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 【link】

World War Aircraft Archive(米軍機,英語)

日本におけるダグラス研究会(DC-3)

「ワレYouTube発見セリ」:1938-The American Armed Forces

「ワレYouTube発見セリ」:PBY Catalina

『幻の大戦機を探せ』(カール・ホフマン著,文春文庫,2002/3)

 やっとこさ読了.

 久々にグリーネマイヤーが出てたのにびっくりした.
 彼は今こんなことやってたんだ.
 下手な小説よりもどんでん返しが面白かった.
 これを縦糸に,いまのアメリカの大戦機ビジネスのあり方を丹念に描いているし,訳もそんなに違和感がなかったな.

 何故人々が今のジェットではなく古いレシプロ大戦機に郷愁を感じるのか,その辺も深く掘り下げている.

この本で印象に残った言葉.(軍用機レストア工房のおっちゃんの言葉)
「この国は1940年代に頂点に達してしまったんだ.
 そのことは読んだし,工房にやってくる年寄り連中とも話し合ったよ.
 第二次世界大戦に突入したときは,日本人とドイツ人が世界最高のパイロットだった.
 だけど,テクノロジーと工業力の戦争だったんだ.
 今,俺達はもう何も作らない.
 サーヴィス経済になってしまったのさ.
 ウォルマートへ行ってみろよ.
“アメリカ人が買い物をする店へ!”.はっ!
 ここでは,もう何も作っていない.
 つまり,立ち止まって,コンピュータ野郎と比べて熟練機械工が何を作るか考えてみろってことさ.
 この国はテクノロジーおたくの国になってしまった.
 何のためにコンピュータが必要なんだい?
 誰かに電子メモを送る装置に,なんで1400ドルも払うんだい? どうして?
 俺には理解できないね!
 コンピュータに興奮するのは難しいよ.
 寧ろ,連接棒を眺めている男を眺めている方が良い」

------------眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/03/16

 【質問】
 アメリカの軍用機の国籍マークが,第二次大戦初期と中盤以降で異なるのはなぜですか?

初期はF2Aの塗装で多く見られる「丸の中に星」
中盤以降は今でも見られる「丸の中に星+帯」

になってるようですが.

 【回答】
 両サイドに線をつけるのは,ドイツ機との誤認を防ぐためです.
 遠方からだと,鉄十字の外側に描かれた,白い帯と,白い星の区別がつかないから.

 ごく初期には,星の中に赤い丸を描いていた時期もあります.
 これは,日本機の日の丸と見間違えやすいという理由から,まもなく廃止されています.


 【質問】
 太平洋戦争でのアメリカ軍の航空隊のうち,日系人による活躍はなかったでしょうか?
 スパイ対策として前線に送り出さなかったのではないかと思うが,日系人のパイロットがいたといっても,本土しか配置しないようにしたりテストパイロットに回されたのでは?


 【回答】
 さすがにパイロットはいないんですが,B-29の射手として太平洋戦争に参加した日系人がいます.
 ベン・クロキ軍曹という日系二世です.

 ベンは真珠湾攻撃の一報を聞いて軍に志願したんですが,日系ということで差別を受けて,希望したパイロットどころかタイピストにされてしまいます.

 しかし,前線に出られるよう運動をした結果,英駐留の第93爆撃グループに配置転換されました.
 ここで爆撃機の射手になることに成功,B-24に乗り組んで出撃を続けます.
 その結果,彼は,有名なルーマニアのプロエスティ製油所爆撃を含む30回の出撃で シルバースター(銀星章)を獲得しました.

 ところが,負傷して帰還したアメリカ本国で,またもや差別を受けたことに憤慨したベンは,太平洋戦線への出撃を志願しました.
 軍は日系人を第一線に出さない方針であったためこれを拒絶しましたが,最終的に認められて,ベンはB-29の射手として28回の出撃を果たしました.

 終戦後にベンは,ヘラルド・トリビューン誌の企画でニューヨークで参謀総長のマーシャル元帥と並んで,戦勝祝賀演説を行う名誉に浴し,▼彼はこれを「私の59回目の出撃」と彼はその演説内で「アメリカ合衆国にいまだ存在する人種差別と戦い続ける」と演説で宣言し,そのことに対して「59回目の出撃」と呼んだそうです.

 ソースは秦郁彦『第二次大戦航空史話』

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
ありま in FAQ BBS(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 米国ではどのように航空機搭乗員を養成したのか?

 【回答】
 第二次大戦時,各国では航空関係の人材を多く必要としました.
 戦前は,同じ様な人数でスタートしますが,戦争が進展するにつれて,連合国は膨大な人数の人材を航空関係に投入します.

 米国では,1939年当時,陸軍航空隊に1700機の航空機と1600人の士官しか居ませんでした.
 全兵力は2万人程度で,全体の10%足らず.
 それが,1944年になると,兵力は240万人に増え,陸軍全体の3分の1を占める様になります.

 開戦時には資金が無く,編隊を組んで飛んだことのない状態からスタートしたのに,戦争が始まると最初の数ヶ月で,年間3万人の操縦士と数千人の爆撃手,航空士,機関士を育成するつもりだったりする訳ですが,1942年10月にはそれは上方修正され,操縦士だけで10万人,それに伴い他の職種の連中も合わせると100万人の兵士が必要とされていました.

 100万人のうち,最初の体力テストと筆記試験でその半数がふるい落とされ,歩兵に回されました.
 残った半数のうち40%は初等練習,中等練習,高等練習の何処かでふるい落とされていきます.

 1942年12月に志願兵入隊を打ち切った時,陸軍航空隊は,毎月1万3千人を候補生として登録していましたが,教育能力は月に1万人でしかありません.
 残りの3千人は,操縦士予備の登録リストに載っていますが,例えば,大学訓練派遣プログラム(CTD)に基づいて,大学に派遣され,1日半掛けて3部のテストを受けさせられました.

 第1部では,一般知識,グラフと図を読む能力,機械の原理の理解力,地図と写真を読む能力,認識の早さと正確さ,専門知識の理解力の判定を.
 第2部では,筋肉の運動協調が可能か,圧力に耐えられるか,指は器用か,次々に変化する刺激に素早く反応出来るかを判定します.
 第3部では,心理学テストで,「女性は好きか?」とか,「寝小便はするか?」などの質問をされました.
 このテストの前後には,脈拍数と血圧を測定されました.

 また,これらのテスト完了後,漸く訓練基地に配属された操縦士志望者は,更に視力検査,即ち色覚,遠視,近視,遠近調節,奥行き感覚などのテストが行われます.
 奥行き感覚のテストは特に難しく,20%の学生がその時点で振り落とされます.
 テストから漏れた落第生は,即座に荷物を纏めて基地を離れなければなりません.
 但し,この時点で,操縦士としての適性がないとされましたが,他の職種への志願の余地は残されており,1944年当時,重爆撃機乗りの6分の1はこうした落第生が占めていました.

