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南アジアFAQ目次


アブドラ・アザム Abdullah Azzam
(global securityより)


 【質問】
 アメリカはアフ【ガ】ーニスタン紛争に,どの程度の関心を持っていたのか?

 【回答】
 ミルト・ベアデンMilt Bearden の言葉を信ずるならば,「大して注目していなかった」.

「上院議員オーリン・ハッチがラワルピンディにやってきたのは,もう一度ジア〔ハク・パキスタン大統領〕の考えを問い質し,〔スティンガー・ミサイルをムジャヒッディーンに供与することについての〕彼の反対を自分の耳で聞くためだった.
 随員のマイクル・ピルズベリーは,いわば政界のアジテーターで,普段は議会のスタッフを務めたり,ペンタゴンで政治向きの仕事をしたりしているのだが,それがハッチを焚きつけて,スティンガー問題をプッシュさせているのだ.
 CIAでは,ピルズベリーは不愉快な虻,しぶとい害虫と見られていた.諜報活動の何たるかも,秘密行動の基本原理もろくすっぽ分かっていないくせに,政策論争に嘴を入れてくる奴だと.

 しかし,そもそもピルズベリーのような人間に出番があるということ自体,スティンガー問題がホワイトハウスや国務省の上層部の関心を引いていない証拠である.レーガン政権のトップ・レベルの高官達が,大してアフ【ガ】ーニスタンに注目していないからこそ,ピルズベリーのような中級の官僚が,その政治的空白につけこんでちょっかいを出すことができるのだ」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P.341)


 【珍説】
 CIAがその時期,アフガニスタンでどのように立ち回っていたかを,アフガニスタン政府の文書から見ると,
「イラン革命前,合衆国中央情報局(CIA)は,シャーの情報機関SAVAKを使って当時のアフガニスタン政府(ダウド政権のこと――引用者注)に圧力をかけ,政策変更を迫った」

「パキスタンの領土内でアフガン反革命兵匪を組織し,武器を与え,装備を施し,訓練することはCIAの任務とされた.
 事実,兵匪の首領の一人はアメリカ市民権を持つアフガン人,ジア・ナスリである.
彼は1979年3月,ヘラートで起きた反政府暴動の直前,ワシントンに行き,アフガン問題担当のR. ロートンを交え,アメリカ国防省高官と討議した.
 ジア・ナスリはまた,上院議員代表のF.チャーチおよびJ.ジャビッツと会談した.

 CIAは各種の反革命グループを一つの組織に纏め,反アフガニスタン破壊活動の強化を狙った.
 この点で特に活発な動きを見せたのは,CIAの手先ロバート・リザードである.
 彼はイスラマバード駐在アメリカ外交官の肩書きで,長期に渡って反アフガン活動に従事した.
 リザードはカブールのアメリカ大使館上級職員であったが,1974年,不法活動の廉でアフガニスタン政府から追放された.
 彼は77年,CIAがアフガン―ソビエト関係の破壊を狙っていた時期に,またもやパキスタンに姿を見せた.
 リザードはイスラマバードにおけるCIAのスパイ作戦主任ジョセフ・リーガンの代理に任命された.
 4月革命の後を追うように,アフガニスタンに対する合衆国の破壊活動は,テンポを速めた.
 リーガン=リザードのチームを強化するために,さらにCIA職員が派遣された.中でもリー・ロビンソン,ロジャース・ブルーク,ダネム・ダビッドらはクーデターを演出し,破壊活動を組織する専門家と見なすことができる.
 この5人のCIAチームが,パキスタンの秘密機関およびアフガン反革命の首謀者と結びついて,反アフガン破壊活動の全てを実質的に指揮し,調整していた.

 79年8月,J. リーガンはパキスタン軍統合情報部(ISI)首脳ラドールおよびアレムと会い,反アフガン活動での協力を約束した.
 合衆国とパキスタンによる合同の秘密活動計画案が作成されたのは,この時点である.
 その後,これらの計画は合衆国とパキスタン政府当局に承認された.
 J.リーガンは,後にアフガニスタンと隣接する地区の軍司令官となった将官達と会談した.
 リーガン,リザードの両名はまた,パキスタン情報相ハミド将軍と会い,反アフガニスタン宣伝活動について協定した.
 ペシャワールにおけるアフガン反革命グループの首領どもとアメリカ秘密機関相互の行動の調整は,現地の合衆国理事によって行われる.その領事はCIAの高官である」(「Green Book 宣戦布告なき戦争」 アフガニスタン民主共和国外務省情報局発行 1980年)

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.140-142)

 【事実】
 「大本営発表」を論拠とすることに,何か意味があるとは思えませんが?


 【質問】
 ムジャヒッディーンに対し,アメリカはどんな援助をしたのか?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,武器支援総額は約20億ドル.
 1985年4月,「利用できるいかなる手段を使っても」ソ連軍の撤退を求める,という国家安全保障委員会の方針がレーガン大統領に承認されたことで,支援は増大した.
 一方,人道支援のほうはゼロから始まったが,1988年までにはUSA IDプログラムの3000万ドルと,直接支援の1000万ドルが,パキスタンにいるムジャヒッディーンに配分されたという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.205-209を参照されたし.


 【質問】
 ソ連がアフガニスタンに侵攻した時,アメリカはベトナム戦争みたいに現地にグリーンベレーを送って,ムジャヒディンを教育させる事はしなかったのでしょうか?

 【回答】
 していたらしいが,どの組織がどのような形かはちょっと知らぬ.
 ミルト・ベアデンによれば侵攻当初,米国政府のアフ【ガ】ーニスタン情勢への関心は低く,ムジャヒッディーン支援自体に消極的だった.
 そのため,そうした軍事顧問の派遣も行われていない.

 事実,山根聡やデビッド・イズビーは,ムジャヒッディーンの戦術はソ連軍よりも劣っており,場当たり的な戦闘しかできていなかったと指摘している.

 これが変化するのはレーガン政権が誕生してから.
 スティンガー・地対空ミサイルやミラン対戦車ミサイル,120mm迫撃砲などの新鋭火器が次々にアフ【ガ】ーニスタンに持ち込まれ,その操作を教える要員も派遣された.
 ギャズ・ハンターによれば,便宜上「退役」したことにしたSAS隊員が,その要員として派遣されたという.


 有名なのはスティンガー対空ミサイルの供与で,使うたびに動画の撮影を条件に,消費分を引き渡す形だったと読んだ覚えがある.

 その辺は,今のゲイツ米国防長官がCIA高官だった頃の話なので,良く知っているし,自伝も書いているから何か出ているかもしれない.

 一応,表にはISI(パキスタン軍の統合情報部)がたって,それと別に民間有志でムジャヒディンを支援する組織があり,サウジからは王族自身ではないが,名家の一族の者ということでビン・ラディンが来ている.

 民間有志からの支援としては,ムスリム同胞団系のイスラーム法学者アブドラ・アザムが「奉仕者の家」という組織を作り,CIAの斡旋の下,サウディアラビアのトゥルキ王子からの資金援助を得て,アラブ人義勇兵の受け入れを斡旋した.
 黒井文太郎によれば,彼ら義勇兵もSAS出身の「民間警備会社」のスタッフ等が訓練に当たったという.

 やがて,この「奉仕者の家」を補佐する義勇兵斡旋組織「聖戦と救済」が,86年頃から本格始動し,義勇兵をアフ【ガ】ーンに送りこむだけでなく,義勇兵の軍事訓練キャンプ建設まで行い始めた.
 組織指導者の一族の財力が,「聖戦と救済」の活動を支えた.
 その指導者の名前をウサマ・ビン=ラーディンという.

 やがてソ連軍の撤退後,アブドラ・アザムは何者かに殺害される.
 犯人は今も不明.
 そして「奉仕者の家」全体が,ビン=ラーディンの手の中に転がり込んでくる.
 それをビン=ラーディンは,「聖戦と救済」メンバーを中心として改組した.
 アル・カーイダの誕生である.

軍事板,2009/12/16(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜアメリカはムジャヒッディーンに,スティンガー・ミサイルをすぐには供与しなかったのか?

 【回答】
 ミルト・ベアデンMilt Bearden の言葉を信ずるならば,ジア大統領が反対したためだという.

「CIAが一貫して議会に報告してきたように,アメリカのミサイル・システムを導入すれば,戦線拡大は必至であり,パキスタンのジア大統領はまず賛成しないだろうと思われていた.
 ジアが懸念したのは――おそらくその懸念は当たっていただろうが,ペンタゴンがいったん首を突っ込んできたら,あっという間にアメリカの戦争介入はエスカレートし,パキスタンの押さえなど全く利かなくなるだろうと言うことだった.
 ところが,米上院議員オーリン・ハッチとジアとの会談で,ジアはこう言い出した.
 それはもう,もちろんパキスタンとしては異存ありません.合衆国がアフ【ガ】ーンの抵抗勢力にスティンガー・ミサイルを輸送するとおっしゃるのなら,我が国の領土を通行しても一向に構いませんよ」

 かくてベアデンは,スティンガーの操作訓練をムジャヒッディーンに施すことになる.
「スティンガー効果は単なる数の問題ではなかった.反政府勢力の士気と戦力が向上したことも重要だった.〔初のスティンガー実戦投入である〕ジャララバードの待ち伏せ攻撃後の1週間は,イスラマバードからの報道の調子にも変化があった.ムジャヒッディーン達は,もうパキスタンのキャンプで無為に運命を待つだけではなくなり,アフ【ガ】ーニスタン東部に押し寄せるようになっていた.
 なにしろ,潜入ルートを封鎖していた,ソ連とDRAの航空機が減少したようだったからだ.
 〔略〕
 ワシントンが受けた影響は,アフ【ガ】ーニスタンのそれと変わらなかった.最後まで戦い抜くという,新たな決意が生まれたのが感じられた」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,
'03,P.336-343 & 412)

 別の証言もある.スティンガーがテロに流用されることを,アメリカが懸念したため,というものである.

「当初,アメリカは危険を冒してスティンガーをムジャヒッディーンに供給することに消極的だった.この最先端兵器がイランの手に落ちて,自国の飛行機に向けて使用される危険があまりに大きいと考えたのである.
 しかし1985年になると,アフ【ガ】ーニスタンにおけるソ連の敗北を促進するという考え方が,その危険よりも重視されるようになった.

 しかし,事はそう簡単にはいかなかった.例えスティンガーをゲリラ戦士に届けることができたとしても,その使い方を教える必要があった.スティンガーは微妙な操作が必要とされる複雑な兵器で,ちゃんとした訓練を受けていない人間が,何気なく取り上げて使えるような代物ではない.
 そこで私の登場となったわけだ」

(Gaz Hunter 「SAS特殊任務」,並木書房,2000/11/1,p.117)


 【神話】
 スティンガー・ミサイルは,アフ【ガ】ーンにおけるソ連軍の敗北を決定付けた兵器である.

