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Kampfgruppe 91

目次


東条英機の光と影(帝国陸軍の光と影6)──日本戦史の光と影(26)』
         大山 格
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□ごあいさつ

現代人はアスファルト舗装になれきっています。
雨が降り続くと道が泥濘と化すことを若い人はわかってくれません。

箱根旧街道の石畳は単に雨水をはじくだけでなく、
はじいた雨を排水することまで意識して作られています。

ちょっと前まで、いきなりそれを説明できたのですが
いまの若い世代には、まず石敷にしなきゃならない
理由から説明しないといけません。


●東条英機の光と影(帝国陸軍の光と影6)

▼東条英機は独裁者か?

 独裁者のような印象を伝えられることが多い
東條英機は、終戦後の軍事法廷でA級戦犯に指定
され、有罪判決を受け絞首刑となった。
主な罪状は侵略戦争を主導したこととされ、
日本の軍国主義を象徴する存在として非常に
重い責任を問われたのだった。

 日本を代表した元首相が、敵だった国々の
一方的な裁判によって極刑となったわりには
国民の反応は冷ややかで、東條の処刑に抗議
する動きはなかった。東條の政治手法に
対する反感が根強く残っていたからだ。

 ドイツのヒトラー、イタリアのムソリーニ
といった本物の独裁者と比べると、東條には
熱狂的な支持層がなかった点が異質で、
また国家元首ではなかったことも独裁者としては
小粒に思える。

だが、政治手法は独裁的で、国会では候補者推薦制
による翼賛選挙で反対派を封じこめ、なおかつ
対立する者は憲兵を使って弾圧した。また、内閣では
陸相、外相、軍需相を兼務し、陸軍では参謀総長を
兼務するなど権力集中を図っている。

これらの点を見れば、国民が冷徹な独裁者と
感じたのも無理はない。東條は恣意的と批判
されても仕方ない立場だ。

 そうした経緯からか、もはや半世紀以上が
経過した現在もなお東條は不人気だ。
しかし、東京裁判によって裁かれた罪状に
ついては、見直しが必要だとする意見もある。


▼日米開戦と東条英機

 まさに日米開戦のそのとき、東條は自室で
泣いていた。家族の証言によれば「嗚咽から
号泣にかわった」というほどに激しく泣いた
様子が伝えられている。

東條は、日米開戦を望んではいなかったのだ。
少なくとも首相になった時点で、戦争反対の
立場になっている。号泣して開戦を嘆いた
のに、望んで戦争を始めたかのように誤解
されたことは、気の毒なことだといえない
こともない。

 だが、東京裁判で裁かれた内容はさておき、
日本を敗戦に導いたことについては、国家や
国民に対しての責任は免れないところだろう。

首相になる以前、東條が軍部の利益のために
強硬な主戦論を唱えていたこともまた重大な
事実として指摘されねばならない。

 日米間の関係が悪化したのは、日本の軍部
が中国東北部に勢力圏を築こうとしたことによる。
満洲事変をきっかけに軍部の主導で満洲国を
独立させ、傀儡政権を通じての支配体制が
築かれたことは、中国東北部の権益に興味を
示していた米国の世論を刺激した。

その実質的首謀者は東條と対立することが
多かった石原莞爾だった。歴史の表舞台に
東條が登場するのは、それから五年後のこと
になる。

 陸軍で官僚的な役割を担ってきた東條は、
成績優秀といわれながらも、そう目立つ存在
ではなかった。

当時の陸軍は皇道派、統制派と呼ばれる
二大派閥の間で深刻な対立があり、東條は
永田鐵山が主導する統制派に属した。昭和一〇年
に陸軍省の軍務局長だった永田が執務中に
皇道派に属する将校によって斬殺され、
東條は永田の後を継ぐかたちで統制派を
率いる立場になった。

 その翌年、皇道派の青年将校らがいわゆる
二・二六事件を起こし、クーデターを図る
が失敗に終わった。これがきっかけで
皇道派の大立者が陸軍を追われ、陸軍内部
での東條の序列は一気にあがった。

 事件後、関東軍参謀長に抜擢された東條は、
蘆溝橋事件を発端とする中国との紛争を拡大
する方針でチヤハル作戦を指導した。
その後、陸軍次官として陸軍の中枢に戻り、
さらには陸相として第二次近衛内閣に入閣
するなど、東條は急激に頭角を現し始めた。

 陸相として軍部の利益を代表した東條は、
米国が日本に要求した中国からの撤兵に強く
反対し、陸軍としては日米開戦も辞さない
と主張した。

 昭和大恐慌から国民生活は不安定となり、
税負担に対する不満が募っていた。軍事費
の国家予算に占める割合が大きかったせいで、
陸海軍ともに予算の必要性を訴えるためには
国際情勢が不穏であることは好都合だった。

戦争のプロである軍人たちは米国との戦争
がおこれば日本が負けることを予見していた
が、それでも「やれば負けます」とは言うこと
ができなかったのだ。

 首相の近衛文麿は日米関係の修復を目指した
ものの、その態度は優柔不断だった。軍部の
意向に添ってドイツ、イタリアとの三国軍事
同盟を結ぶなど、日米戦争回避への努力に
水を差すようなこともしてしまい、東條らの
強硬論に屈する形で総辞職した。


▼東条内閣の成立

 当時の内閣は、重臣会議によって後継者を指名
する。その際、日米交渉に最も強硬な姿勢だった
東條を首相に指名し、戦争回避の大命題を押しつける
という曲芸的な案が採用された。天皇の側近だった
木戸幸一内大臣の発案といわれる。

 東條の天皇に対する崇敬の念は非常に深く
「忠狂」と渾名されるほどだったので、天皇
から日米戦争回避を命じることで自説をまげて
和平に努力することが期待された。また、陸軍の
利益代表たる陸相の立場から、国家の命運を
担う首相の立場に移れば、強硬論の無謀さを
再認識せざるを得ない。

 首相となった東條は、その期待に応えよう
とした。外相に和平派の東郷重徳を起用し、
それなりに和平への努力もしたが、国民に米国
との戦争には勝てないと説明することはせず、
その役割を海軍に求めた。もし海軍が無理だと
いうなら陸軍は自分が必ず抑えると申し入れた
のだが、海軍も「勝てません」とは言わなかった。

 軍部の強硬論に煽られた国民世論が開戦に
傾いていたこともあり、東條もまた強硬論に
押し切られてしまった。ついに日米交渉は決裂し、
真珠湾攻撃によって戦端が開かれることになる。
そしてそのとき、東條は夜明け前の自室で号泣
していた。

いかなる感情によって泣いたのかはわからないが、
開戦を望んではいなかった様子は察せられる。

 ドイツが英国を屈服させれば、米国も戦争意欲
を失うだろうという他力本願な見通しで始められた
戦争は、開戦当初こそ各方面で日本軍の進撃が
順調だったが、半年が経過したミッドウェー
海空戦で大敗を喫して以後、勢力圏は縮小する
一方だった。

望まなかった戦争に託した一縷の望みは
断ち切られ、米軍の反攻作戦が本格化し、
サイパンを奪われたことをきっかけに、
東條内閣は総辞職に追い込まれている。

 そして日本は敗戦国となった。
東京、大阪などの大都市は空襲によって灰燼に
帰し、広島、長崎は原爆の被害を受け、
満身創痍となって終戦を迎えた。そうした責任
の重大さを感じて自決する軍人は多く、陸相の
阿南惟幾(あなみこれちか)もその一人で、
割腹という確実な手段によって自らの命を絶った。


▼東条英機の戦争責任

 東條は終戦後にA級戦犯に指名されるまで
自決しようとはせず、連合国に逮捕される寸前
になって拳銃自殺を図ったが、胸を撃った一発
の弾丸は心臓をそれていた。

 ほぼ同様の経緯で拳銃自殺した元参謀総長の
杉山元は自分の胸に四発の弾丸を放った。
東條は一発のみで失敗したことから、訴追を
免れるための自殺未遂ではないかと勘ぐられる
ことにもなった。

 当時の文化人は、東條の自殺未遂に対して
極めて冷ややかな見方をしている。

高見順は『敗戦日記』に「期するところあつて
今まで自決しなかつたのならば、なぜ忍び難を
忍んで連行されなかつたのであろう。なぜ今に
なつてあわてて取り乱して自殺したりするの
であろう。そのくらいなら、御詔勅のあつた日
に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に
立って所信を述べるべきだ。醜態この上なし。
しかも取り乱して死にそこなつている。
恥の上塗り」と記した。

 一命を取り留めた東條は軍事法廷の主役に
すえられた。国際平和を乱し、人道に背いて
侵略戦争を主導した軍国主義の権化として、
大げさに言えば全人類の敵というような悪の印象
を与えられながらも「死ぬのは易い。しかし敵に
堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ」
として法廷闘争に臨む決意を表明している。

 だが、この態度にも国民の反応は冷ややかで
あった。山田風太郎は『戦中派不戦日記』に
「それならそれでよい。卑怯といわれようが、
奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、
文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う
意志であったならそれでよい。それならしかし
なぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、
なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて
虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を
出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して
死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの
死の方が永遠の言葉になることを知らないのか。」
と記した。

 よしんば東條の法廷闘争への意欲が正当な
ものだとしても、陸相時代に『戦陣訓』を下達
して兵士に死ぬまで戦うことを要求した精神論者
が、自殺に失敗して逮捕されるという醜態を
演じているのでは、たしかに説得力がない。

 軍事法廷で裁かれた内容はともかくとして、
連合国の占領方針から考えると東條ほどA級
戦犯に相応しい人物はいない。国民の人気に
乏しいため、極刑判決を下しても日本国民の
反感を招くおそれがないからだ。

そのわりに国際的な知名度は充分にあり、
東條を死刑にすれば周辺国の応報感情は
満たされる。

 独裁的かつ恣意的な政治手法や、一貫性を
感じられない主張など、人間的魅力に欠ける
ことで現代の日本人からも好かれない人だが、
さまざまな誤解曲解によって悪印象が強く
なった部分もあって、業績について見直し
ていく必要はあるだろう。

東條自身、獄中で自分の行いについては
歴史として評価が下されることを期待すると
心境を漏らしたそうだが、過去の歴史と
なるには、まだ時期が早い。



(おおやま・いたる)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.6.24




荒木 肇
『砲兵と歩兵の論争・第一次世界大戦から学んだこと(5)──大正時代の陸軍(34)』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□ご挨拶

 夏至も過ぎました。これからは昼の時間が
少しずつ短くなると理屈では分かっていますが、
夜の7時にもまだ明るいことは好きです。
サマータイムという考え方があって、一時期、
わが国でも実施されたそうですが、うまく
行かなかったとか。でも、それもいいかなあと
近頃、早起きのわたしは思ってしまいます。

▼大正初めの砲兵

 世界大戦で日本軍人が知ったことは砲兵が
「射的」をしている時代ではなくなったということだ。
明治の中ごろには、後の「陸軍野砲兵学校」は
名前が「陸軍砲兵射的学校」だったことがある
くらいだ。試射をしては観測し、「ちょい右だ」、
「遠い、近い」とやって弾着をねらった所に
近づけていく。こんな悠長なやり方を世界大戦
で砲兵はしなくなったのだ。

「弾幕(だんまく)」という言葉が報告書にも
たくさん見られる。ある地域に砲弾を雨あられ
と落として歩兵が通ってこられないようにする。
防ぐ場合は陣地の前に固定した防禦用の
砲弾落下地点をあらかじめ作っておく。
味方歩兵が攻撃前進する時には、時間と
距離を測っておいて砲弾の炸裂するところを
移動させる。「固定弾幕射撃」、「移動弾幕
射撃」というのがこれらである。

 戦果は、砲門数×発射速度×時間による。
砲と弾薬は大変な数が用意された。
攻撃の前に敵砲兵陣地をつぶし、敵陣も
破壊してしまうというのが攻撃準備射撃である。
これが数日間も続く。それも砲撃を始める前
に試射などやっていたら敵に企画と意図が
ばれてしまう。戦場の全域を測量しておいて
射撃諸元は出しておく。観測や修正もしない。
気象条件も考えておいて、最初から
「効力射(こうりょくしゃ)」で始める。あとは
ひたすら撃つ。これを「無試射、無観測射撃」という。

 歩兵に対する砲兵の数の比率も大きく
なっていた。日露戦争のころには歩兵7に
対して砲兵2くらいだったのが、大戦では2:1
くらいになった。大砲は大口径化し榴弾砲が
多くなってくる。75ミリの野砲を主にしていた
フランス軍も15センチ榴弾砲を師団砲兵に
与えた。ドイツ軍も10センチ榴弾砲を装備し始めた。

 これに対して、大正4(1915)年の21個
師団ほかの砲兵兵力を見ておこう。この年から
野砲兵1個中隊はこれまでの6門から4門に
定数が減らされた。ほんとうの速射砲(38式野砲)
になったので、これまでの6門と同じくらい
4門で戦力は変わらないという判断もあっただろう。

(1)野砲兵(前に述べたように明治40年には野戦砲兵を野砲兵とした)
   師団砲兵−野砲兵21個聯隊(各2個大隊合計6個中隊・24門)
   野砲兵旅団−野砲兵6個聯隊(上に同じ)
(2)山砲兵(砲を分解して駄載もできる)
   独立山砲兵−3個大隊(各3個中隊)
   台湾山砲兵−1個中隊
   騎砲兵−1個大隊(3個中隊)
(3)重砲兵(要塞砲兵を改称)
   重砲兵−2個重砲兵旅団(重砲兵4個聯隊・編制は各種あった)
       2個重砲兵聯隊
       10個重砲兵大隊
 これが大正初期の日本陸軍の全砲兵戦力だった。

 1917(大正6)年には3個の山砲兵大隊を
聯隊に改編する。2個大隊4個中隊で山砲兵聯隊
とした。それが翌7年には大きく編制が変わること
になった。15センチ榴弾砲の師団砲兵への採用
である。師団砲兵聯隊は(ただし野砲兵第21聯隊
は除く)各3個大隊になった。9個中隊だから全部
で36門に増強された。

さらに計画では野砲兵第1、同2、同3、第20、
第22、第24の6個聯隊は、野砲2個大隊と
15榴1個大隊にして、野砲兵第21聯隊は
野砲2個大隊と騎砲1個大隊(2個中隊)とした。
また野砲兵第18聯隊には2個中隊の騎砲兵
大隊がついたので8個中隊だった。
これを砲兵の軍備充実という。しかし、15榴の
配備は軍縮で結局実現しなかった。

 この大正7(1918)年の軍備充実は、
砲兵にとっては大きな出来事を生んだ。
それは「野戦重砲兵」が誕生したことである。
その基礎となったのは、日露戦争時の重砲兵
部隊の中の「乙隊」だった。要塞重砲兵の中
から徒歩砲兵聯隊などが誕生し、野戦に出動
した重砲隊である。

これらを元に編制を変えて、野戦重砲兵旅団を
2個、つまり6個聯隊が生まれた。聯隊は各2個
大隊、大隊は3個中隊、合計36個中隊の
15榴部隊ができたのだ。これまでの
重砲兵(甲隊)は海岸要塞に置かれている。
ただ、これらは2個聯隊と9個大隊に縮小されることになった。

▼やりくりする中の近代化

 1919(大正8)年の陸軍はもっと知られて
いい。世界大戦の教訓から大きく陸軍は
変わろうとしていた年だったからだ。
 
 このころのわが国の様子をおよそ見ておこう。
1918(大正7)年の4月には、日本と英国の
陸戦隊がウラジヴォストークに上陸を始める。

8月には「シベリアへの出兵宣言」を政府が出す。
このため7月には「米騒動」が富山県に始まり、
全国に波及したのは教科書にも書かれている。
9月に有名な「平民宰相」原敬内閣が発足する。
これは初めての政党内閣であることも有名。
陸海軍の大臣以外は全員が与党政友会員だった。
 
 そして1919(大正8)年には1月にパリで講和会議
が開かれた。3月には朝鮮全土に独立運動が
わき起こった。5月には北京で山東半島問題に
抗議する学生たちが示威運動を行った。ドイツから
日本が奪ったチンタオを返せというのだ。
 
 そして6月。ベルサイユ条約が調印され、
一応の戦後処理が片付いた。わが国の戦時
景気はまだ続いていた。大戦中には交戦中
の各国からの軍需品の注文、アジアへ手が
回らなくなった欧州各国の隙をついての進出
などで空前の景気に沸いた後のことである。

戦後不況の波を受けるかと心配をしたのも
つかの間、今度は戦後復興の資材の需要が
やってきた。この年はむしろ戦時に勝る好景気
だった。政府ももちろん積極政策を推し進めた。
 
 原内閣の評価は難しい。初の政党内閣であり、
1920(大正9)年の総選挙では絶対多数を確保
した。政友会の黄金時代である。ところが、
その掲げた4つの政綱があまり知られていない。

(1)教育の振興
(2)産業の振興
(3)交通機関の整備
(4)国防の充実

これらが4大政綱といわれ、それぞれが実行された。

 このうち注目すべきは(4)であり、(1)である。
(1)は7年制高等学校であり、私立大学の「大学化」
である。7年制高等学校は人材の早期供給を目的と
して、これまでの中学5年と高校3年を7年に短縮する
ものだった。

また、これまで大学ではなく格下の「専門学校」だった
私立大学を名実ともに大学にし、卒業生に学士号を
出すものである。このことは陸軍士官学校や海軍兵学校、
同機関学校、同経理学校などの入試に改革を必要と
するものだった。

 そして(4)である。海軍のアメリカとの建艦競争を
もたらすことになった「八八艦隊」の建設計画を
実行に移すことになった。戦艦8隻、巡洋戦艦8隻、
その他艦艇を多数整備する計画である。これに
加えて陸軍の軍備充実である。陸海軍の両省は、
前年度(大正7年)に比べて46%増加の
3億4500万円という膨大な数字だった。
予算総額のおよそ4割にもなろうという割合である。

 こうした中で陸軍は航空部隊を独立させようとした。
陸軍技術本部、科学研究所が設立され、航空学校
や工兵学校も新しく発足する。航空部隊はこれまでの
「交通兵団」から離れて航空大隊として一本立ちした。
ただし航空兵科の新設にはまだ6年の月日を必要と
する。

 交通兵団司令部は廃止され、陸軍航空部が生まれた。
ところがこの航空部は「軍隊」ではない。陸軍省外局
の「官衙(かんが)」である。平時の編制では航空大隊
は所在地にある師団に隷属していた。

 次回は新しい軍備充実、そしてそれに反する軍縮
について調べてみよう。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.6.25




小火器を取り扱った本をふたつ紹介します。
即時発送可能です。ピストル・ライフル・
マシンガン・ランチャー・ショットガンと
いう言葉に魂を揺さぶられる愛好家への
プレゼントに最適です。


『初めてのサバゲ』ひよさん(作画)鉄人(原作)。
http://okigunnji.com/1tan/lc/sabage.html


サバイバルゲームについてマンガで解説した本。
サバイバルゲームに興味を持つ人が、サバイバ
ルゲームのルールとシステムを正確に理解する
うえで役立ちます。後半はエアガンの機能と
仕組を科学的に解説しています。

サバゲに興味はあるけど、その実際については
あまりよくわからないという方には最適の一冊
です。952円+税



『オールカラー 最新軍用銃事典』床井雅美(著)
http://okigunnji.com/1tan/lc/tokoi.html

『Gun Professinals』編集長で陸戦兵器の世界的
権威・床井雅美さんによる軍用小火器情報満載
の一冊。

2005年刊行の改訂版で、大幅な増補(420P⇒560P)
が行われました。世界各国で使われている軍用
小火器をビジュアルで紹介、「銃器識別」の
ためのレファレンス・ブックです。

中心は最新の軍用銃ですが、発展途上国では
今も旧世代の銃が使われていることから、
旧世代小火器も含まれています。

1100点余りのオリジナル写真をもとに
「ピストル(拳銃)」「ライフル(小銃)」
「サブ・マシンガン(機関短銃)」「スナイパー・
ライフル(狙撃銃)」「マシンガン(機関銃)」
「ショットガン(散弾銃)」「グレネード・ラン
チャー(榴弾発射器)」「アンチ・マテリアル・
ライフル/ロング・レンジスナイパー・ライフル
(対物射撃銃/遠距離狙撃銃)」に分けて、
各銃の基本データ、開発の経緯、メカニズム、
特徴を記しています。

動画で出てくる紛争地の映像で武装している人の
小火器を特定すると、武器を通じてその紛争の
構図が見えたりします。

普通の人が持てない、持とうとしない分野の
知識を持つと、人に先んじることができると
いうわけです。

手元に置かない理由がありませんよね。

http://okigunnji.com/1tan/lc/tokoi.html


エンリケ

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.6.29




「何としても多くの国民に伝えたい」というOBの使命感と
「国民に期待されているのなら、日本人として、自衛隊員
として命の限りつくしたい。そこに自分たちの生きがいが
ある」という現役の使命感が、がっちりかみ合った本です。

著者の大場さんは元空将補ですが、直接災害派遣に貢献できま
せんでした。現役隊員の献身的な活動を目の当たりにし、
「後輩たちのためにできることはないか?」と考えます。
そして、広くその活動を世に伝えようと、1年以上かけ
関係者にインタビューを行ったのです。

そしてできたのがこの本です。

http://okigunnji.com/1tan/lc/isseki.html


▼特徴は3つあります。

1.東日本大震災における海空自衛隊の活動記録
2.現場で活動した隊員の「肉声」で構成
3.ほとんどの国民に知られていない
『オペレーション・アクア』の詳細を初めて明らかにした

とにかく細かい点までよく聞き取られています。
何がどうなってこれがどうしたから大変だった・・・
という感じで、同じ事態が起きた時、何をどうすれば
その時より良い対応が取れるな〜 ということが
わかる内容となっています。

聞き取りが行われたのが、震災から3年後であり、
関係者が冷静に当時を振り返る余裕があったため
でしょうか。

なお『オペレーション・アクア』は、海自横須賀
港務隊の曳船(えいせん)による作戦。
福島第一原発の原子炉容器内に真水を注入するため、
原発からわずか200メートルまで近づきました・・


▼書かれているのはそれだけではありません。

・当時の統幕長・折木陸将の悲壮な決意とは?
・「中間指揮官が心配だった」とある一佐は回想しています。
・日米海軍の調整任務はいかに行われたか?
・同盟関係を支えるのは平素から築き上げた両国間の
人間関係とはどういう意味?
・現場力は歴史の積み重ねが培うという教訓

・「災害派遣任務は情報戦」とはどういうことか?
・ある地域に民間の医師が立ち入れなくなったため、
自衛隊病院の歯科医官が出動し、検死の任に当たったこと
をご存知ですか?

・自衛官を支える事務官・技官にもインタビューが
行われています。
・発災一週間後の大混乱状態の中、全隊員に給料を支払う
任務を完遂した事務官がいました
・水深2M、視界1Mほどの水中で遺体捜索の任に
当たった海自「EOD」(水中処分員)の声。

・指揮官として、隊員のストレスへの対処はどうすればよいか?

・空港は確保できた、いつでも運べる。しかし、受け取る側
の組織がない。この事態を受け、指揮官はどういう対処を
行ったのでしょうか?
・各部隊では、経験のない作業にかかわったケースもあり、
トラブルも想定されました。しかし実際は大声を出すよう
な状況は生まれなかったそうです。

・教育訓練で培ってきた自衛隊の力を発揮できる場を得た
との隊員の自覚とは?

・米軍は東日本大震災発災後、統合支援部隊(JSF)を
組織。司令官に在日米軍司令官(★★★)より格上の
太平洋艦隊司令官(★★★★)を任命したこと。

・発災当日、各地の各級の自衛隊員は、それぞれの
持ち場で、想定される事態に備えて万全の態勢を整えていた。
・災害派遣任務は、防衛任務と両立できた
・制度創設以来初めて実任務招集命令が下った即自(即応
予備自衛官)の話

・下士官兵から統幕長まで震災対応にあたった幅広い人の
肉声
・『オペレーション・アクア』における、海自発足以来
初めてのできごと


などなど、とても書ききれないです。

それではこのオーラルヒストリーブックの内容を見てみましょう。

■もくじ

まえがき

序 史上最大の災害派遣の始まり
 自衛隊の活動
 米軍などの活動

1 自らも被災しながら・・・航空自衛隊松島基地
 全隊員が一つの方向を向いて行動した
  第四航空団司令兼松島基地司令 空将補 杉山政樹
 食事作りで隊員と地域住民を支援
  第四航空団基地業務群業務隊給養小隊 二等空曹 大橋啓智
 手探りで困難に立ち向かった新任女性幹部
  第四航空団基地業務群施設隊 幹部候補生 菅原由里香
 国民のためには技官も自衛官もない
  第四航空団基地業務群施設隊 技官 豊宮一哲
 平素から応援してくれる地域住民のために
  第四航空団広報室長 三等空佐 大泉裕人
 人を大切にすることを第一に災害復旧部隊を指揮
  第四航空団基地業務群司令兼ねて災害復旧支援隊司令 一等空佐 時藤和夫
 部隊行動の命脈の回復に全力を尽くす
  第四航空団基地業務群通信隊 一等空曹 金尾貴之
 被災住民の期待と感謝に支えられて
  第四航空団基地業務群通信隊 三等空曹 庄司あゆ美
 混乱の中で間に合わせた給与支払い業務
  第四航空団基地業務群会計隊 一等空曹 星野潤一郎
 困難な状況下、続行した契約業務
  第四航空団基地業務群会計隊 事務官 柴田直飛

2 EODたちの苦闘と矜持・・・海上自衛隊掃海部隊
 初めて接したご遺体は眠っているようだった
  第四一掃海隊「のとじま」処分士 二等海尉 高橋潤
 水中捜索でふだんの訓練の成果が発揮された
  掃海隊群「ぶんご」水中処分員長 二等海曹 小山彰
 「また行け」と言われれば、いつでも行く
  舞鶴警備隊水中処分員 二等海曹 小北順一
 悔いなしEOD人生
  第四一掃海隊「のとじま」水中処分員 二等海曹 姉崎健也
 我々は特別なことをやったのではない
  自衛艦隊 掃海隊群司令 海将補 福本出

3 遺体検視・・・陸上自衛隊歯科医官
 ご遺体の歯から個人を特定する
  防衛省人事教育局衛生官付医務室歯科医長兼中央病院付 二等陸佐 糸賀裕
 原点に戻れば正しい道は見えてくる
  自衛隊中央病院第一歯科部長 陸将補 片山幸太郎

4 今こそ翼の真価を発揮・・・航空自衛隊航空輸送部隊
 現場の判断を優先せよ
  航空支援集団司令部防衛部運用第一課長 一等空佐 赤峯千代裕
 すべてが限界ぎりぎりで続けた輸送フライト
  第四〇二飛行隊(飛行幹部) 三等空佐 岡安弾
 励みになったガソリンスタンド店員のひと言
  第四〇二飛行隊教育飛行班(空中輸送員) 一等空曹 桑原祐則

5 縁の下の、その下の力持ち・・・海上自衛隊横須賀基地
 現場に行って分かった支援の意義
  横須賀地方隊横須賀警備隊 横須賀港務隊長浦配船掛長 二等海尉 泉田利幸
 直ちに艦艇を出港させなければならない
  横須賀地方隊横須賀警備隊 横須賀港務隊 三等海尉 町野誠
 入浴支援を支えた善意と笑顔
  横須賀地方隊横須賀警備隊 観音崎警備所長 二等海尉 小川昌彦

6 空から目にした感謝の言葉・・・海上自衛隊第二一航空群
 部下たちは「できる」という自信があった
  第二一航空群司令 海将補 山本敏弘

7 初の実任務招集命令下る
 必要とされればいつでも出頭する
  東北方面混成団第三八普通科連隊第一中隊 即応予備自衛官
   即応予備三等陸曹 浅黄耕治
 鍛えられている者は違う
  ジェイアール東日本物流グループ東北鉄道運輸株式会社
   仙台商品センター所長 牛渡勇
 上司や同僚は快く招集に送り出してくれた
  第二施設団第一〇施設群第三八五施設中隊即応予備自衛官
   即応予備一等陸曹 小野剛
 即戦力になる予備自衛官の社員
  第一貨物株式会社 仙台南支店 支店長 菅井勝典

8 非常時には前線も後方もない・・・航空自衛隊入間基地
 現場の部隊のためには何をなすべきか
  中部航空警戒管制団整備補給群司令 一等空佐 鎌田修一
 皆、歯を食いしばって涙をこらえていた
  中部航空警戒管制団整備補給群補給隊総括班 二等空曹 和田肇
 それでも若い部下たちはついてきてくれた
  中部航空警戒管制団整備補給群補給隊燃料小隊 一等空曹 松崎栄一
 現場に出なければ実情は理解できない
  中部航空警戒管制団整備補給群補給隊 三等空尉 黒木久嗣

9 日米調整・・・連絡幹部から見た「トモダチ作戦」
 米軍の救援活動の方針は確立していた
  護衛艦隊第一護衛隊群第五護衛隊司令 一等海佐 岩崎英俊

10 オペレーション・アクア・・・原子炉冷却水海上運搬作戦の実相
 指揮官旗、曳船に翻る
  横須賀地方隊横須賀警備隊司令 一等海佐 井ノ久保雄三
 これは我々にしかできない任務だ
  横須賀地方隊横須賀警備隊 横須賀港務隊 一等海曹 川村武
 「後方全力」―自分たちの努力が災害派遣活動に直結するのだ
  大湊地方隊大湊造修補給所長 一等海佐 黒木忠広
 やるべきことはわかっていた
  横須賀地方隊横須賀造修補給所工作部武器工作科 技官 菅沼昌樹
 試行錯誤で完了させた放射線防護工事
  横須賀地方隊横須賀造修補給所工作部武器工作科 技官 三上聖
 曳船乗員の安全は我々の手で
  横須賀地方隊横須賀造修補給所工作部武器工作科 技官 三島一介
 躊躇したならば作戦は実行できなかった
  横須賀地方隊横須賀造修補給所長 一等海佐 吉田伸蔵

11 司令部・指揮官たちの決断と試練
   「全隊員は本当によく期待に応えてくれた」

 東北へ急行しろ、責任は俺がとる!
  陸上幕僚長 陸将 火箱芳文
 海上自衛隊のすべての能力を活用した
  統合任務部隊海災部隊指揮官(横須賀地方総監) 海将 高嶋博視
 司令部は被災者と現場のために
  横須賀地方総監部防衛部長 一等海佐 内嶋修
 任務を完遂するためには・・・・
  統合幕僚長 陸将 折木良一




より突っ込んだ現場報告の聞き取りであり、自衛隊関係者
はもちろん、防災、防衛、安保、自衛隊周りで仕事を
している人は目を通しておいたほうがいいです。

自衛隊ファンはもちろん、わが自衛隊が未曽有の
災害にどう立ち向かったか?を知りたい日本人すべてに
おススメできる本ですね。

こちらです↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/isseki.html


「証言 自衛隊員たちの東日本大震災」
著:大場一石
単行本: 362ページ
出版社: 並木書房 (2014/2/10)
ISBN-10: 4890633146
ISBN-13: 978-4890633142
発売日: 2014/2/10

詳しくはこちらで↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/isseki.html


エンリケ


≪ブックガイド≫

”東日本大震災に出動した自衛隊”2部作

2冊そろえば、
あの未曾有の災害に出動した自衛隊現場の
全貌をつかめます。

陸を主に取り上げた、

荒木肇さん『東日本大震災と自衛隊』



今回紹介した、海空を主に取り上げる

大場一石さん『証言 自衛隊員たちの東日本大震災』

です。


もう一歩踏み込みたい、という方は、
史上最大の日米共同作戦「トモダチ作戦」を詳細に解説した
『写真で見るトモダチ作戦』(北村淳)をあわせ読むと
いいと思います。


『証言 自衛隊員たちの東日本大震災』
http://okigunnji.com/1tan/lc/isseki.html
『東日本大震災と自衛隊』
http://okigunnji.com/1tan/lc/arakisinsai.html
『写真で見るトモダチ作戦』
http://okigunnji.com/1tan/lc/optomodachi.html


発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.6.27




『楠木正成の統率力  【第6回】恩賞の与え方と受け方』
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、『太平記』
全四十巻が書かれた経緯や、それぞれの巻の作者
について記されています。

それによれば、『太平記』という書物が、
後醍醐天皇のご発意により、長い年月をかけ、
多くの人々の手によって記されたものであること
が分かります。その内容を今回から、数回に
分けて紹介いたします。

(引用開始)

 この書(注:『太平記』)は、今を去る建武
御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿にて
お遊びになられた折、諸卿・武臣が堂の上や下
にいたが、新田義貞を召して次のような勅を下された。

「文治から今までの数百余年、鎌倉幕府が権威
を重くして、天下を支配した。朝廷の廃頽は
日ごとに増していった。それゆえ代々の天皇も、
幕府を滅ぼし、帝徳を四海に照らそうと、
あれこれとお考えになられたが、事ならずして、
(後鳥羽院隠岐配流のように)かえって皇居を
遠島に遷されてしまい、または権勢も微々たる
ものとなり、沈黙なされていたのである。
しかし、朕(ちん:この場合は後醍醐天皇)の
代になって、逆臣はたちまちのうちに滅亡し、
王法(=仏教の立場から、国王の法令・政治を
称する語)も昔のように戻った。この上は、
後代のため、また現在の貴重な教訓ともなるで
あろうから、義貞が鎌倉を攻めた様子や、
(足利)尊氏が六波羅を滅ぼしたときのありさま
を、記しておこうではないか。」

 このような仰せに対して、義貞は、
「天皇の御徳があまねく天の下を照らすこと
がないようでは、我ら臣下はどうして尺寸の
(=わずかな)謀を以て、大敵の勇を砕くこと
ができましょうか」とお答えしたのであった。

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

 それでは、本題に入りましょう。


【第6回】恩賞の与え方と受け方

(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第三 赤坂城軍の事」より)


▽ 楠木が赤坂に城を築いた経緯

 元弘元(1331)年8月、六波羅探題は
七万余騎の軍勢で、後醍醐天皇が遷幸された
笠置山を囲んでこれを攻めた。このことを
知った楠木正成は、笠置山の官軍と力を合わせ
ようとして、すぐに赤坂で挙兵した。

 これは、鎌倉の武士がたいした日数も経ず
して京都に到着するのは困難であろう。
その間には、和泉・河内・摂津の三ヶ国
(現在の大坂府と兵庫県)を平定して、軍勢が
強大になっていれば、笠置の後詰めとして、
これを包囲した六波羅軍を背後から攻めよう、
と考えてのことであった。

 ところが、鎌倉幕府の執権・北条高時が、
日頃の愚かさとは違って、速やかに大軍勢を
上京させたことから、楠木の考えどおりには
ならなかった。そこで、たいした準備時間も
無いまま、急いで赤坂に城を築いたのであった。


▽ 赤坂城における楠木の防御戦法

 赤坂へ向かった鎌倉幕府の軍勢は、さほど
堀も深くなく、わずかに一重の塀と2〜30の
櫓が造られているだけの、二町(約220
メートル)四方ほどに過ぎない小城を見て、
「ああ、一日でも楠木に城を持ち堪えてもらい
たいものだ。敵の首と武器を分捕り、手柄を
立てて、恩賞に預かるぞ」と語っていたという。
そこで、幕府軍の4万余騎は、一斉に攻めかかり、
堀に飛び込んで櫓の下まで進むと、我先に
討ち入ろうと争った。

 楠木正成は、強弓(=弓の技量に優れた射手)
2百余人を選りすぐって城内に配置し、また弟の
楠木七郎正季と、甥の和田五郎正遠に3百余騎
を与えて追撃隊とし、城内に待機させておいた。
これらの兵たちには皆、慣れ親しんだ(適切な)
武具を持たせるよう心がけた。

 寄手(よせて=攻城軍)は、一気に目の前の城
を攻め落そうとして、四方から切り立った城壁に
取りついたところ、楠木軍の強弓が、櫓や狭間
から続けざまに、狙い違わず矢を射込んできたため、
瞬く間に負傷者や死者が続出し、千人以上にも
なった。射立てられて大損害をこうむった寄手は
退き、八方に逃げ散じた。

 正成が城内から敵を見ると、備えを堅くして
いる陣は一つもない。ほとんどの敵兵は逃げ散り
つつあった。わずかに「見苦しいぞ、引き返せ!」
と叫ぶ声に応じて、心意気ある者が引き返したが、
それでも、一所にて百騎さえも返すことがなかった。
そこで、正季と和田を大将とする追撃隊・三百余騎
が二手になって城から出撃し、敗走する敵を
追いかけること一里(約4キロメートル)、
討たれた者はその数を知れずとなった。


▽ 楠木、弓兵と追撃隊の武勇を称賛

 戦が終わってから正成が云うには、

 「今日の合戦は、ひとえに弓兵のおかげである。
彼らの功績が無ければ、どうして敵を退けられた
であろうか。また、城中から討って出た兵が、
敵を滅ぼしたのも戦功がなかったと言うのではない。
義によって命を捨て、大勢の中に無勢で懸け入った
のは、神妙である。その上、敵が反撃してきたの
を撃退したのは、もちろん高名(手柄)である」

 とのことであった。その時、傍らで追撃隊に
いた兵たちが、

 「兎にも角にも、兵は弓を射るべきであるなあ。
なにせ、城の内にいながら、遠くまで敵を退けて、
一番の高名となったのだから。我らは城から出て
骨を折り、太刀・長刀で敵を打ち倒し、突き倒して、
自ら数箇所を負傷したにもかかわらず、高名は
弓兵の次である・・・」

 と語り合っていた。


▽ 高名とは時と場合によるもの

 これを聞いた正成は、彼らに諭すように語った。

 「つたないことを言うものではない。時により、
事によって、高名には優劣があってしかるべき
なのだ。この度は、あまりにも敵が弱かったので、
城の塀のきわまでも来なかったのであるから、
弓の高名となったのである。敵が塀を超えて、
さらに近くまで来るような時は、太刀・長刀の勝負
である。さらに近くして、取っ組み合うような時は、
刀となる。このようなわけで、大昔から武具には
数々の種類があるのだ。であるから、この先もお前達
に高名がないなどということがありえるだろうか・・・。」

 このように言われて、初めに愚痴を言った者は、
自らを恥ずかしく思ったのであった。


▽ 赤坂城に残った四人の脱出

 楠木勢が赤坂城を落ちるにあたり、正成は、
勝多左衛門直幸、和田新五宗景、田原次郎正忠、
生地兵衛為祐の四人を城内に残した。勝多・田原は、
正成の家の子(血縁の家臣)、他の二人は郎従である。
これらは皆、勇士の誉れがあった。

 城に火をかけたならば、寄手は四方から鬨(とき)の声
を挙げて近づいてきた。四人の兵は、二人は西へ出て、
二人は北へ出た。何れも戦死した城兵の首を両手に
取り提げ、大声で「敵は未だに本丸にいるぞ。急げ、
急げ」と叫んだ。

 これを聞いた数万の敵軍は、「こしゃくな兵どもだ」
と云いながら、急いで城の奥へと駆け入った。
こうして、西と北から数万騎の敵が城内に入ったが、
夜のことであり、急なことでもあって、味方の目印
さえも定めていなかった。そのため、数時間にわたり
同士討ちとなって、兵二百余人が死んだ。


▽ 正しい恩賞の受け方とは

 四人は無事に正成が居る金剛山の奥に帰り、
然々(しかじか)と語った。虎口の死を遁れる勇才も、
また多くの敵勢の中に四人だけ留まったのも、
正しい道のために死する覚悟があればこそであった。
正成は、この四人の兵を「義があって忠もある。
また勇もある」と褒めて、各々に太刀(たち)を
与えようとした。

 四人が云うには、「弓矢取る身(武士)が
君主の為に命を捨てることは、常にやるべきこと
です。どうして我らに限ったことでありましょう。
殿の土地で喰わせていただき、妻子に糧を与える
こと数年、身命ともに殿の物であります。
引出物(君主からの贈物)は、以前にも数年前に
いただいております。それも、まだ最近のこと
ですので・・・」と云って、受け取ろうとしなかった。

 正成は三度にわたってこれを与えようとした。
そしてついには各々が受け取ったのであった。

 こうした場合には、二度目に与えようとされた
時点で受けるべきである。一度目は、その他の兵で
このことを知り、自分にも恩賞を得るだけの十分な
働きがあったと自負しているのに、正成がこの兵
に引出物をしようと考えていなかったならば、
その兵は恨みを抱くことになる。(一度は辞退しながら、
二度目に受けるというのは)このように思わせない
ためであり、最もよろしい。

 三度目は無礼である。太刀を与えるということ
は、正成のためには死を快くせよということである。
また、君主の命令を辞退することであり、礼に背く
ことにもなるのだ。

(「恩賞の与え方と受け方」終り)



(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.6.27




『「軍神」について考える(帝国陸軍の光と影7)──日本戦史の光と影(27)』
         大山 格
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▼「某アニメ」に見る「軍神」

 今回は軍神について考える。つい先日まで
生きていた者を「軍神」として崇める例として、
生まれて初めて見知ったのは某アニメの登場
人物だった。

 そのキャラクターは男女一体の姿であり、
巨大潜水艦に奇怪な戦闘用ロボットを乗せて
何度も繰り返し日本を襲いながら、その成果
らしきものは一つとしてないまま、主人公の
ロボットとの戦いで戦死する。

 常日頃から悪の首領に「お許し下さい」と
懇願し続けねばならぬ無能ぶりだったが、
戦死するや軍神として像を建ててもらうほど
の厚遇を受けた。筆者は放映当時12歳。
純粋な時期でもあり、その無能な指揮官が
軍神と崇められることに疑問を持たなかった。
組織のために生命を擲(なげう)ったことは、
度重なる敗北の責めを補って余りあると感じた
のだ。いまよりずっと生死の重さを感じていた
年頃だったからということもあろう。

▼乃木希典に見る「軍神」

 一度は無能の烙印を押されながら死に際で
その人生の総合評価を一気に高めた歴史上の軍神
といえば陸軍大将の乃木希典(まれすけ)。
『機密・日露戦史』にもあるとおり、人の評価は
棺の蓋が閉まるときに定まるものだと思わせられる。

 有能か無能かという冷徹な評価をするなら、
まあ平均点といったところかと考える。乃木は
他の将官と比べて見劣りがすることは確かだし、
経歴を見ても休職4回の問題児ながら、ドイツ留学
から後は人格高潔な指揮官らしさを備えた。
日清戦争では旅順攻略を担当して華々しい戦果
を挙げたものの米国の新聞記者に住民虐殺の疑い
をかけられ、あわや国際問題という失態を演じた。

 清国の兵士は、敗走する際には軍服を脱ぎ、
民家から服を奪って着替えたという。そんな
敗残兵が日本兵を襲うことがあり、作戦の末期
に日本兵は民間人と見分けにくい相手と戦って
いたわけで、そうした事情から民間人の大量虐殺
の疑惑を招いた。

 旅順において市民6万が日本兵に虐殺されたと
ワシントンポストに報じられたが、総人口1万6000
の港町で6万の市民を殺せるわけがなく、乃木の
属した第二軍の司令部は外国記者を占領間もない
旅順市内に案内するなどして、イメージアップに
精を出さねばならなかった。

 日清戦争では、陸軍大臣通達を出して略奪暴行
を戒めたほどで、国際社会の一員として認められたい
ことから、おそらく陸軍が最も紳士的だった時期のこと。

 この事件は乃木にとって大きなマイナスとなったはず。

 日露戦争での乃木は旅順攻略に手こずり、国民の
激しい非難を浴びたものだが、そもそも旅順攻略は
戦争計画になかった戦いであり、事前準備が入念に
なされていた遼陽会戦までの野戦軍の快進撃と比較
しては気の毒な面もある。奉天会戦もまた手こずった
戦いだが、それも旅順作戦と同様に当初の作戦計画
にはなかった想定外の作戦であり、遼陽会戦までと
同列に論じてはならないテーマだ。

 ともあれ、研究者ならぬ一般人の目から見れば、
たしかに乃木の戦歴は芳しくないし、不人気だった
のは気の毒だが、歴史的事実だと指摘せねばなる
まい。旅順作戦の最中には乃木の留守宅に投石まで
した国民の評価が一転して神と崇めるようになった
のは、二人の息子がともに戦死したという悲劇性に
加え、自決という手段で責任を全うした死に際の
見事さからだといえよう。無能の烙印を押されながら、
死をもって罪を償ったその姿は、わが幼少の頃に
見た某アニメの軍神と印象が重なるところだ。

▼メディアが産んだ「軍神」

 明治の軍神は、国民が勝手に祭り上げたものだ。
けして軍部が宣伝に利用するために創作したわけ
ではなく、むしろ新聞が軍国美談を好む国民に迎合
して、軍国美談と軍神とをつくりあげたと考えられる。

 国定教科書に取り上げられたキグチコヘイ(木口小平)
の逸話にしても、日清戦争当時は白神源二郎という
別人が勇敢な喇叭手(らっぱしゅ)として報告され、
新聞を大いににぎわせたのち、唐突に陸軍が人違い
であることを発表している。激戦中に銃弾を受けた
喇叭手が最後の力を振り絞って進軍喇叭を吹奏し、
死後もなお喇叭を口から離さなかったということだが、
もし軍が軍国美談として利用するために創作した逸話
だとすれば、せっかく盛り上がった雰囲気に「実は
別人でした」と水を差すような真似をするだろうか。
むしろ国民の過剰反応は戦死者遺族への補償問題に
つながりかねず、軍部はとまどっていたように思える。

 日清戦争では海軍にも「勇敢なる水兵」の美談が
産まれている。清国海軍北洋水師旗艦、定遠との死闘
のなかで重傷を負った水兵が、「定遠ハマダ沈ミマセンカ」
と問いかけつつ絶命したというもので、最期の時まで
兵士としての責任を全うしようとした意味で木口小平
と同様の軍国美談だ。このいずれも一兵卒が主人公に
なっており、地元には像が建つなど国民によって
神格化されている。

 日露戦争で産まれた軍神は性格が異なる。まずは
海軍の広瀬武雄中佐だが、第二回旅順閉塞作戦で港口
に自沈させる福井丸の指揮を執り、爆破に向かった
杉野兵曹長が脱出予定時間になっても姿を見せなかった
ため船内を再三に及んで捜索、ついに発見できないまま
脱出したところ、沿岸からの砲撃により戦死している。

 この逸話、いまでは美談と呼べるかどうか疑問視する
声もある。杉野ひとりのために他の多くの部下の脱出が
遅れ、それによって広瀬ほか3名の戦死者が生じたと
いうのだが、護衛艦に乗り組む海自の幹部が言うところ
では、軍人ではない商船の船長であっても船が沈む直前
では行方不明者の捜索を優先するのが当然の判断との
ことだ。つまり判断ミスでもなければ特に褒められる
べき判断でもないということになる。この逸話が美談に
なったのは、やはり新聞がことさら美談を演出したからだった。

 戦死の状況も、広瀬の頭部が砲撃で吹き飛ばされ、
海中に落ちかけた遺体を部下たちがボートに引き上げ
ようとして果たせなかったのが真相だが、砲撃により
「一片の肉塊」を残して遺体は四散したという劇的な
場面に書き換えられたのだった。

 陸軍では橘周太(たちばなしゅうた)中佐が軍神と
なった。なぜかはわからないが、戦死前の階級で橘少佐
と称されることが多い。しかし、海軍の広瀬が戦死後
昇進した階級で広瀬中佐と呼ばれるのだからここでは
両者ともに中佐としておこう。

 激戦となった首山堡の戦いで陣頭に立った橘は苦戦
の末に奪取した陣地を逆襲され、苦境に陥ったところ
で数発の銃弾を浴びて重傷を負った。部下は橘を後退
させようとしたが頑としてこれを拒み、最期まで部下
とともに最前線に踏みとどまって戦死した。

▼軍部が便乗した「軍神」

 広瀬にせよ橘にせよ、部下を思う気持ちが死に至る
まで徹底しており、末端の兵士からすれば、まさしく
神である。

 このような軍国美談が国民に喜ばれたのは日清戦争
の場合と同様だが、違っていたのは軍の対応だった。
熱狂する国民に迎合して、広瀬や橘の戦死後の待遇は
丁重だった。あの白神を別人と断じたときとは明らか
に異なる対応ぶりだ。軍神として祭り上げられたのが
一兵卒ではなく、職業軍人たる将校だったというのも
異なっている。「軍人さんはエライのね」と印象づけ
たかったろう軍部としては広瀬や橘を下にも置けないわけだ。

 こうした風潮に便乗するつもりがあったかどうかは
わからないが、さらに上位の者をも陸軍は神格化している。
児玉源太郎大将がその対象で、湘南の江ノ島に児玉神社
が創建され、いまもひっそりと残っている。児玉は凱旋
ほどなくして病に倒れ、あっけない最期を迎えたのだが
華々しい戦死ではないせいか、国民的人気を得るまでには
至らなかった。

 海軍では東郷平八郎元帥が「生ける軍神」として
祭り上げられ、死後は東郷神社が創建され、現在も
東京都渋谷区にあってなかなかの賑わいぶりだ。東郷の
神格化は、陸軍から乃木が軍神になったことへの対抗心
もあったことだろうが、日本海海戦での功績によって
国民的人気も絶大で、無理なく神として受け入れられた
といえるだろう。

 こうしてみると乃木の軍人としての評価はさまざま
だが、軍神としては別格とするべき存在だ。明治天皇の
声掛かりで乃木家は再興されているが不祥事を起こして
華族の籍を失っており、死後までも悲劇のつきまとう人だ。

 わが曾祖父の大山巌はといえば、生前から神格化を
拒絶してきた。幼少期には禅寺へ通い、壮年期には
観音菩薩を信仰して自邸に観音像を建立したほどで、
本来は仏教徒だったはずだが、重体の床についたときには
すでに宮内省が国葬の段取りをつけていた。喪主であった
祖父の意向に構わず、盛大な葬儀がおこなわれたうえ、
墓は神道の様式で設計、施工された。かろうじて大山神社
の創建は免れたものの、宮内省陵墓官の設計による巨大な
墳墓は、いまやすっかり没落した当家にとっては大きな
負担になってしまった。とうてい一個人では管理できない
規模なのだ。

 いっそのこと神社になっていたら氏子から支援も
受けられようが、個人所有の墓地ゆえそうそう他人に
甘えられるものではない。清掃に無償で協力してくださる方
たちもいて、たいへん有り難いのだが、荒れるスピードには
追いつかない。

 クロパトキンの出方を洞察した曾祖父も、不肖の曾孫が
墓を持てあますことになろうとは、よもや考えも及ばなかった
ことだろう。



(おおやま・いたる)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.1




荒木 肇
『砲兵と歩兵の論争・第一次世界大戦から学んだこと(6)──大正時代の陸軍(35)
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□ご挨拶

 激動の明治と波乱の昭和にはさまれた大正時代
が少し生き生きと見えてこられましたか。教科書的
には日露戦後の不況と、軍縮条約、関東大震災、
シベリア出兵、政党内閣の設立というくらいが
トピックスの時代。およそ100年前の父祖たちが
懸命に生きたころです。
 
 陸軍が、国民がそれぞれの夢を追って生きた
時代だということでは、「いま」と少しも変わりません。

 T様、ご無沙汰しております。陸士ご出身の
元軍人の方々に回覧していただいているとか。
ありがとうございます。M様からのお便り、嬉しく
拝読いたしました。

▼大正8(1919)年にはどんな変革が起きたか?

 この大正8年、陸軍技術本部、陸軍技術研究所
という官衙(かんが)が生まれた。国家が「軍」と
いうものを持てば、兵器、器材の研究や審査を
する機関が必要になる。陸軍は明治9(1876)年
に「砲兵会議」、同16(1883)年に「工兵会議」を
おいた。それが発展して明治36(1903)年に
技術審査部に統合される。『砲工兵技術兵器材料
ニ関スル事項ヲ研究調査シテ』陸軍大臣に意見を
具申するのが勅令の規定になっている。

 それまで会議形式だったのが常設の官庁に
なったわけである。会議といっている間は事務局
だけはあったけれど、会議という名前の役所はない。
同時に火薬研究所ができた。この研究所は
東京砲兵工廠の中の板橋火薬製造所の中におかれた。

 これらが16年間、ほとんど変わらず、技術本部、
科学研究所にようやっと姿を変えたのである。
大正8(1919)年の改正で注目すべきは技術会議
を新たに設けたことだろう。実務を行う技術本部、
科学研究所の新設と同じときに審議機関である
技術会議をつくった。実務機関のほかに広く知識を
集めるといった意味で会議を温存したのにちがいない。

 技術本部は総務部、第一部、第二部と第三部から
成っていた。第一部は火砲、銃器、弾薬、車輛、
観測器材をうけもった。第二部は無線関係を除く
工兵器材、第三部は兵器図ほかの図書作成となっていた。
のちの時代になって戦車、自動車などが発達し、
満洲事変(1931年)の末期になると第三部が
これを担当し、通信関係は第四部になった。

 技術本部令を見てみよう。『兵器および兵器材料の
審査、制式の統一および検査をし、陸軍技術の調査、
研究および試験をし、その改良進歩を図り、陸軍大臣
に意見を具申する』とあり、本部長は陸軍大臣に直隷
する。科学研究所令をみても、『兵器および兵器材料
に関する科学を調査研究する』とあり、所長は技術本部長
に隷するとなっている。また、技術会議については、
『陸軍大臣の監督に属し、その諮問に応じる』こと。
議長は『他に本職がある陸軍将官』が任じられ、議員
と臨時議員は、やはり他に本職がある陸軍将校より
選ばれた。政府機関であるから、議員たちは陸軍大臣
の奏請により内閣が任命する。

▼無線器材はどうして外されていたか?

 わが国で軍用の有線電話が使われたのは
西南戦争(1877年)のことである。明治12(1879)年
には軍用電信隊がつくられた。この後、
明治20(1887)年には電信隊は解散し、全国の
工兵隊で教育が行われるようになった。日清戦争では、
野戦電信隊、兵站電信隊として出征した。これらは
みな工兵で構成されていた。明治29(1896)年には
鉄道大隊が創設されて、その一個中隊は電信中隊だった。
これは鉄道通信員の養成を目指したものだった。鉄道を
敷設すると、その横には電信柱が立てられた。
鉄道電話が大正時代には全国に普及するが、陸軍
では鉄道隊が専門にしたのだ。

 日露戦争の前になると、この電信中隊は廃止され
「電信教導大隊」をつくった。これは実質的には学校の
役目を果たした。大隊長以下、隊付はみな工兵であり、
全国の工兵大隊、そして重砲兵隊の将校、下士卒を
集めて教育する。また騎兵隊の将校にも教育を行った。
注意すべきは歩兵隊は教育に参加していないことだろう。

 日露戦争(1904〜5年)では、野戦電信中隊、
兵站電信中隊、臨時の電話隊が編成された。野戦に
有線電話が実用化されることになった。
 当時の師団野戦電信隊は将校・准士官3名、下士18名、
兵卒102名、合計123名、そして輜重兵下士2名、
輜重兵卒3名、輜重輸卒57名合計62名、各部将校
相当官、下士、兵卒が各1名に従卒と馬卒が合わせて
4名つき、合計192名の中隊規模だった。

 戦後の明治40(1907)年には電信教導大隊は
廃止され、有線中隊だけの電信大隊がつくられるが
学校的存在であることは変わらなかった。明治42年
には陸軍技術審査部は無線通信の試験を東京と
新潟県直江津の間で行った。翌年には東京中野に
あった電信隊に「陸軍無線調査委員会」がおかれた。
臨時の機関ではあるが、大正14(1925)年に
「通信学校」が開校するまで無線関係のすべてを
受けもっていた。これが無線器材が技術本部の所掌
でなかった理由である。

 大正時代になると無線電信が実用化され、電信隊に
無線中隊が新設される。大正7(1918)年には
シベリア出兵があり、各地に固定無線通信所がおかれた。
そして、この年には電信隊は有線2個大隊(合計6個
中隊)と無線一個中隊、材料廠と編制が改められ、
電信聯隊となった。大正9(1920)年には、この聯隊
で初めて各兵科の将校・下士に無線通信教育が
ほどこされるようになった。

▼技術本部の兵器研究方針

 当面必要なのは「軍の近代化」である。欧州大戦の
結果を見て、歩兵戦闘が密集隊形の突撃から戦闘群
戦闘に移ったこと、たいへんな火力戦闘になったことは
多くが納得した。それらを背景にしたのが渡邊錠太郎少将
の意見だった。それに対して柴山重一歩兵大佐の反論
があった。『兵器材料などの精度や、員数でたいへん
欧州諸国とは懸隔(けんかく:かけはなれていること)が
ある。そういう現状で、すぐに欧州列国のやり方を真似る
のは大きな間違いだ。砲火の効力は決して予期のよう
にはならない。歩兵は期待してはならない。
それがなくても前進する、そういう気概が必要だ』という
のが反論の骨子だった。

 砲兵の中にも渡邊のような人たちがいた。支援砲兵
火力や軽機関銃の不足を前提として当面のわが国軍の
実態に合わせるのではなく、戦場の現実に適合させる
ようにすることが大事だったことは今なら誰もが納得する
だろう。佐藤清勝砲兵中佐(陸士9期生)はフランス軍
への従軍経験者だが、帰国後、研究会で講話をしている。

葛原元1佐の研究によれば、その内容は以下の通りである。
(1)開戦から2年間でフランス軍砲兵は開戦前より3倍に増えた。
(2)歩兵は1.7倍の増加にすぎない。
(3)とりわけ野戦重砲兵は16倍にもなった。 
(4)野戦重砲の口径・射程・運動性が向上した。
(5)そのため3線から4線陣地の攻撃を継続的に支援している。
(6)航空機・係留気球、電信電話など、他兵種との協同、
あるいは自動車、野戦鉄道による弾薬補給などの必要性。

 佐藤は広島県出身、大正10(1921)年には野砲第6聯隊長、
12年には科学研究所第1課長、工科学校長などを歴任し、
昭和3(1928)年には中将に進み予備役編入という決して
人事面でも冷遇されたわけではない。また、激しい意見をもつ者
もいた。砲兵中佐中島今朝吾(なかじま・けさご)である。
中島は陸士15期卒業、大分県出身で野砲第7聯隊長を務め、
少将に進んでからは習志野学校長、憲兵司令官、第16師団長、
第4軍司令官などにも任じられた。

 中島は、次のように主張した。『どうも世間では往々にして
砲兵用法の根本は変化がない。ただ細部で違っているだけ
だなどという。ところが、根本から末葉にいたるまでその変化
はかなり大きなものだ。日露戦争前後と比べても、とうてい、
同一だなどと言えるものではない。このことは単に砲兵戦闘
のみのことではなく、実に、全般の戦闘法の変遷にともなう
必然の結果なのだ』

 こうした情勢を背後にしながら、大正8(1919)年6月、
技術本部は今後の研究方針を決めて陸軍大臣に提出した。
わたされた技術会議は審議に入った。議長は陸軍次官
山梨半造中将だった。参謀本部、陸軍省、教育総監部の
関係課長、技術本部の関係部長、造兵廠や兵器本廠など
の職員たちが委員である。およそ1年、大正9(1920)年
5月に審議結果を報告した。

 技術本部の研究方針の「綱領」がついている。
その中身とは。
(1)運動戦用兵器に重点を置く(欧州のような陣地戦は
起こるまい)。また、東洋の地形に適合するようにする
(アジアは欧州のようにインフラが整備されていいない)。
(2)兵器製造の原料、国内工業の状態を考慮して、
戦時に補給を容易にする。また、戦時の短期教育に向くように考える。
(3)兵器の操縱・運搬の原動力は人力や獣力だけで
はなく、機械的原動力を採用する。
(4)この研究は新兵器を主とする。新研究の結果、
旧式となった兵器でも部分的修正を加えて活用する。
(5)敵の意表を突く兵器、これはわが国軍にとって最も
緊要なものだ。しかし、この創案は発明、もしくは案出に
なるから秩序的業務としては規定しにくいので、
この方針には含めない。

 この他に備考として次の内容があった。
(1)航空機に装備する機関銃、小口径火砲、またこれらの
弾丸や投下爆弾などの研究は、陸軍航空部の要求に
より技術本部が対応する。
(2)自動車、無線電信と毒ガスについては、
他の兵器と関連するものにあっては、それぞれ
当該調査委員と協定して研究する。

 これまでが「綱領」の全文である。次回は具体的な
兵器・器材の全部に関する方針をくわしく見てみよう。
どのように「近代化」を進めようとしたかがよく分かる。


(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.2




● 戦う日本人の兵法 闘戦経(4) 〜軍なるものは、進止有りて奇正無し〜
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▽ごあいさつに代えて 〜兵法とは何か〜

 日本兵法研究会の家村です。前回(第三回)では、シナ兵法と日本兵法の本質的な違
いについてご理解いただけたかと思います。

 さて、孫子・呉子を始めとするシナの兵法や、我が国における山鹿流兵法、楠流兵
法、甲州流兵法など、兵法という言葉は古くから用いられていますが、この兵法につい
て明確に定義したものはありません。これを定義するにあたっては、まず「なぜ兵法を
学ぶのか」という目的から考えてみましょう。

 兵法を学ぶ目的、それは「戦(いくさ)とは何かを知り、戦に勝つ」ということに尽
きます。そこで、私は兵法を「戦略、戦術、戦法及び統帥を包含した戦(いくさ)に関
する最も大きな学術の概念」と捉えることにしています。

 いかなる場合にも「戦」とは、常に「我」「敵」「時間」「空間」の4つの要素に支
配されます。つまり、我にとって「戦」とは、与えられた時間と空間の中で、敵の戦力
に作用されつつ我が戦力を創造し、発揮することです。そして、戦略、戦術、戦法の
違いとは主として戦いの主体となるレベルの時間的・空間的な大小です。

 具体的には、国家〜総軍〜各級部隊(軍団・師団・旅団・連隊・大隊・中隊・小隊・
班など)〜各兵士・各武器とその時間的・空間的な規模は縮小していきます。従って、
戦略、戦術、戦法は「我」のレベルに応じて概ね相似形をなすものですが、そのアウト
プットはいずれも「具体的な方針と行動」です。つまり、これらは全て「実行」を伴う
ことが大前提であり、空理空論では全く意味をなさないものです。

 戦略は、敵に勝つための大局的、総合的な方策や策略であり、戦術レベルの行動に目
的と方向性を与え、作戦単位部隊(軍団・師団等)の基礎配置を決定するもので、主体
のレベルに応じて「国家戦略」「軍事戦略」「作戦戦略」があります。

 戦術は、個別の作戦・戦闘において、状況に即して任務達成に最も有利なように、作
戦単位部隊(軍団・師団等)以下の戦力を敵部隊に向けて直接的に発揮するための術策
(作戦・戦闘を実行する術)です。敵と我の「進む」「止まる」「退く」といった行動
に応じて「攻撃」「防御」「退却」などの各種戦術行動に区分されます。このように、
戦術は戦略上の決定に基づく空間と時間の範囲内で採用する一時的な手段ですので、そ
の時の状況により常に変化します。

 戦法は、戦略・戦術上の決定を受けて、戦闘の各局面で効果的に敵を破砕し、より多
くの損害を与えるように創出された具体的な戦いの実行方法です。

 さらに、統帥は、指揮官の戦略・戦術上の考えを意志の自由と本能を有する人間に応
用して実行させることです。良好な統帥は、有形無形の戦力を集中して敵軍に指向し、
戦略・戦術の実行に最大の効果をもたらしますが、無形戦力、特に精神的要素が勝敗を
決する重要な鍵であることは、古今東西の戦史が教えるところです。

 私は自分なりの研究を通じて、戦略、戦術、戦法という用語が内容的に「概ね相似形
をなす」ものと捉えることから、これら戦略、戦術、戦法と統帥を全て併せた概念を
「兵法」と定義するのが最も妥当なものであろうと考えております。そして、これを真
剣に学ぶことが戦に勝つことへと繋がるのです。

 さて、それでは本題の「闘戦経」に入りましょう。今回は、戦略レベルの大部隊の本
質などについて解説いたします。

(平成23年9月14日記す)


▼魚の鰭と蟹の足

魚に鰭有り蟹に足有り。倶に洋に在り。曾て鰭を以て得と為さんか。足を以て得と為さ
んか。
(闘戦経 第十五章)

 魚には鰭(ひれ)があり、蟹(かに)には足がある。ともに広い海の中で棲息してい
るが、あえて問うならば魚の鰭のほうが得であろうか。それとも蟹の足のほうが得であ
ろうか。

水中での速さや行くことの出来る範囲を考えるならば、どこまでも自由自在に泳ぎまわ
り、深海にも達することができる魚の鰭のほうが圧倒的に勝っていると言える。

一方で、蟹は足を以て陸地をも歩き、水中にも入ることができる。海中においても、蟹
の足は岩の下、狭い岩と岩の間、浅瀬や波打ち際等、魚には行けない場所でも自由に這
い回ることができる。陸との連接部や各種の海中地形への順応性に関しては、蟹の足の
ほうが遥かに勝っていると言えるだろう。

このように、鰭と足とではそれぞれに長短利鈍がある。魚と蟹では、天から与えられた
姿形や能力は大きく異なるが、それぞれの特性を生かした生息の形態をとりながら同じ
海中において共存しているのである。それでは鰭と足のどちらが有利であるかと考える
ことにはどのような意義があるのだろうか。

ここで水中における魚と蟹の関係を陸戦における騎馬と歩兵の関係に置き換えてみる
と、それぞれの特性が極めて類似していることがわかる。騎兵と歩兵もそれぞれに、鰭
と足との場合と同じような長短利鈍がある。歩兵は騎兵の速度や行動範囲には遥かに及
ばないが、一方で山地や渓谷、急崖、泥濘地等のあらゆる地形を踏破できるのである。

戦にあっては、騎兵か歩兵のいずれか一つだけで戦うことは通常有り得ない。戦場の地
形や敵の編成等に応じて騎・歩それぞれの特性をよく生かした用兵を考えなければなら
ないのである。近世以降はこれらに砲兵や工兵が加わり、近代になって航空兵も現れた
が、それぞれの兵科の特性をよく理解して、その能力を十分発揮させるためにも「この
ような場合はどちらが得か」という比較の観点で考察することは常に重要である。

天の意思が地上の万物に何を与え、何を期待しているのか、これを達観することができ
れば、未だかつて天与に不公平なものは何もないという事が分かる。それにより各々が
天から与えられた分を弁え、生きる喜びを感じつつ、持てる能力をさらに伸ばし養い、
共に棲む世界に貢献するため最善を尽くすようになる。


▼大軍の運用は進止のみ

軍なるものは、進止有りて奇正無し。
(闘戦経 第十七章)

 進止は軍の未発にして本であり、奇正は軍の既発の業にして末である。すなわち、軍
のような大部隊の運用は、進む・止まるが基本であり、奇・正は瑣末なことなのであ
る。

 軍とは多勢の兵士、武器や車両により編成され、一人の総指揮官(軍司令官)に率い
られて戦を計画・実行する戦略単位の大部隊である。軍司令部の配下に軍団・師団・旅
団のような戦術単位部隊を複数有する。

 未だ軍を発進していない裡に見積り、計画して勝算がある時は進んで軍を発し、そう
でない時は守勢となる。これが進止であり、初めの始である。

奇正とは、奇兵と正兵のことであるが、所詮は戦場における小業に過ぎない。正面から
敵に向かい、あるいは対峙する正兵に対して、奇兵は横を撃つかと見せて後にまわり、
伏兵を設けて不意を衝き、右と見せて左にかかり、退くと見せて進み、弱兵と見せて敵
の警戒心を緩めさせ、多勢と見せて敵の気を引き、反対側から圧倒するなどにより変幻
自在に戦う兵である。

戦の初めに軍全体の作戦をしっかり計画していれば、奇正は自らその中にある。つま
り、軍が進止いずれかを発した後に、戦場において奇正を用いるのは師団・旅団や、そ
の配下にある末端の中・小部隊である。

師団・旅団が行う戦術規模の作戦においては、各級指揮官の采配に従って前進し、機動
して敵を攻撃し、又は有利な地形上に拠って防御する。通常退くことは無いが、真にや
むを得ない場合には敵の前進を遅滞して時間を確保するために退却することもあり得
る。

これに対し、連隊や中隊以下が行う個々の戦闘においては、必要に応じて退いて敵を罠
に誘いこんで討つような戦法を採用し、あるいは欺瞞や陽動を多用し、積極的に敵を欺
き、さらにはゲリラ戦、遊撃戦のような奇正を用いることも多々ある。

こうした配下の部隊による作戦や戦闘も、軍全体から見れば戦略上の攻勢・守勢作戦中
の一コマにすぎない。即ち、国家レベルの戦争や戦略レベルの会戦においては、軍は常
に正々堂々と大義名分を明らかにし、正しい道理と実力を以て進み、時には機によって
止まる事があるが退く事は無い。ましてや表裏を以てかけひきをするような奇正を適用
すべきではない。

通常、奇正は実力を以て理詰めに戦っては勝つ見込みがない場合や、危害を被ることを
懼れる場合に用いるものであるが、孫子では「兵は詭道なり」として、奇正の理をあら
ゆる規模の戦いに適用すべきと説いている。これでは、軍といえども大義のために戦う
よりは、ただ勝つために戦うことに終始してしまう。それゆえに、「兵は不祥の器な
り。君子の器に非ず(老子)」として殺戮的で不吉なものにならざるを得ないのであ
る。


▼立派な軍隊の条件

将に胆有りて軍に踵(きびす)無きものは善なり。
(闘戦経 第二十章)

 主将に胆力があり、動きが機敏で、全ての兵士や部隊が勇猛果敢にして規律厳正であ
れば、戦場に余計な踵(=足跡)を残さない。これが立派な軍隊である。

主将は全軍を統率し、全ての兵士や部隊の模範であらねばならず、この主将に胆力があ
り、勇猛果断であり、全ての部下がこれによく従えば、いわゆる勇将の下に弱卒なしと
いうことになる。

胆力が大なる者は、驚いたり畏れたりしない。主将に胆力があり、いかに厳しい状況に
あっても平常心を失うことなく適時適切な決断ができれば、このことが全軍の胆力と
なって軍紀にも良い影響を与え、離合集散、動静終始が主将の意のままになる。指揮下
部隊もまた主将の意思や考えをよく理解し、これに沿って自ら判断して行動でき、その
結果、兵士や部隊に無駄な動きが無く、極めて早く敵を破りながらも足踏みしたり、踵
を返す(反転する)ことがないので戦場に余計な足跡を残さない。

こうした軍は、戦いの中にあっても踵を連ねる援軍を必要としない。地形や戦力上有利
であれば、最初の戦いで敵を撃破し、降伏させる。地形や戦力上不利で、敵の抵抗が激
しくとも、みだりに援軍を頼まずに自らこの難関を打開しようと努める。さらに圧倒的
に優勢な大敵に会って孤軍奮闘することとなっても、壮烈なる玉砕を遂げるまで、潔く
戦い続けるのである。

戦場を焦土廃墟と化するような災禍は最小限に抑え、努めて早く終わらせるためにも、
我が真鋭無比なる大軍の稜威をもって敵を手向かうことなく屈服させ、帰順させるに努
める。一方で、降伏した敵は丁重に扱い、敵の捕虜を労わり、死傷者は敵味方の分け隔
て無く手厚く弔い、看護する。これを恩威並び行われる軍という。

戦いが終わり、敵地を占領支配するにあたっては、全軍の将兵が威厳を持って行動し、
戦災の復旧に努め、敵の捕虜を労わり、一切の侵略掠奪を行うことなく、兵乱戦禍の痕
跡を残さない。これが優れた軍隊である。

これに対して、主将に胆力が無く、敵の動きに翻弄され、平常心を失い、遅疑逡巡して
いると兵士や部隊は右往左往することになり、その結果余計な足跡を数多く残すことに
なる。このような軍隊は士気も低く、規律も乱れ、孫子のいう「侵掠すること火の如
し」のように侵略掠奪をほしいままにするのである。


▼蝮蛇の毒を生ず

先ず翼を得んか。先ず足を得んか。先ず觜を得んか。觜無き者は命を全うし難し。翼無
き者は締を遁れ難し。足無き者は食を求め難し。嗚呼我是を奈何せんや。却て蝮蛇の毒
を生ず。
(闘戦経 第二十一章)

 翼は飛ぶのに便利であるから先ず翼を得ようか。足は走るのに都合がよいから先ず足
を得ようか。嘴(くちばし)は物を啄むのに具合がよいから先ず嘴を得ようか。嘴の無
い者は命を全うし難い。翼の無い者は締(わな)を遁れ難い。足の無い者は食料を求め
難い。さてさてどうしたらよいか・・・。

 これは、兵法を学ぶ者が陥りやすい考えである。

 翼と足と嘴は、鳥の生存のために必要な利器である。人が鳥のような自由自在を求め
ようと欲するとき、翼と足と嘴の三つを得ることを望む。しかしながら、これら全てを
備えることは、求めたとしても実現が極めて困難である。そうだからと言って僅かにそ
の一つだけを得ても鳥としての用は果たさないものである。それではどのようにしたら
よいのであろうか。

 あの蝮蛇を見よ。猛毒があるために人々は恐れて近寄らない。翼も足も嘴も無いけれ
ども、命を全うし、食料を求め、しかも締に掛かる心配もない。それゆえ、「其の外を
求むるより一毒を求むるに如かず」といわれている。

 現代における軍隊は、空を飛ぶ飛行機や、陸地を駆け回る戦車や装甲車、海を行く軍
艦や潜水艦、戦力を維持するための兵站等を揃えなければ作戦・戦闘を遂行できない。
しかし、これらの兵器や物資において圧倒的な量を有する敵が攻めてきて窮地に陥った
場合、いかにすべきであろうか。このような時こそ、かえって毒蛇が飛びかかり、喰い
つき、猛毒を発するように、捨て身の一撃で一挙に敵を倒すべきである。

このようにして死地に陥った場合にも怯えることなく、落胆せず、積極果敢に戦うこと
ができるように、日ごろから心と体、特に「国防精神」を十分に鍛えておくことが何よ
りも重要である。

 兵法を学ぶ者は、同時に多くのことを求めるのではなく、求めて修めるべき一つを知
り、それをしっかりと身につくまで求めなければならない。

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2011.9.16




私的制裁という旧陸軍の汚点(帝国陸軍の光と影8)──日本戦史の光と影(28)』
         大山 格
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こんにちは。大山です。
毎年のことながら、梅雨は鬱陶しいです。
けれども、恵みの雨でもあります。
台風や集中豪雨なんて乱暴は困りますが。

Q:統帥権の独立についてですが、このような
制度になったのには西郷隆盛が現役の陸軍大将
でありながら反乱を起こしたことがトラウマに
なっているのが原因だという説を読んだことが
あるのですが、どうなのでしょうか?
(赤い彗星)

A:西南戦争以前から桂太郎はドイツの統帥権
独立を模範としようと唱えていましたので、
それは当たりません。反乱の続発に対応する事象
は軍人勅諭で、天皇の名において軍人が政治に
干渉することを禁じました。


▼陸軍当局は私的制裁を問題視していた

 旧陸軍が残した汚点のなかで、私的制裁の蔓延は
私の意識のなかで大きな位置を占めている。
意外に思う人もあるかもしれないが、対米開戦時
に陸軍次官による『私的制裁絶滅ニ関スル件』
(昭和16年12月、陸密第3776号)という通牒が
陸軍一般に発せられている。その冒頭では、

──私的制裁ガ軍隊ノ団結ヲ破壊シ、対上官犯、
或ハ逃亡離隊等ノ重ナル動機ヲ釀成シ、又、軍民
離間ノ素因トナルコトニ関シテハ、敢ヘテ贅言ヲ
要セサル所ナルモ(つづく)

 となっており、陸軍省が私的制裁の根絶を
重要な課題と捉えていることがわかる。
なぜ対米開戦というタイミングで、このような
通牒が発せられたのか?

