c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆フランス   ※ヴィシー・フランスはこちら
<◆◆連合国側勢力
<◆総記
欧州方面・目次
<第二次世界大戦


(画像掲示板より引用)


 【link】

●書籍

『人間から人間へ わが人民戦線の回想』(レオン・ブルム著,人文書院,1975)

 ユダヤ系で左翼のフランス首相の本.
 『奇妙な敗北』とか『フランス敗れたり』みたいな感じだが,内容はずっと濃いので,あの2冊が気に入ったら良いかも.
 ただ,ファシストとブルジョアに対しての恨み辛みみたいのは強力で,あなたのイデオロギーと合うか一考しておこう.
 個人的にはイデオロギーが合わないのに好きになっちゃったけど,この人が・・・

――――――軍事板,2010/06/09(水)

『フランス第三共和制の興亡』(W・シャイラー著,東京創元社,1971)

 これを読まないでWW2フランスについて知った気になってすいませんでした,って感じです.
 西方電撃戦考察には必須だな.
 『電撃戦という幻』や『マジノ線物語』より,これを先に買いたかった.

――――――軍事板,2010/06/09(水)

 【質問】
 田村尚也の『フランス軍入門』(イカロス出版,2008.10)が,アマゾンの読者レビューで酷評されてるようですが.

 【回答】
「内容の特徴として,フランス語の訳語が一定せず,一つの単語に複数の訳語が混在しています」
などといわれているが,そういうのために,艦隊装甲艦と戦艦を併記してるんだよ(笑)

 Cuirasseを艦隊装甲艦,Batiment de Ligneを戦列艦と訳すのは,「世界の艦船」の「フランス戦艦史」などでも使われている訳で,新鮮でも何でもないだろ.
 「フランス戦艦史」は,オセアン級のCuirasse d'escadreからを掲載しているが,もっと前からいうと,
Vaissau de Ligne(戦列艦)
→Cuirassee d'escadre(艦隊装甲艦)
→Batiment de Ligne(戦列艦)
 Vaissau de LigneとBatiment de Ligneはわざわざ変えてるんだから,訳し分けたいところだが,訳語をどうするかはむずかしいな.

 Torpilleur d'escadreを駆逐艦と訳さずに艦隊型水雷艇と訳すのは,名称自体が設計思想,運用思想を暗示しているからで,ちゃんと意味がある.
 教育専用巡洋艦はCroiseur Ecole D'applicationの直訳で,他の艦種とともに直訳で統一しただけだろう.

 つーかさー.フランス陸軍ものなんて,1940年のフランス戦役ですら和訳で出てるものは数少ないんだから, 訳語が安定してないのは当然のことだべや.
 訳語の揺れは仕方ないんじゃないかねえ.
 江畑氏とかも結構独特の訳をしたりする.
 例えばGPALSを,「限定的攻撃に対する全地球規模の防衛構想」とか(でも意味は十分に通じるどころか,非常に的確)
 今だって「Panzerdivision」の訳,装甲師団・機甲師団・戦車師団,へたすりゃ分遣隊まで出てくるんだで.
 それも含めて楽しみゃええだろうによ.

 まぁ,あとがきでフランス語はド素人,スマソみたいなこと自分で書いてるけどな(笑)
 内容はまだしも,訳語でウダウダ★1点つけられたら田村氏もやってらんねーだろうな(笑)

 「ウェブサイトが参考資料」って点もかれてるけど,いまどきの軍事ライターでウェブ見てないヤツはいないだろうから, むしろ正直に書いた田村氏に共感を覚えるわ.
 ぐぐれないようなライターなんて不要.
 有能なライターかどうかはその後,クロス・チェックをするかどうかにかかってる.

 ただ,本書は戦歴紹介があまりにも短くて,個人的には外れだな.
 編成表とか眺めるのは好きだが,ネットに結構転がってるからねえ・・・.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イカロスは入門シリーズが結構キテる.

・フィンランド軍入門
・イタリア軍入門
・フランス軍入門

 ……が,フランス軍入門だけ妙に評判が悪いのはなんでなんだろう?

 【回答】
 正直言って,別に知らなくてもいいフランス軍の部隊編成を事細かく紹介した割には,肝心のアルデンヌ突破からパリ陥落に至るフランス軍崩壊の経緯を,さらりと流した程度にとどめたり,構成のバランスの悪さが目立つ.

 そういう面では,学研の『西方電撃戦』のほうがよっぽど役に立つよ.
 また,M文庫「詳解 西部戦線全史」戦況図も多くて,全体の流れを追うのはよい.
 そこから栗栖「マジノ線物語」とか,シャイラー「第三共和制の興亡」あたりに進むのがよいかと.
 「電撃戦の幻」は「詳解 西部戦線全史」を読んだ後でじっくり読むと,軍事作戦面の興味深い流れが見えてくる.

 それに,イタリア軍入門の出来が良すぎたから,どうしてもあれと比較してしまう.
 イタリア軍入門は,著者がとことん入れ込んでるのが読者にも感じられるから,好感度大だし資料的価値も大だった.
 それに対しフランス軍入門は,「それほど知識も思い入れもない」というのを,著者があとがきで告白してしまっているのが×.
「日本での戦史研究上どうしても必要だからつくったけど,正直俺仏語読めないし英語資料もロクにないからWikiにかなり頼ってるし,当面これで凌ぐにせよ,誰かもっとまともな本ヨロ」(by 著者あとがき,大意)

 ちなみに「フィンランド軍入門」も,全然入門じゃない.
 めちゃくちゃ細かい記述だから,これを読んでも何故フィンランド軍に人気があるのか,さっぱりわからないよ.
 「北欧空戦史」を読んでからの方がいいと思うね.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 別にどうでもいい事だけど,西方電撃作戦関係資料だったら,
「西方戦場における戦車戦」ヴェーボルヘルト少佐著(独逸PK中隊)
「部外秘・独軍西方作戦の概要」S16参謀本部第4部
「部外秘・1940年西方作戦における仏軍公報」S16参謀本部第4部
なんてのを並読すると,結構満足する.

名無しの愉しみ in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 西方電撃戦については,とりあえず『電撃戦という幻』.
 なんだか入門書ではないような気がしないでもないが,前提となる知識はほとんど要求されていなかったと思う.
 ただ,なんか守屋純氏に批判されてたとかいうのが気になる.
 専門家から見るとやっぱり粗が多いんだろうか.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 対象とする「初心者」をどのように設定するかによっても,本のありようは変わってくるので,そういう面では「入門」書は難しいジャンルであるとも言えよう.
 キャタピラ付きの車輛をみんな戦車と呼ぶような初心者を相手にするなら,とことんレベルを落としてクドクド書かねばならないので,軍事板では批評の対象にすらならないだろう.
 逆に初心者向けサイトを作っていたつもりだったのに,「マニア向け.初心者向きではない」と言われて,「初心者」のレベルに愕然とした,某このサイトのような例もある.



 【質問】
>正直言って,別に知らなくてもいいフランス軍の部隊編成を事細かく紹介した割には
>肝心のアルデンヌ突破からパリ陥落に至るフランス軍崩壊の経緯をさらりと流した
>程度にとどめたり,構成のバランスの悪さが目立つ.

 その言葉は,編成マニアである私にたいする挑戦ですか?

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 Lansどん,あんたの考えは間違ってるよ.
 編制マニアをうならせる内容の本を作ってくれる分には,別に構わないんだ.
 ただ,明らかに当該本は内容が中途半端でしょ?

 ぶっちゃけイカロスっての,はしけただのフミカネだのの桃色でヲタを吊り上げてるわけだが,あのシリーズはそこからのステップアップを図ろうとする駆け出しマニアに読ませる本であるべきなわけで,そういう連中がちょっと 知識欲をくすぐられるくらいの内容でちょうどいいと思うんだ.
 シロウトがとっつきにくい,かといってマニアが呻るほどでもない,素人には向かず,逆にマニアには食い足りないどっち付かずな本「入門」を出されてもなぁ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 英書でもドイツ軍に比べるとフランス軍ものはひどく少ないのは,米英人の関心が低いせい?

