォーマットじゃないよね,これ・・・

>中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で
>「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で,現地指揮官はこの俺だった」
>と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘,岩間書店)」

 これ多分,引用なんだろうが,引用ならページ数ぐらい書け,本文中に入れずに註にしろ.
 ていうか論文なら,「作者名『書名』(出版社名,初版発行年)○○ページ」っていう形に指導されるはずなんだが,本当に論文か?コレ

 中身的にはハリー・ホワイト=コミンテルン陰謀論とか洪思翊中将とか朝鮮の人口の話とか,凄くよく見る話で,特に変わった所は無いかなぁ.

たれ

以上「軍事板常見問題 mixi支隊」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日中戦争は中国側が先に仕掛けてきたんですか?

 【回答】
 当時の国際法規から言えば,日中戦争で「侵略」してきたのは中華民国(国民党).
 でも日本も,「自衛反撃」の範疇を超えて追撃したのに,国際社会の許可を取らなかった.
 なので,どっちもどっち.
 ただ,先に手を出したのは国民党側.


 【質問】
 日中戦争は日本が,中国大陸で正当に保有していた権益を国民党軍が攻撃したから,自衛の為にやむを得ず始まった戦争だという意見をたまに聞きますが,それはどこまでが本当でどこまでがウソですか?

 【回答】
 上海租界に対する攻撃だから,日本だけじゃなくって列強全ての権益に対する侵害.
 それに対する正当防衛は成立する.

 ただ,その後に南京まで落としたのは明らかに過剰防衛.
 開戦に責を問うなら国府軍に責任があり,結果に責任を問うなら日本が悪い.

 どちらの見解が正しいかは言うまでもなかろう.
 結果が全てだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 この返答は流石に変じゃないですか?
 この論法で行くと,真珠湾作戦をやった日本を無差別爆撃で追い詰めたアメリカはやりすぎ,ということになりますし,同様にドイツとソ連もそうですよね.
 双方が停戦条約に同意するまで戦争が続くのは当然であって,首都の南京まで日本軍が行くのは普通のことじゃないでしょうか?
 また,結果についても当然,開戦した側の国民党政府に責任があるのは明白だと思いますが.

SLEEP in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 どのあたりが変なのでしょうか?

 自衛を目的とするなら,中国軍が全面撤退を始めた11月10日以降,侵攻を停止すべきでした.
 すでに既得権益と居留民保護の目的は達成されていましたからね.
 にもかかわらず,侵攻を続けたのは,過剰防衛といわれても仕方が無いです.

「じゃあ,日米,独ソはどうなの?」
って,それは短絡的ですよ.
 状況がまったく違います.

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 国民党軍が全面撤退を始めたことは,戦争の終結を意味しません.
 なぜなら敗軍を再編成し攻勢を仕掛けてくる可能性を否定できないからです.
 緒戦で敗勢にあった軍が勢力を盛り返すことに成功することはしばしばあります.
 おっしゃるように南京まで掃討戦をやらず,大部分の兵員を本土に送り返して同じ目にあったら,たいていの人は
「なぜあの時徹底的に叩かなかったんだ?」
と批判するんじゃないでしょうか.
 また日米戦,独ソ戦と状況が違うのは当然であって,私がこの回答を問題視しているのは,戦争のルールとして万国共通であるべき国際法を捻じ曲げているんじゃないかということです.

SLEEP in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 敗軍を再編成し攻勢を仕掛けてくる可能性があるのは確かにその通りです.
 しかし,だからといって全面的な追撃を行えば,それは自衛の枠を外れた侵略であるとみなされます.
 SLEEPさんがこれを自衛の枠内であると考えても,国際社会はそうは見てくれませんよ.

 たとえば,10月6日の国際連盟総会で採択された二三国諮問委員会の報告では
「中国に対する日本の軍事行動は,紛争の起因となった事件とは比較にならぬほど大規模である」
と述べています.
 また,日本の軍事行動は自衛ではなく,日本が加盟している九ヵ国条約,不戦条約の違反であると認定しています.
(要約『新版 日中戦争』p88 中央公論新社[中公新書]2000年)

 逆に言えば,完全な自衛だと主張し,それを国際社会に認めさせるくらいの説得力を持たせるには,
「敵が敗軍を再編成し攻勢を仕掛けてくる可能性」
を甘受しなければならないということでしょう.

 ところで誤解があるようですが,上海事変は,この時点(南京攻略以前)では全面戦争ではなく,大規模ではあるが偶発的な武力衝突の域を出ていないと考えられており,列強のすべての国が,速やかな沈静化を望んでいました.日本ですらそうだったんですよ.
 そのために日本がとった手段(南京攻略,第二次和平案)が最悪だったせいで,誰も望まないのに泥沼化してしまいました.
「結果が全てだ」
とは,つまりはそういうことでしょう.

 あと,
「戦争のルールとして万国共通であるべき国際法を捻じ曲げている」
としていますが,なんという国際法のどの条文を捻じ曲げているのか,具体的に回答を願えませんか?

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 私が言いたいのは細かい条文のことじゃありません.
 パリ不戦条約などの,侵略戦争を禁止した法の前提となる平等性です.
 日本やドイツの侵略を裁いたように,中国についても同じ態度で挑むべきだと言うことです.
 男性から女性への暴力は完全に男性が悪いが,女性から男性への暴力は男性にも責任がある(あるいはその逆)なんて法は,先進国では認められませんよね.

一部わかりにくい表現などありましたらご容赦ください.

>10月6日の国際連盟総会で採択された二三国諮問委員会の報告

 それは単に当時の状況では現地で何が起きているか,わからなかったということでしょう.
 今となっては蒋介石が国民党軍100万近くを動員して行った本気の戦争だったということがわかっています.
 規模の面や準備からして,決して偶発的な衝突とかそんなチャチなものじゃなかったのは明白です.
 そもそも「大規模ではあるが偶発的な武力衝突」なんていうのはファンタジーであって,軍隊と言うのはお役所ですから,大規模に動かそうと思えば偶発性は自ずから否定されます.
 国境警備隊が自動小銃を打ち合っているのが自然と師団規模以上の戦闘になるとか,ありえるとお考えでしょうか.

 また,勝ちすぎた(殺しすぎた)側に批判が集中することはけっこうあります.
 今度のグルジアにおけるロシアやベトナムにおけるアメリカがそうでしょう.
 どちらも戦争を仕掛けた側が弱すぎて,いきなり殺されすぎて非人道的なように見えるのです.
 中国における日本軍もそうでしょう.
 日米や独ソの戦いは対称系ですから,一気に肩がつかずベルリンや沖縄までじりじり進み,お互い大流血でスポーツの試合のように見えるんでしょう.
 でも法というのは,弱かろうが強かろうが平等に適用されるのが原則です.
 つまり真珠湾攻撃の日本やバルバロッサ作戦のドイツのような侵略側に対する手厳しい態度が,上海租界攻撃に対する国民党にも当てはまるべきだということです.

SLEEP in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
 SLEEPさんの主張をまとめると以下の通りで良いですか?
・上海事変において国民党は,本気の戦争を仕掛けてきた.
・日本は自衛のために反撃を行った.国民党軍への全面追撃は,軍事的に当然.
・戦端を開いた国民党は非難されるべき.

 〔略〕

「先に手を出したのだから,中国国民党が悪い.日本だけ悪く言われる謂れはない!」
ってところですか.
 それは子供の論理です.
 その仕返しの程度が行き過ぎれば
「手を出したあいつも悪いけど,お前もやりすぎ」
って言われるのは当然です.

 その『程度』というのが,一発殴られた仕返しに,相手をボコボコにして両手足切り落とした上で,相手の家に放火したら,誰だって最初の一発を問題にはしないでしょう.
 過激な例ですが,日本がやらかしたのは,そういうことです.

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 ここにとある土地があるとして,その持ち主をCさんとでもしましょうか.
 その土地は経過は省くが,超好条件でAさんBさん他数人が協同で借りて商売してました.
 ところがCさんちの息子なり舎弟なりが,その土地は俺んちのだ返せと武装して押しかけてきましたが,協同借地人のうち,Jさんがこれを実力で叩き返しました.

 まあここまでは正当防衛の範囲でしょう.

 さてJさんは,Cさんの息子なり舎弟なりを借地から叩き出すだけでは行動を止めず,放置したら再襲撃されるからと言って,Cさんの本宅まで押し掛け占拠し,Cさんの家長がいうことを聞かないと見ると,Cさんの係累を担ぎ出し,Cの家の家長は交代したと,Cさんの家長にも他の協同借地人に諮ることも無く宣言しました.

 身近なレベルに置き換えて言えば,当時の日本の行動ってこんなですよ?
 更に言えば日本がこういう行動取ったの,二度目ですからね.

 具体的なこれこれの条約のこの条文と言わずに,漠然とした平等性などという言い方をした日には,どんだけよく言っても,極端な過剰防衛としか言いようがないかと思いますがねぇ.

 まあわたしゃ,侵略が悪いことだなどとはこれっぽっちも思っていない性質ですから,警官のような,あるいはレフェリーのような強制力のある裁定者のいない国際社会は,逆に言えば全員が個々のリソースに基づいて同じ場に参加するゲームプレイヤーなわけで,他のプレイヤーを差し置いてスタンドプレイに徹すれば,そりゃ孤立もし,袋叩きにもなるでしょうとしか思いませんがね.

名無しクルセイダー信者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本は大陸での権益を守るために敵対勢力と戦ううち,戦線が拡大しただけでは?