 【事実】
 スティンガー・ミサイルのみならず,幾つかの新兵器がムジャヒッディーンを勝利に導いた.

 1987年の春には,空からの脅威はだいぶ減っていた.ソ連軍やDRA(アフ【ガ】ーニスタン民主共和国)がスティンガーの届かない高度で飛ぶことにしたからだ.
 次の相手はソビエトの機甲部隊だった.我々はここ数年,ソビエトの戦車やAPC(装甲兵員輸送車)を打ち破る何かを,何でもいいからくれと再三頼まれていたが,どれも上手くいかなかった.
 問題は射程距離だった.ムジャヒッディーンの対装甲車兵器――RPG7,75mmと82mmの無反動砲――は,アフ【ガ】ーン人が使用する際,射程距離は半径300ヤード(約270m)までだった.この距離の戦闘とは,例えムジャヒッディーンが装甲車両を攻撃したとしても,大抵砲弾を発射した途端,反撃されて殺されることを意味する.

 形勢を逆転させるため,CIAのアンダーソンは新たな兵器を供給することにした.それも,できれば数ヶ月毎に.
 彼は機甲部隊に対抗する方法として,スティンガーのようにムジャヒッディーンを高揚させ,敵方を怖気づかせる物を求めた.

 やがて,手品のようにそれが出てきた.2,3ヶ月の内に,私は新しい対戦車兵器を受け取った.
 アンダーソンの秘密の武器調達チームは,まずフランス製の『ミラン』対戦車ミサイルに目をつけた.
 ミランは発射されると,細い銅線を後ろに引きながら飛び,射撃手は,ミサイルが目標に向かう間に,その線を通して電子的に軌道修正できるようになっている.
 最大射程距離3000ヤードのミランは,ムジャヒッディーンの攻撃範囲を10倍に広げ,前線からは大成功の報告が続々寄せられた.

 次の銀の弾丸は,ワルシャワ条約機構の兵器庫から直に頂いてきた物だった.アンダーソンのチームは,ソビエトが設計した73mm無反動砲,SPG9の在庫を手に入れ,パキスタンに空輸した.SPG9の最大射程距離は1000ヤード.
 次の戦闘シーズンを通じ,ムジャヒッディーンッは待ち伏せゲリラ戦法でプレッシャーをかけ続けた」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.46-47,抜粋要約)

「1987年の終わり頃,別の銀の弾丸を披露することになった.120mmのスペイン製迫撃砲だ.
 戦争が始まってから7年間,反政府ゲリラの火砲と言えば,ワルシャワ条約機構の82mm迫撃砲しかなかった.これは頼りになる武器には違いないが,ムジャヒッディーンが使うには射程距離も効果も限られていた.
 間接照準射撃法もアフ【ガ】ーン人砲手に教えられたが,滅多に使われなかった.その代わり,彼らは数千ヤードの距離から直接目標に照準を合わせて迫撃砲を撃った.

 新しいスペイン製迫撃砲は,より大きく,相当な破壊力を持ち,射程距離約1万ヤード(約9100m).さらに,ラングレーがアメリカ陸軍と協力して開発した照準システムが,これにはついていた.ローテクの迫撃砲と衛星誘導装置というハイテクの合体だ.
 これはシンプル,かつ効果的だった.迫撃砲チームは夜の闇に紛れて目標まで8000ヤード以内に近付く.目標とは,衛星画像を調べて前もって選んでおいた,ソビエトかDRAの駐屯地だ.
 それから砲手は砲身をセットアップし,GPS受信機を使って自分たちの正確な位置を突き止める.
 正確な座標を測定できたら,小型コンピュータにGPSのデータを入力し,目標の座標を追加し,最初の砲弾で目標に命中させるのに必要な,迫撃砲の正確な方位角と高度をコンピュータから弾き出す.
 砲手は,特別に設計された「北方向指示モジュール」を迫撃砲に取りつけ,コンピュータが弾き出した情報に応じて方位角を調整,正確に目標に向ける.最初の一発が確実に目標に命中して奇襲に成功するよう,上空の風向きも計算に入れられるようにできている.
 素人には一見,難しそうな手順だったが,迫撃砲チームのリーダーに選ばれたアフ【ガ】ーン砲手は,素早く飲み込んだ.

 迫撃砲を使った攻撃は,ソビエトにアフ【ガ】ーニスタン撤退の決断を促す一因になったことは確かだ」

(同 P.99-104,抜粋要約)


 【珍説】
 戦争そのものが近代化されるようになってから,ゲリラ自身が大きな変化を余儀なくされた.
 旧式のライフルは飾り物となり,通称カラシニコフ(AK47ソ連製自動小銃)が取って代わった.その後,対戦車砲や機関銃くらいまでは,まだ「手作りの戦争」という牧歌的な趣があった.
 決定的な変化をもたらしたのは,米国による地対空ミサイル「スティンガー」の供与である.
 少なくとも私の接する範囲で,大部分のゲリラ指導層は次第に暗い表情になっていったように思う.かつて「アングレーズ」として敵視していた者の差さえなしに戦争継続が不可能になった.
 弾が1発600万円もする武器を,操作する技術を要求されるのみではなく,これを移動させて使用するために,スケジュール化した戦争になった.
 変な話かも知れないが,人間が武器を使うというよりは,武器が人間を使っているようにさえ思えた.

(ペシャワール会・中村哲医師「ペシャワールにて」,石風社,p.206)

 【事実】
 牧歌的なのは中村医師の頭の中.

 スティンガー供与以前は,ソ連軍の空対地攻撃に対して有効な対抗手段はなく,これには一方的にムジャヒッディーンは殺られるだけだった.スティンガー供与は別項で述べるように,ムジャヒッディーン自身が望んでいたものだった.

 例えば,アフ【ガ】ーニスタンで義勇兵として戦った高部正樹は,ハインド・ヘリの恐怖について,次のように記している.

――――――
「嫌でも谷間沿いに飛んでくる物体が目に入る.ずんぐりした機影に,縦に並んだ球形キャノピー,その上に横に2つ並ぶインテーク,そしてでかい図体に似合わない短い翼.その翼の下には,ご丁寧にもロケット・ポッドをぶら下げていた.

 背中に電撃が走り,口の中に甘酸っぱいものがこみ上げてきた.砕けそうになる腰を無理矢理動かし,もがくように走った.
 他の事は何も気にならない.これをパニックと呼ぶのだろう.

 これまでの戦闘では自分を守る武器があり,目の前に倒さなければならない相手がいた.『こいつらを殺れば助かる』という思いから,夢中で相手を倒した.
 だが,ハインド相手にAKM 7.62mm突撃銃では,機関車にポップコーンを投げつけるようなもの.反撃の術を持たない自分は,嬲り殺しにされるしかない.地べたを薄汚く這いまわる我々を,奴らは狙い撃ちできるのだ.

『殺される』
 たった一瞬だが脳裏を突き抜けた恐怖は,今まで感じていた恐怖と似ていたが,そのどれよりも生々しかった.自分の中で戦闘の恐怖が頭をもたげるとき,その底には
『死にたくない.死ぬのは嫌だ』
という思いが無意識の中に流れていたのだ.
 程度の差こそあれ,民間人が感じるのと同じ恐怖を,兵士も感じている.当り前だ.兵士とて人間だ.ムカデが背中を走り回っているようなゾッとする悪寒は,自分の中にいる弱気の虫がパニックを起こしている証だった」

――――――『傭兵の誇り」』(小学館,2001/12/20), p.86

 また例えば,アフ【ガ】ーンでムジャヒッディーンの訓練にたずさわった元SAS,ギャズ・ハンター Gaz Hunter は,ハインド・ヘリの恐怖について,次のように記している.

――――――
 ハインドのことは知り尽くしていた.
 空飛ぶ砲台としてのハインドD攻撃ヘリは,並ぶもののない存在だ.
 機首下部の球形砲塔に,4銃身の12.7mm多銃身回転式機関銃を持ち,パイロットと同じ分厚い防弾ガラスで守られた銃手が,これを操作する.
 短い翼の下にはロケット弾ポッド4個があり,それぞれにずんぐりした57mmロケット弾が32発収められている.
 この恐るべき攻撃力に加え,ハインドはぞっとするような姿をしている.
 2階建てのコクピットは,まるで巨大な殺人昆虫の突き出した目のようだ.

 攻撃ヘリはあざ笑うがの如く堂々と上空でホヴァリングし,回避行動をとる素振りも見せない.
 回転式機関銃が遂に火蓋を切り,HEAP弾(徹甲榴弾)を浴びせてきた.
 射撃のたびに布を引き裂くようなバリバリ,バリバリという凄い発射音を上げる.
 HEAP弾が,私が隠れている柔かい地面など易々と貫通できることを,私は知っていた.
 既に,大口径の機関銃弾が大地を揺さぶり,全身の骨が砕けるほどの衝撃が伝わってくる.

 私は四つんばいになって前に進んだ.
 地面の溝は前方で急激に曲がり,逆行して岩肌に突き当たっていた.
 この土と岩の窪みに私は必死で潜り込み,自分を生きたまま埋めて,なんとか姿を隠そうとした.

 騒音は耳を聾さんばかりだった.
 ロケット弾と機関銃の絶え間ない爆発音,巨大な5枚羽根のローターのゆっくりした傲慢な回転音.
 機関銃弾が土煙を上げて大地に突き刺さる.
 そしてムジャヒッディーン達にも.
 切れ間なく続く轟音の中で,ムジャヒッディーン達の叫び声を私は聞いた.
 次の瞬間,私の回りの地面が震え始め,近付く機関銃弾が大地を介して私の足を叩いた.
 頭のすぐ上の空では,物凄い銃声が飛び交っている.
 バリバリ! バリバリ!

 私は以前に,ハインドが村を攻撃する光景を目撃したときのことを思い出した.
 そのとき,ムジャヒッディーン達の一人は,私を振り返ってこう言った.
「ハインドは世界を掻き回して殺すんだ」
 その意味が私には今,やっと理解できた――攻撃ヘリは大地を食らい,噛み砕き,人間も武器もいっしょくたに切り裂いて,吐き出すのだ.

