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◆和食
けふの料理 目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「Togetter」◆(2015/08/27) S.Shiikuさんによるアイヌ料理チタタプの実況まとめ

「朝目新聞」(2013/03/12)●豆腐の「きぬ」と「もめん」って何が違うの?

「朝目新聞」(2013/03/12)●伏見稲荷大社の名物はスズメの丸焼き:デイリーポータルZ

「哲学ニュースnwk」◆(2013/04/03) 郷土料理ってうまいのか?

「まめ速」◆(2012/04/15)お茶漬け大好きな奴だけ来い!

『オムライスの秘密 メロンパンの謎 人気メニュー誕生ものがたり』(澁川祐子著,新潮文庫,2017)

 文字通り,外国の料理だと思っていた料理が,実は日本で誕生したり,発展したものだったという,目から鱗の料理史エッセイです.
 テーマが意表を突くもので,面白そうだと思って買ってみたのですが,まぁそれなりに面白かった.

 しかし,のめり込むほどに面白かったのかと言えば,そうではありません.
 その料理の成り立ちを調べるのに,オーラルヒストリーを極力排し,文献に当たると言う姿勢が貫かれていて,それはそれで1つのアプローチ方法だと思います.

 ただ,それには違和感があります.
 基本的にこうした文献は,インテリ階層が書くものが殆どであって,市井の人達がそうした書き物を残すことはありません.
 なので,それを基に食の歴史を紐解こうとすると,逆にそれは不正確なのでは無いかと思ったりする訳で.
 特に下賤の人達が食べる様なものについては,歪んで伝わったものが文献に掲載され,それが独り歩きすることは無いのだろうか,と.
 それが違和感になっている様に思えます.

 また,そうした文献は総じて東京にしか残っていないもの.
 例えば地方で出版されたものは,余程の僥倖が無い限り残っていないのでは無いでしょうか.
 地方で作られた食べ物でも,東京の文献で取り上げられると,完全に東京発祥のものになってしまいそうな気がします.

 事実,この本で取り上げられているものとしては,地方で作られた食べ物として幾つかありますが,それも東京で作られたものと地方で作られたものが併存しているという立場だし,お好み焼きだって,大阪で作られていた一銭洋食よりも前に東京で作られたものが伝播したと言う,些か乱暴な論旨になっていたりします.

 大阪でも様々なものが作られていると思いますし,開港場として西洋文物が入ってくる長崎だとか,江戸末期に開港された神戸や横浜,函館で発祥したものもあるかも知れません.
 発祥したものが伝播する過程があると思うのですが.

 テーマは面白いのですが,少し掘り下げが足りないのが残念です.
 それこそ,カレーで1冊本が書けるくらいなのですから,僅か10数ページのエッセイでは表層的な掘り下げしか出来ないのは然もありなんですわな.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2017/11/10

『今夜もひとり居酒屋』(池内紀著,中公新書,2011.6)

 ここ数年で読んだ本の中で,べらぼうに面白かった.
 ドイツ文学者の中央公論連載.
 おでん食べたい.

――――――軍事板,2011/07/01(金)

『日本の食はどう変わってきたか 神の食事から魚肉ソーセージまで』(原田信男著,角川学芸出版,2013.4)

『読みなおす日本史 料理の起源』(中尾佐助著,吉川弘文館,2012/10/15)


 【質問】
 「安土盛り」って実在したの?

 【回答】
「この物語は,フィクションにて候」

 ただし再現は可能らしい.
 要はフルーツ・ヨーグルトとのこと.
 下記リンク先を参照.

「へうげもの」の「安土盛り」

その再現
こちらより引用)


 【質問】
 織田信長は,どんな料理を作っていたの?

 【回答】
 以下参照.


 【質問】
 『鬼平犯科帳』に出てくる料理を教えてください.

 【回答】
 以下参照.


 【質問】
 皇室の食事はどんなもの?

 【回答】

 皇室における日常の食生活って,割と質素.

 「天皇陛下の食卓(タイトルうろ覚え)」というグラビア料理本があり,天皇家の日常食から宴席のメニューまでが再現してあった.
 献立は意外に質素だった.
 秋刀魚のフライとか食べてるし.
 先帝陛下は御幼少時より,サンマが好物だったというのは聞いたことがある.

 材料は御料牧場などからの一流品だろうが.
 知り合いの女の子が,陛下が食べる果物を作っている農家で,その果物を食べたことがあるらしいが,めちゃくちゃ旨かったそうだ.

 ただ,陛下は気にしなくても,周囲の官が五月蝿い.

 たとえば,伊勢の名物「赤福餅」は,餅を餡で包むのだが,女性が素手で行う.
 行幸の際に献上する事になったが,素手で握った物などもっての外と,手袋の着用を命じられた.
(結局は入念に手を洗う事を条件に,素手で作業する事が出来たのだが)

 で,たいそう赤福餅がお気に召した陛下は,帰りの電車に乗る前に侍従に命じて,駅の売店で買い求め,車中で召し上がられた(笑

 また,「天皇の料理番」では,行幸先の自治体がサンドイッチを手袋つけて作らせて,大膳に怒られる下りがある.

 先帝陛下が納豆を御所望された際には,「陛下に糸を引くものなどお出しできない」という事で,洗って(!)豆だけを出したそうだ.
 以後,陛下は納豆をリクエストされることはなかったとか.
(そりゃそーだろーなー)
 「目黒の秋刀魚」を連想させるエピソード.
 官僚の発想は,時代が変わっても改まらない!

軍事板,2004/10/08~10/10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
>油揚げの納豆詰め

 気になる.
 レシピ,プリーズ.

 【回答】
 刻みネギを入れた納豆をチーズと一緒に(チーズはなくても可),稲荷寿司の要領で袋状に開いた油揚げに詰める.
 油をひかないフライパンで,表面がカリッとするまで焼いて出来上がり.

 納豆を詰めた油揚げは,口を楊枝で止めないと,焼いてるときに中身が出るので注意.

 昨日は醤油つけて食べたけど,オカンは,つゆをつけて食べた方が美味しいねと言ってた.
 自分は最初に,納豆に醤油か塩を混ぜてから詰めた方が美味いと思った.

漫画板,2011/07/18(月)


 【質問】
 「洗い」の作り方を3行以上で教えてください.

 【回答】
 まず,白身魚,中でも鱸(すずき)や鯉,鮒といった川魚のように「クセのあるもの」,「脂の強いもの」に適していますので,それを用意します.
 そして,白身を削ぎ作りにして,いわゆる「死後硬直」により魚の筋繊維が結合して筋肉が硬くなるようにします.
 次に,せっかく引き締まった白身が,アデノシン三リン酸 adenosine triphosphate / Adenozin-trifoszfát C10H16N5O13P3という酵素の働き(高エネルギー燐酸結合)によって柔らかくなることを防ぐため,白身をボールに移して流水または温水で酵素を洗い流します.
 身が締まって硬くなったところを手で感じ,目で見て確認をし,温水で洗った場合は流水でよく冷やし,水気を拭いて氷の上に盛ります.
 氷を使うのも,冷やすことで酵素の作用を抑え,活きの良さを長持ちさせるためです.
 最後に「食通の人」に叱られて完成です.

 【参考ページ】
http://temaeitamae.jp/top/t5/bb/sashimi.1001.html
https://zexy-kitchen.net/columns/413
http://www.narukokoi.com/arai-setumei.html
https://tsukijistyle.co.jp/?action=DocInc&doc_type=print&page=rpf_0300-51_01

アデノシン三リン酸
(wikipediaより)

mixi, 2016.12.30


 【質問】
 もう鰻食われへんのん?
 ちょっと硬めに炊いた白飯と,タレかけた鰻を,いっしょくたにかっ込めなくなるのか・・?
 スーパーのでもいいから食いたくなってきた.

 【回答】
 さんまの蒲焼食え,さんまの蒲焼.
 どうせおめえらうなぎとさんまの違いなんてわかんねーだろうからよォ!という,スーパーの中の人の黒い接客スマイル.
 値切るな,値札の価格で買え.
 試食食ったら買え,手前らのおやつじゃねえんだ.
 とくに親子連れ,ジャージ着てるような定職層,お前ら買う気ねーんなら帰れ.
 安いもんくいたいなら残飯でも食ってろボケ.
 あああああ,汚い手で俺の商品にさわるんじゃねええええええええええええ
 触ったら買ってけボケェ!マナーだボケェ!
 SAN値ガリガリ削りながら接客業,タノシイゾ

 うつぼもメッチャ美味しいっすよ.
 歯ごたえとコクがあって,脂分やや控えめな鰻系.
 どこだったか地元の知り合いに連れて行ってもらった.
 国道から一本か二本入った所の居酒屋のが最高だった.
 行きたいけど忙しくていけない.