 こうしたテストは,配属されて熟練操縦士になってからも,年に1回受験しなければならず,落第すれば即座に操縦資格が停止されました.

 心身両面のテストに合格すると,地上訓練が行われ,行きたいコースの希望を聴かれます.
 成績上位者は操縦士になれるだろうと思っていましたが,実際には成績上位者の中から選抜したのは航空士でした.
 振分けは,第1がテストで示された適性,第2が各人の希望,第3が定員数の都合で行われました.
 しかし,1944年になると第1は定員,第2が適性,そして最後が各人の希望に変更されていました.

 テスト合格者の家族には,配属コースの決定通知が本人と同じく,書簡で行われます.
 それには「吉報」と赤字のスタンプが押され,手紙が同封されていました.
 その手紙には,ウィングマークを得るまでに行うプログラムの概要が示されていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月30日21:47

 1943年当時,米国の操縦士を含む航空隊員が前線に出るまでに練習機に乗る平均飛行時間は360時間でした.
 これでも短縮された方ですが,ドイツは110時間程度でしたし,
 日本に至っては100時間未満だったりする訳で.

 彼らは先ず,適性検査を受けた後,5ヶ月の地上訓練を受けることになります.
 午前中は大学教授の教える気象学と航空学と機械学の授業.
 それも頻繁に口頭試問や試験が行われ,合格点に達しなければ,容赦なく振り落とされます.

 午後は身体訓練で,腕立て伏せ,懸垂,腹筋,屈伸,ウエスト運動,その場での駆け足,壁に手をついて体重を掛けたまま頭を反らせる運動.
 それが終わると,10km弱のランニングです.
 この時,教官は後ろから自動車で追い立てますので,気を抜いては居られません.

 これが毎日毎日続き,彼ら訓練生が気を抜けるのは唯一,土曜日の教会での説教だったそうです.

 5ヶ月後,基礎訓練が終わった彼らは,愈飛行訓練を受ける事になります.
 此処でも身体訓練を受けましたが,最初の頃よりはマシな状態になっていました.
 要は身体が慣れていっていた訳です.

 そして,初等練習機での飛行訓練ですが,1943年当時は未だ米陸軍航空隊と雖も,自前での教官を揃えられず,民間人が訓練に当たっていました.
 此処で12週間を過ごします.
 朝7時から訓練が行われ,単独飛行が出来なければ落第となります.

 この段階での訓練には,飛行訓練の他,座学,身体訓練などがあります.
 座学では,モールス信号,航空機識別法,化学戦の実際やガスマスクの使用法まで学びます.

 変わったところでは,高々度体感訓練もこの段階で行われます.
 これは,部屋から空気を抜いて9000m相当の状態を作り出し,其処で酸素マスクを付けて1時間の間,諸々の作業を行ったり,マスクを外して酸素欠乏を体感します.
 更に,11,400m相当の状態になり,そこで30分過ごします.
 この時点で,潜函病に似た症状を経験することになります.

 初等訓練が終わると正式な飛行訓練生となります.
 この時点になって初めて,操縦士,爆撃手,航空士などの職種に振分けられ,以後の訓練を受ける訳です.
 そして,この時点からは兵卒から士官候補生としての待遇を受ける事になります.
 但し,その道は険しく,この時点で15%程度の仲間が脱落します.

 操縦士は其の儘,中等練習機の訓練に進みます.

 この課程では,高等飛行,例えば宙返り,錐揉み,旋回などを教官から一通り教わり,単独飛行を繰り返します.
 この段階では,未だ多発機課程の人間も戦闘機課程の人間も同じカリキュラムを熟す訳です.
 3ヶ月後,彼らは更に高等訓練課程に進みますが,此処で最終的な機種の選別を受け,戦闘機課程と爆撃機課程に分かれていきます.
 この選別は,その時点での戦闘機と爆撃機の操縦士需要,次が訓練生の適性と体格,最後が候補生の希望でした.
 体格と言うのは,大きすぎて戦闘機の操縦席に座る事が出来ない者がいた為です.
 一般的に,爆撃機や輸送機の様な多発機の操縦士には,これらの重い操縦装置を扱える身体能力が優先的に割り振られました.

 高等訓練課程では,戦闘機ならば空戦訓練なども行いますが,多発機訓練課程では,先ず計器飛行を覚え,編隊飛行,夜間飛行,タッチアンドゴー,無線なども学んでいきます.
 更に,片発操縦訓練を突発的に試験される事もありました.
 計器飛行に関しては,実地訓練の他,リンクトレーナーでの訓練も多用されました.
 最終的に実戦機訓練部隊に配属されるのですが,此処でも本人の希望は無視される事が多く,希望通りになるのは四発爆撃機の希望者だけでした.

 こうして,彼らは実戦機訓練部隊に配属されますが,米国陸軍航空部隊の操縦士を志願したのは31.7万人.
 そのうち高等訓練を突破し,実戦機訓練部隊に配属されたのは19.3万人で,実に5分の3が何処かの課程で振り落とされていた訳です.

 航空士の場合は,計器飛行,地文航法,ロラン利用の航法,天測航法などを習得します.
 航空士は20回の飛行訓練に参加し,その飛行時間は,100時間以上に達しました.

 練習機には双発機が割り当てられ,訓練生数名と教官1名,操縦士1名が同乗します.
 飛行時間帯は昼間のみならず,夜間飛行もあり,二地点間コースの飛行で,ランデブー,探索,哨戒などの任務飛行を熟さなければ成りません.
 訓練生の内,月に5%が落第していきました.
 訓練期間は8ヶ月近く掛りますが,この課程を卒業する際には,B-12六分儀と,世界中を網羅した40冊以上の天測航行図表が支給されることになります.

 爆撃手の場合は,先ず6週間に渡る砲手訓練が行われました.
 彼らは先ず,どの爆撃機のどの砲塔でも扱える様に訓練を受けます.
 それから各武装の仕組みを覚え,信管の扱いを覚え,爆撃照準の方法を理解し,実際に爆撃照準器を操作する訓練などを学習し,みっちり訓練を積みます.
 爆撃手になるには,300時間近くの飛行時間を必要とし,航空士より更に数ヶ月の時間が必要でした.

 通信士は6週間で資格取得が出来ます.
 通信士の教育は,電子工学,機械学,信号法,無線通信の仕組みを学び,無線機内部の電子工学を理解し,発電機の組立てや真空管とアンプ,変圧器と送信機の勉強をします.
 これらの機械は,分解し組み立てを繰り返し覚えることで,最後には目隠しをした状態で,これらの分解と組立てを行う事が出来る様に訓練されました.

 砲手は養成人数の最も多い職種で,30万人が養成されました.
 この中には爆撃手や通信士も含まれますが….
 彼らは先ず,散弾銃によるスキート射撃の訓練を受け,地上にある可動砲座から,先ずは小火器,次いで自動火器,最後は重機関銃で標的を撃つ訓練を行います.
 更に実際の動力駆動砲塔の操作方法を受講し,その照準方法を学びました.
 後は,実機で標的射撃の訓練を受ける訳です.