――――――『SAS特殊任務』(並木書房,2000/11/1),p.5-7

――――――
 1985年春には,戦争は終わりなき消耗戦に突入した.
 しかし,ソ連側には最新の軍事技術が味方についていた.
 さらに,ムジャヒッディーン達がどうしても対抗できない兵器が一つあった.
 それはミル Mi-24ハインドD攻撃ヘリである.
 ハインドDは空飛ぶ戦車,浮かぶ砲兵廠で,これが両陣営に大きな違いをもたらした.
 普通なら安全であるはずの高山地帯でも,ハインドはゲリラ戦士達を戦いに巻き込んだ.
 しばしばハインドはムジャヒッディーン部隊に不意討ちをかけ,戦士達を皆殺しにした.
 搭載するロケット弾と機関銃は,ムジャヒッディーンの地方補給基地を掃射し,一撃で一つの村を丸ごと壊滅させた.

 反乱軍が恐れたソ連製兵器は,これだけではなかった.
 AGS-17半自動擲弾発射機の他,新型のAM2B9ヴァシリョーク82mm自動迫撃砲も恐るべき兵器で,数秒で山腹全体を鋼鉄の雨で蔽い尽くす能力を持っていた.

 我々が与えた情報の見返りに,ムジャヒッディーン達はこうしたソ連製兵器の捕獲品を送ってくれ,私はそれを射場で試射してみた.
 完全な一方通行という訳ではなかったのである.

――――――同,p.115-116
「攻撃ヘリが近付く音は聞こえなかった.敵は地形を巧みに利用していた.低空から攻撃航程に入り,それから我々の右手で台地の崖を急上昇して,爆音を岩の壁面に反射させたのだ.
 敵の計略は見事に成功した.我々は完全に虚を突かれた.
 1機目のハインドが崖の端から姿を現すと,爆音が私に襲いかかった.バタ,バタ,バタ,バタ.
 私は思わず立ち上がったが,とても自分の耳と目を信じる気にはなれなかった.
 そのとき,2機目の攻撃ヘリが,1機目の後方に浮かび上がった.
『逃げろ!』頭の中で声が叫んだ.『逃げるんだ!』
 私は走った.
 冷たい唸りを上げ,ロケット弾の第一波が降り注いだ.
 私は背中に熱い爆風を感じた.
 私は風にさらわれたような勢いで走った.
 走る私の頭の中には,ただ生き延びることしかなかった.

 生きる.

 誰もが自分だけが頼りだった.

 敵は最初に迫撃砲を叩き,それからダシュカ(DShK対空機関砲)へと狙いを移していたが,そこら中で人間もなぎ倒されていた.銃手は逃げる人々を狙い,動く物を片っ端から撃っていた.バリバリ! バリバリ!
 機関銃のチェーン・ソーのような銃声が聞こえ,それがローターの回転音と炸裂するロケット弾のドカンという音と溶け合っていた.
 私は恐怖を感じる暇さえなかった.

 私は行く手に,雪解け水の流れた溝を見つけ,頭からそこへ飛び込んで身をうずめ,あの恐ろしい徹甲弾から逃れようとした.
 銃手は,私が逃げるところを見ていた.周辺の地面が揺れ,機関銃弾が土と岩を噛み砕いて,黒い泡のようなものを吐き散らした.
 私の目は土を被って何も見えなくなったが,それはどうでもよかった.今この瞬間にも,あの対戦車用機関銃弾が私をバラバラに引き裂き,全てを終わらせるかもしれないのだ.

 振動は遠ざかっていった.
 まだロケット弾と機関銃弾の轟音は聞こえていたのに,何故だか分からないが私は頭を突き出した.
 するとフロド〔著者が一人のムジャヒッディーンにつけたあだ名〕の姿が見えた.そのすぐあとにはスメアゴル〔同〕が従っている.ハインド真正面に置かれたダシュカに向かって2人は走っていた.
 彼らは対空機関銃に飛びつくと,撃ちまくりだした.ヘリの獲物を探す機関銃の長い銃身が物憂げに回って,咆哮し,彼らをズタズタに切り裂いた.

 私の中で何かが閃いた.たぶん,どのみち自分は死ぬのだという感覚だろう.
 そして私はAK-47を構えた.
 私は全弾をハインドに叩き込んだ.あまりにも接近していたから,外しようがなかった.
 効果は全くなかった.
 向かってくる銃火に銃手は気付き,狙いを変えた.回転式銃身が,私のほうを向いた.
 世界は埃と石に包まれた.

 私の耳は何も聞こえなくなったが,それでも騒音は頭の中まで入り込むかのように,全てのものを包み込んだ.周りの地面は激しく揺れ動いた.
 ここにいても身を防ぐものはない.どこかへ逃げなければ.
 ほんの1秒か2秒,地を揺るがす銃撃が,どこか別の場所へ移動した隙を捉え,私は立ち上がると,山裾にある強固な岩のほうへ駆け出した.
 そこには大きな岩が立ちはだかっていて,その背後に私は滑り込むと,丸まって隠れ,岩と一体になるかのように体をきっちり押し込んだ.
 機関銃弾はいたるところに降り注いで跳ね返り,岩の破片が私の背中や首筋に突き刺さった.
 もしロケット弾が一発でも残っていて,銃手がそれを発射したら…….

 そのとき奇跡が起こった.沈黙が訪れたのだ.
 私は長い間そこに横たわり,その岩の周りに丸まったまま,殺戮が過ぎ去ったことを信じられずにいた.
 恐怖がやっと訪れ,先ほどの体験がどれほど恐ろしかったか,そしてこれからどんな恐怖が待ち構えているのかと自覚すると,私は震え始めた.気を落ち着けて立ち上がれるようになるまでには,長い時間が必要だった.

 私は振り返って台地を見渡した.徹底的な破壊の痕が,目の前に広がっていた.迫撃砲と対空機関銃を持った男達の部隊がいた場所には,今や残骸と埃しか見当たらない.まだ煙を上げている見慣れない固まりは,武器の残骸か,それともかつて人間だったものか,おそらくはその両方だろう.

 私は歩き出した.
 地面に触れる足は自分のもののようではなく,私の脱け殻の中に別の人間が入って歩いているような感じがした.
 まだ震えが収まらない私は,岩の上に腰を下ろし,足の間に頭を深深と垂れた.
 証拠は周りじゅう至るところにあったにも関わらず,私の心はさっきの出来事を完全に受け入れていなかった.
 やっともう少し落ち着いたと納得すると,台地をもう一度,私は見渡した.既に埃は殆ど吹き散らされるか,地面に落ちていた.
 しかし,それでもまだ動くものはなかった.
 そのとき私は,地面の穴から一人の男が痛々しげに身を起こすのを見た.穴は,彼らが準備していた個人用塹壕の一つだった.
 そのあと,もう一人出てきた.
 しかし,それでおしまいだった.
 私は,日差しの中にぼんやりと座る人影を数えた.
 ハインドが攻撃してくる前には,ここには私を除いて23名のムジャヒッディーンがいた.
 今,生き残っているのは,私を含めて6人だけだった.

 警戒を怠らず,常に空を見上げて耳をそばだて,微かな音でも逃げ出す準備を整えて,我々は地面を探りながら陣地へと戻っていった.
 迫撃砲とダシュカは破壊されて屑鉄になっていた.殆どの場合,武器が置かれていた場所には,縺れ合った金属塊さえなく,ただ熱で溶けた奇妙な塊が転がっているだけだった.
 我々は攻撃のショックによる後遺症でゾンビのようになって,切り刻まれた人体や,破壊された武器の間を歩き回った.
 まさに大虐殺だった.他に生存者はなく,救いの手を差し伸べる相手もいなかった.
 奇妙な丸い物体が,そこかしこに転がっていた.土と肉塊と金属が一緒に絡み合ったものだった.
 遺体の殆どは判別がつかなかった.肉体はロケット弾と機関銃弾によってずたずたにされてしまったのだ.血とちぎれた肉の甘酸っぱい臭いが,あらゆるものから立ち昇り,ソ連軍のコルダイト火薬の悪臭さえも,それには及ばなかった」

――――――同 p.190-194,抜粋要約

 なお,SASは世界的に見ても高水準の特殊部隊.そのベテラン兵士をして恐怖を感じさせるヘリが,ムジャヒッディーンにはどのように感じられたか,想像に難くない.

 さらにスティンガー・ミサイル導入により,農民が土地に戻るという効果まであったという.
 以下引用.

――――――
 この戦争の結果,アフガニスタンは世界一多くの難民を産出することになった.
 〔略〕
 しかし1987年以降,農民は少しずつ土地に戻り始めた.
 ジェット戦闘機の乗員も,低空飛行のヒップ〔ヘリコプター〕と同じように,スティンガー〔ミサイル〕を警戒していることが分かったためである.

――――――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.9

 上掲書にはまた,ムジャヒッディーンの実相も書かれている.

――――――
 アフガン・ゲリラにとってこの戦争は,ヘリコプターで機銃掃射されるかうまく退避できるかということのほか,敵歩兵に遭遇すること,食糧もほとんどなく長時間歩き続けること,そして運が悪ければ,基地がミサイルで破壊され荒れ果ててしまうことの連続だった.

――――――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.11

 これを読むに,およそ「牧歌的」とは言い難い.

 「手作りの戦争」と中村医師は言うが,その実態はソ連軍との武器の圧倒的差の前に,ムジャヒッディーンが殺されまくるという戦争だった.
 事実,アフ【ガ】ーン人の死傷者数は,ソ連軍のそれの10倍以上に昇っている.
 これは,たとえヒット&ランのゲリラ戦に徹したとしても,容易に克服できる差ではない.

 中村医師が言いたいのは,アフ【ガ】ーン人は黙ってソ連軍に殺されろ,ってことかな?

 さらにもう一つ,当時の戦争の様相について記述している文章を引用したい.

-------------
 ペシャワールは現在落ち着いていますが,散発的な(数週間に一度くらい)爆破事件は続いていますし,カイバル峠付近の国境線近くでは,ソ連軍とゲリラ部隊の激戦が続いています.
 街にはやたらに警官や兵隊を見ることが多くなりました.

 しかし,ペシャワールという街そのものが,昔からその手の争いがむしろ普通であったところなので,人々はさして大きな動揺もなく,自分の生活を続けている,というところです.

-------------『ペシャワール会会報 vol.8』(1986.5.26),p.4より,中村医師の記述

-------------
「祈りの手紙」
 日本キリスト教海外医療協力会,1986.1.25号より抜粋

 ペシャワールの郊外と言ってよいカイバル峠では,もう何週間もソ連軍とパキスタン陸軍が対峙,ソ連軍は砲口をペシャワールに向けて威嚇砲撃し,砲声が時折聞こえます.

 一方,西部辺境のカイバル地区では,武装したパターン住民と軍が交戦状態に入り,アフガニスタンと自治区の交通路は閉鎖されました.

