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◆麺類総記
けふの料理 目次


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「結婚速報」◆(2014/01/23) 親友『ソバ屋始める!』俺「やめとけ!」→開店初日、“500年続く伝統の職人技”の看板が掲げられていた。俺「これは…」→結果

「まめ速」◆(2013/05/11) うまい味玉とチャーシューのつくりかた教えてくれ


 【質問】
 ラーメンの起源は?

 【回答】

 明治維新の後,日本が他国との貿易に積極的に乗り出す様になると,各国から貿易商人が来日します.
 彼らは元々,清国との貿易に携わっていた人々が多く,清国の事務所の出先として日本に事務所を置いた訳です.
 従って,使用人として,清国から多くの人々もやって来ました.
 彼らは,横浜を筆頭に,神戸,函館,長崎に多く住む事になります.
 清国人が多く住むという事は,彼らのために清国の食物を食べさせる食べ物屋も出来ていきます.

 1887年頃には,横浜の南京街には中国料理店は20軒あり,屋台もあり,そこでは麺専門店もありました.
 その屋台の麺の事を当時の日本人は,「南京そば」と呼んでいました.
 この「南京そば」の屋台文化を模倣する人が東京にいて,夜ごとチャルメラを吹きながら街を流して売り歩いた,と獅子文六が記しています.
 そして,東京では「南京そば」から「支那蕎麦」へと名称が変わっていました.

 作家で思い出しましたが,江戸川乱歩は1919年に結婚した当時,生活が苦しく,食い扶持を得る為に,全く経験の無い支那蕎麦の屋台を引っ張って街々を売り歩いたそうです.
 とは言え,作家が深夜の,しかも,こんな体力仕事を延々と続けられる訳も無く,半月で辞めています.
 大正時代には,既に麺や具,スープをセットにして屋台を貸し出す親方がいた訳です.

 中華料理が人口に膾炙したのは,1891年に東京上野で開催された内国勧業博覧会で,その時に会場に出来た台湾料理が安くて美味しいという評判が立ち,庶民にも知られていく様になりました.
 明治中頃には,横浜の中華料理店の有名な店として,「永梁菜館」「北京楼」「租記」などがありました.
 また,大阪にも中華料理店が出来ています.

 日露戦争後になると,満洲の戦線から帰還した人々がその地の味を忘れ難かったのか,雨後の筍の如く,大衆向けの中華料理店が出来ます.
 その中に,浅草の「來來軒」があり,1910年に支那蕎麦を売り出す事になります.

 この「來來軒」,その経営者は元々横浜の税関に勤めていた人で,退職して南京街の中国人コックを雇い,当時東京一の歓楽街であった浅草に店を開きました.
 この店は非常に繁盛し,中華料理と言えば「來來軒」と言う店名が結構長い間付けられています.

 一方,屋台の支那蕎麦がブームになるのは,江戸川乱歩が屋台を引いたより後の1923年,即ち関東大震災が起きた後の事です.
 火事で丸焼けになった焼け跡で手っ取り早く商売出来るものとして,屋台を曳き,チャルメラを吹きながら流すと言う方式で,これが瞬く間に庶民の間に広まりました.
 こちらはベースの麺にチャーシューやワンタン,そして肉のスープを入れた上,スープには日本人好みの鰹節などが加えられ,味付けは醤油で行われていたと思われます.
 また,チャーシューも従来の様な広東風の炉の中に味付けした豚肉の塊をぶら下げて焼く本格派では無く,煮込んでスープを取ってからの出涸しを更に煮込んだものであり,それを薄く切って載せ,鳴門かまぼこ,塩漬の麻竹を煮たメンマ,浅草のり,刻み葱をトッピングしたものです.
 これは現在の東京ラーメンのスタイルであり,そのルーツは南京そばにあります.

