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◆◆◆◆◆ハンガリー軍総記 Magyar erő
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<◆大西洋・地中海方面 目次
<WW2 FAQ
戦没者追悼カード
(こちらより引用)
A Magyar Királyi Honvéd Haditechnikai Intézettõl a HM Technológiai Hivatalig 1920–2005(pdf,洪語)
「INTERNATIONAL HUNGARIAN MILITARY HISTORY PRESERVATION SOCIETY」◆ FREE MILITARY HISTORY PUBLICATIONS
Hermanos Kiadó
出版物多数
The Kingdom of Hungary in World War II
【質問】
トリアノン条約による軍備制限を,ハンガリーは遵守していたの?
【回答】
少なくともベトレン内閣時代は守ってた筈.
それで軍部の反感を買ってたから.
時代が下がると,秘密裏に「軍備管理委員会」を立ち上げ,再軍備のための準備を図るようになる.
その辺の構図はドイツと同じ.
準備にはドイツやイタリアも協力したそうだ.
ただ,ポロンスキの本によれば,ハンガリーの軍需生産は三つか四つの工場に集中してて,連合国による監視の目を逃れるのが難しかったそうな.
▼ なお,
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.64
によれば,ハンガリーでは第一次大戦後,通貨下落が続いたため,1924年に「トリアノン条約を順守すること」を条件として,国際連盟から国際借款を認められたという.
であれば,露骨な条約違反行為は行い難かったに違いない.▲
軍事板,2009/11/20(金)
青文字:加筆改修部分
▼ 1938年初頭,いわゆるジュール計画によって2年の間に実に国家予算の約1.5倍の支出がなされましたが,主力火器は同盟国のものが大半でした.
なかでもイタリア製の小型戦闘車アンサルドはその貧弱な外観で有名です.
なにか子供が乗るゴーカートを少しだけ大きくしたような代物で,対歩兵以外は役に立たなかったでしょう.
ABC : 世界史板,2002/02/20
青文字:加筆改修部分
▲
【質問 kérdés】
レヴェンテ運動って何?
Mi az Levente mozgalom?
【回答 válasz】
戦間期以降,ハンガリーが法律の下に青少年に施した軍事訓練.
ハンガリーのアールパード王家のタクショニー王の曾孫の一人,レヴェンテ王子の名前に因む.
1921年制定されたLIII法によって,体育が義務付けられている学校に通っていない,12歳から21歳までのすべてのハンガリーの若者は,週2時間で少なくとも5か月間,最大8か月間,「体育」と称する軍事訓練と国民教育を受けて過ごすことが義務付けられた.
この法律により「レヴェンテ」機関が組織され,少年達に軍事訓練とカトリック的な道徳教育を施した.
これはトリアノン条約による軍事的制約に抜け道を作ろうとするもので,教官は現役の憲兵隊員が担当することが多く,軍隊での通常の機械的な服従と規律を青少年に叩きこむことが期待されていた.
彼らは若者を無意味な肉体的試練にさらすことがよくあったという.
機関も表向きは文化省の管轄だったが,次第に国防省へと移管された.
当然ながらレヴェンテは不人気だったので,レヴェンテ機関側はボーイスカウト的要素を加えることで魅力を増そうとしたが,殆ど成功しなかった.
しかし,青少年の両親には,レヴェントへの出席状況について当局に対して説明する責務があり,時には欠席に対して罰金または懲役が科せられた.
1939年には国防法により,軍事訓練は学校に通う青少年にも拡大.
1943年には,女生徒も参加できることとなった.
大戦末期,サーラシ政権発足後は,レヴェンテ運動は事実上廃止された.
徴兵される前の青少年は,KISKA(双子の軍隊)に割り振られ,ここで簡略化された促成の軍事訓練を受けた.
訓練内容はパンツァーファウストや突撃銃の撃ち方等.
さらに,ソ連軍のハンガリー領侵入の10日前には,矢十字党はKISKAの青少年の多くを,ドイツで訓練を受けさせるために同国に移送した.
16歳の少年も移送され,1944年末以降は14〜15歳の少年も誘拐同前に移送された.
しかしドイツでは彼らに訓練を施すような余裕はすでになかった.
戦後,捕虜としての権利さえ与えられず,帰国できなかった者も多かったという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.vitezirend.com/rovatok/hirek/a_zsamboki_leventemozgalom_
https://www.rieth.hu/Gyermekkor/Levente.htm
https://leventelanyok.blog.hu/2013/07/02/a_mozgalom_tagjai_es_toborzasuk?token=3595e549aee7e8093ceae566185bd6cc
1枚目:レヴェンテの盾章
(図No. faq210617lv5,こちらより引用)
2枚目:訓練の模様
3枚目:パレードの模様
(図No. faq210617lv2,4,こちらより引用)
4枚目:訓練を受ける女生徒
(図No. faq210617lv6,こちらより引用)
mixi, 2021.6.19
【質問 kérdés】
ベールディ・アラヨシュって誰?
Ki az Béldy Alajos?
【回答 válasz】
1906年五輪の出場経験もある水泳選手であり,また,職業軍人.
騎兵部隊指揮官や水泳協会副会長等を歴任.
1941~1944年,青少年への軍事訓練の責任者だったため,戦犯として獄死したが,1994年に冤罪認定.
** *
1889.7.8,ブダペシュト生まれ.
生まれた時の姓はブルックナー Bruckner だった.
当時はまだハンガリーはオーストリア=ハンガリーの一部であったので,彼はウィーンにあった陸軍士官学校を卒業し,ケチケメートに駐屯するオーストリア=ハンガリー合同陸軍第8軽騎兵連隊の騎兵将校となった.
その傍ら,1906年のアテネ・オリンピックに「フィッシャー」という仮名で出場.
フリースタイル400mで4位に入省した.
第一次大戦では連隊と共に従軍.
戦地では水難救助を行って勲章を授与されている.
1917年にはライバッハの参謀課程に進む.
アスター革命によってハンガリー共和国が誕生しても,彼は引き続き軍務に服し,軍政課に勤務.
ただし1918.12.8に改姓し,1927.3.19まではベールディ Béldi,その後はベールディ Béldy と名乗った.
赤色革命が起こってハンガリー・ソヴィエト政府が誕生すると,彼は第1蜂起旅団(1917~1918)参謀長,赤軍第2師団(1919年)参謀長を歴任.
ソヴィエト政府が倒れた後は,軍総局の諜報部門に転属となった.
1926年3月,ワルシャワ大使館の秘書官となる.
ただしこれは表向きの役職で,事実上は駐在武官だった.
1927年11月には,ハンガリー王国初のロンドン駐在武官となる(~1931)
帰国後は,
シェプロンの第3フサール連隊
ニーレジハーザ Nyíregyháza の第4フサール連隊(1936~1937)
ケチケメートの第2フサール連隊(1937)
ニーレジハーザ Nyíregyháza の第1騎兵旅団(1937~1940)
冠トルディ・ミクローシュ・スポーツ教育およびフェンシング師範研究所(1940~1941)
の長や,
軍事法廷の副裁判長(1941年2月1日~)
などを歴任.
一方,スポーツ分野ではハンガリー水泳協会副会長(1920年~)を歴任.
また,全国体育評議会(OTT)の創設メンバー(1925年)となる.
1941年8月,ホルティの命により,青少年に「体育」という名の軍事訓練を施す「レヴェンテ」機関などを束ねる,全国青年防衛および体育教育局(IHNETOV)の長となった(1941年8月11日~1943年2月1日)後,引き続き,青年防衛教育の国家責任者に就任(IHNOV,1943年2月1日~1944年9月26日)
1944年9月26日,国民防衛隊の司令官となったが,ナチス・ドイツの傀儡であるサーラシ政権が発足すると,ベールディは10月16日にゲシュタポに逮捕.
脱出して身を隠していたが,1945年1月19日,反ナチのデブレツェン臨時政府に合流.
1945年1月19日~2月12日,停戦委員会の軍事委員長を務める.
しかし同年2月12日,彼は政治警察によって戦犯として逮捕さる.
告発内容は「ハンガリーの青少年を軍事訓練のため,ドイツに移送した」というもの.
実際にはその行為が行われたのは,ベールディがゲシュタポに逮捕されて以降のことであり,彼の無罪は客観的には明らかだが同年6月19日,彼は降格されて陸軍から追放.
同年7月20日には人民法廷が彼に死刑を宣告した.
同年8月13日,国家高等評議会は終身刑に減刑し,代わりに財産没収とる政治的権利の10年間停止を課した.
その後,刑務所内で病気にかかり,1946.12.22,ブダペシュトの医療刑務所にて死去.
ベルリンの壁崩壊後の1994年,改めて無罪を宣告され,2004年以降,遺体はブダペシュトのファルカシュレート Farkasrét 墓地に埋葬されている.
