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「OSINTSUM」◆(2011/05/06) 鉄人第1号! 帝国陸軍兵器関連
Taki's Homepage(英語)
「textlib @ ウィキ」◆(2010/09/25) 帝国陸軍の砲兵連隊の編成について
『軍馬の戦争 戦場を駆けた日本軍馬と兵士の物語』(土井全二郎著,光人社,2012/2/23)
副題どおり,基本的にエピソード集.
日本陸軍の軍馬政策などを横断して語るような内容を期待してはいけない.
ただ,前線の兵隊と軍馬のエピソードだけではなく,銃後で軍馬を送り出した人々の,生の証言を採取しているのは,価値があるかもしれない.
本書単独ではただの「お涙頂戴」にすぎないが,『富国強馬』あたりと合わせて読むと,バランスがよいかもしれない.
------------軍事板,2012/03/01(木)
『大砲入門 陸軍兵器徹底研究』(佐山二郎著,光人社NF文庫,1999/9)
『日本陸軍の火砲 機関砲 要塞砲 続』(佐山二郎著,光人社NF文庫,2012.4)
『日本陸軍兵器資料集 泰平組合カタログ』(宗像和広&兵頭二十八編著,並木書房,1999.12)
『迫撃砲噴進砲他 日本陸軍の火砲』(佐山二郎著,光人社NF文庫,2011.3)
『野戦重砲騎砲他』(佐山二郎著,潮書房光人社NF文庫,2012/11/30)
『要塞砲 日本陸軍の火砲 日本の陸戦兵器徹底研究』(佐山二郎著,光人社NF文庫,2011.12)
『陸軍師団総覧』(近現代史編纂会編,新人物往来社,2000/11)
【質問】
「ところでこいつを見てくれ.こいつをどう思う?」
昭和16年3月(軍需動員42ヶ月目)の兵器受領全数
http://www.ishiikazumasa.com/gwife.b/gwife/senryaku/heiki_16.3.42.htm
【回答】
「すごく……少ないです」
42ヶ月間に納められた兵器全数の表です.
砲兵系のアレっぷりに泣ける.
工業化されていない軍事大国の悲哀を,数字は端的に表してますね.
豊かであれば,陸軍は火力/総力戦対応型の陸軍になってたでしょうし,海軍だって護衛艦艇を確保してたでしょう.
陸軍
「火力戦だよ,これからは」
→「バーロー,それに対応する金も技術も生産力もねぇよ」
→「じゃあ,やれる範囲でやろうぜ.金がないなら頭使えばいいじゃない」
→日中戦争突入
→「頭もなくなりました(テヘ」
→太平洋戦争突入→(ry
海軍
「潜水艦凄いらしいぜ.
海上交通路を保護するなら,どんだけ予算要るよ?」
→「台湾以北の海上交通路保護だけでも,戦時臨時予算は絶対必要.平時だと無理」
→「近海迎撃型海軍の整備・維持も必要だし,マジどうしよう」
→「ウハwwwどう考えても輸送路が維持できないwwwテwラwワwロwスw」
→(ry)
→「ウフフ,おふねのひがいはねんねんはんぶんになって,ろかくせんのおかげでひつようなりょうはかくほできるよ」
→太平洋戦争突入
→(ry
まぁ,「貧乏なのが悪い」で終わっちゃうんですが.
WWⅠの戦訓研究辺りまでは悪名高き海軍であってもマトモ.
現状に絶望してお花畑に吹っ飛んだ後がアレだが.
(3/18 20:13 一部追加)
邪夢 in mixi,2009年03月18日19:48
【質問】
大戦中,日本陸軍はどのような兵器に,どれだけのリソースを配分したのか?
【回答】
陸軍兵器生産高指数抜粋.
「日本戦争経済の崩壊」より(1941=100)
種別 |1942|1943
--------+----+----
小火器 | 140| 191
航空兵器| 267| 508
火砲 | 127| 169
弾薬 | 120| 116
航空弾薬| 221| 287
戦闘車両| 124| 114
光学兵器| 88| 139
無線通信| 204| 856
水上輸送| 107| 274
=======+====+=====
合計 | 133| 167
【質問】
高角砲と高射砲
機銃と機関銃
機関砲と速射砲
何処が違うの?
【回答】
高射砲=高空に弾を打ち上げる砲.対空用.
高角砲=仰角を大きく取れる砲.対空に使うことができる.高射砲の他,河川砲艦用の対地砲でも仰角が取れれば「高角砲」範疇に含まれる.旧日本海軍用語.
機銃=機関銃の短縮形だけど,機銃(旧海軍用語)と機関銃(旧陸軍用語)でもある.
機関砲=比較的小口径.機関銃の大口径版.弾も数発セットになっていたりする.せいぜい40mmまで.50mmとかになるとすでに2インチ速射砲の世界.
速射砲=比較的大口径.大砲の速射版.弾は一発単位で装填機構がとても大がかり.
空母「赤城」の高角砲
高角砲@映画「男たちの大和」のセット?
【質問】
旧日本陸軍歩兵師団の火力は?
【回答】
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/16D_2.htm
によれば,
第16師団(昭和12年)
定員 25,179名
馬 7,513+α頭
歩兵連隊×4 3,747名×4
小銃×8064
軽機関銃×288
重擲弾筒×288
92式重機関銃×96
92式歩兵砲×24
41式山砲×16
94式37粍砲×16
野砲兵連隊 2,894名
改造38式野砲×36
92式10糎榴弾砲×12
軍事板
青文字:加筆改修部分
改造38式野砲
よしぞうmaro' in mixi,2007年08月11日17:38
【質問】
よく陸軍で,弾薬「一会戦」分補給する,とか言いますよね.大体どれ位の量なんでしょうか?
例えば,小銃一丁.重機関銃一丁.90式野砲一門あたり.
【回答】
「1会戦分」=約20基数=3~4ヶ月の作戦分.
「基数」は各銃砲種ごとに算出された単位で,何々弾何発という表記よりも数字を扱いやすくする為のもの.
1個師団の1会戦分の軍需品の数量は,約1万トン
1銃/1門当たりでは
拳銃 | 40発 |
小銃 | 300発 |
軽機関銃 | 8000発 |
重機関銃 | 23000発 |
37ミリ対戦車砲 | 900発 |
野(山)砲 | 2000発 |
機関銃弾,持ってきました……
【質問】
ガダルカナル線では「軍旗を奪われる恐れあり」との理由で勝手に撤退した部隊もあったようですが,軍旗喪失というのはそれほどまでに「犯すべからず」だったのでしょうか?
【回答】
はい,軍旗はとても重要視されました.
名誉心で縛るための偶像崇拝の道具として,軍旗が使われることは古代ローマ軍のころから世界中で行われています.
例えば,ドイツは連隊旗に向けて忠誠の誓いをたてましたし,ナポレオン軍はロシア遠征惨敗後,奪われないように連隊旗を焼いました.
大戦中のソ連軍では,連隊旗はスターリンの分身とされていました.
『ザ・ソ連軍』(スヴォーロフ著,原書房,1983.10)の中には,
「焼け焦げたれ連隊旗を埋めて,戦線を離脱した親衛連隊は,「親衛」の称号を奪われ,連隊旗奪還を果たすまで許されなかった」
なんていう実例が出てきます.
その結果,部隊の精神的結束が高まった一方で,作戦面で軍旗に固執して合理性を欠くこともあったようです.
日本軍の場合,軍旗は天皇の分身という扱いだったので,天皇を奪われると大変なことになるかのごとく,軍旗は奪われないよう最大限努力されました.
ほかの国なら,国王だとか,部隊の伝統とか,その国の宗教とか異なった権威付けになるだろうところ,近代日本の場合,箔付けに天皇が使われたのです.
軍旗中隊と称して,軍旗援護のために部隊の一部を割くこともありました.
軍旗を過度に重視とも見えますが,実際には連隊本部防衛と予備隊としての機能もあったようです.
ガダルカナルで無断撤退した例があったかどうかは存じませんが,同島では,歩兵第124連隊が後退時に軍旗を埋没したことが問題となり,回収のために連隊長の岡大佐が1個大隊を率いて引き返しています.