341 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/04/30(火) 13:12:14.88 ID:5UOBrl230

 ウナギ…,「ブリキの太鼓」の冒頭シーンの海辺で,死体の馬の首が打ち上げられてて,ひっくり返したらウナギが大量に出てきた描写が有ったけど,俺の「ウナギ一番の御馳走」の気持ちは,これっぱかしも揺るがなかった.

漫画板,2013/04/29(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 かき揚げの簡単で失敗の無い作り方を教えてください.

 【回答】
 冷蔵庫のくず野菜や味出しの竹輪等を,てきとーにそれらしく切る(玉ねぎ・さつまいも・茄子等)
 素材をボウルに入れ,先に市販の天ぷら粉をやや控え目に入れて軽くまぶす.
 後から水を少しずつ加えて混ぜ,まぁまとまる程度の粘度に.
 水で湿したしゃもじの上に載せ,へら等で油に落とす(お玉はタネが落ちにくいので×)
 途中天地を返しながら揚げ,泡が急に気配を小さくしたら揚がってます.
 引き上げる時に上下に大きく振り切って,しっかりと油を切りきる.
(熱いうちじゃないと,油が切れないので重要)

 かき揚げは先に粉まぶせるから,普通の天物よりも簡単なんです.


875 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/03/13(水) 20:35:05.45 ID:RV22GL4hO

 うどん屋の賄いでおもしろ魔改造料理を楽しんでいたら,「ムースかき揚げ」というでかいヒット商品を生んでしまった事がある.
 賽の目に切ったはんぺんを混ぜただけなんだが,カリふわでお客さんに感心された.
 茄子を拍子木に切って入れるのも,香ってとても旨い.

漫画板,2013/03/13(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 鰹のタタキの始まりについて教えてください.

 【回答】
 鰹のタタキは,地元民が時々食中毒起こすっつって山内一豊という殿様が,「鰹の生食禁止令」を出したせいで,鰹の刺身が食えなくなったんで,表面を炙って
「ほらほら~,焼いてるから生じゃありませんよ~」
つって食い始めたって,最近やってた,TVのけんみんしょーで高知の紹介の時に言ってたよ.
 土佐の殿様がカツオ生食禁じたのは,寄生虫が理由.
 鰹の寄生虫は皮下にいるから,表面だけ強火で焼くタタキは合理的なりよ.

 もっとも他にも,漁師のまかない料理から発達した説や,鰹節を作るときに残った部分を,クシ焼きにしたのが始まりとする説などもある.

 一部の年寄りは,
「寄生虫のいない鰹はいまいち.
 旨くて鮮度が良いから寄生虫もいる」
って喜んだりする.

「カツオの寄生虫は害ないから,そのままくっちまえばいい」
って漁師さんは言ってた.
 事実,カツオには筋肉,血栓部分に,カツオ糸状虫が寄生するが,人間には寄生しない.

漫画板,2013/05/27(月)
青文字:加筆改修部分


◆◆肉類


 【質問】
 鳥団子鍋の作り方を教えてください.

 【回答】
 以下参照.


 【質問】
 焼き鳥の近代史を教えられたし.

 【回答】
 庶民階級の憩いと言えば,一杯飲屋でのコップ酒です.
 冷やのコップ酒を片手に,つまみを適当に見繕って食べるのは得も知れぬ幸福な一時.
 その中でも一番食欲をそそるのは,焼鳥ではないでしょうか.

 焼鳥と言えば鶏肉を串焼きにしたものを指す事が多かったりしますし,現代の我々の常識では,鶏肉を用いた焼物であると言う認識です.

 元々,江戸時代からスズメやウズラと言った小鳥の串焼きをメインに売る店がありました.
 現在でも,ちょっと高級な焼き鳥屋さんだったら,スズメとかが出て来ます.
 そう言えば,子供の頃,親に連れて行って貰った梅田の焼き鳥屋で,初めてスズメなる物を食べた事がありました.
 その時は,食べる所が無いくらい筋張っていて,未だ噛む力が未発達のお子様にとっては,非常に敷居の高い食べ物で,それ以来,スズメは食べた事がありません.

 明治になると,シャモ鍋などの鶏料理を提供する鳥屋が出現します.
 この鳥屋は料亭的なもので格式が高く,大店の人が食事に行くと,番頭さんは牛肉料理で,主人は鶏料理と言うケースがままあったそうです.
 現在では全く逆で,ランプとかサーロインと言った牛肉料理の方が高級で,鶏料理は寧ろ庶民階級のものになっています.
 この逆転がどうして起きたかと言えば,1961年以降に米国から導入されたブロイラーの普及です.

 元来,日本の養鶏は放し飼いのシャモや,コーチンなどの鶏が主流でした.
 これらの鶏の数は,今に比べると圧倒的に少なく,従って肉が出回る量も少数です.
 牛肉と鶏肉の価格差は,牛肉を1とすると,鶏肉は1911年当時で1.75倍,1920年当時になると1.4倍,1924年には1.62倍とかなりの差がありました.
 また,供給量が少ないにも関わらず,婦人とか,「肉は欲しいが四つ足は嫌だ」と言う人々が買い求め,その需要は旺盛なものがあります.
 こうした鶏肉は,食肉中で最高のものとされ,ハレの日の食材として利用されました.

 明治の終わり頃から,大正期にかけて,工業化の発展で労働者階級が生まれ,彼らの滋養強壮の為に出て来たのが「焼鳥」です.
 しかし,先述の通り,鶏肉は牛肉以上に高い高級食材です.
 それが何故庶民階級の食べ物になったか,と言えば,鶏は鶏でも,肉では無く内臓を用いたものだったからです.
 つまり,焼鳥と言うのはもつ焼を指すものでした.

 また,鶏の内臓だけでなく,犬肉も使われていたと言います.
 その後,「焼鳥」が庶民の間に爆発的流行となると,鶏の内臓や犬肉から,安価で大量にあり,需要が余りない牛豚の内臓に取って代わっていきます.
 因みに,その食べ方は現在と違い,串に刺したものを嚥下する訳では有りません.
 刺してある肉(と覚しきもの)は筋が硬く幾ら噛んでも噛みきれない程のものですから,どちらかと言えば,チューインガムの様に気長に噛み締め,味が消えた所で,ポイっと地面に吐出します.
 屋台ならば,周囲に犬が屯しており,そうして放たれたモツを争って食べ,直ぐに始末してくれるシステム?になっていました.

 勿論,当初は鶏の内臓を使っていたので,「焼鳥」と言う名称を使うのは名は体を表すと言う事で,特に問題はありませんでしたが,牛豚の内臓を使い始めると,現在で言う「不当表示」に当たります.
 当時でも勿論問題になったので,関東大震災後には,「やきとり」では名称に偽りがある為,「やきとん」にすべきだとの指導が当局から入ったりして,一時「やきとん」に書替えたのですが,結局は高級イメージのある「焼鳥」を捨て難く,結局は元の木阿弥に戻ってしまった様です.

 とは言え,生の内臓と言うのは,保存が難しく,現在の様に冷蔵設備が発達していない時代は,生の内臓を食べるには狩猟場所や屠場の近く,或いは寒冷な時期に限られました.
 当然,屋台やそれに毛の生えた様な店に冷蔵設備がある訳で無く,内臓が手に入ると,直ぐに調理したり湯がいたりして,保存が利く様にしていました.
 もつ焼は,湯がいて置いたものを付け焼にしました.
 これが,当時のブルーカラーの生活スタイルに合って,大ヒットとなった訳です.

 しかし,戦争の激化と共に,内臓ですら手に入りにくくなり,1943年からは牛,豚,鶏に加えて馬,緬羊,山羊の内臓価格も統制された為に,市場から完全に内臓は姿を消し,内臓料理を提供していた店や屋台も尽く姿を消していきます.

 敗戦になると,物不足は激しくなり,闇市が方々に出現します.
 そこでは,ありとあらゆるものが取り扱われていました.
 意外にも,1945年12月に食肉配給統制規則が廃止され,肉類の生産と流通は自由になりました.
 但し,価格統制は継続されたので,こうした肉類は闇に流れて高騰します.
 とは言え,闇市では精肉よりも内臓の方が多く出回りました.

 1頭の牛や豚から取れる内臓は少ないにも関わらず,こうした逆転現象が起きたのは,日本が朝鮮半島や台湾と言った植民地を手放した為です.
 特に,日本に来て働いていた朝鮮人100万人が本国に帰国すると,彼らによって多く消費されていた,価格の安い大腸や小腸を始めとする内臓部位の需要が,大きく減少します.
 このだぶついた部位の行き先は,闇市や場末の飲み屋,飯屋でした.
 それらの店で安くて旨い料理の材料として利用されると,これがあっという間に広まっていきます.

