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◆ムジャヒッディーン内戦
アフ【ガ】ーニスタンFAQ 目次

ドスタム


 【質問】
 ナジーブッラー政権時代に起きたクーデター未遂は何度あるか?

 【回答】
 3度.
 いずれも内部抗争によるものだと考えられている.
 以下引用.

 この年〔1989年〕,ナジーブッラー政権で内部抗争が続いた.
 7月18日にはクーデター未遂事件が発生し,将校多数が逮捕された他,12月2日にもクーデター未遂事件が発覚,127人が逮捕された.
 ソ連軍完全撤退にも関わらず,内政はむしろ複雑化し,混乱へと突き進んでいった.
 このナジーブッラー政権内部の抗争は1990年に入ってからも続いた.
 3月,12月のクーデターの容疑者である軍人の裁判が開始された翌日には,ターナーイ国防相によるクーデター未遂事件が発生した.
 これにはヘクマティヤールの協力があったと言われるが,AIG〔アフ【ガ】ーニスタン暫定政府;ムジャッディディーを大統領とする,ムジャーヒディーン側の自称政府〕はこのクーデターに反対しており,むしろ政権内部の確執が表面化する結果となった.
 事件後ターナーイはパキスタンに逃亡,ISIの庇護下となった.
 この混乱を経て,5月,ナジーブッラーはPDPA党員でないファズル・ハク・ハリークヤールを首相に指名した.

山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.45-46


 【質問】
 ムジャヒッディーンによるカーブル占領の時の模様は?

 【回答】
 何らの連携もなく,早い者勝ちとばかり,先を争って各派がカーブルに乗り込んだという.
 以下引用.

 4月中旬,ナジブラ政府の崩壊を知ったゲリラ各派は,一斉に首都カーブルに向かって,進軍を開始した.
 首都一番乗りは,旧政府から寝返ったドスタム将軍派のウズベク族傭兵集団であった.
 ドスタム派の拠点は,カーブルから432km離れた北部のマザーリ・シャリフで,地理的条件は最悪であったが,なにしろ旧政府軍の強みで,同地区の空軍を握っていた.
 そこで4月15日,空軍輸送機で兵を1時間ほどで送り込み,カーブル国際空港その他を管理下に置いてしまった.

 次いで,ヒズビ・イスラミ(イスラム党)のヘクマチアル派,イスラム協会のマスード派その他のゲリラ民兵が続々やってきた.
 彼らは,カーブル市内の軍事基地,官公庁,学校,ホテルなどを占拠し,管理下に置いた.
 あまり報道されていないが,その際,同じ場所を占拠しようとして,ゲリラ集団の同士討ちがあちこちで生じ,市街戦となった.
 現地ジャーナリストは,この模様を,
「幾つかの地区では,占拠者が1日の間に何回も目まぐるしく変わるほどの戦闘が行われました.
 その内,他派より強力な兵力と声望を持ち,首都治安維持委員長に就任したマスード司令官の布告により,大半の内ゲバはやっと収まったんです」
と証言する.

 しかし,マスード=ドスタム連合対ヘクマチアル派の対立だけは,必ず尾を引いた.
 それは,権力の象徴とも言うべき大統領府の占拠,および,旧政府軍の装備・人員の接収を巡って生じた.
 ヘクマチアル派も勇敢に戦ったが,兵力と火力の点で,マスード=ドスタム連合に敵わなかった.
 ドスタム派は,カーブル市東方,旧政府の「無名戦士の墓」がある丘に陣取り,ソ連製T-55戦車を十数両並べて,砲撃を加えた.
 それに対し,重火器に乏しいヘクマチアル派は,射程の短い対戦車ロケットで応戦したが,高地に布陣するドスタム派の戦車部隊には届かず,辛うじて「無名戦士の墓」の端にある故ナーディル王の廟を傷つけるに留まった(これらの状況は,戦闘の後,筆者がドスタム派の陣地を訪れて確認した.

 敗れたヘクマチアル派は,カーブル市の中心部から引き揚げ,市の南東部のシュルダルワザ山地に篭った.ここは「無名戦士の墓」から約2km離れている.
 他方,ヘクマチアル派の他の有力部隊が,カーブル市北方の郊外約10kmの地点から,同市への突入を狙って,付近の村落に宿営していた.
 すなわち形の上では,ヘクマチアル派はカーブル市の南東および北から挟み撃ちにした格好なのだ.

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.132-134)

 他方,市内では,以下のような有り様だったという.

 カーブル市内の至る所が,このホテル〔インターコンチネンタル・ホテル〕と同様に,ゲリラ各派に占領されている.
 ざっと挙げてみよう.
 ジャミアテ・イスラミ(イスラム協会)のマスード派の部隊は,このホテルの他,国防省,国家治安省,外務省などを.
 ドスタム将軍派は空港以外にカーブル東方の旧政府の「無名戦士の墓」や大統領府など.
 ハザラ族ゲリラの「イスラム運動」は,内務省を占拠.
 同じくハザラ族ゲリラの「統一イスラム党」は,カーブル大学を占拠している,といった具合である.

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.132-134)

 宗教指導者のウマル・サーディク師が心配げに言った.
「従来から,スンニー派のイスラム党ヘクマチアル派は,シーア派やスーフィを敵視していました.
 ところが暫定評議会議長のムジャディディ氏は,私財を投げ打って行動するので国民的人気は高いのですが,同氏の率いるアフガン民族解放戦線は,スーフィを基盤としており,ヘクマチアル派と相容れません.
 また,大手ゲリラのイッティハディ・イスラム(イスラム統一体)はワッハーブ派で,同派はスーフィやシーア派を嫌っています.
 現在,ゲリラの一部は,勝手に占拠した学校で,めいめい独自のイスラム教育を行っています.
 これは今後の大問題となるでしょう」

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.141)


 【質問】
 親ソ政権が倒れたのは,ムジャーヒッディーンの武力のためだったのか?

 【回答】
 そうではなく,ソ連崩壊により,ナジーブッラー政権が自壊したためだったという.
 以下引用.

 反政府勢力は戦闘の果てに,ソ連軍撤退と「傀儡政権」の崩壊を導いてムジャーヒディーン政権樹立という勝利の成果を得たが,それはムジャーヒディーンの軍事的勝利にあったのではなく,ソ連崩壊による傀儡政権の弱体化が導いたものだった.

山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.51


 【珍説】
 '89年のソ連撤退後,ナジブラ政権を倒したラバニ Rabani ,マスード Massoud らのムジャヒディン(イスラム武装勢力)は,'92年にカーブルを占拠し,暫定政権を打ち立てました.
 しかし彼らは,統治能力が全くないどころか,軍閥の内戦を激化させ,アフ【ガ】ーニスタンを混乱に陥れた.
 私も何度も目撃しました.カーブル市内では,扶助暴行,拉致,襲撃,略奪婚などが横行していました.ゲリラ兵が町に入ってきて,美しい女性を目にすると,強引に連れ去るのです.そして自分の妻にしてしまう.女性は,暗闇はおろか,昼間でも外を歩けない状態でした.
 殺戮も酷いものです.先般,テロにあって命を落とした北部同盟の将軍マスードなど,日本では好意的に報道されていますが,とんでもありません.当時,マスードは暫定政権に入っていましたが,市中にある小高い丘から,大砲でハザラ族の居住地を無差別攻撃した挙句,破壊させるなどの暴挙を繰り広げ,1万6千人の市民が死亡しました.

