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ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
Kampfgruppe 88
目次
From:野田力
件名:GCP戦傷者
2013年(平成25年)4月29日(月)
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軍事情報特別連載
フランス外人部隊・日本人衛生兵のアフガニスタン戦争
(最終回)
陸上自衛官を志すも挫折.自分が立派な兵士になれることを証明するため渡仏し、外人部隊への入隊を果たした衛生兵が、最前線で体験したアフガニスタン戦争の実像をお伝えします.
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□はじめに
まことに勝手ながら、今号のメルマガをもちまして、最終回とさせていただきます.
どうしても本業のほうが忙しく、毎週メルマガを書くことが困難となりました.
私がアフガニスタンで携わった主な戦傷/戦死の事例は、以前ご紹介した頭部に被弾した兵士のエピソードと今回のエピソードですので、それらをご紹介できたことに、私のメルマガの意義があったのではないかと思います.
他にも、戦場救命とは関係ないながらも、歩兵職種に興味のあるかたに喜んで頂けそうな山岳任務のエピソードや、仏米ルーマニア合同特殊部隊を我々第3中隊が支援したエピソードなど、いろいろあるのですが、書く余裕がありません.
頭脳と文才があれば、きっとスムーズに書けたことでしょう.申し訳ありません.
いつか、別の機会に他の体験も発信できると幸いです.
それでは、最終号をどうぞ!
▼GCP戦傷者
GCPに死傷者が発生した経緯の発端は、村のどこかに潜伏しているところを現地の子供に見つかったことだった.子供を拘束するわけにもいかず、GCPは潜伏地から移動を始めたのだろう.村のなかを移動中に側面から敵弾の連射を浴びた.
その敵は家屋の窓や壁の隙間などから銃だけを出し、数秒間の連射をし、消えた.敵はこの戦法が大好きだ.狙わずに撃つので当たらないことが多いが、撃たれる側にとってはじゅうぶん脅威だし、たまに当たるからやっかいだ.
今回は、GCP隊員の1人に当たった.部位は片方の太腿だ.
ほかの隊員たちは瞬時に、敵の方向にG36小銃などの火力を投じるものたちと、負傷者を助けるものたちに分かれた.
助ける隊員たちは負傷者を連射のあった場所から死角となっているところまで搬出した.たぶん2名で引きずったのだと思う.
彼らは負傷者の太腿のつけねに止血帯をしめ、出血を止めた.被弾した部位にはイスラエル式圧迫包帯を巻き、モルヒネのアンプルを腹部かどこかの皮下に1つ注入した.
止血帯とモルヒネが施されたことを後方の医療チームに知らせるため、負傷者の額に「T」と「M」のアルファベットと時刻がマジックペンで記されるのが標準手順だが、後で私が彼の顔を見たときは何も書いてなかった.一刻も早く村から搬出したかったから書かなかったか、書き忘れたかだろう.
負傷者のG36小銃やアーマー装備は外され、別のものが運ぶ.これで負傷者は20kg以上軽くなった.
GCPの衛生兵が「フィレ・ブランカール」と呼ばれる携帯式担架を取り出す.長方形の網に6つの取っ手がついた簡易的な担架で、畳むと水筒ポーチに入るくらいコンパクトになる.担架の上に負傷者をのせ、6人の隊員で搬送を開始した.
村のなかは土塀が多く、まっすぐに脱出することができない.早く医療班の車両までたどり着きたくてイライラしたことだろう.
“パパパパパパパン!!!”
そんななか、また連射を受けた.
担架を運んでいた6名のうち、2名が被弾した.1人は手首の表層.もう1人は両太腿.そして運ばれていた負傷者は右脇腹に被弾した.ふたたび、火力を投じるものたちと助けるものたちに分かれる.敵はどこかへ消える.
銃声がやみ、少しすると、第3中隊第3小隊の1個分隊が応援に到着した.GCPを守るように周りの警戒を固める.これでGCPの隊員たちは負傷者の対処に集中できるようになった.
新たな負傷者で、手首に被弾した隊員は出血も軽いため、止血帯は締めず、イスラエル式圧迫包帯を巻いた.状態も良く、ひきつづき戦える.
両太腿に被弾した隊員は出血がひどく、両脚のつけねに止血帯が締められ、モルヒネが打たれた.出血した血量を補うため、点滴も施された.
そして、もともと搬送されていて右脇腹に被弾した隊員は死亡が確認された.
その死亡で、今助けるべきは両太腿に被弾した隊員となった.
他の隊員たちは網担架に新たな重傷者をのせた.すでに銃とアーマー類は外してある.外さないと重くて搬送速度が落ちる.
このとき、なるべく早く村から出て医療班に合流するため、比較的低くなっている土塀を手や足を使い、壊しはじめた.すると、その土の隙間にサソリがいて、手を刺されてしまった.しかし、彼はひるまずに土塀を崩した.
GCP隊員たちはそこを通り、担架の搬送をつづけた.手首を撃たれた隊員も担架を運んでいる.
いっぽう、サソリにやられた隊員は立っていることが困難になった.とりあえず、第3小隊の防御のもと、現地で安静にすることになった.キングコブラやブラックマンバに噛まれたわけではないので、簡単には死なない.
両腿を撃たれた隊員は早く状態を安定させて、病院に運ばないと死ぬ.GCPは我々医療班のもとへと急いだ.
やがて、我々医療班の位置から100mほど離れた南側のコンパウンドの角に、担架搬送をするGCPの姿が現れた.そのコンパウンドのそばには第3中隊のVAB1台と兵士たちがいるので、彼らが我々医療班の位置をGCPに示したのだろう.GCPは我々に向けて直進を始めた.
網担架を運ぶのがつらそうに見えるが、まだ距離が80mくらいある.しかも一番前のGCP隊員が何か叫びながら、大きく手招きをしている.
担架だ!
私は彼らが強固な担架を必要としていると直感した.
「担架を持って行きましょう!」
私はプルキエ少佐に言った.
「ダメだ!安全が確保されていない!」
少佐の返答で私は冷静になった.負傷者の命より、自分の命を優先するというのは、衛生兵教育で最初に習う原則だ.今、我々が遮蔽物にしているコンパウンドと、彼らが担架搬送をしているところのコンパウンドとの距離80mの間隔は開けた場所で、村の中心部から敵弾が飛んでくるかもしれない.
しかし、GCPはどのみち、その危険な80mを横切らなければならない.我々はすでにこの場で負傷者の受け入れ態勢を整えており、今からいったん片づけてVABで移動するわけにもいかない.
私が不安を覚えているなか、GCPはまったく止まることなく、向こうのコンパウンドの遮蔽から出て、開けた場所を進み始めた.それと同時に、向こうにいるVABがGCPの左側を並走した.つまり、GCPと村の中心部とのあいだを進み、盾となった.
こうして、やっと負傷者が到着した.GCPは負傷者を網担架ごと、我々が用意した強固な担架に降ろした.負傷者は苦悶の表情を見せており、顔面は蒼白だ.両手は胸の前にあり、全身がガタガタ震えている.多くの血を失うと、たとえ暑い地域にいても体温が下がり、寒くなる.
「寒い・・・.痛い・・・.」
負傷者のうめき声が聞こえる.
「ノダ、橈骨動脈を確認しろ.」
プルキエ少佐の指示が聞こえた.
私は負傷者の橈骨動脈(手首の脈)を確認しようとしたが、震えが激しくてわからなかった.手首に脈拍があれば、血圧が絶望的に低くないとわかるのだが.肌は金属のように冷たい.
「震えていて脈がわかりません!」
私が素直にそういうと、負傷者が私に話しかけた.
「寒いんだから震えるのは当たり前だ.」
声は震えているが、意識はしっかりしている.
プルキエ少佐とオアロ上級軍曹は点滴のチューブから、いろいろな薬剤を投与しているようだった.ケタミンとかアドレナリンとか、いろいろ薬剤はあるが、私やミッサニはそれらを実施する技術も資格もない.
ミッサニ伍長は、救命ヘリの医療班に提出するための簡易カルテを書いている.負傷者の氏名・所属・血液型・負傷種類・負傷部位・実施された処置などを記入する.
「ノダ、エンジンをかけろ.すぐに発車する.」
私はVABの運転席に乗り、エンジンをかけた.車両後部のほうからガタガタと音が聞こえ、担架を載せていることがわかる.
助手席側にミッサニが乗ってきた.少佐は負傷者の救命に中心的役割を担うので、後部に残った.
ミッサニが銃座につくと、近くにいるADUのVABが発車した.いつものように、ADUのVABが我々を先導する.荒野を走行し、COP51へと我々は向かった.
5分くらいでCOP51に到着した.中には入らない.ヘリが着陸するのはCOP前の空き地だ.
我々は負傷者をVABから降ろし、毛布を2枚かぶせた.あいかわらず苦悶の表情をしており、気の毒だ.しかし、いつか良くなる.ヘリに乗り、首都カブールの国際部隊病院まで行けば、痛みを感じなくする処置が受けられるだろう.
ヘリを待つあいだも治療はつづく.プルキエ少佐とCOPで待機していた軍医長が、投与すべき薬剤や量について話しあっている.やがて、薬剤が決まり、軍医長が点滴チューブを通じて投与した.
ヘリがやってきた.フランス軍の新型ヘリ「カラカル」だ.ヘリが地面に近づくと、土埃や微細な石が勢いよく舞った.
「目を閉じて!」
私は負傷者に叫び、負傷者の目に砂や石が入らないように、負傷者の顔面に覆いかぶさった.私はアーマーを着ていたので、負傷者の顔面を圧迫したかもしれないが、砂や石をまともに受けるよりはいいだろう.
ヘリが着陸し、ローターの風が来なくなると、私は負傷者の顔からどいた.両目のくぼみに少し砂がたまっていた.このまま目を開けると砂が入る.
「目を閉じててください.」
そう言うと私は彼の目のくぼみに、フーフーと勢いよく息を吹きかけた.ほとんどの砂が吹き飛んだ.
ヘリのクルーが1人降りて我々に手招きをしたので、私はミッサニと2名の後方支援中隊の衛生兵らとともに担架を運んだ.負傷者をカラカルに載せ、我々はヘリから離れた.
我々とすれちがいに、もう1人の誰かが担架でヘリに運ばれた.私はふり返り、負傷者が誰か確認した.サソリに刺された隊員だった.笑顔だった.大丈夫のようだ.
負傷者2名を載せるとカラカルは離陸し、彼方へと飛んでいった.
太腿に被弾した隊員は翌日フランスへ搬送された.あとで聞いたのだが、両方の太腿を弾丸が貫通し、大腿骨・大腿動脈の両方を損傷していた.
この一件が、アフガニスタン派遣において私がかかわった最後の戦傷事例だった.
タスクフォース・アルトーの6ヶ月の任務で、3名が戦死し、19名が負傷した.火器による負傷は12名だ.
タスクフォース・アルトーの攻撃による民間人の死傷はゼロで、そのことを連隊の上層幹部は非常によろこび、前線で活動していた我々を褒めちぎった.政治的に見て、民間人に被害がないことは一番価値があるのだろう.
アフガニスタンで私は戦傷者に対して、そんなに難しい医療技術を実施したわけではない.実施した内容も多くない.しかし、あの危険な現場で、実際の死傷者を見て、触れて、救命処置に携われたことは、自分の今までの人生で最も貴重で素晴らしい経験だったと思う.
(おわり)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:おき軍事
件名:軍事情報 第504号 (最新軍事情報)
2013年(平成25年)4月29日(月)
■米韓原子力協定、2年間延長.
●米韓原子力協定延長へ 韓国の核燃料再処理認めず
2013.4.24
韓国政府による使用済み核燃料の再処理とウラン濃縮を事実上禁じた米韓原子力協定について、米韓は来年3月末までの有効期限を2年間延長することで合意した.韓国外務省が24日発表した.
18日まで行われた期限切れに合わせた改定協議で、韓国は核燃料再処理などを認めるよう求めたが、米側は核拡散を懸念し、拒否してきた.期限延長は5月の米韓首脳会談を前に対立の表面化を避ける狙いがあるが、韓国は事実上、交渉に失敗した.
原子炉で使用した核燃料を再処理して取り出すプルトニウムや高濃縮ウランは核兵器の原料にもなる.1970年代に当時の朴正煕政権が核開発を秘密裏に進めたことを受けて、米国が韓国に原発技術を提供する代わり、核兵器開発能力を奪うために現行協定が結ばれた経緯がある.(共同)
●米韓原子力協定、2年延長=改定協議で溝埋まらず
【ソウル時事】韓国外務省報道官は24日、2014年3月で期限切れとなる米韓原子力協定について、期限を2年延長し、改定協議を続けることで米韓両国が合意したと発表した.韓国は、現協定で事実上禁止されている使用済み核燃料の再処理やウラン濃縮活動の容認を求めてきたが、核不拡散の観点から否定的な米国との溝が埋まらず、先送りを決めた.6月を皮切りに3カ月に1回、定期的に協議を継続する.(2013/04/24-12:49)
(参考)
米韓原子力協力協定
http://www.jaea.go.jp/04/np/archive/nptrend/nptrend_03-02.pdf
■海自艦へのレーダー照射、中国共産党が指示 「砲身向け威嚇」も許可
産経新聞 4月24日(水)7時55分配信
尖閣諸島(沖縄県石垣市)北方海域における中国海軍艦艇による海上自衛隊護衛艦へのレーダー照射が、中国共産党中央の指示によるものだったことが23
日、分かった.複数の日中関係筋が明らかにした.党中央から威嚇手段の検討を指示された中央軍事委員会が、レーダー照射に加え、「火砲指向」も提示.党中
央はいずれも実施を許可していた.海自側は、レーダーに続き火砲も向けられれば中国側の攻撃意図を認定せざるを得ず、一触即発の事態となる恐れもあった.
関係筋によると、党中央が軍事委に対し、海自への威嚇について検討するよう指示したのは1月14日.
これに先立つ1月5日、安倍晋三首相が尖閣諸島周辺での領域警備で対抗措置を強化するよう指示.具体的には、領空侵犯機が無線警告に従わない場合、空自
戦闘機が曳光(えいこう)弾で警告射撃を行い、海軍艦艇が領海付近に進出してくれば、それまで28キロの距離を置いていた海自艦艇が3キロまで接近するこ
とに改めた.
こうした日本政府の対応に中国側は強く反発.党中央が威嚇の検討を指示した14日には、人民解放軍の機関紙「解放軍報」が、作戦立案を担う総参謀部が全軍に「戦争の準備をせよ」との指示を出していたと報じた.
党中央による軍事委への指示は、「日本を威嚇する方法はないか」という内容.加えて、「日本の出方を試す必要もある」との意図も伝えた.
これに対し、軍事委は「海上であれば艦艇が日本の艦艇に射撃管制用レーダーを照射するか、火砲の砲身を向けることが考えられる」と回答した.
党中央はこれを認め、実施時期と場所、手順については艦艇の「艦長判断」に委ねる方針も示した.
中国の国防方針は党中央→軍事委→軍四総部−の流れで決まり、関係筋は「照射も通常の指揮系統で決定された」と指摘する.
海軍艦艇が1回目のレーダー照射とみられる挑発に出たのは、党中央の指示から5日が経過した1月19日.このとき中国フリゲート艦と海自ヘリの距離は数
キロ.2度目はフリゲート艦と海自艦艇の距離が約3キロで、フリゲート艦の艦長は接近してきた護衛艦に威嚇で応じたとみられる.
【用語解説】レーダー照射事件
1月30日に中国海軍のジャンウェイII級フリゲート艦が海自護衛艦「ゆうだち」に射撃管制用レーダーを照射.日本政府は、1月19日にもジャンカイI
級フリゲート艦が護衛艦「おおなみ」搭載のヘリコプターに照射した疑いが強いとみている.中国外務省は「日本の捏造(ねつぞう)」と否定したが、安倍晋三首相は「認めて謝罪し、再発防止に努めてほしい」との認識を示した.
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130424-00000088-san-pol
(関連データ)第18回党大会で決まった中共中央軍事委員会メンバー(2012年−)
胡錦濤が完全引退し、習近平が党総書記および党中央軍事委員会主席に選出.
主席:習近平(党総書記、国家副主席)
副主席:范長龍(陸軍上将、党中央政治局委員 前済南軍区司令員 121104、第17期7中全会で選出.同月15日の第18期1中全会で再選)
副主席:許其亮(空軍上将、党中央政治局委員 前空軍司令員 121104、第17期7中全会で選出.同月15日の第18期1中全会で再選)
委員:常万全(陸軍上将 前総装備部長)
委員:房峰輝(陸軍上将、総参謀長 前北京軍区司令員)
委員:張陽(陸軍上将、総政治部主任 前広州軍区政治委員)
委員:趙克石(陸軍上将、総後勤部長 前南京軍区司令員)
委員:張又侠(陸軍上将、総装備部長 前瀋陽軍区司令員)
委員:呉勝利(海軍上将、海軍司令員 留任)
委員:馬曉天(空軍上将、空軍司令員 前副総参謀長)
委員:魏鳳和(第二砲兵上将、第二砲兵司令員 前副総参謀長、第二砲兵参謀長)
■中共の軍事費増強は、まもなく東アジアの軍事バランスを崩す
●中国国防費20兆円?軍事バランス壊れる・・・首相
安倍首相は26日夜、首相公邸で呉善花拓殖大教授らと会食し、「この2年で日本と中国の軍事的なバランスが完全に壊れる.中国は国防費を10兆円と言っているが、実は20兆円ぐらいではないか」と述べ、懸念を表明した.
出席者が明らかにした.
(2013年4月27日08時52分読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130427-OYT1T00265.htm?from=ylist
●中国国防費に疑念=安倍首相
安倍晋三首相は26日夜、首相公邸で評論家の呉善花氏らと会食した.出席者によると、首相は中国の国防費増大に関し「この2年で日本と中国の軍事的バランスが完全に壊れてしまう」と懸念を表明.「中国は(年間約)10兆円と言っているが、実は20兆円ぐらい使っているのではないか」と疑念を呈したという. (2013/04/26-22:33 時事)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013042601195
● 日中の軍事バランス、首相「2年で壊れる」
安倍晋三首相は26日夜、首相公邸で仏壇・仏具販売大手はせがわの長谷川裕一会長らと会食し、中国の軍備増強に関して「2年で日本と中国の軍事バランスが壊れる」との認識を示した.長谷川氏が明らかにした.中国の国防費については「(公表額は)10兆円程度としているが、(実際は)20兆円ぐらいではないか」との見方を明らかにしたという.
(2013/4/27 0:07 日経)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2604U_W3A420C1PP8000/
⇒世界を混乱させ、世界の秩序を乱している元凶は中共にあります.
すべての責任は中共にあります.
■ 米軍と自衛隊、統合運用を強化
2013/4/27 1:48 日経
来日中の米軍制服組トップ、デンプシー統合参謀本部議長は26日、東京・目黒の統合幕僚学校で幹部自衛官らを前に講演した.北朝鮮情勢を巡り、「脅威は長引く.日米が協力することで、相互の負担を軽減し、即応態勢を維持することができる」と述べ、米軍と自衛隊の連携向上や陸海空の統合運用をさらに進める考えを示した.
約1年前、弾道ミサイルや領空侵犯に対応する航空自衛隊の航空総隊司令部が米軍横田基地(東京都)に移転.連携や情報収集を強化している.「北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射への備えは、より緊密な相互運用の好例」と満足感を示した.
来日に先立って中国を訪問したデンプシー議長は「平和で繁栄する中国は地域だけでなく、世界の利益にもなる」と語り、沖縄県尖閣諸島の領有権主張など海洋進出を積極化する中国をけん制した.
米政府の歳出削減に伴う国防費への影響についても言及.「一部の訓練や海外の軍隊との交流を控えている」と述べた.そのうえで、「過去10年の国防費の伸びは異常であり、どこかで抑制しなければならない」と支出の見直しに取り組む考えも示した.
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM26064_W3A420C1FF2000/
■室蘭港への自衛隊誘致団体発足
130426の室蘭民報によれば、室蘭港の防災拠点化を目指し、室蘭地域の経済団体などでつくる「自衛隊施設等誘致期成会」が、130425に発足した.設立会議には道議、市議、商工会議所などの経済団体、企業などから約300人が参加している.
期成会は、室蘭市が進める災害に強いまちづくりと港湾の活用に向け、災害派遣で重要性が増している自衛隊施設の誘致による室蘭港の防災輸送拠点化を趣旨に据えている.
室蘭方面の警備を担任する71戦車連隊の連隊長 嶋本一等陸佐[陸軍大佐]も当日講話を行った.
連隊長は、
・昨年11月に発生した室蘭地域の大停電
・2000年(平成12年)の有珠山噴火時の支援活動
・昨年12月に白老町を含む3市4町と締結した防災協定
について紹介し、「この地域には高齢者が多い.救助態勢の構築および、広域災害で陸路が途絶えた場合に備えた空中・海上輸送を最大限活用した防災態勢が有益」と強調.講話を締めくくった.
誘致運動をきっかけに、国防や防衛・軍事理解が一般国民レベルで進むことを期待したい.
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2013/04/26/20130426m_01.html
■太平洋島嶼国の軍支援へ 防衛・外務一体 ネットワーク化
2013.4.21 08:10 産経
政府は防衛省の能力構築支援と、外務省の政府開発援助(ODA)による海上保安機能支援を組み合わせた一体的な安全保障支援モデルの構築を進める方針だ.米国、オーストラリアなどと連携して支援することで、アジア太平洋地域における米国を中心とした同盟国・友好国のネットワーク化も図りたい意向だ.
安全保障支援をめぐっては、外務・防衛両省が昨年から課長級で定期的に協議を実施.「どの国を優先的に支援するかという戦略認識の共有」(外務省幹部)を進めている.将来は「外務・防衛両省の支援メニューを一体的に示し、シームレス(継ぎ目のない)な援助を行う」(外務省関係者)ことを目指す.
外務省は戦略的ODAの一環として平成18年にインドネシアの国家警察本部海上警察局に巡視船3隻を供与、南沙諸島の領有権を中国と争うフィリピン、ベトナムにも巡視船供与を検討している.ただ、ODAによる直接的な軍支援は禁止されており、これを埋める形で昨年度から防衛省による能力構築支援が始まった.
昨年度はインドネシア軍に気象情報分野、ベトナム軍には潜水艦乗組員に対する医療技術の分野で支援を実施.フィリピン政府との間でも支援内容を協議している.とはいえ、「自衛隊が持つ技術をどう伝えるか、ノウハウは発展途上」(防衛省関係者)なのが実情.防衛省は対象国を増やすことで、支援メニューの拡充・検討を急ぐ考えだ.(杉本康士)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130421/plc13042109020003-n1.htm
■自衛隊の機動力強化、原発警護を明示 新防衛大綱の自民案判明
2013.4.23 07:34 産経
政府の新たな「防衛計画の大綱」策定に向け、たたき台となる自民党安全保障調査会・国防部会が作成した提言案の全容が22日、明らかになった.防衛政策の新概念として、部隊運用を重視する現大綱の「動的防衛力」を発展させ、機動力を強化する「動的機動防衛力」構築を打ち出した.憲法改正による集団的自衛権行使や国防軍創設も明記.ミサイル発射基地への攻撃能力保有や核抑止戦略の研究も盛り込んだ.
提言案は、「基本的安全保障政策」について自主憲法と国家安全保障基本法の制定を提起、安全保障基本計画の作成も促した.基本計画づくりを主導する国家安全保障会議(日本版NSC)の設立を求め、「国防の基本方針」の見直しにも言及している.
「新たな防衛力の構築」で動的機動防衛力を特記.中国、北朝鮮を念頭に民主党政権が採用した「動的防衛力」構築で、情報収集・警戒監視・偵察活動(ISR)の機能強化は進んだものの、部隊を緊急展開させる輸送力や米海兵隊のような水陸両用戦能力などは手つかずのため、装備を伴う機動力強化に重点を置く.あらゆる事態に対処できる「強(きょう)靱(じん)な防衛力」を新概念とする案もある.
具体策となる「防衛態勢の強化」は中国と北朝鮮への対応を重視.対中では尖閣諸島(沖縄県石垣市)奪取に備え、領域警備法整備など「隙間のない対応」を可能とするソフト面の検討を最優先に掲げた.北朝鮮のテロ・ゲリラ攻撃を防ぐため、自衛隊による原子力発電所の警護も明示した.
核・弾道ミサイル攻撃への対処能力では「核抑止戦略の調査研究」も挙げた.米国の「核の傘」による拡大抑止力を期待しつつ、その能力を補完することを念頭に、日米安保体制の強化策として敵基地攻撃能力の保有を例示した.
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130423/plc13042307350008-n1.htm
■米国防大学国家戦略研究所、中共に関する調査報告書を発行
発行されたのは↓
"Chinese threat and retaliation signaling
and its implications for a Sino-American
military confrontation"
http://www.ndu.edu/press/lib/pdf/china-perspectives/ChinaPerspectives-6.pdf
目次は次の通り.
Executive Summary
Introduction
The Record: Beijing’s Use of Military Force
China’s Crisis Decisionmaking Process and
Crisis Management
Signaling the Intent to Employ Military Force
China’s Warnings Calculus
Signaling Case Studies Taiwan
Analyzing Beijing’s Signals Things to Consider
Conclusion A Hypothetical South China Sea
Signaling Scenario
Appendix 1. Chronology of the 1978 1979 Sino-Vietnamese
Border Crisis
Appendix 2. Chronology of the 1961 1962 Sino-Indian
Border Crisis
Appendix 3. PRC Signaling Over Taiwan: 1991,
1995,1999, 2003-2004
Notes
Acknowledgments
About the Authors
無料で手に入ります.ぜひどうぞ
http://www.ndu.edu/press/lib/pdf/china-perspectives/ChinaPerspectives-6.pdf
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
──[不思議]→[金属]───────────────────────
★明治43年の大逆事件の際、警察は容疑者の家で金属で出来た不思議な箱を見
つけ「新型爆弾だ!」と大騒ぎになった事がある.実はその四角い金属はま
だ日本ではほとんど知られていなかったコンビーフ.
From:荒木肇
件名:「大和朝廷」はなくなった──昭和と平成の教科書を比べて(17)
2013年(平成25年)5月1日(水)
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□はじめに
いよいよ始まったGW、いかがおすごしですか.好天に恵まれた29日、昭和天皇陛下のお誕生日を記念して生まれた「みどりの日」.私は千葉県千葉市若葉区にある陸上自衛隊下志津駐屯地の創立記念日にうかがってきました.
駐屯地はJR千葉からさらに成田線で3つ目の四街道駅から徒歩15分です.あるいは一つ手前の都賀駅からも歩けます.どちらの駅からも無料のシャトルバスが走り、一般の来場客も駅前にきちんと並んでお待ちになっていました.高射学校総務課によれば来場者はおよそ1万7000人とか.
式典は10時半に国旗掲揚から始まり、11時からは戦闘訓練展示が行われました.下志津駐屯地は昔の陸軍航空学校から始まり、広大な用地を誇り、初めての国産野戦砲30年式速射野砲の試験射撃も行われた由緒ある土地です.いまはそこに陸自高射砲兵将校達の揺籃(ようらん)の地である高射学校が駐屯しています.
一般の駐屯地と異なり、なにぶんミサイルやロケットを主要装備とする高射特科です.まさかミサイルに空砲もなく、隊員たちの創意工夫が試されます.それがありました.演習場の片隅に大型クレーン車が停まっています.それがスルスルと赤い航空機(仮想敵)を吊りあげて、「発射〜!」の声とともにワイヤーにぶらさがったミサイルが撃ち落とすと言う趣向です.見事でした.
▼朝廷から政権へ
『天皇の祖先を中心とする大和朝廷は、伝説では九州の日向地方からきたというが、おそらくは大和平野の南部におこったものであろう.この大和朝廷は、比較的短期間に、畿内を中心に東は中部地方から西は九州までを統一した.
統一の時期については、邪馬台国が大和にあったとするか、北九州にあったとするかによって異なってくるが、いずれにしても、朝鮮半島に進出する4世紀の中ごろには、日本の統一はおわっていた.』
と、昭和の教科書には書かれている.
これが平成の教科書では大きく様変わりした.まず「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国を話題にし、所在地を九州北部と近畿説を紹介し、『のちに成立するヤマト政権に・・・』と、なんと大和がヤマトになり、朝廷が政権に変えられている.
『この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という.古墳はおそくとも4世紀の中ごろまでに東北地方中部にまで波及したが、これも東日本の広大な地域がヤマト政権に組みこまれたことを示している.』というのが平成の書きぶりである.
中学校教科書でも、「巨大な墓とヤマト王権」と書いている.これらはどういった研究の成果で変化したのだろうか?
平成10(1998)年に告示された中学校学習指導要領では、『大和朝廷による統一を通して理解させる』とされていて、ふつうは「大和朝廷」を使うことが多い.しかし、近年では、朝廷というのは天皇が政治をとる場所であること.また、天皇を中心とした国家が成立してはいない、そうであるなら用語として「大和朝廷」は不適切である.こうした事情から、教科書は指導要領に先行して「政権」を使っているのだ.
いったいいつごろから天皇という称号が用いられたのだろうか? 最近の研究では7世紀初めの推古天皇に、有力な説としては天武天皇の頃には成立したとされる.だから、4世紀から5世紀にかけての大王(おおきみ)を中心した諸族政治連合体を表す言葉として「政権」のほうがふさわしいと考えられている.
ヤマトという名称については、8世紀後半に成立した養老律令に初めて出る行政区画としての国名だから、やはりふさわしくないだろうとされた.それより前は、「倭」とか、美称としての「大倭」が使われている.そして、養老律令以後の行政区画としての「大和国」と4〜5世紀の政治権力の中心範囲とは異なっていることは確かである.そこで、カタカナ文字の「ヤマト政権」とか「ヤマト王権」とか呼ばれるのがふつうになった.
▼政治連合の成立の背景
中国の史書によれば、2世紀の後半には「倭国に大乱が起きた」とされる.その後、卑弥呼が魏に使いを送った(239年).そして、その頃には畿内に前方後円墳が造られるようになる.当時の日本では鉄を朝鮮南部の伽耶(:かや、あるいは加羅:から)から入手していたらしい.それが半島北部の高句麗が強大化し、半島の中西部にあった百済(くだら)を圧迫した.さらには、中東部の新羅(しらぎ)が勢力を伸ばし、両方が伽耶に南下してくるといった事態が起きた.
4世紀半ばには百済は倭(ヤマト政権)に救援を求めてくる.高句麗の攻撃である.この要請を受けて大王はヤマト政権に連合する各地の豪族たちに連合軍への参加を呼びかける.日本軍は朝鮮半島に出撃した.
そうした証拠は朝鮮半島にある広開土王の石碑などでも明らかである.こうした行動に各地の豪族たちが加わった動機はといえば、鉄の入手に期待をかけてのことだっただろう.鉄製の武器だけではなく鉄製の農具は、さらに大きな生産の伸びを約束するものだったからだ.
▼稲荷山古墳出土太刀の銘
埼玉県には古墳が多い.埼玉(さきたま)古墳群などと言われる場所もある(埼玉県行田市).県の名称もそこからきているくらいである.その古墳群の一つ(稲荷山古墳)から1978(昭和53)年に一振りの鉄剣が出土した.
その剣に金象嵌(ぞうがん)の銘があった.「辛亥年(しんがいのとし)」とあり、「獲加多支鹵大王」(わかたけるおおきみ)と読めた.辛亥の年とは西暦の471年であり5世紀の後半になる.
また、この判読によってそれまで読めなかった熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土していた剣の銀象眼の文字「獲□□□鹵大王」も「わかたけるおおきみ」と読めることになった.これによって、5世紀後半には関東から九州にいたる広い地域で連合政権が形成されていたことがわかった.
昭和教科書には船山古墳から出土した剣が写真で載せられ、『治天下(ケモノヘンに夏)□□□歯大王世・・・』としている.これは稲荷山から出土した発見の前だからである.平成教科書では、読解の成果が示されている.
それを写してみる.『(表)辛亥の年七月中、記す.ヲワケの臣、上祖、名はオホヒコ・・・』、裏面には『世々、杖刀人の首と為り、参事し来り今に至る.ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、・・・』とされ、この墓に葬られた人物がワカタケルと称した大王に仕えていたことがわかった.
▼高句麗との交戦
高句麗の都は丸都だった.現在の中国吉林省集安市にあたる.そこには好太王(広開土王)の事業を記した石碑がある.その碑の記述によれば、『西暦391年に倭が海を渡って百残(百済)を破り、新羅を□□し、自分の臣民となしていた』という記述がある.
これは平成教科書の脚注である.また、313年に高句麗が楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしたことが書かれ、朝鮮半島南部には馬韓・弁韓・辰韓というそれぞれ小国の連合が形成されていたと記してある.
一方、昭和の教科書では、『半島の最南端部は統一が完成しないうちに大和朝廷の支配下にはいった.大和朝廷はここを任那(みまな)と名づけて半島経営の根拠地とし、百済・新羅を圧迫するとともに、南下してきた高句麗の軍と戦った』とし、任那には脚中で、わざわざ『この地を支配するために設けられたのが任那日本府である』と書いてある.
しかし、現在の平成教科書にはこのくだりはなく、「任那日本府」も登場しなくなった.研究のおかげで、実在があやしいとされるようになったからだ.
興味深いことに平成教科書では、このとき初めて日本軍が高句麗の騎馬軍団と出会ったことが指摘してある.
『高句麗の騎馬軍団との戦いは、乗馬の風習がなかった倭人たちに、いやおうなしに騎馬技術を学ばせ、5世紀になると日本列島の古墳にも馬具が副葬されるようになった』とし、脚注では「騎馬民族征服王朝説」もあることを明示している.
(以下次号)
(あらき・はじめ)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
今回のテーマは【もっとよい方法】です.
多くの人が「もっとよい方法はないか」と考えます.いまできることをやら
ないでいるのに、もっとよい方法などありません.
ですから、いま自分ができる最善を尽くすことが大切であり、いまできるこ
とをやるほうが、「もっとよい方法」より成果が上がるのです.
■仕事ができる人の心得(増補改訂版)
P.237 No.1306 【もっとよい方法】
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ありません.考えると、着手が遅れる.今、出されている方針を実
行して、現場で起きる問題をクリアして、それから次にあるもので
す.やる前に次のことを考えない.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
阪急コミュニケーションズ『増補改訂版 仕事ができる人の心得』
◎「社長と幹部と社員のカン違い」から目を覚ませ!!
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2013.5.1
──[松本零士]→[宇宙戦艦ヤマト]─────────────────
★宇宙戦艦ヤマトの主人公は「古代進」兄は「古代守」だが、松本零士がそれ
よりずっと昔に書いた漫画『光速エスパー』の主人公の名前も「古代すすむ」
で、亡くなった義理の兄が「古代まもる」.
【東京】北朝鮮―“誇り高き国”の民の笑えない話 都内のセミナーで“地上の楽園”話を綿々と披露[05/02]
1 :壊龍φ ★:2013/05/02(木) 19:20:27.88
ID:???
北朝鮮―“誇り高き国”の民の笑えない話(宮塚利雄)
先月、都内のある団体が主催したセミナーに、パネリストとして参加した.このセミナーは北東アジア、朝鮮半島情勢について、
日本、北朝鮮、韓国出身の専門家の視点からそれぞれの意見を述べるもので、日本人2人、在日韓国・朝鮮人3人の
パネリストで構成されていた.
私が最初に意見を述べた後、朝鮮大学校の元教授という在日朝鮮人が発言した.彼は開口一番、「私は宮塚さんの意見に
反対です」と、カウンターパンチをくらわし、「宮塚さん、世界に北朝鮮という国はありません.わが国は朝鮮民主主義人民共和国
です.呼ぶときは“共和国”です」と主張するのである.
ところが、彼の後の発言者が皆、「北朝鮮」と言っては「共和国」と何度も言い直すものだから会場からは失笑が漏れる始末.
それでも彼はめげない.「北朝鮮は国際社会から孤立する愚行を犯している」との発言には、「国際社会って何ですか」と語気を
強めて、糾(ただ)してくるのだ.
そして返す刀で「わが国に税金がないのはご存じですよね.医療と教育は無償です」などと、もはや誰も信じていない“地上の
楽園”話を綿々と披露するのである.
実はこの人、講師控室にいたときに私のレジュメをまじまじとみていた.
レジュメといってもA4の紙2枚に「父にはこの“ゆすり・たかり交渉”術のみ教わったのだ」「私の辞典に“ただ(常に支援を要求する)”
という言葉はない」などと、金王朝3代を揶揄(やゆ)した風刺漫画などを貼っただけのものである.どうやらその内容が彼をいたく
刺激したらしい.
彼の祖国では金正恩(第1書記)がミサイルや核で世界を恫喝(どうかつ)している間にも、化学肥料ではなく、人民に「人糞
(じんぷん)肥料」を作るための原料である、藁(わら)や人糞の供出を義務づけている.北朝鮮に商用で行った日本人貿易商には、
食用にするのか「三つ葉のクローバーの種」を無心したり、さほど豊かとは思えないモンゴルにまで食糧支援を求めるありさまなのである.
いつまでも続く祖国礼賛話に会場は凍りつき、あぜんとするばかりであった.
msn産経ニュース: 2013.5.2 08:35
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130502/kor13050208450001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130502/kor13050208450001-n2.htm
■伯国製兵器の米国向け(4月29日)
兵器の生産は、前大統領ルーラ政権時に80%の成長を示し、国際社会問題となっ
ている.中でも極端に多いのは西部劇の本場であるアメリカ向け輸出である.80%
を占めるその数字は787.3万個といわれ、ルーラ政権以来は187%の高度成長を示
している.
これ以外ではアルゼンチン向け21.5万個、パラグアイ15.5万個、イエーメン11.2
万個、ドイツ10.9万個、ベネズエラ10.2万個.兵器種類別では、拳銃593万丁、
小銃298万丁.今までの兵器輸出の中で、最も売れ行きの良かったのは米国向け
の回転式拳銃タウルス410であり、FHC時代には240万丁であったが、後のルーラ
時代には520万丁という.
http://melma.com/backnumber_40007_5813161/
From:家村和幸
件名:武士道精神入門(10) --武士たちが遺した教え:山鹿素行『武教小学』--
2013年(平成25年)5月3日(金)
▽ ごあいさつ
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
今回は「武士たちが遺した教え」の第六回目といたしまして、山鹿流兵学の祖・山鹿素行が「武士が幼少から守るべき日常生活の規範」を説いた『武教小学』を紹介します.
これは「武士の一人ひとりがいかにして自己を治めるか」について、山鹿素行が常日頃から述べていたことを弟子たちが書物にまとめたものです.
長文であるため、本メルマガでは主要な部分のみ抜粋して紹介いたします.なお、日本兵法研究会ホームページ「武士道精神」のコーナーに『武教小学』の全文を掲示しましたので、是非ご一読ください.
日本兵法研究会ホームページ
http://heiho-ken.sakura.ne.jp/
それでは、本題に入ります
【第10回】武士たちが遺した教え:山鹿素行『武教小学』
▽ 武教小学序
農業・工業・商業は、天下の三つの宝である.武士が農工商の働きもないのに、これら三民より上に位置づけられているのは、他でもない、自らの身を修め、心を正しくすることによって国を治め、天下を平和に保つからである.
(中略)
学問をするのは、物を格(ただ)して知を致す(執着せず、道理に徹して取捨選択し、今の世に適用させる)ためであって、異国の習俗を真似するためではない.ましてや、武士となるための道は、その習俗のほとんどを異国から学ぶ必要がない.日本の武の教えを幼児の時から習い、その習いが智恵と化し、心となるように目指したことこそが、先代の聖人たちの実体である.
(中略)
武士は君主からの俸禄で食っていながら、三民の長という身分にある.その業をなすのに相応しい外形、行為、知識を正しくするように努めなければ、「天の賊民」である.これは、人として最も恥ずかしいことである.
(後略)
▽ 夙起夜寐(しゅっきやび=朝早く起きて、夜には寝る)
武士としての作法とは、朝早く起きて、手を洗い、口をすすぎ、髪をなでつけ、衣服を正し、用具(刀、扇、火打袋など)を身に付け、気勢を充実させて平静を保ち、君主への恩と父母への情を一つのものと捉えて、今日の為すべき家業(代々の職業)についておもんばかることである.
そして、この身体は全て父母から受けたものであるから、それを大切にしてあえて損なわないのが「孝」の始まりであり、一人前の人となって為すべき道を務め行い、後世にその名を残すことによって、父母の誉れを世に顕(あらわ)すのが「孝」の終わりであることに思いをいたすのである.
その後、家事を示し、来客があれば面会し、君主に仕えるときは速やかに出仕し、父母の元に行くならば、機嫌を伺い、安否を察する.出仕したならば、自分の役職に専念して無責任なことは言わず、年長者や上位にある人は、父母のごとく敬い、謙虚な気持ちで人と争わない.
文の道をもって友と会合して互いの志を助け合い、そうした友を我が人格の形成に役立てる.自分にとって有益な人を友とし、知らない事を問うて教わり、よく信じあい、偽らず、そして、常に武士としての正義を思い、怠らない.こうしたことが、朋友と交わる道である.
仕官する者は、朝は人より先に出て、夕べは人より後に帰るようにせよ.帰宅後は、まず父母に逢って気持ちを平静に保ち、嬉しそうな声で父母を安堵させる.そして、暑くないか、寒くないか、体で具合の悪いところは無いかなどを問い、擦ったり掻いたりしてあげるのである.
それから、居間に入って席に着き、留守の間にあったことを問う.急いでやるべきことと緩やかにやればよいことを判断し、それに応じて事を行う.
今日なしたことを、よく我が身にかえりみて、過ちがあれば反省し、重ねてしないようにする.
暇があれば、古来からの書物などを見て、武士としての正しい道について考え、義と不義の行いを知る.
日がすでに没していれば、夜の警戒(防火や不測の事態への対処)をする.
寝間に入って、気を休め、体をくつろがせ、家に仕えている士卒・下人にも体を安んじて休ませるようにさせる.
▽ 燕 居(えんきょ=一日中、自宅に居ること)
(前略)
武士は君主に仕えていても、役職に応じてそれなりの時間はある.さらに、不幸にして未だ仕官が叶わず、あるいは父母が早く死没したり遠く離れたりして、朝夕の勤務を得ることがなければ、尚更のこと一日中、自宅にいることが多い.それに対してその志が怠惰であり、家業を慎まなければ、人としての値打ちがなくなり、ほとんど鳥や獣と同然になる.
(中略)
早くに朝食をとる.辰の上刻(午前8時)を朝食の時として、手を洗い、口をすすいだ後に、剣術、弓射、鉄砲、槍を習う.これらは皆、骨節を整え、身体を正しくする手法である.そのため、師匠の元へ行き、又は師匠を招聘(しょうへい)し、鍛錬を怠ってはならない.久しく怠れば、手足が自由に動かず、骨節が相応じず、身体も軽さを失って馴れず、武士としての適格性を欠くことになる.なお、時間があれば書を読み、武義を論じ、兵法の講義に参加し、武器についてよく見て嗜(たしな)むようにせよ.
(後略)
▽ 言語応対
言語や相手に対する受けこたえは、その人の意志に従うところのものであり、戯れに言ったことでも、その人の思慮から出てきたものである.武士の言語が正しくなければ、その行いも必ず乱れ、狡猾(こうかつ)なものになる.弱々しい物言いや、卑しく下品な会話などは、厳に慎まねばならない.
(中略)
武士がつねに語るべきことは、義と不義についての論、古戦場とそこでの名将・良将の偉業、古今の義勇の士の行跡、各時代の武義の盛衰などであり、これらについての議論を通じて今日の良くない点を戒めるべきである.
(後略)
▽ 行住座臥
(前略)
武士たる者は、行く時も、留まる時も、座っている時も、臥せている時も、少しの間でも「武」の心を失うことがあってはならない.そうでなければ、非常事態が起きたときに必ず平常心を失ってうろたえ、その日まで怠らず勤めてきたことも、その一事において全て消滅してしまうのである.非常事態がいつ来るかを知ることはできないのだから、いかなる時も警戒を怠ってはならない.
(後略)
▽ 衣食居
粗衣や粗食を恥ずかしがり、立派な住居を好む者は、志士(道に志ある人物)ではない.
衣服と食事と住居には、それぞれ分限(分相応のもの)がある.これら三つが分限を超えるならば、度量(程よくすること)と相違し、費用がかさんで財産が尽き、武備(刀剣や鎧甲など武士としての備え)に充当できなくなる.また、これら三つが分限に及ばないならば、志にも必ず吝嗇(りんしょく=卑しく、けちけちしている)があり、これまた正しいものではない.よくその節を守ることが、武士として大切な心がけである.
(中略)
食物は粗末なものや精米されていないもので用をなせ.ただ、士卒に与えるのと同じものを味わおうとすればよい.
(後略)
▽ 財宝器物
元来、財宝とは貧しい者に与え、貧しい者を救い、貧しくない者には与えず、又賢人を招聘(しょうへい)し、武士を集める為に用いるものである.器物というものは、今日の用事をなすのに不足が無ければそれでよい.
武士たるの道は、その身を主君に委ね、死をもって道を完全に守るものである.これが古人の格言である.
もしも財宝を惜しみ、器物を玩(もてあそ)ぶならば、武義は自ずから失われる.一大事に臨んで自分の家を忘れる事ができず、家のことを切に思うがゆえに、義を棄てて死を遁(のが)れ、人に謗(そし)られて祖先にまで恥を与えることになる.
(後略)
▽ 飲食色欲
飲食や男女というものは、人の大欲として存在する.飲食とは、身体を養い、礼節を行う為にある.色欲とは、子孫を嗣ぎ、情欲を適度に制限する為にある.人は皆、自然のうちに節度をもっている.
武士は農工商の上に立つ「三民の長」であり、その家業はいよいよ重く、その職務は重大であるのだから、どうして慎まずにいられようか.
(後略)
▽ 放鷹狩猟
放鷹や狩猟には、太古の昔から行われていたやり方がある.
田地耕作の害をなす鳥獣は、当然のことながら殺生すべきであるが、武士としてはこれに加えて、地形の様子(険しく狭い場所・遠いか近いか・山や川の形)を知り、諸所の風俗・巷のはやり歌・風説などを見聞してその時代の政務や民心を把握するのである.
自ら水沢や山林に入り、矢玉や剣戟(ほこ)などの武器を用い、四肢を軽やかにして骨節を習わせ、士卒の人材を考え、兵士らの練度を閲するのであり、これらは武士として必ず勤めなければならないことばかりである.
(中略)
武士の為すことは、たとえ遊戯であっても全て「武」に根拠があり、その本と末を十分に計らなければ、粗暴に走ることになる.
▽ 与 受・・・物や金を人に施(ほどこ)し、人から受けること
施しを受けるということは、君臣上下の「義」であり、朋友相互の「礼」であって、武士が慎んで守らねばならないところのものである.
(中略)
受けることが道義的に正しいものであれば、物の軽重に依らず、これを受け取ってよい.
義を欠き、道に外れているならば、いかに多くの俸禄であろうと、それが天下を譲るほどの重みがあろうとも、受けてはならない.
(後略)
▽ 子孫教戒
(前略)
愛恵の情だけにとらわれ、誠の「勇」をもって戒めることができなければ、志のある士・仁をなせる人ではない.
人が幼少の頃、その言動が気の向くままであるのは天然自然なことである.それは、まだ心の主がないからである.その頃から長い月日をかけて段々と習うことで、善と悪の分別が芽ばえてくる.その兆(きざ)しを慎重に観察するのである.
(中略)
また、子供を愛するだけで教えることがなければ、駄々っ子になってしまう.武士が子孫に教え戒めるのは、その知るところを正しくし、その兆しを勇ましくさせ、そのなす事を信頼できるものにさせるためである.
それゆえに、知の発するに及んで正邪を考え、邪悪を戒めて正義を発揚し、勇気を養い、しかも、これがために恐れや威厳を手段としない.些細なことであっても、だましたり偽ったりしない.遊戯では必ず弓矢・竹馬により礼節を習わすようにし、言葉づかいも全て武士としての礼儀や謙譲の気持ちをもってさせる.
(中略)
人が生まれつきもっている気質は、それぞれ異なるものであるから、その軽重清濁を考え、教えや習わしに馴(な)れさせるのである.言語が通じる七歳ごろになったら、よく師を選び、友を考えて、品性を下げることがないようにせよ.
(後略)
【解説】
元和8(1622)年8月、会津で生まれた山鹿素行は、六歳のときから江戸で古典や兵学を学び、九歳から幕府儒官・林羅山(はやしらざん)の下で儒学を、十五歳から幕府兵学師範・小幡景憲(おばたかげのり)の門下で甲州流兵学を学んだ.さらに、十八歳からは神道や国学を学び、二十一歳のときには兵学師範の認可を受けた.
三十一歳から、播州赤穂で藩主・浅野長直の家臣を指導するとともに、江戸で多数の書物を著した.その一つである『武教全書』は、三十六歳のときに著した代表的な兵法書であるが、この巻頭に記されていたのが『武教小学』である.
山鹿素行は、四十五歳のときに自著『聖教要録』で幕府の官学・朱子学を痛烈に批判した罪により、江戸を追われて赤穂へ流謫(るたく)となる.赤穂ではひたすら学問と著述に没頭し、四十八歳のとき、日本の国体についての名著『中朝事実』を書き上げた.
五十四歳で配流が赦(ゆる)されて江戸に戻り、浅草田原町に住んで、研究と著述と講義に晩年を送ったが、貞享2(1685)年9月、病に罹(かか)って六十四歳の生涯を閉じた.
山鹿素行が唱道した武士道精神は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助や幕末の吉田松陰、明治時代の乃木希典大将などに多大な感化を与えた.
(「山鹿素行『武教小学』」終り)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:家村和幸
件名:武士道精神入門(9) --武士たちが遺した教え:宮本武蔵『独行道』--
2013年(平成25年)4月26日(金)
▽ ごあいさつ
皆様、こんにちわ.日本兵法研究会会長の家村です.今回は「武士たちが遺した教え」の第五回目といたしまして、戦国時代から江戸時代への移行期をひたすら剣の道に生きた武芸者・宮本武蔵が遺した言葉を紹介します.
一切の甘えを捨て、厳しい稽古と命懸けの決闘を通じて剣術の奥義を窮(きわ)めた宮本武蔵は、晩年になって自らの生涯を振り返り、『五輪書』『兵法三十五箇条』『独行道』といった書物を遺しました.それらの中から、二刀流の達人・武蔵の人生観や哲学を語ったものを選んでみました.
なお、ここに出てくる「兵法」とは、個人の武芸に重きを置くものであり、このような場合は「へいほう」ではなく「ひょうほう」と読みます.
それでは、本題に入ります
【第9回】武士たちが遺した教え:宮本武蔵『独行道』
▽ 「剣豪」への道 ─ 勝負に明け暮れた日々(『五輪書』冒頭から)
私は少年のころから兵法の道を求め、十三歳になって初めて勝負をした.相手は新当流の有馬喜兵衛(ありまきへい)という兵法者で、これにうち勝ってから、次に十六歳で、但馬国(たじまのくに)の秋山という強力の(ごうりき)の兵法者にうち勝ち、二十一歳で都にのぼり、天下の兵法者(吉岡一門をさす)と数度の勝負をしたが、いずれも勝った.
その後、多くの国をめぐって、いろいろな流派の兵法者に会い、六十数回の勝負をしたが、一度も敗れたことがない.その期間は、十三歳のときから二十八、九歳までのことである.
(中略)
このように勝ち続けたのは、とくに兵法が優れていたからではない.生まれつきの天分もあったかもしれないが、自然のことわりに背かなかったからか、あるいは相手のわざが不足していたためである.
【解説】
戦国武士たちの思想は、いかに勇猛果敢に「戦場の華」として散るか、命よりその誉れが重要なことであり、生き恥をさらしたくないというものであった.この思想はやがて武士道における「名誉」という徳目へと昇華していく.この戦国時代は“天下分け目”の関ヶ原合戦をもって終結する.
この時、十七歳の宮本武蔵は、武勲を立てて名だたる大名に仕官するという夢を抱いて関ヶ原に西軍(豊臣側)の足軽として加わったが、豊臣側が負けたために仕官の道は途絶え、浪人して再起を賭けた.
さしたる武門の出ではないことから、関ヶ原では足軽として“実力不相応”の扱いを受けた武蔵は、諸国をさすらいながら「侍(さむらい)になって出世を望むより、しっかりと武芸を磨いて、天下に名をあげよう」との決意を固めたのであった.
▽ 「剣聖」への道 ─ 広い心で真実を見きわめる(『五輪書』地之巻から)
兵法を学ぼうと思う人は、道をふみ行うやり方がある.
第一に、常に、正しくあり、道理をはずれないこと.
第二に、常に、自分の道を鍛練すること.
第三に、常に、諸芸にたずさわること.
第四に、様々な職業の道を知っておくこと.
第五に、物毎(ごと)の損得(そんとく)をわきまえること.
第六に、あらゆる事において先を見通して動き、考えること.
第七に、目に見えないところを悟って知ること.
第八に、わずかな事にも気をつけること.
第九に、役にたたない事はしないこと.
【解説】
二十九歳で巌流島に佐々木小次郎を倒した武蔵は、大阪冬の陣、夏の陣に浪人隊を率いて豊臣側で参戦(三十一歳)、そして島原の乱にも養子の宮本伊織とともに鎮圧軍として参戦するが、足を負傷して手柄を立てられなかった.(五十五歳)
寛永十七(1640)年、武蔵は熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、禄高三百俵の大番組格となる.(五十七歳)
熊本において生まれて初めて心の安らぐ平穏な日々を迎えた武蔵は、戦いに明け暮れた自分の人生を振り返りながら、武術の奥義を『五輪書』に書き遺した.(六十歳から六十二歳)この書は、朝鍛夕錬の稽古(不断の努力)の大切さについて説くもので、地之巻、水之巻、火之巻、風之巻、空之巻からなる.
▽ 『独行道』(原文のまま)
一、世々の道にそむく事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに依怙(えこ)の心なし
(注)依怙:一方をひいきにしたり、頼ったりすること
一、身をあさく思い、世をふかく思ふ
一、一生の間よくしん(欲心)思はず
一、我事(われこと)において後悔せず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いづれの道にも、わかれをかなしまず
一、自他共にうらみかこつ心なし
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこころなし
一、物毎にすき(数奇)このむ事なし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、身ひとつに美食をこのまず
一、末々代物(しろもの)なる古き道具所持せず
一、わが身にいたり物いみする事なし
一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず
一、道においては、死をいとはず思ふ
一、老身に財宝所領もちゆる心なし
一、神仏は貴し、神仏をたのまず
一、身を捨てても名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず
正保弐年五月十二日
新免武蔵
玄信(在判)
【解説】
『独行道』とは、「独り我が道を行く」ということで、ひたすらおのれの力だけを信じた宮本武蔵ならではの「自省自戒の書」である.この中には孤高の求道者として生きた武蔵の処世訓が二十一ヵ条で述べられているが、これらは武士道の基本となる「己を磨く」という徳に通じる見事なまでの武士道精神である.
この書を執筆した一週間後の正保二(1645)年五月十八日、剣聖・宮本武蔵は、熊本城下の自宅で眠るようにして世を去った.享年六十二歳であった.
(「宮本武蔵『独行道』」終り)
(いえむら・かずゆき)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:長南政義
件名:トーチ作戦とインテリジェンス(10)
2013年(平成25年)4月25日(木)
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軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
トーチ作戦とインテリジェンス(10)
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【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である.
前回は、ルーズヴェルト大統領と駐ヴィシー米国代理大使ロバート・マーフィーとの密談と、ルーズヴェルトがマーフィーに与えた密命について述べた.
トーチ作戦をめぐる諜報活動においては、米国の国務省が実施した諜報活動が重要な役割を果たしていた.ルーズヴェルト大統領は、マーフィーの報告書を読んでマーフィーに目をつけた.ルーズヴェルト大統領は、ヴィシー・フランスにおけるマーフィーのコネクション、および彼の情報収集・分析能力を使おうと考えた.そして、ルーズヴェルトは、1940年7月3日、マーフィーを駐ヴィシーの米国大使館の総責任者に任命した.
運の悪いことにマーフィーは、仏英関係に悪影響を与えたメルセルケビール海戦のあった当日に、ヴィシー政権の複雑な内情を把握する責任を有する、ヴィシー駐在の米国外交官の責任者となり、さらには、ヴィシー政権の内情を報告するためにワシントンに召還されることとなった.
当時、ルーズヴェルト大統領は、マーフィーらから提出された報告書に基づき、フランスがナチスドイツに対する戦争を再開するために最も適した場所がフランス領北アフリカであると信じるようになった.すなわち、ルーズヴェルト大統領が、マーフィーをワシントンに召還した意図は、ナチスドイツに対する北アフリカでのフランス軍を利用した計画の実現可能性を検討することにあったのである.
ルーズヴェルトはマーフィーと会談した際に、フランス軍北アフリカ駐留軍総司令官兼アルジェリア総督を務めるマキシム・ウェイガンに接触せよとの密命を与えると共に、「ウェイガンはその地域において本当に権威を持っているのか?」という点に関し確認を求めた.そして、ルーズヴェルト大統領は、マーフィーに対して、ヴィシーに帰還してフランス領北アフリカを念入りに視察し、その結果を報告するように命じて会談を終了させた.
今回は、ヴィシーに戻ったマーフィーの活動について述べることとする.
【アフリカに無関心だった米国政府機関】
ルーズヴェルトとの会談終了後にホワイトハウスを後にしたマーフィーは、さまざまな米国政府機関が有する秘密文書を閲覧してフランス領北アフリカについての調査を開始した.政府機関の秘密文書を閲読したマーフィーは、米国政府のほとんどの省がアフリカに関心を持っておらず、陸海軍の駐在武官もアフリカに対しおざなりの注意しか払っていないということに気づいた.
そこで、マーフィーは、さらなる情報を得るために、フランス、英国、イタリアおよびドイツで収集されたアフリカに関する文書を閲覧した.しかも、それらの文書は、当然、英語に翻訳されていないものばかりであった.こうして、資料室をひっくり返して得ることができたわずかながらの情報で武装したマーフィーは、ヴィシーへ帰還するためにワシントンをあとにした.
【マーフィーのフランス領北アフリカ調査旅行】
ヴィシーに帰還したマーフィーは、複数の外交チャンネルを使った交渉により、ヴィシー政府からフランス領北アフリカに入る許可を取ることに成功した.そして、それから数週間後の1940年12月18日、マーフィーは、フランスをあとにしてアルジェリアへ向けて出発し、こうして3週間におよぶマーフィーのフランス領北アフリカにおける現地調査任務がスタートした.
マーフィーがアルジェリアに到着した時、マーフィーはウェイガン将軍がダカールに滞在しているという情報を入手した.この情報を得るやマーフィーは直ちに行動を起こし、ウェイガン将軍と会見するためにダカールに向かった.
ウェイガン将軍とその側近たちは、マーフィーに対して、具体的な事実だけではなく、彼らが抱いていた感情や意図まで打ち明けた.ウェイガン将軍らがマーフィーに対して洩らした感情や意図は、ドイツの侵攻の噂や、ドイツ侵攻がもたらす意味に関するものが大半であった.
そして、この噂が、ウェイガン将軍をして、ドイツ侵攻への対抗手段として米国からの何らかの支援を得たいと思わしめる理由の1つとなった.さらに、この噂が、米国とフランス領北アフリカとの間の経済協定締結の可能性を模索する協議の開催へとつながった.
マーフィーは、フランス領北アフリカの主要都市を視察し、大統領に提出する報告書作成に必要な情報を収集して後、この現地調査旅行を終了した.こうして、1941年1月5日、マーフィーは、ワシントンへ赴くためにポルトガルのリスボンに向けてアフリカ大陸をあとにしたのであった.
【マーフィー・ウェイガン協定に隠された真の狙い】
ワシントンへ向かう途中で、マーフィーは報告書を完成させた.この報告書はルーズヴェルト大統領により好意的な評価を得た.報告書を読んだルーズヴェルト大統領は、1941年2月、ウェイガン将軍およびヴィシー政権と経済協定締結交渉を行わせるためにマーフィーを再度、フランス領北アフリカに送り出した.
こうして1941年2月に米仏間で締結されたのが、マーフィー・ウェイガン協定である.当時、フランス領北アフリカは、英国によって、経済封鎖および貿易統制が行われていたが、本協定は、中立国であった米国によるフランス領北アフリカへの輸出を承認する内容であった.
経済協定の条件によれば、米国は、積荷を監視し、輸出品がナチスドイツにわたらないように監視するために、アルジェリア、モロッコおよびチュニジアに食糧管理官を配置することができるかぎり、フランス植民地と貿易を継続することができることになっていた.
さらに、これらの食糧管理官はマーフィーの指揮下で動く副領事を兼務するはずであり、彼らが配置された真の意図は、彼らがフランス領北アフリカおよびフランス本土に関する情報を収集する秘密諜報員として行動することにあった.
副領事の仕事が積荷を監視するという明らかに表面的な任務であったため、ヴィシー政権主席のペタン元帥もウェイガン将軍も含めマーフィー・ウェイガン協定に関わったすべての人間が、これら副領事が本当は諜報員であることを理解していた.つまり、秘密が秘密となっていなかったのである.
これら副領事に関して、マーフィーは自身の回想録『戦士の中の外交官』(原題:Diplomat
Among Warriors)の中で次のように述べている.
「ワシントンにいる先見性のある少数の人間は、われわれがアフリカで進行中のことについて知っていると気づいていた.彼らは、フランスに完全に依存するのではなく、必要不可欠な米国人のオブザーバーの必要性を理解していた.
我々はフランス領北アフリカの5都市に領事館を置き、総勢12人のアメリカ人職員を配置した.しかし、これらの国務省官僚は、彼らの職務に関連する任務のための訓練しか受けていなかった.したがって、いまや我々は、我々が副領事と呼ぶ12人のオブザーバーを任命しなければならないと決断した.そして、この特別な集団は私の個人的な指示に基づいて行動したのである」.
【ウェイガン将軍による特別措置】
蛇の道は蛇という言葉の通り、ウェイガンもマーフィーの行動の真の意図を理解していた.ウェイガン将軍は、平時の外交ではないことを理解していただけではなく、機密情報の保護に関していくつかの特別措置を認めた.
たとえば、米国側は通常の外交用途であっても暗号の使用が認められたり、鍵のかかった荷物であっても査察を受けずに本国へ輸送することができたのである.このような特別措置は、12人の副領事を含む領事館の全職員にまで拡大された.
ウェイガン将軍による特別措置により米国が得た情報収集のチャンスは前例のないものであった.
というのも、米国は、フランス人のみならず、フランス領北アフリカにおいて活動するドイツ人やイタリア人に関しても諜報活動を行い、入手した情報をフランス政府機関のみならず独伊停戦監視委員会による査察・妨害・傍受を受けることなくワシントンに安全に伝達する白紙委任状を与えられたといっても過言ではない状態にあったからだ.
【マーフィー・ウェイガン協定の意義】
マーフィーもマーフィー・ウェイガン協定に基づきヴィシー政権による支援と理解を得ることができた.またこの活動を通じて、米国はフランスを見捨てないというシグナルを暗黙裡に示すことができたのである.
つまり、マーフィー・ウェイガン協定に基づいて米国が輸出する物資やサービスが枢軸国側の手にわたらない限り、米国はフランスと協働し続けるであろうという意志をフランス側に示したのである.
マーフィー・ウェイガン協定が成功したため、1941年春、国務省は、マーフィーを正式に米国アルジェリア領事に任命した.マーフィーの任務には、外交業務のほかに、アルジェリアや「食糧管理官」の職名でフランス領北アフリカでの活動が許可されていた12人の副領事の所在地で展開される秘密情報収集活動を指揮することも含まれていたのである.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:おき軍事
件名:軍事情報 第503号 (最新軍事情報)
2013年(平成25年)4月22日(月)
■「北の軍事挑発には断固対応」米韓両軍が共同声明(130419 共同)
米軍のデンプシー統合参謀本部議長と韓国軍の鄭承兆合同参謀本部議長は18日、北朝鮮情勢をめぐりテレビ会議形式で会談し、北朝鮮のいかなる軍事挑発に対しても断固とした対応を取るとの共同声明を発表した.
デンプシー氏は会談で、「核の傘」による抑止力を含めたあらゆる戦力を用いて韓国を防衛すると約束.鄭氏は「地域における軍事協力」を強化していく考えを表明した.
在韓米軍と韓国軍は3月、韓国が北朝鮮による局地的攻撃を受けた場合、即座に反撃するための共同作戦計画に署名.両氏は今月16日にワシントンで直接会談する予定だったが、北朝鮮の弾道ミサイル発射の動きなどを受けて延期した.
■中国軍想定し初の実弾軍事演習 馬政権
2013.4.17 11:56 産経
【馬公(台湾・澎湖)=吉村剛史】台湾の国防部(国防省に相当)は17日午前、台湾海峡の離島、澎湖諸島の馬公の海岸で、中国軍の侵攻を想定した台湾軍の総合軍事演習「漢光」を実施し、同演習では2008年の馬英九政権発足後初の実弾演習を内外メディアに公開した.
軍備増強を続ける中国に対し、安全保障上の強固な姿勢を示す狙いとみられる.
この日は馬総統自らが陸海空3軍の長官として演習を初めて指揮.自走多連装ロケット弾発射機や戦車、F16戦闘機、成功級ミサイル艦などを投入し、兵士約7700人が参加.約1万発の実弾が使用された.
馬総統は「両岸(中台)関係は60年来で最も平和な状態」とする一方で、防衛努力による「台湾海峡の平和」の重要性を訴えた.
経済面で中台関係の改善を進めてきた馬政権では、毎年恒例の同演習を一時隔年実施に切り替え、実弾演習を控えるなどしたため、野党などから「過度な対中配慮」と批判されていた.
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130417/chn13041712060001-n1.htm
■中朝国境に部隊出動 中国軍、不測の事態警戒(130411 共同)
2013.4.11 20:20
中国人民解放軍が3月に東北部を管轄する瀋陽軍区から北朝鮮と国境を接する中国遼寧省丹東市に部隊を出動させていたことが11日分かった.北朝鮮情勢に詳しい消息筋が明らかにした.部隊は数千人規模とみられ、4月に入ってからも丹東市に待機しているという.部隊の出動は中国東北部への難民の流入など不測の事態を警戒したものとみられる.
一方、消息筋によると最近、中国との国境付近を警備する北朝鮮兵士の数が減った.北朝鮮は米国と韓国の合同軍事演習に反発しており、国内の兵士を韓国との国境周辺に重点配備した可能性があるという.
丹東市からは11日、国境を流れる鴨緑江を隔てた北朝鮮・新義州でヘリコプターから少なくとも50人近くがパラシュートで次々と降下したり、銃を持った兵士が警備したりする様子が確認された.
■ベトナム、米国から対潜哨戒機6機の購入の意向
(2013/04/17 日刊ベトナムニュース)
ブラジルのリオデジャネイロで開催されたラテンアメリカ航空宇宙・防衛(LAAD
2013年)トレードショーにおいて、米国の航空機メーカーであるロッキード・マーティン社の代表は、ベトナム政府が同社から
対潜哨戒(しょうかい)機P-3オライオン(MPA)6機を購入する予定を明らかにした.
13日付ソハが報じた.
対潜哨戒機とは、対潜水艦戦を重視して設計・装備された軍用機のこと.
同社によると、ベトナムは約3500キロの海岸線と約140万キロメートルの排他的経済水域(EEZ)での哨戒(情報収集、監視、警戒任務)を実施し、対潜水艦戦への備えを強化する方針.
なお、P-3オライオンは赤外線前方監視装置(FLIR)など多種多様な捜索用器材を備えるが、武器は搭載されていない.