 【回答】
 日本は停戦中にも,勢力範囲の拡大をってたが.

 満州事変は鉄道権益保全が名目だが,占領範囲を遙かに広げ,国まで建てる.

 しかも停戦後も,満州周辺に勢力範囲拡大を計る.
 華北に分離工作を掛け,領土や関税権等への主権侵害.
 日中戦への軋轢要因に.

 内蒙古でも,盧溝橋前から現地勢力支援を計るが失敗.
 日中戦後に蒙古聯盟自治政府の設立成功.

 まあ,向こうの行動も,戦線拡大の要因になったがな.

戦争板,2010/08/16(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 よく盧溝橋事件で,先に発砲してきたのは中国側だから中国が悪いという意見がありますが,日本が中国に進駐していたのは問題がないんでしょうか?

 【回答】
 よく誤解されているが,先に発砲してきたかどうかが問題なのではない.
 「日本を攻撃することを国民党政府の最高指導者が許可して攻撃計画を立てていた」ことが問題.
 盧溝橋事件は,「相手を刺そうとナイフを取り出そうとしたら,相手に先にナイフを抜かれて刺された」という状況なので,そこだけ見れば日本には非はない.
 一応,日本と中華民国には「塘沽(タンクゥ)協定」ってのを結んで停戦中だったので.


 【質問】
 日本は愛国心を煽ることで戦争になったのですか?

 【回答】
 「愛国心」だけで戦争になったわけじゃありません.
 ファクターの一つではありますけどね.

 最終的に行き着くのは「経済的閉塞感」ですよ.

 一番の原因は,政権交代を目指した「護憲の父」の犬養毅が,どう考えても強弁・恣意的解釈でしかない,海軍が唱えた「統帥権」の問題を政局に利用したため,この言葉だけが独り歩きをし,それが5.15や2.26を引き起こして,軍部の暴走を止められない状況を作り出しました.

 2.26で高橋是清が死んだ時点で,日本の財政的死亡は確定でした.

 こういう政治的背景を無視して「愛国心」のみに注目するのは,公平な見方とは思えませんね.
 行き過ぎたナショナリズムは確かに問題だが,現在の日本がその状況にあるとはとても思えません.

 補足しておくと,高橋是清の政策により,日本は世界に先駆けて恐慌から脱出してます.
 満州事変で全てが吹き飛びましたが.

ますたーあじあ in mixi

 私はあの戦争の要因を,「日本はこれからどうあるべきか」という戦略に対する総意が不透明,不徹底に終わったことが,要因であると考えています.
 その例が日英同盟の破棄だったり,あの日中戦争への姿勢であると,考えています.
(もちろん,経済的な閉塞も含まれますが.)

葉月 in mixi


 【質問】
 大学の先生が日本政治学の授業で
「対米開戦せず,あのまま中国戦線がこう着状態が続いてたら,世間に厭戦気分が出てきて議会も騒ぎ出し,東条内閣は崩壊して中国大陸から自然に撤兵いうことになってた可能性が高い」
と言ってたのですが,あの当時日本の世論に,長期化する日中戦争への厭戦気分は出てたのでしょうか?

 【回答】
 大学の先生もそういう持論なんだから,そういうデータも持ってるんだろう.
 何っていう先生よ?
 その人の著作を読んだほうが早いと思うけどな.

 実際,当時の文学作品なんかを読むと,そういう気分は潜在的にはあったんだろうと思う.
 少なくとも軍部はまずいと思ってたんだな.
 だから厭戦気分をあおる報道は禁止された.

 ただ,その後の展開からして,撤兵っていうのは現実的にどうかっていうのは一考の余地がある.
 軍を押さえることができるのが東条しか居なかった,ってことからして,東条が内閣を放り出せばクーデターが起きた可能性が大だろう.
 そうなれば,撤兵どころかむしろ中国で戦線拡大したんじゃなかろうか.

 つうことで,軍が暴走するとえらい事になるということを学んだから,今の日本は平和なんだろう.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 昭和天皇は太平洋戦争の開戦には反対でしたが,支那事変に関してはどういう意見を持っていたのでしょうか?

 【回答】
 日本が大陸に権益を求めることは必然であり,その過程で武力を伴った衝突が起きるのは仕方がないと思っておられたようだ.
 ただ,昭和帝自身はどちらかといえば,清帝国がしっかりとした形で存続し,清帝国と対等な立場で交渉して平和的に経済進出できないか,とは思っておられたらしい.
 国民党は「反乱軍」八路軍は「共産主義匪賊」と言うような視点で見られていたよう.
 満州国も昭和帝的は「清帝国の亡命政権」といった扱いで考えられていた節があらせられる.

 しかし,支那事変とそれに続く日中戦争の拡大には,陸軍が勝手に戦線を拡大し,それを追及すると
「今度は勝てます」
「すぐに事変は収拾できます」
と答えてズルズルと戦争を長引かせているのを,ご不満に思われていたようだ.

 昭和20年,ポツダム宣言受諾を巡る議論でも,
「陸軍は,支那事変はすぐに終結すると言ったが,今になっても一向に戦争は終わらぬではないか」
と陸軍を激しく非難なされた.

「始まってしまったものは仕方がないが,何故一向に自体を収拾できないのか?
 陸軍は戦争遂行能力に問題があるのではないか?」
という疑問は持っておられた由.

 支那事変の本格的開始とも言える第二次上海事変に関しては,むしろ積極策を支持していた.
 と言っても,大アジア主義者のような夢想を抱いていた訳ではない.
 通州事件に代表される中国国内での居留民殺害事件の多発によって,日本の権益が侵されている事に対し,国家としての解答が迫られていたと事.
 普通の国家ならば当然,武力行使である.
 また,諜報や暗号解読から国府軍が何らかの軍事行動を起こすことを知っていて,外交交渉の余地が無いことも察していた.
 ならば一戦を持って勝利し,然る後に外交交渉に持ち込むものと考えられていた.
 事変の収拾が困難になったのは,上海攻防戦の後,外交交渉に失敗したから.

 参考までに言っておくと,参謀本部の意見は,戦端を開く事に消極的だが,戦争は已む無し.
 意外だが,近衛や広田等の文民閣僚の方が積極策を支持,彼らが外交を拗れさせた.

上海事変
(画像掲示板より引用)

軍事板,2005/04/06(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大東亜戦争中の支那大陸の人々の,日本人に対する感情はどのようなものだったのですか?
 日本は汪兆銘政権を中華民国の正統政権としていたので,中国は敵国ではないという立場だったと聞いたのですが,では実際の支那大陸の国民(民族)感情としては,日本人をどのような感情で(敵国民・外国人・コミュニティーの同朋など)とらえていたのですか?

 残留日本人孤児を育てていたという事実に対して,単なる「敵国民」という理解だけでは説明できないように思ったので質問しました.

 【回答】
 日本近代史板の方が適切だと思うのですが・・・.

 満州国となった地域の人々は『キメラ−満洲国の肖像』など読む限り,日本人支配の構図に辟易しており,「早くでていって欲しい」という気持が強かったようです.
 ただ,「日本人を皆殺しにしたい」とまでの強い憎しみの感情が広まっていたわけではなく――もちろん個々にそういう気持を持った人もいたでしょうけれども――,そのあたりから残留孤児を育てる人もいたのだと思います.
 終戦直後の甘粕正彦の葬儀は,多くの中国人(?もう満洲人じゃないよな)も出席した盛大なものだったらしいので.

 あー,でも残留孤児も日本人だと分かると周囲からいじめられたりしたらしいですしね.
 好感情はないだろうなあ.

軍事板


 【質問】
 支那事変を巡るソ連の思惑は?

 【回答】
 第七回コミンテルン大会で砕氷船理論と言われる決定がなされています.
 日本とドイツを敵として資本主義同士を戦わせて疲弊させるというものです.

 中国国民党中央党部組織委員長,陳立夫は西安事件の際にソ連との交渉にあたり,蒋介石にもしものことがあれば大変なことになるとソ連を脅し,また,ソ連が国民党に武器を提供しなければ,我々は日本と戦争をしないという要求をくり返し行ったそうです.
 陳立夫はソ連の意図を理解してこのような交渉をしていたというものです.

軍事板


 【質問】

――――――
 シナ事変は日本対白人の代理戦争の様相を呈し,蒋介石は事実上,白人の傀儡となり,戦争は泥沼化した!

――――――小林よしのり『戦争論』,p.231

というのは本当か?

 【回答】
 まあ,そんな要素が全くなかったわけではありませんが,『戦争論』の記述はそういう面だけを強調しており,もっと重要な面につれて触れていないので,非常に問題があります.
 すなわち,当時の日本はナチス・ドイツの同盟者だったという面です.

 大杉一雄によれば,米国の1940年代の最大関心事は,ナチス・ドイツの打倒だったそうです.
 米国はナチスを,西欧文明の破壊者であると見ていました.
 そして,日本が排撃されていたのはその同盟者だったからなのですが,当時の日本の指導者にはその点に関する認識が乏しく,米国の反日感情を,専ら日清戦争当時からの黄禍論的な理解で割り切ろうとするところがあったそうです.

 詳しくは『真珠湾への道』(大杉一雄著,講談社,2003.7.25),p.415を参照していただければ幸いです.

 小林の認識は,そうした当時の日本の指導者と同じ誤認識であり,そのことは,小林にそんなバイアスがかった知識を吹き込んだのは誰か?ということの手がかりとなるでしょう.


 【質問】
 参謀本部は,つーか日本は中国の分割と一部支配は考えていたが,中国全土を支配しようなどと計画したことは一度もないそうだが,じゃ,なんで講和しなかったんだろ?
 だったら南京で帰ってくりゃいいじゃないか.

