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◆飲料
けふの料理 目次


 【link】

「東京の郊外より・・・」◆(2013/03/14) 「日本ワイン」:和食と世界へ


 【質問】
 チャイの淹れ方を教えてください.

 【回答】
 紅茶専門店のG-crefで教えてもらったチャイは,

1.100mlのお湯を小さめの鍋で沸騰させる
2.紅茶の葉っぱ5g(葉っぱが細かいものは少なめ)入れて,
  火を止めて5分蒸らす
3.牛乳100ml入れて,香辛料入れて弱火で液面の縁に
  小さい泡が出てくるまで沸かす
4.出来上がり

 要はボコボコに沸いた湯1:弱火でぬくめた牛乳1になりゃOK.
 お勧めはティーバッグ2〜3袋放り込んで,水の色が濃い赤になりゃOK.
 香辛料はシナモン,カルダモンの他にブラックペッパーなんかも行ける.
 夏場は砂糖入れなくても旨い.

漫画板,2012/06/09(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マグレブ諸国でお茶が好まれていた理由は?

 【回答】
 人間は様々なものを飲み食いしていました.

 飲み物にしても,英国圏は紅茶,英国を除く西欧圏や米国圏,それにアラビアやトルコ圏だとコーヒー,ロシア圏は紅茶,インドは紅茶,中国は各種の茶,日本は緑茶,南米ではマテ茶,中央アジアではバター茶にする団茶と大きく分かれていますが,同じ西欧圏でもオランダでは昔からココアの消費が多く,地中海沿岸では昔からハーブティーが好まれました.
 また,アラブでもマグレブ諸国ではお茶が好まれていますし,トルコはロシアの影響からチャイが好まれていたりもします.
 逆に,トルコの脅威に晒されたロシアやウクライナには,そのトルコの影響を受けてコーヒーを飲む文化もあったりします.

 マグレブ諸国でお茶が好まれていた理由と言うのも戦争絡みで,18世紀中頃に欧州で起きていた革命などの戦乱により,英国船がアジアから遙々運んでいた茶葉が欧州で捌けず,困ってマグレブ諸国に持ち込んだのが最初だそうです.
 丁度,このお茶の葉は発行途中で緑茶の段階で流通したものですが,英国と違って意外にもこの緑茶が受容れられ,地中海のミントと組み合わさって独特の文化を編み出してきました.

 フランスの植民地だったヴェトナムもコーヒー文化圏.
 豆は良いのですが,それに入れるミルクは其の昔,冷蔵設備が無かった為,生クリームが保存出来ず,コンデンスミルクをコーヒーに入れる様に成っています.

 別のフランス植民地であるセネガルの場合は,何故か中国茶にミントの葉と砂糖をたっぷり入れるアタヤと言うお茶を喫しています.
 彼等は昼前のひととき,1時間くらい掛けて仕事の手を休め,2〜3杯飲んでおしゃべりに花を咲かせるそうです.

 韓国の場合は,李氏朝鮮の時代に仏教が迫害を受けました.
 この為,仏教と深く関わりのあったお茶の文化もその頃に衰退してしまったと言う説があり,中国と日本の間にあるにも関わらず,御茶っ葉を用いたお茶がありません.
 しかし,水や白湯では味気ない.
 其処で生まれたのが,高麗人参茶とか柚子茶.
 特に大衆に広まったのは自宅で簡単に栽培出来る柚子を薄くスライスして,蜂蜜と少量の焼酎で漬け込んだものをお湯に溶いた柚子茶で,これは韓国料理の伝統的な考え方である,「医食同源」と「もてなしの心」を体現した飲み物として親しまれています.

 中国でも政治の影響を免れる事が出来ませんでした.
 確かに,「人が集まれば,茶が集まる」と言われるくらい,多士済々のお茶を持つ国でしたが,特に文化大革命の時期には文人趣味を彷彿とさせるお茶が非難され,街から茶館が消えてしまったりしています.
 とは言え,大陸の気候は乾燥気味ですから,お茶の文化を絶やす事は出来ません.

 また,道教信仰のある中国の場合,陰陽説が結構幅をきかせています.
 森羅万象,宇宙の有りと有らゆるものは,陰と陽の2つに分類出来,陰と陽は互いに対立しますが,ある時点では陰が陽になり,陽が陰になるとか,陽は善ではなく,陰は悪ではない,両者は対等,同等である…などなど,考えたら頭が痛くなりそうですが,香港ではクリームシチューとトマトシチューを掛けた炒飯とか,コンデンスミルクで食べる白い蒸しパンと黄色い揚げパンの様な陰陽説に基づいた食べ物が多数有ります.
 こうした食べ物は「鴛鴦」,つまりオシドリと呼ばれ,先の炒飯は鴛鴦炒飯,後者のパンは鴛鴦饅頭と呼ばれています.
 香港ではお茶も,同じ様に鴛鴦茶と言う代物がありますが,これは紅茶とコーヒーを混ぜ合わせた飲み物.
 香港という如何にも,英国と中国という2つの支配者に支配された陰陽の様な土地らしい飲み物ですわな.

 イランは紅茶文化圏ですが,「シナモンティー出すよ!」とは,日本語で言う「胡麻を擂る」と言う事.
 床屋のサービスなどでも,紅茶を出す事があると言います.
 因みに,京都で「ぶぶ漬如何どすか」と聞かれて,「はい,頂きます」なんて言ってしまうと軽蔑されますが,イランでは,「ちょっと待ってて,シナモンティー持ってくるから」と言われるのが,「ぶぶ漬如何どすか」に当るそうです.
 イランでこう言われたら,「有り難う,でももう要りません」と言って席を立ちましょう.

 そう言えば,海外の文献にこんなものが紹介されていました.
 皆さん,よく御存知のものですが,何か判ります?
 私は結構悩みましたよ.

A Traditional Japanese Hot Drink in Winter Season.
a warm, sweet red bean drink with rice cakes.
This is a traditional Japanese hot drink made with red beans rice cakes.
It is loved by many Japanese, especially during the winter season.

Ingredients
~~~~~~~~~~~~
(6 servings)
・ 1 cups ... red beans
・ 5 cups ... water
・ 13/4 cups ... sugar
・ 1/4 tsp ... salt
・ 12 small pieces of rice cakes, or use regular rice cakes and cut up and
toast in toaster until puffy and cooked.

Directions
~~~~~~~~~~~~
1. Boil red beans for 3 minites, drain.
2. Simmer beans in 5 cups of water over low heat for about 2 hours.
3. When beans are soft, add enough water to make 5 cups.
4. Add sugar and salt.
Cook about 10 minutes or unttil sugar is dissolved and beans are flavored.
5. Toast 2 pieces of rice cakes per saving.
6. Place in bowl and cover with the cooked beans.
7. Serve warm or at room tenperature.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/28 22:18


 【質問】
 「ばくだん」って,エチルにメチルを混ぜたものから,沸点差利用してメチルを取り出して,香料混ぜたもんだっけ?

 【回答】
 メチルは飲めないよん.

http://www.jarinko.com/monograph/bakudan.htm
より引用.

------------
 石油資源に乏しい我が国では,国策として甘藷づくりが推進され,この甘藷を原料として,各地の拠点の国営アルコール工場でアルコールがつくられました.
 飲むためのものではなく,石油に変わる燃料とするためでした.
 このアルコールはほぼ100%のエタノールであると考えられ,水で薄めるとお酒として飲めるので,酒税がもの凄く高くついてしまいます.
 そこでメチルアルコール(慣用名:メタノール,強い毒性を持つ)を加えて飲めないようにし,高い税金を取られないようにしました.
 更に,合成着色料でピンクに染められました.
 このピンク色は「飲むと死ぬ,目がつぶれる」と言う赤信号でした.

 この,燃料にしか使えない工業用アルコールが,戦後の混乱期に横流しされて「バクダン」になったのです.
 着色料のピンク色は,木炭の粉を入れると吸着され無色になりますが,メチルアルコールの方はそうはいきません.
 脱色された工業用アルコールを加熱しますと,メチルアルコールの方はエチルアルコール(慣用名:エタノール)より,少し揮発性(メタノールの沸点64.6℃,エタノールの沸点78.3℃)なので,早く蒸気化します.
 この沸点の差を利用した方法で,メチルアルコールの殆どは取り除かれました.
 この方法を全くやってないもの,やり方がうまく行かなかったものが粗悪な密造酒であり,この密造酒が人を殺したり,眼を潰したりしたものと考えられます.

 「ばくだん」に使われていると思われるアルコールは,メタ変性エタノール(エタノール約90%,メタノール約10%)だと思われます.
 値段は500mlで800円くらいです.
 エタノールは500mlで1,550円くらい(酒税が上乗せされてしまう)であり,メタノールは500mlで600円くらいですから,メタ変性アルコールはかなりお得だと考えられます.
 燃料用アルコールは,メタノールが30%〜40%含まれてお,り「ばくだん」に使われたアルコールとは考えにくいです.

 なお,「ばくだん」は何も味がしないと考えられるので,砂糖なんかで多少味付けしていると考えられます.
 メタノールは30mlくらい飲むと死んでしまうので,同様の方法で実験することは絶対にしないで下さい.
------------

 仮に死ななくても,メチルアルコールが体内の酵素で分解された時に発生するホルムアルデヒトが,視神経に作用して失明するそうだ.
 で,それを防ぐためには,普通の酒をたくさん飲むと良いとか.
 アルコール分解酵素がエチルを分解するのが忙しくて,メチルを分解しないからなんだそうだ.
 本がすぐに出てこないんであれだが,吐かせたりするのと共に,拮抗剤としてのエタノールを,血中濃度が所定の範囲を保つようなペースで投与する云々,とあったような記憶がある.
 ブランデー程度の濃度なら,この位の量をこういうペースで投与する,とかいう事が書いてあったけど,まあ,素人判断でやるような事でもないだろうね.
 仮にそれを試して失明したとしても,当方ではいっさい関知しないのであしからず.

 ちなみに父が戦後すぐ,動員先の海軍の管轄下の工場からメチルをドラム缶ごと盗んできて,日本酒っぽい色にまで番茶で割って,近所の若い衆と飲んだそうだ.
 即昏倒して,一人死んだとのこと.
 亡き父は(その時死んだ訳じゃないぞ),メチル,メタノールの混合液を番茶で割って飲もうとした訳か.
 単にアルコールとして飲もうとしただけだな....

 意地汚い酒飲みが,全国で大勢死んだと思われ.
(ソ連で戦車の不凍液飲んだような物か?)

軍事板,2004/05/09〜05/11
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ワインの売り方には,どのような形態があるのか?

 【回答】
 ワインと言えば,日本の場合はボトルワインが主流です.
 しかし昨年,ペットボトルワインが出てフランスの方からクレームが付いた訳ですが.
 兎も角,ボトルワインでは750ミリリットル入りのフルボトルもしくは375ミリリットル入りのハーフボトルに,コルク栓を使ってワインが封入され,ブランド名を刻印したラベルが側面に貼られているのが一般的です.

 しかし,ボトルワインと言うのは意外に歴史が新しく19世紀に使用が定着し,拡大したものです.

 ワインの売り方で最も原初的な売り方は量り売りです.
 日本では全く見られない販売方法ですが,スペインワインの場合,ワインを生産する協同組合が生産施設に直販所を併置し,量り売りを行うのが典型で,顧客は1.5リットルや5リットルなどの好みの大きさのペットボトルなどを持参して,ステンレスタンクから直接ワインを抽出して貰う形になっています.
 ワインの種類による価格の違いは勿論ありますが,1リットル当たり1ユーロ前後のものが殆どで,ワイン生産地域では組合の量り売りワインを日常的に買っている人が多く,その中には自らの葡萄を組合に搬入している組合員も含まれます.
 また,生産地域からやや離れた場所でも,ワインをバルクで仕入れて小さめの樽やステンレスタンクにストックし,量り売りをしている小売業者も少なくありません.

 生産者は,出来上がったワインの中で並質のものを量り売り用とすることが多いですし,小売業者の量り売りの場合は,生産者を明示しないのが通例です.
 従って,量り売りワインは品質面の保証が薄い商品であるのは確かなのですが,地域の生業と結び付いた消費習慣だとか,圧倒的な価格の安さ故に,量り売りワインについては,ワイン生産地域を中心に根強い人気があります.