-------------同上,p.10

 以上のように,ペシャワール会自身の当時の記述を見ても,「牧歌的」などという言葉からは程遠いことが分かるだろう.

▼ ちなみに中村医師は,かつて以下のようなことを書いている.

――――――
 今春の米ソ会談が決裂して,内戦の泥沼化が必至となった上_,8月の米国による武器援助48億ドルの決定で,戦闘の近代化による大規模な殺戮が予想されるからである.
 これまでのように,各地に割拠するゲリラと各地方の政府軍との取引で,非爆撃地区が取り決められたか,ラマザーンの休戦などという「牧歌的な戦争」ではなくなった.
 文字通り村ぐるみを殲滅する残虐なものになるに違いない.

――――――『ペシャワール会会報 vol.4』(1984年10月),p.4

 つまり中村医師は,「48億ドルの武器援助」――ミルト・ベアデンによれば,総額20億ドルだったそうだが――が実際に届く前から,「牧歌的な戦争ではなくなる」と想像していた.
 それがいつのまにか,中村医師の頭の中で「想像⇒事実」と変換されただけ,というのが上記珍説の正体である可能性が極めて高い.

 ついでに指摘しておけば,デビッド・イズビーによれば,アフ【ガ】ーン共産政府軍は最大4万程度に過ぎず,しかもソ連軍の指揮下にあったのに対し,ソ連軍は10万人以上であって作戦の主導権も握っていた.
 したがって,ソ連軍の目の届かない末端の小競り合い程度なら,そのような「牧歌的」取引もできただろうが,大掛かりな作戦ではまず不可能だろうと愚考する.

 そしてソ連軍の集中的な空爆は,すでに1980※1または1981※2年から始まっている.
 1980年からは「人民の海を枯らす」ための村ぐるみ殲滅戦も行われており,そのため1983年までには難民も100万人を超えている.※3

 つまり1984年の時点で既に,中村医師の言う「牧歌的な戦争」は,ほとんど幻覚だったと言えよう.

※1  『アフガニスタンの歴史』(Sir M. Ewans,明石書店,2002.9),p. 258-263

※2 『アフガニスタン戦争』(デビッド・イスビー著,大日本絵画,1993/9),p.41-45

※3 『アフガニスタンはいま』(飯田健一著,日本放送出版協会,1984.5.20),p.25-32

ハインド
(画像掲示板より引用)

消印所沢

 スティンガー以前にレッドアイを少数供与したが,役立たずでやっぱスティンガーくれってはなしだったような.

ゆずこせう in mixi,2012年07月05日 08:42

 そもそも「牧歌的な」戦争とは,どんなものなのか知りたいですな.

 銃器なしで,ナタだのなんだので凄惨な状況になったという例も,あるやに聞いているので,牧歌的な戦争という言葉自体に違和感を感じます.

ギシュクラ in mixi,2012年07月05日 09:37 & 2012年07月05日 22:31

「マキシム機関銃により,牧歌的な趣が日露戦争から消えた」

犬 in mixi,2012年07月05日 11:59

「象をカルタゴが持ち込んだから,牧歌的な戦争がローマからきえた!!」

「てつはう(震天雷)を蒙古が持ち込んだから,牧歌的ないくさがなくなったじゃないか!!」

「B-29が焼夷弾を落とすようになったから,牧歌的な空襲がなくなったぞ!!」

ゆずこせう in mixi,2012年07月05日 12:20


 【質問】
 ムジャヒッディーンに対する,米国以外の諸国の援助はどのようなものだったのか?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,パキスタンは1970年代からムジャヒッディーンに武器や訓練を与えていたが,重要な武器を送り始めたのは1980年になってからだという.
 これは他の各国,アメリカ,エジプト,サウジアラビア,中国,湾岸諸国も同じで,ムジャヒッディーンの入手する武器の大半は中国製だったという.
 武器の代金はアメリカ,中国,サウジアラビアが払っていた,とイズビーは述べている.

 もっとも,その一部はムジャヒッディーンによって他に転売されましたとさ.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.205-209を参照されたし.


 【質問】
 ムジャヒディンの訓練キャンプがあったパキスタンを,ソ連は攻撃しなかったの?

 【回答】
 武器輸入ルートの取り締まりのために,ちょくちょくパキスタンに特殊部隊が出入りしてぐらいですかねぇ.

Спецназ ГРУ в Пакистане

Воспоминания офицера военной разведки: ≪Мы воевали как могли, но не бежали, а ушли≫

Soviet Afghanistan war (spetsnaz - hunting for caravan)

Afghan War_Ghazni 177oospn(2nd SpetsNaz Battalion)

 ここら辺はまだまだ日本では知られていないことが多いから,調べてみると面白いかもしれない.

 ちなみにトヨタのランドクルーザーを徴発または鹵獲したのを再利用して,GRUスペツナズ達がテクニカル仕様に改造し,奇襲攻撃に活用してたりします.

 ・・・しっかし翻訳マジキツイ・・・死にそうorz

CRS@空挺軍 in mixi,2010年08月18日23:24
青文字:加筆改修部分


◆◆◆義勇兵関連


 【質問】
 アラブ人義勇兵の勢力は?

 【回答】
 延べ人数で2万〜2万5千人にもなるという.
 その人数が一時期に揃ったわけではないので,単純には比較できないが,その当時のアフ【ガ】ーン・ゲリラが,ヘクマチァール派の最大兵力4万人は別にしても,ハリス派とイスラーム統一党が各1万〜2万人,イスラーム連合が1万人程度とされているのを考えると,それなりに大きな兵力だと言える.

 ちなみに,戦場への中継地として義勇兵達が集結した,パキスタンのペシャワールには,アラブ人義勇兵が最も集まった80年代半ばで,常時500〜1000人程度が在留していたとされる.

 詳しくは,黒井文太郎『「イスラムのテロリスト』(講談社,2001/10/20),p.55を参照されたし.

▼ しかし,以下の記述を見るに,あまり歓迎されてはいなかった模様.

――――――
アッザームやアラブ人義勇兵は,ソ連やアラブ嫌いのアフガン人には,一種の蔑称として「ワッハーブ派」と呼ばれ,過激派扱いを受けることにもなった.

――――――『アフガニスタンは今どうなっているのか』(保坂修司編,京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科附属イスラーム地域研究センター,2010.3.1),p.44


 【質問】
 以下のような記述を見かけたが,アラブ義勇兵募集にアル・カーイダが関与していたというのは本当か?

 もう1つの〔アラブ義勇兵〕徴募組織は,いわゆるアルカイダである.
 アルカイダの前身の「アル・ジハード」は,1982年からサウジアラビアを中心に徴募活動を始め,中近東一帯に拡大していった.

 〔略〕

 (A),(B)および(C)〔3系統で集められたアラブ義勇兵〕の全体数は,時期や季節によって異なるが,8万から10万と言われた.

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.167)

 【回答】
 募集組織が後にアル・カーイダに受け継がれたのは確かだが,それをもって「アル・カーイダが関与」と言うのは,悪宣伝の疑い濃厚.
 そもそもアル・カーイダ結成は,ソ連軍撤退よりも後の話.
 ビン・ラーディンとアラブ義勇兵募集活動との関わりは,おおよそ以下要約抜粋のようになる.
 要するに,ソ連軍撤退によって意義のなくなった募集組織をビン・ラーディンが引き取った,あるいは組織を乗っ取ったという話.

 アラブ人義勇兵工作に早い段階から関わっていたのは,パレスティナ系ヨルダン人のイスラーム法学者アブドラ・アザムである.
 彼は,「ムスリム同胞団」急進派幹部ムハマド・アブル・ナスルの命令によって派遣されたと言われており,81年には臨時の「ムスリム同胞団」ペシャワール代表に就任,アラブ義勇兵受け入れ組織「奉仕者の家」をペシャワールで旗揚げした.
 この「奉仕者の家」には,サウジのリヤド州知事サルマン・アジズ王子も資金援助したと言われる.

 これも確認されてはいないが,ウサマ・ビン・ラーディンがイスラーム運動に入ったのは16歳のときで,ソ連軍のアフ【ガ】ーニスタン侵攻があったのは,ちょうど大学卒業と同時期だったらしい.
 ビン・ラーディン自身が以前,英米のメディアに語ったところによれば,初めて彼がペシャワールを訪れたのはソ連軍侵攻直後のことだったと言う.
 その後,何度か本国とを往復したと見られるが,やがて「奉仕者の家」のアブドラ・アザムに出会い,その活動を補佐する目的で,本格的な義勇兵斡旋組織「聖戦と救済」を創設する.
 86年頃からは,エジプトやサウディのビン・ラーディン商会を窓口にして兵士を募り,渡航費用と活動費を負担してペシャワールに送り込むシステムを確立している.
 また,それだけではなく,ペシャワール近郊およびアフガーン領内の少なくとも6ヶ所に,義勇兵用の軍事訓練キャンプを建設,兵士養成にまで乗り出したようだ.

 アフ【ガ】ーンの戦場では,当初は自前の建設機材を持ち込み,アフ【ガ】ーン=パキスタン国境に秘密のトンネルを建設するなどしていたが,やがて自身の配下を従えて野戦司令官となる.
「86年のジャジ戦線,87年のシャバン戦線の戦闘で,ソ連軍を撃退し,アラブ人義勇兵部隊の有数の戦闘指揮官として名を上げた」
とも言われるが,野戦司令官としてはそれほど目立った存在ではなかったという説もある.えてして,こういう話には尾ひれがついて回るので,事実は不明というしかない.
 いずれにせよ,アラブ義勇兵の中で,その財力は飛び抜けており,総合的な貢献度も高かったことから,義勇兵人脈の顔役の一人となっていたことは確かだろう.

 アフ【ガ】ーンからソ連が撤退し,アラブ人義勇兵のモチベーションが低下していた頃,ビン・ラーディンと共に義勇兵組織化計画で中心的役割を果たした「奉仕者の家」代表アブドラ・アザム Abdullah Azzam が,何者かに殺害された.
 アザムはCIAと極めて近かったという噂があり,先行きの不透明な状況の中,義勇兵組織内で何らかのトラブルが発生したのだろうと言われているが,真相は不明である.

 もちろん,ビン・ラーディン派が犯人ではないかという疑惑もある.
 アラブ人義勇兵人脈の要だったアザムの死後間もなく(1989年中か90年かは不明),ビン・ラーディンは,残された「奉仕者の家」と,「聖戦と救済」のメンバーを中心に,自身の組織を結成.
 それがアル・カーイダ(基盤,拠点の意味)である.
 アル・カーイダの発足時の人数などはわかっていない.