 【回答】
 それは色んなジャンルでおきてる現象だね.

 学問分野でも,独仏語で進んでる研究が,米英じゃ全然無視されてるとかある.
 アメリカの日本研究とかもひでー.

 英語帝国主義の弊害というか,一昔前の米英の現地語で徹底的に地域研究やるお!ってパワーも衰えてるね.

 英語なら何とかなるし,中国語も何とか読める(音読は怪しくなったが).
 英語が何とかなれば,フランス語とかドイツ語,オランダ語は,何となく理解出来る訳で.

 しかし,スラヴ諸国語となれば珍紛漢紛で御座るよ.
 ポーランド語の薄い本ですら既に数ヶ月2頁の翻訳で放置状態.
 折角,辞書まで買ったというのに.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 ドイツ語と思いこんでポーランド語のHs.129の本を買い,まあなんとかなるさと独話辞典で訳そうとした俺(笑)

 どうでもいいが,酔った勢いで"US Liaison Aircraft in action"なんて本を買ってしまった…….

ばばぼん♪ ◆gdH1Km1a0U in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 両大戦間のフランスの,排外主義の変遷は?

 【回答】
 さて,1920年代のフランスでは第1次世界大戦で減少した国民を補う為に,海外から大量の移民を受入れました.
 当然,これを管理する為の機構が必要になっていきます.
 1920年7月に外務省に省庁間移民委員会が設置され,この委員会に於て協定の起草や実施,外国人労働者を担当する省庁の調整に当り,身分証や帰化法の改正も行われました.

 1920年11月18日デクレはその第1弾で,フランス到着後,特別司法警察の国境検問所や移民管理事務所で受け取る身分証は無料となりました.
 種痘の接種を済ませた者は身分証の1ページ目に,「予防接種済」と言う言葉が印字されました.
 また,身分証は色別を廃止し,「工場労働者」とか「農業労働者」と言うスタンプで識別される様になります.

 左翼連合政権が発足した後の1924年10月25日デクレでは,外国人への規制が強まり,フランスに2週間以上居住しようとする15世異常の外国人は,到着後48時間以内に,「無帽で正面」から撮った4枚の写真と2枚の個人カードを添えて,警察乃至市町村役場に3年間有効の身分証の交付を申請することが求められました.
 個人カードには,本人の氏名,職業,国籍,家族状況,親の出生地と生年月日,配偶者の姓,年齢,国籍,15歳未満の子供の名前と年齢,入国直前の居住地,以上を証明する書類,保証人として2名のフランス人市民の名前の記入が求められました.
 1枚の個人カードは県庁に,残りの個人カードは内務省外国人身分証中央室に送られ,これらのデータは身分証にも記載されました.

 外国人は転居する度に,警察乃至市町村役場で身分証の査証を受ける必要があり,その情報は直ちに県庁を経由して,身分証中央室に伝えられました.
 また,身分証は滞在許可証でもあったので,その交付が拒否されたり取り消された場合には,外国人は1週間以内にフランスから立ち去らねばなりませんでした.

 更に1925年9月9日デクレでは微修正が行われ,身分証の申請に必要な滞在期間が,2週間から2ヶ月以上に延ばされました.
 しかし,転居した場合には40時間以内に査証を受ける様に明示され,身分証の有効期間は2年に短縮されました.
 その上,身分証の交付と更新にはパリで働く男性労働者の平均日給の2日分に当たる,68フランもの手数料が求められる様になりました.
 但し,フランス人の子供を持つ父母,学生,学者,作家,棒給生活者の手数料は10フランに減額され,普仏戦争と第1次世界大戦に志願してフランス軍で戦った外国人と困窮者は免除されました.

 翌年の1926年11月30日デクレでは,更新手続きの期間は有効期限満了後3ヶ月以内となり,交付と更新にかかる手数料は,インフレの為,昨年の5倍になる375フランに跳ね上がり,これはパリで働く男性労働者の平均日給の9日分に相当する金額となり,減額手数料でも40フランと4倍となりました.

 この頃のフランスは,通貨危機の真っ只中にあっただけでなく,ジャズやチャールストンが流行し,風俗のアメリカ化が保守層の顰蹙を買っていました.
 この為,移民のみならず米国人や英国人も罵倒されました.
 一方,1924年に発表されたデータでは兵役を避けたいという理由から,1921〜23年にフランスに帰化した若者は,移民の9.2万名中僅かに1,418名しかいませんでした.

 1925年2月,内相ジョゼフ・カイヨーが,各地の県知事に県内の外国人の状況報告を求めました.
 その質問事項は3つで,
第1に外国人労働者の国籍と職業といった基礎的データについて,
第2に地方財政上,外国人が市町村の社会保障費の支出を増大させて財政を圧迫していないか,
第3に,フランス政府に対する主要外国人労働者集団の態度はどうであり,彼らは固有の言語と習慣を保持してフランス人から孤立しているのか,或いはフランスに同化する為にフランスの習俗に適応しようとしているのか,外国宇人労働者の中に共産主義者や革命家などの不穏な組織が存在するのか,と言うものです.

 最後の質問項目については,米国ではイタリア移民の無政府主義者であったサッコとヴァンゼッティ事件に対する連帯集会やデモがフランス左翼とイタリア移民との間で何度も組織されましたので,左翼急進派を恐れる政府にとっては治安上の重要な課題となっていた事が伺えます.
 また,1926年11月になるとイタリア野党の強制解散があり,訴追を逃れる為にイタリアの左翼活動家が大量にフランスに亡命し,1920年代末には10,000名ほどの亡命イタリア人と移民がパリ地域で政治活動を行っており,また,ムッソリーニ支持派のイタリア人も1,500名ほどですがパリで活動していました.

 こうした移民の同化や帰化に対する議論は,人権同盟や議会でも繰り広げられていました.
 ドレフュス事件が切っ掛けで誕生した人権同盟は,1926年末の大会に於ける決議で,
「全ての者は時分で選んだ国に定住し働く権利を持つが,全ての国家は,人々の健康と道徳を保ち,国民の生活や労働を守る為に必要な手段を執る権利がある」
としています.
 つまり,これは自由な「人の移動」は承認し,移民に対しても同一の労働条件や法的保護を保証するものの,それは移民が政治的・経済的混乱を齎さないことと,国民労働の保護やフランスへの同化を前提にしていました.
 それ故,「本土や植民地に於て,フランスへの同化に一貫して反対する為に組織された民族的中核分子からなる自立的な外国人集団の結成は禁じられ」,フランス語の知識が同化に不可欠であることに鑑み,大人の外国人にはフランス語講座を,児童にはフランス語教育を義務化することをも提言しています.

 人権屋でも,結局この頃それは,エスニックの尊重では無く,同化統合を是としていたのが興味深かったり.

 1927年3月の下院では,国籍法の改正案が審議されました.
 フランスの出生率の危機的な状況を前にして,人口を増やすことが至上命令となっていたことから,急進党の議員であるアンドレ・マラルメが帰化の承認に時間が掛りすぎるなど,帰化の方法について多くの批判が出ていると述べて改正を提案しました.
 保守派からは,道徳秩序と家族の保護による「フランス人によるフランス人の創造」が主張されましたが,議会内勢力では大きな声にはならず,この国籍法改正案は,1927年8月10日デクレとして可決されます.

 この1927年8月10日デクレでは,フランス人のカテゴリーが拡げられました.

・フランスであれ,外国であれ,フランス人から生まれた嫡出子
・フランス生まれの父親からフランスで生まれた嫡出子
・フランス人を母親としてフランスで生まれた嫡出子
・親子関係が明らかな非嫡出子で両親の1人がフランス人の場合
・フランス生まれの外国人を母親としてフランスで生まれた嫡出子
・外国人を両親としてフランスで生まれた非嫡出子で,両親の1人がフランス生まれの場合
・外国人を親としてフランスで生まれ,フランスに居住する全ての者は,満21歳までにフランス人の資格を請求する場合,フランス人になる事が出来る
・21歳時にフランスに居住し,外国人を親としてフランスで生まれた全ての者は,フランス人の資格を拒まなければ,フランス人になる事が出来る.
・帰化した外国人.