 因みに,メンマは中国語で麺碼と言い,麺の上にトッピングする具材の事です.
 原料は,台湾の特産である麻竹で,過程では塩抜きをして煮物にするのが一般的な食べ方でした.
 しかし,日本にはこの筍が珍しく,横浜の屋台で恐らくこの商売を始めようとした日本人が,中国人の主人に「これ何?」と聞いた所,主人はこれをトッピングの事と勘違いし,「メンマ」と答え,それが拡がったのでは無いかと言う説もあります.
 もう1つは,麺の上に載せる麻竹である故,「麺麻」ではないかと言う説もありますが,これは余りにもできすぎているので,本当かどうかは貴方次第です.

 では,他の地域のラーメンはどうなのか,と言うのは明日以降に徐々に.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/01 23:11
青文字:加筆改修部分

 さて,今日は札幌ラーメンの話.
 ラーメンと言う言葉は中国語から来た日本語です.
 1922年に札幌は北大前にある「竹家食堂」で誕生した言葉です.

 尤も,これには異説があって,劇作家・作家の長谷川伸は,その自叙伝的小説である『新コ半代記』と言う作品で,足繁く通った横浜の「遠芳楼」で「ラウメン」を食べたとあり,こちらを推す人もいます.
 この作品では,注文すると弁髪の太った中国人の給仕の親父が「イイコ(1個)ラウメン」と言って,調理場に注文を通したと書かれています.

 『ある市井の徒』と言う作品では,
「豚蕎麦のラウメンは五銭で細く刻んだ豚肉の煮たのと,薄く小さく切った筍が蕎麦の上にちょっぴり乗り,これがたいした旨さの上に蕎麦も汁もこの上なしです…」
と書かれています.
 とすれば,長谷川伸が食べたラウメンとは,猪肉糸麺(リュウロウスーミェン)で,親父はそれを短縮して肉麺(ロウミェン)と呼んだのではと言う推論が成り立つ訳で,そうなると,ラーメン=ラウメン説はちょっと成立しない可能性があります.

 話を北海道に戻して,北海道で中華料理が発展したのは,先ず函館です.
 1859年に下田港と同時に開港した函館港にも同様に中国人が入ってきます.
 最初の中華料理メニューを出した店は,「養和軒」と言う西洋料理店で,麺類については,1884年4月26日に函館新聞に出した広告に,5月8日から新しく出す料理の中に南京そむ(そば)15銭とあるのが記録の最初です.
 恐らく,横浜で流行っていたのを採り入れたものと思われ,広東風故,スープは鶏の清湯であり,塩味のものでした.
 因みに,広東料理は伝統的に白濁したスープを麺料理に使いません.
 現在でも「養和軒」の南京そむの系統は函館に残っていて,函館駅近くの「鳳蘭」に,鶏糸麺と言うメニューが正にその正統な後継と言われています.

 この様に,麺類が入ってきたのは函館の方が古いのですが,ラーメンと言う言葉が出て来るのは昭和の初め頃になるまで待たねばなりませんでした.

 話を札幌の「竹家食堂」に戻します.
 この食堂は元々写真館を経営していた大久昌治と言う人が,1921年,北海道大学の学生目当てに写真館を食堂に改装したのが始まりです.
 しかし,最初のコックは素人を雇い入れたため,この店に通う中国人留学生達には頗る不評だったと言います.

 このままでは店が繁盛しないと考えた大久氏は,中国人留学生に不評だった素人コックを辞めさせ,室蘭にいた商人の大道俊二と言う人の紹介で,ロシアの革命騒ぎで,同国から室蘭に大道氏を頼って亡命してきた王文彩と言う人を雇い入れました.
 王文彩は元々,ロシアのニコライエフスクに有った中華料理店で働いていたコックで,腕が立ち,当時日本人の月給が月12円だったのに対し,破格の50円を支払っていたと言います.

 王文彩が入ってから,その料理は本場の中華料理となり,メニューも多彩となった上,麺料理も作りました.
 こうして,店が軌道に乗ったため,「竹家食堂」は,1922年には「支那料理・竹家」となりました.
 最初,王文彩が作る麺料理の麺は手打ちでしたが,1923年には手動式製麺機が導入されています.
 また,当時は鹹水が入手出来なかったので,藁を焼いて作った杯で灰水を作り,それで小麦粉を練ったそうです.
 スープは老鶏と豚肉で取る清湯で味付けは塩で行いましたが,スープには他に特産の昆布も入っていたと言います.