(ペシャワール会・中村哲医師 「中央公論」'01年12月号)

北部同盟各派の犯罪

 (1) 1999年末から2000年初頭
 Sangcharak地方及びその周辺からの国内避難民は,同地域が統一戦線に掌握されていた4ヶ月の間の略式処刑,住宅への放火,広範囲にわたる略奪について,詳細に述べた.
 報告によると,幾つかの例では家族の面前で被害者が処刑された.
 こうした攻撃の標的となった人々は,主として民族的にはパシュトゥン人であり,タジク人のケースもあった.(HRW)

 (2) 1999年4月:バーミアンにおけるイスラム統一党の虐殺・暴行
 4月21日,バーミアンを支配域に収めた後,統一戦線の一派であるイスラム統一党(Hizb-Wahdat)に属する軍隊が,ターリバーンを支持している容疑で住民を殴打・拘留し,彼らの住居を燃やした.
 イスラム統一党は1999年5月,激しい戦いの末に町の占領を放棄し,ターリバーンへ引き渡した.(HRW)

 (3) 1998年9月20〜21日
 数発のロケット砲がカーブル北部へ打ち込まれ,うち1発が混雑した夜の市場に命中した.死者は推定数で76人から180人の範囲である.
 統一戦線指揮官のマスードの報道官は容疑(責任)を否定したが,攻撃はカーブルから25マイル北方に陣取るマスードの軍によって行われたと,広く信じられている.(阿修羅掲示板,元記事はリンク切れで確認不能)

 (4)AFSHAR AND KARTEH SAHE MASSACRE 1993
http://www.hazara.net/taliban/genocide/afshar/afshar.html

 (5)The Hazara People of Afghanistan
http://www.acc.asn.au/HazaraBook.pdf(リンク切れ)
(PDFで10ページ目が該当箇所です)

 (6)Romancing the Lion of Panjshir
http://raptor.slc.edu/~phoenix/romancinglion.htm
By Gary Pang

(4-6はあげ玉 ◆656Rto2ukQ@イスラム情勢板
後,匿名人物によって初心者質問スレに転載)

 (7)http://www.greenleft.org.au/back/2001/467/467p19.htm
 以下の部分はアメリカ国務省のレポート
in March 1995, Massoud's forces captured a mainly Shi'ite Hazara neighbourhood in Kabul.
According to the US State Department's 1996 report on human rights, “Massoud's troops went on a rampage,
systematically looting whole streets and raping women”; and

(イスラム情勢板.後,匿名氏によって初心者質問スレに転載)

 アフガニスタンで長年医療活動をやっていて今回脱出した中村哲医師によると,北部同盟の一部たるハザラ人の軍隊も残虐で,パシュツン人〔原文ママ〕の通行人を捕らえて釘を打ち込んで殺したとか.
 北部同盟のマスード司令官はタジク人で,ハザラ人地域を無差別攻撃して破壊したそうです.タジクとハザラとパシュツンが三つ巴で対立する内戦でしたからね(注4).

 (注4)月刊ミニコミ「シサム通信」10月号(第126号)の
「『孤立のアフガン』 中村哲氏の講演より(要旨)」
から.

(本多勝一「無差別テロと無差別戦争 貧困なる精神P集」
朝日新聞社,2002/1/5,p.46)

 【事実】
 内戦の原因は他項で述べたように,ヘクマチアール派の造反と,その裏に潜むパキスタンの画策とにある.ちなみに,ヘクマチアール派はターリバーンに破れた後,これに合流している.

 さて,そのマスード派による「戦争犯罪」を検証していこう.

 まず,(1)(2)の情報ソースであるHRWだが,これは元々,北部同盟の人権蹂躙を連呼している団体であり,他に同種の情報がない以上,割り引いて聞くべきであろう.

 また,(2)の行為であるが,これは「戦場での混乱」の中で起きたものであり,戦場であればどこでも起こりうるものである.
 もちろん,これを是とするわけではないが,マスードが意図して起こしたものとは言えないであろう.

 (3)であるが,25マイルも射程のあるロケット弾なんて,米軍のMLRSか旧ソ連のスマーチくらいしかこの世にない.もちろん,どっちもアフ【ガ】ーニスタンには存在しない.
 また,夜の市場に,砲弾が1発命中しただけで,「76から180人も死ぬのか?」という基本的な疑問もある.
 夜中に賑わうラマダン中ならありえるかもしれないが,'98年のラマダンは12月20日〜翌年1月18日までで該当しない.
 ただ,市場がそのまま住居であることは想像に難くないので,イスラム協会が10両前後保有するらしいBM21の40連装ロケット弾あたりを全弾叩き込めば,それくらいの被害は出るかも知らん.
 ただ,こいつの射程は20kmしかない.25マイルってkmに換算すると40km前後.同盟軍が保有する最長射程の兵器がM46・130mm榴弾砲だ.こいつの射程は29km.
 軍事的意味も全くない.

(HN "364")

 (4)
 俺の訳に間違いがなければ,これはハリリ派シンパのサイト.1993年時点では各派が互いに合い争っていた以上,これは中立のニュース・サイトとは言えない.
 そういうサイトが「こういう事実がありました」と主張していても,物証と呼べるものが「58体の遺体が出てきた墓穴」だけなので,どこまで信頼できるか疑問.
 墓穴にしても,写真くらいは載せてほしかったところ.

 また,1993年頃のカーブルは,はっきり言えば戦場.しかも各軍閥が互いに争っていたという最悪の状況.
 戦場で末端兵士への統制が効かなくなることは,今回のイラク戦争における米兵の略奪行為でも実証されているところ.
 要するに略奪・暴行があって当たり前.

 実際,長倉洋海の「マスードの戦い」では,1993年に軍規が乱れ,何人もの自分の部隊の司令官をマスードが逮捕させたことが述べられている.
 松井茂の「21世紀のグレートゲーム」でも述べられている※ように,本来マスード軍は軍規は厳しかったから,そこから逮捕者が出るということは,相当の混乱があったと推測される.※2

 もちろん末端の兵士の不始末は,最終的には最高司令官に責任がある.
 しかし,それをもって「マスードは虐殺犯」というのは強引過ぎる.

イスラム情勢板

 ※同書から以下に引用.
――――――
 筆者は92年春,アフガン内戦の取材中,夜間に雇った車の故障で,仕方なく近所のマスード軍の駐屯地に一夜の宿泊を乞うた.
 おりしも,カーブルで開かれた作戦会議から帰ったばかりの大隊長は,快く受け入れてくれた.
 夕食も招いてくれた〔略〕.

 当時のマスード部隊は軍紀厳格であった.
 翌日,この部隊の大型乗用車が出発しようとしていた.
 カーブルのホテルに早く帰って,ビデオの充電をやろうとしていた筆者は,すぐさま運転兵を陰に呼び,20ドル札を示しながら,同乗を頼んだ.
 ところが彼は,ドル札を返して,
「同乗はいいが,金は要らない.もしマスードに知られたら銃殺される」
と,真顔で言った.
 なるほど,話には聞いていたが,改めてマスード軍の軍紀厳格を知らされた.

――――――『21世紀のグレート・ゲーム』((松井茂〔軍事・外交評論家〕著,光人社文庫,2002/1/18),p.206-207
 ※2 当時のマスード部隊の軍規の乱れについては,次のような話が伝わっている.
――――――
 この輝ける指揮官〔マスード〕の評判は伝説的であった.
 彼の部下は彼を聖者のように崇めている.

 だが,首都を占領して以来,権力の構造が彼を変えてしまった.
 彼の軍隊は傲慢な集団に成り下がり,兵隊は市民をいじめ,店を略奪し,家を差し押さえている.
 マスード派は全てを賭けの対象にするのだ,国,人々,カブールを.

――――――「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」(Karla Schefter著,主婦と生活社,2002/9/17),p.223

――――――
 4月のある雲一つない朝,目が覚めて〔コンチネンタル・〕ホテルの部屋のバルコニーに出ると,ムジャーヒディーンたちが蟻のように山の頂上をぞろぞろと歩き,稜線ぞいに首都に向かって降りてくるのが目に入った.
 下のほうではホテルの従業員が,自分たちでデザインした飾り気のない緑色の布の新しい旗を掲げて,共産党政権後に命拾いすることを期待していた.
 だがそのとき,車寄せのところに入っていて,カラシニコフ銃や手榴弾やロケット砲で身を飾っている兵士には,もっと現実的な事柄が待っていた.山中での14年間の後に,マスウードの部隊の指揮官ムハンマド・アリーが自分と部下のためにほしがっているのは,ただ食べ物だけだったのだ.
「疲れて腹が減っている」
 指揮官がそう語る横で,部下数人がホテルのロビーに通じる回転扉につかまっていた.
 1960年代風のホテルに入ると,若い反逆者たちは,自分たちが目にしたものに驚いて,口をぽかんと開けてしまった.
 北ベトナム軍がサイゴンに入ったときと同じく,彼らの多くは近代的な都市を見たことがなかった.
 気を遣いながら,ホテルの従業員は外国人客を驚かせないように指揮官を案内して,階下の社員食堂に連れて行った.

 数時間の内に,その他何千人もの武装ゲリラたちが,同じような驚愕の念を持ってカブールの通りを歩きまわり,時折立ち止まっては,どんな新政府になろうと首脳陣にふさわしい本部を置けそうな建物を調べていた.
 南西の郊外では,シーア派の民兵が通りにイランのアヤトラ・ホメイニのポスターをベタベタと貼ってまわった.
 ホメイニの政府は民兵たちの武器の大半を供給していたのである.
 その一方で,きちんとしていてイデオロギーに関して純粋はグルブディン・ヘクマティアルのヒズブ・イスラム党のパシュトゥーン人は,静かに内務省に入り込んで,大量の武器と弾薬の在庫,それにナジブッラーの秘密警察のファイルを確保していた.

