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「dragner」◆(2010/05/28)「戦前・戦中の日本自動車産業についての簡単なまとめ」
『機甲入門』(佐山二郎著,光人社NF文庫,2002.11)
詳細に書かれており分厚い.
評価を色々考察して下すという面より,複雑な開発経緯を跡づけるのを丹念にやっているのだと思える.
日本飛行船物語もこういう趣がやはりある.
他にも入門ものは沢山出ているのだが,まずは事実を丁寧に洗い出す段階から研究が始まっているのだろう.
そういえば日本の爆弾の話をまとめた本を,兵頭二十八が出していたことを思い出す.
『パールハーバーの真実』が新書になったと聞くので,資料価値の高いものは文庫などで長く入手できるようにして欲しいのだが.
――――――軍事板
『軍用自動車入門』(高橋昇著,光人社NF文庫,2000.4)
個人的にこういうの大好き.
トラックとか,機関車とか,救急車とか,炊飯車とか,変わり種では移動鳩舎とか.
年のせいか,戦車や戦艦みたいな前線の花形より,こっちに惹かれる今日この頃.
欲をいえば,もう少し深く濃い内容だと良かったけど,残存史料的にも出版元的にも無茶な要求か.
――――――軍事板,2011/03/07(月)
『軍用鉄道発達物語』(熊谷直著,光人社,2009.5)
『大陸の機甲戦闘演習 満州公主嶺・代々木・銀座 日本陸軍の機甲部隊 2』(菊池俊吉著,大日本絵画)
『日本軍戦闘車両大全 日本陸軍の機甲部隊装軌および装甲車両のすべて 1917→1945』(浪江俊明編,大日本絵画,2009.8)
【質問】
大戦中のドイツ軍は半装軌装甲車や装輪装甲車を多数開発し,兵員輸送や強行偵察などに有効に活用していたようですが,我が帝国陸軍においてはこのような車輌の開発・装備に関してはどう贔屓目に見ても積極的だったとは思えません.
この差は一体どこから来たのでしょう?
【回答】
日本にモータリゼーションが無かったから.
また,島国である日本は,航空機と艦船の拡充を最優先事項とし,一部主力戦車以外は脇に追いやられた.
現在の日本では信じられないでしょうが,当時の日本に於いて,国産自動車というのはアテにならないものの代名詞です.日本に進出していた,横浜組立日本フォードとか大阪組立日本GMに比べれば,信頼性は段違いです.(ちなみに,生産数から言っても,組立外車の方が多かった)
中国の戦場は広大です.機械的信頼性のない国産自動車を改造した装甲車とか半装軌兵員輸送車より,二本の足の方が余程信頼があります(苦笑.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
つまり当時の日本は,世界の一流とはほど遠い「工業後進国」だったのです.
日本が,自前の材料や工作機械で不自由なく行けるようになり,「ちゃんとした工業国」の仲間入りしたのは,戦後もかなり経った昭和40年代近くのことで,それ以前は,ちゃんとした工業国ですらなかったのです.
また,現在のように自動車が溢れるようになったのは,それに遅れること10年以上.世界のトップを争うような性能の自動車を作れるようになったのは,さらにその後で,長いスパンで見るなら,ごく最近のことです.
陸軍が主戦場にしていた大陸では,マトモな道がなかったので,装輪装甲車による強行偵察はまず無理でしょう.
>半装軌兵員輸送車による急襲とか
ドイツ軍でも定数で戦車連隊1に対して1個擲弾兵大隊分しか配備してません.他の種類のハーフトラックは重砲の牽引車なんですが,日本軍では重砲の牽引車は最初から装軌車でした.
戦車師団向けにこんなのも有りますが,
http://earth.endless.ne.jp/users/mac0115/nihonngunnnosennsya6.html
歩兵を戦車に随伴させる為の車輌ですので,捜索連隊に偵察用の戦車があるだけの歩兵師団に配備しても無駄になるだけでしょう.
【質問】
戦前の日本は,「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」だったのではないでしょうか?
例えば,戦前の日本は世界第三位の海軍を保有しておりました.私の認識では通り軍艦と言うモノはその時代のハイテクの固まりだと思います.
もちろん日本海軍は戦争の直前まで英国の技術にかなり依存しておりましたが,開戦の時点では当時のハイテク兵器・空母(含む艦載機)においては英国すら凌駕していたと思います.艦艇や航空機と言う分野においては,日本はかなりの兵器先進国になっていたように思います.
で,前の質問で何が言いたかったか申しますと,「陸軍は(海軍に比べて)何で装備の近代化に取り組まなかったのでしょうか?」ということなのです.
日本のモータリゼーションが遅れていたことは承知しております.
しかしながら,陸軍主導で国策として軍用車輌の向上につながる産業の主導ができたのではないかと思うわけです.
ま,「輜重・輸卒が兵隊ならば,蝶々蜻蛉も鳥のうち」というざれ歌に表れているわけですが,日本海軍が空母の有効性を見ぬいたように,なんで帝国陸軍は兵の移動・装備の輸送の機械化に着目せんかったのかなぁ?という疑問です.
【回答】
「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」というのも,残念ながら事実ではありません.
エンジンや電子技術において遅れをとっていたのは周知の事実ですし,建造技術においても電気溶接をマスターできないままであったなど,当時の「工業先進国」とは大きな開きがあります.
潜水艦などは「潜水艦戦史」によれば,任務についただけで,戦闘にならなくとも満身創痍で帰ってきたと言います.
国家予算の相当部分をつぎ込んで,無理に無理を重ねたごく一部の分野が異常に突出していたことは事実ですが,全体を見るなら,工業先進国などとはとうてい呼べない状態だった,と見るのが公平なところだと思います.
それが事実か否かは,現在と当時の輸出品目の量と内訳を見れば一目瞭然のはずです.
「世界一流の分野も有するちょっと背伸びした発展途上国」という表現が適切と思われ.
軍用車輌の向上につながる産業の主導は,当時の現実として,それを可能にする土台が存在しなかったのだから仕方がなかった,と見るべきでしょう.
もし,国策として自動車生産を向上させようとしたなら,「どこからガソリンが湧いてくるのか? どこからタイヤゴムが湧いてくるのか? どこから鋼材が湧いてくるのか? どこから工作機器が湧いてくるのか? それらを買う金がどこから湧いてくるのか?」
その辺を先に解決しないといけないです.
さて,兵士の移動手段の機械化については,日本陸軍も積極的に取り組んでいました.
ただ,それより何より,GM,Fordの攻勢が凄まじく,国産の自動車産業がそれに太刀打ちできませんでした.
しかも,日本国内にも舶来信仰があり,国産品の育成が難しい部分もありました.
例えば,Fordは1925年に横浜で組み立てられていましたが,その組立台数は初年度3,500台,翌年8,600台となり,GMが大阪に進出した1927年には両社で12,000台,1928年には24,000台に達しています.円タク,ハイヤーなどが流行ったのは,この両社が進出してからです.
日本の自動車産業が本格的にスタートしたのは,1933年の豊田自動織機自動車部と,戸畑鋳物自動車部,自動車製造株式会社が設立されて以降ですから,既にスタートラインから出遅れています.
これでは日本の自動車産業が潰れてしまうと危機感を覚えた陸軍,商工省は,1935年8月に「自動車製造事業法」を制定し,750cc以上の自動車を年間3,000台以上生産する事業者は,政府の許可が必要となり,許可会社になれば,所得税の5年間の免除,資本増加,社債募集は商法の特例が認められ,生産した自動車は陸軍を始めとした官庁が優先的に買い上げると言うもので,但し,許可会社に成らなければ,外貨の使用が許可されず,材料,機械類の輸入が出来ないと言うものです.
これにより,豊田自動織機転じてトヨタ自動車は,G1/GA型トラックを先に開発しますし,戸畑鋳物自動車部と自動車製造が合併して成立した日産自動車は,グラハム・ページの生産設備を買い入れ,そこで開発していたトラックをニッサン80型として生産を開始し,三菱重工はディーゼルエンジン搭載のふそうバスを開発します.
これらは,三菱を除けば陸軍で使用されています.
(三菱は,この法律制定時に協力的ではなかったので,陸軍に睨まれ,ふそうは鉄道省のバスとして採用されています)
但し,僅か数年で本格的な自動車が作れるはずもなく,大陸ではどんなに古いタイプでも,GMとかFordの米国製が来ると,それを割り当てられた兵士は喜び,国産車を割り当てられた兵士は出発に際して水杯を交わす状況だったそうです.
国産トラックは,Overheatを手始めに,クランクシャフトのベアリング焼き付きによるエンジン破損,デファレンシャルギアの折損,サスペンションスプリングの折損など,戦場で故障した場合は致命的なもので,特にニッサン80型は,キャブオーバーだったために,エンジン上部に運転席があるので,前部重量が大きく,そのため前部のトレッド幅が大きくなっていました.
これは,前部の違うメーカーのトラックの轍を辿れず,泥濘地帯でストップすることもありました.
しかも,運転席が最前部にあるので狙撃されやすく,ピッチング,ローリングの影響を受ける上に,地雷を踏んだ場合,前輪の真上がキャビンなので,生命の危険が大きい.
更に,トラックの幅が米国規格よりも広くなっているので,中国の城郭市街地の城門を潜れず,必ず城外に駐車させねばならず,これがまた,戦場のニーズに合わないと言う悪循環でした.
1939年8月,統制経済の進行と共に,商工省,陸軍省,鉄道省などの関係部門とトヨタ,ニッサン,三菱と言ったメーカーによって,自動車技術委員会が誕生します.
この時に,軍部から品質向上と,性能改善が要求され,商工省から自動車の型式統制と部品共用化が求められています.
そして,1000〜1500ccはニッサン,2500ccはトヨタ,3500ccは両社,4500ccは,自動車工業と東京瓦斯電気工業自動車部が合併して出来た東京自動車を改称したヂーゼル自動車工業が担当します.
ヂーゼル自動車は特に陸軍の国策会社となっており,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各社が保有していたディーゼルエンジン車製造設備を結集させて,その生産増強を図っています.
当時の生産台数の予測は,1939年度で70,000〜75,000台(うちトヨタ,ニッサン各2万台),1940年度は,75,000台(同各25,000台),1941年度には80,000台(同各4万台)となっており,1941年度には国産化が達成できると言うものでした.
しかし,実際は,1939年に2万台,1940年22,000台の目標は達成できませんでした.
これは,日本のどの産業にも言えることですが,資材,部品の納期遅れ,増強設備の工作機械が為替管理強化で入手できなくなったこと,石炭,鉄鋼の統制も進み,原材料,エネルギーの確保も困難になったためでした.
戦争により,自動車統制会というので生産の統制が図られ,資源の入手がますます困難となり,メーカーも軍需産業に傾斜せざるを得ず,最終的に1943年末には,軍需省の下にある軍需会社化として自動車以外の生産も求められ,自動車会社としての歴史は一時頓挫する訳です.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
faq25f10.jpg
faq25f10b.jpg
(引用元:画像掲示板)
【質問】
歩兵偏重主義の日本陸軍に,優勝な機甲部隊があったとしたら,そしてドイツばりの電撃作戦を陸軍が使っていたとしたら,中国,そしてその後はソ連を屈服させることは可能だったでしょうか?
それと,それらの機動力を持つ戦車は,南洋の防衛線に役にたったと思いますか?
自分的には当時の日本には,「優秀な戦車」はあまり意味を持たなかったと思うんですけれど.中国にもロシアも有効ではなさそーに思うんですが.
あと,上陸してくるアメリカ軍にも.
【回答】
その世界水準の優秀な機甲部隊を作れるだけの国家財政的な余裕と国力があれば,確かに史実よりはまともな戦いが出来たと思います.
で,この手の質問の無意味さですが,戦力ってのは空から降って来る訳でもないし,満州の大地を掘り返して出てくるものでもありません.
自ら作り出さないと行けないし,その「作る」って行為には,金や技術や製造設備や資源がいるし,これは無限ではなく有限であって,戦車や装甲車以外に,軍艦や飛行機や諸々の全ての戦力とのバランスの上で,作れるだけのものが決まります.
だからこれを考慮しないで,
「欧米並みの優勝な機甲部隊があったら?」
と考えても無意味なんですよ,
現実にそんなもんを作る余裕が,日本に無かった場合にはです(実際になかったけど)
仮に当時の日本の国力を傾けて,そうだったとします.
他の産業・海軍・陸さんの他の方面から抜くしかないので,他の産業・海軍・陸さんの他の方面が成り立ちません.
ですから関東軍だけあっても,日中戦争にはなりますが,他がどうにもならないと思います.
電撃作戦といっても,馬が主力の日本軍だと,補給追いつかなさそうですし.
また,他の産業・海軍・陸さんの他の方面も充実,ということは,日本の産業に地力があって,貿易その他で他国からの物資も豊富だということを意味しますよね.
外交・兵器開発を支える科学そのもの・そのほか全てが,当時の現実よりずっと進んでいたと.
だったらそのまんまで順調だから,わざわざ戦争そのもの起こさないと思いますがいかがでしょうか?
とにかく金が無いから,立派な機甲師団もそいつを運用するインフラの整備も,当時の日本では夢のまた夢.
日中戦争の戦費に,脹れ上がる部隊を養うだけで精一杯だったんですから.
(それに飛行隊の方も整備しないといけないしね)
「八八艦隊の建造は日本の国家財政を破綻させる」
って言われましたけど,日本陸軍の一大機械化なんて,これと同じぐらいの大事業になるでしょう.
ですから,どうせなら
「何故,日本には世界水準の優勝な機甲部隊が育たなかったのか?」
と考えた方がよろしいかと思いますが.
そうじゃないと,ただの火葬戦記ネタにしかなりません.
軍事板,2000/07/29(土)〜07/31(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧陸軍は,機械化の必要性を重々承知しながらも,財政的な制約から断念したのでしょうか?
それとも,決定的な破局を迎えるその時まで,白兵主義の優位を確信していたのですか?
【回答】
最近は「財政的な制約から断念」説が主流です.
財政的理由から断念⇒精神主義的理由を後付け,という経緯.
元々,日露戦争までの日本陸軍は,メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて,ドイツ式火力主義,つまり,迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており,歩兵の白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流でした.
その萌芽は,既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています.