 で,ラーメンと言う言葉の興りですが,王文彩は料理が出来上がるといつも「好了(ハオラ)」と言っていました.
 これは「良く出来たぞ」と言う意味でしたが,大久氏の奥さんであるタツさんが,そのラを取って「ラーメン」と名付けた所,客に大受けしたのが始まりと言います.
 王文彩は5年足らずでこの店を去りますが,後任の李広業は,北大で教授をしていた近豊教授のアドバイスで,料理を王流の油っぽい味付けから日本人好みに変更し,ラーメンの味付けも醤油に変えました.
 そのラーメンは昭和の初めには札幌の地で爆発的なブームとなり,出前は凄い数はけ,札幌市内では喫茶店にまでラーメンが置かれ,その文化は函館にも伝わった訳です.

 ところで,従来の日本の麺類と新しいラーメンが異なるのは,その食べ方にあります.
 従来の饂飩や素麺,蕎麦切りは茹でて冷し洗ってから再び湯引きして,温めてからだし汁を掛けます.
 これに対し,ラーメンは単純に書くと鹹水入りの切り麺を茹で,肉のスープに浮かべたものとなります.
 手間が全く異なり,ラーメンは簡単な分,瞬く間に日本人の食卓を浸食していきます.

 では,拉麺とラーメンの違いは何か.
 拉麺は中国語の逐語訳が「手で伸ばす麺」です.
 その拉麺には2系統あります.
 1つは鹹水や灰水で練った麺体に植物油を塗って一人前ずつ手延べするもので,これは蘭州式です.
 もう1つは油を塗らない拉麺で,別名を?麺と言い,大量に麺条を振りながら手延べするもので,これは山東式です.
 日本のラーメンは麺体に澱粉を振り,麺棒で薄く押し広め,或いは竹竿に腰を掛けて伸ばして庖丁切りするか,機械で圧延して機械で切出した麺です.
 つまり,中国の拉麺は終始手延べであるのに対し,日本のラーメンは機械打ちか手打ちの切り麺である訳です.

 話が大分逸れましたが,札幌ラーメンと言えば今は味噌ラーメンですが,大元は先述の「ラーメン」でした.
 札幌の古い店と言えば「龍鳳」で,此処では昔風に鶏ガラ,豚骨,北海道特産の昆布をベースとしたスープで,麺は自家製,スープの味は醤油仕立てで,トッピングは煮豚,麻竹の煮物,海苔,葱と東京の支那蕎麦スタイルです.

 因みに,従来からの札幌ラーメンのスープと言えば,鶏ガラ7,豚骨3で,醤油味で仕上げていたと言いますが,具は「龍鳳」の具にゆで卵が加わったのがオリジナルでしたが,現在では九州の薩摩型の影響を強く受けてしまい,白濁し,脂がぎらぎらと分厚く浮いているのが良しとされてしまっています.

 味噌ラーメンの誕生は実は更に遅いもので,「味の三平」が最初です.
 「味の三平」の創業は1948年ですから,「龍鳳」より2年遅れています.
 その開店当時は豚汁も売っていました.
 その頃の店の常連さんが,その豚汁に麺を入れてくれと言ってきました.
 当時の店主である大宮守一氏が直感で,これは売れるのでは無いかと思い,色々と試行錯誤したのが味噌ラーメンとなりました.
 因みに,茹でモヤシを具にしたのも,麺をクチナシの染料で黄色く染めたのも大宮氏のアイデアです.

 旭川も戦後派で,「青葉」が先駆けです.
 この店は「龍鳳」とほぼ同じで,鶏ガラ,鰹節,昆布が主体のスープで,どちらかと言えば鰹節の香りと味が先に立ちます.
 こちらは好みで醤油味や塩味に仕上げてくれます.
 味噌ラーメン用は,鰹節と昆布が省かれ,鶏ガラスープのみです.
 これは味噌が醤油に比べてアミノ酸が高い為です.