 【回答】
 当時の大日本帝国では,全権を担って講和条件の取捨選択出来る人間がいなかった.
 その為,各組織から上げられた総論を纏めて講和条件とする馬鹿なことをしたため,蒋介石から
「この条件を飲むのは亡国に等しい」
と言って拒絶されてしまった.
 仲介を受けた在支大使のトラウマンも
「この条件を飲むとは考えられない」
と漏らしている.

 その後は私的外交が横行し,蒋介石からすればどれが正しい講和チャンネルか分からず彼を混乱させてしまった為,なおの事講和が難しくなってしまった.


 【質問】
 第二次上海事変は,日本軍と中国軍どちらが先に攻撃を開始したのでしょうか?

 【回答】
 中国軍.
 1937年8月13日朝に上海租界の海軍陸戦隊に向かっての発砲,砲撃が有り,昼頃には国府軍の爆撃機が租界の上空を示威飛行を行なっている.
 この地域は第一次上海事変後の協定で中立地帯とされ,支那中央軍の侵入は禁止されていた.
 それ以前の邦人に対する無数のテロや協定違反,動員などの軍事行動を鑑みる限り,支那事変に限れば先に手を出したのは中国側.


 【質問】
 第二次上海事変ですが,何故蒋介石はこの時期を選び,そして何を勝利条件としたのでしょうか?
 37年頃と言うと,日独防共協定が結ばれ日本も満州の騒動がタンクー停戦協定で停戦され,一息ついたところですよね.
 中国国民党も西安事件で統一戦線が築かれたとは言え,共産党の脅威も軍閥の不穏な動きもありました.
 また目標ですが,日本軍と対峙するのは必然と長江下流域か北支か満州になるので,この地域から日本軍を追い出すのは無謀に思います.
 そうなると日中戦争の意義は何だったのかよく掴めません.
 どうかお答え下さい.

 【回答】
 ▼蒋介石は最大のライバルだった張作霖がいなくなったおかげで,棚ぼた的に中華民国のトップになったが,内部を完全に統率できていたわけでもなければ支配する実力もなく,カリスマとしての魅力にも欠けていた(というか,彼にはカリスマの要素がほとんどない).
 そのため常に,張作霖の息子の張学良に粛清されて蹴落とされる恐怖に怯えていた.
 西安事件に乗じて(というか利用して)張学良を逆に粛清し蹴落としたのはいいが,やはり張学良とその一派に常に逆転される可能性があった.

 そんな状況なので,何としても自分が主導した軍事攻勢で大勝利を挙げ,
「さすが蒋介石だ! 明日の指導者はこの人で決まりだな」
と思わせる必要があったわけ.

(↑質問スレッド妨害のため,わざとデタラメ回答をしている奴がいる,という噂は本当だったか……)

 蒋介石が上海を選んで挑発行為を起こしたのは,米英などの外国の権益と投資のある上海で戦闘を起こすことにより,世界の目を引きつけ,国際連盟にも提訴をして,欧米大国から干渉や調停などが起きることを期待をしていました.
 中でも「多くの国々に日本への経済制裁をとらせる」という目的があったと,蒋介石の日記には記されているそうです.

 また,中国人の抗日意識をさらに高めるためだともされています.
 このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており,これは蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であったといいます.

 さらに,中国の主戦派は,以下の理由で勝利を確信していたと言われています.
(1) 中国軍は人数において優る.
 中国陸軍は191個師団,加えて1,000万人の徴兵が可能.
 対する日本は17個師団,兵力は25万,徴兵は最大で200万人.
(2) 日本は資源が貧弱で,中国の「寄生虫」にすぎないから,経済断交によって容易に日本を締め上げることが出来る.
(3) 列強諸国は中国側に立っている.

 少なくとも,日本軍を華北から撤兵に追い込めるという算段はあったでしょう.


 【参考ページ】
http://m-space.jp/a/novel2.php?ID=R0319&serial=35086&page=16&view=1
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col7173.html
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/15/(ただし『週刊新潮』’09年1月15日号の,櫻井よし子の寄稿記事からの孫引き引用なので,恣意的引用である可能性もある)


 【質問】
 蒋介石は北支での停戦が成った後も,第二次上海事変を仕掛けて挑発し,ゼークトラインで殲滅を図ったようだけど,何故こんな行動に出たの?
 日本に一泡ふかすにしても,上海や南京周辺は民国の中心部でしょ?
 十分に日本と戦える状況とも言い難いのに,ここで戦争を仕掛けたのは一体…

 【回答】
 大軍を動員して補給出来て,日本軍を釣り出せるから.
 当時の国民政府は軍閥の連合政権なので,どこでも戦えるわけじゃありません.
 補給も御粗末なもので,南京以外では日本軍に立ち向かうための,戦力の集中が不可能.
 日本人居留民という人質も選定理由になったでしょう.

 実際,このゼークト・ラインで日本軍はかなりの損害を出しています.

軍事板


 【質問】
 ヒューゲッセン事件とは?

 【回答】
 1937.8.26,上海の南50kmの場所で,ヒューゲッセン英国大使の乗った車が,日本軍機の爆撃を受け,大使が重傷を負った事件.
 英国民は一気に激昂し,同国議会・市民の反日感情が高まった.
 また,英国政府は,この事件や盧溝橋事件により,天皇が軍や政府を掌握しきれているのか疑念を抱き始めたという.

 【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.74-77

【ぐんじさんぎょう】,2010/08/16 21:10
を加筆改修


 【質問】
 蒙疆政権誕生の経緯は?

 【回答】
 1912年,辛亥革命によって清帝国が滅びると,ゴビ砂漠を挟んだ外側の外モンゴルは,清帝国から独立を宣言してラマ教高僧のボグド=ハーンを戴く政権を樹立し,1913年,民国政府からは独立を容認されませんでしたが,中国の宗主権下で高度な自治を獲得しました.
 その後,1917年のロシア革命後,南シベリアから反革命軍が侵入し混乱を極めますが,1924年にスフバートルとチョイバルサンによる抵抗運動が勝利し,革命が成立,ボグド=ハーン政権に代わってモンゴル人民共和国となります.
 一方,ゴビ砂漠の内側にあった内モンゴルは,同時期に平民出身の遊牧民バブージャブにより日本の支援を得た独立運動が展開されますが,1915年までに鎮圧され,こちらは従来通り中国領に留められました.

 1932年,満州事変により満洲が民国から分離すると,満洲のモンゴル人居住地域は,特殊行政地域とされ,興安東西南北の4省が設置されます.
 1933年になると,関東軍は大興安嶺を越えて熱河省に侵攻し,此処を満州国に編入しました.

 関東軍としては,外蒙古に影響力を及ぼしているソ連軍が,内蒙古西部を通して満洲に侵攻することを恐れ,察哈爾省と綏遠省のモンゴル人達に宣撫工作を行い,分離独立を促していきます.

 当時,中国の省の支配に組み込まれていたとは言え,伝統的には遊牧民の有力王公を中心に「盟」と彼らが呼ぶ自治権を有する地方行政単位を構築し,2つの省には,シリンゴル盟,チャハル盟,バインターラ盟,ウランチャプ盟,イフジョウ盟の5つがありました.
 1928年,民国の制度で省制が改革され中央集権の度合いが高まると,その盟による自治は失われ,1934年にモンゴル人達は,ドムチョックドンロブ(通称「コ王」)を立てて百霊廟蒙政會を組織,1935年5月に蒙古軍政府を成立させました.
 この裏には関東軍の特務機関の暗躍がありました.
 当時,満州国熱河省の承徳,赤峰にそれがあり,モンゴル人に対し,武器や資金の提供,軍事訓練などを施しています.
 関東軍の考えとしては,中国の名目的な主権は残しつつ,実際には中国の影響を極力廃した親日的な自治政権を誕生させ,これを足がかりに華北地方に進出すると言うものであり,また,内蒙古から外蒙古に浸透して工作活動を起こし,反ソ機運を煽り,モンゴル人全体を日本の側に付かせて,ソ連の影響力を削ろうという目論見もありました.

 1937年に盧溝橋事件が勃発すると,これ幸いとばかりに関東軍は参謀長東条英機が察哈爾派遣軍を編成し,察哈爾省北部を占領した後,帰遠,包頭を立て続けに占領し,寧夏,甘粛両省と境を接する綏遠省に侵出すると共に,張家口を中心とする察南地方と山西省北部の大同を中心とした晋北地方が関東軍の支配下に置かれました.
 本来,察南地方と晋北地方は支那方面軍の工作地域,守備地域だったのですが,東条英機は軍令を無視して自軍の支配地域としたのでした.

 ところが,この両地域はモンゴル人の居住地域ではなく,そこに住む多くの人々は回族,即ち中国系のムスリムだった訳です.
 東条は功名に逸って,従来の満洲人,モンゴル人だけではなく,さらに厄介なものを取り込んだことになります.

 結果,支配地域は三分割され,10月28日に,先ず,コ王を中心とする蒙古軍政府を改組して作られた蒙古聯盟自治政府を作り,彼らの支配地域をシリンゴル盟,チャハル盟,ウランチャプ盟,バインターラ盟,イフジョウ盟,つまり,察哈爾省北部,綏遠省とし,2つの特別市,厚和(旧綏遠,今は呼和浩特)と包頭を管轄する地域と規定し,政府は厚和に置かれました.
 それに先んじて,9月4日に張家口を首府とする察南自治政府,10月15日に大同を首府とする晋北自治政府が成立しています.
 これら3つの政府の上位機関で,三者の利害調整機関として,11月22日,蒙疆聯合委員会が組織されます.