──(承前)近時特編部隊ノ増加ニ伴ヒ、
私的制裁激化ノ傾向ヲ看ルハ、寔ニ遺憾ニ
堪ヘサル所ナリ(以下略)

 このように続く文言を見ると、私的制裁が
激化する傾向を陸軍中枢部も認識していたこと
が読み取れる。

 建前からいえば、大正12年制定の『軍隊内務令』
でも、はじめに掲げられた綱領一のなかで、

──兵営ハ苦楽ヲ共ニシ、死生ヲ同ウスル
軍人ノ家庭ニシテ、兵営生活ノ要ハ起居ノ間、
軍人精神ヲ涵養シ、軍紀ニ慣熟セシメ、
鞏固ナル団結ヲ完成スルニ在リ

 と、家族主義を謳っている。昭和18年には
軍隊内務令として全文が改定されるが、
そのなかでも綱領三には、

──兵営ハ軍人ノ本義ニ基キ、死生苦楽ヲ
共ニスル軍人ノ家庭ニシテ(以下『内務書』の
綱領一と同文)

 などと規定されており、家族主義の伝統は
受け継がれている。いわば私的制裁とは
家庭内暴力であろう。まったくもって良いこと
だとは思えないことである。なかでも二年兵
の初年兵に対する私的制裁は、長い間に悪しき
伝統となっており、たった一通の通牒で
私的制裁という陋習を根絶できるはずもなかった。

▼山本七平が見た私的制裁

 昭和17年10月に第二乙種合格に区分されて
近衛野砲兵聯隊に入営した山本七平(作家・評論家)
は、著書『私の中の日本軍』(文春文庫1983)で、
以下のように陸軍次官通牒の末端における影響
を語っている。

──私的制裁は「軍紀の紊乱(びんらん)」
「軍民離間の元凶」であり、厳しく禁止されていた。
朝礼のとき中隊長は必ずといってよいほど
「撲られた者はいないか、いれば正直に手を
あげよ」といった。
 これは絶対におざなりの質問ではなかった。
私の所属した中隊からすでに逃亡兵が出ており、
逮捕されて軍法会議にまわされている。
その原因が私的制裁であることは取調べの
過程で明らかになっており、こうなるともう
内々ですますことはできなくなってくる。
これは中隊長のみならず連隊長にとっても
「統率力不足」を示す失態であり、昇進に
さしつかえることであった。

 なるほど、それならば将校にとって
私的制裁の根絶は真剣に取り組むべき課題
であったろう。だが、実態は根絶を果たせない
どころか、部隊の末端では陸密第3776号には
効果が認められない。山本前掲書によると、

──中隊長のこの「正直に手をあげよ」は
本気であり真剣であったことは疑問の余地がない。
そして手さえあがれば、本気で、処分すべき者
を処分したであろうと思う。だが中隊長がいかに
真剣でも、だれも手をあげなかった。その理由は
説明する必要はあるまい。第一、兵隊の秩序に
将校はタッチできなかった。その上、初年兵は
「自分の意志で手をあげる」というような
「地方気分」は、禁じられた私的制裁によって、
すでに一掃されていた。ある雰囲気の中での
先任兵長から来る一種の信号以外には、何の
反応も示さなくなっていたのである。

 あえて付言するならば、山本が「説明する必要
はあるまい」というのは、私的制裁を将校に
訴えることで、下士官や古参兵から報復として
数倍も激しい私的制裁を受けることになりかねない・・・
そういうことであろう。

 ほかに考えられるのは、平時の内務班が
下士官である軍曹を頂点としていたことからして、
いわゆる内務(生活面)全般について将校は介入
しないことが旧来の不文律となっていたのかもしれない。

▼平時の内務班と私的制裁

 ここで平時の内務班の様子を論じておこう。
陸軍においては洗濯や散髪など兵営生活に関わる
諸作業を「内務」と称した。これら内務について
の規範は、まず明治5年に『歩兵内務書』が制定
され、明治21年に『軍隊内務書』として改定され、
最終的には昭和18年に制定された362条にわたる
『軍隊内務令』によって、兵営生活の細部まで
規定するに至った。

 陸軍の主体をなす歩兵は、聯隊ごとに同じ地域に
本籍を有する兵で編成(原籍地主義)され、
郷土部隊を形成したため、入営前からの知人と
同じ部隊に所属する場合があった。その際、小作農
の子が二年兵で、その地主の子が初年兵であっても、
営内では一般社会(軍隊では「地方」と称した)
での身分を無視して階級秩序が築かれるため、
地主の子も二年兵である小作農の子に従わねばならない。
階級秩序は軍隊の根幹をなす「絶対服従」の基礎
であり、兵営を家庭とみなす家族主義によっても
兄たる二年兵に弟たる初年兵は従うものとされた。

 階級秩序の根拠となったのは『陸海軍軍人に
賜はりたる勅諭』(いわゆる軍人勅諭)のなかに
ある以下の文言であった。

──上元帥より下一卒に至るまで其間に官職の
階級ありて統属するのみならず、同列同級とても
停年に新旧あれば、新任の者は旧任のものに
服従すべきものぞ。下級のものは上官の命を
承ること、実は直に朕か命を承る義なりと心得よ。

 この部分を字義どおりに解釈すると、初年兵が
一期検閲を経て一等兵になっても、先に一等兵に
なっている二年兵に対して服従する義務があると
いうのである。さらに二年兵の命令は天皇の命令
にも等しいという拡大解釈に結びつけるのも容易であった。

 この文言で要求された絶対服従の軍紀は私的制裁
の口実にもなり、階級秩序の最底辺に置かれた
初年兵に対してビンタなどの暴力が日常的にふるわれた
のである。内務班の実情は「軍人ノ家庭」と呼ぶに
相応しいものではなかったとしかいいようがない。

▼未入営補充兵と私的制裁

 対米開戦前夜に私的制裁が激化する傾向を示した
理由は、未入営補充兵の増加にあるといえよう。

 平時においては、徴兵検査で甲種合格した者が多数
であった場合、定員以上には入営させず、第一補充兵役
に区分して帰郷させた。また、兵役検査で乙種に分類
された者は第二補充兵役に区分され、特に志願しない
かぎり入営させなかった。これら入営経験のない
補充兵を未入営補充兵という。

 未入営補充兵は在郷軍人として扱われ、概ね1年おき
に簡閲点呼(かんえつてんこ)で召集された。簡閲点呼
とは、予備役下士官兵や補充兵を召集し、短時間の
試問応答によって「敬礼服装姿勢態度及健康状態等」を
検査するもので、未入営補充兵にとっては軍隊の空気に
触れる僅かな機会であった。

 大正6年に参謀次長だった田中義一が未入営補充兵
に向けて著した小冊子『未入営補充兵のしるべ』
(在郷軍人会発行)では、未入営補充兵に軍人である
ことを自覚するよう求めている。このことは当時の
一般社会が入営経験のない者を「兵隊さん」とは見なさず、
未入営補充兵自身も軍人としての自覚に欠けていたこと
を裏返しに表したものといえよう。そのような未入営
補充兵も対米開戦に前後して大量に召集された。

 未入営補充兵だった者が召集されて体験した兵営生活
は、平時の内務班とは大いに様相を異にするもので
あった。平時の内務班では、初年兵として同時に入営
した者は生まれ年が同じである。まれに大学などで
高等教育を受けるため卒業まで入営を猶予された年長者
が混じることもあったが、基本的な階層構造は初年兵と
二年兵という、学校における上級生と下級生の関係に
類似した単純なものである。それに対し未入営補充兵
は年齢もまちまちで、さまざまな社会的地位にある者
が雑多に混在し、兵営における人間関係は複雑であった。

 このような未入営補充兵が文字どおり補充兵として
戦地の部隊に送られた場合、不慣れな新参者でもあり
階級秩序の最底辺に位置づけられた。また、補充兵を
迎えることにより、かつての初年兵は辛うじて最底辺
から脱し、自分たちが受けてきた仕打ちを補充兵に
対して「申し送る」ことになる。

 新たに編成する部隊に未入営補充兵が配属される場合、
彼らにとって古参兵となるのは予備役召集の古強者で、
なかには満州事変で戦場を体験したのち除隊した者など
もいた。両者の兵営における地位の隔たりは、平時に
おける初年兵と二年兵とは比較にならないほど大きかった。
そのことが暴力的な制裁につながったことは想像に難くない。

 大戦末期には持病を抱えた者までが召集されるに至り、
体力的に不揃いな兵で部隊が形成され、将校や下士官に
とって新編部隊を訓練教育することが次第に難しくなる
という問題も生じていた。筆者としては、将校が内務の
問題に介入しないという不文律が成り立っていたかどうか、
未だ結論を見いだせずにいるのだが、将校が平時には
ない問題を抱えて多忙であったことは私的制裁根絶を
果たせなかった大きな理由になると考えている。



(おおやま・いたる)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.8




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (2) ─ 煙缶を囲んで 』
                渡邉陽子
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こんにちは。渡邉陽子です。

来月は取材に行きたい演習が2つあり、
どちらに行こうか頭を抱えています。

両方行く予算はなし、そもそも日程も
かぶりそう。演習取材、大好きなんです。


▼煙缶を囲んで

昔は喫煙者でした。JTのたばこが270円から
300円に値上がりするときに止めたので、
もう7〜8年経ちます。

禁煙は最初の2週間が辛いといいますが、
ちょうど禁煙2週目くらいのときに、防衛庁(当時)
が主催する「大学生サマーツアー」に同行して
沖縄に行きました。

これはツアーに応募してきた学生を40名ほど
選抜し、陸海空各部隊を訪問、さまざまな
体験を通して自衛隊への理解を深めてもらう
というもので、毎年開催されています。


その年は訪問先がちょうど沖縄で、那覇駐屯地
にもお世話になりました。そこで現地のいかにも
屈強なベテラン陸曹と話をしているとき偶然
たばこの話になり、禁煙2週目だという話をしたら
「それは辛いでしょう」としみじみ痛ましそうな顔を
されました。

ベテラン陸曹 「禁煙外来とか行ったんですか?」

私 「いえ、ただ耐えてるだけです」

ベテラン陸曹 「慣れるまで時間かかりそうですね。
私も以前は吸ってたんですがやめようと思って、
たばこ食べました」

私 「は!?」

ベテラン陸曹 「あれは一発ですよ。それきり吸いたい
なんて思いませんからね」

さすが歴戦をくぐり抜けて来た猛者(嘘です)、やること
が違います。禁断症状から抜け出せる魅力よりもたばこ
を食べた先に待つリスクを考えると、小者の私は到底
真似することなどできず、ただただひたすら喫煙の
誘惑に耐えたのでした。


実はその前年の大学生サマーツアーにも同行して
いて、北海道に行きました。もちろん当時はまだ
喫煙者です。

航空自衛隊千歳基地にお邪魔した際、学生たちが
なにかを見学中か体験中だかで、カメラマンと私は
15分ほどやることがなくなり、じゃあ煙草を吸いに
行こうと喫煙所に向かいました。

喫煙できる場所は全国どの駐屯地も基地も似た
ようなものなので(建物の両端の出入り口の横とか
外付けの階段の踊り場とか)、私たちは難なく喫煙所
を見つけ一服していました。すると空自の隊員が、
確か1尉か3佐だったと思います、たばこを吸いに
やって来て、どうもどうも初めましてとそこで名刺
交換となりました。

すると私たちの名刺を見たその隊員が
「あれ? おふたりとも、もしかしてセキュリタリアン
の人ですか? いつも読んでますよ」とうれしいこと
をおっしゃってくださり、かわいいWAFが喫煙所
までわざわざコーヒーを運んできてくれたりと、
煙缶を囲んで思いがけない歓談のひとときとなった
のでした。


煙缶(えんかん)はご存知の方も多いでしょうが
自衛隊用語の最たるもので、大きな業務用缶詰に
ペンキを塗り巨大な灰皿としたものです。

喫煙時代はこの煙缶を囲んでの雑談に助けられる
こともありました。背後に上官、目の前には
ICレコーダーという状態では当たりさわりのない
ことしか話してくれなかった若い隊員が、インタビュー
を終えた後に喫煙所で鉢合わせると、リラックス
した表情で話してくれたりするのです。

本来はインタビューの最中にその話を引き出さなけれ
ばいけないのですが、力不足の私は煙缶談義に
頼るところもあったのです。


たばこを食べることなく今のところ禁煙が続いている
現在、喫煙所での雑談に頼るということは叶わなく
なりました。たばこをやめられたのはうれしい限り
ですが、唯一残念に思うのはその点です。

でも大丈夫。まだたばこ同様、私のつたない取材力
を支えてくれる酒という強力なツールがあります。
宴席の開放感といったら喫煙所の比ではありません
から、それこそ司令から士長まで面白い話があふれん
ばかりに出てきます。
問題は、私が翌朝ほぼすべて忘れていることです。


(わたなべ・ようこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.3




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (4) ─ 潜水医学実験隊(その2) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。

暑くなってきましたね。
暑さに弱い私にとって1年でもっともつらい季節の到来です。
素麺とビールで乗り切ります。


■潜水医学実験隊(その2)

前回は、海上自衛隊の潜水医学実験隊では
飽和潜水という特別な潜水が行われている
ことをご紹介しました。飽和潜水とは、
作業を行いたい深度の気圧まで事前に
体を加圧して体内の不活性ガスを飽和状態
とすることで、より深い進度での潜水が
可能になったり減圧が一度で済む潜水方法です。
今回はその飽和潜水がどのように行われるのか
をご案内します。

潜水=ダイビングということで、タンクを背負って
水中散歩を楽しむようなスキューバダイビング
や映画「グラン・ブルー」のようなスキンダイビング
をイメージされるかもしれませんが、飽和潜水は
まったく違います。飽和潜水は、人間の持つ肉体
の力だけではとても到達できない深度にも到達できる
潜水方法ですから、特別な設備が必要です。

まずはDDC(Deck Decompression Chamber)と
呼ばれる船上減圧室が必要になります。これは潜水艦
救難母艦「ちよだ」に搭載されているもので、シャワーや
トイレなど必要最低限の設備も整っているものの、
めちゃくちゃ狭い居住空間です。ここに6名のダイバー
が乗り込みます。水深200mで作業するという場合は、
このDDC全体が水深200mの約20気圧まで加圧されます。

次に、6名のうち3名がDDCにぴったり接続された
球状のPTC(Personal Transfer Capsule)という
水中昇降装置に乗り移ります。これもDDC同様加圧
されていて、内部は計器とコードまみれ、どこに3人も
入り込む隙間があるのかと思うほどの、身動きすら
ままならない狭さです。しかも潜水医学実験隊で訓練
に使われているPTCよりも、ちよだに搭載されている
PTCのほうがさらに狭いというから驚きです。

PTCはDDCから切り離され、単体で作業現場に向かいます。
3名のうち海中に出るのは2名、残り1名は作業をしている
潜水員の管理を行います。作業が終わったら再び
DDCとドッキングし、PTCにいた3名はDDCに戻り、
そこから時間をかけて20気圧から1気圧、つまり大気圧
まで減圧していきます。

深い進度での潜水作業が長時間可能、かつ減圧が
一度で済むという飽和潜水の利点をもってしても、
減圧に要する時間は通常のダイビングと変わりません。
飽和潜水の場合は深く潜れる分、減圧には何週間もの
日数がかかります。

飽和潜水が多くの利点がある潜水方法である一方、
どれほど大がかりなものか、お分かりいただけるの
ではないでしょうか。

潜水医学実験隊は平成4年に450mの飽和潜水を
達成して以来、毎年400mの深度における飽和潜水
を行っています。実はこの深度の潜水を継続して
達成できる国は非常に限られていて、潜水医学実験隊
の実力は世界でも1、2を争うレベルなのです。

次回は潜水員たちの訓練の様子をご紹介します。



(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.17




『陸軍機 VS 海軍機 』 清水 政彦
 【第2回】 零戦と隼(1)
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こんにちは。清水です。

さっそくに読者の方々からご質問をいただき
ありがとうございます。できる範囲でお答え
したいと思いますし、こんごの連載の参考に
させていただくつもりです。

□【Q&A】

Q:艦上機と陸軍機の特性や利害得失についての
一般論は、現代機にも妥当するか? 艦上機より
も陸上機の方が一般的に高性能で有利なのか?

A:前回述べた艦上機と陸軍機の対比は、
あくまで第2次大戦期の状況を想定しており、
現代の軍用機には当てはまらないと思います。

 現代機では、飛行性能の差よりも電子装備の
充実の方がはるかに重要なので、最後にモノを
いうのは搭載量と供給電力量です。兵装や電子
装備の搭載量は燃料搭載量(航続距離)と
トレードオフしますので、状況や予算の制約
にもよりますが、発進基地に縛られない艦上機
の方が全体的に有利な戦いができそうです。

 仮に陸上基地から運用するにしても、
垂直着陸のできる艦上機であれば不時着拠点を
無数に選定できますので、基地を攻撃された
場合の生残性はぐっと高まるでしょう。

 ただし、米国を除く大多数の国においては、
1)そもそも空母機動部隊を運用できるほどの
予算がない、2)蒸気カタパルトが実用化されて
いない(大型機をフル装備で発艦できない)、
3)手頃な垂直離着陸機が存在しない(さすが
に「ハリアー」で制空戦闘は厳しい)ことなど
から、一般的な空軍型の機体を使うのが合理的
だということになります。

Q:日本陸軍機は対艦作戦を考慮していなかったのか?

A:日本陸軍の飛行隊は、対米開戦前は基本的に
対ソ戦のみを想定しており、対艦攻撃を考慮して
いた形跡はありません。


□はじめに

 今回からは、具体的な日本陸軍機と海軍機を
比較していきます。最初の比較対象は、みなさん
ご存じの「零戦」と一式戦「隼」から。
これは少し長くなりそうなので、何回かに分割
してお届けします。

 第1回は前提として、両者の試作が開始された
昭和12年末〜昭和13年頃の航空技術の状況に
ついて見ていきたいと思います。

▼時代は「固定脚」から「引込脚」へ

 零戦は昭和12年(1937年)夏に「十二試艦上
戦闘機」として、隼は少し遅れて同年の12月に
「キ43」として試作が指示された。

 これは、当時の最新鋭機である「九六式艦上
戦闘機(以下「96艦戦」)」および「九七式
戦闘機(以下「97戦」)」が完成した直後の
タイミングで後継機の開発を開始したことになる。
そして、このタイミングには必然的な理由があった。

 両機は、地上滑走用の車輪を機内に引き込む
装置を持たない「固定脚」のデザインであり、
1937年の世界標準からみると、すでに旧式化
していて発展の余地がないと見なさざるを
得ないものだったからだ。

 欧米では、1935年〜1936年の時点で戦闘機の
引込脚機構は一般化していたので、「96艦戦」
および「97戦」はその就役直後から旧世代機の
列に入ってしまったことになる。

 もっとも、飛行中に車輪を引き込む設計自体
は、戦闘機よりも爆撃機や攻撃機で先行して
導入されていた。日本で初めて引込脚機構を
備えた機体は「九六式陸攻」「九七式重爆」
「九七式艦攻」などであり、いずれも1936〜
1937年に就役している。

 双発以上の大型機の場合、エンジンは主翼
前縁に吊り下げて装備するが、そのエンジンの
後方、エンジンナセルの内部に余裕空間があり、
また重いエンジンを装着するマウント部分は
十分な強度を持つため、ここに無理なく主脚を
収容することができる。

 単発機であっても、艦上攻撃機(艦攻)の
ような大型機ではさほど高速力を求められない
ので、主翼を存分に厚く設計することができ、
ここに主脚を収容する余裕が生じる。また、
アクロバット飛行を行なわないことから、
主翼強度に対する厳しい制限もない。

 一方で戦闘機の場合、主翼の設計には高速性
への配慮が求められるのと同時に、最大で7〜8G
に達する高G機動に耐える強度を確保する必要が
あるため、引込脚のデザインには工夫が必要になる。

 主翼の内部に大きな車輪部分を収容するためには、
主翼下面に大きな切り欠きを作る必要があり、
そのぶん主翼の強度が低下する。モノコック構造
の強度の源は「閉じた箱型の構造」にあるからだ。

 この箱型構造が崩れた状態で主翼の強度を維持
しようとすると、骨組みを密にしたり、構造材や
外鈑を厚くしたり、翼型を十分に厚くしたりする
必要があり、これに伴って重量と抵抗が増してしまう
というジレンマがあった。

 また、翼構造だけでなく、脚を引き込んでロック
する作動機構の存在も重量増加要因となる。

「96艦戦」および「97戦」では、引込脚の採用に
よる抵抗減少と、その反面としての重量増加の
利害得失を考慮した結果として、軽量化を優先して
固定脚を採用していた。

 しかし、世界の航空技術の発展は思ったよりも
早く、「96艦戦」の部隊運用が始まった直後の時点
で、欧米列強国の戦闘機は、一部の例外をのぞいて
すべて引込脚を採用するに至る。

 各国の引込脚戦闘機と初飛行年度を挙げると
以下のとおり。ちなみに、「96艦戦」の原型機が
初飛行したのは1935年である。

英:ハリケーン(1935年)、スピットファイア(1936年)
仏:MS.406(1935年)
独:Bf109(1935年)
伊:G.50(1937年)、MC.200(1937年)
米陸軍:P-35(1935年)、P-36(1935年)
米海軍:F2A(1937年)、F4F(1937年)

 引込脚の採用に加えて、戦闘機用の小型エンジン
もますます強力なものが開発され、これに伴って
著しい高速化の流れが明らかになってきた。

 固定脚の「96艦戦」および「97戦」をいくら改良
したとしても、今後急速に進展するであろう「戦闘
機高速化レース」には、到底ついていけない。
このことは、1937年の時点ではすでに誰の目にも
明らかだった。

 日本の陸海軍は、この世界的な趨勢に触発され、
引込脚と新型エンジンを搭載した発展性のある戦闘機
を早急に整備する必要に迫られる。零戦と隼は、
こうした流れの中で「日本初の引込脚戦闘機」として
生まれたものだった。

▼主脚をどこに設置し、どう引っ込めるか?

 当時、主脚の引込方式はメーカーにより多種多様な
ものがあった。

 英国の「スピットファイア」は主翼の付け根付近に
取り付けた脚を外側斜め後方に引き込む。
 ドイツ「Bf109」は主脚を胴体に取り付け、外側前方
の翼内に引き込む。

 米海軍の「F4F」は胴体内に埋め込まれた脚がハの字型
に伸びてくる独特の方式。
「F2A」は主翼に取り付けた脚が内側に倒れ、脚柱が
主翼前縁に、車輪部分は胴体内に引き込まれる。
 米陸軍の「P-35」は半引込式で、両翼の中ほどに
取り付けた脚を後方に倒すだけ。脚と車輪は翼の下に
出たままである。

「P-36」も半引込式だが「P-35」よりかなり進化しており、
主翼下に円筒形の主脚引込ポッドがある。これは少し
複雑なシステムで、車輪の角度を90度ひねってから
後方に倒す。脚柱部分のみがポッドに収容され、
車輪部分はポッドの後ろの翼内に収容される。

 こうして見てみると、初期の引込脚戦闘機の多くは、
車輪部分を翼の付け根に収容する方式を避けていると
いう点が興味深い。強度と翼厚の関係や、翼根部に設置
された冷却器との関係によるものと思われる。

 この時期に単純な内側引込式を採用したのは
「ハリケーン」と「MS.406」であるが、いずれも胴体の
一部が鋼管羽布張りという保守的な設計で、多少重く
なっても堅実な構造を選ぶという思想が見て取れる。
要するに、性能より頑丈さが売りの飛行機だった。

▼実用性を左右する引込脚の構造

 戦闘機の脚を引き込むのは、日本のメーカーにとっては
初めての経験である。

 当然、先行する諸外国の戦闘機の設計を参考にしたはず
だが、上述した初期の引込脚機構には問題があった。
脚を外側に引き込む場合、どうしても主脚の間隔が短く
なるため、地上滑走が不安定になる。一方で脚を胴体に
引き込む場合、車輪を収容する空間を確保するために
中翼配置を採らなければならず、視界や重量の面でマイナス
ということになる。

 空母の甲板に機体を叩きつけるように着艦する艦上機は
もちろん、地上滑走の安定性は陸軍機にとっても重要な
課題である。前線基地の滑走路の多くは未舗装であり、
雨が降れば水たまりもできるし、いくら均(なら)しても
すぐに凸凹の不整地になる。

 そして、主脚の間隔が狭い不安定な機体を荒れた滑走路
で運用すると、滑走中に横転したり脚を折ったりという
事故を起こしやすくなる。滑走中に事故を起こせば機体は
間違いなく全損、パイロットも多くの場合は負傷するか、
悪くすれば死亡する。

 工業力が未熟で、飛行機の数を十分には揃えられないと
いう日本の国情を考えると、訓練中に事故で消耗するような
機体には実用性がない。戦闘機として初めて導入する
引込脚のデザインにあたっては、冒険を避けた堅実で
保守的な設計にならざるを得なかった。

▼輸入機からコピーして採用した引込脚

 結局、零戦と隼の設計では、チャンス・ヴォート社製の
試作戦闘機「v143」が採用していた引込機構を、ほぼ
そのままコピーする形で採用することになった。
「v143」は、ちょうど試作指示があった1937年に、
技術資料として米国から輸入されてきたものである。

 主脚を主翼前縁部に十分な距離をとって取り付け、
そのまま真っ直ぐ内側に引き込む単純な機構。
車輪と脚柱の全部が主翼前縁部に収容され、翼の強度は
その後方、複数の桁(けた)に挟まれた空間と外鈑
で形成される箱型構造が負担する。

 1937年の時点で、各国の主力機の中でこの方式を
採用していたのはフランスの「MS.406」くらいだが
(イタリア機はまだ試作中、「ハリケーン」は脚が
翼構造をぶった切っている)、これがのちに1940年代
における標準的なデザインとなった。

 たまたま輸入機に「良いお手本」を見つけたという
要因があるとはいえ、当時まだ珍しかった合理的な
引込脚システムを採用したことは卓見だったといえる。

 主脚の間隔が十分に広く取れるため地上滑走の
安定性が良く、事故損失の少ない安全な設計は、
その後、零戦と隼の実用性を大いに高めることになる。


(しみず・まさひこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.16



荒木 肇
『陸軍の機関銃(1)──大正時代の陸軍(37)』
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□ご挨拶

 台風はいかがでしたか。沖縄をはじめとして
南西地域の皆さま、また活発化した梅雨前線の
おかげで大雨となった地域の方々、無事で
あられましたか。
 わたしは北海道の陸上自衛隊のある部隊
の隊員の皆さんへ講話のために出かけました。
幸いなことにタイミングがよく、台風の動きと
逆になり、帰りは進路が逸れたために無事に
往復できました。

 K・Y様、いつもご愛読ありがとうございます。
小銃開発史をご存じで、自動装填式小銃の話
などお詳しいですね。おそらく、その関係もあって、
一気に7.7ミリに口径を増やせなかったのでは
ないかなどと、わたしも空想しています。
これからもよろしくお願いします。

 前回、機関銃陣地撲滅用の「平射砲」のこと
や「11年式軽機関銃」について書くと申しましたが、
ちょっと時代をさかのぼって陸軍の機関銃に
ついて説明します。
 
▼陸軍機関砲のことはじめ

 戦争を語るには前の戦争とのつながりを
もって語れという。連続した時間の経過の中で、
ある戦争だけを切り取って調べても、
ほんとうのところは分かりにくい。兵器もまた
同じである。38式歩兵銃を語るには30年式
歩兵銃を知らねばならない。また、大正時代の
11年式軽機関銃を理解するには世界の
機関銃開発史をいつも参照しなくてはならない
だろう。だから、少し時間の軸を元にもどして
陸軍の機関砲(銃)についての基礎知識から
説明したい。

 もともと機関銃とはとにかく弾丸を連続発射できる。
防禦用のものだったから機動力はそれほど考え
なくていい。だから、どこの国でも銃身を冷やすのが
空気によるのか、水によるのかの違いくらいで
重さはあまり変わらない。日露戦争の両軍も同じで、
ロシアは水冷式のマキシム、日本は空冷式の
ホチキス機関銃だった。重量は60キロくらいだから、
人が4人で運ぶことがかろうじてできた。

 日本陸軍は1890(明治23)年には
英国ヴィッカース社のマキシム機関砲(口径0.303
インチ=7.7ミリ)を輸入した。1895(明治28)年
には近衛師団と第4師団に「臨時機関砲隊」を編成
して第2軍の所属としたが実戦には間に合わなかった。
このとき16隊ができて、各隊にマキシム機関砲
(口径は村田式連発銃の8ミリに合わせた)が
6門ずつあったので合計96門を装備していた。
だから、某大家やしばしば歴史学者がいうように
『日露戦争で日本陸軍は初めて機関砲を知った』
というのは、無責任なデマでなければ意図的なウソである。

 本格的な実戦参加は近衛師団に機関砲隊(48門)が
配属された台湾平定戦争だった。これは台湾にいた
清国の官吏や地方軍隊が「下関条約」に不満をもち、
中央政府と関係なく勝手にわが国に抵抗した戦い
である(もっとも、左翼的な学者はわざわざ「台湾
征服戦争」という)。このとき、機関砲隊はしばしば
砲兵のような使われ方をしていた。これが正しいか
どうかはしばらくおいておこう。なぜなら、当時の
列国もまた機関砲(銃)をどう野戦で使うかについて
は方針がろくになかったからだ。

▼台湾の戦闘と機関砲

 1895(明治28)年8月、彰化と嘉義(いずれも
敵兵力の拠点)の戦闘について記録が残っている。
彰化城攻撃にあたって渡河作戦が行われた。
このとき、右翼隊司令官川村景明少将は、渡河点
の南端に砲兵と機関砲隊の陣地を選び、翌朝から
射撃を開始させ前岸の賊兵を圧倒し、その後、
左翼隊に続いて渡河すべしと命令を出した。5時30分
から砲兵第1中隊は敵砲兵に向けて砲撃を始めた。
第2中隊は敵の幕営や掩堡に向けて発砲、
第1機関砲中隊と合併第4隊は同じく敵兵のテント
や堡塁に向かって射撃を始めた。当時は機関砲を
載せた砲車や弾薬車を人力でひいていた。

 10月になると嘉義攻撃が始まる。近衛師団長は
機関砲隊を歩兵の第一線と同じ位置に進めた。
歩兵突撃の直接掩護のためである。これは歩兵の
士気をたいへん高めたが、こうした使われ方が
そのまま日露戦争の南山の戦闘でも引きつがれて
しまったのだ。

 しかし、もともと要塞防衛用の陣地に固定して戦う
のが機関砲であって、この台湾の平定戦でも多くは
防禦用に使われた。この実態は新竹の防戦に
加わった近衛歩兵将校である石光真清(いしみつ・まきよ)
による『城下の人』にも書かれている。このとき、
小銃100挺、青龍刀や槍で武装した敵兵300に
石光小隊は包囲されてしまった。敵は50メートルの
距離に迫った。石光中尉はついに撤退を決心し、
部下とともに哨所を脱出し、機関砲隊の掩護を受けて
友軍に収容された。追撃する賊兵(清国兵)に機関砲
は乱射を浴びせて味方を救ったのである。

 この石光の紹介だけで数ページを必要とする。
大正時代に活躍した陸軍軍人であり回想記を残した
ことで知られている。1868(明治元)年、熊本に生まれた。
幼いころに西南戦争(1877年)を目の当たりにする。
1883(明治16)年に陸軍幼年学校に入り、士官生徒
第11期生として卒業、近衛歩兵第2聯隊で任官した。
卒業は明治22年7月である。この旧11期というのは
士官生徒の最後の期にあたる。日清戦争には中尉の
時代、日露戦争では大尉・少佐で出征した世代である。
 
 石光の面白さは情報の任務についたことだ。
1899(明治32)年に予備役に編入され、ウラジオストク
に渡った。そこからアムール河のほとり、ブラゴベシチェンスク
に行きロシア語を学んだ。軍の密命による諜報活動だった。
滞在中に北清事変(1900年)が起きた。この時、
アムール河の対岸の黒河の清軍砲兵隊が河を越えて
ロシア軍を砲撃した。これに怒ったロシア軍は、報復措置
としてブラゴベシチェンスクにいた清国人3000あるいは
5000人を虐殺したといわれる。殺された老若男女
の遺体は次々と河に投げ込まれた。この知らせを
受けて『ロシア人はそこまでやるか』とひそかに
日露戦争を決意した人も多かったという。
 
 この事件後、石光は港町ハバロフスクに向かった。
そこからハルビンに向かい洗濯屋と写真館を営業して
情報活動に従事した。当時から日本人は写真技術の
評判が高く、洗濯のような手まめさを必要とする仕事
には定評があったからだ。これはかなり危険な任務で
あり、幾度かロシア軍の官憲の追及から逃れたこと
もあった。戦争直前には店を閉めて帰国。召集を
受けて復帰、日露戦争に参加する。戦後はまた民間
に帰るが、再びロシアの地を踏みシベリア出兵では
諜報活動にしたがった。また、政治問題を語る時には
登場してもらうことになる。

▼ヴィッカース・マキシム機関銃

 フランスでは空冷式のホチキス機関銃が発明された。
わが陸軍では1896(明治29)年にはこれを輸入して
砲兵会議(技術本部の前身)で検討の末に採用が
決まった。1899(明治32)年から生産を始めた。

 それまでのマキシムからホチキスに変わったのは、
マキシムが「砲身及び閉鎖機の後坐」式という火砲
タイプで、しかも水冷だったことからだ。「構造上過大
ニシテ重量大ナリ」ということらしい。貧弱な体格の
日本兵、やたら小さい日本の軍馬、そういうことから
少しでも軽量なものの方がいい。また、想定される
戦場、満洲では水も手に入れにくいという判断も
あったかもしれない。

 そして何よりも大きな理由は、わが国の工業水準
がマキシムの規格に追いついていなかったことだろう。
わたしが今も思うのは日本の冶金学の遅れである。
西洋には錬金術という長い間の金属についての
研究基盤があった。その差がたとえば薬莢の素材
の不出来であり、工作機械の精度の粗さに関係が
あったのではないか。機関銃はまるで現在の
レシプロエンジンのように、引き金を引き続けられて
いる以上、理論的には無限に弾丸を吐き出し続け
なければならない。

 銃弾を発射すると、どれだけのエネルギーが
生まれるだろうか。まず、銃口から飛び出していく
銃弾の前進エネルギー、また、反動力、具体的には
薬室の中の薬莢を後ろに蹴飛ばそうとする反動
エネルギーがある。そして、薬莢の中にあった
発射薬が燃えて膨張し、銃身内部に圧力をかける。
音、銃身や機関部にこもる熱などもエネルギーだろう。
マキシムというアメリカ人技術者は、このうち後方
への反動エネルギーを次の弾丸への装填に使
えないかと考えた。

 まず、マキシムは銃身が前後に少しずつ動くよう
にした。銃弾がこめられた薬室を固定しておけば、
発射反動は銃身そのものを後ろに動かそうとする。
薬室を後ろから固定していたのは「遊底(ゆうてい)」
といわれる部品である。銃身は後退しながらカムの
ような部品を動かし、このカムが薬室の閉鎖を解除
するように働く。銃身が後退の限界まできても、
遊底だけは退がり続け、その先端のツメが薬莢の
リム(起縁部・きえんぶ)をつかんでいる。そのため
に撃ち殻薬莢(弾丸が出てしまった空薬莢)は薬室
から抜きだされるようになる。薬莢はさらに蹴出子
(しゅうしゅつし・エジェクター)によって外へはじき
出される。遊底の働きはこれだけではない。
布ベルトに並んだ次の弾丸を抜き出しもする。

 遊底が元に戻ろうとする時に役に立つのがバネで
ある。これを復坐(ふくざ)バネという。すでにお気づき
だろう。まさに「火砲」と同じタイプなのだ。火砲も
砲身が後退して、砲車全体が動いてしまう。これを
砲身だけが自由に動くようにして反動を受けとめる。
元の位置に戻すのは復坐バネである。

 機関銃に限らず、無煙火薬を使った小火器の部品
はたいへん高度な工作技術に裏付けられたものである。
それは火薬ガスを漏らさないための「密着」と、
それでいながら「摺動(しゅうどう・こすれて動く)」と
いう難問を同時にこなしているからだ。それでも手動の
ボルト・アクション式小銃の部品ならまだしもである。
先に説明した機関銃の遊底などの部品はまさに
加工精度だけが問題になるといっていい。明治・大正
日本の工業水準では、とてもそれは達成できるものではなかった。

 次回は、ガス圧利用式のホチキス機関銃の説明をしておきたい。


(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.16




『楠木正成の統率力 【第9回】叱るよりほめよ』
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の巻
第一から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、
それぞれの巻の作者について紹介いたします。
前回は楠木正成について記した十一・十六巻や、
足利尊氏の陰謀、直義の悪逆などを記した
十三・十四巻などについてでした。今回は、
尊氏・直義一代の悪逆などが記された二十二巻
が消されたことについてです。

(引用開始)

 数年を経て、南朝の正平の頃、備後三郎高徳
入道(児島高徳)が吉野に居たときに、御村上天皇
の勅により、京中の合戦と足利尊氏の敗北に
ついて記した。これが十五の巻である。その内、
多々良浜の合戦については、寿栄(尊氏の右筆)が
これを記した。

 また、十二の巻は、足利直義(ただよし、尊氏の弟)
が玄恵に命じてこれを記した。この時、直義は玄恵に
語ったことには、「この書の十巻以後は、全て焼却
すべきではないか」とのことであった。

 それに対して、玄恵は、「それはなりませぬ。後代
の人もまた、焼失したことの咎(とが)を記すことに
なりましょう。なによりも、公の政道が正しくあること
願うのみです」と言ったのであった。これにより、
直義は書を焼かなかった。

 このようにして、元弘の政治が正しくなかったことを
記した。十二・十七・十八・二十三の巻などがこれで
ある。この時、高徳入道義清も、越前の合戦、
脇屋義助(新田義貞の弟)の敗北、そして尊氏・
直義一代の悪逆を記した。これが二十二の巻である。

 そうであるのを後に武州入道(細川頼之)が
好ましくないことだと思って、天下の内を尋ね求めて
これを集め、全て焼却した。(足利幕府全盛の)
当時としては、「二十二の巻とは、あきらかに読ま
せるべきではない書である」との判断であった。

 現代に存在するところの二十二の巻は、二十三
の巻から集め出して、二十二と号したものである。

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

 それでは、本題に入りましょう。


【第9回】叱るよりほめよ


▽ 楠木、渡辺橋の戦いで六波羅軍を撃滅

 1332(元弘2)年の暮までに千早城を完成させ、
下赤坂城も奪回した楠木正成は、翌年1月中旬、
約2千の兵を率いて堺付近に進出し、淀川の障害
を利用して、六波羅軍5千を撃破した。これが渡辺橋
の戦いである。

 楠木の軍勢を討伐するため京都から堺へやって
きた六波羅軍に対し、楠木は3百の小勢により敵を
誘きだして渡河させてから、橋を破壊して退路を
遮断し、楠木勢主力で三方向から反撃した。
六波羅軍はたちまち混乱に陥り、渡辺橋方向へと
退いたが、楠木勢はこれを猛追撃して淀川南岸
に圧迫し、撃滅した。

 六波羅探題の南北の長官、左近将監・北条時益と
越後守・北条仲時の二人は、この報告を聞いて、
事のあまりの重大さから、再び楠木勢を攻める必要
があると考えた。そこで、京都警備のために関東から
上洛していた、宇都宮公綱(きんつな)を呼び寄せて
評定(作戦会議)を開いた。

 まず、北条仲時が述べた。

 「合戦というものは、古来から時の運が雌雄を
決することである。しかしながら、この度の渡辺橋
の戦で大敗したのは、何よりも指揮官の作戦が
まずかったことによる。また、将校や兵士らが
臆病だったからである。このため、天下の笑いもの
になったのだ。・・・」


▽ 仲時の士卒への批判は正しいか

(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に
出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)

 仲時が云うには、この度の敗因が「指揮官の
作戦がまずかったことによる」とのことであるが、
これは理に適(かな)っている。しかし、さらに「将校や
兵士らが臆病だったからである」としたのは正しくない。

 楠木勢が皆、勇敢であるということはなく、六波羅軍
が皆、臆病なのでもない。何ゆえにこのようなことを
云うのであろうか。これを聞いた京都の軍勢は皆、
不本意に思い、やる気をなくしたことであろう。


▽ 郎従の過失への正成のあり方

 楠木正成が郎従を諌(いさ)めるときは、かりにも
その悪しきことを云わず、無礼な悪口を吐かなかった。
その郎従の過去の良かったことや、誉(ほま)れだけ
を指折り語ってから、最後に一言こうつけ加えたのである。

 「これゆえに、正成はそなたへ頼んだのである。
今回のような過失は、それまでの良き事があれば
こそ、恥とされよ。気持ちを引き締めて、今後は
無いようにせよ。」

 このように云って、十日、二十日、あるいは百日の間、
対面しないでいれば、その者も情けの深さを思い、
我が身にとって何とも恥ずかしく、また誠にかたじけ
ないとだけ思うことから、再び過ちを犯す者は少なく、
正成を恨む者もいない。

 人の上に立つ者は、皆かりそめにも、自分の腹が
立ったからといって、人に恥をかかせること、
無礼な悪口は言わないものである。心得ておくべし。


▽ 八尾の別当に敗れた志貴右衛門

 また、正成は八尾の別当顕幸と数年にわたり
戦っていた。(注:第7回掲載文「敵意を解いて服属
させる」参照)

 ある時、楠木の家の子である志貴右衛門助と
云う者が、百余騎にて一城に籠った。別当顕幸は
直ちに50余騎にて、その城へ向かった。志貴は
城を出て戦ったが、打ち負けて城へ入らず、郎従18騎
が討たれながらも、すぐに楠木の館に来た。

 周りの人々は、これを指差し、嘲笑して云った。

 「別当顕幸と当家は、所領の争いにより、恨み合う
こと数年にわたる。そうであれば、その勝負は、折に
よって変わるものではあれども、一城を取られるまで
の事は聞いたことが無い。これは寺の坊主のいくさ
だて(=戦の仕方)よりも拙いということだ。これほど
まで戦に負けたのは、法師にも負けるただの尼僧
ではないか。正成殿に対面して、何と言い訳した
のだろうか。恥をさらすよりも、いっそ死んでしまえ・・・」


▽ 志貴を叱らなかった楠木

 正成は右衛門に対面して、戦の様子を詳しく聞いて
から、これまでの右衛門の数々の戦場での忠義、
勇敢な行動や、さらに賢明に判断して戦った事なども
語りだしてから、

 「正成が常に申してきたのは、こうしたことであるぞ。
そなたは、それほど愚かないくさだてをするような殿
ではござらぬ。」

 と云い、そして

 「御身が無事で死をまぬがれたことこそ、うれしく
思うぞ。死んでしまった兵は、なげいたとても帰ることは
無い。そうであっても正成、この故に多くの士が討たれ
てしまったことは、実に不憫(ふびん)に思うぞ」と涙ぐんで、

 「この度の事、そなたの謀、いくさだての間違いは、
ただ正成の天命が間違ったからでこそあろう。そなた
の間違いではない・・・」

 こう云って、再三これを誉め、「馬・物具も、おそらく
戦場に捨ててしまったことであろうから、これを召されて、
後日の合戦をなされよ」と、馬・物具を与えた。また、
討たれた兵たちの妻子を呼び寄せて、皆に米銭・
金銀の類をその身分に応じて与えた。人は皆、その
情け深さに感じ入ったのであった。

 その後、志貴右衛門助はずっと、このことを
恥ずかしく思っていたが、謀をめぐらし、終に別当に
取られた城を、半年の内に夜討ちにより取りかえし、
恥をすすいだのであった。

 これとは比べるべくもないが、舌にまかせて理も
なき悪態をつき、諸卒に疎(うと)まれていた仲時の
心の中こそ、愚かなものである。

(「叱るよりほめよ」終り)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.18



『定年制の功と罪(帝国陸軍の光と影9)──日本戦史の光と影(29)』
         大山 格
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暑いのも寒いのも苦手ですが、暑さの対処は
貧乏人には限界があります。家で裸になって、
それでも暑ければ水風呂につかるくらいかな?

 昨年からエアコンが不調で、買い替えたい
けれど、大山巌墓所修復で寄付を募っている
身の上で買い換えは憚られます。
 寄付金でエアコンを買ったなどと疑われたく
ないですから。
 欲しがりません、修復なるまでは。

【Q&A】その1

東條英機について

Q東条英機についての記述で、すでに第一級、
第2級史料がある大東亜戦争開戦はアメリカ
大統領とチャチル首相の密約からどのように
日本が努力しても避けられない状況であった
ことを誤認していませんか?

A努力しても避けられないのが自明であるなら、
無駄かもしれない努力を敢えてすることが必要でした。
日清戦争後の三国干渉が発生した時点で、
ロシアとの戦争は不可避だったといえますが、
日本は臥薪嘗胆をスローガンに負けないだけの
態勢を整えました。わけても英国との関係強化の
努力は重要でした。

【Q&A】その2

軍隊の私的制裁の役割について

Q日本軍の強さと関係があるのでしょうか。
いか気付いたことです。

1. 条件:戦場では私的制裁は減ったか、
消えたから、安全な状態で発生したものと思う。
2. 国際性:何処の国の軍隊でも新兵いじめがある。
万国共通である。これは兵士の鬱憤はらしなのだろうか。
社会との違いを自覚させるため七日。何らかの社会的な
機能があるはずだ。
3. 限界:私的制裁では上官の立場をかさにきて、
兵士を暴行したが兵士を殺すことはしなかった。
もし制裁で殺すと利敵行為になり軍法会議で死刑に
なるからであろう。実際負傷させると、上級者が部下に
気を遣って一生懸命サービスしたという。所詮慰みであった。
4. 実践体験:ノモンハンの激戦地から生還した兵士の
回想によると、敵弾が飛び交う戦場の恐怖と苦悩は、
新兵いじめで馬糞を喰わされたことなど、まったく問題
にならなかったと記している。
5. 反乱:軍の上層部は下級兵士の反乱を恐れた
のだろう。ロシア軍は新兵いじめで悪名高いが、
ロシア革命で多くの兵士が反政府側についた。
6. 戦場の指揮:歴戦の下士官が戦闘式を取り仕切った。
新任の将校は無知なため不注意な行動が多くすぐに戦死したという。

以上

A:先年、学校教育で体罰が有効かどうかという議論
があったのが思い浮かびました。一般論として申すなら、
現代において体罰に類することは学校でも自衛隊でも有効
ではないと思います。

体罰で精神を鍛えたところで、どんな職場にもある
コンピューター搭載の機器が動かせるようにはなりません。
もちろん近代兵器も根性ばかりでは動きません。
むしろ取り扱いに握力70、背筋力200を要する装備なども
あるので、自衛隊員には精神力より筋力を維持して
いただきたいものです。



●定年制の功と罪

▼高齢化社会と軍事組織

 近代軍事組織に定年制が設けられて長い期間
が経過している。いまの自衛隊を「軍事組織」
と呼ぶのが相応しいかどうかの建前は置いて
おくとして、一般社会の尺度から見て自衛官
の定年は早い。任期制の隊員は別段として
非任期制隊員だけ見ても50代での定年
なのだから一般的には「若年」である。

 年金制度は破綻しかけており、50代で
定年となっても再就職しなかったら退職金で
食いつなぐのも難しい。だからこそ自衛官の
再就職は必然なのだが、公務員ゆえ「天下り」
と批判する向きもある。いったいどうすれば
良いというのだ。筆者は自衛官の定年を
一般の公務員並みに引き上げることを提案したい。

 高齢化社会が必然となったなか、
「組織の若返り」ではなく、逆に高齢化する
ことをも考えねばなるまい。むろん自衛隊も
例外ではない。

▼明治陸軍の「定年」

 まだ近代化の途上にあった明治の軍部では、
予備役制度が定年制の役割を果たしていたが、
その運用はかなり柔軟であった。

 陸軍の場合、少将で旅団長、中将で師団長
なので中将までのポストは豊富である。
だが大将に相応しいポストは限られる。陸軍大臣、
参謀総長、教育総監の三つは陸軍三長官とも
呼ばれ大将のポストに相応しい。しかしこの三つ
だけでは大将は三人しか要らないことになって
しまう。いや、平時においては三人で充分と
言いかえても良い。だが、戦時体制を迎えた場合、
師団長を配下にする軍司令官は大将であるのは
必然で、当然ながら三人では不足してしまう。
そこで軍事参議官といった名誉職みたいなポスト
をつくっておき、いざ戦時体制となった場合に備えた。

▼老練の値打ち

 日露戦争に際し、日本陸軍は60歳前後の大将
を軍司令官に据えた。黒木為とも(木ヘンに貞)、
奥保鞏(やすたか)、野津道貫(みちつら)と
いったデスクワークに向かない人も、現役に留め
置いて戦争に備えていたのである。

 乃木(希典)大将の場合は例外で、予備役の
中将で留守師団長をつとめていたところを、
必要に迫られて大将に昇進させ、軍司令官とした。
とかく評価が低くなりがちな人ではあるが、
早世した偉才、川上操六とドイツへの留学を
ともにした経歴の持ち主でもある。意外や、
児玉源太郎には留学経験はなく、陸軍大学も
出ていない。学歴から見れば、乃木は児玉に
優っていたし、実戦の経験も豊富であった。

 また、他の師団長クラスを抜擢した場合には
黒木、奥、野津といった大立者と肩を並べるなど
というのは無理難題で、せめて年齢だけでも
揃えておきたい。そう考えてみるならば乃木の
起用は世間で言われるほど不適格にはあたらない。
高齢であることが取り柄になるといった実例と
して、まずまず説得力を持つ事例であろう。

 なにか「組織の若返り」などと耳にすると
良いことのように聞こえてしまうものだが、
日露戦争に際して組織の若返りを目指したとしたら、
まず黒木、奥、野津は起用されない。参謀総長
の山県有朋と総司令官の大山巌は元帥で、
この二人だけは別格としても、軍司令官には
現役中将を大将に昇進させたとしたらどうか。

 大迫、立見といった逸材もあるにはあった。
しかし、黒木、奥、野津との「格の違い」は
如何ともしがたいものがある。

 タンネンベルクの戦いで奇策を成功させた名参謀、
ホフマン中佐は、大尉のころ黒木の第一軍に観戦
武官として加わっている。若いプロイセン軍人の目
を驚かせたのは、黒木の剛胆さであった。砲声が
鳴り響く前線近くに司令部を置きながら、よく
日中は昼寝をした黒木であるが、昼寝は戦況に
関わりない日課であったという。

 万事が几帳面なゲルマン民族から見れば、
軍司令官が昼寝をするなんぞ信じがたい光景で
あったに違いない。若かりしホフマン、ついに
この不謹慎な軍司令官を揺り起こしたことがあった。

「戦況が膠着するなか、貴官が指揮しないで良いものかどうか」

 単刀直入、ズバリと言い放ったホフマンに対し、
こう黒木は答えたという。

「なに、俺が指揮したところで動かぬ状況は動かぬよ」

 ホフマンが膠着状態と表現したのは遠慮もあって
のことで、実際には作戦の進捗状況は思わしくなかった。
そんななかで軍司令官が昼寝をしているのは腹を
くくってのことで、司令部の雰囲気を「なんか大丈夫
そうだ」と勘違いさせるための腹芸である。

 せっかく目を覚ましたからということか、黒木は
一個連隊を動かすよう指示して昼寝を再開した。
そして、その指示によって戦況は有利に変わったという。
こうした黒木の剛胆さにホフマンが刺激を受けたで
あろうことは想像にかたくない。

 このような腹芸に類することは、大立者と呼ばれる
ほど老練な指揮官にしかできまい。また、戊辰戦争、
あるいはそれ以前の戦いから多くの戦場を経験して
きた実績は、なににも代えがたい。そして、日露戦争
は高齢者たちの指揮統帥によって勝利を得たのである。

▼見習いたい旧陸軍の予備役制度

 いまより寿命が短かった時代のこととて、当時の
60歳といえば立派な高齢者である。それだけに
身体能力の衰えは今日の60歳と比較すべくもない。
しかし、それがどれほど問題なのか?

 古来、身体が不自由であったり虚弱体質の
将帥(しょうすい)も、そうそう珍しくはない。
戦国時代に雷神の化身と恐れられた猛将、立花道雪
など足腰立たぬ身でありながら、輿に乗りながら
陣頭で采配を振った。ハンセン病で失明した
大谷刑部も関ヶ原合戦では輿に乗って大奮闘している。
病弱な竹中半兵衛とて羽柴秀吉の先手をつとめていた
という。

 実を言えば、日露戦争を指揮した大山巌も少年時代
に左目を失明させていて、いまなら軍人として不適格
とされるところであろう。その配下で第二軍を指揮
した奥も聴覚が衰え、野戦電話での対応は困難で
あったというが、それがなんだというのだ!

 たしかに「老害」などといわれたりもする高齢者も
いるのは残念ながら事実だが、その知識や経験が
貴重なものであるのもまた事実であり、組織にとって
高齢者の存在は毒にも薬にもなり得る。要は、
人それぞれである。それをいっしょくたに定年だから
と組織から追い出してしまっては、あまりに惜しい。

 その点、旧陸軍の予備役制度は巧い仕組みであった
といえよう。将校は終身官であって引退しても身分は
残る。予備役編入イコール永久追放ではない。
そして、必要なときには現役に復帰させられるようになっている。

 老練な軍人が役立つ場面は、なにも司令官クラスに
限ったことではなかろう。下士官に老練な人材があれば、
小隊長が経験に乏しい若手であっても巧く補佐して
くれるだろう。

 どのみち日本は高齢化社会となる。若手はいかなる
組織でも貴重で、数多い高齢者には勤務年数に
相応しいポストが不足することも必然である。いまや
年次による「横並び」で昇進させる年功序列など、
すでに破綻したといっても過言ではない。日本の社会は、
もう否応なく変革していかねばならないのである。
それは自衛隊とて例外とはなるまい。

 たしかに高齢による身体能力の衰えは避けがたい
ところであるが、軍人の働き場所であれ最前線だけ
ではない。ましてや軍隊以外では高齢者が活躍できる
場面はいくらでもあるというべきではないか。

 先年他界した老父は、寝たきり状態となって
退院してきてからというもの、人はなぜ生きるか
といった哲学的なことを、痴呆の症状がありながらも
考えていた。

 身近に高齢者を見てきて、その残された力を
埋もれさせるのは惜しいと私は感じた。

 わが父に対しても、たとえ痴呆となっても過去の
記憶は案外としっかりしていたので、まだまだ
社会参加する方法もあろうと勝手に考えていた。
歴史の証言者として、価値ある話題を聞き出すこと
ができたはずなのだ。

「この世に生まれてきて、無用な人などいるはずがない」

 私は病床の父に対して、こう言い続けてきた。
老いが徐々に身体や知能を衰えさせても、寿命まで
人は生き続ける。その生命が続いている限り、
私は「無用の人」とは呼ばれずに生き続けたい。
そしてそれは、やがて老人になってしまうすべての人
に対しても同様に、有用な高齢者となるよう呼びかけたい。

 また、社会全体も無用の人を作らないよう配慮せね
ばなるまい。すなわち、あらゆる組織の定年制には
抜本的な見直しが必要であり、それは自衛隊であっても
例外ではないということである。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.15




『武士と軍役(戦争の台所事情1)──日本戦史の光と影(30)』
         大山 格
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 こう見えて、ワタクシ自炊派です。
 14歳で母と死別して、それ以来ですから、
そこらの若奥さんなんかよりずっと上手いですよ。
 夏は食材の傷みが早いのが困りもの。ひとり
暮らしだから消費ペースが遅いのです。
 ワタクシにとっては、いつもより外食が多く
なる季節でもあります。


●武士と軍役(戦争の台所事情1)


▼慶安の軍役

 戦国時代の大名は、どの程度の兵力を
動員できたか? 旧陸軍参謀本部は、1万石
あたり250から300人と算盤をはじいた。

 もちろん時期や地域によって動員可能数に
大きな差が出る。兵農分離政策が徹底された
羽柴秀吉の北近江長浜領あたりなら、
1万石あたり500人くらいは動員できたろう。

 山間部の人口密度が低い地域では、兵力を
動員するにも自ずと限界がある。もともとの
数が少ないのだから、兵農分離などと言って
いられない。山がちな甲斐を領地とした武田
信玄が少数精鋭主義を採って、騎乗の武者を
多くしたのも必然的なことであろう。槍足軽
より騎馬武者の方が個人戦闘力は大きい。

 そういった地域的な差を、あえて無視して
標準化するとしたらどうなるだろう?

 徳川幕府三代将軍の家光は、それをやった。

 慶安2年(1649)に幕府が定めた軍役では、
百石の旗本から大名に至るまで、動員すべき
兵力が規定されている。それは徒士(かち)
や足軽ばかりでなく、草履取りや小荷駄を担ぐ
雑兵(ぞうひょう)に至るまで員数を規定
したものである。

 それによると1万石の大名では235人を動員
しなければならない。これが最低限度の義務と
しての動員数であり、実際に勢揃いをさせると
なると、もっと数は増えるだろう。旧陸軍参謀
本部の推計は、いい線だといえる。

 徳川幕府は旗本8万騎を誇号した。8万の
武者それぞれに、最低でも従者が2名ずつで、
総数およそ24万人ということか。幕府直轄領
800万石という数字に照らして矛盾はない。
だがしかし、その実力のほどはいかがなもの
であろうか?