また,戦争中に書かれた彼の日記が,軍事史博物館に保管されているという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.nevpont.hu/palyakep/beldy-alajos-53ada
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/Lexikonok-magyar-eletrajzi-lexikon-7428D/b-74700/beldy-alajos-bruckner-74A8E/
https://generals.dk/general/Béldy/Alajos_/Hungary.html
http://intezet.nori.gov.hu/nemzeti-sirkert/budapest/farkasreti-temeto/beldy-alajos-1918-ig-bruckner-alajos-halasz-alajos/
https://www.olympedia.org/athletes/79810
水泳選手時代のブルックナー・アラヨシュ
(図No. faq210620al4,こちらより引用)
将校時代のアラヨシュ
(図No. faq210620al3,こちらより引用)
将校時代のアラヨシュ
(図No. faq210620al2,こちらより引用)
将軍時代のベールディ・アラヨシュ
(図No. faq210620al,こちらより引用)
mixi, 2021.6.22
【質問 kérdés】
第二次大戦ハンガリーの指揮系統は?
Milyen az szolgálati út volt a második világháború Magyarországon?
【回答 válasz】
「国王のいない王国」として「ウソのようなホントの話」ネタでも常連の感のある,第二次大戦当時のハンガリー王国は,国王ではなく摂政最高会議がトップにあり,その下に軍事部門としての参謀本部と,行政部門としての内閣が並列に存在していた.
ただし,内閣は最高国防会議を設置し,また,国防相の任免権も内閣にあるので,組織上,参謀本部が内閣を無視できるようにはなっていない.
また,内務省の下には憲兵隊 Csendőrség があり,再軍備宣言前には国防軍よりも強力だった.
オーストリア=ハンガリー憲兵隊の歴史は19世紀に遡り,面白いテーマではあるのだが,それはまた別の話.
参謀本部の下には
・陸軍
・空軍
・河川部隊 Magyar Királyi Honvéd Folyami Erők
・国境警備隊
の4軍があった.
第二次大戦勃発時の軍参謀総長はヴェルト・ヘンリク Werth Henrik 大将.
親独派だったが独ソ戦緒戦での大損害の責任を取らされて退役.
後任には,カルパチア軍集団を率いていたソンバトヘイ・フェレンツ Szombathelyi Ferenc 大将が任命された.
ヴェルトはドイツによるハンガリー占領後の1944年9月,ゲシュタポにより逮捕.
1945年2月には今度はソ連のスメルシュによって逮捕され,ソ連に連行されて1948年に禁固25年を言い渡され,1952年,強制収容所で死去.
ソンバトヘイは戦後逮捕されて,ハンガリー人民裁判所により禁固10年を言い渡された後,ユーゴスラビア当局に引き渡され,同国内での戦争犯罪に対して死刑を言い渡され,1946年11月絞首刑となった.
ハンガリー最高裁によって彼の無罪が認定されたのは,冷戦後の1994年のことである.
【参考ページ】
http://www.niehorster.org/015_hungary/_high-command.html
http://korok.webnode.hu/products/a-magyarorszagi-csendorseg-tortenete-1881-19451/
http://lemil.blog.hu/2015/11/05/csendorseg_i_volt_egyszer_egy_vadkelet?token=0026750d2699ee9c095c74a9e266a468
http://nagyhaboru.blog.hu/2012/05/30/a_nagy_haboru_werth_henrik_szemevel
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/werth.html
http://mult-kor.hu/cikk.php?id=15358
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/szombathelyi.html
国家首脳部の組織系統
(こちらより引用)
将軍(左)と参謀の大佐(中央)と歩兵(右)
将軍はピケ帽を被っている
(『The Royal Hungarian Army in WW2』より)
ヴェルト・ヘンリク伝記
ソンバトヘイ・フェレンツ肖像写真
(こちらより引用)
mixi, 2017.2.18
【質問 kérdés】
ハンガリー軍の戦場医療の準備について教えてください.
Kérem, mondja meg magyar katonaorvosi ellátásának előkészítésről.
【回答 válasz】
ハンガリー軍は,将来の戦争発生が予見されるようになった1938年,衛生兵部門の開設と,専門的な訓練,動員計画に沿った医療機器の調達を開始.
1939年には,ハンガリー赤十字などの救護組織の活動を活性化することにより有事の医療を拡大することを国会で議決.
ハンガリー赤十字社は政府から補助金を得て,有事の際の医療活動のために人員を補充し,救護訓練を拡大した.
また,全国消防協会が運営に加わり,航空連盟,ブダペスト自主救助協会,市や郡の全国救助協会,および国防省の関連部門との活動を調整した.
計画では,最前線やその近傍の戦傷病者には,国防保健局が救急医療を行い,後背地では軍病院が医療を担当することになっていた.
一方,トリアノン条約の後遺症により,再軍備宣言後も軍備拡充は遅れており,それは衛生兵も例外ではなかった.
急ぎ訓練が行われた.
ハンガリーが第二次大戦の当事者となる可能性が高まってきた1941年1月,ブダペシュト周辺Vecsés, Aszód, Gyömrő, Újpest,
Törökbálint, Vác, Budakeszi, Jászberény およびRákospalota)に数百床規模の軍病院建設が始まった. また,医療を目的とした艀(はしけ)の徴用も行われた.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://core.ac.uk/download/pdf/83551626.pdf
https://pea.lib.pte.hu/bitstream/handle/pea/16132/kalakan-laszlo-phd-2012.pdf
1. ábra; Magyar fecskendőtartó, egy 2 ml-es fecskendőt tudtak benne magukkal
vinni az orvosok.
写真1:ハンガリーの注射器ホルダー.医師は 2 ml の注射器を持ち運ぶことができた.
© Pavló Péter
2. ábra ; Magyar szikés doboz a II. világháborúból, a benne található szikék
még ma is élesek.
第二次大戦におけるハンガリーの医療用携行箱.メスは今日なお鋭い.
© Pavló Péter
(図No. faq220903or1~2,こちらより引用)
mixi, 2022.9.3
【質問 kérdés】
第二次大戦勃発後,ハンガリーにおける軍事医療能力の増強は,どのように行われたのか?
Hogyan bővült a magyar katonai egészségügyi kapacitást a második világháború
kitörése után?
【回答 válasz】
対ユーゴスラヴィア戦ではほとんど出番は無かったが,対ソ宣戦布告すると,ハンガリー赤十字もまた臨戦組織へ切り替わった.
ハンガリー兵負傷者ばかりでなく,ドイツ兵や,ルーマニア兵,イタリア兵,時にはフィンランド兵も後送されてきた.
救急車の仕事量は増え,それに伴って交通事故が大幅増加した.
1942年に,さらに大規模な派兵が行われると,負傷者数も急増.
軍病院は入院患者で溢れ返り,地下室まで病床に転用しても,なおも間に合わなくなったため,軍病院の建物の建て増しを行うと共に,一般の病院でも負傷者の治療が行われることとなった.
これは一般市民向けの医療サービスを圧迫し,医療費が値上がり.
また,負傷兵を介して結核やチフスが伝染する危険も増大した.
病院列車は,開戦前には2本があったが,1942 年に4本,1943年に6本,1944 年には12本へと増加した.
さらにJu-52,Ju-86, SM-75が救急用航空機に転用.
1942.7.2にはJu-86が胴体着陸後,爆発炎上する事故も発生している.
交通の要衝上にある鉄道駅にはエイド・ステーションが作られた.
これは港も同じだった.
港にはドイツ語話者も配置された.
しかし医薬品や医療機器,医師の不足は解消できるものではなかった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://core.ac.uk/download/pdf/83551626.pdf
https://pea.lib.pte.hu/bitstream/handle/pea/16132/kalakan-laszlo-phd-2012.pdf
1枚目:ハンガリー軍の救急車
1941年ウクライナ
写真向かって右側には,遺棄されたT-26(双砲塔型)が見える
(図No. faq220828rs,こちらより引用)
2枚目:救護所
1942年,ドン河戦線
(図No. faq220907rs,こちらより引用)
3枚目:病院にて負傷兵を見舞うホルティ
(図No. faq220911rs,こちらより引用)
2022.9.15
【質問 kérdés】
WW2ハンガリー軍の病院列車について教えてください.
Kérem, mondja meg a masodik világháborúban magyar kórházvonatról
【回答 válasz】
ハンガリー軍の病院列車は,作戦地域から負傷兵を本国の病院に送還することを目的として,1941年初め,国防相は病院列車調達を発令.
MÁVの工房において,No. 101 と No. 102 の2本を製作.
1941年9月には,両方の列車が準備完了した.
病院の列車は通常22両の貨車で構成されており,そのうち 10 両は入院患者用,5 両は外来患者や座っている患者用,残りの 7 両は他の機能やタスクに使用されました.
スタッフ車(看護師専用,退役軍人専用),食堂車,収納車など.
遺体は,マットレスを保管するために使用される収納車に置かれました.
入院患者用車両には,防振ストラップで固定されたベッドが,貨車1両あたり24床あった.
一本当たりの製作費用は10万ペンゲー,その他のコストを含めて病院列車一本用意するのに60~70万ペンゲーかかったという.
列車には医師,赤十字の看護師10~15人,負傷者用の医療用品を乗せ,戦地まで数日かかった.
その始発/終着駅はブダペシュトの東駅であり,この駅には医薬品,食品,その他の機器をストックする倉庫を赤十字社始発用・終着用にそれぞれ用意した.
原則として病院列車は負傷者を輸送するだけのものだったが,現実には応急措置として外科手術を行うことが多かった.