 焼鳥も,当時の代表的な闇市の食べ物でした.
 とは言え,関東ではこの「焼鳥」も鶏の焼物では無く,殆ど総てが「焼きトン」で,種類はシロ,ハツ,レバー,ナンコツが主流で,大抵は親父が焼き,おかみさんがサービスに回っていました.

 大阪ではこうした内臓の焼物は,牛のそれが中心です.
 これを大阪人は「ホルモン焼」と言っています.
 ホルモンは,牛の内臓の事を戦前にそう言っていたのが残っていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/02 23:19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本における肉牛の系譜は?

 【回答】
 さて,日本の食肉文化圏は,大雑把に分けて,牛型と豚型と鶏型の3種類に分れます.

 牛肉型は近畿地方と周辺の三重,福井,香川を除く四国地方と山口で,準牛肉型と呼ばれる牛肉を主にするも,他の肉も採る地方は,中国地方の鳥取,岡山,広島,四国地方の香川,九州地方では大分,豚肉型は山形を除く東北全域と北海道,関東地方と周辺の長野,新潟,山梨,そして沖縄,準豚肉型が山形,鶏肉型は島根と大分を除く九州地方全域,全て満遍なく採るのは,牛肉型と豚肉型に挟まれた,石川,岐阜,愛知,静岡だそうです.

 何故,近畿地方で牛肉が好まれる様に成ったかと言えば,1つは輸送手段として用いられたのが牛車だったからと言う説があります.

 大津では豊臣秀吉に依って港が拓かれ,北陸や中部方面から来た荷が琵琶湖を船で運ばれ,大津港に陸揚げされます.
 其処から京都に向けての輸送手段は幾つかあり,1つは大津の馬借,京都の牛車,牛馬,人の背負いでの運搬がありました.
 江戸時代になっても,大津港は北陸地方から大坂に運ばれる物資は,寛永年間に西廻り航路が拓かれる迄は,敦賀,小浜に一旦陸揚げされ,琵琶湖北部にある塩津,海津,今津などの諸港から大津まで船で運ばれていました.
 この荷の中心となったのは,諸国大名家の登米,つまり諸侯の年貢米であり,大津の湖岸には彦根井伊家を筆頭に諸大名家の米蔵が並んでいました.
 此処で一旦プールした米を,京都や大津などの米相場を睨み,高値の時に放出する様にした訳です.

 西廻り航路の開拓後は,直接諸大名家の登米は大坂に運ばれる様になりますが,近隣の若狭,加賀,越前,美濃,伊賀などの登米は,なおこのルートを利用しています.

 大津から京都に米を運ぶ為には,逢坂越をしなければなりません.
 馬は馬車ではないので,そんなに多くの荷物を運ぶ事が出来ませんが,牛車の場合は,1台に米9俵(約540kg)を搭載する事が出来ました.
 こうした牛車を通す為,逢坂越には人馬道と車道が分れて設置されていました.
 牛車の方は車道を通る訳です.
 1802年には,京都の学者,脇坂義堂の発案で,車道の部分に花崗岩に轍を刻んだ車石が2列敷設され,牛車の通行に充てていました.

 京都の車屋には,京都二条城への幕府収納米を優先的に輸送する役車の義務が課せられていましたが,大津の馬借と京都の車屋にはそのシェアを巡って屡々争いが起きており,1704年に大津港に着いた商人俵物の内,大津の馬借が6割,京車と伏見車が4割を運ぶ様に裁定が下されています.
 1779年の場合,京都への登米は牛車15,894両,牛馬131,433頭と言う記録が残っています.
 米の他,薪炭も主要輸送品で,こちらは今津から丸子船に依って琵琶湖を渡ってくるもので,その数は1830年で年間約13,000駄(約1,755トン)が逢坂越をしたとあります.

 近江から京都への輸送ルートはこの他に山中越・小関越,或いは瀬田川を下る舟運もありましたが,1837年,水野忠邦は大津商人の訴えを容れて,逢坂越以外でのルートで物資を輸送する事を禁じた関係で,逢坂越の交通渋滞が解消される事はありませんでした.

 ところで,当時,輸送手段として多く用いられているのは馬と牛です.
 1310年の『国牛十図』と言う書物では,
「馬は東関をもちて先とし,牛は西国を以てもととす」
と記されている様に,若狭湾と伊勢湾を結ぶ線で,東側が馬の多い地域,西側が牛の多い地域になります(因みに,九州に入ると再び馬が優勢になる).

 東国が馬で,西国が牛になるのは諸説ありますが,大陸文化の影響が強かった西国で,牛車や犂耕が普及した事,畿内では道路の整備が進んでいた為,牛車の利用が可能だった事,中世以来,東国武士団が騎馬を重視した事,東に多い寒冷地では,糞尿と敷藁を混ぜて腐らせ肥料とした厩肥の発酵温度が牛よりも6度高い馬の方が優れていた事などが挙げられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/25 23:49

 神戸ビーフ,近江牛,松阪牛と言うのは,実は同じものだったりします.
 何れも,その大元を辿ってみれば,但馬牛に行き着きます.

 但馬牛と言うのは,兵庫県北部の但馬地方で飼われていた黒牛の事です.
 この「但馬牛」と言うのは品種名ではなく,大雑把に和牛の「黒毛和種」に属する一系統に過ぎません.
 元々,農耕兼食肉用として但馬地方で飼われていた牛が,近代的な牛に改良される過程で,「但馬種」と呼ばれていたことはあります.
 同時期に,鳥取県には「因伯種」,岡山には「備前種」と言う牛があり,これらを指す呼称が,「改良和種」とされていました.

 これは更に改良が重ねられていった結果,特性が余り違わなくなったことから,1944年に4品種に大別する様になります.
 一つ目が「黒毛和種」で,毛色は褐色がかった黒色で,和牛の9割を占め,肉質とサシ(脂肪交雑)は世界一とされています.
 二つ目が「褐毛和種」で,毛色が淡い褐色のものと鼻や脚の尖端だけが濃い黒褐色のものの二種があり,前者を熊本系,後者を高知系と呼んでいます.
 元々はこれらの地で飼われていた朝鮮牛に外国種のシンメンタールを掛け合わせて改良したもので,俗に「あか牛」と呼ばれています.
 三つ目が「無角和種」で,萩市を中心に飼われているもの.
 毛色が真っ黒で,名前の通り角は無く,肉質は黒毛和種に次いで良いとされています.
 最後が,「日本短角種」で,毛色は褐色で,南部牛にショートホーンを掛け合わせたものです.
 東北や北海道で飼育されているもので,枝肉の歩留まりは黒毛和種よりは僅かに良いものの,サシは良くなく,高級肉にはなりません.

 こうした大別が為された訳ですが,戦後,多くの地域では,肉牛の改良を行う為,積極的に地域外からの種雄牛を導入し,交配して改良を行います.
 しかし兵庫県だけは県外の牛を導入せず,閉鎖育種で改良を進め,純血を保ちました.
 この為,兵庫県で生産される肉牛はほぼ純粋な但馬牛として言い切っても良いとされています.
(尤も,但馬地方の旧美方郡では更に郡内での閉鎖育種を行い,他地域の牛の血を受容れていないので,純粋但馬牛となれば,これが該当すると言う説もあるそうです.)

 但馬牛は,他の肉牛に比べ「資質」に優れていると言われます.
 この「資質」と言うのは,皮膚,被毛,角,蹄の質が優れ,骨味,骨締りが良く,体も締っている事を言うそうです.
 一方で,元々が小面積の水田耕作用の牛だった為に,小柄の牛が選抜されてきたこともあり,後躯の発達が悪く,尻や腿の肉付きが悪い為,産肉量が少なく,他の肉牛に比べると発育が遅いと言う欠点があります.
とは言え,この尻や腿肉は,最上級肉ではないので大きな問題とはされていません.
 この欠点を補うのが,連産が可能と言う事と,安産が多く,雌牛の子育てが上手と言う面です.

 其の上,肉質が最上級,つまり,筋肉の中に脂肪が霜降り状に散在する脂肪交雑(俗に言うサシ)により美味しい肉が作れます.
 脂肪交雑が多いと,熱を加えた時に,舌の上で蕩ける様な肉の旨さが出て来るそうな.

 脂肪交雑の確率が高い肉牛としては,他にも鳥取県の「気高系」,島根県の「糸桜系」がありますが,これらの系統の牛には,キメの粗いサシ,所謂「荒ザシ」が多く出来,但馬牛の様なきめ細かい「小ザシ」が出来にくいとされています.
 但馬牛は肥育しても,腎臓,肋間,皮下などに余分な脂肪が付きにくい上,骨が細いので,枝肉を精肉にする歩留まりが良く,ロースの芯が太い事も特徴となっています.