 なお,こうした通信士やら砲手などは,優秀な成績で上位2%に入ると,一度操縦士課程を落第して,こういった職種に送られても再志願する事が出来ました.

 米国は枢軸国に比べ,桁外れの飛行時間と体系的な教育を行っていたので,1944〜45年の過酷な戦場を戦い抜けた,と言っても過言ではありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月31日22:37


 【質問】
 大戦末期での枢軸と連合国ではパイロッットの養成期間にかなりの開きがあったと聞きます.
(うろ覚えなのですが,アメリカでは実戦投入まで360時間の飛行時間だったと思います)
 アメリカで一般的に(学卒の一般人),入隊してから戦闘機パイロットが実戦投入されるまでの期間は ,どれくらいだったのでしょうか?

 【回答】
 1943年の例ですが,短くても1年〜1年半程度は前線に出るまでに掛かっています.

 陸軍入隊後,先ず,初期教練を受けます(1ヶ月程度).
 その後で,5ヶ月間,試験と地上訓練を受け,適性が決められます.
 午前中は気象学,航空学,機械学などの講習と口頭試問が繰り返され,午後は身体訓練として,腕立て伏せ,懸垂,腹筋,屈伸,ウエスト運動,その場での駆け足,壁に手をついて体重を掛けたまま,頭をそらせる運動を数時間やった後,10km弱のランニング.
 最初の体力テストと筆記試験で全体の半数が篩い落とされ(つまり,其の儘歩兵行き),残った者のうち,40%以上が初級訓練,基礎訓練,上級訓練の何処かで篩い落とされることになります.

 最初のテストは,第1部で一般知識,グラフと図を読む能力,機械の原理の理解力,地図と写真を読む能力,認識の速さと正確さ,専門知識の理解力を判定され,第2部では筋肉の運動協調が可能か,圧力に耐えられるか,指は器用か,次々に変化する刺激に素早く正確に反応出来るか,第3部が心理学者との個別面談となります.
 次いで身体検査で,テストの前後に脈拍数と血圧を検査され,色覚,遠視,近視,遠近調節,奥行き感覚のテストが行われます.
 この段階で20%が不合格となり,操縦士以外の砲手や通信士,航空機関士などへの道を歩むか,歩兵に行かされます.

 これらのテストをパスすると,漸く初等練習機の同乗飛行が開始され,単独飛行に進みます.
 この段階でも不合格者は,別のコースへ鞍替えさせられることになります.
 ここまで生き延びれば,希望コースの訓練順位を提出させられます.
 操縦士,航空士,爆撃手のうち,成績優秀者は航空士コースへ,それ以外は,適性と各人の希望,定員数の順番で,他のコースに振り分けられます.

 5ヶ月初期訓練の後,2ヶ月は飛行訓練の初期段階,初等練習機による12週間の訓練,次いで上級訓練が1〜2ヶ月,以後,各機種毎の転換訓練となり,前線の需要にも依りますが,3ヶ月くらいで卒業となり,前線に配属準備が完了します.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 以前の眠い人さんのレス

>米陸軍航空隊は,
> 特に旅客機操縦士は基より,農業機パイロット,大学生など
>民間にいる軽飛行機の操縦士を徴募することで,急速に養成が可能となっている訳です.

つーのがありますけど,それなのに初等練習機に乗せるとかやったわけですか?

 【回答】
 取り敢ず,経験者であれば,地上訓練を少しやって軍に慣れさせ,初等訓練で軍用機に慣れさせて,どの機種に進ませるべきか程度の訓練を行った上で,高等練習に行きます.
 勿論,民間の大型機パイロットであれば,戦闘機よりも輸送機や爆撃機パイロットとして引く手数多(あまた)だったりしますが….

 上の例に挙げたのは,全くの素人が一から飛行機を飛ばした場合として書いた例になります.
 大戦中は,軍用機パイロットはもとより民間旅客機やら農業機やらのパイロットですら払底するくらい,飛行機が必要とされた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大江健三郎氏の「飼育」という作品に,黒人のB-29搭乗員が出てくるのですが,実際に第二次大戦において,米軍の軍用機に黒人が搭乗する事はあったのでしょうか?

 【回答】
 爆撃機の搭乗員やってたかどうかは知らないけど,タスキギー(?)飛行隊という戦闘機の部隊が,試験的に設立されてた.
 部隊は黒人のみで編成され,黒人兵にハイテク(笑)機械が操れるか?というのを,見極める為だったらしい.
 …というのは言い訳で,白人至上主義者の上院議員が中心になって,
「黒人も戦闘職全域に渡って従軍させるべし」
という意見を黙らせる為だった.

 最初に部隊が送られたのは北アフリカだったかイタリア戦線で,空対空の戦闘が殆ど無く,その点を突かれて「解体すべし」という意見が出たけど,できレースでなく自由に戦わせてもらい,真の実力を証明させて欲しいという部隊長の嘆願により,ドイツ本土を爆撃するB-17部隊の護衛を命じられ,初の任務を見事に成功させる.
 以降も大活躍で,白人のパイロットから直々に護衛を要請されたりと,その戦功は見事なもの.
 驚くべきことに,この部隊が直援をした爆撃機は,ただの一機も空対空の戦闘で失われたことがないという,前代未聞の記録まで打ち立てたそうだ.

軍事板,2001/06/05(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次大戦中のアメリカに女性パイロット部隊があったそうですが,規模とか戦果とか使っていた飛行機とか詳しく教えてください.

 【回答】
 アメリカの場合,ソ連と違ってレンドリース機空輸などの非戦闘任務なので,戦果はありません.

 ここに詳しい
http://www.ne.jp/asahi/kaz/custom/GALLERY/WASP/wasp.htm
が,これによれば,太平洋戦争勃発によるパイロット不足により,WAFS(Women's Auxiliary Ferrying Squardron)およびWFTD(Women's Flying Training Detachements)が発足.
 1943年8月にはWASP(Women Airforce Service Pilots)に統合され,空輸,物資輸送,連絡,新型機テスト・フライト,対空射撃訓練用航空標的曳航などに従事したが,軍人扱いではなく「公務員」のままだったという.
 1944/12/20,男性パイロット損耗が,当初予想を大きくしたまわることが確実となったため,WASPは最後まで軍人資格を得られないまま解散され,WASPパイロットは退役軍人として認められず,任務中に死亡したパイロット39人の遺族に対しても何の補償も行われないなどの問題を残したという.

軍事板
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 チャールズ・リンドバーグは第2次大戦中はどんな活動をしていたの?

 【回答】
 彼は1935年から39年はヨーロッパで過ごしていたんだけど,そんときドイツではゲーリングから名誉勲章を授けられている.
 んで,帰国後,アメリカの第2次世界大戦参戦に反対,そのせいで親ナチスとして非難された.
 でもその後,軍顧問として戦地へ行って,自ら空中戦を体験.

 そのためか第2次世界大戦後,准将に昇進し,空軍や航空会社の顧問を務めた.