ちなみに,1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので,1898年に日清戦争を受けて改訂されたものも,ほぼそれに沿っていました.
で,日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては,
1. 重機関銃を陣地防御の要とする.
2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲,とくに15cm以上の榴弾砲,10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である.
と言うもので,各国は重機関銃,重砲の開発,大量配備に躍起となり,陸戦力の主力兵科となりました.
ところが,当事者の日本陸軍が白兵主義,砲兵軽視になるのは,
1.
砲弾,小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった.
開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾,砲弾の大量生産・備蓄と,開戦後の民間工場の動員による銃砲弾の大量生産をしたが,それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾を使用したが,これは開戦前の半年分の消費量,砲弾生産量の三ヶ月分であり,旅順第一次総攻撃,遼陽攻略で完全に欠乏,得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと.
2.
砲兵運用の根本的誤りで,平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと.
消費された野山砲弾の弾種比率は,榴弾1に対し,榴散弾6であり,戦場からは榴弾補給を要請されていたが,陸軍中央はこれを黙殺し,前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず,結果として歩兵の大量犠牲を必要としたため,歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした.
3.
ロシア陸軍は,フランスの影響を受けており,仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし,機を見て火力支援を得て相手に接近し,歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて,屡々白兵戦を挑んできたこと.
それに対する味方からの支援砲撃が,前述の通り効果が無く,ロシア兵の負傷率が比較的低い(ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで,首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が植え付けられたこと.
以上の三点があり,火力主義への不信感が芽生えました.
加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで,「日本式戦法」が模索され始めました.
そして,1909年の歩兵操典改訂,翌年の野砲兵操典,輜重兵操典,12年の騎兵操典へと進みます.
1898年の歩兵操典では,「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ,更に,「多くの場合に於て,近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は,突撃は敵兵既に去りたるか,若しくは僅に防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し,1909年の歩兵操典改正理由書では,「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なり,との主義を,改正操典にて明確に指示せられたり.
我国古来の戦闘法は白兵主義にして,白兵使用は我国人独特の妙技なり.
故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し,将来の戦闘に対する妙決なれは,此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています.
その後,第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で,ある程度の近代化を行ないます.
が,これは,日本固有の地理的条件により,ロシア帝国崩壊後は,純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと.
従って,欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく,陸軍内で対立が起きています.
近代化路線派は,宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら,日露戦争後に出てきた陸大出のエリート幕僚,但し,これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から,欧米流国家総力戦を志向する層まで様々な層の寄せ集めで,平時の少数精鋭・戦時の大動員,ある程度の機械化のみ一致しているだけでした.
現状維持派は,歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので,常時多兵,速戦即決,白兵突撃万能を説く保守派でした.
彼らは上原勇作,福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ,長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍の軍人,参謀本部第二部,隊付下級将校を中心に支持を集め,「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうことは出来ないと説き,近代化路線を「器械主義」,欧米模倣の「弊風」,「皇国の独自性の放棄」,「攻撃精神の衰退」,「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました.
現状維持派は,軍縮による首切りに動揺した下級将校層の不満を利用して,宇垣一茂らの中枢部批判を展開,後の出先軍における「下剋上」の火種を撒き散らし,その極端な白兵主義思想は,長く陸軍の作戦思想に多大な影響を与えました.
この路線・派閥対立の最中の1928年,統帥綱領が改定されます.
これには,
「統帥の本旨は常に戦力を充実し,巧に之を敵軍に指向して,其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚するにあり,蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に,妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然として精神的要素に存すること,古来渝る所なけれはなり」
況や帝国軍にありては,寡少の兵数不足資材を以て尚能く叙上各般の要求を充足せしむへき場合,尠少らさるに於いてをや」
と有り,更に,1928年以降の歩兵操典などの改定に於て,その改正理由書には,
「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し,益々忠君愛国の至誠を磨き,訓練の実行を重ね,上下互いに信頼し合って一体となり,かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して,如何なる強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」
と段々,精神主義が強調されていくようになります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,
p.31-35 & 109-113,抜粋要約)
日本陸軍の,ホイペットA型とルノーFT型戦車との合同演習
何かパースがオカシイ(笑)
よしぞうmaro' in mixi,2007年10月05日18:46
【質問】
日中戦争期に,陸軍の装備の近代化・機械化が進んだのは何故か?
【回答】
他国陸軍(とりわけソ連軍)との競争から機械化を進めた点もある(重砲部隊増加など)が,むしろ,部隊の水脹れ状態による将兵の質の低下を補うため,ある程度の機械化を進めなければ,戦力を維持できないという面があった.
したがって,その近代化・機械化は,世界の列強陸軍の大勢から見れば,それほどではなかった.
詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.173を参照.
【質問】
ノモンハン事件の後,その戦訓を生かして陸軍部隊の機械化が進んだりしなかったのか?
【回答】
1937年9月,日中戦争が勃発します.
これにより,平時編制のだった師団は,定員が12,000名から24,000名へと倍増します.
▼ 戦時編制の歩兵師団の中心は歩兵連隊で,連隊は3個大隊より成り,1個歩兵大隊は
本部,
4個歩兵中隊,
重機関銃を8挺装備する機関銃中隊,
九二式歩兵砲または山砲を2門4門装備する歩兵砲中隊
で編成されており,大隊連隊直轄部隊として歩兵砲中隊が1個と速射砲中隊が1個ありました.▲
また支援部隊として,師団司令部の他,
騎兵連隊(本部,騎兵2個中隊と重機関銃8挺装備の機関銃小隊),
砲兵連隊(本部,野砲大隊(改造三八式野砲4門装備の中隊3個と大隊段列)3個,
重砲大隊(本部,九一式10糎榴弾砲4門装備の中隊3個と大隊段列)1個,連隊段列),
工兵連隊(本部と2個中隊),師団通信隊,輜重兵連隊1個(本部と6個中隊),
衛生隊,
野戦病院4個,
兵器勤務隊
がありました.
例えば精鋭第3師団の場合,歩兵連隊の主要装備としては,
四一式山砲が4門ある他,
九四式37粍速射砲4門,
九二式歩兵砲6門,
重機関銃24挺.
砲兵連隊の装備としては,
改造三八式野砲36門,
九一式10糎榴弾砲12門
を保有していました.
第3師団の平時編制は11,858名,馬匹1,592頭で成されますが,これが戦時編制になると兵員は25,371名となり,馬匹は実に8,197頭に膨れあがります.
特に輜重兵連隊では,平時は2個中隊400名,馬匹300頭で編成されるのですが,戦時編制では6個中隊3,461名,馬匹は2,612頭まで拡大します.
因みに,改造三八式野砲は馬匹6頭で牽引する訳です.
此処までは完全に日露戦争と変わりません.
一方,ノモンハンで完膚無きまでに叩かれた第23師団ですが,編成当時の編成人員は兵員12,869名,馬匹2,390頭で編成されていました.
火砲は歩兵連隊に,
速射砲12門,
山砲12門,
野砲36門
となっており,第3師団に比べると著しく劣ります.
この弱体化を補うのが自動車であり,
師団司令部に乗用車3台,トラック5台,
師団捜索隊には軽装甲車5両,
輜重兵連隊では乗用車4台,トラック45台,
師団兵器勤務隊では小型自動車1台にトラック8台
など可成り自動車化が進みました.
ノモンハン正面に置かれた際には,師団内に歩兵連隊が5個あり,安岡支隊の戦車部隊を加えるとほぼ2個師団相当の兵力となっていました.
更に,自動車2個中隊と,飛行部隊が加わります.
第3師団に比べると,先ず,砲兵装備は改造三八式野砲であり,重砲も三八式12糎榴弾砲と明治時代の装備です.
一方,捜索連隊は,乗馬中隊と装甲車中隊で編成され,全体では兵員220名,軽装甲車12輌に増強されており,ある程度の機甲化が為された事が伺えます.
因みに,第3師団の騎兵連隊は452名で馬匹429頭が依然として第一線で活躍していました.
輜重兵は,第3師団が完全輓馬編成なのに対し,第23師団では輓馬中隊と自動車中隊で編成されており,その中隊に配備されたトラックは400台に上っていました.
安岡支隊の基幹は戦車第3連隊と戦車第4連隊で構成され,戦車第3連隊は兵員376名,2個中隊編成で,
八九式中戦車(乙)26輌,
九七式中戦車4輌,
九四式軽装甲車7輌,
九七式軽装甲車4輌
で編成.
戦車第4連隊は兵員565名,戦車3個中隊に予備1個中隊+連隊段列構成で,中心は
九五式軽戦車35輌,
これに八九式中戦車(甲)8輌,
九四式軽装甲車3輌
で構成されていました.
これだけ自動車化されていたのですが,ソ連の方が機械化の程度は一歩先を行っており,更に砲の射程距離と弾薬の不足は致命的で,全滅寸前まで叩かれた訳です.
その復活の過程で,更に自動車化が徹底されます.
編成当初,馬匹2,390頭もいたのが,1941年3月時点になると,兵員12,605名に対し,馬匹は僅か691頭で,その大部分は歩兵連隊砲の輓馬編成でした.
野砲兵第23連隊は,編成当初兵員1,745名,馬匹1,259頭だったのですが,1941年3月時点では,兵員は1,795名と変わりませんが,馬匹はゼロになっています.
その編成は,1個大隊8門の九○式機動野砲が3個大隊で24門,残り1個大隊は2個中隊編成で,九六式15糎榴弾砲が1個中隊に4門となっていました.
これら野砲は,自動車で完全に牽引され,特に重砲大隊には6トン牽引車13輌が配備されていました.
捜索連隊も編成当初の兵員319名,馬匹185頭で,二刀流の編成だったのが,1941年3月には兵員314名に軽装甲車5輌,乗用車6台,トラック30台の編成となっています.
更に新設されたのが,師団戦車隊で,九五式軽戦車15輌を装備していたり.
一番変わったのが,輜重兵連隊でした.
編成当初のそれは兵員370名,馬匹113頭で,乗用車4台,トラック45台でそれを補完していました.
1941年3月になると,兵員は522名に増強され,馬匹はゼロとなりました.
その代り,連隊本部には乗用車3台とトラック10台,1個中隊が指揮自動車1台,乗用車3台,トラック45台で,これが2個中隊編成ですから,輜重兵連隊にはトラックが100台ある訳です.
材料廠ですら,乗用車1台,トラック10台,軽修理自動車2台を保有しており,機動性が向上していました.
もし日本が日中戦争の泥沼に突っ込まなかったら,米国並みの自動車化師団を幾つも編成出来ていたかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年01月31日22:13
※2008/6/15,米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27)を参照して改訂
▼
鋲打の丸い砲塔が,いかにも日本戦車を思わせて心和みます(笑)
3色迷彩のムラが刷毛塗りの様に見えますが,どうでしょう.
よしぞう(maro') in mixi,2007年02月17日23:47
▲
【質問】
旧日本軍が仮に質量共にドイツ並みぐらい?の機甲・砲・自動化歩兵を揃えられる環境にある場合,日本の陸戦ドクトリンは肉弾戦術からどう発展していたと考えられますか?
【回答】
充実したトラックで補給が円滑化,展開速度が向上,国内産業が充実.
こんなところじゃね?
少なくともドイツのような電撃戦ドクトリンは生まれず,出来上がる戦車は「より完璧なチハ」以外の何ものでもないと思う.
相手国の湾口の能力に縛られてる限り,重戦車路線はとりづらいだろうし,ドイツ程度の能力を持つと仮定したぐらいの日本では,アメリカの様にドーザーで力任せに環境整えるのは無理だろう.
それに海兵隊の様に大規模な水陸両用作戦ドクトリンを模索する下地も戦訓も必要性もないんだし.
ただし,電撃戦が現れた時点で日本も戦車戦術は研究していたから,必ずしも歩兵支援のみに留まった戦術に固執するとは限らない.
日本が戦車使わなかったのは,単に地形の関係だしね.
……機甲による迂回浸透というのが一番考えられるかな?
モッティ戦術の攻勢版みたいな.
あるいは,普通の現代陸戦みたいな感じになるんじゃないかな.
機甲を先頭に置き,両翼を自動化歩兵にした傘型の中隊みたいなのが出来て,火砲支援の元で敵の陣地に全戦線で素早く浸透していく,みたいな.
ただ現代戦と違って,歩兵の全てを自動化出来るわけじゃない以上,機甲と歩兵はどうしても等速で進軍出来ない.
それを機甲単独の突破と脆弱点攻撃,反転包囲で補ったのが電撃戦.
大量の機甲による圧倒的な一点突撃で,敵の脆弱点まで轢いちまおうってのが縦深攻撃.
で,これだと機甲が孤立して各個撃破されかねないから,じゃあ長い戦線と,そこに張り付けた歩兵による攻撃で,敵の戦力を拘束しちまおうってのが人海戦術.
圧倒的な火力制圧で,敵の陣地をズタボロにしてから進もうぜってのがエアランドバトル.
注意すべきなのは,これらのドクトリンは「どの要素を重視するか」で分かれてるだけで,出来れば全てが揃っているのが一番だって事な.
で,旧日本軍の場合,機甲が揃えられない,揃えても意味ないから,近代陸戦の基礎である下士官に自由な選択肢を与え,下士官を高度に教育するってのを重視した訳.
少なくとも俺の理解じゃそんな感じだ.
とりあえず日本軍の浸透戦術についてはこの辺がよくまとまってるかな.
http://ww1.m78.com/topix-2/%82%94%82%88%82%85%20battle%20of%20shanghai.html
少なくとも日本の国力の範囲では,火力も兵器もあれで十分だったんだろうな.
アメリカなんて規格外の敵と戦わなきゃ…
それ以前に日中戦争が起きなきゃ質重視のままで…
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
最近入手した,戦時中の児童向け軍事雑誌『機械化』16号(昭和17年3月号)
最近,小松崎茂病が進んで,こっちの世界まで来ています(爆
この雑誌は少年誌にも関わらず,曰く「潜水と潜水艦の科学」,曰く「戦車の防弾力」,曰く「空中戦と雲」など随分と色々な軍事情報を判り易く解説いており,小松崎先生も「無限軌道の科学」で挿し絵を描いていました.
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月28日02:19
▲
【質問】
では,純粋に機動力の付加を目標に機甲師団仕様にしていくのが一番自然な発展,という事でいいのでしょうか?