 かなり乱暴な比較であるが、1000石の旗本
が10人で連合部隊を編成し、1万石の大名と
戦ったらどうなるか考えてみよう。

 1000石の軍役は以下のとおり。

 騎乗は本人のみなので1人、徒士が5人、
以下は弓、鉄炮、槍持ちなど総勢21人ではあるが、
槍持ちといっても文字通り持つだけであって戦い
はしない。弓、鉄炮も同様で、直接戦闘員として
の足軽は皆無、その戦力は本人を含めて士分6人。
この数を10倍して士分60人の戦力となる。

 一方、1万石の大名は組織が大きく異なる。

 騎乗10人、徒士16人をはじめとして、足軽も
弓10、鉄炮20、槍30となって、部隊らしい編制
が組める。しかも手替という補充人員も含めれば
戦闘員は106人となり、旗本より効率が良い。

 実を言うと、この比較は空論である。実際、
幕府が兵力を動員する際には、旗本を再編成する
ことになる。先手組、別手組などという軍制組織
がそれで、3千石以上の組頭の下に数百石級の
与力(よりき)を何人か配置し、さらにその下
には百石に満たない同心(どうしん)が数十人
ずつ付き、部隊組織を形成する。

 ところが、この軍制組織にしても実際には
機能したことがない。軍役が定められたのは
島原の乱(1637)以後のことで、その後ペリー
来航まで幕府は動員らしい動員をしたことがなかった。

 実際問題、1万石あたり300人の動員数は江戸
時代には不可能な数字である。松の廊下刃傷事件
で赤穂浅野家が改易(かいえき)されたときも、
赤穂藩の家臣団は足軽を含めても500人程度で
しかなかった。御家の存亡がかかった非常事態
に遭遇しても、1万石あたり100人を集めるのが
せいぜいなのである。

▼幕末の軍役

 戊辰戦争でも、だいたい1万石で100人という
のは相場である。そこからすると幕府そのものは
800万石なので8万人を動員して不思議ではないが、
幕府陸軍の歩兵はわずかに8000人にも満たなかった。
幕府は海軍にも莫大な資金を投入していたので、
いくらかは割り引いて考えなければなるまいが、
それにしても少ない。

 だいたい旧来の軍制組織はどうなったのかというと、
形だけは存続していたのである。もちろん旧組織が
無用の長物と化したことは幕閣(ばっかく)も承知
していたので、慶安の軍役は廃止されている。
そのかわり、旗本はその軍役に応じた額の金銭を
幕府に献納していた。その資金で幕府は陸軍を養って
いたのである。

 その旗本たちが陸軍の将校として働くなら理想的
だが、多くの旗本は近代化を嫌悪して旧来の軍制に
しがみつこうとした。そのため、幕府は陸軍の人材
を新規に召し抱える必要が生じ、旗本たちは形ばかり
の軍制組織に残ることになった。

 御家人はどうか?

 本来なら旗本の配下に加わって最前線で働く直接
戦闘員であるが、彼らもまた近代化を嫌悪した。
結局、幕府は陸軍を編成するために、新たに兵員を
雇っているのである。まず旗本の二男や三男という、
養子の口がなければ生涯独身のまま朽ち果てなけれ
ばならない人々を勧誘した。それだけでは数が足り
ないので、庶民からも徴募した。だから旗本や御家人
が既得権にしがみついている分だけ、人件費が余分
にかかっている。

▼幕府陸軍の発展を妨げたもの

 旗本や御家人が軍事組織の洋式化を嫌った理由は、
洋式では実戦的な訓練を強いるからでもあった。
江戸時代の軍学では陣法節制を重視し、整然と威儀
を正して行動することを教えるが、実戦的な演習は
やるべきではないとさえ教えた。模擬戦をやると、
どうしても陣形が乱れてしまう。それが好ましくない
というのだから呆れたものである。だからこそ武士は
弾を避けるために地を這ったり、楯に身を潜めること
も忘れた。堂々と立っていてこそ武士であるというの
である。だが、洋式兵学では基礎訓練で地を這わせる。
そういう汚れ仕事は武士のすることではないといった
意識が幕府陸軍の発展を妨げていた。

 幕府はリストラを断行すべきだったろう。いまの
世の中「パソコンは嫌いです」などと言っていたら
サラリーマンはつとまらない。そんなことを口にする人
は、リストラされて当たり前ではないか。

 もともと武士団の動員力は、鎌倉時代まで遡れば、
家ノ子や郎党といった即応予備兵力のみに限定されて
いた。それが南北朝時代になると庶民を動員して足軽
とするようになり、常備軍から動員軍へ転換される。
戦国時代に動員体制が発展し、江戸時代も建前では
動員体制を保ってきたわけであるが、その実状は鎌倉
時代に逆戻りしていたのである。

 否、鎌倉時代より退化していたというべき藩もあった。
京都守護職会津藩の大砲隊など132人で一部隊を編成
しているが、足軽は30人しかいない。それで和砲3門
のみを運用するというのである。1門あたり足軽10人
というのは納得できるが、およそ100人の士分以上は
どう考えても無駄である。人数を見れば中隊規模なのに、
砲3門では小隊並の戦力でしかない。そのまま実戦に
参加して、火力発揮など考えもせずに、槍を抱えて
突撃したというのだから勝てるわけがない。まあ、
これは極端すぎる悪例ではある。

 幸か不幸か、洋式軍隊のコストは高かった。幕末、
各藩が洋式銃を買い入れ、調練をするだけの資金力の
限界は、ほぼ動員可能限界と釣り合っていた。
ところが、資金さえあればもっと兵力を養えるかと
いうと、朽ち果てた戦国以来の動員体制が機能して
くれなかった。例外的に裕福だった諸藩は、さまざま
に工夫して兵力を募った。長州藩が庶民を募って
奇兵隊を編成したのもその一例である。

 とくに下野国黒羽藩の例は面白い。黒羽藩の藩主、
大関氏は鎌倉時代から続く那須七党の直系である。
一時期は転封(てんぽう)されたが、先祖の土地に
復帰していたので、藩主一族と領民の地縁血縁は
非常に濃い。いまは農民となっていても、太閤秀吉
の刀狩り以前には大関氏の郎党であったと称する
豪農も少なくなかった。そうした特殊事情があり、
黒羽藩はたったの1万4000石ながら400人もの歩兵
部隊を編成することができた。しかも、その全員が
スペンサー七連発を装備していた。近代なら機関銃
大隊に相当する戦力なのである。

▼幕末でも真田は日本一の兵

 また別な意味で驚かされるのは信濃松代藩である。
真田信之を藩祖とするだけのことはあって、なんと
戦国時代並みの動員体制を幕末まで維持していた。
10万石で3000人以上動員できているのである。他藩
ではとっくに縮小していたであろう分限帳という
家臣団の戸籍簿を、足軽まで一人も削ることなく
維持し続けていたというのだから驚くほかない。

 もちろん丸抱えというわけにはいかない。足軽たち
への給与は扶持米1石などといった微禄でしかなく、
なかには無給の者もあった。1人1日5合というのが
扶持米の基準であり、旧暦の1年355日では1石7斗
7升5合で、扶持米1石では1人扶持にもならない。
だが、足軽であれば苗字帯刀が許される。そして、
かつて徳川家康を苦しめた真田家の家臣団に名を連ねる
という栄誉が与えられる。そんな伝統が脈々と続いて
いたのである。

 伝統として残ったのは動員体制だけでなく、ちゃんと
真田勢の精強さも受け継がれている。

 戊辰戦争当時、質的に最も高水準にあったのは薩摩、
長州の兵である。両藩は外国軍と戦闘して経験を積んで
いるから強いのも当然といえば当然であろう。

 北越戦線の榎木峠をめぐる攻防戦のなかで朝日山を
争奪したときのことである。まず、新政府軍の先陣、
長州藩兵が防御火力に圧倒されて後退し、それを救援
しようとした薩摩藩兵も崩れようとしたときのこと
であった。その戦闘を見ていた松代藩兵が咄嗟の判断
で持ち場を離れ、崩れ立つ薩長両藩兵を援護、見事に
追撃を食い止めているのである。

 かつて大坂夏の陣で奮闘した真田信繁こと幸村の
活躍を「真田日本一の兵」と称揚したのは薩摩藩島津家
であったが、戊辰戦争でもやはり真田は日本一の兵だった
のである。

 余談だが、近代に至り徴兵制が布かれても、こうした
お国柄は地域ごとに編成する連隊に残っていた。だが、
現在の自衛隊は志願制で、地域色が薄くなったのは残念に
思う。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.22




『楠木正成の統率力  【第8回】小勢をもって多勢に勝つ』
          家村 和幸
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▽ ごあいさつ

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の
巻第一から『太平記』全四十巻が書かれた
経緯と、それぞれの巻の作者について紹介
いたします。前回は十巻までについてでしたが、
今回からは、十一巻以降についてです。

(引用開始)

 後醍醐天皇は、題号(書の名称)が定まって
いないということで、玄恵・智教・教円らに
命じられた。そこで、三人の僧は、武士等に
会って、物語の前後や虚実をそれぞれ尋ねて、
これを再び記した。『元亨釈書』の師(虎関師錬)
に命じて、序を書かせた。

 題号については、前に記したとおりである。(注)

 また、建武の頃、後醍醐天皇が山門に
居られた時、大友・少弐の振る舞いや、
五大院の右衛門の行いを後代の「嘲り」にせよ
とのことで、山門の護正院に命じて、これを
記させられた。正成が戦死した様子について、
「智・仁・勇」の三徳を備えていると、お褒め
のあまり、善智坊法印に申しつけて、これを
記させられた。これが十一・十六の巻である。

 南岸坊の僧正顕信が、(新田)義貞の
奏状・(足利)尊氏の陰謀、(足利)直義の
悪逆を記した。これが十三・十四の巻である。
この当時、義貞は鷺坂(さぎざか)・箱根の合戦
を自ら記した。これも十四の巻である。

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

(注)『太平記』という書物の題号(名称)が
四度改められたということ。詳しくは、本メルマガ
記事の第四回掲載の「ごあいさつ」をご参照ください。
http://okigunnji.com/nankoleader/category2/entry7.html

 それでは、本題に入りましょう。


【第8回】小勢をもって多勢に勝つ

(「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に
出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)


▽ 大将が臆すれば、兵も臆する

 楠木正成は常々、家の子・郎従や将(上級指揮官)
である者たちを諌(いさ)めて、次のように語っていたという。

 「敵軍と陣を張り、戦(いくさ)を決するときはいつでも、
我(われ)は無勢(少ない軍勢)、敵は大勢となるであろう。
そのような条件で、もしも敵と我の間隔が六町
(約655メートル)もあるのに、敵から意を決して
かかって来たとしよう。世間の将は、こちらが無勢で
あり、敵が大勢であるのを見て、臆して我の陣まで
敵を引き寄せて射立て、右往左往するところに
切って出ようとするであろう。

 しかし、これは大なる過ちであるぞ。大将が臆したのに、
どうして兵が臆さずにいることがあろうか。そうであれば、
攻めかかる敵の軍勢を恐れて、臆した者は耐え切れず
に備え(隊列)から脱落することになり、この臆した者
が落ちていくのに引きずられて、少し剛である者さえ
も落ちることになるのだぞ。

 人は勝れて剛毅であるのもまれであり、勝れて臆病
であるのもまれであるから、残るものはいよいよ少ない
のだぞ。


▽ 「居負け」とその対処法

 こちらの兵がまばらになったのを見て、敵はますます力を
得てかかってくる。その時、敵は時の声を発して、
我が陣へどっとかけ入るだろう。臆病になっている味方は、
堪えきれなくなって必ず敗けるものである。これを「居負け」と云う。

 このようにして負けることは、将の不覚の最たるもの
である。何とも口惜しいことではないか。そこで、
このようになってしまった時は、将自らが軍の備え
を歩き回りながら、このように下知(命令)して云うのである。

 『今日の戦には必ず勝てる方策がある。太鼓の合図
を守って各々前進せよ。人に抜きんでた振る舞いが
あれば、賞禄するぞ。』

 このように諸兵の気を引き締めてから、我が陣前
に帰り、敵の攻めかかって来るのを見る。敵との間が
六町の時は、五町(約545メートル)ほど敵が来て、
あと一町(約109メートル)ほどの距離に近づいた
ならば、陣太鼓を打って味方の軍を進めるのである。

 こうすることの利点は三つある。

 一つには、敵が攻めかかる時、こちらは後れを取り、
敵はその機に乗るものである。それでも我が軍を乱さず、
騒ぐこともなければ、敵も怪しむことであろう。
そこでこちらから進むことによって、今度は敵が気後れし、
我がその機に乗るのである。

 二つには、敵は五町以上の距離を前進して疲れて
おり、我は半町(約55メートル)を行くだけなので
疲れていない。

 三つには、敵は長い距離を前進して陣形・隊形
などの備えが乱れており、我は乱れていない。

 敵が3千を一軍として攻めかかるのに、我が1千の
軍であっても勝てるのは、躊躇(ちゅうちょ)せずに
断行することにある。その理由は、敵が3千を一軍とし、
我が千を一軍としたとしても、それは名目に過ぎない。
互いに進んで勝負をすれば、最前列の30〜50人
が太刀打ちして負けた方の兵は、どれ程であろうとも、
皆敗北するものである。

 そうして、その軍勢が乱れた後は、再び備えを
調えるのが困難になる。負けた方の兵は、
足のままに走り逃げるばかりで、勝った兵は、
周りの動きに自分を任せて、ただ追い行くだけである。
こうなれば3千でも多くはなく、千でも少なくはない。


▽ 勇士・強弓を選りすぐる

 こうしたことから、将たる者が嗜(たしな)んで
求めるべきことは、頑強で勇猛果敢な太刀打ち
のため、鬼神をも欺き、命を塵(ちり)よりも軽く
思うような兵を、正成は十人集めたが、これを二十人
選りすぐり、これらに相応しい兵具を持たせる。
また、勇敢な強弓の兵士を、これも正成は十人
集めたが、二十人を自分の馬の傍らに置く。

 そして、「杉の先」陣形でかける時も、また、
「剣の先」陣形でかける時も、「魚鱗」の陣形で
かける時も、将が真っ先に進むのである。
この時、敵が太刀打ちしようとかかって来るのを、
我は太刀打ちの兵一人につき、射手を一人添えて、
間隔を二間(約2〜3メートル)にして射るならば、
どうして外れることがあるだろうか。

 こうして、敵の動きが少し鈍ったところへ、
将が自ら攻めかかって突入するならば、
たちまちにして勝つのだ。


▽ 武芸に練達した勇士を育てる

 このゆえに、一軍の将である者は、勇士・強弓を
いかにしても集めるようにせよ。また、自分の
郎従の子供などを、幼少の頃から常に身近に
置いて、その勇気と武芸では何に器用であるか
を知らねばならない。勇気があるならば、さらに
近くに置いてこれを愛し、その器量に応じた武芸
を習わせ、十分に恩を与えて、これに親しくせよ。

 この世の宝は多くとも、少なくとも、武芸に
練達して勇気がある者は、希少な存在であるぞ。
天下第一の貴重な宝とは、勇気があり、しかも
武芸に練達している人物である。このことが
肝要(極めて重要)である。・・・」


▽ 諸国の将の賢愚を知る

 また、正成が云うには、

 「およそ武道を心に懸けようとする者は、
諸国の将の賢愚を知っておくことが第一である。
これを知ろうと常に意識していれば、諸人が
言うことから必ず知れるものである。

 諸人が言うことについても、知っておくべきこと
がいくつかある。人の毀誉(悪口と賞賛)に依らず、
その将の行跡(ふるまい)を聞け。誉めると云えども、
行いが道に外れていれば、愚であると知れ。
謗(そし)ると云えども、行いが道に適(かな)って
いれば、賢であると知れ。人の毀誉は、おのれの
意に合わなければ、愚人を褒め、少しでもおのれ
の意に違えば、賢人を謗るものである。ただし、
その毀誉する人の行いを見て、分別しなければ
ならない。日頃から聖なるものに意を懸けている人
の云うことは、少しは信じるべきである。

 また、その郎従が語るのを聞いて知れ。
人の郎従とは必ず、日常では主(あるじ)を謗ること
があっても、外の人に対しては主を誉めるものである。
誉める種類によって、その行跡を聞け。その(郎従
が語る)賞賛が信用できなかったり、ましてや郎従
が主を誉めないようであれば、その将は愚であると
知れ。ただし、その郎従の云うことから、先ずは
敵将の意図するところを知れ。百に一つも知れない
ということはない。

 もしも、このようにして知ることができなければ、
戦場において、敵部隊の配備の様子を見て、
その将の賢愚を知るものである。」

(「小勢をもって多勢に勝つ」終り)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.11




防衛ライター・渡邉陽子のコラム (5) ― 潜水医学実験隊(その3) 』
                 渡邉陽子
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消印所沢さま

こんにちは。渡邉です。

11旅団の演習に行ってきます。道東は初めて。
朝晩はかなり冷えるそうなので、暑さに弱い
私にはうれしい限りです。


≪おたより≫

「潜水医学実験隊の記事大変興味深く読ませていただきました。
これからも愛読者でまいります。
ご健闘を祈念します。」(N)

⇒N様、記事をお読みいただきありがとうございます。
潜水医学実験隊のご紹介はもう何回か続く予定ですので、
最後までお読みいただければ幸いです。(渡邉)



■潜水医学実験隊(その3)

前回は飽和潜水がどのように行われるかご紹介しました。

タンクを背負ってレギュレーターをくわえボートから
飛び込むスキューバダイビングとの共通点は、
「海に潜る」という点のみ。今回はそんな特殊な
潜水方法を身につけている潜水員たちの訓練の様子を
ご案内します。

潜水医学実験隊には、海上に出なくても訓練を行える
シミュレーターがあります。私が見せてもらったのは
PTCを用いた潜水訓練で、ふたりの潜水員が温水スーツ
を着てPTCに乗り込みました。PTCはDDC(船上減圧室)
に接続されている、海中で作業現場に向かうカプセルです。

温水スーツは細いホースを通してスーツ内に温水が
送られるようになっています。潜水深度が深くなると
潜水員の体はどんどん冷えていくので、この温水で
体温を保ち、低体温症を防ぐのです。温水スーツの中で
体が泳いでいるように見えるほどサイズが大きいの
ですが、深海ではこれがぴったり体にフィットするそうです。

ほかの隊員たちはPTCのバルブひとつひとつを丁寧に、
けれど迅速にボードと照らし合わせてチェックしていきます。
主管制盤には無数のスイッチと大きな深度計があり、
より細かく正確にメモリを確認できるよう、ルーペまで
付いています。

PTCの分厚いハッチが閉じられると、PTCは気圧を
コントロールできる水槽へと移動します。水槽とハッチ
が一致する地点までホイッスルを鳴らして誘導するのは、
経験豊富な先任伍長の役目です。PTCから出た
隊員ふたりは、水中でものを組み立てるといった作業
を協力しながらこなしていました。そのゆっくりとした
動きは、宇宙飛行士が船外で作業する姿に似ています。
その日は装置の運用がメインの訓練だったため
加圧は行われず、潜水員は作業終了後、減圧の
必要もなくPTCから出てきました。

シミュレーターを用いず、潜水員としての技量を保持
する訓練も行われています。水深11mの恒温水槽は
水流を発生させることもでき、可動すのこで深さの調整
も可能です。ここでは基礎的潜水法の訓練のほか、
潜水器具の実用試験や潜水に関する医学的、
人間工学的な実験研究が行われていています。
なんといっても「潜水医学実験隊」ですから。

潜水員たちは訓練を始める前に、「ちょっと体慣らして
おこう」と言ってさらりと飛び込み、数秒後には水槽の
底に着地していました。
水面でぷかぷか浮いていたひとりが、くるりと体を
丸めたと思ったら、もうその姿は水中に消えています。
潜水員の年齢は20代から50代と幅広く、女性自衛官も
います。

水の中での動きはどこまでも自然で無駄がなく、水の中
にいることを意識していないように見えるほど、誰もが
水になじんでいます。呼吸のできない水中への恐怖心は
ないのかと思いきや、自らも飽和潜水を行うある
幹部自衛官が「飽和潜水を行う潜水員ですら恐怖心は
持っています。その恐怖心を和らげるのは経験しか
ありません。過去に潜っていてもブランクが空けば
恐怖心が増す、だから継続的な訓練が不可欠です」
と話してくれました。

次回は飽和潜水員になるまでの長く厳しい道のりをご紹介します。



(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.24




陸軍機 vs 海軍機(3)       清水政彦
「零戦と隼(2)」
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□はじめに

こんにちは。清水です。

「零戦 vs 隼」の第2回です。今回は、双方の
エンジンとプロペラなど、動力関係について
見ていきます。

1.エンジン

 隼のエンジンは機体と同じ中島飛行機製
「ハ25」および「ハ115」で、これは零戦に
搭載された「栄」と実質的に同じである。

 このエンジンは中島飛行機と海軍が共同開発
していたもので、零戦の開発が開始された
昭和12年夏の時点では試運転段階であるものの、
ある程度完成の目途がついていた。

 零戦の試作機は当初、自社(三菱)製の
「瑞星」エンジンを搭載して完成したが、
海軍は当初から「栄」の搭載を前提に零戦の
要求仕様をまとめたフシがあり、「栄」が完成する
と直ちにエンジン換装を指示している。
「瑞星」と「栄」は外径、重量ともに近似していた
ので、この換装はスムーズに行なわれた。

 隼の試作指示は零戦よりやや遅れて
昭和12年12月に行なわれたが、この時点で
「栄=ハ25」は完成間近であったので、
中島飛行機では試作当初から「ハ25」の搭載
を前提に隼を設計している。隼に限らず、
陸軍は海軍が先行して採用したエンジンを
後から採用するケースが多い。

 よく似たエンジン(「瑞星」と「ハ25」)を前提
に設計され、結果的に同じエンジンを搭載して
完成したことが、零戦と隼の外観を類似させる
結果になっている。

▼エンジンの詳細について

「ハ25(栄12型)」エンジンは、気筒径130ミリ、
ストローク150ミリの複列14気筒、
排気量27.9リットル、空冷式。

「ハ25(栄12型)」と「ハ115(栄21型)」の違いは、
主にスーパーチャージャー(過給器)とキャブレター
(気化器)で、エンジン本体の構造は基本的に
同一である。

「栄12型」は一段一速過給器付き、許容ブーストは
+150mm(公称)〜+250mm(離昇)、全開高度
は4000m付近。気化器は昇流式で、エアインテーク
がエンジンの下側にくる。

「栄21型」は一段二速過給器付き、許容ブーストは
+200mm(公称)〜+300mm(離昇)、全開高度
は一速で3000m、二速で6000m付近。気化器は
降流式で、エアインテークがエンジンより上にくる。

 ブースト制限が緩和されたぶん、離昇出力は
「栄12型」の940馬力から「栄21型」では1130馬力
へと約20%アップしている。なお、「ハ25」および
「ハ115」と「栄」の公式データには微妙な差があり、
ここでは「栄」のデータを採用した。

▼エンジンのデータの読み方について

 日本式にいう「ブースト」とは、過給器出口から
シリンダーの吸気バルブに至る吸入経路の圧力
(吸入圧)を、大気圧(760mmHg)に対する相対値
として水銀柱高さで表現したもの。つまり、「空気を
どの程度圧縮してシリンダーに送り込んでいるか」
を示す数値である。

 同じエンジンでもブーストを上げていくとシリンダー内
で燃焼するガソリン量が増えるので、排気量を増した
のと同じ効果があり、そのぶん馬力が高まる。
しかしブーストを上げすぎると、ある時点から
シリンダー内で「ノッキング」と呼ばれる異常な
燃焼が起こり、かえって馬力が落ちるだけでなく
エンジンにダメージを与え、放置すれば破壊してしまう。

 ブースト制限は、この「ノッキング」による悪影響を
回避するために設けられる運転制限であり、パイロット
はやたらとスロットルを全開にすることは許されていない。

「離昇出力」とは離陸時および上昇の初期段階でごく
短時間(1分間ないし数分間)だけ許容される
エンジンの最大出力で、冷却が追いつかないため
長時間の運転は厳禁である。離陸上昇時のみならず
空戦中も時間限定で用いる場合があり、米軍でいう
「戦闘緊急出力」に相当するというべきか。

「公称出力」とは、エンジンが持続的に発揮可能な
目一杯の出力である。それでもエンジンは次第に
過熱していくので、この出力での連続運転時間は
30分程度までとされるが、通常の場合、空中戦は
数分以内に終わるので戦闘出力としてはこれで十分である。

「全開高度」とは、ブースト制限を維持した状態で
エンジン馬力が公称出力に達する高度である。

 たとえば、「ハ115」を二速過給で運転する場合、
高度5000mではまだ空気密度が十分に薄くなって
いないため、スロットルを全開にすると過給器が
効きすぎて、吸入圧が許容ブーストを超えてしまう。
ブースト制限を守るためにはスロットルを絞らねば
ならず、エンジンは公称出力まで吹き上がらない。

「ハ115」の場合、高度6000m付近で過給器の
能力と空気密度の減少が拮抗し、ブースト制限を
守りながらスロットルを全開にすることができるよう
になる。飛行高度が高いほど空気抵抗が減るので、
零戦と隼は高度6000m付近で最も高い性能が
発揮される。

2.プロペラ

 零戦と隼は、両機ともに、量産機では
「住友ハミルトン」式のコンスタント・スピード(定速)
プロペラを装備した。ただし、同じ機構でも隼の
初期型だけが2枚羽根(2翅)で、零戦は初期型
から3枚羽根(3翅)。

「住友ハミルトン」プロペラは、昭和13年に
住友金属が米国ハミルトン社から製造ライセンス
を購入したもので、エンジンの潤滑油を油圧シリンダー
に導いてプロペラピッチ(角度)の変更機構を駆動
する油圧式である。

 定速プロペラとしては初期の製品で、プロペラ
ピッチの変更範囲が20度しかなく、本格的に
日米戦が始まる昭和17年の時点ではすでに
二流の技術だった。

「ハ25」搭載の隼1型の場合、プロペラピッチの
設定は26〜46度(2翅で直径2.9m)。同じ
エンジンを積んだ零戦21型のピッチ設定も
25〜45度(3翅で直径2.9m)でほぼ同じだが、
プロペラが一枚少ないぶん、推進効率では
隼の方が不利だったようだ。

 この時期、他国も含めて1000馬力級エンジン
に2翅ペラという事例がほとんどないことを見れば、
「ハ25」に対して直径3mのプロペラ×2枚が
不足であることは容易に理解できるだろう。

 2翅ペラの選択は、プロペラ重量(プロペラ翼は
かなり重い)を軽減するためだったといわれているが、
結果として隼の初期型は軽量化と引き換えに
プロペラ効率を犠牲にしてしまったことになる。

 さらに、隼は「ハ115」搭載の2型からプロペラを
3翅に変更するが、この際プロペラ直径を従来の
2.9mから2.8mに短縮してしまった。また、2型の
フライトマニュアルによるとプロペラピッチの変更
範囲は24〜44度とあり、ピッチ設定を低ピッチ
方向に調整したようだ(この点はまだ確信が
持てないので継続調査中。情報歓迎します)。

 一方の零戦は、同じエンジンを積んだ32型以降、
増大した馬力を吸収するためプロペラ径を拡大して
3.05mとし、ピッチ設定も29〜49度に上げている。

 大きくて高ピッチのプロペラは高速飛行に有利、
小さくて低ピッチのプロペラは低速域からの加速に
有利となる。つまり、同じ系列のエンジンとプロペラ
を使用していても、零戦の方が高速化をより強く
意識しているのに対し、隼はトップスピードよりも
格闘戦志向という差が出ていて面白い。

 カタログ性能上、隼は最大速度で零戦にやや
劣ることになっているが、この差は機体設計の
優劣というより、運用思想の違いに基づく
プロペラ選択の差にあった可能性が高い。

3.燃料

 オクタン価の高いガソリンは「ノッキング」現象を
起こしにくいため、同じエンジンでも高級燃料を
使用すれば、ブースト制限を緩和して大出力を
得られる。

 海軍では、零戦に「栄」を採用した当初から
使用燃料としてオクタン価91〜92のガソリン
(当時の基準では高級燃料)が指定されていた。
一方で陸軍は、当初「ハ25」の燃料としてオクタン価
87のガソリン(従来型)を指定しており、これに
伴ってブースト制限も離昇出力で海軍+250mm
に対し陸軍は+225mmまでと、やや低めの設定
になっている。

 この差が生まれたのは、海軍の方が燃料の
オクタン価に関する関心が高く、ハイオク燃料の
製造法に関して独自に研究を重ねていた結果、
この分野で陸軍に一歩先んじていたことが原因
らしい。

 さすがに陸軍も手をこまねいていたわけではなく、
隼の量産機が前線配備される昭和16年末から
順次91オクタン燃料に切り替えたようだが、
それ以前の試作機「キ43」は87オクタン燃料
で飛んでいたことになる。

 隼の初期型について最高速度データがパッと
しない原因の1つは、前述したプロペラ選択の
問題に加え、燃料の品質の問題もあったようだ。

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.23




荒木 肇
『ガトリング機関砲─陸軍の機関銃(2)──大正時代の陸軍(38)』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□ご挨拶

 関東では、梅雨の終わりに近い不安定な
天気が続きます。すでに九州などでは長かった
梅雨も明け、毎日好天が続いているようです。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
すでに3連休も終わって、学校でも夏休みが
始まっているのではありませんか。

 先日、この連載が仲間うちで話題になりました。
するとある友人が、ほらガトリング砲ってあった
じゃないかと言いだしました。アメリカの
南北戦争(1861〜65年)で使われ、戊辰戦争
でも長岡藩の河井継之助が武器商人スネル
から買った。それから官軍の軍艦に載せられ
ていて、宮古湾で接舷攻撃をしようとした
榎本軍の斬りこみ隊を撃退した手回しの機関砲。
それに映画『ラストサムライ』でも騎馬隊の突進を
防いでいた。明治陸軍にはあれはなかったの
かい?という質問でした。

 なるほど。するとそのあたりも説明があった方が
いいかなと思います。回り道のようですが、
大正時代を語るには明治の話が必要です。

▼幕末と明治初めのガトリング

 幕末の武器商人スネルによって、1867(慶応3)年
に横浜の商館に「360発元込め6つ穴のガトリング砲」
が3門仕入れられて1門1万2000両で売られたと
ある。このうち2門を越後長岡藩が買ったという。
これが裏付けられるのが『衝鉾隊戦史』で、慶應4年
5月16日、長岡城下神田口で使われたという記録で
ある。

 この戦史は幕府軍の洋式装備の衝鉾隊(しょうほう
たい)の活動を書いたもので、『幕末実戦記』に載って
いる。衝鉾隊は英国式の訓練を受けた幕府陸軍歩兵
将校、古屋佐久佐衛門(ふるや・さくざえもん)の
率いた脱走幕府歩兵隊だった。これが北海道へ向かう
途中に長岡藩に協力した戦闘を記録した物だ。
 
 ただし、どれほどの戦果を挙げたものかについては
記録がない。ただ、官軍側の思い出話に『焙烙(ほう
ろく)で豆を炒(い)るような音がした』という話がある。
「パンパンパン」という乾いた音が聞こえたらしい。
ただ、連発銃をたぶん知らなかったからだろう。
恐怖したとか、驚いたという記憶もないという。
 
 また、軍艦『甲鉄(こうてつ)』の後檣(こうしょう:
後部マスト)上部に1門が装備されていたと吉村昭
の書いた『幕府軍艦「回天」始末』に書いてある。
これがアメリカから軍艦ストーンウォール(これを甲鉄
と命名した)を徳川幕府が購入した時から装備されて
いたかどうかは分からない。
 
 これには別の説もあって、横浜で河井に買われた
2門の残り1門を薩摩藩が買ったともいう。
その1門を「甲鉄」に載せていたらしい。こうした説の
どちらが正しいかは分からない。さらに興味のある方
は軍事史の大家兵頭二十八氏の著作の多くを参照されたい。
 
 1876(明治9)年に陸軍は全国にあった兵器の実態
調査をする。この時に、たとえば小銃では「エンピール銃
(エンフィールド)4万5000挺あまり、シャスポー銃
およそ7700挺」などの記録がある。また、ここに
「ガットリング砲」が6門あったと記録に残っている。
翌年1月に西南戦争が起こり、その時に2門の
ガットリング砲が福岡に弾丸といっしょに送られたとも
あるが、実戦で使われた記録は見たことがない。

▼実戦で使われたガトリング

 戦史に詳しい人の間では有名だが、あまり知られて
いないのがロシアとトルコの間の戦争である。
1877(明治10)年から翌年にかけて、ロシアが
バルカン半島進出を目的にトルコにしかけた戦争
だった。この時、トルコはアメリカから大量の連発式
小銃を買い入れ、要塞と防禦用の陣地(野戦築城)
にこもり、防衛態勢をとった。

 ロシア軍は砲兵で対抗したが効果があまり得られず、
強力な銃剣突撃で乗り切った。これがロシア軍の銃剣
信仰の始まりだったという説もある。そうであると、
日露戦争のロシア軍の白兵重視はここからといえる
だろう。この戦争でロシア軍はガトリング砲を多く使った。

 また、ロシア・トルコ戦争ばかりではなく、この前後、
多くの戦争でガトリング砲が使われた。1879(明治12)年
の有名な硝石資源の獲得で争った南米のチリがペルー
とボリビアと戦った「太平洋戦争」でも、チリ陸軍が
ペルー陸軍にガトリング砲を使った。すると、ペルー海軍
はガトリング砲でチリ海軍の軍艦と交戦する。「偕行社
記事」によると、日本陸軍も1885(明治18)年に「口径
半インチ(12.7ミリ)の「カットリング砲」をアメリカから購入した。

 海軍もまた、1886(明治19)年にフランスから
「畝傍(うねび)」を買い入れたとき、この悲運の軍艦にも
ガトリング砲4門が搭載されていた。当時、発達していた
水雷艇への防禦用である。そして、水雷艇防禦用には
さらに4砲身25ミリ(1インチ)ノルデンフェルト機砲が
10門あったという。この4砲身というのが興味深い。
しかも「機砲」という表記である。

▼日清戦争とガトリング

 はっきりはしないが、西南戦争後も陸軍はガトリング砲を
買い足していったことは間違いがない。わたしも不勉強
だから、たぶん要塞防御用のものだろうと思っている。
それは1894(明治27)年に日清戦争を目前に、やはり
兵器の数量調査を陸軍がしている。その中に、「マキシーム
機関砲」とならんで「ガトリング機関砲」の数字が載っている
からだ。要塞地帯には合計258門も配備されている。
野戦部隊に支給されている記録はないし、軍隊の編制表
にも要塞部隊以外には記入されていない。

 同年8月に日清戦争が始まる。そこで第9旅団は
上陸直後に船橋里という地点で、清国軍のガトリング砲
2門に迎撃された。「日清戦争実記」によれば、当初、
驚いた日本兵はすぐに対応して不面目はなかったという。
とはいえ、自軍も要塞防衛用に装備していた連発兵器に
射すくめられるというのも、何やら日露戦争の南山戦を
思い起こされる。

 平壌を陥落させたときには清国軍の機関砲6門を
鹵獲した。また、金州城内では梱包されたままの16門
を捕獲したとある。これも『兵器廠保管参考兵器沿革書』
に「戦利兵器」という項目があって、そこに「米国製十連
十一粍七ガットリング被筒式機関砲」が2門あったことが
わかる。他に「米国製六連二十五粍ガットリング砲」や
同じく「十連二十五粍」があったり、「四連十一粍五ローウエル
機関砲砲身」などがあったりする。

 他にも「37ミリ保式回転砲」とか、「同47粍」や「ノルデン
フェルド25連砲」なども清国軍は使っており、雑多な兵器
の展覧会場のようなものだった。これでは統一装備を
推し進め、兵員の訓練や、戦術の統一性に務めてきた
「近代軍隊」の前ではひとたまりもなかったことがよく分かる。

「回転砲」という名前の由来だが、これは砲身が回転
するという意味で、映画で観たクランクを回すと砲身が
回転することからきたものだろう。

 次回は水雷艇防禦用の機関砲について調べてみよう。
旅順要塞では多くの艦載砲や機関砲が水兵といっしょに
揚陸された。その中に日本歩兵を苦しめた元は艦載用
の機関砲の記録が残っているのだ。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.23




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (3) ─ 潜水医学実験隊(その1) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。

現在発売中のジャパニズム19号に掲載されている拙記事
「尖閣を守れ!島しょ防衛に備える自衛隊(前編)」が
BLOGOSでもお読みいただけます。

http://blogos.com/article/89737/


■潜水医学実験隊(その1)

今年5月24日、海上自衛隊潜水医学実験隊の
訓練水槽で2尉が死亡、救出に向かった海曹長
も意識不明となり、6月19日に亡くなりました。

死因は調査中とのことですが、以前この部隊を
取材したことのある私にとって、この事故は
大きな衝撃でした。潜水医学実験隊の隊員たち
が水深約11mの水槽を自在に上下する姿は
まるで魚で、この人たちは水の中のほうが生き生きと
して見えると思ったのを、昨日のことのように覚えています。

亡くなった2尉が47歳というということは、あくまでも
推測ですが、優秀な潜水士であったゆえに海曹から
幹部への道が開けたのではと思います。

海曹長(おそらく先任伍長のはず)については
潜水医学実験隊を具現したような存在ですから、
その実力は言うまでもありません。実際、2尉は1996年、
海曹長は1984年に潜水士の資格を取得しています。

そんなベテランの潜水士をなぜ、日頃から行っていた
であろう作業(訓練に使うブイのロープを水槽の底に固定)
でふたりも失うことになったのか。事故の原因究明を待つととも
に、これを機に一般にあまり知られていない
潜水医学実験隊について、私の知る範囲でご紹介したい
と思います。


潜水医学実験隊は神奈川県横須賀市にあり、2013年1月、
横須賀病院教育部と共に神奈川県横須賀市田浦区に合同
で移転しました。

潜水艦や潜水業務の発展のための調査・研究、そして
飽和潜水要員や潜水医学の教育・訓練などを行う部隊
ですが、それだけでは漠然としていてよくわかりません。
そもそも飽和潜水というのも聞き慣れない言葉です。

けれどこの飽和潜水こそ、潜水医学実験隊を象徴する
ものであり、この部隊の凄味を見せつけられるもの。
そして、自衛隊にとっては必須の潜水方法でもあります。

通常、人間の体は大気圧(1気圧)で空気(環境ガスとも
言います)を呼吸しています。それが潜水することで加圧
されると、空気中に含まれている窒素などの不活性ガスが
呼吸を通じて体内組織に溶解していきます。そしてある深度
にそのまま滞在し続けると、それ以上は不活性ガスが
溶け込まない、つまり飽和状態となります。この状態を利用
して潜水するのが飽和潜水です。

通常、深く潜ろうとすればするほど、減圧に要する時間は
必然的に長くなります。たとえば水深90m(10気圧)で40分
作業をした場合、浮上には約6時間半もの時間をかけなくては
いけません。そうしなければ体内で溶けていた不活性ガス
が気化して気泡となり血管を閉塞、減圧症となる恐れがあります。


とはいえ、同じ場所に潜るたびにその何倍もの時間をかけて
減圧を行うとなると、潜水効率(海中で作業できる時間を
減圧時間も含めた全潜水時間で割った数値)が悪すぎて、
とても任務に実用的とはいえません。そこで登場するのが
飽和潜水です。

体がいったん飽和状態に達すれば、その後どれだけ
長時間海底に滞在しようと、体内に溶け込んでいる
不活性ガスの量がそれ以上増えることはないので、
減圧時間は変わりません。これが飽和潜水の最大の
利点です。より深い深度での潜水作業が長時間可能と
なるだけでなく、大気圧復帰の減圧が一度で済むので
通常の潜水より潜水効率もよくなります。

この長所を生かし、自衛隊では潜水艦救難、航空救難、
遺失物の観察撮影、捜索、揚収などで飽和潜水を活用
しています。

民間では海底油田の採掘などにこの潜水方法が用いら
れていますが、大がかりな装置や多数の人員を必要と
するため、かなり特殊で専門的なスタイルの潜水といえます。

では飽和潜水がどのように行われるのか、それは次週に。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.10




『楠木正成の統率力 【第10回】軍(いくさ)を心に懸ける』
          家村 和幸
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▽ ごあいさつ

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 第6回から4回にわたり、『太平記秘伝理尽鈔』の
巻第一から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、
それぞれの巻の作者について紹介してまいりました。
前回は、尊氏・直義一代の悪逆などが記された
二十二巻が消されたことについてでしたが、
今回は最後として、全四十巻となった経緯と、
この書が明国に渡ったことについてです。

(引用開始)

 また、和泉国の多武峰(たふのみね)において
書かれたものが十二巻あった。その作者は
六人である。

 教円上人、南都(奈良)の人である。

 義清法師、これは高徳入道のことである。

 寿栄法師、これは玄恵の弟子で、和泉国十市の
人である。

 北畠顕成、これは顕家の子で、二十六歳で
出家して、法号を行意と号した。歌道の達者である。

 証意法眼、これは興福寺の住僧である。

 そして、日野入道蓮秀である。

 このようにして、十一の巻から以後の虚実を
正し、次第を連ねて、虚を除き、実を加えたのであった。

 また、永徳壬戊、山名氏清が南方に出向いて
帰京した時、義用・義可(山名氏清の祐筆)等
に申しつけて、この書を記すること五巻であった。
こうして、全部で三十九巻となった。

 この後、この書を記す者はいなかった。
年を久しく経て、横川の僧天界坊能隣が、
これを改めて四十巻とした。

 また、応永の頃、唐船が来日した。唐の官人
である明尹(みんいん)が、この書を所望した。
将軍義持(室町幕府第四代将軍・足利義持)は、
諸山の僧に申しつけてこの書を清書して、
官人に渡したのであった。

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

 それでは、本題に入りましょう。


【第10回】軍(いくさ)を心に懸ける

(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


▽ ものの道理を知れば、恐れず驚かず

 『太平記』には、「千早城への攻撃軍は百万騎、
この大軍勢に恐れをなすこともなく、わずか千人
にも満たない軍勢で、誰かを頼りにしたり、何かを
期待することもなく、城中で辛抱強く防ぎ戦い
続ける楠木正成の心の中こそ、不敵というべき
ものである」と記されている。

 これについて解説すれば、およそ世の中に
道理というものなくして事をなすということは、
一切ありえないのである。智恵のある人はその
道理を知り、愚かな人はそれを知らないという
ことだけである。

 例えば、田楽・放下といった神業のような
曲芸にも、皆それぞれに道理がある。これを
知らない者は、不思議な思いを抱くけれども、
その道理を知っている田楽師は、不思議に
思うこともない。その田楽師に絵を画かせよう
としても、どうしてよくその業をなすことができる
だろうか。できはしない。それは絵画の道と
いうものを知らないからである。

 野狐が変身し、天狗が姿を消すといった類
にも皆、道理がある。人間はこれを知らずに
不思議な思いを抱くけれども、野狐は不思議
と思うことはない。天地の間には、道理がない
ことは、一切存在しないのである。

 そうであれば、物の意(こころ)を知らない
愚将は、かねてこのことを知らず、油断して
用意が無いことから、驚き騒いで亡びるもの
である。正成は、かねてこのことを知っていた
ので、城の用意をして、百万の敵を千騎の
味方にて戦おうと思い定めていたのであり、
それゆえ驚きも、恐れもしなかったのである。


▽ 千早籠城(ろうじょう)のめどを二年間とした正成

 楠木正成は、

 「この城において二年間は戦おう。そうすれば、
そのうちに高時(鎌倉幕府の執権・北条高時)
に背く者はいくらでも出て来るだろう」

 と考えていた。それは、高時の「不義」を知って
いたからである。天下の人々が、等しく恨みを
抱いているのを知っていたのである。恨みを
抱いている者は、高時の威厳を恐れて表向き
は背かなかった。そうであればこそ、楠木は

 「高時に背いて城に籠(こも)り、二年の春秋
を送るならば、高時は数度の戦いで利を失う
に違いない。利を失えば、高時の威厳は
弱まるだろう。威厳が弱くなれば、天下にも
彼に背いて味方に与するような士が多くなる
であろう。その時こそ、高時は亡ぶことになる」

 と未来を予測していた。楠木の智恵こそが
最も賢かったので、数万の軍勢で攻めて来ても、
全く驚くことも無かった。

それに対して、多くの場合、大将が愚かであるため、
良好な城に籠りながら、敵が大勢であるのを見て、
どうしてよいかわからなくなる。これは、智恵が
無く、勇気も無いからである。将から兵に至るまで
知っておくべきことである。

さらに、その将が常日頃から愚かであって、
軍(いくさ)に心を懸けず、いたずらに遊んで
ばかりして暮らし、兵に対する情けが無く、
強欲にして下々の民を貪(むさぼ)るようであれば、
大敵が寄せ来る時には、どうして郎従たちが
命を捨てて防ごうとするであろうか。

(※筆者注:実際の千早城での籠城期間は半年ほどであった)


▽ 軍を心に懸ける

 そうであればこそ、正成は次のように云うのである。

 「およそ、将は常日頃から軍(いくさ)を心に
懸けておかねばならない。軍を心に懸けるという
ことは、具体的に多くのことがある。

 第一には、軍書から学べ。

 軍書を知って、その著者や登場人物の手立て
(作戦)が現在でも相応するか、不相応であるか
を知れ。

 第二には、常に郎従に軍(戦いの仕方)を習わせよ。

 軍を習わせるというのは、常に軍について
説いて聞かせよ。また、鹿狩りや鷹狩りなどに
出て、笠じるし(指揮官である事を示す小旗の類)
を持って下知(命令)して、軽快に随わせよ。
時には、軍法を発出して随う者があれば賞し、
随わない者があれば軽い罰を与えよ。罰は
少なく行い、賞は大いに与えるようにせよ。

 第三には、下の者への態度である。

 郎従を見るのに、他人と思ってはならない。
法に背く者があれば、睨みつけてこれを驚かせよ。
租税の取り立てを少なくして、下民が貧しいよう
であればこれを患(うれ)いよ。口に出したこと
は必ず実行せよ。実行しなければ、郎従は
その下知することを聞かなくなる。

 第四には、歩行訓練である。

 将は常に山や谷を歩行して郎従にも歩行
をさせるようにせよ。遠路を行くにも乗馬を
好むな。およそ兵士が、山谷、遠路を歩行
するのに早く疲れてしまうようでは、戦場に
おいて不覚があるものだ。馬の足だけを
頼みにして歩行を嗜まないのは、軍事を
怠っている兵なのだということを知れ。


▽ 戦場での忠節心と規律心

 第五には、軍忠の道(戦場での忠節心と規律心)を養え。

 敵を討つことだけを思って、将の下知に
従わないのは不忠である。これを罰するには、
罪を重くせよ。
 敵国に入って財宝に目を懸けることは、大い
に無道である。諸兵がこのようになれば、
その軍は敗れる。
 兵たちに向かって、味方が凶であることを
説いてはならない。敵の優れている面を
語ってはならない。
 諸兵の中にいて、隠しごとがあるかのように
私語して(ささやいて)はならない。
 同輩の悪いことを説いてはならない。
 将の下知が無いのに進んではならない。
 進むのに軽く、退くのに軽快であれ。
 敵の襲撃に驚いてはならない。
 敵が引くのは、策略かもしれないので、
乗せられてはならない。
 これらの事を常に嗜(たしな)むようにさせる
ことで、軍忠の道を習わせるのである。」

 と舎弟の七郎(正季)に教えたのである。


▽ 尽度廻り(じんどまわり)

 こうしたことから、楠木は赤坂城に居た時、
「尽度廻り」と名付けて、夜ごとに城の四方、
一周五町(約五五〇メートル)余方を走らせて、
辻々に番を置いて、息をも継がせず、十周
あるいは十五周、二〇周など、兵の身分に
応じて走らせた。これで勝負をさせ、また一回り
を左右に分けて走らせ、何間何尺の遅いか
速いかを争わせた。下は十一、二歳から、
老いたるも若きも皆、このようにさせた。

 正成も時々は一緒に走ったりした。冬の寒い日
には、なお正成も積極的に参加したのである。
もちろん、夏の夜は、いうまでもない。

 このようにして、人よりすぐれて早く走るか、
または何度も勝った者には、それに相応(ふさわ)しい
賞品を与えたりした。上級者が好むことは、
下級者もなすものであるから、家中の郎従も
皆、好んでこの業をなしたのである。

 これは皆、武を習わせるための道である。

(「軍(いくさ)を心に懸ける」終り)


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.25




新)『陸軍機 VS 海軍機 』 清水 政彦
 【第1回】 陸海軍機はなぜ統一できなかったのか?
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$(lastName)さま

はじめまして。清水です。

 この連載は、ふだんあまり注目されることのない
陸軍機について、海軍機との比較という観点から
再評価を試みるという企画です。

 機体や装備の比較のみならず、編成や戦術と
いったソフト面にもスポットを当てながら、当時の
「陸軍機」がどのような存在であり、またどのように
戦ったのかを、なるべく現代風の言葉で描いて
いきたいと思います。

 その導入として、「そもそも陸軍機と海軍機は
どう違うの?」という基本的な点について述べます。

 なお、みなさまのご感想、ご質問などお待ちして
います。みなさまのご意見を参考にしながら、
このメルマガを続けて行きたいと思います。


【第1回】 陸海軍機はなぜ統一できなかったのか?


▼似て非なる陸軍機と海軍機

 第2次大戦期の日本には「空軍」が存在せず、
陸軍と海軍が別々にほぼ同規模の航空隊を
保有していた。ゆえに、同じ時期に、よく似た
飛行機が陸軍と海軍で別々に作られている。

 零戦と一式戦「隼」、99式艦爆と99式襲撃機、
一式陸攻と100式重爆、「月光」と二式複戦「屠龍」、
「雷電」と二式戦「鍾馗」などなど……。

 陸軍機の影が薄いためか、「別々に作る必要
があったのか?」とか「零戦があれば隼はいらなかった」
とか言われることもある。しかし、もともと陸軍機と
海軍機は似て非なるもの。

 両者はそもそも運用目的が異なるので、
一見同じように見えても実は同じではない。
設計思想の差が、構造や機能の微妙な差になって表れている。

▼短距離発着性能が必須の海軍機

 海軍航空戦力の中心は「艦上機」、つまり航空母艦
から運用される機体である。艦上機の場合、空母への
発着艦に要する短距離発着性能が採用の絶対条件となる。

 着艦に際しては、機体後部からフックをおろし、
これを艦上に張られたアレスティング・ワイヤ(着艦拘束索)
に引っかけて機体を強制停止させる。確実にワイヤを
掴まないと即事故につながるため、アプローチの最終段階
で十分に減速、機首をぐっと持ち上げて失速に近い状態とし、
機首上げの姿勢を保ったまま尾部を甲板に叩きつけるように
降着する……という少々無理のある操作(いわゆる海軍式
の三点着陸)を行なう必要がある。

 着艦の最終段階で機首上げ姿勢をとるため、
パイロットの目線は空に向いてしまい、空母の甲板は
エンジンに隠れて見えなくなる。この「目隠し飛行」の
距離を少しでも短くし、安全な着艦を実現するためには、
広い下方視界の確保、十分に低い失速限界速度、
低速域での安定性と良好な操舵性が要求される。

 このような要求の帰結として、艦上機は上方に高く
突き出した操縦席と大きな天蓋(てんがい)、大翼面積、
頑丈な足回りといった特徴を持つようになるが、
これらは高速性とは相反する要素になる。

さらに、艦上機にせよ陸攻(陸上基地から運用される
攻撃機)にせよ、出撃して向かう目標は海上である。
洋上飛行に必要な長い航続距離(大きな燃料タンク)
も妥協できない要素だし、海上不時着への備えも
必要になってくる。いずれも重量増加要因であり、
海軍機はその特性上、性能面では大きなハンディを
背負っている。

 一方で、海軍機には楽な面もある。艦隊戦はせいぜい
数カ月に1回(のべ日数で数日間)しか生起せず、
1日の出撃回数は多くても2〜3回なので、必ずしも
多数回の反復出撃を想定する必要がない。海の戦いは、
大規模な戦闘の間には長いインターバルがあるのが
普通なので、最悪、被弾した機体は海に捨ててしまっても、
次の決戦までにゆっくり機材を補充すればよい……と
いう考え方もあり得る。

▼反復出撃が求められる陸軍機

 一方、陸軍機は基本的に整備された長い滑走路から
運用される。仮に出撃拠点まで戻れなくても、いざと
なれば草原や道路、不時着用の簡易飛行場に着陸
することも可能だ。

 海軍機と比較すると、短距離発着性能や航続距離の
要求は絶対的なものではないから、純粋に機体の性能
を追求する設計が可能である。この点は海軍機より
恵まれているといえるが、陸には陸なりの難しさもある。

 陸軍機の任務は主に地上戦の支援および拠点防衛
であり、その前提として敵飛行場の制圧と制空を連日
連夜行なうことが想定されている。海の戦いと違って、
陸戦は何カ月もの間、しかも至近距離で延々と続くからだ。

 空中戦を主任務とする戦闘機であっても、対地戦闘は
避けて通れない重要な要素である。しかも、陸戦支援や
飛行場の制圧には反復出撃が必須になる。

 パイロットがいかに優秀でも、機体がどんなに高性能でも、
地上部隊が撃ち上げてくる対空砲火の弾幕を避けることは
できない。敵の戦闘機と遭遇した場合、危険はいっそう高まる。
ある程度の被弾に堪えて戦闘を継続し得るタフネスさがないと、
連日連夜の反復出撃を繰り返していたら、あっという間に
戦力を消耗し、翌日の戦いに支障が出てしまうだろう。

 したがって、陸軍機の場合、運用上の便宜や兵器・燃料
の搭載量を多少犠牲にしてでも、高い空中性能と打たれ強さ
を両立する方向を目指すことになる。

▼陸海軍での機種の統一は現実的でなかった

 上記のとおり、陸軍機と海軍機は、活躍する戦場の様相や
置かれた環境がまったく異なる。地域や時代によって濃淡は
あるにせよ、陸軍機と海軍機は、それぞれ異なる運用思想
に基づいて開発・設計され、異なる戦場に適応して改良されて
いくから、一方が他方を完全に代替することはできないのが
普通である。

 しかも、第2次大戦期(1940年前後)は、航空技術が異常な
ほどのスピードで発達した時代である。毎年のように新型機が
開発され、つい去年採用されたばかりの新鋭機が今年には
もう古びて見える。このような状況において、海軍の新型機(零戦)
に期待して陸軍が主力戦闘機(隼)の開発を見送るというのは、
面子(メンツ)の問題を無視したとしてもリスクが高すぎる。

 技術が劇的に進歩している当時の状況では、陸海軍が互いに
他方の新型機の開発完了を待っている時間的余裕はないし、
要求仕様のすり合わせも不可能だろう。

 そもそも、期待した新型機の開発が予定どおり進捗する保証
はない。むしろ、予定より遅延ないし失敗することの方が多いから、
「機種を一本化した挙句、大失敗で陸海軍共倒れ」という悪夢
を避けるためには、別々に開発するほかない。

 また、飛行機を量産する際のボトルネックは主にエンジンの
供給にあって、その気になれば機体の大増産は可能である。
飛行機の心臓部であるエンジンとプロペラは陸海軍で同型の
ものを採用していたのだから、戦略的に見ても、さまざまな不利益
を忍んで機体だけを共有する意味はなかったと思われる。

 さらに、日本陸軍の特殊性として、もっぱら満州での対ソ戦を
想定している関係上、制式兵器は冬季の極寒(マイナス30度)
に耐えることが必須条件とされており、日本本土や小笠原・マリアナ
諸島方面での運用を想定している海軍と機材を共有するには無理があった。

 結局、運用思想が異なる以上、陸海軍の軍用機が別々に開発
されるのは仕方のないことで、これは現代でも同じこと。たとえば、
現代における最強のマルチロール機となる予定であるF-35も、
空軍型と海軍型は別々に開発されている。

 よく言われる「陸海軍での機種の統一」は、戦後の評論家による
机上の議論というべきで、あまり現実的でないと思う。

 もっとも、世界で日本海軍だけが保有していた「局地戦闘機」と
いう機種に関しては、どこまで独自開発の必要性があったかは
疑問なしとしないところで、この部分だけは共有化の余地があった
のかもしれない。


(しみず・まさひこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.9




荒木 肇
『口径7.7ミリの歩兵銃へ・第一次世界大戦から学んだこと(7)──大正時代の陸軍(36)』
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□ご挨拶

 6日の日曜日、陸上自衛隊富士学校の
創立記念式典に参加してきました。
天気は降りそうでとうとう降らず、落ち着いた
いい式典になりました。

 きちんと整列した部隊、ぴしっと停められた
各種車輛、富士学校音楽隊の引き締まった演奏。
まことに精鋭ぶりを堪能させていただきました。

 ただ、一つ苦言を言わせていただければ、
いつもの通り国会議員の先生方のご挨拶です。
長い、くり返しが多い、国際情勢の解説もくどい。
整列した隊員の方はきちんと姿勢を崩さず
聞いていますが、国際政治の話や高尚な
お話はぜひ、国会でやっていただきたいものです。
しっかりやれ!も激励の代表的なものですが、
どういう環境づくりをご自分がしておられるかの
話がありません。

 訓練展示は工夫されていました。
90式に掩護された10式戦車が発砲し、後退し、
大型火砲はその後方から掩護射撃をくり返す。
見事な訓練ぶりでした。観客も1万4000人という
発表です。昨年より2000人も増えたと聞きました。
関心が高まっているのでしょう。


▼銃砲に関する研究方針

 技術本部の担任する兵器、器材の全部について
の方針が書かれている。
 歩兵兵器では、「速やかに研究・整備する兵器」として、
(1)口径7.7ミリの歩兵銃
(2)機関銃 当分三年式機関銃であるが口径の変更、三脚架の改正
(3)軽機関銃 口径は歩兵銃改正にともなって7.7ミリ化する
(4)歩兵砲 37ミリ砲は既製品の2種と曲射歩兵砲
(5)手榴弾 曳火手榴弾を研究
(6)銃榴弾 歩兵銃で発射できるもの
(7)特 種 防盾、装甲鈑を射貫できる銃弾
 これらについて、少し解説をしてみよう。

▼銃の7.7ミリ化

 すでに世界中の陸軍の主流は7.7ミリになっていた。
38年式の小口径では威力が不足していると思われた
のだ。6.5ミリで撃たれた敵は数カ月で戦線に復帰
してくるくらい負傷が軽い。7.7ミリは傷の治癒率も
低く、もちろん死亡率も高くなっている。

 もともと日露戦争に向かって大英断で採用した
三十年式の6.5ミリ弾はたいへんな傑作だった。
まず、弾道の低伸性が高い。つまり沈みこんだり、
高くあがってから降下したりという率が低かった。
戦史を検討する上で、あまり重視する人がいない
のがこの小銃の性能の優劣である。

 いわゆる狙撃兵のような才能ある射手はきわめて
少ない。ほとんどの兵士は射撃が下手である。
たしかに訓練で技能を向上させることはある程度
はできるが、実際の戦場で射撃戦の優劣を決める
のは両軍の大多数の兵士の平均的技量でしかない。
それがまた100万を動員するような大陸軍の実態
の一つである。中隊規模の有効な小銃射撃とは、
指揮官の適切な射撃距離の命令が大前提になる。
また、兵卒たちに勝手に撃たせない、つまり「射撃統制」
の問題が大きい。日露戦争ばかりではなく、のちの
戦争でも敵側から見ればいつも日本軍の統制は優れていた。

 当時の小銃が有効になる距離はおおよそ400メートル
くらいだった。それより遠くではとても肉眼で敵兵を
見分けることも難しい。集団でいるならともかく、
一人ひとりが散開していたらとてもじっくり狙える対象
ではない。500メートルでは日本陸軍の6.5ミリ
小銃弾の威力、すなわち最高弾道点が1.2メートル
という優越性が大きく現れるのだ。ロシア兵がもって
いた1891年式モシン・ナガン3リーニア(7.62ミリ)
歩兵銃の最高弾道点は2メートルだった。
このことは我が歩兵は500メートルに照尺を固定し、
とにかく敵兵の足元をねらって撃てば、弾丸は必ず
敵兵の体のどこかに当たることを意味する。
対してロシア兵の撃った弾丸は日本兵の頭上をこえていく。

▼省資源の6.5ミリ実包

 また、日本陸軍は日露戦争のすべてを通じておよそ
1億発の小銃弾を撃った。このときに、貴重な海外
からの輸入資源である「薬莢の真鍮」、「弾頭の鉛」
の小型化による製造経費の少なさはどれほど評価
してもし過ぎるということはない。

 日本の6.5ミリ銃弾は軽かった。体格的に劣る
日本歩兵の携行弾数がロシア兵と劣らなかった理由は、
ここにある。軍隊経験のない人、あるいは人間に
無関心な人の陥りやすい誤解は多いが、代表的
なものは装備の重さである。何より歩兵は行軍し、
弾丸、銃剣その他の装備を身につけ、重さ4キロ
グラムの歩兵銃をいつも身から離さないことの辛さである。

 歩兵の携行する弾丸は前盒(ぜんごう)2個に
各30発と後盒に60発の合計120発。それに背嚢の
中に30発ないしは60発、師団弾薬大隊縦列に
一銃あたり90発で合計330発から360発である。
このほかに師団野戦兵器廠には150発、軍弾薬廠に
300発の合計450発の予備弾薬を用意していた。
こうした膨大な所要数を生産し、梱包し、前線に送り続ける。
そのときに弾丸重量のわずかな違いでも全体では
大きな差になってくる。

 30年式実包と38年式実包は違いがある。
ここでは大正陸軍が使っていた38年式実包の
データを書こう。口径は同じ6.5ミリだが、30年式の
弾頭は丸い。38年式は尖頭弾である。重さは21.2グラム。
そのうち弾丸重量は9グラムだった。21.2グラム×30発は
それだけで600グラムをこえる。それに挿弾子(そうだんし)
といわれたクリップが5個加わる。

 紙箱に入った3クリップ(15発)がひとまとめに運ばれるが、
その重量は356グラムだったそうだ。紙の重量を無視
しても30発で712グラム。厚い革でできた前盒2個と
後盒1個の合計3個を実包とともに帯革(たいかく・革製ベルト)
で腰に回すが、その総重量は2.8キログラムにもなった。
ちなみにのちの7.7ミリ実包の場合、およそ600グラムも
増えた。行軍時の疲労のもとは弾薬盒と実包だったとも
いわれるほどである。

【余計な話だが、さらに歩兵が携行する小銃関連の
装備としては、「携帯予備品嚢(けいたいよびひんのう)」
があった。日常的な手入れ用具の他にである。
その袋の中には撃茎(げきけい:弾薬の雷管を撃発して
発火させる尖端の撃針が破損しやすい)、撃茎発条
(撃鉄を引くと解除された弾発力で撃茎を前方に押し出す、
これは金属疲労で折れやすい)、撃茎駐螺(ちゅうら:撃鉄
に加えられた力を撃茎に連接する)、同発条(撃鉄を
引いた後に復元する)、蹴子(しゅうし:空薬莢をはじき出す)、
抽筒子(ちゅうとうし:空薬莢を薬室からひき出す)、
弾倉発条(弾倉にあり弾丸を下から押し出すバネ)が
入っていた。これらは専門の銃工卒に任せたり、
後方の兵站に戻したりするのではなく、兵卒が自分で
交換するべき部品だったからである。】

▼歩兵銃と騎兵銃

 なおついでに歩兵銃と騎兵銃の違いについても
書いておこう。騎兵銃とはカービンのことをいう。
馬上で使いやすいように歩兵銃の銃身を短くしたものだ。
38年式にも歩兵銃と騎兵銃タイプがあった。
本来は騎銃(きじゅう)と言うべきだが、「機銃」と
紛らわしいために、わざわざ騎「兵」銃といったものだろう。
だが実態は騎兵だけではなく、砲兵の自衛用や馬上で
戦う輜重兵の装備品でもあった。のちの99式小銃は
騎兵銃タイプが造られず、歩兵銃だけであったが、
銃身が短くなったので乗馬兵にも使用させよう、
そういうことから「小銃」という。

 陸軍は昭和14(1939)年にようやく小銃の
増口径化をなしとげた。その年が皇紀2599年だった
ために99式と名づけられた。列国と同じく、7.7ミリ
の小銃弾を使うようになった。軽機関銃も有名な99式
軽機関銃になった。この時代の前、大正末期から
日本陸軍も自動装填式小銃に関心をもっていた。

 それでも小銃の口径を増やすことだけで20年近く
がかかっている。それをまた陸軍の近代化への怠慢
のように言う人もいる。けれども、ぼう大な装備体系
の中でそれをすることは、生産設備ばかりか、教育、
輸送、補充、戦闘様式、兵站システムの中での
位置づけ、もろもろの改革が必要になってくる。
人口の少ない小国家の陸軍ならばできることと、
大陸軍のそれとは異なることにもっと理解があっていい。

▼11年式軽機関銃

 実用試験の結果、制定されたのが「11年式軽機関銃」
という珍しい装弾システムをもった機関銃である。
もともと10人前後の分隊に配備されて、支援火力の
中心になるのが軽機関銃である。日露戦争の時にも、
わが国も発注したが、ロシア軍が先に手に入れたのが
デンマークで開発されたレクセル軽機である。

 重機関銃がその重さで反動を吸収して集弾率を上げた
のに対して、1人で持ち運びができて、せいぜい弾薬手と
2人で操作できるのが軽機関銃。連続射撃をするより、
むしろ3発とか4発とかを連続で撃てる。突撃の掩護射撃
をするための機関銃だった。だから、どこの国でも箱弾倉
といわれるタイプの弾倉をもち、それを交換する。
弾倉の容量も、だいたい20発から30発がふつうである。

 注目すべきは日本陸軍がベルサイユ条約からわずか
3年後には、分隊火器である軽機関銃を制式化している
ことだ。英国陸軍がブレン軽機関銃を採用したのははるか
に時代が下って1938(昭和13)年である。
もちろん、世界大戦の頃から大きなルイス軽機関銃は
装備していたが、11年式軽機関銃のような軽快さは
世界的にも早い方である。

 どこの国の兵士でも実戦で敵に弾丸を当てることなど
なかなかできない。日露戦争でも多くの兵士が「薙刀かぶり」
で、ろくに狙いも付けずに顔を伏せたまま敵の頭上に
弾丸をばらまいていたことは前に書いた。単発の射撃では
弾丸を当てることはなかなかできない。逆に連射される
弾丸は、撃たれる側にとってはいへんよくあたる気もする。
しかも軽機関銃は2脚がついていた。小銃射撃をすれば
すぐに分かるが、手で保持した銃は不安定である。
これに対して脚で安定させられた機関銃は集弾率がたいへん高い。

 この11年式軽機関銃については様々な評価があるが、
それらや歩兵砲についてを次回にお話ししよう。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.9




陸軍機 vs 海軍機(4)       清水政彦

「零戦と隼(3)」
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□はじめに


こんにちは。清水です。

「零戦と隼」の第3回目で、両機の機体構造と
操縦系統について見ていきます。


1.機体構造

▼主翼の構造──軽量化された隼

 零戦の主翼は重厚な二本の桁が中央から
翼端までほぼ平行に伸びているが、この構造は
「96艦戦」から引き継がれたもの。零戦の場合、
計画の当初から主翼に20ミリ機関砲を搭載する
前提であるため、骨組みはかなり頑丈に作られている。