 なんで第2次大戦に反対したのかについちゃ,識者待ち.


◆◆◆◆装備


 【質問】
 パイパー「カブ」って何?

 【回答】
 「カブ Cub」(子犬)は,テイラー兄弟社(Taylor Brothers Aircraft Manufacturing Company)が開発し,1930年に初飛行した軽飛行機.
 しかし財政状況悪化により,同社は人手に渡り,テイラー兄弟社の社長兼財政部長だったW. T. パイパーが,テイラー兄弟社の設備を買い取ってテイラー航空機(Taylor Aircraft Company)を設立.
(1937年にパイパー社と改称)
 この会社により,生産は継続された。

 高翼単葉を両舷各一組のV字型斜め支柱で支え,操縦席と客席の窓を大きくし,また,左右に分離した車軸をV字型脚柱で支え,かつ整形してある.
 エンジンは当初,コンチネンタル空冷水平対向4気筒,40hpだったが,後にコンチネンタル A-65 空冷水平対向4気筒 65hpへとパワーアップされた.
 民間機として14,000機以上が生産されたほか,弾着観測機/軽連絡機/練習機 L-4B として米陸軍その他に採用され,軍用機型が5700機造られた.
 スーパー「カブ」シリーズは,現在も多くが現役で活躍している.

 【参考ページ】
佐貫亦男「飛行機のスタイリング」,『航空ファン』1995年4月号,p.153
http://military.sakura.ne.jp/world/w_j3.htm

三面図
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/03/12 20:10
を加筆改修


 【質問】
 カーチス Curtiss O-40 「レイブン Raven 」偵察機について教えてください.

 【回答】
 1932年に初飛行した,米カーチス社開発の複座偵察機.
 「レイブン」は「ワタリガラス」の意味.
 胴体は円形断面セミモノコックで流線形.
 主翼は一葉半で,下翼は上翼の1/4以下の面積しかなく,下翼のねじりを恐れて両舷にN字形翼間支柱をつけた慎重設計.
 また,上下翼とも後退角と上反角がついている.
 翼面積29m^2
 下翼付根を拡げて,車輪間隔の大きい脚柱を取り付け,内方引き込み式とした.
 操縦席は半密閉風防.
 ライト・サイクロン空冷星型9気筒エンジン(575hp)を搭載し,最高時速314kmを出した.
 総重量,約2t
 軍には採用されず,主翼を単葉に改めたO-40Bが製作されて,こちらが採用.
 1939年まで現役にあった.

 【参考ページ】
佐貫亦男「飛行機のスタイリング」,『航空ファン』1995年4月号,p.157-158
http://en.wikipedia.org/wiki/Curtiss_O-40_Raven

プロトタイプYO-40
(こちらより引用)

O-40B型のプロトタイプYO-40B
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/04/14 20:10
を加筆改修


 【質問】
 ボート O2U コルセア Vought O2U Corsair 複葉偵察機について教えてください.

 【回答】
 1926年に開発された,米海軍の艦上偵察/観測機.
 複座複葉機で,多くの派生型があり,また,単フロート付きの水上機型も存在する.
 プラット&ホイットニー空冷星型9気筒エンジン(600hp)を搭載し,最高速度280km/hを出した.
 主翼は上下翼共上反角がつき,食い違いもあるため,前の座席から前下方の視野が広く,上翼後縁に大きい切り欠きがあるため,下方視野も良い.
 燃料タンクを胴体側面に露出させて装着してあるのが特徴.
 中南米諸国,タイ,中華民国,英国,ドイツに輸出された他,日本海軍では九〇式二号水上偵察機二型としてライセンス生産された.
 第2次大戦に米国が参戦したときも,少なくとも141機のコルセアが現役にあった.

 【参考ページ】
佐貫亦男「飛行機のスタイリング」,『航空ファン』1995年4月号,p.156
http://en.wikipedia.org/wiki/Vought_O2U_Corsair
http://military.sakura.ne.jp/ac/e4n2.htm
http://www.aviastar.org/air/usa/vought_o2u.php

コルセアO2U-1型三面図
O2U-1は最初期型
(こちらより引用)

V-93S型三面図
V-93S型は,タイに輸出された機体
(こちらより引用)

中華民国に輸出されたV-65C型
(こちらより引用)

中共軍が使用したV-65C型「列寧(レーニン)」号
1930年に民国政府軍の不時着機を鹵獲したもの
何度か実戦使用された後,燃料不足のため,分解されて洞窟に隠された
1950年に発見されて復元され,現在は北京航空博物館に展示されている
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2013/04/05 20:00
を加筆改修


 【質問】
 ローニング Leoning OL 偵察機について教えてください.

 【回答】
 1923年に初飛行した,水陸両用の複葉複座偵察機.
 木製骨格,ジュラルミン板張りの大型フロートが,胴体と密着し,あたかもその一部を構成しているかのような外観だった.
 胴体は木製桁にジュラルミン小骨で構成.
 車輪はフロートの両サイドにあり,飛行中はフロート内に半分引き込むようになっていた.
 各型合わせて165機生産され,米陸海軍と沿岸警備隊が使用.
 OL-5型は,沿岸警備隊が使用した最初の航空機となった.
 エンジンは,最終量産型OL-9ではプラット&ホイットニー・ワスプ空冷星型9気筒450hpを搭載し,最高時速196kmを出した.
 1962年までに全機退役.

 【参考ページ】
佐貫亦男「飛行機のスタイリング」,『航空ファン』1995年4月号,p.157
http://en.wikipedia.org/wiki/Loening_OL
http://www.uscg.mil/history/webaircraft/Loening_OL5.pdf
http://www.aero-web.org/specs/loening/ol-9.htm

OL-8型三面図
(こちら
より引用)

Loening Amphibian (1928)
Marine Corps Aviation: Marine Aviators in China

【ぐんじさんぎょう】,2013/04/12 20:00
を加筆改修


 【質問】
 映画「JAWS」(TV放送吹替え)で登場人物の一人が大戦中,巡洋艦インデアナポリスに乗り組み,沈没後漂流,鮫の攻撃から生き延びた体験を話すシーンがあるのですが,そのとき軍のヘリコプターに救助されたという科白がありました.
 当時,米軍では救難へりを実働していたのですか?

 【回答】
 1942年に初飛行したシコルスキーVS-316Aを,米海軍はHNSの名で採用している.
 米陸軍,英海軍も別名で採用.
 1944年から実際の救難などに使用している.

軍事板


 【質問】
 カーチスC-46「コマンドウ」について教えてください.

 【回答】
 カーチス Curtiss C-46「コマンドウ Commando」は,カーチス・ライト社が1936年から,ダグラスDC-3の対抗馬として開発に取り組んだ双発旅客機CW-20の軍用機型.
 全金属製のモノコック構造を採用.
 DC-3に対し,客室の容量を40%ほど大きくした太い胴体にして,旅客数でライバルを上回ろうとし,そのために重量は45%ほど増加した.
 客室を与圧することも予定して,胴体の断面構造は「ダブル・バレル」と呼ばれる,特殊なダルマ型にされた.
 コックピットは,カルフォルニア工科大学での風洞実験の結果,機体に凹凸を作らない,ガラス張りの「ドーム」型とした.
 全幅はB-17を僅かに上回り,史上最大のピストン・エンジン双発機でもある.

