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世界史なんでも質問スレッド94

目次

 【追記】 ソ連がの食糧不足を招いたのは誤った科学理論を選択,実践した結果なの?

 【質問】 ギロチンは,何で使われるようになったの?

 【質問】 フランス革命は,理念は元々薄いのでは?

 【質問】 イギリスの君主が支配者の座から転落したのって,ピューリタン革命から?

 【追記】 ガンジーのような非暴力不服従主義は現代だからこそ成立し,成功したのでは?

 【質問】 黄禍論

 【質問】 鮮卑,匈奴という騎馬民族は,モンゴル族・満州族と同一なの?

 【質問】 戦国七雄それぞれが,王を名乗った時期と,誰の治世の時か教えてください.

 【追記】 孫子の兵法って何がすごいの?


 【追記】

182011/09/16(金) 12:29:36.24 0
ニコ動で某動画(↓ 本編2:47から)で
ソ連がの食糧不足を招いたのは誤った科学理論を選択,実践した結果であると言ってるけど
本当にこれが主因なの?


ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm15558875

他にも恐ろしい事をコメディ調に書いてあるけどどの程度信頼できるんだろうか?


212011/09/16(金) 14:22:24.66 O
アイマスか…と思ったけどなかなか皮肉の効いた動画だなw
大躍進や主体農業って農業を理解してない政治家が
密植すればその分生産が増えるだろうと安易に指示した結果だって聞いたけど
実際には疑似科学に国家ごと騙された結果だったんだな

ただ主因かどうかはわからない
ソ連が農産物増産のために設定した主要生産穀物に
ロシアの気候に合わないトウモロコシを選択してしまったためと言った事も聞いた事がある
どっちにしても政治的失敗だけど

352011/09/16(金) 19:38:47.78 0
>>18
何となくソース元が分かるから見ないが,毎年50万ヘクタールの森林が火事で焼失し,
合計6億ヘクタールの森林のうち土地が脆弱すぎて一回切るともう生えない森林が
その内の4億,更に残りの2億ヘクタールはドイツの森の三分の一の成長度と云われ,
第一次五カ年計画に突入する頃には南部に作物の育たない乾燥地帯が広がり,最低でも
普通に人が生活できる範囲に2000万ヘクタールの森林がないともうソ連ダメポと云われていた.
んで,第一次五カ年以降,ようやく最低でも火事を防げる管理体制と計画案の提出が始まったが,
増加する一方の木材の需要等,色々な利害の中で実行に移されなかった.

農業の科学がどうとかいうレベルじゃねーぞ.
ちなみにX線による品種改良等,欧州では一番進んでいたんじゃないか.

362011/09/16(金) 19:54:26.75 0
そう考えるとロマノフ朝の管理能力すげーな.
農奴体制の意味もよく分かる.


372011/09/16(金) 20:52:46.75 0
第1次五ヶ年計画の頃のような初期の話なら,何より,集団農業大勢に急激かつ強引に移行しようとしたことに
よる混乱が飢饉の原因
それまで搾取されて収入はわずかだったとはいえ,とにかく自分が耕して収穫を得ていた土地から引き離されて,
これからはみんなでこの土地を耕せ,収穫もみんなのものだ,と言われて,全員がすぐにはいそうですねと
納得して従うものじゃない
戸惑う者,従わない者,逃げる者,収穫物を隠匿する者,そういった者を攻撃する者,怠ける者……と農村が
混乱をきわめたし,農村を指導し混乱を鎮める方の側もまだ慣れていない
この混乱している時に,たまたま運悪く,穀倉地帯ウクライナで,天候による自然の不作までが重なった
そんなこんなで,空前の飢饉になった


382011/09/16(金) 21:17:56.79 0
帝政崩壊以降,五ヶ年計画まではデータが乏しいが,
さすがに収穫量が10万トン以上も下がってるのに,「ネップ期は順調に伸びていたけど
第一次計画で一挙に下がったんです」ってのは苦しくないか.それ以降も右下がりだし.
自由農業そのものに無理があったと考えるのが自然.


392011/09/16(金) 21:19:24.16 0
あ.間違えた,1000万トンだ.


