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ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
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目次
** 【追記】
◆斉藤之幸『島津いろは歌,西郷・大久保・稲盛和夫の源流』を読み解く
※要旨
・「島津いろは歌」とは,島津家中興の祖,島津忠良(日新公)が,
それまでの人生体験,知恵などをいろは47首の歌に詠んだもの.
忠良は,関が原の戦いで,敵中突破を敢行した島津義弘の祖父にあたる.
・「いろは歌」は郷中教育の聖典.
薩摩島津藩には郷中教育という,他には見られない独特の教育制度があった.
薩摩武士を薩摩武士らしく,理屈よりも行動力を重んじ,命よりも名を惜しんだ.
彼らは質実剛健を旨とし,団結心に富み,反骨精神の旺盛な薩摩武士道は,
この郷中教育から育まれていったといってもよい.
・江戸時代を通じて連綿と続いたこの郷中教育は,やがて幕末に至って大噴火となり,
西郷や大久保らの維新の元勲から,大山巌や東郷平八郎ら日清日露戦争の大立者まで,
多くの有能の士を輩出して,新生日本を形成した.
・この郷中教育において聖典としての役割を果たし,薩摩武士の精神的支柱となったのが,
日新公の「いろは歌」である.
・「いろは歌」は,日新公が島津一族を統一して一息ついた頃,学んだことやそれまでの人生体験,
およびそこから得た知識や知恵をいろは四十七首の歌に詠んだもの.
内容は人としての道,人の上に立つ者の心得を始めとして,武門のこと,
上下の親睦,学問修養,交友関係,さらに博愛のことにまで及んでいる.
・その精神,思想は儒学や仏教,神道から取り入れたものが多いが,
決して精神思想に止まることなく,行動する武人としての公らしく実践的活動的であり,
躍動的であることを特徴している.
・はっきり言って,人心掌握に要諦などない.
あなたが現場に飛び込んで,焼酎でも飲み,焼き鳥をつまみながらあなた自身の考えをひたすら説くことこそが大切だ.
お金も時間もかかるが,それしか方法は無い.
・いろは歌の主な内容
1.下手だからといって自ら投げやりになるようではいけない.
どんあ稽古事でもそうだが,「塵も積もれば山となる」という言葉のとおりなのだから.
2.少数の兵だからと敵を侮ってはいけなし,多勢だからと恐れてはならない.
3.国や地方の政治とか,それを行うための定め,法令などは,
まず人々によく教え習わせるようにせよ.
4.昔の聖人や賢人の教えを聞き,学び,暗唱しても,それを自分の行いとして実践しなければ価値がない.
※コメント
戦国時代の武士は凄いと感じる.
日々,戦に明け暮れながら,和歌を作ったり,書を読みながら教養を高めている.
逆に,そういった文武両道の武将達が,今でも名を残すことになっているのだろう.
◎国際インテリジェンス機密ファイル
のバックナンバー・停止はこちら
⇒ http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2012年7月3日 火曜日 午後12:40
** 【追記】
From:家村和幸
件名:日本の国防 ─ 本土決戦準備から学ぶべきもの
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軍事情報別冊
本土決戦準備の真実 −日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか−(最終回)
わが軍はなぜ,本土決戦に水際撃滅を採用したのか?
希少な資料・プロとしての知見を通じ,元2等陸佐がその経緯を
解明します.過去の歴史からいかに養分を吸収するか?の
お手本としてご活用ください.
2012年(平成24年)9月21日(金)
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このEメールは,まぐまぐで購読手続きを行った方,または
おきらく軍事研究会からの直接配信を希望する,とのお申し出を
いただいた方に対してお送りしています.
今後受け取りたくない場合は,
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
より
解除手続きを行ってください.
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▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜
・・・第5航空艦隊は,全員特攻の精神をもって今日まで作戦を実施
してきたが,陛下の御発意により終戦のやむなきにいたった.
