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アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ


 【質問】
 日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラス(米英日)なのに,何で陸軍の装備(戦車など)は,世界のトップ(米ソ独)と較べると見劣りするんですか?
 陸海の予算分配に偏りがあったのですか?

 【回答】
 誤解して欲しくないんですが,97式中戦車改(チハ改)を作ってた時点では,辛うじて世界水準なんですよ.異論のある人もいるでしょうけど.

九七式中戦車と同時期の3号戦車(ドイツ)の比較
全長(mm) 全幅(mm) 全高(mm) 装甲(mm) 主砲(mm) 重量(t) エンジン(HP)
九七式  5,550 2,330 2,230 25 57 15 170
3号 5,690 2,810 2,355 15 37 15.4 250

 その頃の日本の戦車の特徴としては,
・満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.結果として,装甲が貧弱になる.
・電装品や光学機器,材質や砲の性能が欧米列強に見劣りしていた.
という点が挙げられますが,日本海軍の艦船も,鋲接,粗悪な鋼質,貧弱なレーダーなど考えるに,決して質的に充実していた訳ではありません.
 要するに,日本の戦車が,当時の欧米の最高水準のそれに比べて貧弱なのは,実は海軍装備にも当て嵌る「お国の事情」によるものです.

 さて,予算が限られている日本陸軍が,軍事力を向上するには2つの手段がありました.
1 師団数を増やす
2 装備を向上する

 例えば宇垣軍縮では,師団数が減りましたが,その代わり4単位制から3単位制になり,師団当たりの火力は倍増しております.
 しかし,日中戦争などにもつれ込み,師団数の拡大が行われると,金のかかる質の向上よりも,より簡単な兵力の増大に走り,気がつくとWW2の勃発とともに1.5流装備だったのが相対的に2流になってしまいました.
 さらに,英米蘭豪との戦争と言っても,植民地軍(つまり2流の装備)を相手に短期的に戦うだけ,という打算もありました.
 これが計算違いに終わってまったのは周知の通りで,緒戦の段階で1.5流,ところがいざ苦戦し始めると新兵器は完成しないわ,数も揃わないわ,というのは海軍も同じですよね.
 おまけに,ヨーロッパでは戦車が瞬く間に進化して,T34やらパンサーやらタイガーやらスターリン戦車やらが,わらわらと沸いて出る始末.

 そんなこんなで,終戦時には日本の戦車は,欧州では1.5流のM4シャーマン戦車にも劣る三流に転落してしまい,戦後は司馬遼太郎元戦車兵などに悪し様に書かれるほど落ちぶれてしまいましたとさ.

 なお,太平洋戦争時の予算配分ですが,アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書において,1940〜45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計(軍需省の歳出決算額で,日本銀行支払小切手によるもの)を原資料に,陸軍省,海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し),費目別に算出しています.
 1945年は4月〜10月の上半期のみで単位は100万円です.

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  4,191  6,383  10,368  15,764  45,511  20,808
海軍省  1,532  3,104   8,385 13,779  19,069  17,553
軍需省                   1,244  10,472   8,993
合 計   5,723  9,487  18,753  30,787  75,052  47,412
陸:海   7:3   7:3    5:5   5:5    6:3    4:3

 即ち,初期は概ね陸軍優位に推移していますが,中期〜末期は対等になってきています.

 上の表をこのうち費目別に編集し,うち兵器燃料費を抽出すると,(若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが)

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  1,625  1,797   3,267  4,558   3,085  3,725
海軍省   978  1,814   5,629  9,114   8,022  5,619
合 計   2,603  3,611   8,896  13,672  11,607  9,344
陸:海   6:4   5:5    4:6   3:7    3:7   4:6

となります.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 旧軍戦車の話に関連してですが,戦前戦中の日本は重装甲大火力の戦艦大和等を作る技術はあったのに,戦車はいまいちです.
 戦艦と戦車の装甲を作る技術,あるいは戦艦砲と戦車砲を作る技術と言うのは別物なのでしょうか? 応用出来ないものでしょうか?

 【回答】
 砲身に関しては,だいたい同じ技術ですので,作製は可能です.実際にソ連では艦載砲を戦車砲に流用した例があります(試作でしたけど).
 とはいっても,砲は駐退複座機を始めとする大きなシステムで,それをなるべく小さく砲塔に収めないといけない.
 三式中戦車なんかは,この辺の砲まわりの設計を,時間短縮のためにちゃんとやっていないので,砲塔が馬鹿でかくなっている.
 また,砲をでかくすると,必然的に重くなる.
 日本は輸送船で扱える重さはこのくらい…… というの基準に戦車の重量を決めていたので,必然的に軽量な砲を積んだ軽量な戦車を作るしかなかったんです.
 装甲に関しても同様で,厚くすると重くなるので不可.
 また,エンジンもしょぼいのしかないので,重い戦車を動かすには,無理がありました.

 まぁ,まともな対戦車砲や,まともな成型炸薬弾,被帽付徹甲弾なんかをまったく実戦配備できていない時点で,勉強不足なのは確かなんだけど.

 ちなみに,海軍が10年式45口径12cm高角砲をチハの車体に乗っけるという,素敵な事をやっています.
 砲重量が8.5トンに達し,戦車の速度は38km/sから20km/sに低下.整地でこれだから,たぶん不整地走行は無理……
 とても戦闘に耐えるとは思えません.下手したら数発撃っただけで,車体が逝くんじゃないでしょうか?


\

 【質問】
 大戦中のドイツ軍は半装軌装甲車や装輪装甲車を多数開発し,兵員輸送や強行偵察などに有効に活用していたようですが,我が帝国陸軍においてはこのような車両の開発・装備に関してはどう贔屓目に見ても積極的だったとは思えません.
 この差は一体どこから来たのでしょう?

 【回答】
 日本にモータリゼーションが無かったから.
 また,島国である日本は,航空機と艦船の拡充を最優先事項とし,一部主力戦車以外は脇に追いやられた.

 現在の日本では信じられないでしょうが,当時の日本に於いて,国産自動車というのはアテにならないものの代名詞です.日本に進出していた,横浜組立日本フォードとか大阪組立日本GMに比べれば,信頼性は段違いです.(ちなみに,生産数から言っても,組立外車の方が多かった)
 中国の戦場は広大です.機械的信頼性のない国産自動車を改造した装甲車とか半装軌兵員輸送車より,二本の足の方が余程信頼があります(苦笑.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 つまり当時の日本は,世界の一流とはほど遠い「工業後進国」だったのです.
 日本が,自前の材料や工作機械で不自由なく行けるようになり,「ちゃんとした工業国」の仲間入りしたのは,戦後もかなり経った昭和40年代近くのことで,それ以前は,ちゃんとした工業国ですらなかったのです.
 また,現在のように自動車が溢れるようになったのは,それに遅れること10年以上.世界のトップを争うような性能の自動車を作れるようになったのは,さらにその後で,長いスパンで見るなら,ごく最近のことです.

 陸軍が主戦場にしていた大陸では,マトモな道がなかったので,装輪装甲車による強行偵察はまず無理でしょう.

>半装軌兵員輸送車による急襲とか

 ドイツ軍でも定数で戦車連隊1に対して1個擲弾兵大隊分しか配備してません.他の種類のハーフトラックは重砲の牽引車なんですが,日本軍では重砲の牽引車は最初から装軌車でした.

戦車師団向けにこんなのも有りますが,
http://earth.endless.ne.jp/users/mac0115/nihonngunnnosennsya6.html
歩兵を戦車に随伴させる為の車両ですので,捜索連隊に偵察用の戦車があるだけの歩兵師団に配備しても無駄になるだけでしょう.

 【質問】
 戦前の日本は,「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」だったのではないでしょうか?
 例えば,戦前の日本は世界第三位の海軍を保有しておりました.私の認識では通り軍艦と言うモノはその時代のハイテクの固まりだと思います.
 もちろん日本海軍は戦争の直前まで英国の技術にかなり依存しておりましたが,開戦の時点では当時のハイテク兵器・空母(含む艦載機)においては英国すら凌駕していたと思います.艦艇や航空機と言う分野においては,日本はかなりの兵器先進国になっていたように思います.

 で,前の質問で何が言いたかったか申しますと,「陸軍は(海軍に比べて)何で装備の近代化に取り組まなかったのでしょうか?」ということなのです.
 日本のモータリゼーションが遅れていたことは承知しております.
 しかしながら,陸軍主導で国策として軍用車両の向上につながる産業の主導ができたのではないかと思うわけです.
 ま,「輜重・輸卒が兵隊ならば,蝶々蜻蛉も鳥のうち」というざれ歌に表れているわけですが,日本海軍が空母の有効性を見ぬいたように,なんで帝国陸軍は兵の移動・装備の輸送の機械化に着目せんかったのかなぁ?という疑問です.
 【回答】
 「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」というのも,残念ながら事実ではありません.
 エンジンや電子技術において遅れをとっていたのは周知の事実ですし,建造技術においても電気溶接をマスターできないままであったなど,当時の「工業先進国」とは大きな開きがあります.
 潜水艦などは「潜水艦戦史」によれば,任務についただけで,戦闘にならなくとも満身創痍で帰ってきたと言います.

 国家予算の相当部分をつぎ込んで,無理に無理を重ねたごく一部の分野が異常に突出していたことは事実ですが,全体を見るなら,工業先進国などとはとうてい呼べない状態だった,と見るのが公平なところだと思います.
 それが事実か否かは,現在と当時の輸出品目の量と内訳を見れば一目瞭然のはずです.

 「世界一流の分野も有するちょっと背伸びした発展途上国」という表現が適切と思われ.

 軍用車両の向上につながる産業の主導は,当時の現実として,それを可能にする土台が存在しなかったのだから仕方がなかった,と見るべきでしょう.
 もし,国策として自動車生産を向上させようとしたなら,「どこからガソリンが湧いてくるのか? どこからタイヤゴムが湧いてくるのか? どこから鋼材が湧いてくるのか? どこから工作機器が湧いてくるのか? それらを買う金がどこから湧いてくるのか?」
 その辺を先に解決しないといけないです.
 さて,兵士の移動手段の機械化については,日本陸軍も積極的に取り組んでいました.
 ただ,それより何より,GM,Fordの攻勢が凄まじく,国産の自動車産業がそれに太刀打ちできませんでした.
 しかも,日本国内にも舶来信仰があり,国産品の育成が難しい部分もありました.

 例えば,Fordは1925年に横浜で組み立てられていましたが,その組立台数は初年度3,500台,翌年8,600台となり,GMが大阪に進出した1927年には両社で12,000台,1928年には24,000台に達しています.円タク,ハイヤーなどが流行ったのは,この両社が進出してからです.
 日本の自動車産業が本格的にスタートしたのは,1933年の豊田自動織機自動車部と,戸畑鋳物自動車部,自動車製造株式会社が設立されて以降ですから,既にスタートラインから出遅れています.

 これでは日本の自動車産業が潰れてしまうと危機感を覚えた陸軍,商工省は,1935年8月に「自動車製造事業法」を制定し,750cc以上の自動車を年間3,000台以上生産する事業者は,政府の許可が必要となり,許可会社になれば,所得税の5年間の免除,資本増加,社債募集は商法の特例が認められ,生産した自動車は陸軍を始めとした官庁が優先的に買い上げると言うもので,但し,許可会社に成らなければ,外貨の使用が許可されず,材料,機械類の輸入が出来ないと言うものです.

 これにより,豊田自動織機転じてトヨタ自動車は,G1/GA型トラックを先に開発しますし,戸畑鋳物自動車部と自動車製造が合併して成立した日産自動車は,グラハム・ページの生産設備を買い入れ,そこで開発していたトラックをニッサン80型として生産を開始し,三菱重工はディーゼルエンジン搭載のふそうバスを開発します.
 これらは,三菱を除けば陸軍で使用されています.
(三菱は,この法律制定時に協力的ではなかったので,陸軍に睨まれ,ふそうは鉄道省のバスとして採用されています)
 但し,僅か数年で本格的な自動車が作れるはずもなく,大陸ではどんなに古いタイプでも,GMとかFordの米国製が来ると,それを割り当てられた兵士は喜び,国産車を割り当てられた兵士は出発に際して水杯を交わす状況だったそうです.