回収部隊は一時的に陣地を奪還し,軍旗を回収,
残存50名となって帰る途中で追撃を受け,連隊長以下全滅しました.
奇跡的に軍旗を腹に巻いた旗手のみが難を逃れ,ガ島撤退間際になって帰還成功しています.
軍旗のために過大な犠牲を出したといえますが,逆に軍旗保持の責任感がなければ,この旗手はここまでがんばれなかったとも思えます.
ノモンハンの戦いのときに,軍旗を中心に速射砲を集中配備して,その陣地は残った例があります.
これも見方によっては軍旗重視のあまり,戦力配備を誤ったとも見えますし,重要拠点に軍旗を置いて士気を高め,防衛に成功した例とも見えます.
また,五味川純平は『ノモンハン』(文春文庫,1978.2)で以下の旨を述べています.
――――――
ノモンハン事変末期の第23師団司令部直卒の,撤退援護出撃について,前線部隊の軍旗が奪われ,天皇への忠節を尽くせないことを恐れたとの説がある.
実際には天皇への忠節は名目で,本心は軍の面子だったと思う.
もしそうでなくて,本気で軍旗にこだわってたら,命令者は狂人だ.
作戦失敗が予見されるときに,軍旗を安全圏に素早く下げた第26連隊長は合理的だ.
――――――
あと,五味川は,部隊の戦歴を誇るために,わざと軍旗を破って激戦にみせてたとも言います.
経営学ではモチベーションの維持(上昇)は重要な課題の一つ.
いまどきのヘボい会社ですら「モチベーションの創造」とかに必死なわけで,命がけで戦うには道具立てや舞台も重要.
そういう意味で軍旗は普遍的なアイテムだと思われます.
荘厳な寺社に行けば,不信心ものでも背筋が伸びる思いがするっしょ?
軽々しく「精神主義(笑)」で済ませられる話じゃありません.
組織一般に,ひとりはみんなのためにで自己犠牲をしいる部分があるけど,特に軍隊は,作戦上の必要から本能に反して命まで捨てることを要求するのが宿命です.
そのための心理的な統制手段がいろいろってことです.
・物欲(勝ったら3日間略奪していいぞ)
・より強い生命への危機(督戦隊)
・宗教(引けば無限地獄すすめば極楽浄土)
・名誉
ほかにも,正義(大義名分)・危機意識・民族対立・愛国心・仲間意識・怨念・元首や指揮官への敬慕,社会的責任,美学,英雄願望,自己同一性の確保……その他色々.
◆wBtxhjVTxU(黄文字部分)他 in 軍事板,2008/09/17(水)
青文字:加筆改修部分
鹵獲した日本軍の軍旗と小銃を誇らしげに見せつける米兵
(画像掲示板より引用)
【質問】
>正義,民族対立,愛国心,仲間意識,怨念,敬意,美学,自己同一性の確保
このあたりは全部宗教と一まとめにしてもいいのでは?
危機意識や社会的責任はより強い生命への危機だし,英雄願望はそのまま名誉だろ?
【回答】
天子様から勅書もらったら正義,なんてのは大義名分だけど宗教じゃないし,
アメリカ独立運動で発揮された愛国心は宗教じゃないし,
仲間意識は宗教を越えて発揮される戦場の基本原理だし,
家族や同朋を殺された恨みは,無神論者にも存在するし,
武士道や騎士道なんかは美学と呼べるけど,宗教とは呼べないし,
強い男を気取ってたやつほど,戦場から逃げ出すのには抵抗あるし.
>危機意識や社会的責任はより強い生命への危機だし,
家族が殺されるとか,財産が奪われるとか,民族丸ごと奴隷扱いとか,
自国の文化財が焼き払われるとか,傀儡政権がやってくるとか
自分の命以外にも「危機」は感じるでしょ.
>英雄願望はそのまま名誉だろ.
一般人にも名誉はあり,傷つくこともある.
英雄になりたいとはおもわなくても,仲間を見捨てて逃げ出したり,危機に際してパニックを起こしたりしたくないと思うもの.
英雄願望とは違うレベルだと思うよ.
あるいは強弱のレベルの違いかもしれないが.
軍事板,2008/09/17(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
なんで日本陸軍の軍帽などには星のマークがついているのでしょうか?
【回答】
陸軍が帽子に五芒星をつけ始めたのは,明治3年のこと.
日本陸軍は当初フランス式を導入したので,フランス軍の軍帽に付いてたペンタグラムも自動的にマネしたと言うことだろう.
フランス軍のペンタグラムは護符的な意味合いがあったが,帝国陸軍がどこまでそれを分かって導入したのかは不明.なんとなく「軍隊ぽくて良い」とか,「先進国はそうやってるんだから,その通りやらないと恥ずかしい」とかいった,猿まね洋装貴族と同じ気分だったのかも知れない.
で,フランス軍では五芒星フランス革命当時から使用していたようだ.
五芒星自体はキリストの五か所の聖痕から,キリスト自体の象徴とされ,転じて邪悪なるものに対する守りの印となった.
帝国陸軍がキリスト様の傷跡を愛でたとは思えないから,キリスト教がらみのフランス軍の趣味を単にマネしたというのがありそうな事だろう.
ただ,他に桜の萼の図案化という説もあったりする.
【質問】
日本軍は迷彩もかねて軍服にカーキ色を多用していましたが,日本の国情を鑑みると,戦後の自衛隊のように迷彩には緑系の色の方が向いていると思うのです.
なぜ日本軍はカーキ色を国防色として採用したんですか?
【回答】
まず,日本陸軍の太平洋戦争の時の軍服の色は「国防色」であって,「カーキ色」とは別の物.
国防色=カーキ色ではない.
でも,軍人も含めて当時「カーキ色」という言葉は,「軍服の色」という意味での慣用句として使われていたので,誤用と知らず使われている例がよくある.
日本陸軍の軍服に大正9年まで使われていた「カーキ色」は,正確に言うなら「赤茶褐色」.
これは満州や朝鮮の赤土の色に合わせたもの.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
昭五式野戦服って何?
【回答】
1930年(昭和5年)に制定された詰襟式の軍服で,襟には兵科の表示,肩には縦型に階級章が付いているのが特徴.
旧制式の改四五式と比べ質がやや落ち,全体的に事変に対する大量動員を見越した,節約・省略型の改修だった.
その後,1938年(昭和13年)には開襟式の「98式野戦服」が制定され,更新が進められた.
ただし,「昭5式野戦服」も着用が認められており,古参の兵隊ほど,この「昭5式野戦服」を好んで着ていたようで,その姿は敗戦時まで見られた.
【参考ページ】
http://www.ms-plus.com/search.asp?id=44960
http://blogs.yahoo.co.jp/mihunetosiro/12912409.html
http://someyagunsoh.web.fc2.com/5siki-2.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/軍服 (大日本帝国陸軍)
【ぐんじさんぎょう】,2011/02/15 21:10
を加筆改修
既に内地では旧式である,立ち襟の昭五式野戦服に,新型の九八式野戦服の襟章を付けて着用している例
faq110206cs.jpg
faq110206cs2.jpg
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月09日02:32
【質問】
九八式軍衣って何?
【回答】
日本陸軍において,昭和13年(1937年=皇紀2598年)に制定された制服で,太平洋戦争で主に使われた軍服がこれ.
昭5式では詰襟だったものが,折り襟に変わり,階級章は襟につけた.
左胸に兵科を示す山形胸章をつけることになっていたが,こちらは昭和15年(1940)に廃止された.
主として上衣と短袴(裾の短いズボン)とで構成され,下士官・兵は帯革で上着を締めた.
将校は略刀帯を胴につけた後,上着を着て胴締めで締めた.
【参考ページ】
中西立太『日本の軍装』(大日本絵画,1991.12)
【ぐんじさんぎょう】,2011/12/15 20:50
を加筆改修
北支那戦線で撮られた歩兵写真の中に,どうも迷彩臭い染みのある98式野戦服を着た写真がありました.
faq111212ys3.jpg
faq111212ys4.jpg
1945年の沖縄特攻に向かった義烈空挺部隊も,手で塗ったこういう迷彩を着用していたのが有名ですが,すでに日中戦争初期にあったのか?