開戦後,ハンガリー赤十字社は更に多くの病院列車を要求された.
これにより列車の本数は
1942年は4本,
1943年は6本,
1944年には12本に増加.
No.は101,102,105,107,108,109,111,151,152,153,154,155だったという.
後者5本はドイツの病院列車をモデルにしており,4軸車輌から作られていた.
大戦末期,これら病院列車は全てオーストリアやドイツへ避難し,戦後もハンガリーの手に戻ることは無かったという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://core.ac.uk/download/pdf/83551626.pdf
https://pea.lib.pte.hu/bitstream/handle/pea/16132/kalakan-laszlo-phd-2012.pdf
https://magyarnemzet.hu/lugas-rovat/2022/09/magyar-korhazvonattal-a-don-kanyarba
1枚目:病院列車
1942年,東部戦線
(図No. faq220907rs,こちらより引用)
2枚目:イローナ・マリア・アンドレア・ガブリエラ・エデルスハイム・ギュライ・デ・マロスネメティ・エ・ナダスカ伯爵夫人,
彼女は,摂政ミクローシュ・ホルティの息子である副摂政ヴィテズ・イストヴァーン・ホルティ・デ・ナジバーニャの妻であり,1942 年 5 月 28 日から 1944 年 3 月 30 日までボランティアの看護師として勤めた.
(図No. faq220907rs3,こちらより引用)
3枚目:病院列車の車内 - 入院患者用に設計された客車,1942年.
写真: Fortepan/József Reményi
(図No. faq220917kv,こちらより引用)
4枚目:病院列車の車内 - 看護婦休憩室,1942年
写真: Fortepan/József Reményi
(図No. faq220917kv2,こちらより引用)
mixi, 2022.9.21
【質問 kérdés】
第二次大戦ハンガリー軍には,どんな階級があったの?
Milyen Honvédségi rendfokozatok voltak a második világháborúban?
【回答 válasz】
おおよそ以下の通り.
ただし,水軍の下士官以下の階級については,google検索レベルでは調べがつかなかった.
ただし,水軍の下士官以下の階級略記については,google検索レベルでは調べがつかなかった.
陸軍&空軍 | 水軍 1939.1.1~1944.6.30 (1944.7.1~1945.5.8は陸軍と統一) |
仮訳 | ||
略記 | 階級名 | 略記 | 階級名 | |
Vtbgy. | Vezértábornagy | — - | — - | 上級大将 |
Tbgy. | Tábornagy | — - | — - | 大将 |
Vezds. | Vezérezredes | — - | — - | 中将 |
Altbgy. | Altábornagy | Vfőkap. | Vezérfőkapitány | 少将 |
Vőrgy. | Vezérőrnagy | Vkap. | Vezérkapitány | 准将 |
Ezds. | Ezredes | Főtkap. | Főtörzskapitány | 大佐 |
Alez(ds). | Alezredes | Tkap. | Törzskapitány | 中佐 |
Őrgy. | Őrnagy | Talkap. | Törzsalkapitány | 少佐 |
Szds. | Százados | Kap. | Kapitány | 大尉 |
Főhadnagy-helyettes※ | Főhajónagy-helyettes※ | 大尉代理 | ||
Fhdgy. | Főhadnagy | Fhjgy. | Fő hajónagy | 中尉 |
Hadnagy-helyettes※ | Hajónagy-helyettes※ | 中尉代理 | ||
Hdgy. | Hadnagy | Hjgy. | Hajónagy | 少尉 |
Zászlós-helyettes※ | Folyami-Zászlós-helyettes※ | 少尉代理 | ||
Ftzls. | Főtörzszászlós | — - | — - | 一等准尉 |
Tzls. | Törzszászlós | — - | — - | 二等准尉 |
Zls. | Zászlós | Zászlós | 三等准尉 | |
Ftőrm | Főtörzsőrmester | Tiszthelyettes | 上級曹長 | |
Tőrm. | Törzsőrmester | Törzshajómester | 曹長 | |
Őrm. | Őrmester | Hajómester | 軍曹 | |
Szkv. | Szakaszvezető | Negyedes | 伍長 | |
Tiz. | Tizedes | Rajos | 兵長 | |
Őrv. | Őrvezető | Osztályos | 一等兵 | |
Hv. | Honvéd | Folyamőr | 二等兵 | |
※の階級は,1943.3.15~1944.10.30まで存在した臨時的なもの. 戦争中,多くの下士官が適切な階級のないまま,士官相当の任務に就いていたため,その現状を追認する目的で新設された. ▼ 能力がある場合,対応する士官に昇進できた. つまり,准少尉なら少尉に,准大尉なら大尉へ昇進することができた.▲ |
【参考ページ】
http://www.niehorster.org/015_hungary/ranks.htm
http://live.warthunder.com/post/382966/en/
http://live.warthunder.com/post/403107/en/
http://live.warthunder.com/post/404698/en/
画像左:戦車搭乗員の二等兵 39.Mヘルメットと革製の35.M戦車服を着用
画像中央:カルパソマーニョシュの一等兵
画像右:Zászlós-helyettes(准少尉) 突撃砲兵の記章をつけている
(図No. faq170219hn2,『The Royal Hungarian Army in WW2』より引用)
mixi, 2017.2.20
改修, 2017.3.11
【質問】
第二次大戦ハンガリーの化学兵器について簡単に教えてください.
【回答】
第一次大戦後,トリアノン条約により軍備を大きく制限されたハンガリーだったが,1925年から秘密裏に研究を開始し,1928年にはブダペシュトにガス実験室を設置した.
なぜなら周辺国,チェコスロヴァキアやルーマニアは1920年後半の時点で,いずれも毒ガス生産プラントを持っており,チェコスロヴァキアは日本に毒ガス30tを輸出していたほどだったからだ.
対抗手段をハンガリーも持たねばならない.
1934年には化学部会秘密会談代表団をイタリアに送り,同国の援助を受けて1936年初めには軍指導部は,ガスの生産と研究の拠点となる施設の建設案を作成した.
財務省は「高地ドイツ語話者のための教会の建設」という名目を与え,工場はチェペル Csepel の街に建設され,1940年には生産を開始した.
10.5cm化学砲弾の他,航空用化学爆弾や化学手榴弾.
弾体はマンフレード・ヴァイスなどの工場で作られ,「教会」は,それらにマスタード・ガスを充填する役割を担っていた.
1941.5.30の時点で,編制上は各軍団は化学戦部隊1個中隊を持っていた.
毒ガス生産は戦時中も続けられたが,結局,敵による報復攻撃を恐れて使用することは無く,化学戦部隊は専ら除染や火炎放射攻撃に従事したという.
なお,例によって誤訳御免.
【参考ページ】
http://epa.oszk.hu/00000/00018/00002/pdf/04kovacs.pdf
http://www.zmne.hu/tanszekek/vegyi/docs/fiatkut/gazv1914.htm
http://live.warthunder.com/post/477774/en/
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/_army.htm
http://live.warthunder.com/post/376256/en/
第101化学戦大隊所属のCV-35
faq170206cv.jpg
faq170206cv2.jpg
faq170206cv4.jpg
第2中隊だけがガス噴霧用のタンケッテを持っていたが,その数は不明
国籍エンブレムの形状により,1940年以前の撮影と分かる
(こちらおよびこちらより引用)
煙幕 füstfüggöny を張るハンガリー軍のCV-35
化学細菌戦部隊所属
(こちらより引用)
革製の化学防護服とフードを着た化学戦部隊の兵士
(こちらより引用)
36.M 耐酸革手袋 saválló kesztyű
化学戦部隊の防護服用
(こちらより引用)
mixi, 2017.2.6
【質問 kérdés】
38.M "Cs"缶とは?
Mi az 38.M "Cs" töltény?
【回答 válasz】
戦間期,ハンガリーはイタリアからマスタード・ガスを輸入した.
輸入量は不明.
そのガスの一部は,いわゆる "Cs"缶に充填された.
"Cs"はハンガリー語の「Cső」(管)の頭文字.
催涙ガスの一種,クロロベンジリデントマロノニトリル(2-chlorobenzalidenemalononitrile)がCSガスとも呼ばれるが,それとは全く関係ないので注意されたし.
1938年以前,ハンガリー軍には電気信管式と時限信管式の2種類の "Cs"円缶があった.
38.M "Cs"缶は,その2種類を一つに統合したものだった.
(図1)
それまでの毒ガス缶では信管はどちらかに固定されていたが,38.Mでは電気信管と時限信管のどちらも装着できた.
電気信管(図2)は起爆装置として過電圧 electrical spike を利用した.
この過電圧は乾電池を使用し,トリップ・ワイヤで作動した.
この電気信管式 "Cs"缶は,遠隔操作地雷としても使用することができた.
その際には,1.45Vの電池と長い電線が必要だった.
一方,時限信管(図3)は,所定の時間に達すると燃え尽きて爆発するという,シンプルなコード式だった.
時限信管は,防御側が敵の攻撃開始時刻を正確に察知しているときにのみ使われ,その時間に応じ,敵が"Cs"缶に接近したとと同時に起爆するよう,コードに点火した.