国産トラックは,Overheatを手始めに,クランクシャフトのベアリング焼き付きによるエンジン破損,デファレンシャルギアの折損,サスペンションスプリングの折損など,戦場で故障した場合は致命的なもので,特にニッサン80型は,キャブオーバーだったために,エンジン上部に運転席があるので,前部重量が大きく,そのため前部のトレッド幅が大きくなっていました.
 これは,前部の違うメーカーのトラックの轍を辿れず,泥濘地帯でストップすることもありました.
 しかも,運転席が最前部にあるので狙撃されやすく,ピッチング,ローリングの影響を受ける上に,地雷を踏んだ場合,前輪の真上がキャビンなので,生命の危険が大きい.
 更に,トラックの幅が米国規格よりも広くなっているので,中国の城郭市街地の城門を潜れず,必ず城外に駐車させねばならず,これがまた,戦場のニーズに合わないと言う悪循環でした.

 1939年8月,統制経済の進行と共に,商工省,陸軍省,鉄道省などの関係部門とトヨタ,ニッサン,三菱と言ったメーカーによって,自動車技術委員会が誕生します.
 この時に,軍部から品質向上と,性能改善が要求され,商工省から自動車の型式統制と部品共用化が求められています.
 そして,1000〜1500ccはニッサン,2500ccはトヨタ,3500ccは両社,4500ccは,自動車工業と東京瓦斯電気工業自動車部が合併して出来た東京自動車を改称したヂーゼル自動車工業が担当します.
 ヂーゼル自動車は特に陸軍の国策会社となっており,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各社が保有していたディーゼルエンジン車製造設備を結集させて,その生産増強を図っています.

 当時の生産台数の予測は,1939年度で70,000〜75,000台(うちトヨタ,ニッサン各2万台),1940年度は,75,000台(同各25,000台),1941年度には80,000台(同各4万台)となっており,1941年度には国産化が達成できると言うものでした.
 しかし,実際は,1939年に2万台,1940年22,000台の目標は達成できませんでした.
 これは,日本のどの産業にも言えることですが,資材,部品の納期遅れ,増強設備の工作機械が為替管理強化で入手できなくなったこと,石炭,鉄鋼の統制も進み,原材料,エネルギーの確保も困難になったためでした.

 戦争により,自動車統制会というので生産の統制が図られ,資源の入手がますます困難となり,メーカーも軍需産業に傾斜せざるを得ず,最終的に1943年末には,軍需省の下にある軍需会社化として自動車以外の生産も求められ,自動車会社としての歴史は一時頓挫する訳です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


(引用元:画像掲示板)


 【質問】
 ノモンハン事件の後,その戦訓を生かして陸軍部隊の機械化が進んだりしなかったのか?

 【回答】
 1937年9月,日中戦争が勃発します.
 これにより,平時編制の師団は,定員が12,000名から24,000名へと倍増します.

 歩兵師団の中心は歩兵連隊で,連隊は3個大隊より成り,
1個歩兵大隊は本部,4個歩兵中隊,重機関銃を8挺装備する機関銃中隊,九二式歩兵砲または山砲を2門装備する歩兵砲中隊で編成されており,大隊直轄部隊として歩兵砲中隊が1個と速射砲中隊が1個ありました.
 また支援部隊として,師団司令部の他,
騎兵連隊(本部,騎兵2個中隊と重機関銃8挺装備の機関銃小隊),
砲兵連隊(本部,野砲大隊(改造三八式野砲4門装備の中隊3個と大隊段列)3個,
重砲大隊(本部,九一式10糎榴弾砲4門装備の中隊3個と大隊段列)1個,連隊段列),
工兵連隊(本部と2個中隊),師団通信隊,輜重兵連隊1個(本部と6個中隊),
衛生隊,
野戦病院4個,
兵器勤務隊
がありました.

 例えば精鋭第3師団の場合,歩兵連隊の主要装備としては,
四一式山砲が4門ある他,
九四式37粍速射砲4門,
九二式歩兵砲6門,
重機関銃24挺.
 砲兵連隊の装備としては,
改造三八式野砲36門,
九一式10糎榴弾砲12門
を保有していました.

 第3師団の平時編制は11,858名,馬匹1,592頭で成されますが,これが戦時編制になると兵員は25,371名となり,馬匹は実に8,197頭に膨れあがります.
 特に輜重兵連隊では,平時は2個中隊400名,馬匹300頭で編成されるのですが,戦時編制では6個中隊3,461名,馬匹は2,612頭まで拡大します.
 因みに,改造三八式野砲は馬匹6頭で牽引する訳です.

 此処までは完全に日露戦争と変わりません.

 一方,ノモンハンで完膚無きまでに叩かれた第23師団ですが,編成当時の編成人員は兵員12,869名,馬匹2,390頭で編成されていました.
 火砲は歩兵連隊に,
速射砲12門,
山砲12門,
野砲36門
となっており,第3師団に比べると著しく劣ります.

 この弱体化を補うのが自動車であり,
師団司令部に乗用車3台,トラック5台,
師団捜索隊には軽装甲車5両,
輜重兵連隊では乗用車4台,トラック45台,
師団兵器勤務隊では小型自動車1台にトラック8台
など可成り自動車化が進みました.

 ノモンハン正面に置かれた際には,師団内に歩兵連隊が5個あり,安岡支隊の戦車部隊を加えるとほぼ2個師団相当の兵力となっていました.
 更に,自動車2個中隊と,飛行部隊が加わります.
 第3師団に比べると,先ず,砲兵装備は改造三八式野砲であり,重砲も三八式12糎榴弾砲と明治時代の装備です.
 一方,捜索連隊は,乗馬中隊と装甲車中隊で編成され,全体では兵員220名,軽装甲車12輌に増強されており,ある程度の機甲化が為された事が伺えます.
 因みに,第3師団の騎兵連隊は452名で馬匹429頭が依然として第一線で活躍していました.
 輜重兵は,第3師団が完全輓馬編成なのに対し,第23師団では輓馬中隊と自動車中隊で編成されており,その中隊に配備されたトラックは400台に上っていました.

 安岡支隊の基幹は戦車第3連隊と戦車第4連隊で構成され,戦車第3連隊は兵員376名,2個中隊編成で,
八九式中戦車(乙)26輌,
九七式中戦車4輌,
九四式軽装甲車7輌,
九七式軽装甲車4輌
で編成.
 戦車第4連隊は兵員565名,戦車3個中隊に予備1個中隊+連隊段列構成で,中心は
九五式軽戦車35輌,
これに八九式中戦車(甲)8輌,
九四式軽装甲車3輌
で構成されていました.

 これだけ自動車化されていたのですが,ソ連の方が機械化の程度は一歩先を行っており,更に砲の射程距離と弾薬の不足は致命的で,全滅寸前まで叩かれた訳です.

 その復活の過程で,更に自動車化が徹底されます.

 編成当初,馬匹2,390頭もいたのが,1941年3月時点になると,兵員12,605名に対し,馬匹は僅か691頭で,その大部分は歩兵連隊砲の輓馬編成でした.

 野砲兵第23連隊は,編成当初兵員1,745名,馬匹1,259頭だったのですが,1941年3月時点では,兵員は1,795名と変わりませんが,馬匹はゼロになっています.
 その編成は,1個大隊8門の九○式機動野砲が3個大隊で24門,残り1個大隊は2個中隊編成で,九六式15糎榴弾砲が1個中隊に4門となっていました.
 これら野砲は,自動車で完全に牽引され,特に重砲大隊には6トン牽引車13輌が配備されていました.
 捜索連隊も編成当初の兵員319名,馬匹185頭で,二刀流の編成だったのが,1941年3月には兵員314名に軽装甲車5輌,乗用車6台,トラック30台の編成となっています.
 更に新設されたのが,師団戦車隊で,九五式軽戦車15輌を装備していたり.

 一番変わったのが,輜重兵連隊でした.
 編成当初のそれは兵員370名,馬匹113頭で,乗用車4台,トラック45台でそれを補完していました.
 1941年3月になると,兵員は522名に増強され,馬匹はゼロとなりました.
 その代り,連隊本部には乗用車3台とトラック10台,1個中隊が指揮自動車1台,乗用車3台,トラック45台で,これが2個中隊編成ですから,輜重兵連隊にはトラックが100台ある訳です.

 材料廠ですら,乗用車1台,トラック10台,軽修理自動車2台を保有しており,機動性が向上していました.

 もし日本が日中戦争の泥沼に突っ込まなかったら,米国並みの自動車化師団を幾つも編成出来ていたかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年01月31日22:13


 【質問】
 日本軍の砲牽引車両について教えてください.

 【回答】
 独立混成旅団の野砲連隊に支給された90式機動野砲を牽引したのは,九四式四d牽引車(ヨケ車)です.
 後に改修型である九八式四d牽引車(シケ車)も開発されて使用されています.
 機動榴弾砲(九一式機動10cm榴弾砲)も同じだと思います.

 なお,九二式10cm加農砲は九二式五d牽引車を使用し,後に九八式六d牽引車(ロケ車)を使用しています.

 機動速射砲(一式機動47mm砲)は自動貨車(トラック)を使用したようです.

 九五式十三d牽引車を用いて九六式24cm榴弾砲を牽引した場合,12km/hでの牽引が可能でした.
 七年式30cm榴弾砲を牽引すると,牽引速度は時速5キロとのこと.
 また,九二式五d牽引車で九六式15cm榴弾砲を牽引した場合は,12km/h程度が可能だったとのことです.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 戦前の日本のトラックについて質問です
 九四式の設計に当たって自動車工業と瓦斯電が共同設計したらしいのですが,他の自動車メーカーも九四式の製造に当たっていたのでしょうか?

 戦中は日産とかトヨタとかメーカーそれぞれのトラックが採用され,統一基準みたいなものがなかったみたいなので,戦前も規格は統一されずに個別の業者がそれぞれ勝手に作っていたのかな,と疑問になりました.

 兵站/整備の上で負担になるから,あんまり車種を増やしたとも思えないのですが,じっさいはどうだったのでしょうか?

 【回答】
 九四式自動貨車の製造は,両社のほか,六甲ST40の名称で,川崎車輌も製作しています.
 元々,自動貨車製造については,陸軍もさることながら,商工省の存在が大きいです.

 1939年8月に,国産車の技術向上を目指し,「自動車技術委員会」というのが商工省次官を会長に,商工省各担当部署の責任者,学識経験者,鉄道省の関係者,豊田から豊田喜一郎,日産から浅原源七がメンバーとなり,国産車の種々の問題に関して,軍当局から提起された事項を中心に,部会で検討会が作られました.
 自動車の形式,自動車部品の共用化もこの委員会で論議され,1000〜1500ccは日産が,2500cc級はトヨタが,3500ccは日産,トヨタ両社で,4500cc以上は「ヂーゼル自動車」がエンジンの製造を行うことになりました.
 これにより,重複による無駄を避けることが出来,試作車の投資の無駄を避けるようになっています.

 このヂーゼル自動車は,陸軍がディーゼルエンジンの統一的製造を要求したため,自動車工業と瓦斯電,それに,ディーゼルの製造設備を持つ,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各設備を集約して誕生したものです.
 ここから,特殊車両に関しては,別途日野重工業が分かれています.

 なお,これより先,鉄道省とスミダとチヨダの共同作業で,商工省標準車が作られています.
 これが軍用としては九七式自動貨車となったものです.

 但し,こういった動きに三菱だけが同調せず,陸軍から不採用になった三菱製の車輌は,鉄道省標準車として,「三菱ふそう」の名の下,バスとして採用されています.

 軍用自動車の指定業者として,軍部から指定されたのはトヨタ,日産の二社で,後にヂーゼル自動車が加わっています.
 トヨタと日産については,商工省の統一の動きより早く,独自の車輌を製作しています.
 なので,同規模の車輌を複数種類調達していかざるを得ない面がありました.
 このときの商工省標準自動貨車のコンセプトは,GM,フォードの一クラス上の大型車で,GM,フォードと競争する形で,トヨタと日産のトラックがありました.

 従って,部品共用化と言っても,自動車部品の殆どは,各社で内製していますから設計思想の統一くらいで,実際の部品共用まで進んでいないのではないかと思います.
 また,「自動車技術委員会」で検討されたものは,研究段階で,実際に施行されたのは1942年以降となっており,これが戦時規格型トラックに具現化していきますが,これも車輌製造仕様の統一で終わっていたみたいです.

 でもって,戦前の自動車は大まかに言って,シャーシの上にボディを架装するものでした.
 ボディは,板金工の手による叩き出しですから,精度などはあまり気にならないです.
 豊田にしても日産にしても,シャーシ部分だけ製造して,他の業者が架装することも多い訳です(現在のバスがそのような手法を採っていますね).
 また,エンジンにしても,トヨタと日産のエンジンは,極端に言えば,当時日本で最も多く走っていた,シボレーのものを原型にしており,両車ともGMの部品が有れば整備出来ました.
 いすゞのディーゼルエンジンはユンカースが原型ですが.