 一方、隼は零戦より一本多い三本桁構造だが、
それぞれの桁は華奢にできている。これも先代の
「97戦」から引き継いだものだが、隼の場合、
主翼への武装は行なわない前提で設計されて
いるので、軽量化を優先して細身の構造が
維持された。

 その結果、両機はほぼ同じ大きさにもかかわらず、
自重では零戦21型の1,745kgに対して隼1型は
1,580kgと、差し引き150kg以上も軽い。自重のうち、
700〜800kgはエンジンとプロペラおよびその周辺
の動力艤装だから、純粋な機体重量だけ見れば
零戦は約1トン。隼の機体はこれより10%以上も
軽いことになる。

 主翼の平面型をみると、零戦は単純な「テーパー翼」
で、主翼の幅が先端に行くほど直線的に絞り込まれて
いく。主翼前縁と後縁の両方にテーパーがついている
零戦に対し、隼のテーパーは後縁のみで、主翼前縁部
は左右の翼が一直線をなしている。このため、隼の桁は
翼端に行くにつれて前進する。三桁構造である関係上、
前桁と主翼前縁の間隔が狭いため、主脚の車輪を
収容する部分が主翼前縁からはみ出してしまった。

 隼の主翼付け根には車輪を収容するための大きな
「こぶ」があり、これが隼を零戦と識別する際の最も
分かりやすい特徴の一つとなっている。

 翼端は零戦、隼ともにいわゆる「捻(ひね)り下げ」
のデザインになっており、翼端に向かうにつれて翼の
迎角が小さくなる。これは翼端部から気流が剥離して
失速する現象(翼端失速)を起こしにくくする工夫だが、
すでに「96艦戦」「97戦」で取り入れられていたもので、
とくに新機軸というわけではない。

▼高揚力装置──より先進的な隼のフラップ

 高揚力装置とは、主翼の一部を変形させることに
よって失速を遅らせ、降着速度を低くする(離着陸
を安全にする)ための装置である。

 代表的な高揚力装置としては、主翼前縁を変形
させる「スラット」と主翼後縁に展開する「フラップ」
(下げ翼)があるが、この時代にスラットを装備した
戦闘機は珍しく(メッサーシュミットBf109くらいか)、
零戦と隼にはフラップだけが装備されていた。

 零戦のフラップは単純な「スプリット・フラップ」で、
主翼後縁の下面がパカッと割れて下に垂れ下がる
だけの原始的なもの。構造も華奢で空戦中に
展開することはできない。

 隼に付いているのは「ファウラー・フラップ」と
呼ばれるタイプで、主翼後縁からフラップが後方に
せり出してきて、主翼との間にわずかな隙間を
空けて並ぶように展開する。簡単に言えば、
主翼の後方にもう一枚翼が出てくるイメージ。
現代の旅客機についている間隙フラップの先祖で、
技術的にはこちらの方が先進的といえる。
また、隼のフラップは、空戦中にも展開できるよう
にしっかりした構造になっており、戦闘中に
ワンタッチで展開操作が行なえるように操縦桿
の先端にフラップ展開ボタンがあった。

 もっとも、対米戦が開始されて以降は、空中戦
の高速化に伴いフラップが必要になるような低速
旋回はほとんど行なわれなくなったため、空戦中
にフラップを展開する機会はほぼなかったと
言われている

▼胴体──機体表面積を小さくした隼

 機首から尾部にかけて微妙な曲線を描いて
細くなっていく零戦に対し、隼はエンジンの直後
から直線的にぐっと絞り込まれており、全体的に
隼の方が細身の印象。

 とくに上から見た断面では、隼の胴体の方が
ずっと細く、機体表面積を小さくして軽量化と
抵抗の減少を図った設計がよく分かる。また、
隼の設計にあたっては量産性も考慮されたと
いわれており、デザインも零戦と比べて直線部分
が多い。それが機体の外形に一番分かりやすく
表れているのが胴体部分だろう。

 三菱の場合、表面積の減少よりも滑らかな
曲線による整流効果によって抵抗減少を狙う
傾向があり、これは零戦に限らず「一式陸攻」や
「雷電」など同時期の三菱機に共通している。


2.操舵系統の設計

▼昇降舵──零戦特有の「剛性低下方式」

 零戦は、昇降舵(エレベータ:機体の上下角
を制御する舵)と操縦桿をつなぐ操縦索(ワイヤ)
が意図的に細くされており、高速飛行時に舵が
重くなるとワイヤが伸びて自動的に操作を
キャンセルするように作られている。これは
「剛性低下方式」と呼ばれ、零戦特有の設計
としてよく取り上げられている。

 低速な複葉機に慣れたパイロットは、操縦桿
を力任せにグイグイ引っ張る傾向があり、急に
高速機に乗り換えると無理な操作によって事故
を起こしがちだった。とくに高速で降下中に
操縦桿を強く引くと昇降舵が効きすぎ、急激な
機首上げに伴う加速度によってパイロットが
失神してしまう。

 このため高速域での昇降舵の操作は繊細に
行なう必要があるのだが、零戦では「剛性低下
方式」のおかげで多少乱暴に操縦桿を引いても
機首がゆっくり持ち上がるため事故が起きにくく
なり、操縦感覚もつかみやすくなった。これは
未熟なパイロットを育成するうえでは便利な
工夫だったはずだが、隼をはじめとする陸軍機
には導入されていない。

▼補助翼──人力操舵の限界

 零戦と隼には高速域で補助翼(エルロン:機体を
左右にロールさせる舵)が重くなりすぎ、動かなく
なるという共通の弱点があった。しばしば、
これは前述した「剛性低下方式」の副作用だと
解説されることがあるが誤りである。

 零戦・隼のエルロン操舵系統はワイヤでは
なく金属棒の組み合わせでできており、
「剛性低下方式」は導入されていない。

 程度の差こそあれ、この問題は1940年前後
の戦闘機が必ず通る道で、スピットファイアや
Bf109、F6Fなども同じ問題(概ね計器速度
300ノット超でエルロンが非常に重くなる)を
抱えていた。これは機体の欠陥というよりも、
人力操舵の限界の問題というべきだろう。

 通常、操縦桿はパイロットの膝との干渉を
避けるため座席からやや離れた位置にあり、
横に倒そうとすると腕が伸びきってしまう。
また、飛行中は腰をベルトで座席に固定され、
両足は方向舵ペダル上にあるため下半身の
力はまったく使えない。したがって、操縦桿を
横に倒す動作は人間工学的に力が入りにくく、
エルロンは航空機の三舵の中で真っ先に人力
操舵の限界にぶち当たることになる。

▼高速域で操縦桿が重くなる零戦と隼

 本当の問題は、零戦と隼に関しては他国
の機体に比べてもとくにエルロンが重く、
かつ最後まで根本的な対策がなされなかった
ことである。

 なぜ零戦と隼のエルロンが重いのか?
という問題を考える際には、以下のデータが
参考になるだろう。

 零戦52型のエルロンの幅は約2.9m、
面積は約0.72平方メートル(平衡部を含まない
有効面積)、作動角度は50度。21型はこれより
舵面が10%ほど大きく、幅も長い。

 隼のエルロンは零戦52型とほぼ同じサイズで、
作動角度は45度。

 これに対し、F4Fのエルロン幅は約1.5mで
面積0.6平方メートル、作動角は34度。

 P-40はエルロン幅2.1m、面積0.85平方
メートルで作動角は30度。P-51のエルロンは
P-40とほぼ同じサイズだが作動角が22〜25度
(零戦の半分以下)しかなく、大型のバランス・タブ
(操舵力を軽減する装置)が付いている。

 上記を見れば明らかなとおり、米軍機の
エルロンはいずれも横幅が短く、作動角も小さい。
つまり、操舵系統の梃子を大きくとり、縦長な
エルロンを小さく動かす設計になっている。

 一方で零戦と隼は、横に細長いエルロンを大きく
動かす(抵抗が大きく梃子が小さい)という、低速域
での繊細な舵効きを追求した設計であることが分かる。
これでは高速域で操縦桿が重くなるのは当然で、
その結果に何の不思議もないだろう。

 欧米機の中では「スピットファイア」のエルロンが
日本機に近い。同機のエルロン作動角は44度あり
舵面積も零戦・隼と大差ないため、高速域での
エルロンの重さに泣かされている。

 エルロンの重さとの間に直接的関係があるのか
否かは不明だが、「スピットファイア」の操縦桿は
先端が輪形のハンドルになっていて、左右に動く
のは上部のハンドル部分だけである。ハンドルは
パイロットの体の近くにあり、上体の力を利用して
両手で捻るように操作することが可能。全体を
根元から横に倒す方式の操縦桿より、この方が
左右の操舵の際に力が入りやすくなる。

 このほか、「スピットファイア」は操舵力軽減の
ために途中からエルロンをジュラルミン張りに
変更している(初期型では羽布張りだった)。

 零戦の場合、大きなエルロンを持つ21型には
操舵力軽減のためのバランス・タブが付いていたが、
主要生産タイプである52型ではエルロン面積を
縮小した代わりにバランス・タブを廃止してしまった。

 また、隼は零戦の初期型と比べてエルロン面積、
作動角ともに控えめだったせいか、補助翼の
重さについて現場から厳しいクレームはなかった
ようで、当初からバランス・タブを導入していない。

 一般に日本機では、エルロンの重さ(ロール機動
の容易性)についてパイロットも技術者も関心
が低かったようである。これは、低速域での格闘戦
を主体とする戦術からの脱却が遅れ、高速域での
ロール性能が相対的に重視されなかった結果だと
思われる。

(以下次号)


(しみず・まさひこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.30




荒木 肇
『ホッチキス機関砲─陸軍の機関銃(3)──大正時代の陸軍(39)
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□ご挨拶

 あれれと思う間に梅雨明けになりました。
暑いですね。関東は厳しい暑さになりました。
だんだん歳をとってくると感覚が鈍くなるという
テレビ番組を見て、これは注意しなければと
思いました。エアコンをミエも外聞もなくつけて
おります。それにしてもこれだけ電力を
使って大丈夫でしょうか? 世の中には
原子力発電反対と言われる方もおられますが、
こういう暮らしをし続けていて、原発に頼ら
なくてもいいのでしょうか。
 国際収支のこともあり、火力発電は
二酸化炭素をいっぱい出すし、考えなくて
はならないことがたくさんあります。

▼水雷艇の始まり

 水雷、中でも「魚形水雷」は、いまでも魚雷
という名前で残っている。もともと、木骨木皮
でできていた帆走軍艦の時代には、艦載の
大型砲で撃ち合うことが主流だった。
敵の帆柱や帆を倒したり、破ったりして行動の
自由を奪い、いざとなったら接舷して白兵戦
で決着をつける。こういった戦いがふつう
だったから相手を沈めることは滅多にしなかった。
というよりも木製軍艦は沈みにくかったのだ。
また、捕獲すれば修理をした後で、自分たち
の戦力にできた。

 だから甲板上にいる敵の砲員や操帆要員
を小銃の狙撃や、回転砲(小型で散弾を撃つ)
などで掃射する。甲板を制圧しつつ、上甲板
への出入口を封鎖してしまう。その上で内部
の乗員に降伏を勧告するといった行動が多かった。
戊辰戦争の中で起きた「宮古湾海戦」も
そうした行動を旧幕府軍艦「回天」が企画
したものだった。新政府海軍の「甲鉄艦」を
アボルタージュ(接舷攻撃)で奪おうとしたもの
である。しかし、攻撃は失敗。直接の原因は
斬り込み要員がガトリング機関砲の速射で
倒されたためという説がある。また、回天艦長
甲賀源吾は速射砲弾を頭部に受けて戦死した。
士官クラスで機関砲による戦死者第一号である。

 ところが、南北戦争(1861〜65)では
外装水雷が登場した。甲鉄艦の出現によるもの
だった。甲鉄艦は名前の通り、装甲を張って
いる艦である。これに接近して非装甲の艦底
に爆薬をぶつけようという発想だった。
外装水雷は「円材水雷」ともいった。長い円材
の先端に火薬罐(かやくかん)を取りつけた
もので、当時の水雷艇といわれたものは、
これを艇首に備えていた。接近して円材を
水中に入れて艦底にくっつけて爆発させる。
有名なのは南軍のモニター(全面を装甲した
砲塔をもった艦)をプリマス港で撃沈した
カッシング中佐の偉功である。

▼外装水雷から魚雷へ

 最初の水雷艇がもっていたのは外装水雷と
艇尾から曳航するタイプだった。魚雷はすでに
オーストリアのホワイトヘッドによって発明され
1869(明治2)年以来、各国に採用されて
いたが大型軍艦に載せられていた。

 この外装水雷、もしくは曳航水雷が使えない
だろうと判断されたのは、まさにノルデンフェルド
砲の発明からである。ノルデンフェルト砲は
多砲身の軽砲で発射速度が高かった。
毎分216発というデータが残っているから
鈍足の水雷艇ではとても近づけない。その
外装水雷や曳航式ではとても攻撃できないと
思われたのだった。これが発明されたのが、
わが国では西南戦争が終わったころ1878
(明治11)年のことである。そのころ水雷艇にも
魚形水雷を積み、発射管をつけてみようと
列国は考え始めていた。

 わが海軍が攻撃用の水雷に注目したのは
1874(明治7)年の「征台の役」のことだった。
このとき、もし、清国の艦隊が出動してきたら
と当局は心配した。当時のわが海軍はろくに
戦力にならず、港湾も無防備で、翌年「扶桑」
ほか2艦をアメリカに発注し、外装水雷や
曳航式のハーベイ水雷や新型の機械式水雷
などを買い入れた。明治11年にこれらを積んで
扶桑がアメリカから戻ると、実験や実習を行なった。
その結果、明治12年には外装水雷を装備した
40トン型の水雷艇4隻を英国のヤーロー社に
発注する。これが翌年には分解状態で到着し、
1隻をさっそく横須賀造船所で組み立てた。
これは「第一水雷船」と名が付けられた。

 このころ、欧米海軍では大型艦に搭載される
タイプを2等水雷艇、港湾防備用のおよそ排水量
20トン以上を1等水雷艇とし、航洋能力がある
大型を水雷艦といった。わが国最初の「第一
水雷船」は1等水雷艇に分類されていた。

 話を急ごう。日清戦争直前の1893(明治26)年
以降は日本海軍の魚雷はホワイトヘッド社の
ものとなり、これを国産するようにもなった。

▼ 「如何に強風 吹きまくも─威海衛夜襲」

 1895(明治28)年2月5日午前3時20分。
月なく、満天の星が降るような中を10隻の
水雷艇が渤海湾を粛々と進んでいた。世界
初めての水雷艇隊による夜襲だった。たまたま
清国軍艦「定遠」に乗っていた英国人顧問
テイラーの報告書を書き直してみる。

『艦内は大騒ぎになった。水雷艇が襲ってくる
というのだ。たまたま上甲板に駆け上がった
ところ既に200メートル以内に接近してくるのが
見えた。なおも白波を蹴立てて突進してくる
ところである。それから1分も経たないうちに、
艦底で異様な轟音が起こり、激しい震動が
あった。すぐに各部の防水扉を閉めるように
命令したが、時はすでに遅く、海水が昇降口
から噴出してきて、まもなく機関室と士官室は
氾濫状態になった』

 この後、さすがの定遠もいそいで錨鎖を切って
南へ進み、自ら浅瀬に乗り上げて転覆をしない
ですんだ。大型の装甲艦も艦底を魚雷にぶち
破られては一たまりもなかった。もっとも、
この超接近する水雷艇の勇気もたいしたもの
だった。それは、ある海軍士官が語り残している。

『射程は300メートル内外で、100メートル程度
までは真っすぐ進むだろうから、そのつもりで
発射しろと言われておりました』

 この当時の魚雷は口径35センチ、爆薬は
21キログラム、射程300メートル、速力は
8ノット(約15キロ)にしか過ぎなかった。
勇敢な水雷艇隊の損害も大きなものだった。
猛烈な銃砲火を浴びて、仲間を見失い、各艇長
は単独襲撃を決心し、とにかく接近して魚雷を
撃つしかなかった。その様子を少し長くなるが、
現場の状況をよく伝えるので艦隊司令長官の
大本営への報告を現代語に訳してみる。

『わが水雷艇隊の損害は第9号水雷艇機関室
を撃たれ、機関部員ことごとく死傷、その他の
乗員は帰途、防材の切れ目にある浅瀬に乗り上げ、
その上に敵の射撃を受けて半ば沈没し、鈴木少尉
ほか2名が凍死、1名が負傷した。第8号水雷艇
と第14号水雷艇は防材あるいは暗礁にふれて、
舵または推進器を故障した。第6号水雷艇は
小銃弾46発とホッチキス砲弾1発、第10号
水雷艇は小銃弾10発の命中を受け・・・』

 「如何に強風 吹きまくも♪」という軍歌が
伝えられている。この世界初の快挙を歌い上げたものだ。

▼ ホッチキス砲から速射砲へ

 この報告書にあるわが第6号水雷艇に命中した
「ホッチキス砲」とは大型艦に積まれた対水雷艇用
の機関砲のことである。アメリカ人ベンジャミン・
ホチキスが発明した。ホチキスは小銃弾のような
小さな弾丸ではなく、より大型の榴弾(中に炸薬
が入っている)を撃てばよいと考えた。構造は
ガトリング砲と似た束ねた砲身がハンドル操作で
回転するものだった。フランス海軍はただちに
採用し、フランス国内に1875(明治8)年に
工場が建ち37ミリから47ミリの各種の口径をもった
「回転砲」が造られた。わが国の三景艦といえば
清国の定遠・鎮遠に対抗するために大口径砲を
のせた「橋立・松島・厳島」のフランス製の巡洋艦
をいうが、これら3隻にもホッチキス機関砲が
搭載されていた。

 これらの機械式(人力)連発砲は高速で迫って
くる水雷艇対策のための砲だった。大きく重く、
ガトリング砲とは異なって対艇用の大口径弾を
発射した。ガトリング砲は接近した敵艦の斬りこみ
要員や操帆員を掃射するためのものだった。
それとは大きく異なるのも当然のことである。
だから、どこの国の陸軍も興味を示さなかったも
当然だった。威力の割には大きいもので歩兵が
装備するには負担が大きい。かといって砲兵の
装備には射程が短くなじまない。やはり艦載しか
使い道がなかったのだ。
 
 その艦載機関砲も水雷艇が高速化し、さらに
水雷艇を駆逐するための小型艦にも魚雷が積まれる
ようになると役に立たなくなってきた(これが水雷艇
駆逐艦、のちのデストロイヤーである)。より大口径
の砲弾が必要とされ、砲尾の閉鎖器が改良されてきた。
砲の閉鎖器には鎖栓式と螺式がある。ブロックで密閉
するか、ねじ式に締め上げて密閉するかの違いだが、
発射速度を上げるために半自動式の鎖栓システムが
開発された。砲弾を入れれば自動で閉まり、撃てば
自動で開き空薬きょうを吐き出す。そうなると、
ノルデンフェルトやホッチキスの優位性はなくなってしまった。
 
 こうしておよそ世界の海軍の中で、こうした機関砲
はおよそ20世紀の初めには廃止されたり、予備品に
なってしまったりしたらしい。

▼ ボーア戦争と日本陸軍

『日露戦争の軍事史的研究』で有名な大江志乃夫氏も、
日露戦争を後のすべての戦争の大本とされている。
連発式の小銃、機関銃、速射砲の技術的完成、
野戦重砲の登場、野戦陣地の強力化、兵站線の構築
などなどが、まさに20世紀初めの大国同士の戦争
の始まりだったというのだ。今回の連載では日露戦争
には深入りしないが、わが陸軍が世界で初めての
「現代戦」を経験したのは誰にも否定できないだろう。

 陸海軍の機関銃の始まりを述べてきたが、最後に
ボーア戦争についてふれておきたい。ご存じのように
ボーア戦争は南アフリカの初期植民者であるオランダ人
たちと英国軍の衝突である。時は1899(明治32)年、
20世紀を迎える2年前のことだった。戦争は1902
(明治35)年まで続き、多くの観戦武官が世界中から
出かけて行った。

 この戦争で使われたのは小銃弾が2種類、ドイツの
7.92ミリと英国の7.7ミリ。いずれも手動装填式の
槓杆作動式連発銃である。機関銃はどちらもマキシム
だった。ボーア軍はもともと志願兵によるゲリラと
見られがちだが、どうして機関銃も50門ほど持って
いたらしい。機関銃で守られた陣地にこれまで通りの
強襲をしかけた英国軍はたいへんな苦戦をすることになった。

『偕行社記事』には、いろいろな教訓が紹介されて
いる。英国軍は大部隊を派遣したが、槍を抱えた
騎兵は無用の長物になり、騎兵の突撃はただ損害を
受けるだけであること。乗馬兵の武装は1894
(明治27)年に完成していたマウザー自動拳銃が
優れていること。遠距離からの狙撃を避けるために
将校は下士兵卒と同じ服装をして目立たないように
すること。軍服も目立たない色にし、過剰な装飾を
やめること。これらが教訓として紹介されている。

 また、マキシム機関銃をボーア軍側に供給した
ドイツ軍は機関銃の効果を評価し、歩兵大隊の中に
マキシム機関銃4挺を装備した機関銃(MG)中隊
を編制の中に入れたことなども書かれている。
 
 ところが、これらのいずれも知っていたのに、陸軍は
日露戦争ではほとんど生かしていません。騎兵の
武装は馬格のせいで軽騎兵しかなかったが騎兵刀
をもち、騎兵銃。将校の服装はよく目立つ肋骨服、
軍装も迷彩を考えない冬は黒、夏は白。もっとも相手
のロシア軍もそのあたりは変わっていない。
 
 しかし、世界の教訓から学んでいることがあった。
それは騎兵に機関銃をつけたことである。秋山好古が
主導したといわれているが、騎兵には騎砲というもの
があったが、さらに馬で車に載せてひっぱる機関銃が
装備された。
 
 次回はいよいよ大正時代にもどって、11年式
軽機関銃と3年式機関銃について書こう。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.30




『武士と軍役(戦争の台所事情2)──日本戦史の光と影(31)』
         大山 格
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 「夕闇迫る神宮球場、上空にカラスが3羽舞っています」
 子供の頃、ラジオの野球中継で聞いた決まり文句です。

 明治神宮は殺生禁断で、石原元都知事がカラスの
殲滅戦を展開した際も、明治神宮ばかりは手出しが
できなかったそうです。

 隣の代々木公園では巣の撤去作戦をやりましたが、
なんのことはない、カラスは柵一枚向こうの神宮の境内へ。
 そのせいか、原宿・表参道ではカラスの被害があり、
まれに人を襲う例もあります。
 薄着になる季節ですから、カラスといえども侮らず
にご注意ください。


●武士と軍役(戦争の台所事情2)


▼軍隊の台所事情

 軍事組織に求められる能力はさまざまにある。
戦う能力は当然として、あらゆる分野で自己完結
を求められる。軍隊とは、非常に密度の高い社会
であり、多数の人員が日常生活をともにする。
毎日の食事にしても軍隊は自前で用意すること
が求められる。

 警察と軍隊は似たような組織と思われがちだが、
警察組織では食事の面倒までみない。食事を
給与しなければならない場面では業者に依存する。
自衛隊は自分たちで炊事する。つまり食事に
関しての自己完結の度合いは自衛隊の方が高い。

 昔の軍隊は自己完結せざるを得なかった。
演習で弁当が必要になっても、仕出し弁当を
注文できる業者がない。古代から近代まで、
ずっと軍隊は自炊でやってきたし、現代でも
自衛隊は炊事を自己完結させているのだが、
だんだんと内容は変わってきている。

 古来、日本の軍勢は米と味噌とを主体に
した食事を作ってきた。現代人とは比較に
ならないほど身体を動かしていた近世まで
の成人男性は1日あたり5合の米を食べた。
戦国の足軽は1日に6合ずつ米を与えられて
いる。現代の男性は1食あたり1合くらいだから、
ずいぶん減っている。おそらくだが、現代の
スポーツ選手が炭水化物を中心に食事を
とるのと同様に、運動による消耗を補うためには
米をたくさん食べる必要があったのだろう。

 米は麦ほど加工しないで食べられるため、
手間いらずである。だが、それでも大量動員
された軍勢を養うのはたいへんなことである。
戦国大名の動員力は1万石あたり250から
300人といわれる。仮に300人として、
1人1日6合を食べると全部で1石8斗である。
米の他に味噌や塩が必要になることを勘案し、
1日あたり2石相当が消費されるとすると、
1年では700石あまりが武士や足軽の腹に
納まる勘定になる。城を包囲されて籠城する
場合はもちろん、動員態勢をとると1年間で
これだけの米が必要だとわかる。

 大名を頂点とする武士団の収入は、額面の
石高の3割ほどの玄米である。1万石ならば
武士団の全体で3000石くらいになろう。
そのうちの2割以上を兵糧として留保せねば
年間の動員態勢に間隙を生じてしまう。

 身近に置き換えて考えれば、年収で500万円
のサラリーマンが100万円の預貯金を常備
するようなものだろうか。それだけ蓄えたと
しても、家族の誰かが入院でもしたなら
吹き飛んでしまう。そう考えると戦国大名も
苦しいやりくりだったに違いない。

▼秀吉軍の台所事情

 戦国時代も中盤までは国境での小競り合い
ばかりが目立ち、長期に及ぶ大遠征はあまり
なかった。小競り合いの場合、大名は軍勢の
動員に際して兵糧を家臣たちに持参させた。
せいぜい3日分も用意すれば済むことなので、
さほどの負担ではなかったろう。

 しかし、領国が拡大していくと戦地までの
距離が増していく。腰に付けた兵糧が3日分
だとすれば、戦場に着くまでに消費される。
だからどうしても小荷駄を編成し、兵糧ほか
補給物資を運んでいかねばならない。兵糧の
輸送には相当な人手を要したうえに、荷造り費用
も無視できない。輸送するよりも正当な対価を
払って現地調達する方が安上がりで、羽柴秀吉
はこの手を巧く使っている。

 史上に名高い「鳥取の飢殺し」とは、その最たる
ものであろう。秀吉は侵攻する前から若狭の商人
を通じて鳥取の米を買い占めていた。すでに若狭
は織田氏の勢力圏に入っていたが、商売となれば
大名領国の境界線は意味が薄い。相手が敵地の
商人であろうと良い値をつけてきたら米を売る。
愚かにも鳥取城の備蓄米も売りに出したというから、
よほど高い値での買いつけであったろう。

 米が引き渡されると秀吉が軍勢を入れる。
兵糧は運ぶ必要もなく、現地に集積されている。
高値で買ったとはいえ輸送費を節約したので、
そんなに損な買い物ではない。まして城方の兵糧
が減っているのだ。

 鳥取城では城下の商人や職人も籠城させ、
都市機能を城内に移していた。そうすることで
侵攻軍は不便を強いられるはずであったが、
秀吉は攻囲陣地に商人を呼び寄せ、市を開かせた
ので不便はなかった。秀吉という人は、銭の
使い方が本当に巧い。

 乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負に
出た賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、大垣から
木之元へ50キロの急反転が勝敗を決した。
その際、秀吉は沿道の農民に相場の倍額を
支払う約束で米の炊き出しを依頼した。食事を
自炊するのが当然な軍事組織としては極めて
異例の措置であろう。まあ、内線作戦だから
飯に毒を盛られる心配はないだろうが、もし
やられたら戦わずして全滅である。

 ともあれ、マラソンのように沿道の要所に
給水と給食の補給ポストが設けられた。
足軽たちが欲をかいてたくさん握り飯を
持っていこうとするであろうことも秀吉は
お見通しで、とにかく前線に持っていけば
役に立つのだし、たくさん取っても勝手に
持って行かせるよう炊き出しの布令に
書き添えている。賤ヶ岳で勝利を得た秀吉は、
余勢を駆って一気に柴田勝家の本拠、
北ノ庄まで攻め込んだ。余分に握り飯を
持たせた甲斐があったというものだ。

 地獄の沙汰も金次第。たとえ敵地であれ、
秀吉は兵糧の現地調達を成功させてきたし、
いっそのこと兵糧を輸送せず、軍資金だけを
持たせて遠征したら安上がりではないのか
と考えたようである。四国攻めに際して、
当初は兵糧ではなく金銭を支給する仕組み
を編み出した。ところが、軍勢の規模が大きい
ので現地調達では賄いきれなかった。
やむをえず兵糧を四国に輸送したのだが、
そのままでは銭と米を二重に与えることになる。
ならばと米を買い取らせることにしたのだけれども、
ケチくさいと不評を買ったという。

 天下人となった秀吉は、10万人単位で
軍勢を動員するようになった。もはや現地調達
でなんとかできる数ではなくなったのは、
もう四国攻めで経験した。以後、九州攻め、
関東攻めと大遠征をするたび、秀吉の配下
で兵糧輸送など後方勤務を司る奉行衆が
活躍するが昔ながらの武断派に疎(うと)まれ、
やがて関ヶ原で豊臣家臣団は空中分解して
しまうことになるとは皮肉である。

▼戦場の台所事情

 さてさて、戦国時代には戦場での食事など
味をとやかくいうなんて贅沢で、味噌と塩で
調味料は充分、副食物としては梅干し、鰹節、
胡椒粒くらいであろうか。近世に入ってから
日本人は濃厚な調味を好むようになる。
塩と味噌の他に醤油もだんだんと使われる
ようになった。一般庶民も味にうるさくなったが、
近世は戦がないので軍事に影響は及ばない。
ただ戦備として蓄える兵糧は、相も変わらず
米が主役の地位を占めたままである。

 米は誰しも好んで食べるものだから、
他の穀類より換金性が高い。農村では
米の不作に備えて粟、蕎麦などの雑穀も
生産したけれど、不作でなくても自分たちは
雑穀ばかりを食べ、米は換金した。だから
農民にとって米食は贅沢なことだった。
半農半士の地侍にしても、平素は雑穀を
食べただろう。ところが、戦に駆り出された
ときは腹一杯になるまで白米を食べられる。
それは明治の軍隊でも同じで、兵隊に
なれば毎日白米が食えるということは
大事な約束事であった。

 明治になって戦国と異なるのは、副食物
の豊富さである。最初は日本の国家財政
に余裕なんかないから、日清戦争では魚の
干物などあれば兵隊がバンザイするくらい
喜んだほど貧しい食事だったが、日露戦争
では缶詰が用意されていた。その缶詰の
なかで最も好評を博したのは牛缶で、
いまも「牛肉の大和煮」なる商品名で缶詰
が市販されている。

 たしかに牛缶は歴史に残るヒットであるが、
同時にデビューした鮭缶は大失敗であった。
『機密・日露戦争』によると、旅順攻略戦に
あたった第三軍では、鮭缶を営倉入りの兵
に罰として無理に食わせたという。

 はじめてその記述を見たとき、筆者は
我が目を疑った。営倉入りには軽と重の2種類
があって、どちらも閉じ込められるのであるが、
軽営倉は普通に食事が与えられ、重営倉では
握り飯と塩だけが与えられる。副食物がない
という処罰なのに、鮭缶を無理に喰わせると
さらに重い罰になったらしい。いったいどんな
味付けであったか、今では想像もつかないが、
きっとこの世のモノとは思えないほど不味かったに違いない。

 ところがドイツの観戦武官が、その鮭缶を
喰わせてくれと頼んできたという。本国から
持ち込んだ缶詰の味に飽きてしまったので、
日本軍のと交換して欲しいというのである。

 しかし、頼まれた日本の将校は躊躇した。
へたをすれば国際問題になりかねないので、
これは非常に不味い缶詰だと正直に通告した
そうである。それでもかまわないというので
鮭缶はドイツ軍人の手に渡った。そののち、
日本の将校はドイツ軍人の食卓に招かれて、
大いに驚く。例の鮭缶を素材にドイツ軍人が
再調理した料理が美味であったというのだ。
そのせいかどうかは知らないが、いま日本で
生産されている鮭缶はサッパリした味付けで、
そのままでもよし、素材として再調理するも
またよしと、非常に優れた食品に改良された。

▼自衛隊の糧食はどうか?

 ハッキリいうと自衛隊の糧食は美味では
なかった。ウインナーソーセージは美味だと
思えたが、味付けマグロなど他の缶詰は、
まあ普通か、それ以下か……。自衛隊では
主食の缶詰もあり、菜飯などもあるから
食べ飽きないように考えてはいるようである。

 近年は市販のレトルト食品も流用され、
事情がかわった。かつてあった赤飯の
カンヅメが「被災地では出せない」との
理由で廃止されたのが残念ではあるが、
概ね味は向上しているようだ。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.29




『楠木正成の統率力 【第11回】千早城外での夜討ち』
          家村 和幸
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▽ ごあいさつ

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

読者の伊賀山猿さまから、メールで次のような
ご指摘をいただきました。

いつも楽しく拝読させていただいております。
下記、「和泉国」は、「大和国」だと思います。

    伊賀山猿

 これは、前回の冒頭で『太平記秘伝理尽鈔』
巻第一から『太平記』が全四十巻となった経緯
を紹介いたしましたが、その文中で「和泉国の
多武峰(たふのみね)」、「和泉国十市の人」と
記したことについてのご指摘です。

 そのとおりで、私の誤りでした。正しくは、
「大和国の多武峰(たふのみね)」、「大和国
十市の人」でした。原文では「和州」とあった
ので、すっかり「和泉国」と思い込んでしまった
のです。楠木正成の所領が河内国・摂津国・
和泉国であったことも、一つの先入観となっていました。

 以下、訂正した文面を再掲いたします。


(引用開始)

 また、大和国の多武峰(たふのみね)において
書かれたものが十二巻あった。その作者は
六人である。

 教円上人、南都(奈良)の人である。

 義清法師、これは高徳入道のことである。

 寿栄法師、これは玄恵の弟子で、大和国十市の人である。

 北畠顕成、これは顕家の子で、二十六歳で
出家して、法号を行意と号した。歌道の達者である。

 証意法眼、これは興福寺の住僧である。

 そして、日野入道蓮秀である。

 このようにして、十一の巻から以後の虚実を正し、
次第を連ねて、虚を除き、実を加えたのであった。

 ・・・以下略

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)


 それでは、本題に入りましょう。前回に引き続き、
千早城の攻防戦からのエピソードです。

 なお、千早城の戦いにつきましては、拙著「名将
に学ぶ世界の戦術」(ナツメ社)の178頁から185頁
で詳しく図解しておりますので、ご興味のある方は
こちらも是非ご一読ください。


【第11回】千早城外での夜討ち

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)
城軍の事」より)


▽ 十分な水を蓄えていた千早城

 1333(元弘3)年閏2月22日、千早城を
包囲した鎌倉幕府の軍勢・百万騎(『太平記』
による)は、わずか千人にも満たない楠木の
軍勢を侮って千早城を攻めた。これに対して
楠木軍は、千早の頂上から大石を落としかけ、
矢で射たてることで、幕府軍に大打撃を与えた。

 最初の総攻撃に失敗した幕府軍は、楠木の
城兵が渓流の水を汲んでいるものと考え、
水攻めにしようと図った。そこで、名越越前守
(なごええちぜんのかみ)の軍勢3千余騎に
千早城北東の谷川の水源地を見張らせた。
名越勢は水辺に陣を構え、城から人が下りて
来ると思われる道々に逆茂木を設けて待ち構えた。

 しかし、楠木正成は城内に湧き水や雨水
などで用水を確保していたので、この作戦は
全く効果がなかった。千早城の中には、五所
の秘水という、修行でこの山を行き来する山伏
が密かに汲む水があった。この水は、どんなに
日照りが続いても渇くことがなかったので、
これを城兵たちの飲料水とした。

 消火や予備の飲料水などとしては、大きな
木をくりぬいた舟を二、三百ほど作り、これに
水を貯めた。また、城内の建物の軒には
すべて雨どいを取り付けてそれをつなぎ、
雨水を一滴たりとも残さず舟に受けた。
それらの舟の底には赤土が沈めてあり、
水の腐敗を防止していた。このように千早城
は、たとえ五、六十日間雨が降らなくても、
持ちこたえることができたのであった。


▽ 楠木、夜討ち(=夜間の襲撃)を決心

 そうとは知らない名越勢の兵士らは、
城中から人が下りて来るのを今や遅しと
待ち受けていた。最初の数日こそ気も張って
いたが、四〜五日もするとだんだん気が緩み
だし、敵はこの水を汲みに来ないのでは、
とさえ思い始め、警戒心も緩んできた。

 この様子を一部始終知っていた楠木正成は、
満を持して決心した。

 「敵も退屈しているころだ。今夜あたり、
そろそろよかろう。・・・」


▽ 名越の陣に忍びを入れて情報収集

 名越勢を夜討ちするにあたり、楠木は先ず、
七日間にわたり忍びの兵を名越の陣に遣わした
という。それも、入れ替え入れ替え、毎日別の
忍びの兵を遣わすことで、その口々に報告
することの一致するものと相違するものとを
分別し、あるいは正成の判断に合うものと
合わないものとをよく比較して考察した。

 そして、これらの忍びの兵から勝れた者を
選んで、相じるし(=味方を識別するもの)を
付け、合図の言葉を定めたのであった。


▽ 楠木軍の陣立てと各隊の任務

 正成が、名越の敵陣を偵察すると、狭いもの
で九町(約981m)、さらには十六町(約1744m)
〜十七町もあった。城から名越の陣までは、
およそ五町(約545m)と少しばかりであると
見積もって、3百余騎を三つに分けた。

 先頭には湯浅六郎に、百余人を従えさせて、
「水辺にて番する兵を討て」と命じた。

 二番は、北辻玄蕃宗持に、百余騎を従えさせて、
「名越が陣を乱して騒いでいる所へ攻め込め」と
命じるともに、宵から侍16人を敵陣内に潜入
させておいて、「名越があわてて出て来れば、
これと組め」と命じていた。

 三番は、楠木三郎正純(七郎の弟)に、百余騎
を従えさせて、「城の山下の小塚に、軍の備えを
堅くして、先頭と二番を進ませよ」と命じた。

 そして、(襲撃の)時刻を計画するのであるが、
忍びが云うには、「名越は、夜毎に夜半過ぎまで
は囲碁・双六・酒宴にて遊び呆けている」という
ことなので、正成は「そうであれば」として、「卯の
一天(午前5時〜5時半)」と定めたのである。

 また、城に残すところの兵、5百人にも物具
(もののぐ=鎧兜)を着用させて、各人の持ち口
と櫓に登り、もしも敵が寄せ来たならば防ぐよう
に命じて、待機させた。


▽ 正成、三度の太鼓により指揮

 正成は30人ほどを連れて、城の坂半分の場所
から敵陣を見ると、朝霧が深かった。そこで、
正純の陣との間隔二町(約218m)ほど後ろに
ひかえて、諸卒に向かって次のように命じた。

 (以下、千早城外における楠木正成の下知)

 この場所において私が三度の太鼓を打つ。

 一度目の引き太鼓にて、先の二百余人(注:先頭・
湯浅と二番・北辻の軍勢)は引け。たとい大将
名越と戦い、防ぎ止めていたとしても、太鼓を
打ったならば、捨てて引くようにせよ。

 その理由は、大将名越を討ち取ろうなどとして
まで、敵を痛めつける戦いではない。これまでの
(築城や戦など)疲労の中で私に従ってくれた
面々は、一人でも討たれることがあっては、
私にとって大なる戦力低下であるぞ。その上、
各々に一人でも錯誤があれば、正成は左右の
手一つを討ち落とされてしまうようなものである。

 先の二百余人が、正成の居る場所を
上り過ぎようとする頃に、二度目の太鼓を打つ。
その時、正純が引け。たとい先の二百余人が
一番目の太鼓で引かなかったとしても、
二番目の太鼓を打ったならば、正純は引け。

 先の衆もあえて言うまでもないが、よくよく
聞いておくこと。一番目の太鼓に遅れて引く
ようであれば、先を捨てて正純を引かせるぞ。
正成もこれと同時に引くようにする。のろのろと
鈍い動きをして敵に追尾されたら、城の木戸を
閉じて各々を捨ててしまうぞ。

 その理由は、先を捨てるのは、少ない損害
で済む。各々を助けようとして木戸を開けば、
敵に城を落とされることになる。そうなれば、
君の御為・家の為に大きな損害を与えること
になる。断じて、正成一人の命を惜しんで各々
を捨てるのではない。

 また、正成が太鼓を打たない間は、鬼神が
天から降ってきて敵になったとしても後へ
引いてはならないぞ。いかにもいかにも心強く、
どこまでも追い付けられよ。そして、その後には
正成が居るからには、どのような状況でも安心
して、各々は一足も早く城へ入るようにせよ。

 この度は、合戦において引く時のやり方とは
全く違うものになるだろう。(注:合戦の時は、
早くもなく、遅くもなく、将の下知に随って引くが、
夜討ちの時は、とにかく早く、一挙に引く。)
ただ、一足も急いで城へ入られるならば、
正成も早く城に入ることができるぞ。

 三番目の太鼓は、正成が今こそ城へ入るぞ、
という意味の太鼓であるぞ。


 (千早城外における楠木正成の下知、終わり)


▽ 正成、最後に城に引き上げる

 このように約束事を定めて全員に徹底していた
楠木軍は、『太平記』に書いてあるとおり、
水辺の敵を討ち取り、名越の陣も打ち散らして、
数時間にわたり敵を討った。

 ある程度の時を経て、名越の近くの敵陣が、
闇夜の中で動き叫んで、騒がしくなるのを見て、
正成が太鼓を打つと、約束事を違えずに
二百余人が引いて来た。

 正成が居る場所を足早に通る先の
二百余人の兵たちに、正成は声をかけた。

 「よくやった、見事だ。さあ、急げ、急げ。」

 このように下知して、二番目の太鼓を打つと、
楠木正純の軍勢が引いて来て城に入った。
ちょうどその頃、数万の敵軍が名越の陣へと
駆け付けているところであった。

 正成が三番目の太鼓を打つと、名越の陣に
集まった幕府の軍勢は約千余りにもなっていた
であろうか、蜘蛛の子を散らすように、四方へ
ぱっと散ったのであった。おそらく、この太鼓
の合図で、また楠木が攻め懸かって来るのだ
と勘違いしたのであろう。正成は、これを見て
にっこりと打ち笑い、快げな様子で30余人
を前後に立てて、千早城内へと引き上げた
のであった。

 これらのことは、非常に優れた謀である、
と内外の人も申していたという。


(「千早城外での夜討ち」終り)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.1




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (6) ─ 潜水医学実験隊(その4) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。

先日、初めて摩周湖に行きました。その日は
運よく霧が晴れていてその姿を拝めたのですが、
同行者はこれが4度目にして初めてとのことで
大感激していました。


■潜水医学実験隊(その4)

前回は潜水医学実験隊の飽和潜水員たちの訓練
の様子をご紹介しました。今回は、飽和潜水員
になるまでの課程からご案内します。

飽和潜水員になるには、最初に潜水員適性
健康診断にパスする必要がありますが、この
応募資格がかなり厳格です。まず身長 158cm
以上 190cm以下、視力は両眼とも裸眼で0.3
(矯正視力1.0)以上、肺活量3500ml以上、
握力左右とも35kg以上といった身体的条件を
満たしている必要があります。

なおかつ、 25m潜水したまま泳ぐ、 400mを
10分以内に泳ぐ、 45mを途中 4回までの息継ぎ
で潜水したまま泳ぐ、水深 3mから 5kgの錘を
水面まで持ち上げる、足ヒレを使用し背泳ぎ
の態勢を取り胸に 5kgの錘を乗せて水面を
25m運搬するなど、さまざまな水中能力検定を
クリアしなければなりません。

さらに耐圧検査を経て、合格するとスクーバ
課程(7週)、次に潜水課程と進み(幹部16週、
曹士14週)、そこから進路が飽和潜水課程と
水中処分課程に分かれます。そうしてようやく
飽和潜水員になるための専門の教育課程に
進むのです。飽和潜水課程(15週)が行われる
場所は、唯一飽和潜水のための設備が整って
いる潜水医学実験隊となります。

ちなみにもう一方の水中処分課程(12週)に
進んだ隊員は、海中の不発弾や機雷処理を行う
EOD(水中処分員)になるための教育を受けます。
こちらも高い技術と身体能力、そして勇気が
必要とされる、大変な仕事です。

ところで部隊名に「実験隊」とあるように、
潜水医学に関する調査研究も、重要な任務の
ひとつです。ですからこの部隊の司令は防衛
医大出身の医官で、隊員の中にも潜水医官が
います。潜水医官のひとりから聞いた話は
非常に興味深いものでした。

「潜水は医学的な要素との関わりが大変強く、
飽和潜水となると特に気が張ります。シミュ
レーターでの飽和潜水訓練で考えると、目の前
にあるDDC(船上減圧室)の中に潜水員がいるわけ
ですが、減圧があるからそこから出てくるまで
には3週間かかる。時間的に見れば地上で最も
遠いところにいる、人工衛星よりも遠い感覚で
す。もし何かあっても簡単に治療ができない、
だから彼らには自分自身での健康管理も必要
とされます」。

確かに、飽和潜水を行う DDCの中にいる隊員が
体調を崩しても、 DDCの外の医官は直接処置
することができません。「目の前に隊員がいる
のに地上で最も遠いところにいる」という言葉が、
重く感じられました。

敷地内には高気圧酸素治療を行うチャンバーが
あり、突発性難聴や減圧症などの治療に対応
しています。まれに、一般の病院で処置できない
患者が運ばれてくることもあり、自殺未遂を
計った一酸化炭素中毒の患者が来たこともあった
とか。血中の酸素濃度を高めるには、高気圧
酸素治療が効果的なのだそうです。腸閉塞にも
有効だとか。さらにおまけに、二日酔いにも効くとか。

次回は、飽和潜水を行うと潜水員の身体に
どのような変化が生じるのかをご紹介します。



(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.31




荒木 肇
『第1次大戦が変えた歩兵戦闘─陸軍の機関銃(4)──大正時代の陸軍(40)
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□ご挨拶

 台風による大雨の被害はいかがですか。
こちら関東では、せいぜい落雷や夕立に
よる雨が主ですが、四国、九州、沖縄の
皆さまいかがでしょうか。心配しております。

 さて、今月の下旬には富士の総合火力
演習です。多くの皆さんが楽しみにして
いることでしょう。好天に恵まれることを
祈っております。

▼世界大戦が変えた歩兵戦闘

 すでに紹介したとおり、日本陸軍は
欧州大戦に多くの将校たちを観戦武官や
研究員として送った。その帰国後の報告書
の一部が、1919(大正8)年8月の「臨時
軍事調査委員」の報告書である。その中に、
次のようなレポートがあった。ドイツ軍の
ルーデンドルフ将軍の通達である。
『1918年3月ドイツ軍第一次攻勢の実験
に基づき歩兵教育の指針』として将軍が
下した訓示である。いつものように現代語訳をする。

(1)つらなった散兵線あるいは密集した集団力
で成果を挙げようとする攻撃演習は行なってはならない。
(2)小銃、機関銃、擲弾銃、迫撃砲および
随伴砲兵の支援のもとに、軽機関銃を核心
とする疎散(まばらで散らばった)なる
小グループで行なう攻撃法に熟練せよ。
(3)突撃場面では、第一線の各所に選抜隊
を置く。他の歩兵はその選抜隊の各グループ
の連絡がとれるように、その間に疎散隊形
で突撃しなければならない。

 このようにルーデンドルフが訓令を与える
ようになった背景には委員たちが解説する
戦場の激変があった。報告書は味わいの
ある片仮名まじりの文語文だが、いつもの
通り、現代語訳してみる。

『欧州大戦の初期においては、歩兵の主要
火器は小銃だったから、散兵線にはなるべく
多数の小銃火をならべて、これで敵を制圧し、
敵と衝突する際には第一線火力をなるべく
濃密にして、一挙に敵を破砕することを目標
とした。しかし、欧州戦争の末期には、多数の
重、軽機関銃の採用の結果、歩兵の火力戦闘
の主要素は機関銃に移った。火力を発揚する
のは必ずしもこれまでのような濃密な散兵を
必要としなくなった。それどころか、散兵線を
濃密にすることは、火力が増えることに比べて、
損害を受けることが多くなり、得失を考慮する
と失うものが多い。そこで、散兵線の密度は
希薄になり、それでいて火力は以前よりひどく
増えている』

 機関銃火力を中心した攻撃でも破砕できない
ときは、随伴砲兵に撃たせ、それでも無理なら
砲兵の掩護を受けるしかない。機関銃を核心と
する疎開散兵の火力と他の火力を発揚して
敵を『圧倒震駭(あっとう・しんがい)し、敵中に
突入した後は、後で述べる紛戦の状態になって
勝敗を決めるようになったという。これは次の
ドイツ軍歩兵将校の語る所でも明らかになっている。

『中隊がいったん散開する時には各兵の間隔
は少なくとも6歩(4.5メートル)を取らなくては
ならない。その理由は明らかである。第一に
損害を避けるため。第二には散開した伏せた
散兵は敵から見られにくい。特に注意すべきは、
軽機関銃のそばに射手以外の兵を置いてはならない』

 これから考えても、軽機関銃は1人で操作し、
目立たぬように弾薬の補充も射手は1人で
行なわなくてはならなかった。集まれば敵の
機関銃の猛射を浴びてしまうのである。重機関銃
も3人で操作していたが、末期にはこれもせいぜい
2人で操作するようになったという。報告書は
さらに英仏軍の状況についても書いている。
フランス軍の『戦闘教令』から抜きだしたものである。

(1)歩兵は、歩兵だけで障害物を備えて火力で
防禦されている敵陣地を攻撃するような力は
もっていない。
(2)歩兵はある地点を占領して、これを守備する力は大きい。
(3)歩兵は戦闘によって兵力をまたたく間に消耗してしまう。
(4)歩兵は濃密な隊形で運動してはならない。
(5)突撃を行なう時の散兵の間隔は4歩ないし5歩とする。

▼重・軽機関銃の重視

 まとめていえば、日露戦争型のように横一線に
中隊が並び、一斉に突撃するような戦闘は
なくなってしまった。突撃の場合、兵と兵との間隔
はおよそ2歩、1.5メートルほどだった。離れること
は許されなかった。むしろ肩と肩を接するくらいに
くっついて突進する。横一線になった中隊と次の中隊
の間の距離もなるべく詰めるようにされていた。射撃
はもちろん、腰だめ射撃などしてはならない。きちんと
停止し、正しい立ち姿で撃つ。

 これに対して、欧州大戦の経験では、どこの国の
軍隊もそういうことはしなくなった。火力を発揚する
のはとにかく重機関銃と軽機関銃である。小銃は
これを補うだけの存在になり、火砲の緊密な掩護
が大切になった。そして疎開することの必要は
他の意味からも言える。交戦中の兵士が互いに
自分の任務を自覚し、熱烈な気合で立ち向かう
決戦では至近距離でも火器を利用する。そうなれば
互いに入り乱れ(『戦線犬牙錯綜シ』)各部隊や
各(戦闘)群は、火器と白兵(主に銃剣)で頑強
なる戦闘を続けるからこそ、後方から続く部隊は
前進をやめてはならない。

 これまでの決戦は近距離で猛烈な火力戦を
行ない、その後、短時間の白兵戦で決着をつける
ように考えていた。これは前装のライフル、もしくは
後装式のライフルが出現したわが国でも幕末以来
の伝統だった。射撃の決戦距離は30メートル内外
である。まれには50メートル近い距離で突撃も
行なわれたが、そうなると敵は2回射撃をする時間
が生まれる。前装式のミニエー銃でも、熟練した
射手がなら15秒くらいで射撃をすることができる。

 幕末のフランス式訓練を受けた「伝習隊」の
士官の思い出話にもそれはある。ある野戦で
地形を利用して官軍兵士の接近を待った。
距離は20メートル。藪の中から一斉射撃を
行ない、うろたえる敵に立ち直る時間を与えず
銃剣突撃。官軍兵士の半数は倒れ、残りは
銃を捨てて潰走した。『フランス人教官の教え
の通り、初めてやったら出来ました。習った
ことは間違っていなかったと知りました』という
証言がある。

 日清戦争でも事情は変わらなかった。
火力主義をとったフランス、プロシャ陸軍の操典
を丸写しにした日本陸軍。砲兵は榴霰弾の雨を
降らし、歩兵は優れた射撃統制で一斉射撃を
行なった。持っていたのは18年式村田単発銃
である。対する清国兵の一部はドイツが売りこんだ
7.92ミリ・マウザー5連発小銃だった。それに
撃ち勝ったのは、やはり射撃の精度と断固たる
突撃だったといえる。

 日露戦争ではどうか。実は両軍ともに野戦
での機関銃の使い方はほとんど確立しては
いなかった。攻撃に使うと、どうしても砲兵の
ような運用をした。そうなると遠くから届く敵砲兵
の目標となって早くから潰されてしまう。お互い
にそんなことをしながら工夫していった。
なお、ついでに言えば、わが陸軍は奉天会戦
では250挺あまりの機関銃を使い、当時と
しては「先進国」だったと言っていい。

 実戦談でも『横一線に広がり前進してくる
ロシア歩兵を300メートルの距離で薙ぎはらった』
ともいう。こうしたことを欧州の観戦武官たちは
見ているのだが、世界大戦では一向に工夫せず、
密集した隊形で白兵突撃を行ない多くの損害を
出した。大きな国の軍隊というのは結局、自ら
の失敗からしか学ばないものなのだろう。

▼新しい機関銃を

 わが陸軍は日露戦争を空冷ガス圧利用式
ホチキス機関銃で戦った。前にも書いたが、
故障も多く、さまざまな使いにくさも現れた。
それは冶金学の遅れや、工作機械の精度の
問題だったことにもふれた。そうした基礎が
追いつかなかったのである。また、正面装備
には金を使っても、基礎になるような方面には
なかなか予算が付かないといった事情もあった。

 こうした問題は、第2次大戦にも起きた。
有名なのはドイツからライセンスを買った液冷
倒立V型12気筒エンジンのクランク軸の問題
である。飛行機とエンジンができただけでは
完全ではなかった。プラモデルではないから形
だけ同じでも機械にはならない。いつまでも、
要求される通りにエンジンは回り、故障なしに
動き続けなくてはならない。しかし、日本の
航空機の多くはそれができなかった。原因は
やはり材料と工作だった。
 
 多くの日本の航空機エンジンは油漏れと
細かい部品の故障に悩まされた。平時に
入念に造られてごく少数しか生産しない物
は別である。だからこそ、1937(昭和12)年に、
97式司令部偵察機こと民間機『神風号』は
東京−ロンドン間を見事に飛んだ。だが、
戦争になれば話は別である。大量生産は
粗製乱造ではなかった。
 
 ドイツのエンジンを組み立ててみた。
とたんにクランク軸が折れるのだ。おかげで
エンジンの生産が間に合わず、『首なし飛燕』と
いわれた機体だけのキ64、3式戦闘機が工場
に並んでしまった。陸海軍当局は驚いてドイツ
駐在武官に電報を打った。『クランク軸を買い
入れて潜水艦でそれを送れ』。当時、日独の
連絡はすでに潜水艦によることしかできなかった。
 
 クランク軸はドイツのふつうの工場で、巨大な
機械ハンマーで材料を鍛造していた。それを
専用工作機械で仕上げて、そのままベンツ社
に納入していた。わが国には大きな機械ハンマー
などなかった。いや少しはあったが、とても
足りなかった。工作機械では研磨盤がなかった。
買えばいいだろう。今からならそれは言える。
当時のわが国は貧乏だった。ライセンスの金は
払えても、研磨盤や機械ハンマーまで買え
なかったのだ。
 
 今なら誰でも分かるだろう。機械とは、
「よい設計」「よい材料」「よい工作」、そして
「よい検査」がなくてはならない。わが国が
追いついていたのは設計だけだった。とりわけ、
鋳物、鍛造品はとても及びもつかなかった。
戦車の重い砲塔を回転させる。それに使う
ボールベアリングはとうとう実用化せず、
コロを使っていたのも事実である。
 
 戦後の高度工業国家の実現は、高価な
工作機械を買い、素材開発に力を注ぎ、
検査機器をそろえたおかげなのだ。
 
 日露戦争ではホチキス機関銃を国産化
した機関銃で戦った。しかし、しばしば起きた
薬莢のちぎれが原因となって不評をとっていた。
これは当時の記録を見ると、金属製の保弾板
が原因となる故障も多かった。次回は、いよいよ
国産重機関銃の始まりとなった3年式機関銃
について詳しく書くことにしよう。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.6





『人口から見た日本戦史 戦争の台所事情(3)──日本戦史の光と影(32)』
         大山 格
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国際空港の前に物乞いがいない。裸足で町を
うろつく子供がいない。置き引きが少ない。
落とし物が届く。
 ふだんアタリマエだと思っていることごとが、
平和の証し。日本ほど平和じゃない国と
比べてみましょう。
 いつも平和の有り難みを噛みしめながら、
歴史上の戦争のことを書いています。


 読者の方からご質問をいただきました。

Q 明治時代に森鴎外が軍医をしていて、
森鴎外が適切な栄養管理をしなかったために
多くの若者が脚気(かっけ)で亡くなったという話を
聞いたことがあるのですが、本当の話でしょうか?

A 鴎外の本業は陸軍の軍医でした。
本名の森林太?の名で、日露戦争にも第二軍の
軍医部長として出征しています。先進的なドイツ
医学を学んだ秀才でもありました。当時はビタミン
が未発見で、脚気は感染症だと考えられていました。
御承知のとおり、脚気はビタミン欠乏が原因です。
白米を主食とする都市在住者に多く発症する
贅沢病でもあります。

 人口の七割を占める農民は、飯米に雑穀を
混ぜて食べていた時代でした。軍隊に入営すれば、
三度の食事が白米ばかりの銀シャリになることは、
兵隊たちにとって大事な約束事なのです。

 一方で海軍ではパンも食べさせました。
それによって偶然にも脚気が予防できていたのです。

 脚気の発症が少ない海軍では麦由来のパン
を食べている。そのことに着目して、陸軍が飯米
に麦を混ぜるようになったのは日露戦争後の
ことでした。

 前述の事情から、陸軍が銀シャリをやめるには、
かなり抵抗があったろうと思われます。キビシイ
兵営生活のなかで数少ない愉しみの一つが
銀シャリだったからです。

 ざっと御説明したとおり、脚気の蔓延は
構造的な問題でした。誰か一人に責任を
帰すべきことではないと思います。




●人口から見た日本戦史(戦争の台所事情3)


▼日本列島の動員力

 厚生白書によれば、二〇世紀初頭における日本列島の
人口は約五〇〇〇万人。同時期の米の生産高は
約五〇〇〇万石なので、歴史上の人口推計は
米一石=一人として行なわれる。その人口五〇〇〇万人
だった時期に、日露戦争が戦われた。これに勝利して
以後、日本国民総体を「一億」と呼ぶようになるが、
それには台湾や朝鮮半島の人口を含んだうえ、かなり
サバを読んでのことだろう。

 明治末の米の生産高五〇〇〇万石で戦国並みの
動員をかければ一五〇万人の兵力がつくれるが、
そんなには養えない。日露戦争全期間を通じ、
軍属を含めても、のべ一〇〇万人程度だ。満州平野
で兵力の枯渇を訴えている状況でも日比谷公園で
暴動を起こす若年層はたっぷり国内に残っていた。

 甲種合格で入営して兵役を経験するのは受検者
の一割程度といわれる。近代の軍事コストが高い
からでもあり、殖産興業政策を阻害しないよう労働力
を温存するうえでも、平時から常備できる兵員の限界
は二〇万人程度だった。常時二〇万人しか軍事教育
を与えられないのだから、戦争が始まってから一年
もかけて新兵を養成するようでは間に合わないし、
ロートルでも教育を受けた者を召集することになる。
だから予備役、後備役が大量に引っ張り出されたのだ。

 それはさておき、生産力と人口および動員力という
本題に戻ろう。

 江戸期の武家社会における一人扶持(ぶち)は一日
あたり米五合で、新暦の三六五日として一年分を
計算すると約一石八斗になる。多少なりとも余裕の
ある生活を望むなら二石くらい欲しいというところか。

 人口の一割をしめた武士階級は給与所得者だから
米で二石分の収入で生活を賄うとして、人口の八割
をしめた農民は雑穀も食べるし、農閑期には民芸品
の生産による副収入もあり、ならすと概ね米一石で
一人を養えるだろうと推計の根拠になっている。
 豊臣秀吉による太閤検地で、日本の総石高は
一八五〇万石だとわかった。だとすれば、日本列島
の人口は一八〇〇万人くらいだろうというのが定説である。

 それに対し、大名石高は農業以外の生産を換算
したものも含まれる場合があるし、単に米の生産高
だけなら、もっと少ないのだから人口も少ないんじゃ
ないかとの異論もある。たしかに大名石高は米以外
の生産力を米の生産高に換算して上乗せする場合がある。

 松前藩など米は一粒とて収穫できない地域にあって、
交易や漁業から得られる収入で経営されていた。
こういった例から考えると米一石=一人という基準値
もあてにはなるまいが、ほかに適当な基準値はないので、
ここでは仮にその計算が成り立つと考えて欲しい。

 戦国時代の兵力動員は、一万石あたり二五〇〜三〇〇人
と推計される。一八〇〇万石ならざっと五〇万人は動員
できる計算になる。秀吉が朝鮮半島に送り出した兵力は
慶長の役で一三万人程度だから、数的には余裕があった。
問題なのはよく指摘されるように輸送力だった。

 秀吉は生涯に何度も大遠征を経験している。四国攻めでも
一〇万人を動員した。このとき、秀吉は食糧の現地調達を
考えており、末端の兵にまで金銭を支給した。その銭で
現地の農民から米を買えというのである。ところが、四国
の生産力では一〇万もの人口が突然おしよせたところで
米不足になってしまう。買おうにも米がないのだから、
輸送するしかない。関西商人を動かして米を四国に運び、
それを兵に売って、先に支払った銭を回収するといった
不手際を演じてしまった。とかく大兵力の運用は難しいものなのだ。

▼江戸時代の人口減少

 米が貴重だった戦国時代までと、生産高が倍増した
江戸時代とを比較してみよう。

 戦国時代から江戸時代の半ばまで、日本は開拓時代
を過ごした。それまで谷間の傾斜を利用した水田が
多かったのに、平野部に水が供給され原野が水田に
なった。人口も増え、倍にまでなったといわれる。
しかし、人口は江戸後期には下降線をたどる。なぜわかる
かというと、耕地面積は減少するわけがないのに生産高
が減っているからである。

 江戸時代の農業は人力による耕作が主体で、
あまり牛馬を用いなくなった。戦国時代には国人(こくじん)
という土着の小領主が個別に農村を支配し、大名は国人
を通して税をとった。これが戦国大名の支配権が確立
していくにつれて、次第に大名が農村を直接支配する
ようになり、国人という中間層は家臣団に取り込まれたり、
帰農して農業経営に専念するようになった。そうすると
農業の経営単位が細分化される。個々の地主は小規模
農園として独立していくわけだが、こうした零細事業者
はコスト高の牛馬を用いるのが困難だった。

 江戸時代において農業生産力はマンパワーそのもの
だったと言い切っても過言ではない。新田開発ブームで
耕地面積は倍増したけれど、人口増加は追いつかなかった。
それでも新田を帳簿上の石高に加えてしまうと、役人は
額面どおりの年貢を徴収しようとする。労働力不足で耕作
できない田畑からも年貢をとろうというのだから、そうした
過度の負担は土地を持たない小作人にしわ寄せが行く。
それだと小作人はやっていけないので、小作料が安い
他の地域に移住する。なかには行き倒れてしまう細民も
あっただろう。労働力が空洞化した地域では、なお過重
な負担がのしかかる。そんな悪循環を幕藩体制は軍事的
恫喝という手法で乗りきろうとした。幕府は諸藩に堅く
禁じていた鉄炮の使用を許すようになり、農民一揆に
際しては威嚇射撃だけでなく射殺も黙認した。

 こうした苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は、大飢饉が
発生しても改められなかった。当時は多産傾向が
あったにもかかわらず、それ以上に若年での死亡が
多かったため、人口は少しずつ減少していた。
いわゆる「世直し代官」として知られる二宮尊徳は、
領内の石高を下方修正し、実質的な減税によって人口
の流出を食いとめ、経営を黒字に載せ、生産の余剰を
備蓄させたために大飢饉をも乗り切った。この例から
しても、人口減少は悪政のもたらした重大な結果だと
結論できる。

▼明治維新は無用の改革?

 明治は戦乱の時代であった。戊辰戦争から始まり、
佐賀の乱から西南戦争まで内乱がうち続き、台湾出兵、
日清戦争、義和団事変、日露戦争と、日本人は戦いに
明け暮れている。また、より豊かな生活を求めて少子化
傾向があらわれ、一世帯あたりの人口は平均五人に
減っているにもかかわらず、明治期を通して人口増加率
は一パーセント程度を保っている。それだけ世帯数が
増加しているからだ。

 歴史的に見れば、この増加率は微増でしかないが、
分母が五〇〇〇万人だから毎年五〇万人が増加した
計算になる。一人=米一石の基準値をあてはめると、
毎年五〇万石の増産が必要であり、それに相当する
経済成長が維持されたということでもある。

 日清戦争も日露戦争も軍事学的には勝利と考えて
差し支えないが、経済学的に考えると戦争目的は
達していない。採算性でいえば、赤字ともいえるのだ。

 日清戦争では賠償金で戦費を賄えたけれど、
ロシアの勢力が遼東半島に及ぶ結果を招いたため、
軍備増強と日露戦争を余儀なくされた。だから決算は
赤字である。

 日露戦争では賠償金を獲得できず、南樺太および
南満州鉄道の経営権を得た。南樺太は言うに及ばず、
鉄道事業にしても沿線の基盤整備がなされておらず、
むしろ資本の投下を必要としたのだから短期的には
大赤字である。そして、両地域の支配は半世紀と
続かなかったわけで、資本を回収するにも至らない
のは自明である。

 そのかわり国家の安全という目に見えない資本を
手に入れたわけだが、とうてい国民は納得しなかった。
戦争に勝ってなお国民生活が豊かになることはなく、
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を誓った戦争準備期と
同様の苦しさが続いたからである。このあたりの
悲惨さをもって、明治維新は無用の改革だったと
主張する輩も少なからずいるが、敢えて言おう、カスであると!

 たしかに明治は平和に縁遠い時代だった。しかし、
国民が大量に飢えて死ぬことはなく、人口は増加を
続け、それに見合う生産が確保され続けてきた。
台湾や朝鮮半島にも支配の手を延ばしたが、そこでも
住民を餓死させるほどの悪政には至らなかった。
あくまで比較ということでいえば、江戸時代よりは
ずっとマシな時代だったのだ。

 たとえ国民が飢え死んでも、平和であればそれで
良いのか? 否、飢えた国民に鉄炮を放つ時代を
平和と呼べるのか?