 さて,こうした優れた資質を持つ但馬牛ですが,余り高級牛として巷間に上りません.
 これは,種雄牛や子牛など他県に移出される場合にだけ使われる名称で,肉としてのブランド名にはなっていないのが原因です.

 で,但馬牛を素牛とし,県内で生産され,県内の食肉センターに出荷されたもののうち,肉の霜降りの程度を示すBMSナンバーが7以上のものが「神戸牛」あるいは「神戸ビーフ」としての認定を受けています.
 つまり,「但馬牛」から「神戸ビーフ」へとブランドが変る訳ですね.

 因みに,神戸牛の誕生は横浜に外国人居留地を設けたことから始まります.
 外国人達は食用に牛を求めますが,関東各地では何処の農家でもその交渉は拒否され,当初は,朝鮮やら清からの輸入に頼っていました.
 其の後,牛の飼養が関西方面で盛んであることが判り,神戸から横浜へ輸送した後,横浜で屠殺して牛肉の供給を開始します.
 このうち,神戸から輸送された牛肉が特別に旨かったので,外国人の間で「神戸ビーフ」が有名になり,世界中にその名が知られる様になったという事だそうです.

 「神戸牛」≒「但馬牛」と言えるでしょう.

 一方,二つ目のブランドとしては県外の三重にある「松阪牛」です.
 これも高級肉のブランドな訳ですが,元はと言えば,但馬牛.

 そもそもは三重県では,役畜として使役されていた牛を各地から移入していました.
 和牛飼育を開始した時点でも,自県から出荷する肉牛は年間8~9,000頭無いと再生産が不可能だったのに,自県で生産される肉牛は3,500頭弱と全然足りません.
 この不足を補う為に移入されたのは但馬牛の雌でした.
 因みに,この但馬牛は,江戸期は紀伊を経由して移入されていました.
 養父郡に1797年に初めて牛の集散地が出来たのですが,紀州徳川家に入る牛の場合は,口銭員数改めが免除されていたので,他家に入る牛も一旦紀州に入り,1~2年育成した後,移出されていた訳です.
 紀伊の水田は土が浅く,砂質である為,力の弱い当歳牛に仕事を教えるのに適しており,更に子牛であれば蜜柑畑に向かう際の細い坂道を資材運搬用に利用可能でした.
 しかし,成牛になってしまうと,細い坂道を歩けなくなり,一方で伊勢平野部からの使役牛として高値で取引された為,大半がそちらに引取られる事になります.
 特に,松阪地方は紀州徳川家の領地でしたので,移送の手続きも簡単でした.

 こうして松阪地方に但馬牛が多く入り込み,それらが肉牛として肥育されていく過程で,但馬牛の形質が松阪牛に引き継がれていった訳ですが,現在でも肥育農家の大半は,但馬牛の子牛を3年育てたものを「松阪牛」とする他,和田金の直営農場では,兵庫県産の処女雌牛以外のものを素牛としない原則が踏襲されています.

 但し,現在では,県内産が大半で「但馬牛」は看板程度にしか見ていないのが本心だそうです.

 てな訳で,近江牛は次回に引き延ばす.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/21 21:04

 近江牛と言うのは,元々江州(ごうしゅう)牛と呼ばれていました.
 しかし,輸入牛肉が入る様になって,「江州」牛が「豪州」牛と紛らわしいと言うので,1967年に「近江牛」に変更されています.

 元来,近江には牛肉を味噌漬けとして食する習慣がありました.
 従って,農家は牛を飼って家計の足しにしますし,集散地としての発達もあったようです.
 昨日の日記にも書きましたが,牛肉の需要が開港地横浜で増えると,目敏い近江商人達は,すかさずこれに 目を付け,近江から牛を追って陸路横浜まで出かけ,外国人と直接取引をして莫大な利益を得たと同時に,開港場に卸小売店を開いたり,牛鍋屋を開く者まで出て来ました.
 しかし,近江牛も何もかも,西から来た牛は全部「神戸牛」とされていました.

 ところが,1893年に大陸からの輸入牛が原因で口蹄疫が発生し,生きた牛の輸送が禁じられることになります.
 其処で,滋賀県の家畜商は屠殺して処理した牛を枝肉の状態で出荷することになりました.
 そして,東海道を鉄道を使って輸送することになったのですが,この時,京浜の業者は,今まで「神戸牛」だと思っていた牛肉の出荷地が,滋賀県の八幡駅であることを知ると同時に,その肉の量が多く,肉質も良い事に驚き,大半の「神戸牛」が,実は「江州牛」であることを初めて知ったと言います.

 以後,江州牛は神戸牛と共に牛肉のブランドとして確立していくことになります.

 ところで,中国の南船北馬の様に,日本でも動力として使われる使役獣としては,「東日本は馬,西日本は牛」と言われていました.
 馬と牛の比率が逆転するのは,若狭湾から伊勢湾を結ぶ線とされています.
 その牛の飼い方についても,農耕に使役しながら子牛を生産する繁殖地域,これらの地方から子牛を購入し,これを育成しながら農耕に使役する育成地域,更にこれらの育成牛を購入し,農耕などに使役すると共に,時にはこれを肉牛として肥育する使役地域,肥育地域に分かれています.

 但馬地方に限らず,山陰地方は中国山地がその地域を貫き,狭隘な土地を耕す為に米の生産量も限られ,貨幣経済に参加する為には米以外の生産物を作り出さなければならない訳で,牛と言う商品はその貨幣を得る為に最適な手段でした.
 よって,これらの地域は繁殖地域となっています.

 この繁殖地域から牛を育成する育成地域としては,貨幣経済に参加する為に同じ様に狭隘な土地でありながら,蜜柑という商品を持つ紀州地方があり,其処で育てた牛を買い入れたのが松阪地方になります.

 近江は,繁殖地域から牛を買い入れ,育成・使役・肥育の下流工程を担っていました.
 と言っても,但馬から直接し入れた訳ではなく,大部分は,但馬地方からの当歳の子牛を京都北部で3歳くらいまで育成し,農作業用・運搬用として近江に入ってきて,2年程度農作業をした後,5歳くらいから肥育に入り,6歳で肉牛として出荷されたものです.

 今までに見てきた神戸,伊勢,江州のうち,東京で評判が高かったのは江州,神戸,伊勢の順番でした.
 これは,滋賀県蒲生郡にあった米商竹中久次「米久」が早くから東京に出て屠肉問屋となり,家畜市場を経営し,また牛鍋屋にも手を広げ,出身地の牛馬商と提携して,良質の牛を東京に出荷したことに依ります.

 また,肥育に関しては従来は5~6歳の充分に発育した和牛の中から,肉付きの良いものを選出しているだけでした.
 これを改めて,意図的な肥育を開始したのも,近江の人々でした.
 滋賀県の蒲生郡,神崎郡,犬上郡の各地域では,水が良質でかつ裏作に麦作が多かったことから,肥育に適した土地だった訳です.

 この地域は近江八幡を中心に織豊時代からも牛馬の集散地で,牛馬商が多く,また彦根井伊家の産業として,薬用・養生用に屠肉,干肉,味噌漬肉の生産が盛んという事もあって,牛の移入移出も盛んに行われていました.
 更にこれらの集散地には,物資が集まりますが,その物資を輸送する運送業が盛んになっていました.

 しかし明治以後は,物資の輸送手段として新たに鉄道というものが利用される様になり,駄載や輓車といった家畜を用いた輸送手段は,時代に取り残されてしまいました.
 そうなると,それを使って生活の糧を得ていた人々は,転業を余儀なくされます.
 この転業先として,既に東京で業界四天王の一人に数えられていた米久を中心に,江州牛を出荷するルートが出来ていた為,江州牛を最適な大きさに育て上げて出荷する肥育に携わる仕事が生まれた訳です.

 つまり,牛馬商が「痩せてはいるが,体躯,健康上肥育すれば上質の肉牛となりうる」と鑑定した牛を集め,農家に配給して農耕の傍ら,「麦・糠・麩」を従来の飼料に加えて濃厚投入させ,数ヶ月の肉付けをさせて再び肥育素牛と交換して,肥育牛を東京に送付すると言う仕事です.

 彼らは1893年の牛疫の際には,東京への移出が少なかった時期に,短期肥育で大量の出荷を行い,大きな利益を上げ,日露戦争時に,輸送用や食肉用の牛馬が徴発されて牛価が暴騰した際にも,上手く立ち回って利益を出していました.

 流石,近江商人と申しましょうか….