 ビン・ラーディンが最初からアル・カーイダを国際テロ組織にしようと考えていたのかは疑わしい.
 なぜなら,自らの組織を創設したビン・ラーディンは,それを部隊化する事もせずにサウディアラビアに帰国.
 その間,積極的にテロを組織化するといった動きを見せていない.
 イエメン改革連合の支援にしても,国際テロに彼らを組織化しようと言う動きは全くなかった.
 ビン・ラーディンの役回りは,あくまでイスラーム運動の経済支援だったのだ.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.50-54 & 85,抜粋要約)

 なお,「8万から10万」はいくらなんでも,誇張が酷すぎる.
 当時,最大軍閥のヘクマチァール派でも3〜4万なのに,そんなにたくさんアラブ義勇兵がいたわけがない.
 黒井文太郎によれば,延べ人数で2万〜2万5千人,常時500〜1000人程度といったところ.


 【質問】
 アラブ人義勇兵はどのように組織化されていたか?

 【回答】
 戦争初期のアラブ人義勇兵の多くは,「ダワ・ワ・シャリア(イスラームの呼びかけと法)」と名づけられた部隊に組み込まれたようだ.
 これは,1981年10月のサダト暗殺後の大弾圧で,エジプトから逃れてきた過激原理主義組織「ジハード」と「イスラーム集団」のテロリスト達が母体となって作られた部隊で,事実上,同2組織連合の遠征部隊と言えた.
 当然ながら,当初はエジプト人メンバーが多かった.

 しかしやがて,様々な国から希望者が殺到するようになり,アラブ人義勇兵達も,それぞれの派閥で分派した.

 出身国で見ると,アラブ人部隊の最大派閥は,ジャファル・アフガニ率いるアルジェリア人部隊,約2800人(最大時.以下同).彼らは後に,本国で超過激殺戮集団「武装イスラーム集団」の中核を形成することになる.
 ヘクマチァール派に近いと言われている.

 次が,前述のエジプト人部隊,約2000人.ジャララバード地方を拠点に,指導者同士が旧知だったヘクマチァール派に合流したとされる.
 「ダワ・ワ・シャリア」という名称は間もなく使われなくなり,一般に「イスラーム集団」あるいは「ジハード」と名乗るようになった.正しくは「ジハード」と「イスラーム集団」の連合軍だが,アフ【ガ】ーニスタンでも本国エジプトでも,サダト暗殺以後の両者は「同グループ内の派閥」ほどの違いとして,事実上殆ど区別されなくなっている.
 最高司令官は,「ジハード」幹部だったアイマン・ザワヒリだが,彼は後に独自の国際テロ組織「征服の前衛」も創設している.
 この「イスラーム集団」アフ【ガ】ーン遠征軍には,他にも名の知れたテロリストが多い.
 副司令官格のムハマド・イスランブーリは,サダト暗殺の実行犯ハリド・イスランブーリの実兄.後に独自のイラン・コネクションを確立し,90年代のイスラーム集団およびアラブ・アフ【ガ】ーン義勇兵人脈のイラン接近を橋渡しすることになる.
 元エジプト軍大佐イブラヒム・メカウィは,元「ジハード」最高幹部の一人だったが,アフ【ガ】ーニスタンではザワヒリの右腕として働き,現在は「征服の前衛」の実質的な軍事司令官となっている.

 このように,アルジェリア人とエジプト人がアラブ義勇兵の2大派閥だったが,それ以外のアラブ諸国出身者達は,それぞれ混合して多国籍部隊を形成した.本国から組織として渡ってきた部隊を別にすれば,同じ言語・文化のアラブ人は,国籍をアイデンティティとはしないのである.

 したがって,出身国別の人数なども実態は不明だが,例えば92年4月の共産政権崩壊時には,サウディアラビア人が約1000人程度だった以外は,イラク人,イエメン人,パレスチナ人,ヨルダン人,スーダン人,チュニジア人が,それぞれ数百人規模で在留していたというレポートもある.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.55-57,抜粋要約)


 【質問】
 アフ【ガ】ーン紛争において,アラブ人義勇兵はどのような働きをしたか?

 【回答】
 元CIA,ミルト・ベアデンの言葉を信じるならば,彼らは,
「ときにはソビエトやDRA軍と戦ったが,彼らの軍事的役割はソビエト撤退後に大幅に誇張された.
 しかし,資金集めという点では,アラブ人は裏で積極的な,時には重大な役割を果たした.CIAの概算では,1989年までに湾岸アラブ諸国は,人道的支援や建築プロジェクトのため,毎月2千〜2千5百万ドルを集めた.

 1980年代半ば,聖戦への呼びかけは,イスラーム世界の隅々にまで届き,様々な動機を持った,様々な年齢層のアラブ人が,侵略者ソビエトと戦うため,パキスタンへ向かった.人道的な使命感に燃えた正真正銘の志願兵もいたが,栄光への道を歩む冒険者もいた.

 戦争が長引くにつれ,多くのアラブ諸国は密かに国産の犯罪者を刑務所から出し,厄介払いにアフ【ガ】ーンのジハードに送り出していた.戦争終結までに,2万人のアラブ人がパキスタンやアフ【ガ】ーニスタンを通過したと,我々は推定している.

 土木エンジニアのオサマ・ビン=ラーディンは,パキスタンの北西辺境州に孤児院やムジャヒッディーンの寡婦のための施設を幾つか建て,ナンガルハルやパクティア州では山を穿ってトンネルや武器弾薬の集積所を作った.

 当時,パキスタンやアフ【ガ】ーニスタンにおけるアフ【ガ】ーン・アラブの役割に懸念を表す者は,殆どいなかった.
 ただ,西側のNGOが,パキスタンの難民キャンプで広まっていた,ワッハーブ派の容赦ない過激原理主義に対し,局地的に批判していただけだった」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.172,抜粋要約)


 【珍説】
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第6章 揺らぐ「平和国家」 222〜223ページ

 一九七九年暮れにソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると,まずは現地のイスラム教徒が抵抗運動を組織してゲリラ戦を開始し,ほどなく隣国パキスタン,さらには中東諸国から多数の義勇兵が馳せ参じた.

 この前後,中東史の研究のためにアフガニスタンに滞在していた日本人から直接聞かされた話だが,カブール大学などでは半年以上も前から「ソ連軍が来る」という話でもちきりとなっており,抵抗運動も半ば公然と準備されていたという.

 ところが日本大使館の職員にその話をしたところ,
「こちらにそのような情報は入っていない」
などと,鼻も引っ掛けない扱いを受けたそうだ.

 ともあれ,抵抗運動に加わったイスラム教徒は総称してムジャヒディーン(戦士)と呼ばれたが,当初,義勇兵の中核を為したのはパキスタンのイスラム神学校の学生たちで,彼らはタリバンと呼ばれた.
 タリバンとは本来,神の言葉を学ぶ者といった意味だが,一九九八年(原文ママ)にソ連軍が撤退した後,アフガニスタン社会のイスラム化を目指す政権を樹立した.
 これが俗にタリバン政権と呼ばれるようになったわけだ.

---------------林信吾著『防衛黒書』(ちくま文庫,2008.9)

 【事実】
 一九九八年というのは一九八九年の単なるタイプミスか.

 やっぱり致命的な部分は,
「当初,義勇兵の中核を為したのはパキスタンのイスラム神学校の学生たちで,彼らはタリバンと呼ばれた.」
でしょうね.
 林信吾はヘクマティアルやラバニ,マスードを全然知らない・・・
 ムジャヒディンが一体どんな層で構成されていたか知らない・・・
 タリバンが何時出来上がったかも知らない・・・

JSF in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 当時,義勇兵の中核をなしたのは,黒井文太郎著『イスラムのテロリスト』(講談社,2001/10/20),p.55-57によれば,エジプト人とアルジェリア人だったとされています.
 また,同書によればナジブッラー政権崩壊時には,サウジアラビア人が約1000人程度,イエメン人,イラク人,スーダン人,チュニジア人,パレスチナ人,ヨルダン人がそれぞれ数百人程度だったそうです.
 パキスタンの神学生が中核だったなんて初耳です.

 のちにターリバーンの兵士になった者の多くが,対ソ戦ではムジャヒッディーンとして戦っていたという話もあります(M. Ewans『アフガニスタンの歴史』,明石書店,2002.9,p.297)が,これはターリバーン自身がそう言っているだけで,傍証らしきものは当方の知る限りでは存在しません.
 もちろんこれが本当だとしても,当時はターリバーンではなかったのですから,「彼らはタリバンと呼ばれた」という表現は誤りだと言えます.

「パキスタンに難民として逃れ,パキスタンのマドラサ(神学校)の学生となった人たちの話だ」
と言い抜けすることは可能ですが,それならばアフ【ガ】ーン人そのものですから,今度は義勇兵という表現が誤りだということになってしまいます.

 時系列で考えても,ターリバーンが表舞台に現れたのは1994年ですから,どのみち「タリバンと呼ばれ」ようはないです.

 当方の知る限り,「アラブ・アフガン」(義勇兵の通称)とターリバーンとを混同している人は,他に猪口邦子くらいしか知りません.
 『防衛黒書』にはアフ【ガ】ーン関連の参考文献は見当たらないようですが,どこでホホイがそんなヨタ話を吹き込まれたのか,ぜひ伺いたいものです.

消印所沢

▼ ある歴史系サイトで最近書かれたコラムなんですが,こちらもアフ【ガ】ーニスタンについて珍説を書いてました.

http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/news090126.html
>この辺の事情はかつてアメリカがソ連に対抗するためにアフガニスタンのタリバンやアルカイダを後方支援して後に「手を噛まれた」歴史とも似ている.

 ソ連軍のアフ【ガ】ーニスタン撤退は1989年です.
 ターリバーンはそれ以後の94年頃に登場してますから,別にソ連軍とは戦闘してません.
 アメリカはソ連撤退後アフ【ガ】ーニスタンからは手を引いており,ターリバーンを支援したのはパキスタンです.
 執筆者はムジャヒディンとターリバーンを混同してます.
 しかもアルカーイダまでアメリカが支援して,ソ連軍とアフ【ガ】ーニスタンで戦闘したことにされてます.

 また,このサイトのコラムを書いた管理人が歴史関係の素人ではなく,れっきとした東洋史研究者(倭寇とか日本の南北朝時代を研究している)であることが,脱力感を増幅させます.

モーグリ in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 対ソ戦時,日本人義勇兵は何人いたか?

 【回答】
 知られているだけで総計10人近く.

 最も知られている義勇兵が高部正樹.そのアフ【ガ】ーンでの戦いは,彼の著書「傭兵志願」などに詳しい.