 黄昏どきになってやっと,大聖戦を制したのだと対抗グループが思い出した.お祝いのときがやってきたのだ.

――――――「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(C. Kremmer著,東洋書林,2006/8/10),p.45-46

――――――
 この聖なる戦士たちに神聖なところなど何もなく,彼らの敵は別のムスリムだった.
 学校もモスクも,ナーディル・シャーの青いドーム型の聖廟といった歴史的な建造物さえも,射撃練習に使えると判断されたものはすべて吹き飛ばされた.
 ロケット段が落ちた砦(アルグ)で火事が起こり,戦車が個人の家を吹き飛ばしながら旧市街を通り抜け,何千という怯えた市民たちが狭い小道を通って逃げていった.
 価値のあるものが何も残っていなければ,略奪する兵士たちは人間を盗んだ.
 マスウード配下の兵士たちは,身代金欲しさに誘拐を始め,他の集団もそれに同調した.
 プロダ(女性を隔離すること)を尊重するようなイスラム原理主義の信奉者さえ,壊れ始めた.
 女性のいる地区は,アフガニスタンの多くの家庭が貴重品を置いておく場所で,強盗でさえ伝統的な慣習を尊重するものと思われていた.
 だが,その.プルダがごく普通に侵入され,それと同じに女性たち自身も冒涜された.
 そして,これがジハードであることを誰もが忘れないように,ときどき宗教的熱情の爆発が見られた.
 女性は完全に覆うベールを被っていないと罵倒され,放蕩なインド映画を上映していた映画館は閉鎖の憂き目に遭い,酒のケースは棚ごと持ち去られて,道に叩きつけられた.
 だが,こういった殊勝な行動も,カブール市民には何の感銘も与えなかった.
 私はある街角で,家族も財産も失った一人の女性が,大胆不敵にも武装したムジャーヒディーンの集団をどなりつけているところを見た.
「あんたたちはケダモノよ! ロシア人でさえ,あんたたちのような卑怯者に比べればましなムスリムだった」

――――――「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(C. Kremmer著,東洋書林,2006/8/10),p.52
 なお,Kremmerはムジャヒッディーンに対して否定的なので,その点は留意されたし.

 (5)はリンク切れにより,不明.pdfファイルだったため,アーカイプでも復元できず.

 なお,ハザラ人も虐殺されるだけの存在だったわけではなく,逆にハザラ人による虐殺の話も伝わっている.
 以下引用.

――――――
 カブールではまた戦闘が始まった.
 ぽつぽつと情報が伝わってくる.ハザラ人が病院を襲って,そこにいるパシュトゥン人患者の喉を掻き切り,目をえぐったという.女,子供も含まれているという.
 大混戦である.

――――――「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」(Karla Schefter著,主婦と生活社,2002/9/17),p.170

 (6)
 これも意見広告サイトであって,中立なサイトにあらず.
 米国務省,赤十字,ヒューマンライツ・ウォッチなどの報告が引用されているが,引用にURLリンクがついていなくて確かめられず.

 (7)
 1996年の米国務省のレポートは,ターリバーンの犯罪について延々と述べているが,「引用」されているような箇所は該当レポートには見当たらない.

 それ以前に,

Our aims include linking like-minded activists, socialists, environmentalists, feminists, anti-racists. If you believe your site should be linked to the Green Left Weeklyweb site's Other Progressive Sites page then send us your details.

うまが合う活動家,社会主義者,環境保護論者,フェミニスト,反人種差別主義者をリンクすることも,私達の目的です.もしあなたのサイトが,この「週刊グリーン・レフト(強調,原文ママ)ウェブサイト」の進歩的なサイトにリンクされるべきであると信じる場合,私達にあなたの詳細を送ってください.

というトホホなサイトに,中立性がどれほどあるか考えて欲しい.

 こうした「マスードの犯罪」論について,フォト・ジャーナリスト長倉洋海氏は自著「アフガニスタン 敗れざる魂」の中で,次のように疑問を呈している.

 2001年に纏められたアムネスティ・インターナショナルの調査報告に,92年から政権が崩壊する96年までの四年間に起きたレイプや略奪,殺人の凄まじい人権侵害が,『証言』の形で載せられている.ヘクマチャール派やドスタム派,イスラム統一党(ハザラ人グループ)を加害者として名指しするケースが多かったが,その中にはマスード派によるものも報告されていた.
 指導者としてそれを押さえられなかったマスードの責任は大きいだろう.
 ただ,テロ後の新聞報道では,この当時の責任は全て『北部同盟』にあるとしている.
 しかし,カーブルを破壊し,略奪や暴行を行ったパシュトゥン人のヘクマチャール派の責任の所在がどこかへ行ってしまっているのは妙だ.ヘクマチャール派は刑務所を開け,多くの凶悪犯を市内に解き放っている.
 なお,マスードに投降してきたヘクマチャール派の司令官によると,パキスタンのISI〔軍統合情報部〕が各地の司令官に資金を渡し,政府の安定を脅かす工作や派閥間の分断工作も進めていたという.

 以上のような珍説は,ヘクマチァール派が意図的に流したデマである可能性がある.
 なぜなら,以下のような話があるからである.

 あるゲリラ幹部が解説した.
「マスード=ドスタム連合とヘクマチアル派との戦いは,ナジブラ政権崩壊後の首都カーブルをどちらが押さえるかの闘いである.
 ヘクマチアル派も兵を養うには,首都の拠点を押さえる必要があった.
 当初,ヘクマチアル派はカーブル市内の中心部まで進出したが,マスード=ドスタムの連合軍によって,中心部から追い出されてしまったのだ」
 その後,ヘクマチアル派も逆襲に出たが,前述のように,兵力および火力で優るマスード=ドスタム連合を,軍事的に破るのは難しいことを悟ったようだ.

 そこで,ヘクマチアル派は心理作戦に出た.
「ドスタム派の民兵がカーブルで掠奪や暴行を働き,首都の治安が乱れている.
 治安回復のため,ドスタム派を首都から追い出せ」
と要求したのだ.
 筆者もカーブル滞在中,ドスタム派の掠奪の噂を聞いたが,具体的な事例は掴めなかった.
 だが,ドスタム派のウズベク傭兵集団は,政府軍側にいたとき,ゲリラ側の村落を襲って略奪を行っているだけに,こうした噂は信じられ易い.

 ドスタムと結んでいるマスードの部隊の幹部の幾人かは,憤然と語った.
「我々はムジャヘディンだ.
 これに比べ,ドスタム派は金で雇われた傭兵集団だ.
 一緒にされては迷惑だ」
〔略〕

 この心理作戦は,まずマスード派とドスタム派を分裂させることである.
 ドスタム派が本拠のマザーリ・シャリフに帰れば,ヘクマチアル派はマスード派と対抗できる,と考えられる.
 さらに,ドスタム派がカーブルから退去した場合,これまでドスタム派が占拠していた「縄張り」を,ヘクマチアル派が頂こうという狙いだ.
 そうなれば,ヘクマチアル派も首都で兵を養えるようになるのだ.

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.142-143)

 そして奇妙なことに,複数ある中村医師の著作物のどれにも,マスードの責任問題が出てくることはあっても,ヘクマチァールの責任の問題については一切出てこない.それは,ヘクマチァール派が後にターリバーンに味方するようになったことと,全く無関係だろうか? 「ターリバーン以前からアフ【ガ】ーニスタンにいるアフ【ガ】ーニスタン事情通」を自認するにしては不思議な話だ.

 また,長倉氏は,講演会(1月14日,札幌教育文化会館)の中で次のように証言している.

 マスードが残虐な行為を行ったという中傷報道があるが,自分が知る限り事実無根である.新聞記者に電話をかけて,何を根拠に言っているのかを確認したところ,『ある日本人が言ったことを又聞きして書いただけで,長倉さんに言われると返す言葉がありません』という返事だった.

 この「日本人」,いったい誰なんだろうねぇ,中村さん?


 【質問】
 なぜナジブッラーはアフ【ガ】ーニスタン脱出に失敗したのか?

 【回答】
 どこまで信頼できる情報なのか分からないが,共産党中央委員長マズダクによれば,身内に裏切られたためだという.

 以下引用.