 それと,輸出販売ルートとしては,トヨタが中国大陸,日産が満州となっており,国産車同士の食い合いは避けていたようです.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 日本陸軍の自動車化された歩兵部隊や捜索連隊の乗車中隊に配備された自動貨車と,部隊あたりの配備数などをどうか教えてください.
 小隊や中隊を何両で運んだかとかが知りたいんです.

 【回答】
 基本的に自動貨車の配備数は余り多くありません.
 例えば,第23師団の捜索連隊には自動貨車30台という数字が残っていますが,中隊毎にどれくらいの数を配分したかはよく判らない状況です.
 輜重兵中隊の場合は,自動貨車40両基幹になっています.

 自動貨車には完全武装の兵士15名,または荷物500貫を載せることが出来ましたので,例えば,歩兵分隊を輸送する場合,単純計算では自動貨車1台があれば足ります.
 1個小隊は4個分隊ですから,単純計算で,5台程度の自動貨車が必要になるでしょう.
 1個中隊は4個小隊と指揮班,弾薬小隊が付きますから,大体輜重兵中隊の自動貨車分が必要になりますね.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 日本軍は開戦直後にブルドーザーの存在を知り,陸,海軍が開発を発注したけれども,結局試作で終わったとありました.
 ブルドーザーの何が難しいんでしょうか?
 それとも,ただ単に軽視されてただけでしょうか?

 【回答】
 一応,戦前に朝鮮や満州にCaterpillarのBulldozerが少数が輸入されて,建築現場で使われていましたし,1940年頃から陸軍が小松に命じて試作をしていたので,全く存在を知らなかったと言う訳ではありません.
 但し,北満湿地帯での道路建設用機械と認識してしまったため,これは使えないと早々に試作を中止してしまいました.
 南方での飛行場設営に思いが至らなかった訳で.

 そして,次いで海軍が南方基地設置用建設機械として,ブルドーザーを同じく小松に発注しました.
 こうして作られた小松一型は,牽引車に油圧式ドーザーを付けた代物で,本格的なものでもなく,最初に作られた試作と増加試作6両はアッツ島に送られましたが,到着後に守備隊が玉砕して行方不明になりました.

 次いで,陸軍が航空基地整備用ブルドーザーの試作を小松に指令(また此処でも陸海軍の対立弊害が出てくるわけで)し,小松は今度は1940年に試作した陸軍向け試作車を基に,海軍のものと同じ手法で,ブルドーザーを試作しました.
 しかし,これは効率が悪く,米国のものに比べると劣っていたので,Caterpillarを参考に,よりブルドーザーらしくしたのが1944年の試作車です.
 但し,資源不足で,1両しかできませんでした.

 特に日本では油圧のシーリングの問題が大きく,なかなか油圧式ドーザーを動かすのに苦労したみたいです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 戦時中までの御料車について教えてください.

 【回答】
 天皇家が最初に使った御料車は,1912年製ディムラーリムジンだったそうです.
 1号御料車は,当時の英国国王KingGeorgeVの御料車と同型.
 但し,皇室の色である溜色に塗装し,側面に十六花弁の菊の御紋章を付けたのもこれから始まっています.

 このほかに2号御料車として,同じくディムラーのランドレー,これはちょっと小型ですが,天皇以外の皇族と外国からの賓客送迎用である貴賓車にはメルセデスのランドレー,お付きの人が乗る臣下車にはディムラーランドレーとフィアットランドレー2台,それに運搬車としてフィアット2台が購入されました.
 ちなみに,これらを購入したのは,「鯰」こと大倉喜八郎だったりします.

 1921年には木造ボディの車体は老朽化して,第3号,第4号御料車として,当時世界的に高級車としての名声を高めていた,1920年型ロールス・ロイスシルヴァー・ゴーストで,シャシーの価格は2,100ポンド(当時のオースチン・セブンが120ポンド)に,フーパー社でリムジンボディを架装しています.
 このボディーが実に,2,425ポンドとシャシーより高かったり.
 これは主に大正天皇の御料車として用いられましたが,御座所から段差無しに乗り降りできるよう,シートとルーフを日本で改造したそうです.

 ところが,1923年の虎ノ門事件の結果,余りにも御上が無防備だと言うことで,この御料車に装甲板を付けることとなり,米国から板厚2mmの防弾鋼鈑を購入し,試作としてピアースアロウに取り付けてみたのですが,重量増で役に立たず,沙汰止みになり,1931年から1935年に掛けて7台が輸入されたメルセデス・Bベンツ770グローサー(1932年型4台,1934年型3台)に取って代わられました.

 ちなみに,初代のディムラーは1932年,二代目のロールス・ロイスは1933年頃解体されますが,ロールス・ロイスのエンジンは,宮中吹上御所の緊急用水揚げポンプの動力源として戦争中も長らく使用されています.
 また,ラジエター,ホイールは解体業者の手を経て民間に流れ,とある自動車マニアが保有していたそうです.
 余談ですが,このラジエター,戦後,米海軍士官がグアムから持ち込んだ1926年型ロールス・ロイスを,銀座のドイツ料理屋ケテルスが購入したのですが,グアムで使っている時に塩害でラジエターがいかれ,代わりのものとして白羽の矢が立ったのが,元御料車のラジエターだったりします.

 さて,三代目御料車のメルセデスは余りにも有名ですが,この同型車は,天皇家を始め,Hindenburg大統領,Sweden国王,Egypt国王,Bulgaria国王,Yugoslaviaの摂政,亡命中のKaiser WillhelmII世,作曲家Richard Straussなどがご愛用の世界で117台しかない貴重なクルマだそうで.
 量産されたのは1938年のW150/150II以降なので,このモデル,W07/W07Kは本当にPremiereなものでした.

 天皇家の御料車のそれは,Supercharger無しエンジンに,4段型ギアボックスのもので,同型車の中には,ルーツ製Super chargerを取り付けたエンジンに,ギアボックスはマイバッハ製6段(高低3段ずつ切り替えられる)のものもあるのですが,日本の路上では無用の長物と考えられたのでしょう.
 ボディはジンデルフィンゲン工場製プルマン・リムジンで,リア・コンパートメントの内装は宮内庁支給の京都の西陣織でしつらえられています.
 7台のうち2台は,陸軍工廠で,10mの至近距離から発射された機関銃弾に耐えることが可能な厚さ5mm以上の装甲板を,ボディパネル,ドアは元より,ボンネットパネルまで張り巡らしていました.
 最も徹底的に成された車輌は,路面に敷設された地雷が爆発しても耐えられる様に強化され,床板は勿論,エンジン下部にも防弾鋼鈑が張られています.
 更にガラスは厚みが優に15mmを超える防弾ガラスで覆われ,こうして重量は,標準的な770が2.7tになるのに対し,強化型は4.7tと戦車か装甲車かと言うくらいまで増加しました.
 この重量に耐えるタイヤは,当初はContinentalを使っていたのですが,それが無くなると横浜ゴムに試作の命令が下り,4tの重量に耐え,釘を踏んでもパンクしないため,超肉厚カーカスと布入りシーラントを内張したチューブを用いた,特殊タイヤが開発され24本が納入されています.

 このメルセデスは,空襲で焼失した1台を除き,残りは1969年まで使用されています.
 後に2台は,富谷龍一氏の手によって,住江製作所がランドレーに改造し,全国行幸に使われましたが,その後この2台は部品取り用に解体され,1970年代初期に1932年型の最後の1台が解体,1971年にはダイムラー・ベンツからの要請で,1934年型が1台寄贈されていますが,未だ2台は宮内庁の車庫に眠っているそうです.

 ちなみに,戦前はボディの溜色塗装は皇室専用色で,他のクルマに塗装するのを禁じられたのだとか.

 また,戦争末期には,溜色のメルセデスは機銃掃射の的になるとの懸念から,三井本家が黒塗りの1937年型メルセデス500Nニュルンベルク・リムジンを献上し,これは内親王用などに使われていました.
 ちなみに,この三井本家のメルセデスは,1936年,右翼によるテロが頻発していた当時,当時の総帥八郎右衛門の身を案じた三井家が特にドイツから輸入した装甲板付きのものだったり.

 この他,非公式用の車輌としては,1920年に最初のディムラーリムジンが2台,第7,8号貴賓車として使用され始め,1921年には1920年型ディムラーオープンツアラーを1台購入しました.
 1922年に裕仁親王の答礼で,PrinceofWalesが来日した際には,その為だけに,ロールス・ロイスから1920年型シルヴァーゴーストオープンツアラーを輸入しました.
(時代は下り,1975年にエリザベスII世女王が来日した際に,パレードに用いられたのは,キャデラック…orz)
 実は,このオープンツアラーは,英国皇太子の来日には間に合わず,この貴賓車は,裕仁親王が国内や台湾に出かけられたときに使われていたそうです.
 で,このクルマ,1925年に民間に払い下げられ,所有者を転々とし,オリジナルボディーは失われていますが,現存しているそうです.
 1940年代の法律上の所有者は,ビルマ国カチン政府という訳のわからない代物で,その代表者名は日本女性だったとか.

 お付きの人が乗る臣下車としては,まず,米国製のピアース・アロウの各モデルが使われていました.
 今は消滅していますが,1920年代まで,米国の最高級車として君臨し,T型が300ドルの頃,4,850〜6,300ドルもしています.
 また,ボディは箱型と幌型の二種類が用意され,季節によって載せ替えることもしていたようです.

 ピアース・アロウが倒産し,消滅してからは,官公庁御用達のパッカード・スーパーエイト・リムジンが主に使われる様になります.
 これは,1950年代まで使われ続けましたが,1960年代にメルセデス300シリーズに置き換えられ,国産車の充実と共に,トヨタセンチュリーとか日産プレジデントが主流となっています.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 戦後しばらくの間一世を風靡したオート三輪(三輪車)ですが,戦前,もしくは戦中に日本軍は制式採用してなかったのでしょうか?
 なかなか使い勝手が良さそうだ,と思ったのですが,やっぱり路外性能がしょぼいからダメだったのでしょうか.

 【回答】
 準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.

 戦前はオートバイのエンジンを輸入し,そのエンジンを用いて車体を作り上げるものが主流でした.
 普及し始めたのは1925年頃からで,大阪東区のウエルビー商会が製造したウエルビー号から始まりました.
 その後,3年で2社しかなかったメーカーが35社に迄増えています.

 こうして市場が拡大していったのですが,所詮オートバイの亜種的な存在でした.
 しかし,チェーンドライブ・片後輪駆動・バックギア無しでは使いづらく,シャフトを用いた後輪2輪駆動,バックギア付の機種が市場に出回り,初期のオートバイ亜種は駆逐されます.
 これらは非常に高い技術を要するもので,弱小の企業では太刀打ちできません.

 次いで,輸入のバイク用エンジンに代って,水冷の国産エンジンが登場します.
 特に発動機製造(今のダイハツ)が嚆矢となり,次いで東洋工業(今のマツダ)がそれに続きます.
 1933年のオート三輪登録台数は12,000台で小型車全体の保有台数の凡そ40%,その後,1937年には15,000台にまで達します.
 購買力の小さな農業人口が80%を超えているような国で,この数字ですから十分に大きな生産台数だと思います.
 ちなみに,車両価格は1台当り700円〜1,500円で,平均価格が1,000円.
 この時代,フォードが2,800円です.
 シェア的には,発動機製造が30〜35%程度,東洋工業が20〜25%と,両社で市場の半分以上を占有し,残りを日本内燃機(くろがね),陸王内燃機,旭内燃機,帝国製鋲,水野鉄工所,兵庫モータースが団栗の背比べをしていました.

 しかし,以後は戦時体制に組み込まれ,生産台数は減少しました.
 ただ,軍事用は例外で,陸海軍共に内地や南方では重宝されています.
 とは言え,野戦に於ける耐久性,不整地走行能力,機構的トラブルの問題と被弾時の措置に研究の要有りとして,いずれも準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.

 戦時中は,前述の発動機製造,東洋工業,日本内燃機が指定工場となり,軍需,官需用にオート三輪を製造しており,他にも沢山の海千山千の群小メーカーが製造しています.
 日本内燃機のニューエラ号は後に一式として制式化されており,水運搬車も作られました.

 蛇足ですが,東洋工業は,松田製作所,日本兵器製造を興した松田重治郎・恒次親子が中心となった会社で,1920年に前身の東洋コルク工業に重治郎が取締役として迎えられ,翌年,社長となって実権を握ります.
 この会社は,瓶の栓や,氷で冷やす冷蔵港の断熱材としてのコルクを製造していました.