 因みに現在の近江牛の定義は,黒毛和種で,日本食肉格付協会の格付で,肉質,歩留まりとも上位二段階までであり,且つ,滋賀県内で最も長く飼育されているものとあり,但馬牛との関係は余り無くなっていますが,老舗の牧場の中には,未だに但馬牛を肥育素牛とする事に拘りを持っている人々が未だ未だおり,但馬牛信仰は中々消滅するものではありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/22 20:46

 殺生禁断が表向きの江戸期でも,例えば彦根井伊家では但馬牛を肥育した後,冬の風物詩として牛の味噌漬けを作っていましたし,薩摩島津家でも琉球の影響からか,豚を用いた料理が幾つもありました.
 馬肉はさくら,鹿肉はもみじ,猪肉はぼたんで,鶏肉はかしわと言う隠語で呼ばれたりしていたので,決して忌避が浸透していた訳ではありません.
 ただ,地方によっては,宗教上の理由で猪が駄目とか,鶏でないと駄目とかそう言った忌避があり,それが現在に至るも,「肉」を指す言葉で牛か豚か鶏かなどを区別するのに繋がっています.

 ところで,馬については,秋田佐竹家で食べられていました.

 特に東北では農耕馬として用いられ,南部曲屋の様に馬と共に生活していた所では,その食用については忌避されていましたが,秋田北部の阿仁地方では各地の鉱山があり,そこで働く鉱夫の健康改善,特に「よろけ」(珪肺)の予防の為にも肉食を許可しています.
 その中心となったのは,1840年3月に佐竹家が設置した療養所で,そこに七日町生まれの門屋養安と言う医者を主任とし,その指導の下で町医者誠斎,慶斎,敬斎の3名が交互に出仕して治療と予防医療を行っていました.
 養安はその予防策の重要な施策の一つとして馬肉食用を奨励して調理法を指導すると共に,屠殺場を建設して広く馬資源を開拓したと言います.

 阿仁鉱山では江戸中期から毎月4日,14日,24日に定期市場が開設され,様々な物品が取引されてきましたが,次第に馬肉も出回るようになり,遂に市場で馬肉を煮込んで盛切酒を出した茶屋が大繁盛する様になります.

 馬肉食も次第に工夫して味付けも向上して普及して行き,遂には鉱山の名物に成り上がっていきます.
 鉱山労働者にとっては,よろけの予防になるだけでなく,滋養強壮で力仕事に耐えることが出来るなど,良い事ずくめであり,当初「四つ足」として忌避されていたものが,次第に抵抗感が無くなって,美味しい上に鶏肉よりも安価で人気を博して行きました.

 また,労働者ばかりでなく,味噌汁仕立てにしてほんのり軟らかくした肉を入れ,牛蒡と蒟蒻を入れると誰でも食べられるので,女子供にも普及していきます.
 こう流行ってくると,市の日以外でも肉の需要が出て来て,鉱山町には赤く塗った箱を背負った女性が,馬肉を売りに徘徊するようになりました.

 とは言え,江戸期では四つ足を食うことに抵抗がある地域もあり,「馬肉」と言う言葉に対して色々と不都合もあった為,養安は時刻と方位,干支表,不定時法などを参照して,午が昼九つ南向になっているので,「ナンコウ」と称してはどうかと各方面に諮り,それが一般に浸透していったと言います.
 阿仁地方などの金掘歌では,「馬肉(ナンコ)焼き」と言う歌詞が残されています.

 馬肉は牛肉や豚肉の様に脂肪が多くなく,擦った大蒜と醤油だけで肥育用の馬のヒレ肉は,生食用として食用され,現在では熊本や長野,山梨で供されています.
 また,ソーセージには粘りを出す添加剤として使用されているとも言いますが,そう言えば,明治初期の牛鍋屋が扱う肉の一部もしくは全部が,牛ではなく馬だったと言う話もあったりしましたっけ.

 現在では国産では足りず,アルゼンチンから多数の馬肉が輸入されていると言います.
 こんなものも輸入品なんですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/23 20:59
青文字:加筆改修部分


(画像掲示板より引用)



 【質問】
 日本において,家畜の肉以外の部位は,どのように利用されてきたのか?

 【回答】
 古来から骨は,様々な形で利用されてきました.
 縄文時代は釣針や櫛など各種装身具,漁具や狩猟具,武器として用いられています.
 しかし,青銅器や鉄器の導入が始まると,相対的に骨角器の利用は減っていきました.

 ただ,完全に無くなった訳でもなく,例えば,中世鎌倉の発掘調査の結果,笄,小型装飾品,筒型の紅刷毛の軸,武具の一部,サイコロ,鹿角製の耳かきなどが出土しています.
 面白いのはサイコロで,中には偶数目しかないイカサマ用のものも出土していたり.
 笄は簪でもあり,刀の鞘に押し込む刀装具としても利用されていました.
 特に,栗形と呼ばれるイルカの下顎骨を用いたものは,未完成品も含め,町屋地区にある長谷小路南遺跡から多く出土しており,この辺りに骨角細工職人の集住地区があったものと推定されています.

 これらの多くは鹿の角や鹿や猪の骨,イルカなどの海獣の骨ですが,牛馬骨の利用も多く,解体途中の馬の骨格や牛馬の脚の骨,切断された骨片などが出土しています.

 近世に於いては,牛馬骨は角,爪,筋等と共に小道具,或いは小間物と称され,大坂に集積されました.
 1809年に,遠国方役所からの死牛馬処理の問い合わせに対し,摂津国役人村(渡辺村の事,皮鞣し,太鼓張り,雪踏,革鼻緒などの皮革製造,販売を行い,全国の皮革の集散地でもあった.また城中の太鼓張替え,火炙り,礫罪,首打ちの執行,行き倒れ人の死体処理などに役人足を出していたので,役人村と称した)村年寄が,自分たちは昔から牛馬やその他の獣の皮,角,爪,骨,筋,尾,毛を渡世の為に売買してきたと答えています.

 牛馬爪は鼈甲の代用品として櫛などに多用され,角も鹿角や牛角の他,輸入品である水牛角も重用されました.
 櫛には竹,柘植,象牙,鼈甲,笄には竹,角,象牙,鯨鰭や銀製品が多く用いられました.
 変わったところでは,1680年代半ば頃には一時鶴の脛骨を用いた笄(かんざし)が流行し,その後一般庶民でも手が届く様に,馬骨を鶴製に模したものも製造される様になっています.
 因みに,鶴の脛骨に蒔絵を施した笄は,19世紀になってもなお京坂で用いられているのですが,江戸では用いられていません.
 これは,江戸では頭痛の呪いがあると言われた為とされています.

 櫛払いと呼ばれる,櫛を掃除する為の道具は,元々象牙,牛,水牛,鹿の角を扱う角細工師が製造していたのですが,屡々原材料は牛馬の骨であることも多かった様です.

 しかし,1802年2月,武蔵国和名村小頭の甚右衛門は,「馬革他売法度」に関する証文の中で,1789年2月,牛の角,筆用の毛,馬骨などを町人に直売しないように厳命されている事,また,1799年2月には馬爪等を彼方此方で拾い集め,町人に直売する者がいる様だが,こうした事が無いように証文を認めて厳守するようにしたと書いています.
 つまり,皮だけでなく角や毛,爪に至るまで密売が横行していた訳です.
 一方で,骨は特に制限はなかったのですが,以前から扱う事もなく,これからも扱うつもりが無いので,無闇矢鱈に骨を拾い集めるなと説いていました.

 その骨を運上の対象にしていたのが,小倉小笠原家です.
 小笠原家では1822年頃から,大坂大和屋三郎右衛門が領内の死牛馬皮を一手に掌握しており,骨も小道具として買い上げられていました.
 ところが,1841年にその権利が大坂太鼓屋又兵衛に移り,1842年には小倉角屋弥三七が掌握していた鹿皮,小道具の買い集め権も太鼓屋又兵衛に移されました.
 こうした権利が出来たのは,牛骨まで売買するのは余りに不憫だから,骨は埋葬するようにと言うお達しがあったにも関わらず,埋め方が粗略な上に,その骨を掘り出す者がいたり,犬に掘り返されたりして難儀していました.
 その時に,こうした骨を拾い集める事を願い出た者がいて,運上を取り決めて取り扱わせるようになったのですが,太鼓屋又兵衛は牛馬皮を掌握するようになると一旦中断します.
 最終的には,大里村戸三郎と言う者が,牛骨の取り扱いを許されるようになりました.

 こうした動きは,一人小笠原家だけではありませんでした.

 1697年に宮崎安貞によって著わされた『農業全書』には,
「魚鳥獣の類,くさりつぶれたるを糞にしてよくきくものなり」
と書かれているように,動物の死骸は肥料として認識されていました.
 これには,死骸が寒い時期で腐りにくければ,韮を一握り揉んで混ぜると良いなど,具体的な指示も書かれています.
 ただ,牛馬骨を肥料にするのではなく,あくまでも,山間部に於いて猪や鹿を食べた後の骨とか,魚や鯨や鳥,小動物の類が精々で,それも偶発的な要素によるものでした.