 次いで,これも日本では結構少ない形態ですが,紙パックやペットボトルに封入された形です.
 紙パックのワインをスペインで最初に商品化したのは,Don Simonで知られるJ.ガルシア・カリオン社です.
 スペイン南東部のフミリャを本拠とする同社は,1980年代,テーブルワインのパッケージとして当時主流だった1リットル入りリサイクル型硝子瓶に換えて,より安価で規模の経済を追求出来る紙パック入りのワインを開発しました.
 当初は,伝統を維持しようとする業界から激しい批判を呼んだのですが,市場では大成功を収めました.

 最近,日本でも見られる様になったペットボトル等のプラスチック容器は未だ相対的に高価でしたが,その後のコスト低下により2リットルや5リットルのプラスチック容器に入ったテーブルワインも続々と現れました.
 現在では,紙パック,プラスチック容器入り,両方ともスーパーなどのチェーン方式の小売店で典型的に見られる販売形態となっています.

 最後の形態が,日本では全くと言って良い程見られないbag in boxと言うものです.
 文字通り,厚紙の箱の中にワインを注入した袋状の容器を入れ,箱の側面下部に抽出口を設けたものです.
 中の袋は自由に変形する軟質プラスチック容器で出来ていて,抽出した分だけ袋が収縮する為空気が入りにくい構造になっています.

 日本では箱入りワインと言うと,品質の劣る,安物をイメージする事が多いのですが,実際には開封後も数週間に亘って品質を維持出来る優れものです.
 bag in boxは,欧米のワイン輸入国を中心に強い支持を受けており,酒類販売店などでは,多種多様な銘柄のbag in boxがずらりと陳列されている光景を見ることが出来ます.
 また,スペインやフランスと言った主要生産国の専門店でもこの種の容器の取り扱いが増えており,最近では円筒形の箱など,洒落たデザインのパッケージも工夫されています.

 もう1つ,この販売形態が優れている特徴は,前2者が品質保障上の問題などから原産地呼称の認定を受けることが難しく,原則的にテーブルワインとして売られているのですが,bag in boxでは,ボトルワインと同様の密封性と品質保持に果たす優れた性能故に,多くのスペインの産地ではDO認定の対象に含められています.
 銘柄の種類はボトルワインには叶いませんし,勿論最高級ワインをこの形式で提供するのは難しいですが,良質なDOワインを日常的に手ごろな価格で楽しむという面では,この形式が好まれる傾向にあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/22 23:44
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ワインのラベルには,何が書かれているのか?

 【回答】
 ボトルワインにはラベルが貼られています.
 スペイン産DOワインの場合でも,そのボトルワインのラベルには様々な情報が掲載されています.

 表面のメインラベルの一番上には販売者名,真ん中に銘柄名が印字されています.
 DO認定を受けている場合は,メインラベル下部に産地名が明記されており,産地名の下には特選原産地呼称(DOC)を意味するスペイン語が記載されています.
 また,ワイン銘柄の上には葡萄の収穫年と熟成区分を印字しています.
 熟成区分と言うのは,例えばReservaとあったら,「赤ワインの場合,樽内で12ヶ月以上,更に瓶内で24ヶ月以上の熟成を経たワイン」に与えられた呼称です.
 ただ,最近はこうした機械的な区分けが品質イメージを却って損ないかねないとして,その熟成区分を敢えて記さないことを選ぶ業者も少なくありません.

 DOリオハの場合,メインラベルに加え,統制委員会がDOのロゴの入った帯状の小ラベルを発酵し,これをボトルに貼る様に義務づけています.
 小ラベルにも,収穫年や熟成区分が明示されています.

 メインラベルとは逆の面には,もう1枚小型のラベルが貼られています.
 これは生産者に関する注記で,表面に大きく書かれている販売者名はあくまでも表の顔で,実際には別の事業者が作っているケースもあります.
 裏のラベルには,登録番号何番の業者が,販売者向けにボトリングしたことが明記されています.

 ラベルの必須記載事項や記載方法については,各DO規約で定められており,DOによる違いも少なくありません.
 また,最近では古典的ラベルとは一線を画して,シンプルながら個性的なラベルを追求する事業者も少なくなく,特にカタルーニャ自治州ではその傾向が強かったりします.
 そうしたワインの場合,裏面のラベルに葡萄畑,品種,生産方法,風味,賞味の仕方についての説明を記載している事が多く,これも定着しつつあります.

 なお,新大陸のワインの場合は,銘柄と共に品種を前面に押し出す傾向があります.
 ラベル下部には有機栽培による葡萄の使用が示されていたりしますが,オーガニックワインの拡大は,今や世界的な潮流となっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/22 23:44
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 輸送技術進展が,スペインのワイン産業に与えた影響について教えられたし.

 【回答】
 スペインでは,葡萄栽培に適した国土が大多数を占めます.
 その為,スペインではアンダルシアで紀元前1100〜500年にかけて,フェニキア商人やギリシャ人が葡萄栽培を開始し,家内工業的に葡萄を栽培していました.
 その後,イベリア半島に進出したローマ帝国が,属州と本土への供給を可能とする一大産業に仕立て上げます.
 勿論,ワインの生産も行われていたのですが,イスラームの侵略を受けて一端このワイン生産は下火になりました.

 しかし,レコンキスタが進み,ワイン産業は再び活発化して,14世紀にはシェリーが欧州全土に輸出される様になります.
 17〜18世紀の黄金時代には,スペインのワインは,南北アメリカへの輸出も為されました.
 この頃,現在に繋がるワイン産地の骨格が形作られました.

 ただ,19世紀半ばに鉄道が登場するまで,内陸部の物資輸送は,整備の為されていない街道上を,馬や驢馬の背に乗せるか,或いは馬車を曳かせて輸送するかのどちらかしかありませんでした.
 こうした陸上輸送には多くの時間を有しましたし,積載量も大きくありませんでしたから,輸送コストはその分高く付きました.
 また,地域によっては,冬になると積雪の為通行が阻まれるケースもありましたので,移動に伴うリスクが大きく,信頼性の高い定期的な輸送を実現するのは困難でした.

 更に,当時は現在の様に,亜硫酸塩による品質の安定化や,低温輸送技術が未発達であった為に,内陸部で造られたワインは,総て自己消費するしかありませんでした.

 この為,内陸部では遠方の市場を意識した,商品性の高いワイン造りが試みられる事が少なく,裏返せば,生産技術の発達が妨げられ,凡庸な品質のワインが長く続けられる結果になった訳です.

 一方,海運が利用出来る沿岸部では,早くからワインの遠隔地交易が発達しました.
 主な輸出拠点は,地中海に面するカタルーニャ地方,バレンシア地方,アンダルシア地方です.
 この内,アンダルシア地方のヘレスやマラガでは,製造過程でアルコールを添加する酒精強化ワインの産地として国際的に名を馳せています.
 特にヘレスでは,早くも16世紀末頃からイングランドやフランドルへの輸出が盛んになり,17世紀にはマラガから北西ヨーロッパ市場への出荷が始まりました.

 特にヘレスで産するシェリーは,ポルトガルのポートやマデイラと共に,イングランド市場での人気が高いワインでした.
 因みに,sherryと言う言葉は,産地名のJerezが英語風に訛ったものです.

 カタルーニャ地方の場合は,バルセロナ南西に位置する町,シッチャスでマルバジア種の葡萄を用いた甘味ワインが小規模に生産・輸出されていました.
 しかし,18世紀頃になると北西ヨーロッパや米国の植民地に向けて,葡萄を原料とする蒸留酒の大規模な輸出が始まり,地域の主力産業になっていきます.
 この蒸留酒は,土地の言語であるカタルーニャ語で,アイグアルデンと呼ばれています.

 カタルーニャ地方の南に位置するバレンシア地方でも,18世紀以降,蒸留酒の活発な輸出が見られました.
 中でもアリカンテは蒸留酒のみならず,甘味ワインでも知られました.
 甘味ワインとは,地元原産のモナストレル種の遅摘み過熟葡萄を使い,長期間熟成されるフォンディリョンの事です.
 この甘味ワインは,イングランドやフランドルのワイン市場にも参入していました.

 この他,15世紀にスペイン人が入植したカナリア諸島では,移入されたマルバジア種を使用した甘味ワインが作られ,16〜17世紀にかけて,イングランドに向けて相当量が輸出されています.

 近代に至る前は,この様に主に甘味ワインが重要な位置を占めていました.
 これは,通常よりもアルコール度数が高く,長期保存と遠方への輸送に適していた事による部分が大きな理由を占めています.
 また,日照条件に恵まれた地中海沿岸の産地では,収穫時期を遅らせるなどの手法により,比較的容易に糖度の高い葡萄が得られる為,アルコール度数が高めで品質の安定した甘味ワインを作る伝統が蓄積されていきます.

 こうした構造が変わるのが19世紀半ばです.
 これは鉄道の敷設に関係があります.
 スペインに於ける鉄道は,1848年にバルセロナ・マタロ線が開業したのが最初です.
 以後,1853〜1866年,一端置いて,1873〜1896年に掛けて鉄道網の敷設が急ピッチで行われ,19世紀末には島嶼部を除くスペインのほぼ全土を覆うに至りました.

 この鉄道敷設は,内陸部を遍く,且つ高速で結ぶ事になり,内陸諸地域間の交易を活発にさせ,国内市場の統合を促す事になりました.

 また,鉄道敷設が齎した輸送費用低減とスピード向上により,内陸部のワイン産地が飛躍する発展の切っ掛けを掴む事も出来ました.
 特に,1861年開通のマドリード=バルデペニャス線によって首都と結ばれたラ・マンチャ地方のワイン産地は,首都へのワイン出荷によって大きな利潤を得る事になり,その利潤を利用して後にはスペイン北部のカンタブリア海沿岸地域にまで販路を拡大しました.

 一方でガリシア地方やアストゥリアス地方は,北部の山間部であり,鉄道が到達する19世紀末まで国内流通のネットワークから取り残され,衰退とか停滞に陥ってしまいます.

 因みに,スペイン人1人当たりの年間ワイン消費量は1859年当時で35.2リットルと推定されています.
 後に,カタルーニャ地方やバスク地方などを中心に近代産業が発展していくと,それにつれてワインの消費量は増加していきました.
 ある程度正確な数値が出せる1975年では65.6リットルでしたが,その後は緩やかに下降線を辿り,1984年には62.0リットル,1990年には46.9リットルとなって,国際ワイン機構の調査データでは,2005年時点の消費量は31.8リットルと19世紀を下回っている状態だったりします.

 昔は,ワイン一辺倒だったのですが,最近では健康志向もあって余り消費が進んでいないのが現状です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/11 23:05
青文字:加筆改修部分

 さて,鉄道が敷設されて19世紀後半になると,スペインのワイン産業は大きく発展します.
 その発展は,従来の酒精強化ワインや蒸留酒の輸出とは異なっていました.
 19世紀初頭には,スペインが新世界に有していた植民地は殆ど独立してしまい,北西ヨーロッパ市場にも変化が生じていました.

 代わって伸びたのが,フランスへの大衆ワイン輸出でした.
 フランスのワイン輸出の拡大には,当時の危機的状況が深く関わっていました.
 シャンパンの話を書いた際にも取り上げましたが,19世紀後半には欧州のワイン産地を,オイディウム病,フィロキセラ,ミルドゥ病と言った葡萄の木の病気が次々と襲い,甚大な被害を被ったのです.

 先ず1850年代には,オイディウム病がフランスに蔓延しました.
 オイディウム病は日本では饂飩粉病と呼ばれるもので,葡萄の葉や実の表面に寄生菌が付着して腐敗させ,饂飩粉を掛けた様な白くなる症状です.
 1845年に英国で発見された後,1847年にはフランスの葡萄畑に来襲し,間もなく欧州の大部分の葡萄栽培地域に広がりました.
 スペインでも,1850年にポルトガル経由で進入し,ガリシア地方など湿潤な地域の葡萄に大きな被害をもたらしましたが,内陸部は乾燥しており,その影響が限定的でした.

 この為,フランスの葡萄畑がオイディウム病に侵されると,自国の消費量を賄いきれなくなり,その被害が少なかったスペインからのワイン輸出は急増します.
 1857年のワイン輸出量は,1850年時点の3.6倍に跳ね上がり,その内約37%がフランスによる買付でした.
 ただ,この時期には鉄道の建設が進んでいませんから,フランスへのワイン出荷は専ら,地中海沿岸から海路によって行われていました.
 折角のチャンスなのにも関わらず,内陸の輸出量は増えず,その恩恵はカタルーニャ地方やバレンシア地方など,地中海沿岸の産地に限られていました.
 そして,フランスがオイディウム病の被害から回復し始めると,スペインからの輸出は縮小を余儀なくされました.