飛行時の最高速度は時速750キロ、航続距離は4000キロで、連続16時間の飛行が可能となっている.
http://www.viet-jo.com/news/politics/130416082233.html
■シリア、化学兵器を使用か
ウォールストリート・ジャーナル
2013年 4月 19日 10:26 JST
【ワシントン】米欧の政府高官が18日明らかにしたところによると、米情報機関はシリア内戦で同国政府軍が最近少量の化学兵器を使用したという「初めての信頼できる兆候」について検証を始めている.米政府高官4人によれば、証言のほか最近シリアで収集され英国の専門家が分析した暫定的なサンプル・テストから、米情報機関内ではシリア軍が化学兵器を使用したのではないかとの疑念が高まっているという.
ある国連関係者によると、英国とフランスはこの数週間に化学兵器が少なくとも1回使用されたことを示す「確かな証拠」を得て、これを国連と米国に提供した.
しかし米当局者の中には、サンプルは西側のさらなる支援を引き出そうとしている反体制派が偽装した可能性があり、検出された化学物質が政府軍の攻撃で使用されたとは限らないと見る向きもある.これら当局者によれば、米情報機関の見解は一致しておらず、追加試験や分析が必要だという.
米当局者によれば、政府内で見方が分かれていることは、米国の工作員がほとんどいない混乱した戦闘地域からの情報を裏付けるのが難しいことを示している.米当局が少量でも化学兵器が使用されたと判断すれば、オバマ大統領に対しアサド・シリア政権にもっと強硬な行動を取るよう求める圧力が強まるだろう.オバマ氏は、シリア軍が化学兵器を使用すれば、越えてはならない一線を越えたことになると警告してきているが、その場合の対応策については具体的には明らかにしていない.
欧州の情報機関高官や国防当局者は、アサド政権が西側の意向や化学兵器探知能力を探るために、少量の化学兵器を使用している可能性があると見ていることを明らかにした.一部の米政府当局者は、シリアが化学兵器を限定的に利用したことがたとえ確認されたとしても、米国が軍事的な行動を起こすかどうかについては疑問視している.これら当局者は、米政府は終わりのない紛争に引きずり込まれたくないと思っており、軍事行動に対する障壁は高いと語る.
米欧の高官らによると、英政府当局者はシリア軍が化学兵器を一部使用したのは「まず間違いない」と見ているという.英当局者は、シリアによる化学兵器使用の危険性について懸念を高めているとし、シリア政府が使用したのではないかとの不審の念は米政府当局者と共有していると述べる.
ある米政府高官は、米情報機関の間ではアサド政権が化学兵器を少量使用したのではないかとの「疑念が高まっている」と話す.その一方で別の高官は、疑念は高まっているが、情報機関内では「完全なコンセンサスは出来上がっていない」と強調する.
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324309104578431510694834152.html
■シリアの化学兵器使用「証拠」ある=英仏が国連総長に伝達−米紙
【ニューヨーク時事】18日の米紙ワシントン・ポスト(電子版)によれば、英国とフランスは、シリア軍が国内で化学兵器を使用したことを示す信頼できる証拠があることを国連に伝えた.シリアでの化学兵器使用疑惑で、政府と反体制派は、互いに相手側が使用したと主張していた.
外交筋などの話として伝えた.英仏は潘基文事務総長に書簡を送り、土壌サンプル分析や目撃者の聴取などの結果、北部アレッポや首都ダマスカスなどでのシリア軍による神経ガス使用が裏付けられたと説明した.(2013/04/19-11:26)
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013041900358
■米海軍、「レーザー兵器」を艦船に初搭載へ 中東に配備か
CNN 2013.04.11 Thu posted at 17:33 JST
(CNN) 米海軍幹部は11日までに、戦闘艦船に初めてレーザー兵器を搭載する計画を明らかにした.輸送揚陸艦ポンスに2014年初期に配備する見通し.
米国防総省当局者によると、同兵器の実験はこれまで無人機や高速ボートを標的に実施され、破壊するなどの成果を得た.迅速な応戦能力はペルシャ湾での潜在的な敵標的への対処が可能として、レーザー兵器の中東配備を念頭に置いていることを示唆した.
別の同省当局者はレーザー兵器の性能は立証されたとし、初めての配備でも脅威に対応出来るとの自信を示した.
搭載に必要な経費は約3100万ドル(約31億円).しかし、同兵器の発注が将来進めばコスト削減につながると見込んでいる.
米海軍の兵器開発などの研究所責任者は、レーザー兵器は近代兵器の革命の第一歩と形容.ナイフや剣の時代に火薬がもたらしたのと同様の影響力を持つと指摘した.
同責任者は関連データを控え目に分析した場合、レーザー光線の1回の発射は1ドル以下になるとし、ミサイル1発の発射費用数十万ドルと比べ相当な低価であることを主張した.レーザー兵器の導入は米海軍の全体予算の削減につながるとも述べた.
国防総省当局者は、レーザー兵器は艦上改造など特別な処置は必要とせず、多種の艦船上への配備が可能とも指摘.別の当局者は悪天候の際には支障が生じる可能性があるとしながらも、この問題への対応は現有の多数の兵器システムにも盛り込まれていると話した.
http://www.cnn.co.jp/usa/35030737.html
■武器貿易条約、国連総会で採択 武器取引の透明化目指す
【4月3日 AFP】各国が輸出する通常兵器が人権侵害などに使用されないよう国際取引を規制し、武器取引の透明性を高めることを目指す初めての国際条約「武器貿易条約(Arms
Trade Treaty、ATT)」が2日、国連総会で採択された.
反対票を投じたのは、先週も採択を妨害したシリア、北朝鮮、イランの3か国のみだったが、世界でも指折りの武器取引国のロシアと中国、そして主要な武器輸入国であるエジプトとインドなど、23か国が棄権した.
規制対象となるのは、戦車、装甲車、大口径火砲、戦闘機、戦闘ヘリコプター、軍艦、ミサイル、ミサイル発射装置、そして小火器で、これらを合わせた国際取引額は年間800億ドル(約7兆5000億円)に上ると推計される.
条約加盟国は、武器輸出の管理体制を整えることになる.また、輸出する武器が大量虐殺や戦争犯罪、テロ行為や組織犯罪に使用されることがないようにしなければならない.
50か国が批准すると条約は正式に発効する.各国による条約批准は6月から可能で、発効には1〜2年かかる見込みだ.(c)AFP/Andre
Viollaz
http://www.afpbb.com/article/politics/2936866/10530120?ctm_campaign=txt_topics
ATT略年表
●2006年
12月 国連総会決議「ATTに向けて」採択
●2009年
12月 国連総会がATT交渉のための国連会議開催(12年7月)を決議
●2012年
7月 ATT国連会議が決裂
12月 国連総会がATT最終国連会議の開催(13年3月)を決議
●2013年
3月 ATT最終国連会議は条約案採択に失敗.その後、条約案は国連総会で取り上げられ、4月2日に賛成多数で採択される
http://www.komei.or.jp/news/detail/20130416_10893
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:家村和幸
件名:日本陸軍の「覚悟」─ 水際撃滅の徹底へ
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軍事情報別冊
本土決戦準備の真実 −日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか− Vol.19
わが軍はなぜ、本土決戦に水際撃滅を採用したのか?
希少な資料・プロとしての知見を通じ、元2等陸佐がその経緯を
解明します.過去の歴史からいかに養分を吸収するか?の
お手本としてご活用ください.
2012年(平成24年)8月10日(金)
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▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜
・・・敵が来たときに、かねがね勉強しておいた戦略戦術、用兵、
習い覚えた技術によって、うまくこれに勝とうなんて考えても、
それは愚かなことである.諸君は潔く戦って桜の花のごとく綺麗に
散ればよい.それが自衛官、否、軍人の本質であります.統帥の道
は、このように自衛官の本質を理解し、それを部下に理解させる
ことであると思います.・・・(昭和45年 陸上自衛隊幹部学校
での講演にて)
原 四郎(第8方面軍参謀、大本営陸軍部参謀・中佐)
・・・土地や人民を異国に奪われるは日本の恥辱.土地一寸、
人間一人たりとて死守すべし.・・・
藤田東湖(「回天詩史」より)
日本兵法研究会の家村です.それでは、本題に入りましょう.
今回は、第一線部隊に蔓延した自己健存思想を打破して、水際撃滅を
徹底するため、大本営が全軍に示した「覚悟」について、具体的に提示
いたします.
▽ 御前会議における河辺参謀次長の発言「本土決戦必成の根基」
昭和20年6月8日、皇居地下壕で「御前に於ける最高戦争指導
会議」が開かれた.議題は、「今後採るベき戦争指導の基本大綱」
であり、会議の構成員は、天皇陛下、鈴木内閣総理大臣、国務大臣、
枢密院議長、枢密顧問官、陸軍参謀総長、同参謀次長、海軍軍令部
総長、同軍令部次長、宮内大臣であった.この御前会議の席上で、
参謀次長・河辺虎四郎中将は、本土決戦の意義とその見通しについて
の意見を求められ、以下のとおり発言した.
(以下、河辺参謀次長の発言:現代語訳)
・・・敵は対日戦争の短期終結に焦慮いたしている模様でありまして、
在欧兵力の東洋回航にも努力しつつあるが故に、今や近く東亜の各方面、
ことに直接皇国本土への敵の進攻を予期すべき情勢を示すに至りました.
皇国本土およびその周辺の作戦にあたりましては、陸軍は海軍と
合体的緊密なる協同のもと、まず主として航空戦力を活用いたし
極力敵を洋上に撃滅することに努め、その上陸を見る場合におきま
しては、「ガダルカナル島作戦」以来欲するも発揮し得ませんでした
帝国陸軍主力の運用により、敵に決戦を求めうると存じます.
本土における作戦は、従来各方面における孤島等の作戦とその本質
において趣を異にし、今後いよいよ長遠となる海路に背後連絡線を
保持して来攻する敵に対し、その上陸点方面に我が主力軍を機動集中
し、大なる縦長兵力をもって連続不断の攻勢を強行し得ますとともに、
いわゆる「地の利」を得て、かつ忠誠心に燃える全国民の協力をも
期待しうる次第でありまして、これらに本土決戦必成の根基を見出し
うると信じます.
すなわち大体におきまして、従来の離島及び遠洋の作戦における
ものとはおよそ彼我の立場を反対にするという態勢を示すのであり
ます.ゆえに我がひとたび敵上陸軍に対し攻勢を発揮いたしますれば、
洋上、水際、陸上いたるところに全軍を挙げて刺違いの戦法をもって
臨み、敵を大海に排除殲滅(せんめつ)するまで断じて攻勢を中止
することはないという堅固なる信念的統帥に徹し、ここに皇軍伝統
の精華を発揮し、必ず勝利を獲るものと確信致している次第であり
ます.
又、皇国独特の空中及び水上特攻攻撃は、「レイテ作戦」以来敵に
痛烈なる打撃を与えて来たのでありますが、累次の経験と研究を重ね
ました諸点もあり、今後の作戦におきまして益々その成果を期待して
いる次第であります.・・・
(引用終わり)
この御前会議で決定された「今後採るべき戦争指導の基本大綱」
の方針は、「七生盡忠の信念を源力とし、地の利・人の和をもって
飽くまで戦争を完遂し、以て国体を護持し、皇土を保衛し、聖戦
目的の達成を期す」というものであった.
▽ 水際撃滅の徹底『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』
昭和20年6月8日の御前会議における河辺参謀次長の発言から
一週間後の6月15日、大本営陸軍部は第32軍航空参謀・神直道
少佐から沖縄戦に関する報告を受け、さらにその五日後の6月20日
に『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』を参謀次長名で各総軍に通達
した.以下、その全文(現代語訳)を紹介する.
参電第885 本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件
昭和20年6月20日 参謀次長
さきに第一、第二総軍及び航空総軍の統帥が発動されて以来、
本土における作戦準備が各方面で共に著しい進捗を見つつあるのは、
同慶の至りである.
かえりみれば南東方面で敵が反攻を開始して以来、沖縄作戦に
いたるまでの数多くの戦歴からすれば、作戦の成果はいつに首将の
透徹した強烈な統帥思想及びこれを基調として全員に一貫して徹底
された形而上下の作戦準備のいかんに懸かるということを痛感させ
られる次第である.
各総軍が、常に本件を重視して強力なる統帥の下に本土決戦の
大任を完遂することに邁進しつつあるのは、深く意を強くしている
所であるが、第三次兵備に伴う戦闘序列が発令されたこの機に臨み、
さらに左記の主旨に基づく本土決戦根本義の透徹を期したく、
こうした現況に即することの具現に関して、なお一層、各総軍の
深甚なる配慮を要望して命ずるものである.
1 本土決戦は正に字義どおりの決戦にして、上下を挙げて絶大なる
闘魂を振起し、犠牲の如何(いかん)を顧慮せず、徹頭徹尾決勝の
一途に邁進する.
決戦方面における沿岸配備兵団等にして、いやしくも戦況が苦難
であることを理由にして当面の決戦を避け、後退により持久を策する
というような観念は、本土決戦の真義に反するものである.すなわち
本土決戦における帝国陸軍は、軍を挙げて敵の撃滅にばく進すると
いう一途あるのみ.
宜しく自己健存の思想のごときは、これを断乎排撃し、その任務
が明示するところに決勝を期し、各人各部隊の皆が我身を捨てて
敵を撃つという戦法によるべきものとする.
2 本土における帝国陸軍は、敵の来寇を待つ間は決勝準備の態勢
に在るものにして、敵兵が上陸をあえてするのであれば、全面的に
軍を挙げて攻勢を発動して海上及び沿岸において必滅を期する.
沿岸配備兵団及び部隊は、その任務に基づき戦闘の要領を律すべき
であるが、いやしくも要域の領有ないしは時間的持久のような守勢的
観念は、これを根本的に払拭すべきものとする.
この際、高等統帥以下それぞれその任務に基づき、英断をもって
主作戦方面あるいは主決戦方面に対する縦横にわたる戦力の集中機動
を敢行し、もって徹底的に重点形成を策する必要がある.
3 航空及び水上部隊は、挙げて敵を海上に撃滅することを期し、
陸上作戦に任ずるものは、成しうる限り水際における敵の必然的弱点
をあくまで迫求するのを作戦指導の主眼とし、これを沿岸に圧倒撃滅
することを図るべきものとする.
ゆえに沿岸兵団の作戦指導の主眼は、敵が橋頭陣地を占拠する
以前、やむをえざるもその過程においてこれを破砕することにある.
機動兵団の整斎たる機動、又はその展開掩護というものは、
上級司令官の全般の作戦指導に立脚する任務付与によって成立すべき
ものとする.
離島作戦の特殊事情に基づく艦砲射撃に関する戦訓等を重視する
あまり、その配備ならびに戦闘指揮に関して前二項で述べるところ
の主旨に反するものがあるならば、これを是正する必要がある.
4 本土決戦における航空と地上軍との協同に関しては、その根本
観念及び相互の戦闘上の連携において特に高等司令部相互間において
緊密であることを要し、空陸両者が相互に真によくそれぞれの
戦略・戦術上の構想及び作戦指導の計画に関して詳細まで了解し、
総合の戦果をもたらして、真に決戦目的の達成にいささかも遺憾の
ないように万全を尽くすべきである.このため、先ず作戦準備期間
における形而上下にわたる相互の連携協同をもって第一の要件と
すべきである.
(引用終わり)
▽ 『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』起案者・原四郎中佐の回想
この『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』を起案したのは、
昭和20年3月上旬にラバウルの第8方面軍から大本営陸軍部作戦課
に本土決戦の作戦主任者として招致された原四郎中佐であった.
原中佐は、ラバウルで自らが中心になって作成した『剛部隊作戦教令』
の中で貫かれた第8方面軍司令官・今村均大将の作戦・用兵に関する
透徹した信念に、新たに沖縄作戦から得られた戦訓などを加味して
この文書を起案したのであった.
原中佐は、この『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』を貫く作戦思想
について、戦後次のように回想している.
・・・本土決戦は名実共に決戦であり、その決戦地域は水際を含む
沿岸要域であり、内陸における持久作戦は一切考えない.しかも
攻撃作戦であっで、(守勢からの)攻勢転移ではない.遭遇戦
(注:敵も我も攻撃する戦術行動)である.したがって、各総軍の
作戦は沿岸で終わり、沿岸要域の決戦で敗れた総軍はその沿岸要域
において玉砕するものである.このためには、総軍司令官以下の
自己健存思想の打破が絶対必要と考えた.・・・
・・・沿岸決戦は水際決戦であり、後退配備はとらない.敵をして
橋頭堡を設定せしめない、艦砲射撃を混戦によって発揮せしめない、
刺違いの戦法である.・・・
・・・作戦主任者としては、戦闘は軍隊たけでやる.国民を竹槍武装
させて共に戦うなどは全く考えていなかった.国民の戦意高揚とは
別の問題である.・・・
▽ 本土決戦に関する原中佐の透徹した信念
原中佐がラバウルの第8方面軍から市ヶ谷の大本営に転勤して
すぐ、教育総監部第一課からの招きを受け、全国の部隊に示す新たな
教本(マニュアル)『国土決戦教令』を立案するためにラバウルでの
戦訓の話をすることになった.原中佐は、第一課長・吉武大佐や
第一課の課員(中佐・少佐)を前にして『剛部隊作戦教令』の作戦
思想や今村大将の統帥の骨子などについて淡々と語った.
そして最後に、静かな口調で次のように結んだ.
・・・国土決戦において、帝国陸軍は全員玉砕してもよい.日本国民
が残れば、その目的を達したと思います.・・・
この場に列席していた課員・岩野少佐によれば、原中佐は大言壮語
することも、激情することもなく、常に温和で、淡々と口を開くが、
その心底には烈火のごとく激しい情熱を秘めた人であり、維新回天の
大業を発した長州の青年武士たちを育てた松下村塾の吉田松陰を
髣髴(ほうふつ)させる人であったという.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:野田力
件名:コンタクト 〜接敵〜 Part2
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軍事情報特別連載
フランス外人部隊・日本人衛生兵のアフガニスタン戦争
Vol.22
陸上自衛官を志すも挫折.自分が立派な兵士になれることを証明するため
渡仏し、外人部隊への入隊を果たした衛生兵が、最前線で体験した
アフガニスタン戦争の実像をお伝えします.
2012年(平成24年)8月6日(月)
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□はじめに
7月31日、私が駐屯していたFOBトラからフランス軍部隊が完全に
撤収しました.もうFOBトラにはフランス国旗は掲げられていません.
そして、今年中に仏軍戦闘部隊は完全に撤退するそうです.時代が
大きく動いている感じがします.
▼コンタクト 〜接敵〜 Part2
銃撃戦はつづく.しかし、私の位置からは何も見えない.
発砲音を聞き、無線で交信される会話内容から状況を読みとること
しかできない.OMLT、アフガン軍、戦闘小隊、中隊長班は敵弾の
脅威にさらされているのに、私自身は銃弾の飛んでこないワディの
なかでじっとしている.
命の危険を冒している彼らに対し、申し訳ないという思いが
込みあげ、安全を享受している自分に少しイライラしてきた.
冷静になるべきだ.そこで、「今はここで待機するのが自分の役割だ」
と自分に言い聞かせ、落ち着きを取りもどした.もし重傷者が発生
したら、我々医療班は彼らが同情するくらい忙しくなる.
それに、今、最前線にいる仲間のほとんどが、自分たちの置かれた
状況に満足しているだろう.敵と直接対峙する経験は貴重だ.
もし私が、「きみらの立場と私の立場を交換しよう」と提案しても、
彼らは断るだろう.だから彼らに申し訳ないという思いを抱く必要も
ない.ひとつ大口を叩かせてもらえるなら、逆に彼らこそ、陰で暇を
している私に申し訳ないと思うべきだ
“ドゥゥゥン!”
大きな爆発音が聞こえた.
“ドゥゥゥン!”
また聞こえた.二個戦闘小隊のうちの1つ、第3小隊の小隊長が
無線で中隊長に報告するところによると、敵がRPG-7を発射したらしい.
放たれたロケット弾は2発とも外れ、地面に当たり爆発した.
戦闘小隊の同僚にあとで聞いたのだが、ロケット弾が炸裂した
地面には、直径約1.5m、深さ約1mのクレーターができていた.
その同僚曰く、「ここの地中は石だらけで固いのに、こんなに
大きな穴があいた.あんなのがVABに命中したら絶対に助からない.」
“ドゥゥゥン!”
ふたたびRPGの爆発が聞こえた.無線によると、アフガン兵が発射
したものらしい.残念ながら成果はなかった.少しして銃撃もやんだ.
あとで聞いたのだが、この銃撃戦ではOMLTとアフガン軍だけが
応戦していた.戦闘小隊は撃たなかった.小隊長たちが発砲許可を
出さなかったという.実際に直接攻撃を受けたのはOMLTとアフガ
ン軍だけで、彼らは戦闘小隊よりも村に近づいたため、攻撃を
受けたらしい.
「ブラック、こちらサンダー.RPGを持つ敵1名を確認.座標は・・・.」
無線から音声が聞こえた.「サンダー」というコールサインを持つ
35RAPの観測班が、敵のいる地点の地理座標を中隊長に報告している.
離れた観測地点から高性能監視機器で村のなかの敵を捉えたのだ.
「ブラック、こちらソード.敵を視認している.発砲許可を要請する.」
今度は「ソード」、つまりTE(精鋭射手)班から無線が入った.
その敵を狙撃する準備ができたようだ.あとは中隊長が発砲許可を下せばいい.
中隊長が応答する.
「待て・・・.」
「えっ、なんで?」と思った.明らかに敵である人間をたおす
チャンスなんだから、「よし撃て」と言えばいいじゃないか.
少しして、ふたたび無線に中隊長の声が入った.
「撃つな.」
「了解.」
TE班は撃たないことを了解した.命令は命令だ.仕方ない.「待て」
から「撃つな」の命令の間の時間、中隊長は連隊長などの連隊上層部
に許可を申請していたのだろう.しかし却下された.
やがて、観測班が無線で言った.
「RPGを持った敵は建物に入り、見えなくなった.」
しばらくして、アメリカ軍のF15戦闘機が上空を飛び始めた.
ときどき村の真上を低空飛行し、敵を威嚇した.これにより、敵も
村人も皆、屋内に隠れてしまったにちがいない.とりあえず脅威は
去った.
ADU、我々医療班、車両整備班、工兵小隊のVABは移動を始めた.
我々はADU、車両整備班とともに戦闘小隊の後方数百mくらいの荒野
に陣取った.ワディから開けた荒野に出たので、村を眺めることが
できるようになった.工兵小隊はどこか別の場所へ行った.
午後になり、F15がバグラム航空基地へと飛び去り、静かな時間が
やってきた.ますます暇になった.すると、観測班から無線が入った.
「村のなかを約40名の非武装の人々が北に向かい歩いている.さらに
約20名が南に向かい歩いている.」
すごい人数だ.戦闘が始まり、どこかに隠れていた現地民が動き
だしたのだ.彼らにだって、今日中にやらなければならない農作業
などがあるはずだ.足止めをくらって、今ごろ文句を言っているに
ちがいない.
我々と敵との戦闘は、彼らにとっては、台風や洪水のような災害
みたいな感覚なのかもしれない.戦闘が台風のように過ぎ去れば、
普段の農作業を始める.この村に天気予報が存在するなら、
「今日の天気は、晴れのち戦闘、そののち晴れ」のような予報が
報道されるのかもしれない.
静かな時間が長くつづき、退屈の度合いがピークに達してきた.
運転席に座りっぱなしで尻が痛い.VAB後部のオアロ上級曹長と
ミッサニ伍長は、後部扉を開け、外に出て、立ち小便をしたり、
携帯コンロで湯を沸かし、コーヒーを入れ始めた.
とうとう私も運転席上部のハッチを開け、座席に立ち、胸から
上を外に出した.背伸びをし、上体を左右にひねり、コリをほぐす.
広がる荒野や遠くに見える雪山の山脈を眺めた.自然は美しい.
“パパパパパパン!”
“ドドドドドドン!”
突如、村から銃声が響き、OMLTやアフガン軍が応戦した.
5.56mm、7.62mm、12.7mmの発射音が混ざる.
我々の位置からは遠かったので、当たらないだろうと、私は隠れ
なかった.すると、近くの空中で“ヒュン”と音がした.流れ弾が
1発、そこを通ったのだ.自分から約20mくらいの距離に感じた.
若干、離れているうえに、私を狙って撃った弾ではなかったので、
恐怖は感じなかった.しかし、次に来る弾丸が当たると嫌なので、
私は素直に運転席に入った.後部の2人も車内後部に入り、そこで
コーヒーを飲んだ.緊張感のかけらもない.
銃声はすぐにやんだ.無線で観測班の報告が聞こえる.
「負傷した敵が4名見える.」
やった!戦果が出た.負傷した敵は他の敵たちによって、どこか
へと運ばれていった.無線では、負傷の種類や箇所など、詳しいこと
はわからなかった.しかし、少なくとも敵にダメージを与えることが
できた.私の手によるものではないが、嬉しかった.
その後は何も起きないまま、夜になった.OMLTとアフガン軍はCOP
フォンチーに帰還した.我々は、ADU班、医療班、車両整備班の乗員
で、交替で見張りにつき、夜を過ごした.
見張りは、小さな円陣を組んだ3台のVABの周囲をグルグルと
巡回するだけだった.暗視装置で時々周囲を見渡し、近づいてくる
者がいないか、見張った.
結局、なにも起きず、翌朝4時半ころ、暗闇のなかを暗視装置を
使い、我々は皆、離脱した.グリーンゾーンからじゅうぶん離れると、
暗視装置からヘッドライトに切り替え、FOBトラに帰還した.全員
無事で、第3中隊の車両には弾痕は一切なかった.OMLTやアフガン軍
の車両についてはわからない.
今回の任務は、戦闘があったにもかかわらず、全体としては退屈
だった.しかし、本当の戦争ではそういう時間のほうがはるかに
多いのではないだろうか.アクション映画ではいつも派手だ.
イメージと現実は違う.
とりあえず、敵が本当に潜んでいるということを実感することが
できた.しかも惜しみなく撃ってくる.何とか民間人に被害を出さず
に敵を排除できるといい.
(つづく)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
■米の軍機がハッカー攻撃で盗まれる?
http://japanese.ruvr.ru/2013_05_03/112410306/
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130504/amr13050415520004-n1.htm
等によると、米国防総省及び同省の調査に協力したTerremark社の情報提供者は130503、
2007〜2010年にかけて、米軍の無人兵器や偵察衛星開発に携わる「キネティック・ノースアメリカ」社など数社が、上海にある中共軍「6398部隊」のハッカー部隊の攻撃を受け、開発中の兵器に関する貴重な情報が盗まれたことを明らかにした.
盗まれた情報には、戦闘ヘリコプター部隊の配置や能力に関する情報など軍事機密が多数含まれている可能性がある
ペンタゴンはこの件を「深刻な問題」と認識しており、実際に何が起きたかを今後調査するとしている.
⇒明らかになった話を見る限り、大したものは取られていないと推察する.ただ、米という国は「インテリジェンス」に対して我々が想像できないほど神経質な国.報復で中共が被る被害は甚大なものとなるであろう.
■米財団、「支那は軍事増強し、領土をめぐる緊張が高まる」と予測
"China’s Military and the U.S.-Japan
Alliance in 2030: A Strategic Net Assessment"
http://carnegieendowment.org/2013/05/03/china-s-military-and-u.s.-japan-alliance-in-2030-strategic-net-assessment/g1wh
米国の研究機関「カーネギー国際平和財団」は130503、支那の軍事力が2030年の日米同盟に与える影響を予測する報告書をまとめた.
エッセンスは次の通り.
1.「日米同盟は優位を保つが、支那はあらゆる軍事的分野を増強し、領土や資源をめぐる緊張が高まる」という構図が最もあり得るシナリオ.
2.2030年まで支那の経済成長は続き、中共の陸海空軍はいずれも能力を高める
3.なかでも、対艦弾道弾、在日米軍基地を狙う弾道・巡航ミサイル技術が進展する
4.相対的には日米同盟が優位を保つ.そのため支那との間で全面戦争に至る可能性は低い.尖閣諸島をめぐる対立などが深刻な紛争に発展する危険性はある.
⇒この報告書について中共は米に対する敏感な反応を示している.一言で言えば「尖閣問題で日本に味方すれば米は火傷する」との恫喝である.
わが国は、ますます日米同盟を強化し、尖閣への実効支配を進める必要がある.中共が嫌がることはわが国にとって良いことだからである.
■軍法会議復活はわが軍備再生に不可欠.
軍法は軍の背骨をなす機関である.軍律を司どる権威の役割を果たすからだ.
わが自衛隊に軍としての機能発揮を求めるのであれば、軍法会議という法システムが必要不可欠ではなかろうか.
キモは「軍法と司法」にある.
軍法とは、軍向けの特別な法律をいう.その意味でわが国は、武器の使用規定等軍事的合理性から考えると、内容自体に問題あるものが多数あるのは事実だが「自衛隊法」などの「軍法」はすでに持っているといえる.
しかし、軍法を運用する「軍法会議」という法システムが存在しない.この法システム不備こそが問題の本質ではないか?
一般の国内法以外に軍法が必要なのは、国家と個人の関係において、軍人には指揮系統に基づく命令と服従が特別に要求されるためだ.
指揮官の指揮権の根源は、国民の負託であり尊厳性を有している.一般の国内法が、国民全てに適用される(一般権力関係)のに対し、軍法は主として軍人という身分を有する者(特別権力関係)、軍隊の行動に関係する場合に適用される性格を有している.その目的は、軍規の維持にある.
現在の日本では、軍法や特別裁判所としての軍法会議は存在しない.
理由は、特別裁判所の設置が憲法で禁止されているためだ.
そのため自衛隊の全ては、いわゆる国内法の適用を受けている.
強いて言うなら、軍法を軍人に適用する法律と解釈すると、相当する国内法が自衛隊法なのかもしれない.
司法の観点から見ると、自衛隊にも警察に相当する警務隊(いわゆる憲兵)があり、警務隊に所属する自衛官は、警察官同様の司法警察権を持っている.自衛隊の指揮系統とは別に、司法警察業務に関しては、各地の地方検察局の検事の指揮を受けるような変則的な形になっている.
変則的と思う理由は、一般の裁判の主眼は、事実認定とそれに基づく法令や判例の適用だが、軍法会議の主眼は、厳格な指揮命令系統の維持であるべきと考えるからだ.
今の日本の司法制度では、軍法会議の主眼は反映されない.
例えば、上官の命令自体が法令違反であった場合、一般の裁判では命令に従って実行した部下も実行犯として罰せられるが、軍法会議では、命令を下した上官のみが罰せられるという相違が出てくるのではなかろうか?そうでないと、部下は安んじて命令に従えない.
法令上「軍法」という特別な区分をしなくても、特別な権利と義務が要求される軍人(自衛官)に限定した国内法が制定されている(例えば、隊員の6大義務を規定した自衛隊法など)ので、区分上の問題はないと考える.
問題は、司法にある.
検察にしても、裁判所にしても、一般の国内法に基づく裁判は、厳格な指揮命令系統の維持又はそれに伴う軍人の権利の確保ができない.行政処分のレベルでは不十分だ.
従って、特別裁判所としての軍法会議の設置が必要である.ただし、軍法会議としての裁判を軍隊内で全て完結してしまうと、不透明さ、組織防衛、高階級者への寛容さに傾くおそれがあるので、民主主義国における司法面からみた軍法のありかたとして、アメリカの形式が最適と考える.
具体的には、最終審以外は、軍法会議として各軍が所掌するが、最終審では、最高裁に直結しているというものだ.
あるべき状態と現状の差を埋めるために手をつける優先順位は、憲法9条の改正に合わせ、特別裁判所の設置を否定している憲法76条2項の改正が必要と考える.
戦後日本は、元がないのに末だけ作る小手先のごまかしに明け暮れてきた気がしてならない.軍法会議についても同じ事が言えるのではないか?
■米のシリアへの軍事介入
アサッド政権が化学兵器を使用した可能性が強まったとあちこちで噂されている.
実際、証拠が続々と集まっているようだ.
もしとオバマ大統領が「シリアの化学兵器使用を確認した」と口にしたとき、
米は堂々とシリアに軍事介入する口実を得たことになる.
イラクのケースがあるので、今回はよほどしっかりした証拠を持たないと動かないだろうが.それまでは国際世論宣伝戦があちこちで繰り広げられるであろう.
軍というのは、こういう状況に備えて日頃から準備しているもので、
米軍も、大統領の決心がいつなされてもいいように作戦の検討を行なっているらしい.
地上軍が投入される可能性は低いとみられており、選択される可能性が最も高いのは、海上発射の巡航ミサイルや戦闘機によってシリア軍の化学兵器関連施設を破壊する作戦だとされる.
もちろんこういう動きはシリア側も承知しており、化学兵器を国内各地に移動させているとみられる.そのため標的を定めるのは困難との見方も出ており、統合参謀本部議長のデンプシー陸軍大将も議会証言で、化学兵器のある場所を把握できていないため、すべての兵器を押さえることは不可能と述べている.
大将は130430に次のような話もしている.
1.シリア軍は高い防空能力を備えている.仮に軍事介入することになった場合は2011年のリビア内戦時に比べてはるかに困難な任務になる
1.シリア上空に飛行禁止空域を設けるよう求める動きも出ているが、ロシア製対空ミサイルを大量に配備するシリアは(リビアの)5倍の防空能力があり、防空網を制圧して飛行禁止空域を確立するにはより大規模な作戦が必要.シリア側の激しい反撃も予想される.
なお米政府は、イスラエルやトルコ、ヨルダンとの間で、化学兵器の脅威がこれら周辺諸国に及んだ場合の対応や、アサド政権が突然崩壊した場合の緊急措置について、具体的な協議を始めている.
なお、130501のイスラエル「エルサレム・ポスト」紙の報道によると、イスラエルはシリア・レバノン国境地帯で、軍事演習を突然開始した.当初、演習には2千人が動員される計画だったが、合計2万人が参加しているらしい.
これだけ大規模な演習が行われたことは過去数年ない.イスラエル軍当局者は、演習は今週末まで行われるが、中東情勢の変化に対応したものではないと説明している.
シリアが化学兵器を保持するために軍事作戦を展開する可能性をイスラエルは検討しているとされる.
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013年(平成25年)5月6日(月)
From:家村和幸
件名:洞窟式陣地が本土決戦においても必要であったか?
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軍事情報別冊
本土決戦準備の真実 −日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか− Vol.18
わが軍はなぜ、本土決戦に水際撃滅を採用したのか?
希少な資料・プロとしての知見を通じ、元2等陸佐がその経緯を
解明します.過去の歴史からいかに養分を吸収するか?の
お手本としてご活用ください.
2012年(平成24年)8月3日(金)
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▽ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜
・・・各兵団長共に士気昂(たかぶ)り、泣言を言う者なし.ただし、
作戦の思想、敵を恐れる気分が一部にある.損害を避け兵力を温存
する観念が一般的に強い.水際撃滅、決戦思想をさらに強調する
必要がある.(昭和20年6月下旬、第2総軍司令官・畑元帥の
九州視察に同行して)・・・
河辺虎四郎(中将、大本営陸軍部・参謀次長)
・・・敵を過小評価してはならないが、敵ができもしないことまで
憂えて作戦を混乱させるな.敵情に振り回されるのは最悪だ.・・・
フリードリヒ大王(1740〜86 プロイセンの啓蒙専制的君主)
日本兵法研究会の家村です.今回は硫黄島作戦という「特異な
ケース」の作戦・戦闘が、本土決戦という「通常」の作戦・戦闘の
準備にもたらした悪影響について解説いたします.
▽洞窟式陣地が本土決戦においても必要であったか?
フィリピン作戦が開始された昭和19年10月頃から「後退配備
による沿岸撃滅」という考え方に基づいて本土での築城作業に
当たってきた沿岸配備兵団は、ペリリュー島や硫黄島での作戦で
得られた教訓に基づき、九州や関東の沿岸丘陵部に硫黄島方式の
洞窟陣地を多数構築していた.この時点での日本陸軍には、明らかに
「島嶼における作戦」と「本土における作戦」との戦闘様相の違い
を意識しないまま、両者を混同していた.
すなわち、硫黄島の特異性ゆえの艦砲や爆撃の圧倒的な効果を、
地積がはるかに大きな本土においてもそのまま適用してしまい、
野戦陣地を構築すれば十分に有効であったにもかかわらず、多大な
時間と労力を費やして堅固な地下洞窟式の陣地をあちこちに構築
していたのである.
この「野戦陣地の構築だけで十分に有効であった」ということは、
本土決戦準備における沿岸配備兵団の「兵力」と「担任地域の面積」
に対して、米軍が硫黄島と同じ「総弾量」の艦砲射撃を行ったと
仮定し、硫黄島守備隊と本土沿岸配備兵団の被弾状況を比較すれば
容易に理解できる.
硫黄島では、20平方キロ(2,000ヘクタール)の面積に、
21,000名の人員を配置した.これに対し、九十九里浜正面の
沿岸配備兵団で最も重要な正面を担任していた第3近衛師団は
280平方キロ(28,000ヘクタール:硫黄島の14倍)、
平地部だけでも192平方キロ(19,200ヘクタール:硫黄島
の9.6倍)の面積に、14,415名の人員を配置することになって
いた.
米軍の艦砲射撃により9,000発の砲弾が打ち込まれるとすると、
1ヘクタールあたりの配備兵力と被弾量は、硫黄島が10.5人と
450発であったのに対し、第3近衛師団は平地部のみに展開した
場合でも0.75人と32発に過ぎない.つまり、本土決戦が
行われた場合の第三近衛師団の作戦地域における1ヘクタール
(100m四方)あたりの配備兵力と被弾量は、ともに硫黄島の
わずか「14分の1」に過ぎなかったのである.
ここで、大変興味深いデータがある.昭和19年10月、陸海軍は
共同で瀬戸内海において艦砲射撃の効力に関する実験射撃を行って
いる.その結果、1ヘクタールあたり40ミリ砲弾15発、20ミリ
砲弾15発、12.7ミリ砲弾8発、合計38発程度の艦砲射撃で
あれば、教範に準拠した通常の野戦築城による陣地施設には「大なる
破壊を生ぜず、守兵に対し大なる効力を及ぼさない」ということが
実証された.このことから、本土決戦において敵が上陸前に実施する
であろう艦砲射撃に対しては、従来の野戦陣地を構築することにより
我の部隊を十分に防護できることが明らかになった.
それにもかかわらず、本土決戦準備が「後退配備による沿岸撃滅」
という作戦思想で進められていた段階では、九州や関東の沿岸丘陵部
(九十九里浜正面であれば、東金や茂原など)に硫黄島とよく似た
洞窟式の陣地を一生懸命に構築していた.これらは、サイパン島や
ペリリュー島、硫黄島などの島嶼作戦の戦訓がもたらした「艦砲射撃
恐怖症」によって、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いた」
対応であった.
しかも、あまりにも過剰に防護を重視した洞窟式の築城は、敵が
上陸した後の地上戦闘において我が戦力の自由な機動や火力の発揮
を阻害する畏れがある上、敵の毒ガスを用いた馬乗り攻撃に対しては、
むしろ極めて危険でさえあることが、沖縄戦において証明されたの
であった.
▽「自己健存思想」の蔓延
昭和19年10月頃以降の本土決戦準備において、沿岸配備兵団が
「後退配備による沿岸撃滅」という作戦思想に基づき、多大な時間
と労力を費やして硫黄島方式の堅固な地下洞窟式陣地を構築していた
ことは、単に戦闘陣地の構築を遅延させた以上に、第一線将兵の
精神面においても重大な悪影響を及ぼし始めていた.
本土の沿岸配備兵団では、これまでの作戦準備の経緯から、指揮官
以下部隊を挙げて「先ず、いかにして敵の艦砲や空爆による損害を
避け、兵力を温存するか」ということを先決事項として考える風潮
があった.事実、昭和20年7月頃においてすら、洞窟構築にのみ
専念し、組織的な火力を発揮するための戦闘陣地や、指揮・通信その他
の地上施設はきわめて薄弱、あるいは未着手なまま放置されており、
このことは、大本営参謀次長が九州の現地視察を行なった際にも指摘
された.
つまり、各部隊の将兵たちは、敵の上陸前砲爆撃を恐れるあまり、
「戦うための陣地」の準備を忘れ、ただ「生き残るための洞窟」を
必死になって堀り続けていたのである.しかも、現実の艦砲射撃の
効果からは、『十分に偽装し分散された教範どおりの野戦陣地』で
十分に防護できたにもかかわらず、である.
沖縄作戦の新たな教訓からも、このまま米軍の上陸を迎えては、
たとえ上陸前砲爆撃から生き延びたとしても、馬乗り攻撃により
戦わずして多大な損害を受けることは疑いの余地がなかった.
いかにして、第一線部隊に蔓延したこの消極受動的な『自己健存思想』
を打破するか・・・、これこそが、来るべき本土決戦に備える大本営
陸軍部にとって、最大の懸案事項となっていたのであった.
▽国土防衛を戦い抜いた先人の偉業に「心の支え」を求める
昭和18年2月、ガダルカナル島から撤退して以降、東西南北から
の連合軍の包囲圏は逐次狭まりつつあった.これに対処するため、
陸軍は昭和19年2月から昭和20年3月末までの間に、満州から
関東軍(昭和18年当時、16個師団、兵員60万)の現役師団を
全て南方や沖縄・台湾、そして本土・朝鮮半島へと引き抜き、その
穴埋めとして支那派遣軍からの転用師団や戦闘経験の無い新設師団
を充てた.さらに昭和20年6月には兵員の質が低く、装備の充足
も不十分な「根こそぎ動員」8個師団を補充した結果、かつて精鋭
を誇った関東軍も完全な「張子の虎」と化していた.
これに対してソ連は、同年4月6日、翌年には期限切れとなる
日ソ中立条約を延長しないことを日本に通告し、その後、欧州戦線
から戦車や部隊をシベリア鉄道で満ソ国境に転用し始めるとともに、
米国からの兵器供与を受けてウラジオストクやナホトカの港から
米国製の戦車などの兵器を陸揚げして軍事力の増強を図った.
こうして日本が圧倒的に不利となっていた満ソ国境の軍事バランスが
ソ連の対日侵攻を誘発しつつあったが、唯一日ソ間の不可侵を定めた
「中立条約」の存在によって表面上の平穏が保たれていた.
昭和20年初夏、本土はすでに戦争末期の様相を呈しつつあり、
敵の制空・制海の下にその症状は日を追って悪化の一途をたどり
つつあった.同年3月末に米軍がB29により関門海峡に機雷を
敷設し、それと前後して潜水艦や航空機により民間の輸送船を次々と
撃沈した結果、船舶の総量は開戦時の四分の一に激減し、海外から
の輸入が停滞して深刻な食糧不足を招いていた.
一方、国内では打ち続く戦勢の不振、敵機による猛爆撃、国民生活
の逼迫(ひっぱく)などにより、国民の戦意は沈滞しつつあった.
大本営陸軍部・第一部長として作戦立案の主務者であった宮崎周一
中将は、この当時の心境を戦後、次のように述懐している.
・・・このような、ありとあらゆる悪条件の下で、絶体絶命の一戦
に臨もうとするのである.どんな構想の作戦をもって戦わんとするか.
選択の余地などありようはずはない.作戦は連続不断の攻勢.戦法は
航空全機特攻、水上・水中すべて特攻、戦車に対して特攻、地上戦闘
だけが特攻を避けられよういわれはない.頼むは「石にたつ矢」の
念力のみ.恐るべきは自己の内心にきざす疑惑だ.将兵の内心に
わだかまる精神の動揺だ.これが作戦担当の立場におかれた私の
つきつめた心境だった.日夜己れの足らざるを省み、神に祈り、
先人の偉業を偲(しの)んで心の支えを求めるのだった.・・・
宮崎中将が偲んで心の支えとした「先人の偉業」とは何か.
それは、ただ一つ、同じ国土防衛を立派に戦い抜いた「元寇」という
偉業に他ならなかった.
▽本土防衛の義戦『元寇』から得た教訓
元寇は我が国にとって唯一、本土が武力により侵略された史実で
あり、民族興廃の岐路に立たされた危機であった.文永の役では、
福岡地域に大挙上陸を許し、この地を激戦の巷と化した.又、対馬、
壱岐においては、上陸した元軍の残虐行為により、島民に多大な
犠牲者をもたらした.しかし、文永の役によって本土防衛に関する
幾多の教訓を得た鎌倉幕府は、断乎とした決意をもって国土防衛の
基礎態勢を整備するとともに、石塁の構築、水軍の養成など、
文永の役の戦訓を生かした本格的な防御準備を推し進め、かつ、
元軍の来寇時期を的確に判断して、適切な戦力の集中と配置を行い、
完全な待ち受け態勢を完成した.
日本側の全般態勢は、九州地区を最重点として、博多湾沿岸を
中心に約4万の兵力を海岸に直接配備するとともに、中国地区を
本土の第一線として、長門沿岸を中心に約2万5千の兵力をもって
迎撃態勢を整えるものであった.更に京都地区に準備した約6万の
総予備隊も増援のため西進を開始していた.これらの結果、弘安の役
では博多湾岸への敵の上陸を断念させたのみならず、果敢な海上追撃
を行い、14万の敵に大損害を与えてこれを撃退した.
こうした元寇という史実を通じて先人が与えてくれた『本土防衛の
心構え』は、以下のとおりである.
●「来らざるを恃(たの)まず、待つあるを恃む」の主義に徹すべし.
いかなる正面においても、「敵は必ずわが正面に来攻する」こと
を確信し、各正面とも完全な待ち受け態勢を整えておくことが重要である.
●今まさに上陸せんとする敵の喉(のど)元に喰いつくべし.さらに
仮泊中の敵船団を夜間強襲すべし.
積極果敢に前に討って出る覚悟がなければ、敵上陸時の必然的弱点
を捉えることは出来ない.一端地上に地歩を占め、完全に部隊として
戦力化された敵を平地において迎撃することは、彼我の戦力、編成・
装備、戦法(当時においては元軍の部隊密集戦法)から得策ではない.
●真の自衛という道徳的正当性を強靭な後楯として、指揮官率先陣頭の下、
「全軍笑を含んで戦う」べし.
文永の役において、「元軍、対馬の小茂田浜に大挙殺到」の急報を
うけるや、守護代・宋助国は自ら八十余騎を率いて千余の敵を迎撃し、
壮烈な玉砕を遂げた.この際、宋助国以下一族郎党は、群がる敵軍の
中、これぞ男児の本懐とばかりに、笑を含んで斬り込んでいったと
伝えられている.
このように先人たちが成し遂げた偉業から得られる貴重な教訓こそ、
沈滞しがちな気力を充実させ、あらゆる困難を克服させる勇気の源泉
であった.第一線部隊に蔓延した「自己健存思想」を打破する唯一の
方策は、「大本営以下、総軍司令官、方面軍司令官その他各級指揮官
はすべて、水際で戦死する」という覚悟を全軍に示すことであった.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:長南政義
件名:謎に包まれたウィロビーの出自
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軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(24)
1950年11月に起きた「中国人民義勇軍の参戦に伴う国連軍の敗北」を
素材として、朝鮮戦争における「情報の失敗」を検討します.情報を
提供「された」側(高級指揮官や作戦立案者)だけでなく、情報を
提供「する」側にも、失敗への責任はあるのです.
2012年(平成24年)8月2日(木)
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□はじめに
7月28日、株式会社並木書房会長 奈須田敬先生がご逝去なされました.
奈須田先生は、1976年の創刊から2011年3月号をもって
休刊となるまで長年にわたり月刊誌「ざっくばらん」の編集長と
して同誌を発行し、外交・安全保障問題に関し健筆をふるわれて
おられました.
奈須田先生の「政軍関係」に関する論稿は優れたものが多く、
元統合幕僚会議議長栗栖弘臣氏が超法規発言を行い当時の防衛庁
長官金丸信氏から馘首された時には栗栖氏を支持する論陣を張られ、
のちに栗栖事件と政軍関係に関する論稿は『統幕議長が総理に
呼ばれるとき──日本の政軍関係』(原書房、1980年)と
して書籍化されました.また、「ざっくばらん」に掲載された
奈須田先生の論文のうち、秀作の20本が『天下国家を論ず』
(並木書房、2011年 (*))としてまとめられています.
(*)http://tinyurl.com/cxamcaf
筆者は、約6年前に元防衛大学校教授佐瀬昌盛先生のご紹介で
はじめて奈須田先生にお会いし、それ以降も何度かお会いいた
だきいろいろとご教示いただいた思い出がございます.
先生ご自身が太平洋戦争中に反戦的だとして憲兵隊に逮捕され
た話、先生が『日本週報』編集長時代にお会いになられた旧軍人
に関する面白いエピソード、自衛隊に関する故事来歴など、
いろいろ興味深いお話をお伺いいたしましたことは、いまでも
忘れることのできない大切な思い出です.
奈須田先生に最後にお目にかかったのは昨年の11月でしたが、
「頑張ってください」という激励の言葉をいただいたことが昨日の
ことのように思い出されます.
つつしんで、奈須田先生のご冥福をお祈りいたします.
▽前回までのあらすじ
前回の連載で、ウィロビーの家系をめぐる混乱が、ウィロビーの
キャリアを通じてウィロビーを悩ませたことを指摘した.
前回の連載でも指摘したように、ジャーナリストのフランク・クラック
ホーンは、ウィロビーが「常に粋でカスタムメイドされた制服を好み、
片眼鏡を時々身に着けていた」と書いているが、外見から生じる
このような印象に加えて、ウィロビーは1920年代中頃までかなり
ドイツ風のアクセントが強かった.ウィロビーがこのような印象を
意図的に築き上げたか、あるいはただ単に偏見の犠牲者であったか
否かという問題はひとまず置いておくにしても、ウィロビーのユニーク
なバックグラウンドが彼のキャリアに大きな影響を与えていたこと
は確実であるといえよう.
では、ウィロビーの経歴や受けた教育が朝鮮戦争におけるウィロビーの
対中認識や情報分析にどのような影響を与えたのか、という問題を
考えるために、今回から数回にわたり、やや詳しく朝鮮戦争勃発まで
のウィロビーの経歴を見ていくことにしてみたい.
▼謎に包まれたウィロビーの出自 〜ウィロビーは男爵の子息か?〜
筆者は前々回、ウィロビーがドイツ人の父とアメリカ人の母との間に
生まれたと書いた.さらに、ウイキペディアやウィロビーに関して
書かれた書籍の中でもそのように説明されることが多いが、ウィロビー
の出自に関しては未だに謎の多い部分が多いというのが実際のところ
である.
1892年、ウィロビーは、ドイツ人の父であるツェッペヴァイデ
ンバッハ(Scheppe-Weidenbach)男爵とアメリカ人の母である
エマ・ウィロビーの子として生まれた.生誕当時の名前は、アドルフ・
カール・ヴァイデンバッハといった.
この記述が正しいとするならば、周囲から「チャールズ卿」と貴族的
なあだ名で呼ばれていたウィロビーはドイツ貴族の子ということに
なるが、ここで紹介した系譜は、極東軍司令部情報部により公開された
ウィロビーの履歴およびウィロビーの関係個人文書を収蔵している
ゲティスバーグ大学により公表されているウィロビーの略歴に基づ
いた記述であり、ウィロビーの家系の真実は謎に包まれている部分
が多い.
たとえば、フランク・クラックホーンは、ウィロビーがドイツ人の
ロープ製造業者オーギュスト・ヴァイデンバッハとエマ・ラングハ
ウザーの非嫡出子として生まれた可能性があると、1952年の
記事で書いている.
これとは別に、ウィロビーは、彼が自身の父を知らないことと、
彼が孤児であったことをクラックホーンに対し認めている.自身の
父を知らないというきまりの悪い状況のため、ウィロビーは彼が
米国に移住した際に自身のステータスを高めるために貴族という
系譜を捏造したのかもしれない.また、もし実際に彼が貴族の子で
あるとしても、米国移住後のウィロビーがドイツ人貴族としてふさ
わしい地位を否定されたと感じていたかもしれない.いずれにせよ、
いまとなっては、ウィロビーがドイツ人貴族の子であったか平民の子
であったかは不明である.
▼ウィロビーの受けた教育 〜パイロットだったウィロビー〜
ウィロビーが受けた教育は彼が未来の情報将校として活躍する素地を
準備するような内容であった.
ウィロビーは1910年に米国に移住する以前に、ハイデルベルク
大学やパリのソルボンヌ大学で学んだとされている(ウィロビーが
欧州で大学教育を受けたことを疑問視する研究もある).
ウィロビーが欧州で受けた大学教育は言語や人文科学に力点が置かれた
教育で、言語学の学位を得ると共に、フランス語、スペイン語および
ドイツ語といった言語をマスターしたという.
ウィロビーの経歴がはっきりしてくるのは1910年10月に
アメリカに移住した後からである.アメリカ本土の土を踏んだ
ウィロビーはただちに米陸軍に入隊し、1913年まで軍務に就く.
ウィロビーは、1910年に第5歩兵連隊に二等兵として入隊した
後、軍曹まで昇進し1913年に名誉除隊している.
陸軍除隊後のウィロビーは、ハイデルベルク大学およびソルボンヌ
大学で3年間学んだという主張が認められ、1913年にペンシル
ヴァニア州に所在するゲティスバーグ大学に4年生として入学し、
1914年に文学士の称号を得ている.ゲティスバーグ大学在籍中、
ウィロビーは予備役将校訓練課程(ROTC)を修了した.
大学卒業後、ウィロビーは予備役少尉となり、以後3年間、予備役
将校として勤務する傍ら、アメリカ国内の寄宿学校で語学と軍事学
を教えて過ごした.そして、1916年、ウィロビーは予備役少尉
から正規軍の少尉に任命され第6歩兵連隊で勤務した.任官当時の
名簿にはアドルフ・カール・ヴァイデンバッハの名で登録されている.
そして、1917年6月、大尉に昇進したウィロビーは、米国遠征軍
(the American Expeditionary Force)隷下の第1師団第16歩兵
連隊に所属しフランス戦線へ参戦した.
フランスでのウィロビーは、歩兵連隊から陸軍航空隊に転属し、
戦闘機パイロットとしての訓練を受け、同訓練課程を修了している.
ウィロビーの陸軍航空隊将校としての経歴は短期間であったが、
この期間にウィロビーは、のちに太平洋戦争で米国陸軍戦略空軍
司令官として原爆投下を指揮したカール・スパーツ少佐(のちの
大将)の部下として米国陸軍飛行訓練センターで勤務している.
▼スパイ疑惑を受けたウィロビー
日露戦争当時の日本では「露探」(ロシアのスパイ)と疑われた
人物が出たが、第一次世界大戦中のアメリカでもドイツ系アメリカ人
はスパイとみられる風潮があったようで、ウィロビーにもいくつかの
疑惑がかけられた.
たとえば、1917年に、ウィロビーは親ドイツ的感情を持っている
として尋問のためワシントンに召喚されたことがあると指摘する論者
がいるのがその代表例である.
おそらく尋問のため召喚されたというのは真実ではないにしろ、
戦争中に自身の出自がドイツ系であったことが憚られたのは確かで
あり、ウィロビーは第一次世界大戦末期に、ドイツ風のアドルフ・
カール・ヴァイデンバッハ(Adolph Charles
Weidenbach)から母の
旧姓にちなんでチャールズ・アンドリュー・ウィロビー
(Charles Andrew Willoughby)へと改名している.
▼戦間期のウィロビー
あらしのような戦間期、ウィロビーを取り巻く環境もめまぐるしく
変化した.戦間期のウィロビーは、指揮官職、駐在武官、カンザス州
フォート・レブンワースにある陸軍指揮幕僚大学の教官職と、様々な
ポストを経験している.
大学時代に受けた語学教育や第一次世界大戦中のパイロットとしての
勤務にもかかわらず、戦間期にウィロビーが最初に配属された先は、
歩兵部隊であった.たとえば、ウィロビーは、ジョージア州フォート・
ベニングの機関銃教導部隊や、メキシコ国境沿いに展開する中隊・
大隊に配属されている.
1923年、陸軍はウィロビーを軍事情報部門に配属することで彼が
受けた広範囲の教育と言語の才能を活用することとした.1923年
から1928年にかけて、ウィロビーは、ベネズエラ、コロンビア、
エクアドルの駐在武官として勤務した.先に、ウィロビーが欧州で
受けた大学教育でスペイン語をマスターしたことに言及したが、
これらの国々の公用語はスペイン語である.
駐在武官として勤務した際に、ウィロビーはこれらの国々を治める
歴史に名高い独裁者たちと直接接触している.なかでも有名なのは、
ベネズエラの大統領ファン・ビセンテ・ゴメスで、牧童から大統領に
までのし上がった人物として知られている.ゴメスは、1908年に
クーデターで政権掌握後、1935年に死去するまで27年間に長き
にわたり軍事独裁体制を敷き、1918年に発見されたマラカイボ
油田をはじめとする油田開発によって得た莫大な歳入により自国の
軍隊を最新装備で武装し、反対派を徹底的に弾圧し「アンデスの暴君」
と呼ばれた人物である.
興味深いことに、ウィロビーはエクアドルの駐在武官として在勤中に、
イタリアのファシスト政権から聖マウリッツィオ・ラザロ勲章を授与
され、イタリアに対し強い印象を抱くことになっている.
▼フランコ総統を崇拝
「アンデスの暴君」ファン・ビセンテ・ゴメスとの交友やイタリアの
ファシスト政権からの叙勲によっても窺うことができるように、
ウィロビーは独裁者を崇拝する傾向にあった.それを象徴するのが
ウィロビーのフランコ崇拝である.
1920年代のウィロビーはスペインの独裁者フランシスコ・フランコ
総統の崇拝者としても知られており、フランコを「世界で二番目に
偉大な将軍」と呼んでいた.ウィロビーはモロッコでフランコに会い、
マドリードで開かれた昼餐会の席でフランコを讃えるスピーチを行い、
ファラフェン党の事務局長から乾杯の栄を受けている.
駐在武官として一連の勤務を行った後の1929年、ウィロビーは
フォート・レブンワースの陸軍指揮幕僚大学に学生として入学し、
31年には同校の教官として配属され、いくつかの書籍を執筆している.
▼ウィロビーが見せた演劇の才
クラックホーンによれば、ウィロビーは指揮幕僚大学で「演劇同好会
でこれまでロマンチックな役柄を演じた役者の中で最も天性の才能が
ある悲劇役者の1人」として知られていたという.
ウィロビーが持っていたこの役者としての才能は、彼が将来マッカ
ーサーにより最も信頼される幕僚という地位を得るに際し、ウィロ
ビーにとって都合の良い方向へ働くこととなった.
ウィロビーは戦間期に着実に昇進し、1928年には少佐、
1936年には中佐に昇進している.そして、1939年、
ウィロビーはフィリピンに配属されここで兵站将校として初めて
マッカーサーに仕えることとなった.以後十数年の長きにわたる
ウィロビーとマッカーサーとの関係がここから始まることとなる.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
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●北朝鮮が中国に労働者4万人を派遣 4分の3以上の給料を国家に上納
米「シアトル時報」7月2日の報道によると、中国と北朝鮮が締結した合意に基
づき、北朝鮮は中国に第1陣として約4万名の労働者を送り、産業研修生のビザを
使用して中国国内で就労し、米ドルを稼ぐ.職種は縫製、技術員、機械労働者、
建築労働者、及び鉱山労働者など.
そして、「中朝はともに正式に対外ニュースを発表していないが、第1陣の中
国への研修生は数カ月前に既に中国の図們市に到着し」、そのうち140人は中国
の下着生産工場に勤務しているとある匿名を希望する図們商人の談話を引用して
報道した.
韓国「朝鮮日報」はかつて、「丹東の消息筋の談話」として、中国遼寧省政府
と北朝鮮外資導入機関の北朝鮮共同経営委員会は今年4月に労務協定を締結し、2
万人の北朝鮮労働者が丹東で就業することを許可したと報道していた.
吉林省は今年1月に北朝鮮共同経営委員会と契約を結び、2万人の北朝鮮労働者
が図們と琿春一帯で就業することを許可した.北朝鮮が中国に送る約4万人の労
働力の中には、北朝鮮が委託する加工工場の熟練労働者を多く含んでいる.
「ロサンゼルス・タイムズ」によると、中国は国外就労者に許可を出すことは
めったになく、これは北朝鮮に対する外貨提供の援助だと分析している.北朝鮮
研修生の労働収入の大部分は国に属すが、選抜標準は厳しく、政治や家庭背景に
厳格さが求められる.
これら北朝鮮研修生の収入の大部分は北朝鮮政府の口座に入る.相互協定に基
づき、北朝鮮労働者は毎月200─300ドルの給料をもらうことができるが、そのう
ち手元に残るのは50ドル足らずで、残りは全て北朝鮮政府に送金される.
また、「朝鮮日報」によると、北朝鮮政府は研修生の選抜時に「慎重に事に当
たり」、研修生に対して既婚であることを求め、忠実でなければならず、親族が
労働党内に就職していて、ようやく「脱走兵」にならないことが保証される.
韓国政府の知恵袋である「統一研究院」は2日、次のように分析している.
北朝鮮は労働者の輸出を通して、雇用と外貨収入を生み出すことができ、中国
にとっては効率的で安価な労働力を獲得できるので、悪いところは何もない.
一方、「シアトル時報」によると、北朝鮮労働者は中国に歓迎されるとは限ら
ない.以前、北朝鮮の不法労働者が中国の漁船をハイジャックして中国世論の不
満を誘発したことがあるという.
「中国と北朝鮮が労働力派遣協定の締結を公にしないのは、中国国内の世論が
北朝鮮に対して友好的ではないことを心配しているからだ」
長年ピョンヤンに駐在している「環球時報」記者は、北朝鮮人の海外労働者の
状況について、関係者の話やメディア報道は一度も聞いたことがないという.
ある韓国メディアは、北朝鮮は以前、ロシアに鉱山労働者と伐採労働者を送っ
ていたことがあり、リビア、サウジアラビアなどの国にも労働力を輸出し、数百
に上る北朝鮮の女性労働者もチェコの服飾工場と靴工場で仕事をしているという.
韓国の聯合通信社によると、韓国の検察は「国家安全法違反」を理由に北朝鮮
保衛部の女性スパイを起訴した.彼女は2001年から北朝鮮によって中国瀋陽に派
遣され、スパイ活動を展開し、100ドル額のにせ札をつくり、57万ドル相当の人
民元に両替し、2011年に「脱北者」に偽装して韓国に潜入したという.
〔重慶晨報2012年7月3日〕
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電子マガジン《中国最新情報》 No.561 2012年7月31日
いつかはゴールに達するという歩き方ではだめだ.一歩一歩がゴールであり、
一歩が一歩としての価値をもたなくてはだめだ.
(ヨハン・ゲーテ ドイツの詩人)
【1日3分MBA講座:今回のTake away】
1.企業の資金調達には大きく分けて負債による調達と株式発行による調達の
2種類しかない.
2.負債による資金調達の方が株式発行による資金調達よりもコストが低い.
3.資金効率の面から言えば、負債による調達割合を増やすことによって、
平均調達コストの低下が見込まれる.
4.ファイナンス戦略上、負債割合を増やすことは“レバレッジを利かせる”
と呼ばれる.
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2013.5.9
From:長南政義
件名:トーチ作戦とインテリジェンス(11)
2013年(平成25年)5月9日(木)
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軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
トーチ作戦とインテリジェンス(11)
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【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である.
前回は、駐ヴィシー米国代理大使ロバート・マーフィーが、ルーズヴェルト大統領との密談において与えられた密命に基づき、ヴィシー・フランスでどのような活動を行ったかについて述べた.
ヴィシーに帰還したマーフィーは、ヴィシー政府からフランス領北アフリカに入る許可を取ることに成功し、1940年12月18日、フランスをあとにしてアルジェリアへ向けて出発し、こうして3週間におよぶマーフィーのフランス領北アフリカにおける現地調査任務がスタートした.
アルジェリアに到着したマーフィーはウェイガン将軍と会見し、ウェイガンとその側近が、ドイツの侵攻の噂や、ドイツ侵攻がもたらす意味について危惧していることに気づいた.この危惧が、ウェイガン将軍をして、ドイツ侵攻への対抗手段として米国からの何らかの支援を得たいと思わしめる理由の1つとなった.
さらに、この噂が、米国とフランス領北アフリカとの間の経済協定締結の可能性を模索する協議の開催へとつながった.
いったん米国に戻りルーズヴェルト大統領に報告書を提出したマーフィーは、ルーズヴェルト大統領に命じられ、1941年2月、ウェイガン将軍およびヴィシー政権と経済協定締結交渉を行わせるために再度、フランス領北アフリカに派遣された.
こうして1941年2月に米仏間で締結されたのが、マーフィー・ウェイガン協定である.協定によれば、米国は、積荷を監視し、輸出品がナチスドイツにわたらないように監視するために、アルジェリア、モロッコおよびチュニジアに食糧管理官を配置することができることになっていた.
これらの食糧管理官はマーフィーの指揮下で動く副領事を兼務するはずであり、彼らが配置された真の意図は、彼らがフランス領北アフリカおよびフランス本土に関する情報を収集する秘密諜報員として行動することにあった.
今回は、諜報員という裏の貌を持つ副領事の選任経緯について述べる.
【ルーズヴェルト大統領がマーフィー・ウェイガン協定を締結した真の意図】
ルーズヴェルト大統領がマーフィー・ウェイガン協定を締結しヴィシー政権と幅広い政治提携を行った真の理由は、フランスにおける外交的プレゼンスがもたらすインテリジェンス面での価値にあった.
1941年春までに、反ナチスドイツの立場のフランス陸軍の情報部の将校の一団が、ヴィシーに駐在する米国の駐在武官ロバート・ショウ大佐に秘密裡に軍事・政治情報を漏らしていた.
【諜報要員である「食糧管理官」をどのように確保すべきか?】
諜報任務を遂行するためにフランス領北アフリカにおいて諜報要員を確保することが、極めて重要であった.国務長官コーデル・ハルは陸軍省とこの点に関して同意見であり、国務省の「食糧管理官」がフランス領北アフリカにおいてインテリジェンス活動に関する任務を遂行すべきであることに同意した.
食料管理官を選ぶ任務は国務次官補アドルフ・オーガスタフ・バールが行った.ロバート・マーフィーによれば、バールは、「国務省の正規の副領事の限定された人数では、ある程度の不正規活動や危険が伴うこのような計画が要求する専門要員を提供することができない」と認めたという(ロバート・マーフィー『戦士の中の外交官』原題:Diplomat
Among Warriors).
そこで、バールは、国務省が提供することができないこの種の計画に必要な人材を、計画の目的や事態の軍事的重要性を正確に評価可能な陸海軍将校に見出した.
【副領事適格者の人事難:陸海軍にはアラビア語の専門家がいない】
国務省は、陸軍および海軍の情報機関の長を説得し、陸軍および海軍の将校を副領事に任命する案を支援するよう要請した.しかしながら、陸海軍にはアラビア語に精通した将校がおらず、地中海および北アフリカ地域に関する情報を英国およびフランスに依存していた.
歴史は繰り返すといわれるが、9・11テロ事件後、アラビア語の専門家が不足したためその人材確保に苦労した現代の米国陸海軍を髣髴とさせるような話である.
副領事の任務が諜報活動にあるため、なんとかして陸海軍から要員を調達する必要があった.アラビア語の能力に不安があるものの12人の副領事候補者が選ばれた.
国務省は、12人の副領事候補者を、ウォーレス・フィリップの指導下においた.フィリップは、ロンドンで米国商工会議所の長を務めるビジネスマンで、後にウィリアム・ドノヴァンの最初の諜報活動のアドバイザーとなった人物である.
彼らはマーフィーの指示に基づき北アフリカで副領事として任務が遂行できるようにフランスの文化や政治について学んだ.
【誰がスパイである副領事に給料を支払うのか?】
軍人が副領事となってスパイ活動を行うには様々な問題をクリアする必要があった.