402011/09/16(金) 21:20:30.12 O
まぁ動画の話はどちらかというと第一次五カ年計画後の話みたいだが
ルイセンコが科学的研究成果によらず政治に取り入って自身とその理論の地位を固めたのは事実みたいね
これがどの程度ソ連の農業政策に影響を与えたのかまではわからん
ルイセンコ以前にも農業生産高が計画を下回ると種もみまで持って行ってしまって翌年飢饉が〜とかあるからなぁ
で,サボタージュに認定されて更なる負荷をかけられるという…

近年ではロシアは農産物輸出国になるんじゃないかって言われているからやっぱり政治的要因だったのかもしれない


412011/09/16(金) 21:31:12.79 0
ただ,飢饉は農作物より,むしろ家畜の影響が大きいと思うよ.
ただでさえ伝染病は対策が難しかったのに集団化なんてするから…….
農業の不足は慢性的だっただけに,今更感の方が強かったろう.
ご存じ漁業は日本帝国と争ってたし,北海開拓でひたすら金が消えてったし.

一応帝政時代も輸出国だったのと,現代の視野を入れるなら
イギリスとの関係向上で欧州自由市場への道が開かれそうな事,
それで輸出額の向上が図られるし,麦なら家畜では難しい欧州市場の基準を
満たせるとかもあるんでないかな.勿論農業の発達もあるだろうけど.

482011/09/17(土) 03:07:57.92 0
ソ連のように防衛のために100パーセント自給を目指して鎖国状態になれば
それまでの帝政での交易の利得を失って餓死者が出るのは当然のこと
日本でも自給率100%にしろなんて農業系のキチガイがいるが,
時代を逆行して江戸時代に戻ることを考えれば,工場を潰して全部を農地に換えたとしても,
国内でどんなに農業を振興させたとしても,少なくとも5千万人の日本人は消滅しなければならない
これは純粋に経済学の問題である

世界史板,2011/09/
青文字:加筆改修部分


 【質問】 ギロチンは,何で使われるようになったの?

 【回答】
 wikipediaソースだが,ギロチンは『機械的な首切りによる公平な処刑システム』として開発され,身分の区別無く使われた.
 それ以前は貴族は斬首,平民は絞首刑だったらしい.

 ただし,ギロチンはフランス革命で発明されたのではない.
 そもそもは1788年,車裂きの刑の公開処刑の場で,民衆が無実を叫ぶ死刑囚に同調してこれを逃がし,処刑台を破壊するという事件が発生.
 そしてこの事件がきっかけで,車裂きの刑は廃止されることとなり,残酷な刑に代わり,苦痛を伴わない処刑法を求める流れが出てきた.
 そのとき,内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンは,受刑者に無駄な苦痛を与えず,しかも身分に関係せずに,名誉ある斬首の刑が適用できる,「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した.

 このギヨタンの提案1789年10月.

 フランスの死刑執行方法が,「平等に斬首」と議決されたのが,革命後の1791年6月3日
 その直後に,斬首だと処刑される側がおとなしくしてないと失敗することが多くなるため,斧や刀では刑執行が追いつかないという,死刑執行人からの意見書も出て,苦痛の少ない機械を開発する事になった.
 当時,死刑執行人だったシャルル=アンリ・サンソンの回想録によると,このとき,
「刃は斧のように三日月型でなく,三角定規のようにすべきだ」
と提言したのがルイ16世.

 のちにギロチンと呼ばれる処刑装置,「正義の柱」の正式採用が1792年4月.
 翌年1月,ルイ16世はその機械で処刑され,10月にはマリー・アントワネットも続いた.

 死刑執行の際,ルイ16世とマリー・アントワネットは,立派な死に方をしたと言われてる.
 ルイ16世は,自分の血が祖国の礎となるようにと言い残し,マリー・アントワネットは最後まで優雅な物腰で,毅然とした態度で断頭台に向かった.
 マリー・アントワネット,執行人の足を踏んでしまい,
「あら,ごめんあそばせ.わざとではありませんのよ」
と言ったという逸話が有名.

 貴族とかはたいがい,落ち着いて処刑されていったらしい.
 処刑場で取り乱してたのは,有名人だとデュ・バリー夫人やエベール.

 国王夫妻は2人ともマドレーヌ墓地に葬られ,王政復古の時にフランス王家の代々の墓のあるサン・ドニ大聖堂に改葬された.
 首は一緒に埋葬されたようだが,有名な蝋人形製作者マリー・タッソーにデスマスクを作らせたとか.

 ただ,フランス革命時には一方で僧侶を船に詰め込んで沈めたり,地方反乱とか鎮圧した時大砲使ったりと,大量処刑してた.