どなたか識者の方にお聞きしたいものです.
よしぞう maro' in mixi,2007年12月20日03:48
【質問】
略帽って何?
【回答】
鉄帽や防毒面(ガスマスク)との併用(その際,略帽は後ろ向きに被る)を便利にするという理由の外に,携帯,梱包,補給における便を考慮して,1938年の陸軍服制改正で採用された帽子で,通称は戦闘帽・戦斗帽.
鉄帽の下にかぶっても邪魔にならないように,目庇は45mmを短くされ,横幅26mmの星章が正面につきました(ただし近衛師団将兵のものは,星章の周囲を桜葉が囲む形状)
略帽は海軍でも使われましたが,こちらは星章ではなく錨マークがついていました.
【参考ページ】
http://tksu1co.fc2web.com/gunsouhin.html
http://kon-tan.hp.infoseek.co.jp/equip/japarmy/a_ryakubo.html(画像上も)
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/army/army-shoukouryakubou.htm
http://juntama-juntama.hp.infoseek.co.jp/model_ohshimizu.html
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/8926/vest.html
【ぐんじさんぎょう】,2009/1/28 00:05
に加筆
海自は昔ながら,陸自はベレー,空自はサンダーバードですね.
整備兵 in mixi,2009年01月27日 22:11
略帽
http://kon-tan.hp.infoseek.co.jp/equip/japarmy/a_ryakubo.html
中国戦線の何処か
熱河作戦頃かも知れませんが,サクラヘルメットより,部隊長が持つ現地人の槍より,右から二人めの人物の冠り物が気になります.
どうも,戦帽を後ろ前に冠っただけの様にも見えず,もしかして例の試製略帽?
ちょっと謎です.
よしぞうmaro' in mixi,2007年03月29日02:43
▼
雑誌「歴史写真」昭和8年4月号より
熱河作戦写真がまた色々ありましたが,その中で目を惹いたのが川原挺身部隊長のポートレート.
おお,これは間違い無い,日本陸軍が短期間だけ実験採用した,鍔のない試製略帽では!?
よしぞうmaro' in mixi,2007年09月09日00:43
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
九四式無線機って何?
【回答】
昭和9年に制定となった旧日本陸軍野戦用無線機で,終戦まで野戦用無線機の主力機材でした.
二号乙,三号甲~丙,五号,六号という種類がありました(他に,中型航空機用の「九四式飛二号」等もあり)
主として師団通信隊で使用されました.
【参考ページ】
http://www13.ocn.ne.jp/~seiroku/musen.html
http://detmills.hp.infoseek.co.jp/94-6/JA3ANF.htm
http://www.n-mmra.net/radio/94-6/94-6.html
http://www.wdic.org/w/MILI/
%E4%B9%9D%E5%9B%9B%E5%BC%8F%E9%A3%9B%E4%BA%8C%E5%8F%B7%E7%84%A1%E7%B7%9A%E6%A9%9F
http://yokohamaradiomuseum.com/army1.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/02/26 23:01
に加筆改修
ちなみに,戦後に青少年向け雑誌の工作作例の定番とされていたワイヤレスマイクは,九四式六号無線機の回路構成と非常に類似しています.
(参考元でも指摘されています)
"3A5" 50MHz/AM Transceiver
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jh2clv/wlmic&trcv.htm
ここでは国産ではなく,レイセオンの3A5という双3極管を使用しています.
しかしながらこの回路は受信時にも高周波ノイズを撒き散らし,周波数の安定度も現在の水準で見れば非常に不安定です.
自励発振器(コイルとコンデンサを用いた発振器)は,発振器にかける電圧や外気温,振動などで簡単にその発振周波数が変化します.
(それに直接音声信号を掛けるわけですから,その安定度は推して知るべし)
軍用無線機をアマチュア局に使う趣味人は,一定数いるわけですが,参考ページにありますとおり,現在の法制度において同機の「発振・変調を1球で行う」構成では,アマチュア局としての免許は下りないようになっています.
以下は上記ページより.
[quote]
非常にシンプルで無駄のない構成であるが,回路図から分かるように自励発振器のプレートに変調をかけているので,AM成分の他にFM成分も多かった.
周波数調整は,TV3chの音声(FM)で第2高調波を確認する等の工夫を凝らして対応した.
周波数安定度やその他特性は今からみると大きく劣っていたが,簡単に作れて十分実用になった屋外仕様のトランシーバだった・・・大らかな時代の!
[/quote]
クローム・ツァハル in mixi,2010年02月26日 00:53
▼ 上記の九四式無線機についての回答中の,
「戦後に青少年向け雑誌の工作作例の定番とされていたワイヤレスマイクは,九四式六号無線機の回路構成と非常に類似しています」
という部分ですが,この定番の工作例はワイヤレスマイクではなく,トランシーバー(トランスミッター+レシーバー)です.
ワイヤレスマイクは謂わば小出力のトランスミッターであり,送信しか出来ません.
これに対しトランシーバーは,送受信が可能なものです.
また,3A5ですが,これは九四式に使用されていたUZ30MCのMT菅タイプで,レイセオンのオリジナルの他に国内メーカーでも作られていました.
送信についての説明で,自励発振のくだりについては,
「高い周波数を直接,しかも簡易的な回路で発振させているので不安定」
とした方が良いように思います.
(自励発振でも安定度をかなり高めることが出来,戦時中でもコリンズなどは恐ろしいほどの安定度を出していました.
また,日本製アマチュア無線機が世界を席巻し始めた70年代あたりから80年代は,自励発振が使われていました.
移動用トランシーバーでも80年代製で,自励発振のものもある)
受信については「超再生方式」を使用しており,説明文中の「高周波ノイズを撒き散らす」ことの他に,「分離が大変悪い」(±数百KHzに出ている局全てがいっぺんに聞こえる)という欠点があります.
ただ,感度は結構良いため,簡易的な受信機として多用された歴史があります.
第2次大戦中にサブミニチュア菅を実用化し,それを使用したハンディトーキー
(受信部は現在の電波事情でも十分通用する,スーパーヘテロダイン・・・もちろん回路的に実用性があるという意味で,そのものが現状に対応できるという意味ではありません)
と比べると,少し残念な気がしますね,九四式.
2010年09月11日 23:21 RADIO屋
文章を寄稿したものです.
手っ取り早く仕上げてしまったためなのか,穴だらけの文章だったようです.
> また,3A5ですが,これは九四式に使用されていたUZ30MCのMT菅タイプで,
>レイセオンのオリジナルの他に国内メーカーでも作られていました.
UZ30MCが原型だったのですか.
似ているだけかと思ってました.
> 自励発振でも安定度をかなり高めることが出来,
>戦時中でもコリンズなどは恐ろしいほどの安定度を出していました.
コリンズKWM-2(これは戦後だけど)のPTOは3MHz前後.
九六式はその十倍以上のVHF帯でしたから,回路定数の変化が同条件だとしても,これによる周波数の変化は十倍以上になりますね.
かく言う本職も,自励発振式のVFOを持ったトリオ(現ケンウッド)製のオールソリッドステート無線機を一台持っており,そちらは5MHz台なのですが,立ち上がり後,暫くの間はカウンタの100kHz台が前後に変化するものの,その後は全く安定しています.
真空管タイプなら,条件はより悪いでしょうね.
2010年09月15日 22:44 クローム・ツァハル
>> また,3A5ですが,これは九四式に使用されていたUZ30MCのMT菅タイプで,
>>レイセオンのオリジナルの他に国内メーカーでも作られ>ていました.
>UZ30MCが原型だったのですか.似ているだけかと思ってました.
すみません,この部分は間違いです.
(指摘されました)
それぞれUX-30が原型ですが(兄弟分ですね),UZ30MCはマツダ(東芝)が1934年に開発し,3A5は1942年に開発されたとのことです.