 他に北海道で有名なのが「蜂屋」.
 これは名前の通り,元々は蜂蜜入りのアイスクリームを売っていた店でした.
 しかし,1948年暮れにラーメン屋に切り替えます.
 このラーメン屋の特徴はスープで,白濁しているものの脂は余り浮いていません.
 煮干しと豚骨を半々に合わせているのですが,煮干しの魚は,雑魚ですが鯛を焼いて干したものを使っていたり,その他に鰺や河豚も使っているそうです.
 これを身も骨も崩れる程煮込んでから漉す為に,白濁しているそうです.
 麺は自家製麺で卵白と鹹水を加えて作り,茹で時間が短いので,ツルツルでなくコリコリします.

 等と書いているとラーメンが食べたくなってきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/02 23:26

 さて,「ラーメン」と言う単語を日本全体に知らしめたのは,『暮らしの手帖』の名編集長として名を馳せていた花森安治氏と,日清食品の経営者である安藤百福氏です.

 花森安治は,1953年1月17日発行の『週刊朝日』のコラムに,札幌ラーメンの話を書きました.
 その時は余り反響がなかったのですが,1954年1月17日発行の『週刊朝日』に再び「札幌・ラーメンの町」と言うコラムを書きます.
 この記事が爆発的な反響を呼び,一躍札幌ラーメンが有名になりました.

 因みに,札幌にはすすきので酒を飲んで酔っ払った客が,酒で渇いた喉を潤すためとして,1951年に公楽ラーメン名店街(札幌ラーメン横丁)が誕生しています.
 その後,飛行機で札幌にラーメンを食べに行くなどのブームを巻き起こしました.

 一方の安藤百福は,言わずと知れた即席麺の開発者の1人です.
 1958年に出た「チキンラーメン」は,お湯を注いで3分で食べられる手軽な食品として発売されました.
 当初は余り売れませんでしたが,折からのテレビ時代の突入期で,民放にチキンラーメンのコマーシャルを流して宣伝した事で憂始めました.
 当時は,素うどん10円なのにチキンラーめんは35円でしたから,高級食品だった訳です.
 その後も,各社が続々と即席ラーメンを発売して同様にコマーシャルを通じて宣伝を行ったので,「ラーメン」と言う言葉は一部の人々だけのものでは無くなり,日本全体に広まっていきました.
 こうして,「中華そば」「支那蕎麦」と言った単語は,日本から消えていきました.
 その後,1972年にはカップヌードルが発売されて,更に手軽さに拍車を掛け,現在に至ります.

 現在,インスタントラーメンは世界34カ国で生産され,2008年夏には1,000億食が消費され,また最近では宇宙食としてもインスタントラーメンが使われています.
 今後,更なる消費の拡大で,アジアのみならずアフリカの需要も増すと予想されており,将来的には4,000億食に達すると目されています.

 因みに,このインスタントラーメンが日本だけでなく,世界の標準食に育ったのは,
・原料が世界で最も消費が多い小麦である事,
・スープには宗教的に最もタブーが少ない鶏ガラを用いている事,
・世界の人々が好む,油で揚げている事
の3点だそうです.

 日本に於いても,
・饂飩や蕎麦切りに比べると歴史が浅く,伝統的な王道が無いので,作り手は自由な発想でラーメンを提供する事が出来るので,ご当地ラーメンとかその店独自のラーメンが生まれやすい事,
・蕎麦切りや饂飩よりボリューミーで価格が安い事,
・油脂や肉類の味に親しんで育った若者層に受けている事,
・若者は高カロリーな食品を求める傾向にある事
の4点が挙げられ,前2者に比べると非常に消費量が多いと言う結果となっています.