――――――――
「ナジブは国連と秘密の取引を交わしていた.ムジャーヒディーンを含む新政府に政権を引き渡して,その見返りにインドへ逃亡するのを国連が助けるという算段だった」
 〔祖国党――旧共産党――の中央委員長,ファリド・〕マズダクはそう語り,大胆な計画を振り返りながら,ぞっとするような喜びの表情に顔を歪ませた.
「だが,それはうまくいかなかった.
 我々がその取引に気づいたとき,アジミが閣議の後の夜にパスワードを変更して,ナジブには知らせなかった.
 だから,ナジブは空港に向かったとき,逃げ出すことができなかったのさ!」
 マズダクは腹を揺すって笑うと,手を動かさないようにして,もう一杯酒を注いだ.
 〔略〕
「ナジブはパスワードを知らなかった」
 マズダクはもう一度繰り返すと,また酒を流し込んだ.
 マズダクのお職や冷酷さにはとかくの噂があったものの,それを立証するのは不可能だ.

――――――C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(東洋書林,2006/8/10),p.44

 自分たちの政権をあくまで維持したい連中が,取引を阻止した,という話は一般的に考えれば大いにありうるが,マズダクという人物をどこまで信頼していいものやら.
 酒の上の冗談ということもありえるし.


 【質問】
 ナジブラー政権崩壊後,ラバニ派,ヘクマチァール派,ドスタム派は,なぜ対立したのか?

 【回答】
 ヘクマチァール派とドスタム派の対立は,ヘクマチァール派がドスタム派を「ムスリムでない」と批判したことに起因する.
 以下ソース.

 ラバニ派とヘクマチァール派の対立は根深い.
 70年代,ラバニ派が,国内諸勢力を統一して穏健に政権を目指したのに対し,ヘクマチァールは軍事力を用いた急激なイスラーム革命を主張した.
 また,経済的問題も両者対立の一因だった.
 対ソ戦争時代,ヘクマチァール派はムジャヒッディーン勢力中,最大派閥を形成し,革命直後のイランや,パキスタン経由の西側諸国からの莫大な資金援助の多くを手にしていたが,ラバニ派のマスード司令官は,パキスタンの介入を好まず,アフ【ガ】ーニスタン人自身の政権樹立を目指した.
 パシュトゥン人であるヘクマチァールが,パキスタンの支援を受けていることに対し,マスードは,パキスタンの傀儡政権が樹立されるのではないかとの危惧を抱いていた.選挙も,細則を決めないまま実施すれば,アフ【ガ】ーニスタンの民族構成から考えて,パシュトゥン人が多数派となり,ヘクマチァール派が躍進することは目に見えていた.

 さらに,マスードとヘクマチァールの間には,個人的な不信感があった.
 古くは76年にヘクマチァールがマスードの親友を,パキスタン軍情報局ISIの支援の下で殺害した事件に遡る.
 1982年には,マスードの部隊へ,ヘクマチァール派が攻撃を仕掛けたこともあった.
 1989年5月には,ラバニ派とヘクマチァール派が戦利品を巡って衝突,50人以上の死者を出したり,7月にはヘクマチァール派がマスード部隊の兵士30人を殺害する事件も発生した.

(山根聡「アフガニスタン史」,河出書房新社,2002/10/30, p.149-150,抜粋要約)


 【質問】
 ドスタムはどんな人物か?

 【回答】
 詳しい経歴は不詳とされる.
 松井茂〔軍事・外交評論家〕によれば,その人物像は以下のようなものであるという.

 〔アフ【ガ】ーン撤退に備えたソ連軍は,〕マザーリ・シャリフ地区を確保するために,ウズベク人のアブドゥール・ラシード・ドスタムなる人物に目をつけた.
 現在,ドスタム将軍(正確には,アフガニスタン共和国陸軍大将.唯一人の大将)として,マスコミで連日のように報道されている人物の経歴は,いまだに不詳である.

 一説には,若い頃,一介の職工だったと言われる.
 ともかく,名門の出身ではなく,高等教育を受けていないことは確かである.
 だが彼には,戦乱の世の中で伸し上がっていく勘と度胸の良さがあった.いわば天性の風雲児である.
 〔略〕
 ソ連は,ドスタムの風雲児的資質に目をつけた.
 ともかく,ドスタムは30歳代で,事業で大金を稼ぎ出したと言われ,その金で,アフガン北部に,同族のウズベク人を主体としたアフガン陸軍第53師団を創設した.1978年のことである.
 同師団はアフガン政府軍所属と言いながら,実態は「ドスタム軍閥」と言ったほうが正しかろう.
 この第53師団長になる前は,アフガン秘密警察の幹部だったとの説もあるが,定かではない.

 ドスタム将軍の人心掌握術は,気前良く他人に金を配ることにあった.言わば,故・田中角栄元首相のアフガン版であろうか.
 ともかく,ドスタム派の誕生によって,プレ・フムリ以北のアフガン北部は,ゲリラ側の活動もあまりなく,治安は良好であった.
 駐留ソ連軍は次々と北上しては,ドスタム派支配地に撤収し,ハイラタンから大鉄橋を渡って,ソ連領内に引き揚げていった.撤退作戦は見事に成功した.

「21世紀のグレート・ゲーム」,光人社文庫,2002/1/18,p.74-75)

 松井は92年からの内戦の頃,ドスタム派を取材しており,信頼性は高いと考えられる.

 なお,ドスタムの反乱は,ナジーブッラー政権に対し,大きな打撃になったという.
 以下引用.

 政治的な流動化はますます進んだが,これに拍車をかけたのは〔1992年〕1月の北部バルフ州での民兵の蜂起だった.
 1月1日に米ソの支援が完全停止されると,ナジーブッラーが組織した北部民兵集団がナジーブッラー政権に見切りをつけ,この地域で反乱を起こした.
 このグループは3月に北部の要衝マザーリシャリーフ市を制圧し,イスラーム国民運動を結成,アブドゥルラシード・ドーストム将軍を党首に置いた.

山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.49


 【質問】
 ヌール・ムハマド将軍とは?

 【回答】
 松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」(光人社文庫,2002/1/18),p.46-49から纏めると以下のようになる.

 ドスタム派の将軍.
 1957年生まれ.
 15歳でアフガン陸軍に入り,ソ連の軍学校に留学.ロシア語に堪能.ちなみに,ドスタム派の軍人にはロシア語ができる者が多い.
 その後,モスクワとワルシャワにそれぞれ2年ずつ滞在.
 ナジブラ政権崩壊後の内戦ではドスタム派に属す.
 ウズベク人の多いドスタム派の中で,タジク人.実力を買われてであろう.生活圏を同じくする場合,民族の壁を超えて助け合っているのが普通である.
 ドスタム派にとって,本拠地マザーリ・シャリフに次いで重要な,アフガン北部の交通の要衝プレ・フムリを守備.

 【質問】
 ヘクマチァールが反米となったのは何故か?

 【回答】
 米国からの支援が削減されたためだという.
 以下引用.

 なお,ジャラーラーバード作戦の失敗以降,米国はヘクマティヤール派への支援を削減することになる.
 このことがヘクマティヤール派と米国の関係を悪化させ,ヘクマティヤールは秋以降,米国がムジャーヒディーン政権樹立を反対していると批判するようになっていった.
 兵力で最大勢力を誇るヘクマティヤール派は,この後,パキスタン軍部からの支援で活動するようになる.
 パキスタンは,ターリバーン結成まで,ヘクマティヤールによる覇権樹立を進める事になる.

山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.45


 【質問】
 シーア派組織は,なぜ1990年になってから統一されたのか?

 【回答】
 柴田和重(アフガン・ネットワーク幹事)によれば,1988年8月,イラン・イラク戦争が終結し,イランはアフ【ガ】ーニスタンに目を向けることができた,だという.

 イランとしては,スンニー派イスラーム主義者を通じ,パキスタンとサウディアラビアの影響力が強まることに危惧を抱いていた.
 しかしアフガニスタン内のシーア派勢力は,スンニー派組織同様,様々な勢力が内部抗争を繰り返していた.
 また,イスラム運動党は,ホメイニ師と衝突,イラン国内での活動を禁止されていた.

 そこでイランは,他のシーア派組織に統一するよう説得,1990年にイスラム統一党を結成させたのである.
 さらに,JIAや穏健な伝統主義3組織との関係を改善していった.彼らは,アメリカ・サウディアラビア・ISI・「近代派」イスラム主義者枢軸に反感を抱いていた.

(from 「ポスト・タリバン」,中公新書,2001/12/20,P.26,抜粋要約)


 【質問】
 1994年1月1日のカーブル総攻撃で,なぜヘクマチァール派とドスタム派は共闘したのか?

 【回答】
 1993年のラバニ政権樹立時,ドスタム派の入閣が叶わなかった事から,ラバニ派に不満を持ったのが原因だといわれる.
 以下,抜粋要約.

 一説には,ドスタム将軍が幹部会議中,
「目の前の敵(ヘクマチァール)より,袖の中の蛇(ラバニ)を倒すことが先決だ」
と,諺に例えて結論を出したと言われる.