私がアマチュア無線を始めた頃は,さすがにハンディ機(ハンディっていっても,ドカ弁みたいな大きさでしたが)はソリッドステートとなっており,3A5のトランシーバーも古典のうちでしたが,それでも科学教材社で12AU7(電池管ではありませんが双三極管)のトランシーバーキットなんかを売っていました.
私も昔,八重洲(今はバーテックススタンダードですが,どうもピンときませんね)FT101(後期タイプでBSってついてましたが)持っていました.
終段以外はソリッドステートでしたが,ウォーミングアップ無しでもSSBを聞くのに不便はありませんでした.
確かこれも5MHz台でしたね.
2010年09月15日 23:41 RADIO屋
>確かこれも5MHz台でしたね.
FT-101Zが5メガ帯で,他は9メガ前後だったような気がします.
2010年09月16日 00:04 クローム・ツァハル
FT-101のブロックダイヤグラム:
http://www.qsl.net/nw2m/ft101block.gif
2010年09月16日 00:08 クローム・ツァハル
101のブロックダイアグラムありがとうございました.
今の目から見てみると,MOSが少ないなとか,TRやFETが古いな(372!)とか(笑)
さて九四式ですが,その戦後版のトランシーバー(主に50MHz帯で使用されたようですが)でも通信距離は2~3Kmは届いたようですので,数さえあれば結構有効活用できたのではないか?と愚考する次第です.
どのくらいの台数が作られて,どの程度使われたんでしょうかね?
2010年09月16日 21:57 RADIO屋
http://tubes.kt.fc2.com/JAPAN_RADIO/M94_T6/94_6_a_fig001.htm
6665機,とありますので,動員規模に見合った数ではないですね.
2010年09月16日 22:58 クローム・ツァハル
▲
九四式二号乙
(こちらより引用)
九四式六号
(こちらより引用)
【質問】
中国軍の兵器の流入経路は?
【回答】
中国軍の装備は種々雑多で,国民党軍にしても,米国一辺倒ではなく,ソ連,ドイツ,日本の兵器も満遍なく使用しています.
そもそも,中国軍の軍閥同士の戦いでは,戦闘前に互いの装備を一覧表にして交換し,それを見てその傘下に入るか,戦うかを決めたものですし….
それから,清の時代から主力の小銃はドイツのKar-98bと同等の国産品,機関銃はチェコのZB26国産品,手榴弾もドイツ型です.
南京に装備されていた高射砲は,ドイツ製のクルップ88mm,スウェーデン製75mmボフォース,英国製76mmヴィッカースが用いられています.
迫撃砲は,ラインメタル製の81mm迫撃砲を主軸に,150mm,240mmの国産品が確認されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/21(木)
青文字:加筆改修部分
1938年7月,日本政府の厳重抗議により,ドイツ軍事顧問団が中国から引揚げますと,入れ代わりにソ連軍事顧問団がやってきて,機械化師団を作り上げます.
これがちょっとだけ有名な第200機械化師団で,T-33を88両,その他,雑多な装甲車(ソ連製,ドイツ製,イタリア製,英国製)を保有.
編成から1年足らずで,南寧作戦で壊滅してしまいますが.
また,航空機もI15,I16戦闘機,SB-2 bis爆撃機が,パイロットつきで供与されています.
1937年にはそれぞれ,93機,62機,62機.
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk :軍事板,2005/04/21(木)
青文字:加筆改修部分
第二次大戦末期で,蒋介石直属軍の装備にやっと米軍装備が行き渡り,M1ガーランド小銃,M2重機関銃,バズーカ砲などが配備されています.
共産党については,ソ連製も多かったですし,日本からの鹵獲品,蒋介石軍から供給されていたものなども使用しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/21(木)
青文字:加筆改修部分
▼
歩兵第13連隊第6中隊の兵隊の個人アルバム「支那事変 思ひ出」より
faq20c05.jpg
faq20c05s.jpg
国民党軍からの捕獲兵器の写真も幾つかありましたが,その中にチェコ製ZB26機関銃に混じって,縦マガジンの中国製ベルグマン型短機関銃が!!
こうやってアップ写真で見ると,やや荒い造りだという事も判りました.
コッキング・ハンドルも真上に付いていて,安全装置のフック溝が右側面に在るという作りも面白い.
縦マガジンのベルグマン型短機関銃の存在は,私も最近まで知りませんでしたが,中国国内で二次大戦以前のかなり早い時期から製造されていたそうです.
それにしても,こういった証拠写真は貴重ですね.
また,その情報が無ければ,そのまま見過ごしてしまう所でした.
また当時,多く複写された国民党軍のプロパガンダ写真もあり,08/15機関銃やブローニング系自動小銃を装備していた事等も良く判り,参考になります.
faq20c05b.jpg
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月30日13:13
~07月01日 23:32
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 国民党軍のプロパガンダ写真とのことですが,自分が持っている写真は,1枚目の写真の袋に同じ写真が入っていました.
国民党軍のプロパガンダ写真を,日本軍が記念品にしたのかな?
faq20c02c.jpg
faq20c02b.jpg
遠吠えする狗 in 「軍事板常見問題 mixi別館」
2010年05月02日 17:51
▲
【質問】
インド国民軍って何?
【回答】
大東亜戦争中,日本軍の支援によって作られたインド人部隊.
マレーやシンガポールで英軍と戦闘中に捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募った他,東南アジア在住インド人からも志願者を募り,総兵力は最大時で約45,000人に達した.
インパール作戦,イラワジ会戦などに参加し,ビルマで残存兵力は終戦を迎えた.
【参考ページ】
http://members.at.infoseek.co.jp/utidayuki/ina.htm
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/?m&no=825
http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_National_Army
【ぐんじさんぎょう】,2009/11/1 23:00
に加筆
チャンドラ・ボースは現在でもインドでは英雄で,インド政府主催の独立式典にはネール,ガンジーと並んで肖像画が掲げられるとか.
バルセロニスタの一人 in mixi,2009年11月01日 05:44
3万人超が餓死.
しまだ in mixi,2009年11月01日 11:46
『写真週報』より,シンガポールで日本軍により再訓練されるターバンを巻いた,シーク教徒のインド国民軍兵士.
右胸に着いた日の丸付きの名札が面白い.
この“カツムシン”君のその後の運命はどうなったのかも考えさせられます.
下は中ページにあった訓練風景.
別写真では英軍の皿ヘルメットを被ったインド兵達が,複数のボーフォス40ミリ砲を扱う写真も在りました.
よしぞうmaro' in mixi,2007年08月13日22:54
【質問】
インド国民軍への日本からの支援がショボかったのは何故?
【回答】
太平洋戦争初期に大本営陸軍部はインド進攻作戦を何度か俎上にあげて検討している.
ビルマ方面からの攻撃は「国力的に不可能」,セイロン島攻略は「消耗戦生起の恐れあり」として無理だと結論している.
ビルマ方面からの攻撃は末期になって起死回生の策として行なったが,その結果は周知の通り.
余裕の無い戦時下に,史実以上のインド独立支援なんて無理な要求だったわけだ.
それで結局,太平洋戦争自体が国力を超えた消耗戦になってしまったのは皮肉な話だが…
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
『アサヒグラフ』より
戦中発行のグラフ誌では『アサヒグラフ』が一番写真クオリティが良く,資料性も高いですね.
枢軸側に立ったチャンドラ・ボースと自由インド軍の特集記事では謎な装甲車が,ジャワ防衛義勇軍特集では日本軍型戦帽を被り,オランダ軍のものでしょうかマンリッヒャー系ライフルを構えるインドネシア人兵など枚挙に暇がありません.
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月11日02:25
>謎な装甲車
South African Reconnaissance Cars MKIII
日本軍占領下の蘭印などでも良く見受けます.
詳しくは
http://www.overvalwagen.com/armoured3.html
>オランダ軍のものでしょうか
おっしゃるように蘭印軍のライフルのようですね.
詳しくは
http://www.collectie.legermuseum.nl/strategion/strategion/i004817.html
から in mixi,2007年06月11日 03:05
▲
◆◆◆火砲
【質問】
日本軍の砲兵部隊について詳しく知りたいのですが,運用や構成などが詳しく書かれた本やホームページはありますでしょうか?