たとえば、国務省の管轄である副領事を陸海軍将校の中から任命したことは、行政面で大きな困難が伴った.主たる問題の1つは、軍人が国務省に直属して働くことができないという事実から発生した.
すなわち、陸軍省、海軍省および国務省では予算が異なるため、どこの省が副領事たる将校たちに給料を支払うのか?という問題が生じたのである.いつの世でも問題になる縦割り行政の弊害である.
【軍人たる副領事がスパイ活動を行うことに伴って生じる国際法上の問題】
また、副領事として選ばれた将校たちにとって最も重要な問題であったのは、捕虜となったスパイに関する規定を有するジュネーヴ条約が定めている、軍人の国際法上の地位に関する問題であった.
ジュネーヴ条約は、戦時国際法としての傷病者および捕虜の待遇改善のための国際条約である.しかし、ジュネーヴ条約第一追加議定書第46条に「紛争当事者の軍隊の構成員であって諜報活動を行っている間に敵対する紛争当事者の権力内に陥ったものについては、捕虜となる権利を有せず、間諜として取り扱うことができる」という規定があるため、もし副領事たちがスパイ活動をしていて捕まった場合、ジュネーヴ条約の適用を受けず死刑にされる可能性があったのである.
予算や国際法上の問題に対処するために、統合参謀本部が下した決断は、12人の志願者たちは陸海軍将校であることを辞め、ロバート・マーフィーのもとで国務省のために働くというものであった.
しかし、彼らは、表面上は国務省の下にありながらも、ロンドンにいるウォーレス・フィリップの指導下にあると共に、米国海軍情報局に属する「K機関」のメンバーとして組織された.
【十二人の使徒たちの素顔】
最終的に副領事として選ばれた人々は普通の職業を持つ予備役軍人であった.彼らは軍人としてではなく、国務省の常勤職員として「雇用」されたため、国際法上の問題の幾分かは解消された.また、彼らには「十二使徒」というニックネームがつけられた.
マーフィーがこれら十二使徒たちのボスになる予定であったが、副領事にもかかわらうず彼らはフランス領モロッコおよびアルジェリアの現地駐在領事の外で活動した.現地駐在領事たちは彼らの真の役割や任務について知らされておらず、彼らがそれを知ったのは米軍の侵攻からだいぶ経過して後のことだった.
最終的に十三人が選ばれたが、全期間を通じて活動したのはそのうちの十二人である.マーフィーによれば、彼らは次のような人々であった.
1、スタッフォード・リード(ニューヨークの建築業者).
2、シドニー・バートレット(カリフォルニアの製油業者).
3、ジョン・ノックス(フランスのサンシール陸軍士官学校卒業者).
4、ジョン・ボイド(コカコーラ社マルセーユ支店長).
5、ハリー・ウッドラフ(パリ在住の銀行員).
6、ジョン・アター(パリ在住の銀行員).
7、フランクリン・キャンフィールド(弁護士).
8、ドナルド・コステル(広告業者).ただし、コステルは不正行為のため本国へ送還された.
9、ケニス・ペンダー(ハーヴァード大学の司書で、その後、自身の経験をもとに本を執筆).
10、カールトン・クーン(ハーヴァード大学の人類学者).
11、リッジウェイ・ナイト(ワイン商人).
12、リーランド・ラウンズ(ビジネスマン).
13、ゴードン・ブラウン(モロッコへ旅行経験のある人物).
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:荒木肇
件名:雑穀混用−−陸軍兵食について
2012年(平成24年)8月1日(水)
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□ご挨拶
暑さが日々、増してまいりました.いよいよ夏本番ですが、
皆さまいかがお過ごしでしょうか.私はいわゆる「暑気払い」と
称して、外で仲間と宴席を設けています.仲間、友人には
陸上自衛官も多く、彼らの士気の高さ、心意気をよく感じ、
まさに暑気払い.連日にわたる深夜帰宅も、むしろ楽しいばかり
です.
今回の人事異動、陸自は7月26日と8月1日付で大きな異動が
ありました.西部方面隊の指揮官、幕僚も大きく代わり、九州、
沖縄、南西諸島の防衛に力を入れつつあることを感じます.
西方総監以下、第4、第8の各師団、沖縄にある第15旅団、
方面航空隊、さらには西方普通科連隊(方面総監直轄の離島防衛
を主任務にし、機動力のある連隊)などなどが腕を撫(ぶ)して
いることも分かります.
さて、べー様、昔の陸軍が米麦の差額をどうしていたか・・・と
いうお話は明治17年にさかのぼります.平時の糧食給与は、
聯隊長などに委任経理として現品、金銭で支給されました.
そのときに、米を6割分として現品給与して、差額を現金で支出
したというところが正しいようです.いわゆる独立部隊が「横流し」、
「現金化」ということはしなかったのでしょう.師団経理部などの
操作だったと思われます.
海軍では艦船に現物を搭載し、米麦をそれぞれ支給.下士兵卒は
麦を嫌って、その配合比較などはその艦の主計長に任されていた
ようです.初代陸上自衛隊需品学校長だった瀬間喬主計中佐の著作
によれば、会計検査で麦が余っているので処理に困り、深夜に舷側
から麦を捨てたということもあったようです.
▼「精米ニ雑穀混用の達」
この明治の初めごろ、前回にご紹介した遠田澄庵の名声は高いもの
でした.一気に文明開化を叫び、西欧に追いつけという近代主義者
はともかく、多くの高級軍人や部隊長クラスの中には、遠田を信奉
する者も多くいたのです.副食費は増やせない、兵食の改良はこれ
また無理.麦飯を食わせろという現場の声、そして一向にやまない
脚気の流行.石黒を中心とした軍医行政の高官たちは頭を悩ませま
した.
出した結論は、麦飯は害にならない、各自の好みで食うに任せる.
ただし、脚気を予防するために米食を禁じて麦飯を食えといった命令
は出せない.麦は米より安価である.だから支給した米を減らして、
それを麦の購入にあてて差額を得る.そのお金をオカズの方に振り
向けられれば上等だ・・・.そこで、1884(明治17)年9月
25日には軍医本部からの上申にもとづいて陸軍省令が出されます.
以下、口語訳.
『各隊下士卒の食料は、一日精米六合金六銭でまかなうように
決まっている.しかし、今後は麦、小豆その他の雑穀類をまぜて
支給してもかまわない.なお、精米の定量より生まれる残米代は
時価でさげ渡すから賄料に加えて、魚菜代に使うようにせよ』
明治17年とはどんな世相だったか.秩父事件や加波山事件と
いった自由民権運動による暴動が相ついだ.また、東京の鹿鳴館で
ダンスの講習会が開かれた.暮らしについていえば、東京のパン
卸売業者は54軒、小売業は170軒にしかすぎなかった.また、
松方デフレ財政によって、米価は石(150キロ)あたり4円61銭
に急落していた.明治14年には14円40銭もしていたものがである.
1日6銭の賄代とはよかったのか、悪かったのか.一般物価と
比べてみた.大工の手間賃が1日50銭.畳表の裏返し手間賃が
1畳当たり8銭5厘.質屋の利息が1円に対して月に3銭3厘.
うな重が25銭で昔からぜいたく品.もり・かけが1銭.牛鍋が
3銭2厘.白米の標準米の小売価格が明治15(1882)年に
82銭(10キロ)だから、一日6合といえば900グラム.
およそ7銭4厘ということになる.清酒が1升で中等品8銭だと
いう.豆腐は1丁1銭、ただし大きさはかなりのものだった.
現在のスーパーの充填豆腐のおよそ3倍もあるものだった.
▼森林太郎のドイツ留学
森の経歴はこまごまと書くまでもないでしょう.石見国(島根県)
津和野藩の医官の家に生まれます(1862年).わが国哲学の先達、
西周(にし・あまね)は親戚でした.西はオランダ留学の後、帰国
し陸軍大丞(だいじょう・文官の実質ナンバー1)となり、
1872年に林太郎を東京の自宅に引きとります.年齢をいつわって
12歳で東大医学部の前身、医学校予科に入学し、3年後には大学
医学部本科生になりました.1881(明治14)年7月に満19歳
で医学部を卒業.早熟な秀才でした.文部省留学生として欧州に留学
を望みましたが、成績がさほどよくなく(30人中8位という)、
同級生の小池正直や西のすすめで陸軍軍医の道を歩みます.
この雑穀許可令が出た明治17年8月にはドイツに留学しました.
ライプヒチ大学、ミュンヘン大学、ベルリン大学で学び、1888
(明治21)年9月に帰国.陸軍軍医学舎(軍医学校)教官を命じ
られました.ところが、留学のさなかの1886(明治19)年に
森は、おそらく軍医部の意向をうけて、『日本兵食論』を完成させます.
その主旨は、陸軍に西洋食(つまり肉食)を採用するのは、
兵員数や、年間に屠殺できる牛の数、それによってかかる費用すべて
が現実的ではないというものでした.むしろ、魚や豆腐という高たん
ぱくで安い食材を使うべきだとも主張したのです.同時に、米飯と
麦飯を比べて、米の方がはるかに消化がよいとし、1887(明治
20)年9月には、『海軍の麦食より陸軍の白米食の方がはるかに
よいと補説までしました.
▼森の帰朝講演・海軍への攻撃
森陸軍1等軍医は、1888(明治21)年11月、『非日本食論
ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス』という題で多くの聴衆を集めて講演します.
それは栄養学の大家フォイト(ミュンヘン大学生理学教授)の研究を
もとにした当時としては科学的に最先端の意見でした.つまり、日本食
にたんぱく質が足りないというが、それは誤りだ.日本の成人の1日の
たんぱく質摂取必要量は80グラムでいい(現在の学説では65グラ
ム).(明治20年代の初頭)現在でも、日本食は十分に必要を満た
している.
こうした主張だったのですが、余計なことも言いました.『みだ
りに「ロウスビーフ」に飽くことを知らざるイギリス流の偏屈学者の
跡を追い・・・(現代語訳)』、明らかにイギリス流のうんぬんは
海軍軍医高木兼寛を指しています.高木は薩摩藩の縁から英国に留学
していました.このあたりから、元来、面識もない、2人の明治軍医界
の巨頭たちは対立をやむなくされていったのです.
気が付かれた方もおられるでしょう.森は決して脚気について
話してはいません.日本食においてのたんぱく質の量をいっている
だけで、脚気についてはふれていないのです.西洋食がいい、優れて
いる.だから、食事を肉を中心とする西洋食にしろという考え方に
反対し、わが国の伝統の「よさ」を見直せと言っているのでした.
無批判に洋食化を推進する人々に警告を発している.それだけなのです.
▼陸軍の現場での麦飯採用は実は早かった
1881(明治17)年3月、監獄(現在は刑務所)の囚人たち
の食事が規定されました.「下等の白米4割と挽割麦6割で、副食費
は1日1銭5厘」ということです.ひどい粗食でした.ところが、
これによって、不思議なことに監獄内の脚気が激減、あるいは消滅
してしまいました.これに注目した軍医がいたのです.
大阪鎮台病院長だった堀口利国でした.堀口は考えました.給養も
環境も兵士の方が数等いい.であるのに、監獄には脚気がなくなり、
鎮台では毎年罹患者が増えている.現に、大阪鎮台では脚気の発症率
がおよそ兵員の43%にも達しているのに(明治16年)、監獄では
消滅していたのです.(明治11年から16年まで、大阪鎮台での
発症率では順に58.0、39.5、31.0、23.7、24.7、
42.8.いずれも%)
そこで、明治17年10月に堀口は鎮台司令官の山地元治(やま
じ・もとはる)少将に、脚気予防のため、1年間、兵卒に麦飯を支給
することを上申しました.ところが、部隊長会議にこれが議題に
されると、いっせいに反対の声が上がりました.「麦飯というのは、
下層民が食べる物であり、忠良なる兵卒にそんなものは食べさせら
れない」というのです.それでも堀口の熱意はみなに伝わり、12月
から営内では4割の麦が混入された米麦食が支給されました.
成果は見事にあがりました.翌年にはわずか1.3%しか患者が
見られなくなったのです.1年経った18年の12月には米麦食の
継続が認められ、以後、日清戦争の勃発まで発生率の数字はいつも
1%にも満たないものになりました.
同じようにしたのが、当時の近衛隊でした.近衛軍医長だった
緒方惟準(おがた・これよし)はすぐに近衛都督(このえ・とと
く、司令官)の許可を得て、1885(明治18)年12月から
部隊に麦の3割混入を実行しました.この結果、例年20%以上
で前年には48.7%だった発生率は19年には2.9%に大き
く減り、22年には1%以下になったのです.
事実をいえば、こうした実践と努力で、1891(明治24)年
までには、陸軍の全部隊に麦飯が行き渡るようになりました.
おかげで、1883(明治16)年に発生率25.5%、死亡者
235人(全兵員の2.4%)が、24年には発生率0.5%、
死亡者6人になり、翌年には66人の発生しか見ず、死亡者も0
になるということになりました.
では、こうした事実に対して、中央の陸軍軍医たちはどう考えて
いたのでしょうか.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:家村和幸
件名:武士道精神入門(11)--武士たちが遺した教え:大道寺友山『武道初心集』--
2013年(平成25年)5月10日(金)
▽ ごあいさつ
皆様、こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.今回は「武士たちが遺した教え」の第七回目といたしまして、江戸時代の兵法家・大道寺友山(だいどうじ ゆうざん)が武士の子弟のために書いた武士道入門書『武道初心集』を紹介します.
山鹿素行の弟子でもあった大道寺友山は、この『武道初心集』で太平の世における武士としての基本的な心構えや常日頃から心掛けるべきこと、武芸や学問の学び方などを五十六項目で詳しく書いています.
今回のメルマガでは、これらの中から冒頭に記述されている「死生観」や「忠孝」に関する三項目を紹介いたします.
それでは、本題に入ります
【第11回】武士たちが遺した教え:大道寺友山『武道初心集』
▽ 常に死をならへ
武士というものは、元旦に最初の餅を祝う時から、その年の大晦日(おおみそか)の夕にいたるまで、日夜、常に「死」を心に留めておくことを本分とするべきである.
死を心に留めてさえおけば、「忠孝」の二つの道にも適(かな)い、あらゆる悪事や災難をも遁(まぬが)れ、健康で長生きできる上に、その人柄までもよくなり、それにより得られるものは多いのである.
その理由については、よく人間の命を夕べの露や朝の霜のようにあまりにも儚(はかな)いものであるといわれるけれども、その中でも一番短いのが武士の身命であらねばならない.
にもかかわらず、実際にはそこらの武士たちは、恥ずかしげもなく何時までも長生きをしようなどと思っているから、主君への御奉公や親への孝養もどうせこのままずっと続くのだろうと考えるようになる.そのような心構えであるから、余計なへまをやって、主君への奉公に失敗し、親への孝行もいいかげんになる.
今日あっても、明日はどうなるか分からない身命なのだと覚悟さえしていれば、主君へも今日が奉公する最後のとき、親に仕えるのも今日を限りと思うようになり、主君の御前に出向いて御用を承(うけたまわ)るにしても、親の顔を見上げるにしても、「明日にはもうお会いできないのだから、主君そして親を今日できる限り大切にしよう」というような心になる.
このような心があればこそ、主君や親への思い入れも真実のものとなる.それゆえに、「忠孝」の二つの道にも適うといえるのである.
そもそも、心に死を忘れて油断すれば、物事への慎みも無くなる.そして、人の気に障(さわ)ることなどを言って口論となり、聞き捨てれば済むことでも聞き咎(とが)めていちいち反論し、あるいはたいして得るものも無いような物見遊山などに行き、人ごみの中を徘徊(はいかい)して、どこの馬の骨ともわからぬ輩(やから)に因縁をつけられて喧嘩に及んで命を落としたり、うっかり主君の御名を口にして親兄弟に迷惑を掛けてしまう.これらは皆、常に死を心に留めない油断から起こる災いである.
死を常に心に留めていれば、人に物を言うときも、人に返答するときも、武士として一言一言を慎重に選ぶことの大切さを心得るようになり、無益な口論などせずに済み、もちろん、つまらない場所へは人に誘われても行かないから、不慮の出来事に巻き込まれることも無い.このことから、あらゆる悪事や災難をも遁れることができるといえるのである.
高貴な人も賤(いや)しい人も、死を忘れるから過食・大酒・淫乱などの不養生をして脾臓・腎臓の病気にかかり、思いの外に若死にをし、あるいはたとえ存命であっても、何の役にも立たない病人となってしまうのである.
死を常に心に留めていれば、実際の年齢よりも肉体の年齢が若く、無病息災であっても、日常から栄養をつける心構えを持ち、飲食に節制をし、色の道を遠ざける等、嗜(たしな)み慎むがゆえに肉体の頑丈さが保たれるのである.そうであるから、健康で長生きもできるというのである.
その上、死をまだ先のことのようにばかり思っているならば、この世に長く留まっていられるとの観念があるから、色々な望みも出てきて慾深くなり、人の物であっても欲しがり、自分の物は惜しみ、ことごとく皆、町人や百姓と同じような根性になるのである.
死を常に心に留めていれば、世の中での未練もなくなることから、貪欲(どんよく)な心も自ずから薄くなり、欲しがったり、惜しんだりというさもしい根性もさほど頭をもたげてこないのが道理である.そうであるから、その人柄までもよくなると言ったのである.
ただし、たとえ死を心に留めるとはいえども、吉田兼好が徒然草に書いている心戒と比丘尼の話のように(この世の無常を思うあまりに、じっと座っていることが出来ず)常に死期をまつ心でただひれ伏しているというのは、出家した僧侶が心に死を留める修行ではあっても、武士としての修業の本意に適うものではない.
そのような形で死をとらえてしまうと、主君や親への忠孝の道も廃(すた)り、武士としての家業も疎(おそろ)かになるから、全くよくないことである.
昼夜を問わず公私にわたり諸用をこなしながら、ほんの少しでも暇ができてゆっくりしている時には「死」の一字を思い出し、怠ったり、手を抜いたりせずに心に留めて置けということである.
楠木正成が、子息・正行(まさつら)に教えた言葉にも、「常に死をならへ(いかに死すかを日常の実践のうちに悟れ)」とあるのを伝え聞いている.
初心の武士が心得ておくべきは、こうでなければならない.
▽ 勝負の気
武士というものは、行住坐臥(行く時も、留まる時も、座っている時も、臥せている時も)二六時中、警戒心を研ぎ澄ましておくことが肝要である.
我が国は海外の国と異なり、いかに身分の低い町人・百姓や職人であっても、身分相応に錆びた脇差の一つも持ち歩いている.これは日本という「武の国」の風俗であって、太古の昔から変わることの無い「神ながらの道」(=神代から伝わる、神の御心のまま人為が加わらない”まことの道”)である.
そうではあっても、(農工商の)三民は武を家業とはしていない.
武門においては、たとえ小者・中間(ちゅうげん)・あらし子といった身分の低い武家でさえも、常に脇差を放してはならない作法が定められている.
ましてや、侍以上の武士であれば、ほんのわずかな間も腰に刃物を絶やしてはならないのが鉄則である.
したがって心懸けの深い武士は常に、たとえば入浴する際にも刃引き刀、あるいは木刀などを用意して置くというのも、我が身の安全を心懸けているからである.
自宅でさえもそういう心懸けでいるのだから、ましてや外出するには、往復の道すがらや目的地で気違いや酔狂人あるいはとんだ馬鹿者と遭遇して予期せぬ出来事が発生することも十分にあり得るという心懸けが必要なのである.昔の人の言葉にも、「門を出るより敵を見るが如く」などというのがある.
武士として腰に刀剣を帯びている身であるからには、ほんの一瞬の時でさえも「勝負の気」を忘れることがあってはならない.
勝負の気を忘れずにいれば、自然のうちに死を心に留めて充実するようになる.
腰に刀剣を差し挟みながらも、勝負の気を常に持たない侍は、武士の皮をかぶった町人・百姓と少しも違わないように思える.
初心の武士が心得ておくべきは、このようでなければならない.
▽ 忠義と孝養
武士というものは、親への孝養を厚くすることを第一義とすべきである.
たとえ利発さや才覚が人より優れていて、生まれつき弁舌が立ち、器量が良かったとしても、親不孝な人間は何の役にも立たないものである.
その理由はこうである.武士道というものは、その本末を知って正しく行うことが肝要であるとすべきものである.本末を弁(わきま)えなければ、義理を知ることもできないのである.義理を知らない者を武士とは言い難い.
そこで、本末を知るということについてであるが、親というのは自分がこの世に発生した根源(本)であって、自分の身体は親の骨肉の末である.しかしながら、その末である我が身だけを立身させようと思うから、余計なことばかりが生じて根本たる親をいいかげんに扱ってしまうようになる.これは本末を弁えないがゆえである.
また、親に孝養を尽くすのにも二つの段階がある.
たとえば親が正直者で、心から子を愛して熱心に教育し、その上普通ではそこまで貰えないような知行高に加え、武具・馬具・家財等に至るまで何の不足も無く与え、良い娘を妻に迎えさせ、何ら不自由の無い家督を譲り、自分は隠居の身となって引っ込んだ親などへは、その子としてありきたりの孝養を尽くすだけでは、何ら褒められることも、感銘を与えることも無い.
その理由はこうである.全くの他人でさえ、互いに友情を深め合うことにより親しい間柄になり、こちらの身の上や勝手向きの事までも親身になって心配して兎(と)にも角にも世話を焼いてくれるような人に対しては、こちらも大切に思って、たとえ自分の事を差し置いても、その人のためならば、と思うものである.
ましてや自分の親が、親としての慈愛に満ちて、親としてできる事を全てやってくれるようであれば、子としてどれ程孝養を尽くしたところで、これで十分だと思えるはずがないのである.こうしたことから、ありきたりの孝養を尽くすだけでは、何ら褒められることも、感銘を与えることも無い、と言ったのである.
もし親の根性が悪く、くわえて年をとるほど僻(ひが)みっぽくなり、くだらぬ理屈だてばかりをし、自分の財産を全て子に与えることもなく、決して楽な生活状態ではない子の厄介になって面倒を見てもらいながらも、その弁えも無く、朝夕の飲物、食物や衣類にまでもケチをつけ、さらに他人に会えば「せがれが不孝な奴だから、老後に思いもよらぬ苦労をすることになり、ことのほか迷惑している」などと触れ回って、我が子の外聞を失う事を何とも思わないような思い違いをした親であったとしよう.
こういう親に対しても親と崇(あが)め、取りたくもない機嫌を取り、ひたすら親の老衰を悲しみ嘆いて、少しも手を抜かずに孝養の誠を尽くすのを「孝子の本意」というのである.
このような根性を持った武士は、たとえ主君をとり、奉公の身となっても、忠義の道をよく弁えているから、主君の威勢が盛んな時は言うまでもなく、たとえ御身の上に不慮の事があって難題が山積みになった時でも、なお一層、誠の忠節心を篤(あつ)くし、軍(いくさ)において味方百騎が十騎に、十騎が一騎になろうとも御側(おそば)を離れず、幾度となく敵の矢面に立ちふさがって身命を省みないというような尽忠に勤めるのである.
その理由は、親と主君、孝と忠という文字が変わるだけであって、心の「信」に二つはないからである.そうであればこそ、古人の詞にも「忠臣は孝子の門に求めよ」とされているのである.
たとえば、親不孝者でありながら、主君への忠節は格段に優れているなどということは、道理として決してあり得ない.それは、自らの身体の根本である親にさえ孝を尽くすことができないような未熟な心をもって、天倫(親・兄弟のように自然に定まっている人間関係)にあらざる主君の恩義を感じて忠節を尽くすことなどできるわけが無いからである.
家に在って親に不孝の子は、外へ出て主君を取り、奉公する事になったとしても、主君の襟(えり)元に目をつけて少しでも左前になっている(和服においては「死人前」「死人合わせ」と称し、縁起が悪い)のを見たならば、たちまち志が変わり、戦場で追いつめられたならば、櫓(やぐら)から逃げ出し、あるいは敵へ内通したり、降参したりといった不義を仕出かすのが古今の定まり事である.これらを恥として慎まねばならない.
初心の武士が心得ておくべきは、ここに述べたようでなければならない.
【解説】
寛永16(1639)年に越後の国村上邑に生まれた大道寺友山は、二十歳前後に江戸に出て、小幡景憲(こばたかげのり)、北条氏長らに師事して甲州流軍学を修め、五十歳頃には山鹿素行から兵学の奥義を伝授されて甲州流の兵法家となった.
兵学の他にも儒学なども学び、その幅広い学識から安芸の浅野家などの諸家に迎えられた.
元禄4(1691)年、五十八歳で会津藩・松平正容の客分となり、その功績から同10年には家臣となる.しかし、同僚の嫉妬からの讒言(ざんげん)により(注:他説あり)、同16(1700)年に六十一歳で会津松平家から追放される.
その後は各地を転々とした果てに、武蔵岩淵(現在の東京都北区)に仮住まいを設けて『岩淵夜話』を著し、正徳4(1714)年、七十五歳で福井藩・松平吉邦に召し抱えられて軍学を講じた.『武道初心集』はこの頃に著されたものである.
享保15(1730)年、江戸霊岸島の邸宅において没した.享年九十二歳.
大道寺友山の没後百年以上を経た幕末期、水戸藩主の徳川斉昭が『武道初心集』を気に入り、家臣たちにも読むように薦めていたという.
(「大道寺友山『武道初心集』」終り)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:おき軍事
件名:軍事情報 第506号 (最新軍事情報)
2013年(平成25年)5月13日(月)
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こんにちは、エンリケです.
今日もメールを開封していただき、誠にありがとうございます!
それでは今日も【最新軍事情報】をお送りします.
(エンリケ航海王子)
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● 最新軍事情報
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【軍事理解のための「3つの土台」】
1.せめてこれくらいは国民として把握しておきたい軍事の常識
⇒軍事は政治の延長線上にあるもので、決して特別なものではない.だから、軍事を忌み嫌う人は、政治を正しく理解することが出来ない.一方で、軍事を必要以上に神聖なものと捉える人も、全体を見誤まる.
2.国民の軍事理解でイチバン欠けている部分
⇒国際政治がバランスオブパワーの関係で成り立っているということを知らない.一方で、そのようなことを知らないお人好しが、あたかも善良な人であるかのように捉えられる傾向にある.残念ながら、現実の国際社会は単なる仲良しクラブにあらず.
3.ナゼ国民は、軍事理解に乏しいのか?
⇒自国への帰属意識が希薄であるため.守るべき対象(日本)を感じることが出来ないのだから、軍事を理解することなど到底不可能.国家観に対する教育を怠ってきたことのツケ.
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■米欧州集団の司令官交代
130510、米欧州集団(U.S. European Command 司令部:シュツットガルト(ドイツ))で司令官の交代式が行われた.
式典において、前司令官のスタヴリディス海軍大将から、新司令官に補されたブリードラブ空軍大将に指揮権が転移された.
なお、欧州集団司令官が兼務する「欧州連合集団最高司令官(SACEUR)」については、130513に欧州連合集団司令部があるベルギーで指揮転移が行われる.
新司令官に補されたブリードラブ空軍大将の前職は、欧州空軍司令官兼アフリカ空軍司令官兼中央欧州連合空軍司令官(ラムシュタイン空軍基地(ドイツ))兼統合エア・パワー卓越センター長(カルカー、ドイツ(*1)).第3空軍担任地域の空軍戦力運用の最高責任者だった.
(*1)統合エア・パワー卓越センター
NATOが19個保有している卓越センターのひとつ.
卓越センターはある単一の国家または多国籍に後援された実行体であり、そして卓越センターは特に変革事業を支援して加盟国のために認知された専門知識と経験を提供する.卓越センターは教育訓練を強化する機会を与え、相互運用性と能力を向上させる.
また、ドクトリン開発を援助または実験を通じて概念を試験して検証する.卓越センターはNATO指揮系統の一部にとどまらず、NATO成文化システム(NCS)を支援する広汎な枠組の一部である.NATOによる卓越センターの運用は変革連合軍(*2)司令部を通じて調整される.
(*2)変革連合軍(英語:Allied Command Transformation、略称:ACT)
北大西洋条約機構(NATO)の軍事部門で機構全体の変革事業を主導・統括し支援する統連合軍である.大西洋連合軍を基に2003年6月19日に編成され、アメリカ合衆国バージニア州ノーフォークに司令部を置く.NATO唯一の実働作戦主体である作戦連合軍の長たる欧州連合軍最高司令官(SACEUR)と対をなす二大機構である.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E9%9D%A9%E9%80%A3%E5%90%88%E8%BB%8D
■軍事協力できない戦後日本
ベトナムへの巡視船供与で軍事支援の壁「軍と海上警察、分離を」異例の打診へ(産経)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130508/plc13050816330018-n1.htm
【巡視船供与に壁】 「軍事協力」敬遠が関係深化を阻む(産経)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130508/plc13050818030021-n1.htm
日本国内だけで通用する「軍備と自衛力の違い」「平和目的」という言葉は、
世界で全く通用しない机上の空論だったことが証明されたのではないか?
平和憲法は祖国を滅ぼす害毒以外の何物ももたらしていない.
目先の安逸に溺れて、祖国を滅ぼす思想に取り込まれてきた60年以上の
無駄な年月を感じてならない.
■米軍事機密流出 諜報機関「コメント・クルー」の疑い
中国軍指揮下のハッカー集団(産経)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130508/chn13050820020002-n1.htm
■中国軍が学習する怖さ 「質も量」整え・・・軍事的優越消えた自衛隊、米軍
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130507/chn13050707010001-n1.htm
世論に出てこない一般国民の本音・深層心理を読み取り、必要な行動をとれる
国家指導部の叡智と勇気と狡猾が国を救う.
無知に基づく世論を至上視する思想は常に国を誤る.
■戦後日本の護憲派は、自衛隊合憲思想に転換しつつある
この話を聞いて思ったことは、
「この種の話をしているバカって、自衛隊のなにを知っているのだろうか?」
ということだ.
そもそも自衛隊は、
創設以来60年を超える時間のなかで、
軍として極めて偏った戦力組成、組織体系を取らざるをえない状態になっている.
背景には、
わが国が海外諸国の浸透を受け、
極めて脆弱な国家安全保障態勢しか持てないことを正当化する戦後憲法がある.
あわせて軍事世界の常識では、
2次大戦後の軍事オペレーションの主流は
「連合作戦」
になっている.
連合作戦というのは、複数の国の軍隊から編成された部隊を、一人の指揮官が率いる作戦のことだ.
そのため主要諸国は、国家主権の一部を犠牲にしても、
連合作戦遂行に必要な安保システムを採用している.
また世界の軍事オペレーションは
戦争抑止のための武力行使を通じ、国際社会の安定に貢献する
という流れのなかにある.
そういう歴史の流れから、わが国は目を背け続けている.
集団的自衛権行使は同盟諸国と連合作戦を遂行するためのパスポートであり、
それがない限り、
わが同盟国・友好国と協力しての効果的な軍事対処はできない.
結果、イラクの時のようにわが自衛隊に極端な負荷を強いるハメに陥るか、
「金づる」として小馬鹿にされながら金を巻き上げられ続ける日のいずれかの結果しかもたらせなくなる.
いずれもわが国の不幸だ.
お涙頂戴、浪花節的な感情論で軍事や防衛・国防・安保を考えてはならない.
わが国は朝野を挙げて、あまりに感情論で政治・安保を動かしすぎる.
そのため非常な負荷をかけられている人や祖国がある現実を想像しようともしない.
少なくとも国家中枢にある人物であれば、
なぜ英国は集団的自衛権行使できる状態にしているのか?
それがいかに国力の有効活用につながっているか?
ということを真剣に調査研究しなければならない.
自分にはない根ならば、自分の手で育成しなければならない.
合憲だの違憲だの言う前に、国防・安保のための軍事常識を持ち、我が軍が抱える問題点を解決しなければならない.
今政治がしなければいけないのはそれであり、安倍政権のベクトルは正しい.
机上の憲法だけ見て、実際の自衛隊を知らない.
こういう輩に自衛隊が合憲か否かを云々する資格はない.
■ リアルからネットへ「逆侵攻」、自衛隊の思い
「ニコニコ超会議」で戦車初披露 納入メーカーも参加
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO54708190W3A500C1000000/
20代の若者の多数は、自衛隊に良い印象を持っていると言われている.
良いことには違いない.
唯一気になるのは
「軍の副業にすぎない災害派遣対処しかしない「いのちをまもる」自衛隊」
という認知しかないのではないか?
ということだ.
マスコミを通じた報道の影響がこの年代でどの程度下がっているか
と合わせ見ることで、ある程度の推測は付くだろう.
■支那思想の毒
支那思想には、人間を内部から崩壊させる毒がある.
そのことをわきまえもせず、めたらやったら支那思想を自分の中に取り込む姿勢は極めて危険と感じる.
日本人として身につけなければいけないことは、
支那思想を換骨奪胎し、わが民族にふさわしい考えを創造してきた先人の知的遺産であろう.
具体的に言えば
日本書紀
古事記
晩年の山鹿素行
熊沢蕃山
吉田松陰
といった知的遺産である.
こういう先達が残した考えかたや物事への取り組み方を、
20世紀以降の日本人はあまりに忘れすぎている感を持つ.
いまの各界の論者で、
支那思想がわが国の内部を侵食する毒になっていることを
正確に認識し、一般人に啓蒙できる人は誰だろうか?
まっさきに思い浮かぶのは兵頭二十八さんになる.
もしかしたら唯一の存在かもしれない.
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代
読売新聞 5月13日(月)14時44分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130513-00000675-yom-soci
安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった.
ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂(へんさん)所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した.「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される.研究成果は近く海外で出版される予定.
審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった.「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる.
ガスパールは豊後(大分県)生まれ.8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた.その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる.当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった.
ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った.
ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた.次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された.その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった.
ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言.その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された.
From:長南政義
件名:トーチ作戦とインテリジェンス(12)
2013年(平成25年)5月16日(木)
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軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
トーチ作戦とインテリジェンス(12)
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【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である.
前回は、諜報員という裏の貌を持つ副領事の選任経緯について述べた.
ルーズヴェルト大統領がマーフィー・ウェイガン協定を締結した理由は、フランスにおける外交的プレゼンスがもたらすインテリジェンス面での価値にあった.
フランス領北アフリカにおいて諜報活動を行う諜報要員を確保することが、極めて重要であった.国務長官コーデル・ハルは陸軍省とこの点に関して同意見であり、国務省の「食糧管理官」がフランス領北アフリカにおいてインテリジェンス活動に関する任務を遂行すべきであることに同意した.
副領事たる食料管理官を選ぶ任務は国務次官補アドルフ・オーガスタフ・バールが行った.バールは、国務省が提供することができないこの種の計画に必要な人材を、計画の目的や事態の軍事的重要性を正確に評価できる陸海軍将校に見出した.
副領事の任務が諜報活動にあるため、なんとかして陸海軍から要員を調達する必要があった.アラビア語の能力に不安があるものの12人の副領事候補者が選ばれた.国務省は、12人の副領事候補者を、ウォーレス・フィリップの指導下においた.彼らはマーフィーの指示に基づき北アフリカで副領事として任務が遂行できるようにフランスの文化や政治について学んだ.
しかし、軍人が副領事となってスパイ活動を行うには様々な問題をクリアする必要があった.たとえば、どこの省が副領事たる将校たちに給料を支払うのか?という問題や、諜報活動に従事中に捕虜となった場合に問題となる国際法上の懸念といった問題をクリアする必要があったのである.
予算や国際法上の問題に対処するために、統合参謀本部が下した決断は、12人の志願者たちは陸海軍将校であることを辞め、ロバート・マーフィーのもとで国務省のために働くというものであった.しかし、彼らは、表面上は国務省の下にありながらも、ロンドンにいるウォーレス・フィリップの指導下にあると共に、米国海軍情報局に属する「K機関」のメンバーとして組織された.
副領事として選ばれた人々は普通の職業を持つ予備役軍人であった.彼らは軍人としてではなく、国務省の常勤職員として「雇用」されたため、国際法上の問題の幾分かは解消された.また、彼らには「十二使徒」というニックネームがつけられた.
副領事にもかかわらず十二使徒たちはフランス領モロッコおよびアルジェリアの現地駐在領事の外で活動した.現地駐在領事たちは彼らの真の役割や任務について知らされておらず、彼らがそれを知ったのは米軍の侵攻からだいぶ経過して後のことであった.
今回は、副領事たる十二使徒たちの活動とその意義について述べたい.
【活動を開始した十二使徒】
マーフィー・ウェイガン協定の一部であるフランス領北アフリカへの積荷輸送は協定通りには始まらなかった.十二使徒たちは積荷検査を開始するためにできるかぎり迅速に到着する必要があったが、政府の官僚主義がその妨害となったのだ.また、綿密な準備を行う余裕がなかったため、時間との競争でもあった.
副領事の最初のグループがアルジェリアに到着したのは、1941年6月10日のことであり、残りが到着したのはその年の7月になってからであった.
十二使徒たちは到着後ただちに活動を開始した.地図を入手し、より詳細な地理情報を得るために予想戦場の地図を製作し、沿岸を測量し、現地在住フランス人やアラブ人の感情を調査した.もちろん、副領事の本来任務である積荷の監視も行い、事務所を頻繁に不在にしている理由を上司である領事に説明するために、もっともらしい話をでっち上げたりもした.
十二使徒たちは確かに諜報に関する訓練をたいして受けていなかったが、みな志願して活動に参加しておりやる気は高かった.彼らが平時に就いていた本業の性格にも原因があるのであろう、諜報に関する訓練の欠如にもかかわらず、十二使徒たちは迅速に各自の環境に適応し、必要な情報を入手することができた.
【副領事というカバーにまんまと欺かれたゲシュタポ】
副領事は、カサブランカ、サフィー、オラン、アルジェ、ビゼルトおよびチュニスといったフランス領北アフリカのあらゆる地域に置かれた.いずれも、表面上は各地の領事の下で活動しており、領事たちも十二使徒たちの真の活動については知らされていなかった.
十二使徒たちは、「副領事」という肩書を隠れ蓑にして、ドイツ・イタリア休戦監視委員会に関する情報を収集し、フランス艦隊の移動状況を報告し、フランス人植民地主義者および現地住民両方にいる反ヴィシー政権派と接触を試みた.
フランス領北アフリカに所在するゲシュタポやドイツ・イタリア休戦監視委員会も十二使徒たちが副領事という表の肩書の裏で展開していた諜報活動を把握することができなかった.インテリジェンスの専門用語に、「カバー」という用語がある.カバーとは、諜報員であることを隠すために諜報員に対して与えられる擬装用の肩書・経歴のことである.このケースでは、副領事というカバーが効果的であったのだ.
ゲシュタポはカバーに騙され、副領事たちにあまり注意をはらっていなかった.このことを象徴するかのように次のような文章が、ナチスドイツの報告書にみられる.
「副領事たちのあらゆる考えが、社交的、性的、美食的関心に集中しているので、とるに足らないような些細な口論や嫉妬が副領事たちにとっての日々の事件である.副領事たちは、アメリカ合衆国と呼ばれている野蛮な寄せ集め集団の人種と特徴とを完全に象徴しており、彼らを観察した人間は誰もが米国で蔓延しているに違いない精神状態と移り気とを十分に考えることができる」
「勇気の欠如と民主制という堕落が彼らの間で蔓延している.それは、彼らの安楽な生活、腐敗したモラル、その結果としてのエネルギーの欠如から生じたものである」
「彼らは、方法、組織、規律に全く欠けている.・・・[中略]・・・われわれは、われわれに対してトラブルを生じさせないであろうこの敵国エージェント集団の選択に対し自ら喜ぶだけである」
(出典:リチャード・ハリス・スミス『OSS 米国最初の中央情報機関秘史』、原題:Richard
Harris Smith. OSS: the Secret History of
America's First Central Intelligence Agency.
Berkeley: University of California Press,
1972).
副領事たちが「社交的、性的、美食」にうつつを抜かしているというのは面白い.というのも、任務の性格にもよるが、社交生活というのは、諜報員にとって偽装のための重要手段であるからだ.諜報員にとって人付きあいが良いというのは絶対的な資産である.また、飲酒や食事は人間を饒舌にさせる.副領事たちが社交と美食に励んでいたことは、報告書にあるような「腐敗したモラル」の象徴ではなく情報収集という任務を達成する一手段であったのだ.
上記引用のナチスドイツの報告書は、文化的偏見に満ちた文章であるといえるが、ナチスドイツは誤っていた.現地着任から数週間以内のうちに、マーフィーのアマチュア諜報員たちは、フランス領北アフリカにおけるあらゆる重要な政治的・軍事的な展開に関する有益な報告書をワシントンに向けて大量に送付したのである.
十二使徒たちの現地着任から約六カ月後に起きた日本の真珠湾攻撃が米国を大戦に引き込んだ後、これらの情報は米国の戦略計画策定のために不可欠のものとなった.
【十二使徒たちの活動の意味】
十二使徒たちが果たした役割の重要性は、米国が大戦に参戦する以前に彼らが収集しワシントンに送付した情報が示している.
OSSの資料によれば、十二使徒たちがアドヴァンス・フォース・オペレーション支援のために達成したことは信じられないほど大きなものであった.すなわち、素人諜報員である十二使徒たちは、大統領が軍事的活動に正式に承認を与えるはるか以前に、フランス領北アフリカに駐留する軍隊に関するあらゆるオペレーショナル・レヴェルの情報を収集していたのである.
また、十二使徒たちの活動により、トーチ作戦で実際と戦場になった地域の住民感情や地誌などが明確になったため、米国が同地域に軍隊を送る決定をした際に米軍の活動がスムーズにいった.すなわち、十二使徒たちは、トーチ作戦が開始されるはるか以前から戦場を準備していたのである.
次回からは、OSSの創設過程について考察することとする.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:おき軍事
件名:軍事情報 第507号 (最新軍事情報)
2013年(平成25年)5月20日(月)
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こんにちは、エンリケです.
今日もメールを開封していただき、誠にありがとうございます!
それでは今日も【最新軍事情報】をお送りします.
(エンリケ航海王子)
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● 最新軍事情報
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【軍事理解のための「3つの土台」】
1.せめてこれくらいは国民として把握しておきたい軍事の常識
⇒軍事は政治の延長線上にあるもので、決して特別なものではない.だから、軍事を忌み嫌う人は、政治を正しく理解することが出来ない.一方で、軍事を必要以上に神聖なものと捉える人も、全体を見誤まる.
2.国民の軍事理解でイチバン欠けている部分
⇒国際政治がバランスオブパワーの関係で成り立っているということを知らない.一方で、そのようなことを知らないお人好しが、あたかも善良な人であるかのように捉えられる傾向にある.残念ながら、現実の国際社会は単なる仲良しクラブにあらず.
3.ナゼ国民は、軍事理解に乏しいのか?
⇒自国への帰属意識が希薄であるため.守るべき対象(日本)を感じることが出来ないのだから、軍事を理解することなど到底不可能.国家観に対する教育を怠ってきたことのツケ.
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■【内政干渉?】「我々は、日本がそうするよう勧めようとしています」
130516、米国務省のユン次官補は議会公聴会で
「日本で現在、自衛隊が海外で活動できるよう憲法改正をめぐる動きがある」と報告.
「日本がアメリカとともに、より軍事的に行動する能力をもつことはアメリカの国益にかなうのか?我々はそうした動きを勧めるのか?」
との、下院外交委員会 アジア・太平洋小委員会
シャボット委員長の問いに対し、
「我々は、日本がそうするよう勧めようとしています.しかし、これは先ほど申し上げたとおり、(近隣国からの反発を招く)非常に繊細な問題でもあります」
と証言した.
公聴会後、「憲法改正するかしないは、日本の国民が決めることだ」と答えたユン次官補代理は、わが改憲論にアメリカ政府として立場はとらない考えを示している.
内政干渉はしませんよ.というまあ当たり前の話だ.
わが国は、自国に必要な安保・国防・防衛環境整備に向けて動いている.誰のためでもない.自分たちのためだ.我が国が強い国家として再生することは、世界に安定・平和状況の長期化をもたらす.
現在の東アジア情勢流動化は、北鮮核武装、中共軍備急拡大に対してわが国が、軍事バランス均衡のため必要な対処をアメリカ任せにして何もして来なかったことが原因のひとつではないか?
改憲は、わが核武装や原潜、巡航ミサイルなどの導入といった安保・国防・防衛施策の一つにすぎない.法律の世界の話で言えば、軍法会議という法システムの整備もそうだし、廃憲も選択肢に入るだろう.
■【護憲と反米は両立せず】憲法9条と日米安保
前も書いたが、「憲法9条と日米安保は鏡の裏表」である.
憲法9条があるから日米安保は機能している.
この構造を変えて、新たな日米同盟関係を培う時代に入ったと考える.
まずはペテン師たちの話から
「憲法9条と日米安保は鏡の裏表」
という現実からどういう結果が導き出せるか?という単純な計算式だ.
あまりに単純化し過ぎの嫌いはあるが、
護憲=親米
改憲=反米
という結果になる.
ペテン師は
護憲で反米
という、現実には存在し得ないことを主張する.
こういう輩のいうことは信用しないほうがいい.
わが国が9条をなくした場合、当然日米安保も改定される.
今後米は、財政的な問題で海外派兵を撤収させる傾向にある.
わが国としては、必要な規模の駐留米軍の存続は求める必要がある.
一方で不要な部隊はどんどん撤収する方向に米はあると考えねばならないだろう.
それを埋めるために必要な自衛隊用兵環境と態勢を政治は構築しなければならない.
■【捏造とウソの歴史】半島南部のこと
西尾幹二さんはこの4月、次のような意見を外国特派員協会で述べられました.
米議会・慰安婦問題決議への憂慮
ー日本外国特派員協会での意見陳述ー
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1279
全くその通りで、外国人特派員がどの程度理解したかを掴みたいところです.
「いわゆる慰安婦問題」が、わが国とわが盟邦・米を分断するための
謀略であることはすでに白日のもとに晒されています.
最近国内で、芸能人まで動員したマスコミによる「いわゆる慰安婦問題」拡大化の波が起きていますが、わがサイレントマジョリティの意思は、「捏造とウソに基づく歴史認識騒動にはもううんざり」であり、話題にするのもうっとうしいというものです.
半島の南部は昔から、わが国に媚を売る時代と北方に媚を売る時代があって、後者の時代はわが国の安全保障に危機を招いてきました.
昭和20年以降最近までわが国に媚びを売る時代でしたが、21世紀に入って北方に媚びを売る時代に入ったようです.
その徴候を掴んだわが国はいま、過去の歴史に学び、半島南部が無茶な行動をとる環境そのものを断ち切る方向に向かっているということでしょう.
核武装北鮮とわが国の関係が、今後重要になってくるのは間違いないでしょう.
あわせてわが国は、あてにならない半島南部の事情に安保環境を左右されないためにも、必ず自ら核武装しなければいけません.
■【武器輸出】ロシアの武器輸出、380億ドル突破
複数報道によると、外国からのロシア製兵器、軍事機器の発注額が、13/5初旬の時点で380億ドルを突破したそうです.この額には、軍用ヘリ、対戦車ミサイルの発注から、すでに輸出された機器のメンテナンスサービスなども含まれているとのことです.
■【守れ!国境の島】特攻敢行した沖縄の軍神 戦争、軍事を否定する風潮は日本人の魂奪う
石垣島出身の「軍神」とうたわれた人の写真がある.1945年3月26日、沖縄戦の特攻(特別攻撃)第1号として部下とともに石垣島から10機で出撃、慶良間諸島沖で米空母に体当たり攻撃した伊舍堂用久中佐(いしゃどう・ようきゅう、当時24歳)だ.
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130516/plt1305160709000-n1.htm
沖縄出身の軍人について、戦後日本が知るところはほとんどありません.無知の罪から免れるためにも上記記事をご一読ください.
■【露越同舟?】軍事協力は「最も重要」=ロ越首脳が会談
【モスクワ時事】ロシアのプーチン大統領とベトナムのグエン・タン・ズン首相は15日、黒海沿岸ソチで会談した.プーチン大統領は会談冒頭、多様化する両国間の協力の中でも、ロシア製兵器輸出など軍事協力が「最も重要だ」と語った.(2013/05/15-23:10)
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013051501180
■【空飛ぶ広報室】柴田恭兵演じる鷺坂正司室長のモデル、インタビューを受ける
「両親の背中が後押ししてくれた」
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130517/szk13051714300005-n1.htm
■【進化する防衛大綱】自民の「防衛計画の大綱」見直しに向けた提言案骨子
自民党は17日の国防関係会議で、年内に行われる「防衛計画の大綱」見直しに向けた提言案を示した.5月中に正式決定する予定.
防衛計画の大綱は、わが防衛政策の基本指針.安全保障会議を経て閣議で決定する.最初の大綱は1976年に決定され、現在、5回目の見直し作業中.5年間の軍事力整備計画となる「中期防衛力整備計画」も併せて決定される.
エッセンスは以下のとおり.
・冒頭に「自主憲法制定と『国防軍』の設置」を明記.集団的自衛権の行使などを盛り込んだ「国家安全保障基本法の制定」を示した.
・巡航ミサイルなどを念頭に“敵基地攻撃能力”の保持について「検討を開始し、速やかに結論を得る」と明記.
・自衛隊に「海兵隊的機能」を付与するため、水陸両用車や垂直離着陸機オスプレイを配備した「水陸両用部隊」の創設を提案.
・陸自「陸上総隊」の創設
・自衛隊の定員拡充
・軍事費増額
・海外派遣恒久法の制定
・武器輸出の促進
・普天間基地の辺野古移設
・国家安全保障会議(NSC)創設と併せた「秘密保護法」の制定
■【スパイだらけ?】自衛隊を悩ますトンデモ交渉 ほくそ笑む中国軍
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130512/plc13051218010007-n1.htm
沖縄から聞こえてくる政治家のメッセージが、中共のそれと常に一致しているのはなぜだろうか?
■【職人芸からの脱皮を】海上自衛隊:機雷除去、海中で実践 国際掃海訓練に参加
http://mainichi.jp/select/news/20130515k0000e030211000c.html
職人芸の追求で失敗したのが大東亜戦争太平洋戦線での戦いだった.システム化された最先端の現場を数多く知ることで、思考のブレイクスルーを達成して欲しいと強く願う.
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:荒木肇
件名:国民皆兵への大誤解・精鋭主義の徴兵令──昭和と平成の教科書を比べて(20)
2013年(平成25年)5月22日(水)
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□はじめに
天気は依然として変わりやすく、落ち着かないこのごろです.皆さん、いかがお過ごしですか.
18日の土曜日には、神奈川県相模原市に移転した「中央即応集団」の創立記念式典が行われました.アメリカ軍のキャンプ・ザマといえば、昔の陸軍士官学校の跡地です.そこにはアメリカの第1軍団司令部もあり、広大な敷地の中に米軍施設や家族のための建物がゆったりと並んでいます.
その一角に、今回埼玉県朝霞駐屯地から中央即応集団司令部が移ってきました.集団は第1空挺団、第1ヘリコプター団、中央即応連隊、対特殊武器衛生隊、中央特殊武器防護隊、特殊作戦群などをもち、国際活動教育隊が部隊が海外で活動するための教育や訓練の支援などにあたっています.
市民の多くは歓迎しているようです.しかし、ゲートの前にはラフな服装をした反対派の人たちが集まり、『戦争につながる部隊は要らない』とか、もっと激しい反対の言葉を書いたプラカードを持っていました.いつになったら、こうした不毛な「平和活動」はなくなるのだろうか.そんなことを思いました.
▼国民皆兵への誤解
「昔はみんな兵隊にならなければならなかった」から始まり、「誰もが嫌々(いやいや)兵士になった」などと語られてきた.嫌がられたのは事実だったが、「血税といって血を抜かれる」と誤解した民衆が一揆などで抵抗したとかの見方は近年、見直しがかけられている.つまり、当時の人々はそこまで無知だったか、また、ほんとうに一揆の要求は徴兵制そのものだけだったのかと考えられるようになったのだ.
昭和教科書では、徴兵制度について次のように書いている.
『政府の強化のためには、軍制を改めて近代的な軍隊をつくることが必要であった.政府は廃藩とともに全国の兵権を兵部省に集め、1873(明治7)年には国民皆兵をめざす徴兵令を公布して、男子20歳に達するものを士族・平民にかかわらず兵籍にいれる新しい軍制をたてた.
この軍隊は、官僚制度と並んで近代国家としての日本の大きな支えであったが、士族は武士の特権を奪うものとして非難し、平民は恐怖感や課税の負担から各地でこれに反対する暴動をひきおこした.このような社会の不安にそなえるため政府は警察制度の整備に力をそそぎ、1874(明治7)年、東京に警視庁を設けた.』
廃藩とともに兵権を兵部省に集めたというのは、各藩が独自にもっていた藩軍を廃止したことになる.事実、藩という統治組織は新政府樹立以来続いていたわけで、各藩は独自に軍をもっていた.これを廃止して、すべて「国軍」として統一する.そして、誰もが「兵籍」に入ることを行った.
しかし、この記述が誤解を生むことになった.「兵籍」、つまり常備軍籍をもつか、後備軍籍に入るか、さらには国民兵籍に編入されることになるかである.全員が必ず軍隊に入り、訓練を受けることをいうわけではない.
平成教科書になると、次のように書き方が少し変わってくる.
『軍事制度では、1871(明治4)年に廃藩に先立って政府直轄軍として編成された御親兵は近衛兵となり、天皇の警護にあたった.また、廃藩とともに藩兵は解散されたが、一部は兵部省の下で各地に設けられた鎮台に配置されて、反乱や一揆に備えた.翌1872(明治5)年、兵部省は陸軍省・海軍省に分離した.
近代的な軍隊の創設をめざす政府は、1872(明治5)年の徴兵告諭にもとづき、翌年1月、国民皆兵を原則とする徴兵令を公布した.これにより、士族・平民の区別なく、満20歳に達した男子から選抜して3年間の兵役に服させる統一的な兵制がたてられた.同じころ、警察制度も創設された.東京府では1871(明治4)年に邏卒がおかれ、1873(明治6)年に新設された内務省は、殖産興業や地方行政などにあたったほか、全国の警察組織を統括した.
翌1874(明治7)年には首都東京に警視庁が設置され、これとともに邏卒は巡査と改称された』
▼藩兵とは?
1870(明治3)年8月、西郷従道(1843〜1902)とともに、1年近くの欧州視察から帰った山縣有朋(1838〜1922)は兵部少輔になった.西郷は兵部権大丞に任ぜられる.この2人が帰国後、すぐに手をつけたのが各藩常備兵の制度である.
9月29日、太政官の達しでは、意訳すれば、『現米一万石につき、士官を除き、兵員六十人』を常備することとした.さらに、『海軍はイギリス式、陸軍はフランス式を斟酌して編制せよ.将来はフランス式に統一されることを考えよ』という布告も伝えた.
しかし、山縣が滞欧中に普仏戦争が起きていた.結果はプロシャの圧勝であり、軍事技術においては明らかにドイツが上位にあった.であるのに、なぜ、フランス式を採用したか.実は、ドイツ語を話せる人材がひどく少なかったからだという説がある.ところが、幕末の幕府陸軍以来、フランス語の習得者は数多かった.旧幕臣には会話までできる者もけっこういた.現に兵学寮(士官学校)の教官にはフランス人がいて、その訓練も受けている.招へいするフランス人教官につく通訳も多い.そこで、拙速とはいえ、フランス式を採用することになった.
ところで、藩兵である.手元に美濃大垣藩の人員表がある.それによると、大垣藩軍の最高官は歩兵隊大尉となっている.朝廷の官位では正七位、大垣藩の職では正四等となる.定員は2名、中隊司令を務める(20両/月).中尉(従七位)も2人で同じく定員2名、小隊司令を務める(18両同前).少尉(正八位)4名は半隊司令で15両が与えられる.
この下に正九位になる権曹長(ごんのそうちょう)が4人、これは月給5両で各半隊につく.従九位は第一から第四の各軍曹であり、各階級に4名ずつ.月給は4両で輜重方の4名もいる.朝廷官位最下級の大初位(だいそい)が伍長、輜重4、喇叭長1、ほか列兵の中に16名、月給が3両.そして、一等兵卒220人と喇叭卒12人.これらは月給も2両2分となり、ほんとうの最下等の小初位が二等兵卒であり築造兵(工兵)が20人、月給は2両である.ほか、砲兵隊も輜重、弾薬、築造、馭兵、喇叭手も含めて中尉の司令以下で78名が全員だった.
少尉が正八位であり、順に中尉従七位、大尉正七位となっているところは、のちの近代国軍の制度と変わらない.
この後、原則として藩兵は大隊編成にすること、大隊長は少佐と称することなどと指示がきている.ただし、これら階級名は官制上、補職名であって、その人の身分ではないことに注意しなくてはならない.のちの完全な国軍化よりあとの官階名とはちがっている.
▼徴兵制度の実態
では、それほど「一揆をおこすほど民衆が嫌がった(昭和教科書の書きぶり)」はずの現役兵には、どれくらいの人がなったのだろうか? 実は、驚くほど少ないのがほんとうである.
まず、徴兵令そのものを紹介しよう.服役年限は常備軍3年、第1後備軍、第2同はそれぞれ2年ずつでしかない.ただし、国民軍は17歳から40歳までである.第1後備軍の2年間は年に1回の召集訓練に参加する義務があった.国民軍は非常時の地域警備をする要員にあてるための制度であり、じっさいは何もなかった.
徴兵令が出された直後の陸軍常備兵定員は3万1680名にしかすぎない.3年制だから、その3分の1を入営させていたのだ.およそ1万人である.徴兵検査を受ける壮丁の数がおよそ30万人であり、日露戦争に備えた大きな徴募まで、毎年5%前後にしか過ぎない.
1万460人の年の構成比は、歩兵が8960人であり85.66%、砲兵720人同じく6.88%、工兵400名同じく3.82%、騎兵・輜重兵がそれぞれ120人同じく1.15%.これに要塞防衛の海岸砲兵140人同じく1.34%である.輜重輸卒などの雑卒はとられていない.
身体検査は背の高さが問題だった.ヨーロッパの例を調べてみたら、フランスが156センチ(5尺1寸5分)、オランダは155センチ(5尺1寸2分)と意外と小さい.外人は、大男ばかりのはずなのにと不思議に思ったら、「戦時の補充や動員を考えると、平均より低くしておいて多数を集めるのだ」と教わった.
そこで、さっきの藩兵の平均をとってみた.すると、5尺2分(152センチ)という数字が出た.ただ、これは武士出身者が多いからだろう.もっと庶民は小さいのではないか.とはいえ、欧米並みの兵器をもたせるのだ.やや大きめの方がいいだろうと考えて、5尺1寸(154.5センチ)としてみた.ところが、これではとても必要数が集まらないことがわかった.間もなく5尺(151.5センチ)と改正された.
明治20年代の記録を見ると、基準を満たした合格者はおよそ半分である.検査した人たちの平均身長は大正の初めごろで平均158.2センチ、昭和の初めでは159.4センチだった.1927(昭和2)年の兵役法では155センチに改められたのは、そういった国民の体格の向上があったからだ.
兵隊の体格は一般人の中でも大きい方だった.昭和の初めになると、入営した現役兵の平均身長は164センチくらいであり、一般の平均を5センチくらい上回っている.「鎮台さん(明治初めの兵隊をさす言葉)は大きかった」というのはほんとうである.
▼免役条項
とにかく、徴兵対象にならなくていいという条件が多かった.まず、官庁に勤務している人、陸海軍学校の生徒(これはまあ、当然)、官公立学校生徒、外国に留学中の人、医術や馬医術を修業中の人、一家の主人、一家の跡継ぎ、一人っ子に一人孫、病気や事故があって親の代わりに家を治める者、家を継ぐ養子、現に徴兵で入営している者の兄弟などである.
他に特徴があったのは、代人料270円を納めた者という事項である.小学校の教員の給料が月額で5円とか、校長で10円という時代だった.よほどの金持ちでなければ270円という金は用意できるものではなかった.
この免役条項が廃止されるのは1889(明治22)年のことだった.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:家村和幸
件名:武士道精神入門(13)--武士たちが遺した教え:山岡鉄舟
『鉄舟二十訓』--
2013年(平成25年)5月24日(金)
▽ ごあいさつ
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
今回は「武士たちが遺した教え」の第九回目といたしまして、幕末から明治初期の剣術の達人・山岡鉄舟の自省訓『鉄舟二十訓』を紹介します.
また、『鉄舟二十訓』に加えて“無刀流”の極意をきわめ、生涯を武士として生きた山岡鉄舟という人物についても簡単に触れてみたいと思います.
それでは、本題に入ります
【第13回】武士たちが遺した教え:山岡鉄舟
『鉄舟二十訓』
▽ 鉄舟二十訓
一、 うそを言うな.
二、 君の御恩を忘れるな.
三、 父母の御恩を忘れるな.
四、 師の御恩を忘れるな.
五、 人の恩を忘れるな.
六、 神仏と年長者を粗末にしてはならない.
七、 幼者をあなどるな.
八、 自分の欲しないことを人に求めるな.
九、 腹を立てるのは道に合ったことではない.
十、 何事につけても人の不幸を喜んではならない.
十一、力の及ぶかぎり善くなるように努力せよ.
十二、他人のことを考えないで、自分に都合のよいことばかりしてはならない.
十三、食事のたびに農夫の辛苦を思え.すべて草木土石でも粗末にしてはならない.
十四、ことさらお酒落(しゃれ)をしたり、うわべを繕(つくろ)うのは、わが心に濁りあるためと思え.
十五、礼儀を乱してはならない.
十六、いつ誰に対しても客人に接する心がけであれ.
十七、自分の知らないことは、誰でも師と思って教えを受けろ.
十八、学問や技芸は富や名声を得るためにするのではない.おのれを磨くためにあると心得よ.
十九、人にはすべて得手と不得手がある.不得手を見て一概に人を捨て、笑ってはならない.
二十、おのれの善行を誇り顔に人に報せるな.わが行いはすべてわが心に恥じぬために努力するものと心得よ.
▽ 「不動心」と「本来無一物」
天保7(1836)年、幕臣の子として江戸で生まれ、山岡家の養子となった山岡鉄舟は、幼少の頃から剣術に励んだ.養父の山岡静山は、鎗術をもって天下第一と言われていた人物であったが、息子・鉄舟には自分の功績を語ったり、自分を宣伝したりすることを戒めていた.そして、自らの体験から、処世について次のように教えていた.
「人間の行為は、道によってすると、勇気が出てくる.しかし、少しでも策をめぐらすと、いつしか気ぬけするものだ.」
つまり、真の情熱は誠意から発する、ということであり、この教えが山岡鉄舟の生き様そのものとなった.
剣術を学びはじめて二十年ほどたって、鉄舟は浅利義明という剣の達人に師事した.義明は、伊藤一刀齋の流れを汲み、「不動心」を呼吸に凝らして、相手が撃ってくる前に「勝機」を知ることができたという.このような良い師に事えた鉄舟は、熱心に修行を積んだ.
その頃、鉄舟は道場にて竹刀を抱いたまま眠るのが常であった.黙然として「不動心」を凝らしつつ眠るのが、若き鉄舟にとっての修行なのであった.それは、形より心に、術より道に入るということであった.
眠っている鉄舟を見て、師の義明は、にやりと笑いながら突然と竹刀の一撃を浴びせた.発するよりも先きに、鉄舟は立上って身構えていたという.動静一如、このような心境こそ「不動心」の賜(たまもの)であり、ひとえに平生からの心がけと工夫にあった.
その後、鉄舟は幕府講武所の剣術師範を務め、やがて「春風館」という道場を開いて数多くの門弟を従え、“無刀流”という剣の流儀を自得した.この無刀流は、剣と禅の修養から生み出した「剣禅一如」の極意である.これについて、鉄舟は次のように語っている.
無刀とは、心の外に刀なきなり.
本来無一物なるがゆえに、敵と相対するとき、前に敵なく、後に敵なく、
刀によらずして心をもって心を打つ.
これを無刀という.
「本来無一物」とは、禅の「無の思想」である.つまり、人は生まれたときも死ぬときも裸である.自分のものにしたいと欲張ることから悩むのであり、もともと「何もない」と思えば地位や名誉や財産といった「欲」に惑うこともなくなる、という意味である.
▽ 江戸城無血開城の約束
慶応4(1868)年3月、有栖川宮(ありすがわのみや)を大総督にいただく官軍は、すでに駿府(静岡)まで進出し、同月15日を期して江戸へ進撃することになっていた.これを実行すれば、百万都市・江戸は火の海となり、大惨事となることが予測された.
3月5日、山岡鉄舟は幕府の全権を握っていた勝海舟を訪ね、主君の危急をなんとかして救うため、江戸総攻撃を中止するよう東征大総督に嘆願したいとの意志を告げた.一目で鉄舟が非凡の人物であることを見抜いた勝海舟は、かねてから相互に尊敬し合っていた官軍の参謀・西郷隆盛に手紙を書き、それを鉄舟に託した.
3月9日、徳川慶喜公の命を受けた山岡鉄舟は、たった一人で官軍陣営に入り、駿府城にあった征討総督府へ西郷隆盛を訪ねてきた.初めて西郷隆盛に対面した際の対話は次のとおりであった.
西郷「江戸からここまで、街道の官軍の中を、どうして来られたか.」
鉄舟「やはり歩いて来もうした.」
西郷「それは無論でござろうが、官軍がいたる所に居ってござろう.」
鉄舟「左様、なかなか立派な服をきて、多勢の兵隊が、行列などしておりました.」
卒然として“不動心”のまま臆せずに申し述べる鉄舟を、西郷隆盛が後年、勝海舟に次のように語っている.
「山岡の心中、敵も味方もなかったらしい.あのように命も名も金もいらぬ人間は、始末に困る.が、あれでないと、天下の大事は共に語れぬもの.あの人は、なかなか腑(ふ)のぬけた所があるようじゃ.」
この会見で、山岡鉄舟は、西郷隆盛から江戸城無血開城の約束をとりつけた.それから四日後の3月13日、西郷隆盛と勝海舟の「江戸城明け渡し会談」が薩摩藩邸で行われ、こうして江戸は戦禍をまぬがれることになった.
▽ 道の実践と山岡鉄舟の最期
明治5(1872)年、山岡鉄舟は西郷隆盛に懇願されて明治天皇の侍従となり、その後十年間その職務に就きながらも、俸給は生活に困った人にほとんどあげてしまい、死ぬまで清貧を通したという.
明治20(1887)年、鉄舟は四谷仲町の道場で講義した中で、自らの武士道について次のように語った.
「拙者(せっしゃ)の武士道は、仏教の理より汲(く)んだことである.それも、その教理が真に人間の道を教えつくしているからである.まず世人が人を教える忠、孝、仁、義、礼、智、信とか、節義、勇武、廉恥とか、あるいは同じようなことで、剛勇、廉潔、節操、礼儀とか、言いかえれば種々ありて、これらの道を実践窮行(きゅうこう)する人を、すなわち武士道を守る人というのである.」
つまり、鉄舟のいう武士道とは、「理論ではなくて実践そのものである」ということであった.
誰とでも分け隔てなく交際した鉄舟の邸宅には、政治家や役人、商売人から侠客、俳優、落語家まであらゆる人々が集まってきた.その様子を見て勝海舟は「山岡の化物屋敷」と呼んでいた.
明治21(1888)年に鉄舟が胃ガンで倒れると、臨終の床には門弟たちをはじめ多くの人々が集まった.鉄舟は門弟の落語家・三遊亭円朝に「俺はまだ死なん.皆、退屈だろうから一席やれ」と命じた.円朝が涙を流しながら用意をしていると、鉄舟は「そろそろだな・・・」と言って死に装束に改め、左手に数珠(じゅず)を持ち、右手に団扇を取って座禅を組んだ.そこへ勝海舟が見舞いに訪れたので、鉄舟の子の直記が玄関に出迎えた.
