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◆◆◆◆ヴィシー・フランス Vichy-kormányos Franciaország
<◆◆◆親枢軸勢力
<◆◆総記
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次世界大戦
『帝国とプロパガンダ ヴィシー政権期フランスと植民地』(松沼美穂著,山川出版社,2007.11)
フランス植民地史の研究書で,他の植民地関係の史書が政治,経済,軍事的な側面から見ていたのに対し,この本は特にヴィシー政府が成立した後の同政府の正当性を喧伝する為にどの様な施策を採ったか,そして,それが本国や植民地にどの様な影響を与えたのか,更に,ヴィシーが消滅し,De Gaulleの政府にどの様に引き継がれていったのかと考察した本.
―――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月24日20:27
『ワインと戦争 ナチのワイン略奪作戦』(クリストフ・リュカン著, 法政大学出版局, 2019)
第二次世界大戦でフランスはドイツ軍に席巻され,北半分が占領下に置かれ,南半分と植民地がヴィシー政府の統治下に置かれます.
ドイツは,フランスの経済力を巧みに利用し,その資源を効率的に収奪する仕組みを整えていきます.
それは工業力ばかりでは無く,農産物も対象でした.
この本では収奪システムの中で,フランスらしいと言えるワインに焦点を当て,かなりの一次資料を駆使しながら,占領下に於けるワイン取引の実態を明らかにしようとしています.
ドイツに占領された国々は様々な方法で抵抗したわけですが,フランスもレジスタンスを中心にした抵抗を行いました.
それは経済界も例外では無く,様々なサボタージュで生産力の低下を起こしています.
ただ,それは一面的なものであり,殆どポーズに過ぎません.
彼等の大多数は,ドイツ占領当局への協力に積極的で,このビジネスチャンスを逃すまいとあの手この手で莫大な利益を得ています.
そうした人々はドイツの勝利を信じて疑わなかったのですが,北アフリカが失陥し,本土に連合軍が攻め込んでくる状況になると,変わり身が早く掌返しをして,レジスタンスに積極的に関与したとか,間接的にレジスタンスの闘士を匿ったとか,資金を提供したと言うような話を作っていったのです.
その結果,対独協力の事実は置き去りにされ,対独解放後に裁判所に訴追されて,一審では有罪になっても,裏から手を回して,結果的には無罪を勝ち取っていきました.
彼等に不利な記録は何時の間にか消し去られ,その全貌を掴むには途方もない苦労が必要です.
この著者はワインの取引という観点から,その途方もない苦労を自ら背負い込み,一次資料を丹念に渉猟して,断片的な情報を繋ぎ合せて,ワインに関わる人々の対独協力の姿を改めて浮き彫りにしています.
ただ,核心の資料は当事者によって無かったことにされているのですから,周辺の断片的な情報を繋ぎ合せていかなければならず,数字の辻褄が合わない部分も出て来ます.
実際読んでいて,訳が分らなくなる部分も屡々ありました.
しかし,それらの資料を繋ぎ合せると,取引の実態が見えてきます.
特に,モナコ公国経由の取引の実態や北アフリカワインの取引,アルザス地方を経由したワインの取引の実態はよく再現された方です.
日本なんかに比べ,欧州では比較的こうした大戦中の記録は残っていますが,経済に視点を置いた記録と言うのは意図的に隠されたり,処分されたケースが多い訳で,その辺は日本の事を悪く言うのもなぁと言う感じを受けました.
ワイン関係の本は時々読んでいますが,歴史とかに重点を置いた本は余り読んでいませんでした.
失敗したなぁと思ったのは,この本を読む前に,訳者あとがきを先に読むべきだったなぁと.
訳者の宇京賴三と言う人は,独仏文化論を専門にしている人なので,こうした部分の蘊蓄が非常に豊富です.
こうしたワインを媒介としたドイツとフランスとの関係とその歴史について,訳者あとがきで触れてくれているので,これを最初に読んでいれば,もう少しすんなり頭に入ったかなと思った次第です.
一つだけ残念だったのは,この取引の実態の記述は飲用のワインが中心で,工業原材料としてのワインの動きについて余り触れられていないことです.
特に,ワインから作られる酒石酸は,潜水艦のソナーの集音装置を担う原料です.
ドイツ海軍にとって,ワインの調達は主力艦である潜水艦生産の要と言っても良いものですから,その辺の取引実態が明らかになれば,ドイツの軍需経済の実態にも切り込めるのになぁと思いました.
------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2020-08-04 23:15
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ占領下とヴィシー統治下フランスを知るのに,おすすめの本有る?
出来れば自由フランスの方も.
【回答】
草思社で『ナチ占領下のパリ』
講談社メチエで『ナチ占領下のフランス』
文庫クセジュで『対独協力の歴史』
この辺が割とメジャー.
季刊『国際政治』で60年代から,10年毎位に政治面を中心とした論文が出ている.
OPACで捕捉後,大学図書館辺りで漁ってください.
そういえば西洋史学にも記事あったね.
自由フランスからの視点なら『ド・ゴール大戦回顧録』
高くて嵩張るけど.
立場的にはチャーチルのみたいな,上から目線にはなりますわな.
岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM :軍事板,2011/05/23(月)
青文字:加筆改修部分
桜井哲夫『占領下パリの思想家たち』ハンナ・ダイアモンド『脱出
1940夏・パリ』
川上勉『ヴィシー政府と「国民革命」』ロバート・O.パクストン『ヴィシー時代のフランス』
とかも良書だよ.
最後の2冊は学術書だから,値段もそれなりに張るし,読むのに手間がかかるけど.
軍事板,2011/05/24(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW2の時の独の傀儡政権,仏ヴィシー政府のペタン元帥は,どうしてドイツに加担していたのでしょうか?
この人って,WW1の時のソンヌの戦いのペタンさんと同じ人ですよね?
ドイツから強要されて無理やり操られていたのか?
それとも保身のために進んで国を売ったのでしょうか?
先の大戦でソンヌを死守したほどの人に,フランスへの愛国心がなかったとは思えませんし・・・
【回答】
(1)
ペタンはWW1の司令官として近代戦の惨禍を知り尽くしていたが故に,無益な抵抗を避けようとした.
本人的にはドイツに加担するのではなく,フランスが戦場になるのを回避し,出来るだけ中立の立場をとろうと考えていた.
そして,それはドイツ側の思惑と合致していた.
フランスが休戦した時点ではフランス海軍と植民地は無傷であったため,それらがイギリスに合流する前に,ある程度の主権をもつヴィシー政府のもとに中立化させるという戦略であった.
ペタンは愛国者としてフランスを守ろうとしていたし,そこをうまくドイツに利用されたということだな.
(念のためにいっておくが,ヴィシー政府は実際には本物の中立ではなく,色々な面でドイツに協力している)
なお,ヴィシーはイギリス以外の国には承認されていた.
(2)
おいらは別の視点で回答するよ.
そいつを不思議に思うこと自体を疑って見るのもありだよ.
何故,愛国心を持ったフランス人=反ドイツではなかったのか?