【回答】
別項読むと,戦車師団抜きの自動車化歩兵師団がぼこぼこ誕生してたっぽいな.
で,まるっきり浅い知見での妄想になるけど…….
実は日本もそれなりに機械化・自動車化に力入れてたし,対中・対米戦もなく,大陸での運用前提で純粋に日本の戦闘ドクトリンが発展していったとしたら,重戦車の大量運用は難しいだろうから,早い段階で機械化・歩兵戦闘車みたいなのが導入されてたり,戦闘ヘリの研究・導入にも積極的だったりするんじゃないか?という気はする.
チハからして歩兵支援用だし.
ソビエトの重戦車に対抗して火力を補う為に飛行隊は対地・対戦車攻撃に力入れたりとか…
電撃戦というか限定エアランドバトルみたいな感じになるんじゃないかなぁ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 【質問】
日本軍の使用した牽引車の種類は?
【回答】
ホルト5トン牽引車
米国製.
大正8年に輸入.
三八式10センチ加農砲牽引用.
12年式3トン牽引車
別名50馬力牽引自動貨車.
大阪砲兵工廠製の国産第一号装軌車.
故障頻発.
九二式5トン牽引車
イケ.
90式10センチ加農砲牽引用.
九二式8トン牽引車
ニク.
ガソリン・エンジンの甲型とディーゼルの乙型あり.
15センチ加農砲牽引用.
九四式4トン牽引車
ヨケ.
独立混成旅団の野砲連隊に支給された90式機動野砲牽引用.
機動榴弾砲(九一式機動10cm榴弾砲)も同じだと思います.
九二式重装甲車と共用化.
カタログ・スペック40km/hだが,これで走ると壊れる.
九五式13トン牽引車
ホフ.
日本陸軍最大の牽引車.
96式15センチ加農砲などの野戦重砲牽引用.
これもエンジンの別で甲乙あり.
九八式4トン牽引車
シケ.
94式の後継.
機動火砲の高速牽引用.
支給先は94式と同じ.
九五式軽戦車と部品共用.
九八式6トン牽引車
ロケ.
92式の後継.
96式15センチ榴弾砲などの野戦重砲牽引用.
上述の九二式10cm加農砲も,ロケ車を使用しています.
九五式軽戦車と部品共用.
信頼性が高く,戦後も10年ほど使用.
九八式機動軽牽引車
ロニ.
ロケの軽砲高速牽引仕様.
ギア比が異なる.
一部はゴムパッド履帯装着.
九八式牽引自動貨車
コヒ.
ハーフトラック・タイプの高射砲牽引車.
3トン小型トラクター
飛行場整備用などに生産.
試製重牽引車
チケ.
自重16トンと,制式化されれば最大の牽引車だった.
その他の試製牽引車
・ハニ 昭和20年に中型牽引車として試作されたというが不明.
・不明重牽引車.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
機動速射砲(一式機動47mm砲)は自動貨車(トラック)を使用したようです.
九五式十三d牽引車を用いて九六式24cm榴弾砲を牽引した場合,12km/hでの牽引が可能でした.
七年式30cm榴弾砲を牽引すると,牽引速度は時速5キロとのこと.
また,九二式五d牽引車で九六式15cm榴弾砲を牽引した場合は,12km/h程度が可能だったとのことです.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE(黄文字部分)
【質問】
日本軍の自走砲の種類は?
【回答】
試製10センチ自走砲
九五式重戦車を改装.
加農砲.
ジロ車
九五式重戦車改造.
10センチ加農砲搭載自走砲.
ギト
20mm機銃を積んだ試作対空自走砲.
ソト
九七式軽装甲車の砲塔を取っ払って,その外に速射砲を積んだ化け物.
ソト
20mm双連機銃を積んだ試作対空自走砲.
短12センチ自走砲
海軍がチハに,砲塔式に短12センチ砲を積んだもの.
旧式砲をソードオフ.
そこそこ作られた.
12センチ自走砲
海軍がチハに露天式に12センチ砲を積んだもの.
旋回可能だけど,たぶん横向いて撃ったらこける.
試製四式重迫撃砲
ハト.
四式中型装軌貨車に30センチ迫撃砲を搭載.
4両試作.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本陸軍における自走砲と砲戦車の違いが分かりません.
【回答】
砲戦車 中戦車,支援の為の強力な砲を持った車両
自走砲 砲兵の自走化
一式砲戦車については,オープン・トップという見かけに騙されないように.
あれ実は戦闘室前面の装甲厚だけ見れば,一式戦車や三式戦車と変わらないのです.明らかに自走砲より,積極的に前に出ていく性質の物と言えます.
ただし,M3軽戦車あたりとの対決を想定した「前へ出ていく」です.
実戦はM4中戦車とやる羽目になったので,待ち伏せになったんですが.
二式砲戦車は屋根(と砲塔)付き自走砲なんですが,形態からか戦車の設計科に設計させたので,砲戦車に分類したと言われています.
しかも後に,戦車戦用の弾種も用意するつもりだったとか.
昭和14年頃の「国軍戦車の体系」にも,砲戦車の構想として
「特に攻撃力を強大にし中戦車の為に敵対戦車砲の制圧並び対戦車戦闘に任ず」
とあります.
昭和18年になると
「その強火力,強装甲を以て対重戦車火力戦の中核となるものにして(略)」
となっています.
学研の歴史群像太平洋戦争シリーズ34 「戦車と砲戦車」に,この辺りが詳しく載っています.
試製5式47mm自走砲「ホル」
(画像掲示板より引用)
【質問】
日本陸軍では自走砲って砲戦車って呼んでたの?
なら対空自走砲って対空砲戦車になるの?
【回答】
対空自走砲は普通に「対空自走砲」と呼んでいた.
略称は”ソキ(双(ソウ)連機関(キ)砲)”とか”タキ(単(タン)装機関(キ)砲)”とか.
そもそも,「砲戦車」って言い方自体が,砲兵科と機甲科の縄張り争いから出たものなので,砲兵科しか装備しなかったであろう対空自走砲に,「砲戦車」の名はつかないであろう.
【質問】
日本の水陸両用車輌の種類は?
【回答】
試製水陸両用戦車AMP
ハーフトラック式の水陸両用戦車.
水上航行時は逆走する.
試作のみ.
SRイ号
試作水陸両用戦車.
ジェット推進方式を採用という画期的構造.
SRロ号
試作水陸両用戦車.
SRイ号の姉妹車輌.
スクリュー推進方式.
SRU
試作水陸両用戦車.
九二式重装甲車をベースに開発.
実戦試験に投入か.
SRV
試作水陸両用戦車.
同じく九二式重装甲車の技術を利用.
実戦試験に投入?
特二式内火艇
九五式軽戦車の資材を流用して作った水陸両用戦車.
陸に上がった河童.
クェゼリンで初陣を迎えて以後,太平洋各地に展開して壊滅.
特三式内火艇
一式中戦車相当の水陸両用戦車.
少数生産.
実戦は無し.
特四式内火艇
和製LVT.
攻撃用に使える代物じゃないのに,魚雷を抱かせて渡航を計画.
少数が戦地に送られる途中で海没.
特五式内火艇
計画のみ.
47mm砲を固定装備に,25mm機銃を旋回砲塔.
どうせ戦車に勝てないのなら的?
カホ
九五式軽戦車用の水上航行アタッチメント.
試作のみ.
スキ
水陸両用自動貨車.
日本版DUCK.
生産数約200両.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍の装輪装甲車の種類は?
【回答】
オースチン装甲車
イギリス製.
少数が輸入されシベリア出兵に参加.
双砲塔に機銃.
ウーズレー装甲車
原型車はイギリス製で,石川島自動車で装甲車化.
少数輸入され満州で使用.
クロスレイ装甲車
イギリス製.
陸海軍で使用.
上海事変で活躍.
ルノー装甲車
ルノー製乗用車を改装した簡易装甲車.
その他,多様な簡易装甲車があるが省略.
ちよだ装甲車
正式名称不明.
ちよだ6輪自動貨車ベース.
陸戦隊で使用.
報国1号ほか.
スミダ装甲車
正式名称不明.
スミダ試製九三式乗用車の発展型とも.海外では九二式とも.
陸戦隊.
九一式広軌牽引車
スミダ自動貨車ベースに銃塔装着.
名前のとおりタイヤ交換で,鉄道軌道上も走行可能.
軍事板
青文字:加筆改修部分
岡山の特別大演習に出動した,陸軍の星章付きのオースチン装甲自動車絵葉書
よしぞうmaro' in mixi,2007年09月15日21:50
オースチン装甲自動車(奥)とルノーFT-17戦車
こうした観音開きのフロントハッチを見ると,装甲の薄さが判ります
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月16日01:37
【質問】
なんかの写真で,中国の民家に火炎放射攻撃をかける日本陸軍軽装甲車ってのを見たんですけど,実際にこういった改造はされていたんですか?
【回答】
多分,件の宣伝写真のことだろうな.
あれ,嘘だから.
そもそも日本軍の軽戦車や重装甲車(豆戦車)では,火炎放射器は積むことはまずない.
馬力に余力がないため,砲はそのままでさらに追加で火炎放射器を搭載するには,燃料搭載慮量があまりに少なく実用に堪えないからだ.
日本軍の軽戦車や豆戦車は,本当に非力なんで.
(あの写真は「何処に燃料を搭載しんるんだよ(笑)」ってレベルだが)
実際に火炎放射器を搭載している装甲作業機は,中戦車ベースで砲塔は取っ払ってる.
米軍が多用した火炎放射戦車は,さらに大型のM4.
まあ,民家に放火なんぞ歩兵がやればいい話で,貧乏日本軍がそんな酔狂の為に機材と燃料の無駄使いをするとは思えん.
だいたい民家に火を放つのは,どちらかというと中国軍の清野作戦(焦土作戦)だしな.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
パスタ野郎のCV33火炎放射戦車仕様だって,背中にでかいドラム缶背負ってるしな.
映画「ウインド・トーカーズ」みたいに被弾したら,火達磨になるんか?アレ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
この写真なのですが,石川島製作所の90式6輪装甲自動車『報国号』という説明がなされていました.
ですが,この90式6輪装甲自動車なるものが,検索では一切引っかかりません.
「90式6輪装甲車」でも「90式装甲車」でもダメでした.
どなたかご存知の方がおられましたら,詳細をお教え願えれば幸いです.
消印所沢 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
2009年07月07日 22:25
【回答】
ワールドフォトプレスの『日本陸軍兵器集』(1979.10)では,「報国号装甲車」の名前で,同じ車両と思しき車両が載ってます.
六輪装甲車で,日章旗の塗装あり.
説明によれば,(p166より)
――――――
昭和7年に上海事変に出兵した海軍陸戦隊が使用した装甲車で,英製と思われる.
国民の献納金をもって購入されたため,報国号1号車,同二号車,同三号車と,三両が実戦に使用された.
当時の価格で25000円で,この装甲車を手本にして91式装甲車が開発された.
――――――以上要約終わり.
たぶん,90式,91式というのは間違いで,海軍で使われた九二式六輪装甲車だと思います.
そして,生産はされておらず,すべて輸入品だと思います.
「九二式六輪装甲車」ググルといくらかヒットするものの,肝心の写真は見つかりません.
ただ,「上海陸戦隊」という戦前の映画に,実車が登場するらしいです.
「石川島が製作した」というのは,たぶん間違いで,昭和3年に石川島造船が製作したウーズレイ装甲車と混同しているものと思われます.
極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
2009年07月07日 23:28
なお,上掲写真は,昭和12年の第二次上海事変後に上海で印刷された「上海戦線写真帖」から.
“敵の心胆を寒からしめた我が最前線に於ける陸戦隊○○軍の活動(8月20日)”とあり〔略〕ますが…
載せているのはどう見ても畳!
新手のスペースドアーマーでしょうか(笑)
それにしても即席とは言え,流石です.
日本海軍恐るべし(^^;
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月24日02:40
青文字:加筆改修部分
畳は断片防御に意外に効果があるようで,海軍艦艇でも機銃座周辺などに柔道用等の理由で,艦内にストックされていた畳が,断片防御用に配置されている例が知られています.
また,水をかければ火炎瓶対策にもなったと思います――車体上面に乗せてるのが,それっぽい――し,実際に海軍艦艇での使用時には,そうして被弾時に着火しないようにしていた模様です.
まさとし in mixi,2007年06月25日 00:17
【質問】
戦前の国産自動車開発の事が,詳しく書かれている本ってないでしょうか?
【回答】
三樹書房の『日本自動車史1・2』(佐々木烈著)とか,つい最近だと,グランプリ出版の『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』(桂木洋二著),
まぁ,桂木さんについては色々言われている人ですが….
それから,日本経済評論社の『鉄道車輌工業と自動車工業』(坂上茂樹著).
日本自動車史は特に明治・大正の黎明期が詳しく,全般的なのは苦難の歴史〜,
戦前から戦中にかけてのものだと鉄道車輌工業〜が結構詳しく,鉄道車輌との対比について書かれて居ます.
こちらは,絶版で入手困難ですが,日本経済評論社の『日本のディーゼル自動車』(山岡茂樹著)と,日本経済評論社の『伊藤正男 トップエンジニアと仲間たち』坂上茂樹著が参考になるのでは?
前者は,日本のディーゼル自動車関係の開発史ですし,後者は,統制型ディーゼルエンジンを開発したエンジニアの伝記です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2009/08/30(日)
青文字:加筆改修部分
別冊モーターファン 「国産車100年の軌跡」 三栄書房
昭和53年と古い本で古本屋で買いましたが,戦前の自動車について詳細に書かれてます.
自動車雑誌別冊だけあって,写真多数.
軍事板,2009/08/30(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前・戦中のいすゞ自動車について教えてください.
【回答】
1929年(昭和4),東京石川島造船所(現IHI)の自動車部門が,株式会社石川島自動車製造所として独立したのが,その始まり.
1933年(昭和8),ダット自動車製造株式会社と合併して自動車工業株式会社となり,
1937年(昭和12)には,東京瓦斯電気工業株式会社と合併し,東京自動車工業株式会社と改称.
1941年(昭和16)には,ヂーゼル自動車工業株式会社と改称し,太平洋戦争直前から戦時中にかけ,大型車両とこれに搭載する高速ディーゼルエンジンの分野で,国策企業として開発をリードした.