 ヘクマチァール派はカーブル南部と東部から,ドスタム派は北部から攻撃を開始.
 戦域は瞬く間に拡大し,カーブルを北上するサラング・ハイウェイ沿いの地点や,ドスタム派の本拠地マザリシャリフにまで波及した.
 戦闘による死者は10日間で数百人と言われ,約5万人が難民となってパキスタンに流入した.

 ヘクマチァール派は兵糧攻めのため,カーブル東部サロビ市の道路を封鎖,国連によるカーブルへの援助物資搬入を止めた.

(山根聡 from 「アフガニスタン史」,河出書房新社,2002/10/30, p.152-153)

「政権の軸から外れたヘクマティアル派はムジャヒディン政権に反発し,カブールで砲撃を始めてしまう.これは92年から95年まで続く.
 しかもパキスタンは,その事態を見て見ぬふりをする.そればかりか,弾薬の供給も行っていた.
 このことは,カブール市民の間でその後,長くパキスタンに対する不信を残す結果になった」

(遠藤義雄 from 「ポスト・タリバン」,中公新書,2001/12/20,P.110)


 【珍説】
 「世界紛争地図」にも載っていますが,マスード軍がタジキスタンに侵入し紛争を拡大していたのも事実

 【事実】
 以下の点から考えて,信憑性は低い.

・そんな腹背に敵を作るような真似をラバニ政権が本当にやったのか?
・もしマスード軍(ラバニ政権の軍隊はマスードの私兵ではないが)が侵入したのなら、 なぜタジキスタンはラバニ政権を援助しつづけたのか?
・新聞記事などでも,「アフガンゲリラが支援した」とは書いてあっても,「占領した」などとは書いていない .
・「世界紛争地図」の別の所には、越境攻撃してるのはサヤフ率いるイスラム統一党と書いてある.

(軍事板,世界史板


 【質問】
 マスードも一応イスラーム原理主義の過激派に属するんですか?(イギー)

 【回答】
 違うようです.

 まず,こちらに述べられているように,イスラーム原理主義とイスラーム過激原理主義は,現在では全くの別物と言えます.
 過激原理主義に至っては,
「あんなものをイスラーム教呼ばわりするのは,オウム真理教を仏教呼ばわりするようなものだ」
と言うムスリムもいるそうです.


 さて,マスードですが,彼の掲げている「政策」については,長倉洋海「マスードの戦い」(河出文庫)の中に列挙されています.それを見ると,彼の政策は前者,つまり,イスラームに沿った改革論者に近いと思われます.

 ただし,長倉氏はマスードへの思い入れが強いため,同書の記述は客観的ではない可能性もあり,
 また,マスードの理想とする政策は実際に施行されたわけではないので,現実との齟齬に直面した際の彼の対応を見ないことには断定できませんが,今となっては検証不可能です.

(世界史板)


 【質問】
 内戦時代,ムジャヒッディーン達はどのような戦闘を行っていたか?

 【回答】
 部下複数を率いていたスーフィーという人物の話では,食べ物を探す日々だったという.
 以下引用.

 敵の村を襲って襲撃に成功すると,まず民家にある食べ物を探すのが最初の仕事.
 それでも見つかるものはナン程度.それも,何日も前の古いナンのかけらばかりで,固くなっているのだという.
 ナンの次に水を探す.
 見つけ出したら,襲撃した仲間でそれらを分け合って,その日の食事にする.
 そういう日々が戦争の思い出なのだそうだ.
 ナンのかけらや水が見つかるときはまだいい.何も見つからないときもあり,そうなれば食事にありつけないということだ.

(谷本美加「見えない難民 日本で暮らしたアフガニスタン人」,
草の根出版会,2002/4/15, P.29)


 【質問】
 アフ【ガ】ーンで国連難民高等弁務官として活躍した緒方貞子は,犬養毅首相と血縁関係だと聞きましたが,娘なんですか?

 【回答】
 曾孫.

犬養毅┬健┬道子
    │  └康彦
    └操(健の異母姉)
      ||───恒子
    芳沢健吉  ||───貞子
     (外相) 中村豊一  ||
          (外交官) 緒方四十郎

日本史板


 【質問】
 田中浩一郎はなぜアフ【ガ】ーニスタンに派遣されたのか?

 【回答】
 池内恵によれば,外務省内部には適任者がいなかったため,アフ【ガ】ーン研究者である田中に外注されたのだという.
 結果的には「外務省に適任者がいなくて幸いだった」と思える状況となったわけだが.

 以下,池内による説明.

――国連アフガニスタン特別ミッション政務官として田中浩一郎さんという外交官も,交渉に深く関わりました.
 そういう日本人がいたことに驚きます.

池内〔恵〕 彼は本来は外交官ではなく研究者で,一時的に国連の活動に派遣されて活躍していました.
 交渉の最前線で重要人物から情報収集もできる,日本の研究者には希な型破りの才能を持った方です.
 彼の活躍はむしろ,外務省の悪い面が現れたとも言える.
 国連の活動に人を送らねばならないが,アフガニスタン関連は人材が手薄だ,ということで外部の研究者である田中さんに「外注」した.
 イラクなどもそうですが,苦労が多くてふだん脚光を浴びない分野となると,内部で人材が育たず,都合よく外部に頼るという傾向があるようです.

in 『SAPIO』 2005/3/9号,p.43

 ダリー語を流暢に話せる人材が「外務省にいたんだ」と,感心していた当方がバカでした orz


 【質問】
 以下の記述は本当か?

「1991年1月,湾岸戦争が勃発するや,欧米人の姿はペシャワールから忽然と消えた.
 同年2月から3月にかけて,最大の現地NGOであったスウェーデン難民委員会の主要メンバーが爆殺され,UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)にも爆弾が投げ込まれた.
 国連機関のプロジェクトは次々に閉鎖されつつあった.
 追い詰められたときにこそ,その本性が明らかになるというのは事実である.
『アジア系の人を残留部隊にして』,自分達が我先に逃げる計画も普通であった.
 その狼狽ぶりは皆を落胆させた.
 この光景は一つの滑稽なカリカチュアである.
 格調高いヒューマニズムも,援助哲学も,美しい業績報告と共に,遂にガラスの陳列棚から踊り出ることはなかった.
 心有る人々は沈黙していた」

(ペシャワール会・中村哲医師「アフガニスタンの診療所から」,
筑摩書房,1993/2/10,p.236-237,抜粋要約)

 【回答】
 他のところで見る欧米系援助団体の評判,および,中村医師発言に信頼できないものが多いことを考えると,疑わしいといわざるを得ない.

 まず第1に,いかがわしいNGOが多く存在することは確かである.
 しかしそれは,欧米の団体に限った話ではない.日本にも数多くの同じ穴の狢が存在しており,おそらくは,他のアジア諸国のNGOについても同じ事が言えるだろう.

 第2に,評判の高いNGOは,決して安易に撤退するわけではない.
 以下のような記述から考えて,撤退した背景には,かなり高い危険を察知したためと推測される.

「ある国での援助活動中に紛争が激化した.国連・NGOなどが一斉に撤退を始めた.ところが、それとは逆乞うほうに紛争現場に突進していく車がある.それがICRC〔国際赤十字委員会〕とMSF〔国境なき医師団〕だ」
 必ずしもいつもその通りではないかもしれないが,これはICRCと,そしてICRCと活動を共にすることが多いMSFの2つの組織の性格をよく表している.彼らの危険の限界は、国連よりずっと高い所に設定されているように思われる.

(山本芳幸著「カブール・ノート」,幻冬舎,'01)

 国際委員会の派遣要員は,おそらく将軍達を含めて,およそどんな人々よりも現代の戦争をよく知っている.他の人道的組織は,撃ち合いが激しくなると,たいてい要員をよそへ移動させるが,国際委員会は現場に留まることを旨としている.
 その大型派遣団は全て,宿舎に掩蔽豪・土嚢・爆風よけ強化窓を備えている.
 要員達は,現代の戦争の最も原始的な姿と,最先端のハイテクを駆使した姿との,両極端を見ている.ルワンダではフツ族民兵の暴力集団がキガリ市街を徘徊し,民間人を山刀で滅多切りしているのを車の窓から見たし,1991年1月,バグダッドに留まったスイス人派遣要員達は,「トマホーク」巡航ミサイルの凄まじい音と光のショーを目撃した.

(Michael Ignatieff, a writer & journalist, 「仁義なき戦場」,
毎日新聞社,1999/10/30,p.147-148,抜粋要約)

 それどころか,危険を感じたときにNGOが避難するのは,国際協力を永続的に行う上で必要な行為であるという.