 脱線ついでに,サザエさんで中華そばが初めて取り上げられるのは,そろそろ配給生活に終わりが見えてきた1950年の事です.
 中華そばがラーメンと変わるのは1961年,チキンラーメンが出て来るのは,その価格が安くなって大衆にも手に入る様になってきた1965年です.
 サザエさんのポリシーとして,一般庶民の代表と言う形だからか,何でも大衆の手に入る状態になるまで絶対に買わない傾向があり,チキンラーメンも例外ではありません.
 この1965年を境に,堰を切ったようにインスタントラーメンが登場し始める訳です.
 一般サラリーマンの代表格であったマスオさんも,1970年から71年にかけての外食メニューは,月曜は蕎麦,火曜は饂飩,水曜ラーメン,木曜におにぎり,金曜がラーメンと週2回登場しており,一般のサラリーマンの外食メニューでもラーメンが一般化した事を示しています.
 この1970年頃と言う年は,ラーメンの消費量が饂飩や蕎麦切りを抜いた頃です.

 でもって,更に脱線.

 ワンタンメンのワンタンは,雲呑と漢字を当てますが,中国では飩と書き,肉餡を包んで茹でた水餃子の仲間でスープに浮かせて食べる単品の食べ物でした.
 南の広東にこの料理が伝わると,何故か主食に近い?飩を1つの丼鉢の中に麺と一緒にしてしまいました.
 華北の人から見れば十分邪道です.
 これに加えて,更にトッピングをします.
 このトッピングが叉焼であり,正式には明炉叉焼と言います.
 明炉叉焼は,棒状に切った豚腿肉や肩ロース肉を,醤油や砂糖,豆から作った麺鼓醤,酒,香辛料を合わせたタレに漬けて味を含ませ,これを叉環と呼ぶ掛け鉤に刺して吊し,ドラム缶で作った特殊な炉の中で焼いたものです.

 この明炉叉焼は,神戸や横浜の中華街に行かないと売ってませんし,その料理もその辺りの専門店に行かねば食べる事が出来ません.
 昔,神戸に住んでいた頃は,時々中華街まで足を伸ばして買ってきていましたっけ…(じゅるり.

では,日本では,ラーメンと共に何故チャーシューはチャーシューと片仮名で書くのか.
ラーメン屋のチャーシューとは,製法からして違い,実は茹で豚です.
つまり,スープを取った後の出し殻の豚肉を煮た物な訳で(まぁ,時にはそれもしない店もありますが),本当のチャーシュー,叉焼とは全く異なります.
なので,チャーシューと言うそうです.

いや,日本語って深いですねぇ.

●=「食昆」

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/06 23:46
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 拉麺の起源は?

 【回答】

 拉麺という食物は中国で生まれました.
 その歴史は明代に山東省で始まったと言います.

 山東式は,中国国内で栽培される主な小麦から作られ,餃子やワンタン,饅頭の皮ともなる準強力粉を用い,鹹水入りの水で練って,手だけを使って比例級数的に細く長く手延べした麺で,1度に15人前位作ります.
 これを作るのには,小麦粉約2.5kgを基準としているそうです.
 また,この拉麺は油を塗らず,打ち粉には同じ粉を用います.

 この拉麺が山東省から山西省を経て,黄河流域の蘭州には約250年程前に伝わりました.
 蘭州の住民は元々が遊牧民であり,且つ又シルクロードの隊商に加わっていたイスラームであるトルコ系のウイグル族です.
 この地で,山東式の拉麺は,1人前ずつ手延べする蘭州式拉麺へと変容しました.

 これは,積積草と言う蓬科の植物を燃やして作る蓬灰を入れた水を煮てアルカリ水を作り,それを小麦粉に加えて練り,1人前ずつに小分けします.
 それを棒状にして油を塗って保管し,注文が入ると即,両手を使って細い麺に仕立てて茹でるもので,1人前1分と掛らない早業です.
 スープは牛肉の骨から取った物で,日本の様に豚は使いません.
 勿論,イスラームですから豚を忌み嫌うためです.