1949年(昭和24),いすゞ自動車株式会社と改称して現在に至る.
ちなみに日野自動車は1942年,旧瓦斯電自動車部の人材が東京自動車工業から東京瓦斯電気工業に復帰して,日野重工業が分社したのが始まり.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/いすゞ自動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/日野自動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京瓦斯電気工業
【ぐんじさんぎょう】,2011/02/19 21:20
を加筆改修
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月09日02:32
【質問】
戦前にも自動車はたくさんありましたよね?
国産のトラックやバスなんかは,戦地の輸送用には役に立たないんですか?
【回答】
バスはさすがになかったと思いますが,トラックはもちろん使われてますよ.
トラックを大量に配備して,進撃速度を高めた部隊のことを「自動車化部隊」などと言います.
日本の例では,例えば満州事変の熱河作戦で大々的に(つーても百数十両)のトラックを効果的に用いた例が,『歴史群像2009.2』に載っているので,よかったらバックナンバーを探してみてください.
んで,国産トラックはとても品質が悪く,すぐ故障したのが辛かった.
そして太平洋戦争は小島の取り合い,大きな島もジャングルだらけで,トラックはあまり活躍できない.
石油と整備部品の供給もおぼつかない,ということになりました.
辛いのぅ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍のその他の支援車輌の種類は?
【回答】
100式挺進観測車
九四式軽装甲車ベースの砲兵観測車.
1式挺進観測車
九八式装甲運搬車発展の砲兵観測車.
装甲作業機甲
万能工兵車輌.
十数両生産.
装甲作業機乙
万能工兵車輌.
8両生産.
空冷ディーゼル.
装甲作業機丙
万能工兵車輌.
流体変速機仕様の試作車.
装甲作業機丁
エンジン換装により高速化.
しかし八九式中戦車が基本なので29km/h.
生産数20機.
装甲作業機戊
機能を限定して実用性を高めた最終型.
それでも架橋・火炎放射・地雷除去・トーチカ爆破兼用.
架橋機材はカタパルト式.
生産数77機.
TG機
チハベースの架橋車.
部隊随伴可能に.
セリ車
チハベースの戦車回収車.
伐開機1号型
八九式中戦車流用.
可動式衝角で森林を切り開くはず.
伐開機ホK
チハベースのもの.
ニューギニアにも進出.
伐掃機
伐開機の支援車輌.
倒木を除去.
潜行掘壕機SK
チハベースの特殊ブルドーザー.
たぶんエンジンが燃えちゃう.
機材運搬車KU
装甲作業機のアタッチメント輸送車.
チユ
チハにマインローラーをつけた地雷処理車.
フセ車
軽装甲車で牽引する消毒剤散布車輌.
フサ
軽装甲車で牽引する毒ガス散布車.
九五式野戦力作車
リキ.
戦車回収・整備用の装甲車輌.
少数生産.
TB器
湿地用偵察車.2人乗り.
▼九七式植柱車
九四式軽装甲車ベースの電信柱設置機.
九七式延線車
九四式軽装甲車ベースの有線通信線設置機.
気球係留車
九四式軽装甲車ベースの弾着観測用気球の係留車.
マルゴ車
九四式軽装甲車ベースの皇族避難用装甲車.
別に装甲兵車改装のものも存在.
九七式小作業機(甲)
い号.有線誘導式の鉄条網破壊用の爆薬筒運搬車.
「い」は有線(いうせん)の頭文字.
九七式小作業機(乙)
い号.ヤイ号.
有線誘導方式のトーチカ攻撃用の爆薬運搬車.
日本版ゴリアテ.▲
軍事板,2008/10/28(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍が鹵獲した装輪装甲車の種類は?
【回答】
FAI装甲車
ソ連製.
日本側ではフォード四輪装甲車と呼称.
張鼓峰事件などで鹵獲.
BA-20装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
BA-10装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
BA-3装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
靖国神社に展示.
BA-6装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
コムソモーレツ装甲牽引車
ソ連製.
機銃装備の装軌式小型装甲牽引車.
豆戦車.
操縦席は装甲されているが,砲員は車外乗車.
ノモンハンで鹵獲.
Sd.Kfz.221 or 222 or 223
ドイツ製四輪装甲車.
国民党軍が使用中のものを鹵獲したというが詳細不明.
M3A1スカウト・カー
米国製四輪装甲偵察車.
フィリピンで鹵獲.
フィリピン騎兵部隊装備か,米軍装備かは不明.
M3兵員輸送車
米国製装甲ハーフトラック.
フィリピンで鹵獲.
M3対戦車自走砲
M3兵員輸送車をベースにした対戦車自走砲.
試作車名称T12.
フィリピンで鹵獲され,フィリピンの守備隊がルソン防衛戦で使用.
マーモン・ヘリントン装甲車
米国製装輪装甲車.
蘭印軍および英軍から多数鹵獲.
日本軍のほかインド国民軍に供給.
ダイムラー・ランチェスター・マーク2装甲車
イギリス製6輪装甲車.
マレー作戦で鹵獲.
ダイムラー・スカウトカー・ディンゴ
イギリス製の四輪装甲偵察車.
英軍のほか蘭軍からも鹵獲か.
その他:オランダ軍の現地改造装甲車OVAERVALWAGENいろいろ
・シボレー四輪大型装甲車
・ブラート四輪装甲車(下のAA)
鹵獲後,現地の守備隊で使用.
___
___ .___,,__ |__☆_|__
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(O∀O了 (,^ワ^)ノ,/☆ヾ γ___☆_ヾ
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( ( )___と_)_)/ |
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し し| ̄ O--つ/
白 | 丘百/((==ヾ
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γ___☆_ヾ γ___☆_ヾ /_☆_ヾ |-∞-|
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(__)_)iiii(__)_)iiiiiiiiiし`Jiiiiiiiiiiiiし`Jiiiiiiヽ__///iiiiiiiヽ__///
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦後,軍用車輌を改造して作られた民生用車輌には,どんなものがあるの?
【回答】
更正戦車
戦後に戦車を改装してブルドーザーにしたもの.
チハベースや九七式軽装甲車ベースなどある.
警視庁装甲車
チハの砲塔を撤去するなどして製作された装甲車.
チハ改造クレーン
チハの足回りを流用して製造されたクレーン作業車.
横浜港で昭和30年代まで活躍.
雪上バス
ハ号軽戦車を改装した雪上車で,客車を牽引.
試製装軌自動貨車TC
九二式重装甲車の足回りを流用して試作された.
軍事板
青文字:加筆改修部分
(写真は画像掲示板より引用)
【質問】
旧日本軍が使っていたバイクは,どんなものがありますか?
陸・海・憲兵等,どのものでもいいです.
【回答】
我が国で軍用バイクが初めてテストされたのは大正3年9月.
アメリカ製インディアン単気筒4馬力のモデルが,そのモデルです.
陸軍ではこのテストの結果をもとにして,大正4年にドグラスとトライアンフのモデルをテストし,自動二輪車の伝令用としての有用性を確認しています.
この後にハーレー・ダビットソン,ヘンダーソンなどのモデルを含めてテストした結果,陸軍はハーレー・ダビットソンの本格採用に踏み切りました.
日本内燃機で組み立てられた1930年型のモデルは,軍に採用されて93式自動二輪車となっています.
このころからハーレー・ダビットソンは日本国内に支店を設立し,三共と共同して昭和8年から,日本での製造に取り掛かりました.
そしてハーレー1934年型の国産型が製造されて「陸王」の最初のモデルとなり,陸軍ではこれを陸軍制式95式自動二輪車として採用しました.
このハーレー・ダビットソンと三共の合弁会社は,昭和11年に三共内燃機,さらに昭和12年に陸王内燃機と社名を変更しています.
この陸王のモデルに側車起動装置を付けて,後輪・側車の二輪駆動にしたのが97式側車付自動二輪車で,陸海軍の代表的なモデルとして陸王内燃機のほかに,東洋工業,岡本工業,日本内燃機などで製造されました.
これより先,昭和5年には日本自動車KK(後の日本内燃機)がBMWをサンプルにした,水平対向2サイクル1500CCのオートバイを作り,これが92式軍用側車として採用されています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2009/06/06(土)
青文字:加筆改修部分
▼ まとまった数の旧軍バイク,トラック写真を入手したので,今日はバイク写真の方をご紹介.
この97式側車付き自動二輪の写真の出所は同じ所で,ほぼ同じ昭和18年頃に撮られている皇紀2602年の日付等が散見出来ますが,まだこの時期に立ち襟服を着ているのは大陸の部隊だからでしょうか?
今見ても陸王ベースの車体はがっしりしていて,軍用バイクの風格が漂いますね.
オイルタンクのラインやサイドカーのデザインは,見ていて飽きない味があります.
こういうデザインは今の乗り物から失われて久しいので,また復活して欲しいものです.
faq110106bk.jpg
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よしぞうmaro' in mixi,2007年11月06日17:24
▲
【質問】
九七式側車付自動二輪車って何?
【回答】
1937年,すなわち皇紀2597年制式の日本陸軍のサイドカー.
米国ハーレーダビッドソン社の製品の民生用ライセンス生産品であった,三共内燃機製の車両「陸王」に改良を加えたもので,不整地走行性能を向上させるために単車(陸王)本体だけでなく,側車の車輪も駆動する,世界初の二輪駆動式サイドカーであるのが特徴.
陸軍のみならず海軍陸戦隊も本車を採用,支那事変,大東亜戦争等での諸戦線,および内地での伝令,斥候,輸送に幅広く使用された.
【参考ページ】
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/photo-rikuoh.htm
http://nabeck.web.fc2.com/rikuou.htm
http://waltermodel.com/?pid=11983539
http://www.hozen.org/bbs/19/7154/
http://0ash.sakura.ne.jp/bike/archives/2005/12/post_206.html
よしぞうmaro' in mixi,2007年07月15日00:17
faq110106bk4.jpg
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よしぞうmaro' in mixi,2007年11月06日17:24
【質問】
九七式側車付自動二輪車の性能緒元を教えてください.
【回答】
重量 500 Kg
全長 2.7 m
全幅 1.7 m
高さ 1.2 m
発動機 ガソリン・エンジン,1274cc,24 HP
(英ウィキペディアでは25 hp)
変速 前進3,後進1
速度 70 km/h
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Type_97_Motorcycle
http://www3.plala.or.jp/takihome/bike.htm
type-97-motorcycle-2 - BlueprintBox.com
九七式側車付自動二輪車
(type-97-motorcycle-2 - BlueprintBox.comより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/01/14 20:50
を加筆改修
満州事変当時の漫画絵葉書入手
ハーレータイプに装甲板を急造した当時写真のままを描いたもので,結構正確なイラストで驚かされました
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月06日17:24
【質問】
くろがね四起って何?
【回答】
「くろがね四起」こと,九五式小型乗用車は,昭和11〜20年の10年間にわたり,陸海軍の主力小型乗用車として使用された,軍用小型4輪駆動車.
「くろがね」は,日本内燃機のオート三輪車ブランドとして著名だった「くろがね」にちなむ.
当初は偵察・連絡用のオートバイに代わるものとして使われ,2人乗りだったが,その後の改修で,エンジンが1200ccから1400ccにアップし,座席は4席になった.
自衛隊の87式偵察警戒車の,遠い先祖?
【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki8/jidousha/jidousha.html
http://ss-bass.oops.jp/kuro2.html
http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?&key=100110011111&APage=12
http://waltermodel.com/?pid=11983539
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/toyotaAK10.htm
九五式小型乗用車
(http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki8/jidousha/jidousha.htmlより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/07/26 20:20
を加筆改修
連休中に静岡で行われていたのがタミヤフェア.
私は行けませんでしたが,マイミクのロアさんがレポートにもありましたが,販売の目玉の一つが,限定発売の1/48「95式小型乗用車くろがね四起」のキット.
これは!!!!
なんと,タミヤが日本軍ソフトスキンを!!!!
いやー,長生きはするものです(^^;
そこでロアさんに無理を言って,1個購入をお願いしていたのが,早くも届きました.
今回はどうもお手数をお掛けしました.
それにしても田宮社長の直筆サイン入り,ホワイトパッケージが素晴らしい!!
そしてキットを見て驚いたのですが,曲線や逆テーパーの多いコロッとした実車の雰囲気を良く再現している事.
マウスの様なお尻もプリティー(笑
ナンバープレートのみならず,ちゃんとグリルに付ける海軍用車輌用の錨マークか,陸軍用に☆を入れる円形プレートも,エッチングパーツで入っていて驚かされました,
いや,これは限定で出したら勿体無いでしょう.
それにしても,これは勿体無くて,ちょっと手をだしづらいですね…
そしてその内に,1/35でも出して欲しい物です.
やはり日本軍ソフトスキンは,日本のメーカーに出して貰わないと!
期待(妄想?)は膨らみます(笑
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月28日03:14
【質問】
日本軍は開戦直後にブルドーザーの存在を知り,陸,海軍が開発を発注したけれども,結局試作で終わったとありました.
ブルドーザーの何が難しいんでしょうか?
それとも,ただ単に軽視されてただけでしょうか?
【回答】
一応,戦前に朝鮮や満州にCaterpillarのBulldozerが少数が輸入されて,建築現場で使われていましたし,1940年頃から陸軍が小松に命じて試作をしていたので,全く存在を知らなかったと言う訳ではありません.
但し,北満湿地帯での道路建設用機械と認識してしまったため,これは使えないと早々に試作を中止してしまいました.
南方での飛行場設営に思いが至らなかった訳で.
そして,次いで海軍が南方基地設置用建設機械として,ブルドーザーを同じく小松に発注しました.
こうして作られた小松一型は,牽引車に油圧式ドーザーを付けた代物で,本格的なものでもなく,最初に作られた試作と増加試作6両はアッツ島に送られましたが,到着後に守備隊が玉砕して行方不明になりました.
次いで,陸軍が航空基地整備用ブルドーザーの試作を小松に指令(また此処でも陸海軍の対立弊害が出てくるわけで)し,小松は今度は1940年に試作した陸軍向け試作車を基に,海軍のものと同じ手法で,ブルドーザーを試作しました.
しかし,これは効率が悪く,米国のものに比べると劣っていたので,Caterpillarを参考に,よりブルドーザーらしくしたのが1944年の試作車です.