 ヒーロー気取りの「かっこつけ」をし,非常に危険な状況の中に自らを晒し,結果,死んでしまったり,拉致されてしまうことなどをしてはいけない.
 なんでかというと,一人の人が危険な状態になった場合,しかたがないのであなたを救うために,組織の残りの人たちが必死になってあなたを助けようとする.
 すると,その人達も撤退できないことになり,その人達にまで危険が及ぶことになる.

 まかり間違って誰かが死んだ場合,上官である安全管理担当者の能力が足りなかったと判断され,彼または彼女は首になる可能性がある.
 さらにそれだけでは済まず,組織全体としての安全管理システムが甘かったと判断され,このプロジェクトの全面的な打ち切りが検討されることになる.
 すると,年間予算で数億円を投入し,何千人,何万人の人々に対して持続的に行われている医療活動が突然,頓挫してしまうのだ.

 おまけに,さらなる悪影響が生じてくる.
 例えば,ある国で援助活動をしている外国人が一人死んだ場合,その国で外国人がボランティア活動することは危険だという風評が広がってゆく.
 すると,他の国際協力団体にまで悪影響が及んでいくのだ.すなわち,他団体も撤退や活動縮小が検討される.医療援助団体だけでなく,教育援助・経済援助・道路建設等を行っているほかの組織まで活動に支障が生じていくのだ.

 このようなことに絶対にならないように,国際協力に関わる人々は,絶対に自分の身を守らなければならない.自分の身を守るのは自分のためではなく,その背景にある組織のためであり,その活動のためであり,何よりもそれにより毎日援助を受けているアフガニスタンにいる人々のためなのだ.

 つまり,危険があったらさっさと撤退し,数日して戦闘が収まったら,また戻ってくればよい.
 こうすれば,プロジェクトは数日遅れるだけで,大勢に影響はない.
 当初の目的,プロジェクト・プロポーザルはやがて達成され,自己満足ではなく,本当に意味のある援助を行うことができる.

山本敏晴著「アフガニスタンに住む彼女からあなたへ」(白水社,2004/8/10),p.86-88

 まして,中村自身も書いているように,爆弾騒ぎが続発していた状況で,撤退やむなしを決めるのは,そう不自然とも思われない.
 その辺は,それぞれの援助団体の判断の問題.
 それを確たる証拠もなしに「滑稽なカリカチュア」と述べるのは,それこそ「滑稽」.

 ちなみに北部同盟軍がカーブルに接近すると,ペシャワール会も一時的にカーブルから撤退している.
 この撤退について,会自身はもちろん一言も「滑稽なカリカチュア」などとは述べていない.

 ところで,著書「アフガニスタンの診療所から」や「医は国境を越えて」において,中村医師はキリスト教系援助団体への不信感を露わにしている.やはり著書である「ほんとうのアフガニスタン」では「陰謀」という表現さえ使っている..
 これら著作に述べられていることが真実なのかどうか,第三者には窺い知ることはできない.
 しかし少なくとも,大きな軋轢があっただろうことは確かである(それがペシャワール会独自の病院建設へと繋がっていく).
 私見だが,そのような感情的しこりが,欧米人主導の援助機関をネガティヴに見る見方を,中村医師の中に育てた可能性は高い.

 例えば,湾岸戦争後も中村医師は次のような事を書いている.

 私達の活動母体である「ペシャワール会」は,福岡に本部を置いています.
 これは任意団体でありまして,結成されてもう18年になります.
 現在7千人を超える会員がおり,年間予算が,設備投資を入れますと約一億円.この内の約85%が,会員の募金によって成り立っています.
 〔略〕
 手前味噌になりますけれども,集められた募金の内,設備投資を入れますと,98%近くが現地に送られる.
 皆さん,当たり前じゃないかと思われましょうが,これは,まあ,固有名詞を出すと問題になりますので言いませんけれども,ある国際団体になりますと,7割,8割が組織維持費で,3割しか現地に届かないというのが,普通と言えば普通の状態なのです.
(「ほんとうのアフガニスタン」,光人社,2002/3,p.32-33)

 この,「ある国際団体」とは,ユニセフを指す.中村医師の過去の講演会の中で,ユニセフと固有名詞を出していたことから,これは明かである.
 例えば,福岡市中央区薬院・河合塾にて2001年9月30日に中村が行った講演会では,
「ユニセフなどの援助団体に寄せられる募金の9割は、組織の維持のために使われます。残りの1割しか難民に使われません。
 それに対して、ペシャワール会へ寄せられる募金の9割が実際の援助に使われます。当会は全くのボランティアで運営されるために、それが可能なのです」
と述べている.

 河合塾講演では「募金の9割は,組織の維持のために使われる」と言っていたものが,本書では「7〜8割」と,発言内容が変わっている.いつの間に2割減ったのだろう? ユニセフが,我々の知らない間にこっそり組織改革をやったとでも言うのだろうか? ぜひ中村医師にはこの減少理由を説明してもらいたいものである.

 この数字の変化を見るだけでも,ユニセフ批判に根拠があるように思えないのだが,では中村医師は,このユニセフの「腐敗ぶり」を,どういう根拠に基づいて発言しているのだろうか?
 当方は以前に,それを直接ペシャワール会にメールで尋ねたことがある.筆者自身がHPや掲示板などで探した範囲では,その根拠は見つからなかったためである.
 以下に,ペシャワール会からの回答の全文を掲げる.木で鼻を括ったような回答ぶりである.

メール拝受いたしました

>  当方が自分自身で調べさせていただいた限りでは,
> 「人からそう聞いた」以上の具体的な事実を探し当てる
> ことができませんでした.

どのような資料を入手されたのか存じませんが,ユニセフに各事業の会計報告の詳細をお問い合せください.

 ……?
 念のため言うが,こんな主張をしているのはペシャワール会の中村医師本人なのである.
 その当事者が,
「俺は知らん.ユニセフに聞け」
 といった態度をとるのは,どういうことであろうか?
 その点について再度問い合わせたが,2度目の返事はなかった.

 ちなみに当方は,ユニセフにも問い合わせてみた.それに対する回答の全文をここに掲げる.
 このメールでユニセフは,中村の主張を一笑に付している.

 通常、日本ユニセフ協会に寄せられた募金の75%以上は、ユニセフ本部に拠出され子供達を支援するユニセフの活動経費となっております。
 ユニセフ本部との協定により、募金収益の最大25%までは当協会での国内での募金活動費、啓発宣伝費、管理費等の事業経費とさせていただいております。

 今回のアフガニスタンのような緊急事態が発生した場合には、緊急募金を呼びかけますが、募金が集まってくる時間を待てない場合も多く、今回も緊急募金の呼び掛け開始と同時に72万米ドルをアフガニスタンに緊急拠出しています。
 現在、ユニセフ・アフガニスタン事務所は3月までの緊急資金として3600万米ドルが今すぐに必要と訴えておりますが、今回のアフガニスタンの危機においてこれらの資金は、ほとんどがアフガニスタン国内に取り残されている国内避難民に対する物資の調達、輸送等にかかるものです。決して9割ものお金が“組織維持”のために使われるなどということはありません。

 ユニセフは1946年の創設以来、みなさまの募金に支えられて活動を続けてまいりました。国連機関でありながら、その活動資金の4割近くが民間の協力によって支えられている機関は稀な存在です。
 しかしそのことが、ユニセフがいかなる場合においても中立を保ち、もっとも支援を必要としている子供達に真っ先に支援を届けることを可能にしています。
 50年以上にわたる活動を通じて、ユニセフは子供のための活動機関として確実に信頼を得てきました。その信頼をベースに、紛争地帯であっても災害地帯であっても、貧困の中であっても、多くの人との協力関係を作りながら子供のための前進を実現しています。
 その信頼を裏切るような行為はどんな場合であっても許されていません。

 ホームページ等でもユニセフおよび日本ユニセフ協会の財政については公開しておりますので、必要であればご覧ください。http://www.unicef.or.jp/house/hou.htm
 どうか、今後ともユニセフの事業とその目的をご理解いただき、引き続きご支援賜りますよう、何卒お願い申しあげます。

 ただし,この財政支出表はユニセフ本部への拠出金という項目が大半を占め,現地でどのような使い方が実際になされているか,本当に判断することはできない.

 確かに,噂レベルではユニセフについて色々囁かれてもいるようである.それは幾つかの掲示板の書き込みからも窺い知れる.

 しかし,それを確固とした事実であるかのように講演会で話したり文章に書くのであれば,それ相応の根拠を必要とするというのが常識である
 明確な根拠も示さないまま,ユニセフや他の援助団体批判を繰り返す中村医師は,やはり偏見で他の団体を見ているとしか思われない.