 大きい客室容量はアメリカ陸軍の興味をひき,1940年7月,C-46として制式化された.
 CW-20の双尾翼は,単一の尾翼に改められ,エンジンは強力なR-2800「ダブル・ワスプ」が採用された.

 第2次世界大戦では3000機以上が生産され,DC-3の輸送機型C-47と共に,アメリカ軍の輸送機の主力となった.
 C-47に比べると,2000馬力級の強力なエンジンを積んでいるため,性能は勝っていたが,一方で機体側,特に電気系統の故障率が高かったとも言われている.
 カーチス製の電気式プロペラ・ピッチ制御機構は,後に撤去されたほどである.
 ATC(航空輸送コマンド)が1942年6月に編成され,輸送任務の需要が急増すると,大出力エンジンを装備するC-46が,前線の山岳地帯や南大西洋横断に投入されるようになった.
 中でも中国に展開する日本軍に対抗するため,インドから中国までヒマラヤを越えて飛んだ「ハンプ」,峰超え作戦で有名.
 高さ7,000m級の山々を飛び越える輸送ルートは,与圧キャビンや排気タービンを持たない輸送機には,絶えず頭痛のタネだったが,C-47とともにこの作戦を成功させた.

 一方,欧州戦域には1945年3月まで配備されなかったが,ライン川を渡河する「ヴァーシティ作戦」における空てい部隊降下に投入.
 しかしドイツ軍の対空砲火により,多数が失われた.

 航空自衛隊には,1955年1月20日からC-46Dの供与が開始され,1957年までに計36機が引き渡された.
 その後,1959年に台湾空軍からA型9機,D型3機を購入,A型は全てD型仕様に改修して使用した.
 所沢航空記念公園に野外展示されているのも,自衛隊で使用されていたこの機体(電子戦訓練機EC-46型)である.

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.84
http://en.wikipedia.org/wiki/Curtiss_C-46_Commando
http://majo44.sakura.ne.jp/trip/dayton/dayton3/157.html
http://kariyushi.travel-way.net/fs/repaint/
http://www.airliners.net/aircraft-data/stats.main?id=171

三面図
(こちらより引用)

カラーリング
(こちらより引用)

 【関連動画】
http://www.youtube.com/watch?v=HlzA7hJr8VM
http://www.youtube.com/watch?v=WcA4x0Z7YeQ

【ぐんじさんぎょう】,2013/05/21 20:00
を加筆改修


 【質問】
 DC-3はなんで日本を始め各国航空部隊がこぞって採用したんですか?
 Ju-52のほうがずっとカッコイイ(偏見)のに.

 【回答】
 DC-3は当時としてはワイドボディで荷物がたくさん積め,大型プレス機さえ導入すれば量産しやすかったから.

 また,Ju-52はDC-3に比べて
*速度が遅い(Ju-52:最大265km DC-3:最大345km)
*航続距離が短い(Ju-52:約870km DC-3:約2400km)
*エンジンが3発なので整備がその分面倒
*鋼管波板外皮構造の為に大きな開口部が儲けられず,荷物の積み下ろしが面倒
と,輸送機としての能力で大きく劣ってた.

軍事板
青文字:加筆部分

DC-3
(画像掲示板より引用)


 【珍説】
 〔DC-3は〕第二次世界大戦の前から,民間旅客機として使われていて,技術的に完熟していた.
 〔略〕
 DC-3は,第二次世界大戦前から,民間旅客機のベストセラーとなっていました.
 ということは,技術的な問題があらかた出尽くして,解決していました.

霞ヶ浦の住人 ◆HzqDOXy.Ho in 軍事板

 【事実】
 日本やソ連が生産に着手したころは,ほぼ最新鋭機.
 カスミンは戦後,余剰機が大量放出されたのや,それらの貨物型改造旅客機が各国の民間航空で使用されたときの話と,戦前戦中の事情とを混同しとる.

 文春文庫〔原文ママ〕に『テストパイロット』って本があって,80年代の米海軍テストパイロットスクールの模様が活写してある.
 そこでは生徒が,学校保有のC-47を「新型機」として飛行試験をして評価しなければならないのだが,C-47は飛行の安定性操縦性に多くの問題を抱えており,一部は簡単な改修で相当程度改善されるのに放置されている,等々の指摘をしないとリポートに合格点は与えられない,とか書いてあるのよ.
 つまり,C-47は技術的に完成されたりなんかしてないのよね.

 DC-3/C-47系の欠陥についてはダグラスも十分承知していて,民間型ではスーパーDC-3,軍用ではR4D-2としてリリースしてる.
 しかし,価格が篦棒(放出C-47系との比較)だったので,ごく少数の生産に留まった.

 付記.
 C-47は現在の安全基準を当て嵌めると欠陥だらけで,上述のリポートでは「不採用」を勧告しなければいけないそうだ .

軍事板

DC3@ギリシャ空軍オリジナル
DC3@モーリタニア空軍
DC3@南アフリカ空軍ターボプロップ化
(画像掲示板より引用)



 【珍説】
 FAQに,霞ヶ浦の住人の書き込みを【珍説】として載せてあります.
 抗議の技術的なやり方を,霞ヶ浦の住人は知りません.
 どちらが【珍説】かは,この板を読む方の判断に任せます.

 DC-3の初飛行は,1935年です.
 日本の中島飛行機が零式輸送機の名でライセンス生産を始めたのは,1940年です.
 ソ連がLi-2の名でライセンス生産を始めたのは,1942年です.

 下記,ウィキペディアの中島飛行機の代表的な航空機の日本海軍向けの輸送機を参照ください.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F
 下記,ウィキペディアのDC-3の沿革の第二次世界大戦のソ連のDC-3を参照ください.
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC-3

霞ヶ浦の住人 in FAQ BBS

 【事実】
 DC-3の就役は36年7月11日

 ソビエトは36年7月15日にライセンスを取得(ちなみにライセンス料はタダ)
 日本は翌年37年にライセンスを取得.

 これより,「日本やソ連が生産に着手した(36〜37年)ころは,ほぼ最新鋭機」との見解は正しいと思います.
 就役から1年も経っていない機体ですから.
以下ソース
http://en.wikipedia.org/wiki/Douglas_DC-3
http://en.wikipedia.org/wiki/Lisunov_Li-2

 ただし,実際に生産ラインを稼動させたのは1939年からです.
 ここを生産着手と置くなら,たしかに最新鋭機かどうかは微妙な線であり,これに異論を唱えのはアリでしょう.(ただ,ここは回答における重要な部分ではないと思います)

 〔略〕

 あと,ソ連はDC-3のコピーを1939年から生産していました.PS-84の名前で.
 Li-2の名前を使い始めたのが,1942年からというだけです.
「ソ連がLi-2の名でライセンス生産を始めたのは,1942年です」
などと,ミスリードを誘う文章はあまり褒められる事ではないですね.