▼少子化が進む現代

 単純に、人口がゆるやかな増加を示すことが良い時代
の証しとはいえないのだろうけれど、一つの目安には
なるだろう。それからすると現代は悪い時代だということになる。

 生産力は、かつてない驚異的な成長を遂げ、
それでも人口は減少している。日本人はより豊かな生活を
求めて、子育てを放棄したからだといえよう。そういう
少子化の傾向は、すでに明治時代からあった。いまは
それが極端になりすぎている。

 現代の技術力は掛け算だから、生産人口が少なくても
技術が高度なら総合的な生産力は維持できる。おそらく
軍事力も同様で、兵器技術が高度なら多少の数的劣勢
は覆せる。

 だからといって、戦争という極限状況は言うに及ばす、
あらゆる危機的場面で最後にものをいうのはマンパワー
だということも肝に銘じておきたいところだ。

 私も五〇歳を過ぎて独身なので偉そうなことは
言えないが、読者諸賢におかれても、もし機会がある
なら逃さず結婚し、子を産み育てるよう、強く訴えたい。

 日本戦史にかぎらず、あらゆる地域の歴史を見て、
人口を減らしながら繁栄を維持した国家などありは
しないのだから。


(おおやま・いたる)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.5




陸軍機 vs 海軍機(5)       清水政彦

「零戦と隼(4)」
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□はじめに

こんにちは。清水です。
「零戦 vs 隼」の第4回です。今回は、両機の武装について見ていきます。

▼隼の12.7ミリ機銃

 隼の武装は機首の12.7ミリ×2のみという
印象があるが、実は計画時に要求された
武装は機銃×2のみで、翼内砲はもとより、
13ミリ級の搭載すら予定されていなかった。

 しかし、隼の試作中に生起したノモンハン
事件(1939年)で、陸軍航空隊は初めて
本格的な近代航空戦を体験し、7.7ミリ機銃
の非力さを知ることになる。

 これを受けて、陸軍では急ぎ13ミリ級
航空機銃の研究を始めた。当時、国内で
このサイズの機関銃を製造するメーカーは
存在せず、かといって独自開発する時間的
余裕もなかったため、外国製品のコピーが
検討される。

 一つの案は、イタリアから輸入した爆撃機
に付いていた「ブレダSAFAT」12.7ミリ機銃
をベースとするもので、もう一案は米国の
「50口径ブローニングM2」機関銃をベースに
するもの。両案ともに試作を行なって検討した
結果、弾薬のみをイタリア規格とし、銃本体は
ブローニングを採用(ほぼデッドコピー)する
という折衷型となった。

 こうして開発された陸軍型12.7ミリ銃は
通称「ホ103」と呼ばれ、試作銃が1940年に
完成。改良を経て1941年に「一式十二・七粍
固定機関砲」の制式名称が与えられ、ただちに
量産に入った。

 量産当初の「ホ103」は新兵器にありがちな
トラブルが払拭されず、頻繁に作動不良を
起こしたため、隼の武装は7.7ミリ機銃と「ホ103」
の混載からスタートし、「ホ103」の量産が進み
性能が安定するとともに12.7ミリ×2門に換装された。

 イタリア規格を引き継いだ弾薬は炸薬の入った
榴弾が用意されており、これが本家のブローニング
機銃にはない特色となっている(陸軍の
命名ルールでは、榴弾を使用する兵器は「銃」
ではなく「砲」となる)。

▼山本五十六の介入で決まった零戦の20ミリ機銃

 零戦の場合、計画時に「敵攻撃機ノ阻止」、
つまり艦隊防空が第一の任務として想定されて
いた関係上、高速・大型の攻撃機を短時間で
撃墜できる火力が求められ、主翼に20ミリ機銃×2
を搭載する前提で設計されている。このとき海軍
が目を付けたのがエリコン社(スイス)製の「FF」
という航空機用20ミリ機関砲で、給弾機構と
薬室閉鎖機構を省略する独特の設計により、
大口径の割にきわめて軽量にまとめられていた。

 もっとも、現場の戦闘機隊は20ミリ機銃の採用
に消極的で、携行弾数が少ない大口径機銃など
「百害あって一利なし」と切り捨てる意見もあった。
また、航空機といえども武装については艦政本部
の所管である。大型艦艇全盛時代の艦政本部に
あって、航空機銃を扱うセクションは決して主流
とはいえず、人事もそれなりである。官僚組織の
常として、前例がないうえに現場の人間に
嫌われる「流行りモノ」を導入するのは難事業で
あったようだ。

 20ミリ機銃の採用は、当時の航空本部長であった
山本五十六中将の強い指導により、保守的な
パイロットの意見を半ば無視する形で決定された。
山本中将は軍内部での職務管掌(しょくむかんしょう)
にも介入し、エリコン20ミリだけは特例として
航空本部で取り扱うこととした。

 航空本部は、それまで駆逐艦を作っていた
造船業者「浦賀船渠(せんきょ:ドック)」を通じて
1936年6月にエリコン社からライセンスを購入、
横浜の郊外に専用の工場「富岡兵器製作所」を
新設して生産体制を整える。

 前述のとおり、20ミリ機銃の導入は航空本部が
艦政本部の頭越しに強行したプロジェクトであるため、
工場の運営は海軍工廠ではなく、浦賀船渠が
新会社「大日本兵器株式会社」を設立して民間
資本で行なうことになった。

 富岡兵器製作所にエリコン社の技術指導員を
招き、「FF」のライセンス生産を開始したのが
1938年。翌39年には「九九式一号二○粍機銃」と
して制式採用されている。欧州大戦開戦前の
準平時であることを考慮すれば、異例の早業といえる。

 艦政本部は航空武装の開発に熱意を欠くところ
があったので、山本中将の剛腕がなければ、
この時点での20ミリ機銃採用は実現しなかっただろう。

 次いで、「FF」の強化型である「FFL」が「九九式
二号二〇粍機銃」として1943年から生産される。
弾丸の初速は「一号」で600m/sであったものが、
「二号」機銃では750m/sに向上しており、そのぶん
有効射程が長くなった。

 20ミリ機銃は、確かに7.7ミリ級の機関銃と
比べればはるかに大威力であったものの、弾数が
少ないのが泣き所だった。本家エリコン機銃の仕様
では、携行弾数は1銃あたり最大60発(弾倉の
故障防止のため通常は55発程度に制限する)。
1掃射あたり15発とすれば、4射で撃ちつくす計算になる。

「これでは空中戦ができない」という前線からの
苦情に応え、日本で独自に100発入弾倉を開発
(32型以降に搭載)したのに続き、大戦後半には
ベルト給弾方式を完成させ、「52型甲」以降の機体
がこれを搭載した。

 エリコン20ミリは世界中でライセンス生産され
大量に実戦投入されたが、ベルト給弾を実現したのは
日本だけである。

また、少ない弾をせっかく命中させても、弾薬自体や
信管に問題(この点は次回詳述)を抱えていたために、
本来の威力を発揮するには至らなかったようである。

▼威力不足の7.7ミリ機銃

 零戦の場合、弾数の少ない20ミリを撃ちつくした
あとは、機首の7.7ミリ機銃のみが頼りとなる。
しかし、海軍はノモンハン事件より前の1938年の
時点で、すでに7.7ミリ弾が威力不足であることを認識
していた。支那事変はノモンハンより約2年前の
1937年夏に戦闘が始まるが、その初期に上海方面
に出動した「九六艦戦」がある驚くべき体験をしたからである。

 真後ろから中国軍の「カーチス・ホーク」戦闘機に
襲撃された一機の「九六艦戦」は胴体後部に10発
以上の命中弾を受けたものの、その7.62ミリ弾は
一発も外鈑を貫通せず、弾はいずれも斜めに弾かれていた。

「九六艦戦」に装甲はないのだが、7〜8ミリ級の
銃弾は弾頭重量が軽すぎるため、金属板に浅い
角度で命中すると、先端部が金属板を貫通する前に
腹の部分を擦って滑り、軌道が変わってしまうのである。

 この情報はただちに東京にもたらされ、将来機の
武装は口径を拡大する必要があると報告された。
したがって、海軍では早い段階から7.7ミリ機銃の
非力さに気づいていたはずだが、これに代わる機銃
の開発は遅々として進まなかった。

▼遅れた海軍の13ミリ機銃

 海軍は1939年から7.7ミリ機銃の後継となる機銃
の研究を開始する。陸軍と同じイタリアのブレダ機銃
のほか、エリコン20ミリ機銃を14ミリ口径に
ダウンサイズしたものなど、さまざまな試作品がテスト
されたが、結局は米国の「ブローニングM2」をベース
としつつ、艦艇の防空用として生産されていた13.2ミリ
機銃(フランス規格)の銃身と弾薬を流用する案に落ち着いた。

 結局、陸軍と海軍は、回り道の末に同じ「ブローニングM2」
機銃をそれぞれ別の規格の弾薬に合わせて別々にコピー
するという壮大な無駄をしたことになる。

 しかも海軍では、陸軍よりも一足先に13ミリ級機銃の
研究を始めていたにもかかわらず、制式採用では2年
以上も遅れてしまった。

 海軍式13ミリ機銃はプロトタイプが1940年中に完成
しており、機能・威力ともに優秀な成績を収めていたが、
実用化に向けた作業には熱意がなく、制式兵器として
の採用は約3年後の1943年9月、量産開始は同年
10月までずれ込んでしまう。

 13ミリ機銃を搭載した零戦が前線に揃い始めるのは、
すでに敗色濃厚となった1944年の夏以降で、
ニューギニア・マリアナ方面での決戦には間に合わなかった。

 1940〜1941年頃の海軍工廠は、従来型の7.7ミリ
機銃および新採用した20ミリ機銃の増産に伴う転換
生産の対応に追われており、この2機種すら生産数が
所要数に満たない状態が続いていた。生産力が絶対的
に不足するなか、量産現場を混乱させかねない新たな
13ミリ機銃の採用には積極的になれなかったのだろう。

 しかし、初期不良が排除されないうちから、ただちに
13ミリ機銃への転換を図った陸軍の対応の早さと
比較すると、13ミリ機銃に対する海軍の取り組みは
何とも悠長と言わざるを得ない。

 海軍の場合、なまじ高威力の20ミリ機銃を早期に
導入していたために、非力な7.7ミリ機銃を代替する
必要性が痛感されず、これが結果的に裏目に出てしまった形だ。

▼13ミリ機銃は統一できたか?

 前述のとおり、陸海軍が同じブローニング機銃を
別の13ミリ弾薬の規格に合わせて別々にコピー生産
したことは、総力戦という環境下では下策(げさく)と
言わざるを得ない。一方で、現実問題として13ミリ
機銃を統一できたかというと、これはなかなか難しいところがある。

 日本の陸海軍は、増大する機銃の需要に供給が
追い付かない状況の下で、早急に13ミリ級機銃を
導入する必要に迫られていた。20ミリを採用して
いない陸軍としては、13ミリ級の導入に失敗すれば
丸腰同前で戦場に赴かなければならないから、
悠長に構えている海軍(艦政本部)の13ミリを待って
いるわけにはいかない。しかも、当時の海軍はエリコン式
の14ミリ機銃を本気で検討していたが、エリコン式は
全長が長く、携行弾数が少ない弾倉式かつ低発射速度
という弱点があり、隼のような小型機の機首に搭載して
制空戦闘に使うことはできないデザインだった。

 一方の海軍としても、低威力な割に加工に手間が
かかり量産性が低いイタリア式弾薬など使いたく
なかっただろうし、すでに存在するフランス式13.2ミリ
弾薬と銃身の生産ラインを遊ばせておく理由もない。

 1939年から検討を始めて1941年に開戦という
スケジュールを考えると、陸海軍が手持ちの資源を
出し合って規格を統一する「擦り合わせ」の時間は
なかった。そうであれば、すでに存在する生産ライン
を有効活用し、量産工程と補給を混乱させないためには、
手持ちの13ミリ弾薬に合わせて独自の13ミリ機銃
を開発するしか手はなさそうである。

 この「13ミリ機銃問題」は、しばしば「陸海軍の不和、
縄張り争い」という切り口でのみ語られがちであるが、
開発・量産・補給という一連の流れを真剣に考えれば、
こうした見方は片手落ちであるように思われる。

 この問題は結局、大口径機銃を独自に設計開発
できず、もっぱら輸入に頼っていた技術後進国の
悲哀というべきだろう。

 たとえば、有名な「ブローニングM2」機関銃は
元来陸戦用の重機関銃であり、プロトタイプの設計は
1918年に始まり、1921年に完成している。米軍への
制式採用は1933年、両軍共用の航空機銃となったのは
30年代末であり、十分な熟成期間を経てようやく
統一規格になっている。

 日本の場合、デッドコピーとはいえ完全にゼロの
状態からわずか2年で量産に漕ぎ着ける必要があり、
その後も大量の弾薬を供給し続けなければならない。
13ミリ級機銃を急いで戦力化するためには、
陸海軍がそれぞれすでに導入していた弾薬の規格
に合わせるという非効率を敢えて選択せざるを
得なかったのである。

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.6




『楠木正成の統率力 【第12回】 敵将の短慮につけいる』
          家村 和幸
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▽ ごあいさつ

$(lastName)さま

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 以前の記事(第5回掲載文)で、『太平記』に
出てくる「数十万」や「百万」余騎といった現実
にはありえないような軍勢の兵数について、
その目的が「異国に誇張した兵数の情報を流す」
ことにあったと述べました。

 千早城を包囲した鎌倉幕府の軍勢に
つきましても、『太平記』では、「当初の軍勢が
八十万騎であったところに、赤坂を攻めていた
軍勢や吉野を攻めていた軍勢が駆けつけて
加わり、百万騎を超えた」と記してあります。
このことについて、『太平記秘伝理尽鈔』では
以下のように解説しています。


 東山・東海二十三箇国の兵八万余騎、
北国・山陰・山陽・西海・南海の軍勢十万三千余騎
(合計すれば、十八万三千余騎)というのが、
六波羅に到着する前の兵数である。それを
八十万騎などと恐ろしく『太平記』に書いたのであった。
 (巻第六 関東の大勢上洛の事)

 諸国の軍勢は二十四万六千余騎であったと
古い書物に記されている。それに対して昨今では
百万と云われているのは、東国の軍勢一を以て
七(七倍)とし、西国の軍勢一を以て三(三倍)と
して記述していることになる。これらは以前に
論評したとおりである。 (巻第七 千剣破城軍の事)


 つまり、『理尽鈔』によれば、千早城を囲んだ
幕府軍は「当初の軍勢が18万3千余騎であった
ところに、赤坂を攻めていた軍勢や吉野を攻めて
いた軍勢が駆けつけて加わり、24万6千を超えた」
ということになります。

 それでは、本題に入りましょう。今回は、前回の
「千早城外での夜討ち」の続編です。


【第12回】 敵将の短慮につけいる

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


▽ 夜討ちで敵の軍旗を奪い取る

 千早城を水攻めにしようとした名越の軍勢を
夜討ちにより撃退した楠木軍は、混乱に紛れて
名越の旗や大幕などを奪って、整然と城内に
引き上げた。そして翌日、城壁に三本唐笠の紋
(名越氏の家紋)が描かれた旗と大幕を広げて
見せつけながら、叫んだ。

 「これらの物は皆、名越殿から頂いた御旗
ですぞ。ところが、御紋が入っているので
他の者には役に立ちませぬ。そちらの陣の
方々、こちらに来られて、お持ち帰りくだされぬか」

 そして、声をそろえてドッと笑った。これを
見た幕府軍の武士たちは、「ああ、これは
名越殿の大失態であるな」と口々にせぬ者は
無かった。名越家の人々は、この事を聞いて憤慨し、

 「我等が軍勢どもは一人残さず、城の木戸を
枕に討ち死にせよ」

 と命じた。これにより、名越の軍勢5千余人は、
決死の覚悟で討たれても、射られてもひるまずに、
屍(かばね)を乗り越え乗り越え、城の逆茂木の
一段目を破壊して、城の崖下まで攻め込んだ。
しかし、そこには崖が高く切り立っていたので、
くやしいが登ることもできず、なすすべもなく、
ただ城を睨(にら)みつけるばかりで、怒りを
抑えて荒れた息を静めていた。

 その時、楠木の城兵が、崖の上に横にして
積み置いた大木十本ほどを繋いだ綱を切った。
大木は急激に転がり落ちて、寄手の兵士ら4、5百人
ほどが将棋倒しになり、圧死した。これを避けよう
として慌てふためき、騒いでいるところに、
四方八方の櫓から狙い定めて、ここぞとばかりに
矢を射かけてきた。5千余人の兵士らは残り
少なくなるまで討たれ、戦いは終わった。


▽ 夜討ちの日、正成は論功行賞

 夜討ちから帰ったその日、千早城では音もせず、
城内が静まりかえっていた。それは、楠木が
城に帰ってから時を移さずに、各人の高名
(=活躍ぶり)などをその将に述べさせて、
少しでも人より勝れた功績があった者は、これに
賞し、相応の引き出物などを与えていたのであった。

 夜討ちに参加した城兵たちを前に、楠木は
次のように語った。

 「いつも申しておるように、各々の人に勝れる
高名は、実にあっぱれであった。そうでありながらも、
このことは各々の高名だけではない。諸卒の誰も
が命を惜しまず、敵陣に攻め込んで行ったこと
によるのである。そうであれば、手柄をあげた
六十九人の高名は、総じては三百人の高名、
別しては六十九人の高名である。三百人の高名は、
三人の将(湯浅六郎、北辻玄蕃、楠木三郎)の
心構えがしっかりしていたからだ。」

 こう云って、一番に大将を呼び出して、白銀
三十両を各々に与えた。次に六十九人を呼び
出して、諸人から高名の次第を問い、本人にも
語らせて、これを賞賛して、身分に随って白銀
並びに銭貨を与えた。また、蔵の中から木綿布・綿
などを取り出して、裏表に綿を添えて与えたのであった。

 こうして日も漸(ようや)く傾いてきた。


▽ すぐには名越の旗・幕を掲げなかった楠木

 このように表彰していると、北辻玄蕃が正成に
申した。

 「なにゆえ、今朝取ってきた名越の旗・幕を敵に
見せて、笑いものにしないのでしょうか。」

 北辻がこのように問うと、正成は次のように
答えたのであった。

 「よくぞ言ってくれた。私も忘れていたのではない。
今朝の寄手の騒ぎは、上を下にと大混乱に陥って
いる。この時に名越の旗を城中に掲げて笑った
としても、敵は動転している最中であれば、
見つける人も在りはしなかっただろう。

 また、万が一にも寄手が誤って、『名越殿の
軍勢だけが城中へ入って、楠木と戦っている』、
などと一人が言い出したならば、事の由を知らない
人は、そうかと思うであろう。そして、数万の敵軍
が競いながら、城へ雲霞のごとく攻め上ることに
なり、この軍勢は鬼神のごとく行動するだろう。
そうなれば、城の守備も危うくなるものと予想
されたので、これを思い留まっていたのである。

 明日になれば、寄手の諸卒も事情をよくよく
聞き及んでいるだろうから、早々にあの旗を出して
笑おうではないか。その時、敵が攻め寄せて
来るならば、また敵を打ち倒す作戦が必要になる
だろう。」

 こう云って、終夜(よもすがら)崖の上に大木を
横たえ、石弓をはり直させるなどして、敵人に
大損害を与えたのである。実に優れた謀であるものだ。


▽ 楠木の挑発に乗った名越の短慮

 楠木勢が名越の旗・幕を城壁に立てて笑った
のを聞いて、名越一家の大将らが大いに怒って、
「我が軍勢は一人も残らず城を枕にして討死せよ」
と下知したのは、短慮(=思慮が足りないこと)である。

 先立って諸国七道の軍勢どもが、数日間攻めて
さえも落ちなかった城を、名越一家がこれに
代わる手立て(=作戦)も無く攻めたところでどうして
落ちることがあろうか。その上、「良将は落とすこと
ができる手立てを見つけ出さなければ、城を攻める
ことはない」とさえ云われる。たとい百万騎の勢で
攻めたとしても、今のような状態で謀(はかりごと)も
無く攻めるならば、この城が落ちることは絶対にないのだ。

 それにもかかわらず、楠木には、寄手に腹を
立てさせ、城を攻めさせたところを討とう、という
企みがあったのを、笑われ、腹の立つままに攻めた
のは、十分な配慮に欠けている将だということで
ある。


▽ 腹を立てるのは愚人の為すところ

 どんな場合にも、賢い人は腹を立て、怒ることが
ない。腹を立てるのは、愚人の為すところである。

 なぜかと云えば、人が無道をすれば、我はそれに
与しないまでのことだからである。人が何らの過ち
も無いのに過ちを犯したと云うのであれば、詳細
にわたり弁明するまでのことだからである。忘れ
難いほどに深い恨みがあれば、その人に参会しない
までのことだからである。そして、人が危害を加えた
なら、我も報復するまでのことだからである。
ただ腹を立てたところで、何の効果があろうか。

 こうしたことから、道に適っている人は、怒らず
にその事をなすのを以てよしとするのである。
ただし、郎従・家の子などを諌(いさ)めるには、
腹は立たなくても、怒っているふりをすることがある。

 内心から腹を立てるのは、全て物の意を弁えて
いない人の為すことではないか。並外れて
怒りっぽい人には、僻事(正常でない、まともで
ない事)が多く出て来るものである。こうしたこと
からも、仏は怒り怨むことを戒め、神は慮りが
短いことを嫌うのである。

 特に人の上に立つべき人が腹黒ければ、
非道に命を奪い、無意識のうちに罪を作り、
物狂わしい事ばかりが多くなってしまう。その上、
主将などが腹悪しければ、家臣は恐れて下々
の訴えが上に通じない。訴えが通じなければ、
国が乱れる。国が乱れたならば、亡ぶもので
あるのだ。

 そうであるから、この度の名越もこうした道理を
知っていたならば、その恥を悔いて、心を鎮めて
謀をめぐらし、朝夕にこれを思うならば、
日を経て、年月を経ても、どうしてこの恥を
すすがないことがあっただろうか。

 名越は智が浅く、腹悪しき者であったがため、
日を経ずして二度も楠木の謀に落ちたのであった。
常に賢い者でさえ、腹悪しければ、智恵は失せる
ものである。まして盲将で腹が悪しければ、
どうしてよい事が起こりえようか。


▽ 短慮は失うものが多い

 思慮が足りなければ、過失が多くなる。

 一には、後悔が残る。
 二には、物狂おしい。
 三には、その愚が顕れる。
 四には、智ある人が親しまず。
 五には、他人に仇の思いをなす。
 六には、器量・才能をだめにしてしまう。
 七には、病が生じる。
 八には、争いが多い。
 九には、苦労が多い。
 十には、衆悪を発するということである。人たる者は十分承知しておくべきことである。

 今の名越の人々には、これらの損失が多々ある。
人が多く死んだことへの後悔があるだろう。油断し、
不覚にも夜討ちに遭ったことへの後悔もあるだろう。
郎従たちに死せよと下知したのは物狂おしい。
油断したのも、死せよと云ったのも、その愚かさ
を露呈しているのである。定めし後悔があること
だろう。また、死んだ郎従と親しい人々は、君主
に従ったことで危険な目に合って死んだので
あるから、智が有る人はこれを闇主であると
思って親します、あるいは恨みの念をも抱くこと
になるだろう。

 何とも浅ましいことである。


(「敵将の短慮につけいる」終り)


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.8




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (7) ─ 潜水医学実験隊(その5) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。

去年まではエアコンを「28度微風」にして、
冷えないと一時的に設定温度を下げたり、
十分冷えたと思ったら一度消したりして
いました。

今年は室内気温が30度過ぎたらオン、
「29度自動」で就寝までつけっ放しにして
みたら、なんと先月に比べて3000円も
電気料金が安くなり、のけぞらんばかりに
驚きました。正しいエアコンの使い方、
ついにマスターしました。


■潜水医学実験隊(5)

前回は飽和潜水員になるまでの課程
などについてご紹介しました。今回は
飽和潜水が人間の身体にどのような
影響を与えるかという話からです。

飽和潜水については第1回で説明しましたが、
もう一度おさらいしておきます。普通は
大気圧(1気圧)で空気(環境ガス)を呼吸
している人間の体は、潜水して加圧されると、
空気中に含まれている窒素などの不活性ガス
が体内で溶け始めます。このガスが気化して
気泡となり血管を閉塞すると減圧症を招く
恐れがあるため、通常は深く潜ろうとすれば
するほど減圧に要する時間は長くなります。

その一方で、ある深度にそのまま滞在し続けた
場合は、それ以上は不活性ガスが溶け込まない、
つまり飽和状態となります。この状態を利用して
潜水するのが飽和潜水です。体がいったん飽和
状態に達すれば、その後どれだけ長時間海底に
滞在しようと、体内の不活性ガスの量がそれ以上
増えることはないので、減圧時間は変わりません。
これが飽和潜水の最大の利点です。より深い
深度での潜水作業が長時間可能となるだけでなく、
大気圧復帰の減圧が一度で済むので通常の潜水
より潜水効率もよくなります。

いいことづくめに聞こえる飽和潜水ですが、「潜水
医学実験隊」という部隊名称からも想像がつくように、
人間の体にもさまざまな影響を与えます。そういった
部分を研究するのも部隊の役目なのです。

DDCに乗り込んで飽和潜水を行う際、人間だけ
でなくおのずと食料も加圧されます。すると、開封
していないカップ麺は、そのままの形でサイズが
1/4ほどに縮小してしまいます。メロンは透明に、
ホイップは液体にといった変化もあります。不用意に
飴を食べると、飴玉の中の気泡が口の中で破裂して
大けがにつながる恐れもあります。また、飽和潜水員
の味覚や食感も地上にいるときとは異なり、喉に
詰まらなくて食べやすいお茶漬けなどさらさらした
食べ物が好まれます。

飽和潜水前には十分な健康管理が必要とされ、
潜水員たちもその点は徹底しています。鼻が詰まった
状態での潜水は極めて危険ですし、飽和潜水中
に咳をすると大気圧と衝撃が異なり、胸郭にもろに
響いて大変痛いのだとか。また、水中で二酸化炭素
が出てしまうため、飽和潜水前は喫煙者も煙草を
控えます。ちなみにDDCでは声もヘリウムガスを
吸ったときのように甲高くなるそうです。

さて、飽和潜水がスタートすると、飽和潜水員は
約1か月もの間DDCに拘束されます。そのため、
家族が会いに来てくれることもあります。窓越しに
お互いの姿を確認することができますから、
飽和潜水員にとっても大きな励みになるでしょう。
差し入れも持って来てくれるそうですが、それは
DDCの中にいる家族へではなく、DDCを管理して
いる隊員たちへのもの。「主人をよろしくお願いします」
というわけです。

潜水医学実験隊でもっとも脚光を浴びるのは
飽和潜水員です。けれど6名の飽和潜水員が
1か月間DDCで過ごすためには、その何倍もの
隊員の支えが不可欠です。戦闘機がパイロット
ひとりの力では飛ばせないように、飽和潜水も
潜水員の力だけでは決してなしえません。
差し入れが夫にではなく、夫をサポートしてくれて
いる隊員たちへというのも、よくわかります。

次回は潜水医学実験隊の最終回です。



(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.7




楠木正成の統率力  【第7回】敵意を解いて服属させる
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

$(lastName)さま

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一
から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、
それぞれの巻の作者について紹介いたします。

(引用開始)

 (建武御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿
にて新田義貞を召されてから)数日を経た後、
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)卿が勅を
承って、北畠の玄恵にこれを伝えた。玄恵は、
義貞に会って、鎌倉幕府の滅亡について記した。
次に、足利高氏・直義に会って、かの陰謀と
六波羅の滅亡について記した。今の九・十の両巻
がこれである。

 後醍醐天皇は、お褒めになられて、玄恵を
三品の僧都になされた。当時、天下の武臣は
これを伝え聞いて、元弘に功績があった者は、
自分の功績が隠れて、この書に顕れていない
ことを恨み、功績が無い者は、これをうらやまし
がった。これによって、再び玄恵に命を下して、
先ず正成の武功を記すようにさせた。

また、玄恵は藤房卿に会って、笠置の戦い、
後醍醐天皇から皇子・摂政の臣、下六位に至る
まで、鎌倉幕府のために苦しまれたことを記した。
三・四・五・六の巻がこれである。
ここに、大塔尊雲法親王・妙法院法親王(尊澄)等
が苦しまれた御事、中でも大塔宮が南都・吉野・
十津川において、虎口の難を遁れられた様子を
玄恵に命じて記させたのである。

また、赤松の戦功についても、同じ作者である。
ただし、律師則祐が会談した。これが、今の
七・八の両巻である。

初二巻は、山門(比叡山延暦寺)の来賢方印が
玄恵と会談して、これを記した。

全部で十巻、これまでを義貞鎌倉の物語と云い、
あるいは高氏六波羅物語と云い、あるいは
赤松合戦記と云う。正成一人だけはその名を
云われることがない。

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

 それでは、本題に入りましょう。


【第7回】敵意を解いて服属させる


▽ 楠木、赤坂城を急襲して奪還

 元弘元(1331)年9月、赤坂城で自害して
焼死したとみせかけ、城を落ちた楠木正成は、
金剛山の奥にある観心寺という所に忍んでいた。
楠木の郎従5百余人も、大和・河内・紀伊の山中
に散らばって潜伏していた。また、笠置山を
逃れられた大塔宮は、吉野に一城を構え、御陣を
召されていた。

 鎌倉幕府が地頭として河内へ配置し、赤坂城
を占領していた湯浅定仏は、楠木が死んだものと
信じて安心しきっていた。そこへ、元弘2
(1332)年4月、楠木正成が五百余騎を
率いて押し寄せてきた。城中に兵糧を蓄えて
いなかった湯浅は、あわてて自分の領地である
紀伊国の阿瀬川から兵糧を持って来させた。
赤坂城内に潜入させていた忍びから、このこと
を聞きつけた楠木は、宗徒の勇士3百余人を
紀伊と河内の境にある木目峠(現在の紀見峠)
に派遣した。

 木目峠の楠木勢は、湯浅の兵糧運搬隊を襲撃
して兵糧を全て奪い取り、空になった俵に武器
などを詰め込んだ。そして、兵糧を運ぶ人夫や
その警備兵と、これを追う軍勢に扮して、赤坂城
の敵兵から見える場所で追ったり逃げたりの同士
討ちを演じた。湯浅入道はこの様子を見るや、
すぐに手勢を城内から打ち出し、この偽の兵糧
運搬隊を城内に引き入れたのであった。

 赤坂城内に入り込んだ楠木勢は、俵の中から
武器を取り出して武装し、閧の声を挙げた。
これを合図に、城外に控えていた軍勢も城の木戸
を破り、塀を乗り越えて攻め込んできた。
こうして楠木の軍勢に取り囲まれた湯浅は、
とても戦うことが出来ないと考えて降伏した。


▽ 八尾の別当を服属させた正成の智謀

(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺
に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)

 正成が赤坂城を奪還した後、同じ河内国の
住人・八尾の別当顕幸(やおのべっとうあきゆき)
を味方に引き入れようして説得すると、顕幸は
やがて百五十騎で馳せ参じて、正成に服属した。
この八尾の別当は、昔から正成の父・正玄(まさとお)
と領地のことで常に争っており、楠木氏に対する
遺恨が深かった。それが、どうしてこの時に服属
したのかと云えば、それは正成の智謀が深かった
からである。

 正成は赤坂城の奪還に向かう以前、大塔宮に
次のように申し上げていた。

 「八尾の別当顕幸は、武勇の誉れある者で
あります。彼が味方として参らなければ、
河内の賊を退治することは難儀でありましょう。

 この男は、意思は浅くして正直な法師で
ございます。常に官位を意識する者でございます。
しかしながら、正成とは、とある事情から不和
にございますれば、正成が赤坂に出向いてから
後は、何を仰せられても、勅(=天皇のお言葉)
に従うことはないでしょう。それゆえ、八尾の
別当には令旨をお与えになられて、彼の気持ち
を和らげて下さい。そうすれば、必ずや味方に
参って、帝に忠誠を尽くして戦うことになりましょう。

 先ず、謀として八尾の別当に「権僧正」の号
(僧正は最上位の僧官。大・正・権の三階級が
あり、権僧正は参議に相当)をお与えになり、
天下が安らかになった後には、恩賞を望みどおり
与える旨を仰せになってください。」

 楠木がこのように申したならば、大塔宮は
「彼の敵意が解けて、味方となってくれるので
あれば・・・」と仰せられ、すぐに令旨を顕幸に下された。


▽ まず虚栄心を満たし、次いで気心を解く

 顕幸は、「法師であるこの私に僧正を下されよう
との事、武士の面目もまた余りあること」と大い
に喜び、味方となって義戦に与(くみ)しようと
申してきた。しかし、それには次のような条件があった。

 「ただし、宿敵である楠木正成の存亡については、
風のうわさにいろいろと聞いております。もしも
彼が生きていて、宮方に忠誠を誓って戦うようで
あるならば、顕幸の軍が帝に忠を尽すことは絶対
にないものと心得て下され。」

 これは困ったことになったと思し召しになられた
大塔宮は、この由を正成にお伝えになられた。
正成が申すには、

 「事情はよくわかりました。それでは令旨に代えて、
彼の気持ちが打ち解けるよう、このように申して
いただきとうございます・・・」とのことであった。

 そこで、大塔宮は遣いの者を通じて、顕幸に
次のように仰せられたのであった。

 「正成の存亡は全く承知していない。世間の
うわさでは、あるいは存在し、あるいは亡き者で
あり、実はどうなのかは何とも言い難い。しかし、
正成が生きているのであれば、なぜ私がいる吉野山
に参らないのであろうか。万一、楠木が存命して
いて、河内に出没したとしても、今まで私に与せず
して、別の企てがあったというのなら、何ほどの
忠誠心があろうか。これでは朝敵と同じようなもの
であろう。この後、正成が私に味方すると申し入れて
きても、全く用いるつもりは無い。」

 これを聞いた顕幸の気心は解けて、「是非、
宮の御味方に参りましょう」との勅答を申した。


▽ 実力を見せつけながら、下手に出る

 それから十日ほどして、正成は湯浅定仏が占領
している赤坂城に攻め寄せた。これを知った顕幸が、
大塔宮に「御存知でございますか」と尋ねると、
大塔宮は「存じておらぬ」と仰せられた。そのため、
顕幸は赤坂への後詰めをしなかった。

 赤坂城を攻め落として、威信が強まってから、
正成は顕幸の元へ次のように申し伝えてきた。

 「正成は実に愚か者でありますので、この
(赤坂城奪還という)一大事を思い立つや、帝の
御為を思うあまり、自分が死んだことになって
いるのをすっかり忘れておりました。これまで
死んだふりをして、朝敵から隠れ忍んでいたなど
と云う卑怯な行跡(ふるまい)を、世の人々も実に
苦々しく思われていることでしょう。そして、
貴僧が訴えられたことで、大塔宮もさぞかし正成
を不審に思われておられるに違いありません。

 私を以て公の事を忘れるのは、人たる者のしては
ならないことでございます。従いまして、今日以降
は、昔からの恨みをお忘れください。そして、
正成には全く不忠の心はございませぬことを、
どうか大塔宮にお伝えになってください。今は
父祖の恥を忘れて、そなたに降参いたします。
朝敵を追罰するにあたっては、八尾の別当顕幸殿
が万事を取り仕切っていただきたく、お願い申し上げます。

 それさえも、叶(かな)わないということであれば、
なす術もございません。そうであれば、そなたは
私の敵、はたまた、私の朝敵退治の支障ともなります
れば、天下の御敵でございますから、そなたの館へ
参って、一戦を交えましょうぞ。」


▽ 相手の心を討つ楠木正成の謀

 正成がこのように申したので、顕幸はあわてて
応えたことには、

 「いやいや、楠木殿が心の底から宮の御味方で
あられたことは、早速、御所に伝えましょう。私的な
事で戦うようなことは、今の楠木殿には相応しく
ありません。また、仰せられることも実にもっとも
でござる。貴殿のような名将が降参された上は、
これ以上の面目はございません。」

 そして、さらに申すには、

 「大塔宮が御不審に思われている事は、この顕幸が
よき様に申しておきましょう。これから後は、宮の
お近くで一緒になって忠節を尽しましょうぞ。」

 こうして、かつての宿敵であった八尾の別当顕幸は、
その勢百五十騎を引き連れて赤坂に参り、正成と一手
になったのである。こうした楠木の謀こそ、最も恐る
べきものである。後にこのことを、正成が八尾の別当
に語ると、顕幸は笑って、「あの時は、実にうまく
謀られてしまいましたなあ」と云ったものである。

 この一件があってから後、和泉・河内両国に所在する
御家人は皆、正成に随順して、その勢力が強大になって
いったという。

(「敵意を解いて服属させる」終り)



(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.7.4




平成23年(2011年)9月9日(金)発行 ◇◆◇

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ついて執筆活動を展開しております。     ライター・平藤清刀
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● 戦う日本人の兵法 闘戦経(3) 〜兵の道にある者は能く戦うのみ〜
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▼詭譎と真鋭

漢の文は詭譎有り、倭の教は真鋭を説く。詭ならんか詭や。鋭なるかな鋭や。狐を以て
狗を捕へんか、狗を以て狐を捕へんか。
(闘戦経 第八章)

 シナの諸文献によると、全て相手を偽り欺くのがよいとしている。これは、代々易姓
革命が行われ、度重なる戦乱に見舞われ、支配者が変わる毎にその帰趨従属を巧みに変
えて時流に便乗してきたシナ人の民族性によるものである。

 古来シナ人の日常生活は変転常なく、処世保身の術に慣れ、用心深く陰険で、しかも
修辞に富み、大袈裟な形容を好み、口先だけで巧く言うことに長じ、令色を事としてき
た。家族生活においても、一家内に多数の妻妾が同居し、実子庶子が群居生活するので
利害感情の衝突や嫉妬による足の引っ張り合いが絶えなかった。しかも外面上は礼譲恭
順をつくろい、本心を隠して腹を打ち明けず、自己の面目と利益と名声を保つことに
汲々としてきた。これらが習性となり、相手を偽り欺くことがシナ人の性情となった。

 兵法においても、孫子が「兵は詭道なり」と言い、魏武注に「兵に常形なし詭詐を以
て道となす」とあるように、権謀術数を多用して表裏をかけ、敵を欺き偽って勝つこと
を軍の常套手段としている。

 日本の教えによると、真と鋭を以て正々堂々と破邪顕正の実をあげる「まこと」を尊
ぶべしと説く。「まこと」は人の心の最も純粋なもので、万物に通じ、和し、育てるも
のである。「まこと」は「誠」であり、「真事」であり、「真言」であるとともに、言
事一致、即ち「言う事を必ず行うこと」である。「まこと」により、道理の真、道徳の
善、芸術の美は一体となり、この真によって、知・仁・勇の三徳も一に帰する。真を以
てすれば、真の理に適い、真の備えに拠り、真の力を揮い、真の時をとらえて必ず成
る。

 鋭とは鋒尖のするどく、速いことである。孫子には「鋭卒をば攻むるなかれ」「鋭は
精鋭なり」とあるが、日本においてはさらに優れた絶対的な鋭さを示す「真鋭」でなけ
ればならない。この至高無比の真鋭こそが我々日本人の『武』の本性である。

 偽って勝つのがよいというのは偽りであり、兵道は欺くことであると言うこと自体が
人を欺いている。偽り欺くことは天の理に合せず、勝利を収める手段にはならない。

鋭いのがよいというのは鋭いことである。日本の武の精神である真鋭こそが、敵を制す
るの元である。

狐を使って詭譎妖怪変化の「術」でたぶらかして犬を捕えようとするようなシナの兵法
がよいか、それとも真正率直な犬の「実力」を使って直ちに狐を捕えるような日本の兵
法がよいか。もちろん『天地を貫く至誠真鋭』を最も尊び、常に正々堂々と闘う日本の
兵法のほうが優れていることは言うまでもない。


▼正々堂々とよく戦う

兵の道にある者は能く戦うのみ。
(闘戦経 第九章)

 兵の道における必勝の要訣は、真鋭を以て正々堂々とよく戦うことである。

権謀術数をめぐらし、策を弄して敵を偽り欺いたところで、兵の道が尽くされることは
ない。兵道とは「平道」であり、この世に真の平和をもたらす道である。平和とは、
凸凹をたたき和らげて平らにすることである。これを実行する力が「兵力」である。

暴徒を鎮圧し、まつろわぬ集団を従わせるには、優れた兵器で武装した真鋭なる兵が、
その実力に適ったはたらきを与えられ、手際を強く正しくさばいて闘うことにより、
一気に勝利を得なければならない。

 このためにも、軍隊は平素から心身共に健全なる兵を徴してこれに訓練を施し(練
兵)、兵器や糧食を備蓄するとともに戦略・戦術上の必要性に応じて陣地や要塞を構築
し(造兵)、情報を収集して周到な作戦を計画(用兵)して、いざ開戦となれば持てる
力を遺憾なく発揮できるようにしておくのである。

 戦うにあたっては、木目や筋目に沿って木や竹を割るように勝つべき理と機を知り、
これに乗じて破竹の勢いを持って一心不乱に進み、正しく、速やかに勝つことが重要で
ある。

このように兵の道にある者は、運に頼らず、よく備え、理に則り、正道を踏み、堂々と
しかも一意専心よく戦いさえすればよい。そのためにも、日ごろから心身を鍛錬し、
己の勤めに力を尽くして励み、難行苦行を積み重ねることにより人より優れ、敵に勝る
実力を貯え、その場に臨んでよくこれを活用し得るようにしておかなければならない。

つまり、真の武を骨と化して識っておくことが重要なのである。


▼懼れと覚悟

孫子十三篇、懼の字を免れざるなり。
(闘戦経 第十三章)

孫子は十三篇、すなわち始計、作戦、謀攻、軍形、兵勢、虚実、軍争、九変、行軍、地
形、九地、火攻、用間を通じて戦争を論策し、兵家の道を残すところなく説くものとし
て推奨されている。

不戦、政治外交優先、万全主義を特徴として、第一に「兵は国の大事」、第二に「やむ
を得ないときでも政治的、外交的決着を図れ」、第三に「実力行使では最小限の損害で
勝利することが肝要」と強調する孫子であるが、終始を通じて「実を避けて虚を撃つ」
等の計謀を説く逃避的な考えであり、結局は敵を懼れる考えから免れることができな
い。

懼れの念は、危険、苦痛、死といった危害がその身に迫るのを覚えたとき本能的に生じ
る予感である。これに対する覚悟が無ければ、あわてふためき、逃げ隠れ、卑怯未練の
ふるまいをする。孫子の「兵は詭道なり」も、その根源はここにある。

それに対し、身に迫る危害に対する覚悟があれば、懼れの念を懐くことがない。この覚
悟は、危害を克服する自信と実力によって芽生え、殉じて悔いなき大義や理想により確
固たるものになる。実際に危害を排除し、敵を撃ち砕くことができる実力を有していれ
ば、あらゆる禍患を跳ね返す必勝の信念をもって懼れの念は一擲される。

圧倒的に優勢な敵と相対し、莫大な危害が身に降りかかっても、大義に徹し、崇高な理
想の達成という希望に導かれている場合、人は懼れの念を懐かない。たとえ自分が死ん
でも同胞と祖国を護るためであれば、それは最高の名誉であり、我が霊は常世の国に
栄えることを確信するからである。

文永の役において、元・高麗軍が対馬の小茂田浜に大挙殺到して上陸したとの急報を受
けた守護代・宗助国は、自ら八十余騎を率いて千余の敵を迎撃し、壮烈な玉砕を遂げ
た。この際、宗助国以下一族郎党は、群がる敵軍の中、これぞ男児の本懐とばかりに、
顔に決死の微笑を浮かべて切り込んでいったと伝えられている。

大義に殉ずる誠の祖国愛、民族愛があれば、死地に臨んで懼れることなく、人生意気に
感じて喜び勇んで進むのである。剛毅大胆の真勇は、『武』を骨と化して識る人だけに
具わる高い徳である。


▼最期まで意気盛んであれ

気なるものは容を得て生じ、容を亡って存す。草枯るるも猶ほ疾を癒す。四体未だ破れ
ずして心先ず衰ふるは、天地の則に非ざるなり。
(闘戦経 第十四章)

 人は体が形成されたならば、生誕し、活動する。こうした生動は、気が体を従わせる
ことにより成される。気とは、目に見えない心のはたらきである。

地上のあらゆる存在も、まず目に見える容(かたち)を得て、気が容の中に宿り、万物
が顕現してその機能を全うする。この気は、容が亡くなっても存在しつづける。気は永
久であり、容は一時的である。

薬草は枯れてもその精分が残って病気を癒やす。これは生きている間に充分な精分を水
とともに貯えてきたからである。これこそが薬草の気である。人もこの世に生を享けて
気と体を得たならば、剛毅を旨とし、生涯をかけて心を磨き、体を鍛え、技を練ること
により自己を高め、人々を愛して生きがいのある充実した生き方をすべきである。

万物の霊長たる人間ほど偉大な気を有するものは他に存在しない。然るに荘子が「哀し
きは心の死するより哀しきはなく、身の死するはこれに次ぐ」と説いているように、身
体がまだ生きているのに既に心が衰え、生きがいも死にがいも無いような生ける屍をさ
らすのは、霊魂不滅の教えに反するものである。

戦においても、平家の軍が富士川の水鳥の羽音を敵兵の喊声と聞き違えて総退却したよ
うに、古来戦わずして敗れた軍の多くは、先ず将兵の気が衰え、あるいは相手に屈して
いた。これらは天地の則に違うものである。

 戦場にあっては、湊川における楠公や大坂城下の真田幸村の如く、四体破れるといえ
ども最期まで意気盛んでなければならない。毛利元就は前後に敵を受けて莞爾として笑
いながら前の敵を破ったという。気はこのようにあらねばならない。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html




陸軍機 vs 海軍機(6)       清水政彦

「零戦と隼(5)」
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□はじめに


こんにちは。清水です。

「零戦 vs 隼」の5回目です。今回は、あまり注目
されない「弾薬」について見ていきます。

 その前にお知らせです。いま発売中の
月刊「文藝春秋」9月特別号「太平洋戦争70年─これ
だけは知っておきたい戦争の真実」で、『零戦は普通
の戦闘機だった』という記事を書きました。機会が
ありましたら、ご覧下さい。


▼陸軍の12.7ミリ弾薬

「ホ103」のモデルになったイタリアの12.7ミリ機銃は、
徹甲弾のほか少量の炸薬の入った榴弾を使用していた。
陸軍では、これに倣って独自に「ホ103」用の
12.7ミリ榴弾を開発し、これを「マ103」と呼んだ。

「マ103」は炸裂による機体構造の破壊を狙うもので、
弾頭に機械式の瞬発信管があり、装甲貫徹能力は
なかった。炸薬量が少ないため、徹甲弾と対比した
場合の有効性は微妙なところである。また、初期には
信管の工作不良による筒内爆発(とうないばくはつ・
発射時に榴弾が銃身内で自爆する)事故が多発し、
銃身の強化および信管の改良などの対応を迫られている。

 筒内爆発事故に対する根本的な対策として、
陸軍は1943年にいわゆる「空気信管」を開発し、
「マ103」の信管をこれに換装した。

「空気信管」は小型の弾頭信管で、先端部が
平らな薄板になっており、この薄板の下に空洞が
ある。命中時にこの空間が潰れて内部の空気を
圧縮し、空気の断熱圧縮による高温で着火する
という単純な構造で、自爆の心配がなく作動が確実、
量産効率も高いという優れものであった。

 さらに、信管が小型化したぶんだけ充填される
炸薬量が増大したため、末期の「マ103」はかなり
高威力化していた。

 なお、文献によっては「空気信管」を遅動信管だと
解説するものがあるが、機構的には瞬発に近い
はずで、遅動機構が組み込まれていたのか否か、
仮に組み込まれていたとして遅動秒時がどのくらい
なのかは不明である。

「ホ103」用弾薬としては、「マ103」榴弾のほかに、
無信管の徹甲弾と焼夷弾があった。このうち焼夷弾は
「マ102」と呼ばれる特殊な弾薬で、米軍のパンフレット
によれば弾頂部が平らな薄肉構造になっており、
その直下に炸薬、弾尾部分に焼夷剤が充填されている。

 その構造から察するに、ある程度強固な構造に
命中した際に薄肉の弾頭部が圧潰し、圧縮を受けた
炸薬が自爆発火する原理なのだろう。原理的に不発
の確率が高いようにも思われるが、この点も詳細は
不明である。焼夷効果のほども不明。

「ホ103」の徹甲弾は重量36グラムで、米軍の
12.7ミリ徹甲弾(48グラム)よりも軽いため、そのぶん
貫通力は本家のブローニング機銃より劣る。もっとも、
米軍戦闘機のパイロット装甲の厚さは8ミリ程度に
すぎず、13ミリ級徹甲弾には対応していないので、
通常射距離から直撃させれば基本的に貫徹できた
はずである。

▼海軍の20ミリ弾薬

 エリコン系20ミリ機銃の弾種としては、主に徹甲通常弾、
通常弾、焼夷通常弾の3種類があった。厳密には、
トレーサーの有無(曳光弾か否か)でさらに種類が
分かれるが、ここでは基本パターンにのみ触れる。

「徹甲通常弾」は無炸薬の純粋な徹甲弾ではなく、
貫徹後に炸裂する徹甲榴弾であるが、信管の構造や
遅動秒時については資料がない。原型のエリコン式
弾薬には弾底信管(遅動)があったはずだが、
量産された徹甲弾は無信管とする資料もある。
仮に無信管だったとすると、一体どのように起爆した
のだろうか?という疑問も湧くが、この点は今後さらに
調査するつもりである。

「通常弾」は弾頭信管付きの榴弾で、高性能爆薬
10グラムが充填されている。弾頭信管は瞬発式で、
工作不良による自爆や過早爆発の問題が指摘されている。
過早爆発とは目標機の外鈑に接触するや否や信管が
作動するため、その奥にある燃料タンクやコクピット、
桁構造などの重要部分に到達する前に弾体が炸裂
してしまうという問題である。

 20ミリ弾がある程度まで深く侵入して炸裂すれば、
行き場を失った燃焼ガスによって機体を支える箱型
構造が吹き破れて大きく破壊され、小型機であれば
飛行の継続が困難になるほどのダメージを与える。
また、燃料タンク内で炸裂すれば1発で火だるまとなり
墜落する。

 これに対し弾体が外鈑の表面付近で炸裂すると、
爆発により生じる燃焼ガスの圧力が弾底方向から
外に逃げてしまうため、機体表面に大きな穴(実射テスト
によれば20〜30センチ四方)が開くほかは、飛散する
小破片による破壊しか期待できない。つまり、瞬発信管
の20ミリ弾は「見た目は派手だが致命傷にならない」のである。

 さらに「焼夷弾」も、上記の榴弾と同様の瞬発信管で
あるうえ、焼夷剤と炸薬のバランスが悪いという問題を
抱えていた。焼夷弾としては炸薬が強力すぎたため、
焼夷剤(黄燐)が機体外鈑付近に広く薄く散布されて
一瞬で燃え尽きてしまい、損傷したタンクからガソリンが
漏洩・気化する頃には火種が消えていて発火しない
(つまり、焼夷弾として機能していない)のである。

 海軍では、開戦後しばらくしてこれらの問題を認識し、
いずれも弾薬を改良して対応したとされている。
しかし、具体的にどのような対策がとられ、改正後の
弾薬がいつ頃から前線に供給されたのかについて
詳細を記した文献が見当たらない。

 また、陸軍で開発された「空気信管」の技術が海軍に
譲渡され、「無撃針信管」として20ミリ弾にも採用された。
『海軍戦闘機隊史』(零戦搭乗委員会・原書房)によれば、
海軍の無撃針信管は遅動の設定になっていたとされて
いるが、どの程度の遅動秒時が設定されていたのかは
資料がなく不明(現在調査中)である。

▼いくら撃っても落ちない米軍重爆の謎

 米陸軍にはB-17、B-24、B-29という四発の重爆撃機
があり、日本の戦闘機パイロットはこれらの重爆を大きな
脅威と見なしていた。多くのパイロットは、「米軍の重爆
はいくら弾を当てても墜ちない」という感想を抱いており、
同様の報告を多く受けた前線指揮官や造兵当局も、
米軍重爆の防御力は極めて高いものと理解していたようである。

 しかし、21世紀の「後知恵」で考えると、20ミリ弾を
急所に受けて墜ちない飛行機など存在しないはずである。
データを見ても、燃料タンクの防漏ゴムなどは「一式陸攻」
の方が厚いくらいなのだが、これはどうしたことだろうか?

 ここで、なぜ日本のパイロットの目には米軍重爆が
「難攻不落」と映ったのか、という疑問について考えてみたい。

 まず、重爆の防禦力を語る以前に、「弾を当てたつもり
が当たっていない」という問題がある。米軍の13ミリ機銃
は発砲時の砲口炎が大きいため、多数の防禦機銃の
応射により米軍重爆の胴体は派手なフラッシュに包まれる。
頭に血がのぼっている日本の戦闘機のパイロットは、
これを命中弾の閃光と誤認するのである。

 また、仮に命中弾を得ても、胴体ばかり狙っていては
撃墜につながらない。四発重爆の場合、コクピット以外
の後部胴体は「がらんどう」で、かりに穴が開いても墜落
につながるような重要部分がない。小型機相手なら
20ミリ弾の炸裂によって胴体をへし折ることも可能だが、
大型機の後部胴体は空間が広く大きな開口部もあるので、
ここに炸裂弾を撃ち込んでも燃焼ガスによる「吹き破れ
効果」は生まれない。要するに、重爆にとって胴体は
急所ではないのである。

 重爆を撃墜するためには、急所であるエンジン、
燃料タンク、コクピットなどを撃ち抜くか、20ミリ弾の
炸裂で破壊可能な機体構造(尾翼や動翼)を撃ち飛ばす
必要がある。

 大型機の燃料タンクはエンジン付近の翼内にあるから、
エンジン付近を狙って射撃すればどちらにも命中する
可能性がある。尾翼や動翼は狙って当たるものではない
ので、エンジンを狙った外れ弾がまぐれ当たりしてくれれば
ラッキーと割り切るしかない。

 後方からの射撃の場合、コクピットは影になって
照準できないから、胴体は無視してエンジンを照準すべき
ということになるが、大きな機体から突き出た小さな
エンジンを狙うのは心理的に難しかったようだ。

 また、重爆の編隊を攻撃する戦闘機は猛烈な防禦砲火
にさらされるので、ターゲットに接近すること自体が容易
ではない。どうしても、マトの大きな胴体に遠距離から
パラパラと当てて、肉薄する前に離脱することになりやすい。
それでも、20ミリ榴弾の炸裂によって重爆の胴体からは
閃光と爆煙が上がり、破片が飛び散るのが見えるので、
射手には手ごたえがある。射撃に確かな手ごたえが
あるのに、その後も重爆は平然と飛んでいる……すると、
撃った側からみると「物凄い防御力だ」と感じてしまう。

▼足りなかったのは早期警戒・誘導能力

 米軍の重爆が「いくら撃っても落ちない」という実感は
確かにあり、これに対するパイロットの苛立ちは相当の
ものだったようだ。そうした苛立ちを象徴するような
エピソードがある。

 開戦後しばらくして、現地の部隊が南方で鹵獲した
B-17の装甲板を取り外して、これを標的に20ミリ機銃の
実射テストを行なった。すると、20ミリ弾はどの弾種も
B-17のパイロット背面装甲(15ミリ)を貫徹できず、
いずれも表面炸裂してしまった。

 これを不満とした現地部隊は東京に「これでは重爆の
撃墜は不可能」という趣旨の抗議めいた報告書を送り、
改善を求める。こうした状況を改善するため、遅動信管
の開発など弾薬の改良とともに、長銃身・高初速の
「2号銃」が採用されたというのだが、このエピソードは
いくつかの奇妙な問題を含んでいる。

 第1に、徹甲弾が表面炸裂したとするならば、これは
基本的には弾丸の強度か信管の問題で、弾丸の速度
は関係がないはずだという点。1号銃の初速でも、弾薬
の設計が適切なら15ミリ厚の防弾鋼を通常射距離で
貫通できることは確認されている。B-17の防弾鋼を
貫くことのみを目的として20ミリ機銃の高初速化を
選択する必要があったとは思われない。

 第2に、そもそも20ミリ徹甲弾にパイロット背面装甲の
貫通は要求されないはずだという点。20ミリ徹甲弾が
機体外鈑を貫通後、さらに装甲を撃ち抜いてパイロットを
殺傷するということは(不合理なほど長い遅動秒時を想定
しない限り)、まず考えられないからだ。

 前述のとおり、大型機に対する後方からの射撃では
内側エンジンから翼根部にかけての部位を照準すべきだし、
命中時の有効性を考えると長い遅動秒時は設定できない。
遅動のタイミングが長いと翼部への命中弾が全部不発に
なるから、徹甲弾の到達深度はせいぜい1メートルか、
2メートルまでに設定せざるを得ず、後方からの射弾は
パイロットには命中しない。

 第3に、「照準」および「誘導」という最大の問題点が
見逃されているという点。初期の20ミリ弾も、装甲以外
の強固な構造体やエンジンの破壊に関しては十分に
有効だった。また、正面方向からコクピットの風防に向けて
射撃すれば、ちょうど操縦席付近を通過するタイミングで
信管が作動して乗員を殺傷したはずである。正面からの
射撃なら、翼根部に命中した弾丸がタンク内で炸裂する
可能性も高くなる。こうなれば、パイロット背面装甲も
セルフ・シーリングも無意味で、重爆といえども一撃で
撃墜されてしまうだろう。

 また、正面方向への防禦砲火は指向できる銃の数が
少なくなり、射撃時間も短く修正照準が困難なため、
あまり有効でないことが多い。戦闘機からすれば、
正面射撃は、より安全に肉薄して、より有効な射撃が
可能になる。

 ゆえに、対重爆の戦闘では正面攻撃が最も有効で、
それ以外の場合はエンジンを狙う必要がある。米軍の
重爆が墜ちなかった原因の最たるものは、「弾が当たって
いない」ないし「後方から胴体ばかり射撃していた」から
なのである。そして、その根本原因は、敵重爆の侵入コース
に迎撃戦闘機を誘導して待機させ、正面からの攻撃を
可能にする早期警戒能力・誘導能力の欠如にあり、
本来はこの点こそ問題とされるべきだった。

 照準と信管の調定さえ適切なら、本来は「1号銃」の
低初速も、徹甲弾の強度も大した問題ではない。これは
20ミリに限らず、13ミリ弾であっても、炸薬を増やした
後期の「マ103」なら米軍重爆に対して十分に有効だった
と考えられる。

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.13




荒木 肇
『3年式重機関銃─陸軍の機関銃(5)──大正時代の陸軍(41)
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□ご挨拶

 台風11号の影響はいかがでしたか。
こちら関東では大した被害もなく、強い雨風に
悩まされたくらいでしたが、沖縄、九州、四国、
中国地方の方々は大変だったと聞きました。
皆さまには心よりのお見舞いを申し上げます。

 お盆が近づき、大東亜戦争、第二次世界
大戦の「終結」記念日が近づいてまいりました。
いろいろな行事があると思います。亡くなられた
英霊の皆さまに心からのお礼を申し上げます。
私たち家族にも会ったことがない伯父たちが
靖国におります。


▼3年式機関銃

 輸入ホチキス機関砲を国産化、つづいてこれ
を38年式機関砲として制式化する。
しかし、なかなか満足する物にはならなかった。
薬莢がちぎれてしまう、保弾板の切りくずが
詰まってしまうなどなどの連発ができなくなる
事故が多く起こった。

 そこで新しく開発されたのが1914(大正3)年に
制式化された「3年式機関銃」である。設計に
あたったのは南部麒次郎少将だった。ただし、
実際に残っている制式図には大正7(1918)年
制式化とあり、これが事実なら第一次世界大戦
の間、制定が保留されていたことになる。

 外観も、さまざまな部品も、それまでの38年式
とも異なる3年式は、その後の92式重機関銃
(1932=昭和5年)、1式重機関銃(1941=昭和
16年)の基本モデルとなった。写真などを見ても、
なかなか見分けがつかないところでもある。
事実、92式に改造されたものもあるらしく、この
6.5ミリ実包を使う3年式の実物はなかなか
見つからない。

 38式との違いは次の通りだった。
(1)38式では薬室の閉鎖に使われる閂子(さんし)
が壊れやすかったのでこれの肉を厚くした。同時に、
交換もできるようにした。
(2)保弾板を動かすのに歯車を使っていたが、
水平往復運動式にした。保弾板の実包の締め付け
がゆるかったので、弾丸がまっすぐ送りこまれないこと
があったのを改良した。
(3)実包や機関部にオイルを塗るための油槽の容量
を増やした。
(4)射撃をやめると薬室が開放されて止まるので
放熱効果があがった。
(5)ボルトの後退が不足した時には前進が途中で
ストップする。
(6)耐久力が向上して、38式が2000発くらい撃つ
と撃針が折れることがあったが、3年式はおよそ
1万3000発でも大丈夫になった。

 給弾方式はホチキスから続いた黄銅製の保弾板
である。機関部の左に突きだしている。弾薬手は
機関銃の左手に位置して給弾孔に差し入れた。
1枚の保弾板は重さ135グラムで後端にはフックが
付いているので、それに引っかけて送れば連続発射
ができる。黄銅という言い方になじみがない方のため
に解説しよう。銅と亜鉛の合金である。身近なものでは
5円玉が黄銅製。別名は真鍮(しんちゅう)のこと。

 これには実包を咥(くわ)えるツメがついていて、
保弾板修正器というものがあって、一度使われて
歪んだ爪を直すのが普通だった。20回くらいは
使えたというからエコを意識したものだろう。
実包30発をこの爪に入れて紙箱に入れた。帯封
があり、全部の重量は830グラムである。これが
18個、合計540発が弾薬箱1個に入る。14キロ
940グラムになり、これが木製の頑丈な弾薬箱
19キログラムに収められた。合わせて約34キロ。
馬一頭に4箱を載せることができた。

 この他、附属品として銃覆(カバーのことで牛革製)、
属品箱(分解器や、工具、パーツのスペア、洗桿)
などが入る。重さは約6キロ。洗桿は銃身内を掃除する
小銃ではさく杖(さくじょう)にあたる。
 もう一つ、器具箱(左右で2個)がある。器具箱(左)は
保弾板修正器、万力、金剛砥(やすり)などの工具類と、
脂肪缶3つ、油缶5つ(鉱油2.8キロ、石油0.7キロ)
と携帯測遠器が1つ。器具箱(右)には、第一予備品匣(はこ)2つ、
中味は撃茎、抽筒子、蹴子などの予備部品、第二予備品匣1つ、
その中には円筒、撃茎、表尺板、送弾子坐、
槓杆発条(バネ)などの予備部品と脂肪缶、油缶などであった。
重さはそれぞれ20キロ。このほか、予備銃身は3本まとめて
布でくるんで器具箱といっしょに駄載した。さらには駄馬の背
にのせるためには駄載具といわれた制式兵器があった。

▼機関銃中隊

 陸軍は各歩兵聯隊ごとに機関銃中隊を置くことになった。
1917(大正6)年のことである。編制表が改正になって、
これまで火力といえば小銃だけだった12個中隊(3個大隊)
の歩兵聯隊に初めてMG(マシーネ・ゲベール)中隊が創設
された。人員配当は次の通りである。

 中隊長 大尉1、中少尉と准尉4、特務曹長1、曹長1、
軍曹伍長9、上等兵17、一等卒34、2等卒68、上等看護兵1、
合計136名である。これで6銃の重機関銃を運用した。
あれ?と思った方はそうとう詳しい。中少尉はともかく、
准尉と特務曹長がいると間違いだろうと思われたかもしれない。
陸軍の下士は伍長、軍曹、曹長である。准士官は特務曹長
だった。ところが、この時、少尉と同等の准尉があった。

 わずか3年で終わった制度だったが特務曹長から准尉に
進んだ人がいて、少尉と同じ待遇を受けていた。1894(明治27)年
に各兵科に特務曹長が新設された。1917(大正6)年に
新設された「准尉」はこれとまったく別物だった。少尉の
階級に「准尉」が新しくつくられたのである。少尉相当の
取り扱いをする。しかし、中尉には進めない。階級章の
星の下には丸い台座がついていた。特務曹長の優遇策だった。

 この制度は1920(大正9)年までしか続かなかった。
それは「少尉候補者制度」ができたからである。准尉の
階級名は廃止され、それまでの准尉はみな少尉になった。
おかげで中尉、大尉まで進めた人もいた。准尉という
階級が復活して、特務曹長がなくなったのは1937(昭和12)年
のことだった。

 この編制表を見ただけで、大正時代の歩兵兵営の
気分が分かるだろう。兵卒は中隊で120名、うち
上等兵は18名でしかない。しかも、1名は中隊付の
看護兵だった。15%でしかなかった。この上等兵が
6銃に1人ずつついた射手である。

 しかし、機関銃中隊増設の実情を知ると、ある意味、
日本陸軍の限界を考えざるを得なくなる。軍事関係の
年表や資料を見ると、「大正6年に機関銃中隊が
おかれた」とある。しかし、1年間に実現できたのは
わずかに9個隊だった。1926(大正15)年度までの
10年計画だったのである。歩兵聯隊は全部で86個。
すべてが完了するのに10年間を必要とするわけだった。
生産力の低さ、そして予算がない。しかも、この計画が
すべて終わらないうちに、1922(大正11)年には軍縮
の波が起こった。

▼重機関銃は狙撃兵器だった

 機関銃は弾丸をばらまくものだと思っている方が
多いのではないだろうか。実際、人が抱えて走り、
撃つ軽機関銃はそうであるかもしれない。戦場では
相手の頭を上げさせない。軽機関銃に期待されたのは、
弾丸をばらまくことであり、敵の重機関銃の射撃を妨げる
ものだった。

 ところが銃本体の重さだけで26.6キロもあり、
全備重量が55.4キロもあるのが重機関銃である。
発射速度はゆっくりの毎分450発から500発。これは
列国の重機関銃と比べるとずいぶん遅かった。大東亜戦争
のアメリカ軍の記録には、米兵が「キツツキ=ウッドペッカー」
とバカにしたとあるが、撃たれた人たちはそんな言葉は
残していない。銃弾が飛んでこない後方にいる人たち
(実に85%くらい)はそんなことも言えただろうが、
500メートルや600メートルという距離で日本軍重機に
狙われた兵士たちは恐怖に震えていた。

 重機には三脚架がついている。銃身の縦方向と横方向
を固定できる「緊定桿(きんていかん)」というレバーが
付いていた。現在も陸自駐屯地(板妻や千僧)に保存される
92式重機関銃でも確認できる。600メートルといえば
小銃ではまず当たる距離ではない。軽機関銃でも
連射を続け、弾着点を確かめながらならかろうじて
命中を期待できる。ところが、ワンタッチで射界を固定
された重機は一連射(3点射×2)をすれば確実に目標
をとらえた。それは実包のそれぞれの個性に関係がある。
ほとんどと言っていいくらい反動がない重機関銃は射線
が固定されていれば、まず同じ所に弾丸が集まるだろう。
しかし、実際には弾薬にはそれぞれの差がある。
経年変化や工場での火薬充填量のばらつき、燃焼速度
の微妙過ぎる違いがあって、同じ場所に着弾することは
まずなかった。

 つまりそれは戦場で使われる兵器にとってはむしろ
メリットになる。まるでショットガンのように、一連射の
弾丸は広がりを見せるのだった。よくアメリカ軍の戦争
映画を見ると、ドッドッドと発射音がして、シュンシュン
パチパチと撃たれるシーンがある。アメリカ兵は機敏に
伏せて、「よし、あっちからの射弾だ。手榴弾をもって
迂回だ」などと分隊長が指示している。しかし、それは
映画であって、実際は次の通りだろう。

 一個分隊の兵士が歩いている。前方を警戒し、
左右にも目を配っている。突然、弾丸が飛んでくる。
人体に弾丸が当たる音がして、声もなく数人が倒れる。
シュンシュンと機関銃弾の飛翔音がする。続いて特徴
のあるドッドッドという「きつつき」の音。3年式重機の
弾丸は初速750メートル毎秒である。音速の2倍以上
であり、発射音は2秒近く遅れて届くはずだ。

 次回は擲弾筒の開発について語ろう。



(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.13




『軍事は政治を超越する?(戦争の台所事情4)──日本戦史の光と影(33)』
         大山 格
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女心と秋の空なんていいますが、どうも意味を
履き違えていそうです。

 秋の長雨は、じとじとと降り続けます。
いったいいつになったら晴れてくれるのやら……と
いうのが秋の空のイメージ。

 移ろいやすいといったら、真夏の空です。
突然にわかに雷雲がわいて、雷鳴とともに
土砂降りです。どちらかというと男性的ですけどね。



●軍事は政治を超越する?(戦争の台所事情4)


▼日本人とモラル

 戦争は政治であり、けっしてその逆ではない。
同じ意味のことをクラウゼビッツも言ったし、
山鹿素行(やまがそこう)も言っている。ついでに
挙げるならレーニンも言った。つまるところ、
戦争などしなくて済むなら政治決着で充分なのだ。

 ところがそうは問屋が卸さないのが人間の
浅ましいところ。われらの御先祖様が築いた
歴史を見ても、戦争をしなければ収まらない場面
は枚挙にいとまがないほどである。

 もともと日本人の本質的なモラルは低い。
江戸時代にガチガチの身分制度で封建社会を
形成した際に、政策的に儒教を普及させつつ倫理
とか道徳などの観念を一般化した。そのせいで、
しばらくは日本人も行儀がよかった。明治、大正と
時代が移って、西洋から自由、平等といった儒教
と相反する考え方が入ってきても、親を大切にとか、
会社のためにとか、はたまた御国のためにという
儒教的な観念は長く残った。

 しかし、まあ考えてもみよ。そんな具合に日本人
が道徳的だったのは長い歴史のなかでほんの
一瞬のことにすぎない。その前の戦国時代はどうか
と考えると、下克上や御家騒動など、とても道徳的
とはいえない状況が思い浮かぶ。さらにさかのぼった
南北朝時代は、それこそ裏切り寝返りなんでもアリで、
戦国時代よりモラルは低いように感じる。むしろ
これが日本人の本性なのだと筆者は思う。

▼戦場の規範意識

 戦場での規範意識も平和な時代と乱世では大きく
異なる。どっちがマシかという話ではなく、どっちも
困ったものである。日本人は時代状況に流されるのが
極端だから。

 270年の長きに及ぶ平和を経た幕末では、
最前線でも夜は寝るものと考えていた連中もいて、
夜討ち朝駆けのような常套手段も卑怯と断じる文献も
ある。いや、実際に最前線を任されながら、ぐっすり
寝ていた実例がある。鳥羽・伏見の戦いのことで、
開戦初日、戦い通した伝習歩兵隊が夜半になって
休養のため配置を会津藩兵に譲った。

 ところが、会津のお武家様方は夜は寝るものと
決めていたようで、防弾のために築かれた胸壁陣地
から畳を剥ぎ取って、それを地面に敷いてお休みに
なられた。で、早朝に至って濃霧にまぎれて新政府軍
の攻勢を受ける。そのときになって慌てても取り返し
はつかない。なんとまあ、歩哨すら立てなかったようで、
こうなると後ろ向きに突進となるのも致し方あるまい。

 読者諸賢におかれては、不意を襲った側を卑怯と
見るか、襲われた側を怠慢と呼ぶべきか、正当な
判断がなされることを期待する。軍事を少しでも心得て
いれば、最前線で寝て過ごすなど考えられないことであろう。

 戊辰戦争は侵略戦争ではなく政治戦であるからして、
戦場でも敵味方で談合が行なわれて小さな政治決着
をする場合もある。これまた鳥羽・伏見の開戦初日だが、
土佐藩兵の戦意が低いことを見てとった会津藩の白井隊
が、土佐藩と談合のうえで迂回前進を黙認させた。
これはさすがに慧眼(けいがん)と評するべきで、白井は
新政府軍の配備の隙をついて京に入る道筋を発見した。
もし、白井隊に後続があったなら新政府軍は壊滅的打撃
を受け、天皇を山陰に連れて逃げ去ることになっていた。
もっともそれが予定のことであったのだが。

 旧幕府軍の指揮官、竹中重固(たけなかしげかた)は
伏見市街の局地的な劣勢に目を奪われ、白井隊に
後続を送るどころか呼び返して市街戦に投入、再び
訪れることのない勝機を逃している。

 戦場での規範意識も一様ではない。ある者は戦場でも
夜間の睡眠を当然と考える。またある者は頭脳的な
挺身行動で絶好の勝機を招きながらも上からの命令には
逆らえず、あっさりそれを手放す。いずれも戦国乱世
ならばあり得ないことだから、残念。これだけの失態を
演じながら誰も「切腹」とは言わないところがまた情けない。

▼平和ボケした歴史家たち

 幕末の武士が戦場の規範意識をヘンテコなものに変えて
しまったのは、長すぎた泰平で平和ボケしたことによる
わけだが、時間的な経過によらずとも平和ボケはする
ものらしい。源平合戦を見るとそう思う。

 源義経の一ノ谷奇襲はよく知られる。敵の背面に
ある急斜面を駆け下ってのことだが、平家の公達としては
相手を卑怯者と呼びたいところ。なにせ都の武士は、
堂々と正面から名乗り合って戦うのが作法である。
いきなり後ろから問答無用に攻めかかるのは、レッドカード
ものの反則。しかし、そんな規範意識など軍事史から
すれば非常識と断じるべきで、平清盛が一代で築いた
仮初めの平和な時代を過ごしただけなのに、見事なまで
の平和ボケではあるまいか。

 ところが勘違いした歴史家もいる。歴史は勝者の言い分
が正史になり、敗者には弁解の余地すら与えられない。
それは一面の真理ではあるが、だからといって負けた
平家が平和ボケでないとは言えないし、勝った源氏が
卑怯とも言えない。

 もっと極端な困った学者も居る。軍事的な視点から
歴史を見ると価値観が歪む。だから軍事など調べず、
政治史だけ見ていれば良いなどという輩だ。

 まあ、たしかに軍事は政治である。その逆はあり得ない
わけだが、そのあり得ないことを建前に政権を築いたのが
鎌倉幕府であり、幕府の頂点に立つ征夷大将軍とは
臨時的に軍政を布く権限を持つにすぎず、その権限が
及ぶ範囲も限られた。事実、鎌倉幕府が支配すること
を朝廷に認められたのは、東日本に限ってのこと。
だが、事実上では全国政権となるわけである。
本音と建前の話ではあるが、鎌倉以後の武家政権は
軍事が政治を超越した形態ではある。

 さあ、どうだ。これでも軍事を知る必要がないと言えるか?