38.M "Cs"缶にはサルファ・マスタード――ハンガリー軍では「材料 M」と呼ばれた――が360g充填されていた.
これは20平方メートルの範囲を,1立方メートル当たり15~20gの密度で3~4時間汚染し続ける能力があった.
ハンガリー軍には"Cs"缶の他,マスタード・ガス砲弾も存在したが,第二次大戦でハンガリー軍が化学兵器を使用したことはなかった.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/439866/en/ ※図1~3引用元
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_ga_g_e.html
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_ga_g_i.html
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_ga_g_8.html
2017.7.13
【質問 kérdés】
第二次大戦ハンガリー軍のガスマスクは?
Milyen gázálarcok voltak magyar honvédség a második Világháborúban?
【回答 válasz】
写真1は,ハンガリー軍ガスマスクの変遷.
(こちらより引用)
このうち,28.Mおよび34.Mが,大戦中に使われた.
28.Mガスマスクは,ドイツのアウアー Auer 社のライセンスをもとに製造されたもので,ハンガリー軍で1928年から制式採用された.
A magyar honvédség 1928-ban az 28 M. gázálarcot rendszeresítette, akit
a német Auer cég licensze alapján gyártott.
これは,フィルタを詰め込んだキャリング・ケースと,長いホースで接続するタイプのもの.
写真2は,フィルタと共に装着したときの様子を示す.
30年代には,マスクに直接装着できる軽量化フィルタが開発され,34.Mが開発・制式採用された.
マスク本体はゴム引きの帆布で作られている.
茶色のものが主流だったが,緑色のマスクもあった.
1枚目:34.Mガスマスク
(図表番号 faq170501gs2)
2枚目:マスクを装着したフサール
(図表番号 faq190715gs)
3枚目:マスクを装着したまま体操している将兵
(図表番号 faq190715gs2)
戦争初期には,キャリー・ケースとしてリネンのバッグの中にマスクを入れ,兵士は携行した.
しかし,1943~44年頃から,ドイツ軍のものと同様の錫の収納ケースにマスクを入れて携行するようになった.
1枚目下段の写真(図表番号 faq170501gs2)は,2種類のキャリー・ケースを示す.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/410812/en/ ※faq170501gs2引用元
https://live.warthunder.com/post/652436/en/ ※faq190715gs引用元
https://live.warthunder.com/post/634725/en/ ※faq190715gs引用元
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_e_f_g_4.html
2017.5.1
2019.7.15写真追加
【質問 kérdés】
"Bajtárs ma még tán csak öt perc az élet"って何?
【回答 válasz】
"Bajtárs ma még tán csak öt perc az élet"(たぶん人生で今の5分間だけの仲間)は,両大戦間に作られたハンガリー軍の軍歌.
エルデーイ・ミハーイ Erdélyi Mihály (1895-1979)の作詞作曲.
彼は両大戦間に作詞家,作曲家,オペラの舞台監督などとして名声を博した.
一般に著作権は著者の死後50年まで有効であって,この曲の歌詞の著作権はまだ切れていないと思われるので,歌詞は転載せず,主な単語のみ記載:
JASRAC超うざい.
puszta 草原
fergeteg つむじ風
tör 短剣,ダガー
völgy 谷
bérceken 岩山
át ~の上に(後置詞)
jelszó パスワード,スローガン
ne hagyd magad 俺から離れるな
ha もしも~なら,
régi 古い 古参の
védd meg a legszebb hazát! 最も美しい祖国を守ろう!
bajtárs 仲間
tán たぶん
nincsen tovább それ以上では決してない
ima 祈る者,祈り
foglal 受け取る
téged 貴方
hű szívvel 誠実な心で
olcsó 安い
jöjjön a legszebb halál! 最も美しい死にざまよ,来い![意訳]
mindegy, de とにかく
győz 勝つ
muszáj ~しなければならない
számít 数える
vihar 嵐
ゆえに「Nem számíthat száz vihar」で,「数えることもできない何百という嵐」?
acélos 鋼鉄のような
férfikar 男声合唱
szív 心
szent 聖なる
eskü 誓い
vár 城
halál 死
szembe néz 直面する
hol ~はどこにある?
vész 危機
készen talál 準備は出来ている
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.zeneszoveg.hu/dalszoveg/25398/laszlo-imre/bajtars-ma-meg-tan-zeneszoveg.html
http://archivtext.blogstar.hu/2016/09/12/-quot-bajtars-ma-meg-tan-csak-ot-perc-az-elet-quot-/29981/
https://www.masodikvh.hu/erdekessegek/3175-a-papai-ejtoernyosok-notai-katonadalok-a-magyar-kiralyi-honvedseg-ejtoernyos-alakulatanal-1939-es-1945-kozott
http://eleve.blog.hu/2012/03/04/1918-1919_magyarorszag_a_szekely_hadosztaly_induloja?token=37c17625167a7e3b6ff7aed2c94a5717
http://forum.index.hu/Topic/showTopicList
https://www.youtube.com/watch?v=4v6lQC2BpTc
mixi, 2018.1.25
【質問 kérdés】
ハンガリー光器製作所とは?
Mi az Magyar Optikai Művek Rt?
【回答 válasz】
ハンガリー光器製作所(略章MOM)は世界的に有名だったハンガリーの大手製作所.
A Magyar Optikai Művek (rövidítve MOM) egy jelentős, világhírű, magyar
iparvállalat volt.
シュッシュ・ナーンドル Süss Nándorによって1876年7月1日設立.
A vállalatot Süss Nándor alapította 1876. július 1.
すなわち,彼がコロジヴァール Kolozsvár において,大学の光学部門ワークショップ Egyetemi Mechanikai Állomás
を開設したのが,その起源である.
1884年,ブダペシュトに移り,国家支援機械工房 Államilag Segélyezett Mechanikai Tanműhely となった.
以後,
1900~1918,シュッシュ・ナーンドル精密機器類研究所 Süss Nándor-féle Precizio Mechanikai Intézet
1918~1922,シュッシュ・ナーンドル精密機器類研究所株式会社 Süss Nándor-féle Precizio Mechanikai
Intézet Rt.
1922~1931,シュッシュ・ナーンドル精密機器および光学機器類研究所 Süss Nándor-féle Preciziós Mechanikai
és Optikai Intézet Rt
1931~1938,シュッシュ・ナーンドル精密機器および光学機器株式会社 Süss Nándor Finommechanikai és Optikai Részvénytársaság
(1938) 1939~1951 ハンガリー光器製作所
1966~1998 ハンガリー光機製作所大産業 Magyar Optikai Művek, ipari nagyvállalat
1998年,事業継承者なく,廃業.
という沿革となっている.
第二次大戦中,ハンガリー軍はゲルツやカール・ツァイスの光学機器を使用していたが,それらはGAMMAと共にこの会社でライセンス生産されていた可能性が高いという.
また,機関銃の生産も行ったが,1944年には工場の1/3が破壊され,残った生産設備はドイツ軍が持ち去った.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/453001/en/
http://egykor.hu/budapest-xii--kerulet/magyar-optokai-muvek/3310
http://www.ilyenisvoltbudapest.hu/ilyen-is-volt/tizenkettedik-kerulet-hegyvidek/item/1960-as-evek-csorsz-utca-a-mom
https://pixinfo.com/cikkek/tortenelem-magyarok-a-fototechnikaban/
https://www.youtube.com/watch?v=iCfa0Umv7o0
mixi, 2017.9.11
【質問 kérdés】
GAMMA精密機械&光器製作所とは?
Mi az GAMMA Finommechanikai és Optikai Művek Rt.?
▼ 【回答 válasz】
GAMMAは1920.5.18,電子技師ドレーゲル・カーロイ Dréger Károly,機械技師ラースロー・アルトゥル László Arthur,退役大尉で投資家のブラウン・ジグモンドによって,ブダペシュトのコソルー通り Koszorú utca に創設された精密機器・光学機器メーカー.
GAMMAは1920.5.18,電子技師ドレーゲル・カーロイ Dréger Károly,機械技師ラースロー・アルトゥル László Arthur,退役大尉で投資家のブラウン・ジグモンドによって,ブダペシュトのコソルー通り
Koszorú utca に創設された企業.
設立当初は電気機器・精密機器・光学機器メーカーだったが,1921.5.8,「景気低迷」により役員が総退陣.
いったん倒産し,ユハース・ゾルターンJuhász Zoltán とユハース・イシュトヴァーン Juhász István の2人の技師による家族経営の工場として再スタートした.
ユハース・ゾルターンJuhász Zoltán とユハース・イシュトヴァーン Juhász István の2人の技師による家族経営の精密機器・光学機器メーカーとして再スタートした.▲
1924年にはフェヘールヴァーリ通り Fehérvári に移転.
1933年,工場の生産部門面積は1700㎡に増加し,工場の本部は110名となった.
1935年,工場に光学研磨装置を設置.
5年かけ,同社の光学製品は国際水準に達した.
第二次世界大戦に先立つ数年前より,工場では軍需品生産が大幅増加.
戦争が近づくにつれ,工場は絶えず拡大改良が必要となった.
1939年11月,工場はGAMMA Finommechanikai és Optikai MűvekRttと改称され,光学プラントは海外にも輸出されるようになった.