 第3に,中村医師は他にもNGOの失敗を幾つもあげつらっている(例えば,ソ連撤退後の難民帰還事業)が,ペシャワール会も幾多の失敗を重ねて試行錯誤している.
 例えば,井戸掘り事業では以下の通り.

「私と蓮岡の採用した方針,
『35m手掘り,その後ボーリング掘削』
は,ドイツの団体GAAのやり方を真似たものだったが,成功率は極めて低いと思われた.
 これは中屋氏の勘通りで,
『急いては事を仕損ずる.多少時間と手間はかかっても,慎重な投資をすべきだ』
ということを実証した.

 この頃,『ボーリング』信仰とでも言うべきものがあった.
 私もまた,一時この機械信仰に駆られ、
『ボーリング機械さえあれば何とかできるかもしれない』
と考えた一人である.
 冷静なのは,これをきっぱり否定した中屋氏だけだった.

 しかし,やれることは皆試してみるべきである.苦肉の策はダイナマイトによる巨礫粉砕である.
 しかし,これも岩にドリルで穴を開けないと,表面を傷つけるだけに終わる.
 ともかく試すだけは試そうという事になったが,単に石の間で爆発させても,予想通り役に立たなかった.

 もっと期待を持ったのは工業用削岩機である.
 まず電動式のものを見つけて試したが,セメント床を剥がせる程度の弱いもので,上手くゆかなかった.石があまりに固いのである.
 それに,湿った井戸底は感電の危険が高い.
 望みを託したのは,コンプレッサーで駆動する重量級の削岩機である」

(中村哲,「医者,井戸を掘る」,石風社,2001/10/20,p.94-96, 抜粋要約)

 しかるに,それに対する自省の言葉は殆ど見られない.
 自分に甘く,他人に厳しいという態度の人間の典型ですな,これではまるで.

 上述のような理由,および,他の中村発言にも首を傾げたくなるものが多数存在する事を考えると,質問中に引用されている中村の記述も同様に,「信頼の置けないもの」と判断するのが妥当だろう.



 【質問】
 では,根拠も明かさずに他団体を非難できるほど,ペシャワール会の活動は立派なのか?
 【回答】
 評価できる面も確かにあるが,不明瞭な部分もある.
 他を非難できるほどクリーンであるとは思えない.

 第1に,上述の
「 手前味噌になりますけれども,集められた募金の内,設備投資を入れますと,98%近くが現地に送られる」
の数字には不審な点がある.

 この数字に関し,ペシャワール会は以下のような金額を公表している.
 確かにこれを見ると,90%を超えているように「見える」.
(表1) 1989年 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998
総事業費 1,624万円 2,324 3,089 5,339 7,504 8,250 8,798 8,889 11,606 9,292
現地事業費 1,349万円 1,974 2,685 4,994 6,984 7,740 8,292 8,356 11,104 8,697
現地事業費割合 83.0% 84.9 86.9 93.5 93.1 93.8 94.3 94.0 95.7 93.6
※1997-98年には,通常予算と別に,PMS総合病院建設のための計7千万円が含まれている.

(丸山直樹「ドクター・サーブ」石風社,2001/7/1, p.203のグラフから作成)

 では次に,別の数字を掲げることにする.
 これは,ペシャワール会が郵政省ないし総務省に提出した,収支決算書および会計報告からの数字である.国際ボランティア貯金からの援助金交付の際に提出されたものである.
(表2) 1996年 1997 1998 1999 2000
収入計 9218万円 7547 8477 10678 15289
支出計 8888万円 7132 8477 10678   15289  
援助事業総額 (項目なし) 6697 4162 9144
現地協力費 8356万円  6527   (該当ページなし) 7080 9144
(現地協力費)÷(収入計) 90.65% 86.48 79.00※ 66.30 59.81

※(援助事業総額)÷(収入計)の数字
 表1と表2とで数字が食い違っていたり,表2の中でも現地協力費が援助事業額を上回っている部分があったりと,とても分かり辛い提出資料――こんなの,よく総務省は受けつけたね――だが,一つはっきりしていることは,中村医師の言う「9割」は,「援助事業総額の内の9割」という意味だということだ.
 「ペシャワール会に寄せられた募金の中から9割」ではないのである.
(現地協力費)÷(収入計)は,ピークでやっと90.65%,下手すると6割を切っている.
 つまり,「集められた募金の内,設備投資を入れますと,98%近くが現地に送られる」なんて大ウソなのである.

 では,残りは何に使われているのか?
 結論から言えば,何にも使われていない.残額の多くは繰越金,すなわち貯金されているのである.
 表にすると,次のようになる.
(表3) 1995年 1996 1997 1998 1999 2000
(a)支出計  --- 8888万円  7132  8477  10678  15289
(b)繰越金 1699万円  329 415 1184 2543 5440
(b)÷(a) ---- 3.569%※※ 5.499※※ 13.97 23.82 35.58
※※は.支出の中に繰越金が含まれていない時代なので,(b)÷(a+b)で計算.
 98年から,総収入と総支出額が等しくなっているのは,繰越金を「支出」の項目内に入れて計算してからである.1割を超える繰越金を,支出と別個に勘定したら,そりゃ,目立ってしまってしょうがないよな.
 でも,寄付者が募金するのは,アフ【ガ】ーン人を助けたいからであって,ペシャワール会の預金を増やしたいからではないと思うのだが…….
 ちなみにペシャワール会のさる会員によれば,口座はUFJ銀行にあるという.
なお,参考までに,「救済鍋」でお馴染みの,「救世軍」の募金の使い道を見てみよう.救世軍は,教条面については議論もあるだろうが,慈善活動面においては,実業家の渋沢栄一も
「一円のムダもなく寄付を活用している。慈善団体とは言え,ああじゃなきゃいかん」
と絶賛しており,世界的にも評価の高い組織である.
 以下は,救世軍配布パンフレットからの転載である.

2001年度社会鍋実績報告
募金総額(東京地区)  ¥26,158,677−
慰問活動内訳
1.児童・母子慰問 3,018,505−
2.老人慰問 2,299,929−
3.病人・身障者慰問  2,353,611−
4.保護家庭慰問 2,419,185−
5.刑務所・更生保護  1,612,289−
6.街頭生活者への支援  10,161,207−
7.酒害者更正援助 528,267−
8.女性更生保護 549,245−
9.緊急災害・海外難民外国人援助  1,678,174−
10.人事相談 817,305−
11.募金費用 1,448,969−
合計 26,886,686−
2002年3月31現在(前年度繰越金を含む)

 救世軍はまた,募金の使い方の中身においても,非常に厳格である.
 小隊(教会)、施設、病院の長の決済額は5万〜10万円程度であり,それ以上の額の備品購入は全て,本営(本部)の財政会議の承認を得なければならない。スリッパの購入から、車椅子一台、ベッド一台、MRTの購入に至るまで、必ず見積書を二通取って承認を得ないと何も買えない。
 これで無駄遣いが防止される。

(軍事板・救世軍スレッド)

 そのような厳格なことをペシャワール会はしているのだろうか?

 「ほんとうのアフガニスタン」の中には,次のような記述がある.
福元 実は,ペシャワールかいも最初の段階では,中村先生をだしにして楽しもうというような,そういう仲間の集まりでもあったんですね.〔略〕
 そのうちに中村先生がどんどん活動を拡大していく.
 そうすると,そこにいた人間達が,先生の事業拡大についていけなくなった時期がありました.4年目か5年目くらいに.
 結局そこで,中のメンバーが1回だけ入れ替わっているのです.
 そこのところで会の性格が変わってきて,中村哲がやりたいことを,どういうふうにサポートするかという形に変わっていった.
井上 単純でいいですね.
福元 だから,あんまり議論をしない.議論をするときは,「中村さんがこういうことを言って,こういう事業をしようとしている.そのためには何が必要か」という議論はするんですけれども,「このプロジェクトをやるべきかどうか」という議論は,殆どしない.(p.196-197)
 仲間の集まりと言えば聞こえはいいが,言葉を変えれば,中村のワンマン組織,それがペシャワール会の実態である.そこでは,とうてい救世軍のような厳格なチェックは望むべくもない.中村がルールであり,その中村をチェックする機構は何もないからである.
 第2に,ペシャワール会による援助の中にも,疑問の残るものがある.

 例えば,「ほんとうのアフガニスタン」の中には,このような記述がある.