 元々,関東軍内部でもこれらの政府は独立国として扱う予定はなく,日本人の最高顧問が主宰する蒙疆聯合委員会が3つの自治政府を統轄し,事実上の中央政府の役割を果たす様にしています.
 これが,所謂,「蒙疆政権」と呼ばれているものです.

 関東軍は,「蒙古」と言う名称を出来るだけ使わないようにしました.
 これは,「蒙疆」と言う言葉に置き換えられています.
 即ち,この地域にはモンゴル人だけではなく漢族や回族が多数含まれているので,「蒙古」を使うのは住民支配上不適切だと考えたことに依ります.

 元々,明治末期から「満蒙」と言う言葉は使われていますが,蒙古,蒙の概念には,内モンゴル西部地方が含まれず,大興安嶺を間に挟む内モンゴル東部地方だけとされていました.
 これは1912年に調印された日露協約で,内モンゴルの地域は,北京を南北に走る経度線を境に,東は日本,西はロシアの勢力圏と定められたことに依るもの.

 しかし,今回の関東軍の遠征で,事実上西の地域まで取り込まれてしまったので,新たな言葉の概念が必要となりました.
 従来の中国から見ると,長城以北は華北の一部ではあるにせよ,辺疆に属することから,屡々これらの地域は疆と呼ばれていました.
 そこで,蒙古と辺疆を組み合わせ,蒙疆と言う概念が作られた訳です.
 この裏には,モンゴル人主体の自治,独立を認めない日本側の姿勢もあったりします.

 これにはモンゴル人達は非常に反発しています.
 元々の呼び名を使って何が悪いのか,由緒のある言葉を捨てるのは誇りを捨てるに等しい,と.
 コ王は,公式の席でも「蒙古」を使い続けました.
 しかし,日本人通訳はそれをわざわざ「蒙疆」と言い換えていたそうです.

 モンゴル人から見れば,「蒙古」は世界中誰でも知っている歴史上の名称であるのに,「蒙疆」だと,中国の辺境で独立した政権ではなく,中国に隷属した地方政権であると言う認識になる訳で.
 結局,これらの反発を日本人達も無視し得なくなり,1939年9月1日に,蒙疆聯合委員会は3政府鼎立を止め,形式的にはモンゴル人が主導する統一自治政府,蒙古聯合自治政府を成立させます.
 従来の察南自治政府は宣化省,晋北自治政府は大同省となり,残りの地域は5つの盟が其の儘地方行政単位となりました.
 但し,実質的には最高顧問に日本人がいて,その監督を受けることには変りありません.

 こうした妥協が成ったのは,蒙疆政権が支配していた回族は3.8万人と必ずしも多くなかったからで,この地域に住んでいる人口で最も数の多い漢族の528万人より遙かに少なく,モンゴル人15.9万人や日本人4.1万人よりも少なかったりする訳で.
 ただ,甘粛省,青海省,寧夏省,新疆省に住んでいたムスリムに対する工作活動を見据えると,回族を無碍にすることが出来なかったのも確かです.

 更に目を北に向けると,外モンゴル,タンヌトゥーバ,カザフなどにも影響を及ぼす地域で,彼らを扇動して中国から独立させて,親日イスラーム国家を樹立し,更に中央アジアからイラン,トルコに至る地域を連携させて,ロシア包囲網を作ろうと言う構想を抱いていました.

 まさに,壮大な夢と言うべきものだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/01 22:04


 【質問】
 1937.10.28夜の,駐日英国大使館侵入事件(仮称)について教えられたし.

 【回答】
 アジア主義を唱える団体の若者40人が,午後の集会の後,英国大使館に押しかけ,敷地に侵入した事件.
 クレーギー大使によれば,大使館を警備している日本の警官は,本気で侵入を阻止しようとはせず,2時間後に応援の警官が駆けつけることで,ようやく排除されたという.
 また,国内外の知識も大してない日本の若者たちが,特定のイデオロギーを信じ込んでしまっていることに,大使は懸念を抱いたようで,このときにこの団体が大使に手渡した,頭痛モノの「声明文」が,英訳されて英国外務省へ報告されている.

 「コヴァ」の原型.

 【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.90-91

【ぐんじさんぎょう】,2010/08/17 22:39
を加筆改修

 中国や韓国なんかは,60年くらい遅れて日本の後をついてきてると思えば,可愛く思えてきますね.

寄星蟲 in mixi,2010年08月07日 22:53

>「コヴァ」の原型

 昔,ソ連大使館に(襲撃するために?)よじ登って捕まったことがあるらしい「つまみ枝豆」の原型とも…
http://wiki.fdiary.net/geinin/?%A4%BF%B9%D4#l24
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%BE%E3%81%BF%E6%9E%9D%E8%B1%86

ぎんなんそう in mixi,2010年08月07日 22:58

 そう言えば「夜王-YAOH」の作者の倉科遥の,「DAWN-日はまた昇る」もアジア主義の漫画でしたが,アレも内容は酷かった・・・.
 アジア主義に嵌るとアホになるのでしょうか?

 倉科先生も政治に首突っ込まないで,歓楽街漫画をおとなしく書いていなさいと.

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年08月07日

 最近,仕事で英国大使館に行ったばかりなので,びっくり.
 今はジョギング愛好者や犬散歩の人々が行きかうあの場所で,70年前は韓国や中国みたいな事件が起こっていたんですね.

 人に歴史あり,建物にも歴史あり,ということですかね.

マツケン in mixi,2010年08月08日 01:05



 【質問】
>頭痛モノの「声明文」

何か,思いっきり読んでみたいんですが,原文を(笑)

ソフトヒッター99 in mixi,2010年08月08日 08:43

 【回答】
 同書によると,その内容は……
>「欧州の抑圧を取り除かない限り,アジアに平和と繁栄は実現しない.
>(中略)
> 日中戦争は日本と中国の戦いではなく,南京政府を支援する英国やロシアとの戦いである.
>これはアジア解放の歴史的闘争で,われわれは日本政府の政策を全面的に支援する」
>(1937年11月4日,英国外務省報告)
 というものだとか.
 英国側が驚いたのは,これが右翼や国粋主義者の団体からではなく,世界や日本の状況に大した知識もない一般の若者からのものであり,世間に特定のイデオロギーが浸透してしまっている事だったようです.

 「われわれは日本政府の政策を全面的に支援する」を除けば,今のコヴァと同じ感じの文面だ.

寄星蟲 in mixi,2010年08月08日 09:54

 コヴァの場合は
「自民も民主もみんな売国奴で,自分たちだけが愛国者だ」
みたいに思ってますから,当時より悪化してますな.

フナムシ in mixi,2010年08月08日 13:44

つ 高杉晋作

しまだ in mixi,2010年08月09日 09:58


 【質問】
 日中戦争の時,中国側が日本側の停戦交渉や講和に応じず,中国側が戦争を続けたというのは本当ですか?

 【回答】
 或る意味本当ですが,日本側の交渉術が下手糞過ぎたのも一因.

 それと,日本側の講和は,様々なChannelが入り乱れていて,どれが本命だか判らない状態に加え,日本内部でも足の引っ張り合いをしていた訳で,これを中国に信じろと言われても,どれを信じて良いのやら,だし.

 まともな和平交渉については,近衛の阿呆発言は兎も角,それ以後でも宇垣和平工作では,それなりに双方共歩み寄りがあったものの,近衛の腰砕けと軍部過激派の反対でおじゃんになった訳で.

 で,最終的に汪兆銘を擁立して,中華民国国民政府を作り,これを承認した後,此処と和平交渉して妥結したから,和平交渉に応じなかったと言うのは誤りですね.
 蒋介石政府は,政府じゃないのですから(笑.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/21(火)
青文字:加筆改修部分

 「講和に応じず戦争を続けた」というのが,拠点を攻略されても降服や講和をせず,更に後方に拠点を移して抗戦,という状況を指すのなら「本当」だな.
 ベトナム戦争の時,北ベトナム軍が米国の停戦交渉や講和に応じず,北ベトナム側が戦争を続けたというのも本当だし,文永の役の前,鎌倉幕府が元の親書に応じず,結果元寇となったのも本当です(笑).

「どちらかが講和に応じなかったから戦争が続いた」
という見方は,状況と合わせて行わないと錯誤や短絡の元です.

軍事板,2006/03/21(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日中戦争の時に汪兆銘が重慶を脱出したのは,蒋介石の同意を得たうえでの行動だったと聞きましたが,本当でしょうか?

 【回答】
 同意を得たと言うか,汪兆銘が提案を持ちかけた上での行動.
 共産軍に追い詰められ,日本側の条件を呑んで和平を選ぶ道を選ぶしかなかったが,共産軍に蒋介石打倒の口実を与えさせない為,汪兆銘は蒋介石に対して
「君は安易な道を行け,我は苦難の道を行く」
との書簡を送り,重慶からハノイに脱出し以後,単独で日本政府との交渉を進めた.
(日中戦争の見通しは明るくない,中国を救うには日本との和平しかない,と汪兆銘は考えていた.)

 だから後に,蒋介石とは別に汪兆銘は,南京政府(汪政権)を樹立している.
 日本の傀儡だけど・・・

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 汪兆銘南京政府って,ヴィシー・フランスみたいなもん?