但し,資源不足で,1両しかできませんでした.
特に日本では油圧のシーリングの問題が大きく,なかなか油圧式ドーザーを動かすのに苦労したみたいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
▼ ちなみにコマツ・テクノセンタ(静岡県)に展示されている現存機は,戦中フィリピンで稼働し,終戦後,米国の接収で海中に投棄されたが,のちに引き揚げられ,オーストラリアの農場で使用されていたものです.
http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_018.html
つまり海に投棄して,引き上げて戦後20年ぐらいは使える実用性はありました
あとは,メーカーごとの差や個体差がありますが メンテナンスや燃料の問題が大きいです.
何よりも,現地に送る途中での海没(本体や・パーツや操縦者・燃料・潤滑油)があり,あまり役に立てることができなかったというのがあります.
光文社文庫『技術兵の日米戦争』(タイトルうろ覚えなので間違っていたら陳謝)あたりに,ある程度の記述があったような.
【関連リンク】
http://www.kenki.jp/museum/bulldozer/bull1930-04.html
軍事板
青文字:加筆改修部分
小松1型均土機
(http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_018.htmlより引用)
▲
【質問】
「伐開機」って何?
【回答】
装軌車輌の前部に衝角を装着して樹木を押し倒しかき分けて進むという代物です.
「伐掃車」と言う伐開機が切り開いた道の倒木や根っこを片付ける車輌とセットで使用します.
本来は細長い通路を開設するための機材で,ビアク島に送られました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
※ 以前,似たような項目をどこかに載せたはずだが行方不明.
【質問】
▼↓は日本軍の試作戦車らしいのですが,この戦車についての情報を教えてください.
日本軍の無線操縦車輌について教えてください.
【回答】
●「長山号」ないし「ナガヤマ号」
1930年に長山大尉と言う人が個人的に発明したもの.▲
車体はフォードソン農耕用トラクターを改造したもので,後部の耕地車輪を履帯の起動輪として用いた.
車体はボイラー用鋼鈑で覆われ,操縦席の上にキューポラが付いていた.
操縦席は,前線までの輸送の為のもの.
陣地前で人が降りて,無線に切り替える.
車体に爆薬を装備し,無人で敵トーチカに突入して爆薬を設置して帰ってくる為の車輌.
要目;
全幅2.18m,
全長5.75m,
全高2.56m,
全備重量13トン.
V型ディーゼル・エンジン120馬力,
装甲厚10〜17mm.
▼http://www.interq.or.jp/sun/mm-kas/neta/neta-motomu.htm
http://japan.greyfalcon.us/NAGAYAMA.htm
http://blog.modernmechanix.com/2008/01/31/no-men-in-radio-operated-tank/▲
ナガヤマ号
(ttp://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/japan/Jap-Fordson-IonFonosch_small.jpgより引用)
▼ 【回答】
無線操縦車K-2.
1934年に陸軍科学研究所第一部が,無線誘導で八九式戦車を動かすのに成功.
その実験結果を基に,K-2と称したものを作り上げた.
残念ながら,こうしたものを生産するよりも人の命の方が安いので,試作品止まり.
●K-2
八九式中戦車を無人化したもの.
1934年に陸軍科学研究所第一部が,無線誘導で動かすのに成功.
●K-3
K-2の実績を基に作った車輌.
有線(いうせん)誘導の97式小作業機「い号」を大きくしたような平べったい車輌で,運転席前面のところだけ防盾が立ってる.
参考:い号
http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/japan/type97-miniengineering-yigo.jpg
無線操縦型は量産されなかったが,有線操縦式の「い号」は制式化されて量産.
これの運用を専門にした独立工兵第27連隊に集中配備されてる.
やたらに人命軽視を強調して,旧軍を馬鹿にするのは良くない.
なお,似たようなのだとドイツ軍のゴリアテがあるのは御承知の通り.▲
軍事板,2010/02/15(月)
&鮫島 in FAQ BBS,2010/3/6(土)(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の海軍陸戦隊が装備していた「機銃車」ってなんですか?
上海事変頃のは,各種の装輪装甲車のことみたいですけれど,太平洋戦争中に出てくるのも,同じものなんでしょうか?
【回答】
「機銃車」は装輪装甲車の事ではなく,海軍が陸軍に続いて購入した,Vickers
Armstrong Carden-Loyd Mk.VIbのことで,これは,「カ式機銃車」と呼ばれていました.
太平洋戦争初期にも,この車輌は使われていますので,同じものと言えるでしょう.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
戦時中までの御料車について教えてください.
【回答】
天皇家が最初に使った御料車は,1912年製ディムラーリムジンだったそうです.
1号御料車は,当時の英国国王KingGeorgeVの御料車と同型.
但し,皇室の色である溜色に塗装し,側面に十六花弁の菊の御紋章を付けたのもこれから始まっています.
このほかに2号御料車として,同じくディムラーのランドレー,これはちょっと小型ですが,天皇以外の皇族と外国からの賓客送迎用である貴賓車にはメルセデスのランドレー,お付きの人が乗る臣下車にはディムラーランドレーとフィアットランドレー2台,それに運搬車としてフィアット2台が購入されました.
ちなみに,これらを購入したのは,「鯰」こと大倉喜八郎だったりします.
1921年には木造ボディの車体は老朽化して,第3号,第4号御料車として,当時世界的に高級車としての名声を高めていた,1920年型ロールス・ロイスシルヴァー・ゴーストで,シャシーの価格は2,100ポンド(当時のオースチン・セブンが120ポンド)に,フーパー社でリムジンボディを架装しています.
このボディーが実に,2,425ポンドとシャシーより高かったり.
これは主に大正天皇の御料車として用いられましたが,御座所から段差無しに乗り降りできるよう,シートとルーフを日本で改造したそうです.
ところが,1923年の虎ノ門事件の結果,余りにも御上が無防備だと言うことで,この御料車に装甲板を付けることとなり,米国から板厚2mmの防弾鋼鈑を購入し,試作としてピアースアロウに取り付けてみたのですが,重量増で役に立たず,沙汰止みになり,1931年から1935年に掛けて7台が輸入されたメルセデス・Bベンツ770グローサー(1932年型4台,1934年型3台)に取って代わられました.
ちなみに,初代のディムラーは1932年,二代目のロールス・ロイスは1933年頃解体されますが,ロールス・ロイスのエンジンは,宮中吹上御所の緊急用水揚げポンプの動力源として戦争中も長らく使用されています.
また,ラジエター,ホイールは解体業者の手を経て民間に流れ,とある自動車マニアが保有していたそうです.
余談ですが,このラジエター,戦後,米海軍士官がグアムから持ち込んだ1926年型ロールス・ロイスを,銀座のドイツ料理屋ケテルスが購入したのですが,グアムで使っている時に塩害でラジエターがいかれ,代わりのものとして白羽の矢が立ったのが,元御料車のラジエターだったりします.
さて,三代目御料車のメルセデスは余りにも有名ですが,この同型車は,天皇家を始め,Hindenburg大統領,Sweden国王,Egypt国王,Bulgaria国王,Yugoslaviaの摂政,亡命中のKaiser
WillhelmII世,作曲家Richard Straussなどがご愛用の世界で117台しかない貴重なクルマだそうで.
量産されたのは1938年のW150/150II以降なので,このモデル,W07/W07Kは本当にPremiereなものでした.
天皇家の御料車のそれは,Supercharger無しエンジンに,4段型ギアボックスのもので,同型車の中には,ルーツ製Super
chargerを取り付けたエンジンに,ギアボックスはマイバッハ製6段(高低3段ずつ切り替えられる)のものもあるのですが,日本の路上では無用の長物と考えられたのでしょう.
ボディはジンデルフィンゲン工場製プルマン・リムジンで,リア・コンパートメントの内装は宮内庁支給の京都の西陣織でしつらえられています.
7台のうち2台は,陸軍工廠で,10mの至近距離から発射された機関銃弾に耐えることが可能な厚さ5mm以上の装甲板を,ボディパネル,ドアは元より,ボンネットパネルまで張り巡らしていました.
最も徹底的に成された車輌は,路面に敷設された地雷が爆発しても耐えられる様に強化され,床板は勿論,エンジン下部にも防弾鋼鈑が張られています.
更にガラスは厚みが優に15mmを超える防弾ガラスで覆われ,こうして重量は,標準的な770が2.7tになるのに対し,強化型は4.7tと戦車か装甲車かと言うくらいまで増加しました.
この重量に耐えるタイヤは,当初はContinentalを使っていたのですが,それが無くなると横浜ゴムに試作の命令が下り,4tの重量に耐え,釘を踏んでもパンクしないため,超肉厚カーカスと布入りシーラントを内張したチューブを用いた,特殊タイヤが開発され24本が納入されています.
このメルセデスは,空襲で焼失した1台を除き,残りは1969年まで使用されています.
後に2台は,富谷龍一氏の手によって,住江製作所がランドレーに改造し,全国行幸に使われましたが,その後この2台は部品取り用に解体され,1970年代初期に1932年型の最後の1台が解体,1971年にはダイムラー・ベンツからの要請で,1934年型が1台寄贈されていますが,未だ2台は宮内庁の車庫に眠っているそうです.
ちなみに,戦前はボディの溜色塗装は皇室専用色で,他のクルマに塗装するのを禁じられたのだとか.
また,戦争末期には,溜色のメルセデスは機銃掃射の的になるとの懸念から,三井本家が黒塗りの1937年型メルセデス500Nニュルンベルク・リムジンを献上し,これは内親王用などに使われていました.
ちなみに,この三井本家のメルセデスは,1936年,右翼によるテロが頻発していた当時,当時の総帥八郎右衛門の身を案じた三井家が特にドイツから輸入した装甲板付きのものだったり.
この他,非公式用の車輌としては,1920年に最初のディムラーリムジンが2台,第7,8号貴賓車として使用され始め,1921年には1920年型ディムラーオープンツアラーを1台購入しました.
1922年に裕仁親王の答礼で,PrinceofWalesが来日した際には,その為だけに,ロールス・ロイスから1920年型シルヴァーゴーストオープンツアラーを輸入しました.
(時代は下り,1975年にエリザベスII世女王が来日した際に,パレードに用いられたのは,キャデラック…orz)
実は,このオープンツアラーは,英国皇太子の来日には間に合わず,この貴賓車は,裕仁親王が国内や台湾に出かけられたときに使われていたそうです.
で,このクルマ,1925年に民間に払い下げられ,所有者を転々とし,オリジナルボディーは失われていますが,現存しているそうです.
1940年代の法律上の所有者は,ビルマ国カチン政府という訳のわからない代物で,その代表者名は日本女性だったとか.
お付きの人が乗る臣下車としては,まず,米国製のピアース・アロウの各モデルが使われていました.
今は消滅していますが,1920年代まで,米国の最高級車として君臨し,T型が300ドルの頃,4,850〜6,300ドルもしています.
また,ボディは箱型と幌型の二種類が用意され,季節によって載せ替えることもしていたようです.
ピアース・アロウが倒産し,消滅してからは,官公庁御用達のパッカード・スーパーエイト・リムジンが主に使われる様になります.
これは,1950年代まで使われ続けましたが,1960年代にメルセデス300シリーズに置き換えられ,国産車の充実と共に,トヨタセンチュリーとか日産プレジデントが主流となっています.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
これも御料車(?)
(画像掲示板より引用)
【質問】
ヒトラーが昭和天皇に贈ったベンツって,戦後どうなったんですか?
【回答】
Hitlerが送った訳ではなくて,1932年製が4台と1934年製のものが3台.
このうち2台は,陸軍工廠で装甲車化されている.
うち,1台は赤坂離宮にて空襲のため焼失.
生き残った6台の内,2台はランドレーに改造され,全国巡幸に使用された後,お蔵入りし,他の4台を維持するための部品取り用に保管され,解体.
4台のうち,1932年製の1台は1970年代初期に解体.
1934年製1台は,本家に返されて,StuttgartにあるBenzの自動車博物館に,白色のKaiser
Wilhelm II世 の使用したそれと共に展示され,残り2台は宮内庁で保管されている.
ちなみに戦時中,空襲で避難される天皇のため,三井家が1937年型500Nを寄贈している.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007/03/14(水)
ちなみに昔,「なるほどザ・ワールド」というTV番組に,
「アメリカの農家のおっさんが自家用車にしてる」
という話が出てたが,眠い人さんが参考にしたのと同じ資料を読む限り,昭和天皇のメルセデスは,シュトゥットガルトの1台を除いて門外不出.
明らかにこれはパチモンか,そうでないにしても昭和天皇は乗っていないと思われ.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,2007/03/14(水)
【質問】
戦後しばらくの間一世を風靡したオート三輪(三輪車)ですが,戦前,もしくは戦中に日本軍は制式採用してなかったのでしょうか?
なかなか使い勝手が良さそうだ,と思ったのですが,やっぱり路外性能がしょぼいからダメだったのでしょうか.
【回答】
準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.
戦前はオートバイのエンジンを輸入し,そのエンジンを用いて車体を作り上げるものが主流でした.
普及し始めたのは1925年頃からで,大阪東区のウエルビー商会が製造したウエルビー号から始まりました.
その後,3年で2社しかなかったメーカーが35社に迄増えています.
こうして市場が拡大していったのですが,所詮オートバイの亜種的な存在でした.
しかし,チェーンドライブ・片後輪駆動・バックギア無しでは使いづらく,シャフトを用いた後輪2輪駆動,バックギア付の機種が市場に出回り,初期のオートバイ亜種は駆逐されます.
これらは非常に高い技術を要するもので,弱小の企業では太刀打ちできません.
次いで,輸入のバイク用エンジンに代って,水冷の国産エンジンが登場します.
特に発動機製造(今のダイハツ)が嚆矢となり,次いで東洋工業(今のマツダ)がそれに続きます.
1933年のオート三輪登録台数は12,000台で小型車全体の保有台数の凡そ40%,その後,1937年には15,000台にまで達します.
購買力の小さな農業人口が80%を超えているような国で,この数字ですから十分に大きな生産台数だと思います.
ちなみに,車輌価格は1台当り700円〜1,500円で,平均価格が1,000円.
この時代,フォードが2,800円です.