 言う人もいるのだ。以前にも少し触れたが、鎌倉時代
の区分を認めず、続平安時代と呼ぶ一派である。
こういう人々は筆者の様な野良学者とは違い、大学や
研究機関に属するから生活の心配がない。そこへいくと
筆者などは口に糊することを常に考えねばならぬ売文の
身の上である。口惜しいが正面切って戦おうにも
スポンサーが居ないと無理。読者の中に大金持ちは
おられませんかな?


▼政治は軍事を超越する?

 戦国史は軍事史を学ぶ者から見ると、理解しやすい時代
である。どんな地域であろうと臨戦態勢が常であり、
その余のことはさほど重要ではない。重要ではない
ながら、単純に軍事だけで理解できる時代でもない。
ことに農業に関わることの重要さは、以前の記事で
述べたとおりである。

 江戸時代とて徳川幕府は軍事政権ではあるが、
その政策の移り変わりを見ていくと平和路線へ
切り替わるのが元禄時代頃か。

 三代将軍の徳川家光の頃まで戦国の遺風は色濃く
残っていて、世相もなんとなく殺伐とした雰囲気がある。
大久保彦左衛門のような戦国の生き残りが居た時代
のことで、旗本と大名の意地の張り合いが荒木又右衛門
の決闘という形で決着がつくなど、血腥い空気感は
拭えていない。

 それが元禄になるとハッキリ変わる。悪評高い
生類哀れみの令にしても、身近な生き物を大事にせよ
というのは平和穏健路線の現れとみるべきである。
そういう具合に世の中を穏やかにさせようという改革
政策の最中に、あの赤穂事件が起きた。その決着は
揉めに揉めたのだが、やはり平和路線にそぐわないと
いうことか赤穂義士の切腹ということになる。そうして
政策的に泰平ムードが築かれていき、その結果として
軍事方面の衰退が起きた。で、結局は戊辰戦争で
旧幕府軍は惨敗することに繋がる。

 こう考えていくと、平和ボケというものは如何に
恐ろしいことであろうか。治にいて乱を忘れずとは
いかないのが人間の愚かさで、歴史上に平和ボケ
による弊害は枚挙に暇がないほどである。

 たしかに政治は軍事を超越するものだが、軍事なくして
政治があり得ないのも事実だ。政権とは国民を守る力
を管理することであり、警察と軍隊は必要不可欠なもの。

 いまは少し状況が変わったが、以前には歴史学者が
集まる場所で軍隊は国家に必要なものなどと発言
しようものなら白眼視されたものだ。

 たとえばの話である。あくまでたとえ話。何人かの
国民が他国に拉致されたとしよう。コメをやるから
返してくれとしか言いようがない国と、返さないなら
多国籍軍をつくって空爆しちゃうぞと言える国があった
としよう。建前論からすれば前者は純然たる政治決着で、
後者は軍事的恫喝ではある。

 実際、空爆しちゃうのは政治的失態としか言いようが
ないのだが、それを言えるか言えないかは外交交渉で
大きく違う。

 コメとカネで政治決着させるしかない国、実際に空爆
どころか地上戦までやっちゃう国、いろいろありましょうが、
その評価が正当に下されるのは、その時代が歴史に
なってからのことだろう。


(おおやま・いたる)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.12





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2011.9.2




楠木正成の統率力 【第13回】 千早における楠木の諜報活動』
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
 今回は、千早城の戦いで行った諜報活動についてです。

 孫子兵法では、諜報活動により、敵の実情を事前に
察知することが「戦争の要」であると強調し、
次のように説いています。

 戦争には莫大な出費がかさみ、敗ければ全てが
無駄になる。それにもかかわらず、間諜(スパイ)に
爵位、俸禄や百金を与えるのを惜しんで敵情を
知ろうとしないのは、民衆の永い苦労を無に
するものであり、将軍としての資格がない。

 聡明な君主や賢明な将軍が行動を起こして
相手に勝ち、多大な成功を収めることができる
のは、あらかじめ敵情を察知しているからである。
その敵情は、必ず人である間諜を通じて収集
できるのである。

 物事の本質をすぐに理解できる俊敏な
思考力がなければ間諜を用いることができず、
部下への深い思いやりがなければ(危険な任務
である)間諜を使うことができず、人心の機微
まで察知する深い洞察力と幅広い教養がなければ
間諜が収集する複雑に錯綜した情報の中から、
その真偽を判別し、価値ある情報を嗅ぎ分け、
真実を把握することができない。

 (以上、孫子第十三篇「用間」より)

 楠木正成とは、こうした孫子の教えを
骨と化すまで学び、それを完璧に実践できた武将です。

 それでは、本題に入りましょう。


【第13回】 千早における楠木の諜報活動

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


▽ 楠木、大塔宮からの上洛要請に応じず

 楠木正成が和泉・河内の両国を随えて、千早城
を構築していた頃、大塔宮からの仰せが伝えられた。

 「正成は京都に上って、先ず六波羅を攻め落とすべきではないか・・・」

 楠木は、大塔宮の御使いの者に次のように回答した。

 「仰せたれることは承知いたしました。しかしながら、
只今関東から大勢の敵が上っているところであり、
これらは本拠地を強化してから京都に攻め上るでしょう。
その上、先ず和泉・河内の軍勢は1万騎に足りません。
これにより京都の六波羅を亡ぼそうとするのは、
至難の業です。また、西国の軍勢も摂津の地から上って
味方を襲うかもしれません。そうであれば、今上洛しては、
前後の敵に味方はなす術を失うことは疑いないもの
と思われます。その上で、関東勢が上ってきたならば、
河内へ引き返そうにも、河内に敵を防ぐだけの城が
一つもなければ、ゆゆしき事態となりましょう。

 そこで、正成の存念を残さず申させていただきます。
先ず、宮は吉野の城にしばらく御座をすえられ、諸国
へ令旨(命令)をなしていただきたい。正成も河内に
一つの城をこしらえ、鎌倉の北条高時の動きも
見据(す)えておきたく存じます。」


▽ 鎌倉へ潜入させた忍びからの報告

 そこへ、正成が鎌倉に忍ばせておいた兵士24人の内、
2人が帰参して、正成に報告した。

 「近日中に東国の軍勢は、60歳の老齢者から17歳
の若者までを引き連れて上ってくるものと申しております。
また、山陰・山陽・南海・西海へも皆、このように下知を
下しているものと伺っております。東国勢は皆、
年内に国々を出発して、道中で越年し、また『年の内
に京都に到着しようとするのは大いに忠誠心がある
ものである。また、国を出発するのが春になってから
というのは忠誠心が無いものとする』と下知して
ふれまわるので、12月初旬には、皆国々を出発
することになったのであります。」

 そして、鎌倉にいる忍びの兵士らの指揮官である
林藤内左衛門光勝、野崎七郎常宗、原兵衛吉覚(よしあきら)の
3人による書状を取り出して正成に与えた。正成が開いて
見ると、鎌倉から帰った2人の忍びが申したのと同じ内容であった。


▽ あくまで情報網の存在を隠した正成

 正成はこの時、仰せを伝えに来ていた大塔宮の
御使いに、鎌倉からの情報について一切話さなかった。
また、正成が大塔宮に直接会って、このことを話す
こともなかった。

 鎌倉幕府側の最新の動きを大塔宮に伝えてこそ、
吉野の城も防ぐ手だてを一層確かなものにしたであろう。
しかし、正成が御使いにこの東国勢の上洛という
重大事を隠したのは、この事を秘密にすべきだった
からではない。正成が関東に兵士を潜入させている
という事を知らせないためであった。実は、楠木の
兵士は皆、商売人となって鎌倉に居たのであった。

 それ以降、千早では、いよいよ敵が攻め寄せること
への用意を進めることになる。


▽ 山寺に妻子と別働隊を隠し置く

 正成らが千早城に籠っている間、軍勢の妻や子らは、
賀名生(あなう=現在の奈良県五條市にある丹生川
下流沿いの谷)の奥にある観心寺という、嶺を通る
山伏でなければ訪れる人もいない場所に、
軍勢1千余騎を相添えて、極秘のうちに隠し置いた。
舎弟の和田七郎正氏、和田孫三郎、恩地左衛門、
真貴(しぎ)、渡辺五郎らもこの地に在った。

 この軍勢の任務は、「敵の通路を遮断し、弱い陣が
あれば後ろから攻め、夜討ちにもする。また、寄手の
謀や作戦を聞き付けて、城の内にこれを知らせ、
人々の妻子を十分に警護する」というものであった。
そうであればこそ、吉野の城が落ちてから後は、
大塔宮もこの場所を御座としたのである。


▽ 別働隊による情報収集

 幕府軍が千早城を囲んでいる時、観心寺に
所在するこの軍勢から、毎日10人から20人が、
ある時は濁酒など下部の食物を売り、あるいは陰陽師
にまぎれ、また猿回しなどの遊び者にまぎれて敵陣
に潜り込み、陣中の取り沙汰を一つひとつ聞きながら、
壁に耳を付けてまで、他人が何を考えているか
探り出そうとした。このようにして観心寺へもこれら
を知らせ、千早城中へもこれらを報告した。

 敵は千早城を百重千重(ももえちえ)に取り囲み、
役所(戦陣での将士の詰所)をいくつも構えていた
にもかかわらず、正成は毎夜、この別働隊と書状で
通じていた。敵は、自分たちの陣内で楠木勢が
こうした情報活動を行っていることを全く知らなかった。


▽ 囚われた城兵と偽の商人

 ある時、夜明けの頃、城から一人の忍びが正成の
書状を帯して出た。大仏(おさらぎ)奥州という者が、
役所の前でこれをとがめた。とやかく弁明することを
許さず、回状があるにちがいないぞ、と持物をつぶさに
探して見ると、白紙が二、三十枚折られているものの
外に墨書きされたものはなかった。

 敵の大将が、「それでは、お主が言うように、
吉野の方の商人が道を歩き間違えたのに違い
あるまい。誰かこの者を知っている人はおるか」と
尋ねたところ、観心寺から偽の商人になって来て
いた正成の忍びの兵が、この事を聞き付けて、
心元無い様子でやって来た。そして、囚われた
城兵に向かい、手をはたと拍(う)って、

 「いかにも、お前さんはどうしてこのようになったのだ?」

 と問うた。そこで、囚われた城兵は云った。

 「道を歩いて迷ってしまい、城の方向へとやって
来るうちに、ここは敵の方であると思って、急いで
引き返したところを、番兵たちに見付かってしまい、
『怪しいやつだ』と云われて、このように取り押さえられたのです。」

 そこで、商人が敵の大将に申すには、

 「これは私の友人です。吉野の方から参った者でして、
不審な者ではありません。二、三日ほど前に商売の
ために参ったのですが、売ろうとして用意していた物を
盗人に取られてしまいました。売り物は品々あったの
ですが、もしやこの盗品を売っている者に出くわさないか
と、我々二、三人であちらこちらを見回しながら遊行して
おりましたが、このような盗人も売物も、未だに見つけ
られませんでした。朝からこの男が見えないので、
我々もまた尋ね参って見ておりました。この者は私に
お任せください。なんら不審な者ではございません。」

 そして、囚われた城兵に向かって云った。

 「おいお前、何でそんな姿でおるのか。生まれつき
臆病者なのだな。この辺りは不案内な場所だから、
何事かあったのではないかと思っていたが、
そうだったか。やはり、こうなったか。」

 そこで、囚われた城兵が、おどおどしながら、
「恐ろしさで、わけがわからなくなったのです・・・」と云う。
これらのやり取りを聞いていた敵の大将は、

 「実に、諸軍勢の中であれば、そうであっただろう。
不憫(ふびん)なやつだ。その上、書状もないのだから、
本当に商人なのであろう。このように、諸国から来る
商人を煩わせたことは、軍勢が困窮することにもなろう」
と云って、この囚われた者を帰したのであった。


▽ 秘策「白紙の書状」と忍びへの褒章

 この囚われた城兵が折って持っていた二、三十枚
の白紙は、観心寺への文だったのである。

 その白紙を水に漬けて見れば、水の中で文字が
浮かぶのであり、また、鍋の墨を付けて見ても
文字が出るのであった。その一枚目には、

 「当能悟魔脳。安普羅遠土理帝覚近之(当に能く
魔脳を悟る。安んぞ普く遠土に羅らん帝を理して覚之を近くす)」

 との難しい文が書いてあった。しかし、その本当の
意味は、そのまま

 「とうのごまのあぶらをとりてかく(=この書状は、唐
の胡麻の油を使って書いてある)」

 と読めばよいのであった。このような巧妙な手段を
用いていたので、敵は一度も忍びの使いを見つけら
れなかったのである。

 正成は、このように命懸けで活動する忍びの兵たち
について、少しでも良い事を聞き出したならば、
白銀・銭貨をそれぞれに与えており、観心寺に
置いていた妻子もこれを楽しみにしていたことで、
諸事について恨みを抱くものもなかったという。


(「千早における楠木の諜報活動」終り)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.15




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (8) ─ 潜水医学実験隊(その6) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんにちは。渡邉です。

現在発売中の青林堂『ジャパニズム』20号に
「尖閣を守れ!島しょ防衛に備える自衛隊(後編)」
が掲載されました。


■潜水医学実験隊(6)

最初に、前回の「DDCでは声もヘリウムガスを
吸ったときのように甲高くなる」という一文の
訂正をいたします。DDCでの加圧にはヘリオックス
というヘリウムと酸素の混合ガスが用いられる
ため、「ヘリウムガスを吸ったときのように」ではなく、
実際に吸っているわけですね。紛らわしい記述で
失礼いたしました。

さて、私の取材時はまだ飽和潜水による最高深度
は400mでしたが、司令は「450mに到達する日は
違い」と力強く言っていました。そして実際、2008年
5月に450m潜水に成功しました。これは世界第2位
の記録です。

飽和潜水の深度自体もすごいことですが、その深度
を継続しているということは世界でもほとんど類を
見ません。多くの国は飽和潜水の研究から手を
引いたり一時的に中断したりしましたが(アメリカですら
撤退しています)、日本はずっと継続して研究を
続けてきた結果、世界のトップクラスの技術を保有
するまでにいたったのです。

深海という極限の環境での作業はリスクを伴うため、
作業ロボットの研究も進んではいますが、人間の
作業する技術に追いつくにはまだ時間がかかります。
特に潜水艦の救難などは、最終的に人間の手に
よるところが大きいといわれています。というのも、
潜水艦というのは当たり前ですが沈まないように
設計されています。それなのに沈むときというのは
不測の事態、想定していないことが起きているわけです。
そうなるとどうしてもロボットでの対応には限界があり、
人間による作業が必要とされるのです。


2000年8月、ロシアの潜水艦クルスクがバレンツ海
で演習中、魚雷発射管室で爆発が起こり沈没、
乗員118名全員が死亡するという事故を覚えて
いらっしゃる方も多いでしょう。

ロシアの救難艇の装備では、爆発により変形して
しまった潜水艦のハッチを開けることができません
でした。このことから、ロシア海軍では飽和潜水が
行われていない、または実際の事故に対応できる
スキルを持つ飽和潜水員がいないということが推測
できます。

しかも最初、ロシアが他国の協力を拒否したことも
あり、救出作業は遅れました。最終的に事故発生
から9日後に、ノルウェーの飽和潜水員が潜水艦の
ハッチを開けることに成功します。しかし時すでに
遅く、艦内は完全に海水で満たされていました。

潜水艦は爆発により通信機能も失っていたので
救助の初動が遅れたという側面はありますが、
もっと早い段階から飽和潜水員による作業が
行われていたら、爆発直後には20名以上いた
という生存者を救出できる可能性があったかも
しれません。生き残った彼らは、真っ暗闇の艦内で、
増え続ける海水と二酸化炭素に苦しみながら
命を終えなければなりませんでした。

潜水艦の事故は悲惨です。だからこそ、潜水艦
救難艦と飽和潜水員の存在は、潜水艦の
隊員たちにとって大きな心の支えとなるのです。


何年も前に取材した潜水医学実験隊ですが、
今回このメルマガの記事を書くにあたり改めて
調べものなどしていたところ、海自の公式動画に
懐かしい顔を見つけました。

飽和潜水員として取材させてもらったときは
2曹だった隊員が、現在は先任伍長&潜水員長
として潜水救難母艦ちよだにいることを知ったのです。
動画の中で「休日に登山をしても高山病になった
ことは一度もない。空気の薄いところに慣れて
いるせいかも」と笑って話しているシーンが印象的
でした。飽和潜水についても語っていらっしゃるので、
興味のある方はご覧になってみてください。

【JMC】ヒューマンCH Seaman File No.4 潜水員 2/3
https://www.youtube.com/watch?v=jnOo2G8n5qo
【JMC】ヒューマンCH Seaman File No.4 潜水員 3/3
https://www.youtube.com/watch?v=Jp9D14-irXA

こちらは実際に飽和潜水をしている動画です。非常に
参考になります。
【Mr. JMSDF SPECIAL MOVIE】
深度100mの未知の世界へ 〜 高度な潜水技術を追求せよ!
http://youtu.be/VH3WDRDnVUM?list=PLhD6Y9WpnWDOCaRXmUGCIplRnmZhlx_c6

潜水医学実験隊の連載は今回で終了です。
自衛隊には国民の目に触れる機会のないこのような
部隊がたくさんあり、そういった部隊が精強な自衛隊の
土台となっています。これからも少しずつそんな部隊を
ご紹介できればと思っています。

最後に、今年5月と6月に訓練水槽で亡くなった
潜水医学実験隊の2尉と海曹長に哀悼の意を表します。


(了)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.14




『むすび・大山家と遺跡護持──日本史探偵団主宰・大山格が斬る
日本戦史の光と影(最終回)』         大山 格
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●むすび・大山家と遺跡護持

▼大山巌邸への行幸

 明治二三年、当時の陸軍大臣であった
大山巌中将の私邸に明治天皇が行幸遊ばされた。
その大山邸は南豊島郡千駄ヶ谷村穏田(現在の
東京都渋谷区)にあった。

 この時期、明治天皇は何人もの重臣の家を
訪れている。いわゆる鹿鳴館時代がおわり、
外国からの賓客を政府高官の私邸で接待する
ことが増えており、その接遇ぶりを視察する
意味もあって重臣の私邸への行幸が多かった
のではなかろうか。

 はじめ、大山は永田町の陸軍大臣官邸にて
天皇陛下をおもてなしするつもりでいた。
長く陸軍大臣をつとめていた大山からすれば
官邸こそが自宅であったが、陛下の思し召しは
私邸への行幸ということであった。そこで
大山はドイツの古城を模した煉瓦造の洋館を
穏田に新築したのだった。

 明治の洋館はゲストハウスとして建てられた
ものが大半で、生活の場として日本建築が
併設されることが多かったが、この大山邸は
住居としても使用された珍しい洋館であり、
その後、大正十二年の関東大震災で倒壊する
まで、大山家の生活の場に用いられていた。


 このときの行幸を記念して、大山は邸宅の
一隅に等身大ほどの観世音菩薩座像を建立、
非公開ではあるが現存する。

 この観音様は、もとは埼玉県の鳩ヶ谷辺の
路傍に放置されていたものだという。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、
うち捨てられたのだろう。大山はそれを
貰い受け、陸軍砲兵工廠で修理させ、自邸に
安置した。

 庭に観音像を置いたくらいだから、大山の
信仰は仏教だったといえる。しかし、
大山の葬儀で僧侶が観音経を読むことはなかった。
それは、葬儀が国葬として営まれたからで、
それ以来、大山家の葬儀には神主を呼ぶよう
になったし、大山巌の祭祀も神式で今日まで
継続している。だが、当人の信仰を思えば、
坊さんを呼んで観音経を読んでもらった方が
良いのではないかと思っている。

 ところが、そうはいかない事情があるのだ。


▼国葬となった大山巌の葬儀

 大山巌の葬儀が国葬となったのは、以下の勅令
によることだ。

 勅令第二百四十四号
 朕故議定官内大臣元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵大山巌国葬ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
 御名御璽
 大正五年十二月十一日
 内閣総理大臣 寺内正毅
 
 勅令第二百四十四号
 議定官内大臣元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵大山巌薨去ニ付特ニ国葬ヲ行フ

 天皇が発する文書のうち、詔書は
広く公布されるものなのだが、勅令は
命令される者だけが知れば良いので、
公布されない場合も多々ある。この勅令の
場合は公布されたので、公布を命ずる
部分と、本件との二段構えの文書になっている。

 この勅令に基づいて、日比谷公園で
大規模な葬儀が営まれた。

 大山巌国葬ノ際、特ニ近衛師団ノ
歩兵二聯隊、騎兵一中隊、野砲兵一中隊、
軍楽隊及第一師団ノ歩兵二聯隊、
騎兵一聯隊、野砲兵一聯隊ヲ儀仗兵トシ、
十九発ノ弔砲ヲ行ヒ、且祭場ヨリ上野
停車場ニ至ル間ニハ第一師団ヨリ
騎兵一中隊ヲ、又那須野停車場到着並
埋棺ノ際ニハ第十四師団ヨリ歩兵一中隊
ヲ儀仗兵トシテ差遣致度

 という具合に、陸軍から数千名が動員
されており、これとは別に海軍も儀仗兵を
出した。それにもかかわらず、世は大正
デモクラシーだったので、軍人の地位は
明治時代ほどには高くなかったため、
一般市民の参列は少なかったという。

 第二次大戦後の吉田茂を含めても、
臣下が(皇族・宮様をのぞく)国葬の
栄誉を受けたのは、明治以来わずかに
十一人だけだ。たいへんな栄誉ではある
のだが、前に述べたとおり、はたして
故人が望んだようなことか疑問が残る。

 政教未分離の時代とて、国葬は
神道様式で営まれた。出雲大社から
神主を呼ぶことも、政府が決めた。
なにしろ勅令によることだから、遺族とて
拒否など出来るはずもない。

 家伝によると、死の翌日にあたる
十一日に宮内省から役人が来て、勅令を
伝えるとともに葬儀の計画書を置いて
いったとか。まだ息のあるうちから
計画が練られていたわけだ。それも
そのはず、陸軍省大日誌には大山巌の
容態が刻々と記録されている。体温と
呼吸数、心拍数、その日の摂食物の
種類と量に至るまで記され、まさに
「その時」が訪れるのを待っていたのだった。


▼その後の大山家墓所

 戦後、国葬令は国会の議決を経て
廃止され、たとえば山本五十六元帥の
葬儀は、いまでは法制上国葬扱いでは
なくなった。ところが、大山巌の場合は、
現在なお国葬の扱いなのだ。なぜか
勅令第二百四十四号は、廃止の手続き
がとられていないからだ。

 国葬であるから葬儀の費用は国庫
から支出された。ただし、
「国葬予算ハ式場設備儀式挙行及
埋葬其ノ他附帯ノ経費ニ限リ之ヲ
支出シ墳墓築造等永久的経費ニハ
支出セサルコト」

 ということで、まったく葬式代だけなのだ。
墳墓築造に関しては全国から寄付金を募り、
宮内省陵墓官の設計によって、広大な敷地
を墓域とする天皇陵に準じた様式の巨大な
墓が建てられた。

 ただ、それだけの規模の墓所を維持
管理するための費用いっさい、遺族の
負担なのだ。そして、百年ちかく大山家
は収入に不相応な墓所の維持費を負担し
続けてきた。史跡にでも指定されれば、
修繕のための寄付金を寄付した側が
損金(経費)の扱いにできるはずだが、
地元の那須塩原市からは「市として関与
しない」との通知を送ってきた。
あくまで単なる個人資産として扱い、
文化財と看做すことはないということだ。

 当時の教育委員会職員は「駅でアンケート
でもとってごらんなさい。市民の六割は
日露戦争を知らないし、八割は大山巌を
知らないと答えるでしょう。それほど
市民が無関心なことに税金は投入できない」
と言った。それを書面にして出してくれと
要求したが、いまもって出てこない。

 そのときの市長は在職中に病死し、
いまは別な人が市長になったからなのか、
少しだけ風向きがかわってきた。墓所
参道の檜並木が緑地として貴重なので
公園化したいといってきたのだ。

 史跡指定で揉めたときにも市から
墓所参道を無償譲渡しろと要求されて
いたのだけれど、今回は賃借契約を
打診してきた。ずいぶんとマシな話には
なったけれども、私にとって貴重に
思えるのは緑地ではない。その奥に
ある国葬遺蹟だ。
 

 いまだ実現しない史跡指定で揉めたのは、
一度きりのことではない。母の死後、
父が健在だったころには墓所全域を史跡
に指定して、以後墓石の新設を認めない
という案を市から出してきた。
そうなると父の墓は別な場所に建てねば
ならなくなるので、私が拒絶した。
今回、そのことを楯に取ったのか、
「史跡指定は、あなたが死ぬまでありえません」
などと言われた。神主や坊さんを呼んでの
祭祀がつづくかぎり宗教と関わるので、
公共の場として位置づけられない、というのだ。
だが、これもいいがかりで、那須塩原市の
指定文化財には神社や寺院も現にある。
宗教に関わるからといって、文化財に
ならないというのは不条理だ。


▼ 大山家と遺跡護持

 墓所参道の公園化と墓所本体の史跡指定
はセットで実現させたいところだが、
なかなかそうもいってはいられない。

 実をいうと、東日本大震災で墓所の石灯籠
多数が倒壊したのだ。また、外囲いの石塀が
一部倒壊した。そのうち石灯籠を修繕できる
だけの資金は、ようやく手当てがついて、
被災後3年にして修復できた。
しかし、石塀まで修復するとなると、なお
数百万円が必要だ。この際、倒壊して空堀
に落ちた石塀は放置し、かわりに金網フェンス
でも張って震災の爪痕を後世に残すことに
しようかとも考えていたが、寄付を募って
墓所を修繕しようという運びになった。

 広く全国の有志に御寄付を願うことで
石塀までが修復できるなら、国葬遺蹟として
後世に伝える意義も強くなるだろう。

 その修繕にしても、並行して学術調査を
なすべきで、それにもまた費用がかかる。
なにせ地元が無関心なので、近隣の大学を
動かすことは難しいだろう。
そこで、軍事史研究に携わる人たちに、
どのように調査すべきかを相談中でもある。

 現在も広く社会一般に御協力をお願い
しているので、その活動をネットで見かける
ことがあったなら、情報拡散など御協力
いただけたら幸いだ。

 http://ameblo.jp/itaru-ohyama/themeentrylist-10078483163.html
 https://www.facebook.com/general.ohyama?ref_type=bookmark


(終わり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.19




荒木 肇
『日露戦後の将校養成計画──大正時代の陸軍(42)
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□ご挨拶
 お盆も過ぎ、ふだんの生活に戻られたことと存じます。
依然として残暑は残り、健康について油断できない
ことは変わりません。油断といえば、予断が許され
ないのが気象です。記録的な大雨が降り、思わぬ
水の脅威にさらされた方々も多くいらっしゃいます。
天変地異、そうした言葉が珍しくなくなりました。
自然が変わってきているとも思えます。

 富士の裾野では、陸上自衛隊富士学校の演習が
始まりました。今年は17日の教導団演習から始まり、
クライマックスを24日に迎えます。錬度100%の
富士教導団の隊員の皆さんのご活躍を祈ります。

 さて、今回は予定を変えて、兵器の話を少し
休みます。大正陸軍の気分を知るために、当時の
人事制度や、やっかいな人事計画などをまとめて
おきましょう。満洲事変(1931年)以後、行動し
始めた昭和の陸軍を知るためには、大切な
基礎知識になるかと思うからです。

▼日露戦後の人事問題

 戦時になると初級将校がもっとも足りなくなる。
初級将校とは少尉・中尉のことである。歩兵・騎兵や
工兵では小隊長として行動の先頭に立つ。突撃では
なおさらのこと。『初級将校は損耗品』と陰口を
たたかれるのも当然だろう。日露戦争では尉官は
全体の中の15%が戦闘死した。戦闘死とは即死と
負傷してのち、死亡したことをいう。

 戦線を離れなければならなかった負傷者はおよそ
この2倍。続いて被害が大きいのは、やはり中隊長
の大尉である。大隊長といっしょに戦闘死率がとにかく高く、
とりわけ歩兵では20%あまりにもなった。これに負傷
した者を加えれば70%近くにもなる。

 だから、戦後10年、15年が経った大正時代の
佐官の多くは、日露戦争の激戦の中を生き抜いてきた
武運に恵まれた人たちだった。士官候補生制度
1期生をはじめとして14期生までは日清・日露の
激戦を初級将校、あるいは若い大尉として戦場に
立った。負傷、後送され戦線に復帰した人も少なくない。
たいていが武功を顕わす「金鵄(きんし)勲章」を佩用
する人でもあった。8期の渡辺錠太郎、9期の本庄繁、
松井石根、10期の松木直亮、川島義之、12期の
杉山元、畑俊六、13期の西尾寿造、14期の古荘幹郎
などの各大将はみな戦傷を負った経験があった。

 もちろん、戦時の損耗を考えて育成計画、人事計画
は立てられる。師団を増設し、それにともなって特科部隊
も増やす。予備役の幹部も毎年中等学校の卒業生以上
を採用し、有事に備えてきた。一年志願兵という制度
である。しかし、これほどの大戦争になるものとは考えて
いなかった。

 陸軍は日露戦争中に陸軍士官学校生徒を大量採用した。
1907(明治40)年5月卒業の第19期生1068名である。
これは全員が中学校卒業者であり、幼年学校卒業の
276名は別に第20期生とされた。卒業は翌年5月である。
その合計はなんと1300名をこえた。19期生の中からは、
大東亜戦争でラバウルの第8方面軍司令官今村均大将、
インパール作戦のビルマ方面軍司令官河辺正三大将、
終戦時のビルマ方面軍司令官木村兵太郎大将、喜多誠一
第1方面軍司令官らがいる。20期生からは沖縄の
第32軍司令官牛島満大将、最後の陸軍大臣下村定大将
が出た。

▼25個師団体制に備えて

 日露戦後の国防方針についてはすでに書いたように
陸軍はロシアのリターンマッチをひどく恐れたし、
確信もしていた。平時25個師団を整備しておいて、
それをもとに戦時動員で野戦50個師団を造ろうというのだ。

 その考え方は日露戦前までの、現役兵が主で予・後備役兵
が従といった現役野戦師団と、予・後備役兵が主となった
後備旅団で野戦軍を構成するといった構想を大きく見直す
ものだった。前に立つのは野戦師団であり、後備旅団は
主に占領地の警備などにあてるとした計画だった。
日清戦争はたしかにその構想でうまくいったのである。

 歩兵聯隊のレベルでいえば、常設の現役聯隊に動員
がかかれば若い予備役兵が召集されて定数を満たした。
これとは別に後備歩兵聯隊が新設される。聯隊長や
大隊長、中隊長の一部や聯隊副官、大隊副官などは
現役だが、将校・下士官の多くは予・後備役であり、
その戦力は現役のそれに比べてはるかに劣るとされた。
当時、わが国の男性の平均寿命はようやく40歳代の後半
であり、30歳ともいえば農山漁村では「中老」といわれていた。

 ところが、戦争の実態はいきのいい現役師団だけでとても
第一線兵力が足りるものではなかった。後備旅団も次々と
前線に投入された。そして、中には現役師団と負けない
戦果をあげた後備旅団もあったのだ。

 田中義一は次のように語っていた。
『これからは現役兵が主、予備・後備が従というのとは
逆になった。むしろ世間にいる予備・後備の兵卒が主となり、
現役兵卒がそれを補う。まったくさかさまの軍隊になるわけだ。
だからこそ、現役を終えて地方へ帰った兵卒たちが大切
なのだ。在郷軍人の役割がもっと重要になる理由である』

▼将校養成計画

 現役将校はかんたんに作られるものではない。当時の
制度では、地方幼年学校は6校、それぞれ50名ずつの
定員で合計300名。幼年学校はもともと東京に1校だけ
だったのが、日清戦争後の軍備拡充、6個師団の増設
にあわせた形で6校に増やされた。当時の中等学校は
ほとんどが英語教育である。これに対して、陸軍幼年学校
では軍事先進国のフランス、ドイツの両国語と想定敵国
であるロシア語を教えていた。

 この生徒出身者である他に、学歴の指定がない
「士官候補生召募制度」があった。もちろん、試験には
(英語も含めて)中学校5年卒業程度の問題が出された
ので、正規の中学卒業生が有利であったことは確かだろう。
しかし、ごくわずかとはいえ、他の中等学校卒業者や、
独学で、あるいは検定試験をパスした者などもいた。
ほかに現役の兵卒からも受験を許されていたのである。

 1907(明治40)年には陸軍省軍務局軍事課から
『軍備充実に関する士官候補生採用人員決定計画表』が
出された。これは明治39年からの15ヵ年計画で、25師団
に対応した将校の数から計算されたものである。
これによれば、明治40年から始まる6年間で毎年783名を
新たに士官候補生として採用しようとした。

 算定方法は詳しくは分からない。しかし、将校とは
軍隊・学校・官衙・特務機関に勤務する。兵科ごとに、
そのそれぞれの階級による定員は編制表に出ている。
だから平時の損耗にあたる個人都合による予備役編入
や、病気や事故による免官、事故死や病死によるなど
の減員を考えておく。

 陸軍将校の歩み方は大別すれば3つになる。
陸軍大学校に進んで中央勤務をしていくのが1つ。
大学校にいかず、軍隊指揮官と実施学校といわれた
兵科ごとの学校勤務を主とするのが2つ目。最後は、
技術系将校となっていくかの3つになる。大学校に
進むのは同期の中でおおよそ60名、砲兵や工兵の
技術系のコースを歩むのは5〜6名ほどでしかない。
どちらも全体の1割弱くらいである。

 783名を採用した1914(大正3)年の決定数を
見れば実態が見える。

 歩兵      中学等卒295名 中幼卒168名   計463名
 騎兵      中学等卒35名 中幼卒20名      計55名
 野砲兵・山砲兵 中学等卒90名 中幼卒52名     計142名
 重砲兵     中学等卒19名 中幼卒10名      計29名
 工兵      中学等卒29名 中幼卒17名      計46名
 輜重兵     中学等卒48名 中幼卒0名       計48名

 意外なと思われるのが輜重兵将校の多さだろう。
783名中の48名をしめる。6%である。工兵や騎兵
よりも多い。ただし、中央幼年学校卒業生では指定
された者がいない。みんな一般中学出身だった。
ここに輜重兵科への差別の元を見ることができる。
しかし、それでも重視された技術兵科である工兵よりも
数が多いのだ。単に「兵站軽視」などとくくるわけには
いかないだろう。

▼ももくり3年、かき8年、○○大尉は13年

 進級停滞、つまり階級があがらない。そういった
ことが起き始めた。ふつう、少尉は2年すれば中尉
に進む資格ができた。同じように中尉も3年経てば
大尉に進めるようになっていた。もっとも、これは
平時の決まりごとであって(実役停年という)必ず
その通り進級したのは皇太子とごく一部の皇族だけ。
実際のところ、21歳で任官して25歳で中尉、
32歳くらいで大尉というのが期待値だった。

 それが上がつかえているために中尉を長い間やらされた、
大尉になったら少佐になれない。抜擢進級の対象に
なるのは陸軍大学校をでたり、砲工学校高等科で
優等な成績をあげたりした者だけが独占する。ついには、
『このまま何の策も取らなかったら、一部の者の中には
中尉で停年が来て予備役編入になってしまう者が出る』
という悲鳴まであがる始末になってしまった。

 進級しなくては給料も上がらない。当時は階級の中
で給与が分かれていなかったから、なりたての中尉も、
先輩のベテラン中尉も給与は同額である。そこへもって
きて将校と相当官は軍服や装具も自前だった。官給品
などなかったのだから大変である。しかも高等官たる
身分相応の生活スタイルも大事にされる。子供だって
中学へ進ませなければ笑われる。奥様だって今の
ようにパートの仕事などに出せる時代ではない。

 陸軍の人事システムは、その性格上、ピラミッド形
をなしている。そこが海軍と違ったところで、大正時代、
海軍兵学校や機関学校へ行けば、だいたい誰でも
大佐になれた。それは階級とポストの数の関係を
見ればすぐ分かる。

 中隊の将校の数を見ればすぐわかる。歩兵を
例にとれば、中隊長は大尉1、中少尉は3から4名と
なる。歩兵大隊は4個中隊だから、少佐になる競争は
4人で1つのポストを争うことになった。少佐から中佐
へはそれほど激しい競争はない。しかし、大佐になる
のは大変である。3個大隊があるから3人に1人という
ことになる。さらにいえば、日露戦後は特進の下士・
准士官からの進級者も尉官の中には珍しくなかった。

 これに対して海軍は軍艦を例にとっても分かりやすい。
分隊には分隊長の大尉がいて、分隊士は1人である。
他には士官といっても「特務士官」「准士官」という人たち
がいたから、兵学校や機関学校、経理学校の出身士官
にとっては競争の相手ではなかった。

 こうして志気の下がった陸軍に、さらに追い打ちを
かけたのは世間の軍縮議論である。

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.20




『楠木正成の統率力 【第14回】 物と人を備えるということ 』
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

  『太平記秘伝理尽鈔』には、楠木正成が新田義貞や
赤松円心、足利高氏らと対談する場面がひんぱんに
あります。そのほとんどは、元弘の役で鎌倉幕府が
滅亡して建武の親政となり、官軍側の武将たちが
京都に詰めていたころに行われたものです。

 そこでは、当時の名将とされる人々との問答を
通じて、戦術・戦法や指揮・統率などに関する
楠木正成の考えや思いが遺憾なく述べられており、
たいへん面白く、かつ学ぶべきことが多々あります。

 そこで、今回から数回にわたり、こうした談議
のいくつかを紹介してまいります。今回は、
新田義貞との問答です。

 それでは、本題に入りましょう。


【第14回】 物と人を備えるということ

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


▽ 正成、義貞に籠城の資材準備を説く

 世の中が鎮まって後、新田義貞が楠木正成に問うた。

 「千早に籠城された時、楠木殿はどのようにして、
諸事について不足なく、郎従を扶助し、金銀・米銭
などを貯えられたのか。」

 これに対し、正成は次のように答えた。

 「私には、生まれつき親が貯えておいた宝物が
多くありました。また、湯浅の城を攻め落として
(注:赤坂城を奪還して)からは、和泉・河内にある
敵の所領を皆、取り集めて郎従たちに与えております。
その残るところを、多くはありませんが、全て千早
に備蓄させたのです。

 その時、胡麻・榧(かや=実から上等の植物油が
取れる)は云うまでもなく、一切の木の実を取らせて
油とし、よろずの草の若葉を取らせて乾して城に
貯えました。また、和泉・河内の両国に出向いて
民屋を収奪した折、食物の類は云うに及ばず、諸事
籠城の役に立つであろう物は全て取り立てて城に
籠めました。

 例えば、摂津国中島へ出向いたことがありましたが、
時は9月17日であったので、あらゆる所の稲を刈り
取らせて、藁(わら)を捨て置き、馬に負わせ、人夫に
持たせて、千早に運ばせ、厚さ六寸(約18センチ)の
槙の板で、長さ二丈八尺(約8.46メートル)、
横一丈二尺(約3.63メートル)、深さ二間(約3.63メートル)
に箱を作って、この中に稲を満たしました。また、正成
が居た家屋の下には、二間の深さに土を掘り、ここに
およそ駄馬3千余分の炭を埋めましたが、その大方
は和泉・河内の一年分の取り立て物でございます。

 そうは云えども、正成にはただ今も、我が手下の
郎従3千8百人、所従(しょじゅう=家来・従者)や
眷属(けんぞく=一族・親族)およそ2万人おりますが、
私の備蓄をもって二年は養うことができます。
そうだからと云って、郎従が自らの蓄えを持たない
ということはございません。また、郎従につらい
思いをさせて、私一人が欲深いこともござりませぬ。


▽ 十分な蓄えと質素な生活

 また、私の家の子・郎従で、軍(いくさ)に従事
する者であれば、自分の郎従、所従を一年や
二年養うだけの蓄えをしていない者はございません。
それというのも、普段千早に居住する侍は、
一百人にも過ぎません。それ以外は全て、それぞれ
自分の領所に居住しております。そうでありますから、
我が領内に荒れた地があれば、これを開墾し、
山に樹を植え、村には竹を立たせ、身には麻布の
粗末な着物を着せ、会合での食事は、二汁三菜
(ぜいたくでも粗末でもない程度)の外は用いません。
毎日の食事は一汁二菜、これが正成の通常の食事です。

 家のつくりは、芦ぶきです。それから、馬・物具・在京
の小袖(注:京都滞在中の武士の衣装。鎌倉時代
以降、多く表着されるようになる)などは嗜(たしな)み
として二通り、三通り持たないものはおりません。
正成は、国において華奢(かしゃ=はで・ぜいたく)な
ことをしないので、郎従も皆、そうなのです。

 今、在京の武士は幾万騎かおりますが、正成の
郎従ほどに実に身ぎれいにしているのはおりません。
この夏も、5百人を召し上らせて京都警護の番を
務めております。この5百人を残る3千3百人により
世話をして上京させております。領四十分につき、
その一つ(=自分の所領から得る収穫の四十分の一)
を集めて彼らの賄賂(まいない=在京のための費用)
とします。私も領四十分につき、その一つを出すこと
は郎従に同じです。」


▽ 部下の身分を向上させる

 また、義貞が述べた。

 「その当時、楠木殿は昔から代々にわたり奉公してきた
中間(ちゅうげん=侍と小者の間の身分)、下部(下男)や
そのほかに侍(上級武士)たちにも賞禄を与えられる
ことがなく、しかも新たに無能・無芸の侍たちを召し
置かれたとうかがっておりますが・・・。」

 それについて、正成が語ったことには、

 「いや、そうではなくて・・・、私はその昔には中間
や下部まで(身分の低い者たち)5百余人を持って
おりましたが、その下部を中間にさせ、その中間を
侍にさせ、所領を持たない侍であれば、夫々に
所領を与えて領主にさせました。人並みの者は
このようにいたしました。そして、人より勝れた功績
が有った者に限って、その功績に随って賞禄を与えたのです。

 こうしたことから、新たには中間か下部としてしか
召し置かなかったのです。その外は、降参した人、
縁があってやってきた侍だけでした。

 今また、河内・摂津の国を手に入れましたので、
それなりに郎従たちにも所領を与えたのでございますぞ。
(義貞が述べた)当時の下部とは、今の中間、中間は
侍になっております。そのようなことから、私が
召し使う侍は、いかにも無作法で、礼儀作法も見苦しく
ございます。

 しかしながら、これは理にかなったことでしょう。
主が「体」であれば、郎従は四つの「手足」であると
さえ云われるものでございます。彼らは正成を頼り
とし、正成は彼らを頼みとしてこそ、大君の御大事
にも皆が一丸となって馳(は)せ参じることができたのです。

 ですから、正成が君恩を受けながら、何ゆえに
郎従を昔の身分のままで置くことができましょうか。
また、私が大事とするのであれば、彼らは何ゆえ
それに背くことがありえましょうか。こうした思いから、
このようにいたしたのでございます」

 とのことであった。

 これを聞いた義貞や(赤松)円心以下の人々は、
それまでに無いほどの深い感銘を受けたのであった。


(「物と人を備えるということ」終り)

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.22




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (9) ─ 統合幕僚監部(その1) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。
今週から4回にわけて統合幕僚監部のお話です。
軍事情報の読者の方なら「なにを今さら」のネタ
かもしれませんが、よろしければお付き合いくださいませ。


●時代に沿う形で生まれた統合幕僚監部

ここ数年、自衛隊関連のニュースなどで「統合幕僚監部」
「統合運用」「統合任務部隊」など、「統合」の冠が付いた
言葉を聞くことが増えました。ここでの「統合」とは、
「陸海空自衛隊をひとつにまとめる」という意味です。

かつての自衛隊は陸海空各自衛隊がそれぞれの
作戦構想に基づき単一で行動するのが基本で、
防衛庁長官(当時)への補佐も各幕僚長が個別に
行っていました。横のつながりは最優先事項で
はなかったため、統合調整や統合部隊の運用等に
ついて長官補佐の役目を担っているはずの統合幕僚
会議の影は薄く、私のような素人からすればなにを
やっているのかさっぱりわからない飾り物の集団に
見えました。各自衛隊も自分達のフィールドだけを
まっすぐ見ていて、左右の異なる制服を着た自衛隊
など眼中にないといった感じでした。

しかし時代は変わりました。冷戦時代のような
わかりやすい対立ではなく、現代の新たな脅威は
より複雑なものになりました。自衛隊の役割もおのずと
多様化し、それらの脅威に迅速かつ効果的に対応する
ことが求められました。そうなると、今までのような単一
の部隊運用のみでは限界があります。陸海空自衛隊
を効果的かつ一体的に運用するには、統合運用体制
が不可欠なのです。

統合運用とは、複数の自衛隊が共通の目的目標を達成
するために、陸海空自衛隊ごとに個別に活動を行うので
はなく、はじめから一体となって活動を行うことをいいます。

統合運用では各自衛隊の持ち味特色を最大限に引き出し、
相互に連携することによって効果的に任務を遂行できる
という利点があります(例えばヘリでの飛行ひとつ取っても、
樹木すれすれや隙間をぬって飛ぶような『ほふく飛行』に
慣れているのは陸自、何の目印もない洋上を飛ぶなら
海自といった具合です)。

そこで平成18年3月に統合幕僚会議が廃止され、新たに
統合幕僚監部、通称統幕が設置されました。統幕は
陸海空すべての部隊運用の権限を持っているので、
軍事専門的観点からの長官への補佐も、統幕長が一元的
に行うことになりました。

新設以来8年が過ぎた現在、自衛隊の統合運用は共同
訓練や災害派遣などにおいてその力を確実に発揮しています。

次回は、従来の運用体制と統合幕僚監部新設による
新たな運用体制の相違点などをご紹介します。

(わたなべ・ようこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.21




荒木 肇
『学校制度と軍隊──大正時代の陸軍(43)』
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□ご挨拶

 気がついたらもう暦では処暑、昼間は猛暑でも朝夕は
めっきり涼しくなりました。それにしても、広島の土石流
の被害に遭われた方々にはお気の毒としか言いようが
ありません。ご遺族の皆様には心からお悔やみを
申しあげます。また、災害現場で苦労される自衛官、
消防官、警察官、医療関係者の方々、支援をされる
自治体職員の皆様、ありがとうございます。

 総合火力演習(24日本番)を研修させていただきました。
残念ながら雲が厚く、海自のP3対潜水艦哨戒機や
空自F2支援戦闘機(対地攻撃機)は目にすることは
できませんでした。後段演習は「某国軍隊が南西
諸島に侵攻した」という想定で、わが富士教導団が
これを撃破するといったシナリオでした。

 観客の多くはその圧倒的な火力の使い方に
驚かされたことでしょう。演習が終わった後の会食場
では岩田清文陸上幕僚長が、「いくさは弾丸先(たまさき)だ」
と何度も仰っていました。いつものように与党の国会議員
ばかりではなく、今回は会計検査院の方々もみえた
とのことでした。予算を握る方々に少しでも現場を
理解してもらうことは大切です。

 今日は、先週に続いて人事のことです。学校の
制度改革があると軍の学校もたいへんです。
まず、今回は当時の社会の学校と軍隊のことです。

▼江戸時代から能力主義はあった

 明治から始まる近代社会は「階層社会」だった。
その階層は主に「学校歴」で決定された。
つい少し前まで、封建時代だったから身分格式
がうるさかった時代である。だから軍隊の士官
とは天皇陛下の直臣の、江戸時代では幕府旗本
の士と同じと受け止められた。それになるためには
「陸軍士官学校」へ入ればいい、海軍なら「兵学」
を学ぶ「海軍兵学校」に入ればいいのだというのは、
ひどく分かりやすかったことだろう。

 わが国には西欧諸国とは違った行き方の結果
だけれど、独自の合理主義が社会の中で育ってもいた。
だからこそ、幕末以来の国民の努力や頑張りで、
日清・日露の両役を乗り越え、あの大東亜戦争
まで戦うことができるようにもなった。

 江戸時代をことさら悪くいうために明治政権は
さまざまなデマを流した。「革命政権」とは
そういうものである。前時代のことを低く評価
しなければならない。自分たちの存在意義が
なくなってしまうからである。たとえばそれは
『家老の子は馬鹿でも家老になれた』『士農工商
の別を超えて自由に職業が選べなかった』などなど
である。こうした誇張された言葉は、明治資本主義、
自由主義社会の代表者である福沢諭吉などの
言説によって、さらに強く印象付けられることにもなった。

 ところが、実態は言われてきたほどひどくはなかった。
学問に打ち込み、あるいは仕事に誠実に立ち向かった
結果、成果を認められ庶民から武士に取り立てられた
ことも珍しくない。また、一芸に秀でた人も社会的な
身分上昇を果たすこともあった。何より興味深いのは、
武士の身分(株といった)を金で売買をしたことである。
下級武士ばかりか、上級といっていい幕府旗本にまで
「金あげざむらい」がいたことは事実だった。
また、豊前中津奥平家の下級藩士だった福沢自身が、
幕末には高く能力を評価され、アメリカにも渡航を
許されていたのである。

▼官吏とは高等官と判任官

 さて、大正時代の官吏(かんり)を身分で分けると
高等官と判任官になった。高等官は上から順に
親任官(親任式が行なわれる)、勅任官(勅語に
よって任じられる)、奏任官(天皇に奏上して裁可を
受けて任じられる)の3つに分かれた。親任官は
陸海軍大将、内閣総理大臣などの臣下ナンバーワン
である。勅任官は1等と2等に分かれる。陸海軍中将
が1等、同少将が2等である。陸海軍大佐は奏任官
たる高等官3等、同じく中佐は4等、少佐5等、
大尉6等、中尉7等、少尉8等となっていた。

 多少、面倒になるが同じランクの文官も並べてみよう。
親任官では枢密院議長、枢密顧問官、内大臣、宮内大臣、
国務大臣、特命全権大使、神宮祭主、大審院長たる判事、
検事総長たる検事、会計検査院長、行政裁判所長官、
朝鮮総督、朝鮮総督府政務総監、台湾総督ということだ。
高等官1等は案外少ない。宮内次官、宮内省掌典長、
李王職長官、それと陸海軍中将と相当官。つまり、
軍医総監、主計総監などである。

 陸海軍少将と同格の高等官2等となると数多い。
ただし、なかには在任中に1等に上る人もあるポスト
の一部は以下の通り。内閣書記官長、法制局長官、
賞勲局総裁、学習院長、各省次官、特命全権公使、
控訴院長、帝国大学総長、関東州庁長官、樺太庁長官、
警視総監、府県知事などなど。これで師団長が中将で
あるという理由の一つも分かる。師団長は師管区を
総覧する。このとき、師団長が列国のように少将だったら、
府県知事より格下になってしまう。

 大学の教員も優遇されていた。勅任教授とか中将相当
の人などかなり多かった。また助教授ですら高等官3等、
つまり陸海軍大佐と同じなのだ。

 軍人に限っていえば、大将から少尉までの将校と、
そのそれぞれの相当官(ただし大将にはない)の9階級が
高等官、准士官から3等下士(陸軍では伍長)までの
4階級が判任官である。

 もちろん、文官にもまったく同じ仕組みができていて、
たとえば小学校訓導(教諭のこと)は判任官待遇であり、
これは中等学校である師範学校卒業だからである。
帝国大学教授なら親任官もおり、ふつうは1等、もしくは
2等が当たり前、判事、検事といった司法官もみんな
高等官だった。

 下級官吏である判任官の任免は、役所の長官が
天皇陛下から委任された人事権で行なった。准士官である
特務曹長が判任官1等、曹長は2等、軍曹3等、そして伍長
が4等だった。

 文官の判任官を「属(ぞく)」ともいった。この下に
雇員(こいん)や傭人(ようにん)といわれる多くの人がいた。

 属の官名を列挙しよう。外務書記生、裁判所書記、看守長、
帝国大学助手、文部省直轄学校助教授などである。ただし、
帝国大学の助手などは数年で講師にのぼり高等官7等(中尉相当)、
また数年で助教授になれば、ただちに高等官5等(少佐相当)になった。

▼学校教育制度と階級

 学校教育は初等教育、中等教育、高等教育に分かれた。
初等教育とは尋常科6年の義務教育と、義務ではない
高等科2年の小学校教育をいう。大正になると進学熱の高まり
のなかで高等科にまで進ませる親が増えてきた。また、
夜間に空いた小学校校舎を使った実業補習学校という仕組み
もあった。

 中等教育とは男子のみの中学校、女子のみの高等女学校、
実科女学校、師範学校(男女)、工業学校(主に男子)、
商業学校(同前)、農業学校(同前)などである。判任官に
なれる資格をもっていた。大企業に入れば準社員などと呼ばれ、
工場では技師(高等官相当)の下で技手(ぎて)と呼ばれ、
小学校卒業者の職工(一般工員)の上に立った。
 

 高等教育機関とは、帝国大学、官公立単科大学と
高等学校、実業専門学校、専門学校のことをいう。帝国大学
は大正4(1915)年では東京、京都、東北、九州の4校で
ある。ここに進学できた者は同学年男子100人の中の1人
もいない。高等学校とはもともと高等中学校からできた名前
である。大正の中ごろには官立(国立)には第1から第7まで
の7つの高校しかなかった。華族の子弟を学ばせる学習院も
高等学校として扱われた。

 実業専門学校とは高等工業学校、同商業学校、同農林学校
などが中心でほかに蚕糸、鉱山、染織などの特徴的なものである。
また、専門学校とは、医学、歯学、薬学、音楽、美術、外国語
などの専門職養成の学校だった。師範学校の上部にあり、
中等学校教員を養成しようとした高等師範学校は全国に2校
しかなかった。東京高等師範はのちに、東京教育大学、そして
筑波大学になった。女子高等師範も2校で東京と奈良にあった。
その後身はお茶の水女子大学と奈良女子大学である。

 また、大正時代の教育改革のおかげで「大学」になった、
慶應や早稲田、明治などもそれまで勝手に大学を名乗っていたが、
ほんとうは専門学校だった。1918(大正7)年末の「大学令」の
公布で初めて本物の大学として認められるようになった。
この新しい大学の数々は、昭和戦前期を通じて帝国大学3、
官立単科大学11、公立5、私立26の合計45校である。
帝国大学は北海道、大阪、名古屋であり、官立単科大学は
東京商科(のちの一ツ橋)や神戸商業の各大学、新潟医大、
岡山、千葉、長崎、金沢などの医科大学、工業大学は東京、
大阪であり、他に東京文理科大などである。

 陸軍士官学校と海軍兵学校、同じく機関学校、同じく
経理学校は、やはり中学校を卒業した者が受験する高等教育
機関である。陸軍も明治のころには主計官(経理部将校相当官)
養成のために経理学校ももっていたが、一般からの募集と
内部昇任で欠員を補充するようになっていた。陸海軍とも
兵科将校・海軍機関将校はそれぞれ士官学校、兵学校、
機関学校で養成したが、経理部相当官や衛生部医官、
薬剤官、技術系士官(海軍造船・造機・造兵士官)などは
一般大学や専門学校卒業者を募集していた。

 この任官時の扱いが学校歴と階級の実例にふさわしいので
挙げておこう。帝国大学医学部や大学医学部の卒業者は
中尉相当官、医学部附属医科専門学校卒や私立医専卒は
少尉相当官だった。

▼ 陸軍幼年学校

 文部省の管轄下にない学校がいくつもあった。なかでも
陸軍幼年学校は興味深い。それは小学校卒業と同時に
入学できない。軍の組織のなかにあり教官や助教は現役の
軍人だが、本人たちは兵籍に入らない。一般の中学生は
外国語といえば英語だが、幼年学校では仏独露語を
教えていた。

 この学校の授業料は有料だった。もっとも、設立のねらい
のなかに、「戦死病死した幹部の子弟のため」ということも
あったし、「将校になる階層から子供を集めたかった」という
こともあった。たかが、月謝の10円くらい払えない階層の
出身者には将校は向かないとされたのである。

 寄宿制で集団生活を送ったが、そこでは将校の卵である
ことをとことん教えられた。ふつうの中学校で教えるような
内容が丁寧に教えられた。軍事に関わる訓練や授業は
きわめて少ない。のちになって中等学校にも現役将校が
配属され「学校教練」が熱心にいわれるようになってみたら、
幼年学校の方が軍事教育の時間が少なかった。

 問題になっていたのは、この幼年学校出身者と一般中学
卒業生の間の確執である。競争意識と言ってもいい。

 次回は、大正時代の陸軍の不人気で士官候補生志願者
が減ったこと、それへの対策、また学校の入試制度が
変わったことが陸軍へどのような影響を与えたかを書こう。

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.27




『楠木正成の統率力 【第15回】 敵の夜討ちと返り忠を防ぐ 』
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 今回と次回の二回に分けて、敵の夜討ちや
返り忠(裏切りを促す謀略)への対応策について
の楠木正成と足利高氏・赤松円心との問答を
ご紹介いたします。そこには、いかなる時でも
部下の心をしっかりつかんで動かす、楠木の
統率力の「神髄」を垣間見ることができます。

 それでは、本題に入りましょう。


【第15回】 敵の夜討ちと返り忠を防ぐ

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


▽ 赤松円心が抱いた疑問

 世の中が静まってから、足利高氏の宿所に
おいて、武将とその家臣らが集まってあれこれと
語りあった次いでに、赤松円心が正成に質問した。

 「元弘の合戦において、千早での寄手(=攻撃側)
の大将は、城への夜討ちを全く実施いたしません
でした。古(いにしえ)から常々申し伝えられている
ことでありますが、敵が強固に守備する城を攻める
には、いくつかの戦法がございます。

 一には、夜討ち。二には、城中に返り忠を求める。
三には、偽の和睦による智謀。四には、敵に負けた
ふりをして油断させて勝つ謀。五には、食絶(兵糧
攻め)でございます。楠木殿ほどの戦(いくさ)の
達人に、いまさらこれらの一つひとつを申すには
及びません。

 これらは皆、城攻めの「定石」ともいうべきもので
ございますが、東国の将は一度もこのような謀が
なかったことが、なんとも不思議でございます。」


▽ 千早城での夜討ちへの備え

 これに対して、楠木正成は次のように述べたのであった。

 「東国の将も、その謀がなかったわけではございません。
第一に夜討ちは、中々実施できるものではなかった
のです。それは、この私が千早には多くの兵の中
から8百余人をより選って籠らせていたからです。
これを何らの手立て(作戦)も無いままで攻めようと
する敵ならば、たとえ天竺(インド)や唐土(シナ)の
軍勢であっても落とせるものではありません。

 そうであれば、夜討ちこそが気がかりであると
考えて、夜の番兵2百人の内、二つに分けて百人
を酉の刻(午後6時頃)から子の刻(午前0時頃)まで、
それぞれの役所(城内にある番兵の詰所)へ5人
から10人を配置し、櫓(やぐら)ごとに派遣しました。
また、子の下刻(午前1時頃)から卯の刻(午前6時
頃)まで、もう一方の百人を遣わして、それぞれの
役所の番を交替させ、先番を休ませました。