世界史板,2011/09/25(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】 フランス革命は,重税と飢餓で苦しむ連中が,「いい加減にしろ!,糞貴族.飯食わせろ」で起こったもので,理念は元々薄いのでは?
 だからナポレオンが皇帝になろうとなんだろうと,食えれば関係なかったのでは?

 【回答】
 それはステレオタイプすぎ.

 そもそもは市民階級が成長して富裕層が生まれ,貴族社会を壊そうとする機運が生まれた.
 市民階級の中で富裕な者が増えてくると,一定の階層となって,「平民」として貴族の下に置かれていることが我慢できなくなり,権利を求めるようになっていった.
(バークによる『フランス革命の省察』に詳しい)
 ルソーの『社会契約論』が出て,そういった権利を自覚するきっかけにもなった.
 これは単なる「理論武装の本」じゃないよ.

 三部会が開かれたのは,財政難を救うための増税を高等法院が認めず,
「増税するなら三部会を開いて協議しろ」
とせまられたからで,つまり,すでにフランス国王は,絶対王政の時代の権力を失っていた.
 世の中の流れがそういう風に向いていた,ということ.

 そして,自分の首を絞めることになるのに気が付かず,そういった市民を味方につけて,国王に対抗しようとした大貴族・王族が,その機運を後押ししてしまった.
 はっきりと「壊そう」という意識になったのは,三部会が開かれてからかもしれんけど.

 結果,市民階級が台頭し,貴族は没落.
 社会の変革を起こしたから「革命」なんであって,単なる貧しい民衆の暴動ではない.
 貧しい民衆は,それに便乗して一緒に暴れただけ.
 フランス革命は農民や貧民の不満による反乱ではなく,世の中の流れでそうなっていった,ということ.

世界史板,2011/09/26(月)〜09/27(火)
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 【質問】 イギリスの君主って,支配者から,ただいるだけの人に落ちぶれたのって,ピューリタン革命からだっけ?

 【回答】
 イギリスの場合は,幾度かの革命はあるが,基本的に慣行が徐々に制度化していくので,綺麗に線を引くのは難しい.

 けど,田中英夫「英米法」によれば,国会主権は16世紀から徐々に進行したが,最終的な国会主権の確立は名誉革命.
 しかし,King in Parliamentと言う形で,国王は国会の一部と見なされる(国会の一部として行政権を行使),以降,国王・貴族(貴族院)・民主制(庶民院)が国会内で,三角形の形で相互に抑制する混合政体(Mixed government)が出来上がる.

 王の助言機関だったCabinet Councilから独立したCabinetが,発生したきっかけは,外国育ちのジョージ1世がCabinetに出なくなった1718年頃.
 最初の首相らしい首相が,1721〜42年のウォルポール.
 ジョージ3世(1761-1820)が国王親政に戻そうとしたが,アメリカ政策の失敗や,当人の指導力不足・精神病もあって頓挫.
 以降,少なくともタテマエとして国王は,「相談を受ける権利・警告をする権利」に留まることになる.
 ただし,ビクトリア女王(1837〜1900)は実質的な影響力を保持していた.

 混合政体の三角形崩れるのは,1832年の選挙法改正.
 以降,庶民院が優位になり,庶民院の中で二大政党制が確立していく.
 最終的に庶民院の優位が確定するのが,1911年国会法.

※ 同氏の,「英米法」を含むタイトルの著作は複数あり,特定不能――編者

世界史板,2011/09/28(水)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

4482011/10/02(日) 12:48:13.65 0
ガンジーのような非暴力不服従主義は現代だからこそ成立し,成功したのであって,
権力者の意向しだいで反抗者をどうにでもできた古代や中世に,非暴力主義を教義通りに
適用しようとしても非現実的なだけだろ
建前はあくまで建前

4532011/10/02(日) 13:05:25.43 0
経済的利益を目的として植民地支配をしている相手に
サボタージュで赤字経営にして植民地支配を諦めさせたのが
ガンジー流の闘争.
もし支配者側が戦略的拠点またはイデオロギーとして手放せない
テリトリーの確保を目的としていて経済的利益を度外視していたら
現代だってガンジーの真似はできない.

4582011/10/02(日) 13:28:26.21 0
>>448
ちがう.
少数支配者の英国人と圧倒的多数である被支配者のインド人との人口差を利用したもの.