 また,柔道家・田中光四郎も参戦.彼の著書「アフガンの侍」に,その様子が述べられているが,かえって邪魔になっただけでは?と思わせる部分がないでもない.
 さらに,同著によれば,右派政治団体・日本青年社からも青年3人が,アフ【ガ】ーンにやってきたと言う.

 そしてまた,「生首考」(パロル舎,1994/12/18)という本に,「アフ【ガ】ーン・ゲリラ訓練教官となった日本人」と題する,元ゲリラ教官・斉藤一雄(仮名)へのインタビューが掲載されているが,彼はこう述べている.
「日本人も同じキャンプで3人くらい見かけました」
「当時の私と同じ年齢〔20代前半〕くらいでしたね.
 ただ,私は連中とはあまり話しませんでした.正直付き合いたくなかったのです.角刈りで迷彩服を着た,いかにも自衛隊っていう感じの格好をしていて,何か露骨に皆『戦闘オタク』って雰囲気でした.日本人で,フランスのエトランジェ(外人傭兵部隊)に入るような奴っているでしょう? つい,『バカ!』って言いたくなるような奴(笑).あんな感じです.
 ゲリラの連中の話だと,前線にも何人か日本人がいたようです.その人達はどうも皆,左翼関係らしいという話でした.前線の日本人ゲリラは,
『皆,何か思い詰めたような顔をしていた』
というように見えたそうです.
 ただ,そうした連中が実際の戦闘で役に立つかどうかは疑問ですね」
「前線にいる左翼系らしい日本人が,周りの連中と上手くやっていたかどうかも疑問ですね.正直言って,一方的に思想に入れ込まれても,周りの連中からすれば,鬱陶しくて迷惑だってこともありますから」
 なお,斉藤自身は戦闘には参加していない.

 結局のところ,高部を除き,彼ら義勇兵が戦闘で役に立ったかどうかは疑問.


◆ソ連軍撤退以後


 【質問】
 ナジーブッラーとは,どんな人物か?

 【回答】
 パルチャム派の党活動家で,秘密警察長官を務めた,いわゆる「カーブルの虐殺者」.
 党書記長就任後は,ムジャーヒッディーンとの和解の道を模索するが,入れられず,カーブル陥落により辞任.
 国連に匿われていたところを,ターリバーンに押し入られ,処刑されたことは周知の通り.

 以下引用.

――――――
Najîbullâh ナジーブッラー(1947-96)

 パシュトゥーン人ギルジー族.
 高校までは敬虔なイスラーム教徒であったが,王政の下で衰退する祖国を救うのは共産主義であるとして,カーブル大学在学中にPDPAに入党.パルチャム派に属する.
 卒業後は党の活動に没頭する.
 カールマル政権下では秘密警察(KhAD)長官(1980年1月〜1985年11月)を務め,「カーブルの虐殺者」と呼ばれる.
 1986年に党書記長に就任してから,アフガニスタンからの撤退を希望するソ連の意向を受けて,ムジャーヒディーンとの和解の道を模索する.多くの国民和解政策を提案するが,ムジャーヒディーンの妥協を得られず,失敗に終わる.
 党内の基盤は弱く,ナジーブッラーは古巣の秘密警察への依存度を高める(Maley 2002: 117).
 党内の統一を図るため,1986年末からハルク派の排斥を進める.
 ソ連撤退後も継続する支援によってナジーブッラー政権は延命したものの,1992年4月にムジャーヒディーンによってカーブルは包囲され,辞任する.
 国外脱出の機会を逃がしたナジーブッラーは,カーブルの国連施設に避難する.
 1996年9月にカーブル入りしたターリバーンによって処刑される.

――――――鈴木均 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.285

▼ その性格だが,殺害を好む秘密警察長官だとされる一方,完璧な紳士だという見方もある.

 以下引用.

――――――
 ムハンマド・ナジブッラーは,アフガニスタンの共産党政権には何ら反対の立場をとらなかった.
 無味乾燥な名前では国家情報部,一方では秘密警察として知られた部署の長として,ナジブッラーは直接拷問の指示を出し,容疑者が協力を拒めば,自ら痛めつけて死に至らしめたという.※2
 1975年にカブール大学医学部を卒業しているにもかかわらず,彼は治療よりも殺害を好んだ.
 指導的立場にあったイスラム教聖職者が,反体制の亡命運動をまとめようと断固として活動し続けたとき,ナジブは聖職者の家族79人の殺害を命じたのだった.
 〔略〕
 だがドクター・ナジブッラーは,会ってみると完璧な紳士だった.多くの政治指導者と同様,素顔は融通のきく人物だったのだ.
 一人の若者としては信心深いムスリムであったが,アフガニスタンで高まる共産主義の影響を受けて,彼は自分の名前から「神の」を意味するイスラムの接尾辞を取り去り,ナジブッラーは「ナジブ」となった.
 50万人以上の旧ソ連の軍隊を国内に抱えた1980年代には,それは賢明なキャリアの転換だった.
 〔略〕
 だが,イスラムの逆徒との戦いがだらだらと長引いて,旧ソ連軍の士気が衰えるにつれ,ナジブは,共産主義者とムジャーヒディーンの間にある溝に橋を架けられる和解者という,新しい役割をみずから担いはじめた.
 彼は,アフガニスタン人民民主党という旧ソ連風の名前を現地向けにワタン,つまり祖国党に変更した.
 旧ソ連の軍隊が撤退する際の彼の役割は,アフガニスタンはアフガン人の手に戻るので武器を捨てたほうが良いと,ムスリムの反逆者たちを説得することだった.
 ※2 Henry S. Bradsher, Afghan Communism and Soviet Intervention, Oxford University Press, Karach, 1999, p.161
――――――「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(C. Kremmer著,東洋書林,2006/8/10),p.23-24

 ただし,本書の著者は,反ムジャーヒッディーンの立場に立っているので,その点は留意されたし.
 ナジブッラー政権の下で,本当に「アフガニスタンはアフガン人の手に戻」ったかどうかは非常に疑問.
 仮にその約束が果たされたとしても,ナジブッラー政権自体弱体で,たびたびクーデター未遂が起きており,翌日には後継者によって反古にされる可能性も比較的高かっただろう.▲


 【質問】
 ソ連撤退後,ナジブラ政権は何故すぐには倒れなかったのか?

 【回答】
 二つの大きな理由がある.ソ連がナジブラ政権に対し,強力な支援を行ったこと,および,反政府勢力が団結できず,政府打倒のための有効な戦略を追及できなかった点である.

 ソ連軍がアフ【ガ】ーニスタンを離れるに当たり,輸送車両と携帯兵器程度しか持ち帰らなかったため,残された大量の武器と装備をア【フ】ガーン政府は手に入れた.
 その後も資金や武器,一般物資の供与という形でソ連の援助は続き,その額は年間ざっと30-40億ドルに及んだと思われる.
 供与された資金の多くを用いて,政府や部族やゲリラのリーダーを味方につけ,あるいは少なくとも静観の約束を取り付けた.
 ソ連軍撤退後間もなく,ソ連から戦車,小火器,装甲車,その他の兵器が大量に送られてきた.それはたぶん,ア【フ】ガーン軍が使いこなすことのできる量を超えていただろう.
 さらに,ムジャヒッディーンの拠点や集結地の攻撃に利用可能な,射程距離280kmのSCUD-Bミサイルも届いた.精度はさほどではないが,これらは何の前触れもなく飛来し,迎撃手段がない,強力で恐ろしい兵器である.
 撤退の援護に空軍が不可欠だったため,ナジブラ政権はソ連空軍の支援を受けられなくなったが,政府空軍はヘリコプターの他,各種航空機約200機を擁し,それまでと同様に機能していた.
 陸軍もある程度まで再建が進み,兵員約5万5000人,および約1万の大統領親衛隊,その他の準軍事組織サランドイ,治安警察および混成部隊,それにその他の民兵も支配下に置いていた.

 一方,ペシャワールでは,反政府勢力の成果は,前にもまして惨めなものだった.ソ連軍が去り,目の前に残ったものが個人的あるいは民族的なライバルという状態になると,反政府勢力を団結に導いていた熱意の多くが霧散してしまった.
 1989年2月に,「暫定政権」を選出するためのシューラが召集されたが,ISIの手が露骨に働き,その上ふんだんに投入されたサウジ資金で買収が行われ,総額2600万ドル,代議員一人当たり2万5000ドルあるいはそれ以上が動いたと言われている.
 支配地域獲得が彼らの次なる行動目標となった(ここでもISIの指示によるものだが)が,彼らは,ハイバル峠のトルハムや,ソ連軍が撤退する間に占拠したスピン・バルダグのような,小さな勝利を積み重ねるよりも,政府所在の首都にふさわしいと考えたジャララバード攻撃に全てを賭ける道を選んだ.
 3月にゲリラ約1万5000人が攻撃をかけたものの,あらゆる予想に反し,執拗な抵抗を受けた.原因の一つに,ここでもムジャヒッディーン側に捕虜を取る気のなかったこと,つまり徹底攻撃の意思が挙げられる.
 当然ながらジャララバードの防衛は厳しくなった.暫くの間,町は寸断され,補給は空から受ける有り様だった.
 しかし数週間の内に守備隊は強化され,上空掩護を受けながら反撃に出ることができるようになった.
 ところが攻撃側は,どんなものにせよ,それまで見られた結束力と秩序を失っていた.
 5月半ばまでには,ムジャヒッディーン側の死者は約1000人,負傷者はその3倍にもなり,攻撃失敗が明らかになる.ISIとペシャワールのグループはすっかり面子を失い,ナジブラとその政権を景気づける結果になった.
 この大失態で,パキスタン政府はISIの役割を縮小した.

 アメリカは,ペシャワール・グループに対する特使を任命し,ソ連軍退去ですぐにもムジャヒッディーンの勝利が決まるという期待から中断していた,兵器供給を再開した.
 ジャララバード攻撃が再度計画されたが,7月に守備軍の出撃に先手を打たれ,ムジャヒッディーンはその地域から追い出されてしまう.

 ムジャヒッディーンの信用は,繰り返される内部抗争でさらに低下した.
 7月には,司令官7人を含むイスラム協会(ジャミアト=イ=イスラミ)のメンバー30人が,パンジシールを巡る縄張り争いで,ヘクマティアールのイスラム党(ヘズブ=イ=イスラミ)の待ち伏せに遭い,殺された.
 それに応えてマスードは,犯人4人を捕らえ,裁判を行って絞首刑に処した.
 この事件はやがて,両グループ間に大きな確執をもたらした.

(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.280-283,抜粋要約)


 【質問】
 ナジブラー政権では兵力不足にどう対応したのか?