現在の日本の歴史教育では,正義の連合国対悪の枢軸国と言うレッテルを貼りがちだけど,当時の人間の視点から見れば,ただの帝国主義国同士の戦争に過ぎなかった.
ドイツ軍の作戦に敗れたフランスは,一部の例外を除いて(ドゴールなど),ドイツに降伏しただけと考えていたんだよ.
また,ドイツもフランスを領土にしようと言う意図などなく,降伏した新しいフランス政権と手を結んで,イギリスと講和しようと考えていた.
だから,当時のフランス人の中には,ドイツ将校などと友好的に付き合う人間もいたんだよ.(シャネルなどが有名)
ただ,連合軍がフランスを”解放”したあとは悲惨な目にあった人間も少なくなかったんだけどね.
結局イギリスに渡って,抵抗運動を呼びかけたドゴールが,戦後英雄になったんだけど,戦争中は不審を唱える人間も少なくなかった.
アメリカのルーズベルトなんかは,選挙に選ばれたわけでも無い人間を国の代表と言えるのかと,非常に不信感をあらわにしている.
でも,戦後連合国が勝利してからは,都合の悪い事は全て報道や教育方針によって忘れられてしまった.
フランス国民を「ドイツに占領され,人権を奪われていたかわいそうな人々」ということにしておかないと,連合軍が「解放」した事にならないからね.
実際にはペタン政権を支持していたフランス人が大半と考えられている.
ドイツなんかでは,ナチスそのものを議論することを,法律で禁止しているくらいだ・・・.
フランスの歴史教育は,自国の都合もあるだろうけど,連合国がそれを容認したと言うのもまた事実.
占領するものが占領されるものの教育(や思想)をコントロールしようとするのは,いつの世も行われてきた事.
レジスタンス神話などはその典型例だろう.
米英にとっては共産主義圏との戦いのためにフランスとの関係は重要だったし,フランス側にとってみれば,ドイツと積極的に戦っていたとアピールする方が,自国の安定や復興に都合が良い.
つまり連合国の利害は一致していたわけさ.
で,それを推進するようにプロパガンダが流された.
もっともこれ自体は,近代国家には良くあることだから,フランスだけが特別じゃないけどね.
(3)
私はもそっと違った視点から.
そもそも戦前のフランスでは,
「ヒトラーと組んでもいいからアカをやつけようぜ」という右翼と,
「スターリンと組んでもいいからファシストをやつけようぜ」という左翼が,
ガチンコで対立していました.
で,大多数の国民は日和見.
フランス国民が敗戦にショックを受けないわけありません.
が,その中で左翼がショボーンとなってしまったのに対して,右翼は,まあ元からの主張が主張だから,「反共」を軸としてドイツと結ぶ余地があったわけです.
そこに(1)のような理由で乗った・乗せられたのがペタンな訳で.
さらにそこに日和見がワッと乗っかった,というのが,「フランス人はペタンを支持した」という説の真相.
ド=ゴール?
彼は右翼の中でも「ナチもアカもフランスの敵じゃ(゚д゚)ゴルァ!」というはねっかえり.
だからドイツに負けるのが我慢できずに戦い続けた訳で.
フランスの解放というのは,逆にドイツ軍が敗退して右翼がショボーンとなったところに,ド=ゴール主義者と左翼が勢いづき,日和見がそっちに乗り換えた,という構図ですね.
ゆめゆめ,「フランス人」というものを1個の生命体のように考えないように.
「戦後都合の悪いことが抹消された」というのも,それぞれの立場で異なる訳で.
ド=ゴール主義者は「輝かしい我等の勝利」を強調したいのは当たり前.
右翼は「ドイツ協力の過去」を隠したいのは当たり前.
日和見は勝者となったド=ゴール主義者に同調するのは当たり前.
(ちなみに,右翼は戦後ド=ゴール主義に吸収されていく)
左翼は?
左翼は大いに不満を持っておりました.自分達だってド=ゴール派とは別個に抵抗運動をしていたのに,その手柄を全部ド=ゴール派にもっていかれたからです.
だから彼らはド=ゴール主義者以上に「頑張った俺達」をアピールしたい.
戦後フランスの歴史観はこういう価値観の相克の中から生まれたもので,
『フランス国民を
「ドイツに占領され,人権を奪われていたかわいそうな人々」
にしないと連合軍が「解放」した事にならないから』
なんて簡単なものじゃないんです.
というか「連合国の都合」なんて関係ありません.フランスの歴史観はフランス国内の問題でした.
それから
「ただ,連合軍がフランスを”解放”したあとは,悲惨な目にあった人間も少なくなかったんだけどね」
などと言っても,ドイツ占領時代に悲惨な目にあった人間のほうがずっと多いことは言うまでもありません.
(ナポレオン ◆vYVYAtFe0o)
>「連合国の都合」なんて関係ありません.
んー,戦後の冷戦構造の中で,フランスの内部の歴史観なんかどうでもいい勢力ってのがいるでしょ?
しかもそういうのがね,英語帝国主義とともにのさばっちまったから,English
Speaking Country に対する内向けの理由付けとして
「連合国は正義の味方 ドイツは悪,フランス国民は無力な羊」
はあるですよね.
ほんでもって日本に入ってくる情報は圧倒的に英語情報だったし.
英米でも「解放軍に手を振るパリ市民」は思いっきりプロパガンダに使われてきた.
最近になるまで,連合軍に冷たい対応をしたノルマンディー人の事は,タブーのようにみんな語らなかったりした.
だから
>戦後連合国が勝利してからは,都合の悪い事は全て報道や教育方針によって忘れられてしまった
はある意味事実でしょうね.
外向けではなく,チャーチルとアイゼンハウアーの「国内向け」プロパガンダだったんだよ.
それからBBCの歴史セクションを見れば,今のイギリス人がどんな情報に接してるのかわかるだろう.
そこにはほとんどフランスのフの字もないのですよ(見出しだけで十分察しがつくはず)
第二次世界大戦は英米ではいまだに自国向きの政策でしかないんです.
めちゃめちゃ内向きでしょ?
(◆6hgEmzypp2)
【質問】
ペタンはWW1の司令官として近代戦の惨禍を知り尽くしていたが故に,無益な抵抗を避けようとした.チャーチルやド=ゴールといった,いわば好戦的ともいえる人々が英雄視される風潮が作られた中で,ペタンのような人は評価されなかった(評価を認めなかった)といえる,ということでしょうか?
【回答】
無用な抵抗というより,賛同したんだよ,ペタンは傀儡になる事に賛成した.
ユダヤ人差別も従来と何ら変わりない(フランスのユダヤ人差別)
ドゴールも差別的な男だったが,「自分の権力が欲しい」から外に出た.ドイツの下で使われるのがいやだっただけ.
チャーチルについては,ドゴールやペタンと一緒に論じられるにはバックの政治状況が違いすぎ.
【質問】
ヴィシー・フランスの発行した国債について教えられたし.
【回答】
1940年6月22日,フランスはドイツに降伏し,24日にイタリアに降伏します.