 1927年,コルク製造から機械事業に打って出て行こうと社名を東洋工業に変更します.
 この転換で,海軍から兵器製造の発注があり,また,各企業に加工機械を売り込んでそれらが採用されます.
 同時に,機械技術の当時の最高峰として考えられていた自動車製造に乗り出しますが,身の丈を考え,まずは,1926年にトーヨーコーギョー号を言うオートバイを作り,30台ほど生産します.
 次いで,島津楢造氏を迎え,自社製エンジンを開発し,それを搭載したオート三輪を生産し始めます.
 ただ,販売チャネルが無かったので,三菱商事と組んで,国内や国外に打って出ます.
 ブラジルの軍に採用されたのはマツダ号です.

 ついでに,マツダランプは,マツダ,東洋工業とは無関係です.
 こちらのほうは,東芝の前身の一つの会社が作っていた電球のブランド名だったか,と.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 日本に徴用可能な自動車は何台あったのか?

 【回答】
 1935年10月末日現在の「全国自動車・自動自転車集計表」と言う統計があったり.
 陸軍省が調査したもので,何故,陸軍省かというと,万一の有事の際,自動車を徴発して軍用に充てなければならないからで,これは,年度の自動車徴発規程の基礎資料となるものです.

 で,これによると,1935年の日本の自動車の台数は….

四人乗乗用車   :営業用/316台,自家用/1,173台
五〜七人乗乗用車 :営業用/44,785台,自家用/5,323台
八人乗以上    :営業用/21,214台,自家用/104台
1t積未満トラック :営業用/783台,自家用/689台
1〜1.5t積トラック:営業用/6,464台,自家用/885台
1.5〜2t積トラック :営業用/22,900台,自家用/3,098台
2t積以上トラック :営業用/9,837台,自家用/864台
小型自動車・貨物自動車:営業用/276台,自家用/3,412台
自動自転車    :営業用,自家用合わせて16,684台

 ちなみに,小型自動車・貨物自動車は,ダットサンとかAustinの事,自動自転車は,バイク,サイドカー,三輪車の事です.
 このほか,全国にタンクローリーが214台,患者輸送自動車が57台ありました.

 この資料には官庁用とか消防自動車は含んでいませんが,全国,つまり,内地,朝鮮,台湾,関東州,南洋諸島含めて,日本全土にある自動車の数は総数130,517台.
 で,その大部分が,Ford,Chevroletの組立外車です.
 内地では,東京府が28,875台,名古屋を含んだ愛知,岐阜,静岡の東海三県で11,313台,北海道,樺太,千島で3,567台だったりします.

 流石にこれでは拙いと思ったのか,自動車製造事業法によって国産車を育成し,1941年には年間2万台の生産量を誇るまでになっています.

 ちなみに,自動車製造事業法が制定されても,横浜Fordに関しては生き残っており,1937〜40年に掛けて自動車製造事業法の枠外で,7,800台のFordが生産され,満州に移出,日産の満州に於ける系列会社であった,満州同和自動車で同社製自動車として売られました.
 特に,1940年のトラック1,200台は,そのまま関東軍に納品されたりしています.

 でもって,この自動車を製造する際の部品で足りなくなったものは,独ソ開戦まで,ドイツ・フォードからシベリア鉄道経由で手に入れていて,本国のフォードは何ら関わりが無かった様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi

国産バス


 【質問】
 戦前か戦中,統制型ディーゼルエンジン(一式戦車?)を潜水艦?でドイツに輸出した,とか.
 数量等判りませんが,それほど技術的なものに見るべきものがあったのでしょうか?

 【回答】
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta021a.htm
によれば,見るべきものはなかった模様.
 以下引用.

 統制型ディーゼルエンジン(一式戦車用)
 ドイツに潜水艦で輸出されましたが...
 日本の精密工業の水準がばれないようにヤスリ仕上げの無い部品を選別するのに苦労したそうで...
 とても自慢できるようなものではありませんでした.

 【質問】
 戦時中,車両に使われた代用燃料について教えてください.

 【回答】
 1940年の物資不足の頃から,色々な代用品が出現しました.
 食べ物なんかもそうですし,工業製品たる客車だって,貨車に乗客を乗せた代用客車というのがあったり,教員資格のない,代用教員と言うのがいたり….

 当然,「ガソリン一滴は血の一滴」なんてスローガンが叫ばれて,ガソリンの消費を抑えようと,色々工夫しています.
 例えば,1939年1〜3月の西成線(今の大阪環状線西回り+桜島線で当時は非電化)では,平日1,400リットル,休日1,100リットルのガソリンが消費されていましたが,空燃比を希薄化したり,今のバスでも行われているアイドル・カット運転(これを手動で行った),その機関停止時に気化器からOverflowする燃料の回収,動車元空気だめへの空気充填を車庫で行う,変速操作運転の技能向上,2両編成の場合は,1両のみ機関を動かし,他の車輌は付随車とするなどを実施し,486リットルもの燃料を節約しています.

 後,陸軍が中心となって,ガソリンに酒精を混入する実験が行われました.
 が,酒精と言うのは,農産物(芋類)から採取されるものを主体としていた為,芋類の主流である甘藷の価格が高すぎたのが原因で,一旦頓挫し,1937年に復活し,4月に酒精専売法が施行されると共に,法律第39号「揮発油及アルコール混用法」が施行され,航空用以外の民需用ガソリンはエタノール混入ガソリンとしなければならない,と定められました(ちなみに世界で15番目).
 これは,石油資源節約,航空用ガソリンの確保を目的としたためで,酒精の経済性は,ガソリン1に対し,軽油0.53,木炭1.22,薪0.94,天然ガス,都市ガス各0.72,アセチレンガス1.7,電気0.57に対し,酒精15.5と桁違いに悪かったりします.

 しかし,これとて,エタノール生産が間に合わ(ぉぃ…)に,段階的に施行されることになり,1938年5月にガソリン総量の25%に5%,9月に25%に10%混入,1939年4月に50%に10%,10月からは70%に10%,1940年1月より全ガソリンに10%,11月以降15%,1941年には20%に引上げという施策計画が採られています.
 実際には,酒精増産の進展で,1940年1月に15%混入が実施され,1942年2月からは,トラック用燃料として,7府県で単体酒精を使用するに至っています.
 ところが,戦線の急拡大で,今度は医療用アルコール需要が急増し,燃料用に回すことが出来なくなり,1943年にこの「揮発油及アルコール混用法」は廃止されてしまいました.

 では,ガソリンに変わる代用燃料とはどんなものがあったか?ですが,まず,発生炉ガス,これは木炭,薪,石炭を炉内で不完全燃焼させ,発生した一酸化炭素,窒素主成分のガスを燃料とするもので,木炭車というのが,それですね.
 ちなみに,石炭利用の場合,国内炭では灰が冷えて蜂の巣状に固まる現象が多発したため,灰の融点が高い,山西省陽泉産出の陽泉炭に限定されています.
 これ以外の石炭状物質としては,コークス,コーライト.

 次いで,メタノールで,これは南大東島,台湾などでの砂糖黍搬出用,台湾総督府交通局鉄道部で使用例があります.
 混入については,先述の通り.

 後はカーバイトによるアセチレンガスで,トラック,三井鉱山神岡軌道などの産業用機関車に使用されました.

 天然ガスについては,秋田の横荘,新潟の長岡,千葉の小湊,九十九里,滋賀の江若などで使用されています.
 いずれも天然ガス田の産出地近辺でしか使用されず,燃料費的にも高価であり,ボンベなどの補給にも苦労しました.

 さて,今までの炉は,バス・トラック用のものを内燃動車に転用したので,当然,大型車になると性能が不足する訳で,大型車には専用の炉を開発することになりました.
 これは淡路島にあった淡路鉄道(今の淡路交通)が作ったもので,淡鉄式と呼ばれ,今までの2倍の容量を持つものでした.
 性能的には,全線23.4kmを走ると,ガソリン動車の時間40.5分,表定速度34.2km/hに対し,46.5分,30.2km/hと矢張り落ち込んでいます.
 ちなみに,往復の燃料消費は木炭50kgで,燃料費はガソリンに比べ30%増.
 炉の耐用年数は短く設置費は2,165円,特に発生炉下部燃焼室は2年保つかどうか,と言われていました.

 さて,その間,国鉄はどうだったのかと言いますと,1938年以降,白土式で木炭,コークスを,梁瀬(今のヤナセ自動車)式で,天然ガス,液化ガス,ガソリン・メタノール混用など各種の方法が試行錯誤されていますが,官尊民卑の倣いで,例によって民間の技術は採用されることなく,世界的にも例を見ない,蒸気機関車の燃焼後に煙突から排出される産業廃棄物,「シンダ」というものを採用します.
 「シンダ」自体は炭素が主成分で,蒸気機関車から無尽蔵に出る(年間5万トン発生)ものですから,それを回収する機構を製作すれば,原料はタダで手に入った訳です.
 しかし,これは全内燃動車に普及することなく(そりゃ,国鉄は蒸気機関車を運用していたのだから,必要になれば,蒸気機関車に動車を牽引させれば良いわけで),100輛程度の改造に終わりました.

 今まではガソリン動車の話でしたが,ディーゼルの代燃化は結局戦後まで持ち越しとなりました.
 ディーゼルの代燃化については,重油と天然ガス併用,代燃ガスを圧縮し,死点寸前に少量の重油を吹き込む重油着火方式,圧縮比を下げ,発火プラグで爆発させる電気着火方式がありましたが,これらは,「どう見てもディーゼルエンジンではありません.本当に(以下略」なものでした.
 後,食用油も実験しましたが,コスト高だったり.

 ちなみに,こうした国鉄の官尊民卑ぶりについては,例えば,ディーゼルエンジンにしても陸軍が中心となって開発した,当時としては優秀な設計であった予燃焼式の統制式発動機を使用せず(戦後の一時期,非電化私鉄のガソリン動車にはそれから発達したいすゞのDA系に載せ替えられましたが,国鉄は中々それを採用しなかったり),独自技術に拘った結果,新潟鉄工の海軍内火艇やそれから発展した51号魚雷艇発動機を基にした,扱いの難しい直噴式の発動機を発展(と言うか退化)させ,これは実に国鉄末期まで半世紀以上これを引き摺っています.

 JR移行後,これらの機関を搭載していたディーゼルカーは,経済性の悪さから一斉にエンジンを載せ替えたり,軽量の新型車に置き換えられたりして,残滓を一掃しつつある訳で.

 また,こうした機関を採用していた非電化私鉄の整備掛が,廃止のために,バス会社やトラック会社などの整備工場に転職しようにも,技術ベースが戦前のものなので,一笑に付されると言う笑えない話があったりします.

今回の参考文献:
 「内燃動車発達史」下巻
 「ある鉄道事故の構図」
 「鉄道車輌工業と自動車工業」など

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 軍では,戦中の車の免許とか運転の教習はどうしてたの?

 【回答】
 祖父の戦友の方々に聞きましたところ,
「台湾の機甲歩兵は,世田谷にあった陸軍機甲整備学校(現東農大)で車の整備・運転を学び,卒業してきた奴が,民間でバスやタクシーの運転手をしていて免許を持ってたやつを助手にして,教育をしていた.
 戦中に車を使うことには免許は特にいらんかったと思うが・・・」
とおっしゃっていました.

 軍用のは,ちょっと今掘り出せない(戦車の資料はいっぱいあるんですがね)ですが,民間用のは,地方出版物のもので,例えば,「房総の乗合自動車」とかそう言うものがあります.

 内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは,大正8年に内務省警保局・土木局が連名で出した自動車取締令によるものです.
 これを基に,各府県は自動車取締細則を定めて運用します.

 ちなみに,軍事とは離れますが,大正12〜13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件,歩行者の死者3名,負傷者41名,従業員の負傷者1名,その他13名で,事故を起こした運転士61名のうち,15名は無免許です.
 運転手の養成所はありましたが,数が足りず,免許取得の運転手の添乗の下,助手が無免許でハンドルを握らせています.

 流石にこの状態はまずいので,大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され,業務用(乗合,貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ,そのナンバーも外せない構造となります.

 また,戦前から昭和20年代に掛けては,自動車運転免許状を交付される人と言うのは大型乗用車,乗合自動車,自動貨車とそれに準ずる車輌くらいなもので,排気量500cc以下の小型乗用車,オート三輪には,無試験免許(今日の原付免許と違い,学科試験も無しの文字通り単なる許可証)が必要とされるだけでした.
 これは,最寄の警察署で1時間程度の手続きで(地域差あり.手数料は手元に資料がありません)交付されます.