 しかし,1870年代後半,フランスを襲ったのがフィロキセラ渦です.
 フィロキセラは,葡萄の根に寄生し,樹液を吸って木を死に至らしめる害虫で,葡萄根油虫とも言われます.
 これは,米国から輸入された葡萄の苗木に付着して侵入し,1863年にフランスで最初に発見され,間もなく欧州全土の葡萄栽培地域に広がりました.
 そして,フランスの葡萄は壊滅状態になった訳です.

 フランスはこうした状況で再び原酒に事欠く状態になった為,1877年にスペインからの原酒輸入を円滑化すべく,ワインに関する通商協約,1882年には通商条約をスペインとの間で締結し,ワインの輸入関税を大幅に引き下げました.
 これを受けて,フランスのワイン生産の落ち込みと反比例して,スペインからのワイン輸出は増加し,1876〜1891年の15年間で凡そ8倍に達しました.
 そして,スペインからのワイン輸出に占めるフランスの比率は1870年に僅か8.6%でしたが,通商条約の締結された1882年には81.8%に達しています.

 こうして,1870〜1880年代を通じてスペインワイン業界は,「黄金時代」を謳歌します.
 スペイン各地では,輸出の増加に乗じた葡萄畑拡張の気運が高まり,農民達は未開墾地のみならず,従来のオリーブ畑や小麦畑をも葡萄畑に換えていきました.
 この結果,1860年に約120万ヘクタールだった葡萄栽培面積は,1892年には少なく見積もっても180萬ヘクタールに達しました.
 この頃には,スペイン国内に鉄道網が張り巡らされており,内陸部のワインの輸出を行う事も出来る様になっていました.

 但し,当時フランスが求めたのは,専ら自国産ワインとのブレンドに用いる低価格の原酒だった為,品質の善し悪しに関わらず,作れば売る事が出来ました.
 そう言う意味では,一種のバブルであり,フランスの需要に合った濃厚色でアルコール度数の高いワインを産し,且つ鉄道アクセスを持つ地域では,遠い先の事はいざ知らず,取り敢えず,目先の利益を上げる事が出来た訳です.

 このバブルは,僅か20年間の徒花に終わりました.
 フィロキセラに侵されたフランスの葡萄畑は,米国産の台木を使った接木によって,間もなく危機を脱してしまいます.
 そうなると,フランスにとってスペインのワインは不要…と言う事で,1892年にフランスはスペインとの通商条約を破棄し,スペイン産ワインに対する関税を引き上げました.
 この背景には,既にフランスの植民地となっていたアルジェリアでも葡萄生産,ワイン生産が行われており,それらの供給が拡大した為,わざわざ国外からお金を出して,ワインを買わなくても良くなったという事情もあります.

 スペインのワインバブルが弾けたもう1つの要因は,ワイン需要の高まりに乗じた偽造ワインの氾濫です.
 以前にもワイン法の話で取り上げましたが,偽造ワインとは濃厚色のワインを水で薄め,それにアルコールを添加するなどの方法で作った飲料の事です.
 不正を働いた業者は,アルコール度数の低下を防ぐ為の添加物として,当初は葡萄の蒸留酒を用いていましたが,1870年代後半になると,穀類や馬鈴薯を原料とする安価なアルコールが,ドイツから大量に輸入される様になり,そうしたアルコールが添加用に使われる様になります.

 また,輸出拡大につれて,不正行為は輸出ワインに対しても行われる様になりました.
 しかも,その偽造ワインの製造には,塩基性染料の一種であるフクシンの様な有害物質を着色料として屡々用いました.
 健康への影響を懸念したフランスは,不正行為に激しい非難を浴びせて輸入制限に踏み切り,英国も又,同様の動きを見せました.
 こうして,国際市場に於ける偽造ワインの氾濫は,スペインワインへの評価を貶め,危機の原因を作ったのです.

 そうこうしているうちに,フィロキセラがスペインにも侵入してきました.
 これは鉄道が通じていたり,輸出入などが行われていた事から,フランスから陸路入ってきたと考えられがちですが,実はこの害虫が初めて発見されたのは,アンダルシア地方沿岸のマラガで,1878年に,輸入が禁じられていた米国産の葡萄苗木に付着してこの地に侵入したと言われています.

 その後,フィロキセラはマラガを起点にアンダルシア地方全域に拡がり,1894年にシェリーの産地ヘレスに到達しました.
 マラガへの侵入は正に不意打ちであり,対処策を講じる間もなく被害が広がって,1878〜1888年までの10年で壊滅した葡萄畑は85,000ヘクタールに達しています.

 北東部カタルーニャ地方へは,1879年に南フランスのルシヨン地方から,国境の反対側に位置するジロナ県に侵入し,1888年には南端のタラゴナ県に到達しました.
 こちらも被害は甚大で,葡萄畑の実に3分の1が消失しました.

 この米国からの苗木密輸に原因があると見られる被害は,北西部ガリシア地方でも起き,こちらは先ずポルトガルに侵入し,国境の町ベリンを経由して,ガリシア地方に拡がりました.
 ポルトガルからは他にサラマンカ県にも侵入し,ドゥエロ川沿いに拡がる,カルティーリャ・イ・レオン地方の葡萄栽培地域へと拡散しました.
 1909年にはこの地方の葡萄畑は,被害前の半分に激減してしまいます.

 スペイン北部のナバラ地方では,1894年にフィロキセラがフランス国境を越え,1899年には現在の赤ワイン産地であるリオハ地方に侵入しました.
 リオハでもフィロキセラの被害は甚大であり,1889〜1902年の間にログロニョ県の葡萄畑が半減,アラバ県では約3分の2が消失しました.

 一方,バレンシア地方の内陸部と半島中央部のラ・マンチャ地方では,1900年代に入るまでフィロキセラの襲来を免れ,被害地域を尻目に繁栄を享受する事が出来ました.

 とは言え,1878〜1909年の約30年間に,スペインの葡萄畑の内103万6,807ヘクタールが破壊され,後に復興したのは約3分の1である32万3,858ヘクタールに過ぎませんでした.

 葡萄畑の回復は,フランス同様に,その寄生虫に耐性のある米国産の台木への接ぎ木によって行われました.
 カタルーニャでは,葡萄畑の専門家や経営者が,接木技術を学ぶ為にフランスに渡りました.
 ただ,接木による回復には,多大な労力と資金が必要だった為,多くの農民が葡萄栽培を断念し,オリーブ,穀物,柑橘類など,他の作物への転換を選んだり,営農環境が厳しい場所では耕作放棄も行われました.

 更に1884年,追い打ちを掛ける様に,ミルドゥ病がカタルーニャ地方から侵入しました.
 これは,オイディウム病同様,葡萄の葉や実の表面に病原菌が付着するもので,ベトカビ病とも呼ばれます.
 因みに,スペイン以外の欧州では,オイディウム病とフィロキセラよりも後の1878年に姿を消しました.

 こうして,スペインのワイン産業はワインバブル崩壊と数々の病虫害により,危機を迎えました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/12 23:24


 【質問】
 スペインのワインは,いかにして19世紀の危機から立ち直ったのか?

 【回答】
 さて,スペインのワイン産業はフィロキセラで打撃を被った上,海外貿易でも取引を打ち切られるなど,量産に偏ったが故に問題が多発していました.
 この為,量から質への転換が図られる事になります.

 その動きは20世紀初頭から徐々に行われてきたのですが,本格化するのは,漸く1931〜39年の所謂人民戦線政府の時代です.

 1932年,"Estatudo del Vino",つまり「ワイン憲章」が制定され,産地名称の管理と保護を目的とする原産地呼称(DO)制度が導入されました.
 これにより,DOの認定を受けた産地は産地名称の保護を受ける一方,reglamento(DO規約)を定め,産地毎に設置される統制委員会の監督下で品質管理を行う義務を負う事になりました.
 この様に,葡萄栽培とワイン生産が一定の制度的なコントロールの下に置かれたのは,スペインワインの品質向上へと繋がる第一歩となりました.

 この年,DO規約の制定と統制委員会の設置を条件として,合計28の産地がDO設置候補として選定されました.
 しかし,実際にはそれらの条件を満たす為の準備作業や行政手続に手間取った産地が多く,DO設置は遅々として進まず,結局,早期にDO認可を受けたのはヘレスとマラガの2箇所のみで,それ以外の産地では1936年に勃発したスペイン内戦の影響を受けてその設置が一時的に頓挫してしまいました.

 一方,スペインワインの品質は,その行政手続の有無に関わらず,劇的に向上していきました.
 今までは,農民が自ら収穫した葡萄からワインを醸造する個人醸造が主流でした.
 しかし,農民は不十分な知識,技術しか持たず,資本が十分ではない個人経営では貧弱な醸造設備しか保有できないことから,品質の高いワインは期待出来ず,量産も困難でした.

 それを改善したのは,協同組合とワインメーカーと言う2つの流れです.

 農民を組織化した協同組合では,飼料,畜産品,乾燥果実など多様な農産物加工品を生産する中で,ワイン醸造も主力部門の1つに育っていきました.
 ワイン産地に設置された協同組合では,必ずと言って良い程ワイン部門が設けられ,他の生産施設とは別に敷地を用意して,醸造所を建設するものも多く有りました.
 組合結成は,農民個人の資本力では届かない発酵用のセメント槽や金属製の圧搾機と言った近代的な醸造設備の導入を可能にし,ワインの品質安定化に大きく貢献,また,生産や販売の面でも,規模の経済が追求できるようになりました.
 協同組合の結成は,組合運動の先発地域では,20世紀初頭から始められる様になりましたが,運動が全国化したのは,意外にも主としてフランコ体制下に於いてでした.
 フランコ体制では,内戦で疲弊した農業を立て直し,国内の農業生産に対する国の指導強化の為にも組合結成を奨励しました.
 そうした政策を進める為の法的枠組みとなったのが,1942年のLey de Cooperacion(協同組合法)です.
 この法律制定の結果,組合結成の動きが加速し,協同組合がワイン生産の主力を担う地域も出て来ました.
 ワイン醸造を行う協同組合は,内戦前には100組合程でしたが,1953年には256組合,1964年には凡そ600組合にまで達しています.

 とは言え,こうした協同組合で生産されたワインは,熟成を経ずに収穫年の内に出荷される低付加価値のものであり,出荷形態も専らバルク出荷で,国内外の市場に対する安価な日常消費用ワインとして販売されるか,他の生産者に加工用原酒として供給されるかのどちらかでした.

 一方,資本家は近代的な醸造設備の導入に必要な資本を持っています.
 彼等はワイン工場とでも呼ぶべきワインメーカーを設立しました.
 その多くは,葡萄栽培とは関係を持たないワイン商人,産業資本家,貴族等によって設立されたものです.
 当初は,葡萄栽培農民から購入した葡萄や原酒を利用する加工業者としての性格が強かったのですが,後には自ら葡萄畑を所有し,その収穫からワイン醸造を行う様になっていきます.

 こうした工業生産型のワインメーカーは,シェリーの産地ヘレスでは既に19世紀初頭に主流に成り果せていたのですが,19世紀末になるとリオハやバナデスなどの産地でも同様の例が多く出現しました.
 但し,これらの産地は何れも上質ワイン生産の先駆的地域であり,他の地域でワインメーカーの設立が活発化するのは1950年代以降のものとなります.

 勿論,両方の動きが見られない地域では,前近代的な個人醸造が長らく続きました.

 時にフランコ体制初期には,autarquia(自己充足的経済)が経済政策の主流でしたが,農業の復興が進み,余剰生産が多くなると,それを放棄して対外開放へと移行していきます.
 その流れは,1950年代末頃から顕著となり,それと同時に,スペインのワイン生産も長い低迷から脱して徐々に拡大し始めました.
 ワイン輸出も着実に回復し,量的にはフランスやイタリアなど,他の主要生産国に匹敵する水準になりました.
 ただ,それらは相変わらず大衆ワインに対する根強い需要に応えたものです.

 また,国民生活の向上につれて消費生活も向上し,ワインの国内消費も増加していきます.
 それでも,スペイン国民の消費は圧倒的に大衆ワインでした.

 しかし,フランスやイタリアと言った他のワイン生産国では,第2次世界大戦後の経済復興を経て,消費生活の向上と共にアルコールの過剰摂取への批判が高まりました.
 また,1970年代になると大衆ワインは深刻な供給過剰の問題に直面し,代わってビールや清涼飲料の消費が拡大しました.
 他方では消費嗜好の高級志向化に伴って,良質ワインの消費量は徐々に増加しましたが,大衆ワインの落ち込みを埋め合わせる程にはなっていません.