これにより,フランスは南北に分割され,北部はドイツの占領下に置かれ,南部はニース周辺をイタリアに割譲し,その他の地域は自由地帯として,フランスが無制限に主権を行使できる事とされていますが,実際はドイツの監視を受ける事になってしまいました.
政府はパリから温泉都市ヴィシーに移転し,7月10日には憲法的法律が可決されて,議会は開会される事はなくなり,第三共和制は停止します.
1942年5月にドイツの警察がヴィシー政府の自由地帯での活動を行い,反独活動を取締り始め,11月8日に連合軍が仏領アフリカに上陸すると,11月11日には自由地帯全域がドイツに占領され,国家主席Henri
Philippe Ptainは親衛隊の監視下に置かれ,政府主席には親独派Lavalが就任して,文字通りヴィシー政府は傀儡政権に堕した訳です.
1940年から北部地域はドイツによる占領が行われていましたが,その占領経費は,全てフランス持ちでした.
1940年8月に,ドイツは1マルク=20フランの固定レートで1日辺り2,000万マルク(4億フラン)を10日ごとに前払いする様に求めました.
流石にこれは篦棒(べらぼう)な数字なので,1941年からは1日当り3億フランに削減しますが,連合国のアフリカ上陸によって,地中海沿岸の防備費用が追加され,1日5億フランに値上げされます.
また,イタリアに対しても,月額10億フランの賠償を支払っていましたが,これはイタリア降伏後,ドイツに付け替えされました.
1942年に,ドイツにフランスが支払った占領費と賠償金は1,690億フランで,これは国家予算1,420億フランを上回っています.
更に,そのレートでフランス内の非占領地,自由地帯,海外領土からの物品の買い付けを増大させ,結果的にドイツのフランスに対する清算債務は,1944年8月末には85.3億マルク(1,633.2億フラン)と言う膨大なものになっています.
こうした財政を賄う為,ヴィシー政府も国債を発行しています.
この国債は,1942年に発行された60年満期の3%利付国債で,1946年1月以降額面で繰上償還が可能と言う条件が付いていました.
1942年5月末~1944年末までのヴィシー国債の日次平均価格は,額面の99.51%と比較的堅調で,第三共和制時代に発行されていた3%永久国債と余り変わらない金額(と言っても,3%永久国債は額面の101.46%ですから,額面割れはしていますが)で取引されています.
この価格安定傾向は株式市場でも続きますが,これは,占領下で購入できる物資が無く,だぶついた資金が,株式市場や債券市場に流れ込んだからと考えられています.
ただ,投資家の判断は,二つに分かれ,ヴィシー政府の将来性を信じられない投資家ほど,政府証券よりも工業株式を選好する傾向にあり,将来性を信じた投資家は債券市場で政府債券を購入する傾向にあったようです.
占領下にあったパリ取引所は,ドイツ軍の管理下に置かれ,理事長はライヒスバンクから任命されました.
その取引所の1日当りの国債売買高は,1941年中は1,500~2,000万フランでしたが,翌年からは減少を続け,1943年にはリヨンの取引所の方が売買高を上回る状況にありました.
1944年4月以降は,連合国の空爆の活発化で取引所の機能が低下した上,連合軍が上陸し,占領地を拡大するとその占領地で通用する通貨を発行すると言う噂が流れた為,売買高は更に減少します.
1942年9月までは,ヴィシー国債は,第三共和制の3%国債の価格を上回っていました.
これは第三共和制が霧消し,償還確実性が不安視されたものです.
ドイツがオーストリアを併合した時には,その国債はデフォルトされてしまったから,今回も同じ様な事をするのではないか,と言う警戒感があり,更に,Lavalの登場がその見方に拍車を掛けました.
1942年9月からは,連合国優勢になりますが,これに合わせるかの様に,ヴィシー国債と第三共和国の3%国債の価格は拮抗していきます.
決定的になったのは D-Day後ですが,この時期は,どの様な政府が政権を担当するのか判りませんでした.
共産主義的なレジスタンス政府なのか,De
Gaulleの自由フランスなのか,ヴィシー政権の誰かによる政府なのかによって,その国債の償還は大きく異なります.
ヴィシー政権の誰かであれば,ヴィシーの国債が継承され,第3共和制の国債が償還される可能性は低くなり,De
Gaulleだとヴィシーの国債は償還されない可能性が高くなります.
皆が固唾を飲んで見守っていると,1944年6月26日に,連合国は先ず占領通貨の発行を決定しました.
即ち,ヴィシー国債は敵国の国債と見なされ,償還確実性が著しく低下する可能性が高くなる訳です.
この為,債券市場では,フランス人がドイツ敗退の期待から,今まで退蔵していた現金で第三共和制の国債を買い始め,3%国債の価格は,6月27日から額面を上回る様になります.
この時,De Gaulleは,未だ米国の承認を受けていません.
しかし,彼は着々と事実を積み重ね,共産党との暗闘にも勝利し,8月25日に彼はパリに入城.
9月9日には共和国臨時政府はパリに復帰して政務を執り始めます.
此の間,ヴィシー政府は流浪の旅を続け,9月7日,ジークマリンゲンに避難しました.
誰の目にもヴィシー政府の復帰の目は無くなった事が判ると,9月4日以降,その国債は急坂を転げ落ちる様に,額面以下となり,以後価格が低下し続けていきました.
10月23日に米国がDe Gaulleの共和国臨時政府を承認すると,最終的に第三共和制の一応の継続が明らかとなっていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月10日22:36
【質問】
第二次大戦中,フランス軍は何をしていたんでしょうか?
ドイツ軍に併合が妥当だと思うけど戦争映画ではそういうシーン見た事ないし・・.
大戦中,首都も軍隊も無傷でやり過ごしてたたりして.
【回答】
もしあなたがフランス兵なら,お好きなコースをお選びになれ(?)ます.
(Aコース) 捕虜・接収コース
ヴィシー・フランスは中立国ですから併合は有り得ませんが,ドイツ軍が接収した装備は有効に活用されてます.
また,ドイツ軍の捕虜となったフランス兵のうち,約100万名弱が,ドイツの工場などでの労働を強いられました.これはソ連邦人,ポーランド人の次ぐ数字です.
たとえば1942年11月の時点では,ソ連邦人160万人,ポーランド人130万人,フランス人捕虜93万人が,ドイツ国内で雇用された労働者として記録されています.
(Bコース) ヴィシー・フランス軍コース
ヴィシー政権下でも規模は縮小されたもののフランス軍は存続し,非占領地域や植民地の警備などを行っていましたので,これに残留することができます.
▼ ヴィシー政権は休戦後,フランス本土の非占領地域を警備するフランス休戦軍と,海外植民地を警備する植民地軍を編成し,約10万人の兵士がここに勤務していました.▲
特にフランス海軍は,ほとんど無傷の状態で残っていました.
1940年7月には,アルジェリアにいたフランス艦隊を英海軍が攻撃するメル・エル・ケビル事件が起き,1000人以上の死者が出ました.