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS

 〔昭和飛行機工業が〕9万ドル払って,〔DC-3の〕製造権を買ったのは1938年2月28日だが,届いた5機全部を 完成させられたのは1941年5月になってから.

 この間に
航空用ガソリン製造設備,製造権の禁輸(1939年12月),
日米通商航海条約失効(1940年1月),
航空機用燃料の全面禁輸(8月)
くず鉄の全面禁輸(9月)
航空機潤滑油製造装置等の輸出許可制(12月),
銅,亜鉛,ニッケルの禁輸(1941年1月),
ラジウム,ウラニウムの禁輸(2月),
在米資産凍結(7月),
石油の全面禁輸(8月)
と続く.

 一般に零式輸送機と呼ばれる飛行機は,輸入機のL2D1と,国産エンジンに換装したL2D2以降とに分けられる.
 輸入したL2D1の1号機が完成したのが1939年9月であっても,金星エンジン装備型のL2D2が完成したのは1941年7月.
 制式採用は1941年12月で,当初D二号輸送機11型と呼ばれていた.
 零式輸送機22型ことL2D3は1943年5月に制式採用されたが,開発当初はD二号輸送機改と呼ばれていた.

 零式輸送機11型に改称されたのは1943年であり,実機が完成した年度〔皇紀〕と関係ないのだ,実は(笑)

ふみ in 軍事板
(FAQ BBSに転載)

 正式採用なら1941年だから,本来なら1式.
 しかし1式陸攻の援護機バージョンが30機も作られており,使い物にならなかったこれらを改修した1式陸上輸送機が既に存在していた.
 1943年に改称した理由は不明だが,皇紀をつけない,と海軍が決定した後なので,1式陸上輸送機とかぶらないようにしたか,欺瞞をはかったのでは?

軍事板
(FAQ BBSに転載)


 【質問】
 ダグラスC-54「スカイマスター」輸送機について教えてください.

 【回答】
 ダグラス Douglas 社がDC-3型旅客機の後継機として開発した,DC-4型旅客機の軍用機型.
 最初の原型機DC-4Eは,1930年代に開発されたが,米国国内輸送各社からは,運用コスト高という理由から受け入れられず,結局日本へ売却された.
 この機体を購入した日本(購入契約は大日本航空社名義)では,機体を解体研究して大型陸攻 「深山」開発の基礎としている.

 DC-4Eの失敗により,ダグラス社はそれより若干小型・単純で経済的な機体の開発に乗り出し,1939年5月に完成させたのがDC-4A.
 しかし量産機が製造され始めてから間もなく,アメリカが第2次大戦に参戦することになったため,最初の製造グループ34機全ては陸軍に徴発された他,軍用機C-54として1942.2.14に初飛行を行い,1001機が生産された.
 軍用機として用いるために床が強化され,胴体左側面に,貨物用の大きなドアを新設するなど,改良が加えられた.
 人員・貨物輸送に多用され,海軍もR5Dとして,陸軍から移管された機体を導入した.

 戦後,ようやくダグラス社は民間型の製造が行えるようになったが,余剰となった軍用型の放出があったため,純粋な民間型としてセールスされた機体は100機に満たず,戦後民間機として飛行した機体の大半は,軍放出機を旅客型に改修した機体であったとさ.

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.83
http://military.sakura.ne.jp/world/w_c-54.htm
http://www.wwiivehicles.com/usa/aircraft/transport/douglas-c-54-skymaster.asp

三面図
(こちらより引用)

 【関連リンク】
終戦 カラー映像 マッカーサー元帥 厚木基地 到着 ダグラスC-54
DDA Douglas DC-4 Skymaster
Buffalo Air C-54A Skymaster

【ぐんじさんぎょう】,2013/05/12 20:00
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 【質問】
 ノースロップ・デルタ輸送機について教えてください.

 【回答】
 1933年5月に初飛行した単発低翼単葉輸送機で,ライト・サイクロン空冷星型エンジン(700hp)を搭載し,最高速度350km/hを出した.
 開き下げフラップを大きくとったため,主脚上面に独立して装備した補助翼となっている.
 主脚は成形覆いつき固定脚.
 しかし1934年10月,アメリカの航空法改正により,山岳地または夜間の旅客輸送に,単発機を使用することが禁止されたため,航空輸送会社で使えなくなった.
 スペイン内戦に際し,共和国軍が3機購入したが,2機はフランコ軍に接収され,同軍によって使用された.
 1935年にはカナダ空軍が,写真撮影用の観測機として購入,およびライセンス生産.
 第2次大戦勃発後は,同軍において当初,沿岸哨戒機として使用されたが,塩害による損傷が酷く,2ヶ月で中止.
 1941年後半には作戦任務から外され,訓練学校の機体に転用された.

 【参考ページ】
佐貫亦男「飛行機のスタイリング」,『航空ファン』1995年4月号,p.156
http://www.fiddlersgreen.net/models/aircraft/Northrop-Delta.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Northrop_Delta

三面図
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2013/04/02 20:20
を加筆改修


 【質問】
 ビーチ Beech C-45「エクスペンデター」輸送機について教えてください.

 【回答】
 メーカー自身の予想に反して,大量に売れたグッズは,巷に色々あるが,本機はその航空機版.

 元は,ビーチ・エアクラフト社が開発し,1937年に初飛行したビーチ・モデル18という名の軽旅客機で,全金属製・軽合金構造のセミモノコック胴体を持ち,単葉双発のオーソドックスな6〜8座の座席を有する機体
 予想通り,最初の生産機は殆ど売れなかったが,1940年になって米陸軍航空隊がC-45輸送機という名称で,高官護送用として20機を発注したことが切っ掛けとなり,大戦終了までに各型合わせて4000機生産され,一部は武器供与法により英国へも配備された.
 他に爆撃機乗員訓練型(AT-11),航法練習型(AT-7等)などが13機生産されている.
 また,中国は輸入した本機を軽爆撃機として使用した.
 戦後も寿命延長改修が繰り返され,広く使用が続けられた.
 米空軍は1960年代初頭,米海軍も1970年代まで当機を輸送や連絡任務に使用していた.
 また,世界各国へ輸出された機体(最後の機体は1970年に製作された)も,長い間軍用や民間機として活躍した.
 
 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.83
http://military.sakura.ne.jp/world/w_beech18.htm
http://geta-o.jp/USMIL/C/C-45/C-45.htm
http://www.warbirds.jp/data/us/us_c.htm
http://www.militaryfactory.com/aircraft/detail.asp?aircraft_id=333

三面図
(こちらより引用)

Vintage Air Force Beechcraft 18 Start, Taxi, and Take-off
カナダ空軍に現存するビーチ・モデル18

【ぐんじさんぎょう】,2013/05/03 20:00
を加筆改修


 【質問】
 ビーチUC-43「トラベラー」について教えてください.