 その要件は2つあり,
第1に,満18歳の外国人でフランスに途切れること無く3年間居住していることを証明できる者,
第2に,満18歳の外国人でフランスに1年間途切れること無く居住した後,有能であるか,起業するか,軍役に就くか,フランスの大学で学位を取得したか,フランス人女性と婚姻した者.
 またはフランス生まれで成人後もフランスに居住する者はフランスに帰化できた.
・外国人男性と婚姻した女性で,その男性が婚姻後にフランス国籍を得た場合,その女性及びこの外国人男性の成人した子供も無条件に帰化できた.
・フランス人男性と婚姻した外国人女性は,明示的に請求した場合にのみフランス人の資格を得ることが出来た.
・外国人男性と婚姻したフランス人女性は,夫の国籍取得を明示的にしない限り,フランス国籍を保持する.

 ナポレオン法典では,フランス人男性と婚姻した外国人女性も,外国人男性と婚姻したフランス人女性も,共に夫の国籍に従うこととされ,これまでならフランス人女性はフランス国籍を失っていましたが,8月10日デクレではフランス国籍を保持させました.
 これは,1914〜24年の間に婚姻によってフランス国籍を失ったフランス人女性が10.3万人に達し,一方で婚姻によってフランス国籍を取得した外国人女性は5.3万人に留まった事が考慮されたものと考えられています.
 この様に,8月10日デクレでは帰化のハードルを下げました.
 これまで帰化に必要だった居住許可証は廃止され,帰化申請年齢は21歳から18歳に下げられ,帰化申請に必要な居住期間は3年に短縮されました.
 しかし,新フランス人は兵役の義務を果たさなければ10年間被選挙権が付与されず,国家反逆罪に問われた場合,帰化が失効しました.
 それでも,1940年までに帰化したのはイタリア人や亡命者を中心に50万人と多くなりました.
 一方で,ポーランド人やスペイン人は帰化率の低い集団となっています.

 こうした動きに対して,王党派の日刊紙『アクシオン・フランセーズ』の1926年10月17日付では,「心身の欠陥しか我々にもたらさない好ましからざる分子」への警戒を呼びかけ,価値の低下を招く「国籍のインフレ」に用心し,実態の無い「ペーパー・フランス人」を作り出さない様に求め,帰化の安売りを非難していました.

 確かに,移民の有病率や犯罪率がフランス人より高いのは事実であり,フランス人の間に「外国人嫌い」の感情を植付けることになります.
 また,エコール・ド・パリがエコール・ド・ジュイフ,つまりユダヤ人派と揶揄された様に,ユトリロと藤田嗣治以外の所属画家は全てユダヤ系で占められている等と言った団体もありました.
 1930年にカミーユ・モクレールが『フランス美術に反対する外国人』と言う著書で,ユダヤ人画家を国民芸術の精髄を歪めた者達だと非難したり,ヴラマンクやドランがエコール・フランセーズを名乗って国民画家であることを訴えるにはこうした背景があったりもした訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/03 22:25
青文字:加筆改修部分

 さて,1920年代は好況に沸いた建築,製鉄,炭坑は,米国に端を発した大恐慌の波をモロに被り,外国人労働者は大量に解雇されました.
 この様子は,サン・テグジュペリの『人間の大地』の末尾に書かれています.

 この事態が起きる前の1926年8月11日に,国民労働の保護を目指した法改正が行われ,身分証を持たない外国人は雇ってはいけないこと,身分証に記載された職とは別の職に外国人労働者を就けてはならないこと,当初の契約が満了する以前に外国人労働者を採用してはならないこと,雇用の際には登録簿に記載することが明記され,違反した雇用主は罰せられました.

 1930年代に経済状況が悪化すると,国民労働の保護を求める声が一層強まり,1931年12月の下院で保守系議員は,
「我々が苦しんでいるのは国民の失業という危機では無くて,外国人の侵入という危機に依るのだ」
と主張し,1932年には外国人が経営する企業への税額を倍額とし,出身国の本名や社名を変更させない法案を提案しました.
 この法案は可決され,1932年8月10日デクレが制定されました.
 このデクレでは,公共事業での外国人労働者比率を5%に制限しますが,私企業は業界や地方の実情に任せたので,石炭業界は法の施行に熱意が無く,北フランスの炭坑では,フランス人の11%と外国人39%が解雇されましたが,有能なポーランド人炭鉱労働者は15.9%が解雇されただけであり,外国人を一律に扱った訳ではありませんでした.

 また,慢性的な人手不足に悩む農業部門では8月10日デクレは適用されず,農場は却って工場を解雇された外国人の受け皿となりました.
 農業では,1919〜31年にかけてよりよい生活を求めて95万人に及ぶフランス人が離農し,都市生活者となっていたのです.
 その上,1918〜26年にかけて受入れた外国人農業移民60万人のうち,1927年にも留まっていたのは僅か25.3万人に過ぎなかったりします.
 この為,1930年代前半に農業部門は,3万人の外国人に職を提供し,北部の農業はベルギー人移民に,南部の農業はイタリア人移民によって復活し,移民の御陰でフランス農村は過疎化を回避したのです.

 しかし,大恐慌は底知れない状況にあり,労働者の間にも外国人嫌いが再燃します.
 1933年3月の下院では,右翼議員が
「外国人労働者がフランスを離れるなら,失業問題は解決するだろう」
と述べていましたが,外国人労働者の削減は左翼からも声が出ていました.
 労働総同盟の機関紙である『プープル』の1935年1月2日付の紙面でも,セーヌ県の衣料業界の労働者の間に不満が広がり,国際主義は理解すれども,ユダヤ人の職場進出によりフランス人を破産させる「外国人」を,擁護したくない空気が出ている旨の記事が掲載されていますし,1937年12月の警察官労組の機関誌『パリ警察』にも,
「フランスに必要なことは,度を超した寛大な庇護を止めることだ」
との論調が出て来ています.

 この頃,1933年末にはユダヤ系ロシア移民であるスタヴィスキーによる疑獄事件が発覚し,「外人詐欺師」「キエフのゲットー出身の子」「つい最近の帰化人」に対する反発が強まり,フランスは「世界のゴミ捨て場なのか」などと過激な扇動をする右翼の主張に耳を傾ける聴衆が増えて行きました.
 1932年5月にポール・ドゥーメル大統領が亡命ロシア人により暗殺され,1934年10月にはマルセイユでユーゴスラヴィア国王とルイ・バルトゥー外相が偽造旅券を持ったクロアチア人に暗殺されていました.
 更に,1937年6月にはイタリアの亡命反ファシスト活動家のロッセッリ兄弟が,ノルマンディ地方の温泉地で暗殺され,1938年初めのパリでは,亡命ドイツ人ヴァイドマンによる6名の殺害事件が発覚し,11月にはユダヤ難民によるドイツ大使館員の暗殺事件がありました.
 因みに,このドイツ大使館員の暗殺事件が,ドイツ全土での「水晶の夜」に発展したりしています.

 こうした事件が起きると,フランス人の「外国人嫌い」はエスカレートし,それは政府によって外国人追放の良い口実になっていきます.
 とりわけ,フランス共産党系の統一労働総同盟で移民の為に活動していた外国人が狙い撃ちにされました.
 例えば,1932年6月のポーランド人炭鉱労働者オルシャンスキの帰化剥奪と1934年4月の追放,パ=ド=カレ県でストを打った71名のポーランド人労働者の追放などがそれです.
 1920〜33年の間に国外追放処分となった者は,月平均566名の合計9.5万名余ですが,1932〜34年に国外追放処分となった者は,当初は月平均521名だったのが,ユーゴスラヴィア国王暗殺事件後は月平均1,000名を超えました.
 なお,1930年に共産党系の統一労働総同盟が組織していた外国人組合員は1.7万人で,イタリア人が1.2万人,ポーランド人が2,500名でした.