 1970年,欧州経済共同体では,共通農業政策の一環としてワインの共通市場を形成しました.
 その心は,過剰気味のテーブルワインの一部を強制蒸留に付す事によって価格維持を図り,合わせて葡萄栽培業の構造改革を進める事にありました.

 ワインの共通市場の成立は,域外にあったスペイン等にとってみれば,域内国に向けたワイン輸出のハードルが高くなる事を意味します.
 これを補う為にスペインワイン業界では,共通農業政策の対象外に置かれた原産地呼称ワイン,取り分け,英国やオランダへのシェリー酒輸出に力を入れる一方,域外国に対しても,従来からの顧客であったスイスへの大衆ワイン輸出を強化しました.
 また,ワイン市場が成長しつつあった東欧や,象牙海岸やカメルーンと言ったギニア湾岸諸国への販路も新たに開拓しました.

 このワイン消費の傾向は国内でも変わっていきました.
 1970年代半ばになると国内のワイン消費量も頭打ちとなり,ワインに品質や多様性を求める消費者が増え始めます.

 こうした中で,既に良質ワイン産地としての定評を得ていたリオハなどでは,品質の更なる向上を目指しての設備投資が活発化し,生産設備刷新と共に,醸造所の新規設立が相次ぎました.
 また,従来専ら大衆ワインを生産していた産地でも,一部の進取の気性に富んだ醸造家の主導により,設備の近代化と新品種導入が進められ,生産したワインの一部を樽熟成して,独自銘柄のボトルワインとして販売する試みが始まりました.

 この1970年に制定されたのが,"Estatudo del Vino"に代わる"Estatuto de la Vina, del Vino los Alcoholes"(葡萄畑・ワイン・アルコール憲章)と言う長ったらしい名前の法律です.
 新法の下では,DO認定ワインの品質管理制度が大幅に強化され,全国の総てのDOが国立原産地呼称院(INDO)の管理下に置かれました.
 INDOは品質の維持,向上を目的とする既存DOに対する指導を強化する一方,知名度が低い産地の発展を促す為に,DOの新規設立にも積極的に乗り出しました.

 その後1986年に念願のEC加盟が実現すると,スペインのワイン業界は,一定の移行期間を置きつつ共通農業政策の枠組みに包摂される様になりました.
 しかし,その結果は共通市場への参画による輸出促進という期待とは裏腹に,寧ろ,共通農業政策によるテーブルワインの生産制限と言う方に比重が掛かる事になります.
 これはスペインのワイン業界にとって非常に重いものでした.
 と言うのも,当時スペインは,ECのストックの30%に上るワインを供給していたからです.

 テーブルワインの生産調整の影響をモロに受けたのが,ラ・マンチャに代表される大衆ワインの大産地でした.
 生産割当分を越えるワインに対しては,蒸留措置が適用されましたが,それによって大量のワインが市場価格を大きく下回る価格で回収され,アルコール生産を目的とする蒸留に付されました.
 また,多くの葡萄畑がECによる農業構造改善の適用対象とされ,補助金給付を受けた抜根・転作やより付加価値の高い品種への改植が進められました.

 こうした流れの結果,大衆ワイン生産では立ちゆかなくなると考えた生産者の間でも,良質ワイン生産への取り組み,そして産地ブランド獲得に向けた動きが慌ただしく展開される事になります.
 その結果,1986〜1996年の10年で20もの新しいDOが誕生し,21世紀に入るとワイン法改正によって,従来からのDOに限定されない新たな地理的呼称制度が確立されて,地域的ブランド化は益々加速する方向に進んでいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/13 23:29
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 原産地呼称(DO)とは?

 【回答】
 DOと言うのは日本語で「原産地呼称」と言います.
 EU法制の中でも,ワインに関しては,テーブルワインと特定地域産良質ワインの区別を基本とする地理的呼称制度が確立されており,特定地域産良質ワインの区分をスペインでローカライズしたのがDO制度です.

 これの法源となったのが1958年に締結された「原産地名称の保護及び国際登録に関するリスボン協定」です.
 リスボン協定に依れば,DOとは「ある国,地方又は土地の地理上の名称であって,その国,地方又は土地から生じる生産物を表示する為に用いるものの内,当該生産物の品質及び特徴が自然的要因及び人的要因を含む当該国,地方又は土地の環境に専ら又は本質的に由来する物を言う」としています.

 こうした定義づけが示している様に,DOになる為には,何よりも特定の地域を容易に同定出来る地理的呼称である事が基本要件として求められます.

 これは自明かも知れませんが,例えば,ガリシア自治州にあるDOの1つ,DOリアス・バイシャスは,アルバリニョ種を用いた白ワインで有名な産地です.
 この為,DOの立ち上げの際には,地元産ワインの大きな特徴が葡萄の品種にあるとの認識から「アルバリニョ」を名前に冠したDOが構想されました.
 しかし,アルバリニョはあくまでも葡萄の品種であり,同じ葡萄は隣国のポルトガルにも存在します.
 よって,地域を同定する呼称で無ければDOになれないと言う考え方からすれば,逸脱してしまいます.
 結局,アルバリニョ種によるワイン造りを伝統的に行ってきた地域を一括して,ガリシア地方南西部のリアス式海岸を意味する"Rias Baixas"が最終的に呼称として与えられる事になりました.

 DOのもう1つの重要な要件が,地理的呼称が指し示す地域の製品が,その地域に賦在する自然的・人文的要素に由来する固有の特徴を備えていると言う点です.
 つまり,DOと言うのは,単に原料生産や加工が行われる地域を指すだけでは無く,当該地域に蓄積された技術・製法やそれが生み出す特有の品質を示すものとなっている訳です.

 法学的見地からDOの機能を見てみると次の4つになります.
 第1に産地の表示,第2に品質の表示,第3に信頼・評価の獲得,第4に宣伝です.
 第1と第2に関しては,上述のDOの概念から理解出来るものです.

 産地の表示とは,ある製品が特定地域で生産された事を示す機能の事です.
 また,地域外の製品に依る地理的呼称の詐称や地域外からの原料,中間財持ち込みによる偽造を防止する意味を持ちます.

 品質の表示は,ある製品が特定地域に固有の性質を備えている事を示すものです.
 その事によって同類の他の製品,特に画一化・標準化された普及品から区別する役割を果たします.
 但し,DOによる品質の表示は,他と比べて高品質である事を必ずしも意味するものではありません.
 DOが示すのは,あくまでも地域の自然環境やそこに伝わる技術・製法に裏打ちされた独自性が存在すると言う事に過ぎません.
 もっとも,DOの認定を受けた製品は一定の品質検査をクリアしてはいますが,その事と市場で言う高い品質とでは意味合いが異なります.

 第3の信頼・評価の獲得は,DOの存在を通じて産地が獲得するポジティヴな集合的イメージを指しています.
 そこから恩恵を受けるのは,当該DOの使用を認められている製品やそれを生み出す生産者は勿論の事,広くDOに包摂された地域やDOを有する国などにも及びます.
 つまり,DOと言う産地ブランドが一種の集合的な商標として機能し,知名度が低い製品や生産者であっても,DOの傘に入る事で,市場から一定の信頼や評価を受けられると言う事です.

 最後の宣伝は,産地と品質の表示並びに信頼・評価の獲得と言う前述の3機能が複合的に作用する事によって,DOに産地ブランドとしての販売促進力が生まれる事を指しています.
 これはDOの存在がそれ自体,ある種の価値を生み出す事に他ならず,実際,DOが製品や生産者に対する評価から離れて独り歩きし,専らDOの名前を判断基準として商品を選ぶ消費者も少なくなかったりします.

 この様な様々な機能を持つが故に,DOの周りには立場を異にする多様な主体の利害が関わってきます.
 製品を生産・販売する事業者は,DO認定による製品差別化を通じて,市場競争に於ける優位性を確保しようとします.
 消費者から見れば,産地詐称の心配をせずに地域色豊かな製品を入手出来,製品に対する識別手段を得る事になります.
 更に,DOを擁する地域は,DOの販売促進効果を地域産業の存続・発展の重要なツールとする事が出来ますし,間接的ながら,国民経済への効果も期待出来るのです.

 そう言えば,うちのCommunity合併前は,「草加せんべい」の商標が使用出来たのですが,合併した途端に,原産地では無いと言う話になってしまい,「草加せんべい」が利用出来なくなりました.

 欧州ではこうした原産地呼称がきちんと規定されていて,定着しているのですが,日本でその運用が始まったのはつい最近です.
 従って,商標とか原産地呼称についての意識が地方自治体首長や企業経営者に余り無く,現在,中国や韓国で良い様にされてしまっています.
 こうした所も,経済産業省や特許庁の罪は深いなぁと思ってみたりして.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/21 23:02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 トカイ・ワインって何?

 【回答

 ハンガリーの誇る貴腐ワインのトカイ・アスーは,英国王室やローマ法王庁御用達のワインで,フランスのルイ十四世をして
「トカイこそ諸王のワイン,ワインの王なり!」(Vinum regnum, rex vinorum)
と絶賛せしめました.

 トカイ町(村ではない!)のワインケラーで飲むトカイは(雰囲気もあり)最高ですね (^^)!
 通常,ワインのような醸造酒はたくさん飲み過ぎると二日酔いになると言われていますが,トカイ・アスーの場合は,翌日,絶対に二日酔いにはならないんだそうです.
 残念ながら,そこまで大量のトカイを飲む財政的な余裕がないために,自分では実験できないでいますが(^^;).
 いつか,試してみたいですね (^.^;)ゞ.

 しかし,そのトカイ・ワインも今ではサントリーの支配下にあります...(-_-;).
 非常に憂欝ですね....
 日本人なのに,日本の資本が買収したということを素直に喜べないことが悲しい....

しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「ワインスープ」って知らないので教えてくらさい.

ぶだぺしゅと ◆vFvohlXU : 海外旅行板,2002/12/29
青文字:加筆改修部分

 【回答】
■レシピ

・白ワインを作る量に合わせて用意する.
(ここでは1リットルを目安にします)
 数百Ftの安物でOK.

・卵の黄身を5個分用意します
 機械を使って5〜10分混ぜて肌理を細かくします
(手で混ぜるなら15分程)

・砂糖を大さじ3杯入れます.
(後でも入れられるのでお好みで)

・シナモン,バニラ砂糖(適量),胡椒を少々入れてから沸騰するまで煮込みます.
(沸騰したらすぐに火を止める.速攻で溢れるから)

 調味料に丁子(Szekfuszeg)を5粒入れます.
 シナモンは多めに入れると風味が良くなりますよ〜.

 ついでにワインスープの注意書き.
1・煮込む時は蓋をする(アルコールが飛ぶ為)
2・シナモンは粉末のより皮の方が良いです.大き目の方が○.
3・火に掛けてからの放置は厳禁.沸騰した途端,溢れかえって上に溜まったアルコールに引火するので,小まめにチェックして沸騰した瞬間に止める.

 ま,こんな感じ.
 手軽で美味しいのでお勧めですよ.

海外旅行板,2002/12/29
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヘレスのワイン産業について教えられたし.

 【回答】
 スペイン南部アンダルシア地方のカディス県,グアダルキビル川河口付近の一角にヘレスという町があります.
 この地域こそ,世界的に有名なシェリーの産地です.

 ヘレスは1932年にDO地域に認可されました.
 土壌はアルバリサと呼ばれる石灰質,砂礫質,粘土質で,それにパロミノ・フィノ,ペドロ・ヒメネス,モスカテルと言う3種の認定白葡萄を植え,ソレラと呼ばれる生産技術でワインを生産しています.
 登録された葡萄畑の面積は2008年現在で10,049ヘクタール,栽培業者は2,540に達し,ボトリング生産者数は75あり,総出荷量は国内向けが13,762キロリットル,国外向けに38,918キロリットルとなっています.

 既に見た様に,この地行きはスペインで最も早期にワインの商業的生産が行われた地域の1つで,16世紀にはアメリカの植民地や北西ヨーロッパ向けの輸出が盛んに行われていました.

 ヘレスの発展は,シェリーの最大の顧客であるイングランドの対外戦略と密接に結び付いています.
 フランス南東部,ボルドー周辺のガスコーニュ地方と言うのは元々,イングランドにとって中世まで支配地であり,この地はイングランドにとってワインの一大供給地を為していました.
 しかし,百年戦争の結果,イングランドはガスコーニュ地方を手放す事になり,それに代わる新たなワイン供給地を探す事になります.
 そして,白羽の矢が立ったのがスペインやポルトガルでした.