このことによりフランス軍の反英感情は強まり,まだ無名だったド・ゴールの自由フランス軍への志願者が激減しています.
その後も失敗に終わった英・自由フランス連合軍によるダカール上陸作戦や英軍のフランス領シリアへの侵攻など,いくつか英仏間で戦闘が起きています.
また,これと並行してド・ゴールの働きかけにより,海外領土に駐留していたいくつかのヴィシー政府軍は自由フランス側についています.
1942年,米英ス軍によるアルジェリアとモロッコへの上陸(トーチ作戦)が開始され,短期間の戦闘の後北アフリカのフランス軍は停戦に応じました.
この後,ドイツはフランス本土の陸軍を解体させ,さらにトゥーロンのフランス艦隊主力が自沈したことにより,ヴィシー政府軍は事実上消滅しました.
http://www.axishistory.com/index.php?id=6000
(Cコース) 自由フランス軍コース
ダンケルクから脱出できたフランス兵は,ロンドンでドゴール首班亡命政府の下,自由フランス軍に入ることができます.
ただし,当初は8千人ほどしかおらず,チャーチルからは信用されず,後に北アフリカへ追いやられます.
また,ドゴールは一介の陸軍大佐に過ぎませんでしたので,植民地軍やフランス海軍への影響力はあまりありませんでした.
フランスにとり残された場合でも,レジスタンスに参加することができます.
しかし,正当な政府や真当な市民,企業や地域社会は積極/消極的に対独協力していますので,VEデーまでは社会的少数者として生きなければなりません.
(Dコース) SS志願コース
もしドイツ系フランス人なら,SSフランス義勇兵に志願することができます.
ただし,戦争末期から戦後にかけて,かなり悲惨な目に合う可能性がありますので,注意が必要です.
軍事板のレスをもとに大幅改造
&軍事板(2010.11.17追加分)
【質問】
フランスのファシスト団体「火の十字団(クロワ・ド・フー)」と「アクシオン・フランセーズ」ですが,党首は誰ですか?
モーズリーは有名なのに,こっちは団体名しか聞いたことがありません.
ドイツがフランスを占領した後は何をしてたんでしょうか? ナチスに協力したのか,それとも鉄衛団の如く潰されたのか・・・
【回答】
クロワ・ド・フの団長はラ・ロック(1886~1946)で,彼はフランス軍の中佐です.
そして,1931年にクロワ・ド・フを創設して団長となります.
しかし,1936年,愛国同盟解散後はフランス社会党(PSF)を創設し,ドイツによる占領後はレジスタンスに関係して,ペタンの政権に加わらず,1943年にドイツ軍によって逮捕,ボヘミアに連行されてしまいます.
また,クロア・ド・フはペタンを支持しますが,独裁政党への参加は拒みます.
このため,1940年8月に,フランス戦士団が創設され,クロア・ド・フの幹部はこの団体の幹部になります.
しかし,この団体も反独的傾向を持ち,ラヴァルによって解散させられてしまいます.
王党派「アクシオン・フランセイズ」のほうは,
1898年にフランスの右派論客が評論誌「アクシオン・フランセイズ」を創刊
翌年,王党派の文人シャルル・モラス(1868-1952)が参加,組織の中心的人物となり,「共和制打倒,王政復古,カトリシズム,ドイツへの報復」がモットーになります.
1905年に参加者が増え政治団体「アクシオン・フランセイズ同盟」を発足し,このころ参加したレオン・ドーデ(「最後の授業」の作者アルフォンス・ドーデの息子)と共に,モラスが同盟を指導していきます.
1908年日刊紙「アクシオン・フランセイズ」を創刊,以後,機関紙として1944年まで発行されていました.
政治団体としてのアクシオン・フランセイズですが,第一次世界大戦に一時的な盛上りをを見せますが,もともと知識人によるエリート向けの組織であり,労働者階級にはウケが悪く,議会でも少数派でした.
しかし「アクシオン・フランセイズ」紙による共和国の腐敗の報道,1910年頃から暴力組織「カムロ・デュ・ロワ」(もとはアクシオン・フランセイズ紙の売り子)に共和国派や左翼をボコらせるなど長期に渡って活動的でした.
モラスは第二次大戦前でも主戦派,反ドイツでしたが,ペタン政権成立後,元帥支持を表明,「アクシオン・フランセイズ」紙も反共,反ユダヤ,反レジスタンスを論じて,次第に反ドイツは影をひそめてきました.
レオン・ドーデは42年死去,シャルル・モラスはフランス解放後,「対ドイツ協力者」として終身刑になりました.
【質問】
第2次大戦でドイツ軍がフランスを制圧した後,駐留していたドイツ軍将兵と交際のあったフランスの女の子達がいたそうなのですが,彼らはどういったきっかけで知り合うことが出来たのでしょうか?
占領軍と地元住民とでは余り接点が無いと思います.ドイツ語とフランス語の言葉の壁もありますし.
【回答】
占領下のフランス,特にパリは前線から休暇で戻った兵士の休養地とされていた.
さらに,ヴィシー政府との関係から,戦争前半のドイツは比較的穏健な占領政策をとり,兵士は紳士的に振舞うことが求められていた.
また,為替レートはドイツ側に有利にされており,それゆえに兵士は多くの金を遊興やショッピングに使った.
羽振りのいい「お願い」すれば,香水やらドレスやらを買ってくれる若い兵士が街にあふれたら,まあどういう状況になるかは決まったようなものだよな.
言語の問題は「かっこいいドイツ兵さんこんにちは」程度が喋れれば問題なし.
60年前の日本だってそうだったし.
【質問】
博覧会列車とは?
【回答】
日本でも其の昔,象列車と言うのが運行された事がありましたが,それとは異質な列車の話です.
1940年,フランス政府は崩壊し,ドイツとの停戦を受容れ,政府はヴィシーに移動して,ペタン政権が発足しました.
一敗地に塗れたフランス国民に自信を取り戻させる為,そして,世界に飛躍するフランス「帝国」のエッセンスを広く国民に知らしめる為,政府が行ったのが,「海外フランス週間」,そして,「帝国15日間」と呼ばれる植民地も含めた全国的な行事でした.
この行事は博覧会も伴っていたのですが,フランスは国土を分断占領されていた上に,移動の制限があり,国内に博覧会場を造営し,運営するのが困難でした.
この為仕立てられたのが,「博覧会列車」と呼ばれるもので,フランス国鉄が戦前に有していた車両のうち,機関車の20%,客車の42%,貨車の60%が失われ,人員も払底していた時期に,この列車が運行されたのは,政府としてもこの行事を最優先事項としていたからに他なりません.
最初の博覧会列車は7月後半に非占領地区と海外領土で予定されていた「帝国週間」に合わせ,1941年6月下旬に,パリ郊外の国鉄操車場にて準備が開始されました.
これにドイツ軍占領当局が掣肘を加えた形跡はありません.
国鉄の要員以外は,植民地庁からの監督ともう1人の官吏,戦間期から植民地でのプロパガンダ事業を行っていた海洋・植民地連盟(LMC)の要員1人,それに付いた秘書1名と,「フランスの仲間」,「青年錬成所」から派遣された要員10名が其の全て.