【回答】
『ニューギニア砲兵隊戦記』大畠正彦(光人社)
運用ならこれが参考になるかな.
運が良かったとは言え,10発ほどで敵の迫砲を黙らせたのには笑った.
または,図書館で「砲兵沿革史」を探すといい.
ちなみに「日本の大砲」には砲兵の運用や構成はほとんど書かれてない.
あくまでも火砲そのものの本.
軍事板,2011/11/08(火)
青文字:加筆改修部分
ふつうに「大砲入門」佐山次郎(光人社文庫)
でも,それだけではつまらないので…こんなのを紹介してみる.
別冊歴史読本 戦記シリーズ29「日本陸軍総覧」
ページ数は少ないですが,「支那事変における砲兵部隊の火力戦闘(田藤博)」という,師団砲兵や野戦重砲部隊の各種定数の変遷に,重点を置いた記事があります.
実はこの別冊歴史読本戦記シリーズ,結構良いのあるんですよね.
なお,紹介の記事は…
年別の野砲連隊と山砲連隊の編制数の比較変遷だとか,
常設/特設の野砲/山砲連隊の定数比較表とか,
各種師団砲兵の弾薬携行定数表があったりして面白いのです.
各種砲兵の簡単な運用についての記述も,変遷と絡めて記述されており,質問の回答には非常に良さそう.
まあ,1995年発行の別冊ムック本なので,探すのはちと大変かもですが…
Lans ◆xHvvunznRc : 軍事板,2011/11/08(火)
青文字:加筆改修部分
809 : 名無し三等兵: 2011/11/08(火) 23:06:45.93 ID:???
旧第九師団山砲兵第九聯隊史
今ならたったの6万5千円!
810 : 名無し三等兵: 2011/11/08(火) 23:16:27.49 ID:???
>>809
まあ,お安い!(棒
軍事板,2011/11/08(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争初期~中期の日本陸軍は,1コ師団あたりどれくらいの数の大砲を持っていますか?
できれば,連隊砲以上が知りたいのですが……
それと,旅団砲兵はどのクラスの砲を,何門くらい持っていますか?
【回答】
師団といってもピンからキリまであって一定しませんが,師団砲兵が定数36門,連隊砲が定数4門(1個連隊あたり)といったあたりが一般的かと.
大戦中期以降は,編成の中に砲兵連隊を持たない,いわゆる「治安師団」も増えています.
軍事板,2005/06/07(火)
青文字:加筆改修部分
例えば第三師団の日中戦争出動時の場合,砲兵連隊には,改造38式野砲(75mm)が36門,91式10cm榴弾砲12門の計48門.
歩兵連隊には1個あたり,41式山砲4門,94式37mm速射砲4門,92式歩兵砲6門が装備されていました.
師団には歩兵連隊が2つあったので,砲装備はその倍.
特設師団の場合は,砲兵連隊には38式野砲4門装備の中隊が3個で1個大隊を編成し,連隊は3個大隊ですから,38式野砲36門,歩兵連隊には,歩兵砲中隊として11年式歩兵砲2門と11年式曲射歩兵砲4門,連隊砲中隊として,31年式速射山砲3門が装備されており,連隊は2個なので倍の砲があります.
3単位師団では,野砲8門,10糎榴弾砲4門の大隊が3個,これに歩兵砲隊が付きます.
師団砲兵は野砲8門,10榴4門に減らされている例もあるようです.
逆に機動90式野砲や15榴を与えられる恵まれた師団もあるようですね.
ノモンハンで全滅に近い状況になり,再編成された,1941年編成の第23師団の場合は,機械化師団のモデル・ケースとして,機動90式野砲24門と,96式15cm榴弾砲8門を持つ野砲兵連隊と,歩兵直属の支援火器として,41式山砲4門,92式歩兵砲6門,94式37mm速射砲4門,97式自動砲6門.
これが歩兵連隊3個分有りますからその3倍が所謂砲になっています.
治安師団の場合は,初期に95式野砲4門と91式10cm榴弾砲4門を持つ野砲兵連隊が付属していましたが,これは外され,歩兵連隊直属装備としては,94式37mm砲4門,92式歩兵砲6門,41式山砲3門を有し,これが3個歩兵連隊ありますから3倍のものを保有しています.
15榴は兎も角,10加が師団砲兵に来た事は無いはず.
15榴や10加は,師団に属さない野戦重砲兵連隊の持ち物だったかと.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/07(火)
青文字:加筆改修部分
新人物往来社の「陸軍師団総覧」から適当に拾ってみる.
日中戦争当時の第3師団(4個歩兵連隊基幹);
連隊砲 41式山砲×4門
速射砲 94式37ミリ速射砲×4門
大隊砲 92式歩兵砲×6門(2門×3個大隊)
師団砲兵 改造38式野砲(7.5センチ)×36門
91式10榴×12門
※3師団はかなりの優良装備だったようです.
旅団砲兵は2~3個砲兵中隊基幹.1個砲兵中隊は野砲又は山砲4門装備なので,8~12門の大砲を持っていることになります.
続いて第106師団(4個歩兵連隊基幹)
連隊砲 31年式速射山砲×3
歩兵砲 11年式歩兵砲×2
11年式曲射歩兵砲×4
(大隊砲はなし)
師団砲兵 38式野砲(「改」ではなく)×12門
3単位編成の師団だと,師団砲兵は野砲8門,10榴4門に減らされている例もあるようです.
逆に機動90式野砲や15榴を与えられる恵まれた師団もあるようですね.
ちなみに同書には他の編成例もいくつか.大砲だけでなく,機関銃や兵隊さん,馬の定数も載ってます.
軍事板,2005/06/07(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本陸軍歩兵師団の連隊歩兵砲大隊の規模は?
【回答】
米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27),p.37によれば,以下の通り.
大隊本部(24名)
┃
┗━歩兵砲中隊(「甲」型,170名)×2
┃
┣━中隊本部(29名)
┃
┣━戦砲隊(110名)
┃
┗━弾薬小隊(31名)
中隊長:少佐または大尉
兵器将校:大尉
中隊本部
管理班
人事記録係曹長1名
補給係下士官1名
兵器・器械係下士官1名
伝令および当番兵3名(1名は騎馬)
衛生兵2名
通信班
下士官および兵6名
観測班
下士官および兵10名
戦砲隊
歩兵砲小隊(55名)×2個
小隊長:中尉
砲分隊(下士官および兵26名)×2
弾薬小隊 31名
これが強化連隊の連隊本部の下に配属される.
詳しくは同書を参照されたし.
【質問】
日本陸軍歩兵師団の連隊歩兵砲中隊の規模は?
【回答】
米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27),p.37によれば,以下の通り.
中隊本部(25名)
┃
┣━弾薬小隊(31名)
┃
┗━戦砲隊(66)
┃
┗━砲小隊×2
中隊長:大尉
兵器将校:大尉
中隊本部
管理班
人事記録係曹長1名
補給係下士官1名
兵器・器械係下士官1名
伝令および当番兵6名
衛生兵2名
信号班
下士官および兵6名
観測班
下士官および兵4名
戦砲隊
歩兵砲小隊(33名)×2個
小隊長:中尉
砲分隊(下士官および兵15名)×2
弾薬小隊 31名
これが標準連隊の連隊本部の下に配属される.
【質問】
日本陸軍歩兵師団の連隊歩兵砲中隊の兵器は?
【回答】
米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27),p.37によれば,75mm連隊歩兵砲4門が標準.
しかし,しばしば連隊砲および速射砲各2門で構成されるという.
また,ときには臼砲(おそらく81mm短砲身)が代用されるか,または含まれるという.
同書,p.215によれば,41式75mm歩兵砲は75mm山砲と大規模にとりかえられたときから,歩兵の「連隊砲」として使用され,日本陸軍に広範囲に分配されたという.
砲身に「四一式山砲」の刻印があるのは,そのため.
細木重辰(軍事史家)によれば,94式山砲が制定されたあとも,
――――――
山が多く,道の悪い中国戦線での山砲隊の活躍を知っている歩兵たちは,使い勝手のよい41式山砲の味が忘れられず,歩兵連隊にこれを譲り受け,これを「連隊砲」と称して多いに愛用した
――――――『日本帝国陸軍』(成美堂出版,2000.4.15),p.52
のだという.