 ところで,1933年4月にドイツでヒトラー政権が誕生すると,ユダヤ人や左翼支持者は公務員,法曹,医者などの職から追放され,1939年までに10万名がフランスに亡命してきました.
 1933年1年だけでも,2.5万人を数えていました.
 最初の頃,ドイツから逃れてきた人々は同情の的であり,4月に議会は,アインシュタインの為にコレージュ・ド・フランスに講座を新設する法を可決したりもしています.
 しかし,8月以降は書類に不備のある外国人は追い返され,公文書の中ですら,「自称難民」とか「好ましからざるイスラエル人」と表現される様になりました.

 庇護権は働く権利を意味しないことが確認されたとは言え,自由業者の中に外国人との競合に対する不安が表面化し,対策を求める声が上げられ,国籍条項が導入されていきました.
 特にフランス人医師達は,ルーマニアやロシアから亡命してきた同業者との競合もあった上に,新たにドイツ人医師も競争相手に加わってきたので取分け切実でした.
 1930年の医学部に於ける外国人医学生の割合も,1919年の倍の25%に達していました.
 この為,政府は1933年4月21日デクレにより,医師の条件としてフランスの博士号取得とフランス国籍を明記します.
 しかし,1934年頃でもなお1.3万名の医学生のうち0.3万名が外国人であり,兵役を逃れる為に帰化を遅らせる医学生もおり,このデクレは形骸化してしまっていました.

 1935年1月,フランス人医学生達は1日だけの全国ストを行い,2月にもストやデモを繰り広げ,1935年7月26日デクレを取得します.
 これは,開業医と公立病院の勤務医にはそれぞれ帰化して4年後と5年後にしかなれないと明記し,徴兵年齢を過ぎて帰化した30歳以上の外国人医師には,兵役を義務づけるものでした.
 因みに,1937年に反ユダヤ主義の作品である『虫けら共を踏みつぶせ』を著したセリーヌは,医師だったりします.

 全国弁護士連合会も反帰化人キャンペーンを展開し,1934年7月19日デクレにより,帰化人は10年間法曹界や公務員職から遠ざけられることになりました.
 外国人は帰化して10年後にしか受験できず,年齢制限によって受験資格を失うこともありました.
 因みにこの頃,外国人排斥のデモの中に,当時法学部学生だったミッテランも加わっていました.

 医者や弁護士も排斥できるのならば,次は我々も,と言う訳で,商人や職人も営業の自由に異を唱え,1935年8月8日デクレにより,密入国者の不法就労を防ぐ為に,外国人商人や職人は職業を付した特別身分証の保持を義務づけられました.

 更に1935年2月6日,デクレは身分証の規定に修正を加えました.
 最大の修正は,第4条に於て,身分証が県内にのみ有効で,県外に転居するには事前に知事の承認が必要となり,これに違反すれば身分証の取り消しと国外追放が待っていたことです.
 しかも,労働者身分証を持たない外国人は職に就けないので,移民は県外での職探しが出来なくなりました.
 その上,更新期限の切れた身分証の保持者は,不法滞在者として国外退去となりました.

 1920年代前半には,国境の出先機関で身分証を発行していた様に,国境で「好ましからざる外国人」を排除していましたが,これ以後,フランスで生活し働いていた外国人でも更新が拒否されれば,国外退去処分を受けることになりました.
 また,1924年に導入された2枚の個人カードは,フランス人保証人2名の住所記入が追加され,水色と白色に区別され,水色は県が,白色は内務省保安課が保持することで事務の合理化が進んでいきます.

 こうして1930年代になると,個人データのカード化が進められていきました.
 1933年4月には各県に外国人問題専門部が作られ,1934年4月には警察庁内に外国人中央カード室の設置が内相から訓示されました.
 因みにヴィシー政府の警察長官で,フランスのユダヤ人一斉検挙にフランス警察を総動員したルネ・ブスケも,1936年6月から室長として此処に勤務していました.
 1935年2月には内務省に中央指紋カード室が設けられ,1938年には外国人担当の警察や憲兵,防諜組織の増員が認められていきます.
 また,国境の取締を強化する為に,内務省と県に監視委員会も設置されました.
 更に,1938年1月には予て求められてきた移民担当次官が設置されましたが,これはその後の政治的混乱により,2ヶ月という短命に終わっています.

 この様に,民主主義国家を標榜する割には,中の人は警察国家だった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/04 23:09

 さて,19世紀から始まってとうとう1930年代に突入してきたフランスの外国人の話.
 もうこうなったら意地ですね(苦笑.

 1936年6月,人民戦線内閣が誕生し,首班にブルムが就任します.
 当初,この内閣は移民問題を優先課題としていませんでしたが,それでも外国人児童にも初等教育を義務化し,1935年2月6日デクレの第4条を破棄し,外国人労働者にも職場代表を選ぶ権利と有給休暇を付与すると共に,1937年5月にはスペイン難民に保護の手を差し伸べました.
 しかし,こうした施策は「赤」の恐怖に怯える人々や,「ユダヤ人ブルム」を蔑視する人々の間に外国人嫌いの感情を高めることになりました.

 また,これまで移民を保護してきた共産党ですら,1936年に大量入党したフランス人に配慮し,1936年11月の下院でラメット議員がフランス人労働者を守る為に外国人労働者の入国制限を要求しました.

 こうしてブルム内閣も重い腰を上げざるを得ず,1936年11月にフランス人労働者を保護するデクレを発しました.
 このデクレでは,南仏のブーシュ=デュ=ローヌ県でのコルク製造業で外国人労働者をまず30%,半年後に20%,シェール県の乳製品加工業では10%,半年後に5%とするなど制限を行うなど,10の業種で外国人雇用の制限を行っています.
 また,政府は「職人」と大きく太字で記載された身分証を設け,1937年には偽造防止の為に,透かし模様入りの身分証用紙が登場しました.

 1938年3月,ドイツがオーストリアを併合すると,フランスには6,000〜8,000名の亡命者が押し寄せることになります.
 オーストリア救援組織が組織されたり連帯集会も開かれましたが,4月に成立したダラディエ内閣は治安と自国労働者の保護を優先しました.
 1938年5月2日の緊急令では,外国人の取締が強化され,2ヶ月以上滞在する外国人は身分証の所持を義務づけて,政治亡命者を除く不法滞在者は罰金と収監の後,国外追放となりました.
 更に,正当な理由無く期限内に身分証の交付申請をしない外国人への罰金と投獄,外国人の不法入国や不法滞在を助けたフランス人の処罰も明記していました.
 外国人に宿を提供したホテルや下宿屋は24時間以内に,個人は48時間以内の届出が義務づけられ,これに背けば罰金刑が待っていました.
 正規滞在の外国人が転居する場合にも当局への届出が義務づけられ,更に内相は元より国境の県知事も,追放令を受けた外国人を追放する権限を与えています.

 5月14日の緊急令では,身分証の有効期間を3年に戻し,身分証を申請する外国人は入国が合法であることを証明せねばならず,申請には5枚の写真が必要となりました.
 特に,写真は「無帽で耳を出した右横顔写真」と明記されています.
 次いで,6月17日の緊急令では,健康診断書が求められる外国人は,病名や病歴,治療内容を明記した健康手帳の所持を義務づけられました.

 11月12日の緊急令はより抑圧的となり,本国に送還し得ない外国人は,「収容所」で監視される様になりました.
 また,外国人商人が商いをする場合は,身分証の1ページに「商人」と記載された特別身分証を保つ事が義務づけられました.
 これは,小さな商店主ではなく,中欧からフランスに会社を移そうとしている小売店主や卸売商人といった中産階級を狙い撃ちにしたものです.
 今までは労働者階級が規制の対象でしたが,これ以後は中産階級にまで規制が拡げられた訳です.
 その他,特定の職業分野で外国医jんの商人や職人の数を制限したり,外国人が会社を興す数を制限したり,フランスで兵役を済まさなければ,帰化人は5年間選挙権を奪われたりしました.