 蘭州から烏魯木斉に伝わり,ラグマンと名前を変えます.
 ラグは引っ張る,マンは麺の事で,引張り麺と言う訳です.

 この地では様々な伸ばし方があります.
 その1つは油を塗った長さ70~80cmほどの紐状の麺を何本も作り,それを両端束ねて持ちます.
 引っ張っては片手に掛けて折り曲げ,この作業を幾度か繰返した後一気に引き延ばすと言うもの.
 他に,1人がある程度伸ばした麺条を,別の人が親指と人差し指で揉みながら右に引張り,それを隣の人が綾取りする様に両手に掛け,ラーラーラーッと引っ張る方法もあります.
 更に,油を塗って細い紐状にした麺を2,3本左腕に輪になるように掛け,その輪に右腕を入れて,両腕を挙げて左右に拡げて細く伸ばす等の方法もあります.

 変わったものとしては,麺体をドーナツ型にして手揉みしながら細く伸ばす剪子と言う麺があり,これを油で揚げれば,撒子と呼ぶお菓子になり,砂糖を塗して食べるものになったりします.

 山東省式が西に流れて,大量生産方式の日本のラーメンになった訳ですが,これが伝わったのが大正末期から昭和の初めにかけてです.

 一方,その麺が南に伝わって福建省に行きます.
 福建では固木を燃やして灰を作り,その灰を水に溶かして灰水にします.
 この灰水を使って小麦粉を練り,麺にすると,杠麺と言うものになります.
 現在は灰水を使う事は少なく,鹹水を使っています.
 また,手打ちでは無く製麺機で作ります.

 現在では,小麦粉に鹹水を加えて練り,これに澱粉をふりながら,ローラーで帯状にして機械切りにし,切った麺を固めに茹でた後,少し冷まして油を塗し,広い板の上に拡げ,扇風機で風を当てて表面を乾かす方式で作ります.
 こうすることで,麺の中心部はアルデンテに近い状態となり,亜熱帯でも1日は腐敗せずに保つようになります.
 生麺だと麺が伸びてしまい保存が利かない訳です.
 尤も,最近では冷蔵庫が普及してこの地域でも生麺が売られていますが.

 こうして,杠麺を茹でて油化粧したものを「冷麺和油麺」と言いこれを略して油麺と言います.
 また,完全に茹でない半生に近いものは「半生熟麺」と呼び,幅の狭いものが幼麺,ひろいもの,棊子麺に近いものを粗麺と言います.

 この麺は福建だけでなく,厦門や泉州にも同様のものがあります.
 広州では一度蒸し,水洗して水分を含ませ,再び蒸してから油を塗す事で出来上がりは茶色となります.
 この手の麺は,日本に伝わると主に関東地方で焼きそばの麺として用いられました.

 もう1つ,福建の杠麺の内,粗麺が海の道を伝わって,明治中期に沖縄に伝わります.
 この地では,ガジュマルの木や砂糖黍粕を灰にして灰水を作りました.
 現在の沖縄すばの多くは鹹水を用いていますが,一部,灰水で小麦粉を固く練って手打ちする店も残っています.
 灰水を使うと,麺の腰を強くしたり,保存性が強くなったりします.
 元々,沖縄ではこのうちの粗麺を沖縄で単に「すば」と呼んでいました.
 しかし,本州の蕎麦粉で作る蕎麦切りと区別する様に警察から指導があり,1918~1919年頃からこの種の麺を琉球すばと呼ぶようになっています.