たとえば,英国人が不服従のインド人を逮捕しようとすると抵抗せず捕まる.
次々に捕まる.
たちまち留置場は満員になる.そこで留置場を増やそうとするとインド人はその工事労務を拒否する.
それで捕まえてももはや留置場がない.
文明人を自称する英国人はそのような理由で捕まえたインド人を殺すわけにもいかない.
そのころ門前には俺たちも同罪だから捕まえろと何万人何十万人もが押しかけている.

というわけで英国側はやる気を喪失・・・

世界史板,2011/10/
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 【質問】

 【回答】

6112011/10/05(水) 03:30:06.12 0
>>598>>607
黄禍論は,日本や中国という国それ自体に対するものというよりも,アメリカやオーストラリアへの
日本人移民,中国人移民の増加に対する差別と警戒が大きい
白人が仕事を奪われる,黄色人移民の犯罪が増えるってのが,具体的な黄禍


6122011/10/05(水) 04:35:59.36 0
あの時代,まじめに黄色人種の祖先はネアンデルタール人だとヨウロッパの学者は主張していたんだぞ.

6142011/10/05(水) 06:33:03.59 P
>>613
当時は,
白人の祖先−クロマニヨン人(文化的)
有色人種の祖先−ネアンデルタール人(非文化的)
っていう人種差別的進化論が主張されていたんだよ.


6152011/10/05(水) 06:38:19.89 O
第一次世界大戦後のヨーロッパ諸国は日本とアメリカに危機感を持っていたよ
大戦で荒廃したヨーロッパ諸国に比べ
この二つの新興国は戦火を逃れ急成長していた
当時かつてあった強大な文明達同様にヨーロッパ文明は衰退期に入っているのではという論調があった
この時日本やアメリカと言った新興国の台頭に対抗するためにヨーロッパは団結すべきと言うヨーロッパ連邦論が生まれた
当時は実現しなかったがこれが後のEC,EU成立の下地になる

黄禍論に関しては仏教に対する忌避もある
黄禍論の代表的な人物はヴィルヘルム二世だが
当時(というより少し前)のドイツ哲学の世界ではアジアの宗教,ヒンドゥーや仏教に新しい着想を得ようと研究が盛んだった
研究が進んだ結果仏典の翻訳が成された
が,当時はまだ一部の翻訳に過ぎず不完全なものであったため誤解が生じた
色即是空や諸行無常を唱える仏教は虚無を至高で最上で最終目的としているのものとしていると理解された
これはキリスト教的な楽園を求める立場としてはおぞましく考えられないものに思えた
初期には偶像すらなかったことが知られると益々この考えにはまり込んだ
キリスト教関係者の喧伝もあり仏教徒は我々キリスト教徒とは相容れないという風潮が生まれた
日露戦争中にヴィルヘルム二世がロシアに送った絵には大天使ミカエル(キリスト教国)が遠方の仏(仏教国)をいままさに討伐しにいく様子が描かれている


6162011/10/05(水) 08:59:47.08 0
そういやドイツ人の学者ってチベットとか東洋の秘術みたいなの大好きだよな.

世界史板,2011/10/05(水)
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 【質問】 古代に鮮卑とか匈奴って呼ばれてた騎馬民族は,近代でモンゴル族・満州族と呼ばれてる民族と,全く同一なの?

 【回答】
 同一とは言えない.

 匈奴は何系かよくわからず,鮮卑はモンゴル系の民族らしいけど,後の時代の蒙古との直接の繋がりはない.
 南匈奴と鮮卑は,五胡十六国時代に中国北部に入り込んで,そのまま居座り,南北朝時代にそのまま漢民族文化を吸収し,隋,唐の頃までにはほぼ漢民族に同化して,民族集団としては消滅してしまった.

 鮮卑族は,いくつもの部族に分かれていて,一番古い時代(後漢)からいるのは慕容部.
 鮮卑山に慕容部が引き篭もっていたので,鮮卑の名がついた.
 慕容部の文化は,満洲やナナイなどツーングース的なものもあれば,政治制度に,蒙古や契丹のようなモンゴル的なものもある.
 後に宇文部などの部族が加わるが,慕容部と同じ言語・文化であったか不明.
 鮮卑族が有力になるにつれて,慕容部に同盟したのが宇文部.
 西のほうの部族は,チュルク系やチベット系ではないかと考えられている.
 だから,特定の文化や言語の民族系統が特定できず,ツーングース,モンゴル,チュルク,シナ・チベット,もしかしたらイラン系も含む連合民族=鮮卑民族.