 【回答】
 国境を越えようとする若者を強制徴募したという.
 以下引用.

――――――
 当時,カブールへ入れるのは年配者だけだった.
 かつて,東ドイツで西へ行けるのは年金生活者だけだったのと似ている.
 ただ違うのは,若者が国境を越えようとすると射殺されるのではなくて,銃を撃つ側にとられてしまう〔徴兵されてしまう〕ということだけだ.

――――――KarlaSchefter著「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」(主婦と生活社,2002/9/17),p.109

 ヴィクトリア王朝期の英国海軍ちゃうねんから.


 【質問】
 なぜムジャヒッディーンはジャララバードへ大攻勢をかけたのか?

 【回答】
 元CIAミルト・ベアデンの言葉を信じるならば,パキスタンのベジナール・ブット首相が望んだため.

「ラドクリフとオックスフォードで学んだブットの新政府は,春の終わりにジャララバードへ大規模な攻撃を仕掛けるよう,ISIを急き立てた.この都市の攻略を皮切りに,次々と勝利を収めようという目論見だ.
 『ペシャワールの7人』はこれに反対し,東部の殆どの指揮官も反対したが,首相が,その春のイスラーム諸国会議機構出席に合わせ,ぜひ勝利を収めたいと望んだのだ.
 そこで,この州都攻撃が実施された.

 戦闘は大失敗に終わった.反政府勢力がこの都市を攻略できなかったことで,ナジブラは心理的に活気付いた.
 私はジャララバード攻勢の間,数回カイバル・エージェンシーへ行ったが,攻囲戦は見るからに投げやりで,ただ双方の戦死者を無意味に増やしているだけだった.
 人の手で迷彩色に塗られた,泥だらけのピックアップ・トラックが,荷台に兵士と武器を満載し,ジャララバードへ向かって何台も疾走していった.
 その同じトラックが,古いグランド・トランク・ロードを縫うように,トルカム目指してもっとゆっくり引き返してくるとき,膠着状態の戦場から負傷者と死体の山を運んでいた」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.166-167,抜粋要約)


 【珍説】
 ソ連がアフ【ガ】ーニスタンに侵攻した際,アメリカはイスラム兵を支援し,パキスタンは前線国家としてアメリカに協力した.
 ところがソ連が撤退すると,アメリカはパキスタンを使い捨てにした.
 そのためパキスタンは,アフ【ガ】ーニスタンから流入する難民,麻薬,カラシニコフ銃により,「カラシニコフ文化」と呼ばれる荒廃状態となったのだ.(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』 p.189)

 【事実】
 パキスタンの自業自得の要素が多分にあります.

 第一に,パキスタンがアフ【ガ】ーニスタン・ゲリラを支援したのは,以下の経緯によるものです.

 (1)ジヤーウル・ハク将軍.民主化運動抑制のため,イスラーム原理主義組織に軍政の支持基盤を構築.
 (2)軍内部を中心としてパキスタン国内に広く過激原理主義が浸透(以上はアジア経済研究所による)
 (3)一方,ジア政権は,アフ【ガ】ーニスタンジハードが親パキスタンのパシトゥーン人ムジャヒッディーンを政権に就かせれば,アフ【ガ】ーニスタンからの「大パシトゥーニスタン国家構想」要求はなくなると考え,アメリカ,サウジアラビア等と共にムジャヒッディーン,分けても過激原理主義者であるヘクマチアールを支援すると共に,ムジャヒッディーンが一つに纏まることを,援助の差別化を図ることで妨害する.
 (4)ヘクマチアール派は最大勢力であるにもかかわらず,一向にアフ【ガ】ーニスタンの政権を掌握できないこと,タリバーンが勃興したことから,ヘクマチアール派を見限り,タリバーン支援に乗り換える.(以上,アハメド・ラシッド『タリバン』,長倉洋海『マスードの戦い』,恵谷治『21世紀のグレート・ゲーム』他より)
 なお,タリバーンは最初からパキスタンによって作られた(マイケル・グリフィン『誰がタリバーンを育てたのか?』)という見方もある.
 (5)パキスタン軍部は,かつて英国がアフ【ガ】ーニスタンとパキスタンの国境線と決めたデュランド・ラインをタリバーンが認めると考えていた.軍部はまた,タリバーンが北西辺境州のパシュトゥン民族主義を抑え,パキスタンのイスラム過激派にはけ口を作ってやり,そのことがパキスタン国内のイスラム運動を妨げることになると考えていた.
 実際に起きたのは,全て正反対のことだった.タリバーンはデュランド・ラインを認めず,北西辺境州の一部に対する領土要求を引っ込めなかった.タリバーンは,イスラム的性格を強めたパシュトゥン民族主義を激励し,これはパキスタンのパシュトゥン人に影響を与え始めている.
 さらに悪いことにタリバーンは,パキスタンのスンニ派の最も暴力的な過激分子に聖域と武器を与えている.これら過激分子はシーア派を殺害しているだけでなく,イスラム革命を通じてパキスタンをスンニ派イスラム国家とすること,現在の国家指導層を妥当することを呼びかけている.
〔略〕
 パキスタンは戦略的幻想の犠牲者になっただけでなく,自らの情報機関の犠牲者でもあった.
 80年代にISI〔パキスタン情報機関〕がアフ【ガ】ーニスタン聖戦を細かく管理できたのは,軍政と外国からの潤沢な資金のおかげで,国内反対派を抑え込む事ができたからである.ジア大統領とISIは,アフ【ガ】ーニスタン政策を決定し,実行する権限を持っていた.CIAといえども,他の国の情報機関ではなしえなかったことである.
 このことはISIに,目標の統合と作戦の大規模化をもたらした.ISIは,独立したロビー団体にも政治的ライバルにも邪魔されることはなかった.
 ISIは政策と作戦の双方を行うため,批判的再評価を試みることや,現場から上がる異なった意見を調整することはできず,また,変化する情勢と動きつつある地政学的環境に適応するための想像力や柔軟性を発揮する機会も持っていなかった.ISIは自己の頑固さ,融通の利かなさの犠牲になった.
 その一方で,タリバーンに対する支配力は低下していった.
 アフ【ガ】ーニスタンにおけるISIの作戦要員は全てパシュトゥン人で占められていた.彼らの多くは強い原理主義傾向を持っていた.最初はヘクマティアル,後にタリバーンと連携する中で,彼らは自分たち独自の目標を掲げるようになった.それは,少数民族や穏健なイスラムの犠牲の下で,アフ【ガ】ーニスタンにパシュトゥン人権力と急進的イスラムを強化することであった.
 ISIを退役したある将校によると,「これらの将校は,タリバーン以上にタリバーンになってしまった」
 その結果,反タリバーン同盟やパイプライン政治に関する分析は欠陥が多く,誤った思い込みや,偏見で歪められていった.客観的事実よりイスラムのイデオロギーを重視したからである.
 しかしこの段階になると,ISIはあまりにも強力になっていたので,時の政府が疑問を発することもできなければ,軍のトップの参謀長もISI人事を一新することはできなかった.
 パキスタン政府は,国際的に広がった批判の嵐の中でタリバーンを弁護し続けるうちに,自国がどれだけの損失をしたか見えなくなった.「アフ【ガ】ーニスタン・トランジット貿易」(ATT)と婉曲な名前で呼ばれているが,その実態は世界最大の密輸商売であり,タリバーンとパキスタンの密輸業者だけでなく,運輸業者,麻薬貴族,官僚,政治家,警察官,将校までが加担している.この密貿易がタリバーンの財源だが主,同時に近隣諸国の経済を破壊し続ける元凶である.
 パキスタン中央歳入庁の当局者が95年初め,私にこう漏らした.
「事態は完全にお手上げです.タリバーンは密輸洋の道路開設のため,運送業者から金を貰っています.マフィアは今やアフ【ガ】ーニスタンとパキスタンで内閣を作ったり,内閣の中に潜り込んだりしているのです.今年,パキスタンの歳入不足は30%に達するでしょう.関税収入がATTに吸い取られているからですよ」(ラシッド『タリバン』より要約).

 つまり,軍政維持のための過激原理主義者支援が,タリバーン支援とISI暴走に繋がったのであり,それをアメリカのせいであるかのように言うムシャラフ大統領や小林氏は,責任転嫁と言われても仕方ないでしょう.

 それどころか,情報元が何か不明なので信頼性に問題がある記述ですが,
「パキスタンは,アフ【ガ】ーニスタンを自国の隷属国家とするために,対ソビエト戦争時,戦闘力のあるアラブ人達をアフ【ガ】ーニスタンに導き入れた.ISIは,オサマ・ビンラディンおよびアルカイダをアフ【ガ】ーニスタンに導き入れた張本人でもあった」(柴田三雄著「アフガン戦略とアメリカの野望」,双葉社,p.118-119)
という説もあります.

 また,ISIの問題以外にも,アフ【ガ】ーニスタン支援は,パキスタンにとって以下のメリットがあります.
「(1) ソ連のアフガーニスタン侵攻が,南野海への出口を求めているのであれば,次の目標として自国南部が脅かされる可能性が大である.したがって,ソ連南下をアフ【ガ】ーニスタンを防波堤として防ぎ止めたい.
 (2) パキスタンは建国以来,インドと何度となく戦っている.〔略〕国連およびソ連の仲介により,現在はカシミール問題は棚上げされている.
 この後インドは中立政策を取りながらも,ソ連よりの姿勢を強めていった.
 従って,ソ連・インドの接近を恐れるパキスタンとしては,ソ連がアフ【ガ】ーニスタンで軍事的敗北を喫することが望ましいと考えていた.
 (3) アメリカが反政府ゲリラ支援をするとなると,地理的に言って――イランが反米政策をとっているので――パキスタン経由以外に手段がなく,そのため必然的にパキスタンと友好的関係を持たざるを得ない.
 パキスタン政府は,この状況を十二分に利用し,アメリカから5億ドルを越す軍事・経済援助を受け取っている(それ以前は,パキスタンの核開発により,アメリカは同国への援助を停止していた).(三野正洋著「わかりやすいアフガニスタン戦争」光文社,P.188-189を中心に抜粋要約)

 さらに,恫喝のみでは必ずしもアメリカが他国を思い通りにできないことは,イラク戦争におけるトルコの対米協力拒否などに見られる通りです.
 まして核保有国(公の核実験が1998年.また,1974年のインドの核実験に対抗する形で,1980年代には既に核保有疑惑が取り沙汰されていた)であるパキスタンが,恫喝程度で態度を変えるわけがありません.