アフガン空爆り下で1千トンの小麦を配給 飢餓寸前十万人の命を繋いだ

アフガニスタンに合計1400トン,カブールのほうは約1千トンを入れ,約50トンから60トンを爆撃被災地に回し,さらに3500トンをペシャワールで買い付けて送る準備をしたところで,北部同盟のカブール占領となりました.私達が配給した1千トンの小麦で,少なくとも当面の死者は出なかった.(p.127)
 ペシャワール会のHPを見ても分かるように,この配給は主にカーブルなどタリバン支配地域で行われている.
 ところが,当時のアフ【ガ】ーンの食糧事情だが,旱魃で食糧不足に陥っていたのはアフガン北部(北部同盟支配地域側)であり,アフ【ガ】ーン南部パシュトゥン人地域を中心としたターリバーン支配地域側では,比較的食料は豊かだったという(ボブ・ウッドワード「ブッシュの戦争」).

 もちろん,カーブルには,戦火を逃れてきた難民も大勢いたわけだから,援助すること自体は有意義なことである,と一見,思えるかもしれない.

 ところで,本来カーブルの難民を助けるべきターリバーン自身は何をしていたのか? 彼らは飢えている難民をよそに,飽食していたようなのである.
 カメラマンの柳田大元は,「タリバン拘束日記」の中で次のように述べる.
「幅1m強,長さ約7mのプラスチック・シートにドーディ(平たく丸いパン)がフリスビーのように投げ置かれ,次々と小皿に入った料理が並べられた.白身魚の揚げ物,干しブドウ入りプラウ(香辛料入りの焚き込み御飯),肉入り鉄板ディッシュ,ブドウ,ラッシー(飲むヨーグルト),1杯のコーラ.20人は超えていたが,それでも量はじゅうぶんにあった」
「食物が残された皿も多くあった.あまりにも余裕があり過ぎる.
 豊かな食卓に,ある種のエゴイズムも漂っていた.腹が減っては戦はできぬの一言では済まされない何かが,ここにはある.食えない人間が山ほどいる中で兵士達は食らい,国のため,民衆のために戦うという.貧しい人間が自ら穀物を差し出すようでなければ,民衆との一体感は得られないのではないか.もし彼らの食事に,持たざる者の汗が染みていれば,こんな残し方はしないはずである」
 内陸国で魚ですよ,魚.
 アフ【ガ】ーニスタン紛争前のダウド独裁時代,カーブル大学講師をしていた松浪健四郎は,日本大使館が特別に魚を入手して食していることに対する,アフ【ガ】ーンン邦人会の恨みぶりを「アフ【ガ】ーン褐色の日々」の中に書いていたが,そのくらいの贅沢なのである.
 ペシャワール会は,飽食しているターリバーンを尻目に,本来はターリバーンがすべき難民救援事業の肩代わりをしていたことになる.

 援助のやり方にも問題がある.

 ペシャワール会ホームページによると,この配給は全て現地スタッフの手で行われたという.ターリバーンに同情的な組織が,ターリバーン支配地域で,食糧を「配った」わけである.
 北朝鮮への食糧援助を思い起こしてもらいたい.国連という中立的な組織が管理して配ったときでさえ,軍に横領され,闇市場で売買されたり軍備蓄物資にされたりしたものが,かなりの量あったとされている.
 闇市場で国連の袋に入ったまま,売買される米を隠し撮りした映像が,TVで放映もされている.

 まして,そのような中立組織が介在していない,すなわちチェックすべき人間が誰もいない中での「配給」が,全てちゃんと難民に渡ったと考える人は,まずいまい.

 つまり,ペシャワール会は,
食糧が比較的豊かな地域で,
ターリバーンが飽食している傍らで,
本当に難民に渡ったかも分からないような,
そんな「援助」を行ったわけである.
 これを有益な援助だったと思える人は,あまり多くはないだろう.

 第3に,ペシャワール会の「医療協力」自体にも不審点がある.
 中村医師はペシャワールにおいて,主としてハンセン氏病の治療に携わってきたという.
 私が現地で医師として活動を始めたのは,18年前の1984年です.私が聞かされたのは「らい(ハンセン病)コントロールのためのセンターを充実してくれ」ということでした.私達の活動の振り出しは,らいです.
 その当時,ハンセン病の登録患者は2400名だったと覚えています.現在ではだんだん増えておりまして,7千名.やがて8千名,その内,最終的に2万名になるだろうと思われます.(「ほんとうのアフガニスタン」p.48)
 ところが,専門であるはずのそのハンセン病について,こんな初歩的な勘違いを中村医師はしている.
近年,らいの差別的なイメージを変えようとしてマスコミなどはハンセン病という呼称に変えています.
 しかし,名称を変えて済む問題ではない.私は悲惨な過去を匿名にしないためにも,「らい」という正式医学病名のほうも意識的に使っています.(同p.51)
 らい病という呼称をやめてハンセン病と呼ぼうというのは,マスコミが変えようとしているのではない.
 これはハンセン病患者達自身の永年の願いであり,「全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協)」が1952(昭和27)年5月、第一回支部長会議において決まった方針の一つ,
・「癩」の呼称を「ハンゼン氏病」とすること政府に要求する
からも明らかである.
 現在では学会すら「日本ハンセン病学会」と名前が改められており,「らい」は正式医学病名ですらない.

 専門分野であることについての初歩的知識すらないということは,どういうことであろうか?
 そしてまた,7千人だか9千人だかの沢山の会員がペシャワール会にいるにも関わらず,誰もそのことを指摘しなかったのだろうか?

 ペシャワールにいるので日本の事情に疎いから?
 そんなはずはない.
 なぜなら中村医師は,幾つもの著書や講演会で自身そう述べているように,日本に定期的に帰国,非常勤医師として日本の病院で働いているからである.
 また,ペシャワールでのハンセン病治療には,日本の患者団体,光明園の協力も受けているという(「医者よ,信念はいらない まず命を救え!」 '03年,「アフガニスタンの診療所から」,'93年,p.253他).
 会の誰も知らなかったということなどありえない.

 だいたい,1983年頃に中村医師自身,国立療養所邑久光明園グループで研修を積んだと主張している(「アフガニスタンの診療所から」,筑摩書房,1993/2/10, p.27)
 本当に研修したのなら,なぜ研修先でその程度の知識も得られなかったのか? 本当に研修を受けたのか?
 そして,専門と自称している分野についての初歩的知識すらない「医者」の診療が,確かなものなのか?
 疑問が頭から離れない.

 以上の3点より,中村医師は,他の援助団体を批判できるほどの証拠も持ち合わせていなければ,他団体を批判できるほどペシャワール会は立派でもないのではないか?と結論せざるを得ない.

 そりゃあ,長期間の継続ってのは偉いよ.素直に尊敬する.
 でも,長い間やっていれば,当人達が意識しない内に,独善主義に陥ることも十分あるわけで.

 ペシャワール会に対しては,今後,定期的に外部監査を受けるよう提言しておきたいね.
 独善主義から迷走してしまうと,誰よりも患者が困るんだしね.
 以下の言葉を中村医師に贈るから,「自分だけは例外」などと思わず,ぜひ考えてもらいたいね.
「ソ連崩壊からナジブラ大統領の処刑に至るまでのいきさつをつぶさに見てきた私は,人間の共通の病理をここにも見た.
 あらゆる権力は腐敗する.反権力も,それが自己目的化することにより,同じように腐敗する.
 過去の業績や所有は,それが力であれ金であれ,名誉であれ武力であれ,人の心を驕らせて目を曇らせる,権力の源泉である.
 『力』という化け物のおぞましさを改めて知った」

(中村哲「医は国境を越えて」,石風社,1999/12/20,p.307-308)


 【質問】
 湾岸戦争に対するアフ【ガ】ーニスタンの態度はどんなものだったのか?

 【回答】
 賛否半ばしたという.
 メッカ防衛のために兵士を派遣した党派もあれば,ムスリムに対する侵略と捉えた者もいた.
 以下引用.

 かつてムジャーヒディーンの「ジハード」を支援していた米国が,湾岸戦争でイラクを攻撃する当事者となったことは,米国とその政策に対する評価を大きく変える契機となった.
 ムジャッディディー派やガイラーニー派,ハーリス派はメッカ防衛を掲げて,〔1991年〕2月8日,サウディアラビアへ300人の兵士を派遣した.
 だがラッバーニー派やサヤーフ派,ヘクマティヤール派は米国に同調する態度を批判し,兵士派遣を拒否した(遠藤 1992: 612).
 ヘクマティヤールは14日,米国と連合軍のイラク攻撃を,ムスリムに対する侵略と非難した.
 28日には,兵士を派遣したグループと拒否したグループのそれぞれの学生が,デモを展開した.

山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.47


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