 当時は濃厚な甘味ワインに対する需要が強かったので,そうしたワインを生み出す土地として,ヘレスは同じスペインのマラガやポルトガルのポルト,マデイラと共に注目の的となります.
 16世紀以降,両国のイングランド向けワイン輸出が活発化する中で,ヘレスは取り分け大きな恩恵を受ける事になりました.

 ヘレスをワインの一大輸出産地に押し上げた要因は種々有れど,取り分け重要なのはその立地条件です.
 大西洋に面するヘレスは,海上交易を通じてイングランドと結ばれ,サンルカル・デ・バラメダやカディスの港が大西洋への玄関口となっていました.
 こうした優れたアクセシビリティが,イングランド商人の関心を惹き付け,16世紀半ばになると,ヘレスに事業拠点を設けて定着する商人も現れました.

 もう1つの要因は,酒精強化ワインたるシェリーの製品特性にあります.
 当時は未だ保存技術が未発達であり,高いアルコール度数を有すると言う事は,品質が安定し,遠方の市場まで商品を運び,顧客の信頼を確立する為に有利な条件を提供しました.

 この様に,イングランドにシェリーが積極的に輸出され,その評価が確立すると,需要の増加に乗じて事業を拡大しようと,益々多くのイングランド商人がヘレスに進出し始めました.

 彼等はグアダルキビル川河口のサンルカル・デ・バラメダに小規模な居留地を形成し,サンルカルから20km程無い陸に入ったヘレス・デ・ラ・フロンテラで作られたシェリーは,イングランド商人の手に依って,サンルカルやカディスの港からせっせと輸出されました.

 勿論,シェリーの顧客はイングランド人ばかりではありません.
 新大陸の植民地も市場として重要な位置にありました.
 16世紀にスペインの植民地経営が開始されて以来,新大陸交易は長らくセビリャ港の独占化に置かれ,1717年以降は1765年の自由貿易規則が発せられるまで,カディス港が独占権を引き継いでいました.
 16世紀末の時点では,セビリャから新大陸に輸出されたワインの内,52%が近隣のヘレス産のワインを占めていました.
 ただ,ヘレスからの最大の輸出先はイングランドで会ったのは変わり有りませんでした.

 18世紀後半から19世紀後半に掛けて,ヘレスのワイン産業は最盛期を迎えました.
 18世紀後半には,国際市場に置けるシェリーの成功に引き寄せられて,イングランドのみならず,アイルランドやフランスなどからもシェリー取引に携わる商人が相次いでヘレスに来訪し,拠点を構えました.

 例えば,Pedro Domecq社の創立者であるアイルランド人のパトリック・マーフィーは,1730年にヘレスにやって来てフランス人商人のジャン・オーリーと共にシェリー交易を始めました.
 また,カディスに駐在するイングランド領事だったスコットランド人のジェームス・ダフは1767年にDuff Gordon社を設立しました.
 1772年,エル・プエルト・デ・サンタ・マリアにOsborne社を設立したトマス・オズボーンはコーンウォール半島デヴォンの出身であり,1780年にヘレス・デ・ラ・フロンテラで創業したウィリアム・ガーヴェイも又アイルランド人でした.

 更にヘレスのワイン産業には,新大陸の植民地で財を成してスペインに帰還したindianosと呼ばれる人々の貢献も大きなものがありました.
 特に,新大陸の植民地が大方独立した後の1820〜1830年に掛けては,多数のindianosがスペインに持ち帰った多額の富を資本にワイン造りを始めています.
 この他,少数ですがスペイン北部出身の商人の投資もありました.

 先述の通り,ヘレスの製品イメージの醸成と強化は,この地独特の土壌で,albarizaと呼ばれる灰白色の石灰質土壌の存在と結び付いていました.
 炭酸カルシウム分を多く含むアルバリサは,吸水性に優れ,陶器に降った雨を地中に蓄える性質を有しています.
 夏季には,アルバリサの表面が固結して地中の水分蒸発を抑える為,気温が40度を超えるヘレスでも,深く根を張った葡萄に十分な水が供給されます.
 そして,白亜の土壌で反射した太陽光は果実の成熟を促し,糖度の高い葡萄を生み出しました.

 アルバリサが最もふんだんに分布しているのは,産地中央部に位置するヘレス・デ・ラ・フロンテラ,サンルカル・デ・バラメダ,エル・プエルト・デ・サンタ・マリアの3つの町に囲まれた三角形状の地域です.
 この地域は,その名もTriangulo Sherry(シェリー三角地域)或いはJerez Superior(上級ヘレス)と呼ばれ,優良種に位置づけられる波櫨実の種を用いたシェリー生産に最も適した条件を備えているとされています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/14 23:39
青文字:加筆改修部分

 さて,ヘレスのワイン産業は19世紀に絶頂期を迎えます.
 18世紀頃までにポートやマデイラ,マラガと言ったワインは,食後の甘味ワインの需要が食習慣の変化の中で低迷し始めました.
 それに代わって台頭し始めたのは,食前酒として,或いは食事と共に飲むのに適した,アルコール度数がやや控えめな辛口ワインです.

 嗜好の変化を逸速く感じ取ったヘレスの事業者達は,それに対応した製品,finoと呼ばれる淡色辛口ワインを開発しました.
 finoの生産に於いては,液面に形成されるflorと呼ばれる酵母膜がワインと空気の接触を防ぎ,酸化の進行を極小化させ,これによって出来たワインは,辛口で新鮮な切れ味と独特の香りを持ち,国際市場に於いて圧倒的な人気を博しました.
 甘味に拘りすぎたポートやマデイラ,マラガが停滞に陥る中,19世紀半ばにfinoを作り出したヘレスの事業者は,英国市場でのこの成功によって,更なる発展の機会を掴んだのです.

 finoの製造については,生産技術の革新もありました.
 従来のヘレスの甘味ワインは,収穫年によって酒を分け,別々の樽で熟成する方法で生産されていました.
 しかし,この製法では,年毎に収穫される葡萄の品質が異なるので,10年に及ぶ熟成期間を費やしても,結果的に得られるワインの品質が安定せず,生産コスト上昇の一因でもありました.

 それを取り除いたのがsoleraと言う生産技術です.
 新しい生産技術では,3〜4段の高さにオーク樽を積み上げ,その最上段に新酒を注ぎ入れ,1年が経過すると樽に入ったワインの一部を2段目の樽に移します.
 更に,2段目から3段目,3段目から4段目と言う様に,樽の中身の一部を下の樽に移す作業を総ての段について毎年行う事により,新酒と古酒のブレンドが繰り返されます.
 こうしたブレンドを繰り返した末,最下段に蓄えられたブレンド熟成の最も進んだワインが出荷されると言う寸法です.
 現在のDO規約では,1年に出荷出来る比率に制限を設け,長期的なブレンド熟成を保証する仕組みになっています.

 soleraによって生み出されるシェリーは,収穫年の区別の無い,安定した品質のワインとなります.
 また,fino熟成に不可欠な酵母膜florの発生を促す栄養分が新酒から古酒に供給されるので,finoの生産によっては取り分け好適な環境が作り出されます.
 こうした長所故に,soleraはヘレスを最も特徴付ける生産技術として普及し,辛口ワインばかりで無く,甘味ワインも含むヘレスの総てのワイン生産の基礎となりました.

 ただ,この生産方法は,大量の樽の調達,熟成場所となるワイン蔵を整備する為に多大な資本が必要となります.
 この為,soleraが逸速く導入出来たのは,シェリー輸出で財を築いた資本家達であり,その大部分は長年に亘ってヘレスで事業を続けていた外国の企業家やその末裔から構成されていました.
 また,品質の安定化と生産の効率化は,確実な製品供給を求めてワイン熟成に乗り出そうとする輸出業者の意欲を強く刺激し,大規模な葡萄畑や生産施設を所有する事によってワイン生産に積極的に参入し,ヘレスの看板企業として台頭するに至ります.
 この様に,原料から製品まで一貫した掌握が可能になった事は,大規模資本が無いと太刀打ち出来ないと言う事を意味し,輸出に関しては,少数の有力輸出業者による寡占化が進む事に繋がっていきます.

 現在のヘレスに於いては,DOヘレス統制委員会で,産地内のワイン事業者を,Bodega de Crianza y Expedicion(熟成・出荷業者),Bodega de Crianza y Almancenado(熟成・貯蔵業者),Bodega de Produccion(醸造業者)の3種類に分けています.

 最初のBodega de Crianza y Expedicionは,輸出業者と通称されるものに相当します.
 但し,現在の輸出業者は熟成を中心とする生産の面でも大きな役割を果たしています.

 次のBodega de Crianza y Almancenadoは,直接輸出する訳では無く,soleraを用いて熟成を行い,熟成後のワインを輸出業者に出荷する事に特化した事業者であり,単に貯蔵業者と呼ばれています.

 最後のBodega de Produccionは,Bodega de Crianza y Expedicionが歴史的な輸出企業を起源とする有力企業であるのに対して,専ら家族経営的な個人生産者と協同組合からなります.
 個人生産者は,自ら収穫した葡萄を基に醸造する事業者である事から,cosechero(収穫人)と言う通称で呼ばれます.
 これらの業者の殆どはsoleraに投資できるような資本を持たず,醸造した原酒を他の事業者に出荷する事で経営を成り立たせています.
 原酒の購入がBodega de Crianza y Expedicionであれば,仕入れた原酒を数年間熟成した後,自らの銘柄で商品化しますし,Bodega de Crianza y Almancenadoならば,熟成が済んでからBodega de Crianza y Expedicionに転売します.

 なお,この分類はあくまでも各事業所が行う中心的事業であり,名称に示される事業が総てではありません.
 例えば,Bodega de Crianza y Expedicionが葡萄栽培や醸造の領域に足を踏み入れる事はよくある事ですし,醸造業者が小規模なsoleraを設けて,生産した原酒の一部を熟成し,完成品として市場に出荷する事も珍しくは有りません.

 ただ,これらはあくまでも副次的・補完的な事業であって,Bodega de Crianza y Expedicionを頂点とする産地内の垂直分業構造は厳然として存在しており,ヘレスという産地を,葡萄栽培から醸造・熟成を経てボトリングに至るまで一貫生産する事業者が多数集まったもの,と言う平板なイメージで捕らえると誤解する事になりかねません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/15 22:48


 【質問】
 パナデスのワイン産業について教えられたし.

 【回答】
 パナデスはスペイン北東部,バルセロナ南西に位置する産地です.
 カタルーニャ自治州の地域制度では8つの郡に跨がる比較的大きな産地ですが,葡萄畑や醸造所の大部分は,アル・パナデス郡とバシュ・パナデス郡に集中しており,産地のほぼ中央にアル・パナデス郡の首邑,ビラフランカ・ダル・パナデスが位置しています.

 ムンサラット山とカラルト山地を背後に控えるパナデスの葡萄畑は,海岸付近から標高800mまでの広い範囲に分布し,気候・土壌面で著しい多様性を呈しています.
 と言う事は,ヘレスの様に葡萄の品種が限定される事無く,マカベウ,シャレル,パラリャダと言ったその地域の伝統種のみならず,カベルネ・ソーヴィニョン,シャルドネ,リースリングなど欧州の代表品種も栽培出来る訳です.

 こうした状況から,パナデスの産地としてのイメージは,強烈な個性の無い凡庸な産地と言うものです.
 即ち,葡萄栽培地として秀でた自然条件を持たず,生み出されるワインにも特筆すべきものが少ないと言う通念です.

 とは言え,地中海の代表的樹木作物の1つである葡萄が,古くからカタルーニャ農民によって広く栽培されていたのも又事実です.
 パナデスが位置するカタルーニャの沿岸部は,スペインで最も人口密度の高い地域に含まれ,バルセロナを筆頭とする商工業都市は,周辺地域に於けるワイン生産に対して重要な機会を提供していました.
 そうした条件の下では,パナデスのワインは,元々地元や地方内の消費にほぼ全面的に差し向けられ,海に面したシッチャスの甘味ワイン,マルバジアを例外として,輸出は殆ど行われていませんでした.

 18世紀に入ると,沿岸部を中心に行われていた葡萄栽培が,穀物栽培の卓越するパナデスの内陸部に向けて拡大し始めます.
 葡萄の増産は,カタルーニャ語でaiguardentと呼ばれる蒸留酒の生産・貿易と密接に繋がっていました.
 蒸留酒の2大消費国であったイングランドとネーデルランドは,16世紀以来,シャランを始めとするフランスの大西洋側地域を専らの供給地としていましたが,17世紀後半,ルイ14世治下のフランスはネーデルラントに侵攻し,周辺国を巻き込んだ戦争が勃発します.
 ネーデルラントを支援する側に立ったイングランドは,蒸留酒の新たな供給地を見つけなければならず,カタルーニャに注目しました.