 1939年4月12日の緊急令では,亡命者の政治活動を封じ,ドイツとの戦争に巻き込まれない為に,内相から許可を得ていない外国人の結社を禁じると言うものとなり,移民から結社の自由が奪われます.
 因みに,移民の結社の自由が復活するのは,実に1981年10月になります.

 こうした抑圧にも関わらず,1938年のパリ在住外国人は約43.9万名に達し,1936年より6.8万名増え,パリ警視庁は身分証の手数料収入が1,482万フラン,罰金収入は401万フランを得ていたりします.

 戦雲が垂れ込めた1938年後半になると,外国人は政治的危険人物と見做される様になり,6月29日にそれまで1934年1月26日デクレで禁固5年だったスパイ罪の最高刑が死刑となります.
 また,1938年12月以来ムッソリーニがニースとコルシカの返還を要求して反外国人感情が高まり,1939年初頭にはスペイン内戦での共和派の敗北で,ピレネーを越えて逃亡してきた兵士20万人,その他30万人に達する50万人のスペイン共和派難民は,中世の大移動とか人間の津波とか形容され,保守層やフランス南西部の町で外国人嫌いの感情を高めました.

 1939年2月には,ロゼール県に最初の強制収容所が建てられ,「好ましからざる者」が収容されました.
 その中にはスペイン共和国の側で戦った,国際旅団の兵士達も含まれていました.
 1914年の「好ましからざる者」の定義は,スパイ,犯罪者,浮浪者,密輸入,伝染病地域の住人など,「混乱の種を蒔く者」や「フランス人の職やフランスの安全を危険に晒す者」でしたが,段々とその範囲が拡大していき,スペイン難民も「危険人物」と位置づけられました.
 こうして春までに,彼らを収容する有刺鉄線付の収容所がフランス南西部に7つ設けられました.

 11月18日になると,国防や治安を害する虞のある者,特に共産党員を収監する緊急令が出され,更に敵国人を収容する収容所が全国80箇所に設けられています.
 南部地区で最も有名で最大の収容所は,バス=ピレネー県に4月に開所したギュルス収容所です.
 此処には1939〜45年の間に6万人が収容され,衰弱,赤痢,チフスなどにより公称で1,000名が死亡しています.
 ユダヤ系ドイツ人の哲学者であるハンナ・アーレントも,米国に亡命するまで,1940年5月15日〜7月1日の期間,この収容所に入れられています.
 ギュルスでは,ユダヤ人は混み合ったバラックの地面に眠り,害虫に食われ,雨漏りの為湿気のある泥部会場所で飢えと寒さに苦しみ,1940〜41年の一冬の間に800人が死んだとされています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/05 22:56


 【質問】
 WW2フランスの輸血事情を教えられたし.

 【回答】
 さて,ナポリ血液銀行は,第1の業務は米軍に対する全血の供給でしたが,他にも自由フランス軍が北アフリカで集めた血液をコルシカ島や北部フランスに輸送する仕事も担っていました.
 フランスの輸血システムはドイツに占領されたことで壊滅し,パリでも献血活動が低調だった為,病院はプロの売血者を雇っていました.

 しかし,アルジェリアは未だ輸血システムが機能しており,フランス人軍医のグループが軍の為に輸血部門を作り上げていました.
 その責任者であるエドモン・ベナモ医師は,第1次世界大戦中に激戦地のヴェルダンで,腕から腕への輸血を行った事のある医師で,ムスタファ病院の地下室に密かに血液銀行を設けていました.

 ベナモは戦後のスピーチでこう語りました.
「私は『血液の独裁者』の地位に付けられたが,それは独裁権の無い独裁者だった.
 何しろ容器もガラスのアンプルも無ければ,注射針もゴムチューブも漠,供血をする者も輸血医もいなかった」
 こう語っていますが,中々どうして,ベナモには政府の無条件の支援があり,フランス領アフリカにある資源はベ ナモの自由裁量に任されていました.
 アルジェリアではステンレスの注射針が見つからなかったので,街の宝飾業者に依頼して純銀の針を作らせましたし,チューブを作るゴムが無いと言えば,政府は2,000マイル近く離れたセネガルのダカール港で,ゴムの貨物船を全て足止めして,積み荷を徴発したりしていました.

 フランスでは,アルジェリアを足がかりにして作った新しい血液供給システムを,独自の処理施設や,車両,献血を奨励する専門の宣伝部門を持つ,独立した組織として作り上げました.
 中核施設はアルジェリアに設置され,そこでは医師達が採血をして,血液や血漿を容器に詰め,アフリカやコルシカや北部フランスで戦う自由フランス軍と,行動を共にする「移動部隊」に輸送しました.
 また,中核施設を補完する支部はチュニジアとモロッコに設置し,そこからも移動部隊に対して血液を輸送しています.

 モロッコのフェスにある支部を指揮していたのは,後にフランス陸軍軍医総監となった医師のジャン・ジュリアールでした.
 ジュリアールは孤立した山中の町で,手持ちの材料を使って様々な開発を行いました.
 米国人が財力と物量に物を言わせて,血液製剤を生産していた頃,木綿で血漿を漉す圧力フィルター…その動力源であるコンプレッサーは,エレベータのモータだったりします…や,後にフランス中に普及した「採血室」もジュリアールの手によるものです.
 「採血室」と言うのは内部が滅菌されており,献血者は外に座って穴から腕を差し入れます.
 中には白衣を着た技術者がいて,差し込まれた腕から無菌状態で採血をします.
 献血者は安心感を与える役の職員に付き添われ,尚且つ注射針を見ることがありません.
 こうして,銀の針が腕に差し込まれるのを感じるだけで済む,と言う利点がありました.

 フランス人医師達は,この組織を輸血復興組織(ORT)と命名し,その活動は医学の理念を象徴するものであり,現代性と人間性を,ファシストの価値観と対極にて体現するものでした.
 この組織では,フランス人もアラブ人も一様に,進んで善意の献血をしました.
 血液は単なる医薬品や物資などでは無く,社会契約の新しいシンボルとしての価値を有するものでした.

 ベナモはアルジェリアの本部に配備された小型機を駆って,支部から支部へと飛び回り,病院や映画館,その外人が集まれる所ならどんな所ででも講演をして,
「我々の任務の目的は何か,何故血液が必要で,何故それがもっと必要なのか」
を説いて回っています.

 勿論,こうして現場を飛び回っていた医師もいましたが,一方で,外科的輸血の先駆者であり,ノーベル賞を受賞したアレクシス・カレルは悲劇的な最期を遂げています.
 カレルは,ロックフェラー研究所を退職してフランスに帰国し,ブルターニュで静かに余生を送っていました.
 しかしフランス政府が倒れると,その後に入ったパリの支配者達に対し,カレルの経験を利用する様に何度も申し入れをしました.
 但し,その動機は,ただ死んでいくフランス人を助けたいと思っただけでした.
 その後,カレルはヴィシー政権の元首であるアンリ・ペタン元帥の資金援助を得て,人間問題研究所と言う非政治的な研究所を設立したのですが,これはレジスタンス達には受入れがたい事実であり,指導者達はカレルはナチスのシンパであると言う噂を流しました.

 事実は,カレルは決して楽な暮らしをしていた訳では無く,夫妻はヴィシー政権から薪を受け取ったり,通常よりも多くの食糧配給を受けたりすることを断っていました.
 寒さと空腹で健康も衰え,所有していた船も車もドイツ軍に没収されて孤独な生活を送っていたのです.
 自由フランス軍が進駐してくると,フランスの報道機関は,カレルは人種主義者でナチスの擁護者であると糾弾し,解放後は「国外逃亡を防ぐ為」として,官憲が幾度も自宅に立ち入りました.
 1944年11月,政府のラジオ局は,カレルはナチスの協力者として裁かれるのを避ける為に,国外に逃亡したと報じましたが,実はその日に心臓発作で死んでしまいました.

 占領されたフランスと言う国の悲喜劇が,この血液の世界でも繰り広げられた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/18 22:38
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2のフランス崩壊は,シャンパーニュ地方にはどのような影響を与えたのか?