この体制で,1ヶ月の間に展示品の準備などを進めた訳です.
予定された行程は,「海外フランス週間」(帝国週間から改名…これは多分にシリア戦線での対英戦敗退が原因と見られる)開幕日にヴィシーを発車し,8月15日に至るまで,アルビ,モントーバン,ポー,タルブ,ペルピニャン,ニーム,アルル,エクス・アン・プロヴァンス,グルノーブル,シャンベリーを各都市2~3日の滞在で巡るというものでした.
更に,この行程は,低アルプス地方の4都市に延長され,最後は占領地区のボルドーに向かい,9月初旬に此処で展示して終了となりました.
大都市ではなく,中小都市での展示が多かったのは,「海外フランス週間」の催しの対象が,主要都市以外の住民を対象としたものだったからと言われています.
さて,この列車の中には何が展示されていたか….
1号車には,入った所にペタン元帥の肖像が掲げられ,其の前で「青年錬成所」の青年が受付をしており,その脇のカーテンを潜ると展示室に入れます.
展示室にはペタンを筆頭に,ダルランやプラトン,及び植民地史上の英雄達の肖像とか彫像が並べられています.
これは,今の帝国の土台が現政権指導者の内,植民地や海軍関係者と過去の英雄を覚えさせようと言うもの.
2号車のテーマは,アフリカ大陸の芸術品と公共事業で,芸術作品は,アフリカを制圧する過程で,各部族から分捕り,或いは送られた木彫細工,象牙細工,陶磁器,金銀工芸品,仮面などがあり,公共事業は,アルジェリアからサハラ砂漠を越え,ニジェール河畔デルタを経て,ダカールやギニア湾岸へと至り,地中海とフランス領アフリカを直結するサハラ縦断鉄道の建設状況と計画が地図パネルや写真,鉄道模型などで紹介されました.
これは第三共和制政府が実現出来なかった物で,これを建設していると誇示する事が,旧政権に対するヴィシー政府の優越を表していました.
3号車のテーマは,同じ植民地でも今度はインドにある植民都市とマダガスカルで,インド洋を一望しようと言う意図が込められていました.
これには木製彫刻,鼈甲細工,布製品,銀製品,絵画などの芸術工芸品が中心の展示です.
4号車のテーマは,アフリカ,インドと来たら,極東アジア.
インドシナの安南貴族の生活を彩る金属器や木工品が展示されていました.
最後尾は5号車で,これは海洋・植民地連盟(LMC)の宣伝用車輌で,工芸品や動物の剥製を並べて通俗的な異国趣味と植民地観を補強する役割を果たしていました.
総じてフランスが当時置かれていた現状から目を背ける様な仕掛けが為されており,そこには敵の存在すら片鱗も感じさせない様になっていたりします.
逆に,敵の存在を出さない事が,体制の安定を示していたりする訳です.
此の列車の展示を見た人は全体で4万人であり,訪問都市総人口の13%程度でした.
娯楽の少ない小都市ほど,この列車への入場者数が多かったりするので,イベントとしてはまずまずの成功だった様です.
第2回目は,1942年5月に開催された「帝国15日間」に合わせ,運行が計画されました.
今回の列車の目的は,エリート青年達の関心を海外植民地の職業に向ける事でした.
そこで今回はリール,ナンシー,ディジョン,クレルモン・フェラン,サン・テチエンヌ,リヨン,エクス・アン・プロヴァンス,モンペリエ,トゥールーズ,リモージュ,ポワチエ,ナント,レンヌ,カン,ルーアンと言う大学都市を巡る事となり,占領地区と非占領地区を何度も越え,しかも北東部国境地域の移動制限地区に迄入る行程となりました.
博覧会列車の構成は,地域別の構成から,機能的分類から帝国を一つの全体性として展望する表現に変ります.
1号車は,帝国の存在の土台として陸海軍の歴史が全面に打ち出され,リヨテ,ジョッフル,マルシャンなど植民地征服史上の歴史上の英雄と,軍艦模型や武器が示され,昨年に展示されたペタンを筆頭とする現政権指導者が退場させられています.
これは,1942年,既にヴィシー政府に対する国民の失望と反感が明らかになってきた事や,占領地区は非占領地区に比べて,ペタン崇拝感情が弱かった事に配慮した結果でした.
2号車は,高等教育の学生向けに,植民地での行政,司法,警察,公共事業,財務,税関業務などの公務を紹介し,知的エリートの職業的関心を喚起すると言うものとなりました.
3号車は,通商と農業と言うテーマで,森林と林業,原住民の芸術・工芸,通商と農鉱業の3つのセクションに分けられ,通商と農鉱業の部では,パーム油,蝋,綿花,ゴム,麻など農産物の見本や,虎や蛇の皮,木工品や布製品が展示されました.
4号車は大規模開発事業で,鉄道,道路,港湾などの土木事業と工業の模型,写真パネルでの説明.
この目玉は,サハラ縦断鉄道と共に雲南鉄道も紹介されています.
なお,3,4号車の経済事項の解説では図版やグラフも多用されています.
5号車は,再び海洋・植民地連盟(LMC)の宣伝用車輌で,LMCの紹介と,植民地経済機関(AEC)関連の書籍販売コーナー,植民地切手コーナーが設けられていました.
乗務員は,列車の監督を始めとする植民地経済機関(AEC)の官吏,LMCの人員,陸軍植民地部隊と海軍の人員で構成され,特に植民地部隊に所属する4名の原住民兵士の存在が異色だったりします.
第2回の運行も好評で,各都市での開幕式には知事,市長,商工会議所長,地元LMC会長,軍の高官に加え,占領地区ではドイツ側の代表が姿を現す事もありました.
2ヶ月の運行により,12万2千人を動員し,内半分以上は学童で占められました.
この好評により,秋以降もこの博覧会列車運行は継続される事となります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/07 21:37
1942年初夏の「博覧会列車」運行の後,これを継続する事が決定され,1942年10月から12月まで,パリ郊外のイル・ド・フランス地方の27の都市を回り,1943年1月から2月はパリの5つのターミナル駅での展示が決定されました.
列車の運行は,滞在初日の朝から丸2日もしくは3日目の夕刻まで開場し,夜間に移動して,翌朝にはその次の都市で開場すると言うスケジュールが立てられました.
乗務員は,前回同様に植民地省,陸海軍,LMCから構成され,展示内容については,前回の運行で就職情報を求める学生の見学者数が限られていることが判明したのと,今回は大学都市を巡る訳ではないので,職業案内関係の展示は縮小され,人気のあった陸海軍関係の展示が1号車だけでなく,2号車にも拡大されました.
まぁ,陸軍と海軍の対立と言うのも背景にあった訳ですが….
1号車は海軍関係の展示で,ペタンの大きな肖像が復活し,彼の「世界中でフランスの心臓が鼓動を打つ」と言う言葉に続いて,歴史上の海軍軍人の肖像,軍艦模型,軍服,武器,フランス領土を目立つ様に描いた世界地図と,地図の下方には,フランスの統治下にある原住民の写真が並べられました.