海舟「父上の御病気は、どうかの.」
直記「ただ今、死ぬと申しております.」
海舟「ほう、そうか.」
勝海舟が奥へ行ってみると、鉄舟が眼を閉じたまま悠然と坐(すわ)っている.
「おお、御臨終ですか.」と海舟が声をかけて訊(き)くと、鉄舟は眼をひらいて言った.
「よくこそお出で下された.ただ今、涅槃(ねはん)の境に進むところでござる.」
海舟が「よろしく御成仏あれ.」と言うと、鉄舟はそのまま往生をとげたという.享年五十二歳
(「山岡鉄舟 『鉄舟二十訓』」終り)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
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From:家村和幸
件名:武士道精神入門(12)--武士たちが遺した教え:佐藤一斎
『言志四録』--
2013年(平成25年)5月17日(金)
▽ ごあいさつ
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
今回は「武士たちが遺した教え」の第八回目といたしまして、江戸中・後期の儒学者・佐藤一斎(いっさい)が学問の道を通じて自得したこと、すなわち「志」を書き綴(つづ)った『言志四録』を紹介します.
『言志四録』は、儒学者としての道を歩む佐藤一斎が、四十二歳から八十二歳までの四十年間をかけて執筆したものであり、年代ごと以下のように四つに分かれています.
『言志録』 全246条(四十二歳〜五十三歳)
『言志後録』全255条(五十七歳〜六十七歳)
『言志晩録』全292条(六十七歳〜七十八歳)
『言志耋(てつ)録』全340条(八十歳〜八十二歳)
これらは、儒教の経典を自らの血肉とし、骨と化すまで学んだ佐藤一斎が、孔子の教えを「日本人の教え」として結実させたものです.
全部で1133条にも及ぶ膨大な良ですので、今回のメルマガでは、この内、佐藤一斎が四十代から六十代にかけて著した『言志録』及び『言志後録』から、学問と教育についての教えを抜粋して紹介いたします.
それでは、本題に入ります
【第12回】武士たちが遺した教え:佐藤一斎
『言志四録』
▽「天に仕える心」こそが基準 ─『言志録』から
あらゆる事をやろうとする際には、全て「天」(宇宙に満ちている真理・わが命を生み出した大本)に仕える心に基づかねばならない.人にどう見られようかなどと思う必要はない.(言志録三)
発奮する事で学問は進んでいく.(古代シナの)聖人の舜(しゅん)だって人間、俺だって同じ人間だ、と強く念ずることこそが発奮することである.(言志録五)
天は何の為に私をこの世に生み出し、私に何の役割を果たさせようとしているのであろうか、と常に自ら考えよ.(言志録十)
私は、聖人に成るための学問をしている.そのために書物を読んでいる.知識を増やすために読書しているのではない.(言志録十三)
冷静な思考と表情、暖かい背中、胸は虚心で腹には信念が満ちていたいものである.(言志録十九)
真に大志ある者は、小さな仕事もしっかりと勤め、真に遠い未来に思いをいたす者は、目前の細かい事物を疎かにしない.(言志録二十七)
ほとんどの人が忙しい、忙しいと言っているが、彼らがやっていることを視ると、事実関係を整理することに一から二割、どうでもよいことを処理するのに八から九割を費やしている.又、そのどうでもよいことを重要なことと勘違いして仕事をやったと思っている.これでは多忙なわけである.志がある者は、このような過ちを犯すことなく、時を惜しめ.(言志録三十一)
志がある士は鋭い刃の様なもので、あらゆる邪悪も避けてゆく.志が無い人は切れ味の悪い刃のようなもので、子供からさえも馬鹿にされる.(言志録三十三)
世間で第一等の人物になりたいという志ではなお小さい.(中略)志がある者は、歴史に名を残す第一等の人物こそを目指すべきである.(言志録百十八)
自分だけを頼りにせよ.天地を揺るがす一大事業も又、全て一個人の決意によって生み出される.(言志録百十九)
自分を見失えば人との関係を失う.人を失えば物も全て失う.(言志録百二十)
暗雲はやむを得ずして集まり、風雨はやむを得ずして吹き荒れ、落雷はやむを得ずして起こる.こうした自然現象の如くやむを得ずして立ち上がるのが人の誠心の発揮である.(言志録百二十)
急ぎあわてては事を失敗し、じっくり待てば事を成す.(言志録百三十)
【解説】
佐藤一斎は、安永元(1772)年10月20日(旧暦)、美濃国恵那(現在の岐阜県恵那市)の岩村藩家老・佐藤信由(のぶより)の次男として、江戸浜町(現在の中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれた.
幼い頃から読書を好み、水練・騎射・刀槍などの武芸にも優れていたが、十四歳から学問に励み、寛政2(1790)年、十九歳で岩村藩に仕え、藩主の近侍(きんじ=君主の近くで仕える人)になるが、その翌年には事故を起して免職となった.
この頃から朱子学や陽明学を学び始め、二十一歳で大阪に遊学して中井竹山(ちくざん)の下で学び、二十二歳で江戸に出て昌平坂(しょうへいざか)学問所に入門し、林錦峯(きんぽう)の門下生となる.錦峯が死去した後は、その養子・林述斎(じゅっさい)の門人となる.
林述斎は、岩村藩主・松平乗蘊(のりもり)の三男であり、元服した時の烏帽子(えぼし)親を佐藤一斎の父・信由が務めたことから、四歳年下の一斎とは兄弟のような間柄であった.こうしたこともあり、文化2(1805)年に三十四歳で林家塾の塾頭となった佐藤一斎は、林述斎に協力して多くの門下生の指導にひたすら没頭した.
『言志録』は、佐藤一斎がこのようにして林家塾の塾頭になってから8年後に書き始めたものである.
▽ 五十歳は晩節を全うする分かれ目 ─『言志後録』から
私が志している学問は、生涯を懸けて追い求めるべきもので、古人が言うように、斃(たお)れて息が絶えるまで止まないものだ.この道は窮(きわ)まる所が無く、シナの聖人である堯(ぎょう)や舜の事績を超えて善の道は限りないものである.
孔子は十五歳で学問に志されて以来、三十歳から七十歳に至るまで十年毎に心境の進むのを実感され、一日一日を休む事無く務め励まれ、老いが身に追っている事も実感されない程だった.(中略)孔子を学ぶ者は皆、生涯道を求め続けられた孔子の志を自らの志とせねばならない.(言志後録一)
自分で考えさせながら教え導くのは、教育の常識である.間違いを戒(いまし)めて教え諭(さと)すことも時には必要となる.率先窮行(きゅうこう)して自ら身を以て手本を示すのは、教育の基本である.何も言わずに強化するのは、教育の神技である.気を抑制させ高揚させ、激励して前進させるのが教育者の権限であって、これらを臨機応変にやらなければならない.教育の術は様々にある.(言志後録十二)
春風のように人には暖かく、秋霜のように自らには厳しくあれ.(言志後録三十三)
克己心(こっきしん)を養うのは瞬間瞬間の自らの有り方にある.(言志後録三十四)
年中都や城内を駆け回って働いていても、自ら天地の大きさを知ることはできない.時には川や海に浮かんでみよ.時には険しい山に登ってみよ.時には青々とした野に出でよ.これも又、心を磨く学問である.(言志後録六十六)
好んで大言をなす者がある.その人は必ず器量が小さい.好んで壮語をなす者がある.その人は必ず怯儒(きょうだ)である.大言壮語はしなくとも、その中に含蓄がある者、これこそ知識も器量も優れた人物である.(言志後録六十八)
いくらよいことを講義しても、その内容を自ら実践できないのを「口先だけの聖賢」という.これを聞いてわが身に省みさせられ、慎(つつし)んだ.人に道を教え、論じても、自ら体現できないのを「紙の上だけの道学」だと聞いて、再度わが身に省みさせられ、慎んだ.(言志後録七十七)
人間は五十歳も過ぎると人生の日々を重ね、錬磨を多く積んでくる.聖人は自分の使命を知り、普通の人も又、政治に関わるようになる.それゆえ、世の中の事にも馴(な)れて驕(おご)り昂(たか)ぶり、天狗になり、終には晩節を汚してしまう事になりがちなのもこの頃である.
ここが身を慎む正念場である.私も晩節を全うする分かれ目の「五十歳」を迎えた今、自らの「志の原点」を再確認するため故郷を訪ね、先祖の遺跡・墓地を巡拝、偉人の史跡を訪れ、参拝することで一層「自警」を深めたのである.・・(後略)・・(言志後録二百四十一)
【解説】
文政9(1826)年、松平乗美(のりよし)が第五代岩村藩主となったとき、乗美の教育係を務めていた佐藤一斎(当時、五十五歳)は、藩の家老たちに重役としての「あるべき心構え」を、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条で書き表した.これを『重職心得箇条』という.
『言志後録』は、この『重職心得箇条』とほぼ同じ時期に書き始めたものである.
▽ 生涯をかけて学び続ける・・・三学戒(言志晩録六十)
少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽(く)ちず
【解説】
六十七歳から『言志晩録』を書き始めていた佐藤一斎は、すでに儒学の大成者とみなされており、天保12(1841)年に林述斎が没すると、当時、七十歳の一斎は、幕府から昌平坂学問所の総長を命じられた.一斎が総長を務めた昌平坂学問所の門下生は三千人を超え、その中から佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠などの優れた人材を輩出した.
七十八歳で『言志晩録』を書き終えてから5年後の安政元(1854)年、八十三歳になった佐藤一斎は、日米和親条約の締結交渉において大学頭(だいがくのかみ)林復斎を現場で補佐した.林復斎(当時、五十五歳)は、故・林述斎の六男であり、幕府を代表してペリー提督と交渉する責任者に任ぜられていたが、一斎に援(たす)けられながら堂々とした態度でこの重大な任務を全うしたのであった.
安政6(1859)年9月24日(旧暦)、佐藤一斎は、八十八歳で死去した.
生前の一斎は常に時計を携行し、時間厳守を何よりも重視していたという.
(「佐藤一斎 『言志四録』」終り)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:大礒正美
件名:性奴隷はレイプ収容所のウソ応用編
2013年(平成25年)5月27日(月)
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軍事情報別冊 大礒正美のよむきる(Vol.170)
今の国際政治はどうなっているのか?今わが国で起きている政治問題のどこに注目すべきなのか?元シンクタンク研究員・元大学教授の国際政治学者が毎月一回お届けする切れ味鋭い分析.
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国際政策コラム<よむ地球きる世界>No.170
by 大礒正美(国際政治学者、シンクタンク大礒事務所代表)
平成25年5月27日
性奴隷はレイプ収容所のウソ応用編
どういうわけかアメリカは情報工作に弱いという国民性を持っている.つまり、ウソ情報を簡単に信じてしまい、自分の信念として「正義」を振りかざすのである.
その特性を食いものにする業界が特異な発展を遂げ、実際に戦争を起こさせた実例も幾つかある.
最近では高木徹氏の『戦争広告代理店』(講談社、2002年)で明かされたとおり、1990年代のユーゴ内戦で、セルビア勢力が「レイプ収容所」でボスニア女性に混血児を産ませ、「民族浄化(エスニック・クレンジング)」を行っているという悪宣伝がいい例だ.
これは劣勢のボスニア側(イスラム教徒)から依頼を受けて、米国の大手情報企業「ルーダー・フィン」社が考え出したウソ物語だった.ちょっと疑問を持てば、ボスニア女性を全部レイプして子を産ませるまで、どこで何年かかるか、費用をどうするのか、およそ荒唐無稽な話だと分かるはずだ.
しかし「レイプ収容所」と「民族浄化」という新造語のインパクトはすさまじく、米政府は世論に押されてセルビア空爆を断行するに至った.
同じようなことが90-91年のイラクによるクウェート占領・湾岸戦争でも見られた.いわゆる「ナイラ証言」である.
90年8月2日、イラク軍はわずか1日でクウェート全土を制圧した.その2ヵ月後の10月10日、米首都ワシントンで開かれた有力下院議員の主催する人権集会で、15歳のクウェート少女ナイラが証言し、「イラク兵士が病院に乱入し、多数の新生児を放り出して「インキュベーター」(保育器)を奪っていくのを見た」と訴えたのだ.
ちょっと考えれば、それはおかしいと気づく.実際、そう気づいた米ジャーナリストが後にウソを暴いている.
イラク兵士が略奪するなら銀行や商店を狙うはず.病院を襲うなら野戦に必要な薬品類が目的だろう.「インキュベーター」が目的なわけがない.それに目撃者の少女はどうやって無事にアメリカに来られたのか不審だ.
しかし「新生児が放り出されて(殺された)」と、いたいけな少女が涙ながらに語るのがミソで、米国民は簡単に動かされてしまったのである.
この演出をすべて引き受けたのは大手情報企業の「ヒル・アンド・ノールトン」社で、依頼者はクウェート政府、少女はクウェート首長の一族である「駐米大使の娘」だった.
もちろんブッシュ(父)大統領などの米政府幹部は知っていただろうが、知らんぷりをして、世論に押される形で多国籍軍の形成を進め、翌年1月のクウェート奪還作戦に結びつけたのである.
さかのぼれば、まだそうした企業のない時代、日本もひどい目に遭っている.1937年10月4日、有名な写真週刊誌『LIFE』(ライフ)に、日本軍が空爆した上海南駅の線路上で、ひとりポツンと座って泣き叫ぶ幼児の写真が掲載された.
幼児は焼けこげたように薄黒く、周囲はどういうわけか白くとんでいて、その対比が実に見事な写真である.
あまりの出来の良さに我慢できなくなったカメラマンが2ヵ月後、『LOOK』誌上で、どうやって撮影したかを自画自賛してしまった.助手が幼児を抱えて運ぶ姿まで公開している.
つまり戦場スナップのように見せかけて、実は駅構内をスタジオにして凝った演出を成功させたのだった.
これは蒋介石一家と親しかったオーナーのヘンリー・ルースが、対日開戦に慎重なルーズベルト大統領に不満で、国内世論を動かして開戦させようと意図した情報操作だった.
アメリカでは、この写真は国民を決定的に反日に動かした実例として扱われ、今でもマイナス評価ではない.
情報眼のある人は、この3つの事例から、カギは女性とこどもだと気がつくだろう.女の子なら理想的だ.「かわいそうに、、」という感情に訴える道具として最適だからだ.
いわゆる「慰安婦」問題は、米国でこのセオリー通りに進められてきた.「性奴隷」という新造語は、発想がなんと「レイプ収容所」と似通っていることか.
さらに恐ろしいことに、慰安婦は少女だったというイメージが、意図的に作られてきた.ソウルの日本大使館前の歩道に据えられた慰安婦像も少女だし、米ニュージャージー州やニューヨーク州で設置・計画されている慰霊碑なども、いたいけな少女のイメージで作られている.
自分で慰安婦だったと名乗り、日本政府を糾弾している韓国人老女のひとりは、「11歳のとき日本兵に強制連行された」と訴えている.
「まさかね、、」というのが現代人の常識だが、それが通じないのが情報戦の世界なのである.
知日派、親日家として知られるアーミテージ元国務副長官や、ナイ・ハーバード大教授(元国防次官補)、日本政治を知り尽くしたカーチス・コロンビア大教授などが、信じられないほど簡単にウソ情報を信じ込んでいることが分かってきた.
おそらく有能な大手情報企業が動いていると推測すべきだろう.依頼者は在米コリアンの組織であり、巨額資金の出所は韓国の官民(有名巨大企業など)であろう.
さらに手足として、250万人といわれる在米コリアンが活動する.
この世界は、地方政治しか知らない日本の政治家が手を出して勝てる世界ではない.もうすでに、9割がた勝負はついていて、日本の負けは挽回しがたいのではないだろうか.
今のところ、「ヒラリー・クリントン長官が国務省では慰安婦でなく性奴隷と呼ぶよう指示した」という情報が事実でなかった(報道官が否定した)ことが、かろうじて救いになっている.韓国筋の流したウソ情報だが、すでに米議会などでも事実として受け取られていた.
もう手遅れかもしれないが、日本も同じ土俵に上らなければ、先の展望は開けない.中国はもっと巧妙に、世界的な規模で、対日謀略戦争を展開している.
武士道精神の日本が最も苦手とする分野ではあるが、専門家がいないわけではない.政府が組織を作り、米情報企業も使うことでようやく対抗できる可能性が出てくる.
古典的な諜報よりコマーシャル・インテリジェンスに敗北する愚は避けたい.
(おおいそ・まさよし 2013/05/27)
「国際政策コラム<よむ地球きる世界>No.170」より
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:おき軍事
件名:軍事情報 第508号 (最新軍事情報)
2013年(平成25年)5月27日(月)
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こんにちは、エンリケです.
今日もメールを開封していただき、誠にありがとうございます!
それでは今日も【最新軍事情報】をお送りします.
(エンリケ航海王子)
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● 最新軍事情報
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【軍事理解のための「3つの土台」】
1.せめてこれくらいは国民として把握しておきたい軍事の常識
⇒軍事は政治の延長線上にあるもので、決して特別なものではない.だから、軍事を忌み嫌う人は、政治を正しく理解することが出来ない.一方で、軍事を必要以上に神聖なものと捉える人も、全体を見誤まる.
2.国民の軍事理解でイチバン欠けている部分
⇒国際政治がバランスオブパワーの関係で成り立っているということを知らない.一方で、そのようなことを知らないお人好しが、あたかも善良な人であるかのように捉えられる傾向にある.残念ながら、現実の国際社会は単なる仲良しクラブにあらず.
3.ナゼ国民は、軍事理解に乏しいのか?
⇒自国への帰属意識が希薄であるため.守るべき対象(日本)を感じることが出来ないのだから、軍事を理解することなど到底不可能.国家観に対する教育を怠ってきたことのツケ.
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■【中共の無人機用兵】中共、新規獲得の無人機用兵に多数の課題?
「フォーリン・アフェアーズ」の130523付記事(*)は、支那の中共が新たに獲得した無人偵察機の用兵には多くの法律や外交制約に直面していると主張している.
http://www.foreignaffairs.com/articles/139405/andrew-erickson-and-austin-strange/china-has-drones-now-what?page=show
だからといって、安穏としていいことを意味するものではなかろう.
■【韓国のF-X】欧州のEADSが20億ドル(2000億円相当)を投資
ユーロファイターを製造する欧州の軍需企業EADSは、韓国の次期戦闘機(KF-X)開発計画に20億ドルの投資を予定.目的はKF-Xへのユーロファイターの採用.20億ドルの投資には、ユーロファイターのメンテナンス・修理・オーバーホール施設が含まれている.
※EADSに警告しておきます.商道徳は守られないと見たほうがいいです.ご注意をw
■【MASEに資金拠出】欧州連合(EU)、48億円をMASEに拠出
130521のEU発表によれば、
欧州連合(EU)は、地域海洋安全保障を促進するプログラム(MASE(*))を通して、いくつかの南部・東部アフリカ諸国における海賊対策を強化する資金として、約3700万ユーロ(4800万ドル、48億円相当)の提供を行う.
(*)”Programme to promote Regional Maritime
Security (MASE)”
http://eeas.europa.eu/piracy/regional_maritime_capacities_en.htm
■【無人偵察機 MQ-4C】MQ-4C、初飛行に成功
130522、MQ-4C(*)の初飛行が行われ、飛行は成功した.米海軍とノースロップグラマンの飛行試験チームは、カリフォルニア州パームデール空軍基地(カリフォルニア州)を離陸し、制限空域内に留まりながら2万フィートまで到達.80分の飛行を行っている.
今年後半にパタクセント・リバー海軍基地(メリーランド州)で行われるメインテストまでに、追加のテストが行われる予定.メインテストの行われるメリーランド州まで自力飛行させるのか、分解して輸送機で運搬するかに専門家は注目しているらしい.
飛行の様子はこちらでどうぞ
https://www.youtube.com/embed/hEuCWJ2qAQY?Autoplay=1rel=0&wmode=transparent
(*)MQ-4C トリトン
RQ-4 グローバルホーク (RQ-4 Global Hawk)の米海軍における名称.
米海軍が、海上哨戒用に「MQ-4C トリトン」の名称で採用し、P-8と連携して2015年から運用する予定.
ノースロップ・グラマン社が開発した無人航空機.アメリカ空軍などによって使用されており、イラク戦争で用兵された.MQ-1プレデターなどの無人航空機と違い、攻撃能力を持たない純粋な偵察機である.
2011年3月11日の東日本大震災のさい、福島第一原子力発電所での原子炉格納容器による爆発での被害状況の把握の為、施設上空への飛行を開始し短時間飛行した.
余談.
そういえば、菅官房長官は130523、自衛隊へのグローバルホーク導入に前向きな姿勢を示している.http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/1/3/1344.html
■【韓国へのサイバー攻撃】IE8の脆弱性突くサイバー攻撃、韓国の軍事関連サイトも標的に
研究者は「韓国の治安および軍事関連サイトが狙われたのは明らか.攻撃側は韓国の防衛態勢に関する情報を探していた」と指摘する.
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1305/22/news025.html
■【在沖海兵隊グアム移転】下院軍事委もグアム移転費承認=年末に最終決定へ−米
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013052300086
沖縄における米地上軍部隊の存在は、わが安保を左右する重大事.
断片的な扇動報道に右往左往しないマインドセットがなにより大切です.
以前紹介した以下記事を、あなたが在沖米軍を考えるとき、常に立ち戻る原点にしてください.ここに記されている感覚がスタンダードです.もしあなたの感覚とのずれがあった場合は修正できますね.
※配信日:2009年12月7日 http://okigunnji.com/?p=1355
(配信当時は民主党政権下.H山なる人物が首相で挙動不審な言動を繰り返していました)
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<小生は、普天間問題に関しては細部にわたる具体的内容を承知しておりませんが、これを考えるにあたっての重要な視点は次のようなことであると考えております.
▼海兵隊という軍種の特質
第1は、海兵隊という軍種の特質をよく理解しておかなければ、普天間問題を本質的に理解できないということです.
まず海兵隊は独立した統合部隊(*)ですが、戦力の中核は陸上戦力です.
(*)陸上・海上・航空戦力を一元指揮する部隊のこと
海空戦力は戦力を他の地域から戦場に迅速に投入しやすいという特性がありますが、これは逆に見れば撤収も容易ということです.陸上戦力は戦闘に最後の結を与え得る戦力ですが遠距離に迅速な展開・投入がし難い戦力です.逆に一度投入されれば簡単に退けません.
従ってどのような国も海外に陸上戦力を投入・展開することには慎重にならざるを得ません.これを又逆に見れば、ある国が海外のある地域に陸上戦力を投入・展開するということは、その地域に腰を据えてコミットする、戦争になれば及び腰でなく徹底的に戦うという意思表示をすることになります.
これは対抗する勢力に対しては一番重みのある抑止力になります.
米国陸軍は日本には第一線戦闘部隊を駐屯させていません.従って現時点では海兵隊が米軍の日本駐留部隊の中で最も抑止力を発揮する部隊になります.
まさに中国の脅威にさらされている日本の南西諸島の核心である沖縄に海兵隊の陸上戦力が展開しているということは、日本にとっては、この地域で紛争が起れば米国が腰を据えて介入するという保証です.海兵隊が東南アジアや中東に展開するのに、沖縄の方が日本本土より近くて有利等ということは、日本にとっては重要なことではありません.
従って、日本の国益から考えて、沖縄を含む南西諸島地域に対する中国等の脅威を排除するための抑止力を維持するためには、米国が他に移したいと言っても絶対に反対し残すべき戦力です.
軍事専門家としての私見ですが、この抑止力の重要性は一部の沖縄県民の迷惑等という問題をはるかに超えています.全国民に影響する国益に関する事項です.
従って現在の政治に責任を有する政府から県外移設の話が出るのは狂気の沙汰であり、そのような軍事音痴集団に政権を任せては日本は滅びると思います.
自民党政権時代に普天間移転問題がクローズアップされたのは、平成7年の沖縄における米兵の少女暴行事件がきっかけであったことを振り返れば、米軍の再配置計画で沖縄に駐留する海兵隊員8千人をグアムに移転させる案に日本政府が反対しにくかったのは理解できますが、この移転計画は日本の国土防衛のための抑止力維持という点では大きなマイナスでした.
しかし辺野古に海兵隊の独自の基地が残れば、情勢が緊迫した際に、海兵隊司令官独自の判断で訓練名目等でグアムから沖縄に地上戦力を展開することは容易です.米軍内部の手続きも簡単でしょう.
逆に海兵隊基地がなければ、空軍等の基地を空けて貰う等の調整が必要で、且つ、共通の上級司令部である太平洋軍司令官の認可を得る必要があり、太平洋軍としての状況判断もありますから簡単ではありません.
従って、政権与党から、抑止力の要である残存海兵隊基地までグアム移転せよとの論が出るのを聞けば、軍事が全く分かっていないと思わざるを得ません.
10月に訪日したゲーツ国防長官は「普天間移設がなければ、海兵隊のグアムへの移転は無い.米議会はグアム関連予算を認めない」と明言したそうです.民主党の普天間見直しが、日本防衛の抑止力維持のために海兵隊をグアムに返さず日本に残すための偽装迂回作戦なら大したものなのですが・・・.
沖縄県民には迷惑かも知れませんが、社民の悪あがきと民主の迷走が、そんな大ヒットにつながれば、中国は顔をしかめ、台湾は安心するでしょうけれど・・・.
▼同盟国としての約束
第2の視点として、普天間を名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部に移設するという施策は、日米両国が長年にわたり多面的に検討し沖縄県民の同意も得た同盟国としての約束であることを忘れてはならないということです.
(*)平成21年度「日本の防衛」(防衛白書)資料38及び41参照 (防衛省ホームページで閲覧可)
オバマ大統領が迅速な実行あるのみという態度をとるのは当然で、鳩山首相の口先でごまかし内容で裏切るという態度は、米国民から見れば明らかな同盟国に対する裏切りに見えるでしょう.日米安保の信頼性を深刻に損ねたという点で、今回の普天間問題の蒸し返しは、政府民主党の軍事・外交・安全保障面での幼稚さを暴露した以上の日本国としての失点であると思います.
▼硫黄島の問題点
硫黄島に移るという点は、色んな問題があります.
抑止力・軍事バランスの変化以外にも、米海軍の空母への離発着訓練(タッチ・アンド・ゴー訓練)場が他に求め得るのか、硫黄島で共用できるのか等の問題があり、それ以前に、硫黄島にまともな米軍基地を作り得るかという問題があります.
米国は、海外に展開する兵士に基本的に本国と同レベルの生活環境を与えることを基本的ポリシーとしています.地積、要する費用、現地の生活インフラの欠除、他の部隊・基地と共用できていた兵站機能等の独立保持による無駄等を考えれば、硫黄島に本格基地を作るくらいなら、沖縄沖に浮かぶ洋上基地を考えた方が良いくらいで、案にもならないと思います.
▼グアムに完全移設したら・・
グアムへの完全移設になれば、既に述べたとおり、日本の防衛に果たす米国の抑止力は大幅に低下します.米国が移設を承知するということは、もう日本の防衛に積極的にコミットする気はありませんよということで、また台湾防衛の可能性も大幅に低下しますから、中国等は狂喜するでしょう.
(軍事評論家 洗 堯 (元陸将 元東北方面総監)>
http://okigunnji.com/?p=1355
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■【自衛隊法改正】自衛隊法改正案 衆院審議入り
海外で緊急事態が起きた際に、自衛隊が日本人を陸上で輸送できるようにする自衛隊法の改正案が130523、衆議院本会議で審議入りした.
海外で緊急事態が起きた際に、自衛隊が日本人を輸送する手段として、今の法律で可能な航空機や船舶に車両を加え、陸上でも輸送できるようにするもの.
小野寺大臣は
「改正案は、アルジェリアのテロ事件の検証を踏まえ、明らかになった課題に速やかに対応するものだ.現場で自衛隊員が対応に苦慮することのないよう配慮していきたい」
と述べ、法案の成立に理解を求めた.
また大臣は、武器の使用基準が正当防衛などの場合に限られていることに関連し
「日本人の救出や奪還の任務を自衛隊に付与するのは、憲法との関係など課題があるが、今後、制度の見直しについて不断の検討を行っていく必要がある」
とも述べた.
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:荒木肇
件名:ハルノートは誤訳だったのか?──昭和と平成の教科書を比べて(21)
2013年(平成25年)5月29日(水)
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□はじめに
いいお天気が続きます.ところが私の沖縄研修の間は梅雨時そのものでした.嘉手納飛行場を見学し、首里城を参観、そして国際通りなどを歩きましたが、ほとんどが曇り空か雨でした.話題のオスプレイが頭上を通り、その安定感ある飛び方と重低音の爆音の頼もしさを感じました.
気になったのはどこにでもある案内板の書きぶりです.たとえば、首里城に行くと、「城の地下に日本陸軍が司令部を置いたために艦砲射撃にあい・・・」という調子です.破壊した加害者はアメリカ海軍の艦砲でしょうが、その原因をつくったとして日本陸軍が悪者.また、嘉手納の民間施設には「学習室」という階が設けられてあり、被害者意識の広告場になっています.
そのくせ、1階の物産販売所には、日米のミリタリーグッズが置かれ、2階には近在でもっとも美味しいとされる名物タコライスを売りにするレストランがある.この複雑さが沖縄なのだとあらためて感じて帰ってきました.
地域の自衛隊協力会、OBの団体である隊友会、隊員の父兄会、地域政治家の方々と懇談する機会もありましたが、その雰囲気はよいものでした.街を走る第15旅団、第51普通科連隊の車輛も違和感なく溶けこんでいます.根強いとされる自衛隊反対者の動きはとくに感じることもなく過ぎた3日間でした.
五反田猫様、黒猫ファン様、いつもお励ましありがとうございます.五反田猫様がご指摘の通り、教科書には人材育成とか社会面的な記述を載せるのは難しいようです.それだからこそ、資料集などは充実させなければいけませんね.また、黒猫ファン様、分かりやすかったとのお褒めの言葉をこれからも大切にしていきます.
また、私の漢字のミス、「祟峻天皇陛下」を「宗峻」としたことのご指摘ありがとうございました.お詫びしつつ、お礼を申し上げます.
▼「太平洋戦争」の始まり
わが国の国民なら当時の帝国政府が定めた「大東亜戦争」を使っておかしくないが、教科書でも戦後の学界でも誰もが「太平洋戦争」という.また、近頃では「アジア・太平洋戦争」とか根拠のない「十五年戦争」などという言葉が使われてきた.今回は、昭和・平成の教科書比べでも、「日米開戦」についての比較をしてみよう.
昭和教科書は、
『三国同盟は、日本の予想以上にイギリス・アメリカを刺激し、とくにアメリカとの間は決定的な破局に直面した.この危機を極力回避しようとする最後の努力もなされ、海軍大将野村吉三郎が1941(昭和16)年、大使としてアメリカにわたり、和平交渉にあたった.アメリカは和平の条件として日本の中国撤兵を求めたが、日本の軍部があくまで反対したので、この交渉ははじめから妥協が困難であった.
一方、1941(昭和16)年、ドイツ政府と会談のため渡欧した外務大臣松岡洋右は、途中ソ連政府と交渉し、同年4月日ソ中立条約が結ばれた.軍部はこれを力としてこの年の7月、南部仏印進駐を決行した.アメリカはこれに大きな衝撃を受け、さらに日本に対する経済的封鎖を強化して、最後まで断行をひかえていた石油の日本向け輸出を全面的に禁止した.こうして日米の交渉もゆきづまりとなり、ついに日本は9月には実質的に開戦の決定をした』
と書いた.
つづいて平成教科書の記述を見てみよう.
『三国同盟の締結は、アメリカの対日姿勢をいっそう硬化させることになった.第2次近衛内閣では、日米衝突を回避するため日米交渉を開始した.前年末の日米民間人同士の交渉が、野村吉三郎とハル国務長官とのあいだの政府間交渉に発展したものである.
一方、時を同じくして三国同盟の提携強化のためにドイツ・イタリアを訪問していた松岡洋右外相は、帰途モスクワで日ソ中立条約を結んだ.これは南進政策を進めるためには、北方での平和を確保するばかりでなく、悪化しつつあったアメリカとの関係を日ソ提携の力で調整しようとするねらいもあった』
というように、さらに詳しくなった.
「ハル=ノート」といわれる日本を戦争に追い込んだ原因の一つとされる文書を出した国務長官の名前が出てきている.
さらに、対米開戦についての事情を詳しく述べている.
『1941年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻して独ソ戦争が始まった.これに対応するためにひらかれた7月2日の御前会議は、軍部の強い主張によって、対米英戦覚悟の南方進出と、情勢有利の場の対ソ戦(北進)とを決定した.
第2次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、対米強硬論をとる松岡外相を除くためいったん総辞職した.
第3次近衛内閣成立直後の7月末、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行され、これに対してアメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の禁止を決定した.アメリカは日本の南進と「東亜新秩序」建設を阻止する意思を明確に示し、イギリス・オランダも同調した.日本の軍部はさらに危機感をつのらせ、「ABCD包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと主張した』
それでは、「ハル=ノート」とは何だったか?
『9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成立しなければ対米(および、イギリス・オランダ)開戦にふみ切るという帝国国策遂行要領を決定した.日米交渉は、アメリカ側が日本軍の中国からの全面撤退などを要求したため、妥協点を見出せないまま10月半ばをむかえた.日米交渉の妥結を強く希望する近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する東条英機陸軍大臣が対立し、10月16日に近衛内閣は総辞職した.
木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東條陸相を後継首相に推挙し、首相が陸相・内相を兼任する形で東条秀機内閣が成立した.新内閣は9月6日の決定を再検討して、当面日米交渉を継続させた.
しかし、11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった.12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米英に対する開戦を最終的に決定した』
「ハル=ノート」とは、すでにアメリカも対日戦を覚悟した上での、つまり内容を読めば、とても実行不可能な要求書だった.
すでに支那派遣軍は85万人を展開し(1940年初頭)、これまでに20万人の尊い犠牲を出している中国本土、さらには進駐したばかりの仏領インドシナ(ベトナム)からの無条件撤兵.支援していた汪兆銘政権と満洲国を否認し、日独伊三国同盟の実質的廃棄などのおよそ「理不尽な要求」ばかりである.
▼アメリカ側の事情
最近の研究ではアメリカ側の事情もずいぶん解明されてきている.戦争や軍事にことさら疎い、戦後といわず、戦前からの伝統的気分が学界からも薄れてきたのか.「戦争は人間的な営み」という常識がようやっと歴史研究者の間に浸透しつつあるのだろうか.
まず、日中両軍の戦闘が大きく始まった1937(昭和12)年以来、わが国が欧州やソ連の状況とリンクしていくプロセスを整理してみよう.
1938(昭和13)年には次の5つの事態が起きた.
(1) わが国が蒋介石政権を認めず、親日的な政権(汪兆銘)を支援する.
(2) ドイツがそれまで5年間の中国援助を打ち切り、対日接近政策をとる.
(3) 英米両海軍の共同戦略会議がロンドンで秘密に始まる.
(4) 英国が対日宥和政策を見せたために、対中国戦争を英国に圧力をかけることで解決しようとする論者が現れた.
(5) ソ連の中に対日強硬論が生まれて、これまで以上に中国援助をするようになる.さらには中国援助策以上の行動をとろうとするようになった.
英国の政策転換の理由は次の通りである.
まず、1938年にはドイツとミュンヘン協定を結びドイツと融和する.ドイツは同年には満洲国を認め、独満修好条約を結ぶ.そうした中で大英帝国の防衛能力は大西洋と地中海のみになった.極東からインド洋にかけて、あるいは太平洋にはとても手が回らないことが明らかになる.
アメリカは太平洋を任されるようになり、中国を自分たちの陣営から脱落させないようにする.また、ソ連と日独伊の勢力の接近はとうてい認められないものになった.だから、アメリカが行った在米日本資産凍結と対日石油禁輸は、その大部分がソ連に対する支援だったという説も認められてきている.南部仏印進駐・関東軍特種演習に対するアメリカの対日強硬措置は、実は対ソ連宥和政策の一環だったという見方である.
日中戦争(宣戦布告がされなかったから正確には日支事変)は世界の陣営の二分化を促進して、中国とソ連を媒介にして日米の対立があぶりだされたという構図で説明されているのが現在の主流である.
▼何を打倒しようとした戦争だったか?
わが国は支那事変をどういう主題で戦ったのか?
ここで証言がある.動員がかかって出征する部隊の人の手記である.早朝の練兵場には完全軍装の兵士たちで満ちていた.補充隊の指揮官は陸軍少佐である.彼は壇上から軍装検査の結果報告を受けると、『われわれは〜、ただいまより、ぼうれいしなを ようちょうするために しゅっせいする〜』と叫んだというのだ.『暴戻支那、膺懲』、「無道で理不尽な支那を懲らしめる」というわけだ.
何とも戦争目的としては訴えるものが少ないなあというのが、のちに兵隊作家になる知識人の感想である.当時、支那の暴虐に対して、実感として被害者だった意識が薄いという.
では、当時の指導層の分析はどうだったか?
当時、近衛文麿のブレーンの一人だった、蝋山政道(東京帝国大学行政学教授)を分析した人がいる.蝋山は「東亜新秩序」を考え出した人だが、彼によれば2つの敵があるという.1つは中国民族主義であり、もう1つはこれを利用する西欧帝国主義だ.東アジアの地域主義的な秩序原理を認めない支那人のナショナリズムであり、それを応援する欧米の帝国主義だという.
過去、満洲事変のころから支那の態度はわが国で問題視されていた.国際条約を守らない、自分勝手で自己中心主義だ.このあたりは尖閣諸島や、南シナ海での近頃の横暴な態度をみると、支那人(中国人)はあまり変わっていないことがわかる.こうした暴戻な支那に対して正当な「報復」に出ることが正義の元だったのだ.
ところが、1937年の支那事変から、少し、わが国の気分も変わってきていることが明らかになってきている.中国のナショナリズムが、どうやら「西欧的な国家間秩序を楯にして民族国家だと言っている」ことが不当だと非難し始めるのが言論界での主流になっていった.
つまり、支那は民族が生き残るためには地域的なつながりに頼るしかないだろうというのだ.三木清、尾崎秀美などは、そういう支那の頑固さが、農業生産において半封建的、半植民地的な現状に国の実態をとどめている原因になっていると主張した.だから、日本・支那・満洲の「運命共同体」たる3カ国の超国家体として協調せざるを得ないだろう.であるのに、国民政府は支那のナショナリズムをいまだに主張して、抵抗している.
▼ハル=ノートは誤訳だったか?
日米交渉史は研究がずいぶん進んでいる.詳細の紹介はまた別の機会にするが、興味深い指摘をする論者が出てきている.それは、どれほどアメリカは日本語に堪能だったか、あるいは日本側の英語の理解レベルはどうだったかという疑いが元になっている.
大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日記という文書が残っている.そこにハル=ノートを読まされた陸軍幕僚たちの反応が書いてある.
『米の回答全く高圧的なり、而も意図極めて明確、九国条約の再確認是なり.対極東政策に何ら変更を加ふるの誠意全くなし.交渉は勿論決裂なり.之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり、芽出度芽出度、之を天佑とも云ふべし.之に依り国民の腹も堅固まるべし、国論も一致し易かるべし』
これに元外務官僚だった多賀敏行氏が「ハル=ノートに誤訳があるのでは」と疑問を出している.『チャイナ及びインドシナからの完全撤退』と書いてあるが、このチャイナには満洲国は含まれるのかどうかというのが問題だという.
それは、当時の陸軍軍人にとっては、満洲も含まれると考えていたからだ.ところが、アメリカは含まれていなかったと戦後ずいぶん経ってから表明している.英米は当時、満洲国を認めていないのだから、マンチュリアは当然、チャイナに含まれる.日露戦争以前に戻れというのか、ふざけるなという考え方もあるし、アメリカが当時、撤兵の範囲に満洲を含めていなかったなら別のやり方があったという考え方もある.
さらに日米開戦については研究が進むことだろう.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:おき軍事
件名:コンタクト 〜接敵〜
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軍事情報特別連載
フランス外人部隊・日本人衛生兵のアフガニスタン戦争
Vol.21
陸上自衛官を志すも挫折.自分が立派な兵士になれることを証明するため
渡仏し、外人部隊への入隊を果たした衛生兵が、最前線で体験した
アフガニスタン戦争の実像をお伝えします.
2012年(平成24年)7月30日(月)
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□はじめに
私の通う看護学校も夏休みに入りました.宿題もたくさん出ました.
そのなかに「看護現場におけるストレスの種類と解消法について、
関連文献の要約と自分の意見を書け」というレポート課題があります.
1冊、本を選んで、それについて書かなければならないのですが、
よい本を見つけました.
下園壮太著「ナースのためのストレスコントロール術」です.
本書の初めの一文を読み、即決しました.「私は、陸上自衛隊の
ストレスコントロール教官です」とのことです.
自衛隊式ストレス対処法で、私も看護のストレスを切り抜けられる
ようになりたいです.
それでは連載にまいりましょう.
▼コンタクト 〜接敵〜
まだ暗いなか、我々は暗視装置を使い、VABで道路を進んで行く.
あと30分くらいで明るくなるだろう.道路はしっかりと舗装されて
いるが、その周りは荒野や山だ.ところどころに村がある.
さらに進むと、道路沿いに小さな集落があった.土や石でできた家屋が
5軒ほどある.暗視装置を通して家々の周りに目を凝らすが、
人影はなく、犬すらいない.私はすぐに前方に視線を戻した.
集落を過ぎ、下り坂になった.下るとすぐに上り坂になったが、
坂の途中で車列が速度を落とした.停車するのだろう.
私は右路肩にVABを寄せた.道路中央に停車したら、追い越す車両や
対向車が来たとき邪魔になる.
車列が停まった.なんの無線連絡もないまま、停車して5分くらい
経ったが全然動きださない.エンジン音がうるさくて耳に不快なうえ、
燃料を節約したかったのでエンジンを切った.
理想的には、停車時もエンジンはつけておいたほうがいい.
突然、敵が襲撃してきた場合、すぐに発車できる.エンジンを切った
状態だと、エンジンをかける段取りが必要となり、そのぶん遅くなる.
運が悪ければ、エンジンがかからないというハプニングに見舞われる
かもしれない.
普段から私はミッサニ伍長とともに、VABのメンテナンスを他人以上に
実施していたので、エンジンがかからないはずはないだろう.
万一、かからなかったら、車内から応戦しよう.VABを乗り捨てて
離脱してもいい.
エンジンを切ったら、とても静かになった.我々の前にいるADUの
VABもエンジンを切っている.となりの助手席を見たが、プルキエ少佐は
座席の上に立ち、上半身を回転式砲塔に出しているため、顔は見えない.
車窓から左側を見ると、道路のすぐ向こうには丘があった.
あの丘のからは敵の潜む村が見えるはずだ.つまりこの坂を登りきれば、
その村が見えてくるだろう.
車列の前方にいた戦闘中隊のVABや中隊長班のVABは、きっと村に
対して横一列の車両編隊を組み、車間距離を50mくらいとり、
だだっ広い荒野を進む準備を整えているのだろう.
そして、長距離の火力支援や観測を行なう班は、村とは反対方向へ
進み、山を少し登り、村を見渡せる地点に向かっているのだろう.
対戦車ミサイル「ミラン」を扱うミラン班、「PGMエカット2」という
12.7mm口径の狙撃銃を使用するTE(Tireur d’Elite=精鋭射手)班、
そして35RAP(第35砲兵パラシュート連隊)の観測班がそれだ.
やがて明るくなった.暗視装置をヘルメットから外し、クッション
代わりのネックウォーマーに包んでポーチにしまった.上り坂の
我々の前方には、ADUのVABがあり、その前には2台のVABが見える.
17RGP(第17工兵パラシュート連隊)所属の工兵小隊のVABだ.
それより先は坂を登りきった地点より向こう側なので見えない.
「クリーク、ガーネット、予定通りの配置につけ.」
無線から中隊長の命令が聞こえた.「クリーク」はADU、
「ガーネット」は工兵小隊のコールサインだ.この場合、我々医療班と
車両整備班のVABはADUのVABについて行く.私はVABのエンジンをかけた.
「クリーク、ルスュ(クリーク、了解).」
「ガーネット、ルスュ(ガーネット、了解).」
ADUと工兵小隊の小隊長が無線で応答し、前方に見える工兵車列と
ADUのVABが前進を始めた.私はそれにつづいた.サイドミラーに
目をやると、後方にいる車両整備班のVABが発車したのが見える.
こうやって後方を確認することは絶対に忘れてはいけない.
特に一旦停止したあとに、再び前進するときはなおさらだ.
もし、運転手も助手席の者も睡魔にやられるなどして、前進する車列に
ついて来なかったら、部隊が離ればなれになってしまう.
VABの後部のハッチから周囲を警戒する兵士がいたりするので、
そのような事態は起こりにくいが、1度、フランス南部の演習で
起きたことがある.疲れがピークとなる演習最後の夜中、一旦停止
したあと、最後尾のVABの乗員が眠りに落ちてしまい、1台だけ
置き去りにされてしまった.あのときは私も運転手を務めていたが、
私自身もときどき居眠り運転をしてしまった.
今はまだ任務開始から間もないので、疲れておらず、その心配は
なかった.そのまま我々は進み、坂を登りきった.広い荒野が
目の前に広がる.その景色をじっくり眺めたかったが、すぐに下り坂
となった.
坂を下ると、先ほど見えた広い荒野より低い場所に来た.
再び道路は登り坂になっているが、工兵小隊の車列は右方向へと
道路から外れた.ADU、我々、車両整備班のVABもそれにつづく.
周辺より少し低くなった地形の場所を我々は進んだ.
ここはワディ(涸れ谷)だろう.やがて工兵小隊のVAB
4台が半円形の
編隊を成して停車した.我々3台は彼らの反対方向に向かって半円形
の編隊を成し、全体で円形の360度警戒の拠点が完成した.
「クリーク、配置についた.」
「ガーネット、配置についた.」
それらの無線報告に中隊長が答える.
「了解.全隊、グリーンゾーンに対し引きつづき警戒せよ.」
「グリーンゾーン」とは、イラクのグリーンゾーンのように、
国際部隊が統制する安全地帯のことではない.アフガニスタンに
おいては、それとは真逆に、危険地帯のことをいう.肥沃な農村
地帯で緑が多いことから、そういう名称がつけられたらしいが、
ここではほとんど緑は見られず、枯れた木々や、乾いた荒野しか
見えない.
我々はグリーンゾーンを眺めることのできないワディで待機だ.
医療班は負傷者が発生するのを待つ.正直、つまらない.戦闘小隊
みたいに最前線に立ちたいと思った.しかたがない.これが私の
役割だ.
その頃、戦闘小隊と中隊長、副中隊長のVABはグリーンゾーンに
面して横一列となっていた.村の端の家々から800mほどの位置に
いたらしい.
ミラン班、TE班、観測班はもう少し後方の小高くなった位置に陣取り、
村を監視していた.ミランやPGM狙撃銃の射程を考えると、2kmを
越えて離れることはないが、私には正確な位置を知るすべがない.
我々はエンジンを切り、待機した.これからどんどん陽が昇り、
暑くなっていく.
何も起きないまま、時間だけが過ぎていく.30分・・・1時間・・・.
上空からは、「パタパタパタ・・・」や「ブゥゥゥゥゥン」という音
が聞こえてくる.米軍ヘリ「カイオワ」と仏軍のドローンだ.
ドローンは、音はするが、機体を見つけることができなかった.
カイオワやドローンの音を聞きながら、じっと待った.結局何も
起きないのだろうか?まあ、そういうこともある.グリーンゾーン
にもっと近づかないのか?RPGでやられる.
10時50分ころ、35RAPの観測班からの無線交信が聞こえた.
「村のモスク(イスラム寺院)にAK、PKM、RPGで武装した男たち13名
が入って行った.」
その10分後、さらに報告が無線で伝えられる.
「モスクから13名が出た.武装している.」
「了解」
中隊長が応答する.
モスクの周りは広場になっており、監視所からよく見えるが、
そこから通路に敵が入ると見失ってしまう.通路の両脇に沿って、
高さ2mほどの土壁が連なっているからだ.ヘリやドローンが敵の
真上から観測すれば見つけられることもあるが、意外と難しい
らしい.農具を持った非戦闘員の村人たちもいる.
新たに無線交信が入った.今度は、アフガン陸軍と行動をともに
している仏軍OMLT部隊の小隊長から、われわれ第3中隊の中隊長
への交信だ.
「ブラック(中隊長コールサイン)、こちらオリオン(OMLTコール
サイン).これよりANA(アフガン国軍)とともにそちらへ向かう.」
OMLTとアフガン陸軍部隊も作戦に参加するようだ.
OMLTのVAB数台とアフガン陸軍のハンヴィーやトヨタ・ピックアップ
トラック数台は、南側から戦闘小隊のVAB群にむけて、荒野を北上
していた.我々の待機しているワディの下流域を横切るのが遠くに
見え、すぐに見えなくなった.もうすぐ第3中隊のVAB群に合流する
だろう.
突然、無線からOMLT隊長の大声が聞こえた.
「オリオン、コンタクト(接敵)!」
ついに始まった.私はVABの座席に深く座りなおした.
パパパパン・・・.敵のAK小銃の連射音が離れた我々のもとに
聞こえてきた.「あぁ、本当に撃ってくるもんなんだなぁ.本当に
敵って存在するんだなぁ.本当にここは戦争してるんだなぁ」と
思った.
OMLT隊長がその敵の位置を無線で皆に知らせようと、あらかじめ
部隊で決められている村内区画のコールサインを、興奮で声を
荒げて言った.
「エコー8地点より敵の攻撃あり!現在、応戦中!
“バンバンバンバンバンバン・・・”」
交信の最後に、OMLTのVABに搭載されたブローニングM2重機関銃が
12.7mm弾を連射する爆音がまぎれこんだ.その1〜2秒後、遠くから
「バンバンバンバンバンバン・・・」という連射音が私の耳に届いた.
無線で聞いたM2重機関銃の連射音と同一のもので、音が空気を伝わる
速度より、無線電波の速度のほうが速いため、ズレが発生したのだ.
あたりまえの現象ではあるが、理科の実験を成功させる小学生の
ように感動した.
ついに交戦となった今、我が中隊はどう動くのか?
負傷者が発生し、我々医療班の出番は来るのか?
気が引き締まった.
(つづく)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
■ コラム:“MBAの視座・視野・視点”
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もしかすると、あなたの会社はマーケティング戦略を駆使して、“クロス
セリング”を実施して売上をアップさせようと努力しているかもしれません.
クロスセリングとは顧客が購入した商品やサービスと関連性の高いものを
勧めて、“併せ買い”をしてもらうマーケティングテクニックです.
たとえば、マクドナルドはかつてプレミアムローストコーヒーを無料で
提供するキャンペーンを実施しましたが、これはハンバーガーやポテトなど
“クロスセリング”を行うことによって、無料でコーヒーを配っても、ある
程度の売上アップが見込めることを確信したうえでのキャンペーンといえます.
確かにクロスセリングは売上アップには有効な手段といえますが、誰彼
かまわずに実施すれば大きな損失につながることもあるので注意が必要です.
私達は、思考回路の中で『売上増は、利益増につながる』と結び付けがち
ですが、実際にはたとえ売上が増加したとしても、コストがかさんで
損失が拡大していくことも考えられるからです.
このクロスセリングが業績に悪影響を及ぼす実態について、ジョージア州立
大学のシャー教授とクマー教授が非常に興味深い調査を行っています.
何社もの顧客の取引データを調査したところ、クロスセリングを実施した
5人に1人は儲けが出ておらず、その顧客損失の合計は実に全体の70%にも
達していたというのです.
このような顧客に対して売上を増やすためにクロスセリングを実施すれば
、売上を増やせば増やすほど損失が拡大していくという企業にとっては
由々しき問題につながっていきます.
そして、この調査を通して、クロスセリングを実施するに当たって
注意すべき次の4つの顧客像が浮き彫りになったそうです.
1.過度なサービスを求める顧客
企業のクロスセリングの勧めに応じて追加購入を行っても、
担当者に過度のサービスを求める顧客は損失につながっていきます.
このタイプの顧客は、取引頻度や点数、額などが大きいために一見優良顧客と
みなされることもあるかもしれませんが、売上以上にコストがかさみ、
実質損失の発生している顧客といえるでしょう.
2.売上を「持ち去る」顧客
顧客の中には一旦企業に売上をもたらしますが、その後に「持ち去って」
しまうタイプの顧客も存在します.
たとえば、小売業でいえば、購入してもすぐに返品する顧客、携帯電話業界で
いえば、割引を受けるためにオプション契約しても即日に契約解除してしまう
顧客などが当てはまるでしょう.
このような売上を「持ち去る」顧客が増えれば、売上は一瞬は増えるかも
しれませんが、返品や契約解除に伴う事務負担のコストも増加し、
損失が拡大していくことにつながっていきます.
3.安売り狙いの顧客
顧客の中には定価で商品を購入することに全く興味がなく、目玉商品だけを
狙って購入する“チェリーピッカー”と呼ばれる顧客もいます.
たとえば、スーパーや家電量販店が客寄せのために赤字覚悟で用意した
セール品だけを購入し、その他の商品には目もくれない顧客です.
このタイプの顧客は企業にとって利益の出る商品には手を出さず、
特売品のみを購入するために損失が膨らんでいくのです.
4.財布の紐を緩めない顧客
一社から多くを購入しないという特徴を持った顧客も存在します.
このタイプの顧客はクロスセリングを行っても、売上点数は思うように増えず、
コストばかりがかさんで顧客損失につながっていくことになります.
企業が最終的に利益をアップさせていくためには、これら自社に損失をもたら
す顧客を見極め適切なマーケティングを実施していかなければいけません.
闇雲にクロスセリングを実施して売上アップを図るのではなく、顧客のタイプ
に応じた“スマートセリング”を実施する必要があるといえるでしょう.
たとえば、安売り狙いの顧客であれば、特売品の購入点数を制限するなどして
一人当たりの損失を最小限に食い止める策を実施していかなければいけません.
また、特に問題の大きい顧客は「デ・マーケティング」を実施して、
場合によっては取引を解消する必要があるかもしれません.
たとえば、過度なサービスを要求する顧客に対しては、コストにつながる
過度なサービスをお断りして、適正なサービス水準に戻していく必要も
あるでしょう.
いずれにしろ、企業は売上アップを図るためにクロスセリングを実施する
際には、クロスセリングによる売上増がそのまま利益増につながるかどうかを
数値で検証しながら、顧客毎に正しいマーケティングを行っていく
必要があるのです.
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2013.5.31
From:家村和幸
件名:武士道精神入門(14)
--武士たちが遺した教え:西郷隆盛の言葉(『南洲翁遺訓』から)--
2013年(平成25年)5月31日(金)
▽ ごあいさつ
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
今回は「武士たちが遺した教え」の最終回といたしまして、明治維新の立て役者でありながら、西南の役に散った“ラスト・サムライ”西郷隆盛の言葉を『南洲翁遺訓』の中から紹介します.
『南洲翁遺訓』は本編だけで41ヵ条が残されていますが、いずれも含蓄のあるものばかりで、西郷隆盛がいかに高潔な人物であったかを知ることができます.しかしながら長文であるため、本メルマガではその半分のみを抜粋して紹介いたします.
なお、日本兵法研究会ホームページ「武士道精神」のコーナーに『南洲翁遺訓』の全条文を掲示しましたので、こちらも是非ご一読ください.
日本兵法研究会ホームページ
http://heiho-ken.sakura.ne.jp/
さらに詳しく学びたい方には、『「南洲翁遺訓」を読む わが西郷隆盛論
』渡部昇一著(致知出版社)をお勧めいたします.
それでは、本題に入ります
【第14回】武士たちが遺した教え:西郷隆盛の言葉(『南洲翁遺訓』から)
▽『南洲翁遺訓』について(解説)
西郷隆盛は武士道の極致ともいうべき“無私無欲”の精神を自らの信条として生きた人だった.だからこそ、多くの武士達が西郷の人徳に魅(ひ)かれ、彼のためには命を捨ててもかまわないとの気概を持つことによって、明治維新が成ったのである.
この西郷の高潔なる人格を形成していた信条とはなんだったのか.あるいは西郷を西郷ならしめた思想とはどのようなものであったのだろうか.それを理解するのに大いに役立つのが、この『南洲翁遺訓』という書物である.
『南洲翁遺訓』は西郷隆盛自身が書き残したものではない.彼の人格に深く打たれた庄内藩の武士が、その言葉を「遺訓」として後世に残したものである.
庄内藩は、戊辰戦争で最後の激戦となった奥羽越列藩同盟の中心的な藩であったが、その終結をもって明治新政府が誕生する.このとき西郷は新政府の総督参謀として、庄内藩に対し寛大な処置をとった.
その温情に感激した庄内藩士たちが、帰郷した西郷のもとを訪ね、親しく西郷の人格に接するうちに、「高潔なる本物の武士とはかくあるものか」とさらに西郷に惚れこみ、その言葉を綴(つづ)ったものが『南洲翁遺訓』となったのである.
▽ 政治家がなすべきこと
一 政府の中心にあって国の政(まつりごと)をやるということは、天道を踏み行うことであるから、少しでも私心を差し挟んではならないものである.徹底的に心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選び、そしてその職務をちゃんとやれる人を挙げて政治を執らせることこそ天意である.
だから、本当に賢明で適任だと認める人がいたならば、すぐに自分の職は譲るぐらいの覚悟がなくてはならないものである.(以下略)
三 政(まつりごと)の根幹は学問を興し、軍備を強くし、農業を奨励するという三つのことである.その他いろいろな事柄は、この三つのものを助けるための手段である.この三つの中で、時代の趨勢によって、どれを先にするか、後にするか、その順序の違いはあるだろうけれども、この文武農の三つを後にして、他を先にすることは絶対ないであろう
四 すべての国民の上に立って政治の責任者は、いつも自分を慎んで、品行を正しくし、驕って贅沢(ぜいたく)な生活をすることのないように慎み、倹約し、仕事に勤勉にやって、人民の手本にならなければならない.
そして、一般国民がその政治家の一生懸命仕事する姿を見て、気の毒に思うようでなければ政治は行われがたいであろう.ところが、維新になって新しい政権が立ったばかりであるのに、立派な家をつくり、立派な着物を着、美しい妾を抱え、自分の財産を増やそうなどということを考えるならば、維新の本当の成果を遂げることはできないであろう.
今となってみると、維新の戦い、戊辰の正義の戦いも結局、私利私欲を肥やす結果になっていて、国に対しても戦死者に対しても面目ないことだと言って、しきりに涙を流された.
▽ 幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し
五 あるとき、「人の志というものは何度も何度もつらい目を経てはじめて固まってくるものである.真の男子たるものは玉となって砕けても、瓦のようになっていつまでも生き長らえることは恥とするものである.自分が我が家に残しておくべき教えとしているものがあるけれども、それを知っているであろうか.
それは子孫のためによい田を買わない、財産を残さないということだ」という七言絶句を示されて、この言葉に違うようなことがあったら、西郷の言うことはやることと反しているといって見限ってもらってもいいと言われた.
七 どんな大きいことでも、またどんな小さいことでも、いつも正道を踏んで、至誠をつくして、決してどんなことでもいつわりのはかりごと(詐謀:さぼう)を用いてはいけない.
人は多くの場合、あることに差し支えが出るときになると、策略を用いるものであるが、いったんその策略を通しておけば、あとはときに応じてなんとかいい工夫ができるように思うものであるけれども、策略というのは必ずそのツケが生じ失敗するものである.正道を踏んでいけば、目の前では回り道しているようだけれども、先にいけば、かえって成功は早いものである.
▽ 国防と外交において重要なこと
一一 (前略)・・自分はかつてある人と議論をしたことがある.「西洋は野蛮だ」と私が言うと、その人は「いや文明だ」と反論した.
「そうじやない、そうじやない、野蛮だ」と畳みかけて言ったところが、「なぜそれほど西洋は野蛮だと言うのですか」と強く言うので、私は「実際に文明というならば、未開の国に対しては、慈愛をもととして懇々として説いて聞かせて開明するほうに導くべきはずなのに、そうではなくて、未開蒙昧な国に対するほどむごたらしく残忍なことをして、自分の利益を図っているのは野蛮なことだ」と言ったところ、その人は口をつぼめて返答できなかったと南洲は笑われました.
一五 常備の兵数も、また会計の制限によるのである.決して無限の虚勢を張ってはいけない.兵隊の士気を鼓舞して、強い兵隊にすることができれば、兵隊の数は少なくとも外国との折衝に当たっても、また敵からなめられることを防ぐにも、事欠くことはないであろう.
一六 道義心や恥を知る心を失っては、国を維持する方法は決してありえない.西洋の各国でもみな同じことである.上に立つ者が下に対して自分の利益だけを求めて正しい道義を忘れるときは、下の者も上のほうにならって、人の心はみな金儲けばかりのほうに向いてしまって、どんどん卑しい心が強くなり、道義だとか恥といったような道徳を失い、親子兄弟の間でも財産争いをし、お互いに敵視するにいたるのである.
このようになっていったならば、何をもって国家を維持することができようか.徳川家は武士の猛き心をなくさせて世の中を治めたけれども、今は昔の戦国の勇猛な武士よりもなお一層勇猛な心を奮い起こさなければ、世界のあらゆる国と相対することはできないのである.(以下略)
一七 正しい道を踏んで、国を賭(か)けて倒れてもやるという精神がなければ、外国との交際はうまくいかないであろう.外国の強大なることに縮みあがってしまって、ただただ円滑に収めることを主として、自国の意思を曲げて言うままになって従うときは軽蔑を招き、親しい交わりをするつもりがかえって壊れ、ついには外国の制圧を受けてしまうのである.
▽ 天を敬い、人を愛する
二〇 どんなに制度や方法を議論しても、そこの現場に当たる人が立派でなければ話にならない.適任者があって、その方法が実際に行われるものであるから、人こそ第一の宝であって、自分もそういうのに適した立派な人間になる心がけが必要なことである.
二一 道というものは、天地自然の道であるから、学問を講ずるという道は「敬天愛人」を目的として、身を修めるには己に克つ(すなわち自分の欲望を抑える)ことと思って終始しなさい.そして、己に克つことの真の到達点は論語にあるように、「わがままをしない、無理押しをしない、固執しない、我をとおさない」ということである.(以下略)
二四 道というものは天地自然のものであって、人はこれにのっとっているものであるから天を敬うことを目的とすべきである.天は他人をも自分をも平等に愛したまうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である.
二五 人を相手にしないで、常に天を相手にするように心がけなさい.天を相手にして、自分の誠をつくして人の非をとがめるようなことはしないで、自分の真心の足りないことを反省しなさい.
二六 自分を愛する(自分のことを第一に考える)ということはよくないことのいちばんのことである.修業ができないのも、事業が成功しないのも、間違ったことを改めることができないのも、自分の手柄を誇って生意気になるのも全部、自分を愛するためであるから、決して自分を愛してはならないものである.
二七 間違ったときに改めるにあたっては、自分が誤ったと思いついたらそれでいい.そのことをさっぱり思い捨てて、ただちに一歩前進することだ.間違ったことを悔しく思って取り繕おうとして心配するのは、例えば茶碗を割って、そのかけらを集めているのと同じことでどうしようもないことである.
▽ 道を踏み行う
二九 聖人の道を踏み行う人はどうしてもいろいろな困難や災厄に遭うものであるから、どんな苦しい難難に遭っても、そのことが成功するか失敗するかということ、自分が生きるか死ぬかということにあまりこだわってはいけないのである.
事を行うのには上手と下手があり、ものには出来る人と出来ない人があり、自然と道を踏み行うことについて疑念を持ち心を動かす人もあるけれども、人は道を行うことになっているものであるから、道を踏み行うには上手も下手もなく、出来ない人というのはいない.だから、道を踏み行うことだけは誰でもできるものである.(以下略)
三一 正しい道義を行っていく者は、国中の人が寄ってたかってそしるようなことがあっても、不満は言わず、天下をあげて誉めても、十分満足しない.それは自らを信じるのが厚いからである.(以下略)
三三 平生から道義を踏み行っていない人は、ある事件に出合うとあわてふためいて、適切な処理ができないものである.例えば近くで火事があった場合、平生そのときの心構えを持っている人は動揺をしないで始末がよくできるのである.
ところがいつも、そういう心がけのできない人たちはただただあわてふためいて、なかなか処理することができるどころではないものである.それと同じで、平生道を踏み行っている者でなければ、新しい事態が起こったときに、対策は出てこないものである.(以下略)
三五 人をごまかして陰でこそこそ事を企てる者は、たとえそのことがうまく行われても、慧眼(けいがん)の人から見れば実に醜いものであるぞ.人に対しては常に公平で真心をこめて接しなければならない.公平でなければ傑出した人間の心は決してつかむことができないものであるぞよ.
▽ 天下は誠にあらざれば動かず.才にあらざれば治まらず
三六 聖人賢士になろうとする志もなく、また昔の立派な人がやったことを見て、「とても私にはできることではない」というような心がけならば、戦に臨んで逃げるよりもなお卑怯なことである.昔、朱子も、白刃を見て逃げる者はどうしようもならぬと言われたものである.
誠意をもって聖賢の本を読み、その聖賢たちが事にあたってやった精神を身につけ、自分の心の中で検証するような修行もせず、ただ「このような言葉があった」とか 「このような事があった」などというようなことを知っても、そんなものは何の役にも立たないものだ.・・(中略)・・聖賢の書物をただうわべだけで読むだけならば、例えば他人が剣術をやっているのを脇から見ているのと同じで、少しも体得できないものである.自分で体得できないならば、万一「刀をもって立ち合え」と言われた場合は、逃げるよりほかないであろう.
三八 世の中の人がよく言うチャンスというのは、多くはまぐれ当たりで得た幸せのことである.本当のチャンスというのは、道理をつくして行って、そして時勢の動きをよく見極めて動くということから生ずるものである.平生、国や世の中のことを憂うる真心が厚くもないのに、ただ時のはずみに乗って成功したというものは決して長続きしないものであるぞよ.
三九 今の人は才能、知識があれば事業はどんなものでも思うように成功するものだと思っているけれども、才に任せてやるのは危なくて見ておられないものであるぞ.実質的なものがあってこそその応用が利くのである.(以下略)
四一 自分で修養し、自分の心を正しくして立派な紳士の形をしても、ことに当たってその処理が十分できなければ、それは木でつくった人形と同じことである.
例えば、数十人の御客さんがにわかに押しかけてきた場合、たとえどんなにもてなそうと思っても、前から茶碗とか道具の準備ができていなければ、ただ心配するだけでもてなしのしようがないであろう.いつでもそういう道具の準備があれば、何人来ても数に応じて接待することができるものである.だから、平生の用心が肝腎だと言って、古い言葉を書いてくださった.
学問というのは文筆の業(わざ)をいうのではない.必ず事を処するの才あることをいうのである.武というのは剣や楯をうまく使うことではないぞよ.必ず敵を知って、これに対応する知恵があることをいうのである.才能と知恵のあるところはただ一でそこがもとなのである.
現代語訳文出典:渡部昇一著『「南洲翁遺訓」を読む わが西郷隆盛論
』致知出版社
(「西郷隆盛の言葉(『南洲翁遺訓』から)」終り)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:長南政義
件名:トーチ作戦とインテリジェンス(13)
2013年(平成25年)5月30日(木)
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軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
トーチ作戦とインテリジェンス(13)
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取材・インタビュー・原稿作成・webコンテンツ用テキスト文作成・自費出版の
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ついて執筆活動を展開しております. ライター・平藤清刀
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WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは
「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である.
前回は、食糧管理官である副領事たる十二使徒たちの活動とその意義について述べた.
副領事の最初のグループがアルジェリアに到着したのは、1941年6月10日のことであり、残りが到着したのはその年の7月になってからであった.副領事は、カサブランカ、サフィー、オラン、アルジェ、ビゼルトおよびチュニスといったフランス領北アフリカのあらゆる地域に置かれた.いずれも、表面上は各地の領事の下で活動しており、領事たちも十二使徒たちの真の活動については知らされていなかった.