 1826年に大蔵永常が編纂した『農稼肥培論』に,骨の肥料としての使用に関して,骨には「ホスホリユス(燐)」が含まれており,肥料として優れている事を科学的に指摘し,曝しておいた牛馬骨を砕き,碓で搗いて粉にしたものが薩摩に送られ,喜界島,奄美大島,徳之島でサトウキビの肥やしに使われている事を報告していました.

 薩摩では明和年間と言いますから,1760年代から魚骨が菜種の耕作に用いられるようになりました.
 その後,天保期の財政改革に伴い,1843年に黒岩政右衛門の発起で,薩摩島津家中に骨粉方が設置され,全国各地から牛・馬・鯨・鰹の骨が購入されました.
 牛馬骨肥料は山建,鯨骨肥料は鯨建などと呼ばれています.

 この骨肥料に着目したのは,薩摩国知覧村門之浦の人である,仲覚兵衛とと言う商人でした.
 彼は,薩摩で廻船問屋を営み,各地と貿易していたのですが,ある時,大坂の渡辺村に行くと,獣骨が積上げてある場所の雑草が良く生えている事に気がつき,少しその骨を貰って,地元の友人である農民に試しに油菜を育てて貰ったところ,普通のものより格段に育ちが良かった事から,大坂渡辺村の村岸部屋六兵衛と契約して,その地の獣骨を購入して,人々に効能を説き続けました.
 その結果,需要が増大したので,南薩沿岸の廻船問屋は挙ってこれを販売したと言います.
 この辺りは,伝説の域を出ないと思いますが,欧米で骨粉が肥効があることを唱えたのは,1774年の事.
 覚兵衛は,同じ時期にそれを大量供給する体制を整えた事になります.

 当時,皮やその他の獣製品を作る副産物として,渡辺村には多くの獣骨が集積されていました.
 この悪臭が周囲とのトラブルを招き,苦慮した渡辺村ではそれを処分すると言う覚兵衛の申し出を嬉々として受け入れたと考えられています.
 因みに,獣骨は悪臭が酷いので各地で嫌われ,獣骨を積んだ船は港内に留まる事を許されませんでした.
 仲覚兵衛の持ち船の名前は明神丸と言いましたが,大坂川口近辺の俗謡には,「そこに繋ぐな,張綱取るな,薩摩明神丸の繋ぎ場所」と言うものがあったほどです.

 薩摩島津家中に骨粉方が設置されたのは,既述の通り,1843年ですが,それ以前からも各地から薩摩向けの牛馬骨の売買が為されていました.
 先ほどの小倉小笠原家のもそうですし,1816年の筑前黒田家中の革座記録にも,以前から牛馬骨を薩摩向けに積み込んでいたのに,今年は薩摩向けの船が入港せず,結局別のルートで下関に売り払った事が書かれています.

 また,抜け荷記録も多くありました.

 抜け荷ではありませんが,1838年には,小倉でこの手のものを一手に扱っていた大坂大和屋三郎右衛門の手代藤吉の取り扱っていた豊前馬骨8,000斤が,抜け荷を懸念した筑前黒田家革座柴藤増平に差し押さえられる等と言う事件も起きています.
 因みに,柴藤増平と言うのは,大坂渡辺村からの多額の負債を肩代わりする条件で,筑前黒田家の革座の経営に乗り出した博多商人柴藤増次の長男で,筑前黒田家と小倉小笠原家の争いも背景にあると思われます.

 1831年7月の長州での一揆の際には,風待ちの為に小郡宰判岐波村丸尾崎港に入港していた,芸州仁保島の船頭の船が,牛骨を満載していたという理由で,周辺農民に船や荷物共々破壊される事件が起きました.
 長州では以前から,稲穂の実る頃に牛馬の皮骨など「穢物」を持ち運ぶと,龍神の怒りを呼んで暴風雨が起き,農作物に被害をもたらすという「青田伝説」があり,皮革の運送期間制限も屡々取り決められていました.

 1859年から薩長同盟の結果,長州毛利家は民間レベルでの薩摩との交易を奨励し,1861年からは本格的に家中が薩摩との交易を開始しますが,既に1853年には出入り商人である戎屋,田坂屋,梅田屋,坂倉屋,起田屋に対し,向こう5年間の斃牛馬骨集荷と積み出しが許可されていました.
 しかし,牛馬骨積出許可期間外の取扱いが発覚し,関係者は処罰され,5商人の特権は期限切れを以て取り上げられています.
 この後,牛馬骨取扱いの権利争奪戦が繰り広げられ,1860年に熊毛郡呼坂の松屋庄兵衛と都濃郡下松の米田屋勘助を,「御国中斃牛馬骨取扱世話方」に任命し,1861年に通知しています.
 とは言え,新たな世話方の不正や抜け荷,従来から薩摩と取引を行ってきた勢力の抵抗など,この権益を巡る抗争が幕末まで続いていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/20 22:39

 さて,昨日は図らずも幕末期に於ける牛馬骨の取引について書いてみましたが,薩摩ではこれをどうやって消費していたのかと言う疑問が湧いてきます.

 薩摩では,1789年には既に薩摩の商船が,他国から馬骨や鮪,鰹の骨粉を買い取り,それが菜種作の農家に掛け売りされて,翌年の菜種で清算されていました.
 しかし,牛馬骨粉が最も多く用いられたのは,砂糖黍の栽培です.

 明治になりますが,1880年に砂糖集談会雑誌と言う雑誌に掲載された座談会で,世間で薩摩では古くから牛馬骨を甘蔗の肥料として用いられていたと言われているが,それは違うとも聞いた,本当はどうなのか,と言う問いに対し,大隅の参加者が,鹿児島県では骨粉が多く使われているが,甘蔗ではなく菜種や稲作に用いられていると答えていますし,『鹿児島県農事調査』に於いても,1888年に於ける牛馬骨或いは骨粉の施肥状況は,米,蕎麦,菜種に広く施され,他に粟,大豆,綿,大麻にも用いられている事を示していましたが,甘蔗に牛馬骨を施肥した地域は皆無でした.
 甘蔗には,人馬の下肥や油粕,魚肥が施されているという回答があり,実際の施肥状況になると謎は深まるばかりです.

 また,江戸期には薩摩以外,牛馬骨を施肥した地域はなく,僅かに,河内国八尾木村の木下清左衛門が書き残した『家業伝』に,綿花の蒔く際に牛馬骨を施肥した実験結果が残っているくらいです.
 薩摩では,従来より豚を食す習慣があったので,余り動物の骨と言う者に対する抵抗感が無かったのかも知れません.

 1873年3月,流行病以外で死亡した獣類の骨肉を肥料として売買する事が,太政官布告第76号にて許可されます.
 これを受けて,各地で死牛馬の骨を用いた肥料が製造されるようになります.
 そもそも,この死牛馬処理権は,既得権として特定の人々が保有していたのですが,1871年の太政官布告はその既得権を否定し,その処理は持ち主の随意に拠る事とされました.
 ところが,これが裏目で,山野や河川にそのまま投棄されるという状況が現われた事から,死牛馬の食用禁止徹底と共に,衛生的で有益な処理が課題となった訳です.

 これは,食用が解禁された牛などの屠畜場に於いて,顕著な問題でした.
 1875年1月,現在は富山県の一部になっている新川県では,富山市内の屠牛業者がみだりに骨を投棄しているとして,これを禁じています.

 こうした骨粉の利用について,意外な方向から援護射撃がありました.
 1871年11月から1873年に掛けて,欧米を視察した岩倉使節団の報告書(1878年)において,欧州の販売肥料で最も重要なものは,「骨粉」と「焼骨灰」であるとされ,販売肥料の分析検査を行う試験場も設けられているが,骨粉の贋物もまた多く出回っている事が書かれています.
 更に,この報告書では,日本では未だ骨粉が注目されていないが,農業生産の向上の為には,肥料の質向上が不可欠であると結論づけています.

 1877年の第1回内国勧業博覧会には,岐阜県出身の戸田五郎が製造した骨粉と,山梨県勧業場の獣骨炭が出品されています.
 1880年には綿糖共進会報告に於いて,勧農局駒場農学校にて蘆粟栽培に骨粉を用いた実験が行われて効験有りと報告された事,尾張丹羽郡での甘蔗栽培に骨粉が用いられているとして,その奨励を行いましたが,未だ抵抗の方が強かったようです.
 それでも,1881年の第2回内国勧業博覧会には,更に多くの骨粉が用いられ,長野からの参加者は,1879年に桑畑で施肥してみたところ効果があり,翌年,対象範囲を増やすと更に効果が見られたと報告しています.
 その定量効果は,油粕の凡そ3分の2で同様の効果があり,その費用は粉砕の為の手間賃を加えても,油粕の半分の費用であることを述べています.