要は帝国が世界に冠たる広がりと多様性を見せているのが判る展示になっています.
2号車は陸軍,公共事業,職業案内が主で,陸軍は肩身が狭いです(苦笑.
陸軍関係では,リヨテ,ブラザ,ガリエニなどの軍人達の征服と開発の業績が,時代毎の植民地軍の軍服や旗,勲章と共に並べられていました.
公共事業については,展示を見る学童が興味を示す様に,現地の学校の紹介が行われています.
3号車は産業,つまり,植民地の農業,林業,鉱工業,通商,原住民達の芸術に関する展示.
4号車は土木事業で,前回の展示で好評だったサハラ縦断鉄道計画の展示が更に充実され,拡大されました.
5号車はLMCの広報関連.
今回の展示は,高等教育を受けた学生よりも,青少年に対する植民地経営の総合的成果と青少年の使命について近いさせる事が大きな目的でした.
従って,国民教育省から大学区及び県の視学官を通して各学校長に命令が為され,学校からの展示見学が体系的に実施されました.
特に,学童は無料だった事もあり,学童の比率が動員人数の多くを占める様になります.
イル・ド・フランス地区での巡回は,人口5000以下の小都市が主体だった為に,2ヶ月で動員8.3万人,学校の集団訪問はそのうちの60%を占め,住民総数に対する訪問者の割合は,前回の倍になる27%に達しました.
1943年初めのパリの5つの駅での展示は,完全に学童集団見学が主目的でした.
公立学校へは,国民教育省から県庁を通じて各学校長へと通達が送られ,私立学校はカトリック系学校が大多数だったので,パリ大司教を通じて見学のスケジュールが纏められました.
3ヶ月の成果は総入場数12万人で80%以上が学童でした.
特にこのパリ巡回では,列車訪問記のコンクールが行われました.
これにより,10万点余の応募総数がある,つまり,行った人の数分応募があったと言う官製イベントになりました.
因みに入賞者は30名ですが,最高賞4点の賞品は自転車だったりします.
丁度この頃,連合国による北アフリカ上陸作戦が行われ,ヴィシー政府の先行きに暗雲が垂れ込め始めていたのですが,列車に関しては何ら影響は受けなかったようです.
この運行が終わった時点で,北アフリカ上陸作戦の影響を受け,非常時が宣言されて全ての博覧会が廃止されました.
しかし,LMCにしろAECにしろ,こうしたプロパガンダは非常に有益であると考えていたので,政府に対し,此の継続を申し入れています.
当時,ヴィシー政府の人気は益々下降し,政府の看板が国民に拒絶される危険性がありました.
元々,此の博覧会列車はAECの事業でしたが,実際に運行していたのはLMCでしたので,以後の運行は「LMCの博覧会列車」と言う名称になります.
今まで植民地に関する広報機関は,1899年に植民地省内に設けられた植民地局で行われたのが最初でした.
第一次大戦が終了すると,植民地局は植民地総合機関となり,この新設機関を補助する役割で,各植民地総督府のパリ事務所が置かれます.
しかし,この方式では情報が一元化されず,ともすれば植民地総督の個人宣伝になってみたり,不整合な所見が省の公式見解となってみたりと混乱を極めた為,1937年,植民地省内に植民地間情報資料課(SIID)が設けられ,報道と広報関連業務が統合されました.
とは言え,この統合も十分ではなく,ヴィシー政府になって漸く植民地プロパガンダ政府機関として,1941年に植民地庁経済局に付属する外郭団体として植民地経済機関(AEC)が発足した訳です.
なお,植民地庁は,海軍省の傘下にあった官庁ですので,自ずと海軍が主体となります.
AECは総数60名足らずの小さな機関でした.
よって,その配下で動く手足となる機関が,「海洋・植民地連盟」(LMC)でした.
この組織は,19世紀末に設立された「フランス海洋連盟」,「フランス植民地連盟」が1921年に統合して誕生します.
会員総数は1930年の時点で10万人に達し,植民地省から補助金を受け取っていました.
1940年の休戦後,ペタン元帥とヴィシー政府に忠誠を誓い,非占領地区で活動を再開します.
1941年10月からは非占領地区でも活動が認められます.
因みに,同じ年に情報宣伝庁が発足しますが,植民地関係のプロパガンダは,AECとLMCに一手に握られています.
つまり,こうした活動には政府外の主体の活用が効果的だという判断がありました.
公権力からの押しつけの情報に対しては人々は外方を向くが,それ以外の団体からの情報はすんなり国民が受容れたのです.
こうした事から,1943年末から44年に掛けて,LMCによる博覧会列車の運行が続けられる事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/08 21:42
ドイツによる全土占領,それでも博覧会列車は走り続けました.
1943年12月15日,パリを出発した「LMCの博覧会列車」は,フランス北東部の32都市を巡り,ロレーヌ地方のナンシーで2週間の滞在の後,1944年3月31日に一旦運行を終えます.
1944年4月18日から7月10日まで,ナンシーからベルフォールに至るフランス東部ヴォージュ地方の18都市を巡る運行が続けられました.
この時点ではLMCによる運行が行われた訳ですが,ヴィシー政府からの補助金が余り支出されなくなり,財政的限界の為に若干の縮小が行われています.
また,規模縮小が否定的印象を与える懸念から,1942年秋以降に訪れた都市への再訪は慎重に避けられ,全ての見学者にとって列車が初体験となる様に配慮されました.
列車の編成は,輸送能力不足,物資の不足,それに空襲被害への影響により,5両編成から3両編成へと減らされます.
1号車は従来通り海軍の歴史,2号車は植民地の開発と本国と帝国との関係,3号車はLMCの宣伝車輌として,十字軍以来の植民地の歴史と英雄の伝記を展示する様になりました.
前回の列車にあった様な,植民地の官僚や産業への誘いは影を潜め,又,大々的に宣伝していたサハラ縦断鉄道など無かったかの様な感じで,既に末期的状態のヴィシー政府の現実から目を背け,歴史的・精神的紐帯を柱にすると言うものになっていきます.
学童の集団見学はそれでも重視され,列車内で学童向けの講演会や談話会も開催されました.
この巡回では,「LMCの博覧会列車」監督に任じられた植民地省官吏ショメルが,1920年代に帝国各地で映画撮影に携わっており,彼の持っていたフィルムを再編集して完成させた『異国風な魔法』と言う映画が頻繁に上映されるなど,映画の多用が特徴でした.
テーマとは無関係な映画も含め,AECが所有する映画の上映が増えたり,1943年11月からは海軍植民地庁と情報庁が共同製作した映画の上映が商業映画館で義務づけられた様に,国としても宣伝媒体としての映画がこの頃から漸く活用され始めます.
しかし,一部の楽観主義者を除き,連合国による反撃がひしひしと迫ってくるのを誰しも思い始めていました.