 琉球すばは,粗麺を用い,鰹節と豚のスープを混合して使用するのが特徴です.
 因みに現在,沖縄名物となっているソーキすばは,名護市で昭和30年代に生まれたものであり,琉球すばとは少し違うものだったりします.
 これも,札幌の味噌ラーメンと同じく戦後派な訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/03 23:14
青文字:加筆改修部分

 沖縄の沖縄すばと同様に,福建省から齎されたのが,長崎のチャンポンと長崎皿うどんです.
 チャンポンは1899年に長崎で陳平順が開店した「四海楼」で誕生しました.
 この店は今もあり,正式には什錦湯麺と書かれています.
 元々,陳平順氏が日本に留学に来ていた中国人留学生に,何とか安価で栄養たっぷり,そして一鉢でお腹一杯になる麺料理をと考案したのがチャンポンでした.
 この為,厦門の同種のものと比べて,具だくさんなのが特徴です.
 日本のチャンポンには,豚肉あり,貝あり(因みに馬刀貝が入ると福建風ですし,中には小粒の牡蠣も入る場合があります),蒲鉾あり,キャベツ,モヤシ,人参,椎茸,キクラゲ,葱とまぁ盛り沢山です.
 スープは肉系で,具は油で炒めてあるので栄養満点と来ています.
 現在では,麺は生麺を使う店もありますが,元々は油麺の幼麺ですし,大多数の店はこれを用いています.

 チャンポンの由来ですが,留学生達はこの什錦湯麺を指して「吃飯」と言っていました.
 福建の発音では「吃飯」はチャポンとなります.
 元々,「吃飯」の意味は北京語ではチーファン,つまり「飯食うか」と言う言葉だったのですが,留学生達が「四海楼」に来て,この麺を「吃飯」と呼んでいたので,什錦湯麺の事を「チャンポンと呼ぶのだ」と誤解し,日本語でこの麺の事を何時の間にかチャンポンと呼ぶようになったと言われています.
 因みに,ウィスキーとビールとか日本酒とウィスキーなど複数種類の酒を混ぜて飲むのもチャンポンと言いますが,こちらはインドネシア語の「チャンプル」を混同した結果だそうです.

 長崎と言えばもう1つ,長崎皿うどんがあります.
 これは明らかに麺線もしくは手工細麺,つまり中国風素麺を炒めた厦門風の炒線麺の事です.
 因みに,厦門風炒線麺は,素麺を油の中に入れ,枯松葉色になって浮き上がると,それを即座に掬って沸騰したお湯に入れます.
 1分茹でると直ぐに調理台にすくい上げ,扇風機の風を当てて冷まして作ります.
 そして,豚肉や刻んだ干し海老,野菜を炒め,スープを少量入れて味付け,その中に揚げて茹でた素麺を加えて和える訳です.
 この揚げて茹で,扇風機で冷ますという工程は,完全にノンフライ麺以外ののインスタントラーメンの工程そのものだったりします.
 揚げる事で蒸し麺内部の水が沸騰し,麺線は多孔質になると共に,瞬時に乾燥するので,後で熱湯を掛けるとその孔に入り込んで麺が戻り,かつ,芳ばしいロースト臭がすると言う訳です.

 余談ですが,昔のラーメンは店で食べる以外は,出前に持って来させると言うのが定番でした.
 従って,調理から時間が経っているため,ラーメンに限らず,饂飩にしても蕎麦にしても食べる際にはかなり柔らかいものでした.
 消費者の舌もそれに慣れていたため,今のようなスパゲッティのal denteなんかを出そうものなら,生煮えだと突っ返したかも知れません.
 更に脱線すると,現在の日本のイタリア料理店ではリゾットはお粥と同じ柔らかな食感ですが,本場のイタリア料理でのリゾットは,米の芯を残して調理する所謂al dente状態だそうです.

 話を戻して,ラーメンの亜種である冷し中華の話.
 中華麺を茹でて冷し,酢で食べる料理は既に大正頃には冷麺として料理本に掲載されていました.
 しかし,冷し中華はぐっと時代が下がって1937年の事.
 生まれたのは仙台で,当時,仙台に数多くあった中華料理店では「中華料理組合」が結成されていました.
 その頃,各店共通の悩みと言えば,冬は温かい料理を出すから良いとしても,夏になると冷房設備など無い時代,熱い料理を敬遠する客が多く,夏の売上が激減する事でした.
 そこで,夏でも売れる中華料理はないだろうかと組合員の中から意見が出て,それぞれの店で試行錯誤する事になります.