 【回答】
 ビーチ Beech 社が初めて開発した複葉軽飛行機,モデル17の軍用機型.
 1932年11月に初飛行したモデル17は,「スタッガーウィング Staggerwing」の愛称をつけられた.
 広く市場に受け入れられる機体ではなく,『玄人』向けの機体であったが,WW1後,軍を退役した経験豊富な操縦士が大勢いたおかげと,当機原型が出した驚くべき速度記録,それに特徴的な段違い複葉主翼によりセールスに成功.
 原型機が速度記録出したり,引きこみ脚を装備すると,さらに売れた.
 また,スペイン内戦や日中戦争で少数機が使用された.
 1938年,米陸軍は3機のモデルD-17Sを購入し,YC-43の名称で運用評価を行い,41年にUC-43として量産型を発注した.
 米海軍も1939年に1機を購入した.
 対日戦勃発により多数の機体が必要になったとき,陸海軍は民間市場にあった多数のモデル17を徴発し,また,軍としても200機以上を発注.
 レンドリース法により英海軍にも当機が送られ,英海軍はトラベラーの名称で使用.
 その後,米軍もその名称を愛称として使用するようになった.

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.82
http://military.sakura.ne.jp/world/w_beech17.htm
http://www.tarutani.com/p_models/pics/uc-43/uc-43.html
http://www.nationalmuseum.af.mil/factsheets/factsheet.asp?id=3318
http://www.aviastar.org/air/usa/beech_traveller.php

三面図
(こちらより引用)

 【関連動画】
http://www.youtube.com/watch?v=oOiPpQ9ttF8
http://www.youtube.com/watch?v=oFN0t4OMc4k

【ぐんじさんぎょう】,2013/05/16 19:50
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 【質問】
 ヒューズ H-4 「ハーキュリーズ」Hughes H-4 Hercules 飛行艇について,3行で教えてください.

 【回答】
 ヒューズ・エアクラフトにより製造された輸送飛行艇で,翼幅(スパン)において世界最大の航空機.
 第2次大戦中,Uボートによって輸送船が多くの損害を出したことから,輸送船に頼らない大西洋間輸送のために,ヘンリー・カイザーが発案した.
 1947年に1号機が初飛行したが,それは高度25mほどで1分飛んだだけであり,材料に金属を多用できなかったことによる強度不足が露呈したことから,以降の試験飛行は行われず,やがて博物館入りとなった.

 【参考ページ】
http://minkara.carview.co.jp/userid/360315/blog/28211968/
http://www.shipboard.info/blog/archives/2005/06/post_128.html
http://minkara.carview.co.jp/userid/263792/car/156934/1394002/photo.aspx

 【関連リンク】
「YouTube」◆Hughes H-4 Hercules

側面図
(こちらより引用)

写真
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2013/04/18 19:40
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 【質問】
 ロッキード Lockheed C-69「コンステレーション Constellation」輸送機について教えてください.

 【回答】
 ロッキードC-69「コンステレーション」は,ロッキード社が1939年から開発を始めた,与圧構造装備の大型プロペラ旅客機L-49の軍用機型.
 L-49は,TWAの仕様に応えてロッキードが提案したもので、1939年7月10日に40機を受注している.
 TWAは当時,米の大富豪、ハワ−ド ヒューズによって買収され、彼は,当時運行していたB307の後継機として、40人乗り、時速400-480Kmで航続距離5,600km、与圧キャビン付の新型機という仕様を出していた.

 これが米陸軍の注目するところとなり,試作機の完成も待たず,1942年2月にC-69の名称で,180機が発注された.
 試作機は1943.1.9に初飛行に成功したが,B-29と同じエンジンを装備していたことで,大きくなったプロペラが地面と接触するのを避けるために,脚が高くなった.
 このため地上高が高くなり,軍用輸送機としては使いにくい機体となっていた.
 そのため,その後,戦争の帰趨が見え始めたことから,米軍は発注数量の変更を行い、実際に軍に納入されたのは22機だけだった.

 ちなみに,発展型L-749も,軍の輸送機C-121として採用され、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の専用機(VC-121)やダグラス・マッカーサー元帥の専用機「バターン号(VC-121A)」としても使用された。

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.84
http://www.geocities.jp/hikouki5939/c78c69.htm
http://www.dreamwings.jp/contents4/Constellation/
http://www.ne.jp/asahi/tsmc/net/work-92.html

三面図
(こちらより引用)

 【関連動画】
http://www.youtube.com/watch?v=ynMUQYEMu74
http://www.youtube.com/watch?v=L3cNh0azmas

【ぐんじさんぎょう】,2013/05/23 20:00
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 【質問】
 ワコーCG-4A「ハドリアン Hadrian」について教えてください.

 【回答】
 ワコー Waco 社で設計され,大量に投入された輸送グライダー.
 胴体は鋼管溶接の上から羽布を張り,主翼は木製羽布張り.
 高翼の主翼は支柱で支えられ,機体から取り外して運搬できる.
 乗員は操縦士1名,副操縦士1名,兵員13人の計15人.
 機首を上に跳ね上げて乗降させることにより,ジープや対戦車砲,75mm榴弾砲など,大型貨物の搭載も可能だった.

 C-46またはC-47で牽引される.
 操縦は陸軍航空隊パイロットが行うが,着地後はパイロットも歩兵として戦闘に参加する(というか機体を壊すか放棄するので帰れない).
 操縦訓練もあまりできないので,着地失敗も多かった.

 1941年から開発が始まって,1942年に初飛行し,シチリア島上陸作戦から実戦投入.
 ノルマンディ上陸作戦では数千機投入され,中国・ビルマ・インドでの特殊任務などに用いられている.
 ワコー社以外にもセスナやフォードなども合わせて総生産は13,911機.

 上述のように構造が簡易だったため,生産性は高く,ワコー社以外にセスナやフォードなど,合わせて16社で生産され,総生産数13911.
 組み立てを行ったデード・ブラザーズ社では,作業員の90%に女性を採用していたという.

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.84
http://zukanda.jp/image/10354
http://www.geocities.jp/aobamil/C.html(このページの参考文献は,月刊JWings7,’01,6,’01,第2次世界大戦軍用機ハンドブック・アメリカ編,ミリタリーエアクラフト1,’97とのこと)

三面図
(こちらより引用)

 【関連動画】
http://www.youtube.com/watch?v=cjZyaRANv4Q
http://www.youtube.com/watch?v=5zo4PTMg9uA
http://www.youtube.com/watch?v=taVZrFE-Dxw

【ぐんじさんぎょう】,2013/05/20 20:00
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 【質問】
 セスナAT-17について教えてください.