第二次大戦中,ハンガリー軍はゲルツやカール・ツァイスの光学機器を使用していたが,それらはMOMと共にこの会社でライセンス生産されていた可能性が高いという.
ハンガリーにソ連軍が侵攻してきた1944年12月26日~1945年2月11日,工場も最前線となった.
フェヘールヴァーリ通りの建物は1階が完全に焼失し,他も大きく損壊した.
戦後,工場では家庭用の日用品を作ると共に,農業省向けの地図測量用具や,公立病院向けの顕微鏡など医療機器の製造を開始した.
1946年春からは,眼鏡のレンズの製造も始めた.
しかし運転資金の不足のため,1947年前半に倒産.
会社清算は行わず,1948.3.25,国有化された.
1960年代にGAMMA Works と改称.
現在も存続している.
一方,軍需部門は1951年頃から精密機械会社 Finommechanikai Vállalat という新会社へ徐々に移管された.
軍需電子機器メーカーに特化したこの会社は,冷戦終結後,受注が低迷.
解体清算された.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/453001/en/
https://live.warthunder.com/post/457384/en/
http://www.gammatech.hu/index.php?module=showpage&lang=hun&site=history/leaderofgamma
http://hvg.hu/magyarmarka/20050329gamma
https://pixinfo.com/cikkek/tortenelem-magyarok-a-fototechnikaban/
http://www.gammaanalcont.hu/us.html
http://szextant.blogspot.jp/2015/10/169-gamma-muvek-rt-budapest-42-hadiuzem.html
mixi, 2017.9.13
2018.3.24改訂
【質問 kérdés】
第一次大戦後~第二次大戦終結までのMVG(ハンガリー機械&車輌工場)について教えてください.
【回答 válasz】
1896年創業のMVGは第一次大戦終結後,大きなダメージを負った.
まずハンガリー=ソビエト崩壊後,ほぼ1か月もジェールを占領していたルーマニア軍は,MVGの設備を掠奪した.
その後の戦後数年間,MVGには発注が来ず,生産量は急激に減少した.
1920年代初頭になっても,同社はまだ戦前設計の車輌が生産ラインにあった.
すなわち乗用車「グランド」とトラック「V」,そしてツォンカ・ヤーノシュの参加を得て郵便局向けに計画された「P」型である.
このうち「P」型は,第一次大戦によって生産出来ずに終わった貨物運搬車から開発された.
これら3車種の中ではV型が最も多く製造された.
1922年,独自の特殊車両を製作.
このうち最初の1輌は装甲されていたが,次の5輌は民間向け設計だった.
シラージ・ヴィルモシュによって設計された,ステアリングギアボックスを備えた「リバーシブル」車輌であって,後席にもハンドルがあり,そして1回の動作で全アクチュエータが後進に切り替わった.
この車輌を後進させる際にも,4段ギアでの運転が可能だった.
1925年,再びプラハ工場とライセンス契約を結び,「L」タイプの3トン高速トラック,そして24〜30人乗りバスの生産が開始された.
これはエンジンや殆どの車体部品が「グランド」と同じだった.
1926年からラーバ「Pe」型郵便電気自動車が生産開始.
これは1929年まで生産された.
その15kWエンジンはガンツが,1000Ah鉛バッテリーはトゥドル工場が製作した.
この都市型交通車輌は,何十年もの間現役にある.
1927年までに,さまざまな上構を持つ500輌近くの車体が製造された.
近代化された「グランド」型は1925年まで生産され続け,1923年に1台の「グランド」がオーストリア=ハンガリー・ハイキングトレイルで銀メダルを受賞した.
ラーバ「グランド」は1925年までに合計250輌が生産された.
工場は1927年末にドイツのクルップ工場からトラックやバスのライセンス生産権を正式に購入.
それ以前の特徴的である,作業場ベースの生産は,近代工業的な自動車生産に置き換えられた.
当時の技術基準に追いつくため,鉛や鋼の鋳造所,鍛造および切断プラント,熱処理および材料試験の研究所が設立された.
ラーバ=クルップのトラック第1号はテレフォンジャールが注文したもので,これは1929年春に完成した.
1928年春には,オーストロ・フィアットとの間でライセンス契約を結んだ.
k-,e-,p-,a-,h-の型式名称が与えられたオーストロ・フィアットのライセンス生産型は,それぞれ1.5~2.0トンそして2.15トン,クルップのライセンス版は3tのL3,6H,L3N,L3,5N,L3H,および5tのL5Nという型式名称がつけられ,それぞれ異なるトラックやバスの上部構造を載せて生産された.
また,RIMA支援のために車体製造部門が拡張され,主に溶接で作られたスチールフレームの上構が製造された.
主に自社で使用するため,時には外部の顧客向けに.
特殊車両も注文に応じて製造された.
たとえば散水車とアスファルト洗浄車,除雪車,掘削車,消防梯子車,油槽車等.
工場にとって――その製品の性質上――国や公共組織が最多の顧客だった.
鉄道用の貨物車,旅客車,特殊車の大部分は,国内外の公共鉄道会社に販売していたが,状況は道路車両の分野でも同様だった.
というのも,両大戦間の道路輸送車輌(バスやトラック)の殆ども公益事業や工場が所有していたためだ.
アメリカ合衆国を除けば,車は妖精の如き希少な存在であり,ハンガリーだけでなく遥かに発展した西欧諸国の殆どでも,自動車を日常の道具とする生活からは程遠い状況だった.
事実,国内需要が少ないことから,自動車生産の黎明期には乗用車を生産していたMVGは1920年代以降,二度とそれらモデルを生産しようとはしなかった.
工場生産として自動車生産が始まったのは1903年からである.
MVG社の,この自動車という新部門は,多くの技術革新を誇った.
たとえば,世界初の機械式四輪駆動・四輪操舵道路車両はジェールで製造された.
だが1929~33年の経済恐慌期には,年間22~72台の自動車しか生産されなかった.
1933年には主力製品である鉄道の客車および貨物車は生産されず,それ以外の年は60~312輌の車輌を生産した.
1935年から36年にかけ,MVGの中では何十年もの歴史の中で最も有名な民間車モデルであるラーバ・シュペルとラーバ・シュペチアル[の生産ライン]が,オーストロ・フィアットの[契約に基づいて]構築され,1951年までに2,500輌を生産した.
1930年代半ばまではMVGは,ライセンス生産権を取得して何十年もの間自社生産していたガソリン・エンジンを搭載した,ガソリン・エンジン自動車のみを生産していた.
一方,農業機械分野では,K II型耕運機が引き続き生産されていたが,1927年生産中止.
1930 年に開発され,すでに量産の準備ができていたラーバ小型トラクターに置き換えられた.
15 馬力 2 気筒直立エンジンは,ガソリンや灯油での運転にも適していたが,最大の利点は,低い自重と旋回半径,信頼性,および取り扱いの容易さだった.
しかしその生産は早くも1930年代初頭には,深刻な農業危機の結果,中止になった.
30年代半ばまでに,ラーバは小型トラクターの経験と,その間に発生した需要に基づいて,工場のエンジニアはギアボックス有りの多目的トラクターである「ラーバ・ミンデネシュ」を開発した.
20 ~ 25 馬力のエンジンはトランスミッションのおかげで,地面の抵抗に適応して運転中に継続的にその性能を利用することができた.
性能向上により,耕起以外にも多くの作業に適したトラクター車種となった.
本車は1939 年から,従来の装備に取って代わり,すぐに中農層に人気のパワープラントとなった.
大規模農場では,より強力な機械の中に混じって,土づくり,脱穀,製粉に使用された.
1944 年までに250両の「ラーバ・ミンデネシュ」トラクターが車輌工場で生産されている.
さらにMVGは鋼材建築も行った.
たとえば架橋である.
第一次世界大戦後,都市は交通インフラの近代化に着手し,中でも固いアスファルトで舗装された道路を増やしていった.
車輌の交通量が増え,自動車が登場し,ジェールは市内を横切る南北と東西の「大陸間」ハイウェイの内陸部も整備しなければならなくなった.
1925年には路線バスや都市間バスが運行されるようになり,河を跨いだ新しい路線へ転換するためには,頑丈で安定性の高い橋が必要になった.
外国からの融資を受けて,ベケ・ジョージェフ技師の設計に基づき,レーヴ村にて鉄橋建設が開始され,1928年,ハンガリーで最初のランガー式剛性橋が開通した.
(ランガー桁橋は,デッキとアーチが橋脚上に1本の剛性ある「梁」として配置されている,剛体アーチ橋のことである)
90mという長さに比べての360tという重量は,非常に軽量に計算されたものだった.
革新的な圧延炭素鋼素材とストラット&ブレース構造が,この橋の優美な外観とそれによる国際的評価に貢献している.
この橋は地元の人々を魅了し,この橋の建設後数十年にもわたって,ジェールにはユニークな新しい橋が次々と建設された.
残念ながら1945年,この橋は退却中の軍隊によって爆破されている.
1932年には古い橋の架け替えが決定された.
ジェールの城壁の外,城から南西の方向に,南からラーバ川を渡ってウーイヴァーロシュにつながっていた橋の架け替えである.