その適用対象である小型自動車の区分は
大正13年〜昭和5年   360cc以下
〜昭和9年         500cc以下
〜昭和11年        750cc以下(2サイクルは500cc以下)
昭和12年以降〜     廃止
となっていました.

 なお,「500ccは免許不要」としている資料(当時のものも含む)が非常に多いので注意が必要です.

 戦前すでに東京では,荻窪あたりにダットサン専門の自動車教習所があったそうです.
 戦後まもなくそこに教習を受けに行った人によると,1〜2回横に乗せた程度であとは適当に練習しろといわれたそうな.
 それでも卒業免状を交付してもらったので,鮫州の試験所に試験を受けにいくと,実地試験を免除されて法規試験のみを受けたそうです.
 ところがこの試験たるや,前の方に居た2〜3人に適当に口頭で質問をして,それのみで全員が合格とされたとか.(自動車ジャーナリスト小林彰太郎の自伝より)

 余談ですが,眠い人氏の母親は昭和30年に免許を取ったのですが,従兄弟のルノー4CVで路上教習を受けて,試験に臨み,受かったそうな.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,他)

 うちの爺ちゃんは大卒で徴兵されたので,1年くらいで部下が何人か持てたらしい.
 内地の基地で,のんびり終戦まで過ごしている間,部下達の運転を試験して運転免許を何枚も発行していた.
 でも,爺ちゃん本人は,生涯(といってもまだ存命だけど),無免許.
「自分の分の免許もだしておけばよかった」
と,笑っていた.

(生活板)


 【質問】
 戦時中,日本軍は車両修理をどのように行っていたのか?

 【回答】
 『比島に散った野戦自動車廠の記録』(比島派遣野戦自動車廠戦友会,開発社,1989/8/15)によれば,例えばフィリピンでは野戦自動車廠の下に支廠,出張所,派遣隊,移動修理班などが全土に展開していたという.
 修理部品は日本本土から輸送していたが,鹵獲した外国車にはそうした修理部品はなく(輸入するわけにもいかないので),廃車から部品をとって修理するなどしていたという.

 戦局も末期になってくると,修理よりも輸送,食糧調達,松根油生産のほうが優先され,またガソリンも残り少なくなっていたため,修理の機会はあまりなかったようだ.

 同書ではまた,チェンジ・ギアが破損してローとバックのギア・チェンジが効かなくなったビュイックに対し,適当な廃車部品が見つからないので,折損歯車の欠損部分に溶接で肉盛りし,ヤスリ仕上げで歯形を修理したエピソードも紹介されている.
 そのビュイックは玉兵団の師団長車で,その玉兵団はレイテ島に出発してしまったことから,もう車を取りに来る者はいないだろうと独り決めして用足しのときに乗り回していたら,軍司令部との連絡のためにマニラに残留していた師団司令部の一部の大尉に見つかり,「試運転中です」と冷や汗をかきながら答えたとか.


 【質問】
 すいません,今Blogで小説書いてるんですが,どなたか,アメリカ軍のジープで一般的に戦後にMPが乗っていた車種とその排気量,エンジン形式,出来ればピストンの直径とストロークをご存知の方おられましたら教えて下さい .
 検索はしてみたのですが,意外なほど情報が少なく,お手上げです.

 日本軍の装甲車両で,その車種のピストンと交換部品になりうるピストンをもっているかもしれない車両を教えていただければなおいいのですが,解らなくてもこちらは自力でソレっぽい嘘をつける車両を探してみようとは思っております .

 【回答】
 Willis MBに関しては資料が出てきませんでしたが,戦後すぐのCJ-3Bなら,ボア79.4mm×ストローク111.1mmです.
 これは,水冷4気筒で排気量2,199cc.弁配置SV方式で,60馬力を発揮しています.
 基本的に戦時中の型やFord GPWも同じだったはずです.

 日本の装甲車両や軍用車両はおしなべて,百式統制型発動機です. Willis MB/Ford GPWとは違い,Dieselですから互換性はありません.
 ちなみに,このエンジンのボアは120mm,ストロークは160mmで,2000回転で120馬力の予燃焼室式Dieselです.

 豊田のものでは,A型エンジンはChevroletの直列6気筒エンジンのほぼそのままのコピーです.それでも3000cc程度になっています.
 手元にあるのは,改良型B型エンジンの資料ですが,ほぼ同じとすると,ボア84.1mm×ストローク101.6mm. 排気量3,386ccの水冷直列6気筒OHV方式で,85馬力でした.
 GM製のJeep型車輌は無いので,もしこういう車輌を使うのならば,Jeepではなくそれより一回り大きなDodgeのWeapon Careerが豊田のエンジン部品が使えるかもしれません.

 日産のものは,Graham-Pageのトラック用を移植したもので,NA型の場合,ボアは82.5mm×ストローク114.3mm.
 排気量3,670ccの水冷直列6気筒SV方式で85馬力を出しました.
 これも同様に,DodgeのWeapon Careerならエンジン部品が使えるかもしれません.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 自動車連隊って何ですか?

 【回答】
 自動車連隊とは,関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を編成したのが始まりで,六個の連隊が編成されましたが,16年の関特演でこれらは独立自動車大隊に改変されました.

 同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました.
 その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり,傘下には連隊長以下人員700名,自動車300両を装備しました.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 日本フォードの工場は,戦時中はどうなったの?

 【回答】
 1941年12月8日,日米開戦となり,日本フォードの神奈川区守屋町工場は接収され,陸軍収用財産となります.
 その建物,機械は,陸軍兵器本部,相模原造兵廠,東京補給廠,満州自動車会社,三和自動車,ディーゼル自動車工業に譲渡され,組立機器類は日産自動車の従業員の手で取り外され,解体されて満州自動車安東工場に移設された.
 戦後,その機械類は,ソ連軍に接収され,梱包後,ソ連に持ち去られたとか.
 守屋町の工場跡地のほうは戦後,進駐軍の倉庫として用いられた.
 1974年,フォードが日本に再進出する際に再び納車前点検用の倉庫として用いられ,今は東洋工業の研究所が建設されている.

 この時代の日本GMの大阪にあった工場は,関西の近代建築を良く手がけたヴォーリスが設計し,日本フォードの神奈川の工場は,同じく関東の近代建築を良く手がけたA.レーモンドが設計している.

 ちなみに,A.レーモンドという人は,日本軍部の支配に幻滅し,帰国するのだが,帰国後,米陸軍航空隊の依頼で,日本の木造家屋の集落の模型,状況を提供し,これが「紙と木の家」を効率よく燃やすための焼夷弾実験に供され,日本空襲の基礎資料となった.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 戦時中の中国の自動車工業について教えてください.

 【回答】
 中国の自動車製作,その量産の歴史は日本と大して変わらなくて,1927年に瀋陽兵工廠で米国から技術者を招聘して,国内から自動車修理経験者を300名余を動員し,米国製Internationalをモデルに,中国に適応させたものを設計し,1930年,まず75型『民生』トラックが完成します.
 これは,エンジン,タイヤ,ボールベアリング,電装品を除く部分はほぼ全て国産品で賄われたもので,積載量1.8tで,64km/hをマークしたものでした.

 次いで,100型『民生』が誕生します.
 こちらは,積載量2.8tに増加しましたが,速度は48km/hに低下しました.

 しかし,満州事変によりこの工場は接収され,自動車工業,東京瓦斯電気工業,三菱造船,戸畑鋳物の出資により設立された,同和自動車工業の組立工場となり,いすゞのノックダウン組立をしていた訳で(ちなみに,大豆を輸送する為に南満州鉄道はChevroletを欲していたが,これを押しつけられた).

 その後,満州重工業の傘下企業として満州自動車製造が設立され,同和自動車工業はこれに吸収,ちなみに,安東工場には,前にも書いた,日本フォードの組立ライン一式が設置されています.
 ただ,折角の設備を整えたものの,いすゞ,日産80型の国産車のノックダウン生産は遅々として進まず(国産車そのものが台数少ないのに,部品を供給できる訳がない),その業務の殆どは,関東軍や民間で使われていたFord,Chevroletなどのトラックの再生作業のみ行っていたそうです.

 さて,日本に瀋陽の工場を奪われた中国ですが,山西省大原兵工廠では,1933年に国産4気筒エンジンを搭載したトラックが試作されます.
 これは,タイヤ,電装品,計器,ボールベアリング以外は国産で,積載量2t,速度30km/hの性能でした.
 また,1936年には湖南省機械廠で,Dodgeのエンジンをコピーして2台のトラックを作りましたが,これらは中央の支援を受けることなく,消滅しています.

 一方,国家的プロジェクトとして,同じ1936年に中国汽車製造公司が設立されました.
 これにはDaimler-Benzが技術協力を行い,ドイツ人技術者の下,ディーゼルトラックを年間1,000台ノックダウン生産すべく,湖南省株州工場を1937年に建設開始し,同年,バス工場として,上海工場を建設する予定になっていました.
 しかし,日中戦争の激化で,工場は広西省桂林,四川省重慶へと移転.
 この間,少数のDaimler-Benz(中国名『飛鵬』)トラックが組み立てられたに留まりました.

 ちなみに,この当時,中国全土の自動車保有台数は68,917台.

 このほかの動きとして,中央資源委員会が1939〜40年に米国から技術,設備一式を導入し,雲南省昆明中央機器廠分工場で,トラックを生産する予定でしたが,設備はベトナム近辺で,日本軍の攻撃を受けて失われ,図面や資料類は洞窟に隠したものの,回収する術が無く,1950年に掘出したときは,変質して使い物にならなくなっていたとか.

 やがて,戦争が終わると,満州の設備は全部ソ連に持ち去られ,1946年に天津汽車配件廠で,日本のオート三輪の部品を製造していた経験を生かして,3輪トラック『飛鷹』を10台試作します.
 ただ,年産100台の予定が,戦後のインフレ,資金難で,計画は頓挫して,国産車製造の試みは,革命まで待たなければなりませんでした.

 その代わりに流行ったのが,戦後の日本でもあった,トラックをバスに改造する事業で,Dodge T234改造のバスは,1950年代の北京で大活躍したそうです.
 また,乗用車をダブルキャブの客貨両用ピックアップに改造することも流行ったらしく.

 そうこうしているうちに,蒋介石は敗れ,毛沢東の時代になっていくわけで.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 DUKW改造バスについて教えられたし.

 【回答】
 米軍が上陸作戦に用いていたトラックに,DUKWと言う車輌がありました.
 これは大陸反攻作戦用で,揚陸艦から発進して水上を航行し,そのまま上陸して海岸内陸部まで物資を運ぼうと言う目的で考案されたものです.
 最初は水陸両用のジープであるFord GPAを開発しますが,小さすぎて不評でした.
 其処で今度は,GMCのCCKW-353トラックを基に水上航行が出来るように,艇体構造の車体と,後部にスクリューを設けたのがDUKW-353,通称Duckです.

 とは言え,大陸反攻作戦よりも太平洋戦線の飛石上陸作戦で主に使われています.

 太平洋戦争が終結すると,こうした特異な軍用車輌は一気に活躍の場を失い,民間に放出されることになりました.
 当時,日本では空襲によって痛め付けられた交通インフラの復旧が最優先課題でした.
 敗戦直後,東京の都バス路線は系統数12,路線キロ数63kmまで落ち込みますが,利用客は12.5万人と大混雑状態でした.
 一方でバスは,ガソリン車68台,木炭車841台,薪車26台,電気車2台が在籍していたのですが,使用可能なものは僅かに196台でしか無かった訳です.

 東京都では関東大震災からの復興と同じく,先ずは交通の復興は,復旧に時間の掛かる電車より,車輌さえ導入すればその日から走らせる事の出来るバスの導入を主眼とします.
 需給予測としては,1945年当時の区部人口の倍,500万人が5年後の復興後に区部に居住すると見込み,その為の足として,在籍車輌1,000台,可動車輌600台を目標に整備を進めるとしました.

 ところが復員や疎開先からの帰還,引揚者の増大により,東京の人口は瞬く間に増え,計画期間は5年から3年に短縮,可動車を850台とする様に変更されました.
 とは言え,資材不足で1945年の新車導入は進まず,全て木炭代燃車で,いすゞ29台とトヨタ3台しかありませんでした.
 また,1946年も電車の修理68両,バスは新車を170台,大修理133台を行ったのみ.