 【回答】
 1939年9月1日,ヒトラーはポーランドに宣戦布告しました.
 その後,英国,フランスが相次いでドイツに宣戦布告して此処に第二次世界大戦の火蓋が切って落とされます.

 しかし,フランスでこの宣戦布告は非常に不評を以て迎えられました.
 作家のルイ=フェルディナンド・セリーヌは,2,500万人の死傷者が出る可能性を示した上で,こう書いています.

――――――
 我々はゴール人の様に,この場所から肉体も魂も消え失せるだろう.
 ゴール人はその言語の内,僅か20語しか残さなかった.
 我々は,『くそったれ(メルド)』以外の言葉を何か残せたら幸運だろう.
――――――

 30歳以上のフランス人にとって,1914〜18年の大戦争は,老人と障害者だけを残したと言う強烈な記憶を残していました.
 このことは,1915〜19年に少数の男児しか生まれ得なかった為に,年間の徴兵適齢者数が半減してしまった事に繋がりました.

 もう1度,大量殺戮があった場合,果たしてフランスは存続するであろうか?
 これが国民の持っていた素直な気持ちでした.
 シャンパーニュでは,それはとりわけ重大な問題でした.
 1920年代の半ばの人口は,1800年のそれを下回った訳で,これが地域に影を落としました.

 とは言え,悪いことばかりではなく,従来から対立し,1911年には内乱寸前まで行った「シャンパーニュを巡る争い」は,戦争による地域の結束が強まった結果,1919年にシャンパンの定義がやっと国民議会で法律として成立しました.
 例えば,ワイン増量の為のルバーブや林檎果汁の混入の禁止,シャンパン製造用に,シャンパーニュ外からの安い葡萄を持ち込むことが禁止されたりしました.
 また,「シャンパーニュ第2地域」とされたオーブとランスの対立も解消し,第2地域の格付けは廃止されました.

 まずは地域結束が図られた格好ですが,1939年ものの収穫の大事な時期に,またもや戦争は始まりました.
 再び葡萄畑での労働は,女子供と老人の肩に掛かってきました.

 ただ,前回の時は何の準備も出来ておらず,地域間対立による混乱がそれに輪を掛けた状態でしたが,今回は地域結束により回避されました.
 特に,ファニーウォーの8ヶ月の間は,軍や政府が何もしないのとは対照的に,彼らは精力的に働きました.
 当然,ドイツ人が狙ってくるのはシャンパーニュに数多あるシャンパンであることは確かです.
 何よりも,ワインはフランスの最も大切な宝であり,シャンパンはその頂点に当るものだから….

 そして,数十万本のシャンパンが隠されました.
 あるものは,一部の者しか辿り着けない様なカーブの最奥部に,あるものは偽の壁の裏に密閉され,ローラン=ペリエに至っては,シャンパンを隠匿する為に,聖母マリアを祀る聖堂まで建ててしまいました.

 1940年5月10日,ドイツの侵攻が開始されました.
 フランス政府は1ヶ月足らずで瓦解し,国は2つに分割され,シャンパーニュはドイツ施政権下に置かれました.
 そして占領軍となった兵士たちは,家から家へ,カーブからカーブへと回り,手当たり次第に奪いまくり飲みまくりました.
 マムのメゾンには,第1次大戦中,敵国財産として没収された際に追放されたゲオルゲ・ヘルマン・フォン・マムの息子が鍵を振り回しながら現れ,正当な所有物を取り戻しに来ました.

 そうした混乱状態は9月になって漸く落ち着き,秩序を取り戻したのですが,その時には既に200万本のシャンパンが消え失せていました.
 尤も,戦闘が散発的で,今回は大きな被害を被らなかっただけマシでしたが.

 ところが,ベルリンでは白い軍服を着た太っちょの男が,シャンパーニュに新たな痛みを与えようと,様々な計画を立てていました.
 彼はこう言い放ちました.

――――――
 フランスは破廉恥なほど美味い食事をして肥え太っている.
 昔は略奪が当たり前だった.
 今は見かけはもっと人間的になっている.
 だが,私は略奪するつもりだ.
 たっぷりとな.
――――――

 そして,シャンパーニュの最高級ワインを手に入れる為,ドイツのワイン業者に頼り,「制服のワイン商」と言うべき部隊を組織しました.
 フランス人は彼らのことを,「Wine Fuehrer」と呼びました.
 彼らの仕事は,良いフランスワインを出来るだけ多くそして安く買い叩いてドイツに送ることでした.

 シャンパーニュの責任者には,両親がコニャック商をしていてフランスで生まれ育ち,ドイツに帰ってからはワイン輸入会社とランソン・シャンパーニュの代理店をしていたオットー・クレービッシュと言う人物でした.
 当初,シャンパンメーカーはその名を聞いて安堵しました.
 ローラン=ペリエのベルナール・ド・ノナンクールはこう言いました.

――――――
 ビール業界ではなく,ワイン販売業界から人が来てくれて,大変嬉しかった.
 どうせ小突き回されること_なるにしても,ビール飲みのナチの田舎者よりは,ワイン業者に小突かれるほうがよい.
――――――

 ええ,彼らは直ちに小突き回されること_なるのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/06 22:23

 さて,第二次大戦に敗れたフランスの北半分は,ドイツの占領下に置かれました.
 フランとマルクのレートは,マルクに対し戦前の5倍の価値を付与する交換レートを定めているので,フランスの産品は買い叩かれました.

 シャンパンも例外ではありませんでした.
 この地区の責任者となったクレービッシュは,業界の代表達を前に,こう言い放ちました.

――――――
 君たちは週に35万本のシャンパンを我々に提供すること.
 全ての瓶には「ドイツ軍用」のスタンプを押さなければならない.
 また,君たちにはドイツが管理しているフランス国内のレストラン,ホテル,ナイトクラブにシャンパンを供給して貰う.
――――――

 ところが1940年は不作で,収穫高は80%も減少していました.
 クレービッシュは,金は払うと請け合いましたが,既に有利なレートでの支払いにより,フランス側からすれば二束三文で買い叩かれる様なものです.

 それでも要求は要求です.
 但し,メーカー各社はあらゆる方法で,サボタージュを試みました.
 ドイツ向けのシャンパンには,質の悪いコルクや汚い瓶を使用し,ドイツ宛に送る場合は,わざと送り先の宛名を間違え,シャンパンには混ぜ物をして質を落としました.

 ただ,クレービッシュはワイン商であり,シャンパンを知っている玄人です.
 彼は屡々,自分を誤魔化そうとする人間が居ないかどうかを確認する為に,抜き打ち検査を行いました.
 そして,サボタージュがばれた生産者は,時々事務所に呼び出され,詰問されました.
 そこで口答えをしようものなら逮捕され,ロベスピエール監獄に投げ込まれ,数日間を過ごす羽目になります.
 とは言え,其処にはご同輩がたくさんいて,我が家の様に寛げる場所となっていたりします.

 戦局が悪化するにつれて,クレービッシュの要求は益々エスカレートしていきました.
 時には週50万本を強要したこともありました.
 また,メーカーに対する疑心暗鬼も益々増大し,従業員がカーヴに入る場合は,ドイツ人将校を必ず同行させる様に命令を出しました.

 とは言え,戦争が進展するに従い,物不足で瓶,コルク,そして原料の砂糖が底を尽き掛けていました.
 葡萄農家の方も,化学肥料や葡萄の病気治療用の硫酸銅の入手が困難になりつつあり,馬に与える干し草すら十分にありませんでした…
 と言っても,馬は大多数が徴用されてしまっていますが.

 この困難な状況に於いても,なお傍若無人に振る舞うクレービッシュに立ち向かう人格と意志力を持った人物を,業界は捜し求めていました.