 その後は,一旦,過リン酸石灰が注目を集めます.
 過リン酸石灰は化学肥料の中でも最も古い物で,骨粉に硫酸を注いでかき混ぜ,それを希釈して作物に施肥する方法で行います.
 しかし,試行錯誤の結果,骨粉を用いた方法では経済的効率に難点があり,燐鉱石の粉末と硫酸を混合する方式が採用されて,骨粉の使用は停止されました.

 中々,各地でも骨粉肥料の普及が進まない中,薩摩では,近世末期,骨粉方の下に藩直営の肥料配給所である「豊民館」と呼ばれる施設が各地に設置されていましたが,1871年以後これは民間に委ねられ,1879年には養穀社,和親社などの民間骨粉肥料会社が設立され,また,県内各地の骨粉工場で盛んに骨粉が製造されると共に,1894年以降は中国からの輸入獣骨での骨粉製造が盛んに行われる事になりました.
 初期には,骨を焼き,臼に入れて杵で搗いていましたが,やがて屠場から搬入した生骨を,大釜で煮て油脂を採取してから天日乾燥した物を,水車動力を用いて杵で搗き,金網で揺すって粉を細粒化すると言う方式で作るようになりました.
 水車動力は,やがて電動モーターで粉砕器を動かすようになりましたが,太平洋戦争で獣骨の輸入が途絶えた1943年以降は,大半が廃業してしまいました.

 兵庫では,1885年に多木製肥所(現在の多木化学)が獣骨から肥料を製造しました.
 元々,創立者の多木久米次郎は,醤油業,肥料商も営む農家でしたが,干鰯に比べて骨粉の用いた燐酸肥料が廉価で肥料効果も高い事に注目し,製造方法を試行錯誤した結果,骨を蒸圧して粉砕する方法で工業化し,1889年には,骨粉に硫酸を加えた過リン酸石灰の製造も開始しています.

 ところで,骨粉の主成分はカルシウムと燐です.
 肥料に使われる他,配合飼料のミネラル補給分としてペットの飼料に用いられていました.
 特に,1970年代に導入された大型処理設備によって骨などを一括処理した肉骨粉は,蛋白質を豊富に含むものとして飼料として注目されて来ました.
 しかし,BSEにより,原因物質とされるプリオンが含まれる危険性がある肉骨粉を,牛などの反芻動物に与える事は禁じられました.
 更に,反芻動物に誤って与えられる事の無いよう,その流通は制限され,処理が課題になっています.

 但し,肥料としての利用に関しては,蒸製骨粉がその殆どであり,国際獣疫事務局(OIE)が定めたプリオン不活性化の国際基準に則って製造されているので,BSEの感染源となる可能性は殆ど無いと考えられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/21 22:06

 昨日は白い骨灰について書いたのですが,今日は黒いものについて.

 脱脂した骨を密閉した容器に入れ空気を遮断して強く熱し,後に残った黒色海綿状の物質が骨炭と言うものです.
 骨に脂肪が含まれていると,光沢のある不活性炭を生じる事から,骨炭を得るには原料骨の脱脂が不可欠になります.
 脱脂方法は,蒸製すると蛋白質が抽出されて,炭素を成すための有機質が失われるので,煮沸法が適当です.
 脱脂した骨を加熱すると骨に含まれていた有機物は分解し,水分,アンモニア,硫化水素,青酸等が発生し,更にタール成物質を溜出する為,骨炭の収量は加熱前重量の50%程になります.
 骨炭はその約85%が燐酸カルシウムで,吸着能力に優れている事から,砂糖の精製に活用されています.

 その最初の方法は粉末骨炭を糖液に加えて加熱し,脱色後は凝固清澄剤を用いて骨炭を包容分離し,除去していました.
 しかし,分離するのが面倒で手間も掛かった事から,やがで粒状骨炭を充填した濾過装置を用いるようになりました.
 濾過装置に糖液を通すと糖液は無色となり,濃縮冷却すると白色の結晶糖になります.
 使用後の骨炭は,強熱し吸着した色素を分解すれば再び使用出来ますが,その吸着能力は次第に低下していきます.

 こうした骨炭の吸着力が注目される以前は,古くから水の精製に木炭が利用されていた事に注目して,1794年頃,英国ロンドンの精糖工場に於いて,木炭が初めて糖液の脱色精製に使用されたと言われています.
 1811年にはワイン,酢の脱色には木炭より動物炭の方が有効であるという論文が発表され,1812年には精製に骨炭が導入される様になり,1815年に動物炭を砂糖の精製と清澄に使用する特許が取得されています.
 当初は,粉末骨炭を使用する毎に捨てていましたが,1828年に粒状骨炭を焼成して再生する方法が開発され,その後は骨炭の脱色炭としての品質向上の為の焼成方法にも研究が加えられていきました.

 1872年に訪欧した岩倉使節団一行も,グラスゴーでウォーカス白糖精製場を訪れ,報告を書いています.
 それによると,骨炭を用いた精製方法は,先ず一番下に木材,次に無数の孔のある鉄板を敷き,更に木綿で覆った上に骨炭を盛って,上から漏れてきた糖汁を濾し,下の層に送り込むと言うものでした.

 ところで,近世の日本に於ける白砂糖精製法は,中国から伝わった「泥土脱色法」或いは「封泥法」の影響を受けていました.
 これは初製糖を漏斗状の陶器に詰め,徐々に不純物である糖蜜部分を滴り落しながら,その漏斗に詰めた糖の表面に,色素を吸着する作用のある泥土を塗り漂白するというものでした.
 数日かけて泥土が乾いてからこれを取り去ると,泥土と触れる部分は漂白されていますが,その下部には効果が表われないので,白くなった部分だけを取り分け,再び同じ事を繰り返すという手間の掛かる方法です.

 砂糖が大量生産されるようになると,こうした手間をかけて精製する方法が使用出来ないので,大産地である讃岐では,押し船を用いた脱色・精製方法が開発されます.
 これは,先ず初製糖を木綿か麻の袋に詰め重石をかけて糖蜜を搾り出し,残った砂糖分は固まるので,袋から研ぎ槽に取り出して加水して練り上げ,再び重石をかけると言う作業を繰り返し行う事で,茶褐色の白下糖が白砂糖になっていきます.
 この方法は現在でも,和三盆の製造方法として受け継がれています.

 西洋式製糖方法の導入は,薩摩島津家にて行われています.
 安政年間に薩摩島津家が設置した集成館には氷砂糖,白糖製造機が備えられていましたが,これらは薩英戦争で全焼してしまい,現存していません.
 1865年になると,奄美大島に洋式機械を備えた製糖工場を設立し,1867年から操業を開始しますが,業績が上がらずに1869年には早くも廃業になっています.

 元々,薩摩は骨を肥料としても使用していますし,骨の利用には抵抗が無いと思われますが,骨炭を用いた製糖方法は残念ながら確認出来ていません.
 但し,1860年に咸臨丸で渡米した福沢諭吉は,サンフランシスコの製糖工場で種々の説明を受けた内容を既知のものとして書いており,骨炭を用いた製糖方法も或いは実現していた可能性はあります.

 明治に入って1877年,勧農局は大阪府を通じて改良の援助を求めていた,中ノ島砂糖精製場に局員を派遣しています.
 中ノ島砂糖精製場は,台湾から原料糖を輸入して精製しており,1875年に英国から機械を輸入して,西洋式製糖を始めていました.
 勧農局から派遣された職員は,技術面での指導には効果を上げたものの,原料糖の輸入など資金面での問題を解決する事が出来ず,結局業績不振に陥っています.
 この時,獣骨炭の焼成方法が改良され,現地で用いられていますが,残念ながら定着するには至りませんでした.

 1880年から営業を開始した北海道紋鼈製糖所では,骨炭を扱う業者が無かった事から,北海道・秋田から骨を集めて製糖所内で焼成し,骨炭はシュレェベル式の器械で再焼しています.
 以後,近代精糖業に於いては,骨炭の利用が主流となり,第2次大戦後に粉末活性炭が導入されるまで,続く事になります.

 第2次大戦後になると,国内の精糖工業が再建されますが,当時骨炭の入手は困難で,粉末活性炭が脱色に使用されました.
 その後,経済状況が好転すると共に骨炭の製造が始まりますが,環境汚染など骨炭製造が抱える問題が噴出します.
 一方で,活性炭は脱色法の開発や脱色能力の向上と言った技術開発により,そちらがメインで用いられるようになっていきました.

 精糖業に於いて,原料糖を精製して純度の高い砂糖を作るためには,原料糖に含まれる色素,灰分,混濁性物質を出来るだけ除去する必要があります.
 現在行われている精製工程には,主要には,炭酸飽充,活性炭や骨炭脱色,イオン交換樹脂脱色が併用されています.