シェア的には,発動機製造が30〜35%程度,東洋工業が20〜25%と,両社で市場の半分以上を占有し,残りを日本内燃機(くろがね),陸王内燃機,旭内燃機,帝国製鋲,水野鉄工所,兵庫モータースが団栗の背比べをしていました.
しかし,以後は戦時体制に組み込まれ,生産台数は減少しました.
ただ,軍事用は例外で,陸海軍共に内地や南方では重宝されています.
とは言え,野戦に於ける耐久性,不整地走行能力,機構的トラブルの問題と被弾時の措置に研究の要有りとして,いずれも準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.
戦時中は,前述の発動機製造,東洋工業,日本内燃機が指定工場となり,軍需,官需用にオート三輪を製造しており,他にも沢山の海千山千の群小メーカーが製造しています.
日本内燃機のニューエラ号は後に一式として制式化されており,水運搬車も作られました.
蛇足ですが,東洋工業は,松田製作所,日本兵器製造を興した松田重治郎・恒次親子が中心となった会社で,1920年に前身の東洋コルク工業に重治郎が取締役として迎えられ,翌年,社長となって実権を握ります.
この会社は,瓶の栓や,氷で冷やす冷蔵港の断熱材としてのコルクを製造していました.
1927年,コルク製造から機械事業に打って出て行こうと社名を東洋工業に変更します.
この転換で,海軍から兵器製造の発注があり,また,各企業に加工機械を売り込んでそれらが採用されます.
同時に,機械技術の当時の最高峰として考えられていた自動車製造に乗り出しますが,身の丈を考え,まずは,1926年にトーヨーコーギョー号を言うオートバイを作り,30台ほど生産します.
次いで,島津楢造氏を迎え,自社製エンジンを開発し,それを搭載したオート三輪を生産し始めます.
ただ,販売チャネルが無かったので,三菱商事と組んで,国内や国外に打って出ます.
ブラジルの軍に採用されたのはマツダ号です.
ついでに,マツダランプは,マツダ,東洋工業とは無関係です.
こちらのほうは,東芝の前身の一つの会社が作っていた電球のブランド名だったか,と.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
▼ 代休日は朝から所沢古書市を回り,その後カミさんと待ち合わせて美術展をハシゴした挙げ句に,地元へ戻ってシネコンへ.
今日はここで,映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』を鑑賞.
〔略〕
もう売り切れたのか,近所のシネコンにはあまりグッズはありませんでしたが,アラーキーさんも紹介していたボールペンのミゼット3輪がありました.
この出来が余りに良くて早速購入.
faq110206tr.jpg
faq110206tr2.jpg
faq110206tr3.jpg
いやー,この錆び感の塗装処理とデフォルムが良いですね.
このままミゼットだけでも飾りモノとして欲しい所です(^^;
よしぞう in mixi,2007年11月09日02:32
▲
【質問】
日本に徴用可能な自動車は何台あったのか?
【回答】
1935年10月末日現在の「全国自動車・自動自転車集計表」と言う統計があったり.
陸軍省が調査したもので,何故,陸軍省かというと,万一の有事の際,自動車を徴発して軍用に充てなければならないからで,これは,年度の自動車徴発規程の基礎資料となるものです.
で,これによると,1935年の日本の自動車の台数は….
四人乗乗用車 :営業用/316台,自家用/1,173台
五〜七人乗乗用車 :営業用/44,785台,自家用/5,323台
八人乗以上 :営業用/21,214台,自家用/104台
1t積未満トラック :営業用/783台,自家用/689台
1〜1.5t積トラック:営業用/6,464台,自家用/885台
1.5〜2t積トラック :営業用/22,900台,自家用/3,098台
2t積以上トラック :営業用/9,837台,自家用/864台
小型自動車・貨物自動車:営業用/276台,自家用/3,412台
自動自転車 :営業用,自家用合わせて16,684台
ちなみに,小型自動車・貨物自動車は,ダットサンとかAustinの事,自動自転車は,バイク,サイドカー,三輪車の事です.
このほか,全国にタンクローリーが214台,患者輸送自動車が57台ありました.
この資料には官庁用とか消防自動車は含んでいませんが,全国,つまり,内地,朝鮮,台湾,関東州,南洋諸島含めて,日本全土にある自動車の数は総数130,517台.
で,その大部分が,Ford,Chevroletの組立外車です.
内地では,東京府が28,875台,名古屋を含んだ愛知,岐阜,静岡の東海三県で11,313台,北海道,樺太,千島で3,567台だったりします.
流石にこれでは拙いと思ったのか,自動車製造事業法によって国産車を育成し,1941年には年間2万台の生産量を誇るまでになっています.
ちなみに,自動車製造事業法が制定されても,横浜Fordに関しては生き残っており,1937〜40年に掛けて自動車製造事業法の枠外で,7,800台のFordが生産され,満州に移出,日産の満州に於ける系列会社であった,満州同和自動車で同社製自動車として売られました.
特に,1940年のトラック1,200台は,そのまま関東軍に納品されたりしています.
でもって,この自動車を製造する際の部品で足りなくなったものは,独ソ開戦まで,ドイツ・フォードからシベリア鉄道経由で手に入れていて,本国のフォードは何ら関わりが無かった様です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
国産バス
(画像掲示板より引用)
【質問】
太平洋戦争中の日本の車両用ディーゼル,ガソリンエンジンの技術はどの程度のものだったんですか?
【回答】
ガソリンエンジンに関しては,外国製の模倣が主です.
例えば豊田はシボレーのエンジンを解体して模倣したものですし,日産はグラハム・ページの生産設備一切を購入していました.
(因みに,戦後でも,GMやフォード車のエンジンが故障したら,トヨタか日産の工場に行けば,取り敢ず合う部品があるから急場凌ぎに役に立つとまで言われています)
ダットサンも,フランスのベンジャミンと言う小型車のエンジンの模倣です.
東京自動車工業(いすゞ)のエンジンは,源流を辿れば英国のウーズレーに辿り着きます.
ディーゼルに関しては,その最初は三菱がスイスのザウラーから技術導入したものですし,日本ディゼル工業(鐘淵ディーゼル,後の日産ディーゼル)は,ドイツのユンカースから技術導入しており,そのエンジンをライセンス生産しています.
新潟鐵工所のディーゼルは内火艇用の転用で,性能は劣っていました.
新潟鐵工所のものは,後に鉄道車両用になりましたが,国鉄時代も使われ続け,化石化しており,後に分割民営化して大量の馘首が出た時,再就職に非常に難儀したそうです.
ヂーゼル自動車工業(後のいすゞ)のディーゼルは,試行錯誤を重ねた結果,水冷式予燃焼室式のエンジンを試作し,外国製のものに劣らない性能を示しています.
また,池貝鉄工所(後に小松製作所に吸収される)の製品も,渦流室式で,小型ディーゼルとしての性能は充分でした.
但し,これらのエンジン量産体制に関してはお寒い限りだったりしますが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前か戦中,統制型ディーゼルエンジン(一式戦車?)を潜水艦?でドイツに輸出した,とか.
数量等判りませんが,それほど技術的なものに見るべきものがあったのでしょうか?
【回答】
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta021a.htm
によれば,見るべきものはなかった模様.
以下引用.
統制型ディーゼルエンジン(一式戦車用)
ドイツに潜水艦で輸出されましたが...
日本の精密工業の水準がばれないようにヤスリ仕上げの無い部品を選別するのに苦労したそうで...
とても自慢できるようなものではありませんでした.
【質問】
戦前日本は,ガソリンエンジンに関しては外国製の模倣から抜けきれなかったが,ディーゼルエンジンでは一部世界レベルの開発能力を持つ企業もあったという事でしょうか?
同時期に陸軍が中心となって開発していた統制エンジンは,余り良く出来た物では無かったと聞きますが,やはりディーゼルエンジンでも世界水準とはそれなりの開きがあったんでしょうか?
【回答】
と言うか,ディーゼルエンジンでは独自に発展する余地が有った,と言う事です.
つまり,欧米の自動車に今からガソリンエンジンで太刀打ち出来はしないし,コスト的に太刀打ち出来ない.
一方でディーゼルエンジンは欧米でも発展途上であるが故に,日本が追いつく事は強ち不可能ではないと言う考えで各社が技術を競っていました.
ディーゼルエンジン開発の際,ベンツの予燃焼室式,MANの空気室式,クルップの空冷水平対向予燃焼室式,オーベルヘンスリーの蓄熱渦流室式,英国のドルマン・リカードの渦流室式を購入してテストしましたが,MAN以外のディーゼルには日本の技術者はさして感心していません.
製品を開発する際,当初は海外製品の模倣から始めますが,ほどなく,その考えでは成立しないことが判明し,予燃焼室式のエンジンを開発しています.
ここから発展したエンジンは,非常に堅牢且つ静粛で,陸軍向けの試作車輌に搭載したテストでは,試験官の「出発用意!」と言う号令でエンジンを掛けて待機していた所,試験官から,「おい,エンジンを掛けろ!」と怒鳴られたと言う逸話もあります.
因みに,予燃焼室式のエンジンは,本家であるドイツでも幾つか試作されていますが,本家ドイツでも統制型ディーゼルは,MAN空気室式が採用され,予燃焼室式のエンジンであるヘンシェルやフンボルトドイツ(KHD)は,大した性能ではなかったと言えます.
で,陸軍の統制式発動機に関しては,「武人の蛮用」に耐えなければ成りませんでした.
その統制式発動機開発前に,いすゞではDA20を開発していますが,これは,最大出力時の平均有効圧が5.802kg/cm^2と,戦時期の空冷ディーゼル中ずば抜けて高い値となっています.
これは完全に限界設計状態だった為,次の統制式DB50では,燃費に劣るものの,騒音も低く,出力が高く,機械的信頼性に富み,作りやすく,修理しやすい,日本の国情に良く合ったエンジンになりました.
特に,信頼性については非常に重視され,三菱の直噴式がトラブる様な,噴射ノズルにゴミが溜まろうが,噴口部が溶損しようが,兎に角運転は可能でした.
又,日本の粗悪な燃料でも充分に運転出来ています.
総じて,余り攻め込んだ設計は為されず,車輌,即ち,人員が生きて還ってくる信頼性を重視した設計でしたので,ある面では非常に甘いものでした.
統制式発動機はまた,空冷であり非常に大きなものでしたので,戦後は,より小さな4気筒又は6気筒の水冷式ディーゼルエンジンが利用されています.
但し,予燃焼室式の機構そのものは,殆ど改良されることなく,半世紀続いたGMのグレイマリン・ディーゼルと同様に,船舶用も含め44年間に渡って生産されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦時中,車輌に使われた代用燃料について教えてください.
【回答】
1940年の物資不足の頃から,色々な代用品が出現しました.
食べ物なんかもそうですし,工業製品たる客車だって,貨車に乗客を乗せた代用客車というのがあったり,教員資格のない,代用教員と言うのがいたり….
当然,「ガソリン一滴は血の一滴」なんてスローガンが叫ばれて,ガソリンの消費を抑えようと,色々工夫しています.
例えば,1939年1〜3月の西成線(今の大阪環状線西回り+桜島線で当時は非電化)では,平日1,400リットル,休日1,100リットルのガソリンが消費されていましたが,空燃比を希薄化したり,今のバスでも行われているアイドル・カット運転(これを手動で行った),その機関停止時に気化器からOverflowする燃料の回収,動車元空気だめへの空気充填を車庫で行う,変速操作運転の技能向上,2両編成の場合は,1両のみ機関を動かし,他の車輌は付随車とするなどを実施し,486リットルもの燃料を節約しています.
後,陸軍が中心となって,ガソリンに酒精を混入する実験が行われました.
が,酒精と言うのは,農産物(芋類)から採取されるものを主体としていた為,芋類の主流である甘藷の価格が高すぎたのが原因で,一旦頓挫し,1937年に復活し,4月に酒精専売法が施行されると共に,法律第39号「揮発油及アルコール混用法」が施行され,航空用以外の民需用ガソリンはエタノール混入ガソリンとしなければならない,と定められました(ちなみに世界で15番目).
これは,石油資源節約,航空用ガソリンの確保を目的としたためで,酒精の経済性は,ガソリン1に対し,軽油0.53,木炭1.22,薪0.94,天然ガス,都市ガス各0.72,アセチレンガス1.7,電気0.57に対し,酒精15.5と桁違いに悪かったりします.
しかし,これとて,エタノール生産が間に合わ(ぉぃ…)に,段階的に施行されることになり,1938年5月にガソリン総量の25%に5%,9月に25%に10%混入,1939年4月に50%に10%,10月からは70%に10%,1940年1月より全ガソリンに10%,11月以降15%,1941年には20%に引上げという施策計画が採られています.
実際には,酒精増産の進展で,1940年1月に15%混入が実施され,1942年2月からは,トラック用燃料として,7府県で単体酒精を使用するに至っています.
ところが,戦線の急拡大で,今度は医療用アルコール需要が急増し,燃料用に回すことが出来なくなり,1943年にこの「揮発油及アルコール混用法」は廃止されてしまいました.
では,ガソリンに変わる代用燃料とはどんなものがあったか?ですが,まず,発生炉ガス,これは木炭,薪,石炭を炉内で不完全燃焼させ,発生した一酸化炭素,窒素主成分のガスを燃料とするもので,木炭車というのが,それですね.
ちなみに,石炭利用の場合,国内炭では灰が冷えて蜂の巣状に固まる現象が多発したため,灰の融点が高い,山西省陽泉産出の陽泉炭に限定されています.
これ以外の石炭状物質としては,コークス,コーライト.
次いで,メタノールで,これは南大東島,台湾などでの砂糖黍搬出用,台湾総督府交通局鉄道部で使用例があります.
混入については,先述の通り.
後はカーバイトによるアセチレンガスで,トラック,三井鉱山神岡軌道などの産業用機関車に使用されました.
天然ガスについては,秋田の横荘,新潟の長岡,千葉の小湊,九十九里,滋賀の江若などで使用されています.
いずれも天然ガス田の産出地近辺でしか使用されず,燃料費的にも高価であり,ボンベなどの補給にも苦労しました.
さて,今までの炉は,バス・トラック用のものを内燃動車に転用したので,当然,大型車になると性能が不足する訳で,大型車には専用の炉を開発することになりました.