 1人だけ,その条件にぴったりの人物が居ました.
 ロベール=ジャン・ド・ヴォギュエ伯爵,彼は最大のシャンパンメーカーであるモエ・エ・シャンドンの社長であり,欧州にある多くの王家と縁戚関係にあり,一族はフランス最良の葡萄畑を所有していました.
 加えて,弟はヴーヴ・クリコの社長であり,従兄弟の一人はブルゴーニュでも最高級の葡萄畑を経営していました
 ド・ヴォギュエのワインしか詰まっていないワイン倉があったならば,それは世界有数のワイン倉であるとまで言われた名門中の名門でした.

 そして,ド・ヴォギュエはシャンパーニュ人の代表の地位に就くことを承諾しました.
 その最初の一歩は,1941年4月16日にコミテ・アンテルプロフェショネル・ヴァン・ド・シャンパーニュ(CIVC)の結成でした.
 CIVCは葡萄生産農家とシャンパン生産者の共同戦線であり,クレービッシュに対抗する組織の位置づけとなりました.
 勿論,その代表にはド・ヴォギュエが就任しています.
 この2人は,以後定期的に会って商品割当量を算出し,不足高の埋め合わせや,その他様々な問題の解決を行ってきました.
 確かにクレービッシュは占領軍の代表で,殆どはビジネスライクな関係に終始しましたが,ド・ヴォギュエに敬意を払っていたのは明らかでした.
 ド・ヴォギュエは練達の交渉相手であり,時には非常な説得力を発揮したので,場合によっては立場が逆転し,クレービッシュは700名のフランス人捕虜の解放の為,上官に口添えすることに同意せざるを得ないこともありました.
 その700名の捕虜達は,シャンパンを生産する為に必要な技術を持っているというものでした.

 それでも,相手が自分に圧力を掛けていると感じた時や,相手に利用されていると悟った時には,強権を発動するのをためらいませんでした.
 クレービッシュが,ある時大量に商品を割り当てたのに応じられないと答えた時,「日曜も働け!」と言い返したりもしています.

 その頃,シャンパーニュでは密かにレジスタンス網が構築されていました.
 この地のレジスタンスは,最高度の機密保持能力と,組織力を誇っていました.
 シャンパンメーカーのクレイェールや地下回廊は,連合軍がパラシュートで密かに投下した武器弾薬の絶好の保管庫でした.
 最も大きかったのが,パイパー=エドシックのメゾンでした.
 更に,クレイェールではゲシュタポの追求を逃れてきた人々へ,隠れ家を提供していました.
 また,撃墜された連合軍の飛行士達が国外に脱出出来るまで,密かに匿われた場所でした.

 リュイナールでは,別の形のレジスタンスが行われていました.
 と言うのも,此処の従業員達は,シャンパンの出荷にはっきりしたパターンがあることに気づいたからです.
 つまり,大量の委託品が送られた先で,必ず軍事攻勢が行われるのでした.
 最初は1940年で,ドイツ公館が小さいのが1つ有るだけのルーマニアに,何万本のシャンパンを送る様注文が来たところ,その数日後にルーマニアへの進駐が開始されたり,翌年,大量の注文があったのですが,その瓶には「非常に暑い国」に送れる様に,特製のコルク栓と特別の梱包を求められました.
 ロンメル元帥のアフリカ侵攻があった時,その国がエジプトであることが判明しました.
 彼らはこのパターンを記録し,それを英国諜報機関に伝達することにして,作戦の兆候を知らせていたのです.

 しかし,最も重要なレジスタンスの中枢は,ド・ヴォギュエの経営するモエ・エ・シャンドンでした.
 レジスタンス活動には経営陣全体が参加し,特に深く関わったのが,東部フランスに於いてレジスタンスの政治機関の長を勤めたロベール=ジャン・ド・ヴォギュエ伯爵その人だったのです.
 この地のレジスタンスは,ゲシュタポに疑いをもたれるようになり,1943年11月24日,ヴォギュエと営業部長フルモンが,収穫について話し合う為,クレービッシュのオフィスを訪れた時,拳銃を手にした2名の男が部屋に飛び込んで,彼らに手錠を掛けてしまいました.

 2人はレジスタンス幇助の罪に問われ,フルモンはブーヘンヴェルトの強制収容所に送られ,ド・ヴォギュエは軍事法廷で死刑判決を受けてしまいました.
 11月29日,その報が流れるや否や,シャンパーニュ全土では歴史上初めてとされるゼネストが発生しました.
 クレービッシュはこれを「テロ行為」と呼んで,ストを中止しなければ酷い目に遭わせることを示唆しました.
 しかし,抗議行動はエスカレートしていきます.
 クレービッシュとしては,此処で穏便に済ませないと,ベルリンに対する覚えが悪くなります.
 そして,彼が持っている手札は余り良いのがありませんでした.
 ベルリンも,東部戦線に手一杯で,シャンパーニュ如きの田舎に鎮圧軍を差し向ける余裕がありませんでした.

 クレービッシュは,自分が失脚して東部戦線に送られることを恐れていました.
 そして結局譲歩し,ド・ヴォギュエの死刑宣告は延期されます.
 それと共にゼネストは静まりますが,とは言え,全てのシャンパンメーカーに重い罰金が科され,モエ・エ・シャンドンは,直接ドイツの監督下におかれて,経営陣全員は収監されてしまいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/07 23:44


 【質問】
 第二次大戦中,ドイツはフランス占領してたわけですが,言葉の問題はどうしてたのでしょうか?
 仏勤務のドイツ軍に仏語の教育でもしてたのでしょうか?
 それとも現地通訳をつけて仕事してた?

 【回答】
 その当時を描いた本を読んでみますと,占領時点ではフランス語の簡単な会話帳を配っていたりしています.
 尤も,そうしていたのは初期だけで,後にはドイツ語が幅をきかせる様になっていますし,アルザス・ロートリンゲン出身者や,対独協力者の通訳を使ったりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 そういえばフランスからドイツにどれだけ労働者が強制連行されたんだろう?

内田弘樹 in twitter,2013/05/26
https://mobile.twitter.com/uchidahiroki/status/338626643084054529

 【回答】
 『ホロコースト大事典』(柏書房)の「強制労働」の項によれば,ドイツ国内で就労させられていたフランス人労働者は130万人.
 ただしこれには,戦争捕虜は含まれていません.
 ちなみに外国人労働者総数は,1944年末には840万人を超え,そのうち約200万人が戦争捕虜,約580万人が民間人労働者,約70万人が強制収容所の囚人でした.
 民間人労働者の中で最大の集団は,ロシア人で約280万.
 そのうち半数が女性でした.

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/338628717419065344
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/338628873975640067


 【質問】
 仏のレジスタンスって実際役に立ちました?

 【回答】
 ノルマンディの時は,線路・橋を爆破したり道路を塞いだり先導隊を襲撃したりと,前線に向かうドイツ軍部隊の妨害をかなりやってる.
 これと連合軍空軍機の爆撃とで,ドイツ軍は部隊の集結が遅れ,連合軍を追い返すことができなくなった.
 まあ,レジスタンスによる襲撃がきっかけで,オラドゥール事件(ダスライヒ師団の一部隊による村民虐殺)も起きてたりするが.

 これ以前にも,イギリスの工作機関SOEの支援を受けて鉄道や軍需工場の送電施設を破壊したり,ドイツ軍の配置状況を調べたりと,地道に活動している.
 ただし,共産主義派とドゴール派の対立があったりして,レジスタンスも一枚岩ではなく,内部抗争もけっこう起きている.

 ノルマンディ後は,撤退するドイツ軍の残兵を襲撃しているが,このときは捕虜殺害などもあった.

 ただ,レジスタンスの数はそれほど多くはなく,大多数のフランス人は不承不承ながらもドイツの支配を受け入れていた.


 【質問】
 WW2時の占領下のフランスでは,レジスタンス活動をやってたグループがいたわけですが,彼らは現在のイラクのように,旧ドイツ軍だけでなく体制側のフランス人も対象にして攻撃していたのでしょうか?

 【回答】
 していました.
 少なからぬ数の対独協力者が,レジスタンスによって処刑されています.

軍事板,2005/02/17
青文字:加筆改修部分

 例えば,レジスタンスに死刑を宣告した判事とか,対独協力に積極的だったユダヤ人が暗殺されたりしました.
 また,解放前には,ダルラン将軍とかアンリオ情報大臣が暗殺されています.