 【回答】
 全然違う.
 1938年の近衛内閣が発表した東亜新秩序に呼応して,対日徹底抗戦を叫ぶ蒋介石政府と対立して,汪兆銘が樹立した政権.
 東亜新秩序とは,日本,支那,満州が連携して,日支事変を終わらせようという呼びかけでもあった.
 その呼びかけに応えて,汪兆銘は日本,満州と連携しようとして,そのための政府を樹立した.
 要は対日方針を巡って国民党政府が分裂した,その片方が汪兆銘南京政府.

世界史板,2009/12/14(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 蒋介石は重慶を落とされたら,次はどこに逃げるつもりだったのでしょうか?

 【回答】
 蒋介石は雲南の昆明辺りまで退いて抗戦を続けるつもりだったらしい.
 タイ・ベトナム・ビルマの国境近く.
 麻薬王クンサーは元蒋介石の部下で,ゴールデントライアングルは中華民国臨時首都になるハズだった.

 ただ,雲南省政府主席の竜雲はどちらかと言うと和平派であり,汪兆銘のハノイ脱出を手助けしたりしている.
 雲南は長期に渡って独立を維持してきた勢力なので,すんなりと蒋介石に協力するかは未知数.
 1942年夏頃から重慶・成都を攻略する『五号作戦』が計画・準備されており,南方での戦況の悪化がなければ,蒋介石の命運も危うかっただろう.

 また,ソ連に亡命政府を樹立する計画もあったそうだ.


 【質問】
 日華事変時の,特に上海攻防戦での蒋介石軍の戦闘機と戦車について教えてください.
あと,ドイツは参謀を派遣したりしてますが,武器の供与などあったのでしょうか?

 【回答】
 戦闘機は米国製Curtiss Hawkシリーズ(後のP-36ではなく,複葉戦闘機)が主力です.
 爆撃機は,Curtiss A-12,Chance Vought O2U/V-92C.
 戦車は,Vickers6t戦車Mk.EとCarden Loidでしょうが,イタリアのC.V.33も装備しています.

 ドイツの関与ですが,清朝時代から関係は深く,小銃や拳銃はMoselが主力ですし,高射砲は,後に日本軍がコピーした88mm高射砲,航空機ではHe-111A爆撃機,Hs-123襲撃機,Fw-44練習機が売却され,戦車は1号戦車,装甲車としてSdKfz.221を購入しています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 日華事変時の中国軍に空軍や海軍は存在したのですか?
 日華事変時の中国軍に組織された戦車部隊,組織された潜水艦部隊や艦隊,戦闘機部隊は存在したのでしょうか?

 【回答】
 日華事変の中国海空軍はしっかり存在します.
 日清戦争でやられても,辛亥革命で国が引っ繰り返っても,海軍の再建の試みは行われており,旧式ですが巡洋艦も装備していました.
 但し,武漢の戦闘までに主力艦艇が失われ,以後は河用砲艦だけの存在になってしまっています.

 空軍は宋美齢を司令官として当初はドイツ,次いで米国,更にソ連の機材を使って整備されていました.
 上海,南京や重慶で日本の陸海軍爆撃機隊が中国空軍に迎撃されて苦戦していますし,日本海軍の旗艦出雲は爆撃を掛けられたり,あまつさえ,日本本土爆撃までされています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 南京国民政府って何?

 【回答】
 1940〜1945年の期間存在した,汪兆銘を行政院長(首相)とした中華民国の政権.
 首都を南京としていたことから,当時の日本でそう呼ばれた.
 事実上,ほぼ日本の傀儡政権であり,連合国からの承認も民衆の支持も得られず,1945年の日本敗戦と共に消滅した.

 【参考ページ】
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1940_ochomei_nankin.html
http://www.izu.co.jp/~echigo/syoko/gaichi/sina.htm
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/onodera.pdf
http://fourkokint.exblog.jp/12200083/

【ぐんじさんぎょう】,2011/03/13 21:10
を加筆改修

 昭和18年同盟通信社発行の写真集「2602」(皇紀2602年=昭和17年)より.
 これは「写真週報」等内外の雑誌に掲載されている写真を集めた物ですが,〔略〕日本軍に協力した中国国府軍写真の幾つかは珍しいものが在りました.
 これは日本式銃剣道術を学ぶため防具を付けた中国兵.
 ドイツ式の野戦帽を被っています.

 また日本軍の兵器も供与されていた様で,青天白日マークをつけた94式軽装甲車や,独M36型ヘルメットを被って,三年式重機関銃を構えた姿など新鮮です.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月10日23:32
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「民主堡塁」とは?

 【回答】

 中国の抗日戦争時期,昆明は「民主堡塁(民主の要塞)」と呼ばれていました.
 それは抗日戦争の時代,国民政府支配地域の中で昆明が民主運動の中心だったからです.
 昆明の民主運動が発展したのは,西南連合大学を拠点として,知識人と学生を中軸とする民主運動の主体的力量が大きかった事に加え,雲南の支配者であった龍雲がこれを陰に陽に支持した事にありました.

 1939年以後,今までの国共合作が上手く行かなくなり,国共対立が表面化すると,国民政府内の右派勢力は龍雲に対し反共政策を実施するように圧力をかけ始めます.
 例えば1940年4月,国民政府国務委員兼参謀総長の何応欽が昆明を訪れ,龍雲に党政軍連席報告会を設立して,共産党に対する防衛と鎮圧を強めるように督促しますが,龍雲は国民党勢力の雲南への浸透を警戒して共産党との接触を強めていた龍雲は,回答を引き延ばして何の要求にも従いませんでした.

 1941年1月には国民党軍が新四軍を攻撃するという皖南事件が起こって,国共分裂の危機が激化し,2月には軍隊,警察,交通運輸部門を活動の拠点とする特務機関である国民政府軍事委員会調査統計局,通称「軍統局」副局長の康澤が共産党員と左派の人々の逮捕リストと反共計画を持って昆明に来ましたが,龍雲は証拠の提出を求めて特務による大量逮捕を拒絶しました.

 7月には何応欽が再び昆明を訪れ,再び党政軍連席報告会の設立を催促しました.
 龍雲は,これ以上の延引は無理と判断して,省内の人々からなる党政軍連席報告会を設立しますが,中央の統制は排除しました.
 又,龍雲は昆明行営主任の権限で中央の憲兵と警察部隊が市区域で任務を執行する事も許しませんでした.
 この為,龍雲は自己の権力を守っただけで無く,客観的には昆明の民主運動勢力の守護も行いました.

 とは言え,昆明の抗日民衆運動は皖南事件後に国民党の反共攻撃が激化すると沈滞していきます.
 中共省工作委員会は身分が露見していた党員を省内の各地に避難させ,西南連合大学では,100余名の党員と左翼系学生団体群社の活動家が昆明を離れ,国民党の三民主義青年団の活動が活発化します.

 1943年に入ると政治の民主化を求める言論が興り始め,地方に避難していた党員や大衆団体の活動家が次々に昆明に帰ってきました.
 西南連合大学では,春に共産党支部が再建され,学生達の間に影響を広げ始めました.
 また,大学教員も,国民政府の独裁政治,汚職腐敗の拡大,特務の横行,物価の狂騰等の現実に接して,政治情勢への関心を高めていきます.
 こうした中,5月には中国民主政団同盟の昆明支部が成立しました.

 民主政団同盟は,1941年3月に重慶に成立した中間小党派の連合組織で,激化する国民党と共産党の対立の調停者となることを主な目的としていましたが,成立当初は比較的穏健な政治姿勢だったのに,次第に急進的な色彩を強めつつありました.
 昆明支部の主任委員は,西南連合大学教授で政治学者の羅隆基が担当し,楚斗南,費孝通等が委員となり,呉ヨ,聞一多,李公樸等著名な学者,知識人も次々に参加していきます.

 1944年になると,既に世界の趨勢では連合国の勝利が明らかになり,国内では国民政府の政治的・経済的危機が進行していました.
 この内外の圧力に押され,国民党は1943年9月の11中全会で抗戦勝利後1年以内に憲政を実施するとの決定を行い,それが引き金になって1944年から憲政運動が開始されます.
 この運動は5月頃から大衆的性格を帯び,広範な民主運動としての性格を持つようになります.
 特に昆明では5月3日から8日にかけて五・四運動を記念する行事が開催され,8日には西南連合大学図書館前の広場で西南連合大学を始め各学校の学生と各界の人々約3,000名が参加する大講演会が開催されました.
 勿論,反共の何応欽はこの活動を武力で弾圧しようとしますが,龍雲は自分の責任で問題が発生しないようにすることを保証して,手を出させませんでした.

 同じ時期,日本軍は乾坤一擲の作戦として一号作戦,即ち「大陸打通作戦」を発動し,中国軍は各地で大敗を喫します.
 8月には長沙南方の戦略拠点衝陽が陥落し,日本軍は広西省に進撃します.
 貴州・雲南・四川にも危機が迫る中で,双十節の10月10日,昆明の昆華女子中学校で5,000余名を集めた時局講演会が開催されます.
 国民党の特務が爆竹を鳴らして会を混乱させようとしますが,会場の警備担当者と龍雲が予め派遣していた憲兵が妨害者を排除し,会は無事に進行しました.
 講演会では聞一多が読み上げた「昆明各界双十節記念大会宣言」を採択しました.
 この宣言には国民政府の敗北と独裁政治を非難し,党治を終わらせて政治を民に返し,総ての力を動員して大西南を防衛するなどの内容が盛り込まれていました.