詳しくは上記ソースを参照されたし.
【質問】
日本陸軍歩兵師団の大隊砲中隊の規模は?
【回答】
米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27),p.41-42によれば,以下の通り.
中隊本部(33名)
┃
┣弾薬小隊(27名)
┃
┗戦砲隊(62名)
┃
┗小隊(31名)×2個
中隊長――中尉
中隊本部(指揮班)
人事係准尉1名
人事記録係曹長1名
補給係下士官1名
兵器・器械係下士官1名
連絡係下士官1名
通信分隊(下士官1名,兵8名)
観測係下士官1名
伝令および当番兵5名
衛生兵2名
観測分隊(下士官1名,兵10名)
戦砲隊
小隊長――中尉または少尉
下士官1名
兵14名
70mm大隊砲4門
詳しくは同書を参照されたし.
【質問】
日本陸軍歩兵師団の大隊砲中隊(自動砲装備)の規模は?
【回答】
米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27),p.42によれば,以下の通り.
中隊本部(32名)
┃
┣弾薬小隊(27名)
┃
┗戦砲隊(158名)
┃
┣自動砲小隊(24名)×4個 ━━分隊(20mm自動砲1門)×2個
┃
┗小隊(31名)×2個 ━━分隊(70mm砲1門)×2個
中隊長――大尉または中尉
中隊本部32名
戦砲隊
70mm砲小隊(31名)×2個
20mm自動砲小隊(24名)×4個
70mm大隊砲4門
20mm自動砲8門
詳しくは同書を参照されたし.
【質問】
日本陸軍歩兵師団の大隊砲小隊の規模は?
【回答】
米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27),p.41によれば,以下の通り.
小隊本部(10名)
┃
┣弾薬分隊(15名)
┃
┗戦砲班(30名)
┃
┗分隊(15名)×2個
小隊長――中尉または少尉
小隊本部(指揮班)
人事記録係曹長1名
兵器・器械係下士官1名
観測係下士官1名
伝令および当番兵5名
衛生兵1名
戦砲班
下士官2名
観測兵2名
砲手12名
詳しくは同書を参照されたし.
【質問】
日本陸軍歩兵師団の大隊砲小隊の装備は?
【回答】
米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27),p.41 & 215によれば,70mm歩兵砲2門.
92式70mm歩兵砲は垂直鎖栓式砲尻栓機構を備え,88式標準遅延および瞬発信管を使用して,半固定式の弾薬を発射する.
榴弾,徹甲弾,発煙弾の種類がある.
戦闘時重量212kg
旋回角800ミル(45°)
仰角+50度
俯角-10度
射程2.8km
詳しくは同書を参照されたし.
92式歩兵砲@ミズーリ・ミュージアム
(引用元:かつ丼日記,2008/5/29付)
【質問】
九七式曲射歩兵砲に関して
・歩兵大隊の大隊砲として配備されていたのか
・その場合の編制定数
・九二式歩兵砲配備とどちらが一般的だったのか
・九二式歩兵砲と九七式曲射歩兵砲,どちらが用兵から高評価だったか
どうかお教えください.
【回答】
九七式曲射歩兵砲については,1932年の九二式歩兵砲の採用直後にストークブランから迫撃砲の売り込みがありましたが,その構造簡便,軽量,運搬すべき人数が少ない(九二式で11名,ストークブラン砲では3名)と,技術関係者は大いに興味を示しています.
が,如何せん既に国内では九二式の試作生産が開始されていたのでお蔵入りとなりました.
しかし,中華民国軍に採用されたとの情報を聞いて,「有翼弾の研究」ということで国内製造権と見本を購入します.
しかも,満州事変の戦訓で,この種の曲射砲の必要性が再認識され,生産準備が行われますが,これまた極秘の内に行われたので,生産数は余り多くありませんでした.
と言うわけで,大隊砲として配備されていたか,については,大隊砲として配備はされていました.
定数は大隊砲と同等のものとしていたので,大隊に付き2門~4門.九二式歩兵砲とどちらが一般的かと言うと,当然,九二式になります.
どちらが高評価か,と言う質問には,それしかなかった訳ですから,何とも言えない(但し,技術関係者の評価としては,曲射歩兵砲に軍配が上がるし,南方のジャングル戦線であれば,曲射歩兵砲の方が高評価)と言うことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/26(金)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/26
(péntek)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
野砲,歩兵砲,山砲の違いって何なのでしょうか?
重量とか分解可能とかですか?
【回答】
野砲は師団レベルで運用する野戦砲.
75mmクラスの口径を持つ.
山砲は野砲を簡易化し,分解して運べるようにしたもの.
日本陸軍では師団に野砲・山砲いずれかで編成された一個連隊が付属するのが普通.
ただし,後には野砲・山砲各一個大隊で編成された野砲兵連隊も存在する.
また,山砲は昭和12年以降各歩兵連隊に一個中隊四門が配置されるようになり,これは連隊砲と呼ばれた.
歩兵砲は歩兵の直接の支援に当たる小型の砲.
分解可能で馬で運べる.
日本陸軍では一個大隊につき一個小隊二門が付属されたので,大隊砲とも呼ばれた.
無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/01/14(土)
青文字:加筆改修部分
歩兵砲(うそ)
(画像掲示板より引用)
【質問】
沖縄戦で使用されたといわれる日本陸軍の九八式臼砲,四式四十糎噴進砲の破壊力はどんぐらいですか?
【回答】
いろいろ比較法はありましょうが,単純に炸薬量で比較すると以下のとおりです.
・98式臼砲:炸薬量40kg
・4式40cm噴進砲:炸薬量98kg
参考
・90式榴弾(38式野砲など):炸薬量1kg
・94式重榴弾(94式軽迫撃砲):炸薬量3.7kg
・92式15センチ榴弾(96式15センチ榴弾砲など):炸薬量7.7kg
・94式100kg爆弾(航空爆弾):炸薬量45.5kg
・92式250kg爆弾(航空爆弾):炸薬量98kg
通常火砲では比較にならず,それぞれ100kgと250kgの航空爆弾に近い.
航空爆弾の危害範囲の目安
http://www.warbirds.jp/heiki/bakudan.htm
逆にいえば,米軍なら航空機呼んで簡単にばら撒ける威力ともいえますが(´・ω・`)
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
試製四式噴進砲の側面イラスト
なかな“ブス”なデザインが,日本兵器らしくて私は好きですね.
戦後,米軍が接収した試製四式噴進砲の現物は,数門が数門共に少しずつパーツが違っていたそうなので,これは本当に手作りのプロトタイプだった様ですねー.
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月28日02:19
~06月28日 22:31
▲
【質問】
日本陸軍の迫撃砲って,独立の大隊及び中隊,又は本土決戦用の師団に連隊及び大隊が編制・配備されていたようですが,それぞれの部隊の配備定数,配備された迫撃砲の種類や,編制された部隊の総覧なんかを教えて頂けないでしょうか.
【回答】
本土決戦師団に於ては,師団砲兵隊の代りに迫撃連隊が編成されています.
また,各歩兵連隊の編成中,歩兵砲中隊の装備に迫撃砲がありますし,各大隊の歩兵砲隊の代りに迫撃砲中隊が配備されていました.
迫撃連隊は,連隊本部と段列,迫撃砲3個中隊と大隊本部,段列から成る大隊で編成されています.
これには,二式12糎迫撃砲が一個中隊8門充て装備されています.
これで合計24門となります.
また,歩兵砲中隊には同じく二式12糎迫撃砲が4門,迫撃砲中隊には4門それぞれ配備されていました.
(但し,末期になればなるほど,編成が様々なので,定数がこれであるとはっきりは言えません)
装備された迫撃砲は二式12糎迫撃砲のみです.
九六式中迫撃砲は1941年6月から翌年7月までに僅か90門しか生産されていませんし,九七式中迫撃砲は1941年に40門,42年に40門,43年に30門しか生産されていませんから到底戦力になり得ませんでした.