 こうした中,1947年に米軍のGMC2.5t車の大量払下げをガソリン込みで受け,それをバスに改造し,使用する事が可能となります.
 6輪駆動で,エンジンは国産車よりも強力な100馬力,これが400台供給されました.
 これを改造してバスにしたのが,戦前からの架装メーカーの他,中島飛行機からエンジン担当重役がスピンアウトして設立した横須賀の関東電気自動車(今のトヨタ傘下にある関東自動車),平塚にあった日国工業,中島飛行機伊勢崎工場の後身,富士産業など,航空機メーカーの転身組も参入していました.

 最初に完成した16台は遣っ付け仕事で,関東電気自動車が架装したボディーは,運転席はトラック其の儘に,後の荷台部分に箱形のバラック構造の車室を組立てたのですが,余りにも応急過ぎて視察した都議会議員から悪評紛々,特に窓硝子不足から硝子は1枚毎に入れて,その他は板張りという飛んでもないもので,以後この形式のものは作られなくなり,流石に窓硝子は全部の窓に嵌められる事になりました.

 富士産業が手がけたのは,飛行機の余剰ジュラルミンを多用したもので,形状はバスらしくなっていましたが,根太まで軽合金を用いた為,強度不足で,当時の道路事情では折損事故が多発しました.
 其の後,富士産業の車体はキャブオーバー型になって大型化していきます.
 金剛自工と言う会社の改造車体は,ボンネット型乍らホイールベースをオリジナルの4,166mmから5,076mmに増やし,オーバーハングを1,330mmから2,474mmに拡張して,車体長を8,510mmとし,定員65名(最初の改造型は40名)としたものまで出現しました.

 さて,1947年9月,キャサリン台風によって,江戸川区一帯が1週間以上水没しました.
 この為,各地で都電を含めた交通網が寸断されてしまった為,都では,DUKWの借用を申し入れました.
 市川〜小松川橋〜東京駅の間で使用する事を想定し,江戸川区の水没地帯では,其の儘水の中に入って,航行すると言うものでした.
 実際に,DUKWを借用して試運転まで行いましたが,千葉街道は道幅が狭くて運転に支障を来した上,水没地帯でDUKWを航行させると,低速運航でもその波で沿道の土壁が崩れると言う被害が発生した為,この水陸両用車の導入は断念しました.

 しかし,1948年1月にGHQはDUKW246台の払い下げを行い,うち東京都には40台が割り当てられ,20台は富士産業と日本建鐵がキャブオーバー型に,残り20台は帝国自工と金剛自工がボンネット型の大型車のボディを架装して1948年4月から運航を開始しました.

 これらの車輌は1954〜57年まで使われ,一部の車輌にはオリジナルのガソリンエンジンを民生のディーゼルエンジンに換装されていたそうです.

 でもって,こうした車輌の一台が流れ流れて熊本で鉄輪を付けて再起した訳で…というのを以前に此処で触れた気がする.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月23日23:37


◆◆◆◆対戦車兵器


 【質問】
 日本兵は米戦車をどうやって倒したんですか? 対戦車地雷ですか?

 【回答】
 地雷の場合は,精々擱坐させる位しか威力がありません.余程の軽戦車(タンケッテ)程度でないと,引っ繰り返すのは無理.
 Caterpillar切っても,回収して修理すれば前線に出せますし.
 分隊一個を潰して擱坐させた戦車が,あっと言う間に戦場から回収され,再び修理されるケースがImphalでは多く見られました.

 日本がM4などを相手にする場合は,思いっきり近くから37mm対戦車砲を側面か背面から打ち込むか,陣地に引き込んで榴弾砲などの野戦砲の直射くらいと,後,火炎瓶くらいです.
 火炎瓶で,火災を起こさせ,乗員が慌てて出てきたところで上に乗った兵が中に手榴弾を投げ込み,戦車を乗っ取って,敵に発砲すると言う戦術も採られています(当然最後は撃破される訳ですが).

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

 地面に埋められた航空機用爆弾を転用した仕掛け爆弾とか,道端に隠されて戦車の側面からHEAT弾を撃ち込む対戦車地雷とか,いろいろあります.
 けど,基本的に対戦車地雷はキャタピラを切る程度の奴が多く,地雷原は対人地雷と混ぜて敷設されたり,地面の上に直接置かれたり,撒かれたりする.

軍事板

刺突爆雷


 【質問】
 旧日本陸軍が,ソ連軍のデグレチャフ対戦車ライフルとよく似た対戦車銃(確か口径は20ミリだったと思います)を生産していたはずですが,実戦での使用はなかったのでしょうか?
 ないとしたら本土決戦用に温存していたのでしょうか?
 もし使用されたら,ソ連兵がタイガー戦車のペリスコープを破壊して多少の損害を与えた様な戦果を,M4相手に期待できたのでしょうか?

 【回答】
 九七式自動砲ですかね.
 制式採用後,北満州の陸軍,即ち,関東軍各部隊に配備されました.
 実戦としては,ノモンハンが最初でしたが,歩兵中心で戦車はその支援に回るから,速度が遅く,少人数で設置し,地形を利用して,戦車側面を狙う思想でこの兵器が作られたのに対し,ソ連軍はドイツ式の戦車集団使用による高速侵攻を採った為,想定戦術が採れず,苦戦を強いられます.
 しかも,予想に反してソ連戦車の装甲は厚く,強かったので,なかなか攻撃しても破壊に至りませんでした.

 しかしながら,普通の対戦車砲より姿勢が低く,運搬が簡便だったため,歩兵用対戦車火器として,ソフトスキンや軽戦車に対してはある程度用いられ,効果が認められていたようです.

 一応,末期の沖縄戦まで使用されているようですが,対戦車銃としてではなく,拠点防衛用の火器として使用されることも多かったようです.

 上述のように,BTシリーズの軽戦車に対しても能力不足とされていたのですから,M4と撃ち合うのは無理かと.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 97式自動砲は手の込んだ造りで,かなり高価だったと聞いたのですが,現在のお金で換算するといくらぐらいになるんでしょうか?

 【回答】
 昭和15年当時の九七式自動砲の価格は6.400円となっています.
 これは三八式歩兵銃(77円)の約83倍,九二式重機関銃(2.175円)の約3倍に匹敵する価格です.

 現在と当時の物価の差はこちら参照.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 友人と
∩( ・ω・)∩ チハたんばんじゃーい
と話してたときに,チハよりはパンツァーファウストなどの対戦車ロケットや無反動砲などの,歩兵携行対戦車火力の方が南方で頑張れたかもしれないね,という話になったのですが,当時の日本軍はこの手の対戦車ロケットの類の開発,及び使用はしていなかったのでしょうか?
 技術そのものはドイツからの供与で入ってくるとは思うのですが,どうなのでしょう?

 【回答】
 日本で無反動砲の研究が始まったのは昭和18年の後半で,ドイツから到着した資料を元に開発が始まり,昭和19年には
「試製八十一ミリ無反動砲」
「試製十センチ半無反動砲」
「試製五式四十五ミリ簡易無反動砲」
等が制作されました.
 しかし,いずれも試作の範囲にとどまっています.
 試製五式四十五ミリ簡易無反動砲は外径八十ミリの試製五式穿孔榴弾を用いる,パンツァーファウストに近い無反動砲でしたが,実際には発射機の供給が間に合わず,弾薬のみが配備され,発射装置や使用方法は配備された部隊に任される予定だったとか.

 また,ドイツから入手した構造図面を参考にして,19年9月に四式7cm噴進砲を正式採用.
 これはバズーカのように筒内に弾を込めるタイプで,弾に安定翼が無く,ガス噴射で弾体を回転させて安定させていました.
 弾頭着角60-90度で80mm鋼板貫通,100mで6割命中
 終戦までに約3,500門を製造

 ……ただ,「日本陸軍兵器集 ワールドフォトプレス」によれば,この噴進砲,採用されたときは榴弾しか採用されておらず,対戦車戦闘に使えるとは考えにくい.
 いちおう,成型炸薬弾「試製5式窄甲榴弾」が一部でテストされていたが,実用にはいたっていない.
 このテスト結果は,「試製5式窄甲榴弾」のものと思われます.で,これは配備されていないわけで……
 榴弾だけで対戦車戦闘はチト無理かなぁ,と.

 さらに,上陸舟艇用の伏竜や対戦車用の刺突爆雷とか,弾頭がHEATだけど,運搬手段が火薬で飛ばすんじゃなくて人で,ってのも…

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,極東の名無し三等兵 in FAQ BBS他)


 【質問】
 日本軍の対戦車戦術は?

 【回答】
 日本陸軍では対戦車防衛に「弾性防禦」の表現を使っており,正にその通りの弾力的な防禦策を展開している.
 このため,第一線の戦車攻撃に対する抵抗は,それほど激しいものではない.
 第一線では歩兵装備の重火器のうち,戦車に向けられるものは20%以下と見て良い.
 戦車が接近すると一個小隊のうち一個分隊を残して,後はひとまず800〜1500ヤード後方に退く.
 第一線に踏みとどまった一個分隊は,直ちに煙幕を張って散開し,煙幕の中から戦車が姿を現すと,焼夷擲弾をもって肉迫攻撃を加えるのである.
 こうして初戦に於いて,先ず敵戦車の隊列を崩してコントロールを乱れさせ,被害を与えるというのが,その戦術的な狙いだ.

 こうして第一戦の攻防戦が展開されている間に,師団砲兵が直接照準の出来る位置まで前進する.
 もし歩兵の主要火力で攻撃を阻止できなければ,歩兵主力部隊は煙幕や焼夷擲弾を使用しながら肉迫攻撃を掛け,これを突破した敵戦車に対しては,直射陣地に前進していた砲列が集中砲火を浴びせると言った作戦である.
 この作戦の特色は,一旦攻撃が停頓すると,攻撃側が忽ちピンチに陥ることだ.
 立ち往生した戦車に対しては,手榴弾その他の手持ちの兵器でも功を奏することがあるし,散開したとは言え,敵戦車部隊の後続歩兵部隊を阻止できる.

●対戦車攻撃法
  1. 場所の選択
   対戦車攻撃要員が活動するのは,主として戦車の前進速度が鈍るところで,対戦車砲による攻撃の邪魔にならぬtころとなる.
  2. 特別要員
   各歩兵中隊(機関銃中隊に適用されることもある)毎に対戦車肉攻班が設けられ,要員は特殊装備の元に訓練を受けている.
   各要員の武装は,対戦車地雷と発煙手榴弾.
  3. 攻撃方法
   攻撃方法には次の三つがある.
   (1)援護射撃の元に肉攻班員は戦車に向かって匍匐前進を行い,相手の死角に入る.
     次に戦車の前方15ftの地点に,長い紐を付けた地雷を放り投げて,この紐を引きながら,戦車の真下に誘導する.
   (2) 援護射撃の元に肉攻班員は突進して数個の地雷を戦車の進行方向にばらまき,そのいずれかを必ず接触させるようにする.
   (3) 全長150ftのコードに,1ft間隔で地雷を結びつけ,これを戦車の通路に置き,両端の肉攻班員各1名と共に偽装隠蔽し,戦車を待ち伏せする.
   このほか,肉攻班員は,通常後方から戦車に跳び乗り,ピック(小型鶴嘴)で戦車の武器又は砲塔の回転装置を破壊するよう訓練されている.
   時には戦車の開口部から乗員めがけてピストルを発射することもある.
   また,砲塔に掩蔽物を被せたり,開口部を泥土で目つぶししたり,開口部を利用して燻りだしを図ることもある.
   勿論,こうした作戦を行う場合,その前に戦車部隊と行を共にする歩兵部隊は,別働隊によって除去される.
   更に戦車は,3インチの丸太材または1乃至1.5インチの棒材を車輪のスポークに突っ込まれてスローダウンさせられ,遂には停車に追い込まれることもある.
   当然ながら,磁気徹甲地雷が使用されることもある.

 以上,米軍の対日本陸軍戦闘マニュアルより抜粋.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

▼ 以下は,実際に対戦車班に配属された兵士の証言.

[quote]

 満20歳の時の徴兵検査で,丙種とされ,兵役はないものと思っていたのに,召集されたのであった.
 帷子〔進〕氏と私は7月,熊本県島原湾に面した玉名郡の小学校に兵卒として駐留した.
 そして米軍が,この海岸から上陸してくると想定して,私たちは米軍を迎え撃つ訓練をさせられたのだ.

 〔略〕

 あんなとこにね,米軍が上陸してくるはずないんだけどね,海岸防備.
 米軍上陸したらね,火薬の箱をね,首から吊って,両手で抱えてまっしぐらに走って,どーんと向こうの戦車にぶつかるの.死んじゃうの.
 その稽古をやった.
 あれにはまいったさ.
 だから戦争が終わってほっとした.