 因みにこれに先立つ9月19日,民主政団同盟は改組されて中国民主同盟が成立していました.
 中国民主同盟は中間諸党派の結集体だった民主政団同盟と異なり,無党派の個人の加盟を認めた所に特徴が有り,より大衆的な性格を帯びることになりました.
 とは言え,民主同盟が10月10日に発表した政治主張は,
「直ちに一党独裁を止め,各党各派の連合政府を樹立し,民主政治を実行すること」
という当時の共産党の主張と一致する内容だったりします.
 昆明の民主同盟は,この中国民主同盟の中でも最先端を走っていました.
 下半期には昆明池区の民主同盟員は100名になり,昆明支部は雲南支部へと拡大改組されました.

 この時期,龍雲に対して共産党の工作も進展していました.
 地方権力者の獲得は,共産党の統一戦線工作の一環であり,雲南の最高実力者である龍雲はその重要な対象でした.
 共産党指導者と龍雲との直接の交流は,1937年8月に龍雲が南京を訪問した時から始まっています.
 この時,龍雲は朱徳,周恩来と話す機会があり,特に雲南陸軍講武堂の同窓生だった朱徳とは親しく意見を交換し,両者は以後,無線を用いて連絡を取り合うことを約束しています.

 1939年1月,重慶に周恩来が指導する中京南方局が成立し,地方権力者の獲得がその重点目標の1つとなりました.
 4月,中共雲南省工作委員会は南方局の指示を受けて省工作委員会書記だった李群傑を上層部への統一戦線工作に専念させることにしました.
 李群傑は省政府に秘書として入り込み,省政府の上層部に対して共産党の政策を宣伝しました.
 1940年11月には『新華日報』の記者が昆明に龍雲と李根源を訪問し,共産党の統一戦線政策を説明して意見を交換しています.
 その際,龍雲は
「全国は団結を強め,最後まで抗戦すべきだ」
と述べたそうです.

 1943年,龍雲は昆明で周恩来と会見することを羅隆基に希望し,これを受けて重慶の中京南方局の周恩来と董必武は,歴史家で南方局宣伝部長だった華崗等を昆明に派遣しました.
 華崗の任務は龍雲等を共産党の側に引き入れること,及び昆明の民主運動を指導・援助することでした.
 華崗は楚図南の推薦で雲南大学の社会学部教授に招聘され,大学教員達のオルグを始めました.
 更に華崗は羅隆基の紹介で龍雲に会い,五華山の?黔綏靖公署内に共産党との連絡のための無線電信局を設置する事で合意しました.
 南方局は電信係員を昆明に派遣し,此所に昆明は延安の中共中央と重慶の南方局との連絡を保持出来ることになったのです.

 1944年末,龍雲は更に一歩進めて,秘密裏に中国民主同盟に参加しました.
 龍雲は抗戦期間中,蒋介石の招請で何度か重慶を訪問しましたが,その際,民主同盟の幹部から同盟への加入を勧誘されていました.
 昆明に帰った龍雲は民主同盟雲南支部の責任者である楚図南と相談し,民主同盟への加入を申請します.
 入会の儀式は龍雲の住居で行い,楚図南,聞一多等が立会いました.
 因みに,龍雲は秘密同盟員であり,公式の民主同盟の活動には参加しませんでしたが,資金面で民主同盟を試験し,又その活動を保護しています.
 龍雲の周辺では繆嘉銘,龍雲の長男である龍縄武等がこの時期に民主同盟に加入しています.

 元々,龍雲は共産党を弾圧していた側でした.
 その理由の1つとして,雲南ナショナリズムとも言うべき,強烈な地方主義がありました.
 これは,同時期に民主同盟に加入した西康省の劉文輝や四川省の潘文華にも共通するものがあります.

 そして,民意を見るに極めて敏な処も在りました.
 民が苦しんでいる時には,省参議会に対して民意を代表して,徴兵と糧食の徴収を減らし,民の苦しみを緩和するように中央政府に懇願するよう強く促しています.
 その主張は,民主同盟とかなり接近していました.
 その為,説得や勧誘だけではなく,主体的に自らが民主同盟に加入することを決断したのでは無いか,と考えられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/01 23:33
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 朝日新聞は社説で,中国の犠牲者は1千万人を上回ると報道していますが,実際にはどれだけの犠牲者が出たのでしょうか?

▼ 【回答】
 終戦時の国民党および連合国の公式発表が130万人.恐らくこれが一番正確だろう.
 記事の信憑性で東スポと朝鮮新報を比べるようなものだが(笑).


 共産主義による民衆被害を研究している,ハワイ大学のルメル R.J. Rummel 教授は,死者約395万人と推定,多くて632万5千人に上る可能性もあるとしている.
>Overall and quite aside from those killed in battle, the Japanese probably murdered 3,949,000 Chinese during the war; even possibly as many as 6,325,000.
http://www.hawaii.edu/powerkills/CHINA.CHAP1.HTM

 一方,国民党政府発表の数字は,1947.5.21作成の資料では,

  軍人  民間人 
 死亡 1.328.501  4,397,504 
負傷  1,769,299  4,739,065 
不明  130,126   
病死  422,479   
(東三省,台湾,解放区の死傷者を含まず)  

 また,『中華民国外交史料彙編』では1937〜1945年の総計で,国府軍の戦死者1,319,948人,戦傷者1,797,290人,行方不明者130,126人としている.

 これらを併せて考えるに,死者400〜600万人,負傷者もだいたい同数といったところではないだろうか.


 ちなみに,中共軍の発表の数字は,

軍人 民間人
死亡  160,603 3,176,123
負傷 290,467
捕虜 45,989
失踪 87,208
被捕壮丁 2,760,277
寡婦,孤児,身障者 2,963,582
難民  2,600万人

であるという(「中共抗日部隊発展史略」1990年)

 なお,これらの数値は,臼井勝美『新版 日中戦争』(中公新書,2000),p.208-209からの孫引き.

 ただし注意しなければならないのは,これらの数値は対日戦のみではなく,国民党政府軍との戦闘での数を含むということ.
 同書の表の但し書きにも,そのように明示されている.
 寡婦・孤児・身障者・難民にしたところで,国共内戦のそれと抗日戦争のそれとをどのように区別しているのか,そもそも区別できるのか寡聞にして知らない.

 しかも,この数は中華人民共和国建国後どんどん増え始め,2168万人がしばらく中国の公定数字になる.
 さらに,1995年の第二次大戦終結50周年の折,江沢民がモスクワで突然3500万という数字を言い出し,一挙に1400万人も増える.
(秦郁彦『現代史の対決』(文藝春秋,2003.1.10),p.36-37)

 今では,抗日戦争中の軍民の死傷者数は「3500万人」であると,中学校の教科書で教えてさえいる.
(『世界の教科書シリーズ5 入門・中国の歴史――中国中学校歴史教科書』(明石書店,2001),p.1048-1049)

 となると,中共の発表は,それ自体信じてはいけない可能性のほうが高い.
 上記の表の数字自体,水増しがあるだろうと疑ってかからねばならず,それゆえ到底信用できる数字ではない.
 死傷者数を推量するにあたり,無視したほうがいいだろう.


 さらに別の数字もある.
 以下は,軍事板で収集されたレスの数字.

------------
発表された「日中戦争犠牲者数」の変遷
     
終戦時    130万人  GHQ発表
終戦時    130万人  国民党発表
1948年    438万人  国民党政府報告書
1950年代   1000万人  共産党政権発表
1970年    1800万人  共産党政権発表
1985年    2100万人  共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1998年    3500万人  江沢民発表
2005年    5000万人  卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)

……

3165年(予想) 10億人
------------

 だがこれは,Google検索では出典元のスレッドを特定できなかったが,どうやらプロパガンダ目的で拡散が図られた,いわゆる「定型コピペ」であったようだ.
 「図られた」というのは,あまり拡散に成功しているようには見られなかったからで,google検索ではさほどヒットしなかった.
 それゆえ編者も定型コピペと気づかずに収録してしまったとは不覚であった.
(レス回収基準「V.E.R.」を満たしていても,定型コピペは回収しない規定になっている)
 もちろんこのコピペの数値が正確性を欠いていることは,「130万人」という数字が,上述した国民党政府発表の数字のうち,軍人の死者数だけを挙げていることからもお分かりだろう.

 それにしても,このコピペの作成者もそうだが,中国共産党も数の引いたり足したりをそろそろやめてはどうか.
 そんなことをしても信憑性が無くなる一方であるし,第一,足したり引いたりしているものは只の数ではない.
 人の命の数なのである.
 仮に400〜600万の人々が死ぬことが無く,適切な教育を受け,そのうちの1%でも陽明学で言うところの「立志」していたならば,どんなにか社会は進歩したことであろう.
 それを思うと,残念でならないのである.

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【珍説】
 (上記項目は)いかにも朝日新聞嫌いのネトウヨ電波が伝わってくる回答なのですが,一言で言えば,”終戦当時の発表が一番正確なはず”という主張ですね.
 〔略〕
 単純に言えば,南京事件否定論者のネトウヨと大して変わんねーて感じ.
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10314316070.html

 【事実】
 違います.
>”終戦当時の発表が一番正確なはず”という主張
などではありません.

 一言で言えば,「これといった根拠もないのに,どんどん数字を膨らませるような政府の発表は信頼できない」
ということです.
 他にも,
「経済問題,チベット問題や東トルキスタン問題など,色々な事象において発表の信頼性に疑問が持たれている政府の発表が,歴史問題に限っては信頼できるとする根拠が見当たらない」
や,
「極端に増加している発表は,それだけで胡散臭い」
とも言えますが.