ドイツ政府部内では,連合国の上陸を1943年秋以降は時間の問題と考えており,ヴィシー政府でも1944年初夏の時点での上陸が予想されていましたし,フランス国鉄内部でも,1944年4月以降,連合国の上陸が確実視されるようになり,1944年初頭には国民の間に同年中に重大な事態が起こるだろうと言う認識が広がっていました.
1944年3月からは,ノルマンディ上陸作戦の支援作戦として,輸送機関を中心に空爆を強化し始め,列車が訪問した都市のいくつかは既に空襲で建物の70%以上が破壊されている状態だったり,翌日訪問する予定だった都市が空襲を受けた為,その都市での博覧会開催を中止したケースもありました.
それでも「LMCの博覧会列車」は運行され続けました.
AECから「状況故に」列車の運行を中止すると言う決定が国鉄に通知されたのは,1944年6月16日,つまり,ノルマンディー上陸作戦の10日後の事,実際に巡回を中断したのは更に後の1944年6月28日になります.
しかし,此の時点ではAECや列車監督を始めとする関係者は,近い将来,再び此の列車を再開すると言う想定を行い,展示車両を国鉄の車庫に一時保管をしようと試みますが,国鉄側が保管中の経費を免除しなかった為,AECは財政的な問題から展示を解体して3両の車輌は国鉄に返還されました.
展示資料は,パリに戻され,目録に従ってAECの倉庫に収められる事になります.
なお,この間の博覧会列車の成果は,前半が入場者数8万で総人口の15%,後半は乳雨盛者数3.4万で総人口の26%,そのうち,それぞれ60%は学童が占めました.
また,鉄道業務員と空襲被災者に対しては入場無料としていました.
後半では,訪問都市の総人口は前半の4分の1に関わらず,書籍やパンフ類の売り上げは2分の1に達し,住民数に比して倍の結果を出したものとされています.
この時期,フランスではレジスタンス活動が盛んになりつつありました.
博覧会列車は,人々にヴィシー政権とは違う指針を与えると共に,非日常や一時的な希望を人々に与えるツールとなっていきます.
この1943年秋以降の博覧会列車運行の監督に任命されたショメルは,自らの体験に基づいた「世界一周の船旅」と言う講演を訪れる先々で行いました.
この中で彼は,フランスの自立と復興にとっての植民地の不可欠性,エリートの使命,十字軍以来の歴史などと並び,1848年の奴隷制廃止により,ダントンやロベスピエールなど大革命の英雄の理念が実現された事を賞賛しています.
ヴィシー政権の公式イデオロギーは,第三共和制が其の正嫡とした大革命を非難するものだったのにも関わらず,この様な講演を行っていた訳です.
それも,政府側の人物が,です.
ヴィシー政府の中の人とは別に,元からのフランスの官僚達は,第三共和制を否定した訳ではなかった,と考える事も出来ます.
1944年9月9日,ペタンやラヴァルがドイツに去ったのと入れ違いに,ド・ゴールを首班とする臨時政府が誕生します.
そして,新政府の中にも矢張り,帝国プロパガンダを行う機関として,引き続き植民地省の中にAECは存続し続けます.
所長マスロは2ヶ月間職務から離れた後,1944年秋に一旦復帰します.
彼は1945年3月に此の地位を退いたのですが,彼以外の冠部は一切政権交代の影響を受けませんでした.
臨時政府の人事は秩序の回復が最優先で,公務員は概ね臨時政府に合流して,司法や行政の人事では断絶する事はありませんでした.
1944年9月15日から1ヶ月間,AECはアフリカを主題とした「植民地のパイオニアと探検者」と題する展覧会を開催します.
この展示の主眼は,フランスとアフリカとの間の緊密な紐帯を示す事であり,その強調は,戦争中アフリカにあったド・ゴールを中心とした勢力が常にフランスの一部分に立ち続けていたのだ,と言う主張でした.
当時は,ド・ゴール以外に共産党勢力が勢いを得ていました.
こうした情勢の中で,戦争中アフリカにあって,そこから本土に進出したド・ゴール勢力の新政府の自己正当化の意思の表明となった訳です.
この開会式にはAEC所長,内務省次官,共産党系の全国抵抗評議会の代表が出席し,モロッコの保護国化に先鞭を付けたリヨテ元帥の未亡人の出席は,度重なる体制変動と諸政治勢力の差異を超越する事を示しました.
これで,臨時政府内外で緊張関係にあったレジスタンス諸派が,フランスとアフリカ植民地との結びつきを確認する点では一致する事を示す場になりました.
国の分裂を防ぐ為に,本国とアフリカとの紐帯を示すのは,その後も行われ,1945年6月の戦勝パレードではモロッコのスルタンがド・ゴールと並んで出席し,7月14日の革命記念日には,チュニジアのベイがド・ゴールと並んで臨席し,其のパレードでは植民地原住民兵部隊が行進し,植民地兵高官への叙勲が行われました.
そして,戦後もこの植民地の幻想は,此の国に深く根を下ろし,アルジェリアの独立まで此の国をむしばみ続ける事になった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/09 22:37
【質問】
戦後のフランス軍はヴィシーフランス軍を解体し,自由フランス軍を元にしたのでしょうか?
それとも,いさかいも無く両者が統合したのですか?
【回答】
元々,自由France軍として編成された部隊は少数です.
例えば,1940年6月当時,英国には5万人以上のフランス軍兵士がいましたが,7月末に自由フランスに結集したのは,そのうち僅かに3000人程度でした.
後は,植民地の占領によって兵力を増やしたりしていますが,その悉くがVichy政権の軍です.
諍いは当然ありましたが,主に共産党関係のレジスタンスとのものですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/11/02(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヴィシー政府の排外政策は,どんなものだったのか?
【回答】
さて,1940年,第三共和政は「シロアリに食い荒らされた建物」の様に倒壊しました.
その原因は,保守派曰く,農村の過疎化,低出生率,過度の唯物論,移民の侵入を挙げています.
こうして,降伏後成立したヴィシー政権は,議会制民主主義を否定して純血主義を強めて伝統的徒に回帰していきます.
ヴィシー政権は「大地のナショナリズム」に依拠し,土地に根ざした連帯意識を強調し,民族的な規準による国民概念を掲げました.
そのキーワードは,「アンラシヌマン」つまり,「定住すること」,或いは「根付くこと」です.
そうすると,「根無し草」とも呼べるユダヤ人は排除の対象となります.
また,庇護を求めてきた亡命ドイツ人はヒトラーに引渡し,拘留中の共産党員はドイツ軍により処刑されました.
1940年7月23日には政府の許可無く5月20日から6月30日の間にフランスを離れた全てのフランス人の国籍を奪い,その財産を没収する法律を制定しました.
対象になったのは,自由フランスに馳せ参じたフランス人や亡命フランス人です.
この様にヴィシー政権が排除の対象としたのは,先ずはユダヤ人,次いで帰化人,最後が反体制派でした.
これらのユダヤ人や新フランス人は公務員や自由業から排除し,遂には収容所への移送に協力しました.