 解放前後の混乱では,正規の裁判を経ずに約10,000人が略式処刑されています.
 これらは,当時の言葉で「暴力的決着」と称されました.
 この中には,ToulouseのGestapo司令官愛人とかが含まれます.

 その後,自由フランス軍将校とか共産党系の自称将校によって,軍法会議が設置されました.
 この軍法会議は1944年9月23日まで機能しますが,これで結構な数の人が銃殺されています.

 ちなみに,以後は対独協力特別裁判所で審理された訳ですが,この裁判所で審理された事件は12万4,000件でした.
 このうち,死刑を宣告された人は4%の6,763名,実際に刑が執行されたのは,767名でした.
 これら裁判の対象者は,ファシスト知識人,宣伝扇動家で,専門家,実業家,官僚の殆どは無傷で生き延び,外交官は3分の2がそのまま現職に就いています.
 また,知事は半数が入れ替わっただけでした.
 これは,フランス再建のために彼らが必要とされたからです.
 その代わりにscapegoatにされたのが知識人たちで,共産党系の作家が牛耳る全国作家委員会が,戦後の一時期まで,対独占領下で本を出版した作家たちの本を悉く出版禁止にしたりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/02/17
青文字:加筆改修部分

対ドイツ協力者への制裁
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ノルマンディ上陸以降の,シャンパーニュ地方の状況は?

 【回答】
 さて,1944年半ば,既に連合軍は反攻の為ノルマンディーに上陸し,解放エリアを増やしていきます.
 それと共に,レジスタンスも激増し,それに比例して占領軍のドイツ軍は,逮捕,強制移送,処刑で対抗しようとします.
 7月,クレービッシュは大量のシャンパンを注文しますが,3週間後にそれを突然キャンセルすると,ドイツに帰国してしまいました.
 後には何百万フランもの未払いが残されたまま,在庫も山の様に残ったままでした.

 一方,ドイツ軍は撤退時にはカーヴや橋を爆破する予定で,エペルネに大量のダイナマイトを貯蔵していました.
 しかし,その実行よりも早く,8月28日にジョージ・パットンが率いる米国第3軍がエペルネに突入し,占領することで,街の爆破は未遂に終わりました.
 以後,この地域に対する連合軍の砲爆撃が激しさを増します.

 その目標の一つは,モンターニュー・ド・ランスの北斜面にある葡萄農家達の小さな村,リリーでした.
 何故,こんな小さな村が執拗な攻撃を受けるのか,人々には分りませんでしたが,解放後に,実はこの村のカーヴのトンネルに,ドイツ軍がV兵器を隠し,ここからV兵器を発射していた事が知られる様になりました.

 1945年春,ランスは連合軍最高司令官を迎える名誉を与えられました.
 ドワイト・D・アイゼンハワー将軍がドイツ本土最終作戦を監督し,ドイツの無条件降伏を待つ場所としてこの地に司令部を移したのです.

 5月7日午前2時41分,ランスの工業大学でドイツ代表との停戦協定の調印が行われました.
 彼の元に1本のシャンパンが運ばれてきましたが,コルクが開けられたものの,それは気が抜けた代物だったそうです.
 彼は帰って床に就きました.

 翌朝8時30分,彼はランディ大通りを下り,司令部に向かいました.
 司令部に着いた彼が行ったのは,正式な祝いの為に,部下の1人にシャンパンを6ダース取り寄せることでした.
 そのシャンパンは,多くの人が激賞していた1934年物のポメリー・エ・グレノでした.

 西部戦線に於ける最後の爆発は,そのシャンパンのコルクの栓が抜ける音だったそうです.

 因みに戦後,ナチスの収容所でロベール=ジャン・ド・ヴォギュエ伯爵は生き延び,自宅に帰ってきました.
 ただ,その姿を見て,家族の誰もド・ヴォギュエ伯爵その人と分らなかったそうです.
 その後,回復した彼は,気力を取り戻し,モエ・エ・シャンドンをフランス最大のシャンパンメーカーに育て上げました.
 また,第二次大戦中に発足したCIVCは,全シャンパン産業の監督機関として現在でもその任に当っています.

 そう言えば,20世紀最高の逸品とされたのが,第1次大戦が始まった年に仕込まれた,モーリス・ポル=ロジェの作った1914年物のシャンパンであるというのも,何だか歴史の皮肉ですね.
 この年の収穫は戦争のお陰でかなり前倒しされた為,ろくなワインにならないと言われていたのですから.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/08 22:12

▼ なお,
『暗闇の戦士たち』(マーティン・C・アロステギ著,朝日文庫,2001.9.1),9-10
によればOSSは,ノルマンディ上陸の数ヶ月前から,「仕掛け人(ジェドバラ)」としてアーロン・バンク大尉が南フランスでレジスタンスを率いていたという.
 「ジェドバラ」とは,OSSのもとで特殊工作部門を構成していた,様々な国籍から成る兵士グループの呼称で,12世紀のスコットランドの戦士集団の名に因む.▲


 【質問】
 シャルル・トレネとは?

 【回答】
 フランスのシャンソン歌手・俳優・作詞家・作曲家で,イブ・モンタンの師匠筋.
 第2次大戦中は,「フランス・ディマンシュ」を作曲してナチス支配に抵抗し,ゲシュタポに追われて負傷.
 1958年には来日公演を行っている.
 ちなみにこのときの興行主は永田貞雄.

 詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.310-311を参照されたし.


 【質問】
 ドゴールの自由フランス軍は,対独レジスタンス支援より内部の主導権争いのほうにエネルギー使ってたってホント?

 【回答】
 ホント.
 英・米双方の思惑も入り交じったドロドロの主導権争いを展開.
 それがやっと収まったか?と思ったところで,今度はパリ解放後の左派系レジスタンスとの争いが待っています.

 当然,ヴィシー政府や対独協力者たちは,両派とも問答無用で・・・

 どうみても,イタリアとは別の意味で,戦争を真面目にやろうとは思ってないような気がする.

軍事板

 ちなみにレン・デイトンの著書によれば,ダンケルクの際,殿軍のフランス兵を助けるため,ドーヴァー要塞司令のラムゼイが個人裁量で輸送船を一隻送ったら,戦闘から逃げ隠れていたフランス兵(つまり敵前逃亡)が,ぞろぞろ乗り込んできたのだそうだ.

 実は自由フランス軍は,脱走兵よりもさらに不名誉な「敵前逃亡兵の集団」も抱えていた.

軍事板


 【質問】
 ドイツの降伏後,ドイツは4カ国によって分割統治されましたが,このなかにフランスが入ってるのはなぜですか?
 ついちょっと前まで占領されてたくせに,人様の国を管理する余裕なんかあったんですか?

 【回答】
 軍事というよりは,世界史の質問という気がしますが.

 すごくはしょって簡単にいうと,緒戦の戦いやレジスタンス活動の実績を背景に,ド・ゴールが強硬に要請したのを無視できなかった(初期の占領プランではフランスは入っていない)というのが理由.
 また,余裕がなかったからこそ,フランスはドイツから賠償を取り立てるのを目的に占領地を獲得したがったのです.
 実際にそこから工業設備やらインフラやらを接収して,本国に持ち帰ってます.

軍事板


 【質問】
 なんでナチスの占領を経たフランスは,第四共和制に移行したの?
 第三共和制の憲法は使えなかったの?

 【回答】
 第3共和制は40年の敗北と,ペタンへの授権に責任があり正統性を失っていたからです.

 ただ,45年10月のレファレンダムで第3共和制の憲法が拒否されると,その後1年間の各派の綱引きで,ドゴール派の強力な大統領制案,左派の一院制案が否定され,結局,二院制+弱い行政府という第3共和制と似たり寄ったりの政体が,旧共和派の主導によって選択されたのは歴史の皮肉でした.
(この凪の状態はアルジェリア危機まで続くことになる.)

世界史板
青文字:加筆改修部分


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