入札が公示され,数十社の業者が入札を出したが,最終的にはハンガリー車輌&機械工場が受注した.
設計はレンジェル・ヨーヂェフ,車輌工場の鋼構造物生産ユニットの主任技師である.
設計者と施工者は,革新的な精神とプロフェッショナリズムにより、当時としてはユニークな提案をすることを可能にした;
デザインしたのは,当時世界最長の全溶接橋梁構造の橋2種だった.
その計画は大胆だが,ユニークで経済的だった.
当時一般的には,鋼製の橋梁部材はリベット結合だった.
本格的な溶接法が特許化されたのは19世紀末のことであり、その普及は第一次世界大戦後に十分な容量の電源(発電機やトランス)が登場してからのことだった.
この技術は建築物の建設にはなかなか普及せず、1926年にポーランドで初めて完全溶接された道路橋が建設されたが,その全長は27mだった.
ジェールの橋について設計者が提案したのは,2×56mスパンの吊り下げ式プレートガーダー構造で,接合部を溶接しているものだった.
しかし、これについて運輸省の責任者は,大胆すぎると判断し,未熟で不確実な技術を選択しているとして承認しなかった.
もう一つの(同じように溶接された)バージョンである,長さ53m,トラス構造で下側に桁があるものが承認された.
その事業はそれでも極めてユニークだった.
ハンガリーの鉄鋼業は当時,しかし確かに時代の最先端を走っていた.
ガンツやヴァイス・マンフレード作業所をはじめ,ジェールにあるハンガリー車輌&機械工場の鉄鋼部門もリストに入っていた.
溶接適合実験は既に行われていたが、経験は設計者や製造者はにはまだなく,標準化も彼らにはまだできていなかった.
そのため,彼らは真剣に準備をした.
溶接工の少人数グループが,経験を積むためにドイツに渡った.
帰国後は12〜15ヶ月間,定期的に他の溶接工にトレーニングを行った.
そうすることでのみ,十分な数の,熟練した高度技能を持つ労働者を確保することが可能だった.
訓練と実験に費やしたエネルギーが報われ,1932年から1933年にかけて、高水準の品質の橋を完成させた.
また,上述の本によると,試験の荷重が「良すぎた」(橋の構造体が予想の35mmではなく21mmしかたわまなかった)ため、運輸省に認可されず、試験が繰り返されねばならなかったという.
そんなわけで落成式は1933年8月20日ではなく,9月7日に挙行された.
この橋は設計者と施工者の双方に国際的評価をもたらした.
1945年に退却するドイツ軍によって爆破されるまで、街と国道に完璧に貢献していた
さてハンガリーは再軍備を宣言し,1930年代後半からは,軍備を拡大・近代化する必要性が高まった.
それ以前,軍需生産の性格は部分的には,ベトレン政権時代にされたハンガリーとイタリアの関係によって左右された.
1926 年末まで,軍事生産は厳重な国際管理下にあった.
国際連盟の直接管理はこの年で終了し,これは軍備開発にとって,より有利な機会を提供した.
時折査察があることが想定されたが,ブダペシュトが最初の査察対象になると予想されており,ジェールは電話で警告を受けることができた.
1938 年,ハンガリーとチェコスロバキア共和国との間に武力紛争危機が生じた.
危機の拡大は回避されたが,というのも両陣営は重装備が均衡しておらず,ハンガリー軍側不利だったからである.
状況を改善するため,ダラーニ・カールマン首相が1938 年 3 月にジェールにおいて 5ヶ年軍備計画を発表.
軍の発注の増加は,自動車生産部門,および新設された航空機修理および製造部門に新たな追い風となった.
運搬能力1.5tのRába-AF系列は国防省の要件を完全に満たしていたため,同社はすぐに大型発注を軍から受けた.
1936年,色々なAF派生型製作で得られた経験に基づき,3.9mのホイールベースを備えた2.5tのラーバ「シュペル」が完成.
その1年後には4.4mのホイールベースを備えた3.5tの「シュペチアル」が完成した.
これらのシャーシは,大型フラットベッドのトラック,30~34人乗りのバス,さらには放水車,タンク車などになった.
これらは木枠の代わりに初めて溶接鋼構造を採用していた.
これは最も成功した車種となり,1951年までに約2500輌生産された.
その後,これらのタイプは徐々にラーバ=クルップRába-Kruppファミリーに取って代わり,1939年に生産は終了した.
もう一つの前進は,1937年にドイツのマシーネンファブリク・アウグスブルク・ニュルンベルク(MAN)社と接触し,4気筒および6気筒ディーゼル・エンジンとトラックを製造する権利を取得したことだった.
65hpおよび80hpの4気筒エンジンは「シュペル」や「シュペチアール」に搭載し,そして100hpの6気筒エンジンはラーバ=M.A.NのD5型トラック,および50人乗りの路面電車(1940年)に与えられた.
1939年には,ダラーニがジェールでの演説の中で,10億ペンゲーの国防準備プログラムを発表した.
優れたオフロード機能を備え,人員物資を運搬でき,砲を牽引できる軍用車輌の開発も,これに含まれていた.
試作車を準備する作業は,ジェール Győr のラーバ Rába とブダペシュト Budapestのマーヴァグ MÁVAG の2工場に委ねられた.
MVGではウィンクラー・デジェーの指揮の下「ボトンド」が,成功作である「AFI」型をベースとして誕生した.
試作車の比較試験は1938年,ハイマーシュケール Hajmáskér にて実行.
軍首脳は結局,ラーバ「ボトンド」に軍配を上げた.
MVGに加えてマーヴァグ,ヴァイス・マンフレート Weiss Manfred,ガンツ Ganz,ラーング Láng,ホッファーシュランツ Hofherr-Schrantzトラクター工場も,「ボトンド」生産計画に参画した.
最終的な組立はマーヴァグとラーバが行ったが,コンポーネントは他の機械工場が製造した.
1939年7月1日,最初の150輌の「ボトンド」SUVトラックが納車.
1940年6月30日までに全車(1402輌)が納車された.
一方,ラーバ=M.A.N. 6気筒100馬力エンジンを搭載し,「ボトンド」のの経験に基づいた,ラーバ41.M全輪駆動砲牽引車は試作車のみに終わった.
工場内の製鉄所も設備更新され,装甲板の硬化および精錬を行う工場が設立され,古い油圧プレスに取って代わった.
車輌組立部門も拡張,自動車生産部のために建物を新設し,新しい機械を設置した.
第二次世界大戦中は,「ボトンド」やその後継車両である「マロシュ」といったトラックを,MWGは生産した.
第二次大戦勃発後,MVGは公表されている貸借対照表データによれば1936年に比べ,従業員数はほぼ10倍,不動産と資産の時価評価は5倍以上,生産額はほぼ8倍,受注残高は40倍以上に増加した.
また,1940年から42年にかけ,メドヴェイ=ドゥナ橋を架橋.
これはトランスダヌビアとツァローコズを結ぶ橋であり,ドナウ川とその氾濫原に架かる,複数の部分からなるこの橋には,車道,自転車道,歩道があった.
1940~43年,自動車工場が新しく建直し.
1941年,トゥラーン戦車の生産が,シュコダT21のライセンスに基いて開始.
1941年7月1日,バルツァ・アルノルドが引退し,パッタンチューシュ・アーブラハーハム・イムレが新しい工場長に就任.
彼はそれまでリマムラーニ・サルゴタールヤーンの製鉄所の所長を務めていた.
大戦中,MVGは工場の疎開計画を作り,1944年3月,工場は設備を周辺の村に移転する許可を得た.
最初の爆撃であると同時に最も破滅的な爆撃だったのが1944年4月13日である.
大量破壊用の焼夷爆弾で,MVGと工業用水路を挟んでその向かいにあった飛行場やそこにある航空機の破壊を目指した,163機の英米のB-17爆撃機がジェールを攻撃した.
工場への空爆は12分間続き,車輌工場の建物と設備の約60~70%を破壊し,十分にシェルターが用意されていたにもかかわらず,300人が死亡した.
これを含めて大規模爆撃18回,小規模爆撃17回が,この都市を襲った.
ハンガリー国内の他の軍需工場同様――ドイツとの合意により――,ジェールの車輌工場の生産設備の一部は,近隣の村に疎開した.
(※合意というか,当時のハンガリーはドイツによる占領の下にあったから,実質はドイツによる命令なのだろうが)
また,その秋から45年春にかけ,残る機械,工具,部品在庫は西方へ避難.
労働者や技術者も多くが連れ出され,ドイツの軍需工場に配属された.
これらのドイツに奪われた資産は,戦利品同然の扱いを受けた.
1945年3月28日,車輌工場はソビエト軍の指揮下に置かれた.
そしてソ連軍の車輌を修理するようになると,その(目的の)ためにシャールヴァールから製鉄所の機械が持ち去られ,運用を開始した.