 1685年,イングランド商人のジョン・シャレットによってカタルーニャ南西部の都市レウスに蒸留酒製造所が拓かれ,1692年には,パナデス中心都市ビラフランカ・ダル・パナデスでも生産が開始されました.
 以後,パナデスからの蒸留酒輸出は増加の一途を辿り,アンダルシア地方のカディス港を通じて新大陸の植民地にも出荷される様になります.

 ワインの蒸留は,カタルーニャの事業者にとって大きな利点を伴いました.

 第1に,嵩が大きく傷みやすいワインは,蒸留によって,輸送費が安く長距離輸送に堪える製品に変わりました.
 パナデスの内陸部では,未発達な交通手段故に遠隔市場へのワインの出荷には困難が付きものでした.
 この問題が改善されるのは,鉄道が到来した19世紀半ば以降の事です.
 ビラフランカ・ダル・パナデスの様な海沿いの都市でも,畜力輸送はコスト高であり,品質劣化にも繋がりました.
 蒸留は,品質劣化のリスク低減と輸送量圧縮という二重の意味での問題解決に繋がりました.

 第2に,当時のカタルーニャで生産されていた蒸留酒には,良質葡萄の必要性は多く有りませんでした.
 この為,並質葡萄産地と見做されていたパナデスの様な地域では,葡萄畑の収益性を上げ,商機を掴む為に,蒸留は有効な手段とされました.
 また,熟成を伴わない蒸留酒の製造工程は至って単純であり,原酒が得られれば,それを比較的安価な蒸留器に投入するだけで済みました.

 こうした要因が複合的に作用した結果,蒸留酒生産はパナデスの事業者の間でみるみる広まり,先に触れたパイオニア的な投資家を例外として,外国資本の参入も殆ど見られませんでした.
 また,18世紀後半には新大陸との貿易が自由化されたので,蒸留酒の生産や輸出は更に促進する要因となっていきます.

 ただ,蒸留酒生産は当初の目論見よりも,安定した収益をもたらしませんでした.
 19世紀になると,新大陸の植民地が独立し,欧州北部の市場環境変化が加わって,蒸留酒の輸出は後退し始めています.
 この苦境を救ったのは,此処でもフランスを襲ったフィロキセラの災禍でした.
 1870年代以降,パナデスは葡萄畑に壊滅的なダメージを受けた隣国に向けて,ワインを盛んに輸出する事になります.

 これには,1865年にパナデスに鉄道が開通した事も無関係では有りません.
 当初はバルセロナまで鉄道を利用し,そこから海路輸出する方法が採られましたが,1880年代にはフランス国境の町ポルト・ポウにまで鉄道が延伸されると,海路よりも陸路を採る方が一般化しました.

 パナデスのワイン生産は19世紀末に最盛期を迎え,地域内の至る所に植えられた葡萄は,屡々在来作物を駆逐しました.
 しかし,ヘレスと違うのは,ヘレスが質を追求したのに対し,パナデスはワインの質を等閑にして,専ら並質ワインのバルク出荷による量的拡大を追求した事に有ります.
 英国と違ってフランスのワイン商がスペインに求めていたのは品質では無く,フランス産ワインとのブレンドに適したアルコール度数が高く濃厚色の原酒だったからです.

 ただ,この流れに棹さす動きがあったのも確かです.
 パナデス北東部の町,サン・サドゥルニ・ダノヤの醸造家ジョゼップ・ラバントスは,フランスのシャンパーニュ製法をカタルーニャ地方の伝統的な葡萄品種に適用して新製品を生み出そうと努力していました.

 数年の試行錯誤の末,ラバントスの努力は実を結び,マカベウ,シャレル,パラリャダと言った伝統種から,独特の風味を備えた良質発泡性ワインを作る事に成功しました.
 後に,この発泡性ワインの事をカバと言う統一的な名称が与えられる事になります.

 ラバントスは,やがてスペインの代表的発泡性ワインメーカーの1つとなるCodorniu社を創立し,後継者マヌエル・ラバントスの時代には,カバの商業生産が軌道に乗りました.
 1890年当時,3,276本だった年産は,1899年には117,396本と言う飛躍的な成長を果たしました.

 このカバは,サン・サンドゥルニ・ダノヤを中心とする多くの事業者が注目する所となり,やがてワイン産地のパナデスの経済全体がカバ生産によって牽引される様になります.

 この背景には様々な要因がありました.

 先ず,第1次世界大戦の勃発です.
 シャンパーニュ地方を中心とするフランスの発泡性ワインは,その生産地域が戦争によって戦場となり,原料の収穫が出来ないなど,量的な痛手を相当受けます.
 また,折角生産した発泡性ワインも,軍需品中心の輸送により,輸出が出来なくなりました.
 これに対し,スペインはこの戦争で中立を貫いた事で,フランスに代わって海外への発泡性ワイン供給量を伸ばす事になり,販路を著しく拡大します.

 次に,遅れてきたフィロキセラの災禍です.
 フランスを席巻したフィロキセラ禍はスペインに侵入すると,1890〜1910年代にかけて,カタロニア地方の葡萄にも広範な被害をもたらします.
 これによって,赤ワイン生産に使う黒葡萄が植えられていた葡萄畑はほぼ壊滅状態となり,再植の為に奮起した葡萄栽培業者の多くは,カバの成功に肖ろうと,カバ用の白葡萄を植える事を決意しました.

 第3に,蒸留酒とカバには,製法の習得と経験の蓄積は兎も角として,見かけ程多くの資本を必要としませんでした.
 勿論,発泡性ワインであるカバにも,熟成の為の設備が必要ですが,シェリーの様に大規模なものは不要で,高価な木樽ではなく,最終製品の一部を為すボトルで熟成するだけで済むので,初期投資が相対的に抑えられると言う利点があります.

 最後は,この地域独特の農業経営体の様式です.
 これはmasiaと呼ばれる長子相続制度に基づく制度で,スペイン北部に見られる他の農業経営体に比べるとかなり規模が大きいのですが,スペイン南部の大土地所有制に比べると比べ,masiaは農民として自ら日々の農地管理に携わると同時に,ある程度のリスクを伴う新事業を手がける,農村企業家としての側面も有していました.
 企業家精神に富んだmasiaがカタルーニャ商人達と結びつき,蒸留酒生産やカバ生産の主役となったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/16 23:21
青文字:加筆改修部分

 さて,一気に時代は飛んで1960年代.
 パナデスが内包している気候条件の多様性に注目し,当時のスペインでは未だ馴染みの薄かった外来種の導入を試みました.
 新しい世代の事業家であるミゲル・トレス,ジャン・レオン等が試みたのが,国際的な評価が高いフランスの主力品種,カベルネ・ソーヴィニョン,メルロー,シャルドネなどをパナデスのローカル自然条件に適応させようと言うもの.
 この試みは成功し,これによってスペインの土着種を用いた産地の製品に対して,一定の差別化を図る事が可能となりました.

 パナデスはまた,生産技術革新の面でも先駆的役割を果たしました.
 ステンレス製発酵タンクや自動温度調節システムに代表される生産設備への投資,低温発酵や新樽による熟成など,現在のスペインワイン産業では当たり前になっている生産技術を,最も早期に導入した産地の1つがパナデスだったのです.

 カバの成功とスティルワインの刷新という2つの大きな変化を経て,パナデスは原酒輸出基地から徐々に脱却し,スペインの特筆すべきワイン産地の1つに成長しました.
 1960年当時,パナデスで生産された葡萄果汁の約6割は,ドイツの発泡性ワイン,ゼクトの原料として,或いは葡萄ジュースの原料として外国に輸出されていました.
 しかし現在では,ボトルワインがパナデスからの全出荷の8割程度を占めるに至り,その内の半数近くがスティルワインとなっています.

 また,カバ生産も成長し,クドゥルニウ社とフラシャネット社の2社が本格的な輸出を始めたのを契機として,欧米諸国への輸出が拡大の一途を辿っています.
 因みに,カバ生産はパナデスとは別にDO地域を形成しているのですが,その殆どはパナデスの事業者の手に依るものです.

 パナデス地域のワインメーカーは,シェリーの製造の様に大規模な資本を必要としない為,国外の大企業がこの地に進出して地元ワインメーカーを併呑する事は余りなく,寧ろ,中小規模の醸造家の活動が活発です.
 元々は,大手生産者に葡萄や原酒を供給してきた事業者が,熟成やボトリングまでを行うワイン生産者に昇格した事により,パナデスの生産構造は大幅に刷新され,パナデス産ワインの品質の底上げと市場価値の向上に貢献しています.
 また,この地域では地元資本は同族企業として活躍している事が,非常に多くなっています.
 先に挙げたカバ生産を中心とした,クドゥルニウ社とフラシャネット社,スティルワイン生産を中心としたミゲル・トレス社の3社も同族企業で,何れもワイン産業という家業の蓄積によって,現在の地位を築き上げてきた経緯を有しています.
 当然,負債や後継者不在によって,所有者の家系が代わるケースも少なくありませんが,その場合でも,同族企業としての成り立ちは健在です.

 先に見た様に,パナデス地域のワイン生産は,カバとスティルワインの2種類を組み合わせてリスクヘッジを採るケースが殆どです.
 大規模で無いにしろ熟成が必須とされるカバは言うまでも無く,スティルワインでも熟成を行っているのが通例であることから,生産工程がある程度被るケースが多く,専業メーカーは大手3社くらいしかありません.

 機能的な観点から見れば,熟成を行うボトリングメーカーとカバ専門メーカーを一方の極に,協同組合に組織された葡萄栽培業者を他方の極にする分極化した生産構造が見られます.
 リオハの場合は,cosecheroと呼ばれる数多くの個人醸造元が,熟成を施さない若飲みワインの生産者として注目すべき位置を占めていますが,パナデスではその様な事業者が殆ど存在しません.
 この様な高度な分極構造の中で,昨今では品質重視のボトリングメーカーが近年増えており,3大企業を頂点とする寡占構造から,中堅生産者の厚みが増す方向に進んでいます.

 とは言え,大手ワインメーカーは,他のワイン事業者買収による拡大路線を歩んでいます.
 クドゥルニウ社は,ルンデル社,マジア・バック社を始めとする多数の醸造元を抱え込んだグループを結成し,フラシャネット社は,カステイブランク社,カナルス・イ・ヌビオラ社,ラネ・バルビエ社などとグループ化を進めていますし,ミゲル・トレス社はチリや米国のカリフォルニアに生産拠点を築く海外展開を強化しています.
 ただ,最近の金融危機で,それが裏目に出ないとも限りませんが.

 一方で,ヘレスに比べ格段に違うのは,ワインメーカーは葡萄栽培には余り手を出していない事です.
 現在でもパナデスの葡萄栽培は,葡萄栽培業者と彼等が組織する協同組合の手中にあります.
 100前後に上る熟成ワイン生産者の中で,自ら葡萄畑を所有するのは60程度に過ぎず,その大部分は,自社の畑で賄いきれない葡萄を他の葡萄栽培業者から仕入れています.

 葡萄栽培業者はパナデス全体で5,800に達し,その半数近くは協同組合に加入しています.
 その協同組合にも2種類あり,1つは生産したワインの一部を熟成し自らの銘柄でボトリングまでする組合と,原酒生産のみを行う組合に分かれています.

 醸造部門を持つ産地内の17の協同組合の中でも,最大規模を有するのがCOVIDES(パナデス・ワイン生産協同組合)です.
 この組合は前者の典型例で,地域のワイン業界全体に大きな影響を及ぼす一種の大手メーカーとして機能しており,組合が作るボトルワインの市場評価も高まってきています.

 後者の典型的な主要組合が,CEVIPE(パナデス・ワイン生産センター)です.
 こちらは小規模な協同組合による,カバ用原酒の販売促進を目的に結成されたもので,その後の組織拡大を経て,現在ではカタルーニャ自治州の広い範囲から計22組合が参加しています.
 この組合の供給する6,000万キロリットルのカバ用原酒は,全スペイン供給量の凡そ35%に相当し,その内の凡そ半分がフラシャネット社に供給されています.

 これらの何れにも属さないのが,葡萄畑から原料を仕入れ,生産したワインを原酒の儘出荷すると言う工業生産型加工業者です.
 謂わば原酒の大工場で,産地内の工業生産型加工業者は11事業者を数えています.
 また,個人事業者の中にも,こうした機能を果たす事業者もあり,その数は20事業者ほどに達しています.
 これら業者の最大の出荷先は,先述のパナデス3大企業です.