十二使徒たちは、「副領事」という肩書を隠れ蓑にして、ドイツ・イタリア休戦監視委員会に関する情報を収集し、フランス艦隊の移動状況を報告し、フランス人植民地主義者および現地住民両方にいる反ヴィシー政権派と接触を試みた.
フランス領北アフリカに所在するゲシュタポやドイツ・イタリア休戦監視委員会も十二使徒たちが副領事という表の肩書の裏で展開していた諜報活動を把握することができなかった.インテリジェンスの専門用語に、「カバー」という用語がある.カバーとは、諜報員であることを隠すために諜報員に対して与えられる擬装用の肩書・経歴のことである.このケースでは、副領事というカバーが効果的であったのだ.
十二使徒たちが果たした役割は大きなものがあった.すなわち、素人諜報員である十二使徒たちは、大統領が軍事的活動に正式に承認を与えるはるか以前に、フランス領北アフリカに駐留する軍隊に関するあらゆるオペレーショナル・レヴェルの情報を収集していたのである.
また、十二使徒たちの活動により、トーチ作戦で実際と戦場になった地域の住民感情や地誌などが明確になったため、米国が同地域に軍隊を送る決定をした際に米軍の活動がスムーズに展開できた.
今回から数回にわたり、OSSの創設過程について考察する.
【すべてはニューヨークの弁護士とともに始まった】
1974年、後にCIA長官に就任するウィリアム・ケーシーは、
「米国にいる我々にとって、すべてのことは、米国が致命的な脅威に直面していることを知り、準備も出来ていなければ何も知らされていないことを知るニューヨークの弁護士と共に始まった.ウィリアム・ドノヴァンがルーズヴェルト大統領の唯一人の中央情報局であった1940年から1941年にかけての時期が存在したことを、今日の我々が理解することは困難である」
と述べている(トーマス・F・トロイ『ワイルド・ビルとイントレピッド 〜ドノヴァン、スティーヴンスンおよびCIAの起源〜』原題:Wild
Bill and Intrepid Donovan, Stephenson, and
the Origin of CIA.).
ケーシーによるこの発言は、第二次世界大戦に参戦する前の米国が、(1)インテリジェンスの面で組織面でも運用面でも全く準備ができていなかったこと、および
(2)CIA設立に至る米国の諜報機関の創設に果たしたウィリアム・“ワイルド・ビル”・ドノヴァンの役割の大きさを示している.
では、第二次世界大戦参戦以前の米国のインテリジェンスの状態はどのようなものであり、ドノヴァンとはどのような人物であったのか?
【第二次世界大戦参戦以前はお粗末だった米国のインテリジェンス】
欧州で二度目の世界大戦が勃発した時、米国は、世界の主要都市の裏通りで金庫破りや窃盗を行うような好ましくない人間たちと国家レヴェルで接触し活動する能力を有していなかった.換言すると、人間を媒介とした諜報活動であるヒューミントで代表的なコバート・アクション(秘密活動)を本格的に展開する能力に欠けていたのである.
1909年に諜報機関を公的に創設した英国、1913年に創設したドイツ、1917年に創設したロシアおよび1935年に創設したフランスと異なり、米国は、
1941年の夏までインテリジェンスを収集分析する中央機関を持っていなかったのだ.当時の米国が持っていたのはインテリジェンスの収集分析を行うために
組織されたゆるやかな組織の集合体であって中央機関とよべるようなものではなく、しかもコバート・アクションのようなスパイ小説まがいの活動は展開せず紳士的な活動のみしか行っていなかった.
さらに、シギント(通信・信号などを媒介とした諜報活動.当時の米国は通信傍受がメイン)や暗号解読を行うために存在していた各組織は、予算も人員も不足していた.これらの組織は、予算獲得のために相互に争っていただけではなく、政府内の政治的影響力を持った有力者の支持を取り付けて他機関よりも有利な地位
を得ようと争ってもいた.しかし、こういったことのすべては、わずか2年間のうちに劇的に変化する.
1941年夏までに、米国政府は、このようなダーティーで汚れた側面を有するスパイ活動をすることができる要員を雇用したのだ.そのようなダーティーなスパイ活動には、大使館から国家機密文書を盗んできたり、他国のエージェントを誘惑して二重スパイに仕立てたり、抵抗組織を確立するために敵戦線後方にパラシュートで降下したり、指揮官が作戦計画を立案・遂行するのに必要な情報を収集したりすることが含まれていた.
【戦間期におけるインテリジェンスの空白期間が生み出した真珠湾奇襲】
しかしながら、戦間期にインテリジェンスの空白期間が存在したことがネックであった.1941年12月7日(ハワイ時間.日本時間では8日)の真珠湾攻撃の後に米国国内で巻き起こった政府に対する非難の声は、米国政府のインテリジェンス収集分析の真実の状態を鋭く衝く形となった.
実のところ、ルーズヴェルト大統領とその側近たちは、米国のインテリジェンス機関の能力が不充分であることをずっと以前から知っていた.『ルーズヴェルトの秘密戦争』(原題:Roosevelt's
Secret War)の著者であるジョセフ・E・パーシコは、大統領に就任し、FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局により提供される情報を評価したルーズヴェルトは、以下のように感じたという.
「インテリジェンスの空白が満たされなければならないことは疑う余地のないことである.戦争の以前でさえ、ルーズヴェルトは国務長官コーデル・ハルに対して自身のいら立ちを表現していた.FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局は、『絶えず互いの道を交錯している』と、ルーズヴェルトはハルに不満を述べて
いる.
このインテリジェンス活動の重複は、資源の浪費であり、予算を高騰させ、非効率であると、ルーズヴェルト大統領は非難した.彼はこれら三つの機関の活動がうまく調整されることを希望したのである」(ジョセフ・E・パーシコ『ルーズヴェルトの秘密戦争』原題:Roosevelt's
Secret War).
【インテリジェンス機関同士の活動を調整しようとしたルーズヴェルトの試み】
ルーズヴェルトはインテリジェンス機関同士の活動を調整することの必要性を公然と述べると共に、活動の未調整から生じる空白部分を個人的にうめようと試みた.
すなわち、ルーズヴェルトは、ルーズヴェルトを直接補佐するために億万長者のウィリアム・ヴィンセント・アスターのような友人たちを雇ったのである.さらに、ルーズヴェルトは、インテリジェンスの穴をうめるためにFBI長官エドガー・フーヴァーや国務長官コーデル・ハルといった政府職員に対してインテリジェンス関係の指示を直接出し始めた.
フーヴァーやハルについては読者もご存知であろうから、本稿ではヴィンセント・アスターについて説明したい.ニューヨークには、アスター・パレス、高級ホテルであるウォ
ルドルフ・アストリア、アスター・ホールといったアスターの名がつく建築物が多数現存しているが、これらはすべてアスター家にちなむものである.
もともと毛皮貿易で財をなしたアスター家は不動産事業に進出し億万長者となった.ヴィンセント・アスターの父ジョン・ジェイコブ・アスター四世はタイタニック号に
乗り合わせて死去し、その後を継いだのがヴィンセントであった.ヴィンセントは、不動産業のほかにも慈善事業やニューズウィーク誌の大株主を務めるなど顔が広く情報関係の任務にはうってつけの人物であった.
ルーズヴェルトは、最初、世界中で情報を収集する活動を調整する任務を国務次官補ジョージ・ストラウサー・メッサースミスに課したが、これも国務長官コーデル・ハルを通じてなされたものであった.メッサースミスの任務は、国務省、FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局間の調整を行うことにあった.メッサースミスが、国務省入省前に公立学校で教鞭をとる教員であったことは本連載でも紹介したとおりだ.
この初期の準備段階では、ルーズヴェルトは、世界の各地域の問題に関する情報を収集するためにルーズヴェルト個人のために直接働くように、自身が登用した人物に対して要求していた.つまり、まだ、真の意味でのインテリジェンス機関同士の調整はなされていなかったのである.そして、ルーズヴェルトのために働く人々の一人に、ウィリアム・ジョセフ・ドノヴァン陸軍大佐がいた.
次回からは、ウィリアム・ドノヴァンの略歴とその活動について述べることとする.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:長南政義
件名:マッカーサー執務室を見学
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軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(23)
1950年11月に起きた「中国人民義勇軍の参戦に伴う国連軍の敗北」を
素材として、朝鮮戦争における「情報の失敗」を検討します.情報を
提供「された」側(高級指揮官や作戦立案者)だけでなく、情報を
提供「する」側にも、失敗への責任はあるのです.
2012年(平成24年)7月26日(木)
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□はじめに
こんにちは.長南です.
梅雨もあけましていよいよ夏本番となりました.
先週、約10年ぶりに限定公開された東京日比谷の第一生命保険株式会社
日比谷本社ビル(DNタワー21)6Fにあるマッカーサー執務室を
見学してまいりました.
本連載の主人公の一人であるダグラス・マッカーサーが、
連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官として、昭和20年9月から
昭和26年4月までの長きにわたり、江戸城日比谷濠を挟んで皇居を
望むビル6Fの執務室から、統治下の日本を見下ろしていたことを
考えると感慨深いものがありました.
本題に入る前に、本連載の舞台となっているマッカーサーの
執務室について解説してみます.
▽第一生命館の接収まで
昭和20年8月30日、マッカーサーの専用機「バターン号」が
厚木飛行場に着陸し、細いコーンパイプをくわえたマッカーサーは
タラップを降りて日本への第一歩を踏み出しました.
マッカーサーは「メルボルンから東京へ長い道のりだった」との
有名な第一声を発し、先遣隊とともに横浜へと進駐しました.
マッカーサーの厚木到着から一週間が経過した9月7日、GHQ参謀副長の
イーストウッド准将が工兵隊司令官ケイシー少将と共に第一生命を訪問し、
GHQの庁舎として第一生命館を使用するので了承されたいと申し入れます.
翌8日、マッカーサーは帝国ホテルで開催される昼餐会に先立って
約20分間ほど周辺を視察し、第一生命館を初めて目にします.
当日、予定では部下の将校がGHQ庁舎として接収される候補物件
を検分するはずでしたが、第一印象でよほど気に入ったのか、
マッカーサー自らが、第一生命館に足を運び第一生命の矢野一郎
常務取締役らの案内で第一生命館6Fの社長室及ひ貴賓室などを
検分します.第一生命館視察後、マッカーサーは視察を予定していた
ほかの物件を見ることなく横浜に帰還します.そして、この日、
イーストウッド准将から接収の内意が口頭で第一生命側に伝えられます.
9月10日、日本政府から第一生命側に第一生命館を接収する旨の
通知が正式に伝達されます.第一生命配布パンフレットによれば、
「(1)建物の地上部分はすべて接収、地下の使用は会社に任す.
(2)書類を除き家具その他一切の持ち出しを禁止する.
(3)明け渡しの期限は9月15日正午とする」といった事項が通知
されたとのことです.
9月15日正午、第一生命館がGHQ側に引き渡されました.
▽マッカーサーの執務室
マッカーサーが執務室として使用した部屋は、第一生命館の接収
に伴い、第一生命社長室として使用されていた部屋をマッカーサーが
執務室として使った一室で、現存する机やイスは、第三代社長石坂
泰三氏使用のものをマッカーサーがそのまま使用したものでした.
執務室の広さは約54平方メートル(16坪)で、インテリアはテューダー王朝風、
部屋の壁面はアメリカ産のクルミの木、床面は楢・桜・樫・黒檀など
の寄木細工で出来ており、質素ながらも非常に重厚な造りでした.
マッカーサーは「華美を嫌い、質素を好んだ」といわれていますが、
部屋の雰囲気はそのマッカーサーの好みを髣髴とさせるものがありました.
壁面には英国人画家F.J.オルドリッジの筆による「アドリヤ海の
漁船」「干潮」の二枚の絵が飾ってありましたが、これも接収以前
から社長室に掲げてあった絵をヨット好きのマッカーサーが気に入り
接収後もこの絵をそのままにしておいたそうです.
特徴的だったのは、執務室の机で、引き出しがありません.
これは、マッカーサーが几帳面で即断即決型の人物であり書類を
入れるような引き出しが不要だったためで、マッカーサーはこの机を
愛用していたということでした.
▽GHQ草案とマッカーサーの一日
余談ながら、よく誤解される間違いとして、昭和天皇がマッカーサー
と面会し有名な写真を撮影したのはこの第一生命館の執務室であると
いうものがありますが、実際の会見が行われたのは当時の米国大使館
であり、この執務室ではありません.ただ、この第一生命館には、
連合国軍総司令部民政局が置かれ、天皇大権が強かった大日本帝国憲法
を改め、天皇の神格化を否定し日本国の象徴とする日本国憲法の原案
となったGHQ草案が作成されたため、同じ建物内にあった
マッカーサー執務室でも憲法にまつわる話し合いがなされたのかもしれません.
第一生命配布のパンフレットによれば、マッカーサーの日常は
以下のようなものであったそうです.
マッカーサーは、午前10時30分に、住居としていたアメリカ大使館
を出発し第一生命ビルに向かい執務を行い、午後になると昼食をとる
ために大使館に一時帰還し、短時間昼寝をした後に再び第一生命ビル
に戻り、夜遅くまで執務したそうです.マッカーサーが部下に厳しく
ハードワークを強いたのは有名な話ですが、第一生命配布のパンフ
レットによれば、「自身もよく働き、目がかすんで時計の針がよく
見えなくなるまでオフィスを離れようとしなかった」そうです.
ちなみに、現在、マッカーサー記念室として保存されている執務室
にはサミュエル・ウルマン原作の「青春」と題する詩の記念碑が
置かれています.この詩は「青春とは人生のある期間を言うのでは
なく、心の様相を言うのだ.」という一節で有名ですが、マッカーサー
は第二次世界大戦の終結以前から「青春」の詩を座右の銘とし、
執務室にも詩を掲げ、毎日愛読していたといわれています.
▼ウィロビーを悩ませたドイツ出自
さて前回の連載では、ドイツ人の父とアメリカ人の母との間に
ドイツのハイデルベルクで生まれ、大学卒業までドイツに居た
ウィロビーが、ポール・ニッツエのような大物外交官からも
「ウィロビー(Willoughby)は、ヴィッツレーベン(Witzleben)
大佐と名乗っており、自身の名をウィロビーに改名した.
ウィロビーは第一次世界大戦の間、ドイツ側について戦った」と
認識されるなど、周囲から猜疑心を持った眼で見られていたことを
説明した.さらに、ウィロビーは、貴族的な流儀で他人を見下して
いるような印象を周囲に与えていたため、同僚からも裏で
「チャールズ卿」として呼ばれていた.
このようなウィロビーの一風変わったバックグラウンドは、
トルーマン大統領のお抱え医師ウォーレス・グラハムをも混乱させ
ている.グラハムは、ウェーク島会談の際、マッカーサー、
ウィロビーおよびトルーマンの三者会談を目撃していた.
グラハムは、トルーマン大統領が会見場を護衛する部隊を最初に
閲兵した後のことをインタビューの際に以下のように述べている.
「それから彼[トルーマン大統領]はマッカーサー将軍および
マッカーサーのG2すなわち情報将校と話した.マッカーサーの
情報将校はドイツ風の名前を持った人物で、自身の名前をウィロビーと
改名していた・・・いや違った、別の名前だった.」
ウィロビーの家系をめぐる混乱は、ウィロビーのキャリアを通じて
ウィロビーを悩ませると共に、ウィロビーが意図的にプロシア人の
ような態度をとっているという印象を多くの人に与える結果となった.
たとえば、ジャーナリストのフランク・クラックホーンは1952年に
次のように書いている.
「彼[ウィロビー]は、常に粋でカスタムメイドされた制服を好み、
片眼鏡を時々身に着けていた.」
クラックホーンによれば、ウィロビーの旧敵である日本人も
ウィロビーのユニークな人間性を目にしていたはずであるという.
クラックホーンは以下のように述べている.
「かつて東京で彼[ウィロビー]と働いたことのある並はずれて率直な
日本人は、彼について雄牛のようにがっしりとして強情なドイツ系
アメリカ人将校であったと述べている.彼は鋭く切れる頭をもって
おり、突然かんしゃく玉を破裂させることもある神経質な人でも
あった.」
ウィロビーの人物像について上記のように書いたクラックホーンは、
ウィロビーの人間性に関する自身の評価を次の一言で結論づけている.
「われらのユンカー将軍.」(訳者註:ユンカーとはプロイセンを
中心とした東部ドイツの地主貴族のこと)
外見から生じるこのような印象に加えて、ウィロビーのスピーチは
1920年代中頃までかなりドイツ風のアクセントが強かった.
ウィロビーがこのような印象を意図的に築き上げたか、あるいはただ
単に他人による偏見の犠牲者であったか否かはひとまず置いておく
にしても、ウィロビーのユニークなバックグラウンドが彼のキャリアに
大きな影響を与えていたことは確実であるといえる.
では、ウィロビーの経歴や受けた教育が朝鮮戦争における
ウィロビーの対中認識や情報分析にどのような影響を与えたのか、
という問題を考えるために、次回からやや詳しく朝鮮戦争勃発までの
ウィロビーの経歴を見ていくことにしてみたい.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
今回のテーマは【内部費用】です.
どこの会社も業績が悪くなると、銀行から担当者が来て「経費削減」と言われ
ます.もともと会社の業績が悪くなったのは、売上不振であり、経費の管理不
振で業績が悪くなった会社は、世の中に一社もありません.販売不振で業績が
悪くなったのに、経費管理をするというのは間違いです.
そうではなく“徹底してお客様の数が増えるところ(部門や商品)”にお金を使
うことが大切です.
わが社・武蔵野は、増収減益だと賞与が多くなりますが、減収増益だと賞与を
減らします.
お金を使ってお客様の数を増やすことが、正しい戦略です.
■仕事ができる人の心得
P.161 No.951 【内部費用】
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「攻め」と「守り」を明確に分けることが大切です.
守り(現在の売上を守る)
人件費<
攻め
>販売促進費
攻め 新しいお客様を開拓する
経 費<
守り(現在の売上を守る)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
阪急コミュニケーションズ『仕事ができる人の心得』より
◎「社長と幹部と社員のカン違い」から目を覚ませ!!
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2012.7.25
トップが下を信頼しなきゃ下が上を信頼するはずがない.
(盛田 昭夫 ソニー創業者)
本著の版元・青林堂の社長さんは著者の申し出に対し、
<空自の汚名を晴らしましょう>
と出版を快く引き受けたそうです.
取締役さんは
<字数にこだわらず、思いのたけを書いてください>
とおっしゃったそうです.
不覚ですが、これを書きながら視野がぼやけています.
いわれなき誹謗中傷が加えられても沈黙を守っていると、それが
真実として歴史に定着しかねません.
本著の原稿は、著者が自衛隊退官後すぐに出来上がっていたそうです.
しかし、古い件を扱ったものだから売れない、という判断からこれまで
出版できなかったそうなんです.まあ無理もないことです.
そんななか、
<空自の汚名を晴らしましょう>
とおっしゃった青林堂の社長さんはご立派です.
本著を世に出し、読み手にやさしい作品に仕上げた
著者と青林堂さんに拍手を送ります.
▼平成23年5月11日
横浜地裁は、「あたご」事故(H20/2/19のイージス艦「あたご」と
まぐろ延縄漁船の衝突事故)につき、被告となった海上自衛官二名に
対し無罪の判決を言い渡しました.
裁判長は判決理由で「検察提出の漁船航跡図のずさんさ」「漁船側の
証言を検察は恣意的に用いている」「あたごに回避義務なし」
「事故原因は漁船にある」とし、検察の捜査そのものに疑問を投げかけました.
無罪となった二人の海上自衛官は次のような言葉を残しています.
<真実に向き合わず、われわれを断罪しようとした横浜地検を許す
ことは出来ない>
<検事は法律と捜査のプロ.(航跡図などで)平気で嘘をついており、
許せない>
<地検は有罪ゲームに勝つだけの組織なのか?公益の代表者とは何か、
判決を読み返して考えてほしい>
この判決を見た著者は
<雫石事件もこうあるべきだった.と感慨深いものがありました>(P8)
と述懐します.
このとき裁判長が批判した「検察による恣意的な証言採用」は
そっくりそのまま、雫石事故における事故調査委員会、検察、裁判所に
対する批判に当てはまるからです・・・
▼雫石事故
あなたは、雫石事故のことをご存知でしょうか?
よほど関心があるひとは別ですが、一般的には、
「何の落ち度もない全日空機に自衛隊機が衝突し、全日空機の乗員
乗客全員が死亡した”事件”」と捉えられています.
結果パイロットは無罪になったのですが、指導教官が有罪となりました・・・
しかし、真実は違うものでした.
「刑事事件」と「民事事件」で原告と被告が百八十度違ったこと.
これが、本事故処理の本質をつかむキモだったんです.
本著を読むと、自衛隊の無罪を改めて確信し、安心できます.
豊富で具体的な知識を通じ、誰に対しても雫石事故の真相を
胸を張って伝えることができます.
本著の目標は、航空機事故の未然防止に資するため
「雫石事故の真実」を国民の前に明らかにすることです.
目的は、この奇妙な「犯罪」が冤罪であることを証明し、
人身御供として犯罪者にさせられた故・隈1尉の無念を晴らすことです.
著者からいただいたメッセージには、
<事故調査報告書と裁判記録の難解な表現を極力平易にして事故の
経過を浮き彫りにしてみましたが、私は”当事者の一人”ですから
愚痴の羅列だと取られないよう、公刊資料を中心に解説する形を
取りました.>
とあります.
言葉にたがわぬ、冷静で、正直で、読みやすい書です.
空中行動の何たるかを熟知するプロが、雫石事故という題材を通じ、
空中行動の現実・意味を読者に啓蒙する内容ともなっています.
今後同様の事故がおきた場合、事実をどう判断したらよいか?
そして、同種の事故を起こさないためにはどうすればいいか?
に応えるヒント満載の資料集ともいえます.
資料性、信頼性が高く、手に届きそうで手に入らなかった
雫石事故の真相を提供してくれ、謎解きよみものとしてもおもしろい.
ありそうでなかった本です.
資料性・信頼性・具体性・有機性いずれをとってもトップクラスです.
戦後日本における対情報戦の一つの勝利といって差し支えない成果
とも考えます.
http://tinyurl.com/cgdau4c
■オススメポイント
馴染みのない法廷論議や空中行動に関する内容なのですが、
とてもとっつきやすいです.この本.
なぜかといえば、冷静沈着で明るい著者の姿勢を通じ、
謎解きを一緒に愉しもうという雰囲気が全編を通じて漂ってくるからです.
不謹慎かもしれないですが、
ミステリー小説を読むワクワク感を覚えます.
なかでも、「ここだけは落として欲しくない」オススメポイントは
次のとおりです.
●再審請求も一つの手だとは思います.しかし、隈1尉の思いを
無には出来ません.なぜでしょうか?
理由を知りたい方はP285をご覧ください.
●有罪判決を受けた隈1尉の同期・管3佐は、家庭も、時間も、プライベートの
全てを投げ打って1尉を支援しつづけました.
空中行動への無理解にもどかしい思いをしつづけてきた3佐が第一審判決後に
同僚と後輩に配った檄文があります.
エンリケも号泣した「菅3佐の檄文」の全文を読みたくないですか?
P287〜292で読めます.
●訓練中の航空学生レベルでは、これらのことは水平直線飛行中に
しかできないんです.「これらのこと」が何か知りたいですか?
P112をお読みください.
●常識はずれの航空専門家・・・・P118でご確認ください.
●全日空58便は、アウトバウンド・トラッキングをしていなかった
そうです.詳細はP122〜128でどうぞ.
●雫石事故の裁判で各級の裁判官が示した卑劣な態度・・・P136〜137
●記者会見の席上で事故調査報告書を改ざんした委員長とは?
P138〜141でご確認ください.
その他の中身も見てみましょう
●目次
はじめにー「雫石事件」を知っていますか?・・・6
一、イージス艦「あたご」事件の裁判で被告は”無罪”
二、露呈した運輸安全委員会を抱える国交省の体質
三、「航空機事故『補償』の今昔後日談」(週刊新潮:昭和60年3月14日号)
四、冤罪はなぜ起きた?・・・足利事件などの教訓
プロローグ 不思議な決着・・・29
序章 事故発生同時刻、わたしは『エマージェンシー』コールを聞いた・・・39
一、築城基地へ出張
二、原隊に復帰
三、富士市対策本部で勤務
四、大いなる不満
五、飛行訓練再開
六、雫石事件直後の部内の反響
第1章 事故に至る経緯・・・67
一、千歳基地に着いたB727
二、松島基地の「第一航空団松島派遣隊」
第2章 空域の状況・・・81
一、問題が多い日本の空
二、松島派遣隊と臨時訓練空域の設定
三、朝日新聞記者の冷静な分析
四、航空路及びジェット・ルートとは
第3章 運命の離陸・・・105
一、千歳発・全日空58便
二、松島基地離陸・86F編隊
第4章 全日空58便の飛行状況・・・121
一、進路の選定は?
二、三沢基地北部方面隊・BADGEの軌跡との比較
三、遅れたクルーの昼食
第5章 全日空機操縦者の「見張り」について・・・143
一、視認していてなぜ回避操作を取らなかったか?
二、読売新聞の”再現記事”
三、「視認」に関する双方の意見
四、”接触”その時何が?
五、機長はヘッドセットをつけていたのか?
六、全日空機側の操縦勤務の実態
第6章 58便の飛行コースの検証・・・197
一、飛行計画書
二、根拠が崩れた「接触地点の逆算」方式
三、目撃者の証言
四、全日空側が提出してきた「8ミリフィルム」の怪
五、責任の比率「6(防衛庁)対4(全日空)」が高裁では「2対1」への怪!
第7章 事故の真因・・・235
一、全日空機側の見張り義務違反
二、全日空機の航路逸脱
三、全日空機側の航空法違反
四、「結論=100%全日空機側の過失」
第8章 政府高官の奇妙な発言と最高裁「自判」の怪・・・239
一、政治とメディア
二、田中議員の指示?
三、噴出したロッキード事件と国策調査?
四、事故調査総括責任者の怪!
五、笠松好太郎氏と若狭得治会長
六、全日空社の社長人事(若狭得治氏の別評価)
第9章 情報戦に弱い航空自衛隊・・・269
一、不運な航空事故多発と脇の甘さ
二、巧妙な朝日の連係プレイ
三、空自の人的変遷と世代交代
四、心を打った管三佐の檄文
エピローグ・・・295
あとがき・・・306
■執筆者紹介
佐藤守(さとう まもる)
軍事評論家の退役軍人.元南西航空混成団司令、元空将.
樺太生まれ福岡育ち.防大卒(航空工学 7期).
学生時代から「サムライ」の評価を受けていた.
空自に入隊し、戦闘機乗りとしてスクランブル任務に就く.
総飛行時間は3800時間.外務省出向、7空団305飛行隊長(百里)、
空幕広報室長、空自幹部学校戦略教官、3空団司令兼ねる三沢基地司令、
4空団司令兼ねる松島基地司令、南西航空混成団司令兼ねる自衛隊
沖縄連絡調整官を歴任し、1997/7退役.
退役後は軍事評論家として、岡崎研究所理事・特別研究員、平河総合
戦略研究所専務理事、国家基本問題研究所評議員、日本兵法研究会顧問
などを歴任.
現役時代から文筆面で高名.
退役後はじめたブログは、日本最大の国防啓蒙ブログとして、
各界から高い評価を受けている.
著書
『国際軍事関係論─戦闘機パイロットの見つづけた日本の安全』(かや書房、1998年)
『図解 これが日本の戦争力だ!』(実業之日本社、2006年)
『金正日は日本人だった』(講談社、2009年)
『実録・自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO』(講談社、2010年)
『日本の空を誰が守るのか』(草思社 2011年)
『ジェットパイロットが体験した超科学現象』(青林堂 2012年)
雫石事件の真実を、多数の資料・事実を積み上げる中で掴み取る
という読み方だけでは、正直、本著を半分しか味わえていないと感じます.
対情報戦という観点から、いかに世論形成・謀略・アジ・情報工作に
対処するか、という問いに「雫石事故」というケーススタディの中で
応える書でもある、と私は思っています.
対情報戦のエキスを学ぶ.
あなたにはぜひ、こういう読み方をしてほしいです.
(エンリケ)
『自衛隊の「犯罪」 雫石事件の真相!』
著:佐藤守
単行本: 312ページ
出版社: 青林堂 (2012/7/18)
言語 日本語
ISBN-10: 4792604516
ISBN-13: 978-4792604516
発売日: 2012/7/18
商品の寸法: 19 x 13.2 x 2.8 cm
http://tinyurl.com/cgdau4c
追伸
本著で佐藤さんは、あたご事故の自衛官無罪確定について、
<今までの”愛される自衛隊”は、メディアにたたかれると卑屈にも
沈黙して、身内を人身御供に供して一時しのぎ的にその場を逃れる
傾向がありましたが、これからはそうはいかなくなるでしょう.
一国の”軍隊”が軍事的常識に欠けた組織によって調査され、
メディアの意図的?な反自衛隊報道で一方的に”犯人扱い”されて
きた自衛隊側が、今回初めて”勝った”のですから・・・>(P9)
と記されてます.雫石、なだしおで苦汁をなめた自衛隊が活きた教訓を
学んだということでしょう.
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2012.7.24
パキスタンでタリバーン幹部死亡か 米無人機攻撃
CNN.co.jp 5月30日(木)12時14分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130530-35032732-cnn-int
イスラマバード(CNN) パキスタンの北西部の北ワジリスタン地区ミランシャで29日、イスラム武装組織「パキスタン・タリバーン運動(TTP)」の幹部の1人が米軍の無人機の攻撃で死亡した.現地の当局者や情報関係者がCNNに明かした.
殺害されたのはTTPのナンバー2とされるワリウル・ラフマン幹部とされる.TTPの広報はCNNの取材に対し、死を肯定も否定もできないと述べた.情報筋によれば、側近ら3人も死亡したという.
パキスタンの情報関係者はこの攻撃について、7人が死亡し1人がけがをしたと述べている.
米国家テロ対策センターの資料によれば、ラフマン幹部は2009年12月にアフガニスタン・ホースト州の基地で起きた自爆テロ事件に関与したとして米国から指名手配されている.この事件では米中央情報局(CIA)の局員7人が死亡した.
この資料によれば、ラフマン幹部はTTPの序列第2位で軍事戦略の責任者.アフガニスタン駐留の米軍や北大西洋条約機構(NATO)軍に対する越境攻撃に関与していたという.
オバマ米大統領は23日、ワシントンの国防大学での講演で、無人機攻撃は必要悪だが節度を持って使用しなければならないとの見解を表明した.無人機攻撃が行われたのは、この講演が行われてから初めてだ.
民間人の死者も出している無人機攻撃には批判も多い.パキスタン政府は今回の攻撃に対し、「深刻な懸念」を表明している.
パキスタンでタリバン幹部死亡か、総選挙後初の米無人機攻撃
2013/5/30 11:30 ロイター
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130530-00000029-biz_reut-nb
[ペシャワール(パキスタン) 29日 ロイター]
- パキスタンの治安当局者らは、同国北西部の部族地域である北ワジリスタン地区で29日、イスラム武装勢力「パキスタンのタリバン運動(TTP)」のナンバー2に当たるワリウル・レフマン幹部が、米国の無人機攻撃で死亡したと明らかにした.
今回の米無人機攻撃は、今月11日に行われたパキスタンの総選挙以来初めてとなる.オバマ米大統領は、国外で無人機を使った攻撃を限定すると先週表明したばかり.
パキスタンの治安当局者や地元の部族民によると、この無人機攻撃で7人が死亡し、4人が負傷した.
TTPのスポークスマンはロイターに対し、レフマン幹部の死亡を確認していないと述べ、それ以上のコメントを控えた.パキスタン政府も同幹部の死亡を確認していないという.
同国外務省は29日、米国による無人機攻撃を改めて非難.「攻撃が逆効果を生み、民間人を犠牲にするほか、人道上の問題があり、国家主権や国際法の侵害に当たる」とした.
米無人機攻撃でタリバン運動の幹部が死亡、パキスタン当局発表
AFP=時事 5月30日(木)7時52分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130530-00000001-jij_afp-int
【AFP=時事】パキスタン当局によると、同国北西部の無法部族地域、北ワジリスタン(North
Waziristan)で29日、イスラム武装勢力「パキスタンのタリバン運動(Tehreek-e-Taliban
Pakistan、TTP)」のナンバー2に当たるワリウル・ラフマン(Waliur
Rehman)幹部が米国の無人機攻撃により死亡した.
パキスタン、米無人機攻撃に反対の姿勢崩さず
オバマ氏の演説受け
29日朝、北ワジリスタンの家屋に1機の米無人攻撃機から発射された2発のミサイルにより、ラフマン幹部の他、少なくとも5人が死亡したとされる.
パキスタンの治安当局筋がAFPの取材に語ったことによると、攻撃の標的はラフマン幹部だった.同幹部はかねてから米政府が500万ドル(約5億円)の懸賞金を懸けていた人物.バラク・オバマ(Barack
Obama)米大統領は先週、無人機使用に関するより厳しい規定を定める新指針を発表している.
攻撃は、タリバンと国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)関連武装勢力の主要活動拠点である北ワジリスタン地域の中心都市ミランシャー(Miranshah)近くのチャシュマ(Chashma)村で行われた.ラフマン幹部の死亡は、複数の町の当局の他、部族筋や情報当局筋が確認した.治安当局筋によると、他の死亡者は地方指揮官2人を含むTTP
幹部で、民間人が犠牲になったとの報告はない.
米政府は、ラフマン幹部がアフガニスタンに駐留する米軍とNATO軍に対する攻撃を組織したと主張し、米中央情報局(CIA)の職員7人が死亡した2009年の在アフガニスタン米軍基地への自爆攻撃に関連し、行方を追っていた.
米国による無人機攻撃が行われたのは、パキスタンで5月11日に行われた選挙後では初めて.選挙で勝利した政党パキスタン・イスラム教徒連盟シャリフ派(Pakistan
Muslim League-Nawaz、PML-N)のナワズ・シャリフ(Nawaz
Sharif)元首相は以前から、無人機攻撃はパキスタンの主権への「挑戦」であると述べ、米政府に対し、ペキスタン側の懸念を深刻に受け止めるよう求めている.シャリフ氏は来月5日に首相に就任する予定.【翻訳編集】
AFPBB News
パキスタンでタリバーン幹部死亡か 米無人機攻撃
CNN.co.jp 5月30日(木)12時14分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130530-35032732-cnn-int
イスラマバード(CNN) パキスタンの北西部の北ワジリスタン地区ミランシャで29日、イスラム武装組織「パキスタン・タリバーン運動(TTP)」の幹部の1人が米軍の無人機の攻撃で死亡した.現地の当局者や情報関係者がCNNに明かした.
殺害されたのはTTPのナンバー2とされるワリウル・ラフマン幹部とされる.TTPの広報はCNNの取材に対し、死を肯定も否定もできないと述べた.情報筋によれば、側近ら3人も死亡したという.
パキスタンの情報関係者はこの攻撃について、7人が死亡し1人がけがをしたと述べている.
米国家テロ対策センターの資料によれば、ラフマン幹部は2009年12月にアフガニスタン・ホースト州の基地で起きた自爆テロ事件に関与したとして米国から指名手配されている.この事件では米中央情報局(CIA)の局員7人が死亡した.
この資料によれば、ラフマン幹部はTTPの序列第2位で軍事戦略の責任者.アフガニスタン駐留の米軍や北大西洋条約機構(NATO)軍に対する越境攻撃に関与していたという.
オバマ米大統領は23日、ワシントンの国防大学での講演で、無人機攻撃は必要悪だが節度を持って使用しなければならないとの見解を表明した.無人機攻撃が行われたのは、この講演が行われてから初めてだ.
民間人の死者も出している無人機攻撃には批判も多い.パキスタン政府は今回の攻撃に対し、「深刻な懸念」を表明している.
■【中共軍の電子戦演習】中国軍、初の「デジタル化軍事演習」 軍近代化にサイバー攻撃で詰め寄るか
【大紀元日本5月30日】中国人民解放軍が来月下旬、初の「デジタル化軍事演習」を実施することが分かった.今年に入ってから、中国軍のハッカー部隊の活動が度々報道されており、27日にも、米紙が、24件を超える主要な米兵器システムの情報が盗まれていると報じた.
中国国営新華社28日の報道によると、来月下旬、内モンゴル自治区の朱日和基地で、初の新型戦闘力連合軍事演習が行われる.新型戦闘力とは、情報化戦争に適応するために、デジタル技術を駆使するデジタル化部隊や特殊作戦部隊、電子対抗部隊などを指すと新華社は説明している.
総兵力230万人の中国人民解放軍は、情報技術力の向上を含めた軍隊の近代化を急いでいる.しかし、その性急な歩調を支えているのは、他国からの軍事情報の窃盗行為も含まれる.
27日付の米ワシントン・ポスト紙は、中国のハッカー攻撃によって、米国が保有している高度な兵器システム、少なくとも24件の情報が盗まれたと報じた.漏洩した情報には、戦闘機や戦闘艦のほか、ミサイル防衛システムなども含まれるという.
システム情報は、下請け会社から盗まれたと見られている.「米国防総省の幹部は、下請け会社からのサイバー漏洩に苛立ちを感じている」と、米国の高官は語っている.
ある軍部高官は「多くの場合、FBIが下請け会社に対して、ハッキングされたことを伝えるまで、全く認識がない」とワシントン・ポスト紙に匿名で語る.「中国に数十億ドル相当の戦闘技術を与えてしまった.25年の研究開発なしで中国が手にしたのだ」
米国防総省は今月6日、中国が軍近代化を促進するため、国家ぐるみで産業スパイ活動を行い、軍事技術を入手しているとする内容の報告書を公表した.来月7−8日に予定されている米中首脳会談では、オバマ大統領は習近平主席とサイバーセキュリティについて協議する予定.オバマ政権はサイバー攻撃をテロと並ぶ脅威と位置づけているだけに、どこまで突っ込んだ協議になるかが注目されている.
一方で、オーストラリアでは、新たな保安情報機構(ASIO)本部の設計図がハッキングされ、中国のハッカーの手に渡っている.これも下請け会社からのものと推測されている.27日放送の豪国営ABC局の報道番組Four
Cornersが伝えた.
これまで6億ドルが費やされ、4月には、職員2000人規模で移転するはずだった新庁舎の建設が停止している.
遅延の理由の一つに、設計図が盗まれたことが挙げられる.建物の詳細だけでなく、ケーブル、サーバーの位置、室内の電気回線・部品、セキュリティーシステムなど一切が漏洩してしまったのだ.
オーストラリア国立大学(ANU)戦略防衛研究センターのデズ・ボール教授は「建物がほぼ完成している現状で、選択は二つ.一つは、建物の全ての状態が掌握されていることを受け入れ、あらゆる側面で漏れのないように鋭敏に操業すること.もう一つは、1970年代に米国が在ロシア大使館でしたように、全くゼロから建築しなおすこと」と語り、漏洩の深刻さに10段階評価で10をつけた.
同教授は、衛星でも戦闘機でも現在の中国が米国の水準に達するまでには時間がかかるが、サイバー攻撃、電子攻撃により、米軍の司令システムを妨害することで、中国が米国の軍備を骨抜きにすることが可能であり、最悪の危険なシナリオであるが、これが中国の最終目標だと指摘する.
具体的には、米軍衛星を管制するグアム、日本、ホノルルの地上局を妨害し、衛星システム、センサーシステム、航空機・戦闘機間のコミュニケーションを遮断することが、最初の襲撃となりうると、同教授は語った.
(翻訳編集・鶴田、張凛音)
(13/05/30 11:00)
http://www.epochtimes.jp/jp/2013/05/html/d33842.html
⇒情報保全の甘さでわが国は世界一でしょう.上から漏れるという意味でです.国際社会は腹黒く、胸襟開いてオレお前、の感覚でいくと骨の髄までしゃぶり尽くされるだけです.情報保全の甘さは、国家への信頼に直結します.脇の甘さは、いまや美徳とはいえません.各層のリーダーに真っ先に求められる資質は孤独に強いことであり、それを補う股肱の腹心がいるかどうかではないでしょうか.
■【米支首脳会談を控えて】米補佐官の訪支
・米支首脳会談は130607〜08にかけてカリフォルニア州で行われる.
・そのため訪支したドニロン米大統領補佐官(国家安全保障担当)は130528、中共中央軍事委員会副主席・范長竜陸軍上将と会談した.
・補佐官はその席で、中共に対し平和維持活動、海賊対策、災害支援などの分野での軍事協力強化が望まれるとした.
・記者会見で補佐官は「2つの大国間関係の新たなモデルを構築する上で、健全かつ安定的で信頼性のある軍事関係を実現することが不可欠」と述べた.一方、范副主席は「大国間の新たな形の関係」が必要と述べた.
⇒毎号紹介している
<2.国民の軍事理解でイチバン欠けている部分
国際政治がバランスオブパワーの関係で成り立っているということを知らない.一方で、そのようなことを知らないお人好しが、あたかも善良な人であるかのように捉えられる傾向にある.残念ながら、現実の国際社会は単なる仲良しクラブにあらず.>
との言葉を噛み締めましょう.
■【韓国安保の実態】反日の韓国が日本の軍事力に頼る不思議 中国による冊封体制下に先祖帰りしたいのか (樋口譲次 元陸将 元陸自幹部学校長)
<わが国に、在韓国連軍後方司令部が置かれている事実を知っている国民は、それほど多くはないであろう.
在韓国連軍は、1950年6月の朝鮮戦争勃発に伴い、国連の諸決議に従って、国連加盟国が自発的に派遣した部隊から構成されたものである.1953年7月に休戦協定が成立して以降、現在でも朝鮮半島の平和と安全の確保のために大きな役割を果たしている.
・・・>
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37834
ではじまる樋口さんの記事は、すべてのレベルの人におすすめできる内容ではありません.頭がカッカカッカして論の真髄を見極められないからです.
しかし、真剣に安保や防衛、国防と向き合ってる人には一読の価値があります.視野が広がることまちがいなしです.
読む人を選ぶ、きわめてクオリティの高い記事です.国益に基づく高度な国策運用ができるエリート集団を作り、支える責任が国民には有ると考えさせられる内容でした.
樋口さんの論の続きはこちらで
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37834
■【佐藤守ブログ】2013-05-27 獅子身中の虫の駆除を急ぐべき
<・・・・
私が講演の場で「間接侵略」こそ、現代日本の一大脅威なのだと言ってきたのは、このことで、自衛隊は専ら「外敵」に備えて組織され訓練している組織だから、獅子身中の虫に対してはからからきし弱い.
中国の潜水艦が「潜航して」我が国に接近しても、行動をすべて掌握するほどの能力は備えているものの、ハニートラップや情報戦、サイバー戦の備えは不備だ.ましてや≪守るべき対象である日本人≫だから始末が悪い・・・
もっとも、中国の様な「正体バレバレ」の潜水艦では一流の海軍とは言えないように、この虫けらに対するわが警察力も、事前にこれらを潰すだけの情報と行動力を備えていなければ、治安は“不安”である.
防衛力と治安力の増勢は急務だと私が言うゆえんだが、この際、反日外国人よりも、「日本人もどき」の反日日本人の始末の方が最優先だろう.
勿論、「日本人だったら誰でもよかった」とほざいて襲いかかった韓国人がいたのに、この事件を報じることなく「韓流一辺倒」番組を流して恥じないメディアも“日本国籍”だとは認めがたい.
・・・・>
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20130527
間接侵略こそわが国最大の驚異.
軍事や国防啓蒙にあたっている方の殆どは、こう主張されています.
情報戦、謀略戦、思想戦、法律戦、宣伝戦...
色々名前はありますが、全て同じ事です.
わが国には、国家レベルで対間接侵略機能を発揮する機関がありません.
知的お遊戯、歯ぎしりレベルで終わっているのが実態です.
佐藤さんがおっしゃるとり、「獅子身中の虫」を速やかに駆除する仕組みを持つ国を創らなければいけませんね.
戦争の目的が、我が意思を敵に強いることにあるのなら、
武力衝突がこれまでのどの時代よりリスクが高くなってしまったいま、
最も効果的に敵の意思を屈服させ、我が意思を通しやすくなる方法は何か?
を考えると、今の時代は情報戦に最優先順位が与えられるということです.
戦争遂行のための主手段は、時代とともに変遷します.
武力戦がメインの時代から、経済戦がメインの時代になり、PCの普及とともに、情報戦がメインの時代になっています.
戦争にはいろいろな要素があり、情報戦も経済戦も古代からあります.
それぞれの要素が戦争で果たす役割の重さ・大きさが、時代によって変わるということです.
ある時代は武力戦が主.ある時代は経済戦が主.ある時代は文化・芸術戦が主、ある時代は情報戦が主になるということですから、情報戦メインの時代になったから武力戦や経済戦が必要なくなった、という意見は完全に間違いです.
いろいろある戦争遂行ツールの中で、いま、一番使用頻度が多く、効果があるのは何か?ということであり、コレまでに比べて他のツールは使用頻度が減った、効果が落ちたというだけの話です.使えなくなったという話ではありません.
それにつけ思うのは、国史と世界史を「戦争の歴史」として学ぶことが、国を守るためには必要不可欠ということです.ほんとに大切だと改めて思います.そのための教材は、広く長く紹介してゆきたいですね.
■【自衛隊誘致活動】奄美・瀬戸内町が自衛隊誘致 島嶼防衛強化方針受け
2013.5.31 21:24 産経
鹿児島県の奄美大島南端に位置する瀬戸内町の房克臣(ふさ・かつおみ)町長らは31日、防衛省で佐藤正久防衛政務官と会談し、同町への陸上自衛隊誘致と、既存の海上自衛隊奄美基地分遣隊の拡充を要請した.島嶼(とうしょ)防衛を強化する政府方針を受けての要請で、房氏は記者団に「配備の候補地として手を挙げたい.町議会も全会一致でやっている」と述べた.
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130531/plc13053121300020-n1.htm
町長の言葉に触れて思い起こしたのが、
先週ご紹介した、洗さんのご意見でした.そこには、
<陸上戦力は戦闘に最後の結を与え得る戦力ですが遠距離に迅速な展開・投入がし難い戦力です.逆に一度投入されれば簡単に退けません.
従ってどのような国も海外に陸上戦力を投入・展開することには慎重にならざるを得ません.これを又逆に見れば、ある国が海外のある地域に陸上戦力を投入・展開するということは、その地域に腰を据えてコミットする、戦争になれば及び腰でなく徹底的に戦うという意思表示をすることになります.
これは対抗する勢力に対しては一番重みのある抑止力になります.>
との一文がありました.
これは、在沖米海兵隊の地上兵力の意義について述べられたものです.
南西諸島の島嶼で、島の安全に責任を持つ首長さんの立場からすれば、
米海兵隊を、わが自衛隊に置き換えて受け止めても不思議ではない気がします.
日本国は本当に、南西諸島を守る気があるのか?
その意識が、<陸上自衛隊誘致>との町長の言葉に表れていると見るのは穿ち過ぎでしょうかねw
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.3
From:荒木肇
こんにちは.荒木です.
梅雨入り宣言は早かったのに、意外や東京地方では晴れる日が続いています.
体調を崩されてはいませんか?
5月から6月は各地の自衛隊で創立記念祭などが行われ、その雄姿を目にした方々も多いことでしょう.今月は山形県東根市に司令部を置く第6師団の記念日があります.今からうかがうことを楽しみにしています.
今回は満洲事変についての記述の変わり方を調べてみました.
さあ、きょうも【昭和と平成の教科書を比べて】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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■満蒙はわが国の生命線──昭和と平成の教科書を比べて(22)
▼満洲事変とはなんだったのか?
ちょっと前まで歴史学界の主流では、1931年から1945年までの時代を「十五年戦争」という不正確な言い方をしていた.不正確というのは、満洲事変もそのあとの上海事変、支那事変などもすべて国際法でいうところの「戦争」ではないからだ.戦争ならば、宣戦布告という手続きが必要だったし、交戦国はさまざまな外国からの干渉もはね返すことができた.
戦争状態にある国と国に対しては、どこの国でも公的な援助はできないというシステムがすでにあった.アメリカ・イギリス・ソ連・ドイツなどが支那の政権に対して、各種の支援ができたのも「戦争ではなかった」おかげである.
この1931(昭和6)年に始まった「満洲事変」について、昭和の教科書は次のように書いている.
『大陸政策は着々とすすめられた.旅順を根拠地とする関東軍は満州を軍事的に占領する計画をもち、1931(昭和6)年9月、奉天郊外の柳条溝で南満州鉄道爆破事件をおこし、それをきっかけとして、満州一帯に大規模な軍事行動を展開した(満州事変).
若槻内閣は不拡大方針を決定したが、関東軍はこれを無視して無軌道な軍事行動をすすめ、独立政権の樹立をはかる満州人の軍閥をあやつって、事変の翌1932(昭和7)年3月、満州国の建国宣言を発表し、もと清朝の宣統帝溥儀を執政にむかえた』
読んでわかることは、関東軍の「無軌道」さである.中央や、若槻内閣の統制に服さない、現地の「軍閥をあやつる」陰謀集団のような印象を与えていることだ.しかも、その前に『田中内閣は軍部と結んで中国に積極的な態度を示すようになり・・・』、『中国に干渉の手をのばし・・・』などと、いわゆる軍部・陸軍悪玉論が描かれている.
平成の教科書になると、いくらか語調が変わっている.
『中国で国権回収の民族運動が高まっているころ、日本国内では軍や右翼が幣原喜重郎の協調外交を軟弱外交と非難し、「満蒙の危機」をさけんでいた.
危機感を深めた関東軍は、中国の国権回収運動が満州におよぶのを武力によって阻止し、満州を長城以南の中国主権から切り離して日本の勢力下におこうと計画した.
関東軍は参謀の石原莞爾を中心として、1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満州事変がはじまった.
第2次若槻礼次郎内閣(立憲民政党)は不拡大方針を声明したが、世論・マスコミは戦争熱に浮かされたかのように軍の行動を支持した.関東軍は全満州を軍事的制圧下におくべく、戦線を拡大したため、事態の収拾に自信を失った若槻内閣は総辞職した』
▼満蒙という言葉について
まず、用語について説明する.満州という表記そのものが、ほんとうは正しくない.元々はManju(マンジュ)という民族が住んでいた土地にヨーロッパ人や日本人が「満洲」という字をあてただけのことだ.満という字や洲という字には何の意味もない.そのことは、仏蘭西(フランス)という表記の「仏」がなんらお釈迦さまとは関係がないことと同じである.
また、「旧満州」とか「中国東北部」などという言い方も正しくない.「新」満州などないし、中国東北部などというとチベットというエスニックな呼称も認められなくなってしまう.マスコミなどは無批判にこれらを使うが、ある種の鈍感さの証しである.
では満洲とはどこか? 清朝の時代には東三省といわれる地域だった.遼寧省、吉林省、黒竜江省の三つである.文治政治を基本とした清朝は各省の長官を巡撫(じゅんぶ)といった.巡回して民を撫育するからである.防衛を担当する武官の長を提督という.これを西洋海軍のアドミラルの訳語にしたのは日本海軍である.もともとは武官の長という意味だから、海軍司令官を水師提督といった.
この東三省は長城以南の各省とは異なって、近代の概念でいえば「軍政」がしかれているところだった.文化地帯と違って、「化外(けがい)の地」ともいわれた.教科書でいう「軍閥」というのも実力をもって地域を支配する軍政の担当者たちだった.
日露戦争(1904〜05)がもたらしたのは、満洲に境界線が引かれて、日露両国の勢力範囲が決められたことだ.日露戦争の後には、大方の予想と異なって、ロシアがリターンマッチをしかけてくることはなかった.むしろ、日露の協調時代という風になった.ただし、危機感をいつも感じていた陸軍は、常設師団を増やそうとしたし、動員体制もより固めようともしていた.
いま、そのことを侵略主義だとか軍事大国化などと評論するのは簡単なことだ.ただ、軍事とはいつも最悪な事態を考えることだから、『大陸政策』などと一言ですませられるような総括では粗雑過ぎる.
1907(明治41)年には、西園寺公望内閣は秘密に交渉し、満洲の鉄道の管理権についてロシアと約束をした.ロシア領のウラジオストックよりやや南、朝鮮の端に琿春(こんしゅん)という町があった.そこから吉林の北を通って外蒙古(がいもうこ:モンゴル)と内蒙古(ないもうこ:中国内モンゴル自治区)にぶつかるまで、ほぼ直線を引く.これより南が日本の勢力範囲である.いわゆる南満洲といわれる.
次は「満蒙」の蒙である.東部内蒙古をいう.これは1912(大正元)年、第2次西園寺内閣が第3回目の日露協約で決めた線によるものだ.日露の秘密条項では、北京の経度、東経116度27分より東の内蒙古を日本の勢力範囲とした.そういう取り決めをきちんとしておかないと、日露戦前のようにロシアの勢力がまたまた大きくなると思われていたのである.
清朝が崩壊したのは1911(明治44)年のことだった.各国は一応、不干渉の態度をとったが、イギリスをはじめとする独仏米は新しく生まれた中華民国を名乗る政権にどのように金を貸すか、資本を投下するかの工夫を始めた.もちろんリーダーシップを取るのは大英帝国であり、資本力も技術力も劣る日露両国は反発と同時に、恐れも抱くという状況にあった.そうした背景があってこその日露の協力的態度だった.
ところが続いてロシア帝国が崩壊してしまう.1917(大正6)年のことである.ソビエト政権はそれまでのロシアが各国と結んでいた協約や条約を暴露してしまう.それは当時、たいへんな衝撃を各国に与えた.現在の価値尺度からみれば、当時の各国間政府の秘密の取り決めなどひどく野蛮かつ不当なものだけれど、それが当時の国際常識でもあった.それら一切を新しいソビエト連邦政府は無視してしまったのである.
▼日中の認識のちがい
清朝が滅び中華民国が成立する.ロシア帝国が崩壊してソ連ができる.もちろん、当時も政体が変わる前の国際条約などは有効である.清帝国が過去に結んだ条約を中華民国が継承するのは、徳川幕府が結んだ条約を明治維新政権がひきついだように当たり前のことだった.したがって、ロシアと満洲について結んだ条約の有効性は変わらない.
ところが、2つの解釈の相違が日中両国政府にはあった.1つは「南満州鉄道沿線に鉄道を守備する兵力を置く」ことと、もう1つは「南満洲鉄道の平行線となる鉄道幹線と支線を中国は敷設できない」ということである.これらを中華民国政府は認めようとしなかった.
よく使われていたのが『20万の精霊、20億の国帑(こくど)』というフレーズである.日露戦争ではそれだけの尊い犠牲を払った.そうして手に入れた権益である.だから、満蒙にはわが国は特別な立場をもっているという主張だった.ただ、こうした言い方はあくまでも国内だけでしか通用しない.イギリスをはじめ欧米列国は、そうした日本人の感情には関心がうすく、さらには理解もしていなかった.
関東庁(関東州と満鉄附属地を管理していた)が事変勃発の直後に配布したパンフレットがある.その内容は、『為政者が事件ごとに条約上の基礎を即座に認識』できるように過去の国際条約を要約したものだ.条約を守れ、わが国の権利を主張する時には、必ず条約上の根拠を示せということだ.
ついでに当時の列強が、ある土地への支配権を主張する時には、その地への資本の投下量とインフラを含めたモノの存在が大きな根拠となった.実際に鉱山の採掘権を得れば、その設備と道路をつくる.さらには鉄道を敷き、街をつくるといった具合である.このことは明治維新の時に、頭の働くアメリカ公使館員がさっそく横浜新橋間の鉄道敷設権を申請したことでもわかる.
こんな時にいろいろと画策したのが、陸軍参謀本部であり、外交交渉にあたる外務省であり、商社である.陸軍参謀本部は防衛のために、外務省は国益を考え、商社もまた利益の追求のために手を結んだのも当然の事である.わが国の外務省は敗戦後、さっさと自分たちに都合の悪かったことを隠して「きれいな平和主義の外務省」という顔をしたが、そうでなかったことは周知の事実でもある.
満蒙にはわが国の資本が大正の末には14億円もつぎ込まれていた.しかも、その9割近くが政府主導による資金である.とすれば、資本家の発言権は小さくなり、国家の構想がそのまま実施されるというわけになる.
教科書の書きぶりを比べると、研究の進展もあろうが、何よりある勢力に対する配慮がなくなってきたことが分かる.ソ連や中国共産党政権の都合の悪いことが書けなかった時代からの変化である.今後はむしろ、もっと当時のわが国の立場を明らかにした史実が描かれていくことになる.
▼ある詩人の「ぼくら子供は」
『ガダルカナル戦詩集(1945年2月)』といえば、発表のころは「愛国詩」として読まれ、戦後は「厭戦詩」として読まれた.作者は吉田嘉七、1917(大正6)年生まれで、友人にはダメ兵隊だった古山高麗雄がいる.古山は司馬遼太郎とも親交のあった作家で、『帝国軍隊における学習・序』などを書いた.この古山の作品には『日本好戦詩集』という短編があり、その中に吉田の詩がある.
ぼくら子供は
銀行が倒産し
市電はストでよく止まった
工場地帯では赤旗が立っていた
ルンペンが塵芥(ごみ)箱を漁り
公園のベンチで一日寝ている人もふえた
月給が下がったと言う
物が売れないのだと言う
農村は冷害で作物がとれないのだと言う
弁当を持って来られない友達もいた
大人達の暗い表情が
暗い街に溢れた
満洲で戦争がはじまったのは
ぼくが中学一年の時だ
物がぽつぽつ上がり出し
景気が良くなって来たらしい
「戦争が始まって良かったね」
大人達のつぶやきは
子供のぼくらの耳にも入った
やがて戦争で殺されるぼくらの
これから分かることは、当時の不景気と、先行きの不透明感.大人達がすっかり落ち込んでいたことだ.また、支那との戦争をやむなしと考えていた人が多かった.東大生の9割が支那への武力行使もやむを得ないと考えていたことも当時の調査から分かっている.この詩をつくった吉田は古山あての書簡の中でこうも語っている.
『軍部にひきずられて戦争になったと今の子供達は習うそうですが、そんなものでもありますまい.今更、ヘンな題をつけて(好戦詩集というタイトル)誤解されそうですが、戦後は反戦主義者が多いのも気になります』
当時のマスコミのキャンペーンは『満蒙は日本の生命線だ』というものだった.支那の不正を鳴らし、日本帝国の権利を大きくうちあげた.今でこそマスコの人士は、当時をふり返って「軍部にひきずられた」といい、自分たちはそれを反省したというが、昭和初期には戦争をあおり、戦後は反戦をあおっているだけで、その本質は変わらない.
この稿の最後に昭和6(1931)年の世相を表すエピソードの一部を列挙しよう.東京の地価が2年前から比べると2割下がった.諸材料の値段も下がり、木造家屋で坪あたり(3.3平方メートル)90円から45円になる.コンクリート建築は同じく300円から120円へとダウン.
東京市の職業婦人2万人を調べたら、平均給与が30円75銭だった.女医は140円、婦人記者64円25銭、女工見習16円50銭.学歴は尋常小学校卒が67%、高等女学校卒は19%だった.
軍人救護法による被救護申請数が6万人をこえた.前年度は4万4000人である.これは公務に就いた軍人(家庭にとっては働き手になる)の家族が生活が立ちゆかなくなるというために申請する手続きである.
農村の負債は一戸当たり1000円をこしていた.山形県のある村では娘457人中の50人が身売りした.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
このメールにフラグを付ける【みやこ】キーワード収集ツールを制作中2013年6月7日
金曜日 午後6:00
From: "田窪洋士 mag2 0001211734"
<mailmag@mag2.com>アドレスブックに追加アドレスブックに追加To:
p_tokorozawa@yahoo.co.jp発信元: mag2.com
詳細ヘッダー
こんにちは.みやこです.
先日のメールで
サイトアフィリで稼ぐためのノウハウと
ついでにツールも準備したい、
といった話をしましたが・・
思ったらやらずに入れない性格なので^^;
やっちゃおうと思います.
っていうか、大枠ができ上がったので
何名かの方にモニターをお願いして
今実際に使ってもらってます.
感想なんかを聞きながら、
更により良いモノに出来ればな、と.
キーワードって
アタマで考えるのは×っていうことは
知ってますよね.
ただ、キーワードを探していても
どうしてもフィルター(色メガネ)がかかってしまいます.
例えば新聞でも、
見だしをパーッと見たとしても
興味がわいたところしか目に入らないと思うんですよ.
それと同じで、手作業でキーワードを探すと
結局自分好みのモノしか目に入らないことが多いです.
だから、自分の好みとか趣味フィルターを外すため
こういうツールを使う方がいいです.
まっさらな状態でキーワードを眺めると
思わぬお宝キーワードが見つかります.
そういうものこそがアクセスを集めたりしますので
ぜひ活用してもらえればと思います.
どういうツールか、
また動画でも準備ができたらご紹介しますね!
ではでは
From:家村和幸
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
本メルマガ記事「武士道精神入門」も3月に連載を開始して以来、「武士道概説(3月)」、「武士たちが遺した教え(4〜5月)」といった流れで進めてまいりました.そして、いよいよ今回から「武士道精神の実践」に入ります.
全部で十回にわたり、時代を問わず「武士道精神」を実践した武人たちの感動的な物語を紹介いたします.
日本人が長い歴史を通じて培い、磨き上げ、守り続けてきた価値観や伝統精神が『武士道精神』です.「精神」なるがゆえに、姿や形が無く、目には見えません.しかし、確実に「存在する」ものであることを、優れた先人たちの言動や生きざまの中から感じ取ってまいりましょう.
さあ、きょうも【武士道精神入門】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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【第15回】武士道精神の実践:ペリリュー島守備隊長 中川州男大佐
遠い南の島パラオに、日本の歌を歌う老人がいました.
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖の島を指差しながら、老人はつぶやきました.大東亜戦争の時、その老人は村の若者たちと共に日本軍の陣地作りに参加しました.日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたといいます.
パラオ諸島は最初はスペイン、次いでドイツの植民地でした.第一次世界大戦(一九一四年)が始まって、ドイツに宣戦布告した日本は、パラオのドイツ守備隊を降伏させます.戦後、国際連盟はパラオを「委任統治領」として日本に面倒を見させることにしました.
当時のパラオ先住民の人口は、約六千人.スペインの植民地になる前の人口は約六万人だったといいますから、いかに白人の植民地政策がすさまじいものだったかわかるでしょう.
日本は、パラオに南洋庁を置き、稲作や野菜、果実の栽培を伝えました.また、缶詰やビールなどの工場を建設.道路を造り、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、数々のインフラを整備しました.パラオ人は文字を持っていませんでした.そこで、小学校では日本の教科書を使い、平等に日本語教育を施しました.小学校一年で九九を暗唱したといいます.日本教育を経験した人は「学校の厳しいしつけが人生に役立った」といっています.
1941(昭和16)年、日本とアメリカの戦争が始まりました.パラオ・ペリュリュー島は、日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また、日本の「絶対的防衛圏」として重要な拠点でした.しかし逆に、アメリカ軍にとっては、フィリピン奪回の最大の障害がペリリュー島の日本軍基地だったのです.
アメリカ太平洋艦隊は、チェスター・ニミッツ提督の指揮のもと、ペリリュー島の攻略作戦を開始しました.この時点で、ペリリュー島の住民は約九百名.米軍が迫りくることを察知した住民たちは話し合いました.彼らは、白人統治の時代と日本統治の時代の両方とも経験しています.日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌った住民たちの決断は・・・、「大人も子供も、力を合わせて日本軍とともに戦おう!」でした.
いつも温厚で優しい隊長なら、自分たちの頼みをきいてくれるに違いない.きっと一緒に戦うことを許してくれる・・・.意を決した住民の代表たちは、ペリリュー島の守備隊長である中川州男(なかがわくにお)大佐を訪れました.
そして、中川隊長に「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出ます.それを開いた中川隊長は、驚くような大声をあげて答えました.それは・・・、
「大日本帝国の軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
住民たちは驚きました.「日本人は・・・、仲間だと信じていたのに、見せかけだったのか・・・」
「帝国軍人が、貴様ら土人、と一緒に戦えるかっ!」という中川隊長のひどい言葉.「日本人は仲間だと信じていたのに…」.日本人に裏切られた思いで、悔し涙が流れました.
そして数日.パラオ本島に避難するため、ペリリュー島を去る日がきました.港に見送りの日本兵の姿は一つもありませんでした.
住民たちは、がっかりして船に乗り込んでいきます.そして、出港の合図が鳴り、船が岸辺を離れました.すると、次の瞬間です.ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきました.そして、住民たちと一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほど手を振って彼らを見送っているではありませんか.ともに過ごしてきた兵隊さんの顔、顔、顔・・・.先頭には笑顔で手を振る中川隊長.
その時、船上の住民たちはすべてを理解しました.「日本の兵隊さんたちは、我々の命を助けるために、あんな態度をとったのだ」と.遠く岸辺に見える日本兵に向かって、住民たちは号泣しながら、ちぎれんばかりに手を振りました.誰もが泣いていました.
1944年9月12日、ペリリュー島の戦いが始まりました.「日本軍1万」対「米軍4万8千」.
米軍の持つ火力は、日本軍の数百倍です.猛烈な爆撃と艦砲射撃で日本軍が浴びた砲弾は、何と17万発・4千トンに達し、ジャングルは完全に焼き払らわれました.一人の日本兵を倒すのに1589発の砲弾を使用した計算になるそうです.
9月15日、「三日で占領できる」と豪語して、米軍海兵隊2万8千名が上陸を開始しました.対する日本軍は、どうしていたのでしょうか?
実は、地下深く穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていたのです.自在に往き来できるようにトンネルでつないだ地下壕や洞穴は、何と五百ケ所以上.一人用の壕「タコツボ」も無数に掘り、ペリリュー全島を要塞化していたのです.中川隊長の統率はみごとでした.
米軍上陸直後、水際での戦闘は壮絶でした.米軍の第一次上陸部隊は大損害を受け、退却を余儀なくさせるほどでした.米兵の血で海岸が赤く染まり、今でもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています.
10月30日、米軍第一海兵師団が全滅.主力部隊が損失率四〜六割を超え、「戦闘能力喪失」と判定され、差し替えが続きます.米軍はその上陸作戦史上、最大の損害を出してしまいました.
三日で占領するはずだった戦いは七十日も続く激戦になりました.その間、日本軍には補給がありませんので、徐々に劣勢に陥っていきました.米軍の火炎放射器と手榴弾によって、日本軍の洞穴陣地は次々と陥ちていきました.食料も水もなくなりました.
11月24日、日本軍は弾薬・兵力ともに尽き、中川州男隊長は玉砕を決意し、割腹して自決します.享年四十七でした.
残存兵力55名による最後の総攻撃に際して、ペリリュー島から日本本土に向けて電文が送られました.その言葉は「サクラサクラ」.
ペリリュー守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを意味しています.こうして11月27日、ついにべリリュー島は米軍に占領されました.
米太平洋艦隊司令長官のニミッツは、命を捧げて愛する祖国を守ろうとした日本兵に強く心を打たれ、ペリリュー島守備隊の勇戦を讃えて、次の詩を作っています.
この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ
故郷に帰ったら伝えてくれよ
日本軍人が全員玉砕して果てた
この壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を
日本軍 戦死者1万695名.
米軍 戦死者2336名、戦傷者8450名.
島の住民 死者・負傷者0名.
ペリリュー島の戦いは、住民に一人の犠牲者も出さなかったことで知られています.
戦後、パラオはアメリカに統治されることになりました.しかし、1981年、ついにパラオは独立を果たします.独立にあたり、国旗を制定することになり、国民からデザインを募集しました.その結果、日の丸とよく似た今のデザインが採用されました.