 次の夜は酉の下刻(午後7時頃)から、先の夜の
暁天(後半夜)に番をしていた百人を、先の夜と
同じように守らせ、子の下刻(午前1時頃)からは、
先の夜の宵(前半夜)に番をしていた百人をもって
守らせ、役所の守備を堅固にしました。これら
番兵の気を弛ませないため、城には鐘を十二の
時間に(=2時間に一回)つかせました。

 また、追手・搦手(おうて・からめて=正面と裏側)
の2箇所以外には城戸を構えませんでした。
この二つの門には篝火(かがりび)を焚かせました。
門脇と呼ばれる番兵20人は、篝火から二十余間
(約36メートル以上)ほど離れた所に配置し、
二時(4時間)ごとにこれを交代させました。20人
の内、2人が雁番(かりばん=休まずに立哨している
番兵)です。それと云うのも、20人の篝も、時間が
過ぎていけば、うつむいて眠ってしまうものであり、
忍びの兵はこの居眠りの間に通り過ぎるもの
だからです。2人は雁のように、代わる代わる
四方を見回すようにさせます。

 廻り番(巡察隊)60人は、10人を一組として、
毎夜六回から七回、風雨の夜は十回に及んで、
塀の裏、樹木の間を巡回します。松明(たいまつ)
三つをとぼして三十間(約55メートル)から
四十間(約73メートル)先を前進し、「御陣に
ご用心」と呼びかけて、それぞれの役所の番に
怠りが有るか、無いかを見るのです。そして、
役所の櫓々から一夜に五〜六回は車松明を
投げて空堀の中を照らし、また通常の松明を
打ち出して忍びを発見します。


▽ 正成自らも巡回して番兵たちをねぎらう

 その上、正成自身が毎夜三〜五回程は
選りすぐった郎従10人を引き連れて、松明を
二つ持たせ、雨の夜は三回の内一回は、植木
の内側を行かせました。何れも正成に先立つ
こと二十間(約36メートル)〜三十間(約55メートル)
であり、各役所を訪れて、番の兵に心から慰労の
言葉を投げかけました。

 もしも、怠っている者がいたならば、「これももっとも
なこと。数日のお疲れ、ご苦労様」と云って怒ることなく、
さらに、かたわらで怠りなくやっている者には、少しの
引き出物(褒賞品)を与えて通り行けば、始めは
怠っていたものも、後には恥ずかしく思って怠らなく
なるものです。そうすれば、兵たちは一ヶ月の中に
何回褒賞品を与えられたかということのみを面目
とするようになるものです。

 その上、正成は終始、くつろいで眠ることをせず、
小具足を着けて、物具(もののぐ)によりかかって
まどろみました。このため、非番であった兵も皆、
毎夜小具足を着けて物具・甲を枕にして伏せて
いたといいます。

 また、非番の者が夜回りすることを堅く禁止しました。
正成がその役所や宿所に到着した時、「何々殿」と
呼ぶのに対して素早く答えることができた者には、
これを取り分け褒め讃えましたので、非番の者も皆、
少しであっても夜居眠りすることがありませんでした。
さらに夜の番兵たちにも、番の郎従にも、三日に
一度は合言葉を替えて、問い、答えさせたものです。


▽ 門の出入りを厳重に警戒

 下部(しもべ=下級の者たち)の門の出入りですが、
出ることは問題ありません。

 入るのは番の役目として「どなたのもとへ」と問い、
名字を言えばその侍を呼び出してこの者を引き渡します。
書状が有ったとしても、そのまま通してはなりません。
また、相手が侍であればその名字を言うのに対し、
番の兵が知っていれば通し、また、見知らぬ者であれば
正成に通知して然るべき人に来てもらい、この者と
面会させます。さらに、番兵が見知っていて通す時にも、
その通門者は(番の)我が郎従の顔を自ら見て、その名
を言ってから入れます。

 通門者が正成に急の用があるならば、郎従一人を
番兵に引き合わせて、その郎従が通門者を連れて、
先のようにして通るようにします。

 こうしたことから、寄手が夜討ちの手立てを仕掛けてきた
としても、そのたびに追い返されてしまい、謀も成り立ちません。
その上、正成も敵の陣中に忍びの兵を50人、その内30人
を吉野からも潜入させ、城からも出して敵の作戦を
知り尽くしておりますので、敵にとって夜討ちなどは
思いもよらぬことだったのです。」


▽ 正成が示した返り忠の防止策

 また、城中での返り忠への対応策について、正成は
よく計らっていたものであった。正成は最初に、次の
ような指示を出し、全員に徹底していた。

 「千早へ敵が攻め寄せようにも、力攻めで城が落ちる
ことはあり得ない。そうであれば、城中の兵に、誰かを
定めて陰謀を図ろうとするであろう。その時でも、その兵
は一つの忠をなされよ。それは、寄手は定めた相手に
『城を落とすことができたならば、賞を与えよう』と言うに
違いない。そうであれば、その印(約束の証文)を取って、
正成に見せるようにせよ。所領であれ、金銀であれ、
敵の印の二倍を正成が与えよう。

 また、昼間に適当な機会があれば敵に会いに
行ったり、語り合ったりすることもよい。しかし、非番で
あるからといって酉の刻(午後7時頃)を過ぎて、
あちこらを歩き回って誰かに参会したり、語り合ったり
してはならない。」


▽ 失敗した足利高氏の「返り忠」工作

 このことに関連して、正成が高氏に語りかけた。

 「かつて足利殿から返り忠の工作がありましたな。
私の郎従である早瀬吉太という者に『貴殿が役所から
手引きするならば、二千貫の所領を差し上げよう』と・・・、
それには大仏殿の御判がありました。また、当座の
御引出物に五百両の黄金を与えられましたが、正成は
すぐに千両の黄金を彼に与えるとともに、『四千貫は
縁起が悪いので、五千貫の領を(早瀬に)知行せよ』
と命じたのでありました。今、約束のとおり五千貫の
領主となった早瀬右衛門という者がこの人物です。

 そして、夜討ちの日が示されて、どのように実行する
かも決定され、「人質をいただこう」という段階になって、
吉太は私に『どうしましょうか』と相談してきましたので、
私はこのように指示しました。

 『親類は皆、城にはおらず、妻子も南都の方に居る
ので、人質に差し出すことができないという理由で、
やむなく一枚の告文(神仏に誓う文書)を出することで
ゆるしてもらうようにせよ。』

 これを足利方に伝えさせたところ、『そうであれば、
告文でよかろう』という返答があったので、告文を
出させました。

 そして、城を夜討ちしに来た敵の軍勢3百人、
大将は細川九郎義実でありましたのを、早瀬が
城の中から険しい嶺の下へと呼び寄せました。
ちょうど寄手が来たところで、敵から見える所で
城兵数人が吉太を押さえつけるや、上から大きな
石を次々と投げかけました。少し間をおいてから、
寄手が散らばった所に松明を打ち出して、その光に
よって敵を射たところ、大将を討ち取りました。
敵の郎従もまた、数多討たれておられましたな。」

 これを聞いた高氏は、

 「さては、あの告文は虚言でありましたか。今まで、
あの男に裏切られ、騙されておったのですか」

 と問うた。そこで正成は答えた。

 「彼が告文を破ったのではございませぬ。あの
告文は正成が自ら書いたものでございます。また、
彼に神仏への誓いを破らせることは、天罰を受ける
恐れもありますれば、吉太を取り押さえることで敵で
あるかのように行動させ、このようにしたのであります。」

 これを聞いた高氏は、正成の部下を思う心に感じ入って、
思わず笑った。

 そしてすぐに、高氏は

 「その時にこそ、私が最も頼みにしていた郎従たちが
63人も楠木殿に討たれてしましまったのか・・・」

 と述べつつ、涙ぐんだのであった。


(「敵の夜討ちと返り忠を防ぐ」終り)


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.29




『防衛ライター・渡邉陽子のコラム (10) ─ 統合幕僚監部(その2) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。
明日は一緒に暮らしている猫の14歳の誕生日です。
といっても正確な生年月日は不明なので、一緒に
暮らし始めた日を誕生日としました。福島第1原発事故
で無人となった浪江町に取り残され、1年間ひとりで
生き抜き、2012年3月にボランティアさんによって
保護され、シェルター生活を経て、家族になりました。


●新たな体制、統合運用で変わったこと

従来の運用体制と統合幕僚監部新設による
新たな運用体制では、どのような点が異なる
のでしょう。

前述した通り、かつては陸海空自衛隊の幕僚長が、
各自衛隊の運用に関し個別に長官を補佐していました。
各々の軍事専門的観点から長官を補佐すると、
同一の事案に対しても各幕僚長が異なる見解を示す
ということもあったでしょう。

一方、長官も幕僚長ごとに命令を出していました。
遭難した船を海自の艦艇が救助するにあたり、
空自の航空機が先行し船を見つけ位置情報を知らせる
といった任務の場合も、長官は海自と空自の別々に
命令を出していたのです。一般企業でこんなに
効率の悪いことをしていたら、あっという間に倒産しそうです。


統合運用体制になってからは、統幕長が陸海空自衛隊
を含めた統一的な運用プランを立案し、防衛大臣を補佐
(防衛庁は平成19年1月に防衛省へ移行しました)。
大臣の指揮は統幕長を通じて行いますから、今なら船を
救助する場合は、大臣が統幕長に一度命令を出すだけで
済みます。大臣の補佐についても、各幕僚長の意見を
統幕長が取りまとめて一括して行うことで、より的確かつ
適切なアシストが可能となりました。


統幕長のもとには陸自の各方面総監、海自の自衛艦隊
司令官、空自の航空総隊司令官、そして任務によって
編成される統合任務部部隊指揮官等がいて、部隊運用
の責任を司っています。いわば部隊を使う側、フォースユーザーです。


一方、各幕僚長や各幕僚監部等は部隊を提供する
フォースプロバイダーであり、人事、教育、訓練、防衛力
整備といった部隊運用以外を担っています。

統合運用以前はフォースプロバイダーの仕組みしかなく、
隊員の養成や訓練から装備品の選定と購入、維持整備、
それを実際に運用するという一連の仕事を、各幕僚長が
ひとりで抱える体制でした。現在では各幕僚長が運用に
供するような部隊や装備品等を準備、統幕長はそれらを
任務に応じて適切に取捨選択し、命令を出すという流れ
ができあがっています。


もちろん統合運用体制になったからといって、各自衛隊
だけでの運用がなくなったわけではありません。小規模
の災害派遣では陸自だけで動くことも多いし、単一自衛隊
で実施する国際平和協力活動等もあります。現在の
自衛隊の運用には、統合運用と単一部隊の運用という
2つの形態があるということです。

さらに統合運用は、単独の指揮官を置いた統合任務部隊
による運用と、複数の指揮官のもと協同による運用という
ケースに分けられます。前者は弾道ミサイル防衛や島しょ防衛、
大規模震災対処で、派遣された各部隊の指揮官の中の一人
が統合任務部隊の指揮官としてすべての部隊を指揮します。
後者は、共通の目的であっても活動範囲が明確に分かれて
いる国際緊急援助活動などで適用されます。

次回は統合運用による自衛隊の具体的な活動を、いくつかご紹介します。



(わたなべ・ようこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.28




陸軍機 vs 海軍機(7)       清水政彦
「零戦と隼(6)」
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こんにちは。清水です。
「零戦 vs 隼」の6回目です。
今回は、とても重要ははずなのに、
なぜか謎の多い「照準器」について見ていきます。

▼望遠鏡式照準器の長所と短所

 隼の初期型は、風防ガラスから前方に
突き出した望遠鏡のような形をした照準器を
装備していた。これはドイツのOIGEE社の
製品をもとにしており、当時は望遠鏡式
照準器一般を指して「オイジー」と呼んでいたようだ。

 その構造は、地上戦用の照準スコープと
ほぼ同じで、パイロットが接眼レンズを覗き込むと、
視野の中心に円環状のレティクル(照準目盛り)が
映り込む仕組み。地上のスコープと違う点は、
倍率がない代わりに視野が広く、かつレンズ
から多少目を離しても像を見ることができること
である。パイロットは顔を照準器にピッタリと
つける必要はなく、前かがみになって目を
レンズに近づければ照準できた。ただし、
像を見るためには右目を接眼レンズの真後ろ
に持ってくる必要があり、目の位置が少しでも
前後左右に外れると像は見えなくなる。

 像が歪みなく見える範囲は20度(上下左右各10度)
とされており、一般的なイメージに反して結構広い。
しかし、その外側は鏡体の影が大きく円環状に
映り込んで死角となる。左目を閉じなくても
像は見えるので、視野の周囲に生じる死角は
左目で補うことになる。

 望遠鏡式の照準器は、照準精度という点では
大変優秀で、現に今でも陸上で使われている。

 しかし、戦闘機用として空中戦で使用する場合、
1)風防から突き出した鏡体が空気抵抗となる、
2)温度(高度)の変化によりレンズが曇る、
3)視野の外側が死角になるため高速のターゲットを
照準しづらいといった欠点が生じ、これらの問題は
望遠鏡式照準器の機構上、克服困難なものだった。

 一方、望遠鏡式には有利な点もある。それは、
照準を行なう際に重要な「下方見越し角」が大きく
取れることである。望遠鏡式照準器の視野は、
風防から前方に突き出した接眼レンズの
位置(エンジン直後やや上あたり)から覗いた
光景であるため、コクピット内よりもはるかに視点が
前にあり、エンジンの影が下方視界を妨げることが
ないのである。

 このため、零戦より3年も遅い1943年に
デビューした新型艦上爆撃機「彗星」は、
下方見越し角が制限される光像式照準器を
捨てて、あえて下方がよく見える望遠鏡式
照準器を採用している。

 急降下爆撃の際は大きな下方見越し角が
要求される一方、照準器の空気抵抗はあまり
重要でなく(むしろ急降下爆撃の場合は
エアブレーキが必要)、ターゲットは艦船や
地上目標であるため高速目標に追随する
必要もないから、望遠鏡式照準器でもとくに
不利益はない。レンズの曇りの問題は、
対物レンズ周辺部に暖房装置を付けることで
解決している。

▼光像式照準器の登場

 1930代半ばまで、戦闘機の機体構造は
羽布(はふ)張りで、翼面や胴体面は機体の
構造強度を負担していなかった。翼面や胴体に
いくら銃弾を命中させても羽布のキャンバス地
に小さな穴が開くだけでほとんど効果がないため、
撃墜するためにはパイロットやエンジンを狙い撃ち
する必要があった。

 また、この時代はまだ飛行機が低速で、
戦術も小回りの急旋回を駆使した巴戦(ドッグファイト)が
主体だったので、至近距離でなければ命中弾が
得られない。逆に、敵の背後さえ取れば、
至近距離からパイロットを「狙撃」することも可能
な時代だった。

 1930年代の後半まで、戦闘機に陸上の
狙撃スコープと同じ「望遠鏡式照準器」が
主用されていた理由はここにある。

 しかし、飛行機が高速化するに従い旋回半径
が大きくなり、旋回中のパイロットが受ける
加速度が人間の生理的限界を超えるため、
ドッグファイトは成立しにくくなる。ドッグファイトを
避けた高速空中戦では、自機とターゲットの
相対的位置関係が短時間で目まぐるしく変化するため、
至近距離で背後を取ることは容易でなく、
ある程度の距離をとらなければ敵を照準器に
捉えることすら困難である。

 高速のターゲットに遠距離から弾丸を命中
させるためには、弾丸の飛行時間を加味して
ターゲット機よりもかなり前方の空間を照準
(偏差射撃)する必要がある。さらに射撃準備の
段階では、ターゲットのはるか前方に向けて
アプローチしなければならない。

 たとえば、ターゲットが時速500キロ(秒速139メートル)
で飛行している場合、ターゲットを照準器の外に置いて、
その数百メートル前方に向けてアプローチし、
機影が照準器の一番外側に差しかかった直後に
引き金を引かなければ間に合わない。

 もちろん、真後ろから追尾する状況になれば
修正照準量は小さくなるが、理想的な奇襲の
状況を除けば自機とターゲットの飛行方向は
一致しないので、結局のところかなり大きな
修正照準が必要になることが多い。

 そして、視野の外側に大きな死角がある
望遠鏡式照準器では、大偏差角による
射撃(ターゲットを照準器の外に置いてアプローチし、
照準器に入ってきた直後に引き金を引く)が
困難である。この欠点を克服したのが反射光像式
照準器(リフレクター・サイト)で、これを用いること
によって、パイロットは視野を限定されずに敵機
にアプローチし、射撃のタイミングを計ることが
できるようになった。

 光像式照準器の基本的なシステムは
各製品ともほぼ共通で、照準器の本体内に
電球があり、複数のレンズとスリット(照準環の形
を切り取ったもの)が組み合わされている。
本体の上にはレンズが露出しており、レンズを
上から覗くと遠距離に照準環の虚像が見える。
この虚像を斜め45度に傾けた反射ガラスを通じて
前方に投影することにより、パイロットは座席に
座ったままターゲットと照準環を重ねて見ることができる。

▼複雑すぎる海軍の「98式射爆照準器」

 望遠鏡式照準器からスタートした隼と異なり、
零戦の量産機は当初から光像式照準器を装備
していた。零戦に搭載された光像式照準器は
「98式射爆照準器」といい、この種の照準器と
しては日本で最初の製品である。当時は一般
に「OPL」(フランスの照準器メーカーの名)と
呼ばれていたが、その基本設計はドイツから
輸入した「Revi 2b」照準器の模倣であり、
フランス製品の影響はないようである。

 外観は、本体の箱の上に丸いレンズが
覗いており、レンズの上には斜め45度の
投影ガラスが覆いかぶさっている。さらに
投影ガラスの前方に遮光フィルターがある。
遮光フィルターは、明るい空を背景として
光像をクッキリと浮かび上がらせるための装備である。

 誤解されがちだが、98式の場合はレティクル
を両目で見ることはできず、片目で照準する
必要がある。照準器はわずかに右にオフセット
して設置されるので、パイロットは投影ガラス
を右目で覗き込む形になるが、筆者のように
利き目が左目であるパイロットは、かなり訓練
しないと照準自体が難しかったはずである。

 レティクル像は十分に遠い距離に投影される
ので、目の位置がズレても像は移動しない。
よって、右目の位置が照準器の中心から右に
ずれると、レティクルの中心は投影ガラスの
右端に移動し、左側の照準環だけが投影される。
また、レティクルはレンズを通して見えている
虚像なので、許容される視線のズレはレンズ
の大きさに制約される。

 視線を右にずらすとレティクルの右側は
(投影ガラスの範囲内であっても)欠けて
見えなくなり、左側の照準環だけが投影される。

 98式の場合、投影レンズは直径が50ミリ、
反射ガラスは幅70ミリ、高さ約80ミリ(45度に
傾斜しているので見た目の高さは約60ミリ)で
かなり小さい。しかも、零戦のコクピットは計器盤
と座席のスパンが大きめで、照準器とパイロット
の目の間の距離も遠くなる。

 通常姿勢におけるパイロットの目と照準器の
距離を50センチとすると、50センチ先にある
直径5センチのレンズを見越す角度は約100ミル
である。つまり、零戦の座席から普通に照準器
を覗くと、レティクルは半径50ミルの円環までしか
映らない。98式のレティクルは半径9度の範囲
まで設定されていた可能性があるが、このデータ
が正しいとすれば、通常の姿勢では照準環の
外側3分の2は像が切れて映らないことになる。

 つまり98式は、前かがみになって反射ガラスに
目をかなり近づけない限り、照準環の全体は
映らない。投影レンズが小さいので、許容される
目線のズレもほんの1〜2センチ程度でしかない。
これは理論的にもそうなるはずだし、筆者が所持
している98式射爆照準器のレプリカでも同様である。

 また、実物の98式射爆照準器(自衛隊が修復し、
土浦基地で展示)を撮影した映像がインターネット上
で公開されているが、ここでもカメラをかなり
近づけないと照準環の全体が投影されないという
現象が確認できる。

 98式のレティクルは五重の円環および十字と
X字を組み合わせた8本の放射線からなっているが、
これは諸外国の同等品と比べて複雑すぎるデザインで、
実戦での有効性は疑問である。

 たとえば、英軍の「Mk.2」の照準環は1つだけだし、
98式よりサイズがはるかに大きい米海軍の「Mk.8」
ですら照準環は半径50ミルと100ミルの2つに
まとめられており、パイロットは見越し角をひと目で
判定できる。

 前述のとおり、零戦と98式射爆照準器の組み合わせ
の場合、前かがみにならない通常の姿勢では、
レティクルの光像は半径50ミル程度までしか映らない
はずである。実戦では、目線を意図的にずらすことに
よって必要な視界を確保するしかないだろう。

 たとえば、照準器の右下から左上に向けて飛行する
ターゲットを狙う場合、目線を少し左上(ターゲットの
進路方向)にずらすことで、照準環の右下側に
大きな照準視界を確保できるが、それでも像が
映るのは中心点から100ミルくらいまで。よって、
外側の照準環は、意図的に視線をずらしたうえ、
さらに前かがみになって目を照準器に近づけた場合
にのみ現れることになる。

 要するに、「98式射爆照準器」はパイロットの姿勢や
目線によって照準環の見え方がまったく異なってくる
ムズカシイ照準器だということだ。

 このような設計(複雑なデザインのうち、ごく一部
だけが投影される)では、空中で咄嗟に見越し角を
判定することも、地上での射撃教育も難しい。
照準器のレティクル像を撮影したYoutubeなどの
動画を再生してみれば、この難しさを追体験できるだろう。

 また、1940年代の空中戦は偏差射撃が基本で、
ターゲットを照準器の中心に入れて射撃することは
まずないから、大げさなクモの巣状の照準線は必要ない。
むしろ、中心部に多数の光像が交錯しているとターゲット
や曳光弾の弾道が見づらく、修正射撃の妨げとなる。

 いずれの観点からも、98式の複雑すぎるレティクル
のデザインには実用性がなく、パイロットを惑わせる
だけなのではないかと思われる。

 現実にも、零戦をはじめとする海軍機の射撃命中率
は非常に低かったようだが、仮にその原因が欲張り
過ぎたレティクルのデザインにあるとすれば、
これは「欠陥」と言われても仕方のない大問題である。

▼改良された陸軍の「100式射撃照準器」

 望遠鏡式照準器から出発した隼も、2型以降で
「100式射撃照準器」という光像式照準器を導入した。
機構的には海軍の98式とほぼ同様であるが、
「100式射撃照準器」のレティクルは98式よりも
穏当なデザインになっており、近代的な偏差射撃
にはこちらの方が向いていたと考えられる。

 100式のレティクル像には偏差射撃に不必要な
十字線がなく、中心に照準点を示す小さな×印が
あるだけである。照準環は3重で、一番内側が
半径37ミル(約2度)、真ん中が74ミル(約4度)、
一番外側が半径111ミル(約6度)。111ミルの
見越し角は、射距離200メートルにおいては
約21.9メートルを意味する。

 隼の場合、照準器の装備位置は零戦よりパイロット
に近いが、投影レンズのサイズには大差がないため、
レティクルの映り込み範囲は98式より少し大きい
程度だろう。一番外側の照準環を用いて照準する
ためには、姿勢を少し前かがみにするか、または
視点をターゲットの進路方向にずらしてやる必要
があったと思われる。

 標的機との進路の交角が90度である場合、
「ホ103」の射弾が200メートル先まで到達する
時間は約0.23秒(自機が時速360キロで飛行して
いる場合を想定)。0.23秒の間に21.9メートル飛行
する速度は時速340キロ。自機が時速500キロで
飛行している場合、弾丸の到達時間は0.218秒
となり、ターゲットの速度は360キロ。
つまり、「100式射撃照準器」は、時速350キロ
前後までのターゲットであれば、真横からでも
照準が可能だということになる。

 もっとも、通常の射撃ではターゲット機との
進路の交角はせいぜい40度くらいまでが限度で、
これを超えるとアプローチが難しくなりすぎ、射撃
はまず命中しない。

 現実的な射撃の限度として交角40度を想定した
場合、111ミルの見越し角は200メートル先での
飛行距離に換算して34メートルに相当するので、
おおむね時速530キロまでのターゲットであれば
照準できる。これは、当時の飛行機ならほとんど
のターゲットが照準可能だということを意味する。

 この事実を考えると、海軍の98式射爆照準器で
採用された5重円環のデザインは、照準器の
技術レベル(レンズの大きさ)に対して過大で
あったと考えざるを得ない。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.27




陸軍機 vs 海軍機(8)       清水政彦
「零戦と隼(7)」
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「零戦 vs 隼」の7回目です。
今回は、前回の照準器の話題に関連して、
空中射撃の理論について触れます。

▼偏差射撃の要領

 空中戦で要求される「偏差射撃」では、
弾丸が目標に到達するまでのタイムラグ
を見込んで、その間にターゲットが飛行する
距離分だけ照準点を前方に修正する。

 偏差射撃に必要とされる「見越し角」
(ターゲットの現在位置と未来位置=照準点
のなす角度)は、(1)機関銃弾の弾速と、
(2)標的機の飛行速度、および(3)彼我の進路の交角
の3つの変数の関数となるが、意外にも、
ターゲットまでの距離は見越し角の算定には
無関係である。

 弾速は所与のデータであり、敵機の飛行速度
も事前に概ね想定できるので、基本的に見越し角
はターゲットと自機の進路の交角によって定まる。
したがって、戦闘機パイロットは進路の交角
(=敵機のシルエットの見え方)と見越し角の
関係を地上で頭に叩き込んでおかなければならない。

 典型的な後ろ斜め上方からの降下攻撃を想定し、
ターゲットの速度を時速500キロ、自機の速度を
時速550キロ、彼我の進路の交角を30度とすると、
隼が「ホ103」で射撃する場合に必要な見越し角
は約77ミル。零戦が「九九式二〇ミリ1号」で
射撃する場合、必要な見越し角は95ミル程度となる。

 弾速の速い「ホ103」の方がやや小さな見越し角で
命中弾を得られるものの、射撃時の見越し角は、
計算上の数値より十分大き目に取るのが望ましい
ので、20ミル程度の差は誤差の範囲である。

 ここで、見越し角を大き目に見込んでおくべき
理由は以下のとおりである。

(1)反応時間のタイムラグを織り込む

 まず、パイロットが射撃のタイミングを判断して
から発射動作(発射レバーの握り込み、または
発射ボタンの押し下げ)を行なうまでの反応時間、
発射動作の完了後に銃の撃針が前進→雷管
発火→装薬の燃焼→弾丸発射に至るまでの
タイムラグが無視できない長さになるため、
射撃開始の決断はそのぶん早めに行なう必要
があり、これに伴って必要な見越し角も大き目に
取る必要がある。

(2)敵速、交角に余裕を見る

 敵機の飛行速度は、事前想定よりも速い場合
がありうる。実際の速度が想定よりも遅い場合、
そのまま撃ち続けていればターゲットは一瞬
遅れて弾幕に飛び込んでくるが、実際の速度が
想定よりも速い場合はいくら撃っても弾が後方に
逸れて当たらない。また、進路の交角は目測に
頼るしかないが、三次元的かつ常時変化する2つ
のベクトルのなす角度を一瞬の目測で判定する
ことは難しい。実際には目測よりも交角が大きい
場合がしばしばあり、この場合も弾は後方に逸れてしまう。

 したがって、パイロットが「ここだ」と思う感覚より
も十分大き目の見越し角をとって射撃を始め、
弾幕の持続(撃ち続けること)によって誤差を
埋めるのが合理的である。

(3)無駄弾を撃たず、命中率を上げる

 反応時間や敵速、交角の見積もりに起因する
誤差の修正は、いわゆる「流し照準」を行なう
ことによっても解消しうる。しかし、「流し照準」
には無駄弾が多く命中率が低い難点がある。

「流し照準」とは、標的機の尾部から進路方向
に向けて、射撃を続けながら次第に照準点を
遠く離していく方法だが、これをやると命中弾を
得るまでに時間がかかり、かつ後方に逸れて
いく弾丸は敵機に何の脅威も与えないため、
ほとんどの射弾が無駄弾になる。

 しかも、小型機に対する命中弾を期待しうる
ような近距離では、思い切り操縦桿を引かなけ
れば敵機の機動より早く機首をめぐらすことが
できない。ゆえに、距離が近ければ近いほど
(敵機を追い詰めれば追い詰めるほど)、
照準を「流す」(照準点を前方に離していく)作業
は困難になる。

「流し照準」を試みる場合、射撃する側は
ターゲットに接近するに従って無理のある
高G機動を余儀なくされるため、機銃や弾倉
の故障が起こりやすくなる。さらに、機体の
動揺が激しくなって弾幕の密度が低くなり、
さらに大加速度によってパイロットの照準動作
が妨げられるため、総合的な命中率は低くなる。

 これに対して、(1)ある程度の距離から大き目
の見越し角を取ってアプローチし(距離が遠い方
が簡単に大きな見越し角を取れる)、(2)そこから
操縦桿をゆるめつつ距離を詰め、(3)敵機が照準器
に入ってきたらすぐに射撃を開始、(4)目標前方に
弾幕を張り、敵機が弾幕に突っ込んでくるのを待つ…
という撃ち方をすると、機首の引き起こし角が
小さくなるため操縦が容易、パイロットが受ける
加速度が小さくなり落ち着いて狙える、機体が
安定し弾幕密度が上がる、といった利点がある。

(4)有効な牽制射撃

 仮に射撃が命中しなくても、見越し角が大きい場合、
敵機のパイロットは眼前を横切っていく曳光弾の
束を必ず目にすることになるので、敵機に回避運動
(急旋回や急降下)を強制することができる。集団戦
においては、回避運動を強制することで敵の
射撃機会を奪い、かつチームワークを乱す効果を
生む「牽制射撃」は極めて重要な要素である。

 また、米軍機は一般に急旋回(速度を失う)や
急降下(高度を失う)を避け、高度を維持しつつ
高速機動に徹することで日本機の運動性を封じ込める
戦術をとった。牽制射撃により回避運動を強いれば、
日本機が得意とする低速・低高度での戦いに
持ち込める可能性がある。見越し角が小さいと
牽制射撃としての効果がない(無駄弾になる)が、
大き目の見越し角を取っていれば外れ弾も牽制射撃
として有効になる。

▼空中射撃における「下方見越し角」の重要性

 前述のとおり、射撃の命中率を高めるためには、
目標に対し大き目の見越し角をもってアプローチする
ことが望ましい。これはつまり、「敵機の進路のはるか
前方にまっすぐ機首を向ける」ことを意味するが、
実はこれが非常に難しい。はるか遠方の射撃点に
機首を向けると、ターゲットがエンジンの影に隠れて
しまうからだ。

 たとえば、時速360キロで飛行するターゲットを
想定し、自機の方がはるかに速く時速500キロで
追いかけたとしても、1秒間に縮まる距離は
40メートル。突入開始時点で距離600なら、200まで
詰めるのに10秒かかる。しかし、10秒後のターゲット
は1000メートルも先の空間を飛行している。
ターゲットの10秒後の未来位置は約1600メートル
前方になり、高度差が200メートルあったとすると、
射撃点へ直線的に降下しようとすれば、必要な
降下角は7度という浅い角度になる。しかし、現時点
でターゲットを見越す角度はマイナス19.4度で、
本来必要な降下角よりはるかに深い。仮に7度の
降下角を取っても、目標はさらに13度ほど下に
あるので、下方視界が十分に得られないと、
射撃のためにアプローチをかけた途端にターゲット
がエンジンの影に隠れてしまう。

 このような「エンジンが射撃の邪魔をする」現象は、
(1)ターゲットの速度が速い(速度差が小さい)とき、
(2)アプローチ開始時の間合いが遠いとき、
(3)進路の交角が大きいとき、(4)高度差が大きい
ときには、より顕著になる。

 要するに、理想的な状況以外では、射撃のため
アプローチをかける際には必ずエンジンが邪魔を
すると考えてよい。

▼下方視界が狭いと「小便弾」になる

 敵機をエンジンの影に置いたままアプローチできる
のは、ごく一部のエースだけである。そのような
神技を持たない大多数のパイロットは、下方視界
が十分に広くとれない場合、いったん機首を突っ込んで
敵影を正面にとらえ、ターゲットの移動にあわせて
機首を引き起こしながら追いかけて射撃するという
「追従射撃」を行なうことが多い。

 前述のとおり、接近するほどターゲットの移動量
(追随するために必要な機首の引き起こし角速度)は
増大するので、ほぼ真後ろに食い付ける理想的
パターンを除いて、「追従射撃」は操縦桿を強く
引きつけながらの射撃となる。このとき、パイロット
は引き起こしに伴う強い加速度を感じる。

 追従射撃では、発射された弾丸の飛翔中も
機首の引き起こしが続くため、その反作用で、
時間の経過とともに弾道が弧を描いて下に逸れて
いくように見える。これが「小便弾」と呼ばれる現象
で、弾道が曲がっているのではなく、パイロットの
視線が上にズレているだけだ。

「小便弾」現象については、引き起こしの加速度
(いわゆる「G」)の影響で弾道が曲がるのだという
勘違いが広まっているが、これは誤りである。
当時のパイロットは適切な射撃教育を受けておらず、
「G」のかかる機動(つまり引き起こし)を行ないながら
射撃すると、常に「小便弾」となるという関係性から、
安直に「Gによって弾道が曲がる」のだと理解して
しまったらしい。

 現実には、ひとたび発射された銃弾には重力加速度
以外の外力は作用しないので、通常の射距離では
機銃弾の弾道はほぼ直線であり、どの銃であれほとんど
曲がることはない。

▼「小便弾」に関する誤解の弊害

「小便弾」のメカニズムに対する誤解は、それだけで
あれば無害なものだ。しかし問題なのは、「小便弾」
に関する誤った認識が、「弾頭が軽量で高速な
7.7ミリ弾はGの影響を受けにくく命中率が高い」という
神話を生んだことである。

 物理的には、20ミリの射撃と7.7ミリの射撃で、
必要な見越し角に大きな差はない。追従射撃中の
「小便弾」現象は、7.7ミリ弾にも等しく作用するから、
敵影が照準器の端に差しかかったあたりで撃ち始め
なければ、7.7ミリであれ20ミリであれ1発も当たらない。

 当時のパイロットが感じていた「7.7ミリの弾道は、
真っ直ぐ照準器の中心に吸い込まれていく」とか
「7.7ミリはよく当たる」という感覚は、機銃装備位置
の差に起因する錯視(錯視のメカニズムについては
次回詳述する)であった可能性が高い。

 一見、「真っ直ぐ照準器の中心に吸い込まれていく」
ように見える7.7ミリの曳光弾に惑わされると、自然と
照準器の中心付近にターゲットを捉えて射撃するよう
になり、20ミリはもちろん、7.7ミリ弾もすべて外して
しまうのである。

▼「流し照準」を推奨した海軍

 飛行学生(兵学校出の将校)向けに昭和19年に
作成された海軍の射撃教範では、奇襲の場合を
除いて、対戦闘機戦での照準法は「流し照準」を
基本とするよう指導している。

 前述のとおり、「流し照準」には命中率が低くなる
問題があるが、十分に大きな見越し角をもって
アプローチできる場合は限られるため、どうしても
いったん機首を突っ込んでからの「追従射撃」→「流し照準」
という流れになってしまうようだ。

 また、海軍の主力であった零戦は射撃時の
下方視界がかなり狭いため、なおさら「流し照準」に
頼らざるを得なかったのではないかと推測される。

 一般に「視界が広い」と評価されがちな零戦だが、
周りが良く見えるというのは地上滑走中や巡航中、
離着陸時の話であり、戦闘中に小さな照準器を
覗き込むと一気に視界が狭くなる。設計図から射撃時
の下方見越角を計算すると7度前後しかなかった
はずで、視界が狭いことで有名なドイツ機と大差ない
水準だったことがわかる。

 このあたりのコクピットデザインについても、
次回以降に詳述する予定である。

▼陸軍の射撃ドクトリンは?

 陸軍については、未だ空中射撃のドクトリンを
伝える資料を目にしていない。この原稿を書くに
あたって防衛省戦史研究室の史料リストを調べたところ、
陸軍の空中射撃教範がいくつか現存しているようである。
今後、関係資料を調査し、陸軍機がどのような空中
射撃を訓練していたのか、海軍との違いがあったのか
などについて報告したいと思う。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.3




『楠木正成の統率力 【第16回】 敵の「返り忠」工作を逆手に取る 』
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

前回に引き続き、敵の返り忠(裏切りを
促す謀略)への対応策についての楠木正成と
足利高氏・赤松円心との問答をご紹介いたします。

 今回は、楠木正成が千早城外の
賀名生(あなう=現在の奈良県五條市にある
丹生川下流沿いの谷)の奥にある観心寺に
極秘のうちに隠し置いた別働隊(注)が活躍します。

 それでは、本題に入りましょう。

 (注)詳しくは、第13回掲載文「千早における
楠木の諜報活動」をご参照下さい。
http://okigunnji.com/nankoleader/category2/entry16.html


【第16回】 敵の「返り忠」工作を逆手に取る

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)


▽ 敵将・金沢右馬助の謀を封じる

 楠木正成の郎従である早瀬吉太に対する
足利高氏の「返り忠」工作が失敗した話の
ついでに足利尊氏が言った。

 「さて、その後の夜討ちこそ、見事に謀られてしまいましたな。」

 それを聞いた赤松円心も、「ほう、是非とも
お聞かせ願いたいものです」と言ったので、
正成は語り始めた。

 「長くなりますが、お話いたしましょう。

 正成の知る限りでは、千早城を攻めていた
敵将の金沢右馬助殿は、謀を廻らして、ややも
すれば城に様々の困難なことをもたらしてこられました。
そこで、こうした謀の手立て(作戦)を止めさせよう
として、観心寺の別働隊長・和田七郎正氏のもとに
軍使を遣わして、このことを相談しました。

 その結果、弟の七郎は別働隊の木沢平次・
日井(ひのい)小藤太という二人の兵に、『吉野(大塔宮方)
の落人であるが、今は商売をする者』との触れ込み
で商人になりすまし、敵陣のあちらこちらに往行させ、
さらには金沢殿の陣の近くに住むように、と命じました。

 数日後に金沢殿の家の子、岩城右近助という者
に味方になるように誘われた木沢と日井は、金沢殿
に面談して申しました。

 『城の有力な将の一人である恩地左近太郎の
下へ、密かに参じて寝返りの勧めを告げましょう。』

 これに対して、金沢殿が『いかにして城へ入る
ことができるか』と問うたので、両人は答えました。

 『必ず入れる方法がございます。大塔宮の
令旨(命令書)を一通作って賜るようにしましょう。
これを持って参るのです。そうして、正成に参会して、
楠木には宮の仰せを談じ、恩地殿にこの寝返りの
勧めを申しましょう』

 こうして金沢に信頼された両人は、城に来ることになりました。


▽ 恩地、「返り忠」を演じる

 千早城内に入った両人は恩地の役所には
行かず、直ぐに正成のもとに来て、先ずは懐かしさ
に涙を流して睦まじげでありました。

 そして、この謀について語っていると、正成は
恩地を呼んでこのことを密談してから、木沢・日井
の両人を帰しました。その際、両人が恩地の言葉
として、金沢殿に対し次のように伝えることにいたしました。

 『仰せのごとく千早城は、日本国中に味方の
無い城であるからには、やがては落城すること
疑いなしと思いながらも、ただ今まで主と頼みに
してきた正成を捨てることができなかっただけ
でございます。それ故、この度の仰せは誠に
ありがたいものでございます。

 これで楠木の跡継ぎが絶えるようなことに
なれば、恩地家の数代にわたる義理であれば
こそ、先祖代々に対する義理も果たせぬこと。
なんとしても金沢殿の仰せに随わねばなりません。

 もしも、国中の武家を敵に回した無謀な正成と
いう男一人が不義の者だといたしますれば、彼が
亡びて後も、その子孫が楠木の家を御立てて
いこうというのであれば、家の為は末代、正成に
対しては一代の恩義にございますれば、家の
存続を重んじて、何としても御心遣いに従うこと
と致しましょう。』

 そして、この旨を恩地に自筆で書かせました。
これを受け取った木沢・日井の両人は、正成の
令旨に対する受取状も身に帯びて城を出たのです。


▽ 敵の要求に応じて長谷平九郎を人質に差し出す

 恩地からの書状を受けた幕府方の諸大将は、
密かに会議をして決定しました。

 『正成一人さえ討ち取ることができれば、御家の
事は恩地が要求するとおりにしてやろう。』

 これに対して(木沢・日井)両人が、

 『神や仏に御誓いの文言が無いのであれば、
恩地殿は、決して誠意があるとは思われません。
約束を取りに参りましょう』

 と言ったので、諸大将は再び密談して、誓いの詞
について書き加えました。この恩地への誓文を身に
帯び、また宮の令旨を作って城中に入ってきました。

 恩地は届けられた書状を開かずに、両人を連れて
正成とともにこれを見ると、

 『六箇条の希望条件の内、人質の事(恩地側
から人質を出さないという条件)は、いかにも
受け容れがたいことである』

 とありました。敵も以前の早瀬に対する「返り忠」
工作の失敗に懲りて、

 『人質が無いならば、恩地殿を城内に入れることはできない』

 と書いてある。そこで正成は、力量が人に勝れて
早業にも賢い長谷平九郎という者を恩地の弟と
称して差し出すことにいたしました。この男の力量は、
普通の五人十人とは比較にもならないほど勝れて
おりましたが、これで敵陣に入るのは木沢・日井の
両人に城兵である長谷を併せて3人となりました。

 長谷は何の異義も唱えないで、『しかと承りました。
御意のままに随いましょう』と云うので、合図など
その後の様々なことを打ち合わせて、長谷を遣わしました。


▽ 恩地との約束により金沢は少数精鋭で襲撃

 長谷を人質として手に入れた金沢は、宗徒の一族
8人、屈強の侍32人を忍ばせて、恩地の役所に
遣わせました。このような小勢であったのは、

 『大勢ではかえって見破られる。衆を当てにせず、
少数精鋭であたれば、恩地が正成に腹を切らせましょう』

 との金沢と恩地との約束があったからです。

 それのみならず、『当座の引出物である』として、
金剣三振り、黄金三百両、白銀千両が恩地に
届けられました。しかし、恩地は

 『これらは、この間の苦労をなされた郎従の方々にお与えください』

 と云って受け取りませんでした。そして、城のきり岸
に石弓を多数張り、大木を崩し懸けようとして
待ち構えていたのです。


▽ 金沢の襲撃隊と幕府軍をだまし討ち

 そうして、金沢の襲撃勢40人に『恩地勢が楠木の
役所を襲撃するので、すぐ後ろの櫓を占領していただきたい』
と告げ、案内者二人を添え、合言葉を定めて連れて行きました。

 定めていた時刻になると、表からは恩地の兵が
切り入るまねをし始めました。そこで、40人の兵が
恩地の兵に劣るなとばかりに櫓に上ろうとする所を、
楠木勢が上から散々に射伏せ、切り伏せました。
そこへ『恩地の勢が通るぞ』と(楠木軍との同士討ち
をさけるために)叫びながら駆けつけ、金沢の襲撃隊
を前後から討ち取ったので、40人の兵は一人残らず、
一箇所で戦死しました。

 その後、城内に合図の鐘を鳴らし、鬨(とき)の声を発しました。

 この鐘は、幕府側には「楠木を討ち取った(襲撃成功)」
という偽りの合図であると同時に、長谷には「脱出せよ」
という合図でした。そうとは知らない幕府軍の寄手は、
これを聞いて数万が雲霞の如く城へ攻め上って来ました。
これに紛れて、人質である長谷の警護に付き添っていた
12人の侍が、城へ攻め寄せる軍勢に気を取られている
間に、かねて用意していた楠木の兵8人が労せずに
入り込み、12人の侍をひたひたと切り回ったのです。

 『何事だ』という間もなく、長谷もその場で立ち上がり、
太刀を手に取って切り回ると、6人を切り伏せ、その他
の多くを負傷させて、木沢・日井の両人・楠木の兵8人・
長谷、合わせて11人がうち連れて姿をくらましたのです。

 このことも知らず、寄手が我先にと攻め上りながら、
切り岸の下まで到着したところを、大木・大石を次々に
投げかけ、散々に射ったので、将棋倒しのように崩れて、
四方の谷は死人で埋もれました。これより後、敵は
千早城への返り忠の謀略を一切止めてしまったのです。」

 正成がこのように語ったのを聞いた円心は、「実に
あっぱれな謀でありますな・・・」と深く感心したのであった。


(「敵の「返り忠」工作を逆手に取る」終り)



(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.5




『ライター・渡邉陽子のコラム (11) ─ 統合幕僚監部(その3) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。

このメルマガが配信される日、私は松本から帰ってきます。
毎年発売と同時に完売になりチケットが手に入らなかった
サイトウキネンオーケストラ、今年はついに入手できたのです。

予定通り小澤征爾氏の指揮で幻想交響曲が聴けたのか、
あるいは体調不良で代わりの人が振ったのか、これを書いて
いる時点ではまだわからず……

フランス音楽はあまり好みではないうえ、サイトウキネン
といえばドイツ音楽、なかでもブラームスでしょうという思い
もありますが、取材でなく出かけるということに心ときめかせています。


●災害派遣における統合運用の実績と日本を守るための統合運用

今回は統合運用による自衛隊の具体的な活動を、いくつかご紹介します。


▼広島県広島市における人命救助にかかる災害派遣

死者72名、行方不明者2名という甚大な被害を招いた、現在も
進行中の災害派遣です。
8月20日、広島県広島市安佐南区において大雨の影響で
土砂災害が発生、同日6時30分、広島県知事から陸上自衛隊
第13旅団長(広島県海田市市)に対し、人命救助にかかる災害
派遣要請がありました。
派遣部隊は第13旅団隷下の各部隊、中部方面航空隊のほか、
海上自衛隊呉造修補給所の隊員も行方不明者捜索活動を
実施したため、統合運用に該当するケースとなりました。

26日に呉造修補給所の部隊は活動を終了しましたが、
8月31日現在、海田市駐屯地に展開している各航空関係
要員等約60名、各地連絡調整要員約20名、現地前方指揮所
要員約10名、後方支援要員・指揮所活動要員・情報収集要員
約170名が活動中です。

▼東日本大震災

未曾有の災害となった東日本大震災は、防衛省・自衛隊に
とっても過去に類を見ない規模での災害派遣となりました。

まず、地震・津波の災害に対応する災統合任務部隊(JTF東北)
を編成、陸自東北方面総監を指揮官とし、その下に陸海空
各自衛隊の部隊が展開しました。航空機による情報収集、
被災者の捜索及び救助、消火活動、医療支援、道路啓開、
瓦礫除去、防疫支援等、その活動は多岐にわたりました。

約5カ月で、派遣された隊員は延べ約1058万人にもおよびます。
人命救助約2万名、遺体収容約9500体、給食支援約500万食、
入浴支援約110万名という数字からも、活動規模と被害の大きさ
が見て取れます。

また、原子力災害派遣部隊は中央即応集団司令官を指揮官とし、
中央即応集団の対処部隊、各方面隊の化学科部隊、海自と
空自の部隊の一部を中心に編成されました。福島第1原子力
発電所への空中放水と地上放水のほか、被災者の捜索や
避難支援、給水支援、モニタリング支援等も行いました。

延べ8万人を派遣、除染にも関わったため、こちらは平成23年
12月まで活動が続きました。

▼台風26号に伴う伊豆大島への災害派遣

昨年10月、台風26号の影響により大島で土砂災害による
多数の行方不明者が発生。東部方面総監を指揮官とする
統合任務部隊を編成し、行方不明者捜索、患者空輸、入院患者
の島外避難搬送、遺体の搬送などを行いました。

派遣された陸上自衛官は空自の輸送機で大島に飛び、
車両や機材は海自の輸送艦で運搬、現地ではLCACで
地上に搬送しました。派遣規模人員約650名(延べ約2万
1000名)、車両約170両(延べ約5120両)、艦船延べ17隻、
航空機延べ80機。

▼大雪に伴う災害派遣

今年2月、関東地方を中心に襲った大雪により、各地で
交通網がマヒしたり集落が孤立するといった事態が発生
しました。自衛隊は陸自と空自で災害派遣部隊を編成、
山梨、群馬、福島、長野、静岡、東京、宮城、埼玉の
各都県で人命救助や物資輸送等を実施しました。

道路が雪で埋まり孤立したホテルでは、そりを引きスキー
で救援にやって来る隊員達の姿を宿泊客が携帯電話で
撮影、その様子は動画サイトで多数再生されています。

この災害派遣では延べ5000名が動員され、車両延べ
約990両、航空機延べ131機を使用。73名を救助したほか、
物資輸送44t、除雪距離約280kmにおよびました。


統合運用は災害派遣に限りません。自衛隊の主任務で
あるわが国の防衛という面でも、統合運用による新たな
体制の整備が進んでいます。たとえば弾道ミサイル防衛(BMD)は、
海自のイージス艦による迎撃と空自のペトリオットPAC-3に
よる迎撃を、自動警戒管制システム(JADGE)により連携
させて効果的に行います。弾道ミサイルの弾着などによる
被害については、陸自が中心となって対処します。

また、島しょ防衛における統合運用能力向上のための
各種演習も行っており、その一環で米軍との実動訓練にも
取り組んでいます。昨年6月に米国カリフォルニアで
行われた統合訓練ドーン・ブリッツ13には陸海空自衛隊
が初めて参加、相互連携要領の確立を図りました。
今年6月から8月にかけては米海軍の主催する環太平洋
合同演習(リムパック)に、常連の海自だけでなく陸自も
初参加しました。




(わたなべ・ようこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.4




荒木 肇
『軍人の社会的地位、じつは低かった?──大正時代の陸軍(44)
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□ご挨拶

 もう秋になりました。酷暑や天災が続いた夏でした。
やはり気候の不順は体にこたえます。今年は体力的
にも、環境的にもきつい夏ではありませんでしたか。
皆さま、お大事にすごされますよう。

□Y様のお尋ねに答えて

 戦前社会の官吏、とりわけ高等官や判任官に
ついては特に「定年」はありませんでした。
というのも、「文官分限令」によって官を辞めさせる
こともでき、任用の方法が現在に比べればひどく
柔軟性があったからです。また、判任官も職場の
都合で、今でいう「肩たたき」で「後進に道を譲る」と
いう形式で退官していました。長期アルバイター
のような「雇員や傭人」にいたっては身分保障も
ありませんでした。

 武官の高等官や司法官(判事や検事)に「停年」
があったのは、彼らが終身官だったからです。
それは将校あるいは将校相当官である高等武官は、
たとえ後備役が終わっても、死ぬまで身分を
失わなかったからでした。現在の自衛官のように
階級に「元」を付けるようなことはなかったのです。
生涯、武官としての階級相応の待遇を受けました。

 また、「高文スポイルズ」といった大正中期から
の政党による高等官の任免がよく行なわれ、
官吏の身分が不安定でした。戦後の改革、
終身雇用などの悪弊が言われるようになったのも、
逆に戦前の不安定さの揺り戻しではないでしょうか。
とりわけ地方官などは政権政党が変わるたびに
人事があり、大変だったという認識があったのでしょう。

▼陸軍の不人気と志願者の資質低下

 1918(大正7)年の「大学令」「専門学校令」は
世の中の仕組みの一部を変えてしまった。まず、
高等教育機関の入校、年度始めが9月から4月
になったことである。それは明治の初めに、モデル
にした欧米では9月に新しい年度が始まったからだ。
それに対して、初等・中等教育は政府の予算年度
の制約を受けた。今と同じく、桜咲く4月が入学式
だった。だから、大正半ばまでの中学生は3月に
卒業し9月に進学していたのだ。

 さらに中等学校を4年で修了して高等学校へ行ける
となると、優秀な人材が先に高等学校などに取られて
しまうという心配が増えた。それに加えて、第一次
大戦後は世界中で、もう悲惨な戦争はこりごりだと
いう気分が広がった。マスコミを中心にした社会の
気分は陸軍不要論に通じてきた。

 ある東京帝国大学の教授は、二度と悲惨な
戦争は起きないとした上で、陸軍は災害対処部隊
に改編せよと主張した。また、別の大学教授は、
わが国は海洋国家であるから、シーレーンを守る
ためにも海軍は必要と語った。海外からの資源を
運び、製品を輸出するのだからそれを守る海軍は
生産的、それに対して陸軍ほど非生産的な組織は
ないとした。

 今から見ると笑い話だが、当時の都会のインテリは
「コスモポリタン」に憧れていた。社会主義幻想で
ある。中でも有名なのは、学習院出身の文学青年
が夢想した「新しい村」だろう。国境はなくせ、芸術
を愛すれば戦争はなくなり、世界中が人類愛に
燃えれば、誰もが幸せになれるとしたのである。
「人類」という言葉が流行し、世界は一つといった
言葉が振りまわされた。

 こうした中で、陸軍は士官候補生志願者の減少、
素質低下、下級将校の過剰といった三重苦を
乗り越えなければならなかった。

 1919(大正8)年2月、教育総監一戸兵衛大将は
教育制度調査委員会の設立を考えた。陸軍大臣
田中義一中将はただちにこれを認可する。委員会
は検討の末、2つの案を提示した。1つは過激な
ばかりの方法だった。幼年学校出身者だけを将校
にするという考えである。

 具体的には中央幼年学校(この中幼がのちに士官
学校予科になる)卒業者は4月上旬に各部隊に配属
する(ここで兵科と任地、原隊が決定する)。そこで
それぞれ2カ月間、上等兵、伍長、軍曹の階級に
進めて10月上旬に陸士に入校させる。その翌々年
の7月に卒業させ原隊に帰す。そこで曹長に進めて
見習士官をとして勤務させ、約4カ月後に少尉に任官
させる。中央幼年学校には地方幼年学校生徒しか
入れないので、一般中学出身者は閉め出されることになる。

 それは、『時勢の推移とともに地方青年の志操は
ますます軍部の要求と相背馳するようになる』という
認識が生まれてきていたからだ。学校制度が整備
されてくるにつけ、それまで純真だった青年たちが
変わってきたという。そのうえ、『青年の心理状態は
年齢が高くなるにつれ「身体的労苦」を避け、「物質的
利益」を求めるようになったことは周知である』という
認識をもった結果の意見である。

 優良な学生は他の専門学校や高校に進み、中学
を出た将校生徒の志願者は素質が悪くなるのも当然
であり、教育改革が行なわれてからはますますそれが
現れているとした。

 こうした認識が生まれたのも、士官候補生志願者が
大きく減ったからだ。1917(大正6)年の志願者は
前年比400人減の3926人だった。18年度になると
955人減って2971人でしかなかった。これに対して、
高等商業学校の志願者は3校で1109人増加、
高等学校は8校で987人増加、高等工業は11校で
692人増、医学校は10校で362人増、外国語学校
は1校で192人増、商船学校は1校で56人増と
なっていた。合計で3398人の増加である。

 これは軒並みの減少の陸海軍学校とは正反対の
好況だった。陸軍主計候補生(経理学校)は173人の
減少、海軍諸学校は3校で161人減である。
当時、中等学校の在学生は、その時代に華やかな
業種に憧れた。基本的に現在の大学生が、現状で
景気のいい産業を志望するということは変わらない。
このころ、人気が最も高かったのは船会社である。
彼らが意気揚々と入社した世界大戦後は「日の丸
商船隊」が世界中に進出していった時代である。
そして彼らが中堅どころとなった30年後には、
商船隊はほとんどが海の藻屑と消えていた。

▼定説を検証しよう

 1921(大正10)年には教育総監部の報告によれば、
幼年学校生徒も士官候補生もともに、中学のトップ
クラスよりはやや離れている者が受験しているという。
また、中学出身の士官候補生の家庭の状況をみると、
中流以上の家庭の出身者は3割でしかない。その他
はようやく生計上、支障がない家庭、もしくはかろうじて
独立の生計を営んでいる階層の出身者だという。

 こうしてみると、戦前社会では軍人の地位が高く、
貧しいけれど頭脳優秀な者が陸士・海兵などの軍学校
に進んだという定説を検証する必要が出てくる。
まず、軍人の社会的地位が高かったというのは一面で
しかなく、かなりのウソに近い。位階勲等は確かに優遇
されていた。弱冠20歳そこそこで正八位の高等官である。
当初の給料も決して他の専門学校卒業者にひけは
取らない。慶応・早稲田を出た人たちが30円から40円
という初任給に対して45円だから決して低くない。

 そして「偕行社記事」に投稿される陸軍将校たち自身の
声がおもしろい。まず、軍人の不人気についてである。
当時の女学生が結婚したい相手とは、実業専門学校を
出たサラリーマンが一番だった。資本主義が進む当時では、
同世代の12%になった中等教育修了者に比べれば、
全体の3%にしかならない高商を出た銀行員や商社マン
は手に届きやすい超エリートだった。帝国大学出が
必ずしも人気がないのは興味深いが、一般の高等女学校
出身者にとっては高嶺の花でもあるからだ。

 軍人は医師と並んでもっとも人気が低い部類である。
理由はどちらも社会常識がないからだとされている。
医師が好まれていないことも驚きだろう。ただこれは
決して帝国大学医学部や官立医大に勤務するエリート
の医師ではない。一般の開業医である。当時は医学士
が開業することはまずなかった。医師開業試験という
資格試験に合格した「町医者」は社会的地位も低かった。
健康保険診療も完備していない昔、開業医は必ずしも
豊かでなく、結婚すれば家政婦、看護婦、受付から
何から何までさせられると当時の女学生には映ったに
違いない。

 ある主計科士官による投稿だが、そこには軍人の
欠点として以下のようなものが挙げられている。
(1)法文にこだわって融通性がない。
(2)服装が野暮である。
(3)世間の同世代や同階層の人に比べて権限の
小ささに卑屈になっている。
(4)一般常識に欠けていて話題に乏しい。

(1)はいかにも「承命必謹(しょうめいひっきん)」、
命令を受けたら必ず実行する。これが融通のなさにも
つながる。批判精神もなく、それこそ将校の特権でも
ある「独断専行(どくだんせんこう)」を行なう元気はない。
この行為はなかなか難しい。上官と連絡をとる暇もなく
状況がどんどん変わる中で、上官の意図を推察し、
よいと思われる行動をとることである。

▼大声・バカ・野暮 将校出世の3条件

 当時の将校出世の3条件という自嘲的な言葉が
残っている。『大声・バカ・野暮』という。大声とはいつも
元気に営庭で兵卒をどなり散らしている。バカというのは
上司の言うことなら何でもバカのように言うことを
聞いてしまう。これは当時の隊付将校達の
やりきれなさをこめた皮肉だろう。

 野暮というのは主に服装のことをいう。当時も今も
若者はおしゃれである。将校の軍装はすべて自弁だった。
上着の裾の長さ、襟の高さ、帽子の鉢巻の幅、上部の
クラウンの張り出しのカーブ、袖からちらっと見える
カフスボタン、指揮刀の長さ、長靴の高さ、ほとんど
自分なりの工夫がされないところはない。

 外套の裏には紅い布地を張り、さっそうとひるがえす。
私服も三つ揃いの背広、粋な和服に凝った人も多かった。
髪の毛の長さものちの時代のような「丸刈り」ではない。
「内務書」などには「なるべく短くせよ」とあるから、
全体は短くても前髪やもみあげなどは工夫次第である。

 こうしたことは頭が固くなった先輩将校にとっては、
いつの時代も苦々しいことだった。偕行社記事の自由
投稿欄などには、「若い将校にモノ申す」などと題された
苦言が載っている。中でも面白いのは将校夫婦の風俗
である。ある砲兵大佐は書いている。『休日などに町の
目抜き通りを妻女といっしょに腕を組んで歩くなどもって
のほか』であるという。また、将校の中には乳母車を押し、
嫁は後ろからパラソルを開いて歩くという風俗もあったようだ。

 大正時代は「核家族」が始まった時代である。女性の
15%は高等女学校に進み、姑のいる家には入りたがら
なくなってきた。「婦人画報」のような家庭情報誌が
売れていたのも、読者対象が増えたからである。
そういう雑誌には子育てのこと、家計のやりくり、洋装の
作り方などなどが載っていた。「新しい時代の新しい女性」
が毀誉褒貶を受けながら生まれてきたのが大正時代である。

 若い将校の妻たちは、地方都市では高等官夫人として
の地位をもちながら、新知識をひけらかしながら堂々と
生きていたらしい。聯隊長夫人や大隊長夫人などに
「化粧が派手すぎる。人前で紙巻きタバコを吸うな」など
と叱られながら、自分たちの新しい家庭を築こうとしていたのだ。




(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.2




陸軍機 vs 海軍機(7)       清水政彦
「零戦と隼(6)」
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こんにちは。清水です。
「零戦 vs 隼」の6回目です。
今回は、とても重要ははずなのに、
なぜか謎の多い「照準器」について見ていきます。

▼望遠鏡式照準器の長所と短所

 隼の初期型は、風防ガラスから前方に
突き出した望遠鏡のような形をした照準器を
装備していた。これはドイツのOIGEE社の
製品をもとにしており、当時は望遠鏡式
照準器一般を指して「オイジー」と呼んでいたようだ。

 その構造は、地上戦用の照準スコープと
ほぼ同じで、パイロットが接眼レンズを覗き込むと、
視野の中心に円環状のレティクル(照準目盛り)が
映り込む仕組み。地上のスコープと違う点は、
倍率がない代わりに視野が広く、かつレンズ
から多少目を離しても像を見ることができること
である。パイロットは顔を照準器にピッタリと
つける必要はなく、前かがみになって目を
レンズに近づければ照準できた。ただし、
像を見るためには右目を接眼レンズの真後ろ
に持ってくる必要があり、目の位置が少しでも
前後左右に外れると像は見えなくなる。

 像が歪みなく見える範囲は20度(上下左右各10度)
とされており、一般的なイメージに反して結構広い。
しかし、その外側は鏡体の影が大きく円環状に
映り込んで死角となる。左目を閉じなくても
像は見えるので、視野の周囲に生じる死角は
左目で補うことになる。

 望遠鏡式の照準器は、照準精度という点では
大変優秀で、現に今でも陸上で使われている。

 しかし、戦闘機用として空中戦で使用する場合、
1)風防から突き出した鏡体が空気抵抗となる、
2)温度(高度)の変化によりレンズが曇る、
3)視野の外側が死角になるため高速のターゲットを
照準しづらいといった欠点が生じ、これらの問題は
望遠鏡式照準器の機構上、克服困難なものだった。

 一方、望遠鏡式には有利な点もある。それは、
照準を行なう際に重要な「下方見越し角」が大きく
取れることである。望遠鏡式照準器の視野は、
風防から前方に突き出した接眼レンズの
位置(エンジン直後やや上あたり)から覗いた
光景であるため、コクピット内よりもはるかに視点が
前にあり、エンジンの影が下方視界を妨げることが
ないのである。

 このため、零戦より3年も遅い1943年に
デビューした新型艦上爆撃機「彗星」は、
下方見越し角が制限される光像式照準器を
捨てて、あえて下方がよく見える望遠鏡式
照準器を採用している。

 急降下爆撃の際は大きな下方見越し角が
要求される一方、照準器の空気抵抗はあまり
重要でなく(むしろ急降下爆撃の場合は
エアブレーキが必要)、ターゲットは艦船や
地上目標であるため高速目標に追随する
必要もないから、望遠鏡式照準器でもとくに
不利益はない。レンズの曇りの問題は、
対物レンズ周辺部に暖房装置を付けることで
解決している。

▼光像式照準器の登場

 1930代半ばまで、戦闘機の機体構造は
羽布(はふ)張りで、翼面や胴体面は機体の
構造強度を負担していなかった。翼面や胴体に
いくら銃弾を命中させても羽布のキャンバス地
に小さな穴が開くだけでほとんど効果がないため、
撃墜するためにはパイロットやエンジンを狙い撃ち
する必要があった。

 また、この時代はまだ飛行機が低速で、
戦術も小回りの急旋回を駆使した巴戦(ドッグファイト)が
主体だったので、至近距離でなければ命中弾が
得られない。逆に、敵の背後さえ取れば、
至近距離からパイロットを「狙撃」することも可能
な時代だった。

 1930年代の後半まで、戦闘機に陸上の
狙撃スコープと同じ「望遠鏡式照準器」が
主用されていた理由はここにある。

 しかし、飛行機が高速化するに従い旋回半径
が大きくなり、旋回中のパイロットが受ける
加速度が人間の生理的限界を超えるため、
ドッグファイトは成立しにくくなる。ドッグファイトを
避けた高速空中戦では、自機とターゲットの
相対的位置関係が短時間で目まぐるしく変化するため、
至近距離で背後を取ることは容易でなく、
ある程度の距離をとらなければ敵を照準器に
捉えることすら困難である。

 高速のターゲットに遠距離から弾丸を命中
させるためには、弾丸の飛行時間を加味して
ターゲット機よりもかなり前方の空間を照準
(偏差射撃)する必要がある。さらに射撃準備の
段階では、ターゲットのはるか前方に向けて
アプローチしなければならない。

 たとえば、ターゲットが時速500キロ(秒速139メートル)
で飛行している場合、ターゲットを照準器の外に置いて、
その数百メートル前方に向けてアプローチし、
機影が照準器の一番外側に差しかかった直後に
引き金を引かなければ間に合わない。

 もちろん、真後ろから追尾する状況になれば
修正照準量は小さくなるが、理想的な奇襲の
状況を除けば自機とターゲットの飛行方向は
一致しないので、結局のところかなり大きな
修正照準が必要になることが多い。

 そして、視野の外側に大きな死角がある
望遠鏡式照準器では、大偏差角による
射撃(ターゲットを照準器の外に置いてアプローチし、
照準器に入ってきた直後に引き金を引く)が
困難である。この欠点を克服したのが反射光像式
照準器(リフレクター・サイト)で、これを用いること
によって、パイロットは視野を限定されずに敵機
にアプローチし、射撃のタイミングを計ることが
できるようになった。

 光像式照準器の基本的なシステムは
各製品ともほぼ共通で、照準器の本体内に
電球があり、複数のレンズとスリット(照準環の形
を切り取ったもの)が組み合わされている。
本体の上にはレンズが露出しており、レンズを
上から覗くと遠距離に照準環の虚像が見える。
この虚像を斜め45度に傾けた反射ガラスを通じて
前方に投影することにより、パイロットは座席に
座ったままターゲットと照準環を重ねて見ることができる。

▼複雑すぎる海軍の「98式射爆照準器」

 望遠鏡式照準器からスタートした隼と異なり、
零戦の量産機は当初から光像式照準器を装備
していた。零戦に搭載された光像式照準器は
「98式射爆照準器」といい、この種の照準器と
しては日本で最初の製品である。当時は一般
に「OPL」(フランスの照準器メーカーの名)と
呼ばれていたが、その基本設計はドイツから
輸入した「Revi 2b」照準器の模倣であり、
フランス製品の影響はないようである。

 外観は、本体の箱の上に丸いレンズが
覗いており、レンズの上には斜め45度の
投影ガラスが覆いかぶさっている。さらに
投影ガラスの前方に遮光フィルターがある。
遮光フィルターは、明るい空を背景として
光像をクッキリと浮かび上がらせるための装備である。