 当時仙台で1931年創業の中華料理店「龍亭」の初代で,中国料理組合の組合長をしていた四倉義雄という人が,上海の冷麺をモデルに,茹でて冷した中華麺の上に茹でたキャベツと塩揉みした胡瓜,トマト,本物の叉焼をトッピングして酢をベースにしたソースを掛けて和える食べ物として作り上げたのが冷し中華です.
 当時は冷し中華とは言わず,涼拌麺と呼んでいたそうです.
 この涼拌麺,湯麺が10銭の頃に25銭で売り出されましたが,人気となり,間もなく他店でも出すようになりました.
 しかし,戦時下の物資不足が深刻になり,一時中断して1949年に漸く再開し,その後も各店が様々な工夫を凝らした冷し中華を出して,現在では仙台の名物となっています.

 仙台より北にあるのが盛岡です.
 盛岡では中華麺では無く,冷麺の街です.
 冷麺は朝鮮半島で生まれた蕎麦粉の押出し麺です.
 元々は緑豆澱粉を2~4割の割合で蕎麦粉に混ぜ合わせ,熱湯で練ったものを小さな穴を空けた押し出し機に入れ,圧力を掛けて沸騰湯に押し出して茹で,それを冷やし洗って冷たい肉汁で食べるものです.

 ルーツは唐代の粉絲に行き着きますが,盛岡の冷麺は,蕎麦粉を使わずに小麦粉を使って作ります.
 為に蕎麦粉を主原料とする冷麺より白くクリーム色をしています.
 最初にこれを売り出したのは,「食堂園」と言う店で,1953年の事.
 今では,盛岡のご当地麺として有名で,大抵の人は焼肉の後,この冷たい押し出し麺を啜るとか.

 もう一つ,盛岡と言えばのご当地麺は,じゃじゃ麺です.
 こちらは中国がルーツで,漢字を当てると炸醤麺です.
 北京料理のそれは,豚肉を細かく叩き切りにして多めの油で炒め,味噌とかその他の調味料で味を付けて肉味噌を作り,茹でて冷ました,或いは熱い麺にその肉味噌を熱いまま掛け,大蒜を囓りながら和えて食べると言うもの.
 大蒜を囓るのは,水あたりを防ぐ為だそうです.

 一方,盛岡のものは,炸醤に肉が余り入っておらず,ほぼ油味噌です.
 茹で立ての平たい饂飩にマッチの軸位に切った胡瓜をトッピングし,炸醤を頂に置き,おろし大蒜と紅生姜,場合によっては練り辛子を添え,酢とラー油を垂らして,和えて食べます.
 食べた後も,じゃじゃ麺を盛っていた龍や鳳凰を描いた深皿に卵を割り入れ,熱々の饂飩の茹で湯を注ぎ,刻み葱を散らして,炸醤で味を付けて飲むのが盛岡特有だそうな.

 今,B級グルメで盛んに様々な食べ物を作っていますが,果たしてこうした中から残るのはどんな食べ物なのでしょうか.
 そう言えば,うちの旧Communityにも「ソース焼きうどん」と言うB級グルメが有ったのですが,植民地になってからはとんと見かけなくなりましたねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/04 22:47


 【質問】
 インスタントラーメンを発明したのは,皇后陛下のお父様って本当ですか?

 【回答】
 美智子皇后の父親,正田英三郎は,日清製粉グループ本社の創業者・正田貞一郎の三男.
 だが,
日清製粉(正田家がオーナー)と,インスタント・ラーメンの日清食品(安藤家がオーナー)は,全く別の会社だよ.
 正田家のほうは明治からある企業.
 今よりずっと大きい会社だった.
 それにあやかって,昭和30年代にインスタント・ラーメンを開発した華僑の安藤百福氏が,日清食品という会社をつくった.
 誤解によるイメージアップも狙ったのかは 分からないが,そう誤解したまま,有難がって食べていた爺婆が居たことは確かだ.

日本史板,2003/02/06
青文字:加筆改修部分


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