周囲の青は太平洋の海の色.真ん中の黄色い円は満月を表しています.月は日本の国旗「日の丸」の太陽に照らされて輝く.日本とパラオの深い友好関係を示しているのだそうです.
パラオ国旗の満月は、日の丸と違い、中心から少しズレていますね.「日本に失礼だから」とわざと中心をはずしたのだといいます.パラオの人々の控えめな性格が伝わってきます.(出典:某中学校 道徳教育資料)
(「ペリリュー島守備隊長 中川州男大佐」終り)
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
From:長南政義
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である.
前回は、戦間期から第二次世界大戦参戦直後までの米国のインテリジェンスの状態について述べた.
第二次大戦参戦以前の米国は、人間を媒介とした諜報活動であるヒューミントで代表的なコバート・アクション(秘密活動)を本格的に展開する能力に欠けていた.
戦間期にインテリジェンスの空白期間が存在したことが、1941年12月7日(ハワイ時間.日本時間では8日)の真珠湾攻撃を招いた原因の一つとなった.真珠湾攻撃の後に米国国内で巻き起こった政府に対する非難の声は、米国政府のインテリジェンス収集分析の真実の状態を鋭く衝く形となったのである.
実のところ、ルーズヴェルト大統領とその側近たちは、米国のインテリジェンス機関の能力が不充分であることをずっと以前から知っていた.当時の米国の主要なインテリジェンス機関には、FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局の三つが存在した.しかし、これらの機関が行うインテリジェンス活動は重複しあう部分が多かったといえよう.
そのため、ルーズヴェルト大統領は、インテリジェンス活動の重複は、資源の浪費であり、予算を高騰させ、非効率であると考えた.この事態を重く見たルーズヴェルト大統領はインテリジェンス機関同士の活動を調整することの必要性を公然と述べると共に、活動の未調整から生じる空白部分をうめようと試みた.
すなわち、ルーズヴェルトは、世界中で情報を収集する活動を調整する任務を国務次官補ジョージ・ストラウサー・メッサースミスに課したり、インテリジェンス活動のために自分の友人たちを雇ったりしたのである.
ルーズヴェルトがインテリジェンス活動のために登用した人物のなかでも、米国のインテリジェンス機関発展にとって特に重要な人物が、ウィリアム・ジョセフ・ドノヴァン陸軍大佐であった.
今回と次回の二回にわたり、ウィリアム・ドノヴァンの略歴とその活動について述べることとする.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
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【第一次世界大戦の英雄だった法律家“ワイルド・ビル”・ドノヴァン】
「CIAの父」とのあだ名を持つウィリアム・ジョセフ・“ワイルド・ビル”・ドノヴァンは、ニューヨーク州のバッファローでアイルランド系移民の子として生まれた.成長し、コロンビア・ロー・スクールを卒業したドノヴァンは、ウォール街で有力な弁護士の一人となった.ドノヴァンは、弁護士として成功し、かなりの財産を築いている.
第一次世界大戦が勃発すると、陸軍少佐として第四十二歩兵師団第百六十五連隊第一大隊を率い欧州大陸に出征し、1918年10月14日〜15日のセント・ジョルジュ附近の戦闘で活躍し、米軍において最高位の勲章である名誉勲章を受章した.ドノヴァンは、終戦までに陸軍大佐に昇進し、殊勲十字章と名誉戦傷章を受章しているというから、軍人としても有能であった.
戦間期のドノヴァンは後に大統領となるハーバート・フーヴァー支持の共和党員であり、1922年から1924年にかけてニューヨーク西部地区の連邦検事として禁酒法違反を摘発することに務めている.1922年には共和党員としてニューヨーク副知事選に、1932年にはニューヨーク州知事選に立候補し、落選している.
ドノヴァンは、法律家として成功していたが、潜在的敵国から祖国を防衛するために必要なインテリジェンスで祖国を防衛するということに深い関心を抱いていた.
【米国内における敵国の諜報活動を阻止せよ】
情報戦の用語に、第五列という言葉がある.第五列とは、戦争中に敵の内部に潜入して破壊工作や諜報活動などに従事する人間、換言すると諜報員や工作員などのことを指す言葉だ.1936年のスペイン内戦当時、共和国政府が防衛するマドリードを4個軍団で構成される反政府軍が攻撃した.
その際に、反政府軍側の将軍エミリオ・モラ・ビダルが、ラジオを通じて「我々は4個軍団をマドリードに向け進軍させている.人民戦線政府が支配するマドリード市内にも我々に共鳴する5番目の軍団が戦いを始めるだろう」と述べた.第五列という言葉はこのビダル将軍の発言に起源を有する.
ドノヴァンは、自身が参戦した第一次世界大戦における諜報活動や、自身が視察したスペイン内戦における第五列の活動がいかに重要であったかを明確に認識していた人物であり、新たなる大戦において敵国の諜報活動が米国内で活発に展開されるような事態にさせてはいけないと決意していた.
【ルーズヴェルトとドノヴァンとの最初の出会いとドノヴァンのエチオピア視察】
ルーズヴェルトがドノヴァンと最初に会ったのは、ルーズヴェルトが海軍次官のポストについていた戦間期のことであった.この時、ルーズヴェルトはドノヴァンに欧州の現地調査旅行を依頼した.
1920年、ドノヴァンは最初にシベリアを訪問し、反ボルシェビキ活動と日本の活動を視察し、報告書をルーズヴェルトに送った.ルーズヴェルトとの関係は1933年にルーズヴェルトが大統領に就任した後も続いた.ドノヴァンは、1935年から1936年にかけて、イタリア陸軍とその作戦活動を視察するためにエチオピアを訪問している.この当時、イタリアとエチオピアとの間で第二次エチオピア戦争が勃発しており、現地情報の収集が必要であったのだ.
ドノヴァンはエチオピアを向けて米国を出発したが、その途中でイタリアに立ち寄り、時のイタリア王国首相ベニト・ムッソリーニと会見を行っている.ここでドノヴァンはムッソリーニと面白い取引を行っている.ドノヴァンは、アフリカの角と呼ばれる
アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める地域におけるイタリア軍の活動を視察し、偏見のない報告を提供するためにイタリアに戻るという条件付きで、ムッソリーニ自身からエチオピアを訪問する許可を取り付けたのである.
2ヶ月におよぶ視察旅行の後、ドノヴァンはローマ経由でワシントンに帰還し、エチオピアにおけるイタリア陸軍の活動に関する分析とムッソリーニとの会見の模様をルーズヴェルト大統領に報告している.
【ドノヴァンによるスペイン内戦視察】
次にルーズヴェルト大統領がドノヴァンを送った先はスペインであった.ルーズヴェルトは進行中のスペイン内戦を視察し報告書を書くようにドノヴァンに命じたのである.既述したように、ドノヴァンは、この視察旅行を通じて、スペイン内戦での第五列の活動に注目している.
イタリアやスペインといった欧州諸国の視察を通じて、ドノヴァンは、欧州で第二の世界大戦が勃発することは回避できないと信じるようになった.また、このような視察旅行を通じて、ドノヴァンはルーズヴェルト大統領から注目されると共に個人的な親交を深めていった.
1939年9月、第二次世界大戦勃発すると、ルーズヴェルトは、戦時体制への移行を進めていった.その過程で、ジョージ・ストラウサー・メッサースミスなどの有能で信頼できる人物を抜擢していったことは既述したとおりである.ドノヴァンもその一人で、ルーズヴェルト政権下で海軍長官を務めていたフランク・ノックスの推薦によって抜擢され、ルーズヴェルトから重要任務を任されるようになった.
【ドノヴァン、英国の継戦能力を分析するために英国に派遣される】
1940年7月16日、ルーズヴェルト大統領は、英国の防衛体制に関する再調査を行わせるためにドノヴァンを英国に派遣した.この当時、ナチス・ドイツは、英国本土に対する上陸作戦(作戦名:あしか作戦)を実行しようとしていた.
あしか作戦実行の条件の1つとして英国空軍の無力化が必要であり、7月10日からあしか作戦の前哨戦として英国本土の制空権獲得を目的としたバトル・オブ・ブリテンと呼ばれる航空戦が英独両軍間で展開されていた.
ドノヴァンは、ルーズヴェルト大統領から、英国がドイツの侵略に耐えうるか否かを調査せよとの命を受け、ドイツ空軍の空襲を耐え抜く英国の耐久力や抗戦意志を確かめるために英国本土へ送り出されたのである.
英国での視察を終え米国に帰還したドノヴァンは、英国がドイツ軍の攻撃に物理的に耐えうることが可能であるだけでなく、時の英国首相ウィンストン・チャーチルが英国にとって最も暗黒の時代にもかかわらず国民の抗戦意志を鼓舞することに成功しているとの報告をルーズヴェルトに提出した.
しかし、ドノヴァンの報告は、ジョン・F・ケネディの父である当時の駐英国大使ジョセフ・ケネディの分析とは異なるものであった.
(以下次号)
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安全文化に関して思うこと
近藤 駿介
原子力委員会は、様々な機会に、原子力施設の運営者に対して強い安全文
化の醸成を求めてきた.それにも関わらず、今般、「もんじゅ」において、自
ら定めた機器の点検周期等を遵守していない状態が長く続き、しかもその是
正に向けての取組があいまいであったために、原子力規制委員会から組織の安
全文化に欠陥があると指摘された.このことは誠に遺憾なことである.安全文
化の立て直しに、JAEAの新しい経営陣が不退転の決意で取り組むことを切望す
る.
ところで、安全文化が原子力分野で語られるようになったのは、1986年に発
生したチェルノビリ事故の原因を調査した専門家が「原子力施設が人と環境に
対して安全であるためには、安全設計がなされ、安全設備が備わっているだけ
では不十分で、その運営組織に安全文化が形成・維持されている必要があ
る」と結論してからである.
当初は、安全文化の定義に議論が集中したが、これを「原子力施設等の安
全に係る問題に対して、これを最優先事項とし、その重要度に応じた注意を
払う組織や個人の特性や態度の集まり」とすることで議論が一段落すると、組
織の安全文化を評価する方法の整備が主要課題になり、このためには組織観
察の視点が重要であるとして、組織科学や行動科学の専門家を交えた議論が続
いた.
こうした議論で中心的役割を果たした国際原子力機関(IAEA)では、1991年
頃には、この定義に基づけば、組織や個人の振る舞いや態度において、1)安
全が明確に重要な価値として認識されているか、2)安全確保に対するリー
ダーシップが明確であるか、3)安全確保に対する責任が明確になっているか、
4)安全確保が全ての取組に統合されているか、5)安全確保に関する学習が
制度化されているか、という観点からの着目点を定め、組織を観察し、人々と
面談することにより、安全文化を評価できるはずとして、この取組をASCOT
(後年、SCARTに改名)として制度化し、世界各国から依頼を受けて、原子力
運営組織の安全文化を評価するサービスを開始した.
その結果、この評価結果は運営組織のリーダーが自分の組織に強い安全文
化を醸成していく際に必要かつ有益であることが理解され、IAEAのみならず、
世界の原子力事業者の組織であるWANOや米国の電気事業者の組織であるINPO、
そして、日本の原子力事業者がJCO事故を契機に設立したNSネット(2005年に
は日本原子力技術協会(JANTI)に組織替えされ、2012年には原子力安全推進協会
(略称JANSI)として新発足)などが、それぞれに上のような強い安全文化の
原則・属性・特性ともいうべき着眼点を定め、安全文化の評価活動を積極的に
推進してきて、今日に至っている.
原子力安全規制行政、これは、人と健康のリスクが小さく維持されているこ
とを確かにする観点から原子炉や核物質を使用するに当たって遵守されるべき
基準を定め、原子炉や核物質の利用を許可し、許可取得者の取組を検査・評価
し、必要に応じて是正措置を講じることを求めることを任務とするが、この行
政活動と安全文化の関わりについては、組織の安全文化が弱いと不適合や不具
合の発生頻度が高まるはずであるから、規制検査等でそうした指標のトレン
ドを監視し、劣化が確認された時点で、組織運営の在り方に関して是正措置を
要求することが適切とされてきた.
しかしながら、2002年3月に米国デービス・ベッセ原子力発電所でかなり深
刻な原子炉容器上蓋腐食が検査で発見されたことを契機に、これほど腐食が進
行するまで見いだせなかった原因について、規制当局であるNRCと事業者、
INPOの間で議論が重ねられ、この検出遅れは安全文化の劣化に起因すると結論
され、2006年からNRCの原子炉監査活動(ROPと略称される)に「安全文化の自
己評価活動を確認する仕組み」と「事業者の組織風土等をNRCが評価する仕組
み」が取り入れられた.
この自己評価にはINPOの「強い安全文化の原則」の活用が推奨されたが、そ
の妥当性は検証されなければならない.そこで、NRCはINPOとの間で、INPOが
有するほぼ全てのプラントにおけるINPOの原則の普及状況に関するデータと
NRCがこれまでのROP活動で積み上げたプラントのヒューマンファクター面の特
徴に関するデータを交換し、双方が独立にそれぞれの間の相関を調査して、
INPOの原則の妥当性を確認した.この結果を踏まえて2011年に発出されたのが、
以下を内容とする安全文化に関する政策声明である.
1.安全文化とは、リーダーと構成員が一緒になって、人と環境の保全を確か
にするために、競合する目標を超えて安全を強調することにコミットするこ
とから生じる中核的価値と態度である.経験からすると、安全文化を有する
人や組織には、以下のような特性がある.
1)リーダーの決定や行動に、安全に対するコミットメントが見て取れる.
2)安全に影響を与える潜在性を有することが迅速に同定され、完全に評
価され、その重要性に応じた是正措置が迅速に講じられている.
3)全ての構成員がそれぞれに安全に対する責任を果たしている.
4)様々な活動の計画と制御が、安全が維持されるようになされている.
5)安全を確保する方法について学習する機会が探し出され、実施されて
いる.
6)個人が報復、脅迫、いじめ、差別の恐れなく、安全に関して気になる
ことを自由に問題提起できる職場環境が維持されている.
7)安全に焦点をおいたコミュニケーションができている.
8)組織に相互の信頼と尊敬が行き渡っている.
9)各人が、自己満足を避け、活動の現状に対して絶えずこれでよいかと
問いかけ(新しい科学的知見やプラントの状況に現状の取組の不適合を
感じ取り:私補)過誤や不適切な活動を惹起するかもしれない不適合を
見いだしている.
2.NRCは被規制者(原子炉のみならず、放射線利用の現場も含まれる:私補)
に対して、その活動の安全と核セキュリティの観点からの重要性(安全と核
セキュリティが一体として扱われていることに注意:私補)や、組織の機能
や複雑性にふさわしい、強い安全文化を確立し、維持することを期待する.
NRCスタッフは被規制者と強い安全文化の重要性について対話し、この声明の
価値についてのフィードバックを得ていく.
この声明には「安全文化の強化と維持はNRCの最優先課題である.効果的な
安全文化が確かに存在することはあらゆる原子力施設の運営の根底になければ
ならない.」というマックファーレン委員長のメッセージが添えられている.
こうした取組に接するとき、企業文化という言葉の創始者として知られる
MITのシャイン教授が、組織文化は深く、広く、容易には変え難いものである
として、文化の浅薄な定義と理解に警鐘を発し、その上で、組織文化は、
1)組織の外形から読み取れる組織の考え方や行動規範、2)そこに働く人々
が大事にしているとする価値、3)そこにいる人々あるいは職種グループがそ
れぞれに暗黙のうちに大事にしている気風ともいうべき考え方や組織の歴史で
培われ、あるいは創業者やリーダーの成功体験などを通じて組織・グループに
醸成されている信念や性格、という三層構造をなしていることを認識するべき
としたことを思い出す.彼は、この第三層の信念は、経営層、研究者、運転者、
補修員がそれぞれに異なるサブカルチャーをもっていることに根ざしてそれぞ
れに異なることが多いが、これはそれぞれのグループの身上とも云(い)うべ
きもので作り替えることができるものではない、したがって、リーダーにとっ
て大切なことは、これら異なる職種の人々(の代表)が一堂に会し、それぞ
れのサブカルチャーに尊敬の念をもちつつ、組織の使命や社会的責任に照らし
てそれらの連携をはかるようにすることであるとしている.
安全文化の話題に触発され、記憶を整理した.今はこのことを踏まえ、福島
での事故の根本原因について思いを巡らせ、あらゆる機会を捉えて、原子力活
動に関係する経営者、運転者、研究者、補修員、行政、学協会に対して、お互
いがそれぞれのサブカルチャーを尊敬しつつ、上に示したような強い安全文化
の原則の実現に向けて連携し、人々の信頼に応えていくよう求めていかなくて
はと,考えているところである.
@mieru(あっとみえる) 原子力委員会メールマガジン
2013年6月7日号
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/melmaga/index.htm
こんにちは.エンリケです.
<わが国が敗戦に至った理由のひとつは、
国家全てが情報理論の重要さを軽視したことにある>
帝国陸軍の兵団参謀として終戦を迎え、陸自調査隊の創設に
深く関わった男が人生の最期に書き残した「知られざる戦後情報史」
http://tinyurl.com/p978my
なぜ、わが情報活動を記録した本が少ないのか?
なぜ、情報活動とスパイ活劇は同一視されるのか?
なぜ、わが国防衛は世界の政治駆け引きに翻弄されつづけているのか?
そういう疑問をお持ちのあなたにとりこの本は、渇ききった喉に
冷たい清水を注ぎ込まれたような爽快感をもたらすことになるでしょう.
情報に関する本といえば、多くの人がなぜか、
「スパイが大活躍する活劇」をイメージします.
それはそれでいいのですが、
情報活動が国家の対外機能である以上、
その情報活動が国家に何をもたらすのか?
国家とどういうかかわりをもつのか?
の視点を忘れてはいけないように感じます.
本著は、帝国陸軍の兵団参謀として
終戦を迎えた著者が、赤化の危機にさらされた戦後日本の再生に
情報面から貢献した記録です.
著者が情報活動の最前線で見聞きした、
さまざまな戦後日本裏面史を伝える本です.
メディアを通じた、一般国民向けデマ・ニセ情報による工作は
今も行われつづけています.それに対処するため一般人は、
「情報理論」のアプローチを通じ情報活動の理解・知識を深める
必要があるのではないでしょうか?
この本にはそのため広く活用できる知識がふんだんに散りばめられています.
著者が所属していたコミュニティは、
広いくくりでいうと、対情報(カウンターインテリジェンス)に
相当します.
日本という国は、情報への理解が極端に乏しい国です.
そんな風土で、なかでも保守的な自衛隊という軍隊組織で、
いかに情報理論に基づく組織を立ち上げ、根付かせていったのでしょうか?
その経緯とその後どうなったか?についての記述は非常に興味深いものがあります.
信頼性が高く、手に届きそうで手に入らなかった情報理論という知識を提供してくれ、
よみものとしてもおもしろい.ありそうでなかった本です.
資料性・信頼性・具体性・有機性いずれをとってもトップクラスに入る内容です.
http://tinyurl.com/p978my
■オススメポイント
情報活動の世界には馴染みがないしなあ・・・
ご安心ください.とてもとっつきやすいです.この本.
なかでも、「ここだけは落として欲しくない」オススメポイントは
次のとおりです.
●陸士時代、戦史研究から著者が導き出した
現代戦争の戦争理念とは?
知りたい方はP23をご覧ください.
●著者の里は佐賀県.葉隠で有名です.
ところが、世間一般でいわれる「葉隠の心構え」は
現地で伝えられてきた教えと異なるものです.
どこがどう違うか知りたい方はP24をお読みください.
●終戦時、福岡の部隊にいた著者は、
デマによりパニクる住民を前に信じられない行動に出ます.
江戸時代の故事に倣ったものだそうです.
著者はいったい何をしたのでしょうか?P29で確かめてください
●終戦時の福岡で著者が体験した「国土戦」の実態.
その貴重な教訓を知りたくないですか?P30で詳しくご確認いただけます
●国土決戦に備えて「国民抵抗戦研究」を行ってきた教訓から、
著者は軍物資の放出にあたって「役所で一時保管して計画的に
平等に配分する」とする現地役所の提案を拒否します.
理由を知りたくないですか? P42でわかります.
●進駐してきた米国陸軍情報部(CIC)の活動目的とは?
米の占領政策の実態とあわせ、P56でご確認ください.
●幣原喜重郎氏が著者に言った「憲法9条制定にまつわる本音の話」と
はどういうものだったのか?P63に書かれています.
●著者が国会内で行った特殊工作の実態.P64〜69
●調査隊とは何か?警察とは違うその本質を知りたくないですか?
P104〜117をご一読ください.
●シャーマン・ケントの教えを「情報とは知識である」と
理解してしまった公安関係者.しかし、ケントはそういうことを
伝えたのではなかったのです.情報理論の核心をなす「情報」の定義とは?
知りたい方は、P123〜126をご覧ください.
●著者が定義した、おそらく世界でもっともわかりやすい
「情報の定義」はP126でご覧いただけます.
●日本海に韓国軍艦が出現したというニュースは、
総司令部、最前線の戦隊長、黄海方面で展開中の連隊長にとって
「情報資料(インフォメーション)」でしょうか「情報(インテリジェンス)」
でしょうか?答えはP127でどうぞ.
●情報を扱うプロは「情報資料」「処理」「情報」を明確に区分して
扱います.3者の関係はどういうものか知りたくないですか?
知りたい方は、P128をお読みください.
●情報の処理にあたっては「判断」が必要不可欠ですが「情報活動」を
実践する際、見落とされがちです.また、厳密な区分を要求される
ところでもあります.「判断」について詳しく知りたいですか?
もしそうならP128をご一読ください.
●「情報の属性」について正確な理解があると自信を持てますか?
もし少しでも不安があるようなら、一刻も早くP128〜129に
目を通してください.
●わが自衛隊の「情報教範」第一号の全目次はP130〜134にあります.
●F機関の藤原岩市という人物について著者はどう捉えていたのでしょうか?
インパール作戦で藤原が何をしたか?など、偏見の入る余地がない事実の
集積を読みたいと思いませんか?もしそうなら、P136〜148をご覧ください.
●著者が自衛隊を退官した最大の理由は何だったのでしょうか?
P154にその理由がかかれています.
●ロシア人の情報収集パターンはどういうものでしょうか?
P156〜157をご覧ください.
●金大中事件で社会党とマスコミがウソの報道を散々流した背景には、
こんな理由があったのです.P171に詳細が記されています.
●国際情勢、軍事・安保感覚に疎い日本マスコミのとんちんかんな姿勢が、
人の命を奪いかねなかったひとつの事例.P182〜183
●優れた情報員が例外なく持つ資質とは? P189でご確認ください.
●瀬島龍三氏が著者に依頼した「自身の過去」にまつわる疑惑調査とは? P198
●晩年の瀬島龍三氏が、立て続けに著書を発表した背景事情を知りたいですか?
P198〜199をお読みください.
●三島由紀夫事件を生むに至った背景を著者が分析・吐露する個所が
あります.読みたいですか? P228〜231をご覧ください.
●「国土戦論」こそ日本に必要な防衛論.と著者は言います.
「国土戦」とは一体何なのでしょうか?具体的内容を知りたい方は、
P229でご確認ください.
●山本舜勝・元将補の遺作を読んだ著者が何を読み取ったか?
P231で知ることができます.
●某首相が中共女性工作員に取り込まれていた事実が発覚し
大騒ぎになったことがあります.そのときの状況を著者はどう見て
いたのでしょう?対情報的対応と警察的対応の違い、国民の
対情報への鈍感さが、このとき如実に現れたそうです.
詳細は、P249〜250でご覧ください.
●著者は、情報員としてあまり女性は好ましくないといっています.
何故でしょうか?理由を知りたい方はP255をご一読ください.
●現代の対情報には対テロも含まれます.かつて、堺や羽曳野で
発生したO157事件.プロは口をそろえて、あれは明白な人為的行為、
予行演習であったといっています.その理由を知りたいですか?
P256〜257を熟読してください.
●情報理論を駆使すると、一般的に伝えられているのとは
まったく違う結論が導かれるケースがあります.著者は阿賀野川流域で
発生した「イタイタイ病」をケーススタディとして取り上げています.
結論はいかなるものになったでしょうか?P259〜260をお読みください.
●ロシアと支那は永遠の闘争相手です.それはなぜでしょうか?
P264で確認できます.
●北鮮の女スパイ「シベリアユキコ」(通称おユキ)について.P269〜271
●支那における遺棄化学兵器処理事業をめぐる問題.
そもそもわが国は、この遺棄兵器にたいする責任があるのでしょうか?
最後の生き証人がP273で証言しています.
●大韓航空機撃墜事件で、当時の中曽根首相は、防衛機密を公開して
しまいました.著者は当時、防衛庁上層部にどういう忠告をしていたの
でしょうか?P281を読めば分かります.
●著者の指導原理がよく分かる言葉を、後輩情報員が紹介しています.
読みたいですか?P289で.
●著者の存在が、戦後日本の対情報にもたらした「良い」影響とは
何なのか?著者が願っていた情報活動のあり方とはどういうもの
だったのか?知りたい方はP293でどうぞ.
などなど、読みどころ満載です.
それではこのインテリジェンスブックの内容をみてゆきましょう.
●目次
はじめに・・・2
序章・・・11
KCIAからの電話・・・12
戦友・・・13
第一章 敗戦からの決意・・・17
父の死と陸軍士官学校入学・・・18
「葉隠」の真意・・・20
決起を阻む・・・24
幻の軍隊・・・26
燃える軍旗・・・31
偽りの「金少佐」・・・33
米軍上陸・・・38
勝者による平等・・・39
武器を隠す・・・41
情報理論と出会う・・・43
第二章 国会議事堂の情報員・・・47
情報部からの使者・・・48
二つの使命・・・55
本社ビルと丸の内線・・・56
幣原喜重郎さんの好意・・・60
侵入・・・64
第三章 GHQの国会工作・・・71
国会の支配者GHQ・・・72
第2次吉田内閣成立を阻止せよ・・・75
情報部隊としてのCICとは・・・81
つぶされた雑誌『真相』・・・84
追跡・・・86
朝鮮戦争と山賊会・・・91
第四章 調査隊の誕生・・97
日本のCICの始まり・・・98
情報部隊の編成・・・100
恐れられたCIC・・・103
対情報Counter Intelligence(CI)とは・・・105
権力なき情報部隊・・・108
越中島「G室」の日々・・・113
旧日本軍になかった情報理論・・・117
「情報」とは何か?・・・120
実務家のための情報理論・・・122
生情報はケガのもと・・・125
「情報」を生かす「判断学」・・・126
「情報教範」の完成・・・129
第五章 調査学校長・藤原岩市との軋轢・・・135
英雄の虚実・・・136
狙われる自衛隊情報・・・138
英雄との衝突・・・140
あり得ない人事で幹部学校学生に・・・145
参議院選挙出馬の裏・・・147
ゲリラ戦研究の専門家・・・148
レンジャー部隊とは・・・151
独立情報部隊の誕生・・・153
第六章 金大中事件・・・155
首相からの依頼・・・157
KCIAとの情報交換・・・162
事件の黒幕にでっち上げられる・・・167
金大中事件の真相・・・172
朴政権の内紛・・・175
金大中の死刑判決と怪文書・・・179
金大中死刑判決の裏で・・・182
第七章 ソウル・オリンピックとKGB・・・185
本物のKGBエージェント・・・186
ソウル・オリンピック委員会の悩み・・・189
オリンピック開会式の出会い・・・193
瀬島龍三氏からの相談・・・195
第八章 朴泰俊を守れ・・・201
知られざる警護・・・202
第2の金大中事件か・・・203
強化された盗聴部隊・・・207
もう一つの保険・・・210
第九章 情報秘録・・・219
吉田茂邸に潜入した中野学校のスパイ・・・220
徳田球一をかくまう・・・223
三島由紀夫事件の隠れた責任者・・・226
田中軍団の情報員・・・232
大慶油田の秘密を探れ・・・235
ロッキード事件異聞・・・239
中国情報部の対日情報活動・・・245
情報は女から流出する・・・250
O-157、サリン事件の背景で・・・255
「情報理論」で導き出された真相・・・258
ロシアスパイとの付き合い方・・・261
私の韓国人脈・・・264
韓国で日蓮宗布教・・・266
シベリアユキコの謎・・・268
大韓航空機爆破テロ事件、捜査権交渉の裏側で動いた情報員たち・・・272
つぶされた中国毒ガス廃棄の情報・・・274
大韓航空機撃墜事件の裏側で行われた「情報」の駆け引き・・・280
参考資料・・・282
調査隊最大の貢献者 松本重夫さん(あずま会 中野富男)・・・282
1.創隊への貢献・・・283
2.創隊の方向・・・285
3.人間関係と人物・・・287
4.松本さんの経歴・・・289
後記(尾崎浩一)・・・294
などなど、戦後日本の裏面史が盛りだくさんです.
この本を読み終わるころには、あなたは表と裏に通じた眼で戦後日本史のキモを
掴めるだけでなく、情報理論を理解する数少ない一般日本国民へと、
自然に足を進める事ができるでしょう.
■執筆者紹介
松本重夫(まつもと しげお)
1920年、韓国生まれ.陸軍大学校卒.終戦後、新聞記者を務める一方で、
CIC(米国陸軍情報部)の情報機関員として活動.自衛隊設立に向け
警察予備隊が設立されると51年に入隊し、CICから学んだ理論をもとに
「調査隊」「調査学校」創成に尽力.64年退職.退職後も軍事情報紙を
発行する傍らCIA、KGB、中国情報機関、KCIAなどとのパイプを
生かし、諜報活動に従事.野戦砲兵学校会代表幹事.2012年1月逝去.
享年91歳.
『自衛隊「影の部隊」情報戦秘録』
著:松本重夫
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2012.7.20
■【支韓軍事協力強化】中韓、北対応の軍事協力強化(130605 共同)
中国人民解放軍総参謀長の房峰輝陸軍上将と韓国軍合同参謀本部議長の鄭承兆陸軍大将は4日、北京で会談を行い、北朝鮮の非核化や朝鮮半島の安定に向け、軍事分野で戦略的な協力関係を強化することで合意した.聯合ニュースが報じた.韓国の合同参謀本部議長が訪中したのは2007年6月以来.
鄭氏は会談で、北朝鮮の挑発には断固として対抗するとした上で「中国は北朝鮮に影響力を発揮できる」と中国の役割を強調.房氏は共感を示しつつ、朝鮮半島の非核化の重要性に言及したもようだ.
<参考>
東アジアの最近の動き
1301 台湾外交部、尖閣問題で支那の中共とは連携しないと声明
1304 日台、漁業取り決め協定調印
130522〜24 北鮮軍総政治局長・崔竜海次帥、金正恩の特使として訪支.習近平国家主席と会談.
1305末 米のキング北鮮人権問題担当特使と北鮮の6者協議首席代表・李外務次官がベルリンで接触したと韓国が報道
130606 崔次帥の訪支時、中共が北鮮に対し200億円相当の支援を提示(条件は6者協議への復帰)していたことが判明
130606 北鮮の提案で、韓国との南北閣僚級会談開催が固まる
130607〜8 中共の習近平が訪米.カリフォルニア州でオバマ大統領と会談
⇒韓国の支那属国化は進展している.支那は、北鮮の核を利用し、韓国を脅して交渉している.支那の目的は北鮮主導の半島統一⇒半島の属国化⇒わが国の属国化だろう.そのため台湾併合も図るであろう.支那の影響力が半島で高まると、台湾海峡の波が高くなる.
半島統一への動きには特に厳戒が必要である.戦いを避けて戦争を招くのが現代日本の悪い癖だから.
■【ダブルスタンダード】中華世界と近代世界
東アジアの大陸国の対外交渉のやり方は、三国志の昔から一歩も進歩していない.信じられないかもしれないが、中華世界の幻想に生きる未開人はいまだに生きている.
だから国家レベルの交渉事は、武力で脅さないと一歩も話が進まない.中華世界の幻想に生きる人に近代的感覚は通用しない.武力をちらつかせて交渉しなければ意味ある交渉事は不可能だ.
このあたりのことを米はよくしらなければならない.支那による対米姿勢と対日姿勢は、根っこが違う.中華世界への対応と、それ以外の世界への対応とは違うのだ.彼らはダブルスタンダードを使い分けているのだ.
支那はわが国を中華世界の一部と見ている.歴史上一度もそんな事実はなかったにもかかわらずだ.コレが中華思想なのだろう.
中共のような政権は、対米では、無理してでも近代ルールに乗っとってくるが、対日では中華世界のルールで対応してくる.ダブルスタンダードを使い分けるのだ.
わが国は、中華世界の一部であったことはいままで一度もなく、古来から、中華世界に対抗する立場でありつづけてきた.しかしおそらく今が歴史上最も脆弱な状況にある.インテリジェンスとミリタリーの実力を、中華世界に対し常時発揮できる状況を整えておかねばならない.
近代社会のルールが通用する世界に対してはコレまでどおりやれば良い.が、中華世界では、ヘンなことを言う相手はしばきあげて、己の思い上がりを体で覚えさせなければならない.話し合いでの解決は行われない.それほど未開なのだ.そうしないとわからないのだ.実力を発揮しない限り「弱虫」として舐められ、永遠にゆすりたかられる.
■【マルウェアスパイ】政府機関や軍事産業を狙うマルウェアスパイ、日本など40カ国350組織に被害(130606 ITMedia)
ロシアのセキュリティ企業Kaspersky Labは、世界の大手企業や政府機関などを執ように狙い続けているサイバースパイ攻撃の実態についてまとめた報告書を発表した.日本を含む世界40カ国で350組織が被害に遭っているという.
続きはコチラ
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1306/06/news030.html
■【シリア情勢分析】シリア国軍、ダマスカス確保へ
イスラエルのヤアロン国防相は13603、シリア情勢について政府に対し、反政府勢力は、ダマスカス周辺の4つの地域を制圧しているに過ぎないとの報告を行った.
その他各種情報を総合すると、
・首都ダマスカス攻防戦は、政府軍の勝利に終わる
・僅かな抵抗を除きダマスカスは政府軍の統制下にある
・ダマスカス空港が政府側の支配下に戻ったので、ロシアとイランの政府軍への補給が再開される
・政府軍は、レバノン国境近くの要衝クザイルを反政府勢力から奪還・制圧した.これにより反政府勢力は重要な補給ルートを失った.
とのこと.
■【米の防諜】米国家情報長官、最高機密漏洩を非難
130606、英紙「ガーディアン」(電子版)は、米国家安全保障庁(NSA)が数百万人に及ぶ米通信大手ベライゾンの顧客通話記録を秘密裏に収集していると報じた.
これについて米国家情報長官のクラッパー退役空軍中将は、国家最高機密の漏洩を非難している.(英語)
http://www.voanews.com/content/us-spy-chief-slams-leaks-on-surveillance-program/1677016.html
⇒結果としてNSAの恐ろしさが世界に広まりました.NSAにとって良いことでは?w
■【日仏首脳会談】日仏、安保協力を強化へ
130607,首相は訪日中の仏・オランド大統領と会談し、「2+2」(防衛・外交閣僚級協議)の創設で合意した.原発関連技術の輸出推進についても確認した.
エッセンスは次のとおり.
・「2+2」の創設で合意.防衛装備品の共同開発、輸出管理のあり方を協議する場にする
・核燃料サイクルや高速炉などの技術開発で連携.原発関連技術の新興国への輸出推進
・北鮮に対し、核・ミサイル計画の放棄に向け具体的行動を要求.
・わが国と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)早期締結を目指す
・仏は、国連安保理改革の一環でわが国の常任理事国入りを支持する
本件に関する防衛大臣の会見概要です.
http://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2013/06/02.html
⇒主眼は、支那への軍事技術移転阻止にあると感じます.
■【核兵器の数】世界の各武器保有数
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は130603、2013年版年鑑を発表した.
それによると1301現在の世界の核武器の数は次の通り.
ロシア:約8500
米:約7700
仏:約300
支那(中共):約250
英:約225
パキスタン:100〜120
インド:90〜110
イスラエル:約80
総数でみると昨年より約1700個減少しているが、支那の中共だけが数を増やした.
減少は、米ロ間で2011年に発効した「新戦略兵器削減条約」(新START)によるもの.
■【日米豪の連携】シンガポールで日米豪国防相会談
会談した3カ国国防相は、尖閣を念頭に「現状の変更を試みるいかなる力による一方的な行為に反対する」との考えで一致した.東シナ海、南シナ海侵略を実行中の支那の中共が対象.
三カ国は、緊密な情報共有や共同訓練を通じ、警戒監視の強化を図ることを柱とする共同声明を発表している.
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.10
From:長南政義
こんにちは.長南です.
本連載は、トーチ作戦(*)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施した連合国の戦略作戦情報の役割についての考察です.
(*)1940年から1942年11月8日に実施された、連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味
前回は、ウィリアム・ドノヴァンの略歴について述べました.
「CIAの父」との異名を持つウィリアム・ジョセフ・“ワイルド・ビル”・ドノヴァンは、ニューヨーク州のバッファローでアイルランド系移民の子として生まれました.コロンビア・ロー・スクールを卒業後、ウォール街における有力な弁護士の一人になります.
第一次世界大戦が勃発すると陸軍少佐として欧州大陸に出征し、米軍において最高位の勲章である名誉勲章を受章しました.終戦までに陸軍大佐に昇進し、殊勲十字章と名誉戦傷章も受章.軍人としても有能でした.
ルーズヴェルトがドノヴァンと最初に会ったのは、ルーズヴェルトが海軍次官のポストについていた戦間期のことです.二人の関係は1933年にルーズヴェルトが大統領に就任した後も続きました.
ドノヴァンは、1935年から1936年にかけて、イタリア陸軍とその作戦活動を視察するためエチオピアを訪問しています.さらに、ルーズヴェルト大統領の命を受けて内戦下のスペインを視察していました.
視察旅行を通じてドノヴァンは、諜報活動がいかに重要かを明確に認識するようになります.そして、新たなる大戦においては、敵国の諜報活動が米国内で活発に展開されるような事態にさせてはいけない、と決意するようになったのです.
1940年7月16日、ルーズヴェルト大統領は、英国の防衛体制に関する再調査を行わせるためドノヴァンを英国に派遣します.この当時、ナチス・ドイツは、英国本土に対する上陸作戦(作戦名:あしか作戦)を実行しようとしており、あしか作戦の前哨戦として7月10日から、「バトル・オブ・ブリテン」(*)が英独両軍間で展開されていました.
(*)英国本土の制空権獲得を目的とした航空戦
ドノヴァンは、ルーズヴェルト大統領から、英国がドイツの侵略に耐えうるか否かを調査せよとの命を受け、ドイツ空軍の空襲を耐え抜く英国の耐久力や抗戦意志を確かめるために英国本土へ送り出されたのです.
視察を終え米国に帰還したドノヴァンは、英国がドイツ軍の攻撃に物理的に耐えうることが可能であるだけでなく、英国首相ウィンストン・チャーチルが英国民の抗戦意志の鼓舞に成功しているとの報告をルーズヴェルトに提出するのですが...
では、きょうも【トーチ作戦とインテリジェンス】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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■□正反対だったドノヴァン報告
しかし、英国の継戦意志および能力に関するドノヴァンによるこの情勢分析は、ジョン・F・ケネディの父である当時の駐英米国大使ジョセフ・パトリック・“ジョー”・ケネディの分析と全く正反対のものであった.
ジョー・ケネディは、ナチス・ドイツの電撃戦の前にもろくも敗れ去ったフランスのように、英国が、ナチス・ドイツの強大な軍事力の前に抗戦能力に対する自信と戦意を失い、最終的には降伏するかもしれないと憂慮していたのである.
さらに、ジョー・ケネディは、英国は米国からの支援なくしてはドイツ空軍の猛攻撃を耐えることができないと、ルーズヴェルト大統領に報告していた.
■□マインドセットの罠
ジョー・ケネディはなぜナチス・ドイツの力を過大評価してしまったのであろうか.そもそも、ジョー・ケネディの姿勢は、英国赴任当時からナチス・ドイツ寄りであった.ジョー・ケネディが駐英米国大使となったのは1938年のことであったが、彼は当時の英国首相ネヴィル・チェンバレンによる宥和政策を支持し、アドルフ・ヒトラーの政策に一定程度の理解を示していたのである.ジョー・ケネディは、米国による孤立主義の堅持とナチス・ドイツに対する譲歩とが第二の世界大戦を回避可能な唯一の方法と考えていたのである.
ナチスによるホロコーストの報道がなされるようになっても、ジョー・ケネディは、ヒトラーとの直接会談を通じて事態を好転できることが可能であると考えていた.甘い見通しというべきであろう.
第二次世界大戦が始まると、ジョー・ケネディは、英国に対する武器供与に反対した.さらに、バトル・オブ・ブリテンが始まるや、首都ロンドンから疎開することのなかった英国王室及び英国政府の落ち着いた態度とは正反対に、ジョー・ケネディはロンドンを離れ地方に疎開し、英国民から嘲笑されている.
以上述べたような、ジョー・ケネディの態度、彼から提出された英国の将来を不安視する内容の報告書、及びその無思慮で軽率な言動のため、ルーズヴェルト大統領は、その後、ジョー・ケネディを本国に召還することとなる.
ジョー・ケネディの情勢分析はなぜナチス・ドイツの軍事力を過大評価するものであったのだろうか.インテリジェンスの分野では、情報分析をゆがめてしまう要因の一つとして、マインドセットが挙げられることがある.
マインドセットとは、分析官が無意識的にある一定の考え方や思い込みに陥ることを意味する専門用語である.ジョー・ケネディは、駐英米国大使でありながら、赴任当初の1938年からヒトラーへの譲歩を主張するなど、ナチス・ドイツ寄りの発言を続けてきた.
ジョー・ケネディの心の奥底に存在したナチス・ドイツに対する過大な警戒心や恐れが、ナチス・ドイツに対する軍事力の過大評価を無意識のうちに招いてしまった原因の一つであったといえるであろう.換言するならば、彼はマインドセットの罠にはまっており、正確な分析ができなかったのである.
ジョー・ケネディは、自身が果たせなかった大統領に就任するという野望を自身の息子に託したことで有名である.駐英米国大使という官職だけではなく、大統領就任というジョー・ケネディの夢を打ち砕いたのは、自身のマインドセットだった.
1940年11月10日のボストン・グローブ紙に、以下のようなジョー・ケネディの談話が掲載された.
「英国に武器を供与する最大の目的はとにかく時間を稼ぐこと、準備する時間を稼ぐことだ.イギリスは別に民主主義のためにナチスと戦っているのではない、ただ自己保存の戦いをしているのだ」
この記事は米国民からの批判を招くに十分すぎるほどのインパクトがあった.国内外からの批判の声を前に、ルーズヴェルト大統領は、ジョー・ケネディをこれ以上大使の職に留任させることは不可能と判断し、1940年11月にジョー・ケネディを辞任に追い込んだのである.これにより、ジョー・ケネディの政治生命も事実上絶たれたのであった.
■□ただ一人の中央情報局(CIA)
マインドセットの陥穽に落ちたジョー・ケネディの情勢分析とは対照的に、ドノヴァンの情勢分析はバイアスがかかっておらず偏向が少ないものであった.この点が、ルーズヴェルト大統領の目に留まった.
ルーズヴェルトは、情勢を正確に分析し、そのままでは使うことの出来ないインフォメーション(データや生情報の類)をインテリジェンス(何らかの判断や評価が加えられた情報)へと高めることのできる才能をドノヴァンのなかに見出した.
本連載で既述したように、この当時の米国では、FBI、米国陸軍情報局および米国海軍情報局という三つの主要なインテリジェンス機関が存在したため、各機関のインテリジェンス活動が重複するという弊害が生じていた.そのため、ルーズヴェルトは、インテリジェンス機関同士の活動を調整しようとしていたが、ドノヴァンは、英国視察を通じて、次第に大統領の個人的な中央情報機関という役割を果たすようになっていった.
後のCIA長官ウィリアム・ケーシーが指摘しているように、ドノヴァンの英国視察旅行は、ドノヴァンを「ルーズヴェルト大統領にとってただ一人の中央情報局」にする結果をもたらしたのである(トーマス・F・トロイ『ワイルド・ビルとイントレピッド 〜ドノヴァン、スティーヴンスンおよびCIAの起源〜』原題:Wild
Bill and Intrepid Donovan, Stephenson, and
the Origin of CIA.).
■□インテリジェンス・サイクルとドノヴァンの情報収集活動
ドノヴァンは、大統領から要求された時にルーズヴェルト大統領にとっての唯一の中央情報機関としての役割を果たすだけでなく、将来的に米軍の作戦が展開される可能性の高い地域の出来事に関する戦略レヴェルの情報収集を個人的に行ってもいた.
ルーズヴェルト大統領は、詳細かつ正確なインテリジェンスを欲していた.情報に飢えていたのである.そのため、ルーズヴェルト大統領は、ドノヴァンが各地域に情報収集旅行を行うに際して、自身が望むインテリジェンスに関する明確な指針をドノヴァンに与えていた.
現代のインテリジェンスには、
(1)リクワイアメント(情報ニーズ)→(2)情報収集→(3)情報分析・評価→(4)インテリジェンスの配布→(5)フィードバック
というインテリジェンス・サイクルが存在する.インテリジェンス・サイクルがうまく機能するためには、インテリジェンスを必要とする政策立案・決定者の側が、明確な情報ニーズを情報機関の側に出す必要がある.すべては情報カスタマーである政策決定者の情報ニーズから始まるのである.
ルーズヴェルト大統領がドノヴァンに与えていた明確な情報収集に関する指針は、現代のリクワイアメント(情報ニーズ)に相当するものであった.ドノヴァンの集めた情報の価値が戦略的に高かった理由は、ルーズヴェルトが明確なリクワイアメント(情報ニーズ)をドノヴァンに与えた点にあったといえるであろう.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.13
From:荒木肇
こんにちは.荒木です.
アベノミクスはどうなるか?株価格の高下からいろいろな話題も出ています.そういう中で、米中接近がクローズアップ.昔の「ニクソン・ショック」の再来かという方もいますが、さあ、どうなんでしょう.あまり刹那的に騒ぎすぎる国民性が出ているのかなどと政治にうとい私などは思います.
今回も近代史のなかでの研究の進展が楽しみな日ソ交渉史はどう書かれているかを検証してみます.近くて遠いロシア、直に戦火を交えてほぼ1世紀がたって、日露戦争史も研究が進んでいます.次は日露戦後の見直しもなくてはと考えております.
伊原さんからご指摘をいただきました.「化外」の読みです.「開化」は「かいくゎ」、したがって、正しくは「かがい」、もっと正確には「くゎがい」でした.ご指導、ありがとうございました.
さあ、きょうも【昭和と平成の教科書を比べて】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
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■ノモンハンや張鼓峰事件の書かれ方──昭和と平成の教科書を比べて(23)
▼張鼓峰とノモンハン
昭和の教科書には、意外なことに両事件をまとめて、わずかなスペースで書いてある.『日華事変』とされる項の中である.
『1937(昭和12)年7月、北京郊外での芦溝橋事件をきっかけに日華両軍の衝突がおこり、日華事変が勃発した.ときの近衛内閣は、ただちに不拡大の方針を声明したが、軍部はこれを無視し、さらに軍事行動を展開して中国全土の侵略にすすんだ.戦火はやがて上海にとび、ついにこの年の暮に日本軍は首都南京を占領した.戦線はますます拡大され、北ではソヴィエト連邦との間に砲火をまじえた.』
とあり、砲火をまじえたの下には脚注がある.
『1938(昭和13)年7月には張鼓峰事件、翌年5月にはノモンハン事件をおこした.これによって日本軍は大きな損害を受けた』
こうした書き方をすれば、若者の心には「政府の方針を無視した軍部」、「侵略」にすすんだのも軍部、「事件」を起こし、砲火をまじえた主語も軍部.そうした刷りこみをねらったといっていい.当時の教科書の著者たちは、まさに「ソヴィエト」の手先だった.
平成の教科書になると、書く人たちの意識が微妙に変わっているのがわかる.
まず、「日華事変」とは直接に結びつけない構成になっている.
『第二次世界大戦の勃発』の項に入った.
『ヨーロッパでは、ナチス=ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破に乗り出して1938年にオーストリアを併合し、さらにチェコスロヴァキアにも侵略の手をのばした.このようななかでドイツは、日本の第1次近衛内閣に対し防共協定を強化して、ソ連に加えイギリス・フランスを仮想敵国とする軍事同盟にすることを提案した.
近衛内閣はこの問題に決着をつけないまま退陣し、1939(昭和14)年初めに平沼枢密院議長が組閣した.平沼内閣では軍事同盟の締結をめぐり閣内に対立が生じたが、同年8月、ドイツが突如ソ連と不可侵条約を結んだため(独ソ不可侵条約)、国際情勢の急変に対応し得ないとして総辞職した.』
と書き、「独ソ不可侵条約」の下に脚注をつけている.
『日中戦争中のソ連の出方を警戒していた日本は、1938(昭和13)年、ソ連東部と満州国の国境不明確地帯においてソ連軍と戦い(張鼓峰事件)、さらに翌1939年5月には、満州国西部とモンゴル人民共和国の国境地帯でソ連・モンゴル連合軍と戦ったが、ソ連の大戦車軍団の前に大打撃を受けた(ノモンハン事件).独ソ不可侵条約成立の報は、ノモンハンでまさにソ連と戦闘中だった日本にとって衝撃であった.』
▼北辺の脅威への対処、陸海軍拡充計画
日本陸軍は日露戦争にやっとの思いで勝利を手にした.その後は、ずっと対露恐怖症だった.戦後の常設師団増設も、予備員制度の拡大整備もひたすらロシアのリターンマッチを想定してのものである.
その整備目標は常設師団25個だった.戦時にはこの常設師団を元にした野戦師団25個と予備師団25個の合計50個師団とするものだった.実際には陸軍が戦時編制になれば、この他に野戦砲兵旅団や騎兵旅団、工兵部隊、各種輜重部隊、衛生部隊、兵站諸機関や特設部隊・機関が増える.日露戦争の100万人の野戦軍どころか、ざっと200万人近い動員兵力である.
日露戦争は巨額の国費を投じ、しかもその多くは外国からの借金だった.国内、国民生活の疲弊はたいへんなものである.日露戦後の経済不況ではとても一気には実現できない.危機感はもちつつも、現実への認識もある.希望兵力は、だんだんと整備していこうとなった.
1907(明治40)年早春、帝国陸海軍は『帝国国防方針、国防に要する兵力量、帝国軍の用兵綱領等』の協議を終えて明治天皇に奏上した.参謀総長は奥保鞏、海軍軍令部長は東郷平八郎だった.この内容については『国防方針』として知られているが、正確なものは残っていない.防衛省の戦史室は次のようなものと推定している.
(1) 自衛を旨とし国利国権を擁護し、開国進取の国是を貫徹.
(2) 作戦初動の威力を強大化し、速戦即決.
(3) ロシア、米国、フランスを目標とし、東亜の戦場で攻勢をとれる兵備.
(4) 陸軍50個師団、海軍八八艦隊(戦艦、装甲巡洋艦各8隻と補助艦艇)
まず、併合した朝鮮に常設の2個師団を置く.対ロシア作戦の最前線である.これをなんとかしようとしたが、租借地の「関東州」にせよ、満洲鉄道の附属地の経営にせよ、たいへんな荷物を背負っていた.そんな中で第2次西園寺内閣に2個師団の増設と、海軍軍備充実案が出された.
明治45(1912)年から7年計画で約3億5000万円という計画である.この後、なんとか海軍を説得して46年度以降に一部の建艦を認めることでようやく妥協.そして、明治天皇の崩御、大正天皇が即位される.
シベリア出兵については別の機会に譲るが、大正時代の大陸政策はソヴィエト政権に振りまわされた.それに加えて満洲の支配者の問題である.これらの詳細もまた別に見てみよう.
▼国防の第一線が満洲国境になる
1932(昭和7)年3月1日、満洲国建国が発表される.もっとも清朝のラスト・エンペラーはまだ執政にしかすぎなかった.9月には「日満議定書」が調印された.これによって、満洲の国土防衛は日本が受けもつことになった.満洲の広さはざっとフランスの3倍近い.ちょっと前まで、陸軍が主戦場と想定していたのはハルピン付近である.それがいっぺんに全国境を考えなければならなくなった.
しかも相手は、大正時代の末期、『日本陸軍に仮想敵国などない』と主張されていた頃とは大いに変わっていたソヴィエト連邦である.ソ連は1927(昭和2)年には、第1次5カ年計画を策定して、工業化と赤軍の自動車化、機械化に乗り出していた.
このソ連軍が、とくに沿海州方面での兵力を増やしてきている.戦車、航空機を次々と配備し始めた.日本陸軍も「時局兵備改善案」を企画する.在満洲の兵備をすすめ、飛行隊、戦車隊、高射砲隊を増やし、化学戦学校(習志野学校)の新設などをおこなった.
さらに1935(昭和10)年からは「航空防空緊急充実計画」の実行を始めた.大正14(1925)年には、偵察、戦闘、軽爆、重爆の合計26個中隊が、1933(昭和8)年には、合計36個中隊になり、中でも軽爆は3倍の6個中隊、重爆も2倍の4個中隊になった.在満洲の飛行部隊も、3個飛行連隊が配備された.偵察3個中隊、戦闘4個中隊、重・軽爆各1個中隊である.
▼ソ連との第1回戦・張鼓峰事件
ソ連と朝鮮や満洲での国境紛争は建国以来、何度も起こっていた.国境線がはっきりしていなくて、どちらも強腰なら紛争になるのはあたり前である.お互いの根拠とする地図や資料がまちまちだから、それぞれの主張を強引に通そうとすれば武力衝突になる.もし、弱腰で引きさがっていると、他の方面でも強腰で相手は迫ってくる.
1938(昭和13)年7月、朝鮮とソ連の国境線張鼓峰で小戦闘があった.ときは支那事変の真っ最中である.参謀本部作戦課の中に「威力偵察論」がおきた.ソ連が日支の紛争に介入してくる意図があるかどうかあたってみようというわけである.全面戦争にはつながらないだろう.兵力は1個師団かぎり、戦車も航空機も投入しない.わが国境線の外側には追撃しないという方針である.このとき、「止めよ」と言われたのは、昭和天皇だけでいらしたというのだから驚きである.
ソ連軍は8月2日から、いわば近代戦の正攻法通りやってきた.飛行機による爆撃、重砲の砲撃、戦車の支援のもとに歩兵部隊が攻撃してくる.歩兵と砲兵だけで専守防衛に努めよというのだから、悲惨なのは第19師団だった.叩かれっぱなしである.6日にはソ連軍は2個師団を投入してきた.
11日、なんとか外交交渉がまとまって休戦になる.戦闘参加人員は6914名、戦死者は526名、戦傷者914名.歩兵第75聯隊は51%、同76聯隊は30%の損耗を出した.
実はソ連にとっては全軍の士気を高めた大勝利だった.1937年からこの年にかけて、ソ連軍は大粛清を行っていた.有名なトハチェフスキー元帥の陰謀をでっち上げたスターリンの権力掌握のための行動だった.共産党政権、スターリンに敵対する軍関係者はみな殺されたり、投獄されていたりした時代だったのだ.ソ連軍が全力を挙げてきたことには訳があった.
▼第二回戦のノモンハン
こうした事件が関東軍の幕僚たちに与えた影響は大きい.大本営も朝鮮軍も戦争指導が弱腰だ.これでは、自分たちもなめられる.俺たちなら・・・と意気込んだのが関東軍である.1939(昭和14)年4月、「満ソ国境紛争処理要綱」を関東軍は出した.基本方針は、
(1)「侵さず、侵されず」
(2)不法行為には「その野望を初動に於て封殺破催す」
たいへん結構な方針としか言いようがない.国境線が明確な地帯では侵されないように警戒せよはいい、敵が越境した場合は十分な兵力で急襲殲滅もいいだろう.問題は「一時的にソ連領内に進入することもできる」という個所である.さらに問題点がある.「国境線が不明確ところ」では防衛司令官が自主的に国境線を認定せよという部分である.
まさに、その不明確な所で紛争が起きた.これまでハルハ川が国境線とされてきた.ところがソ連軍と外蒙古軍は国境をハルハ川東岸、ノモンハン付近にあるとしていた.こうして泥沼のような激戦が続いた.最近の研究では、ソ蒙軍の損害や、内部事情も明らかになってきている.実態は、『大戦車軍団の前に大打撃を受けた』のも事実だったが、ソ連軍も外蒙古軍もたいへんな被害を受けていたことが最近は明らかになった.
また、ソ連はヒトラーの脅威の前に、英仏に信頼を得なければならなかった.きちんと戦わない国家は、強い友達も得られないのである.ソ連軍もまた必死だった.
▼相手側の事情も
ドイツ装甲師団がポーランドへ怒涛の進撃を始めていたのが8月.ノモンハン停戦の翌日9月17日にはソ連軍がポーランドに侵入していた.8月23日には独ソ不可侵条約が締結された.『欧州の事情は不可解である』と呆然として退陣した平沼内閣.ポーランドはあっという間に片付いて、国内は大さわぎ.このポーランド戦の意味も、ソ連の対フィンランド戦争も「対岸の火事」のようにしてまとめもせずに昭和15年を迎えた.
宣戦布告をし合ったドイツとフランス・イギリスはこの時期、ほとんど戦争をしない.いったい何をしているのか、世界中が「座り込み戦争」などと言っているうちに、4月9日、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェイに対して戦闘を開始する.そして5月10日、文字通りの電撃戦でフランスを破る.オランダは5日、ベルギーは18日、フランスは5週間で降伏する.
イギリス軍は大陸から撤兵を余儀なくされ、本土空襲におびえる.オランダ政府はイギリスに亡命し、フランスは降伏で植民地が多いアジアにも影響する.こうした事情が第2次近衛内閣の「南進論」を勢いづかせたといっていい.
教科書には、こうした相手側の事情も書かなくてはならない.平成版はようやく、ソヴィエトの手先から、少し公平な見方を提供し始めた.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.12
From:家村和幸
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
今回は「武士道精神の実践」の第二話といたしまして、明治における“武士道精神の体現者”乃木希典(まれすけ)大将について紹介します.
明治天皇と乃木大将の“君臣一体”となった「心の絆(きずな)」についてのエピソードです.
なお、乃木大将が指揮した旅順攻略の戦略・戦術について詳しく知りたい方は、拙著『戦略・戦術で解き明かす真実の「日本戦史」』(*)の第1章をご一読ください.
(*) http://okigunnji.com/picks/lc/iemura.html
さあ、きょうも【武士道精神入門】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
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【第16回】武士道精神の実践:日本はここにある!
明治天皇と乃木大将
明治37(1904)年2月から同38(1905)年9月までの日露戦争は、開戦時は世界中が日本に勝算はないと見ていた戦争だった.
当時、世界一の陸軍国ロシアの兵力は三百万人、日本の兵力は二十万人だった.しかし、座して植民地となるよりは、一矢を報いて有利な講和を、との意気に燃え立った当時三千万の日本国民が、君民一体となって戦ったことでついに勝ち、植民地の苦しみに喘(あえ)ぐ東南アジアの人々の心に独立の火を点じた.
戦争の分岐点は、難攻不落とされた旅順要塞の攻略であり、これを指揮したのが、乃木希典大将であった.戦闘は累々たる屍を乗り越えて約7ヵ月を要し、翌年の1月1日に旅順は陥落した.
旅順陥落後の乃木大将とステッセル将軍の会見では、乃木大将が「昨日の敵は今日の友」とし、ロシア軍の武人としての誇りを重んじた.乃木大将の態度は世界中で賞賛され、その紳士的で寡黙な雰囲気は、外国での日本人像に多大な影響を与えた.
日露戦争に勝利し、国民は凱旋将軍の乃木大将を歓喜して迎えた.しかし、多くの将兵を失った呵責(かしゃく)から、大将は意気消沈していた.また、かつて西南戦争(明治10年)で軍旗を奪われた責任からも、自分を責めていた.
明治天皇に拝謁し、旅順の戦況報告では亡き将兵を思って声を詰まらせた大将は、その責任からすべての役職の解任を願い出た.それに対して明治天皇は、
「負ける戦いなれど、乃木なればこそ」 と心から慰労のお言葉を述べられ、
「乃木は辞められるからいいな」.・・・ 間をおいて
「天皇は辞められない」 と仰せられて、しばし無言となられた.場は静寂に包まれ、参列者はその大御心の深さに涙した.
乃木大将は、陛下のお言葉の重みで立っていることができず、その場に声を上げて泣き崩れた.
ようやく人に支えられて立ち上がった大将が一礼して帰る後ろ姿に、陛下は、
「乃木よ、早まるな!」.・・・ そして、
「乃木には、まだやることがある」 とおっしゃった.
陛下に切腹の決意を見抜かれた大将は、その温情に涙し、自決をとどまった.
数日後、乃木大将に学習院院長としての大命が下った.
明治天皇は乃木大将に、
「お前は、二人の子供を失って寂しいだろうから、その代わり沢山の子供を授けよう.」 と仰せられた.
乃木大将は日露戦争で二人のご子息を失っていた.
以来、陛下のご信望にこたえるべく、裕仁親王(後の昭和天皇)をはじめとする皇族、華族の子弟の教育に、乃木大将は自らの全人格を注いだ.学習院の校内に寝泊まりしたこともあったという.
明治45(1912)年7月30日、明治天皇がご崩御なされ、乃木大将が葬儀委員長となり、9月13日が国葬と決定された.
国葬の前日に大将は、十歳だった裕仁親王を訪ね、山鹿素行の『中朝事実』を、必ず熟読されるように、と差しあげた.親王殿下は、ただならぬ気配に思わず、
「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」 とお聞きになった.
昭和天皇は晩年、「私の人格形成に最も影響のあったのは、希典学習院長であった.」と申されておられたように、乃木大将こそが生涯で最も尊敬する人物であられた.
9月13日、国民の悲しみの中に、明治天皇の国葬が執り行われた.
「乃木よ、早まるな!」 と仰せられ、陛下に命を預けてから、七年がたっていた.
葬儀委員長の大任を果たし終えて、乃木邸に帰った大将は、
うつし世を 神去りましし 大君の
みあとしたひて 我はゆくなり
という辞世を詠み、武士の作法で切腹し、六十四年の生涯を閉じた.遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償(つぐな)うための死でもあるむねが記されていた.
また、静子夫人も、
出でまして かえります日の なしときく
けふの御幸(みゆき)に 逢ふぞかなしき
と詠み、明治天皇と大将のみあとを慕い殉死なされた.
このできごとは当時の社会にきわめて衝撃的にうけとめられた.
国葬の一週間前のことである.
乃木大将は、学習院の講堂で講話をなされ、その最後に、
「みなさん」 と言葉を切って、「日本は、どこにありますか?」 と問いを発した.
少年たちは、「東経何度」とか、中には 「世界地図の赤く塗られたところ」等々、様々に答えた.
大将は、一つ一つにうなずいた後、
「みんな、間違っていないよ.しかし、本当の日本は、・・・」 と言葉を強くし、ポンと胸を叩いて、
「みなさん一人一人の胸三寸に、『私は日本人だ』という心に、本当の日本があるんです!」
とおっしゃられ、深々と一礼して壇上を降りられた.
瞬間、院長の意外なお言葉に唖然(あぜん)とした子供たちは、すぐに、静かに廊下を去る乃木大将の後姿に、万雷の拍手を送った.
(「日本はここにある! 明治天皇と乃木大将」終り)
(いえむら・かずゆき)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.14
■米海兵隊の用語解説(米海兵隊)
物事を理解するには、用語の意味を理解して覚えることから始まりますね.
海兵隊についてもおなじではないでしょうか?
●海兵空陸機動部隊(MAGTAF[マグタフ])
海兵空陸機動部隊「MAGTF(マグタフ)」は、様々な軍事作戦任務を行うための米海兵隊の基本的な組織です.
多用途で、広範囲にわたる有事、危機、紛争に対応可能な規模の拡大・縮小が可能な遠征兵力を提供できます.
連合部隊であるマグタフの指揮および調整は、単独の指揮官によって、配備前の訓練、配備中、軍事行動の全てが行われます.
マグタフは、空または海から、あるいはその両方から、迅速に展開するため、任務に応じて編制されます.
マグタフはどんな任務であっても、展開可能な次の4つの部隊要素で構成されています.
司令部隊:司令、諜報、通信、管理支援を提供する部隊で構成.
陸上戦闘部隊:陸上戦闘作戦を実施するため任務に応じて編制され、歩兵、砲兵、偵察、装甲、軽装甲、水陸両用強襲車両、工兵、その他の部隊で構成.
航空戦闘部隊:攻撃および防衛作戦を実施する航空部隊で、6つの機能(強襲支援、対航空機戦、攻撃航空支援、電子戦、航空機とミサイルの管制、航空偵察)を果たすために任務に応じ編制.
兵站(へいたん)戦闘部隊:マグタフ全体の断続的即応性と持続可能性を維持する上で必要なあらゆる機能および能力を提供.作戦軍のために、後方にあって連絡・交通を確保し、車両・軍需品の前送・補給・修理などが任務.
●海兵遠征軍:平時と有事における「常設機動部隊」で、大規模な有事や危機に対応する主要な戦闘組織.60日分の物資で、いかなる条件においても、上陸強襲と陸上での作戦を実施することが可能な部隊.
●海兵遠征旅団:海兵遠征軍と海兵遠征部隊の中間にあたる能力を提供する中規模機動部隊.30日分の物資で、いかなる条件においても、上陸強襲と陸上での作戦を実施することが可能な部隊.
●海兵遠征部隊:統合戦闘指揮官の下、揚陸即応群の艦船で前方展開する機動部隊.15日分の物資で、いかなる条件においても、上陸強襲と陸上での作戦を実施することが可能な部隊.
●特殊目的マグタフ:特殊作戦や特殊任務などの限定的地域における演習を実施するために編制される機動部隊.
http://www.okinawa.usmc.mil/Units/Units.html
■米海軍第70任務部隊
第70任務部隊(TF70)は、米海軍第7艦隊戦闘部隊の空母戦隊を意味する.戦力の中核は、空母「ジョージ・ワシントン」と、空母搭載の第5空母航空団(CVW-5).
指揮官(少将)には第5空母航空団司令が指定される.70任務部隊指揮官は7艦隊戦闘部隊指揮官(少将)であり、7艦隊水上戦闘部隊(75任務部隊、TF75)も指揮する.TF75は、イージス巡洋艦「シャイロー」「カウペンス」及び第15駆逐戦隊の7隻で構成されている.
なお、7艦隊戦闘部隊指揮官(少将)は、7艦隊責任地域で展開・通過するすべての空母戦隊・水上戦隊に対する作戦統制権を保有している.
空母「ジョージ・ワシントン」と9隻の水上戦闘艦9隻は横須賀から出撃し、第5空母航空団は、空母に搭載されていないときは厚木で展開している.
70任務部隊は、現在米海軍で唯一前方展開している米第7艦隊の重要な攻撃能力を構成しており、米海軍最大の空母戦隊「第5機動戦隊」に指定されている.第5機動戦隊は、迅速な展開能力を保有しており、米本土より平均17日分アジアに近い環境にある.
<参考>
東アジアの最近の動き
1301 台湾外交部、尖閣問題で支那の中共とは連携しないと声明
1304 日台、漁業取り決め協定調印
130522〜24 北鮮軍総政治局長・崔竜海次帥、金正恩の特使として訪支.習近平国家主席と会談.
1305末 米のキング北鮮人権問題担当特使と北鮮の6者協議首席代表・李外務次官がベルリンで接触したと韓国が報道
130606 崔次帥の訪支時、中共が北鮮に対し200億円相当の支援を提示(条件は6者協議への復帰)していたことが判明
130606 北鮮の提案で、韓国との南北閣僚級会談開催が固まる
130607〜8 中共の習近平が訪米.カリフォルニア州でオバマ大統領と会談
⇒韓国の支那属国化は進展している.支那は、北鮮の核を利用し、韓国を脅して交渉している.支那の目的は北鮮主導の半島統一⇒半島の属国化⇒わが国の属国化だろう.そのため台湾併合も図るであろう.支那の影響力が半島で高まると、台湾海峡の波が高くなる.