これは淡路島にあった淡路鉄道(今の淡路交通)が作ったもので,淡鉄式と呼ばれ,今までの2倍の容量を持つものでした.
性能的には,全線23.4kmを走ると,ガソリン動車の時間40.5分,表定速度34.2km/hに対し,46.5分,30.2km/hと矢張り落ち込んでいます.
ちなみに,往復の燃料消費は木炭50kgで,燃料費はガソリンに比べ30%増.
炉の耐用年数は短く設置費は2,165円,特に発生炉下部燃焼室は2年保つかどうか,と言われていました.
さて,その間,国鉄はどうだったのかと言いますと,1938年以降,白土式で木炭,コークスを,梁瀬(今のヤナセ自動車)式で,天然ガス,液化ガス,ガソリン・メタノール混用など各種の方法が試行錯誤されていますが,官尊民卑の倣いで,例によって民間の技術は採用されることなく,世界的にも例を見ない,蒸気機関車の燃焼後に煙突から排出される産業廃棄物,「シンダ」というものを採用します.
「シンダ」自体は炭素が主成分で,蒸気機関車から無尽蔵に出る(年間5万トン発生)ものですから,それを回収する機構を製作すれば,原料はタダで手に入った訳です.
しかし,これは全内燃動車に普及することなく(そりゃ,国鉄は蒸気機関車を運用していたのだから,必要になれば,蒸気機関車に動車を牽引させれば良いわけで),100輛程度の改造に終わりました.
今まではガソリン動車の話でしたが,ディーゼルの代燃化は結局戦後まで持ち越しとなりました.
ディーゼルの代燃化については,重油と天然ガス併用,代燃ガスを圧縮し,死点寸前に少量の重油を吹き込む重油着火方式,圧縮比を下げ,発火プラグで爆発させる電気着火方式がありましたが,これらは,「どう見てもディーゼルエンジンではありません.本当に(以下略」なものでした.
後,食用油も実験しましたが,コスト高だったり.
ちなみに,こうした国鉄の官尊民卑ぶりについては,例えば,ディーゼルエンジンにしても陸軍が中心となって開発した,当時としては優秀な設計であった予燃焼式の統制式発動機を使用せず(戦後の一時期,非電化私鉄のガソリン動車にはそれから発達したいすゞのDA系に載せ替えられましたが,国鉄は中々それを採用しなかったり),独自技術に拘った結果,新潟鉄工の海軍内火艇やそれから発展した51号魚雷艇発動機を基にした,扱いの難しい直噴式の発動機を発展(と言うか退化)させ,これは実に国鉄末期まで半世紀以上これを引き摺っています.
JR移行後,これらの機関を搭載していたディーゼルカーは,経済性の悪さから一斉にエンジンを載せ替えたり,軽量の新型車に置き換えられたりして,残滓を一掃しつつある訳で.
また,こうした機関を採用していた非電化私鉄の整備掛が,廃止のために,バス会社やトラック会社などの整備工場に転職しようにも,技術ベースが戦前のものなので,一笑に付されると言う笑えない話があったりします.
今回の参考文献:
「内燃動車発達史」下巻
「ある鉄道事故の構図」
「鉄道車輌工業と自動車工業」など
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
トラクターのエンジン部分が機関車に換装されたということですか?
消印所沢 in mixi,2007年03月04日00:04
【回答】
Oui!
大量生産されたT型Fordのエンジンは,成る程機構も簡単だったのですが,変速機が特殊で,運転に技術を要したため,武人の蛮用に耐えず,内燃動車にも余り使われませんでした.
後に,1927年から生産を開始したA型Fordのエンジンで漸くまともな変速機が付いたので,軽量小型の軽便鉄道用内燃動車や,建設現場用内燃機関車の動力に使われましたが,それまでは,Fordsonのトラクタエンジンを輸入して動力に用いていたりします.
ちなみに,1932年からA型に次いでB型のエンジンに切り替わり,1933年から輸出専用のC型エンジンとなり,1935年まで生産された訳ですが,生産が短期間だった割に,単純な機構であったが故に,これらのエンジンは多数が鉄道車輌用に使用されています.
また,B型のエンジンは,日本でCopyされ「聖」と言う名称で生産もされました.
更に,廃車になった自動車から取り外され,整備されて再使用されたエンジンも多く,戦後の産業用機関車でもこの手の機関を搭載したものが生産されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月04日09:24
【質問】
戦前の日本の自動車のナンバープレートは,どんなものだったのか?
【回答】
前にも何処かで書いたかも知れませんが,日本の営業用自動車のナンバープレートは,昔は3枚有りました.
2枚は前後に,そして,室内に乗客の見える場所に法令で定めた寸法のナンバープレートを掲げることになっていました.
色は,普通車は黒字に白文字で有れば良く,文字の太さや上下左右寸法と間隔に最小寸法の制限があるだけなので,外形寸法はまちまち.
特殊自動車は1933年まで白地に黒文字,それ以降は青地に白文字,小型車はオレンジ字に黒文字で,小型車は2輪や3輪がメインだったので,4輪でも前面にナンバーが無くてもOKでした.
また,2t以上7人乗り以上の自動車,それ以下でも空気入りタイヤと四輪ブレーキのない自動車の様な旧式車は,時速35km/hという制限があり,後面に白の三角形を表示することになっていました.
でもって,東京の場合は,ただ単に数字が書いてあるだけで,地方の場合は大正初期まではアルファベットのローマ字一桁,1919年以降は漢字一文字が使われています.
東京の1番は明治屋のトラックで,内務省が自動車に番号を付与すると言うので,それっとばかりに駆けつけたところ,既に1番は貰われて3番が宛がわれたそうな.
ところが,1番が宛がわれたのが三越で,三越は3番が欲しかったから交渉成立,交換して1番を付けることになりました.
当時のナンバープレートは,今の香港なんかと同じで,代々引き継がれているので,車が変わろうが1番を付け続けています.
ちなみに,東京だけがこうした1番を企業が所有したのであって,他府県の1番は大抵の場合,知事の自動車に付けられていました.
では,0番は…と言うと,0番は内務省の付与する番号では付けられず,陸軍の自動車学校や技術本部が自校0とか技本0と言うプレートを付けたくらい.
しかも,これらの車は参考実験車扱いでした.
西欧なんかでは,0番が知事の公用車になるケースが多いそうです.
東京では999番までの3桁ナンバーは,宮家のお忍びナンバーとか華族用ナンバーで,100番以下のナンバーも巡査が敬遠する番号だった様です.
こうした若番ナンバーは,1番の明治屋と3番の三越の様に企業が使う場合もありましたが,ブローカーが保持して税金を払い続け,必要に応じて,ナンバーを高値で売りつけると言うこともしていたらしい.
今の香港と同じですね.
こうしたナンバーを使い回す場合,警察ではなく,後のナンバーには税務署の交付した鑑札が付きました.
税金納付済みの中古車を購入して自分の持っている番号にする場合は,事前に白地に黒文字の仮プレートが交付されます.
それには,税金を払った前のナンバープレートが小さな数字で書かれていました.
でもって,それを付けた後,自分の持っているナンバーに変える訳です.
今の仮ナンバーに相当するのは今と同じ白地に赤斜線ですが,これは試運転ナンバーで,自動車の登録地の所轄警察署長が有料で貸し付けるものでした.
更に,昔はナンバープレートの無い自動車もありました.
最右翼は外交官の車で,「亜米利加」,「独逸」,「仏蘭西」なんて言う漢字のプレートを付けていましたが,「巴奈馬」とか「羅馬尼亜」なんて言うものもあって,警察官はさぞかし面食らったことでしょう.
後,陸軍は星,海軍は桜と錨の立体マークで番号はありませんし,消防車も同じ様にマークだけが描かれていました.
戦時体制化になると,もう訳がわからない状態で,各官庁が勝手に「○○省」と言う表示板を付しただけの自動車を走らせ,戦争末期になると,省だけでなく,その下部機構の名称が幅をきかせ,「航兵総」なんて言うプレートを付けて走らせていたりします.
もう,殆ど無政府状態ですわな(苦笑.
ちなみに,陸軍は戦前に梁瀬自動車に高官用の乗用車として,ビュイックのフェートンを特注していました.
その車体色は勿論カーキ色.
ただ,陸軍が用いていたトラックの様に艶消しのものではなく,艶有りのラッカー仕上げのものだったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月17日
【質問】
軍では,戦中の車の免許とか運転の教習はどうしてたの?
【回答】
祖父の戦友の方々に聞きましたところ,
「台湾の機甲歩兵は,世田谷にあった陸軍機甲整備学校(現東農大)で車の整備・運転を学び,卒業してきた奴が,民間でバスやタクシーの運転手をしていて免許を持ってたやつを助手にして,教育をしていた.
戦中に車を使うことには免許は特にいらんかったと思うが・・・」
とおっしゃっていました.
軍用のは,ちょっと今掘り出せない(戦車の資料はいっぱいあるんですがね)ですが,民間用のは,地方出版物のもので,例えば,「房総の乗合自動車」とかそう言うものがあります.
内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは,大正8年に内務省警保局・土木局が連名で出した自動車取締令によるものです.
これを基に,各府県は自動車取締細則を定めて運用します.
ちなみに,軍事とは離れますが,大正12〜13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件,歩行者の死者3名,負傷者41名,従業員の負傷者1名,その他13名で,事故を起こした運転士61名のうち,15名は無免許です.
運転手の養成所はありましたが,数が足りず,免許取得の運転手の添乗の下,助手が無免許でハンドルを握らせています.
流石にこの状態はまずいので,大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され,業務用(乗合,貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ,そのナンバーも外せない構造となります.
また,戦前から昭和20年代に掛けては,自動車運転免許状を交付される人と言うのは大型乗用車,乗合自動車,自動貨車とそれに準ずる車輌くらいなもので,排気量500cc以下の小型乗用車,オート三輪には,無試験免許(今日の原付免許と違い,学科試験も無しの文字通り単なる許可証)が必要とされるだけでした.
これは,最寄の警察署で1時間程度の手続きで(地域差あり.手数料は手元に資料がありません)交付されます.
その適用対象である小型自動車の区分は
大正13年〜昭和5年 360cc以下
〜昭和9年 500cc以下
〜昭和11年 750cc以下(2サイクルは500cc以下)
昭和12年以降〜 廃止
となっていました.
なお,「500ccは免許不要」としている資料(当時のものも含む)が非常に多いので注意が必要です.
戦前すでに東京では,荻窪あたりにダットサン専門の自動車教習所があったそうです.
戦後まもなくそこに教習を受けに行った人によると,1〜2回横に乗せた程度であとは適当に練習しろといわれたそうな.
それでも卒業免状を交付してもらったので,鮫州の試験所に試験を受けにいくと,実地試験を免除されて法規試験のみを受けたそうです.
ところがこの試験たるや,前の方に居た2〜3人に適当に口頭で質問をして,それのみで全員が合格とされたとか.(自動車ジャーナリスト小林彰太郎の自伝より)
余談ですが,眠い人氏の母親は昭和30年に免許を取ったのですが,従兄弟のルノー4CVで路上教習を受けて,試験に臨み,受かったそうな.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,他)
うちの爺ちゃんは大卒で徴兵されたので,1年くらいで部下が何人か持てたらしい.
内地の基地で,のんびり終戦まで過ごしている間,部下達の運転を試験して運転免許を何枚も発行していた.
でも,爺ちゃん本人は,生涯(といってもまだ存命だけど),無免許.
「自分の分の免許もだしておけばよかった」
と,笑っていた.
▼
見ての通りの物ですが,果たして戦車兵用かそれとも砲牽引トラクターなども含むのか,はたまたこの呂5505部隊とは?
買ってから調べます.
よしぞうmaro' in mixi,2007年09月30日18:16
▲
▼世間が狭いと感じたのは,先日浜松町のコンベンションで購入した,特殊自動車操縦技量証明書の持ち主と同じ人物の,支那事変従軍章や善行章の証書が,オクで出ていた事.
これはマイミクさんに教えて頂いたので,すかさずゲット.
おかげで,今度は同一人物の普通免許証書が手に入りました.
この“呂5505部隊”は調べて見ると,支那派遣第11軍指令部付部隊なので,まさに支那事変従軍章はピタリと符合します.
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月10日23:32
▲
【質問】
陸軍機甲整備学校って何?
【回答】
各兵科尉官・下士官学生に,機甲車輌の整備に関する教育を実施していた,日本陸軍の教育機関.
1925年(大正14年),陸軍自動車学校の名で発足したもので,日本最初の自動車学校でもあった.
敗戦後,同校は淵野辺米軍キャンプとして接収され,その後,東京農業大学と,桜丘中学校とが,その跡地に建っている.
【参考ページ】
http://www.maruma.co.jp/general/history2.htm
http://www.slne.net/uqpgrf7981.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍機甲整備学校
【ぐんじさんぎょう】,2011/12/10 20:40
を加筆改修
本日は,浜松町の都立産業貿易センターにて,今年最後のミリタリーショー「ビクトリーショー」の開催日.
そこで朝からいそいそと,大江戸線に乗って大門へ.
[中略]
またしても散財しましたが,結構デカイビンゴも引き当てました!
まずは大ビンゴだったのが,某スタンドで見つけた「陸軍機甲整備学校幹部候補生隊のアルバム.
表紙に,襟に付ける甲種幹部候補生バッジと,戦車とトラックの型押しが入り,何やら期待出来ます.
しかも広げると,こんな気合いの入った文句が.
流石は皇軍の整備学校!
これはいつもの印刷アルバムかと思いきや,何と全てが生写真!
しかも戦車写真がある!と言う事で,入場早々に頭に血が登りました(^^;
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アルバム中には,主砲を降ろした95式軽戦車を使った演習,及び整備訓練の写真が多く在り,これだけでも貴重な資料でしょうか.
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整備工場の写真もありましたが,良く見ると転輪間に補助転輪が付いた北満型では!
もう一度,前の写真を見返して見ると,どうやら大体の95式は北満型の様.
また,貴重な鉄道輸送のシーンもありました.
ここでも日産の80型トラックが見られます.
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さらに,野外演習における,エンジン詰め替え等も面白い.
でも皇軍は,気合いの人力なのですね.
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よしぞうmaro' in mixi,2007年12月17日00:53
http://www.maruma.co.jp/general/history.htm
以前お世話になったことのある会社です.