 さて,では,3500万という数字は,信頼できる数字なのか?
 どうもそうではなさそうです.
 3500万人説が出てきた経緯について,秦郁彦は以下のように述べています.
――――――
日中戦争における中国の人的被害は,何応欽・軍政部長が終戦直後の東京裁判で出した数字だと,軍人が約320万で,民間人は不明です.
 20年以上経ってから何応欽は,両方合わせて570万人くらいと言っています.

 その後,中華人民共和国になってどんどん増え始め,2168万人がしばらく中国の公定数字になる.
 一応それには,軍と民,死者と負傷者の内訳があり,北京の軍事博物館や盧溝橋の博物館などの壁に大きく書かれていました.
 ところが,1995年の第二次大戦終結50周年の折,江沢民がモスクワで突然3500万という数字を言い出し,一挙に1400万人も増えました.
 3年後の平成10年(1998)の秋,江沢民が日中平和友好条約締結20周年記念ということで日本に来て,早稲田大学の公園でまた,この3500万人という数字を出しました.

 モスクワでの発言直後に,私が中国人の研究者へ
「博物館はどうなっているか」
と聞いたところ,
「まだ2100万のままだ」
という答でした.
 その後も
「3500万の内訳はわからないか」
と訊くと,
「分からない」
との返事でした.
 重ねて
「3500万の内訳を作る作業を命じられているのではないか」
と問いただしましたが,
「まだ指示を受けていない」
と言っていました.

――――――『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.36-37
 こんな数字を,こんな当局を,信用しろというのは無理がありすぎるでしょう.

 同ブログ後段の「つっこみ」に関しては,根拠のない印象論であって,情報の真実性の検証以前の問題ですので割愛します.

 なお,ブログ主はしきりに「自虐」という言葉を使っていますが,情報の真実性の検証において,そういう政治性を混ぜ込むことが,ブログ主をして誤った方向に進ませている原因であろうと推測いたします.
 本サイトにおいては,「自虐的に見えるが,真実性の高い情報」と「自虐的ではないが,信頼もできない情報」のどちらかを選べといわれれば,迷うことなく前者を選択します.

 それにしても,このブログ主は運が良い.
 たまたま検索で当方がこのブログを発見しなければ,そして,当方がたまたま秦郁彦の本を読んで,関連記述に出くわさなければ,この項目を作ることもなかったでしょう.
 良かったですね.
 これであなたは知識を修正できますよ.



 【質問】
http://goodreporthunter.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
 このサイトで反駁がなされているので,一応御意見を頂ければと思います.

Z旗 in FAQ BBS,2016/3/15(火)

 【回答】
 情報提供ありがとうございます.

 ただ,そのブログですが,勉強になった点もあるものの,幾つかの点では疑問もあります.
 しかし,「ネトウヨ」だの「反中バカ」だのとレッテル貼りを安易に多用している点から見て,ここで疑問点などを挙げたところで,おそらく建設的な議論にはならないのではないか?と愚考いたします.
 また,いたずらに攻撃的な姿勢から推測するに,ブログ主は実は自説に自信が無いのではないか?と診ることができます.
 自信の無さを攻撃性で心理的に補っているわけですね.

 以上の点から,近付かないほうがいいブログの一つに数えられるでしょう.

 では,ブログ主の主張を具体的に見てみましょう.
http://goodreporthunter.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
では,およそ次のように述べています.
A) 仮に中国の犠牲者数が130万人だったとすると,中国戦線での日本軍戦死者50万人に比べていかにも少ない
B) そもそも犠牲者数が増えていくのは珍しくない

 そして,その続きのページ
http://goodreporthunter.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
では,およそ次のように述べています.
C) 人数が増えているのは解釈の違い

 これに対する疑問点は,次の通りです.

a)
 「多い/少ない」は印象論であって,客観的な論拠たり得ないのではないでしょうか?
 極端な話をすれば,現代の米軍などは,たった一人殺されて吊るされただけでもモガディシオから撤退するほど大騒ぎするわけですし,2015年のパリのテロでは,それ以前にベイルートや
 すなわち,「多い・少ない」の客観定義など存在しない以上,このことで言い争っても不毛なだけではないかと存じます.

b)
 ブログの内容をよく読むと,「増えていくのは珍しくない」から「増えて当然だ」にシフトしていっています.
 しかし増減の話をするのであれば,減る事もまた珍しくはありません.
 典型的なのが,ホロコーストの犠牲者数です.
 歴史修正主義者ではない研究者の間でも,研究の結果,しばしば犠牲者総数の数値は変動しています.

ニュルンベルク裁判に提出された,元親衛隊保安本部の少佐ヴィルヘルム・ヘットル(Wilhelm Hoettl)の宣誓供述書の中の数字:600万人(1945年)
ジェラルド・ライトリンガーの460万人説(1953年)
レオン・ポリアコフの「550万人以上」説(1959年)
イスラエル・ガットマンらの「560万〜586万人」説(1995年)

 また,第二次大戦ではユーゴスラビアも戦場になりましたが,これによる死者の数はチトー政権時代には170万と言われておりました.
 しかし最近の研究では100万人と,こちらも減少しております.
(柴宜弘・石田信一編著『クロアチアを知るための60章』(明石書店,2013),p.101-102)

 さらに歴史を遡れば,次のような例もあります.
 蒙古襲来は日本でも歴史上の大きな事件ですが,モンゴル帝国は南アジアにも中東にも,そしてヨーロッパにも侵攻していました.
 1241年4月,ハンガリー王国(アールパード朝)はモヒの戦いにて,モンゴル軍を迎え撃ちます.
 しかしハンガリーは戦いに敗れ,国王ベーラ四世はダルマチアへ逃亡.
 ハンガリーは都市を中心に,モンゴル軍に徹底的に破壊されます.
 生き残った住民は,当時の人口の僅か20%であった――と言われていましたが,後には「50%」となり,最近の学説では「住民の殆どは生き残った」とされるに至っています.
(南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012), p.17-18)

 ちなみに,ブログ主は阪神大震災や9.11テロの例も挙げておられますが,9.11テロでは当初犠牲者数は数千人と言われておりましたが,最終的には3025人に減っていることをお忘れではありますまい?

 したがって,「増えていくのは珍しくないから,信用できる」というのは,根拠のない話だということになるでしょう.

 そもそもの話として,上記項目は単純に「増えているから信用できない」という話ではありません.
 論旨をすり替えてはいけません.
 そうではなく,
「これといった根拠もないのに,どんどん数字を膨らませるような政府の発表は信頼できない」
ということです.
「経済問題,チベット問題や東トルキスタン問題など,色々な事象において発表の信頼性に疑問が持たれている政府の発表が,歴史問題に限っては信頼できるとする根拠が見当たらない」
「極端に増加している発表は,それだけで胡散臭い」
「日々,反日プロパガンダ活動を展開している政府の発表を鵜呑みにはできない」
とも付け加えることもできますが.

 たとえば,「李克強指数」という有名な話からも,中国政府の首脳自身が,中国政府の統計の数字を信用していないことが分かります.
 また例えば,2016年にはとうとう統計発表を中止する事態にまでなっています.
「Newsweek Japan」◆160505 中国国家統計局、データ不正の疑いで統計発表を中止
 中国の統計の問題点については,詳しくは
川島博之『データで読み解く中国経済』(東洋経済新報社,2012)
高橋洋一『中国GDPの大嘘』(講談社新書,2016)
などお読みいただければ幸いです.

 にもかかわらず,しかもプロパガンダの可能性のある数字を,日中戦争の死者数に限っては信頼できるとする論理が分かりません.

c)
 解釈の問題であるというのは,その通りかと存じます.
 ただ問題なのが,「中国側がそのように解釈している」ということと,「その解釈が正しい」ということは,必ずしもイコールで結ばれるわけではないという点です.
 たとえば上記ブログにも記述されておりますが,たとえば江沢民の発表の数字には,難民の数まで含まれています.
 しかしこれは通常,死傷者数とな別カウントされるべきものです.
 そのような水増しは「捏造」と呼ばれるにふさわしいかと存じます.

d)
 ただ,これを書くにあたり,改めて調べてみましたが,上記項目の数字に問題があるのは確かなようです.
 たとえばgoogle検索では,以下のようなサイトを見つけることができました.
http://www.hawaii.edu/powerkills/CHINA.CHAP1.HTM
 このサイトなどをもとに,客観性の高いものである限りにおいて,上記項目を改訂させていただきます.

e)
 最後になりますが,

>良レスだの珍説だのは管理人の恣意的選択の結果に過ぎない

>これを良レスとする(してますよね?)あたり、管理人のレベルと思考傾向が垣間見えるようで興味深いです。

といった文言から見て,管理者がレスを回収するにあたり,何の基準もなく恣意的に選択しているかのように,ブログ主は勘違いしているようです.

 しかし実際には,ある物理量に基づく数値および計算式により,半ばbot的にレスを回収しております.
 詳しくは,
【質問】 常見問題への収録には,どのような客観基準が設定されているのか?(2015年改訂)(mixi)
をご覧いただければ幸いです.
 その過程で問題あるレスが紛れ込んでいる可能性は否定できません.
 こちらにも予め断っておりますように,当方のおよその目算では,信頼性は平均70%程度ではないかと見積もっておりますので,念のため.

FAQ BBSに何故か書きこめなくなっているので,こちらで返信
2016.3.21〜5.8


 【質問】
 日中戦争を巡る日本の「責任」を,現代の中国はどのように見ているのか?

 【回答】
 一部の軍国主義者こそが加害者で,一般民衆には罪はない,というのが公式見解.
 以下ソース.