 因みに,パナデスの葡萄畑は海抜0mから標高800mにまで分布しています.
 この為,標高による自然条件の違いが,栽培品種に少なからぬ影響を与えています.
 出来れば,産地内の多様性を踏まえたサブリージョンを作る意向をDO統制委員会は有しているのですが,実現には至っていません.

 地中海に最も近いBaix Panedesの葡萄畑は標高100m以下の場所に位置します.
 此処には,カバの原料となるシャレル,マカベウと言った白葡萄の他,黒葡萄ではガルナッチャ,サムソ,ムナストレイ,ウィ・ダ・リェブラ等,早熟型の伝統種が多く栽培されているのが特徴です.

 標高200〜400mに位置するPanedes Centralでは,低地パナデスより幾らか冷涼な為,伝統種の栽培に加えて,外来種を適応させる事が比較的容易で,黒葡萄のカベルネ・ソーヴィニョン,メルロー,ピノ・ノワール,カベルネ・フラン,白葡萄のシャルドネ,ソーヴィニヨン・ブラン等を栽培しています.

 最も内陸部寄りで標高400〜800mに及ぶAlt Panedesでは,他のサブリージョンに比べて冷涼且つ降水量も多い為,最近ではリースリング,ゲヴェルツトラミナー,シェナン・ブラン等欧州中北部の白葡萄の導入事例が増えてきています.
 因みに,この地域の在来種は,カバ生産に用いられているパラリャダです.

 こうした多様な栽培品種を活かす為にも,異なる品種から醸造したワインのブレンド,coupageと呼ばれる技術が多く用いられています.
 実際,パナデスの生産者の中には,産地内の条件を異にする場所に複数の畑を所有したり,葡萄の仕入れ先を多角化する事に依って,個性あるクパージュ・ワインを生産している例が少なくありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/17 23:06


 【質問】
 リオハのワイン産業について教えられたし.

 【回答】
リオハはスペイン北部のリオハ自治州,バスク自治州,ナバラ自治州に跨がる地域で,その地理的領域は,エブロ川流域の東西凡そ100kmの範囲に亘り,DO登録葡萄畑面積は,DOラ・マンチャに次ぐ国内第2位の約6万4,000ヘクタールに及びます.

 リオハは,現在では,スペインに於けるもっとも定評あるワイン産地の1つとなっていますが,その地域の基礎となっているのは,醸造用葡萄栽培地としての卓越した自然環境です.
 大西洋と地中海のほぼ中間点にあるリオハでは,何れの海からの気候的影響が優越するかによって,その年のワインの出来が異なると言われています.
 また,北側に聳えるカンタブリア山脈が冬期の冷風の侵入を和らげる事から,1年を通じて穏やかな気候が保たれています.
 更に,上質ワイン生産に適した土壌にも恵まれており,特に赤ワイン用の主力品種,テンプラニリョの栽培に最適とされる石灰質の粘土層が,高品質の熟成ワインを生み出す元となります.

 この様に,葡萄栽培地としては極めて好条件を備えるリオハでしたが,この地域のワインが商業的生産の段階に入るには,19世紀まで待たなければなりませんでした.
 前述の様に,スペインの商業的ワイン生産は,先ず海岸部で始まりました.
 内陸部は,嵩張るワインを輸送するには不安定で安全性が低く,しかもコストが掛かりすぎ,当時の品質保持技術では,内陸部から海岸部に運ぶまでに品質の低下が起きていたからです.

 リオハは,海岸から相対的に離れた地理的位置にあるので,長年に渡って良好な交通手段の欠如に悩まされてきました.
 輸送手段が限られ,且つ不十分である以上,リオハからのワインの出荷先は近隣のバスク地方か精々北部沿岸のカンタブリア地方などに留まらざるを得ませんでした.
 バスク地方の諸都市は,リオハ産ワインの市場としてある一定の重要性を有していましたが,商業的生産への飛躍を可能にするには明らかに規模が不足しており,勿論,リオハの地元市場における消費は,低い人口密度故に限定的なものでした.

 こうした商業的生産が行われなかった事から,この地域のワイン生産技術は未熟で,19世紀までは,1年以上の保存に堪える事が出来ない凡庸な品質のもので,生産方式は前近代的,葡萄の実は枝が付いたまま発酵され,品種や成熟度の異なる葡萄がまぜこぜになっていました.
 また,生産設備が未整備だった為に,醸造後の貯蔵や熟成も行われていませんでした.

 そう言った状況のリオハ地域に転機が訪れたのは,19世紀後半の事です.

 転機の1つは鉄道の開業です.
 1864年,リオハの首邑であるログロニョに鉄道駅が開業したのを皮切りに,ワイン産地の村々は鉄道によって順次結ばれていきました.
 間もなく,ログロニョからバスク地方の中心都市ビルバオまでの鉄道線が完成し,更にマドリードからフランスとの国境の町イルンへ抜ける幹線と繋がりました.

 もう1つの転機は,スペインのワイン生産者が尽く恩恵に与ったフランスのフィロキセラ禍でした.
 これにより,葡萄とワインの欠乏に困窮した隣国の人々は,鉄道の開業でぐっと近くなったリオハが新たなワインの供給元になる事に気がつき,葡萄栽培に適したリオハの自然条件が,彼等にとって大きな魅力となりました.

 こうして,フランス人の商人や仲買人がリオハに進出します.
 当初は,地域の生産者から原酒を仕入れて自国に送る事であり,その為,鉄道駅の周辺には多数の倉庫が建設されました.
 しかし,間もなく,大規模な生産施設を自ら立ち上げ,輸出向けのワイン生産を行うフランス人が現れました.
 これが,後にリオハで発達する工業生産型ワインメーカーの原型で,鉄道を利用したフランスへのワイン輸出が盛んになるにつれて,リオハの葡萄畑も拡大の一途を辿ります.
 この頃は,現在のリオハ・アルタ及びリオハ・アラベサの2つのサブリージョンが発展していきました.

 そして,その生産施設で採り入れられたのが,フランスのボルドーで発達したボルドー製法と呼ばれる,オークの小樽を使った熟成方法です.
 これをリオハの主力品種テンプラニリョに応用する事で,独特の風味を引き出す事に成功し,パナデスが並質ワインを作っていたのに対し,市場にアピールする事に成功しました.
 これらの製法は,ムリエタ侯爵やリスカル侯爵と言った貴族のワイン生産者から始まっています.

 こうした貴族が試みていることからも判る様に,ヘレスのsolera同様,ボルドー製法は,オーク樽の購入や倉庫の建設と行った大規模な資本投下を必要としていました.
 この為,ボルドー製法が長期的に大きな利点を持っていたにも関わらず,その導入は土地貴族に代表される事業家か,産業社会の発展と共に良質ワイン需要が増大していたバスク地方の新興ブルジョワジーに限られ,大多数の生産者にとっては,所詮夢の又夢的なものでした.
 また,自らの収穫から即時的なリターンを得ようとする彼等にとっては,何が得られるのかが実感が掴めぬままで値の張る樽にワインを寝かせておくのは魅力的とは映りませんでした.

 この転機となったのが,1892年のフランスとの通商条約撤廃です.
 これにより,フランス向けの大衆ワイン輸出が制限されると,スペイン側でも国内の良質ワイン市場を独占していたフランスワインに対する輸入制限を掛ける動きが生じました.
 これを契機に,良質ワイン産地として頭角を現していたリオハに於いて,大規模な工業生産型ワインメーカーが相次いで設立され,ボルドー製法によるワインの量産が開始されました.

 この動きが最も活発となったのは,1890〜1910年代で,企業家の多くは,建設されて間もない鉄道網の恩恵に与ろうと,主要な鉄道駅の近傍に醸造所を構えました.
 例えば,1890年創業のラ・リオハ・アルタ社,1895年創業のマルティネス・ラクエスタ社,1896年創業のボデガス・フェデリコ・パテルニナ社,1901年創業のボデガス・ビルバイナス社は,何れもアロの町に立地し,セニセロには,1901年創業のボデガス・リオハナ社等がそれに当たります.

 また,フィロキセラの災禍を逃れてリオハにやって来たフランス人の中には,自国の葡萄畑が回復した後もこの地に残った者がいましたし,リオハの地元企業家と共同事業を始めた者もいました.
 その典型例が,ボデガス・フランコ・エスパニョラス社,つまり「フランス=スペイン醸造会社」で,1890年にログロニョに設立されています.

 こうした工業生産型ワインメーカーの台頭は,葡萄栽培業との関わりを殆ど持たない大規模生産者と葡萄栽培業を営む小規模生産者の二極化構造をリオハに齎す事になります.
 二極化を促した要因の一つには,葡萄畑が無数の葡萄栽培業者によって分有されている事が挙げられます.
 この細分化した農地所有の問題が,工業生産型ワインメーカーが葡萄栽培を企業の生産活動の一部として内部化する事を妨げ,葡萄栽培業者への買付活動を不可欠なものにしていきます.

 その一方で,ボルドー製法に必要なオーク樽等の設備を整えるだけの資本力の無い小規模事業者にとっては,葡萄や中間加工品たる原酒を大規模事業者に出荷する以外に生きる道はありませんでした.
 こうして,葡萄や原酒生産に特化した地場の小規模事業者が下部,熟成・ボトリング・出荷を専門とする工業生産型ワインメーカーが上部を構成する二極構造が顕在化していきます.
 ごく一部,貯蔵業者と呼ばれる両者の仲立ちをする事業者もいますが,ヘレスと違い,リオハのそれは熟成施設を持たず,専ら小規模生産者から仕入れた原酒を貯蔵し,値動きを見ながら熟成業者に出荷しているだけです.

 パナデスを始めとするカタルーニャ地方の農民がスペインに於ける協同組合運動の先駆的存在でしたが,土地が細分化されている様なリオハでは農民の組織化は中々行われませんでした.
 葡萄栽培業者の大部分は,工業生産型ワインメーカーの原料調達ネットワークに組み込まれ,良質な葡萄を提供する事の出来る業者は,特定の仕入れ先との安定的な取引関係を望んでいました.

 リオハで協同組合が定着するのは,組合結成を奨励するフランコ体制の農業政策が推進された1950〜60年代になってからの事で,組合運動の裾野がかなりの拡がりを示したのは,エブロ側を少し下ったリオハ・バハと呼ばれるサブリージョンにおいてであり,そこでは葡萄よりも穀物や蔬菜の栽培が優位に立っていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/18 23:19
青文字:加筆改修部分

 さて,リオハのワインは,ボルドー製法とテンプラニリョ種の組み合わせに基礎を置いています.
 このワインは地域の醸造家によって代々受け継がれ,欧米諸国への輸出で評価を確立しました.
 ワイン輸出量は,1952年に490万リットルだったのに,20年後の1972年には約10倍の4,070万リットルに達しました.

 こうした成長ぶりを背景として,1970年代にはスペイン国内は元より,世界中の企業がこの地域でのワイン生産に投資を行いました.

 名高い企業家であるルイス・マテオス創立のルマサグループは,ヘレスのワインメーカーを次々に傘下に収めた後,リオハに食指を伸ばし,1971年にフェデリコ・パテルニナ社とボデガス・フランコ・エスパニョーラ社を買収しましたし,ヘレスのワインメーカーであるオズボーン社は,ボデガス・モンテシリョ社を1973年に買収,ゴンザレス・ビアス社はボデガス・ベロニア社を1982年に買収し,またペドロ・ドメック社は1973年にこの地に新しい醸造所としてボデガス・ドメック社を創業しました.
 多国籍企業の進出は,例えばカナダの大手蒸留酒メーカーであるシーグラム社が1977年にボデガス・パラシオ社を買収したのに続き,ペプシ・コーラ社がボデガス・リオハ・サンティアゴ社を支配下に置きました.
 ただ,1970年代の他の米国メーカーの欧州進出と同じく,その後撤退してしまいますが….
 この他,AGE社は当時蒸留酒メーカーの最大手だったシェンリー社の手に渡りました.

 国内ではヘレスの企業だけでなく,お隣バスクの資本もこの地のワイン業者を傘下に収めようと参入します.
 例えば,サビン・グループはリオハにボデガス・カンポ・ビエホ社を創立した後,2001年にヘレスのペドロ・ドメック社を傘下に置くアライド・ドメック社に吸収されました.
 アライド・ドメック社はボデガス・ファン・アルコルタ社を始めとするリオハ内外の多数のワインメーカーを配下に納め,スペインワイン業界最大の企業グループに成長しましたが,2005年にペルノー・リカール社とフォーチューン・ブランズ社に買収されてしまいました.