 【回答】
 セスナ Cessna 社が初めて製作した双発軽飛行機,モデルT-50から発展した軍用練習機.
 T-50は客席5座の民間用軽輸送機で,1939年に初飛行.
 木金混合の構造,主翼は木製構造に布張り,胴体は鋼管溶接骨組みに布張りという,旧式だが堅実なものであった.
 このT-50に,米国陸軍が目を付け,1940年に多発機操縦訓練用機体として発注.
 AT-8と呼称されて33機が生産された.
 このAT-8の装備とエンジンを改めたものがAT-17で,以降,このAT-17各型が生産された.
 また,カナダも米国の武器供与法に基づき,AT-17Aの供与を受けた,これは,カナダ軍呼称クレーン1Aと呼ばれた.
 その後,新型機種の性能が向上すると,本機は転換訓練用としては旧式化・不適格となったため,1942年以降,米国陸軍はこの機の任務を,連絡・通信用や要人輸送に切り替え,改装されてC-78「ボブキャット Bobcat 」(のちにUC-78へ改称)と呼ばれた.
 また,民間が所有していたモデル50も,米国陸軍へ徴発されUC-78Aと呼称されている.
 他方,米国海軍も1942年頃に,補充操縦士を輸送するための機体として,当機をJRC-1の名称で67機調達した.
 太平洋戦争終結時も多数のUC-78が就役していたが,戦後の余剰機整理のため,終戦から数年で軍からは殆どが退役し,民間で使用された.

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.82
http://military.sakura.ne.jp/world/w_t-50.htm
http://www.warbirds.jp/data/us/uc.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Cessna_AT-17
http://www.warbirdalley.com/uc78.htm

三面図
(こちらより引用)

 【関連動画】
http://www.youtube.com/watch?v=aS8bwkE3JWI
http://www.youtube.com/watch?v=TtE-NZINBX4
http://www.youtube.com/watch?v=j5-18MR8aZs
http://www.youtube.com/watch?v=IeJmLqSHiGQ
http://www.youtube.com/watch?v=2if5LkgSn1M

【ぐんじさんぎょう】,2013/05/15 19:50
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 【質問】
 ノースアメリカンT-6「テキサン」練習機について教えてください.

 【回答】
 ノースアメリカン社が自社開発し,1935.4.1に初飛行した高等練習機.
 引き込み脚や後縁フラップを採用するなど,当時の練習機としては革新的な機体だった.
 米陸軍にはAT-6として,米海軍にはSNJとして採用された他,パイロットの大幅増員を迫られていた英連邦諸国からも,多数の発注を受け,各型合わせて15,495機が生産された.
 練習機としては空前の大量生産である.
 また,日本でもAT−6(NA−37と47)を2機輸入し,これを基礎に渡辺鉄工所(九州飛行機)と日本飛行機で,二式陸上中間練習機(K10W)を開発・製造した.
 戦後も自衛隊に供与されて,中間練習機として使用されたが,これも因果か.
 操縦訓練だけでなく,対地攻撃,連絡,偵察,救難などにも用いられ,戦後も1960年代まで使用された.
 大量に作られたおかげで,現存する機体も多く,たとえば映画でも,零戦などに似せた塗装をして出演していることが,よくある.

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.83
http://karen.saiin.net/~buraha/T-6.html
http://military.sakura.ne.jp/world/w_at6.htm
http://www.k2.dion.ne.jp/~bobcat/HTMLmemo/T-6.html
http://www6.atwiki.jp/namacha/pages/232.html

 【関連動画】
http://www.youtube.com/watch?v=phJYUk5gdxo

三面図
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2013/05/04 20:00
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 【質問】
 ライアンPT-16/20/21/22「リクルート」について,3行で教えてください.

 【回答】
 1941年,ライアン Ryan 社に対し,1000機以上が発注された練習機で,スポーツ機「ライアンST」が原型.
 低翼単葉複座機で,主翼は胴体上部と脚から張線を張り,左右車輪間隔の広い固定脚を,主翼に取り付ける前縁位置へ,左右両舷各1本の斜め支柱を,胴体から下ろしている.
 胴体はアルミニウム合金のセミモノコック構造.
 主翼はスプルース桁で,小骨及び主翼前縁から後桁まではアルミニウム合金製及びアルミニウム合金外板.
 尾翼は金属製で,舵翼は羽布張りだった.
 STシリーズでは水冷型エンジンだったものを,キナー空冷星型5気筒160HPエンジンに改めている.

 ちなみにライアン社は,リンドバーグの大西洋横断機の開発で有名になった会社.

 【参考ページ】
佐貫亦男「飛行機のスタイリング」,『航空ファン』1995年4月号,p.154
http://www.ne.jp/asahi/tsmc/net/page_thumb89.html
http://military.sakura.ne.jp/world/w_pt22.htm

Ryan ST-R
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2013/03/18 19:40
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 【質問】
 スチンソンL-5「センチネル」について教えてください.

 【回答】
 スチンソン Stinson L-5「センチネル Sentinel」は複座,高翼単葉の連絡・観測機です.
 1941年にアメリカ陸軍でテストされた軽飛行機スチンソン105ボイジャー(制式名称L-1)の,発展型として開発されました.
 そして,胴体を大型化しエンジンを強化したモデルV76を,1942年にO-62としてアメリカ陸軍が採用,1456機を発注しました.
 その後,すぐにL-5と改称され,さらに275機が追加生産されました.
 これらのうち,688機がA-5A型に改修されました.
 L-5AはL-5の電源を12Vから24Vに変更する改修を受けたタイプです.
 さらにL-5B/C/E/G型が,合わせて1552機生産されました.
 L-5Bは胴体右側に横長のハッチを設けて担架を積めるようにした患者輸送機タイプ.
 L-5CはK-20カメラを積んだ簡易偵察機タイプ.
 L-5Eはエルロンをドループエルロンとして離着陸性能を向上させたタイプ.
 L-5GはE型のエンジンをパワーアップしたタイプです.
 また,第二次大戦中にはOY-1/-2としてアメリカ海兵隊でも使用されました.

 なお,スチンソン社は第二次大戦中にヴァルティー社の傘下に入りL-5を生産していましたが,1943年にヴァルティー社はコンソリデーテッド社に吸収合併されています.
 アメリカ海兵隊型のOY-1/-2に,コンソリデーテッド社の会社記号「Y」が使われているのは,そのためです.

 戦後,自衛隊の前身の前身の警察予備隊でも,同機を使い,1952年7月から訓練が始められています.
 所沢航空発祥記念館には現在,そのうちの1機が天井から吊り下げられ,展示されています.

 【参考ページ】
望月隆一編『航空機名鑑1939-1945』(コーエー,2004),p.82
http://kwat01.web.fc2.com/list/jgsdf/l-5.htm
http://homepage3.nifty.com/tompei1/TokorozawaAirMuseum.htm

三面図
(こちらより引用)

 【関連動画】
http://www.youtube.com/watch?v=qlIO5nftqpc
http://www.youtube.com/watch?v=QS91Uw8Ehsw
http://www.youtube.com/watch?v=M153Hed0bOQ

【ぐんじさんぎょう】, 2013/05/13 20:00
を加筆改修


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