 【珍説】
 〔ジュネーブにおける和平交渉において〕難民を受け入れ,ジュネーブよりは事情を知るパキスタンの意見も無視された.(ペシャワール会・中村哲医師「アフガニスタンの診療所から」 P.105)

 【事実】
 何をもって「頭越し」だと決め付けているのか不明ですが,別にパキスタンは無視されていません.それどころか,終始,当事者でした.

 和平交渉は国連の仲介で,1982年6月16日からジュネーブで始まりましたが,第1回交渉の出席者は,アフ【ガ】ーニスタン共産政府と,パキスタン政府の,それぞれの外相でした.
 1988年4月14日の和平協定調印には,ワキル・アフ【ガ】ーニスタン外相,シュルツ・アメリカ国務長官,シュワルナゼ・ソ連外相と共に,ヌーラン・パキスタン外務担当相も行っています.
 ムジャヒディン・グループは終始これに参加していませんが,これは,
「もっとも,ムジャヒディン・グループを交渉に参加させる方法が難しかった.
 一応IUAM(アフ【ガ】ーニスタン・ムジャヒディン・イスラーム同盟)が存在していても,各派の実力者達がそれぞれIUAM指導者を名乗っていたし,また,統一された司令部・臨時政府といったものはできていなかった.
 IUAMのあるグループが交渉に加わったところで,他の各派の実力者は「我,関せず」の態度をとったことであろう.
 また,和平交渉に参加を決めれば,それだけで他から『妥協的で軟弱』,あるいは,『イスラームの敵と交渉するのか』という非難が浴びせられるのは疑う余地がない.
 特に,イスラーム原理主義を主唱する派閥から攻撃を受ける恐れさえあった.
 それでなくても,ゲリラ各派の対立は希なことではなかった」(三野正洋著「わかりやすいアフガニスタン戦争」光文社,P.127-128)ためとされています.


 【質問】
 ラワルピンディ,オジリ・キャンプの武器集積所爆発の原因は何か?

 【回答】
 KGB将軍レオニート・シェバルシンは,KHADの工作活動ではないかと推測.
 一方,CIAのミルト・ベアデンは,発火事故であると説明している.

「オジリ・キャンプの爆発は,いかにもナジブラの情報機関KHADがやりそうなことだ,とシェバルシンは思った.この作戦はKHADが進めたものに違いない.
 さらに言えば,KHAD独自の行動であり,駐アフ【ガ】ーニスタンのKGB特殊部隊と協調したのではないことも確かだ.
 シェバルシンはアフガーンの情報機関の能力を高く評価していた.とりわけ「汚い手」を使うのが上手い.〔略〕
 彼は,アフ【ガ】ーンの同志が何でも打ち明けてくれると信じるほど純真ではないし,オジリ・キャンプの大爆発がソビエトの国家保安委員会の成果と言えなくても,少しも悔しくはなかった.
 あれは素晴らしい作戦だった,とシェバルシンは思った.それに,ジュネーブ合意調印の数日前という絶妙なタイミングだった」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.127)

「私〔ベアデン〕は空港で出迎えを受け,オジリへ直行した.
 キャンプでは,アフ【ガ】ーン軍事援助の新担当者,ジャンジュア准将に案内された.まだ煙のくすぶる瓦礫の間を用心して歩きながら,どのようにして起こったかを彼に尋ねた.
『まだ調査の段階ですが,』ジャンジュアは言った.『ポーターの誰かがエジプト製の新しいロケット弾を入った箱を落としたようです.たぶん白燐のロケット弾です.それが爆発して倉庫で火災が起こり,従業員が怪我人を安全な場所へ運んでいる内に,火が燃え広がって手がつけられなくなりました.ものの数分で倉庫全体が吹き飛んだのです』
『またエジプト製の武器か?』
 私は思わず首を振った.
『またエジプトのやつです』
 ジャンジュア准将の声には怒りが篭っていた.
 エジプト製武器にはこれまでにも何度か悩まされてきた.戦争が始まったばかりの頃,エジプトは倉庫からガラクタを一掃処分でもするように,古い武器や使いものにならない武器と一緒に梱包して,アフ【ガ】ーン・ゲリラ向けにパキスタンへ送ってきた.
 1年ほど前,オジリ・キャンプで火災が起きたが,原因はエジプト製の迫撃砲の白燐砲弾だった.キャンプ・スタッフの迅速な対応がなければ,今回のような大惨事になっていただろう.
 最近ではエジプト製武器の質も向上し,苦情も減っていた.
 だが,ジャンジュアから事故の第一印象を聞きながら,これは幾つか考えられる原因の一つには違いないと私は思った――おそらく,最も分かりやすい原因だ.

 〔略〕

 そして,噂話が始まった.
 オジリでの1万tの武器弾薬の破壊と,その4日後のジュネーブ合意の調印――この偶然の一致から,オジリはKGBが仕掛けた破壊工作だとする噂が流れた.
 これに新たな捻りを加え,KGBに協力したインドの仕業だとしたがる者もいた.最初の爆発の直前,インドのミラージュ戦闘機数機が,その近辺を低空飛行していたと証言する目撃者が,唐突に現れたりした.噂では,その内の1機がオジリの弾薬に直接,粒子ビームを発射して大火災を起こしたという.
 一枚上手に出たほうが勝ちだと言わんばかりに,KGBやインドの背信行為とする説は,最新版が出るたびに俗悪になっていった.

 やがて噂の源は,最も攻めがいのある犯人に的を絞った――アメリカだ.間もなく当局から正式な報告書が配布され,それにはアメリカがソビエトと結んだ密約の一環として,オジリ集積所を爆破したのだとあった.2つの超大国による悪の陰謀により,『消極的均衡』という歪んだ考えが生まれた――アメリカ合衆国とソビエト連邦がジュネーブで合意した覚書に付加されていたこと.厳密には,アメリカ合衆国は次のような声明を出していた.

 保証人の負う義務は均衡である.
 これに関して,アメリカ合衆国はソビエト連邦に対し,アメリカ合衆国が保証人としての義務として,アフ【ガ】ーニスタン各派へ軍事援助を行う権利を保持することを予め伝えた.
 もしソビエト連邦がアフ【ガ】ーニスタン各派への軍事援助を抑制するならば,アメリカ合衆国も同様に抑制するであろう.

 ジュネーブ合意後のアメリカの計画を疑っている大衆には,これで十分だった.均衡についての声明を,アメリカの逃げ口上と解釈している向きには,特にそうだ.アメリカがオジリ爆破に合意したのだと手っ取り早く結論付けられる」

(同 P.125-130)


 【珍説】
 それどころか,頭越しの米ソ交渉に抵抗したジアウル・ハク大統領は1988年8月,白昼,大統領機諸とも爆殺された.(ペシャワール会・中村哲医師「アフガニスタンの診療所から」 P.105)

 【事実】
 事実無根.

 まず,上に述べたように,頭越しであった事実はない.

 次に暗殺事件だが,L, P, Goodson教授は,1988年8月のハク大統領暗殺は,反ムジャヒッディーン側の犯行である可能性を示唆している.その根拠として,
「事件はソ連軍撤退の時期に当たるが,ソ連軍撤退にかかった9ヶ月間に,戦闘は増加し,農村部には地雷が埋められ,パキスタンの対ムジャヒッディーン支援を弱めようとする活動が行われている.
 この時期の初め(1988年4月)には,パキスタンのラワルピンジにあった弾薬臨時集積所が爆発し,CIAが供給した大量の軍用品が破壊されている」

(Assistant Professor L. P. Goodson 「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」,
原書房,'01,P.119,抜粋要約)

 一方,元KGB,レオニード・シェバルシン将軍は,これを否定している.
「KHAD内のKGBのアフ【ガ】ーン同盟者は,墜落には関わっていないという適切な保証は,既に上に伝えたし,KGBは本当に関わっていないのかと,上から正式に聞かれることもなかった.
 〔略〕
 シェバルシン自身の考えでは,墜落は,もしそれがただの不運というのでなければ,たぶんパキスタン内部の争いの結果として起こったというものだった.そこに長く済んだ経験から,怨恨は永遠に残ると言うことを知っていたし,遅かれ早かれ誰かがズルフィカル・アリ・ブットの処刑に対して返報するに違いないとも思っていた.遅かれ早かれ誰かがジア〔・ハク〕に報いる時が来ると」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.149-150)

 また,元CIAミルト・ベアデン M. Bearden は,「パキスタン空軍が機器に問題のある飛行機に大統領や将軍を乗せてしまったということだろう」(同P.151-152)という見解を示す.

 この大統領機墜落ではハク大統領の他,8人の将軍,4〜5人の准将や大佐が共に死亡している(民間人を含めた計31名が全員死亡).
 これは,「パキスタン軍部にとって壊滅的なほど」(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.147)だった.アフ【ガ】ーニスタンという,当時のアメリカにとっては優先順位の低い問題のために,当時の同盟国の軍部を壊滅させる,というのはアメリカの国益に反する.

 以上により,「抵抗したために暗殺された」など,根拠のない空想であると言える.

 現実には,「アメリカによる暗殺」話は,事件後に駆け巡った幾つもの噂に過ぎない.
 ベアデンによれば,
「最初は陰謀を裏付けるものとして,ムルタン産マンゴーの箱が疑われた.贈り物として出発直前に積みこまれたのだ.そして,この手の話にはつきものだが,C130は空中で爆発してから墜落したという目撃談も出てきた.マンゴーの箱に爆弾が仕掛けられていたに違いない,というのがこの日の結論だった.
 その後すぐに別の説が浮上した.操縦席にガスが引き込まれ,乗員を操縦不能にしたというものだった.自体は最早ハク大統領の暗殺と決め付けられ,間もなく犯人探しが始まった.
 突然の欠員でパキスタンの指導者にのし上がったベグ将軍は,その短い容疑者リストのトップにあった.そうでなければ,ジアと同じ飛行機に乗っていなかった説明がつかないではないかと.
 〔略〕
 噂は噂を呼び,陰謀説が膨らむにつれ,暗殺容疑者の短いリストには,他の名前も追加された.その中には私も入っていた.
 〔略〕
パキスタン軍部の既存勢力は,事故という事実を受け入れることができず,陰謀の証拠が全くないにも関わらず,暗殺説にしがみついた.
 ハミド・グル将軍は,墜落はインドの仕業に違いないと言い始めたので,それを裏付ける証拠がないと私が言うと,彼は次のような言葉を返してきた.
『ミルト,あなたにはインド人のことが分かっていない.彼らは,自分たちがやったという証拠は決して残さないのだ.それこそが,いいかね,ミルト,彼らがやったという証拠だ』
 ハミド・グルは最後にはインド陰謀説を取り下げ,何年か後になって誰彼構わず,CIAがジアを殺したと告げていた」

(同,P.148-152,抜粋要約)


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