 炭酸飽充では,糖汁に消石灰乳を添加してアルカリ性にした後,炭酸ガスを吹き込み,これによって生じた炭酸石灰粒子に色素などの不純物を吸着させて除去します.
 これを濾過により濁りの無い糖液とし,骨炭や活性炭,更にはイオン交換樹脂を使って色素を脱色し,無色透明の糖液とする訳です.
 これらの吸着剤は,それぞれ違う特性を持っているので,各工場では組み合わせを工夫する事で吸着効率を高める工夫が成されています.

 骨炭はメインではなくなったのですが,色素の他に灰分の吸着能力に優れていることから,骨炭とイオン交換樹脂を組み合わせる工場が多かったりします.

 何気なくコーヒーや紅茶に入れている白砂糖も,こんな感じで作られているのですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/23 21:30
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 沖縄の畜産文化について教えられたし.

 【回答】
 沖縄には,豚と山羊の食文化があります.
 沖縄に中国から豚がもたらされたのは1392年のことだそうですが,広く普及し始めたのは1605年に伝わった甘藷が全島に普及するようになり,救荒作物だけでなく,飼料として用いられるようになってからです.
 また,山羊の方は1431年に中国から輸入され,以後,豚と山羊が沖縄の食文化に於いて大きな地位を占めるようになりました.

 豚が沖縄に定着したのは,中国の影響と言うか冊封使の接待にこれを用いなければならなかったからと言うのと,安価な甘藷にて育てることが出来,救荒用家畜として重視された事も一因です.

 豚にしても,山羊にしても,多くの家で飼われており,正月などのハレの日には,自家屠殺して,自家消費するスタイルが長らく続いていました.
 自家屠殺された豚は,解体して肉は塩漬けにされ,搾り取られた脂は甕に入れて保存されました.
 内臓は常温で保管出来ないので,解体したら直ぐに,取出してひっくり返し,雪花菜(豆腐ぬかしー)や大豆の皮を塗して良く洗い,塩もみして汚れや臭気を取り除きます.
 それをさっと茹でて細かく切ってから,柔らかくなるまでよく煮込み,豚骨や豚肉の煮汁と一緒にして味付けされた「中身の吸い物」や豚血とともに煮込まれて「うわちーじる」となるなど,主に汁物として真っ先に食されています.

 北のアイヌでも,内臓料理は多くの種類があります.

 例えば,鮮度の良いアカハラ(産卵期のウグイ),カスベ,カワカジカ,サメ,サケ,マスなどは内臓も含めてタタキにしました.
 陸海獣の内臓は,部位毎に切り分けられて何も付けずにそのまま刺身にして食べました.
 彼ら曰く,
「肝臓は柔らかく,心臓は歯応えがあり,噛む程に甘みを増す.腎臓はまさにそれの中間」
だそうな.
 少量しか得られない部位に関しては,年寄や主な男衆,病気がちの人々に振る舞われ,眼球の水晶液や下の中の軟骨などのように,その獣を捕獲した男だけが口に出来るものもありました.

 ヒグマの場合,霊送りの際に重要な役割を持つのが,頭部の肉に脳漿を混ぜたタタキです.
 陸獣の最高の神であるヒグマのタタキは,最高級の珍味でもあり,男女の長老達,ヒグマ猟をした男衆,ヒグマの霊送りに重要な役割を担う男衆,そして村外からの客と言った特別の人に振る舞われました.
 この儀式では,頭部の肉を叩き,最後の仕上げに脳漿を混ぜたものが少量ずつ振る舞われ,頂く時に神々への感謝が述べられます.
 因みに,頭部のタタキ以外でも,食道,気管,甲状腺,肺,頸動脈,頚静脈などそのままでは食べにくいものも,タタキにして女性,子供,若者に分け与えられていました.

 この他,ヒグマや魚類だけでなく,鹿,兎,リス,鳥類などの内臓もタタキとして用いられていました.

 近世期の本土ではどうだったか,と言えば,19世紀半ば頃から,死牛馬処理の取り決めや取分け帳に,「肉片」「皮」「牛頭」などとともに,「筋にの皮」「ほそハたこし爪肉付」「すえみのこし」などが挙げられています.
 このうち,「にの」とか「みの」は胃,「ほそハた」は腸など内臓が扱われていたことが伺えます.

 1864年頃に成立した『花の下影』と言う作者不明の幕末大坂の食風景を描いた本には,「きも汁店」なる店が紹介されています.
 この本は,江戸時代の大坂ミシュランみたいなもので,殆どの店は場所まで示されているのに,この「きも汁店」は詳細が不明で,中身も何だったかよく分らないのですが,葱と味噌を用いている様な光景が描かれていることから,何かの魚か動物の肝,あるいは当時既に関西では牛肉商売が成立していた事から,肉だけでなく,その内臓の取引も為されていたので,牛のホルモンを用いた汁物だったかも知れません.

 同じ頃,開港したばかりの横浜では,入舟町の店が牛鍋屋を始めました.
 これは外国商館の関係者から,棄てるような臓物部分を安く仕入れ,ぶつ切りにして串に刺し,大鍋に入れて味噌や醤油味で煮込んだもので,1串3文で売られ,これがよく売れたと言います.

 明治以降,近代になると,牛鍋屋の全盛と共に,牛肉販売も隆盛を極めたのですが,次いで注目されたのは,「舌」だったりします.
 明治期よりこれは高級洋食材として用いられ,1894年に出版された『伝家宝典 明治節用大全』の家事経済編飲食門西洋料理方には,牛の舌煮の料理法が掲載されています.
 それによると,牛の舌を湯煮して皮を剥ぎ,牛酪(バター)4.5ポンド,麦粉5分と細切りにした玉葱半分に塩胡椒して火にかけ,牛酪が溶けたら舌を入れて煮,一旦火を止め赤葡萄酒か「ホルトワイン」(ポートワイン)を杯に2杯ばかり溶き芥子を鍋に入れ,蓋をして10分煮込み,食卓に出す際,出来上がった舌は,薄く切って食卓に出すとしています.

 因みに,1904年2月の『家庭之友』料理欄にも,1枚4~5銭の牛の舌から15人分のシチューが出来ると紹介されています.
 この頃の食肉標準小売価格は,牛肉ロース100匁(375g)65銭,牛肉中等肉100匁45銭,豚肉上等肉100匁30銭ですから,随分とお安いものだったりする訳です.
 ただ,この頃のタンは肉屋に注文すると頭部から切り取った舌をそのまま届けると言う代物で,素人がおいそれと調理出来る様なものではありませんでした.

 現在,仙台では牛タンが名物になっていますが,この牛タン専門店が開店したのは,太平洋戦争後のことで,戦後間もなく,舌を扱ったのですが,当初は肉塊に附属して取引されており,焼き鳥屋で利用される程度で需要が少なかったと言います.
 そこで,牛タンを一般庶民でも好まれるように工夫したのが,麦飯とタンの塩焼き,テールスープを組み合わせた定食でした.
 最近では,仙台だけで年間2,000トンの牛タンが消費されているそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/02 23:43
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 薩摩では肉食が当たり前だったの?

 【回答】

 薩摩は別に日常的に牛,馬を食べるという訳ではない.
 基本,畑を耕す大事な戦力だからね.
 食べるのは豚.
 当時から「歩く野菜」と呼ばれてて,大いに食った.

 基本,薩摩の土地は桜島が噴火して出した火山灰が堆積して出来たシラス台地と言われる土地で,土地がやせている.
 米も野菜も,他の地域よりは収穫量が少ない.
 だからサツマイモが日常食でもあったし,あと,薩摩は武士の数が酷く多い土地だったので,食料が基本足りていない.
 だから海から取れる魚や雑草でも育つ豚,他の生き物食って育つ犬が食料となった.

 よく,犬食いの事は,日本史板などでは馬鹿にされているんだけど,世界の先住民族などでは,犬は保存食みたいな扱いが結構多い.
 豚や牛,馬は草を食べる(豚は雑食だけど)ので,旱魃などが起こると食べるものが無くなってしまうんだが,犬は肉を食うので,旱魃などで草食獣が食えないなどの時の為に,みたいな.

 まぁ,江戸時代などでは,参覲交代などで江戸に来た薩摩武士は,影日向で犬食いと馬鹿にされてた訳なんだがね.

 時代は下るけど,薩摩の西郷があんなにガタイが良く,しかも太っていたのは,「とんこつ」と呼ばれていた豚肉と根菜類の味噌煮込みを,彼が好物だったからと言われている.
 ただし,味噌煮込みとは言っても砂糖は入っているが.
 薩摩料理には結構何にでも砂糖が入っている.
 現在でも醤油に砂糖が入っていたり.

漫画板,2015/04/04(土)
青文字:加筆改修部分


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