満州から引き揚げて来た軍属が作った会社とは聞いていました.
ケヤキ☆L'20th★ in mixi,2011年12月12日 22:46
【質問】
戦時中,日本軍は車輌修理をどのように行っていたのか?
【回答】
『比島に散った野戦自動車廠の記録』(比島派遣野戦自動車廠戦友会,開発社,1989/8/15)によれば,例えばフィリピンでは野戦自動車廠の下に支廠,出張所,派遣隊,移動修理班などが全土に展開していたという.
修理部品は日本本土から輸送していたが,鹵獲した外国車にはそうした修理部品はなく(輸入するわけにもいかないので),廃車から部品をとって修理するなどしていたという.
戦局も末期になってくると,修理よりも輸送,食糧調達,松根油生産のほうが優先され,またガソリンも残り少なくなっていたため,修理の機会はあまりなかったようだ.
同書ではまた,チェンジ・ギアが破損してローとバックのギア・チェンジが効かなくなったビュイックに対し,適当な廃車部品が見つからないので,折損歯車の欠損部分に溶接で肉盛りし,ヤスリ仕上げで歯形を修理したエピソードも紹介されている.
そのビュイックは玉兵団の師団長車で,その玉兵団はレイテ島に出発してしまったことから,もう車を取りに来る者はいないだろうと独り決めして用足しのときに乗り回していたら,軍司令部との連絡のためにマニラに残留していた師団司令部の一部の大尉に見つかり,「試運転中です」と冷や汗をかきながら答えたとか.
【質問】
すいません,今Blogで小説書いてるんですが,どなたか,アメリカ軍のジープで一般的に戦後にMPが乗っていた車種とその排気量,エンジン形式,出来ればピストンの直径とストロークをご存知の方おられましたら教えて下さい
.
検索はしてみたのですが,意外なほど情報が少なく,お手上げです.
日本軍の装甲車輌で,その車種のピストンと交換部品になりうるピストンをもっているかもしれない車輌を教えていただければなおいいのですが,解らなくてもこちらは自力でソレっぽい嘘をつける車輌を探してみようとは思っております
.
【回答】
Willis MBに関しては資料が出てきませんでしたが,戦後すぐのCJ-3Bなら,ボア79.4mm×ストローク111.1mmです.
これは,水冷4気筒で排気量2,199cc.弁配置SV方式で,60馬力を発揮しています.
基本的に戦時中の型やFord GPWも同じだったはずです.
日本の装甲車輌や軍用車輌はおしなべて,百式統制型発動機です.
Willis MB/Ford GPWとは違い,Dieselですから互換性はありません.
ちなみに,このエンジンのボアは120mm,ストロークは160mmで,2000回転で120馬力の予燃焼室式Dieselです.
豊田のものでは,A型エンジンはChevroletの直列6気筒エンジンのほぼそのままのコピーです.それでも3000cc程度になっています.
手元にあるのは,改良型B型エンジンの資料ですが,ほぼ同じとすると,ボア84.1mm×ストローク101.6mm.
排気量3,386ccの水冷直列6気筒OHV方式で,85馬力でした.
GM製のJeep型車輌は無いので,もしこういう車輌を使うのならば,Jeepではなくそれより一回り大きなDodgeのWeapon
Careerが豊田のエンジン部品が使えるかもしれません.
日産のものは,Graham-Pageのトラック用を移植したもので,NA型の場合,ボアは82.5mm×ストローク114.3mm.
排気量3,670ccの水冷直列6気筒SV方式で85馬力を出しました.
これも同様に,DodgeのWeapon Careerならエンジン部品が使えるかもしれません.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
自動車連隊って何ですか?
【回答】
自動車連隊とは,関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を編成したのが始まりで,六個の連隊が編成されましたが,16年の関特演でこれらは独立自動車大隊に改変されました.
同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました.
その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり,傘下には連隊長以下人員700名,自動車300両を装備しました.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
軍用自動車調査委員会について教えてください.
【回答】
明治末に出来た軍直属の研究機関で,全く新しい交通機関である自動車を技術だけではなく,軍事応用,運転手の養成,民間自動車の奨励,戦時徴用の方法など,さまざまな諸問題を調査,研究するために設置されました.
初代の委員長は後の総理大臣になった田中義一少将です.
新兵器の開発機関ではなく,新しい兵器としての自動車全般を調査,研究する目的で戦車,装甲自動車,自動貨車,自動車,オートバイなどを各国から輸入して研究しています.
研究の一環で車輌試作なども行っていたと思います.
以下の写真のナンバープレートには「自研」とあるので,同委員会所属の車輌のようです.
ウーズレー自動貨車に装甲板を貼りつけた,装甲トラックと言うべきものでしょうね.
むー in mixi,2007年10月10日〜10月09日
青文字:加筆改修部分
昭和2年11月に愛知県で行われた陸軍特別大演習の写真帳
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よしぞう maro' in mixi,2007年10月08日23:35
【質問】
日本フォードの工場は,戦時中はどうなったの?
【回答】
1941年12月8日,日米開戦となり,日本フォードの神奈川区守屋町工場は接収され,陸軍収用財産となります.
その建物,機械は,陸軍兵器本部,相模原造兵廠,東京補給廠,満州自動車会社,三和自動車,ディーゼル自動車工業に譲渡され,組立機器類は日産自動車の従業員の手で取り外され,解体されて満州自動車安東工場に移設された.
戦後,その機械類は,ソ連軍に接収され,梱包後,ソ連に持ち去られたとか.
守屋町の工場跡地のほうは戦後,進駐軍の倉庫として用いられた.
1974年,フォードが日本に再進出する際に再び納車前点検用の倉庫として用いられ,今は東洋工業の研究所が建設されている.
この時代の日本GMの大阪にあった工場は,関西の近代建築を良く手がけたヴォーリスが設計し,日本フォードの神奈川の工場は,同じく関東の近代建築を良く手がけたA.レーモンドが設計している.
ちなみに,A.レーモンドという人は,日本軍部の支配に幻滅し,帰国するのだが,帰国後,米陸軍航空隊の依頼で,日本の木造家屋の集落の模型,状況を提供し,これが「紙と木の家」を効率よく燃やすための焼夷弾実験に供され,日本空襲の基礎資料となった.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
戦時中の中国の自動車工業について教えてください.
【回答】
中国の自動車製作,その量産の歴史は日本と大して変わらなくて,1927年に瀋陽兵工廠で米国から技術者を招聘して,国内から自動車修理経験者を300名余を動員し,米国製Internationalをモデルに,中国に適応させたものを設計し,1930年,まず75型『民生』トラックが完成します.
これは,エンジン,タイヤ,ボールベアリング,電装品を除く部分はほぼ全て国産品で賄われたもので,積載量1.8tで,64km/hをマークしたものでした.
次いで,100型『民生』が誕生します.
こちらは,積載量2.8tに増加しましたが,速度は48km/hに低下しました.
しかし,満州事変によりこの工場は接収され,自動車工業,東京瓦斯電気工業,三菱造船,戸畑鋳物の出資により設立された,同和自動車工業の組立工場となり,いすゞのノックダウン組立をしていた訳で(ちなみに,大豆を輸送する為に南満州鉄道はChevroletを欲していたが,これを押しつけられた).
その後,満州重工業の傘下企業として満州自動車製造が設立され,同和自動車工業はこれに吸収,ちなみに,安東工場には,前にも書いた,日本フォードの組立ライン一式が設置されています.
ただ,折角の設備を整えたものの,いすゞ,日産80型の国産車のノックダウン生産は遅々として進まず(国産車そのものが台数少ないのに,部品を供給できる訳がない),その業務の殆どは,関東軍や民間で使われていたFord,Chevroletなどのトラックの再生作業のみ行っていたそうです.
さて,日本に瀋陽の工場を奪われた中国ですが,山西省大原兵工廠では,1933年に国産4気筒エンジンを搭載したトラックが試作されます.
これは,タイヤ,電装品,計器,ボールベアリング以外は国産で,積載量2t,速度30km/hの性能でした.
また,1936年には湖南省機械廠で,Dodgeのエンジンをコピーして2台のトラックを作りましたが,これらは中央の支援を受けることなく,消滅しています.
一方,国家的プロジェクトとして,同じ1936年に中国汽車製造公司が設立されました.
これにはDaimler-Benzが技術協力を行い,ドイツ人技術者の下,ディーゼルトラックを年間1,000台ノックダウン生産すべく,湖南省株州工場を1937年に建設開始し,同年,バス工場として,上海工場を建設する予定になっていました.
しかし,日中戦争の激化で,工場は広西省桂林,四川省重慶へと移転.
この間,少数のDaimler-Benz(中国名『飛鵬』)トラックが組み立てられたに留まりました.
ちなみに,この当時,中国全土の自動車保有台数は68,917台.
このほかの動きとして,中央資源委員会が1939〜40年に米国から技術,設備一式を導入し,雲南省昆明中央機器廠分工場で,トラックを生産する予定でしたが,設備はベトナム近辺で,日本軍の攻撃を受けて失われ,図面や資料類は洞窟に隠したものの,回収する術が無く,1950年に掘出したときは,変質して使い物にならなくなっていたとか.
やがて,戦争が終わると,満州の設備は全部ソ連に持ち去られ,1946年に天津汽車配件廠で,日本のオート三輪の部品を製造していた経験を生かして,3輪トラック『飛鷹』を10台試作します.
ただ,年産100台の予定が,戦後のインフレ,資金難で,計画は頓挫して,国産車製造の試みは,革命まで待たなければなりませんでした.
その代わりに流行ったのが,戦後の日本でもあった,トラックをバスに改造する事業で,Dodge
T234改造のバスは,1950年代の北京で大活躍したそうです.
また,乗用車をダブルキャブの客貨両用ピックアップに改造することも流行ったらしく.
そうこうしているうちに,蒋介石は敗れ,毛沢東の時代になっていくわけで.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
戦後日本の四輪駆動車は,ジープが最初というのは本当か?
【回答】
戦後,日本の四輪駆動車は,警察予備隊に納入するために開発された,中日本重工のJeepと,トヨタ自動車のトヨタジープ,日産自動車の日産パトロールの三種がありました.
これらは何れもJeepタイプ…と言うか中日本重工のはJeepそのもの…の車輌で,不整地走行性は十二分にありましたが,居住性とかそう言った部分については,二の次にされていました.
元来が軍用車ですから,そう言った面に配慮は余り為されなかった訳で.
流石に,民間に売られる際には,幌だけではなく,鋼板でキャビンを作る場合もあった訳ですが,それとても,遣っ付け仕事レベルで,一般の乗用車に比べると格段の差が出ていました.
さて,東北電力は,雪深い土地に発電施設,送電施設のある電力会社です.
その高圧送電線は山の中に架設され,冬の山の中の道は,四輪駆動車でしか通えない道でした.
しかし,其処で使っているJeepはキャンバスボディの代物で,冬に使うには相当に寒く,乗心地も悪く,尚かつ,夏季には普通の車で送電線監視が出来るので,車庫に眠ったままで稼働率が悪いのに担当者が悩んでいました.
現場からは,快適で年間を通して使用できる雪道に強い車を調達できないか,と言う要求が常に出されていました.
その頃,東北電力の営業車に,スバル1000が用いられていました.
国産初のFF車として,前輪に力が掛かるため,比較的雪道に強い営業車として重宝がられていました.
…と言うことは,これを四輪駆動車に改造すれば,Jeepの代りに年中使える営業車として使用できるのではないか?
こう考えたスタッフが経営陣に提案し,駄目元で,宮城スバルに持ち込み,宮城スバルでは社内の技術陣に聞いてみることにしました.
その社内のサービス部には偶然,自衛隊の車輌整備部門で軍用の四輪駆動車を整備し尽くした神様の様なエンジニアがいたのです.
彼は,それを聞くと,即座に図面を引き始め,計算の結果,改造が可能であると言う結論に達するや,中古のスバル1000バンをベースに,前代未聞のディーラー製作四駆の試作を始めました.
エンジンは四輪駆動ではよりパワーを食うであろうから,と,オリジナルのエンジンを降ろして,ff-1用の1100ccに換装し,プロペラシャフトとかデフユニットは,各社の小型車のそれを数種採寸した結果,日産ブルーバード用のものを取り外して,改造車に取り付け,試作車を作り上げました.
とは言え,素人工作の悲しさ,最初のテストでは前輪と後輪が逆回転してしまったそうです.
そんなこんなで,社内で試験の後,東北電力に引き渡し,10ヶ月の間,試用して貰いました.
その結果,雪道走行の走破性は抜群で,Jeepに匹敵すると言う評価を得ました.
但し,所詮は改造車,プロペラシャフトが室内に貫通するように剥き出しで通って居るような車輌で,とても公道を大手を振って走れるような代物ではありませんでした.
其処で,一大決心をした宮城スバルは本社に対し,試作車を添えてスバル1000の四輪駆動モデルの開発を進言したのです.
本社から三鷹と太田の技術サイドに照会した結果,ユーザーの声として,「雪道,悪路に極めて強い」と言うものがあり,エンジニアの間からも,「四輪駆動にするのも面白いなぁ」という声が雑談レベルではありましたが,出ていた事もあり,商品化は可能という結論が出ました.
斯うして乗用車ベースのパートタイム四輪駆動車として,スバルff-1/1300Gのバンを開発することになりました.
1971年の東京モーターショーの富士重工商用車ブースには,その試作車が展示され,注目を集めました.
試作車は4台が作られ,各種試験を経た後,増加試作車が「改」車検で販売されることになります.
5台は最初に評価した東北電力,1台は長野県飯山農協向け,1台が長野県白馬村向けになっており,1972年には防衛庁が業務車として特殊用途または運用試験用に1台納入されたそうです.
但し,この防衛庁向けはどうなったのか,定かではありません.
結局,スバル1000ベースの四輪駆動車は改造車も含めて13台で量産は完了し,本格的な四輪駆動バンは,後継車のレオーネで実現することになりました.
この事例は,ユーザのニーズを如何に汲み取るか,それを如何に反映させるかと言う示唆的な内容だと思います.
トヨタ自動車が,自社の車が売れないと言うのを分析するとか言う話がありましたが,結局はユーザのニーズを上手く汲み取れないからではないか,と思ってみたりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月04日23:01
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