 北匈奴は行方不明となり,その後滅んだとも西進してフン族になったとも言われるが,確証はない.

 なお,満洲族は,モンゴル系ではなくツングース系だ.

世界史板,2011/10/05(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】 戦国七雄のそれぞれの国が,王を名乗った時期と,誰の時か教えてください.

 【回答】
 一番早いのは楚.
 楚では前704年,まだ春秋時代である周の桓王の世に,熊通が周に反抗.
「俺は蛮族だから,周の天下など知らない」
と言って,武王を名乗った(紀元前740年 - 紀元前690年)

 前9世紀前半にも,楚の王を名乗った人がいたらしい.

 史記秦本紀によると恵文君の4年(前334年),斉と魏の君主が会見して,互いに王号を贈った.
 これが斉の威王と魏の恵王.

 前325年,秦の君主が王を称する(恵文王)と,魏王は韓の君主と会見して,これも王とした(宣恵王).

 前323年,魏・韓・趙・燕・中山国が合従し,みな王を名乗ろうということになった.
 それで燕の君主は易王となる.
 ただ当時,胡服騎射で有名な武霊王が,趙の君主だったが,武霊王というのは死後の追号で,
「趙には王というほどの実質はない」
といい,国内では王号を用いなかったともいう.
 前295年に彼が死ぬと,その息子が国内でも王を称するようになった(恵文王).
…と史記には書いてあるのだがそれは間違いらしい.(なんじゃそりゃ)

 斉は同時期の威王(紀元前356年 - 紀元前320年)
 「鳴かず飛ばず」の人.

世界史板,2011/10/07(金)
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 【追記】

9112011/10/13(木) 15:21:20.70 0
孫子の兵法って何がすごいの?
書いた人の戦績のよかった以上の価値があるのかが疑問なんだが….
内容はスパイを上手く使えだの陣形はこうだの,まともな知能のある人間なら誰でも分かる普遍論や
時代遅れになった戦術ばかりじゃん.

昔は偉い将軍でも文字が読めなかったりするからこういう内容でも知ってるだけでも違ったってことかな?


9122011/10/13(木) 16:28:43.85 0
http://mltr.ganriki.net/unc0064w.html#17153


9132011/10/13(木) 17:07:50.49 0
>>911
新しい兵器とか,その運用とかは時代によって進化しているけど,
戦う際の基本原則とか,軍隊を組織・運用するための注意点なんかは
いつの世もかわらない.

強力な部隊を敵にぶつけて,司令部は後方でその指揮を取り,不測の事態に備えて予備を手元に置いておく とかね.

そういうあなたが言うような,”まともな知能のある人間なら誰でも分かる普遍論”をきちんと筋道を立てて説明していて,
今の軍人(や組織人)が教科書として使って通用する本をはるか昔に書いたから評価されている.



9142011/10/13(木) 18:15:10.52 0
アイルランド貴族の現在の立場って,連合王国とアイルランド共和国の二重国籍なの?
戦後,IOC会長だったキラニン卿なんかも英国民なのかアイルランド国民なのか,よくわからん.

アイルランド共和国の市民でありながら,英国王の臣民で英国貴族ってこと?


9152011/10/13(木) 18:55:26.28 0
>>911
今の日本の政治家たちを見てれば,国家の指導者が「まともな知能のある人間」とは
限らないことぐらいわかるだろ


9162011/10/13(木) 19:00:30.48 0
>>911
まあぶっちゃけペルシャとアテナイみたいなので
「兵站も兵力も軍備形態も全部勝ってる前者が勝てるはずだろ! 歴史おかしいよ!」
と主張するのが軍事評論家ですから.
もしもマケドニアの大王がクレフェルトの『補給戦』を読んだら
多分もっと凄い事ができたに違いないとか思ってんだろーな.

西洋の場合には「ここそこの戦場でこういう戦術を取ったから勝てた」みたいな
経験論が古典期の戦術論の主流だったから,孫子は新鮮な驚きを感じる.
しかし結局「勝負は編成で決まる」という現代戦の原則に先に行き着くんだけどな. 


9172011/10/13(木) 19:09:16.71 0
関ヶ原の合戦の布陣図を見たドイツの軍人メッケルは「西軍の勝ち」と即答したそうだが,
東軍が西軍の大名を調略して離反させていたと聞いて,改めて情報戦の重要性を説いたという

世界史板,2011/10/
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