一方,ドイツ側に持ち去られた機械は,決して戻ってくることは無く,終戦となった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://t.co/Ys2W9p2xZv
https://t.co/qliGgmc65h
https://t.co/MAOCgnv6qz
https://t.co/yfPOdQ7f0O
https://t.co/jgMa9WiIVI
https://t.co/nwjMWTKnmx
https://t.co/tgKgFnqXO5
https://t.co/jXp5HLWwdv
https://t.co/4eyNH55GJY
https://togetter.com/li/1629937
※上述資料の仮訳
ラーバ「ミンデネシュ」トラクター
(図No. faq210530mn1~4,こちらより引用)
レーヴ村のコッシュート橋
A híd 1945 előtt. (képeslap)
1945年以前の橋(葉書)
(図表整理番号:faq210926hd,こちらより引用)
mixi,2021.12.4
【質問】
第二次大戦ハンガリー軍の少数民族出身兵士について教えてください.
【回答】
21世紀のハンガリーからはちょっと想像し辛いが,第一次大戦後のトリアノン条約で解体されるまでは,ハンガリーは多民族国家だった.
スロヴァキア人,クロアチア人,ルーマニア人,その他様々な少数民族がいた.
トリアノン条約によって,非マジャル人のほうが多い地域はたいていが独立したり,他国の一部になったりしたが,だからといってきれいさっぱり少数民族がいなくなったわけでは勿論ない.
加えて,ヒトラー陣営にハンガリーが与すると,ヒトラーは昔はハンガリー領だった地域を一部ハンガリーに戻してくれたので,それら地域の非マジャル人は「新興独立国家の主要民族」から「ハンガリーの少数民族」に逆戻りしたりした.
第二次大戦が始まると,大して人口が多いわけでもないハンガリーでは,当然のことのように彼ら少数民族も徴兵の対象となった.
大戦勃発直前,ハンガリー陸軍では一線級師団でさえ多くが基幹人員のみの状態だったので,大幅な増員が必要だった.
3個軍ある中で,開戦当時の装備最優秀部隊だった第2軍でさえ,20%が少数民族出身兵士となった.
これは深刻な問題をもたらした.
彼ら少数民族出身兵士の多くがハンガリー語を話すことができず,一方,マジャル人下士官には少数民族言語に精通した者など殆どいなかったので,意思疎通に齟齬を来した.
また,どこの国でも殆どそうだが,教育は主にその国の主要言語で行われることから,必然的に少数民族は教育でも不利な環境に置かれる.
よってこれら少数民族出身兵士の教育水準も低く,それは当然ながら兵器操作・戦術理解など様々な場面で悪影響を与えた.
その上,戦況も悪化の一途.
そんな環境にあって,彼らのような兵士の士気が高くなろうはずがない.
「名誉ハンガリー人」としてハンガリー軍に属して戦ったロシア人やウクライナ人,ポーランド人などの義勇兵のほうが戦意があったくらいだ.
士気の低い彼らを軍は引き締めにかかる.
すると彼らの中から脱走兵が相次いだ.
国民意識の薄い人々が,その国家のために命を張ってくれると思うほうが本来おかしいのだが,しかしそんな正論では軍が成り立たない.
そこでハンガリー軍上層部は,対策をとることにした.
彼らのとった方法は,「兵士の家族を人質に取る」というものだった.
すなわち,脱走した兵士がいれば,その兵士の家族に対して,
・従軍手当の即時停止
・拘留
・スラブ系民族出身兵士の脱走者の家族はロシアに強制送還
・財産没収
などの措置をとった.
これらは脱走防止に効果があったのか,どうなのか.
少なくとも,ブダペシュトが包囲されたころには効果が薄くなっていたことは確かだ.
政府が瓦解し始め,マジャル人兵士にさえ脱走者が増えていたからだ.
戦後,政治体制が大きく変わった東欧諸国の中にあって,彼ら少数民族「元ハンガリー軍兵士」や「元名誉ハンガリー人兵士」の運命が気になるところだが,筆者にそれを知るすべはない.
【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012)
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/01/07/_a_nemzetisegiek_most_mar_magyarok_csak_eppen_mas_nyelven_beszelnek_nemzetisegiek_a_magyar_kiralyi_h
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/01/12/_a_magyar_nyelvet_elsajatitani_sem_tudjak_nemzetisegiek_a_magyar_kiralyi_honvedsegben_ii
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/01/20/_keszen_all_arra_hogy_minden_magyar_erdeket_szabotaljon_nemzetisegiek_a_magyar_kiralyi_honvedsegben_
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/08/08/_tiszteletbeli_magyarok_ruszki_pista_az_eletmento_lengyel_huszar_es_vaszil_az_idegenlegios
mixi, 2017.1.14
【質問】
ロシアやユーゴスラビアでは,ハンガリー軍はけっこう野蛮なことを仕出かしたようですな・・.
【回答】
ですね.木々のざわめきに恐れを為して…と言う所でしょうか.
例えば,北ジーベンビュルゲンのオルドクトでは,1940年9月9日に,進駐してきたマジャル軍兵士に対して,ルーマニア人司祭が教会の塔から発砲し,4名が負傷.
それに対し,マジャル軍は歩兵部隊を投入,村とその教会を攻撃し,死者68名,負傷者195名の惨事を起こしたり,イプでは,自分が持っていた手榴弾が爆発し,マジャル軍兵士2名が死亡したのを奇襲と司令部が判断した為,9月14日に第32歩兵連隊が村の一斉手入れを敢行,死者152名.
…なにをか況やですな.
ジーベンビュルゲン=エルデイ=トランシルバニアは元々ハンガリー領だっただけに,余計に過剰な反応をしてる感じですね.
ブリヤンスクの森の南方地域では,1941年11月~43年5月まで,マジャル陸軍の三個師団が占領下に置いており,若干のドイツ軍部隊が協力していました.
しかし,不十分な武装と不足した人員では,占領地を維持することが出来ず,Partisanの活動を抑え切れないと判断したマジャル軍は,大量報復措置と「死のゾーン」設置を実施し,1942年夏までに約3万人のPartisanと,その疑いのある者を殺害しています.
ちなみに,Partisanの損害とマジャル軍損害の比率は,10:1から15:1だったようです.
これは戦後に多数のマジャル軍兵士の訴追,死刑に繋がってきますが,その責任者,ボガニ・カロリ将軍は,その責任を免れ,ソ連もその引渡要求を断念しています.
また,1943年にはUkraineのドロシチで,ユダヤ人労役従事者用の病院や,第105,107病院に放火し,入院患者の焼死なんて事もしているようです.
一方,逆にマジャル国内に戦闘が移ると,逆にルーマニアや,ユーゴ,ソ連軍の暴行の嵐が吹き荒れた訳ですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 & ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w(黄文字部分) : 軍事板,2003/12/09~12/21
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
「ヒトラーのベーコン」って何?
Mi az "Hitlerszalonna"?
【回答 válasz】
レンガの形をした,ジャムを固めたようなフルーツフレーバー.
第二次大戦中,兵士や民間人に配給され,戦後も「sütésálló lekvár(焼結ジャム)」という名で,1970~80年代までは市販されていた.
戦時中のものは,カボチャや梅やbirsalma(マルメロ)等の果物のうち,売りものにならないものや加工されたものの残りをミキサーにかけて混合.
ゼラチンや砂糖と一緒に煮詰めて,硬めのブロック状に加工した.
組成成分は様々だが,戦局が悪化するにつれて果物屑の割合が多くなっただろうことは想像に難くない.
ナチス時代のドイツにおいて,食糧問題解決のためにこれが開発された――と,ハンガリー語のweb情報には書かれている.
語源は「カイザーのベーコン」からの派生と考えられている.
オーストリア=ハンガリー時代,兵には通常のベーコンが支給されていたが,兵士たちはこれを「カイザーのベーコン」と呼んだ.
そこで第二次大戦では,皮肉な意味合いを込めてこれを「ヒトラーのベーコン」と呼ぶようになったのだという.
それでも,支給される食糧が殆どの場合ドイツ料理で,ハンガリー軍兵士からは不人気だった中,「ヒトラーのベーコン」は唯一受け入れられ,戦後,ハンガリー人社会に広まった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://foodyny.hu/1650-eml%C3%A9kszik-m%C3%A9g-a-hitlerszalonna
https://proaktivdirekt.com/magazin/cikk/tudod-mi-az-a-hitler-szalonna
https://www.nyugat.hu/cikk/eltunt_finomsagok_nyomaban
https://hu.wikipedia.org/wiki/Hitlerszalonna
https://it.m.wikipedia.org/wiki/Hitlerszalonna
https://en.wikipedia.org/wiki/Hitlerszalonna
https://fr.wikipedia.org/wiki/Hitlerszalonna
Hitlerszalonna
(図No. faq210430hs,こちらより引用)
Hitlerszalonna
(図No. faq210430hs2~3,こちらより引用)
パンに載せたHitlerszalonna
(図No. faq210430hs4~5,こちらより引用)
mixi, 2021.5.1
【質問 kérdés】
ハンガリーにおける捕虜収容所の状況は?
Milyen volt a hadifogoly tábor magyarországban?
【回答 válasz】
1942年以降,ポーランドやオーストリアにあったドイツ軍管理の捕虜収容所から脱走し,ハンガリーに逃亡するフランス人が現れ始めた.
後にはポーランド人,イギリス人,オランダ人,ベルギー人,南王国派のイタリア人捕虜が,同じようにハンガリーに逃げ込んでくるようになった.