半島統一への動きには特に厳戒が必要である.戦いを避けて戦争を招くのが現代日本の悪い癖だから.
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● 編集雑記
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130610からはじまった米主催の多国間統合演習「ドーン・ブリッツ」は、米海兵隊とわが統合部隊をはじめとする諸国軍部隊が行う、離島奪還訓練です.
わが「日向」への輸送機「オスプレイ」着艦が行われるなど、充実した内容の演習は順調に進んでいるようです.
話は変わりますが、
日向級護衛艦には、VSTOL機が三機離発着可能ですね.
ハリアー配備を検討してはどうでしょうかw
いっそのこと、国産VSTOL機開発をしたらいいんじゃない?
とふと思いました.
以下余談です
現在の日向級護衛艦は「ひゅうが」と「いせ」です.
帝国海軍の伊勢級航空戦艦は「伊勢」と「日向」です.
同じ名前ですw
海自が帝国海軍の継承者であることがわかります.
次の楽しみは、
建造予算が計上済の、退役する「はるな」級の後継艦2隻(19500トン級)の名前です.
「扶桑」「山城」の方向に行くのか
「赤城」「加賀」の方向に行くのか.
それともぜんぜん違う方向に行くのか.
非常に興味深いところですww
(エンリケ航海王子)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.17
■ 創発戦略で最大限のチャンスをものにしよう!
さて、これまで3回にわたって、以下の『破壊的キャリアを実現する4つの原則』
のうち、3つまでを取り上げてきました.
≪破壊的キャリアを実現する4つの原則≫
1.世の中のニーズを見極め、誰もやらないこと、やりたがらないことに
挑戦する
2.自分の破壊的な強みを明確にする
3.成長ために一歩戻り、脇道を行く
4.キャリア戦略を創発する
(出典:ハーバードビジネスレビュー2013年5月号
『内面のイノベーションで自己成長を促す ─ キャリアの創造的破壊』より)
今回は最終回として、『キャリア戦略を創発する』というテーマで
お届けしていきたいと思います.
企業にとって創発戦略は成功を収めるうえで重要な鍵を握ります.
創発戦略とは、自社を取り巻く環境が変わったり、事前に予測した通りに
事が運ばなかったりした場合に、当初立てた戦略を変更して、
その時その時に合った戦略に変更していくことです.
自身のキャリアにおいても、当初は明確なビジョンを描いてこのような
キャリアパスを進んでいきたいというイメージを持って計画を立てる
でしょうが、現代はご存知のように環境変化が激しく、将来自分が望む花形の
仕事も需要がなくなり廃れてしまうことなども十分に考えられます.
そこで自分を取り巻く環境が変われば、当初の計画を見直して、その時
その時のチャンスを新たな戦略を立てて、ものにしていく必要があるのです.
たとえば、ソフトバンクの孫正義社長も現在のような通信企業として、
大きなチャンスを得ようと当初から計画しているわけではありませんでした.
それどころか、最初は何をやればいいのかもわからない状況だったそうです.
確かに大学生の頃から人生50か年計画として『20代で名乗りを上げ、
30代で軍資金を貯め、40代で一勝負かける.そして50代で事業を完成させ、
60代で次の世代に事業を継承する』という、大まかな理想像は描いて
いましたが、具体的にはどのようなキャリアで実現するかは
皆目見当のつかない状況だったのです.
そこで、日本マクドナルド創業者である藤田田氏のアドバイスに基づいて、
まずはパソコンソフトの流通業からスタートします.
孫氏の持ち前の情熱で短期間でソフトバンクはパソコンソフト流通において
日本でも有数の業者にまで上り詰めます.
さらに事業を拡大するためにパソコン誌に広告を出稿しようと試みますが、
ソフトバンクの快進撃を快く思っていなかった出版元のアスキーに
広告出稿を断られます.
苦肉の策として孫社長が考え出したのが、自ら出版社となり、
パソコン誌を発行して、広告を展開していくことだったのです.
当初は雑誌の販売に苦労するものの、雑誌で取り上げるパソコンを生産する
NECなどから資金的な協力を得てテレビCMを流すと、売上が急拡大し、
事業は軌道に乗ることになります.
その後も、Yahoo!Japanなどインターネット関連事業や日本テレコムなどの
通信事業、ボーダフォンなどの移動体通信事業に投資するなど、その時
その時の時流に乗った大きなビジネスチャンスを驚くべき発想で
ものにしていったことはみなさんもご存知のことでしょう.
確かに最初から具体的なキャリアビジョンを描いて、その達成に向けて計画を
十分練り、行動につなげていくことも重要ですが、今や3年先、5年先まで
見通すことが難しいという時代になっています.
そこで、環境や条件が変われば、あまり当初の計画にこだわることなしに、
その時々のチャンスを見極めて最高の結果を自分にもたらすことにフォーカス
すべきなのです.
そのためには、常に現状に満足することなく、情報のアンテナを張って
成長の機会を伺うことができるかが重要なポイントになるでしょう.
そして、ひとたび大きなチャンスが巡ってくれば、究極には迷うことなく
現在のキャリアを捨ててまで、創発戦略を駆使してより高いレベルの“自分”
を実現していくことが“破壊的キャリア”の成功につながっていくのです.
(了)
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2013.6.20
■メディア王と離婚の中国人妻、中国当局のスパイか=海外中国語メディア
【大紀元日本6月21日】海外中国語メディア「泛華網(PanChinese)」は17日、北京の内部筋の情報として、メディア王ルパート・マードック氏との離婚が報じられた中国人妻・ウェンディ(中国名・?文迪)さんは、人民解放軍総政治部の主要スパイであることを報じた.
同報道はウェンディさんの名前を言明せず、「世界で騒ぎを起こしている、離婚騒動の渦中にいるメディア界の強い女性」は中国の諜報史上でもっとも伝説的な人物になるだろうと断じた.
報道によると、ウェンディさんは中国国内で大学一年生(1986年)の時にすでに解放軍総政治部広州支部の目に留まり、スパイ候補として見定められていたという.米エール大学でMBAを取得した1996年に、本格的にスパイ活動を始め、以来、香港のメディア界への潜伏に成功し、大きな権力を手に握るまでとなった.「電撃離婚が伝えられてから、総政治部内部はかなり揺れている」と報道は同筋の話として伝えた.
同報道はまた、ウェンディさんの経歴の中のいくつかの謎の点に注目した.
謎その1.エール大学MBA課程の高額の学費の払い手は
一部の報道は、その大金を提供したのは、ウェンディさんが一回目の婚姻中に不倫相手だった米国人男性だと伝えている.しかし、「体操学校のマネージャだったこの米国人男性にはその経済能力はないのが明らかだ」と泛華網は指摘し、謎のスポンサーが存在することを示唆した.
謎その2.決して裕福ではない中国の一般家庭に育ったウェンディさんが、インターンシップで香港に渡った際、なぜファーストクラスに乗ったのか
1996年、ウェンディさんは香港行きの飛行機のファーストクラスに乗っていた.その隣の席は、マードック氏が率いるニューズ・コーポレーション社の役員、同社傘下の香港スターTVの最高執行責任者(COO)ブルース・チャーチル氏だった.2人は話が弾み、知り合いになった.
後に彼女は同テレビ局でインターンを経て入社し、管理層唯一の中国人女性幹部になった.この出会いは彼女が香港メディア界、そして、世界のメディア王の妻の座への足がかりとなった.
泛華網は同筋からの情報として、「ファーストクラスに乗ったのも、某香港メディアの上層部の隣に座ったのも、みな解放軍総政治部のスパイのチームワークだった」「すべては中国側の計画通りに運んだ」と明かした.
この内部筋によると、香港返還の直前だった当時、総政治部には香港のメディアをコントロールするという重要任務が命じられていた.欧米企業傘下のメディアにはスパイを潜伏させるのはもっとも有効的だとされていた.飛行機での出会いは、彼女を同テレビ局に送り込むための策だったという.
ウェンディさんとマードック氏との出会いについても、様々な情報が飛び交う.その1つは「ワインこぼし」説である.1997年、香港に訪れていたマードック氏は同社上層部主催のパーティーに出席.招待されなかったウェンディさんは、マードック氏の出席情報を聞きつけパーティーに乗り込んだ.そして「誤ってワインをマードック氏の服にこぼしてしまった」.このアクシデントは、彼女がメディア王に顔を覚えてもらうために故意に仕込んだもので、この事がきっかけで2人は知り合ったと言われている.
それから2年後の1999年、マードック氏は2番目の妻と離婚し、17日後にウェンディさんと再々婚.メディア王の妻となったウェンディさんはいっそう積極的に社交活動を展開し、着実に上流社会の人脈を築いた.
そして2011年に起きた世界が注目する事件で、彼女はスパイではないかとの説が浮上した.
当時、ニューズ・コーポレーション社は盗聴の疑惑が持たれ、同年7月19日、英国議会で関連の公聴会が開かれた.その席で、ある男性が突然立ち上がり、髭剃りクリームを盛った皿をマードック氏の顔にぶつけようとした.それを見たウェンディさんは素早く立ち上がり、男性を右手で平手打ち.わずか数秒間の出来事だが、その腕前は現場のボディーガードも顔負けのものだった.この武勇伝を評価する声も多い中、英誌「The
Week」は同21日、「これはスパイの特殊訓練が思わぬ所で現れたのではないか」と指摘した.
カリフォルニア州立大学経済学部のケン・チャップマン教授はかつて、豪州オンライン紙・Crikeyの取材で教え子だったウェンディさんについてこう形容した.「彼女は謎の人物だ.どこまで信じていいのか、いまだによくわからない」
同大学のダニエル・ブレーク教授もウェンディさんのことをよく覚えていた.「彼女はいつも定期的に数日間にわたって所在不明になる」「非常に影響力のある人だ.とても聡明で成績は非常に優秀、それにとても魅力的だった」という.
マードック氏の伝記本の著者であるマイケル・ウルフ氏は最近、マードック氏は数年前、息子に、「ウェンディとの結婚は間違いだ」と話したことがある、と明かした.また、今回の離婚が話題になってから、英BBCの経済記者ロバート・パターソン氏は自身のブログで、ニューズ・コーポレーション社上層部からの有力情報として、この離婚には「仰天な裏がある」と記した.
(翻訳編集・叶子)
(13/06/21 18:10)
https://www.epochtimes.jp/jp/2013/06/html/d69154.html
【第17回】武士道精神の実践:千葉周作−生きる道−
それ剣は瞬速、心、気、力の一致
千葉道場総師範 千葉周作
北辰一刀流無想剣の創始者、千葉周作が、ある夜、屋敷の奥に寝ている時、道場の門弟が次ぎの間(つぎのま=貴人の居室の隣の間)に来て声をかけた.
門弟「先生、お目ざめでございますか.・・・」
周作「ああ、起きている.」
門弟「ただ今、茶道家の春斎と申す者が、先生に急にお願いがあって参ったのだと、玄関まで来ております.先生はすでに御寝になっておられるから明日にでも・・と申しましたが、どうか先生に取り次いでいただきたいと、しきりに願っておりますので、いかが致しましょうか.」
周作「何の用件だ.」
門弟「醜(みにく)くない殺され方を 是非、先生からお教え願いたいのだと申しております.」
周作「ほう、面白そうな奴だな.よし、通してよろしい.」
門弟「はい.」
すぐに門弟が、茶道の春斎という男を、屋敷の奥まで案内してきた.もちろん千葉周作とは初対面であった.
周作「醜くない殺され方を知りたい、とのことだと聞いたが、どういう事なのか.」
そう問われた春斎は、思わず床に手をついて頭を下げて言った.
春斎「はっ、主人に急用を申し付けられて、駿河台まで参りましたが、その途中、護持院ヶ原(江戸城の北、竹橋付近)にて、浪人の辻斬りに、出会いましてのでございます.」
周作「それで・・、立合ったのか.」
春斎「いえ.私は今、主人からの重要な命を受け持っておりますので・・・.主命を果すまで待ってもらいたい.帰りには必ず斬られに参ろう、と約束いたしました.」
周作「はあ、それならば帰りには、他の道を通ってまいればよかろう.」
春斎「しかし、約束をいたしました.」
周作「それならば、斬られに行くのか.」
春斎「私も丸腰の人間とは申せ、武家に仕えて禄を食(は)む者、命を惜しんで約束を破ったとあっては、主君の御前にすみませぬ.」
周作「いかにも、人の道はそうあるべきだ.」
春斎「しかし、太刀(たち)をもつ術(すべ)も知りませぬ.せめて醜くない殺されようを、先生より教えて頂きたいと存じます.」
周作「面白いな.・・待てよ.」
千葉周作は、枕もとにある一刀を手に取り、鞘(さや)を抜き放って両手で構え、そして上段に振りかぶると、目を閉じて見せた.
周作「春斎.」
春斎「はっ.」
周作「この通りに構えて見よ.」
刀を渡された春斎は、立上ると、諸手上段(注:両手で太刀を頭上に振り上げ、片足を前に出す構え)に振りかぶって、同じように目を閉じた.
周作「うむ、さうだ.もっと足を開け.」
千葉周作は、正しい姿勢、丹田(たんでん:へその少し下のところ)へ力を入れる要領、呼吸の使い方など一通りを春斎に教えた.
周作「よいか、その構えで、身体のどこかがヒヤリッとしたと思ったら、ただ打ちおろせ.目をあけるな.醜くない死に方ができるであろう.」
春斎「はっ、ありがとうございます.」
周作「その太刀を遣(つか)わす.持って参れ.」
そして翌日・・・
春斎は、いよいよ死ぬ覚悟である.護持院ヶ原へきてみると、
浪人「よう、坊主、まいったか.」
捨石に腰を下していた浪人は、立上りながら、
浪人「ほう、太刀を持ってきたな.」
春斎「約束によって、斬られにきた.さあ斬れ.」
抜き放った春斎は、教えられたとおりに上段に振りかぶると、目を閉じた.
浪人は、星眼(剣先を相手の顔面の中心に付ける中段の構え)に構えて、じりじりと寄って行く.そして春斎を見つめながら、ピタリと動かなくなった.
春斎は、必死に目を閉じて、ヒヤリッとしたら打ちおろそうとしている.
しばらくすると、
浪人「坊主、なかなかやりおるのう.相討ちになってもつまらぬ.引くぞ.」
鍔(つば)音を響かせて刀を収めると、浪人はそのまま立ち去っていった.
やっと目をあけた春斎、・・・自分が生きていることがわかって、すぐに千葉先生の所へお礼を申しにきた.
先生は門弟に言った.
「自分が生きようとか、相手を斬ろうとかいう念がなかった春斎だからこそ、無想剣の真意を、忽(たちま)ちのうちに会得したのだ.」
身を捨ててこそ生きる道あれ、と山岡鉄舟の詠んだ歌にもある.
自身の利を思わず、相手を損(そこな)わず、処世の要諦(注1)も、真に生きる道は、この間の消息(注2)にあるように思われる.
(注1):ようてい、物事の最も大切なところ.肝心かなめの点(デジタル大辞泉)
(注2):人や物事の、その時々のありさま.動静.状況.事情.( 同 上 )
(「千葉周作−生きる道−」終り)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.21
■【東京1師団】第1施設大隊の紹介
第1施設大隊は、東京都練馬区、埼玉県朝霞市・和光市および新座市の4つの行政区にまたがる朝霞駐屯地に駐屯し、主に南多摩地区(細部下表)の防衛・警備・災害派遣などを担任しています.
大隊は師団唯一の施設科部隊として、人命救助システム・川に橋を架ける自走架柱橋・ブルドーザーや油圧ショベル・クレーンなどの施設科ならではの土木建設機械を各種装備し、有事の備え訓練などを行っています.近年では東日本大震災の災害派遣で民生支援を行っており、また、災害派遣担任分区での防災訓練・警視庁との共同訓練などの訓練に参加し、各関係機関との連携を図っています
また、隊員の課外活動の一環として、平成14年に第31普通科連隊から日本太鼓『朝霞振武太鼓』の伝統を継承し、北海道幌別の第13施設隊の『北海自衛太鼓』の指導のもと、自衛隊音楽まつり、駐屯地記念行事などにおいて太鼓演奏をしています
6月7日(金)、皇居(新宮殿東庭)において歓迎行事が行われ、大隊は創隊以来初の『と列隊』を担任し、国家行事の円滑な実施に寄与しました
http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/1d/html/6-2-1-e.html
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.25
From:長南政義
こんにちは.長南です.
本連載は、トーチ作戦(*)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施した連合国の戦略作戦情報の役割についての考察です.
(*)1940年から1942年11月8日に実施された、連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味
前々回より、ウィリアム・ドノヴァンの略歴について述べています.
1940年7月、ルーズヴェルト大統領は、英国の防衛体制に関する再調査を行わせるために“ワイルド・ビル”ドノヴァンを英国に派遣します.この当時、バトル・オブ・ブリテン(*)と呼ばれる航空戦が英独両軍間で展開されていました.ドノヴァンの任務は、英国がドイツの侵略に耐えうるか否かを調査することにあったのです.
(*)英国本土の制空権獲得を目的とした航空戦
視察を終え米国に帰還したドノヴァンは、英国がドイツ軍の攻撃に物理的に耐えうることが可能であるとの報告をルーズヴェルトに提出しました.
しかし、ドノヴァンの評価は、当時の駐英米国大使ジョセフ・パトリック・“ジョー”・ケネディの分析と全く正反対のものでした.ケネディは、英国が、ナチスの軍事力の前に屈するかもしれないと考えていたのです.
ケネディがナチス・ドイツの軍事力を過大評価した原因は、マインドセットにありました.マインドセットとは、分析官が無意識的にある一定の考え方や思い込みに陥ることです.
ジョー・ケネディは、駐英米国大使でありながら、ヒトラーへの譲歩を主張するなど、ナチス・ドイツ寄りの発言を続けてきました.ジョー・ケネディの心の奥底に存在したナチス・ドイツに対する過大な警戒心が、ナチス・ドイツの軍事力の過大評価につながったのです.
マインドセットの陥穽に落ちたジョー・ケネディの情勢分析とは対照的に、ドノヴァンの情勢分析はバイアスがかかっておらず偏向が少ないものでした.この点が、ルーズヴェルト大統領の目に留まったわけです.
後のCIA長官ウィリアム・ケーシーが指摘しているように、ドノヴァンの英国視察旅行は、ドノヴァンを「ルーズヴェルト大統領にとってただ一人の中央情報局」にする結果をもたらしたのです.
今回も第二次世界大戦参戦直前期のドノヴァンの活躍についてみていきましょう.
では、きょうも【トーチ作戦とインテリジェンス】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
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■□ドノヴァン、地中海地域に派遣される
1940年11月、ルーズヴェルト大統領は、世界情勢を正確に評価できるドノヴァンの能力を再度使おうと考えた.今回は、地中海地域にドノヴァンを派遣したのである.
ルーズヴェルトは、経済的・政治的・軍事的見地から地中海地域の戦略的評価を実施する任務を引き受けてくれるようドノヴァンに依頼した.ドノヴァンはルーズヴェルト大統領の依頼を躊躇なく引き受けた.ドノヴァンは、米国が参戦することになるであろう世界大戦において地中海地域がどの程度の重要性を持つのかを自分自身の眼で確認する絶好のチャンスだと考えたのである.
ドノヴァンはルーズヴェルトから調査任務を依頼される以前から地中海地域に目を向けていた.すなわち、1940年8月、ドノヴァンは、北西アフリカ地域における米国の権益を確保するためにフランスと何らかの協定を締結すべきであるとルーズヴェルトに述べていたのだ.
■□ドノヴァンの視察旅行に隠された別の意図
この地中海地域への視察旅行には、隠れた意図があった.視察旅行の途次、ドノヴァンは英国に立ち寄っている.すなわち、この視察旅行は、ドノヴァンによる英国情報機関の視察を兼ねたものであり、さらには英国首相ウィンストン・チャーチルとドノヴァンとの個人的な会談もセッティングされていたのである.
ドノヴァンの英国情報機関視察やチャーチル首相との会談をセッティングしたのが、ウィリアム・“イントレピッド”・スティーヴンソンであった.彼が、英国情報機関の能力をドノヴァンにみせるために、ドノヴァンの英国情報機関視察旅行の旅程をアレンジしたのである.
スティーヴンソンは、英国情報機関とその能力をドノヴァンに見せることで、ドノヴァンが米国においても英国と同様の情報機関を設立したいとの考えを持つようにしむけたのであった.ルーズヴェルト大統領が情報機関に関心を持っていたこともあり、ドノヴァンは、この情報機関視察を非常に熱望していた.
■□スティーブンソンとは何者か?
スティーヴンソンがドノヴァンの旅程をセッティングしたのには裏があった.1940年末、チャーチルは、カナダ出身の億万長者で、暗号名「イントレピッド(勇猛な)」で知られるウィリアム・スティーブンソンを米国に派遣していた.
スティーブンソンの任務は、インテリジェンスを米英間で共有できるように、米国のインテリジェンス機関を組織化することを支援することにあった.スティーブンソンは、英国外務省パスポート管理官という仮面をかぶって、ニューヨークのロックフェラー・センターにある特別室から任務を行っていた.
チャーチル首相は、当時、情報調整官を務めていたドノヴァン大佐がルーズヴェルト大統領と近い関係にあり、インテリジェンス機関の必要性を正確に理解していることを、諸情報から把握した.そのため、チャーチルは、スティーブンソンに対し、ドノヴァンとの協働関係を構築するように指示していたのである.
■□ドノヴァンによる大統領への視察結果報告とその意味
1940年12月6日、ドノヴァンは、スティーヴンソンと共にロンドンへ向けて米国を出発した.ドノヴァンは地中海地域視察の前に英国に立ち寄り英国の情報機関を視察している.その後、ドノヴァンは、ジブラルタル、マルタ、エジプト、ギリシャ、ユーゴスラビアおよびポルトガルを訪問し、その旅行期間は3か月半にも及んだ.
ドノヴァンが米国へ帰国したのは、1941年3月18日のことであった.翌日、ドノヴァンは海軍長官フランク・ノックスと共にホワイト・ハウスを訪問し、ルーズヴェルト大統領に対して視察結果を報告している.この報告は、ドノヴァンによる一連の報告の最初のものであった.
大統領との一連の会談において、ドノヴァンは、次の3つの点を強調した.
1、地中海およびその周辺地域における輸出問題の重要性と、輸出に影響を与えるドイツ海軍およびイタリア海軍の戦略的重要性について.
2、フランス領北西アフリカの情勢が米国に対して危険とチャンスの両面で大きな意味を持っていること.
3、戦争における心理的要素および政治的要素の重要性と、国家政策を計画・実行する際にこれらの要素を最大限利用することの必要性について.
ドノヴァンによる説明と情勢見積りは、枢軸側が地中海地域において行っている活動と枢軸側の活動がもたらす影響に関する明確な理解をルーズヴェルト大統領に提供した.
もちろん、本連載ですでに指摘したように、ルーズヴェルト大統領は同じような報告をヴィシーに駐在するロバート・マーフィーおよびそのスタッフから受けていたが、マーフィーとは違った系統から同じような内容の情報を得ることで、情報内容の確実性が確認されたのである.
つまり、ルーズヴェルト大統領は、米国が大戦に参戦した時に、米国の最初の目標として北アフリカを攻撃するべきか否かに関する決定を下すために、マーフィーとそのスタッフおよびドノヴァンという信頼できる二つの情報源から情報を得ることができることがはっきりしたのである.
いくら信頼できる情報源といっても単独の情報源だけでは情報見積り誤りや偏向があった場合、情報の失敗が起こることになるが、信頼できる二つの情報源をもつことでそうした弊害を回避することが可能なのである.
多くの歴史家が、ルーズヴェルト大統領がトーチ作戦の実施を決断するに際し、チャーチル首相がその決断に与えた影響力の大きさについて書いている.
しかしながら、ルーズヴェルト大統領は、1941年12月に開かれた最初の米英首脳会議であるアルカディア会談より以前に、フランス領北アフリカを最初の攻撃目標とすることをすでに決心していたのである.
そして、このルーズヴェルト大統領の決断の裏には、ヴィシーに駐在するマーフィーおよび海軍武官ロスコー・H・ヒレンケッター海軍中佐による報告と、ドノヴァンの視察報告とが存在したのである.
次回は、情報調整局(Office of the Coordinator
of Information, OCI)とドノヴァンとの関係について述べることとする.
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.20
From:長南政義
こんにちは.長南です.
本連載は、トーチ作戦(*)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施した連合国の戦略作戦情報の役割についての考察です.
(*)1940年から1942年11月8日に実施された、連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味
前々回より、ウィリアム・ドノヴァンの略歴について述べています.
ドノヴァンは、大統領から要求された時にルーズヴェルト大統領にとって唯一の中央情報機関としての役割を果たすだけでなく、将来的に米軍の作戦が展開される可能性の高い地域の出来事に関する戦略レヴェルの情報収集を行ってもいました.
1940年11月、ルーズヴェルト大統領は、世界情勢を正確に評価できるドノヴァンの能力を再度使おうと考えます.今回は、地中海地域にドノヴァンを派遣したのです.
この地中海地域への視察旅行には、隠れた意図がありました.視察旅行の途次、ドノヴァンは英国に立ち寄っています.すなわち、この視察旅行は、ドノヴァンによる英国情報機関の視察を兼ねたものであり、さらには英国首相ウィンストン・チャーチルとドノヴァンとの個人的な会談もセッティングされていたのです.
ドノヴァンの英国情報機関視察やチャーチル主要との会談をセッティングしたのが、ウィリアム・“イントレピッド”・スティーヴンソンです.スティーヴンソンがドノヴァンの旅程をセッティングしたのには裏がありました.
1940年末、チャーチルは、カナダ出身の億万長者で、暗号名「イントレピッド(勇猛な)」で知られるウィリアム・スティーブンソンを米国に派遣していました.スティーブンソンの任務は、インテリジェンスを米英間で共有できるように、米国のインテリジェンス機関を組織化することを支援することにありました.
1940年12月6日、ドノヴァンは、スティーヴンソンと共にロンドンへ向けて米国を出発し、地中海地域視察の前に英国に立ち寄り英国の情報機関を視察しています.その後、ジブラルタル、マルタ、エジプト、ギリシャ、ユーゴスラビアおよびポルトガルを訪問し、1941年3月18日、米国に帰国しました.その旅行期間は3か月半にも及びました.
帰国翌日、ドノヴァンは海軍長官フランク・ノックスと共にホワイト・ハウスを訪問し、ルーズヴェルト大統領に対して視察結果を報告したのです.
今回は、情報調整局(Office of the Coordinator
of Information, OCI)とドノヴァンとの関係について述べることとします.
では、きょうも【トーチ作戦とインテリジェンス】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ
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■□ドノヴァン、中央集権的インテリジェンス機関の長の候補者として浮上する
ドノヴァンは、最新の海外視察経験から欧州情勢とそれを動かす政府要人たちに関する正確な知識を獲得し、ナチス・ドイツによってもたらされた衝撃の程度を正しく理解していた.そのような人間はルーズヴェルト大統領の周囲には少なかった.
既述したように、この当時の米国の対外諜報活動は、陸軍の情報部、海軍情報局(Office
of Naval Intelligence;ONI)、国務省および連邦捜査局(FBI)などの組織がそれぞれの利害関係に基づき独自に実施しており、情報の共有化もなされていなかった.
この弊害を克服するために、ルーズヴェルト大統領が、中央集権的なインテリジェンス機関を米国に創設しようと考えた際にその組織の長の候補者の一人として浮上したのがドノヴァンであった.
ドノヴァンは、強力かつ中央集権的なインテリジェンス機関の必要性を認識しており、組織をゼロから作る天性の才を有しており、大統領や政府の上級官僚のリクワイアメント(情報ニーズ)に正しく答えることの出来る能力を持っていた.戦間期以来の活動を通して、ドノヴァンはこうした才能をルーズヴェルト大統領から評価されていたのである.
■□ドノヴァン、中央集権的インテリジェンス機関の創設をルーズヴェルトにすすめる
地中海地域からワシントンに帰還したドノヴァンは、ルーズヴェルト大統領と複数回の会合を行った.この会合の間、ドノヴァンは、英国の特別作戦部(Special
Operations Executive ;SOE)およびのちにMI-6となる秘密情報部(Secret
Intelligence Service ;SIS)と同じような任務と能力を有する単一のインテリジェンス機関を創設するアイデアを大統領に説明する機会を得た.
ドノヴァンから設明を受けたルーズヴェルトは、彼独特の冷静さを発揮してこの話を淡々と聞き、ドノヴァンに決断までしばらく待つように答えた.ルーズヴェルトは、米国のインテリジェンス機関同士の間に存在するインテリジェンス・ギャップを埋めるため、文民が長を務める独立した中央集権的インテリジェンス機関を創設すべきだというドノヴァンの考えについて、長い時間をかけて真面目に検討した.
■□情報調整官創設を定めた1941年7月11日の大統領令の基となった軍事命令
ルーズヴェルト大統領は決断を下し、1941年6月25日付の軍事命令(Military
Order)を使用することによってこの問題の解決を図ろうとした.軍事命令の草案には、「大統領の指示および監督の下で」活動する「国防情報調整官の地位」を創設し、「戦略情報調整官」としてドノヴァンを指名するとあった.
第二次世界大戦中にOSSで諜報機関の分析官としてのキャリアをスタートさせ、冷戦中のキューバ危機の際のCIA情報担当次官として知られるレイ・クラインは、この軍事命令の重要性を次のように述べている.
「この文書でカギとなる条項は、軍事もしくはそれ以外の情報であっても国防戦略に関係する可能性のあるインフォメーションおよびデータを収集・分析し、そのような戦略的なインフォメーションおよびデータを解釈し相互に関連付け、それを大統領および大統領が決めた役人たちが使用できるようにするための権限をドノヴァンに与えた点にあった」(『秘密、諜報員、学者たち─不可欠なCIAの青写真』原題:Secrets,
Spies, and Scholars : Blueprint of the Essential
CIA).
そして、国防情報調整官の創設について書いたこの文書が、1941年7月11日に出された、情報調整局(Office
of the Coordinator of Information,;OCI)の創設を規定した大統領令の起源となったのである.
情報調整局は、大統領行政府の下に組織され、安全保障にかかわるあらゆる情報を収集・分析し、大統領および大統領の指定する政府機関・職員にそれらを提供する機関であるとして公には説明された.
しかし、現実には、情報調整局とその後身である戦略情報局(Office
of Strategic Services ;OSS)は、米国初の中央集権的インテリジェンス機関として政府の保護を受け、情報の収集分析にとどまることなく、スパイ活動、プロパガンダ、サボタージュ活動、および破壊活動といった分野にまで活動の範囲を広げていったのであった.
■□ドノヴァン、情報調整官に任命される
情報調整局が設立されたのと同じ1941年7月11日、ドノヴァンは、情報調整局の長である情報調整官(Coordinator
of Information)に任命された.民主党出身のルーズヴェルト大統領が、共和党員であり1932年のニューヨーク知事選に共和党候補者として出馬していたドノヴァンを情報調整官のポストに起用したことは、事情を何も知らない一般市民にとって驚きの出来事であった.
しかし、「ルーズヴェルトは、スパイ活動、サボタージュ活動、ブラックプロパガンダ、ゲリラ戦およびその他のアメリカらしくない破壊活動の実行へとニューディールの旅を導くために彼を選んだ」のであった(R・ハリス・スミス『OSS 米国最初の中央情報機関の歴史』原題:OSS:
the Secret History of America's First Central
Intelligence Agency ).
■□オシントの重要性を理解していたドノヴァン、研究分析部を整備する
ドノヴァンは直ちに情報調整局の組織化に着手した.彼が最初に力を注いだのは、ドイツ、イタリアおよびフランス領北アフリカに関する情報を分析するために学界から有識者を集めて組織した研究分析部(Research
and Analysis Branch)を整備することであった.
ドノヴァンは、図書館などで閲覧可能な新聞や雑誌など公開資料であっても、専門家が分析すれば相手国の戦力・経済力といった諜報上重要な問題について有益な情報を獲得できるという考えから、研究分析部を設立したのである.
このドノヴァンの考えは重要な意味を持つ.新聞、雑誌や政府公刊資料といった一般人でも入手可能な資料を基に情報を収集分析する手法をオープン・ソース・インテリジェンス(オシント)といい、オシントは現代世界のインテリジェンス機関が行う諜報活動において情報源としての比重が高いといわれている.第二次世界大戦当時からオシントの重要性に着目していたドノヴァンは、先見の明があったといえるであろう.
ドノヴァンは、「戦略情報局設立に関する覚書」の中で、総力戦における戦略立案と情報の関係性について述べている.ドノヴァンは、覚書の中で、その当時存在したインテリジェンス機関の不備について指摘したうえで、以下のように述べている.
「われわれが、国内および国外で、(インテリジェンス機関が)直接もしくは現存する政府機関を通じて、関係するインフォメーションを収集する中央インテリジェンス組織を設立することは、欠かすことができないことだ.そのようなインフォメーションやデータは、関係する科学分野の専門的訓練を受けた役人たち(これには技術・経済・財政・心理学者が含まれる)の経験を適用することによって分析・解析されなければならない」(R・ハリス・スミス『OSS 米国最初の中央情報機関の歴史』).
■□ドノヴァン、情報調整局に北アフリカの調査を命じる
1941年9月に、ドノヴァンが情報調整局に指示して最初に調査を命じた地域が北アフリカであった.ドノヴァンは、自身の視察旅行の経験に基づき、連合軍の軍事活動が展開される可能性の高い地域を北アフリカであると予想していた.
さらに、ドノヴァンは、将来実施される可能性の高い北アフリカでの軍事活動が、創設されて間もない未熟なインテリジェンス機関の軍事活動支援能力を試す格好の試験場になると考えていた.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.27
■米陸軍第一軍とは?
ヘーゲル米国防長官は130626、陸軍参謀本部作戦/教育訓練/計画企画担当部長のマイケル・タッカー陸軍少将(Army
Maj. Gen. Michael S. Tucker)を中将に昇進させ、米陸軍第一軍司令官(イリノイ州ロックアーセナル)に補する人事を発令した.
言わずもがなのことかもしれないが、米陸軍第一軍とはどういう部隊か、について少し記そう.
米陸軍第一軍は米陸軍の最上級単位部隊のひとつで、任務は陸軍予備役の管理.米国陸軍総予備の役割を果たす戦略単位といえる.
現在米陸軍は、第1(予備)、第3(中央集団陸軍)、第5(予備)、第7(欧州集団陸軍)、第8(現在の通称は在韓米軍 太平洋集団陸軍と統合予定)の5個軍を保有している.司令官は中将.
第一軍では、20世紀末から21世紀初頭にかけて大規模な組織変革が行われ、旅団戦闘団を基幹とする編制に移行した.なお、旅団の上級司令部として、東西の2個の管区隊(First
Army Division EastとWest)が設置されており、管区隊は、それぞれアメリカの東半分と西半分に所在する陸軍予備役部隊の管理を担当している.担当区域の境界はミシシッピ川とされる.
現在の編制概要は次の通り.
第一軍司令官
★東部管区総監(First Army Division East;
フォート・ミード)
第157歩兵旅団長(フォート・ジャクソン;
通称スパルタン、旧87師団第5旅団)
第158歩兵旅団長(パトリック空軍基地;
通称ウォリアー、旧87師団 第2旅団)
第174歩兵旅団長(フォート・ドラム;
通称パトリオット、旧78師団 第2旅団)
第188歩兵旅団長(フォート・スチュアート;
通称バトル・レディー、旧87師団 第4旅団)
第189歩兵旅団長(フォート・ブラッグ;
通称バヨネット、旧78師団 第4旅団)
第72野戦砲兵旅団長(フォート・ミード;
通称ウォリアー・イーグル、旧78師団 第5旅団)
第4騎兵旅団長(フォート・ノックス;
通称セイバー、旧85師団 第4旅団)
第177機甲旅団長(キャンプ・シェルビー;
通称マッドキャッツ、旧87師団 第3旅団)
第205歩兵旅団長(インディアナポリス;
通称バヨネット、旧85師団 第3旅団)
★西部管区総監(First Army Division West;
フォート・フッド)
第5機甲旅団長(フォート・カーソン;
旧91師団 第2旅団)
第120歩兵旅団長(フォート・フッド;
旧75師団 第2旅団)
第166航空旅団長(フォート・フッド;
旧75師団 第3旅団)
第181歩兵旅団長(フォート・マッコイ;
通称イーグル、旧85師団 第2旅団)
第191歩兵旅団長(フォート・ルイス;
旧91師団 第4旅団)
第402野戦砲兵旅団長(トラヴィス空軍基地;
旧91師団 第3旅団)
第479野戦砲兵旅団長(フォート・シル;
旧75師団 第4旅団)
参照:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E8%BB%8D_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D)
■軍の核心は指揮官・司令官
あなたにとっては「知ってること」かもしれないが、その節はご容赦いただきたい.
軍を理解する上で、うまくつかめないことのひとつに「司令官と司令部」の関係がある.
例えばよく目にする「司令部参謀長」「司令部幕僚長」といった言葉も、よくわからない.
答えを一言で説明すると、「軍の核心は司令官・指揮官にあり、参謀・行政・情報等すべての司令部機能は司令官・指揮官の意思決定を補するため存在する」ということになる.
そして、司令官・指揮官を補佐する最高位の人が、参謀長なり幕僚長なりいわれる人で、司令部を取り仕切る人物というわけ.
たとえば陸自の総監部の存在意義は、方面総監の意思決定を補することにある.そのトップは総監部幕僚長.
海自の自衛艦隊司令部の存在意義は、艦隊司令官の意思決定を補することにある.そのトップは司令部幕僚長である.
空自の航空総隊司令部の存在意義は、総隊司令官の意思決定を補することにある.こちらもトップは司令部幕僚長となる.
その他各級の司令部機能も同じ.司令部や本部は、指揮官・司令官の意思決定を補するために存在している.各幕も、最高司令官たる首相及び大臣の軍事意思決定を補するために存在する.
少し話がずれるが、米の統合参謀本部も、「統合参謀長会議」(陸海空海兵トップと統幕議長がメンバー)を補することに責任を負う幕僚機関なのだが、そのあたりを伝えるところは少ない.責任を負う相手が存在しない組織・機関は、軍には存在しないということだ.マニア以外は知ろうとも思わないのだろう.
そう考えると、情報本部の位置づけはおかしいことがわかる.
情報本部は、作戦用兵に必要な戦術情報の収集機関だ.その情報を誰の意思決定に補するのがベストか?首相・大臣ではなかろう.補する相手は、作戦用兵の専門家たる自衛隊の各級司令官・指揮官になるのは明らかではないだろうか?統幕に戻した方がいいと思う.
■軍を動かすのは人
ご存知のことかもしれないが、あえて述べてみる.
軍法は、軍内の規律を維持し、軍の士気を高めるための「軍のモラルを律する規定」といえる.
軍は武装組織だから、武力を扱う組織としてふさわしいモラル維持のための軍規・軍律が極めて重要となる.そのための軍法だ.いわゆる犯罪行為を処罰するために存在するのではない.
だから、一般社会では考えられない重い処罰もあるし、その逆もある.
法律の目指す目的が違うのだから当然だろう.
軍の規律を維持することは、軍の精強さを通じて国の強さを保ち、国益に直結する.
だから、軍法を運用する仕組み、すなわち軍法会議が軍には必要となる.
古来から連綿と受け継がれてきた人間の智慧の結晶といえるかもしれない.
人間にできることには所詮限界がある.
その限界を補うのが「仕組み」と呼ばれるものなのだろう.
■スパイ防止法の制定を
ルーピーといわれる人が、支那の中共で売国的言動を繰り返している.
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130627-OYT1T01084.htm?from=ylist
幾度にもわたってこの人物が行なってきた売国的振る舞いに対し、さすがに庶民レベルからも「この種の通敵行為を処罰する法律はないのか?」との怒りの声が沸き起こっている.
その法律こそが、スパイ防止法である.
これをお読みのあなたには言わずもがなのことだろうが、
この法律制定への反対運動の背景には、「スパイ行為をいくらしても日本では罰せられない」ので、山ほどスパイを送り込んでいる外国の存在がある.あれやこれや理屈をつけてスパイ防止法制定に反対している人は、日本人の顔をした外国の手先と断じてよろしかろう.
スパイを厳しく処罰する法律は、言論の自由を保証する国にごく普通に存在するものだ.なぜなら、スパイや通敵行為を処罰することと言論の自由との間には、いささかの関係もないからだ.
普通に国を愛する人間が、売国行為や通敵行為に対し厳しい処罰を求めるのは、人として至極当然の話に過ぎない.
国会閉会前後に表面化した事実からは、法整備の具体化を世論レベルで盛り上がらせないままフェードアウトさせようとの悪意を感じる.いまこそ国民有志は、スパイ防止法制定の動きを盛り上げてゆかねばならない.
国が滅ぶ主因は、外敵でなく、内側に巣食う通敵勢力にある.
■サイバー戦への対処
130620に来日した標的型サイバー攻撃対策ベンダーFireEyeの取締役会長兼CEOのデビッド・デウォルト氏は、わが政府機関や企業、組織を狙う標的型サイバー攻撃の87%は国内から仕掛けられていたと明らかにした.この割合は世界の平均に比べるとダントツで高いとのこと.
「技術革新に優れ、ブロードバンドインターネットが非常に普及している日本は、サイバー攻撃者にとって最も重要なターゲットだ.この状況は韓国や米国でも見られるが、日本は顕著だ」(デウォルト氏)
こういう現状の中、サイバー戦争については、防衛省が2013年度予算でサイバー攻撃などへの対処として新たに「サイバー空間防衛隊」を編成し、陸海空各自衛隊に分かれていた機能を集約して、情報収集、訓練、調査、研究開発を行うとしている.専守防衛の制約があるので、自衛隊の指揮通信システム防衛が主任務と聞く.
政府は、国家機密を盗むサイバー攻撃に対する防御、すなわちカウンターサイバーインテリジェンスとして内閣官房情報セキュリティセンター(NISC)を改組拡充し、15年度をめどに「サイバーセキュリティセンター」を設立して対応している.
警察庁では、全国の13都道府県に設置されたサイバー攻撃特別捜査隊から情報を集約し、民間企業とも情報交換してサイバー攻撃対策官ら20人がその分析に当たる「サイバー攻撃分析センター」を新たに設置して対応するようである.
米では、2001年の同時多発テロの後、国土安全保障省が設置され、サイバー攻撃に備える大規模な演習「サイバーストーム」を行うなどしてサイバーテロに備えている.また、軍にはサイバー集団(USCYBERCOM)を置いて、「サイバー攻撃専門の部隊」を運用している.
なお米統合参謀本部議長のデンプシー陸軍大将は130627、次の3つを明らかにした.
1.米へのサイバー攻撃に対処するサイバー集団(USCYBERCOM)要員を今後4年で4000人増強する計画がある
2.オバマ大統領は、サイバー攻撃を受けた際の各政府機関の対応指針を定める大統領令に署名した
3.米軍は「サイバー空間における」新たな交戦規定(ROE)草案をすでに策定した
なお、この交戦規定見直しは7年ぶりとなる.
最後に、わがサイバー戦対策についてひとことだけ言いたい.
戦後日本は諸外国の好意にすがる専守防衛国家だが、敵は「無法」というなんでもありの環境で仕掛けてくる.しかしわが方には、なんでもありで敵に対応できる環境がない.だから打つ手が極限まで限られる.
武力戦もそうだがサイバー戦も、攻撃力と防御力のバランスのとれた「抑止力」という観点が必要ではなかろうか?そのためには専守防衛という戦後日本の枠組みが大きな障害になっていると思えてならない.
特にサイバー戦は武力戦より敷居が低いので、攻撃力がないことは、敵にやりたい放題してもよいと宣言するのと同じだ.繰り返し繰り返し無限に攻撃を行う動機を敵に与える.相手の中枢機能を破壊・麻痺させるサイバー攻撃能力を持ち、「その力をいつでも発揮できる環境」を持たないと、抑止力たりえない.優秀な技術力や設備、人員の存在だけでは抑止力とよべない.
であるから、仕組みや組織を作る前にまずすべきは、「サイバー戦に関する交戦規定の制定」ではなかろうかと感じてならない.
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130603/mca1306030501002-n1.htm
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1306/20/news073.html
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36184
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.7.1
From:荒木肇
こんにちは.荒木です.
戦争には負けるものじゃない.「勝てば官軍」のことわざ通り、後世はすべて勝った側を褒めたたえる.負けた側は必ずドジをふみ、勝利者はいつも合理的な判断を下す.
明治時代を絶対天皇制国家、民衆が苦しんだ真っ暗な時代と断罪した学者たちも、こと幕府軍との戦いになると、薩長を主力にした新政府軍の肩をもっていた.昭和の時代には、火縄銃や鎧かぶと、刀や鑓といった古い装備の旧幕府軍.対して新式装備の薩長軍というイメージで描かれるのがふつうだった.
合理主義で進歩的な新政府軍、時代遅れの旧幕府軍といった構図である.歴史にイフ、もしも・・・はないとする学者たちはいつも結果からの解説者であり、勝利者中心の物語を造りだしてきた.
昭和の教科書には、次の通り書いてある.
『新政府は王政復古の直後の1868(明治1)年初め、鳥羽伏見の戦いで京都を攻撃する徳川慶喜の軍を破り、さらに旧幕府の勢力を一掃するため、江戸征討の軍をおこして江戸城を接収した.やがて政府は江戸を東京と改め、さらに政府に反抗する会津藩をはじめ東北諸藩を鎮定した.翌年には北海道の箱館にたてこもった旧幕府の海軍総裁榎本武揚らを降伏させて、ほぼ国内の統一に成功した.これを戊辰戦争という.』
平成の教科書の書きぶりは、より細かくなっているが、少しニュアンスが違っている.
『徳川慶喜を擁する旧幕府側は、1868(明治元)年1月、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃れた.新政府はただちに、慶喜を朝敵として追討する東征軍を発したが、慶喜の命を受けた勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の交渉により、同年4月に江戸城が無血開城された.
さらに東征軍は、奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩の抵抗を打ち破り、9月にはその中心とみられた会津若松城を攻め落とした.翌1869(明治2)年5月には、箱館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府海軍の榎本武揚らの軍も降伏したので、国内は新政府によってほぼ統一された.1年半近くにわたったこれらの内戦を戊辰戦争という.』
さあ、きょうも【昭和と平成の教科書を比べて】をお楽しみください.
その前に...
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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■戊辰戦争の実態──昭和と平成の教科書を比べて(25)
▼イチかバチかの賭けに出た新政府
戊辰戦争史の中でも、京都の南で戦われた鳥羽伏見の戦いほど軽視されてきた戦闘はなかった.詳しく研究もほとんどされなかったし、教科書でも先に見たほどの軽い扱われ方である.昭和の書き方では、『京都を攻撃する』とあれば、誰もが攻撃をしかけたのは徳川軍だと思うだろう.しかし、事実は反対である.平成版がより正確になっている.幕府軍は『京都に進撃したが』、入京の直前に、薩長軍の機先を制した攻撃にあって敗走したというのが史実だった.
また、昭和の教科書では会津藩などは「政府に反抗する」といった扱いをする.まさに政府軍は正義である.これが平成になると「東北諸藩の抵抗」に変わっているのが特徴になる.これは様々な研究の進化のおかげであり、一方的な解釈がされなくなってきたことのせいである.
兵力でいえば、旧幕府軍は公称1万5000、中には西洋式訓練を受けた「伝習隊」2個大隊の他、歩兵9個大隊がいた.この歩兵大隊の編制定員は400名、2個大隊で1個連隊をつくった.連隊はレジメントの訳であり、指揮官はコロネル、歩兵頭という.
2000石取りの旗本であり、多くは従五位下に叙任され「守」名乗りを許された.バタイロンは大隊のことをいい、指揮官はロイテナンド・コロネル、歩兵頭並と訳され1000石.歩兵指図役頭取はカピテインで中隊(カンパニ)を指揮する.指図役は一等ロイテナンド、中隊の半分である半隊長である.
このとき、およそ6000名が洋式装備を身につけた「歩兵隊」だったといっていい.この他に、新撰組や京都見廻組といった「剣術使い」(ただし小銃や一部大砲も装備していた)と会津、桑名、高松、大垣、伊予松山の各藩兵が5000.大坂城には増援予定の5000がいたから、ほぼ1万5000〜6000あまりだった.
野戦用の砲は18門、フランス式の「四斤山砲(口径86.5ミリ)」である.砲弾は、目標にあたると爆裂する榴弾、上空で炸裂してから前下方に鉄球を放射する榴霰弾、至近距離で威力を発揮する霰弾の三種類があった.
対して京都にいた新政府軍は弱小だった.薩摩軍は小銃20隊に3砲隊である.小銃1隊は80人、これを半隊2つに分ける.20個隊だからせいぜい1600人.砲兵の2隊は四斤山砲それぞれ8門をもつ.あとの1隊は6ポンド砲と携臼砲(けいきゅうほう・口径13センチのハンド・モルチールといわれ、砲車にのせずに兵士が抱えて運んだ)で構成された.1砲隊は砲兵80名と護衛兵が64人.
長州兵になるともっと少ない.王政復古でようやく朝敵からはずされたために京都に入ってくるのに遅れがでた.そのおかげで奇兵隊、遊撃隊、振武隊、整武隊などせいぜい6個中隊.一個中隊は二個小隊、戦闘員は90名、補給兵や斥候兵をいれても指揮官以下114名が定数だった.総兵力はおよそ1000名.砲兵隊はない.
土佐藩兵は歩兵隊がおよそ1000名、砲兵が200名という少なさだった.しかも、土佐前藩主山内容堂は慶喜の擁護派である.薩長と幕府軍の勝手な戦いと見て、部隊には不介入を命じていた.強硬派の板垣(乾)退助は国元に帰っていて不在.土佐藩兵の戦意は明らかに不足していた.
こういう状況でどうして新政府は開戦に踏み切ったか? 薩摩藩の主導による断固たる武力革命の意思があったからだ.あの明るいイメージをもった西郷隆盛のこの時期の凄みは江戸で騒乱を起こさせ、幕府側に先に手を出させたことだった.薩摩藩邸焼き打ち事件である.幕府軍の主戦派の意気はあがる.これを機会に戦争にひきずりこむ.慎重派の慶喜をたたく.何がなんでも西郷と大久保は戦端を開かねばならなかった.
▼小銃装備では勝っていた幕府軍
最近の研究では幕府陸軍の、とりわけ「フランス伝習隊」がもっていたのはフランス陸軍のシャスポー銃だったことが明らかになっている.つい先ごろまで幕末・維新史の専門家の中には資料を読み間違い、あるいは自身が小銃など見たこともない人が多かった.シャスポー銃は実戦で使われなかったという人たちが主流だった.
明治陸軍が最初に編んだ史料をもとにした誤解だったが、戦闘記録を細かく読めば、幕府歩兵が「寝転びながら(弾丸)込めかえ、込めかえ」撃ってきたという証言だらけである.
シャスポー銃は1866年にフランス陸軍の制式銃になった後装式ライフルだった.口径は11ミリ、回転鎖閂(かいてんさせん)式、つまりボルトアクション.ボルト(槓杆・こうかん)を動かして薬室を開閉した.薬莢は固い紙性で底部につけた爆粉を撃針でついて発火させる.全長は130センチ、重量は4キログラム.射程650ヤード(約600メートル)に達して、1分間に6発を発射可能といわれた.
陸上自衛隊第6師団は山形県東根市に駐屯する.そこの修親会(幹部たちの研究会)で、昭和30年代の末期、幕末銃砲史にくわしい大山柏氏を招いた講演記録がある.よく知られているように柏氏は高名な大山巌元帥の息子で陸軍将校から考古学者に転身した.そこでは『幕府の伝習兵というものは、これは後装のシャスポー銃をもってチャンと外套と毛布をつけたランドセルを背負い、腹に弾薬盒を二つつけ、ラシャ服を着た当時第一の優秀軍隊でした』と語っている.『おかげで私の親は苦戦した』とも語った.
薩長兵の装備はミニエー銃である.そのブランドは主に英国製エンフィールド銃だったとされる.ミニエーとは弾丸を発明したフランス軍の歩兵大尉の名前である.ライフル銃ではあったが、前装式だった.銃身の内径よりやや小さい弾丸はカ;杖(さくじょう)で銃口から押しこめられる.発射の際に弾丸の底部が広がり、これが内部の施条に食いこんだ.おかげで弾丸は回転する.
ただし、あくまでも前装銃だから、寝転んでは装弾しにくい.どうしても立った姿勢か、せいぜい片膝をついて銃に傾斜を与えるしかなかった.しかも着剣した状態では銃口から装填は難しかった.射程はおよそ400ヤード(360メートルあまり)といわれた.土佐兵も同じく前装のミニエー銃だった.
▼幕府軍指揮官は「戦争知らず」
兵力に勝り、戦意も高く、装備も優秀だった幕府軍はなぜ負けたか? それは高級指揮官たちが戦争を知らない人たちだったからである.まず、老中格陸軍総裁は大給乗謨、三河以来の松平一族のお殿様だった.同じく老中格海軍総裁は稲葉正巳、これもお殿様.そして、ロイテナンド・ゼネラール(中将相当官)とされた陸軍奉行は竹中重固である.この人は伝説の名軍師竹中半兵衛の子孫、祖先の地、美濃に陣屋をもつ交代寄合という高級旗本だった.
発足当初の警察予備隊、保安隊も、高級幹部は現役軍人経験のない人、官僚たちが選ばれた.まるで現場が分からない人が高位・高官についていたのだった.幕府陸軍もそれと同じように、下級・中級指揮官はいずれも兵とともに訓練を受け、指揮法も鍛えられていたが、高級指揮官たちはそうではなかった.なにぶん、総司令官の徳川慶喜自身が、ナポレオン三世から贈られた西洋式軍装を着け、西洋馬に西洋鞍でまたがるのは好んだが、自分が戦野で戦おうなどとは、まるで思っていなかったのだ.
京都の攻略を目指すなら、宇治街道、山崎街道、丹波街道、それに伏見、鳥羽の両街道がある.大軍をもっていながら、伏見・鳥羽の2つにしか進撃路を予定しない.敵の抵抗を考えてもいない.この作戦計画は、老中板倉勝静、老中格大河内正質、若年寄各竹中重固が立てたものだ.戦争や軍隊を知らず、軍事もろくに学んだこともない連中である.
しかも朝廷に対して薩摩の非をなじり、自分たちの正しさを訴えるという文書を届けようというのだ.おそらく、部隊が銃に装填もせず、縦隊のままで狭い街道を進んだというのも形式を重んじ、戦闘になるとは思っていなかったからだ.
薩摩軍は鳥羽街道の小枝橋に関門を設けて、のらりくらりの時間稼ぎをした.外交交渉の間に戦備を整えるためだ.1月3日の午前中にはすでに京都見廻組の一隊が薩摩軍とにらみ合いになった.見廻組は幕府直轄の武装警察といっていい.主な装備は刀と鑓.50人ばかりが関門に近づいたが薩摩藩小銃中隊と砲が待っていた.
午後2時ころ、行列の先頭に立った大目付滝川具挙の命令で騎兵2騎が京都へ連絡に走ろうとした.「発砲はするな」という命令が固く出ていたので薩摩の哨兵は銃を逆手にもって殴ろうとする.騎兵は馬首を返して帰る.
午後5時ころ、ついに幕府軍は前進を始める.『彼方より幾大隊とも相分からず、大勢大汐の湧くがごとく二列側面にて押し寄せ来り』というのが現場にいた薩摩軍将校の懐古談である.『雲霞のごとく』、『一万人ばかり』という表現が使われている.現場の指揮官の中には明治の銃豪村田経芳もいた.
『全員、この場で討ち死にを覚悟した』ともふり返っている.幕兵が『黒雲のごとく』ともあり、確かにフランス風の行進曲も聞こえたという.初めて敵というものに向き合って、必死の顔色になったという証言もある.
▼風上にいた新政府軍と市街戦に苦しんだ幕兵
教科書にも史料集にも載せられてはいないが、当日から3日間、京都には「比叡おろし」という乾燥した風が吹いた.季節風である.比叡山から乾燥した冷たい風が吹き荒れたのだ.攻め上がる幕兵にとっては正面、守る薩長兵にとっては背後からの強風である.当時の火薬類は黒色火薬だった.発砲すれば大量のガスが出る.それを正面から浴び、目を開けてもいられない.細かいほこりや砂も飛んでくる.幕兵にとっては、たいへんな戦場だった.
せいぜい奮戦できたのは後方を進んでいた桑名藩兵ばかりである.洋式装備の小銃隊、砲兵隊がかろうじて現場を支えた.そして、一時は狼狽したもののフランス伝習大隊はシャスポー銃を使って反撃する.薩摩兵の証言にも『弾丸が切れ目なくきた』とある.後装式の小銃でなければ、それほどの発射速度を出せなかった.
鳥羽方面の銃砲声が届いて伏見奉行所を包囲していた薩摩軍も攻撃を始める.そろそろ前進するか、どう進めるかなどと作戦会議を悠長に開いていた竹中重固はびっくりした.いきなり、砲弾が奉行所構内で炸裂した.正面の相手は御香宮にいた薩摩砲兵隊である.桃山からも砲弾が飛んでくる.
ここでも現場指揮官たちは奮戦する.薩摩兵の4列射撃の間をぬって白兵戦闘にもちこもうとした.当然、当初は射撃戦である.しかし、あたりが暗くなると幕兵の背後の家々が燃え上がり始めた.火炎を背負った幕兵はシルエットで浮かびあがる.対して薩摩兵の背後は闇である.
また、西側から攻めた長州兵は市街戦に慣れている.長州戦争の内戦でも鍛えられ、小倉城下の戦闘の経験者もいた.伏見の町は碁盤の目のように道路で区切られ、運河が走る.橋が多い町でもあった.現場指揮官はそれぞれに部下を励まし戦うが、司令部から統一指揮がなかった.竹中ロイテナンド・ゼネラルは自分が右往左往するばかりで、命令がまるで出せなかった.
あげく、有名な報告書を出して勝手に敵前からさがってしまった.『寒夜の義につき、戦闘何分はかばかしく参らず候もつき、今暁丹後守(竹中のこと)も諸手(隷下部隊)をそのまま差置きにて、本営に御出にて軍御評議これあり.』というのだからどうしようもない.
陸軍中将が部下を捨てて、命令も出さず、寒かったからうまく戦えなかったと言い訳をして勝手に安全地帯へ逃げてしまったのである.
この後、徳川慶喜もまた大坂城から部下をあざむき敵前逃亡をする.こうして幕府の命運は決まってしまったのである.
(以下次号)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.7.3
アルカイダ系元指導者、米国で7度買春 FBI報告書
CNN.co.jp 7月4日(木)17時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130704-35034288-cnn-int
(CNN) 中東イエメンなどを拠点にするイスラム過激派「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)の米国生まれの元指導者アンワル・アウラキ師が2001年9月の米同時多発テロ発生時に住んでいた首都ワシントン郊外で少なくとも7度買春していたことが4日までにわかった.
同師は米同時テロ後も首都郊外に数カ月間居住.この間、米連邦捜査局(FBI)要員は監視を続け、元指導者が計2320ドルを売春婦に費やし、最高で400ドルを払ったことなどを突き止めていた.常に現金で支払っていたという.
これら事実は、米の司法監視団体「ジュディシャル・ウオッチ」が情報公開法に基づいて裁判所に公開請求したFBIの文書で明らかになった.
アウラキ元指導者の買春は以前報じられていたが、FBIは売春婦を聴取して、同師とのやりとりなどの情報を収集して報告書を作成.この情報を材料にアウラキ師の刑事立件も検討していた.
売春婦の1人はホテルで元指導者と02年2月4日に初めて接触.翌日にFBIの聴取を受け、アウラキ師は国際テロ組織アルカイダの元最高指導者オサマ・ビンラディン容疑者と似ていたなどと説明していた.
公開されたFBI報告書には要員の手書きの監視記録も含まれ、元指導者は商店やモスク(イスラム礼拝所)などを訪れていたものの、犯罪を証明するような行動は示していなかったことなどが記述されていた.
米政府当局者によると、元指導者はイエメンで11年9月、米無人機のミサイル攻撃により殺害された.同師はAQAPによる米国への2度のテロ計画に関与.いずれも未遂に終わっているが、1件は09年、米国行き旅客機に搭乗したテロ実行犯が下着に爆発物を隠し、爆破させる計画だった.
アウラキ師が過激思想に傾斜した理由やその時期については疑問が今なお多い.
同時テロの経緯などを追った国家調査委員会の報告書は、同師は米カリフォルニア州サンディエゴのモスクでイスラム導師を務めていた際の2000年、同時テロのハイジャック犯2人と接触していたと指摘.さらに米バージニア州フォールズチャーチのモスクで活動していた01年も別のハイジャック犯と接点を持っていた可能性があるとも説明していた.
今回公開されたFBI報告書に盛り込まれていた06年12月のメモには、同師は同時テロ発生後の01年9月、聴取を受けたことがあり、画像でハイジャック犯1人を確認したと書かれていた.
ただ、アウラキ師は、他のハイジャック犯との関係については突っ込んで尋ねられず、テロ実行犯との正確な関係は不明のままとされた.
圧力鍋使った爆弾テロ計画、男女を逮捕…カナダ
読売新聞 7月3日(水)19時18分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130703-00000939-yom-int
【ニューヨーク=加藤賢治】カナダ西部ブリティッシュ・コロンビア州の警察当局は2日、圧力鍋を使った爆弾テロを企てたとして、カナダ出身の男女2人を逮捕、訴追したと発表した.
祝日の1日に州議会議事堂付近で爆弾3個を爆発させる計画だったという.
今年4月に起きた米ボストンマラソンを狙った爆弾テロでは圧力鍋を使った爆弾が使用されたが、訴追された2人はこの事件とは無関係だという.
圧力鍋爆弾でテロ未遂、カナダで男女逮捕
TBS系(JNN) 7月3日(水)13時3分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20130703-00000031-jnn-int
カナダの警察当局は2日、テロ未遂容疑でカナダ人の男女2人を逮捕したと発表しました.
容疑者2人は、4月にボストンで起きた爆弾テロ事件で使用されたものとよく似た圧力鍋で造った爆弾をブリティッシュ・コロンビア州の議会に仕掛けたということです.この日はカナダの建国記念日で、議会周辺には数千人が集まる予定でしたが、爆弾は事前に発見され、回収されました.
警察は、2人の容疑者が国際テロ組織アルカイダの思想に共鳴して起こした犯行という見方を示しています.(03日11:32)
カナダ建国記念日に爆弾テロを計画か 2人組を逮捕
CNN.co.jp 7月3日(水)11時1分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130703-35034193-cnn-int
(CNN) カナダ建国記念日の1日にブリティッシュコロンビア州ビクトリアで爆弾テロを計画していたとして、2人組が逮捕された.
連邦警察当局者が2日発表したところによると、2人は当日、同州議会議事堂に爆弾を仕掛けようとしていた疑い.
殺傷を目的として爆発物を製造または所持し、公共の場に仕掛けることを共謀した容疑や、テロ活動に加担した容疑で逮捕された.
連邦警察によると、2人ともカナダ生まれで同国籍を持つ.国際テロ組織アルカイダの思想に影響を受けていたとされるが、テロ計画を巡る外国とのつながりは見つかっていない.
同当局者は「計画は初期段階で察知され、市民が危険にさらされる事態には至らなかった」と強調した.
From:家村和幸
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
このたび新刊を出すことになりました.
『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳)
』
⇒ http://okigunnji.com/picks/lc/ie1.html
新刊を予約くださったKさんから、ご質問をいただきました.
お問い合わせの内容
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一族の命運を賭けた楠木正成の尊皇精神はどのようにして生まれたのでしょうか?
神皇正統記の北畠親房は天皇の側近という立場であり、尊皇であるのは理解できますが、楠木正成はいわば田舎侍で、天皇家との距離感があったのではと思います.彼自身だけではなく一族挙げて命を賭けるほどの尊皇精神の由来が、現代に生きる凡人である私には理解でき兼ねています.
なにかヒントがあれば教えて欲しいと思いますが・・.
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まずは、新刊本のご予約をいただきましたことにお礼申し上げます.
純日本の兵法書『闘戦経』を生んだ大江家の四十一代・大江時親は、金剛山麓に館を構えて土地の豪族に兵法を伝授していました.この一族が、後に鎌倉幕府を倒して建武の中興を成し遂げる中核の戦力となり、さらには足利らの賊軍を相手に滅亡するまで戦い続けた楠公こと楠木正成や、その子、正行らでした.
幼少の時から時親に「孫子」と『闘戦経』を習っていた楠木正成は、「孫子」だけを学んだ他の武人以上に「日本とは何か、日本人とは何か」が解かっていました.言い換えれば、(足利のように)シナ風に染まっていなかったということです.
それゆえ、正成とその子孫には、公に尽くすという心だけがあって、「私」というものが一切ありませんでした.まさに武士道精神そのものの生き方でした.そして、日本において尽すべき究極の「公」が、万世一系の 天皇陛下をおいて他にないということは、日本が日本であるかぎり、今も昔も、これからも変わらないと私は思います.
前号をご覧になった、たかさんからは、
<私は、海外にて仕事をする機会が多々あります.日本人としてどうあるべきかというのはあまり考えないですが、国籍問わず手本とする人はどうあったかということを考えるととても良き手本がこのメルマガを通じて教えられています.私自身では、なかなかそのような手本を見つけることは難しいのでとても感謝しております.>
とのコメントをいただきました.力になります.ありがとうございます.
さて今回は「武士道精神の実践」の第五話といたしまして、明治43年に訓練中に遭難した第六号潜水艇の佐久間勉艇長について紹介します.
艇長以下14名全員が配置に就いたまま殉職していたことは、日本中の人々に深い感動を与え、その「なすべきことを成し遂げる責任感」が小学校の修身科教科書を通じて子供たちにも教えられていました.
さあ、きょうも【武士道精神入門】をお楽しみください.
その前に...
3日間限定で行われている
桜林美佐さんの新刊本予約受付.、
もう、残り時間半分を切ったんですね.
予約されていない方は、お早めにどうぞ
http://okigunnji.com/picks/lc/s1.html
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
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【第19回】武士道精神の実践:第六潜水艇長・佐久間大尉の遺書
海底の 水の明りにしたためし
永き別れの ますら男(お)の文
与謝野晶子
▽ 花は散りてぞ香を残し、人は死してぞ名を遺す
明治43年4月15日、我が国で最初の試作型潜水艇「第六号潜水艇」は、潜航演習のため山口県新湊沖へ出た.午前9時30分に母艇である暦山丸を離れ、午前10時前にガソリン潜航を開始した.
ガソリン潜航とは、現代のスノーケル潜航のようなもので、海面上にパイプを出し、空気を取り入れながらガソリンエンジンにより航行するという、当時としては斬新な発想であり、第六号潜水艇はこれを試験中であった.しかし、間もなく艇に故障が発生して海水が入り込み、艇は14名の乗員を閉じ込めたまま、海底へと沈んでいった.
艇長の海軍大尉・佐久間勉は、すぐに部下に命じて、海水が入るのを防がせ、排水作業を行わせた.しかし、電灯は消えて艇内は暗く、動力も止まったために手押し式のポンプを頼りに必死の復旧作業を続けた.
母艇が見つけて救助に来るかもしれない、というかすかな望みも海上との連絡がとれず、あてにできなかった.艇内には悪性のガスが溜まって息が次第に苦しくなり、乗員が一人二人と斃(たお)れていく.最早これまでと覚悟した佐久間大尉は、司令塔の「のそき孔(あな)」からわずかに漏れてくる光を頼りに、鉛筆で手帳に艇内の様子を書き始めた.・・・
第六号潜水艇は再び浮上することなく、乗員全員が殉職した.