 1972年の日中国交正常化の際の中国側の「責任」理解は,「一部の軍国主義者」責任論だった.
 この点について日本も了解し,日本側は
「過去において,日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し,深く反省する」
と述べた.
 一部の軍国主義者こそが加害者で,一般民衆には罪はないという考え方こそが,国交正常化以前の日中関係の政経分離論を支え,また,国交正常化交渉地の「日中友好論」や賠償放棄を裏付けるものともなっていた.

 このような中国側の基本的な立場は,1978年に,その「一部の軍国主義者」に相当するA級戦犯が靖国神社に合祀され,80年代に首相らが公式参拝することによって,日本への抗議としていっそう明確に現れる.
 中国側からすれば,「一部の軍国主義者」に責任を帰し,一般人民には罪はなかったとすることが,賠償放棄,友好交流の前提であり,だからこそ「一部の軍国主義者」に参拝するという日本政府要人の行為は,この前提を破壊するものだと映るのである.
 小泉総理が「反省し,お詫び」しても,まだ「行動で示せ」となるのはそのためであり,「甲級戦犯分祀」に中国側が拘り,靖国問題の妥協点として提示してくるのも,そのためである.

(川島真〔中国近代史専門家〕 from 「中央公論」, 2005/7, P.62)


 【質問】
 大日本青少年ドイツ派遣団について教えてください.

 【回答】
 大日本青少年ドイツ派遣団は1938年7月13日にブレーメンの次にハンブルクを訪問.
「現在ハンブルクの人口は110万人」
とか
「エルベ河河口に係留された船舶宿泊所が夏のシーズン中で大いに賑わっている.
 宿泊料金は大人50ペニヒ」
と記しています.

 ハーゲンベック動物園にも行っています.
 15日出発,ノルド・ゼーの「アドルフ・ヒットラー・クーグ」と呼ばれる労働奉仕団による干拓地を見学し,次の訪問地フレンズブルクへ.

 移動はドイツ自慢の自動車専用道路をドライブしたとあります.

 1995年にTVの報道特集で日独交歓事業の特集を放映したことがあり,録画を録ってあります.
 その中で日本人3名・ドイツ人2名の,まだお元気な方への訪問インタビューがありました.
 山形県,古沢健太郎氏,当時最年少19歳で放映時76歳.

 ドイツ派遣中に8mmを撮影してきたということで,まだ持ってみえました.
 岐阜県可児市,丹羽(旧姓篠崎)秀夫.佐賀,稲富早苗.派遣団の記録係で,今も当時の資料を保存されている.
 ハーケンクロイツの小旗やHJの短剣!各種バッジなども持ってみえる.
 ドイツ側は日本より状況が厳しく,現住所はわからない様に取材.

 驚いたのはニーダーザクセンに団長シュルツェの奥さんが89歳でまだ存命で,彼女もHJと一緒に日本へ行ったということだがBDM?が来たという記録は見たことないような気がします(?)
 シュルツェ氏本人は3年前に亡くなったという事ですが,派遣団が来る前にシュルツェが日本を下見したときに撮影したフィルムを彼女が保存していたのにも驚きました.

 丹羽氏は帰朝後,講演会をしたりして青少年団の発展に尽くしたのが仇となり,昭和21年に
「ナチス思想を吹聴し,・・・戦争誘発に大いなる貢献をした」
ために教職追放となってしまわれました.

 TV放映からまた時間が経過し,皆さん,まだお元気かどうか・・・

バンケン in mixi

限定品の「日独青少年団交驩記念 1938」復刻写真集後半の,大日本青少年団独逸訪問アルバム

 軍装学的に見ても,この訪問団のドイツ製の新型制服デザインは結構イケていると思います.
 どこかの倉に残っていないものでしょうかねー?

 それにしても,版元が軍装品店なので,各ページの写真についても一々軍装解説を別紙で掲載しており,中々,良い内容でした.
 ご紹介して頂いた本所の隠居さんには多謝であります.

 ただ,本の造りですが,表紙が題字も無い茶色のレザック紙で,ちょっとなにやらよくある同人誌的で残念.
 もう500円高くても,ハードカバーで書名入りにして貰いたかったと思うのは贅沢でしょうか?

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月15日21:50


 【質問】
 北原白秋がヒトラーユーゲント来日に備え,「万歳ヒトラーユーゲント」を作詞したと言うのはマジですか?

 【回答】
 本当.

 福岡県大牟田市の市史(1968年刊行)によれば,1940年にヒトラーユーゲント(ナチスドイツ翼賛青年団)が当時軍需工業都市だった大牟田を訪問.
 北原白秋はこのとき,「独逸青少年団歓迎の歌」を作った.以下はその歌詞.

 燦たり輝くハーケンクロイツ ようこそ遥々西なる盟友
 いざ今見えん朝日に迎えて 我等ぞ東亜の青年日本
 万歳ヒットラーユーゲント 万歳ナチス

 それでは,実際に音(FLASHムービー)でお聞きください.
http://www1.neweb.ne.jp/wb/soutou/nanka.swf

(出典:東方千年帝国協会


 限定品の「日独青少年団交驩記念 1938」復刻写真集より.
 海軍館に展示してある片翼帰還で有名な97艦戦,樫村飛曹長機を見学するヒトラー・ユーゲント達と,大島三原山でラクダに乗るご一行

 こんな戯けた写真まであります.

 これをみると,如何に当時の日本の歓迎ぶりが凄かったか,良く判ります.

 それにしても,富士登山から三宅炭坑見学までした彼等の眼に,当時の日本はどう映ったのでしょうかね?

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月15日21:50


 【質問】
 昭和13年のイタリア訪日使節団のスケジュールは?

 【回答】
http://www.geocities.jp/showahistory/history02/topics13a.html
から事実だけを拾うと,使節団のスケジュールは以下の通り.

 昭和13年3/17午後3時50分,郵船長崎丸で使節団22人は長崎港に到着.
 団長はジャコモ・パウルッチ・デ・カルボリ・バローネ侯(特命全権大使,国営映画ルーチエ総裁)
 一行は車で雲仙に向かい,雲仙観光ホテルに入った.
 3/18午後3時32分,諫早から特急「富士」で出立.
 午後7時45分に門司到着,
 3/19午後3時25分に東京入り.
 一行は特急の中でローマ字で「HUZI」とあったのを,これではウジと発音するから「FUJI」の表記にすべきだなどと表記の文字盤の綴りがおかしいなどと指摘していた.

 3/20,帝国ホテルから麻布霞町の霞町カトリック教会を訪問.
 その後,東宝劇場で草笛美子らの「さくら娘」を観覧し,星ヶ岡茶寮で食事.

 3/21,三河島や下十条でカトリック教会を訪問,

 3/22,永田町小を訪問.

 3/24,歌舞伎座で菊五郎の「鏡獅子」を観覧.

 3/25午前8時20分,臨時準急の二等車1両を借り切って日光へ.
 隣の三等車に乗っていた浜松家政女学校の女学生らからサインを求められて,リベッタ伯とフィリッポ伯が女学生らの車両に出向き,サインに応じる.
 午前10時34分,今市で下車して車で日光入りし,東照宮や,例年は4月まで断水のところを,水道を使って特別に落とした華厳の滝などを,粉雪まじりの天気の中を見学.

 3/27,小石川後楽園スタジアムで歓迎国民大会が開かれる.
 観衆10万人.

 3/29,由比ヶ浜の海浜ホテルから午前11時に一行は鎌倉大仏を見学.
 松竹大船スタジオで川崎弘子,高杉妙子,桑野通子などと会い,午後3時14分に大船を出て伊豆の川奈に向かった.
 午後4時35分に熱海到着.
 どてらの湯治客らの歓迎を受けて「黄色と黒の着物を皆が着ているのは党の制服か」などと質問.
 そのまま一行は川奈ホテル入り.

 4/1午後8時,帝国ホテルで首相によるイタリア使節団レセプションが行われ,広田弘毅外相,平沼騏一郎枢相,米内光政海相らが出席.

 4/3午後6時40分,京都のミヤコホテルに到着.

 4/6,保津川下り.

 4/8,大軌特別電車で午後3時1分に上本町六丁目駅に到着して文楽を観覧し,新大阪ホテルに宿泊.

 4/11,神戸のオリエンタルホテルに到着.

 4/22午後10時30分,福岡からやって来た一行は,下関から関釜連絡線で日本を発った.


 【質問】
「白洲次郎は,第二次大戦前に日英の間で行われた開戦回避に向けての会談(1939年頃)の中心人物だった」(月刊『現代』,2008年9月号)
というのは本当ですか?

 【回答】
 その可能性は薄いようです.
 当時,クレーギー駐日英国大使が,ビジネスで渡英する白洲次郎に,食料省幹部への紹介状を書いたのは確かのようです.
 しかし,それは
彼が開戦否定派の一員である樺山愛輔伯爵の娘婿であった事,
交渉の窓口であった吉田茂とも親しかった事,
英国ケンブリッジ大学の人脈が太かった事から,今後の交渉におけるパイプ役を期待していた
のであって,別に白洲次郎が直接交渉していた訳ではないようです.

 記事を見る限り,『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5)を参考にしているようですが,それを読んでも上に書いた以上の事は書かれていないと思うんですがね.

 月刊「現代」は,どちらかというと反自民的な雑誌だと思いますが,それでも白洲次郎は人気なんでしょうか.
 そんなのは関係なく,白洲次郎の記事は団塊の世代にウケるんでしょうかね?

寄星蟲 in mixi,2008年08月04日00:59


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