ハンガリーはフランスには宣戦布告してはいなかったが,ドイツとの同盟国である関係上,これら流入捕虜はハンガリーからの出国は,少なくとも「公式には」許されず,バラトンボグラール
Balatonboglár にあった多国籍難民収容所に収容された.
フランス人捕虜は丁重に扱われ,監視はあったが防壁はなく,ドイツ側から抗議されるほどだったが,ハンガリー側は何も変更しなかった.
フランスの捕虜はハンガリーで働くことが認められ,起床から就寝時間までの間,収容所を自由に出入りでき,ラジオを聞くことができ,一部将校はトランシルバニアに"休暇"に出かけることができた.
それどころか,1943年7月14日(La fête nationale,バスティーユ・デイ Bastille Dayとも呼ばれる)にはフランス軍捕虜は制服を着て軍事パレードを行った.
このイベントはハンガリー在住ドイツ人を幾分からかうものだったため,政治的理由により収容所の規則はきつくなった.
後年の「シャルリー・エブド」誌の一件でもそうだが,フランス人のエスプリという代物は,悪質なバッド・ジョークになることが多い気がするのだが…
収容所からの脱走の権利は次の場合にのみ認められた.
それはその者が収容所を離れることが許されなくなった間の場合である.
約1000人のフランス人逃亡者が到着し,ハンガリーに滞在した.
その殆どは1942年から1943年の間に国に入った人々だったが,いくつかの情報源によれば,1944年4月に到着した逃亡者もいたという.
だが,ドイツによるハンガリー占領後,フランス人捕虜の運命は暗転する.
多国籍難民収容所は,厳しい規則を課される捕虜収容所となった.
そこから脱走した数人のフランス軍捕虜は,ハンガリー国内でレジスタンス・グループを結成し,1944年にパルチザンとしてドイツ軍やハンガリー軍の部隊と戦った.
1945年夏,収容所から開放された人々はフランスに帰国した.
一方,英国人捕虜はフランス人捕虜のような自由を享受できなかった.
英国とハンガリーは1941年に宣戦布告していたからである.
ドイツからハンガリーに脱出した英国兵はコマロム Komárom において「保護」され,捕虜として扱われた.
彼ら捕虜は,赤十字からの小包が何か月か遅れて到着しただの,手紙が検閲されていただのと,不当な扱いを受けていると頻繁に文句を言った.
ドイツの収容所に戻せと要求した者もいた.
確かに問題も無いわけではなかったが,彼らはドイツの捕虜収容所よりは人間的に扱われていた.
1981年には,ハンガリーに逃げ込んだフランス人捕虜についての映画 "Ideiglenes Paradicsom"( "Temporary
Paradise")が作られている.
戦後,連合国側に捕らえられたハンガリー人捕虜は,過酷な扱いを受けた.
彼らを特に酷い扱いをしたのはソ連だったが,看守から暴行を受けるなど,フランスのそれも決して人道的とは言えなかったという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/455602/en/
http://www.huszadikszazad.hu/blog/tahi-toth-gabor/nyugati-hadifogsag-a-2-vilaghaboru-utan
https://www.masodikvh.hu/erdekessegek/tortenetek-fotok/2953-hadifogsag-kozel-hatvan-ev-tavlatabol
mixi, 2017.10.2
【質問 kérdés】
ソ連に抑留されたハンガリー人捕虜は戦後どうなったのか?
Mi lett az magyar hadifoglyok, akit visszatartotta a Szovjetunió, a második Világháború után ?
【回答 válasz】
ソ連軍の捕虜となったハンガリー人捕虜は,シベリアに抑留されたドイツ人や日本人同様,酷い目に遭っている.
そもそも抑留された人数もはっきりしていない.
70万人と言われているが,ソ連の記録には65170人分しかない.
このデータは1997年になって,ようやくハンガリー国防省に正式に提供された.
このうち29168人がハンガリー側の調査により身元特定されており,オンライン・データベース化されている.
70万人の中にはハンガリー軍将兵のほか,労働者大隊に動員された等の民間人も含まれている.
彼らはソ連の刑務所や労働収容所に送られ,30万人が死亡した.
また,ソ連の軍事法廷により6万人が死刑になっている.
ちなみにハンガリーの人口は600万人.
主な死因は劣悪な環境.
生還者�の証言によれば,湿った建物,腐った食べ物,極寒,その他諸々が捕虜を苦しめた.
反ファシスト・キャンプに応募した捕虜だけが待遇改善された.
捕虜たちは賠償の代わりであるとして強制労働をさせられ,最長で1955年まで帰国できなかった.
(写真1)は帰国した捕虜たちを撮ったもの.
帰国したら帰国したで,待っているのはラーコシ体制という別の地獄であったが…
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.hadifogoly.hu/web/hadifogoly/page7
https://www.masodikvh.hu/erdekessegek/tortenetek-fotok/2446-egy-masodik-vilaghaborus-hadifogoly-elbeszelesei
http://www.origo.hu/itthon/20010622magyar.html
http://sg.hu/cikkek/it-tech/39713/adatbazis-a-masodik-vilaghaborus-hadifoglyokrol
http://magyarhirlap.hu/cikk/24328/Hadifogolysorsok_a_masodik_vilageges_vegen_es_utana ※写真1引用元
http://mult-kor.hu/20100526_magyarok_szovjet_hadifogsagban
mixi, 2017.10.4
以前,スロバキアのヤーソフに行った折に,地元在住(ハンガリー人の集落がある)ハンガリー人の老人に呼び止められて,どこから来たのか聞かれて,日本から来たと言った(同行の友人が通訳)ところ,
「昔,シベリアに抑留されていた時に,日本人に会ったよ」
と言われて驚いたことがあります.
ギシュクラ in mixi, 2017年10月04日
「シベリア抑留中に日本兵と会った」の話は,旧ソ連抑留画集に日本兵の視点で描かれてますよ.
Takaku Keijiro in twitter, 2019.8.17
【質問 kérdés】
トマ・アンドラーシュって誰?
Ki az Toma András?
【回答 válasz】
トマ・アンドラーシュ(1925~2004)は,第二次大戦中に捕虜となったハンガリー人兵士.
Toma András (1925 - 2004) magyar katona, volt hadifogoly a második Világháborúban.
1945年初頭にソ連軍の捕虜となったが,精神病院に幽閉.
2000年になってようやく解放された.
1925.12.5,ウーイフェヘールトー Újfehértó 生まれ.
4歳の時,母親と死別.
Négyéves korában elvesztette édesanyját.
1944年,ナチス・ドイツがハンガリーを占領すると,直ちに徴兵が行われ,トマもハンガリー軍の兵士となった.
北部オーストリア,アウシュヴィッツ,クラコフと転戦し,1945年初め,クラコフでソ連軍の捕虜となった.
1945.1.11,彼はサンクトペテルブルク近くのボクシトゴルスク Бокситогорск にある捕虜収容所に収監.
その後,彼は病気になったため,そこから東に1000km離れたビストリャギ Быстряги の収容所に移送された後,1947年1月,コテリニチ
Котельнич にあった病院に入院した.
ところがトマはロシア語が分からなかったため,ハンガリー語で訴えかけるも,ハンガリー語を理解できない病院関係者によって精神病患者と決めつけられ,強制的に投薬治療を受けさせられた.
しかも,捕虜収容所から病院に移されたときに,捕虜名簿からトマの記録は抹消.
これでハンガリー当局にもトマの居場所が分からなくなった.
以後,トマは精神病院に幽閉され続けていたが,1999年末,病院を訪問したスロバキア人医師が偶然トマと面会し,トマが発する言葉がハンガリー語であると判明,トマがハンガリー人であると明らかになった.
この情報がハンガリー中に知れ渡り,2000.8.1,国民的英雄として祖国に帰国した.
時の国防相サボー・ヤーノシュ Szabó János は,トマを予備役上級曹長 tartalékos főtörzsőrmester に昇進させると共に,トマは2000年まで軍役に就いていたと見なしてのその俸給および賠償金,計300万フォリントを彼に支払った.
トマの親戚であると80人余りの人が訴え出たが,トマ本人は長期に渡る投薬の影響で,自分の名前さえまともに口にすることができない状態.
そこでDNA鑑定が行われ,実の妹アンナが判明.
トマはこの妹と共に晩年を過ごした.
2004.3.30,ニーレジハーザ Nyíregyháza にて死去.
この話の怖いのは,他にもまだ帰国できていないハンガリー人捕虜がいるのではないか?と疑われるところ.
トマ・アンドラーシュ「発見」後,ソ連で姿を消した元ハンガリー兵の親戚から,数多くの手紙が Népszabadság に寄せられているという.
というか,ハンガリー人だけに限らず,似たような経緯で帰国できないでいる日本人も,もしかしたらいるのでは?
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.blikk.hu/aktualis/huga-kezet-fogva-halt-meg-toma-andras/r2jp7x2
http://www.origo.hu/itthon/20040330meghalt.html
http://www.honvedelem.hu/cikk/16017
http://www.origo.hu/itthon/20031220ujabb.html
http://www.origo.hu/itthon/20000818egyre.html
https://www.youtube.com/watch?v=3uFEwmigPo8
mixi, 2017.10.5
2022.5.29
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