 こうした動きの中で,リオハのワイン業者は商業・金融資本を背景に,必要な原料を自前で供給出来る葡萄畑を持たず,熟成やボトリングに専門特化する方向に進みます.
 原料の供給は地元の生産者と安定的な関係を築く事で,質の良い葡萄を納品して貰い,市場で評価されるワインを送り出そうと言う訳です.

 ただ,良質の若飲みワインをボトルワインとして売り出している個人生産者の中には,葡萄栽培業を基盤とする会社が出て来ました.
 従来のこうした小規模ワイナリーの役割は,自らの収穫を基に醸造した原酒を工業生産型ワインメーカーに出荷する事でした.
 しかし,葡萄の実を房の儘発酵させる,今日で言う炭酸ガス浸漬発酵法に近い方法で作られた原酒は,豊かな果実味と心地よい酸味と言った独特の特徴故に,地元や周辺地域の消費者の間で重宝されてきました.

 これを切っ掛けに,個人生産者達は自らのワインをボトル詰めして市場に出荷する方向が始まります.
 そして,1980年代半ばになると,ある程度の資本を蓄積した個人生産者の中には,熟成ワインの生産を手がけ,良質ワイン市場への参入を図る業者も出て来ました.

 なお,リオハに於けるワイン造りは,やがて身を結び,スペインを代表する良質赤ワインの産地として国の内外で広く認知される様になり,地理的呼称制度の下で公的な承認を受け,1991年には全国で初めて特選原産地呼称(DOC)となって実を結びます.

 ところで,原稿のDOC規約では,リオハ・アルタ,リオハ・アラベサ,リオハ・バハの3つのサブ・リージョンをリオハに設定しています.
 この基準は,行政境界と自然条件です.

 カンタブリア山脈南側の緩斜面に位置するリオハ・アラベサは,大西洋と地中海双方の気候的影響,程良い気温と降雨,水はけの良い石灰質粘土層など,テンプラニリョ種を用いた良質ワインの生産に最も適した自然条件を備えていると言えます.
 ただ,実際の線引きに関しては,行政境界に従って,DOCの生産地域の内バスク自治州アラバ県に含まれる部分を指定しています.
 因みに,「アラベサ」とは「アラバの」と言う意味です.
 この地域では,個人生産者や小規模熟成ワインメーカーの活躍が目立ちます.

 エブロ川を挟んでリオハ・アラベサと向かい合うエブロ川の右岸側では,カルティーリャ・イ・レオン自治州との境界を為すデマンダ山脈までの範囲がリオハ・アルタと命名されています.
 此処は,石灰質土壌の分布が少なく,代わりに鉄分を多く含む粘土層や沖積土の混じった土壌が多くなっています.
 黒葡萄の内テンプラニリョ種の占める比率が圧倒的に高いのは,リオハ・アラベサの場合と同様ですが,葡萄畑の総面積ではリオハ・アルタの方が遙かに大きくなっています.
 また,事業者のタイプはアロを中心に立地している大規模ワインメーカーの存在感が大きくなっています.

 なお,リオハ・アルタは全域がラ・リオハ自治州に属しています.

 リオハ・バハは,ログロニョより南側のエブロ川を挟んで拡がる地域に対応しています.
 行政的にはラ・リオハ自治州とナバラ自治州に跨がり,此処ではエブロ川を遡上する地中海の気候的影響が強いので,夏の気温上昇と乾燥が著しく,又,土壌から見ても,醸造用葡萄の栽培にはやや不利な,肥沃な沖積層が多く分布しています.
 カタルーニャ地方を始め,地中海沿岸地域で広く栽培されているガルナッチャ種はこの地域でも適合しますが,参加しやすいのが欠点です.
 それでも,1980年代以降には葡萄栽培業者の中に,リオハの良質ワイン生産地としての名声を利用しながら,自ら醸造を手がける者も現れてきました.

 こうしたサブ・リージョンには何れも明瞭な差異が存在しますが,DOC規約では商品上にサブ・リージョンを示す場合は,原料葡萄の生産と醸造,熟成,ボトリング総てを当該サブ・リージョン内で行わなければならないと規定しています.
 これは裏を返せば,サブ・リージョンの特定をしない限り,DOCリオハの生産地域内では葡萄や原酒を自由に調達できるようになる事を意味します.

 実際に,工業生産型ワインメーカーは大量調達を行う必要から,価格,品質上の要請に合った原料や中間財をDOCリオハの広い範囲から仕入れる事が多く,此の場合は自らの手でブレンドや熟成を行い,パッケージングのデザインで差別化を打ち出す方策を採用します.

 これに対して,サブ・リージョンの存在を全面的に活用しようとするのは,自社畑で採れた葡萄を専ら使用するか,特定の葡萄栽培業者と信頼関係を結び,技術的な指導を行う事で選りすぐりの原料を確保する必要があります.
 現在のリオハ・アラベサで行われている個人生産者や小規模熟成ワインメーカーのアプローチは,正にこのパターンです.

 また,大手企業への原酒供給に甘んじてきた協同組合の間にも,若飲みワインを独自銘柄のボトルワインとして商品化する動きが始まっています.
 更に,それから進んで良質の熟成ワインにまで事業を拡大する協同組合も出て来ました.
 リオハ・アラベサの葡萄栽培業者が結成したウニオン・デ・コセチェロス・デ・ラバスティダ協同組合などはその代表で,現在では生産量や品質共に大手塾清和院メーカー並みの実績を上げていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/19 23:09


 【質問】
 ラ・マンチャのワイン産業について教えられたし.

 【回答】
 ラ・マンチャは,葡萄栽培面積では世界最大級のワイン産地ですが,この産地に対する一般的評価は実は高くありません.

 自然条件的には,標高約600mのメセタに拡がるラ・マンチャは,夏と冬の寒暖差が大きい大陸性気候の下にあり,産地の淵辺を画す山地によって海からの湿った風の流入が遮られる為,年間を通じて空気が乾燥しています.
 産地の大部分を占めるメセタの地勢は変化に乏しく,故に気候の多様性も面積に比して大きくありません.
 こうした条件下で栽培されている葡萄の凡そ8割は,収量の多さが特徴のアイレン種です.

 元々,この地方の主要産業は牧羊と穀物栽培であり,18世紀,葡萄畑が農地面積に占める割合は8%程に過ぎませんでした.
 しかも,この地域は内陸部にあると言うリオハとほぼ同じ条件であり,交通機関が未発達な時代には,商業的ワイン生産は周辺地域の地元消費程度でしか有りませんでした.

 しかし,ラ・マンチャはスペインでも鉄道が早期に通じた地域の1つです.
 1860年代には首都マドリードやバスク地方を中心とするスペイン中北部への市場拡大が進み,1870年代以降はフランスへの輸出が開始されました.

 もう1つ,ラ・マンチャが葡萄栽培地として発展したのは,乾燥した地域だと言う理由です.
 スペインに齎されたフィロキセラ禍に対しては,乾燥した気候と礫を多く含む砂質土壌がフィロキセラの活動を妨げた事から,1910年代になるまでこの病害虫の破壊を免れる事が出来,スペインの他の地域が壊滅的な打撃を被る中,1人成長を続ける事が出来たのです.
 こうして,この地域の葡萄畑は拡大を続け,1880年代半ばにはスペイン最大の葡萄産地になりました.

 とは言いつつ,一度はこの地域にもフィロキセラ禍がやって来ます.
 しかし,その被害を克服した後は,病害虫への抵抗力が強く,地域の厳しい気候条件にも対応するアイレン種の作付けが増えました.
 アイレン種からは凡庸なワインしか出来ませんでしたが,葡萄栽培業者はその収量の多さ,生産性の高さが魅力的に映り,爆発的に普及したのです.

 他方,ラ・マンチャのワインの製法は,tinajaと呼ばれる土器の大瓶でワインを熟成・貯蔵する製法が定着していました.
 tinajaは,現在でこそ地域の生業の伝統を示す風物詩的存在となっていますが,ワイン産業の近代化には寧ろ足枷となり,この製法が長らく続けられる事になります.

 興味深い事に,ラ・マンチャに於ける商業的ワイン生産の推進役となったのは,ヘレスの様な輸出業者でも,リオハの様な工業生産型ワインメーカーでもなく,フランコ体制下で組織された協同組合でした.
 ただ,その生産には質という概念が無く,ブレンド用の原酒生産や大衆ワインの量産を専ら行っていたに過ぎません.
 これは協同組合という事業形態に,並質ワインの大量生産に特化すると言うやり方がマッチしていたからです.

 実際,1950年代に醸造部門を有する協同組合が結成され始めると,地域の葡萄栽培業者は組合に組織化され,ワイン生産はみるみる大規模化しました.
 現在,協同組合の多くは1,000万リットルを超える生産能力を持つ大規模醸造所を有し,ラ・マンチャ産ワインの60%以上が協同組合で生み出される様になりました.

 また,自動車交通の発達は,ワインの販路拡大に大きく貢献し,アイレン種を使ったラ・マンチャの白ワインはスペイン各地にバルク出荷されて,大衆ワインの需要に応えると共に,生産されたワインの一部は蒸留酒の原料として,ヘレスなどの産地に出荷されていきました.

 ただ,協同組合と言うものは国が主導になって作り上げたものであり,経済環境の変化,市場の移ろいに直ぐ様変化出来る組織で無い事がままあります.
 ラ・マンチャでは,1950年代以降の拡大は,国により在庫が買収されるという保護政策が行われており,兎に角作れば売れる,買ってもらえると言う状況が長らく続きました.
 この為,葡萄畑やワイン生産は野放図に拡大されていくという状況に陥ります.

 ところが,1970年代に入ると市場は大衆ワインから高級化への道を歩み始めます.
 そうなると,アイレン種を使った量的拡大という従来の路線は間もなく行き詰まってしまいました.
 更に,1986年,スペインがECに加盟し,共通農業政策の枠組みに包摂されると,ラ・マンチャに代表される大衆ワイン産地では従来の戦略ではやがて行き詰まってしまう事が明確になっていきます.
 特に,余剰農産物の削減を目的に掲げるECの農業構造改革は,域内のワイン産地に対する葡萄作付面積に関して厳しい制限を課しました.

 この状況に対応すべく,ラ・マンチャの葡萄栽培業は,アイレン種への過度の依存体制を脱却して,マカベオやシャルドネと言ったより市場評価の高い白葡萄品種への転換を進めると共に,古くから栽培されていた黒葡萄のセンシベル種への改植が奨励され,赤ワイン生産も徐々に増えていく様になりました.

 因みに,マカベオはリオハなどの地域ではビウラと呼ばれ,センシベルはスペインの代表的黒葡萄品種であるテンプラニリョ種の別名です.
 最近では,カベルネ・ソーヴィニョンやメルローなどのフランス種の黒葡萄栽培も目立ってきました.

 生産技術面でも,温度管理システムを備えたステンレス製醸造タンクが普及すると同時に,伝統的なtinajaを用いた熟成・貯蔵に代わってオーク樽による熟成が一般化しました.

 こうした変化を経て,近年ラ・マンチャではボトルワイン生産でも有名になってきました.
 ただ,最大のセールスポイントが価格の安さにあると言うのは変わってません.
 特にreservaと呼ばれる長期熟成もののワインを,リオハの様な銘醸地よりも遙かに低価格で供給出来るのは,ラ・マンチャにとって大きな強みでもあります.

 また,ボトル・デザインについても,最近では商品デザインを工夫するなどして,従来のイメージを変えようとしています.
 例えば,産地のほぼ中央,トメリョソのビルヘン・デ・ラス・ビニャス協同組合の例では,1961年に結成された当時は,僅か17の葡萄栽培農家が集まった協同組合に過ぎませんでしたが,現在では2,000名近くの組合員が参加しており,葡萄畑の合計面積は23,000ヘクタールに達し,醸造施設は9万平方メートルの敷地に生産能力1億5,000万リットルの施設を有しており,ワイン生産を行う協同組合としては欧州最大のものです.

 さらに,バルクワインの量産のみならず,継続的な設備投資によりボトルワインの品質向上にも取り組んでおり,所有している熟成用オーク樽は2,000個以上に達しています.
 主力品種は依然としてアイレンなのですが,産地全体の傾向と期を一にして,外来種を含めた品種多様化を進めています.

 ただ,DOラ・マンチャには依然として大衆ワインというイメージが付き纏っているのも事実です.
 この為,DOラ・マンチャとは距離を置き,地所を限定したブランド力の高い良質ワインを市場に送り出そうとしている一部事業者もあったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/20 23:27
青文字:加筆改修部分


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