当時、世界中で潜水艇が開発され、このような事故は日本だけではなかった.引き揚げた艇内は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の状況を呈していたのが諸外国の例に見られたが、第六号潜水艇の場合は、総員整然と持ち場に就いたままの姿で発見された.そのため世界的に大きな反響を呼び、各国の潜水学校では、現在も尊敬すべき潜水艦乗りの姿として教育されている.
▽ 国民に与えた深い感銘
佐久間大尉が書残した記録は、まず冒頭で艇長として事故を起こしたことをわび、そして事故の原因と乗員の行動を記し、最後に「公遺言」として、謹んで天皇陛下に部下たちの遺族の救済をお願い申し上げていた.死の苦しみと闘いながら文字は乱れ、それでも文章はきわめて沈着冷静に書かれていた.
この「佐久間艇長の遺書」は、すぐに新聞で報道され、写真で公開された.佐久間大尉の福井県立小浜中学校時代の恩師であった成田鋼太郎氏は、この新聞を読み、次のように日記に書いている.
・・・これを読みて、予は感極まりて泣けり.今泣くものは、その死を悲めるにあらざるなり.その最後の立派なりしに泣けるなり・・・
佐久間大尉は、このように危険な職務である「潜水艇長」を命じられたときから、常に死を覚悟していた.そのため、個人としての「遺言状」もこっそりと書いておいた.
この事故があった前年に妻・次子は長女を産んだ直後に亡くなっていた.わずか一年の短い結婚生活だった.彼は「遺言状」の中で、遺される父親や長女への遺産相続などに触れたあと、「我れ死せば遺骨は郷里に於て、亡妻のものと同一の棺に入れ混葬さすべし」と書いていた.
▽ 皆ヨクソノ職ヲ守り沈着ニ事ヲ処セリ
第六潜水艇長・佐久間大尉は、自らの命に代えて、これから先の日本海軍の潜水艇開発のために、文字どおり「必死」で詳細な記録を書き残そうとしたのであった.
以下に、佐久間大尉が艇内において死の直前まで書き続けた遺書の全文を掲げる.全文カタカナ書きで、専門用語など難解な部分もあるが、難しい漢字の読み方を半角文字( )で補足する以外は、全て原文のままで紹介する.
佐久間艇長遺言
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死二至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守り 沈着ニ事ヲ処セリ 我レ等ハ国家ノ為メ 職ニ斃レシト雖(いえど)モ 唯々(ただただ)遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤り 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希(ねがわ)クハ諸君益々勉励以てテ此(こ)ノ誤解ナク 将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等(ら)一(ひとつ)モ遺憾トスル所ナシ
沈没原因
瓦素林(ガソリン)潜航ノ際 過度深入セシ為「スルイス・バルブ」ヲ諦(し)メントセシモ 途中「チエン」キレ 依(よ)ッテ手ニテ之(これ)シメタルモ後(おく)レ 後部ニ満水 約廿五(25)度ノ傾斜ニテ沈降セリ
沈降後ノ状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤ツカリタル為電灯消エ 悪瓦斯(ガス)ヲ発生 呼吸ニ困難ヲ感ゼリ 十四日午前十時頃沈没ス 此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力(つと)ム
一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ 燈消エ ゲージ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水終レルモノト認ム 電流ハ全ク使用スル能ハズ 電液ハ溢(あふる)ルモ少々海水ハ入ラズ 「クロリン」ガス発生セズ 残気ハ五〇〇磅(ひょう=ポンド)位ナリ 唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ 「ツリム」ハ安全ノ為メ ヨビ浮量六〇〇(モーターノトキハ二〇〇位)トセリ (右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)
溢入(いつにゅう)ノ水ニ溢(いっ)サレ 乗員大部衣湿(うる)フ 寒冷ヲ感ズ 余ハ常二潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ 細心ノ余リ畏縮(いしゅく)セザラン事ヲ戒メタリ 世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或(あるい)ハ嘲笑スルモノアラン サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス
一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ 排水ニ勉メドモ 十二時迄ハ底止シテ動カズ 此ノ辺(あたり)深度ハ八十尋(ヤード)位ナレバ正シキモノナラン
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス カカルトキニ困ル故(ゆえ) 幸(さいわい)ニ本艇員ハ皆ヨク其(その)職ヲ尽セリ 満足ニ思フ
我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出シノ中ニアリ(之レ但(これただし)私事ニ関スル事言フ必要ナシ 田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)
公遺言
謹ンデ陛下ニ白(もう)ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無(な)カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸(かか)ルモノ之(こ)レアルノミ
左ノ諸君ニ宜敷(よろしく)(順序不順)
一、斎藤大臣 一、島村中将 一、藤井中将 一、名和中将 一、山下少将 一、成田少将 一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ)一、小栗大佐 一、井手大佐 一、松村中佐(純一) 一、松村大佐(龍) 一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ) 一、船越大佐 一、成田綱太郎先生 一、生田小金次先生
十二時三十分 呼吸非常ニクルシイ
瓦素林ヲブローアウトセシ積(つも)リナレドモ ガソリンニヨウタ
一、中野大佐
十二時四十分ナリ
(「第六潜水艇長・佐久間大尉の遺書」終り)
(いえむら・かずゆき)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.7.5
From:長南政義
こんにちは.長南です.
本連載は、トーチ作戦(*)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施した連合国の戦略作戦情報の役割についての考察です.
(*)1940年から1942年11月8日に実施された、連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味
前回は、情報調整局(Office of the Coordinator
of Information,;OCI)の創設とドノヴァンが情報調整官(Coordinator
of Information)に就任した経緯について述べました.
当時の米国の対外諜報活動は、陸軍の情報部、海軍情報局(Office
of Naval Intelligence;ONI)、国務省および連邦捜査局(FBI)などの組織がそれぞれの利害関係に基づき独自に実施しており、情報の共有化もなされていませんでした.
この弊害を克服するためルーズヴェルト大統領が、「中央集権的なインテリジェンス機関を米国に創設しよう」と考えた際、その組織の長の候補者の一人として浮上したのがドノヴァンでした.
1941年7月11日、情報調整局の創設を規定する大統領令が出されます.情報調整局は、大統領行政府の下に組織され、安全保障にかかわるあらゆる情報を収集・分析し、大統領および大統領の指定する政府機関・職員にそれらを提供する機関である、と公に発表されたのです.
情報調整局が設立されたのと同じ1941年7月11日、ドノヴァンは、情報調整局の長である情報調整官(Coordinator
of Information)に任命され、直ちに情報調整局の組織化に着手しました.
ドノヴァンが最初に力を注いだのは、有能な学者たちを集めて組織した研究分析部(Research
and Analysis Branch)の整備でした.図書館などで閲覧可能な新聞や雑誌など公開資料であっても、専門家が分析すれば相手国の戦力・経済力といった諜報上重要な問題について有益な情報を獲得できる、という彼の考えに基づくものでした.
1941年9月、情報調整局に指示して最初に調査を命じた地域が北アフリカでした.ドノヴァンは、自身の視察旅行の経験に基づき、連合軍の軍事活動が展開される可能性が高いのは北アフリカ地域であると予想していました.さらに、将来実施される可能性の高い北アフリカでの軍事活動は、創設間もない未熟なインテリジェンス機関が軍事活動の立案・実行支援能力を試す「格好の試験場」になる、と考えていたのです.
今回から数回にわたり、情報調整局が行った北アフリカ地域の諜報活動について述べてゆきます.
では、きょうも【トーチ作戦とインテリジェンス】をお楽しみください.
その前に...
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■□ドノヴァン、各諜報機関の縄張り争いに悩まされる
情報調整局の各部門が北アフリカに関する情報計画作成に取り組み始めた時、ドノヴァンは、情報調整局の役割を定めた法律で保証されている「その他の政府機関」が保有するインフォメーションに対する、情報調整局のアクセス環境を向上させるための活動を行っていた.
ドノヴァンが就任していた情報調整官のポストは、対外諜報活動に従事する米国政府の各諜報機関が行っている諜報活動を統括するためのものであった.しかし各諜報機関はこれまで掌握していた権限を手放すことに難色を示していた.
換言すると、ドノヴァンは各諜報機関の縄張り争いに悩まされていたのだ.たとえば、連邦捜査局のジョン・E・フーヴァー長官は、南米における諜報活動に関する権限をなかなか手放そうとはしなかった.
■□海軍情報局K機関のウォレス・フィリップス、ドノヴァンに協力を申し出る
1941年8月、ウォレス・バンタ・フィリップス(彼は、海軍情報局の「K機関」の人物で、海外12か国に所在するエージェントを統括する地位にあった)が、ドノヴァンを訪問した.フィリップスは、ドノヴァンに協力を申し出たのだ.
ドノヴァンは、この申し出をすぐに受け入れ、K機関のエージェントを現在の駐在地で任務につかせる決定を下した.K機関に所属していたエージェントの中には、海軍武官としてエジプトに勤務しているウィリアム・A・エディー海兵隊中佐のような人物も含まれていた.
■□ウィリアム・A・エディーとは何者か?
エディーは、米国人の長老派教会宣教師の息子としてシリアのシドン(サイダとも.現在はレバノン領)でうまれた.
高校を出るまで中東で過ごしたため、アラビア語を流暢に操り、アラビア語文化圏の文化や慣習に精通していた.その後プリンストン大学を卒業し海兵隊少尉に任官する.
第一次世界大戦中の1917年、第六海兵聯隊の一員としてフランスへと派遣された.アメリカ海兵隊がドイツ軍と激戦を展開したベロー・ウッドの戦いに参加して負傷し、片脚を失い、治療のため米国本土へ帰還した.
この功績で「戦闘において比類ない英雄的行為をした者」に授与される海軍十字章(海軍省が授与する勲章のうち、最高位の名誉勲章に次ぐ高位の勲章)、銀星章およびパープルハート章を授与された.
第一次大戦後、学問の世界に飛び込んだエディーは、ニューヨーク州のピークスキル・ミリタリー・アカデミーで教鞭をとり、1922年には『ガリヴァー旅行記』に関する博士論文を書き、プリンストン大学から博士号を授与されている.
1923年、エジプトのカイロにあるアメリカン大学の英語学科の学部長に就任する.しかし、妻子がエジプト生活に慣れることができなかったため、1928年に米国本土に帰国してダートマス大学で教鞭をとった.1936年には、ニューヨーク州のホバート大学の総長に就任している.エディーは、学問の世界で成功を収めていたのだ.
■□エディー、現役に復帰する
1940年12月、エディーは海兵隊司令官トーマス・ホルコム中将と偶然出会い、現役復帰を申し出た.ホルコム中将と話をした海軍情報局長がさっそくエディーと接触をとり、彼に「どのくらい早く任務につくことができるか?」と尋ねた.
ホバート大学理事会でエディーは「大学総長は、あきらかに私の愛着が失われた職である.私は海兵隊に復帰したいのだ!」と説明し、ただちにホバート大学総長の職を辞めてしまった.
海兵隊に海軍中佐として復帰したエディーは、それから二カ月以内に海軍部官およびK機関のメンバーとしてエジプトのカイロの地に再び舞い戻った.
K機関が情報調整局の指揮下に入るや、ドノヴァンは直ちにエディー中佐を北アフリカにおける情報収集の責任者に任命した.エディーは1941年9月14日にロンドン経由でカイロからタンジールへ移り、諜報網を組織し始めた.
■□ドノヴァン、北アフリカにおける諜報活動計画案を大統領に提出する
エディーが北アフリカで諜報網を組織している間、ドノヴァンはルーズヴェルト大統領と北アフリカにおける作戦活動に関する協議を続けていた.
ドノヴァンは、1941年10月10日に極秘裏に展開される諜報活動に関する計画案を大統領に提出した.さらに、同年12月22日には再度計画案を提出している.このときの計画案は、戦略計画立案のために、破壊活動、レジスタンス活動およびゲリラ・コマンドー部隊の使用を強調する内容であった.
この点に関して、OSS(戦略情報局)の戦争報告書(War
Report)は次のように述べている.
「1941年10月に、G2(陸軍情報部)、海軍情報局および情報調整局の秘密情報活動の強化を要求された時、ドノヴァンは明確な計画を準備した.その内容は、大統領に報告したように、『副領事たちの行動を統一』し、副領事たちの努力を『刺激』することができる情報調整局の代表者をタンジールに配置することであった.
代表者は、自身の活動の安全を確保するため公的地位を持つことになるであろう.万が一、外交関係が破綻した場合にも運用し続けることができる秘密の無線通信網が確立されることになるであろう.さらに、外交郵袋と外交用通信の使用が効果的通信を行うために不可欠である、とも述べられていた.
12月22日附の大統領に対する覚書の中でドノヴァンは、エディーが説明を受けた計画を明らかにしている.
『現地の長たちの援助を獲得し、住民たちからの忠誠心を深め、第五列を組織・配置し、破壊活動用の物資を貯蔵し、大胆で勇敢な者たちからなるゲリラ部隊を組織・配置すること』」(United
States War Dept. Strategic Services Unit
History Project and United States War Dept,
War Report of the OSS. New York: Walker,
1976.)
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.7.4
From:家村和幸
こんにちは.日本兵法研究会会長の家村です.
前回お届けしたメルマガに対し、お便りをいただきました.
<非常におもしろい逸話でたのしく読みました.
ただ、武道の話をよく聞くものとしては精神面の観念論だけでなく、いったいどういう事だったのか?具体的な術理としてどういう事をしようとしたのか?というとこにも興味があります.
剣術や居合いなどまったくやったこともない者ですので、なにか推測でもよいので解説をいただけたらもっと面白そうだと思いました.
それにしても、斬られにいくにはどうしたらよいかという一見素っ頓狂な、それでいてかなり真に人間の精神的なものに迫った質問をする人間と、それに応えうる人間がいるというのは、この話が実話であればつくづくレベルの高い人格者が過去の日本にいたのだな、と感じるエピソードです>(m谷さん)
<「北斗の拳」の無想転生はこれから来ているのですね.勉強になりました♪>
(msxturboさん)
<おもしろかった.このメルマガは良き勉強にもなるしためになる.長く続けていただきたい.とても好きなメルマガです.>(たかさん)
ありがとうございます.おかげさまで励みになります.
これからもどうぞよろしくお願いします.
さて今回は「武士道精神の実践」の第四話といたしまして、明治33年の義和団事件における日本軍将兵の活躍について紹介します.
一夜にして戦場と化した北京市街、厳しい籠城戦(ろうじょうせん)の最中に欧米列国の軍人や外交官たちが目の当たりにして、深い感銘を受けた「日本軍人の武士道精神」.日本人の高貴な精神文化は、西洋の人たちにも通ずるものであることがわかります.
さあ、きょうも【武士道精神入門】をお楽しみください.
その前に...
このたび新刊を出すことになりました.
詳しい話はこちらでどうぞ
⇒ http://okigunnji.com/iemura3624.pdf
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ライターの平藤清刀です.陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります.
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【第18回】武士道精神の実践:柴五郎中佐と北京の日本兵たち
▽ ロシアの東方進出と義和団事件
十九世紀の末、不凍港を求めて東アジアに目を向け始めたロシアは、1891年に大陸を横断するシベリア鉄道の建設に着手し、東方進出を本格化しました.東アジアに多くの利権を有するイギリスは、こうしたロシアの動きを警戒し、両国は対立していました.
そのような中で、1900(明治33)年にシナで義和団事件が起こりました.山東省で蜂起した数万の義和団は、宣教師や外交官を殺害し、北京の各国公使館を包囲しましたが、これに対してイギリス、ロシア、日本など八カ国が軍隊を派遣しました.
各国の外交官などが北京に籠城していたとき、会津出身の柴五郎中佐が指揮する日本兵の勇敢さと規律のよさが世界中に報道されました.これにより、イギリスの日本に対する信頼感が増大するとともに、日本に接近することになりました.
▽ 柴五郎中佐とマクドナルド公使
義和団の蜂起を知った北京の各国外交団は、清国政府に暴徒の鎮圧を要求する一方、天津の外港に停泊していた各国の軍艦から、約400名の陸戦隊を北京に呼び寄せました.日本からも軍艦愛宕から25名の水兵がこれに参加しました.
北京では、各国公使が協力して居留民やシナ人キリスト教徒の保護にあたりました.義和団が北京に押し寄せる数日前、各国の公使館付き武官や陸戦隊指揮官らがイギリス公使館に集まって、具体的な防御計画を話し合いましたが、その総指揮を取ったのがイギリス公使クロード・マクドナルドでした.
6月13日、公使館区域に約500名の義和団が襲いかかり、さらに隣接するシナ人キリスト教徒の居住区で数千人を惨殺しました.その一週間後には、警備していた清国軍も義和団側について公使館区域を砲撃しました.清の女帝である西太后が義和団側を支持したからでした.
戦いが続く中で、籠城する外国人にも負傷者が出てきました.少しずつ尊い命も奪われていきました.人々は毎晩交代しながら眠り、緊張が解けることはありませんでした.女性や子供も砲撃や銃声に怯え、いつ殺されるかわからない恐怖の中で、生活していました.徐々に食料も乏しくなり、衛生状態も悪くなって、病人も出てきました.
軍人出身のマクドナルド公使は、公使館区域でも最も激しい戦闘を進んで引き受け、わずかな手勢で暴徒や清国兵をことごとく撃退する日本公使館の駐在武官・柴五郎中佐に驚嘆し、柴中佐への信頼を日ごとに増していきました.
共に戦う柴中佐とその指揮下の日本兵たちの勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ、深く信頼するようになったマクドナルド公使は、柴中佐にイギリス人義勇兵を指揮させ、そしてイタリア大使館が焼け落ちるとイタリア兵27名も中佐の指揮下に入れました.
▽ 日本兵たちの勇猛果敢な奮戦
イギリス兵たちが、シナ人キリスト教徒の居住区から五百人ほどのシナ人を救出してきました.柴中佐は公使館地域の中央北側にある小高い丘に彼らを収容するとともに、協力を得てそこに保塁を築きました.
この丘は、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろされてしまう大変重要な場所だったのですが、そこを守るだけの兵力がいませんでした.欧米の兵士と違い、日本兵はシナ語で会話をしてくるので、彼らは日本兵に親しみを感じて積極的に協力し、30名ほどが義勇兵となりました.
日本兵とイタリア兵、そしてイギリス人やシナ人の義勇兵による即製の守備隊が陣取るこの丘に、清国軍は連日のように激しい攻撃を加えてながら攻めたててきました.マグドナルド公使は、ここの守備を固めるために、フランス、オーストリア、ドイツなどにも増援の兵を出すように命じましたたが、それぞれ自国民の保護を優先して従いませんでした.
柴中佐が指揮する守備隊の奮戦は、二ヵ月近く続きました.城壁を砲撃して崩し、そこから突入してくる清国兵や義和団を射撃と白兵戦で撃退するという戦いが繰り返されました.6月27日、夜明けから敵は熾烈(しれつ)な総攻撃を行ってきました.清国兵は惜しみなく砲撃し、弾丸を撃ちかけてきます.弾薬が不足している守備隊は、一発必中の精密な射撃に心掛けて応戦しました.
午後3時頃、城壁が大きく崩れて多数の敵兵が喊声(かんせい)を上げながら突入してきました.柴中佐はこの敵を引きつけ、城内に密集したところを一斉射撃をしてなぎ倒しました.敵は20以上の遺体を放置したまま、退却していきました.このことが、他国軍にも知らされ、大いに士気が高揚されました.
イギリス公使館の地区に数百の清国兵が突入し、危機的な状態になったので、速やかに救援部隊を差し向けて欲しい、とイギリス兵の伝令が柴中佐に伝えにきました.イギリス公使館地区には、各国の婦女子や負傷者が収容されていました.柴中佐は安藤大尉を指揮官とする8名の救援隊を編成し、直ちに向かわせました.
安藤大尉の救援隊は、到着するとすぐ清国兵に一斉射撃を浴びせ、次いで白兵戦で斬りかかり、銃剣で刺突して十数名を倒しました.浮き足立った清国兵は、われさきにと逃げ出しました.安藤隊が残敵を片っ端から掃討し、態勢を取り直したイギリス兵が逃げる清国兵を追撃しました.そして、城壁外で三十名近くの清国兵を倒しました.
これらは皆、苦しいとき、厳しいときこそ一致協力し、その場、その場で最善を尽そうとする日本人の精神的美徳の発露でした.
▽ 日本人の姿が欧米人の模範になる
『北京籠城』という本の中で、筆者P・フレミングは柴五郎中佐について次のように書いています.
─ 日本軍を指揮した柴五郎中佐は、どの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された.当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった.日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになった.日本人の勇気・信頼性・そして明朗さは籠城者一同の賞讃の的(まと)となった.数多い記録の中で、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである.─
どのような苦境にあっても冷静沈着な柴中佐の指揮と、明るく忍耐強い日本兵の姿に、共に籠城する各国兵士は大いに士気を鼓舞されました.あるイギリス人義勇兵はとても人間業(わざ)とは思えない光景を見たと言って、こう語っています.
─ 隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た.真赤な血が飛び散った.しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない.「くそっ」というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の監視を続けた.─
─ 戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった.彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた.しかも彼らは沈鬱(ちんつう)な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた.日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた.─
─ 長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった.中には発狂寸前の人もいた.だから彼女たちは、日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった.─
▽ 世界に報道された武士道精神
柴中佐は英語とフランス語を自在にあやつって、各国の指揮官たちの意思の疎通をはかりました.また、柴中佐の優れた戦術能力も各国武官の認めるところとなり、作戦を計画するにあたって迷ったときは、いつでも柴中佐に意見を求めるようになりました.
砲兵出身で情報勤務も豊富な柴中佐は、義和団事件以前から北京城及びその周辺の地理を調べ尽しており、間者を駆使した情報網も作り上げていました.また、密使を使って天津の日本軍とも連絡をとりながら、五十五日に及ぶ籠城戦を持ちこたえたのでした.
義和団鎮圧後、各国の軍隊では掠奪、暴行が多発し、その中でも最も甚だしかったのがロシア軍でした.しかし、日本軍ではそのようなことは一切なく、日本兵は皆、規律正しく行動しました.
イギリスのスタンダード紙は、社説で「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている.日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気はつらつたるは、真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない」と賞賛しました.
同じくロンドン・タイムスもその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない.日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記しました.
義和団事件の翌年、マクドナルド公使は、夏の賜暇休暇でロンドンに帰ると英国首相ソールズベリー公爵との会見を重ねながら、日本公使館に林董(ただす)公使を訪ねて日英同盟の構想を語り、日本側の意向を打診しました.このように、マクドナルド公使は日本側にイギリス側の熱意を示し、以後のすべての交渉にも立ち会いました.
それからわずか半年後に、日英同盟が締結されたのでした.
(「柴五郎中佐と北京の日本兵たち」終り)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.6.28
トーチ作戦とインテリジェンス(19)
長南政義
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トーチ作戦とインテリジェンス
【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム.トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である.
前回から、情報調整局(Office of the Coordinator
of Information,;OCI)が行った北アフリカ地域の諜報活動について述べている.
ドノヴァンが就任していた情報調整官のポストは対外諜報活動に従事する米国政府の各諜報機関が行っている諜報活動を統括するものであった.しかし、各諜報機関がこれまで掌握していた権限を手放すことに難色を示していたため、ドノヴァンは各諜報機関の縄張り争いに悩まされた.
1941年8月、ウォレス・バンタ・フィリップス(彼は、海軍情報局の「K機関」の人物で、海外12か国に所在するエージェントを統括する地位にあった)が、ドノヴァンを訪問し、協力を申し出た.ドノヴァンは、この申し出をすぐに受け入れ、K機関のエージェントを現在の駐在地で任務につかせる決定を下した.K機関に所属していたエージェントの中には、海軍の駐在部官としてエジプトで勤務しているウィリアム・A・エディー予備役海兵隊中佐のような人物も含まれていた.
K機関が情報調整局の指揮下に入るや、ドノヴァンは直ちにエディー中佐を北アフリカにおける情報収集の責任者に任命した.エディーは1941年9月14日にロンドン経由でカイロからタンジールへ移り、そして、諜報網を動かし始めた.
エディーが北アフリカで諜報網を組織している間、ドノヴァンはルーズヴェルト大統領と北アフリカにおける作戦活動に関して協議を続けていた.ドノヴァンは、1941年10月10日に極秘裏に展開される諜報活動に関する計画案を大統領に提出した.さらに、同年の12月22日には再度計画案を提出している.今回の計画案は、戦略計画立案のために、破壊活動、レジスタンス活動およびゲリラ・コマンドー部隊の使用を強調する内容であった.
12月22日附の大統領に対する覚書の中で、ドノヴァンは、自身の計画を次のように明らかにしている.「現地の長たちの援助を獲得し、住民たちからの忠誠心を深め、第五列を組織・配置し、破壊活動用の物資を貯蔵し、大胆で勇敢な者たちからなるゲリラ部隊を組織・配置すること」にあると.
今回も情報調整局が行った北アフリカ地域の諜報活動について述べることとする.
■□ドノヴァンの諜報活動、アルカディア会談に影響を与える
ドノヴァンがエディーに命じて行わせた諸準備と、副領事および情報調整局のエージェントが収集した現地情勢に関する情報は、1941年12月22日から1942年1月14日にかけてワシントンDCで開催されたアルカディア会談において重要な意味を持った.
アルカディア会談において、ルーズヴェルト大統領およびチャーチル首相は、最初の戦略目標が太平洋ではなく欧州であることを確認すると共に、軍事資源を欧州戦域において集中的に運用するとの合意を行った.
会談の期間中、ルーズヴェルト大統領およびチャーチル首相は、北アフリカにおいて英米の連合作戦を行うことを検討しており、情報調整局が収集した情報は、ルーズヴェルト大統領およびチャーチル首相の北アフリカ侵攻構想に影響を与えたのだ.
そして、この英米両首脳の決断が、トーチ作戦(当時はスーパージムナスト作戦と呼ばれていた)計画立案の基礎となったのである.また、この英米両首脳の決断は、情報調整局にとっても大きな意味を持った.
というのも、この決断により、情報調整局は、英国の秘密情報部(SIS.MI6としても知られる)および特殊作戦部(SOE)と共同して秘密工作・破壊活動に従事する役割を担うことになったからである.
■□ルーズヴェルト大統領、ドノヴァンに仏領北アフリカでの秘密活動を命じる
アルカディア会談も終了し、真珠湾攻撃から六週間が経過したあるさわやかな冬の朝、ルーズヴェルト大統領はドノヴァンをホワイトハウスに呼び出し、情報調整局にとってこれまででもっとも実質的な意味を持つ任務をドノヴァンに与えた.
ジョセフ・E・パーシコ『ルーズヴェルトの秘密戦争』(原題:Roosevelt's
Secret War )およびアンソニー・C・ブラウン『最後の英雄 ワイルド・ビル・ドノヴァン』(原題:The
Last Hero: Wild Bill Donovan)によれば、ルーズヴェルトがドノヴァンに話した内容は次のようなものであった.
1、十二使徒たち(すでにフランス領北アフリカで活動中の副領事たちのこと)は、今後、ドノヴァンおよびロバート・マーフィーの下で活動することになる.
2、ドノヴァンの主たる任務は、フランス軍参謀本部との秘密裡の接触を通じて、フランス領北アフリカへの米軍侵攻後に生起することが予想されるフランス軍と米軍との戦闘を回避することにある.
これと関連して、ドノヴァンは、もし侵攻作戦が実際に開始された場合、フランスの植民地住民たちが、連合国側につくのか、それともナチス・ドイツに味方するのか、あるいは日和見を決め込むのかについて確実な情報を得る必要があった.
3、ドノヴァンは、当時中立の立場をとっていたスペインの中立を確実にせよとの命令を受けた.というのも、もし、スペインが連合国の北アフリカ侵攻中に介入したならば、モロッコに駐屯するスペイン軍が枢軸側に味方して形勢を一変させる恐れがあったからである.
さらに、ドノヴァンのエージェントたちは、フランコ総統が、ジブラルタル海峡を封鎖したり、ドイツ軍部隊をスペイン本土からスペイン領モロッコへと上陸することを許すか否かに関する確実な情報をつかむ必要があった.というのも、もしそのような事態が現実に生起した場合、連合国による北アフリカ侵攻作戦は悲劇的結末を迎える可能性が高いからである.
4、ドノヴァンは、もし、連合国が北アフリカ侵攻作戦を実施する場合に、実際の上陸地点から約1500マイル離れたアフリカ大陸の西端ダカールで実行されるとドイツ側に誤信させるために陽動作戦を実施する任務も付与された.
5、さらにドノヴァンは、フランス艦隊がドイツもしくはイタリアの手にわたらないようにする任務も与えられた.
6、このような任務を達成するために、ドノヴァンは、英国のインテリジェンス機関と共同して大規模かつ多額の予算を必要とする秘密工作活動を実行する権限が付与された.
7、すでにフランス領北アフリカの各地で活動を行っている米国の外交官や諜報員がフランス陸軍および海軍の動向をワシントンに報告し続けることができるようにするために、ドノヴァンは、地中海全諸国を包含する諜報網を構築せよとの任務も付与された.
8、ドノヴァンは、連合国の北アフリカ侵攻の際にフランス側の通信網を無力化する準備として、フランス領北アフリカ内の協力者たちに、財政支援や軍需物資を提供するためのシステムを整備せよとの任務も与えられた.
9、ドノヴァンは、スペインやポルトガルを敵に回さないようなやり方で、大西洋にある島々がドイツ軍によって占領されていないかどうかを確認するために、そうした島嶼にエージェントを潜入させる手段を見つける任務も与えられた.
■□ドノヴァンに対して付与された任務の意義
ドノヴァンが与えられた任務は、第二次世界大戦において欧州戦域の戦略情報に関して大統領が出した初めてのリクワイアメント(情報ニーズ)であった.大統領により要求された情報ニーズは、ドノヴァン率いる情報調整局にとって重荷であったが、それと同時に、欧州大陸への大規模侵攻作戦に先だって情報調整局の能力を確かめる機会でもあった.
また、ドノヴァンは、創設間もない情報調整局がこうした任務を実行に移す過程で、すでに存在する米国および英国のインテリジェンス機関からお手並み拝見という目でもってその活動を見られることも理解していた.米国内の他のインテリジェンス機関と縄張り争いを展開するドノヴァンおよび情報調整局にとって、北アフリカでの活動は、失敗が許されなかったのである.
それと同時に、北アフリカでの活動は情報調整局の権限と役割とを迅速に確立することができる大きなチャンスでもあった.というのも、北アフリカでの困難な任務は、米国内の他のインテリジェンス機関に、ドノヴァンおよび情報調整局の能力を認めさせる絶好の機会でもあったからである.
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.7.11
■ コラム:“MBAの視座・視野・視点”
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■ 先の見えないビジネスで効果を発揮する“仮説志向計画法”とは?
本日の日経新聞を始めとして、日経産業新聞、読売新聞、朝日新聞など
主要な新聞にテラモーターズが世界で初めてスマートフォンと連動した
電動バイクを市場に投入することが報道されていました.
実はこのテラモーターズの徳重社長は、私とビジネススクール同期で、
在学中は一緒にグループプロジェクトに取り組んだ間柄でもあります.
最近では日本発世界を目指す“メガベンチャー”のトップとして、様々な
メディアにも登場していますのでご存知の方も多いのではないでしょうか.
昨日行われた新製品の記者会見には120ものメディアが押し寄せたという
ことなので、新型バイクの注目度は抜群だといえるでしょう.
日経新聞の記事によれば、発売から2年で10万台の販売を見込み、
うち海外向けで9割を目指すそうです.
電動バイク市場は日本ではまだまだ規模的に小さいものなので、
是非とも大きな成長が見込めるアジアで頑張っていただきたいですね.
最近ではテラモーターズのように、創業間もないベンチャーが日本市場よりも、
成長著しいアジア市場に軸足を置いて事業を展開するケースが増えてきている
そうです.
ただ、ベンチャー企業にとっての問題は、勝手知ったる日本市場でさえ
成功することが難しいのに、現地のマーケット事情や商習慣、インフラ、
競合他社などに関して十分な情報を得ることができない新興国では
予想もできない困難が待ち受けているところです.
このような厳しい条件を克服して事業を軌道に乗せるために、最近アメリカで
提唱されている戦略に“仮説志向計画法”というものがあります.
“仮説志向計画法”とは、まず目標を決定したら、不確実な情報に基づいて
仮説を立て、計画を練って、目標達成に徐々に邁進していく方法になります.
ベンチャー企業の経営者にとっては、周りがあまり見えていない中で
仮説を立てて事業を展開していくので、当初の計画通りに進捗することは
稀であり、都度都度計画を見直していく必要が生じてきます.
目標についても、当初のものから大きく外れることを覚悟しておかなければ
なりません.
たとえ、当初10万台の販売目標を立てたとしても、半分の5万台しか
達成できなかったということもあり得るということなのです.
この“仮説志向計画法”は、前例のないビジネスに取り組む際に、
リスクを最小限に抑えて事業を成功に導くために役立ちます.
当初から明確に目標を達成する事を目的とするのではなく、
プロジェクト自体を環境に合わせて進化させ、
最終的に大きな成功に導くことを目的とするのです.
もちろん、“仮説志向計画法”においても、事業を開始する際には、ビジネス
モデルや流通網の整備、顧客に対する価値提供の仕組みなど、一般的な
ビジネスと同じように詳細を決定しておかなければいけませんが、事業活動を
行うにつれて、当初の設定が過ちだったと気付くこともあるでしょう.
ただ、不確実な情報しか得られていない状況でスタートすることを考えれば、
それは致し方のないことなのです.
仮説を基にビジネスを展開しながら、結果を数値でモニターし、
徐々に確かなビジネスモデルを築いていけばいいのです.
一般的なビジネスでは、これまで蓄積されたデータに基づいてかなり正確な
将来予測が可能であり、したがって当初から大規模な投資を行って、
目標とする実績を実現することもできるでしょう.
ところが、全く手探りの状態で始めるビジネスでは、
全てが仮置きの状態にあります.
そこで“仮説志向計画法”で重要なことは、いきなり大きく展開するのでは
なく、小さく始めて徐々に戦略を固め、確信が持てた段階で大きく勝負に出る
ことなのです.
そうすれば、リスクを低くすることにつながっていきます.
このようにベンチャー企業がいきなり見ず知らずの市場で勝負を賭けるため
には、仮説検証を繰り返しながら、市場に対する学びを深め、自社のビジネス
モデルを少しづつでも進化させていくことが重要な鍵を握ります.
“仮説志向計画法”で徐々に足場を固めていけば、創業間もないベンチャー
企業でも潜在力の非常に高い新興市場において着実に自社のポジションを
築いていくことができるのではないでしょうか.
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2013.7.11
陸軍史あちらこちら(210)
荒木 肇
『謎の肖像画――昭和と平成の教科書を比べて(26)』
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□はじめに
教科書や史料集に載るさまざまな資料の中でも肖像画には強いインパクトがある.大きな束帯(そくたい)を着けて小さな身体を大きく見せようとした豊臣秀吉像.いかにも福々しく太った徳川家康の絵.肩衣(かたぎぬ)姿で神経質そうな顔をした織田信長の肖像画.いずれも、人物の特徴をそれぞれ秘めているような気分を与える.
ところで、昭和の教科書に、『源頼朝像(部分) 藤原隆信筆と伝えられ、鎌倉時代の似絵中の傑作である.(全図 縦112センチ、横139センチ、京都神護寺蔵)』とある黒の袍を着た束帯姿(公家の正装)の肖像画が、平成の教科書には消されて載っていない.
画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Minamoto_no_Yoritomo.jpg
これは他の2枚、平重盛像、藤原光能(みつよし)像といっしょに神護寺に伝えられ、1951(昭和26)年には国宝に指定されたものだった.では、ほんとうに絵には人物の名前が付いていたのかというと、実は何もなかった.14世紀に筆写されたという『神護寺略記』によれば、同寺の仙洞院に後白河法皇・平重盛・源頼朝・藤原光能・平業房(なりふさ)などの絵が納められているとある.しかもそれらを描いたのは当時の似絵の大家、藤原隆信だという.
神護寺というのは京都市右京区にある高野山真言宗の別格本山であり、寺格もすこぶる高い.鎌倉初期に文覚上人が復興したといわれる.そんな格式の高い寺に伝わる文書である.しかも、頼朝像は美術史家の間でも高い評価を得てしまった.それで、十分な裏付けもないままに国宝に指定され、なんとなく頼朝だということになっていた.
有名な後白河法皇やその寵臣といわれた平業房(北面の武士出身で左衛門佐)や藤原光能も近衛中将から蔵人頭、参議になった院の側近.だから、まとめて収蔵されていても何の不思議もない.似絵の第一人者といわれる隆信についても解説しておこう.
1142(康治元)年の生まれ、美福門院、八条院、後白河院の侍臣で正四位下、上野介、越前守、若狭守を歴任.1202(建仁2)年に出家して法然上人に帰依(きえ)した.歌人としても有名で、『千載和歌集』にも歌が採られている.
▼どうも違うらしい
1995(平成7)年のことである.顔の部分、耳、眼、眉、唇などの描かれ方が、14世紀の前半の夢想疎石像などによく似ている.また、「東山御文庫文書」にある足利直義の願文に神護寺に画像を奉納したという記事がある.直義は尊氏の弟であり、この願文の日付が1345(康永4)年4月23日になっている.願文によれば、直義は兄尊氏の画像もあわせて奉納したとある.そこで、これは3つの画像のうち、2つは尊氏と直義ではないかというわけだ.
さらにこの説の提言者はいう.複数の画像がセットの場合、ふつう向かって右には上位の人を、左には下位を置く.だから、尊氏が右、直義が左となると、画像の人物の顔の向きは右に向くのが直義になる.そこで、3つの像のうち左向きに描かれているのは、平重盛と藤原光能であるから、それらを京都の等持院や大分県安国寺の尊氏彫像や岡山県尾道浄土寺の尊氏像と比べてみた.顔の形、丸い鼻、垂れた目などに重盛像と共通点がある.そこでこれを尊氏とした.左に置かれるから右向きの伝頼朝像は足利直義とすれば、残る伝藤原光能像は、京都等持院の足利義詮(よしあきら)木像と似ている.
▼決着はついていないが
この説には賛否両論があった.中でも反対論のより所になったのは、ロンドンの大英博物館にある頼朝像である.神護寺の頼朝像を模写したと考えられているものには、頼朝の伝・賛が記入されている.これが14世紀の中ごろに描かれたとされているので、元になった神護寺のそれも、その時代には頼朝とされていたのだという.
ところがである.大英博物館の上部に書かれた賛文をよく読んでみたら、そこで使われている語彙が問題になった.「賛」とは描かれた人物の履歴や人柄、画像を製作したいきさつなどが書かれている.その中に17世紀末の『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』で初めて使われていることが確認された言葉があったのだ.これで大英博物館のものは17世紀末以降に書かれたことがはっきりした.
歴史研究者の間では、この足利兄弟と尊氏の息子という説を支持する人が多い.しかし、美術史の専門家の間では、とくに年配の人たちに、やはり頼朝像だとする人が主流である.どちらが正しいかは、まだ決着がついていない.ただし論争の波紋は大きかった.古くから伝わる肖像画の人物は誰かと決める作業が、いかにもろい根拠で行われてきたことが明らかになったのである.
このごろでは、山梨県の甲斐善光寺にある木像が頼朝像とされることが多い.1319(文保3)年以前の作であることが確かであり、頼朝といわれてきた.
▼武田信玄像はほんものか
よく武田信玄とされる画像がある.高野山成慶院に伝えられてきたもので、重要文化財.右に向かって座って、左に太刀、右にはハヤブサが描かれている.これも研究者から異論が出た.中世史家の藤本正行といえば『信長の戦争』、『偽書「武功夜話」の研究』などで有名な人である.氏によれば、次の4点が疑問だという.
参考:高野山霊宝館(重文 武田信玄像)
http://www.reihokan.or.jp/syashin/irai.html
(1)「賛」が失われている.ふつう賛は画像の頭上に書かれるが、横長の画像は画面いっぱいに描かれている.おそらく賛があった部分は裁断されているのではないか.武田信玄という賛もないのに長くそれとされてきたのには理由がある.「成慶院文書」の中に信玄の後継者である武田勝頼が生前の信玄画像を寄進したという書状が残っているからだという.また、江戸時代後期の古器物図録である「集古十種(しゅうこじっしゅ)」という書物に武田晴信像とされて模写されているからだ.
ところが、寄進状には「画像を寄進する」とはあるが、誰が描いたのか、どんな図柄かについては書かれていない.また、「集古十種」は寛政の改革で有名な松平定信が編纂したもので1800(寛政12)年の序文がついている.つまり、信玄が亡くなってのち、200年以上もたってから、あの画像が信玄だという説があったことを示しているにすぎない.
誰が描いたのかは分かっているとされてきた.信玄の弟である武田逍遥軒信綱であるというのだ.それは江戸時代に出羽米沢の上杉家に仕えていた武田一族が所蔵していた文書によって考えられてきた.1669(寛文9)年当時に、武田氏が成慶院に寄進した数々の物の目録にそう書かれているからだ.信綱は一流の画人としても有名で父の信虎像なども残されている.ところが、この絵の作者は信綱ではない.
(2)画面左下の朱の落款に信春とある.この長谷川信春は桃山時代の美術史に必ず登場する長谷川等伯が改名する前の名前である.信春という落款は1564年から1579年まで使われていた.だから、画像は永禄年間から天正年間に描かれたものと考えられる.また、この時期、信春は能登・越中方面、したがって現在の北陸、石川県や富山県で活動していた証拠がある.作品の多くが石川県羽咋市・七尾市、富山県高岡市などに残されている.また、長谷川家が能登の七尾の出身であり、等伯の父親は能登国守護・七尾城主畠山氏の家臣だったことも明らかである.
この時期の信玄は生涯戦いの中に過ごしたが、能登、越中には出かけたことがない.等伯との接点もまるでなく、絵が描かれる必然性もまるでなかった.
(3)描かれている紋どころが丸に二引両紋(ふたつびきりょうもん)だった.立てかけられた太刀と腰に差した刀には武田菱ではなく、別の紋がついている.それは足利一族が使っていた丸に二引両紋である.将軍家も使い、今川、細川、吉良、斯波、畠山などの名家が使った.だから画像の主は、この家々の誰かであると考えられる.また、一族や家臣の人々にとって拝礼する対象の画像に武田菱が使われていないのもおかしい.そこで、画像の主は能登国守護である畠山氏の一族と考えられる.
(4)髷のある入道がいるか.画像には明らかに髷がある.信玄は1559(永禄2)年に39歳で出家した.「甲陽軍艦」によれば31歳となっている.髷があるからそれ以前とすると、いかにも年配が高すぎる.髷のある入道ではないかという説もあり、越前国守護の朝倉義景像のように髷がある絵が残っている例もある.しかし、信玄といえば坊主頭に袈裟という資料はあるものの、髷を残していたという記録は見当たらない.
これらから、画像の主はおそらく畠山氏の誰かではないか.では、寄進状にある本物はどこかというと、見つかっていない.
別にも書いたが、高師直(こうのもろなお)像なども研究の結果、別人であることが判明している時代になった.肖像画も次々と像主が変わっている.
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2013.7.10
【第18回】武士道精神の実践:剣と外国人
▽ 精神を統一せぬかぎり勝負は負ける
「昭和の剣聖」と呼ばれた高野佐三郎氏は、文久2(1862)年に武蔵国秩父郡(現埼玉県秩父市)に生まれ、幼少から祖父で忍(おし)藩指南役の高野佐吉郎に剣術を学び、成人する頃には上京して山岡鉄舟の門弟となった.
明治19(1886)年に二十四歳で警視庁巡査に任官し、二年後には埼玉県警察本部武術教授(警部)となる.その後、明信館道場(のち修道学院)を設立して多くの剣道家を輩出するとともに、東京高等師範学校や早稲田大学で教えながら、剣道の指導者養成や、学校での剣道指導法の考案、形の制定・普及など近代剣道の完成に尽力した.
「剣の道は深い」、「精神を統一せぬかぎり勝負は負ける」といった格言も遺している.
このように、大正から昭和初期の剣道界の第一人者であった高野佐三郎氏が、昭和10(1935)年に雑誌「武道」で剣道を学ぶ外国人について話しておられる.
▽ いろいろな国民性と剣道
この記事の冒頭、次のようなことが書いてあるが、今も変わらぬ国民性がにじみ出ていて非常に興味深い.
─ 私は昔から、いろいろの外国人に、剣道を教えてきましたが、中でも一番、ものにならぬのは、支那人であります.元来、器用な国民ですから、技術はできないでもないが、精神的に全然駄目なのであります.加減して稽古をつけている時は、直ぐ得意になってしまうが、少し真剣な稽古となると、もう道場の隅(すみ)に逃げて行って、怯(おび)えているという有様です.
「相手が弱ければ起つ.強ければ、逃げるよりほかに仕方がない.」この心持が、彼らから離れることがない.およそ剣道の修業には、縁のない精神であります.
そこへゆくと、ドイツ人は元来、尚武の気風の盛ん国民だけに、支那人などとは比較にならぬ程、積極果敢な気性に富んでおります.
ロシア人なども、一見頗(すこぶ)る鈍重で、技術は下手でありますが、非常に粘り強く、随分(ずいぶん)負けん気があって、頑張りが続きます.こういう国民が精紳を打込んで、本当に剣道を会得したならば、相当恐るべきものがあろうと思はれます、云々 ─
▽ 英国軍人ミッチェル大尉の入門
明治43(1910)年の春、英国大使館附武官のミッチェル大尉が、高野氏の道場へ入門を願い出た.高野氏は答えた.
「私はこれまでにも、多くの外国人に剣道を教えてみました.が、ものになったという人はまだ一人もないのです.おそらく努力や修業の如何(いかん)というよりも、剣道の建前からして、その精神を学ぶことは、あなた方のような外国の人々にとって、不可能のことではなかろうかと思います.やるとなれば、ずいぶん苦しい修業もしなければならないのであるから、今一度よくお考えになってはどうですか.・・・」
しかし、それでもミッチェル大尉は、熱心に入門を希望した.そこまで言うのであれば、と道場に連れて行き、高野氏が簡単な稽古をつけた.面を二つ三つばかりお見舞いすると、ミッチェル大尉は声をたて、うずくまってしまった.
「今日ハ、コレデ十分デス.頭ガ大変イタイデス.失礼シマス.」そう言ったきり、帰ってしまった.
▽ 少年剣士に学ぶ「武人の心意気」
これに懲(こ)りたと思いきや、さにあらず.ミッチェル大尉は、翌日から高野氏の道場に通いはじめて、一年間、欠席なしに、しかも一心不乱に習い続けた.
そこで、高野氏も見込みありと思うと、本格的に修業を始めた.ビシビシと打込んで行くと、ミッチェル大尉の肘(ひじ)がたちまち紫色に腫(は)れあがり、足の皮はすりむけて血がにじみだした.呻(うめ)き声をあげて、頑張っていたミッチェル大尉も、とうとうその翌日から姿を見せなくなった.
今まで無欠席だったのが、休んでしまって音沙汰も無く、・・・そして一週間ほどすると、また出てきた.
「カラダガ痛ンデ、タマラナイ.足ニハ血マメ、イクツモデキマシタノデ、熱海ヘ治療ニ行ッテイマシタ.」
そう言っているところへ、一人の少年弟子が高野氏の前へきた.小さな両足に、大きな血まめを幾つもこしらえている.ちようど好い機会だ、と思った高野氏は、その少年の血まめを、ミッチェル大尉の前で治療して見せた.
火箸(ひばし)の先っぽを真赤に焼いて、足の裏の血まめに押しつける.そのたびに、黄色い煙がブスブスと出る.ジッとこらえてる十二歳の少年、治療が終ると待ちかねていたように、道場へ立って行き、すぐに稽古を始めた.
この始終を、目も放さず見つづけていたミッチェル大尉は、深く感動した顔色をした.これ以来、本格的な修業に精進しつづけて、手足の血まめが破れ、血が流れても、松葉杖をついて道場に通った.そして、ついに実力が二段くらいまで上達した.
▽ 戦場で実証した「不屈の武士的精神」
そこに、第一次世界大戦(欧州大戦)が勃発し、本国からの動員令を受けたミッチェル大尉は、帰国して行った.
フランス戦線において奮戦力闘したミッチェル大尉は、幾度か負傷して入院した.それでも回復するや、すぐに戦場に復帰して祖国の為に戦いつづけた.
その最期には、少数の手兵を率いてドイツ軍の猛撃を抑え、塹壕の中で戦死した.大尉の剣に倒された敵兵の屍骸(しがい)が、かたわらに幾人となく転がり、大尉の血刀は、ボロボロに刃が欠けていた.そして、日本からの帰国に際して高野氏が贈った扇子を、肌身につけていた.
師が弟子との告別に際し、その扇子に書き贈った言葉は、
「一剣留身 應君恩(一剣を身に留めて、大君の恩に応ず)」
であった.
高野氏は、この記事の最後にこう言っておられる.
─ 日本武士道を立派に体得して行った、この英国士官は、最後まで退却を頑として受け入れなかったものの様であります.若し彼が、日本の剣道を修めなかったら、あるいは戦死せずにすんだかも知れません.それにしても、外国人の中にも、こういう不屈の武士的精神の持主がいるということは、私どもの深く心にとめなければならぬ所かと思われるのであります.─
(「剣と外国人」終り)
(いえむら・かずゆき)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
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2013.7.12
ビンラディン容疑者巡り報告書、潜伏生活の全容明らかに
CNN.co.jp 7月10日(水)11時11分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130710-35034487-cnn-int
イスタンブール(CNN) 国際テロ組織アルカイダの指導者オサマ・ビンラディン容疑者がパキスタンでどのような逃亡生活を送っていたかを調べた報告書の内容を、同国のメディアが一斉に伝えた.報告書は、パキスタン当局が同容疑者の潜入や米特殊部隊による殺害を阻止できなかったとして、厳しい批判を展開している.
報告書は337ページの長さで、執筆者には同国の元外交官や元最高裁判事、軍や警察の元幹部らが名を連ねている.
ビンラディン容疑者は最後の潜伏先となったパキスタン北部アボタバードの邸宅で、子どもや孫数十人とともに6年間暮らした.庭仕事をする時には住民の目や衛星カメラを避けるため、カウボーイハットをかぶっていたという.
潜伏先を見破られないようテレビの衛星アンテナや電話回線は設置せず、インターネットに接続することもなかった.子どもたちは近所の子と遊ぶことを許されず、塀に囲まれた敷地内でほとんどの時間を過ごした.ビンラディン容疑者は子どもたちに宗教を説いたり、庭に連れ出したりした.畑で良い野菜を育てた子どもにほうびを与えることもあった.
ビンラディン容疑者がパキスタンで逃亡生活に入ったのは、2001年9月11日に起きた米同時多発テロの1カ月後.アボタバードに落ち着く05年までの間は南部から北部へ、街から街へと移動を続けた.
妻の1人はこの間に4回出産し、そのたびに土地の病院にかかった.パキスタン人が話すウルドゥー語でなく、アラブ語を話すことが発覚すれば怪しまれるとの家族の判断で、医師の前ではろうあ者を装ったという.
北西部スワート渓谷に滞在した時期には、人相を変えるためにひげをそっていた.協力者らは、住民が「アラブ語を話す背の高い男」について尋ねることを許さなかった.
スワート渓谷で同容疑者を乗せた車が警察に止められたこともある.運転手は素早く対応し、車内をよく見られないうちに走り去った.
アボタバードではある時、邸宅に住み込んでいた女性がテレビに映った同容疑者の顔に気付いて夫に指摘した.協力者だった夫はあわてて、邸宅内のすべての女性たちにテレビの視聴禁止を言い渡したという.
アボタバードはパキスタン有数の軍基地があることで知られる.その街で何年間も、ビンラディン容疑者らは潜伏を続けていた.
米特殊部隊は同容疑者の殺害作戦で約3時間、パキスタン国内に入っていたが、軍はこれも察知できなかった.報告書は、同国の情報機関と軍、政府のあらゆる層における「独善と無知、怠慢、無能、無責任」の結果だと、厳しく批判している.
一方パキスタン側は、この殺害作戦は主権侵害であり、いわば戦争行為だとしている.
政府は怠慢で無能…ビンラーディン潜伏で報告書
読売新聞 7月10日(水)18時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130710-00000935-yom-int
【イスラマバード=丸山修】中東の衛星テレビ「アル・ジャジーラ」は、国際テロ組織アル・カーイダ指導者ウサマ・ビンラーディンのパキスタン潜伏をなぜ許したかなどを調べていた同国の独立調査委員会の報告書全文をネット上に掲載した.
それによると、報告書は当時の政府と軍を「怠慢で無能」と痛烈に批判している.
同委は、2011年5月のビンラーディン殺害翌月に発足.軍の高官やビンラーディンの遺族ら200人以上に聞き取り調査を行い、今年1月に報告書をまとめ、アシュラフ首相(当時)に提出した.だが、パキスタン政府は公表していない.
報告書によると、ビンラーディンは02年にアフガニスタンからパキスタンに入った.首都イスラマバード近郊ハリプールなどに滞在後、05年から米軍に殺害されるまで首都近郊のアボタバードに住んだ.側近の妻の証言によれば、この間、ビンラーディンが乗った車がスピード違反で警察に摘発されたこともあったが、警官は誰だか気づかなかった.
政府と軍は「無能」=ビンラディン容疑者潜伏で―パキスタン独立委
時事通信 7月10日(水)1時9分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130710-00000006-jij-asia
【パロ(ブータン)時事】国際テロ組織アルカイダの元首領ビンラディン容疑者がパキスタン潜伏中に殺害された事件で、パキスタン政府の独立調査委員会は「(潜伏を許したのは)政府と軍の全レベルにおける怠慢と無能が原因」とする報告書をまとめた.中東の衛星テレビ局アルジャジーラが8日報じた.
報告書は、米軍が2011年に独断で実施したビンラディン容疑者殺害作戦を「国家主権を完全に無視したもの」と批判.その一方で、潜伏を見逃したのはパキスタン政府と軍指導部における「全ての政策の崩壊」に起因すると結論付けた.
また、パキスタンの情報機関「3軍統合情報局」(ISI)が05年に同容疑者の追跡調査を打ち切ったとも明らかにした.
パキスタン当局の「無能さ」を非難、ビンラディン容疑者潜伏で独立調査委が報告書
AFP=時事 7月9日(火)14時58分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130709-00000031-jij_afp-int
パキスタン北部アボタバードで、国際テロ組織アルカイダ最高指導者のウサマ・ビンラディン容疑者が潜伏していた邸宅を訪問し終えて去るパキスタン人家族(2011年5月5日撮影、資料写真).
【AFP=時事】国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)の最高指導者だったウサマ・ビンラディン(Osama
bin Laden)容疑者がパキスタンに9年以上も潜伏できたのは、同国当局の「失敗」や「無能さ」、そして「怠慢」が原因だとする報告書を同国の独立調査委員会がまとめていたことが8日、明らかになった.
ビンラディン容疑者を殺害の第一報(2011年5月2日)
ビンラディン容疑者は、米中央情報局(CIA)によってパキスタン北部アボタバード(Abbottabad)に潜伏していることが突き止められた後、2011年5月2日に米海軍特殊部隊「シールズ(SEALs)」が実施した急襲作戦で射殺された.
作戦から間もなく、パキスタン政府は独立した調査が必要だという議会からの要請を受けて調査委員会を設置.委員会は軍と政府の複数の高官に聞き取り調査を行ったほか、ビンラディン容疑者の3人の妻からも事情を聞いた.3人の妻は委員会の調査を受けた後、サウジアラビアに強制送還されている.
委員会の調査結果は公表されていなかったが、中東の衛星テレビ局アルジャジーラ(Al-Jazeera)が8日、その内容を報じた.
■当局の「怠慢や無能さ」を厳しく批判
336ページに上るこの調査報告書には、「非難に値する怠慢や無能さが、政府のほぼ全ての階層において存在したことは、関係者の証言によりある程度決定的に断定できる」などと書かれており、パキスタンの情報機関や軍の面目を大きく損なう内容になっている.
調査委員会は、パキスタンの当局者がアルカイダと共謀していたとの疑惑を裏付ける情報はなかったとしつつも、現職または当時の当局者らが「もっともらしく否定することが可能な支援」を提供していた可能性を完全に否定することはできなかったとしている.
「不良分子が見て見ぬふりをしていたとしても、(パキスタンの情報機関)3軍統合情報部(ISI)のような機関にとって怠慢や無能さはそれよりもはるかに深刻な問題だ」(同報告書)
■ビンラディン容疑者の新情報も
報告書には、米軍主導で行われた2001年のアフガニスタン侵攻を逃れ、2002年の春から夏の間にパキスタンに入った後のビンラディン容疑者の生活についての新しい情報も書かれている.
ビンラディン容疑者は、2005年8月にアボタバードに移り住む前は、パキスタン北西部のスワト(Swat)地区やハリプール(Haripur)地区に潜伏していた.アフガニスタンとの国境に近い他の地区にいたこともあるとみられている.
報告書によると、ビンラディン容疑者に主な支援ネットワークを提供していたパキスタン人2人のうち既に死亡した男性の妻は、スワト地区でビンラディン容疑者らと一緒に車で移動していたときにスピード違反で警官に止められたことがあったが、この女性の夫が「すぐさま警察官と話を付けて」、そのまま車で移動を続けたと証言したという.
ビンラディン容疑者の妻たちの証言によると、同容疑者は屋敷を歩き回るときには気付かれないようにカウボーイハットをかぶり、病気になればアラブの伝統薬を使って自分で治療していた.また元気が出ないときはチョコレートやリンゴをつまんでいたという.
■「東パキスタン分離以来の屈辱」
一方でISIは、ビンラディン容疑者がアボタバードに移ってきた2005年に同容疑者の捜査を打ち切っている.パキスタン政府は、同容疑者が恐らくパキスタン国内に潜伏しているという外国からの通報を真剣に受け止めることも、同容疑者の潜伏に軍が関与した疑いを検討することもなかったという.
ビンラディン容疑者が住んでいた変わった形の邸宅は、通常ではない警備が敷かれ、インターネットも通じておらず、鉄条網が張られ、訪れる人や車もないなどといった変わった点があったにもかかわらず、パキスタン当局は6年近くもこの住居に関心を持つことはなかった.この邸宅にいる人は25人を下回ったことはなかったにもかかわらず、住居調査で無人の家とされていたのは「驚くべきだ」と報告書は述べている.
報告書は、これらの変わった点をきちんと調べていれば、米軍がパキスタン国内で軍事作戦に踏み切るという結果にはならなかったかもしれないと指摘し、米軍によるこの作戦はパキスタンにとって、東パキスタンがパキスタンから分離し、バングラデシュとして独立した1971年以来「最大の屈辱」だったと述べた.【翻訳編集】
AFPBB News
パキスタン調査委「当局は無能」、ビンラディン殺害の報告書で
2013/7/9 14:45 ロイター
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130709-00000048-biz_reut-nb
[イスラマバード 8日 ロイター] - 国際武装組織アルカイダの元指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害をめぐるパキスタンの報告書が流出し、その中で同国の情報当局や治安当局が「無能」だったと批判されていることが明らかになった.
パキスタン政府は、2011年に米特殊部隊がビンラディン容疑者を殺害した直後、裁判官らで構成される委員会に報告書の作成を委託.委員会は容疑者の親族や当局者ら201人からの聞き取り調査を行い、同容疑者のパキスタン入国や国内での移動、殺害をめぐる状況などをまとめた.カタールを拠点とするテレビ局アルジャジーラが8日に内容を明らかにした.当局による公開はまだ行われていない.
報告書によると、ある時はビンラディン容疑者の乗った車がスピード違反で警察に止められたが、側近が問題を解決して拘束を逃れたことがあった.また空からの監視で発見されるのを避けるため、容疑者はカウボーイハットをかぶって潜伏していた邸宅内を移動していたことなども、容疑者の妻の話で明らかになった.
報告書はまた、米国の殺害作戦実行は「違法的だった」とし、「米国は犯罪集団のように行動した」と批判.パキスタン当局についても、自国での米中央情報局(CIA)の活動を察知できなかったと非難した.
同委員会によると、ビンラディン容疑者は2002年にパキスタンに入り、北部ハリプールなどで生活した後、05年に北部アボタバードに移った.また、妻たちは、容疑者の所持品や衣類が非常に少なかったと話したという.
ビンラディン容疑者は2011年5月2日、潜伏先のアボタバードで殺害された.パキスタン側はこの殺害作戦について知らされておらず、同国と米国の外交関係が悪化する原因となった.
■インド軍の編制
インド軍の編制は次のとおり.
陸軍
・南方集団(12、21軍)
・東方集団
・西方集団
・中央集団
・北方集団(14、15、16軍)
・訓練教義集団
・南西集団
海軍
・東方集団
・西方集団
・南方集団
空軍
・東方航空集団
・西方航空集団
・中央航空集団
・南西航空集団
・南方航空集団
・航空教育集団
・整備集団
■トルコ首相「クーデターは民主主義の敵」=エジプト政変を批判
エジプトで、イスラム原理主義系政治勢力の大統領が権力を剥奪されました.
広く伝えられているところですね.
前日に、権力剥奪後の工程表を軍が世界に公開していたこともあってか、
「予定通りの権力交代がスムーズに行われた」との印象を受けます.
現在のエジプト国軍最高司令官は、国防大臣 アブドル・ファッターフ・アッ=シーシー陸軍大将が兼任、参謀総長は、シドゥキー・ソブヒー・サイード陸軍中将が務めています.
なお、複数報道を総合すると米は、エジプトとの軍事協力関係強化を
図ってゆく方向にあるようです.
さて関心の焦点は周辺国への波及でしょう.
「民主化なんたら」というマグレブから中東にかけて先年起きた政変騒ぎは記憶に新しいところです.
もっとも注目すべきは、5月末から反政府デモがつづくトルコの動向と考えます.
時事によれば、トルコのエルドアン首相は5日、「立場はどうであれ、クーデターは悪い.民主主義は投票によってのみ築かれるものだ」と強調しています.イスラムへの傾斜が強いとされる現政権は、国軍によるクーデタを相当恐れているようです.
さて、エジプトときけばいつも思い出す話があります.
■面の皮の厚さ
随分前に読者さんから頂いたメールで、概略は次のとおりです.
・エジプトという国は、中東・アフリカの盟主として、自他ともに認める活動を行なっている.
・ところがこの国は、石油が出るわけでも、カネを持っているわけでもない.
・そんな国がなぜ、これだけの存在感を持っているのが不思議で仕方なかった
・あるとき、その理由のひとつがわかった
・それはエジプトが、第四次中東戦争開戦日(10月6日)を戦勝記念日の祝日とし、国民の士気を盛り立てるための各種イベントを1ヶ月近くも行っていることだ
・ところが世界の誰もが、第四次中東戦争でエジプトがイスラエルに勝ったなんて思ってもいない(笑)
・ではなぜエジプトはこういうことを行なっているのか?それは「国益」のためなのである.
・エジプトは、自国をイキイキさせるため、こういうかたちで歴史を活用しているのだ.
・わが国もエジプト同様、資源のない国.良い意味で「アジアの盟主」になるには、エジプトのような歴史を活用する面の皮の厚さを取り戻す必要があるのではないか?
・アジアの盟主の座を狙う中共は、面の皮の厚さという点だけみれば十二分にその資質を備えている
というものです.
国による歴史の活用法のキモは、まさにここにあるという印象を持ちます.
正義とか真実とか事実とかいった、
情緒的・イデオロギー的判断で、
国は歴史を取り扱っちゃあいけませんよね.
その意味で、正義とか事実とか真実とかいうことを声高に主張する
「特定の立場に拠る」歴史は感心しません.
イキイキした活力ある国を作る.
そのための歴史なんです.
歴史といえば、
エジプト絡みでは過去にこんな記事もお届けしてました
■軍事情報 第295号 (最新軍事情報) 平成19年(2007年)5月7日より
<●ムバラク大統領のコメント
安倍首相と二日に会談したエジプトのムバラク大統領のコメントです.
1.世界の主要国はイランの核保有を認めないだろう.イスラエルまたはイラ
ンの核計画により、中東の核不拡散体制が崩れれば、核兵器保有に向けた軍拡
競争がはじまり、危険な結果を招く
1.中東の諸問題を解決するキーはイスラエル・パレスチナ和平交渉を進展さ
せることにある.イラク安定化、イランの核を巡る緊張を和らげることにもつ
ながる.和平が進まないことへの怒りと不満がアラブ・イスラム世界に広がり、
過激派を助長している.パレスチナ国家の樹立がまず必要だ
1.安倍首相の訪問は新しい友好メッセージだ.戦略対話で覚書に調印する.
円借款供与に感謝する.首相同行の経済ミッション(日本経団連メンバー)に
は、エジプトの経済発展を理解し、投資を検討して欲しい.>
(軍事情報 第295号 (最新軍事情報) 平成19年(2007年)5月7日)
こんな記事もありました.
■軍事情報 第294号 (最新軍事情報) 平成19年(2007年)4月30日より
<●トルコ軍が異例の声明発表
二十七日深夜、トルコ国軍は当日行われた大統領選について以下の声明を出し
ました.
「大統領選で政教分離の世俗主義が問われていることを懸念している.
必要とあれば、我々の態度を明らかにする」
イスラム化政策を掲げる与党「公正発展党」のギュル外相の大統領当選がほぼ
確実といわれています.これが実現すると、国家の顔である大統領と首相のい
ずれもがイスラム色の強い顔ぶれになるという状況が生まれます.
軍声明を受けた政府スポークスマンは二十八日、
「軍は首相の指揮下にあり、政府に反対する声明を出すことは民主国家ではあ
りえない」と反論しています.
⇒トルコは中東のイスラム国ですが、他のイスラム国と比べて宗教色が非常に
薄いです.これは、トルコ建国の父で国民的英雄「ケマル・パシャ」の強い指
導力により作られた「世俗主義」に基くものです.
ケマル・パシャは軍人で、第一次大戦では指揮官として英軍をダーダネルスで
撃退し、トルコ近代化の原動力となった人です.我が国の明治維新の志士を尊
敬していたケマルは「近代化には宗教と政治の分離が不可欠である」との信念
に基き、強硬な反対を押し切って宗教勢力が政治に介入するのを防ぐ仕組みを
作りました.
これがいわゆる「世俗主義」で、トルコが持つ独自性の基盤となっています.
国防上不可欠といえる米との密接な関係も、「戦略的要衝という地政学的要件」
と「世俗主義による政治的フリーハンドの維持」の二点で担保されているとい
えます.また軍でケマルは、今でも崇敬の対象となっています.
軍は過去三度クーデタを起こしており、
九十七年には、イスラム政党から誕生した首相を辞任に追い込んでいます.>
(軍事情報 第294号 (最新軍事情報) 平成19年(2007年)4月30日)
歴史を振り返ると、一流の軍人はいい言葉を残していますね.
■マンシュタインのことば
どんな組織でも通用することばです.あらためて味わいたいものです.
「将校には4つのタイプがある.
第一に、怠惰で無能なタイプ.これは放っておいても害にはならない.
第二に、勤勉で有能なタイプ.このタイプはどんな細かいことでもきちんと分析する
優秀な参謀になる.
第三に、勤勉で無能なタイプ.このタイプがいちばん始末に負えないので、即座に
除隊を命じなければならない.
第四に、有能で怠惰なタイプ.このタイプを最高の位につけるのがよい.」
《エーリッヒ・フォン・マンシュタイン[ドイツ将校団について]》
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
ドイツ国防軍の元帥陸軍大将.第二次世界大戦におけるドイツ軍最高の将軍と評された.
■こんなことばもいかがでしょう?
マンシュタインではないですが、鋭い言葉です.
わが国:「軍事=他人(ひと)事」、外国:「軍事=自分事」
わが国:「国防=(国の)アレルギー」、外国:「国防=(国の)エネルギー」
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
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2013.7.8
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