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.49 & 157(後半聞き書き)


◆◆◆◆鉄道車輛関連


 【質問】
 日本の鉄道の幅は,なぜ1067mmになったの?
 幅が広いほうが兵站上,便利では?

 【回答】
 日本の鉄道の場合,レールの幅は,1067mmが主流です.
 これは,官鉄が敷設された時,南アフリカの植民地軌道の軌道幅に合わせたからと言う説が専らです.
 何故,アジアではなくアフリカの軌道幅なのかと言えば,その頃アジアの英国植民地には未だ鉄道が敷設されていないか,未だ工事中で,アフリカ南部とか豪州,ニュージーランドでの採用幅が1067mmだったから,と言われています.
 つまり,海外に資材の供給を仰がなければならない立場からすれば,大量生産された鉄道部品を購入した方が安いからと言うことではないか,と.
 一説には,南アフリカ奥地向けの鉄道機材を転用したとか言われていたりして.

 1882年に敷設された東京馬車鉄道は,何故か世界でも類を見ない1372mmと言う半端な軌道幅を採用しました.
 米国では馬車鉄道の軌道幅が1372mmだったからとか色々言われていますが,これまた何故かは判らず仕舞いです.

 この軌道幅は都電で使われた他,都電から機材を譲り受けて開業した函館市電が使用しました.
 また,都電に乗入れる為に,玉電だとか後に都電に編入された城東電気軌道や王子電気軌道,そして京王電鉄,京浜急行,京成電鉄などが採用しました.

 しかし,京浜急行は一足先に標準軌に改軌され,浅草線開業時に京成も標準軌となります.
 京王電鉄も,新宿線開業時に標準軌に改軌すれば良かったのですが,当時の輸送逼迫で長期運休などが叶わず,結局大手私鉄では唯一中途半端な軌間を採用し続ける羽目になります.
 お陰で,標準生産品が使用できず,京王線の電車はコスト増になっています.

 一方で,東京都交通局は,お陰で,1067mm,1372mm,1435mmの三種類の軌間を持つ羽目になっている訳ですが.

 標準軌は1435mm.
 軍部は可成り以前から国鉄(官鉄)の1435mm化を主張していたのですが,それは諸々の事情から新幹線の開業まで実現せず,1899年の京浜急行(後に1372mmに改軌してまた1435mmに戻す)や1906年の阪神電気鉄道が採用することになります.

 関西の鉄道は殆どが1435mmですが,これは当時,大阪の銀行家として重きを為していた北浜銀行頭取岩下清周が構想していた「山陽電鉄」を実現しようと言う動きに合わせたものと言われています.
 彼は,大阪から山陽地方を縦貫し,関門海峡に至るまで電気鉄道で結ぶ計画を立てていました.
そのため,大阪の灘循環電気軌道(後の阪急神戸線),兵庫電気軌道(後の山陽電気鉄道),広島電気軌道(後の広島電鉄),関門架橋株式会社を傘下に組み入れ,更に山陽筋の鉄道会社に標準軌の採用を働きかけた訳です.

 日本の軌道幅はこれら3種が殆どですが,三重の近鉄と三岐鉄道,黒部峡谷鉄道には,762mmと言う軌間があります.
 762mmは現在でこそ,この三社しかありませんが,1960年代までは,多くの鉄道が採用していた軌間でした.
 松山を走っていた坊ちゃん汽車も,今は1067mmですが,最初は762mmです.
 これは,交通網の発達を促す意味で,政府が鉄道の敷設を促した軽便鉄道法に負うところが多く,費用が安く手軽に敷設出来る軌間として幹線鉄道とそこから離れた集落を結ぶ為に多くが敷設されていました.

 この762mmが最初に採用されたのは,北海道の茅沼炭砿と岩内までを結んだ石炭輸送用の牛車鉄道で,当時鉱山の主流として海外でも採用されていた610mmでは,1頭立ての牛車では歩幅やよたつきの関係で,蹄がレールに当たったり,排泄物がレールに掛かる為,やや広い762mmを採用したのではないか,と言われています.

 今は無くなっていますが,南海電鉄が最初に敷設した線路は釜石鉱山の払い下げ品でした.
 英国人技師が敷設した鉄道は軌道幅838mm.
 流石にこれは長続きせず,直ぐに1067mmになっていますが….

 他に岡山の西大寺軌道と北九州の炭砿鉄道には,914mmなんて変則的な軌間もありました.
 これも謂われは不明だったりします.
 機関車として石油発動機(ガソリンではない)が使用されて,その発動機の大きさに合わせたとかいないとか.

 ほんの百数十年前のことなのに,判らないことが多い世界です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月18日21:44


 【質問】
 先日,ドラゴンから1/144模型が発売された装甲トロッコで質問です
http://www.dragonmodelsltd.com/html/14023-3.html
↑コレの左側の奴

 これはエンジンを搭載して自走するんでしょうか?
 あと,どう言った運用(単体で・これこれな編成で)をされていたんでしょうか?

 【回答】
 エンジン(ガソリンかディーゼルかは車輌によって異なりますが,概ねガソリンじゃないかと思います)自走します.
 基本的に軍用列車,或は装甲列車の前駆として,警戒に当たる運用,または,兵士を乗せた貨車を牽引し,線路の警備に当たる運用が主なものです.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)


 【質問】
 日本にも装甲で覆われた軍用列車ってあったんでしょうか?

 【回答】
 日本にもありました.
 満州事変当時,第一,第二装甲列車隊,中国本土へは第十一装甲列車隊が配置されています.
 装甲列車には二種類あり,軽装甲列車と重装甲列車があります.
 軽装甲列車は,8両編成.山砲2門を装備し,10mm厚の装甲板で覆われていました.
 重装甲列車は,九四式装甲列車と試製のものが作られ,十四年式10cm加濃砲2門,八八式7.5cm野戦高射砲2門,重機関銃14丁を有し,主砲は旋回可能な砲塔に乗せられています.

 また,中国軍の装甲列車も捕獲され使用されていますし,満鉄の機関車,貨車に,簡易急造の鉄板を張り巡らしたものもありました.

 更に,九一式広軌牽引車という,スミダ(今のいすゞの一つ)の六輪トラックを改造して,道路上をタイヤで,線路上を鉄輪で走る軌陸装甲車もありましたし,瓦斯電と三菱で製作された,九五式装甲軌道車という装軌と鉄輪を両方持ったものも作られており,これらは8mmの装甲を持ち,偵察,前路警戒任務に使用されました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)


 【質問】
 第二次世界大戦で日本が使用した列車砲について教えてください.
 ドイツの列車砲の技術か何か受け入れているのかな.
 実際に活躍する場面はあったのでしょうか?

 【回答】
 日本陸軍が制式化した列車砲はただ一種しかありません.
 九○式二十四センチ列車加農砲がそれです.
 この砲は輸入品で,大正14年にフランスのシュナイダー社と購入に関する交渉を行い,昭和3年に竣工しました.

 主な諸元は
*砲身:240mm53口径
*運行時全長/全高/最大幅:17.725mm/3.990mm/2.930mm
*総重量:133.412kg
*最大射程:50.000m

 この列車砲は,対ソ戦をにらんで満州の第四国境守備砲兵隊に配属されました.

 周知の通りソ連軍は昭和20年8月9日に満州に侵攻を開始しましたが,不幸にもこの際九○式二十四センチ列車加農砲は移動準備のために分解中でした.
 このため戦闘に用いることは叶いませんでした.
 戦後にこれを鹵獲したソ連軍は,これを自国に運び去ったとも言われていますが,詳細は不明です.

 なおこの砲を元にして,陸軍では国産新列車砲の計画を立て,一式二十四センチ列車加農砲として整備を図りましたが,戦局の悪化のため完成する事はありませんでした.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 戦時中,機関車にも生産簡略化が行われた,って本当ですか?

 【回答】
 本当です.

 例えば,D51の場合,戦前のものに比べ,鋼使用量が76→67t,銅が2.4t→1.1t,鉛が1.2→0.4tと金属材料を極力節減しています.
 こうして軽減された動輪上重量を補うために,ボイラー台内や前デッキ上にコンクリートブロックを搭載していました.
 D51の場合は,ボイラー圧力の余裕度を減らして,14kg/cm^2を15kg/cm^2mに増やしてシリンダー牽引力を7%増やし,先輪動輪間と動輪従輪間のバネ装置釣り合い梁の中心支持点の変更とコンクリブロック製死重搭載により,動輪上重量を56→59tに増して,粘着牽引力を増やしました.

 D51の簡略工作は,以下の通りです.
 1. ボイラー内火室板の一部板厚の減少
 2. 水面計,洗口栓などの銅系材料に代用材
 3. 棒類受金ブッシュの銅系材料を鋳鉄台に変更
 4. 動輪受金の厚さを減らし,鍔付脱出止めとする
 5. 軸箱守シュー及び楔の銅系材料を鋳鉄材に変更
 6. 動輪バランスウエイト用鉛を廃止,鋳鉄で代用
 7. 車輪タイヤの止め輪の廃止.段付に変更
 8. ;ピストンリングの幅減少
 9. 給水加熱器の銅製細管を鉄製に変更
10. 速度計,給水ポンプの圧力計廃止
11. 動力火格子装置の廃止
12. 暖房装置の廃止
13. 運転室証明を最低限とし,配線・灯具を節約
14. 番号板の小型化,鋳鉄化
15. 歩み板,煙避け板,腰掛,炭庫板の木製化
16. 炭水車の車軸の短軸化
17. 炭水車台枠の骨組みを省略し,荷重の負担は水タンクにさせる
18. 炭水車台枠は菱枠式に変更

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)

 その使い勝手ですが,月刊「鉄道模型趣味」1989年10月号に,戦時中,戦時型D51蒸気機関車に新人機関士として乗務,引退した戦後,同機関車の鉄道模型を作った方のお話があります.
 それによれば,
・シリンダー気室圧力計が省略されていたため,運転中,どのぐらいの牽引力が出せるかわからず,速度計もないため,制限速度オーバーに神経を使った
まではまだマシで,
・ボイラー内の水面計のガラス管は材質が粗悪ですぐ割れたため,勘で水位を測った運転もしばしば.
・「給水温め器」が省略されていたことから,ボイラーに冷水を直接送り込むことになり,低カロリーの粗悪な石炭と相まって思うように蒸気が作れず,
「蒸気が作れない=圧力低下=水が思うように送れない,水位も不明」
空缶を焚く可能性と隣り合わせだった
ことに加えて,
・ボイラー缶胴の継手を,2列鋲継手から1列鋲継手か溶接に変更した一方で,缶使用圧力だけを14kg/cuから15kg/cuに,牽引力上昇の目的で変更したため,安全率は低下,運転するのにも冷や汗ものだった
とか.

ナンバーテン in FAQ BBS


 【質問】
 戦時中,内燃動車はどう使われたのか?

 【回答】
 元々,業界が魑魅魍魎状態だったことから,かなり危ない橋を渡って生き残りを謀ったが,燃料難によって客車として使われることが多かった.
 戦後まで生き残った車輌は,戦車用・軍用車両用ディーゼル機関に換装され,さらに長く使われたという.

◇◇◇

 内燃動車,即ち,ガソリンなどの内燃機関を搭載した鉄道車輌の事ですが,客車の車体製作技術,即ち,或程度の大工仕事の出来る木工と機械工がいれば,後は中古機関を搭載して,ゴムタイヤの代わりに鉄輪を履かせて,線路を走行できるようにすると言うもので,日本車輌,川崎車輌,日立など大手の会社も勿論この車種への参入をしているのですが,極端に言えば簡単に作れてしまうので,そこいらの腕に覚えのある大工の集団が,ブローカー(高利貸)と組んで,田舎の鉄道会社に売りつけ(又は貸し付け)に行って購入資金(あるいは利子)を取る,と言うことも可能だったので,まるで詐欺のような車輌もあったりして,中々百鬼夜行状態….
 中にはたった一輛だけ製作して納品後,そのまま夜逃げというものもあったり….

 例えば,西武の堤康次郎が関係した多摩湖鉄道(今の西武多摩湖線)の車輌は,開業初日に運転中止,即日,別のメーカーに車輌発注とか(笑.

 また,最初の頃は羽振りが良く,独自技術を展開して,大手メーカーが追随に躍起になっていたのに,次第に大手メーカーの資金力,技術力に負け,遂には破産,消滅という中小企業もありました.
 特に,日本車輌が床下機関に於ける逆転機配置について,基本的な特許を取得してしまった後は,その特許を避けようと色々工夫して,大手も含め,悉く討ち死にしてるケースもあります.