配備部隊としては,201,202,206,205,214,209,212,216の各師団がそう言った編成を取っています.
他にも配備された部隊があったかも知れませんが,記録は定かではありません.
戦史叢書辺りに掲載されているかもしれませんので,調べられては如何でしょうか.
ちなみに,二式12糎迫撃砲については,1945年に必要数が5500門,九九式軽迫撃砲が600門という数字が出ていますが,生産予定数ですから,実際に生産されたのかは不明です.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
九○式二十四糎列車加農の動力車について教えられたし.
【回答】
九〇式二十四糎列車加農に付いては,余りにも有名ですが,FranceはSchneider社から購入したもので,日本国内の幹線に於ける車輌限界ぎりぎり一杯の大きさで大威力のものとして,1門だけ購入され,国内でテストの後,満洲に送られたのですが,結局,その砲は仮想敵国であるソ連に向けて火を吐かない内に終わってしまいました.
その列車砲の動力源は,直流250V20馬力の電動機です.
この電動機に電力を供給する為と列車砲と弾薬車の牽引の為に,列車砲の購入に先立つ1928年,鶴見芝浦製作所(今の東芝鶴見製作所)に陸軍が発注したのが,九〇式二十四糎列車加農動力車です.
10月に完成した動力車は,10月9日から14日に予備試験が実施された後,10月24日から11月21日にかけて延べ10日間の本試験が行われました.
動力車は製造費逓減の為,鉄道省標準の15t2軸有蓋貨車を元に,機器を多数搭載する関係から,台枠の補強などが行われています.
2軸車が元になっている為,機器の設置スペースは相当程度無理したようです.
動力源は,80馬力軽油発動機で,これで35kw発電機を回し,別に充電用に1.5kwの発電機を搭載していました.
列車砲を制御する電力を供給する場合には,列車砲の位置から因みに,軽油発動機を軽油・石油切換式発動機とする改造は,気化器と圧縮余積の変更で出来る様になっていました.
同一軌道上を500m離れたところに停車し,送電用ケーブルを用いて列車砲に電力を供給します.
そのケーブルの伸縮は運行操作と連動しており,伸縮時には警報灯が付き,延長の終端に来ると警報装置が成る仕組みになっていました.
燃料タンクは400リットル入りで当初は1つでしたが,故障時の事を考え,数個に区分するか予備タンクを持つかのいずれかの措置が為されたようです.
動力車は列車砲と弾薬車の牽引に用いられるとは言っても,流石に長距離の牽引は無理(そもそも133t+αの重量物を牽引するのに35KWの発電機だけではアンダーパワーですわな)なので,長距離牽引は普通の鉄道機関車に頼ります.
あくまでも,短距離の陣地展開用な訳で….
しかし,牽引に付いてもアンダーパワーではどうしようもないので,電動機の歯車比を大きくして牽引力を増すことにしています.
これすると速度が制限されますが,土台,陣地の変換用なので,余り速度までは要求されなかった様です.
また,鉄道機関車による長距離牽引時には歯車が破損しない様に取り外すことが考慮されていました.
この車輌も他の車輌と同じく,車輪は狭軌と広軌の両方が準備され,交換する事で両方の軌間を行き来する事が出来ました.
ただ,思うのですが,当時国鉄でも同時期に試作したディーゼル動車は使用実績が芳しくありませんでした.
この80馬力軽油発動機が,いすゞなのかそれ以外(池貝鉄工所の内火艇改造?)なのかは定かではありませんが,何れにしても初期の物であるからには,故障が多かったのではないかと思ってみたりして.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月12日22:17
【質問】
日本陸軍の重砲について質問です.
・九六式15㎝加農と九六式24㎝榴弾砲は,砲床無しでの射撃は可能なのか
・砲床無しでの射撃が可能ならば,砲床抜きの放列砲車重量はどれくらいか
・これら二砲の位置づけは,攻城砲であり,野戦重砲としての使用は考慮外だったのか
・これら二砲の生産数と配備部隊
・九六式24㎝榴弾砲がバターン戦で起こした腔発問題はその後どうなったのか
可能な範囲で,どうかお教えくださいませ.
【回答】
九六式15糎加農砲の場合は,砲床無しでの射撃は不可能です.
ちなみに,この砲は,砲身,砲床,砲架の3つに分解し,三車に分載して九五式15噸牽引車にて運搬します.
これら一車当りの重量は,最大12tになります.
でもって,この砲は,野戦攻城重砲であり,なおかつ海岸要塞重砲として使用する目的で開発されています.
配備部隊は,
Bataan攻略戦で,独立重砲兵第二中隊が九六式15糎加農砲2門,
壱岐要塞生月砲台(壱岐要塞守備隊の壱岐要塞重砲兵連隊)に敗戦時2~4門,
虎頭要塞(第四国境守備隊)第1大隊に砲塔式のそれが4門,
他に鎮海湾機張砲台に4門,
下関角島砲台に4門,
津軽汐首第二砲台に4門,
羅津花端砲台,宗谷岬砲台,宗谷西能登呂砲台にそれぞれ4門
が配備されています.
九六式24糎榴弾砲も同様に砲床無しでの射撃は不可能です.
分解は,砲身,砲床,砲架,小架の4つは1車当り12t程度,それ以外は4t運搬車2両に分載しています.
これも同様に,野戦攻城重砲と要塞重砲の位置付けです.
配備部隊は,独立重砲兵第二中隊に重砲兵学校の2門を充当くらいしか判らないです.
但し太平洋戦争中はResourceが他に食われ,数門しか製造していません.
腔発問題については,弾薬の問題と言う形になっていた様ですが,戦争の進展で等閑にされていた感じです.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
戦前の日本陸軍が火砲の(特に大型のもの)実弾演習をするところは,富士と北海道あたりだったのでしょうか?
それとも朝鮮とか満州なんかに行って演習していたのでしょうか?
【回答】
渥美半島の先端に,陸軍技術研究所伊良湖試験場と言うのがあり,此処で大阪砲兵工廠にて試作した大砲,砲弾,信管の試験データの採取,鹵獲砲の試験を行っています.
1901年11月30日に開設,敷地面積285万坪の広大な試験場です.
また,赤城山北面山麓一帯は迫撃砲の演習場でしたが,実際は化学戦部隊,つまり,毒ガス弾専用の射場でした.
他に,15糎高射砲弾道試験用には浜松試験場を有しており,他に1920年,海岸砲兵用の41糎榴弾砲試射の為に,射程が大きすぎて伊良湖試験場では対応出来ないため,今の千葉県富津岬に,富津試験場が整備されています.
此処では,41糎榴弾砲の他,24糎加農砲の試験も行われています.
これは東京湾元洲砲台の跡地に建設され,射線は房総半島に平行して,上総湊方面に1万メートル,館山方面に向けて3万5千メートルでした.
伊良湖試験場,富津試験場ともいくらかの遺構は残っているようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/11(木)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/11
(csütörtök)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
よく「爆弾砲」というものを戦記物で読むのですが,これは具体的にはどのような砲なのでしょうか?
海軍守備隊や飛行場守備隊など手持ちで航空用爆弾などを抱えており,榴弾砲はさほど無い部隊などで出て来る話です.
一番最初に読んだのが檜山良昭の『日本本土決戦』で,相模湾に上陸してきた部隊相手に使われる描写だったので架空かもと思ったのですが,その後戦記物でも読みまして気になっていたのです.
【回答】
檜山氏の「日本本土決戦」に出てくる「爆弾砲」は,作中の描写の通り,航空爆弾のストックを大型の鉄パイプから少量の炸薬で発射する装置.
要は急造の迫撃砲.
正式な名前は忘れたが,「爆弾砲」と言う名前で本土決戦用兵器として生産されて準備されていた.
硫黄島で使われたのが有名な,「ム砲」と呼ばれる有翼臼砲の簡易型.
あと,これまた航空用爆弾のストックに少量の炸薬をつけ,斜めに立てたレールの上に置いて発射する,という簡易投射兵器もあった(これも名前忘れた,スマン).
最初は対潜用に開発されたが,これも本土決戦の際は砲撃兵器として大量に使用する予定だった.