即ち,ヴィシー政権の掲げた「国民革命」と言うのは,「非国民」の外国人と反体制派を排除する政策でもありました.
特に悪名が高いのがユダヤ人取締法です.
これは1940年後半の一連の取締法によって行われました.
まず,政権成立1週間後の7月17日には,早くも「行政官,公務員,文官及び武官の職務追放に関する法」を制定し,帰化していない外国人を父に持つ官吏の罷免を開始します.
7月22日法では帰化の見直しに着手し,1927年以降の48万5,200名の帰化書類がチェックされ,15,154名の帰化が無効とされました.
この中には,6,307名の東欧出身のユダヤ人と,4,476名のイタリア人,1,062名のスペイン人が含まれていました.
次いで8月16日と9月10日には,外国人やユダヤ人が医師と弁護士に就くことを規制する法が制定され,11月12日法では獣医が,12月31日法で建築家が規制の対象になります.
1941年になると,ユダヤ人の医師と弁護士の数が全体の2%に,大学生も3%に制限されます.
1940年10月3日には,フランス国籍を持つユダヤ人も公職から追放されます.
官公庁,教職,軍,国の助成金を得ている企業の上級管理職,ジャーナリスト,映画や劇場の経営者などの職業からユダヤ人が追放されました.
歴史家のマルク・ブロックが大学の教壇を去ったのも,この法が影響しています.
戦争中に公職を追放されたユダヤ系公務員は,3,422名に達しました.
10月4日には,外国籍ユダヤ人は居住地の県知事により収容所に拘禁されることになり,10月7日にはアルジェリア在住ユダヤ人から国籍を奪う措置を行いました.
ユダヤ人の取締りを効率よく行う為,ユダヤ人登録カードが導入され,1940年10月と1941年6月の2回登録が実施されました.
初回は北部占領地区に住む15万人が登録され,2回目には南部自由地区の11万人が登録されます.
調査項目は,氏名,生年月日,出生地,性別,家族構成,職業,宗教,フランス滞在期間,国籍,親子関係,現住所,身分証など非常に多岐に亘っています.
このカードから,アルファベット順,住所別,職業別,国籍別のカードが作成され,「ユダヤ人狩り」はこれらのカードを警察が利用することで実施されました.
また,1942年12月11日法によりユダヤ人の身分証には,「ユダヤ人」と言うスタンプが押される様になります.
移送対象で無い外国人も,無事では済みませんでした.
彼らはドイツの労働者不足を補う為に利用されました.
元々,ファニー・ウォーの1940年1月に,外国人労働者隊が設立され,5月の段階でその人数は6万名に達していました.
ドイツとの休戦後,1940年9月27日法により自由地区の18~45歳までの外国人男性は,外国人労働者団に再編され,1941年1月で4.8万名を数えました.
この労働者団を統括したのは,工業生産・労働省に設けられた外国人労働者団中央室です.
元々,この労働者団は亡命スペイン人の監視を目的に設けられたのですが,最終的に全外国人労働者を統括し,労働力の貯蔵庫として活用されました.
外国人労働者は,農業,炭坑,公共事業等で働き,特に1941年末からは大西洋の防壁を建設する為に,1941年で1.1万名,1942年で3.7万名が動員されています.
1940年秋にドイツでの労働を志願した労働者は,ポーランド人が1.7万名,イタリア人が0.7万名でした.
1943年10月16日になると,イタリアの降伏に伴い,強制労働徴用にイタリア人を駆り出すべく,フランス在住イタリア人の人口調査を予定し,1944年2月9日には各知事に対し,ドイツにより多くの外国人労働者を拠出すべく協力要請が行われています.
一方で,知識人の抵抗と三大組織によるレジスタンスが激しくなるにつれ,こうした活動に身を投じる外国人や移民もいました.
前者の例は,占領初期に国民公安委員会を設立して抵抗を呼びかけた人類博物館事件です.
この事件のリーダー格は,亡命ロシア人で1936年に帰化したボリス・ヴィルデであり,もう1人はアナトール・レウィツキーでしたが,彼らは1941年3月に逮捕され,1942年2月に処刑されました.
知識人の抵抗はこれ以後潰えたのですが,レジスタンスは解放まで続きました.
この内,自由フランスには約3,500名のスペイン共和派も加わり,実に3分の1が戦死しています.
また,フランス国内ではドイツと戦うポーランド独立闘争機構が組織され,1944年には8,000名のポーランド移民を集めていました.
更に,共産党系の移民労働者義勇遊撃隊は,各母語毎に組織され,犠牲者を出しつつも,パリやリヨン,トゥールーズなどでゲリラ活動を展開し占領軍を悩ませています.
1944年春になると,移民労働者の組織を糾合した移民防衛行動委員会が活動を再開し,フランス解放にも貢献しています.
意外に無視されがちですが,こうした移民のレジスタンスと言うのも侮れない力を持っていたりする訳です.
ヴィシー政権はこうした反政府活動に対抗する為,権威主義的な再国民化に取り組みました.
国民を証明する道具が身分証です.
第三共和政の頃にもフランス人に対する身分証交付が議論されていましたが,反対意見があり,実現には至りませんでした.
しかしドイツ軍からの要求もあり,1940年10月27日法で,16歳以上の国民に「フランス人身分証」を義務づけました.
1941年4月から人口局が自由地区の住民の職業調査に着手し,1942年には自由地区2,000万人分の身分証作りが始まります.
用紙や人員の不足もあって,作業は進捗しませんでしたが,各人は,市民,植民地先住民,ユダヤ人,外国人に篩い分けられ,性別,生年月日,出生地がコード化された13ケタの番号を付されました.
例えば,「1-85-05-72.070-008」は,番号順にフランス市民の男性で1885年5月12日にマコンで生まれたことを意味しています.
この国民識別番号は,戦後,社会保障の個人番号として流用され,「フランス人身分証」は1955年10月からは「国民身分証」として存続していくことになりました.
ヴィシー政権では,身分証が無ければ,移動や滞在,労働などの様々な許認可を得られず,食糧カードを得る為にも身分証が必要とされました.
許可証を得るには,行政の質問カードに答えねばならず,カード作りが政権の身分証政策の基本になります.
個人情報は総合情報室に集められ,更に新しいカードが作られました.
身分証を持たない者は,「不審者」であり,取締りの対象となる訳で,身分証や許可証による管理と監視こそが,ヴィシー政権の本質になっていきました.
ここに於て外国人のみならず,自国民も管理の対象となった訳です.
そう言えば,納税や社会保障の一元管理の為に,日本でもこうしたカードを作ろうという動きが出て来ています.
これが管理と監視に転用出来ないとはとてもじゃないけれど,今の日本の政府の来し方を見ていると,思えません.
あの住基カードだって,大威張りで導入した割には全然活用されていませんし,一体何の為のものだったのか理解に苦しみますね.
結局は国というのは,民を信じない存在であり,民を信じていないからこそ,管理と監視が必要と言う結論に至るのでしょうが,それは国民からすれば不幸な話では無いでしょうかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/06 22:48
青文字:加筆改修部分
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