 誤解されがちだが、98式の場合はレティクル
を両目で見ることはできず、片目で照準する
必要がある。照準器はわずかに右にオフセット
して設置されるので、パイロットは投影ガラス
を右目で覗き込む形になるが、筆者のように
利き目が左目であるパイロットは、かなり訓練
しないと照準自体が難しかったはずである。

 レティクル像は十分に遠い距離に投影される
ので、目の位置がズレても像は移動しない。
よって、右目の位置が照準器の中心から右に
ずれると、レティクルの中心は投影ガラスの
右端に移動し、左側の照準環だけが投影される。
また、レティクルはレンズを通して見えている
虚像なので、許容される視線のズレはレンズ
の大きさに制約される。

 視線を右にずらすとレティクルの右側は
(投影ガラスの範囲内であっても)欠けて
見えなくなり、左側の照準環だけが投影される。

 98式の場合、投影レンズは直径が50ミリ、
反射ガラスは幅70ミリ、高さ約80ミリ(45度に
傾斜しているので見た目の高さは約60ミリ)で
かなり小さい。しかも、零戦のコクピットは計器盤
と座席のスパンが大きめで、照準器とパイロット
の目の間の距離も遠くなる。

 通常姿勢におけるパイロットの目と照準器の
距離を50センチとすると、50センチ先にある
直径5センチのレンズを見越す角度は約100ミル
である。つまり、零戦の座席から普通に照準器
を覗くと、レティクルは半径50ミルの円環までしか
映らない。98式のレティクルは半径9度の範囲
まで設定されていた可能性があるが、このデータ
が正しいとすれば、通常の姿勢では照準環の
外側3分の2は像が切れて映らないことになる。

 つまり98式は、前かがみになって反射ガラスに
目をかなり近づけない限り、照準環の全体は
映らない。投影レンズが小さいので、許容される
目線のズレもほんの1〜2センチ程度でしかない。
これは理論的にもそうなるはずだし、筆者が所持
している98式射爆照準器のレプリカでも同様である。

 また、実物の98式射爆照準器(自衛隊が修復し、
土浦基地で展示)を撮影した映像がインターネット上
で公開されているが、ここでもカメラをかなり
近づけないと照準環の全体が投影されないという
現象が確認できる。

 98式のレティクルは五重の円環および十字と
X字を組み合わせた8本の放射線からなっているが、
これは諸外国の同等品と比べて複雑すぎるデザインで、
実戦での有効性は疑問である。

 たとえば、英軍の「Mk.2」の照準環は1つだけだし、
98式よりサイズがはるかに大きい米海軍の「Mk.8」
ですら照準環は半径50ミルと100ミルの2つに
まとめられており、パイロットは見越し角をひと目で
判定できる。

 前述のとおり、零戦と98式射爆照準器の組み合わせ
の場合、前かがみにならない通常の姿勢では、
レティクルの光像は半径50ミル程度までしか映らない
はずである。実戦では、目線を意図的にずらすことに
よって必要な視界を確保するしかないだろう。

 たとえば、照準器の右下から左上に向けて飛行する
ターゲットを狙う場合、目線を少し左上(ターゲットの
進路方向)にずらすことで、照準環の右下側に
大きな照準視界を確保できるが、それでも像が
映るのは中心点から100ミルくらいまで。よって、
外側の照準環は、意図的に視線をずらしたうえ、
さらに前かがみになって目を照準器に近づけた場合
にのみ現れることになる。

 要するに、「98式射爆照準器」はパイロットの姿勢や
目線によって照準環の見え方がまったく異なってくる
ムズカシイ照準器だということだ。

 このような設計(複雑なデザインのうち、ごく一部
だけが投影される)では、空中で咄嗟に見越し角を
判定することも、地上での射撃教育も難しい。
照準器のレティクル像を撮影したYoutubeなどの
動画を再生してみれば、この難しさを追体験できるだろう。

 また、1940年代の空中戦は偏差射撃が基本で、
ターゲットを照準器の中心に入れて射撃することは
まずないから、大げさなクモの巣状の照準線は必要ない。
むしろ、中心部に多数の光像が交錯しているとターゲット
や曳光弾の弾道が見づらく、修正射撃の妨げとなる。

 いずれの観点からも、98式の複雑すぎるレティクル
のデザインには実用性がなく、パイロットを惑わせる
だけなのではないかと思われる。

 現実にも、零戦をはじめとする海軍機の射撃命中率
は非常に低かったようだが、仮にその原因が欲張り
過ぎたレティクルのデザインにあるとすれば、
これは「欠陥」と言われても仕方のない大問題である。

▼改良された陸軍の「100式射撃照準器」

 望遠鏡式照準器から出発した隼も、2型以降で
「100式射撃照準器」という光像式照準器を導入した。
機構的には海軍の98式とほぼ同様であるが、
「100式射撃照準器」のレティクルは98式よりも
穏当なデザインになっており、近代的な偏差射撃
にはこちらの方が向いていたと考えられる。

 100式のレティクル像には偏差射撃に不必要な
十字線がなく、中心に照準点を示す小さな×印が
あるだけである。照準環は3重で、一番内側が
半径37ミル(約2度)、真ん中が74ミル(約4度)、
一番外側が半径111ミル(約6度)。111ミルの
見越し角は、射距離200メートルにおいては
約21.9メートルを意味する。

 隼の場合、照準器の装備位置は零戦よりパイロット
に近いが、投影レンズのサイズには大差がないため、
レティクルの映り込み範囲は98式より少し大きい
程度だろう。一番外側の照準環を用いて照準する
ためには、姿勢を少し前かがみにするか、または
視点をターゲットの進路方向にずらしてやる必要
があったと思われる。

 標的機との進路の交角が90度である場合、
「ホ103」の射弾が200メートル先まで到達する
時間は約0.23秒(自機が時速360キロで飛行して
いる場合を想定)。0.23秒の間に21.9メートル飛行
する速度は時速340キロ。自機が時速500キロで
飛行している場合、弾丸の到達時間は0.218秒
となり、ターゲットの速度は360キロ。
つまり、「100式射撃照準器」は、時速350キロ
前後までのターゲットであれば、真横からでも
照準が可能だということになる。

 もっとも、通常の射撃ではターゲット機との
進路の交角はせいぜい40度くらいまでが限度で、
これを超えるとアプローチが難しくなりすぎ、射撃
はまず命中しない。

 現実的な射撃の限度として交角40度を想定した
場合、111ミルの見越し角は200メートル先での
飛行距離に換算して34メートルに相当するので、
おおむね時速530キロまでのターゲットであれば
照準できる。これは、当時の飛行機ならほとんど
のターゲットが照準可能だということを意味する。

 この事実を考えると、海軍の98式射爆照準器で
採用された5重円環のデザインは、照準器の
技術レベル(レンズの大きさ)に対して過大で
あったと考えざるを得ない。


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.8.27




『初級将校の養成──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(1)
                 荒木 肇
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□ご挨拶

 いろいろな異常気象に悩まされ続けてきています。
皆さま、お変りはないでしょうか。
 さて、新しいテーマである学校教育制度と軍隊の
教育の関係について深めていきましょう。
あまり関心を持たれてこなかったことですが、
昭和の陸軍を作ったのは大正時代の人々です。
そこで、しばらくは陸軍将校の作り方の変遷を
自衛隊の幹部教育と比較しながら取り上げて
みたいと思います。

▼陸軍士官学校と防衛大学校

 陸軍士官学校は明治の建軍から始まった。
軍隊は将軍をつくっただけでは動かない。まず、
初級将校から育てていく。これはどこの国の軍隊も
変わらない。わが陸軍も海軍も、まずは教育課程
をつくり、それにしたがって初級将校の養成から
始めなければならなかった。教育課程とは、
何を(どんな内容)、いつ、どんな順序で被教育者
に伝えていくかということである。

 陸軍士官学校は、さまざまな改編を経て
1945(昭和20)年に、その歴史を閉じた。
陸軍士官学校が育てた軍人たちは、西欧文化
の移入に貢献し、日清・日露の2つの大戦を
勝ちぬくことに大きな役割を果たした。初めの
ころの士官学校はフランス式を基にする。
生徒は全員、士官学校から外に出ることはない。
決められた教育内容を修了すると、
陸軍各兵科少尉に任ぜられた。この時代の人
たちを「士官生徒」ともいう。

 この「士官生徒」は、卒業期別では
第1期(明治10年12月卒業)から11期生(明治22年7月同)
までである。合計1285名だった。歩兵、騎兵、野砲兵、
そして工兵だけである。この人たちは3期生の有名な
秋山好古(よしふる)大将などで知られるように、
日清戦争には佐官として参戦、日露戦争では将官と
なって出征した。そして大将になったのはみな大正時代だった。

 この制度はのちにプロシャ方式に変えられる。
将校になろうとする者は、下士や兵卒の暮らしを
知らねばならない。入校する前に必ず、各地の
歩兵聯隊に入れて、そこで1年間の隊付(たいづき)生活
をする。その後、士官学校に入校させた。地方幼年学校
卒業者は中央幼年学校(東京)に入れた。1年8カ月
の学校生活の後に、半年の隊付生活をさせたのである。
その後の士官学校は1年7カ月で卒業、部隊に赴任し、
半年の見習士官生活をし、毎年12月に任官した。

 5年間の中学校生活を送った候補生は、3月に
中学を卒業し、入隊する12月までブランクがあった。
その後、満3年(うち1年間は隊付として兵、下士の
勤務をする)で少尉になった。幼年学校生徒は
3年(ここで一般中学なみの教育を受ける)と
1年8カ月(中央幼年学校)の学校生活を送る。
その後、半年の隊付生活を送り、中学出身者と
士官学校でいっしょになり、2年後に少尉になった。
つまり中学2年から7年2カ月がかかった。だから、
中学卒業者も満7年の学校教育を受けて一人前になった。

 現在の陸上自衛隊の幹部(士官)づくりは、
防衛大学校(4年)を出た者と一般から公募した
幹部候補生で行なわれている。その数はほぼ同数で
200名と200名である。今もいわゆる学歴による
制限がない。ただ主流は大学学部出身者であって、
高校卒業後5年で少尉(3尉)に任官する。中学2年
をスタートとすると、5年+5年で10年間をかけている。

 このことは社会の中での幹部の相対的地位と
関わりがあるだろう。明治のころは、平均すれば
中等学校へ進む者が少なかったし、それより上の
学校へ行く者は極端に少なかった。およそ同世代の
中で4%しか中等学校へ進む人はいなかったし、
陸軍士官学校のような高等教育(ほんとうは後期
中等教育にあたる)を受ける者はそのまた10人に
1人という時代が続いていた。

 そのうえ兵役に就くことをあれやこれやで
免(まぬが)れるから現役兵はほとんどが小学校
中退(就学率をいえば明治の末には100%だが、
卒業を意味する修学率は70%くらいである)、
小学校尋常科卒という時代には、陸軍将校は
はるかに高学歴だった。それが、日清・日露の
戦いが終わり、20世紀に入ると国民も豊かさを
手にし、同時に学歴指向も高まってくる。
中等学校にも16%が進むような社会になると、
これまでのような士官学校教育優位ではなくなってきた。

▼軍隊は社会の変化に無関係ではいられない

 陸軍士官学校に変化があったのは大正年間である。
とりわけ大変革が行なわれた「大学令」「高等学校令」
「専門学校令」の改訂の影響が大きかった。陸軍は
社会の変化に無関係ではいられない。それは陸軍
が国民の鏡のようなものであり、近代国家の重要な
構成要素であることからだ。

 陸軍の士官候補生教育、つまり尉官の育成・補充は
士官学校で行なった。幼年学校という中等学校程度
の卒業生と、一般社会からの召募(しょうぼ)に応じた
中学校4年1学期修了程度の試験を突破した青年たち
は士官学校の門をくぐることで初級士官教育を受ける
ことになった。ただし、間違いがあってはならないのは
「兵籍(へいせき)」に入ったわけではない。志願に
よって、その後の選考を終えて士官候補生になれる
身分を手にしただけである。だから、中途で退校した人
は20歳になると徴兵検査を受け、兵役に服さねばならなかった。

 まず、制度上の用語について説明しておこう。
士官とは尉官のことをさした。佐官になると上長官と
いわれた(この上長官という言葉がなくなったのは
1936年)。陸軍将校とその相当官の階級は、
大きく分ければ将官、上長官、士官となった。
これを将官、佐官、尉官ともいうが、それは兵科将校
だけである。相当官はあくまでも上長官と士官である。

 陸軍士官学校は本科と予科に分かれた。
士官学校予科とは、兵科士官候補生となる生徒を
教育する学校である。わざわざ兵科というのは、
1940(昭和15)年に各兵科(憲兵を除く)が統合
されたからではない。それ以前から憲兵科を除く、
歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵の各兵科の
ことを言ったからだ。

 兵科士官は兵科将校であり、軍隊を指揮することが
できた。各部の相当官はたとえ大佐相当官の1等軍医正
でも歩兵聯隊長になれるわけではなかった。各部士官
は経理、衛生、獣医、軍楽である。のちに技術部と
法務部が加わった。経理部は階級の前に主計、
衛生部では軍医、薬剤、衛生と区分され、獣医も同じ
だった。技術部も技術と建技に分けられていた。
階級の呼び方が兵科と同じように、主計少尉や軍医大尉
などになるのは1937(昭和12)年からである。
そして、各部将校ともいわれるようになった。

▼「陸軍士官学校予科」と「一般幹部候補生」

 予科生徒の間は階級章に星がつかない。将校の
階級章は両へりに金筋がそれぞれついて、尉官は
中に金筋1本、それに星がつき、佐官は金筋が2本
になり、将官は俗にべた金といわれるようになり、
台座の赤が見えなくなる。予科生徒が軍装につける
階級章は金筋と星がない。そこで「赤タン」とも呼ばれた。

 入学資格は年齢だけしかなかった。だから、入校した
生徒の中にはさまざまな経歴の者がいた。現役兵、
現役伍長・軍曹から入校した者もいた。高等小学校卒、
中等学校中退、それに浪人が加わり、ひじょうに
バラエティに富んでいたのが実態である。

 現在の陸上自衛隊でも「一般幹部候補生」の採用を
行なっているが、これも年齢制限があるだけで学歴
による制限はない。また、「一般」というのは、
「一般兵科(戦闘職種)」の略称からきたものである。
ほかに幹部候補生の採用は「医官・歯科医官」「技術」
などとまったく戦前の軍隊と変わっていない。「兵」という
言葉が使えないために「一般」だけにしているのだ。
また、幹部というのは昔の陸軍では判任武官である
各兵科伍長、各部三等下士官以上を指したが、
現在の自衛隊では士官以上をいう。警察予備隊からのなごりだろう。

 旧制中学の4年修了者が入校したのは1921(大正10)年
4月からのことだった。士官学校第37期生からである。
この人たちは日露戦争中やその直後の生まれであり、
大東亜戦争では聯隊長や大隊長、あるいは師団、軍など
の幕僚として戦っていた。2.26事件で大きな役割を
果たした村中孝次(たかじ)歩兵大尉はこの37期生であり、
歩兵第3聯隊の安藤輝三(てるぞう)歩兵大尉は1期下の
38期生だった。

 具体的に、この世代の代表者として安藤大尉の軍歴
をたどってみよう。1905(明治38)年2月に生まれ、
栃木県立宇都宮中学から仙台幼年学校に進んだ。
1919(大正8)年5月に入校したのだから、幼年学校や
士官候補生の人気が世間で落ちていたころだ。

 1921(大正10)年5月に教育総監部がまとめた資料
がある。『将校生徒志願者召募状況』という。将校生徒
というのは幼年学校生徒、士官候補生、士官学校予科生徒
のことをさしている。幼年学校生徒は高等小学校卒業
(義務制の尋常科の上に付設された2年生の課程)、
中学校二年生程度から採用した。士官候補生や予科生徒
は中学校四・五年生レベルから採った者である。

 士官候補生志願者の数が1917(大正6)年をピークにして、
世界大戦が終わった大正7年以来、急激に減ってきている。
それは採用者数を見ればよくわかる。6年、7年はそれぞれ
220名だが、8年、9年は130名でしかない。10年では
制度の改編期で士官候補生123名と予科生徒が
110名の合計233名である。

 大正8年の130名というのは定数を減らしたのでは
ない。採用予定者は221名として合格通知を出したが、
104名が辞退した。補欠採用を13名にして合計130名
にしたのだ。9年は当初から130名と予定したところ、
60名がほかに進学してしまう。あわてて追加合格を
60名だしたということが赤裸々に書かれている。

 志願者のうち、身体検査で不合格の者は筆記試験
の受験を許されない。1920(大正9)年の数字を見てみよう。
採用者数130に対して志願者1482名、この志願者の
うち身体試験の不合格者が221名いた。また、この試験
に来なかった者が357名。さらに学科試験のさなかに
退席した者が73名、最後まで試験を受けた者は831名
だった。これを130で割ってみると、6.4倍となる。
現在の陸上自衛隊一般幹部候補生が数十倍の倍率と
いうことから、当時の人気のなさがわかるだろう。

 地方幼年学校6校の志願者も減った。各校50名ずつ
だが、大正9年にはやはり6倍。難関とはいわれていた
ものの軍人の子弟が中心だった。しかも出身地域には
大きな偏りがあった。
 次回はさらに詳しく、幼年学校と中学校のそれぞれの
卒業生のことを調べてみよう。




(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.10




『楠木正成の統率力 【第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』 』
          家村 和幸
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

千早城における楠木正成の戦いぶりは、孫子兵法に
ある「兵は詭道なり」をそのまま実践したものでした。

 詭道とは、敵を詐り欺く(いつわりあざむく)ことで
裏をかき、判断を誤らせるやり方ですが、これに
ついて孫子兵法では具体的に次のように説いています。

 能力があっても無いように見せかけ、能力が
無くて謀を用いても能力があるように見せ、
近くにいても遠くにいるように思わせ、遠くにいても
近くにいるように錯覚させ、利益を与えて敵を
誘い出し、混乱させて討ち取り、敵が充実している
ときは備えを固くし、敵が強ければこれを避け、
敵が怒るように挑発して心をかき乱し、こちらから
へりくだって驕りたかぶらせ、安んじて疲れて
いなければ疲労させ、親しみあっていれば分裂
させる。敵が備えていないところを攻め、敵の不意を突く。

 (以上、孫子第一篇「始計」より)

 今回は、楠木がなぜこのような詭道を完璧な
までに実践できたのか、という疑問にお答え
いたしましょう。

 それでは、本題に入りましょう。


【第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』

▽ 奇策「藁(わら)人形作戦」

 これまでの常識では考えられないような楠木の
戦い方に寄せ手(幕府軍)はすっかり慎重になり、
当初のように勇敢に攻めようとはしなくなった。

 千早城を力攻めで落とそうとすれば、兵士の
損害ばかり多くなるので、寄せ手は城を包囲だけ
して兵糧攻めすることに決め、戦闘を中断した。
そこで暇をもてあました寄せ手の将兵らは、
碁や双六をして日を過ごし、また茶会や歌会
を楽しんで夜を明かした。

 今度は千早城内の兵士らも、することが
無くなって退屈してきたところ、数日して楠木正成
が言った。

 「そろそろこの辺で、やつらの眠りを覚ましてやろうか・・・。」

 そして、藁くずやぼろ布などで等身大の人形を
2〜30体作り、甲冑を着せ武器を持たせて、
夜中に城の麓に立てた。人形の前には畳を楯の
ように並べ、背後には選りすぐりの兵500人を
配置した。夜がほのぼの明け初めると、この兵たち
が朝霞の中から声を合わせて閧(とき)の声を上げた。

 千早城を取り囲んでいた寄せ手の兵たちは、

 「それっ、城から出てきたぞ。敵はいよいよ
運が尽きて、やけくそになったのだな。」

 と云って、我先に攻めかかっていった。

 楠木軍の兵士らは、作戦どおりに形だけの
矢いくさをしながら大勢の敵をおびき寄せると、
人形だけをその場に残して城へと退いた。寄せ手は
人形を本当の兵士と思い込み、討ち取ろうと
集まってきた。近づいて見ると、一歩も退かずに
戦った勇敢な兵士らは皆人間ではなくて、藁で
作った人形だった。

 次の瞬間、楠木軍は城中から大石、4〜50個
を一度に投げ落とし、激しく矢を射った。これにより、
一箇所に集まっていた寄せ手の兵は、300余人
があっという間に即死し、500余人が半死半生
の重傷を負った。


▽ 軍法なきがゆえ「藁人形戦法」に引き込まれた幕府軍

 (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より

 楠木の奇策に又しても散々な目にあわされた
東国の大将は、智謀が無いと云えよう。

 「なぜ、今ごろ楠木が軍勢を出して、閧の声を
発しているのか。おそらく謀があってのことでは・・・」

 このように思わなかったからである。そうでなければ、
なぜ早速に軍勢を出撃させたのか。これが一つである。

 もしも、寄手の軍勢が大将の下知を守らず、
勝手に進んだというのであれば、なおもって
将の恥であるとともに、兵の恥でもある。

 およそ、将が戦場に赴くならば、先ずは
軍法(戦場で守るべきルール・行動規範)を堅く
守らせるものである。自分の配下の者にすら、これは
常識である。ましてや、諸国から寄せ集めの兵
であれば、まずは軍法を発出し、これを強制しな
ければならない。にもかかわらず、あらかじめ
軍法を出さなかった。

 また、兵はいかに些細なことであろうとも、
将の下知を守ってこそ進むものであるのに、
そのような手立てが一つも無い。これが
二つ目の不可である。


▽ 正成の『軍法六箇条』

 それでは、楠木軍にはどのような軍法があった
のだろうか。これを以下に紹介しよう。

一 この度の軍陣において、夜討ち並びに
いかなる些細な事があったとしても、将の下知が
無いのに懸け出でる(注:交戦する)ことが
あってはならない。ただし、敵がすぐ手前に
寄せ来るような場合には、その一陣の将の
下知によること。

一 もしも、陣中に火災が有ったならば、
そこの一陣が対処して、これによる亡失を
防がねばならない。それ以外の陣は、
急いでその陣の前に兵を備えて、下知を
守るべきこと。

一 陣中において女を求めてはならない。
付け加えて、諸軍勢は酒宴などの遊びに
専念することがあってはならない。

一 甲乙誰であろうと諸人に勝れて忠が
あれば、それに相応しいだけの賞を行うべきこと。

一 老若にかかわらず陣中だからと云って、
無礼な振る舞いをしてはならない。
喧嘩・口論は、はしたないことである。

一 その組の陣の外、所用も無いのに
表敬訪問だと云い、または親交を結ぶと
云って、他の陣へ歩き行くことは、忠を心に
懸けず、武の嗜(たしな)みが無い兵である。
道を踏み行おうとする人であれば、速やか
にこれを禁じるべきこと。

 このような法には、いろいろな種類がある。
正成は、一陣一陣にこの法を手始めとして、
良いものを加え、また不相応なものを削除した。
それに対して、東国の将にこのような軍法が
無かったのは不覚である。そのため、城から
出撃してきた楠木軍が発する閧の声を聞くと、
同じように出向いてしまい、見事に相手の
術中に陥ったのである。


▽ 敵の手立てに落ちる、とは

 その上、敵軍が突然に兵を進めるのであれば、
先ずは深い謀があるものだと知らねばならない。
敵の手立て(作戦)を十分に察知していなければ、
動いてはならないと云われる。もしも、その
意識が無ければ、勝ったといえども、実の
勝利ではない。ただ偶然にそのような結果に
なったのである。

 東国の将が、これらの事を知らないのは恥であるぞ。
これらこそ、敵の手立てに落ちるということである。


▽ 敵の智の程度を十分に知り、戦に勝つ

 また、鎌倉幕府が亡んだ後、赤松則祐が正成に
向かって尋ねた。

 「楠木殿の藁人形の謀には、腑に落ちないことが
ございます。なぜかと申せば、味方は500余騎、
敵は数万騎でありますれば、人形をも人をも
物の数になりませぬ。敵が本気になり、数万騎で
一度にどっと攻め懸かっていたら、城までも危うく
なっていたことでしょう」。

 これに対して、正成が答えた。

 「則祐の考えは、恐れながら思慮が浅いものである。
突発的で小規模な戦いであれば、敵も数万騎の兵
をそろえる必要はないだろう。こちらの陣からバラバラ
に5〜6人、あちらの陣から7〜8人程度が、後に先に
と攻めかかって来ることになるだろうから、足軽が
そこそこに交戦してこれらを石弓の下までおびき寄せ、
一挙に討とうとしたのである。

 もしもそうではなく、寄手が陣々に太鼓を打ち、
軍勢をそろえて攻め来るようであれば、その間に
正成の500余騎は、軽々と城中に引き取るように
計画していた。そうであるから、正成も自ら城下の
斜面半ばに居て、太鼓による約束事を堅く守らせて、
下知したのである。

 こうして私が考えていたところと少しも違わずに、
数多くの敵を討つことができたのだ。」

 これを聞いた則祐は、「実に敵の智がどの程度
かを十分に知っていなければ、戦に勝つことは
難しいものでありますな・・・」と云ったのであった。


(「楠木正成の『軍法六箇条』」終り)



(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.12




『ライター・渡邉陽子のコラム (13) ─ 警戒航空隊 (1) 』
                 渡邉陽子
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こんにちは。渡邉です。
今回から航空自衛隊警戒航空隊を7回にわたりご紹介します。
機体の上に大きな丸いドームが付いている、あの飛行機です。

浜松基地に一緒に取材に行ったカメラマンはちょうど2年前、
闘病の末に永眠しました。同じ年でした。
AWACSの写真は世に多数出ていますが、彼の撮ったAWACS
がマイベスト1です。


■警戒航空隊 (1)

北海道から沖縄まで全国28ヵ所にある航空自衛隊のレーダーサイトは、
24時間体制で日本の防空圏を監視しています。そのレーダーサイト
で掌握しきれない部分の監視や警戒管制を空中で行うのが、
警戒航空隊です。
この警戒航空隊、1つの部隊が2つの機種を3つの基地で運用
するという、稀有な部隊でもあります。

警戒航空隊は早期警戒管制機E-767、通称AWACS(空中
警戒管制システムの略称、Airborne Warning And Control
System)を浜松基地に、早期警戒機E-2Cを三沢基地及び
那覇基地にそれぞれ配備し、早期警戒を任務としている部隊です。

私が浜松基地を取材した頃は、まだ那覇基地にE-2Cは配備
されていませんでした。ここ数年、尖閣諸島周辺の早期警戒監視
のため、三沢基地から那覇基地への展開が常態化。無理のある
運用が続いていました。そこで今年の4月に警戒航空隊は改編、
飛行警戒監視群と第601飛行隊(三沢)、第603飛行隊(那覇)を
新編し、那覇基地で4機ほどのE-2Cを運用することになりました。

また、浜松基地でAWACSを運用する飛行警戒管制隊について
は第602飛行隊と改称しました。なお、このE-2Cは老朽化が
進んでいるため、2018年度までに後継機を4機導入する予定
となっています。


最初にご紹介するのは、浜松基地の第602航空隊のみが
運用しているAWACSです。

余談ながら、静岡県浜松市は古くから城下町・宿場町として
栄えた街。近傍には浜名湖や徳川家康ゆかりの浜松城など、
多数の観光名所もあります。その浜松市に位置する浜松基地は、
航空自衛隊発足に伴い、全国に先駆けてパイロット教育や
整備・通信員などの教育が行われた「航空自衛隊発祥の地」
です。現在でも第1航空団、第1・第2術科学校、高射教導隊
などの部隊が所在し、航空自衛隊における教育の中心地と
しての役割を担っています。

1999年には全国唯一の航空自衛隊テーマパークである
浜松広報館エア・パークを設置、航空自衛隊の情報発信の
拠点としての役目も果たしています。

このエア・パーク、入場無料で大型バスも止められる駐車場
もあることから、観光スポットとしても今やすっかり人気が
定着しています。私も陸海空の広報施設の中ではこの
エア・パークがいちばん好きです。豊富な展示物、迫力満点
の360度パノラマ映像、フライトシミュレーション、大きな窓の外
に見える滑走路からは、学生たちが乗ったT-4がひっきりなし
に離着陸を繰り返していて、1日いても飽きません。


話を戻して、第602飛行隊の任務には航空警戒と要撃管制、
そして航空情報の収集・伝達があります。この要撃管制は、
地上ではDC(三沢、入間、春日、那覇にある防空指令所)が
担っている任務。E-2Cは「早期警戒機」なので管制は行えない、
いわば空飛ぶレーダーサイト。一方、AWACSはその情報
を集約して管制を行えたり、地上レーダーや海自の護衛艦
とも情報を共有できたりする、空飛ぶDCなのです。

第602飛行隊では操縦者、兵器管制官、整備員などの教育
も行っています。本来ならば教育は術科学校で行われますが、
少数機ゆえに部隊にしかない機材も多いためです。

また、兵器管制官たちは航空士の資格を取得する必要があり
ますが、これも実際に部隊へ来ないと学べません。さらに
E-767の操縦は民間航空会社でシミュレーション訓練を行う
ものの、民間のB-767とは若干仕様が違うし、ミッションクルー
との連携もここでしか経験できません。おのずと教育は
大切な任務になるわけです。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.18




陸軍機 vs 海軍機(9)       清水政彦

「零戦と隼(8)」
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「零戦 vs 隼」の8回目です。今回は、両者の射撃艤装に
ついて考えてみます。

▼射線調整:零戦の20ミリ機銃

 零戦の20ミリ機銃はプロペラの旋回圏外に設置されて
いる関係上、その銃口は照準線より左右に約2メートル、
下に約1メートル離れている。

 このように離れた位置にある機銃の射線(発射された
弾丸の描く軌道)は、一定の距離で照準線と交差
するように調整される。

 零戦の20ミリ機銃の場合、射距離200メートルで
照準線に集中するように、斜め内側やや上向き
に固定されており、仰角は重力による落下分を
補うように設定される。

 零戦の20ミリ機銃(1号銃)から発射された
弾丸が、射距離200メートルで照準線を下から
上に切り上げるように射線を調整すると、計算上、
照準線に対する銃の仰角は8ミル(概ね0.5度)
程度となり、弾丸は300メートル地点の手前で
最高点に達したあと、重力に従って落下し、
400メートルあたりまでは照準線付近にとどまる。

 20ミリ機銃の取付角は、機体軸線に対して
+1.5度が標準とされているので、照準器の調整
に際しては、照準線を機体軸線に対して1度上向き
に設定していたことになる。

 この形式の射線調整を前提とした場合、発射された
弾丸はどうなるか?

 距離300メートルの地点では、20ミリ弾は照準線
の左右1メートル、やや上方の2点を中心とする
一定の散布界の中に着弾する。

 20ミリ機銃を空中射撃した際の散布界の広さに
ついては、残念ながら確かなデータがないが、
空中から地上の布板を射撃する試験は行なわれて
おり、その際の集弾性は良好だったとされている。

 エリコン式20ミリ機銃を地上で射撃した場合の
散布界については正確なデータがあり、射距離
100メートルで半径約100ミリの範囲内に
全弾(10発)が着弾している。

 射距離100メートルで半径10センチだから、
散布界の半径は1ミルということになる。もちろん、
不安定な空中で射撃する場合には、散布界は
地上射撃時よりも大きくなる。

 仮に、大部分の銃弾が銃身軸線から半径2ミルの
円錐内に着弾すると仮定した場合、300メートル
における散布界は半径60センチ。つまり、弾着の
バラつきを考慮すると、射距離100メートルから
300メートルぐらいまでは、照準線の周囲に十分
濃密な弾幕を張ることができる。

 逆に、射距離がこの範囲より近くても遠くても、
着弾地点は照準線から大きく離れていく。これが
外翼装備の機銃の特徴である。

▼射線調整:隼の12.7ミリ機銃

 一方、隼の武装は機首に装備された2門の
「ホ103」のみである。2門の機関砲は、機体中心軸
からそれぞれ22センチ離れた位置に装備されるが、
この程度の距離は空中射撃では誤差の範囲内
なので、左右方向の射線調整はあまり重要ではない。
問題は、機銃と照準線にどの程度の仰角をかけ、
どの程度の射距離を有効射程とするかである。

 隼の照準器が望遠鏡式の「オイジー」だった
時代は、照準線は機体軸に対して1度の仰角が
ついていたようである。その後、武装が「ホ103」と
「100式射撃照準器」の組み合わせに変わった際に、
この調整には変更があったのだろうか?

 筆者はこの点を確定できる資料に接していないが、
7.7ミリ機銃と「ホ103」の弾道特性には大差がない
ので、普通に考えれば、「ホ103」にもほぼ同様の
調整が行なわれていただろう。つまり、「ホ103」の
取付角は、照準線よりもわずかに大きな仰角が
つけられていたと考えられる。

「ホ103」の射弾が機体より200メートル前方
に到達する時間を0.26秒とすると、この間に
重力に従って落下する距離は0.26の二乗×4.9=0.331メートル、
400メートルまで0.55秒とすると、この間の落下
距離は1.48メートルとなる。

 照準線に対する銃の仰角を3ミルとすると、
機銃装備位置と照準器の高さの差は25センチ
程度なので、発射された弾丸は200メートル地点
で照準線とほぼ一致、400メートル地点では
約50センチ下を飛翔することになる。

 つまり、「ホ103」の射撃は、500メートルを
超えるような遠距離射撃でない限り、射距離に
かかわらず概ね狙ったところに行くと考えてよさそうである。

▼胴体武装の利点と弱点

 零戦の7.7ミリ機銃および隼の「ホ103」は、
いずれも主翼ではなく機首胴体に装備されている。
上記のとおり、胴体装備の機関銃は、射距離に
かかわらず照準線の近傍に濃密な弾幕を展開
できるという利点がある。

 一方で、射弾が照準線付近に集中する(散布界
が狭い)反作用として、わずかでも照準が狂うと
全弾が外れてしまう結果にもなる。20ミリ機銃のように、
2〜3発でも当てれば効くという武装の場合、射弾
の散布界は狭すぎるよりも、ある程度広い方がよいだろう。

 また、機銃をコクピット前方の機首に装備する場合、
銃の収容スペースがパイロットの斜め下方視界を
妨げるという弱点もある。すでに述べたとおり、
射撃時の下方見越し角はエンジンによって制限される。

 敵機にアプローチするパイロットにとって重要なのは、
エンジンの両サイドに開けた斜め下方の空間であり、
敵機に対して斜め横方向からアプローチすることで
前方の死角を補うことになる。逆に、斜め下方の視界
が狭いと、射撃のためのアプローチそのものが困難
になってしまう。

 さらに、武装を機首に装備する場合、曳光弾の弾道
が錯視(さくし)を誘発するという問題もある。

▼胴体武装が誘発する錯視

 零戦は、胴体装備の7.7ミリ機銃と、主翼装備の
20ミリ機銃を混載しているが、すでに述べたとおり、
通常の射距離(100〜300メートル程度)ではどちらの
弾道も照準線付近に集中するように設定されている。
しかし、パイロットの感覚からすると、7.7ミリの弾道は
真っ直ぐなのに、20ミリ弾だけが「小便弾」になって
いるように見えるらしい。前回も指摘したとおり、
これは機銃の装備位置の差に起因する錯視なのである。

 前述のとおり、零戦の20ミリ機銃の装備位置は
照準器の横2メートル、下方1メートルの距離にある。
一方、7.7ミリ機銃の装備位置は、照準器の横20センチ、
下25センチほどで、圧倒的に7.7ミリ機銃の方が近い
位置にある。

 7.7ミリ機銃から発射された弾丸は、わずか100分の2秒
でパイロットの前方17メートルほどの地点に達するが、
これはほぼ「真正面」といってよい位置関係である。
17メートル先にある20センチの誤差は、角度にして
約11ミル。これは野球のピッチャーからホームベース
の半分の幅を見るサイズに等しく、視覚的にはほとんど
誤差の範囲である。

 つまり、7.7ミリの曳光弾が描く軌道は、一瞬で照準環
の中心付近まで達する。この時点では時間が短すぎて、
機首の引き起こしに伴う「小便弾効果」はほとんど現れない
ため、7.7ミリ弾の軌道は実態以上に速く、真っ直ぐに
見えることになる。

 一方、装備位置の遠い20ミリ機銃は、弾道が照準器
の中心付近に入ってくるまでに時間がかかるため、
その間に「小便弾効果」が現れてどんどん下方に逸れて
いく。よって、20ミリ曳光弾の弾道は、一度も照準環の
中心付近に達することのないまま下方にアーチを描く。

 もちろん、機首の引き起こしにともなう「小便弾効果」は
7.7ミリ弾にも等しく作用するから、7.7ミリ弾の弾道も、
弾がターゲットに届くころには大きく下に落ちているはずである。

 問題なのは、7.7ミリ弾の場合は曳光弾の光が暗い
ため、照準環の中心から下に向けて落ちてゆく後半の
弾道が、パイロットの目に見えないことにある。

 7.7ミリ曳光弾の視認距離は、カタログ上は約100メートル
とされている。つまり、曳光弾の見え方が仮に額面通り
だとしても、一般的な射距離である200メートルから
撃った場合、後半の弾道はパイロットには見えないのである。

 しかも実際には、多くの場合、背景となる空がかなり
明るいのでさらに条件は悪い。しかも光像式照準器の
強力なランプと遮光フィルターは、ただでさえ暗い7.7ミリ
の弾道をかき消してしまう。

 特に海軍の98式射撃照準器の場合、照準環の中心
付近に多数の光像が交錯しているため、中心付近に
入った曳光弾の弾道はかなり見づらいだろうと思われる。

 さらに、パイロットは高空の低温・低圧・低酸素の
環境下で視力と思考力が低下しているし、機首の
引き起こしに伴う強力な加速度に襲われながら敵を
射撃している最中だから、落ち着けという方が無理な
状況である。

 こうした悪状況の中で、一見「真っ直ぐ」に見える
7.7ミリ弾の弾道に惑わされると、自然と照準環の
中心付近にターゲットを捉えて射撃することになるが、
これでは適切な見越し角がとれていないため、
全部の射撃が外れてしまうことになる。

▼胴体機銃の難題:プロペラ同調機構

「ホ103」や零戦の7.7ミリ機銃は、プロペラ旋回圏内
から発射されるため、単純に発射していては一定
の確率で弾丸がプロペラを撃ちぬいてしまう。
前述のとおり、胴体に装備した方が射撃の精度は
高くなるが、今度はプロペラが邪魔になるという問題
があるわけだ。

 機銃を胴体に装備する場合、プロペラの後方から
発射された弾丸が、プロペラ羽根の通過直後に
プロペラ回転面を通過するように発射のタイミングを
制御する装置が必要になる。

 このタイミングをとるのがプロペラ同調装置で、
エンジンのクランク軸と連動するカムによって機銃
の発射タイミングを制御する。

 プロペラ角度と連動するカムの動きは、最終的に
機関銃の発射を制御する逆鉤(シア)と呼ばれる部品
と同調している。「逆鉤(シア)」とは、銃の撃針が雷管
を突かないように後方に拘束しておく部品で、シアが
解放されるとバネの力で撃針が前進して雷管を突き、
雷管内の発火薬に点火、これが装薬(薬莢内の発射用
火薬)を燃焼させ、その燃焼ガスが弾丸を加速して
発射に至る。

 プロペラに同調して機銃を発射する場合、パイロット
が引き金を引いても、それだけではシアは解放されない。
パイロットが引き金を引くとまず同調装置が作動し、
次に同調装置がプロペラの回転に合わせてシアを
解放/拘束する動作を行なう。

 たとえば、プロペラが毎分1800回転(毎秒30回転)
する場合、3枚羽プロペラの場合なら、毎秒90回の
割合でプロペラ羽根が銃口の前を横切ることになる
から、同調装置はかなり微妙な調整を必要とし、
場合によっては同調が狂って弾がプロペラに当たる
こともある。

 また、プロペラと弾丸が衝突する恐れのあるタイミング
では、同調装置によって撃針が拘束され、その間は
発射に「待て」がかかるため、同調装置を付けると
そのぶんだけ銃の発射速度(サイクルレート)が
低下する。

 さらに、銃の機構によっては同調発射に適さない
ものもある。零戦の20ミリ機銃は「オープン・ボルト方式」
(前弾の発射後、撃針とともに遊底が後方に拘束され
ており、シアの解放後に遊底が前進して次弾を装填
する方式)であるため、シアの解放から発射までの
タイムラグが長く、しかもその時間が大きくバラつく
ために同調発射は不可能である。

 零戦の20ミリ機銃が外翼に装備されているのには、
必然的な理由があるのだ。

▼機銃の発射機構

 機銃の発射機構には、大きく分けて手動発射、
空気発射と電気発射がある。

 航空機に搭載する機銃は、機銃の本体がパイロット
の手元にあるわけではないので、発射動作(シアを
解放する動作)は遠隔操作によって行なう必要があり、
これを単純な機械式の伝動装置で行なうのが手動
発射、圧縮空気の空気圧で行なうのが空気発射、
電気力で行なうのが電気発射ということになる。

 零戦や隼に搭載された7.7ミリ機銃は手動発射で
あり、発射レバーを握りこむと鋼索が引かれて
同調装置が作動し、同調装置側も機械的な機構に
よりシアを制御して発射する。

 零戦の20ミリ機銃(99式1号銃)は空気発射方式で、
発射レバーの握り込み → 鋼索を通じて空気弁解放 →
空気管の圧力上昇 → 銃側の発射機構作動 → シア
解放 → 遊底前進 → 次弾装填 → 撃発 → 発射という
流れに従って発射される。

 この間、複雑な機械的伝動システムが多数折り重なる
ため、パイロットが発射のタイミングを決断してから
実際に弾が出るまでに無視できないタイムラグが生じる。

 一方、隼の「ホ103」は電気発射式で、シアの制御は
電気的に行なわれる。したがって、同調装置も電気式
であり、発射にあたってパイロットが操作するのは
レバー(鋼索)ではなく、電気回路にスイッチを入れる
押しボタンである。押しボタンのストロークはレバーの
「引きしろ」よりずっと小さいし、ボタンを押せば直ちに
同調装置を介してシアが解放されるため、伝動系の
ロスタイムがない。

 しかも「ホ103」はクローズド・ボルト方式(前弾の
発射後、そのまま遊底が前進して次弾が装填され、
撃針のみがシアによって後方に拘束される方式)で
あるため、撃針の前進距離が短く、発射までの
タイムラグは20ミリ機銃に比べて小さい。

 隼の初期型では、発射機構の異なる7.7ミリ機銃と
「ホ103」を混載したため、「ホ103」用の発射ボタン
と7.7ミリ機銃の発射レバーが別々に付いていた。
武装が「ホ103」に統一された中期以降の機体から
は、発射レバーが取り外されている。

 機械式同調装置付きの7.7ミリと空気発射方式
の20ミリを混載した零戦の場合、一つの発射レバー
で2本の鋼索が引かれ、それぞれが7.7ミリ用の
同調装置と20ミリ用の空気発射装置を作動させる。
レバーについたツマミを操作することで、7.7ミリを
単独で発射するモードも選択できた。

 あまり知られていないが、零戦も隼も、機銃発射
レバーと押ボタンは操縦桿にではなく、パイロットが
左手をかけるスロットル・レバーに付いていた。
その理由と得失については、次回以降に触れること
にしたい。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.17




荒木 肇
『士官学校予科の教育──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(2)
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□ご挨拶

 一気に涼しくなりました。秋ですね。仲秋の名月を
わたしたちは見逃しました。関東だけ曇り空。
空には秋の雲が広がり、早いものです。

 蚊によるデング熱の流行には驚かされました。
東京だけかと思ったら千葉からも感染の知らせ
があり、公共交通機関や輸送システムの発達が
思わぬ泣き所になる例でしょうか。
皆さま、ご自愛ください。


▼陸海軍の士官教育の違い

 陸海軍の士官教育の違いでいえば、最も大きな
ものはその身分・待遇だろう。よく知られているように、
海軍生徒(兵学校・機関学校・経理学校)は
入校と同時に「生徒」の身分を与えられた。
士官と同じような制服に短剣を吊り、海軍兵曹長(准士官)
の下、一等下士の上である。また、これも有名だが
1学年から4学年までが分隊に組織され、異学年
同士が暮らしを共にする。

 これに対して陸軍士官学校予科生徒には階級が
つかない。待遇その他に配慮はあるが基本的に
兵卒扱いである。服装も一般兵に対して違う所は
銃剣を吊る帯革(たいかく)のバックルがその身分
を表すくらいのもので、兵科の別もなければ階級章
に星もない。2学年が同時に校内にいて、入校当初
は選ばれた上級生が面倒を見たが、基本的には
同学年集団で生活した。区隊といわれる学級の
ようなものに編成されたのは海軍生徒と似ているが、
ふだんの生活は同期生同士の切磋琢磨である。

 大正時代の制度改革で陸軍幼年学校から来た
生徒と一般中学から採用された者がいっしょに
なった。ここに期別の気分の違いが現れたという
証言がある。幼年学校は全国に6つあって各校
50人ずつ合計300名だった。興味深いのは
出身府県にかたよりがあったことだ。加登川幸太郎
という方がいて調べられた。

 それによると、1917(大正6)年のデータだが、
最大派閥は山口県33名である。次いで東京府が
27名、以下、鹿児島、愛知がそれぞれ16名で
続き、熊本15名、岡山、福岡両県がそれぞれ12名、
石川9名、佐賀4名でベスト9になる。300名のうち
39%がこの府県で占められる。なお、東京府が
多いがこれは当時の本籍地別であり、二代目、
三代目の軍人の子弟が多いことからだろう。
また、山口・佐賀・鹿児島を除いて、いずれの府県
も師団司令部の所在地だから親が陸軍関係者で
あることも想像される。

 興味深いのはいずれも師団司令部があるのに、
大阪府、京都府の志願者も採用者も少ないといった
ところだろう。また、東北地方の出身者もきわめて少ない。

 いまの防衛大学校はどうか。おそらく九州出身者
が多く、福岡、熊本の両県などが中でも目立つの
ではないだろうか。この幼年学校の卒業生が一般
中学出身者と数的に拮抗すればよかったと加登川氏
は回顧する。氏もまた、北海道旭川の中学卒であり
苦労した方らしい。なにぶん、幼年学校卒は、
いわゆる「兵隊事」のベテランだった。被服・装具の
整理・整頓、身ごなし、兵器の手入れなどなどである。
ここにとんでもない格差があった。そのうえ、学習への
態度、集中力の発揮の仕方などの違いがあった。

 幼年学校もテストがあった。しかも、理解力を
確かめるため科目ごとに細かくテストがある。
そういうことに中学卒は慣れていない。また、夜には
自習時間があり、そこで生徒はそれぞれの要領を
使ってテスト対策に励む。一日に自由時間はほとんど
ない。限られた自習時間の使い方が学業成績の
優劣を決める。自由気ままに過ごしてきた中学卒は、
当初はその生活に適応するだけで精一杯だっただろう。

▼陸自教育、平成14年春の大変革

 2007(平成15)年度の任官組、つまり防衛大学校
51期生からは陸自幹部候補生学校でも大きな変革
があった。それまで一般幹部候補生採用者は、
格差を配慮され入校当初は防大卒業生とは違った
カリキュラムを組まれ所属する候補生隊も違っていた。
それが、彼ら彼女らが入校した平成14年春、防大も
一般大学卒も同じ扱いになった。

 ある一般大卒の高級幹部は昔をふり返ってこういう。
『初めてのことばかりでした。気ままに自由にやりたい
時に勉強もしたし、息抜きと思って何もしない時が
学生時代にはありました。それが戸惑ったのは自由な
時間がほとんどないことです。それと、まず、生活の
違いでした。最初にやらされたことは戦闘服や作業服
に、黒い糸と針を渡され、階級章や名札を付けること。
これには参りました』

 また、生活の厳しさについて、こう語ってくれた将官もいる。
『アイロンを持つこと、被服をいつも清潔にすること。
身の回りはいつも整頓されていること。着替える時は
要領よくやること。時間がなくて、トイレですら必死でした。
ベッド・メイキングにも驚かされました。冗談みたいですが
ピンと張ったシーツの上に10円玉を落とす。跳ね上がる
高さも大事でした。それから防大卒は一致団結、何に
でも勝とうとする。後期になって同じ区隊で生活するよう
になって、だいぶ彼らとは馴染みましたが』

▼士官学校予科の学習

 予科は体づくりと高等学校理科にほぼ追いつくような
教授内容だった。中学校4年の学習を基礎にして、
それから高等学校3年間の内容をつけた。たいへんな
ようだが、全員、合宿制である。午前は主に普通学と
わずかな軍事学、午後は主に体力錬成にあてた。
1920(大正9)年の制定分を紹介しよう。ただし、
回数だけで示されているものもあり、100分や90分
という時間もあったようだが、1回50分として計算して
みた。だからあくまでもおよその時間である。

 年間の予定は40週である。いまの中高などは
34週ぐらいだろう。午前中4コマの普通学授業、
午後はその他である。だから、普通学は週当たり
24コマと計算する。

 1学年では、倫理1、国語漢文4.5、外国語6、
歴史1.7(日本史、西洋史)、数学5.5、理化学3.5、
地学2、論理1、図画1、心理学・教育学・法制経済で
3.5。軍事学は1でしかない。他に戦闘教練や射撃も
含む教練が4.7、武技・体操が3である。

 これが2学年になっても、倫理1、国語漢文5、
外国語6、歴史は変わらず、数学が5に減り、他は
目立って変化はない。軍事学も1時間は変わらない。
なお、外国語は英仏独露支那の五カ国語から選択
した。幼年学校出は主に独仏露を専攻し、英語、
支那後は中学出身者が多く選んだ。

 これを高等学校理科と比べると、1学年では修身1、
国語及び漢文4、第1外国語8、第2外国語4、
数学4、植物及び動物2、鉱物及び地質を2、図画2、
教練・体操3となっている。高校理科では歴史・地理・
哲学・法制経済は一切なかった。

 こうしてみると、陸士予科は実際に現場に出て
初級将校として部下を握り、リーダーシップをとれる
人間を養成しようとしたことがわかる。また、高校の
文化系・理科系を合わせたような教育をし、心理学
や教育学、経済法制なども学ばせて社会の変化に
対応させようとしてきたことが分かる。

 教育総監部の資料の中には、次のように書かれて
いることでもねらいは了解できる。
『高等学校第一学年、第二学年に準じ士官候補生に
必要なる普通学及び軍人の予備教育を施す。この間
に於いての教育科目は従来の中央幼年学校に於ける
ものと概ね同一なるも其の程度を高め又新たに法制、
経済、及び心理学を加え(もとを読みやすいように
一部変えた)』

▼任地と兵科指定

 ここで将来についての考察もつけ加えよう。この後、
本科を卒業すると、彼らは半年間の兵営生活を送った。
予科を卒業して初めて「士官候補生」となった。任地と
兵科を区隊長から告げられ、初めて自分の兵科を
知るのである。歩兵はバタ、騎兵はバキ、砲兵はガラ、
工兵はドカタ、輜重兵はミソ、航空兵はトンボという
隠語があったという。歩兵は自分の足でバタバタ歩く
から、騎兵は「馬狂い」、砲兵は砲車を牽く時にガラガラ
いうし、工兵はすぐわかる「土方」、輜重兵は米や味噌
を運ぶからだ。航空のトンボも面白い。

 兵科を告げる区隊長は苦しんだらしい。希望通りの者、
そうはいかなかった者、中には輜重兵などと失望する
生徒もいただろう。また、主兵である歩兵でも、任地は
もっとも関心が高かったという。『濱田(島根県)か、
鯖江(福井県)か、村松(新潟県)か』とこの3つの聯隊
は候補生には人気がなかったらしい。どこも都会から
離れて、汽車の便も悪かった。なお、人事上、全国の
部隊の幹部の素質は平均化が図られた。だから、
近衛歩兵、近衛騎兵、近衛砲兵、近衛工兵、近衛輜重兵
の聯大隊付が全部優秀者ではなかった。

 どこの師団も聯隊も大隊も戦力を平均化する。それが
人事政策の基本にあるから優秀者が僻地の聯隊へ、
成績が芳しくなかった者も有名聯隊へ行くこともある。
候補生に指定された若者たちは各地の部隊に散っていく。
そこが一生の「原隊(げんたい)」といわれる大事な部隊
になっていった。聯隊や大隊には、トップを中心にした
「将校団」といわれた懇親・修養のための組織があり、
候補生たちはそこで親身な教育を受けた。

 候補生たちは順に階級を進められる。上等兵、伍長、
軍曹である。ただし、一般下士や兵卒と異なるのは、
襟章の横に士官候補生徽章といわれた星章をつける
ことだ。生活は兵卒と同じ内務班ですごす。ただし、
食事は将校集会所で末席に座ってとる。下士に進めば、
下士室を与えられるが、そこも教育の一環である。部隊
の実情を知るために24時間が教育になっている。
もちろん、伍長になれば衛兵司令などの勤務もとる。
階級相応の仕事に慣れるわけだ。

 いまの陸海空自衛隊も防衛大学校の学生のうちに
主に夏季、部隊実習がされる。1学年はまだ陸海空の
区別がない。これを「要員の決定がされていない」という。
だから1学年では全員が富士学校や北富士演習場で
小銃をかかえて走り回る。2学年になって、それぞれが
陸海空要員に分けられると、今度は各地のそれぞれの
駐屯地や基地を回ることになる。 海上要員が護衛艦
や艦艇に乗り組み、航空要員も戦闘機や輸送機などの
機材にふれ、陸上要員は普通科連隊などで訓練に励む。
もちろん、身分待遇は陸海空士なみである。

 こうして隊付が終わると、いよいよ本科に入校すること
になる。原隊から派遣される形をとるので、それぞれの
聯隊や大隊の競争になる。『うちの聯隊の候補生が
笑われないように』と下士官たちまで張りきって装具や
被服を用意してくれる。襟には聯隊や大隊の兵科色と
ナンバーが輝いている。次回は本科の教育内容を語ろう。



(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.17




『ライター・渡邉陽子のコラム (12) ─ 統合幕僚監部(最終回) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんにちは。渡邉です。

今回で統合幕僚監部の連載は終了です。
お付き合いいただきありがとうございました。


▼文化の違いを超えて陸海空が価値観を共有

統幕に勤務する隊員は、普段ほかの制服の隊員と机を
並べて仕事していても違和感はないけれど、何気ない
ときに陸海空それぞれのカラーを目の当たりにすること
があると言っていました。

その最たるものが用語です。自衛隊には自衛隊なら
ではの用語がたくさんありますが、それがさらに陸海空
に分類されているのです。
たとえば、式典などの予行練習のことを陸自と空自では
普通に予行と言いますが、海自では立付(たてつけ)と
言います。通信用語でも海自と空自が「ラジャー、オーバー」
など英語基本なのに対し、陸自は「了解、送れ」です。


言葉も違えば制服も文化も違う、思想や行動まで異なる。
だからこそ統合運用は難しく、統合運用が理想の形
とわかっていても、思うように進んでいない国もあります。

それが自衛隊ではこうして運用が進んでいる背景には、
防衛大学校の存在が大きいという声があります。
他国の士官学校は陸海空すべて分かれていますが、
自衛隊では防大が統合学校です。互いの文化を自然に
知ることになりますし、自分の所属以外の自衛隊に
先輩や同期、後輩がいるというのは仕事を円滑に
進める大きな助けになっているでしょう。

また、高級幹部が統合運用を学ぶ統合幕僚学校という
機関もあります。教育のレベルで統合運用をうまく行う
ための素地がかなりできているといえるのかもしれません。


また、地域ごとに独自の文化や大切に継承されている
伝統はありますが、日本というもう一つ大きな視野で
見れば、日本人は同じ日本の歴史を共有しています。
日本で生まれ育ってきたという根幹の部分が一致して
いることも、円滑な統合運用に多少なりとも影響を
与えているのではないでしょうか。


統合幕僚長の岩崎茂空将は、統合運用体制に
必要なものは「柔軟な思考とスピード感を持った対応」
としています。そして実際に現場で任務に当たる隊員
には、それを完遂する能力が求められるため、どの部隊
も常日頃から厳しい訓練にいそしんでいます。少々脱線
しますが、昨年の大島への災害派遣で、隊員が土砂の
中から掘り出した位牌に自分の水筒の水をかけ、
泥を洗い流している写真を見ました。強くてやさしいなど、
これほど頼もしい存在はありません。

陸海空自衛隊が価値観を共有し、即応態勢を維持して
いくことで、統合運用体制はさらに確立されていきます。
統幕にかかる期待と役割は、今後ますます大きくなって
いくことでしょう。(了)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.11




『楠木正成の統率力 【第18回】 大将は戦場を離れるな 』
          家村 和幸
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▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 『太平記秘伝理尽鈔』には、合戦における「戦術・戦法」
や「指揮・統率」に関する具体的な話がたくさん書いて
あります。同じ楠流兵法書でも『河陽兵庫之記』や
『楠正成一巻之書』が洗練された「理論書」であるのに
対して、『理尽鈔』は「事例集」といった位置づけに
あったと云えましょう。

 江戸時代、多くの武士たちがこうした「理論書」と
「実例集」の両方を読むことで、戦(いくさ)のない
時代でもより実戦的・実際的に「武人としての
嗜(たしな)み」を身につけたのでしょう。

 今回も、千早城外・賀名生(あなう)の別働隊が
大活躍しますが、まずは「理論書」の中から関連
記述を紹介いたします。

 「上下が和し、諸人がうれしそうに喜び、楽しい
ことをなにも施されずとも楽しみ、賞をなにも
与えられなくとも満足し、国と人々が親睦して、
上の者は恩恵を与え、下の者は果たすべき任務
をしっかりと尽くし、その君主を尊ぶことは霊神が
在するようであり、懐かしむことは父母の如くで
あり、罰すれども怨まず、狎れていても侮らず、
洋々悠々と徳化が下に流れていくのは、治まって
いる世の中の効果である。(河陽兵庫之記一 順徳)」

 「これまでに、令が正しくなされて人がこれに服従
しなかったことは無く、服従して剛毅になれば人は
常に死を恐れない。兵自ら進んで死んでゆくようで
あれば、戦は必ず勝つ。このようにして我が兵士
全員が道義に殉ずる時は、貧しく賤しい身分で
あっても天地の中で何ら恥じるところがなく、
たとえわずかな兵力であっても大敵を恐れることも
ない。(河陽兵庫之記二 威令)」

 それでは、本題に入りましょう。


【第18回】 大将は戦場を離れるな

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 新田義貞、綸旨を賜はる事」より)

▽ 宇都宮公綱、本格的な攻城戦法で櫓を掘り崩す

 伝えられるには、(宇都宮)公綱が千早に下り来て、
大将の大仏奥州と評定(=作戦会議)をして諸軍勢を
集め、千早を百重、千重に取り囲ませて、夜毎押し
寄せる鯨の波のような時の声を発し、前にいる兵は
手に手に鋤・鍬を取って堀をほり、前に土を高く
積み上げて、その陰に宇都宮を始めとして着陣した。
城からはたくさんの車松明が投げ込まれ、大石や
大木を投げ落としてきたが、堀によって留められた。

 夜が明ければ、これらの堀を前に当て、宇都宮を
始めとして宗徒の大将たちが笠じるしを風になびかせて、
雲霞のごとくに並んでいたのだった。夜に入れば、
寄手は又しても時の声を発し、前の夜の堀からさらに
十間(約15メートル)から二十間(約30メートル)、
三十間(約45メートル)押し出して堀をほる。城からは
雨あられのように大石・大木が投げ落とされる。
このような堀が出来るまでは、石にあたる者も多かった。
しかし、堀が出来てからはあたる者もいなくなった。

 毎夜このようにして十日以上も続け、大勢でじわり
じわりと城の斜面を昇って攻めたので、ついに城の
切り岸の下までたどり付いた。そこで、寄手は
鹿垣(ししがき)一重を引き破って捨てたところ、これに
よりかえって城兵から隠れることも出来なくなった寄手
の兵士は、数多く討たれてしまった。楠木がよく考えて
構築した千早城の切り岸には、よじ登れる箇所が
全くなかったのだった。

 こうしたことから、宇都宮は新たな謀を考え出した。
「とにかくこの城を掘り崩せ」と命じて、切り岸の下から
掘りに掘った。この時の寄手は密集しており、間隙が
なかったので、城中から忍びの兵を出すこともほとんど
出来なかった。そのため、楠木は敵が城を掘り崩そう
と工事していることさえ知らずにいたところ、大手の
櫓(やぐら)一つが掘り崩された。そこで寄手が城中
に切り入ろうとしたが、城から大石が投げ落とされた
ので大勢が討たれて中止された。正成がかねて
塀沿いに植えさせていた樹木が、この時には厳しい
構えを維持するのに役立ったことであろう。

 その後は役所役所の後ろに穴を掘って煮え湯を
沸かし、これを敵にかけたり、石を落としたりして
敵兵を数多く打殺した。これにより、寄手はいくら
堀り続けても、櫓の一つも掘り崩せなくなった。
ただ、宇都宮が最前にいて正面の櫓一つを掘り
崩したことだけは、多くの人を死傷させたにも
かかわらず、一つの高名(手柄)となったのである。


▽ 正氏、賀名生の別働隊を率いて寄手を夜討ち

 正成は、寄手が城を攻める様子を見て、一つ
夜討ちをしなければなるまい、と思っていたところに、
賀名生(あなう)に居た楠木七郎(正氏)が500余騎
を率いてやってきた。

 風雨の夜の暗闇にまぎれて、互いに顔を知り
知られている兵を、10人、20人一組にして、
城を囲んでいる大将の諸隊へ分散して遣わし、
自分は150騎で宇都宮の陣の後ろにまぎれていた。
そして、味方の兵たちが夜通しの警備の交代に行く
真似をして、合言葉を定めて居たのであった。

 (同じく賀名生の)和田孫三郎には、選りすぐった兵
800人を引き連れさせ、大将の本陣に忍びを入れて
焼き立てさせ、これを合図に前にいる200余騎で
陣中に切り込み、残りを三つに分けて、あちらこちら
に軍勢を伏せさせていたのであった。

 寄手が「これは何事だ」とあわてているところに、
楠木七郎がすでに組ごとに分けていた兵たちが、

 「味方の何がし誰それが、楠木殿に返り忠して
おられますぞ」

 と叫びながら、前後不覚に風の如く切って廻った
ので、寄手は驚き騒いだ。そこへ楠木七郎が150騎
で宇都宮の陣へ懸け入ったので、敵は蜘蛛(くも)の子
を散らすように自軍の陣へ引いて行き、また自軍の
陣さえも通過して遠くへ引いていくのも多くあった。
大将の陣も散々に懸け乱された。


▽ 正成、自分だけ戦場を離れた正氏を批判

 そうした中で、正成は城から一騎も出撃させる
ことなくこれらを見物して居たのであったが、そこへ
楠木七郎が城門の前にやって来て番兵に小声で
語りかけた。番兵が喜んで門戸を開こうとするのを
七郎がとがめて問うた。

 「どうして重要な城の門戸を、このような時に、
大将の下知も無いのに開こうとするのか。番の兵
は誰であるか。重大な過ちである。・・・ところで、
正成は無事でおられるか。」

 番兵は「別に何ごともございません」と申した。
七郎は同行してきた兵に言った。

 「おぬし、正成に伝えよ。寄手どもが千早城を激しく
攻めることがあれば、私こそがこのようにいたしま
しょう・・・と。さて、大将が見えないのを我が勢も
驚いておることであろうから・・・」

 そして兵一人を城に入れ、そこから七郎正氏は
帰った。正成はこれを聞いて、

 「思慮が浅いからであろう。大将たる者が、合戦の
最中に戦場を去って、ここに来るとは。今、見てみよ。
味方の兵たちは七郎が考えていたとおりの戦をして
いないだろう。早々と引くことであろう」

 と云ったのであるが、案の定、あちらこちらで組を
なしていた兵は、正氏が見あたらないので、早くに
引いてしまう者も多かったという。


▽ 和田、忍び一人だけを城に派遣

 これに対して、和田孫三郎は忍びの兵を一人で
城へ遣わしたのであった。正成は、「七郎より
はるかに優っている」と語っていたという。

 和田も七郎の姿が見えないと聞いて、

 「楠木殿に対面するために城へ入られたのに
違いない。まずいな・・・」

 とつぶやきつつ、自分が率いる兵を打ち連れて
山かげに隠れてしばし待っていると、正氏が七十騎
ほどでやってきた。前もって「合図して待とう」と(集合
場所に)決めていた峰に登って、旗を打ち立てて
待っていると、方々から兵が10騎、20騎ずつ
走って来たので、それらを打ち連れて引き退いた
のであった。


▽ 正成、正氏の忠・孝・勇を認める

 寄手は大将の陣を始めとして、敗れて討たれる者
は数えきれぬほどであった。それでも、楠木側は
小勢であったので引き退いたのであった。

 陣を堅くして崩れなかった陣は、六つだけで
あった。二階堂道蘊(どううん)の陣、長崎四郎左衛門
の陣、高橋九郎左衛門の陣、赤橋入道の陣、
千葉介の陣、入江入道の陣である。これらも陣に
敵が攻め寄せていたならば、踏みとどまることは
できなかったと思われ、何とも情けない。これ以外
の大将たちは五里、六里(約19キロメートル〜
23.6キロメートル)も逃げて、次の日の白昼に
帰ってくる者もあり、また日が暮れるのを待ってから
戻り来る者もあったという。何とも見苦しいものである。

 この夜討ちにより、正成もまた大いに利を得た
のであろう。正氏の謀は、実に忠を尽くしたもので
ある。兄に対する孝であり、勇でもあり、と正成も
感じいったのであった。


▽ 正氏が夜討ちを実行するまでのいきさつ

 また、伝えられるには、千早城の櫓の一つが
掘り崩されたことが賀名生にまで伝わると、正成の
郎従たちが集まって云うには、

 「我らが生きていたとしても、正成殿が滅亡される
のを見るのはつらく、恨めしい。先ず、我らが先に
死して、後はどうなるかは知らない。とにかくひとつ
夜討ちして、正成殿の御目の前にて屍を軍門にさらすか、
敵をひとまず追い払うか、二つの内のどちらかに
定めよう。もしも我らが残らず死んだとしても、城さえ
強固にして在るならば、正成殿の御ため何を惜しむ
ことがございましょう」

 とのことであり、幼童に至るまで勇み進んだので
あった。女や子供らでさえも

 「さあ、正成殿の御大事がこの時でこそあるならば、
我らも命を惜しんで生きたところで何になりましょう」

 と覚悟を固めたように見え、口々に出陣を切望して
いるので、七郎も和田も「そうであれば」とのことで
評定を開いて、このような作戦を立てたのであった。

 正成は常に自分のことを思う意識が少なく、郎従を
憐れんでいので、郎従も皆このようであったのだ。
将たる者は知っておくべきことであろう。この度は
正成も郎従たちの志を大いに感じたことであろう。


(「大将は戦場を離れるな」終り)



(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2014.9.19


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