航空部隊が撤退したラバウルでは,使い道のなくなった航空爆弾(50kg,100kg)を使った現地自活兵器として爆弾砲が製作されている.
昭和19年5月頃に,陸軍第26野戦兵器廠の重富信中尉が研究主務者となって,製造試験が行われた.
打上花火筒のような構造の発射筒(薄鉄板筒の周りを鉄筋コンクリートで巻いたもの)を使い,航空爆弾を黒色火薬(これもラバウルで製造)で飛ばすというもの.
10数回の発射試験が行われたが,第1回目の発射試験では射角45度で1500m飛んだとのこと.
発射から弾着するまでの間,空中で数回回転することが問題となり(瞬発信管が付いてため弾頭部から着地しないと爆発しない可能性がある),弾道性能の改善に半年以上かかったとされている.
終戦までの製造実績(計画数)は,50kg爆弾砲50門(100門),100kg爆弾砲20門(50門)とのこと.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍の九〇式野砲は対戦車砲として十分な能力があったのでしょうか?
【回答】
M4あたりまでを相手にするなら,ぎりぎり十分な威力といえよう.
有効射程が500m程度なので短いけれど,待ち伏せ主体の対戦車砲としては無価値では無い.
他方,硫黄島では「新型戦車」に効果が薄かったという記録もあり.
もっとも,日本の場合,戦車砲でも
http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage51.html
みたいに被帽なしの無垢の徹甲弾がデフォだったんで,威力がやや弱い?というのはまあ否定しない.
(無垢の徹甲弾は装甲鈑に当たったとき,滑りやすい傾向アリ).
九〇式野砲の場合はさらに悲惨で,一式徹甲弾までは戦車用徹甲弾より,さらに威力の微妙な九〇式破甲榴弾とかしかなかったわけだから……
哀しいですね.
なお,冶金技術が低いから砲弾が砕けて貫通しないという話が散見されるが,出所と思われるサイトの内容は,日本軍を一切評価しないのが基本方針のようで,日本軍にとって不利な話はソ連のプロパガンダでもそのままで,いささか公平性に欠ける.
砲弾の話も,砲弾の材質を詰めたりしておらず,憶測が多く信用性は微妙.
こちらでの議論が興味深いのですけど,けっきょく世界標準に達する砲弾がなかったことが,なんかしょぼい,というイメージを持たれてしまう原因なのかもしれない.
砲自体は,ごく普通に高初速で威力の大きい75mm野砲.
http://www.warbirds.jp/ansq/3/C2000567.html
軍事板
青文字:加筆改修部分
日本軍の火砲の中ではかなり高い対戦車能力(75mm弾頭の質量効果×初速683)を持っていたので対戦車砲としても運用された.
それの対戦車能力を買われて一式砲戦車や三式戦車の主砲に選定されてもいる.
ただ実際問題,M4戦車の正面装甲を抜けるかと言われれば苦しいといわざるを得ない.
あくまで日本の火砲の中ではという事.
構造も開脚式の砲架やタイヤ(機動九〇式野砲のみ)で,比較的対戦車砲に向いていたと思う.
九〇式は,軽く丈夫な自緊式の砲身や,反動を抑えるマズルブレーキや空気式注退復座機を有している.
対戦車能力で九〇式を超えるのは高射砲群,特に四式,五式戦車の主砲にもなった四式高射砲ぐらいかな.
結局,十分な数を供給できなかったけどさ.
モッティ@いもば ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
ちなみに九〇式はフランスのシュナイダー社に設計を依頼して作った砲で,超有名なM1897の発展型といえるもの.(たぶん砲弾は共通)
M1897はアメリカのM3中戦車やM4中戦車の主砲の先祖でもある.
アメリカなのにインチ口径でなくセンチ口径なのはこのため.
駐退機や尾栓など戦車砲向きに相当いじられてるが.
M1897や近代改修型(日本風に言えば機動野砲型)M97/31は,ドイツ軍が捕獲してT-34対策としてPaK97/41に改造している.
したがってM4くらいの相手ならできるはずだが,他の人も書いているように被帽付徹甲弾が実用化できてないのがイタい.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
大戦時の資料を読みますと,要塞砲として戦艦の砲塔をそのまま据えつけた例が見られますが,どうやって運んだんですか?
【回答】
専用艦を建造して砲を運搬.
要塞の港に起重機を臨時で製作し,それで釣り上げ.
要塞の砲設置場所まで,軍用軽便鉄道を敷設して,それで目的地まで持ってきて,更に起重機を設置場所に組み立てて,砲を設置すると言う方法を用いていました.
専用船と共に,起重機も専用の分解,組み立て式の120tクレーンを石川島造船所に発注しています.
何しろ,40cm砲塔の旋回盤が100t,砲身もそれくらいありましたし….
これと,従来からあった30tクレーンやウィンチを併用していました.
また,砲塔の旋回には水圧を用いましたが,その原動機としてはディーゼル機関を新潟鐵工所に発注します.
他に,照明用発電機,噴射用圧搾空気機関はなるべく市販品を用いて費用を削減していますね.
ま,今の時代ではどうということはないかもしれませんが,当時としては大変な話で,1923年~1932年に掛けての大事業だった訳で.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/25(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争当時に開発されていた「陽電子砲」について詳しく知りたいです.
ネットで調べてみたんだけど,アニメのネタばかりで.
今のところ知ってるコトは…
・静岡県金谷町に砲台の跡が残っている.
・島田理化の○○博士というヒトが開発したらしい.
・船舶に搭載して遠洋からウラジオストクを砲撃する予定だったらしい.
・試射実験したところ一発打っただけで壊れてしまったらしい.
【回答】
どこでそういうネタを拾ってきたか知らんが間違いだらけ.
陽電子砲ではなく,「Z兵器」もしくは「勢号」と呼称された極超短波(マイクロウェーブ)照射装置.
▼ しかも,これは対地攻撃用ではなく,対空用.
詳しくは別項を参照されたし.
まず実験室で,鼠を2分間かけて殺すことに成功した.▲
さらに大型化し,パラボラ・アンテナで敵航空機に大出力のマイクロ・ウェーブを当て,エンジンを故障させて撃墜することを目標とした.
エネルギー源としては,大井川発電所を使用するつもりだったとか.
開発を開始した時期は1944年で,当然のことながら間に合わなかった.
ソ連が参戦したのは終戦間際.当時は中立国だったソ連に使用するくらいなら,まずアメリカに使うことを考える.
島田理化は戦後に創設された会社.
陽電子は電子と逆の+の電荷を帯びた反粒子で,これを発生させるためには超巨大な加速器が必要.
兵器として使用できるくらい大量に陽電子を発生させるのは,現代でも不可能.
こういうエネルギー兵器というのは大気中での減衰がすごかったり,投入したエネルギーに見合った効果がないということで未だに実用化されてないわけで.
アメリカの対弾道弾レーザー(ABL)だって,まだ実用化のめどがたってないしね.
そもそも陽電子をどうこうできるような技術力と生産力があったら,日本は戦争する必要がない.
▼ ところで,「勢号」開発メンバーの中には,トップクラスの技術者・研究者が結集していたそうで,後にノーベル賞を受賞した江崎玲於奈なんかも含まれていた.※
ところで,「勢号」開発メンバーの中には,トップクラスの技術者・研究者が結集していたそうだ.▲
中には戦後,某家電メーカーに就職した方もいて,勢号で培った技術をマンマ流用.
世界初の「家庭用小型電子レンジ」(それまでの電子レンジはでかい,重い,値段も高いだった)開発に成功したとか.(さすがに「プロジェクトX」では語られなかったが)
コンビニで暖かい弁当が気軽に食べられるよーになったのも勢号のおかげ.
軍事板,2005/05/09(月)
青文字:加筆改修部分
▼ ※ トップクラス云々には同意しますが,江崎氏については???です.
江崎氏の生年を見ると1925年であり,終戦当時で20才.
勤労動員されていた可能性は十分にありますが,それほど本質的な寄与をしていないように思います.
HDK in FAQ BBS,2010/4/17(土) 14:56
青文字:加筆改修部分
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