 しかし,特許に関しては,斯様に抵触しないように各社躍起になっているのに,宣伝となると,その広告媒体に掲載した写真は,他社のを平気で使っているのが,何だかなぁな訳ですが.

 一方,鉄道会社と鉄道省,内務省との丁々発止も結構笑えるものがあって,鉄道会社が提出した図面を官庁側が精査して,
「車体幅が建築限界を超えているから是正」
「こんな定員はあり得ないから是正」
「こんな危険な機構は駄目,是正」
など,度々是正措置を発しているのですが,鉄道会社側は,
「はい,図面は直しました」
として,実際の車輌は全然直さず,指導前のままにしていたり,中には,そう言った許認可すら受けず,謂わば,闇車輌として動かし,監査が来てバレたり,まぁ,色々やってます.

 図面だって,大工やら木工やら機械工,要は製図の専門教育を受けず,その場仕事でやっている人だと寸法などきちっとしたのを作るのは無理で,何処かの図面を使い回すと言うのもあったりして…建築図面の検査では無いけど,これで中々バレないのが不思議だ.

 更に,1938年以降の国家総動員以後の燃料油入手難の為の代燃装置の取付の時も,全台に取り付けた振りをして,実際には一部しか取り付けてなかったり,次第に資材が入手難になって,車体の新製そのものが受け付けられなかったら,休業していた会社の車輌を買い受け,そのまま使うのではなく,籍だけ残して実は新車にするとか,涙ぐましい努力をしていたり.
 こうまでして,虎の子の内燃動車を維持してきましたが,近くに軍事施設があって,ガソリンの特配を受けられた鉄道以外は,次々とエンジンを取り外されたり,機関を動かすことなくして,客車として使われ,今度は中古の蒸気機関車が引っ張りだことなったり.

 戦後まで何とか残った車輌は,戦車用,軍用車両用ディーゼル機関に換装されて,更に長く使われたのですが,結局,時代の流れに取り残され,今となっては忘却の彼方で,資料も殆ど残っていない.

 ソースは「内燃動車発達史」(湯口徹著,ネコ・パブリッシング,2004.12)という上下巻ものの本です.
 ある意味,量産品の軍用の車輌,航空機,船舶よりも調べにくい分野であるのですが,「鉄道史料」と言う本も出ているくらい,先人達の弛まぬ努力でこうした分野の研究が進んでいるのに頭が下がる思いです.

眠い人 in mixi


 【質問】
 軍用貨車について教えてください.

 【回答】
 帝国陸軍の鉄道連隊で使用されていた貨車は,九七式軽貨車と呼ばれ,外側と内側に車軸を締め付けるボルトがあって,これを緩めることで,1000mm〜1524mmの軌間まで使用することが出来ました.

 それまで,鉄道連隊には5t積みの九一式軽貨車がありましたが,その荷台を強化して積載量を8tに増やしたのが九七式.
 鉄道連隊が敷設する軽軌道や応急修復の劣悪な軌道状態でも使用出来る様に,車軸に当時としては貴重なベアリングを使っています.
 これによって,10m辺り枕木5本と言う状況でも使用出来たり,空車状態なら人2人が押せば動かすことが出来たりします.
 こうした貨車は1台に荷物を搭載している他,2両の軽貨車を繋ぎ合せてその上に長いレールを載せたり,無蓋車体を搭載して荷物や人員を運んだり,数両を組み合わせて橋桁などの重量物を運んだりと,色々重宝されていました.
 泰緬鉄道などでも,レール運搬に威力を発揮しています.
 この鉄道工事では,レールを搭載した貨車を続行させ,レールを降ろして敷設した後,その貨車は転覆させて線路外に押出し,次の貨車をその敷設したレールの上を走行させて…と言う使用法でした.
 こうして,延長415kmの路線を16ヶ月,即ち1日平均890mと言う驚異的なスピードで敷設された訳です.

 この貨車は数千両が生産され,大半は外地にて使用されて日本には戻ってきませんでした.
 しかし,千葉の鉄道連隊で使用された貨車などが敗戦後,民間に放出され,関東の私鉄に残っています.
 少なくとも茨城鉄道,小湊鉄道,西武鉄道などに残っていました.

 自衛隊の輸送学校に残されている現車は,西武鉄道から寄贈されたものです.
 西武鉄道では多数を保有していたらしく,今は無き西武山口線の新交通システムになる前に使っていた客車は,その台車が悉く九七式軽貨車改造だったそうです.
 多分,他にもいっぱいあったのかもしれません.

 知られざる旧軍の遺産,近くにも未だひょっこり残っているのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月19日22:33


 【質問】
 京阪電車の跨線橋の由来について教えてください.

 【回答】
 天満橋から三条まで,大阪の鬼門を行く京阪電車は,今でこそ,途中まで堂々たる複々線になっていますが,敷設当初は,京街道上を走る併用軌道になっていました.
 この地域は,低湿地や氾濫原が多く,線路を敷設するのはこの辺しかなかった訳です.

 このうち,深草から墨染までの1.7kmは,京阪に於て,守口市以北では数少ない直線区間になっています.
 この間,三つの跨線橋を次々と潜るこの区間を,運転士達は「単直」と呼んでいます.

 この三本の跨線橋,先ず,深草駅すぐ南の跨線橋が「第一軍道」の跨線橋,聖母女学院の前の郵便局北側から,NTTに抜ける跨線橋が「第二軍道」の跨線橋,そして,藤森から200m南に行った所に「第三軍道」の跨線橋です.
 本来は,「第一軍道」は府道中山稲荷線で,跨線橋の名称は「京阪跨線橋」,「第二軍道」は深草線第149号線で,跨線橋の名称は「西師団橋」,「第三軍道」は府道大津淀線で,跨線橋の名称は「西中郷橋」です.

 「軍道」とか「師団橋」と言う名称が出て来た時点で,軍関係の何かか,と思うでしょうが,その通り.
 1908年11月16日,当時の京都府紀伊郡深草村に陸軍第十六師団が移駐してきました.
 この師団は,1906年に誕生した歩兵師団で,深草付近には師団司令部,歩兵第九聯隊,騎兵第二十聯隊,砲兵第二十二聯隊,輜重兵第十六大隊,工兵第十六聯隊を含み,憲兵屯所,兵器廠,病院,監獄までありました.
 工兵第十六聯隊だけは,伏見町の御香宮にありましたが,殆どは深草村に設置され,深草・竹田両村の14万坪に広大な演習場が整備され,忽ち,周辺は軍都となっていきます.
 師団司令部は,現在の聖母女学院に置かれていました.
 ちなみに,藤森駅は,1941年8月31日まで師団前駅と称していました.
 また,京都七条の塩小路橋から師団司令部前まで延びていた道は,現在も「師団街道」と呼ばれています.

 さて,1908年に師団が移駐してきた当時,京阪電気鉄道が深草村を南北に貫く形で工事を開始していました.
 その線路を挟んで,東側に師団司令部,騎兵連隊,歩兵連隊,西側に兵器廠,練兵場,砲兵連隊,輜重兵大隊がありました.
 従って,東側の歩兵連隊や騎兵連隊が演習場に向かうには,線路を渡らなければなりません.
 しかし,軍としては,電車が来たので隊列を遮ると言う真似はしたくない,
 かと言って,京阪としても,軍が通過するまで電車を止めたままと言うのは出来ない.

 そこで,両者折衷と言うことで,跨線橋を建設することになった訳です.
 この跨線橋を建設するのに,京阪は7,000円を支出します.
 当時の京阪の資本金が700万円ですから,可成りの金額だったのではないか,と.

 川崎造船所によって建設された跨線橋は,無事竣工するわけですが,1931年,再び問題が生じます.
 開業当初は路面電車と同じようにポールで集電していたのですが,近代化,高速化の為に,パンタグラフ集電に切り替えようとしたのです.
 ところが,この軍道跨線橋の高さが周囲の架線の高さより低く,そのままでは,走行中,急激に高さが低くなって,跨線橋を潜り抜けた時に離線の危険性が指摘されました.
 当時でも軍相手の交渉には相当骨が折れたかと思いますが,結局,従来の跨線橋を一端撤去して,1m嵩上げの上,再度跨線橋を架け直したそうです.
 また,同時に線路の側も掘り下げて高さを確保したので,この付近はアップダウンの起伏が多い区間になりました.

 ちなみに,この工事が竣工した時,陸軍の担当者による検査が行われたのですが,検査当日は雨が降って京阪の社員が赴かず,軍の担当者が待ち惚けを食わされたみたいで,師団経理部からの通達書には,
「晴雨ニ係ラズ検査施行スベキニ付立会社ヲ当経理部ニ出頭セシメラレ度候也」
と書かれていたそうです.
 要は,雨が降ろうが槍が降ろうが,検査確認に来い,と言うことだったり.
 未だ,長閑な時代の一面です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月26日22:21


 【質問】
 陸海軍の工廠や弾薬庫で使用されていた無火式蒸気機関車について教えられたし.

 【回答】
 さて,蒸気機関車なのに石炭を焚かない機関車があるのを御存知でしょうか?
 石炭を焼べなければ,薪で? それとも重油を燃やす?

 いやいや,そもそも火を熾して,蒸気を発生させることは無かったりします.

 んじゃ,どうやって蒸気を発生させているのか…と言えば,他力本願.
 工場の高圧ボイラーでお湯を沸かして,それで出来た高圧蒸気をタンクに詰め,その蒸気を吹付けてピストンを動かすと言う仕組みです.
 当然,タンクの容量に限りがありますから,長距離を走る仕組みではありません.
 タンクを一杯繋いだら?と言う考えはありますが,それは本末転倒ですね.
 そもそも,貨車を運ぶのに貨車を繋がなくてどうしますか….

 本題がずれましたが,こうした機関車が開発されたのは,火を使ってはいけない場所,例えば可燃物だらけの火薬工場の中とか,炭砿とかそう言った場所で,馬に代わる効率的な運搬手段が必要とされたからです.
 今だと電気と言うのもありますが,それでも架線と集電装置の間で火花が飛ぶと致命傷ですから,普通の電気鉄道は利用出来ません.

 無火式蒸気機関車と言う名前が付けられたそれは,第一次大戦前後に欧州から輸入され,日本でも一部国産化されていた様です.
 日本では主に火薬工場,即ち,陸軍や海軍の工廠や弾薬庫で使用されていた様で,日本の使用で有名なのは,板橋にあった東京第二陸軍造兵廠本部(板橋火薬製造所)で用いられていたものです.

 しかし,燃費の悪さ(そりゃ,幾ら高圧蒸気を充填しても,冷えてくれば蒸気は無くなるし,止っていても蒸気は消費されるし,結構直ぐに無くなるし…)がネックとなって,電気での駆動が発達してくると,忽ち用済みとなって姿を消していって居ます.

 現在,こうした機関車の現物はないのか,と言えば,少なくとも10年位前までは,本溪湖煤鉄有限公司と言う中国の炭砿鉄道に,ドイツのボルジヒ製の車輌と,満鉄沙河口工場製の車輌が9両ほど残っている事が確認されています.
 経済発展著しい今では,もしかしたら残っていないかも知れませんが,現物が最近まであるとは物持ちの良さは流石中国ですねぇ.

 無火式蒸気機関車が消えた後には,バッテリー機関車が投入されました.
 これも蓄電池に充電して,その電力で動かすと言う仕組みで,架線から火花が散って,火薬類に引火することを避けた訳です.

 この方式の機関車は,今でも鉱山用に製造されています.
 今はもう消滅しましたが,西武山口線のおとぎ電車とか,小田急向ヶ丘遊園線のモノレールになる前の電車とか,上野動物園のおさるの電車がこの形式でした.
 そう言えば,西武山口線のものは,浜松の教会にあって動態保存されていたそうですが,今はどうなっているんでしょうね.

 鉱山と言えば,この前,ガソリン発電機を坑内で使用して死者が出たと言う事故がありましたが,大抵はバッテリー機関車が投入されています.
 ただ,バッテリーの充電設備が結構大きくて,小規模鉱山では経費が掛かりすぎます.
 そこで,無火式蒸気機関車ではないのですが,特に九州の炭砿では,圧搾空気式機関車を導入するケースが多かったみたいです.

 この圧搾空気式機関車,コンプレッサーさえあれば空気をタンクに詰め込む事が出来ますから,大がかりな電気設備は不要で,結構導入された様です.
 しかし,これまた同じ様に,走行距離が短いと言う至極当然の論理で消えていきました.

 九州の筑豊地方にある鉱山博物館に現物はあるみたいですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月13日22:07


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