しかし,本日只今より,本職先頭に立って沖縄に突入する.・・・
(昭和20年8月15日午後4時半,22名の同行隊員に与えた訓辞)
宇垣 纏(海軍中将,初代第5航空艦隊司令長官)
・・・貴官らの気持ちはよくわかるが,今はただ,陛下の思し召しに
沿い,皇軍の潔さを米国軍民に示すべきではないか.私は第5航空艦隊
の総力をもって終戦平和に努力する決意である.不都合と思う者が
あれば,この私をまず血祭りにあげてからにせよ.・・・
(昭和20年8月16日,着任の日に長官室にて)
草鹿龍之助(海軍中将,第二代第5航空艦隊司令長官)
・・・君たちはおそらく復員したら自分たちが頑張って,焦土と
化した日本を復興させるのだ,と意気込んでいることと思う.
(中略)君たちが内地に上陸した時,お母さんの膝の上に抱かれて
お乳を飲んでいる赤ちゃんを大事に立派な日本人になるよう育てて
欲しい.その赤ちゃんがきっと将来日本を復興させてくれると思う.・・・
(昭和21年1月7日,絞首刑が執行される一ヵ月半前,マニラの
既決犯収容所にて)
山下奉文(陸軍大将,第14方面軍司令官)
日本兵法研究会の家村です.それでは,本題に入りましょう.
これまで皆様とともに,国土防衛を担ってきた先人たちの苦心の跡
を訪ねてまいりましたが,最終回である今回は,こうした本土決戦
準備の史実を踏まえて我が祖国日本が目指すべき国防のあり方に
ついて私見を述べさせていただきます.
半年間にわたりご愛読,誠にありがとうございました.
▽ 昭和天皇の大御心と沖縄作戦 ─ 日本陸軍を水際撃滅に帰結させたもの
大東亜戦争終戦から六十有余年の歳月を経て,占領体制から真に
脱却することを余儀なくされている今日,大東亜戦争末期の日本陸軍
から新たな国土防衛体制を創造するための何かを真剣に学びとるべき
時期に来ているといえるだろう.
本土決戦準備を本格的に開始した昭和20年初頭,国内に所在する
わずか13コ師団という微弱な戦力から水際撃滅を断念した大本営
陸軍部は,沿岸部後方の堅固な地形を利用して敵の内陸侵攻を阻止し,
その間に全国から決戦戦力を機動集中して攻勢に転移するという,
かつてメッケル少佐が考えていた戦術に依らざるを得なかった.
しかも,陸軍省は独断で信州松代に政府・大本営の地下坑道施設を
構築しており,昭和20年3月上旬までは大本営陸軍部も止むを得ない
場合の「内陸部における持久戦」を想定していた.しかし,
東京大空襲による都民への甚大な被害をご視察された昭和天皇は,
御自ら国民と最後まで危難と苦悩を共にされる決意をなされ,帝都
東京を離れ給うことをお許しにならなかった.この昭和天皇の大御心
により,大本営陸軍部にとって「帝都固守」以外の選択肢は無くなった.
その後の三次にわたる兵備下令により,人的戦力は45コ師団+21コ
独立旅団にまで充実し,水際撃滅の可能性が増大した.しかし,同時
に島嶼作戦からの教訓に基づく築城作業もますます尖鋭化し,
下総台地を始めとする沿岸部の後方地域に地下深く「洞窟式拠点陣地」
が構築されつつあり,大本営陸軍部もこれまでの作戦準備の経緯に
引きずられて容易に作戦思想を転換できなかった.こうしたなかで,
従来の作戦思想の是正を余儀なくしたものが「沖縄作戦の教訓」
であった.沖縄作戦は,軍と住民が混在する中での作戦・戦闘の困難
さや非戦闘員である老人・婦女子をも巻き込む「国土戦」の悲惨な
実態を大本営陸軍部に突きつけ,「我々は何を護るための軍だったのか」
という素朴な疑問を良識ある軍人たちに投げかけた.
そして,孤島における作戦とは異なり,本土には決戦場としての
「地の利」が存在すること,特に「策源における戦い」という自信は,
急速な人的戦力の充実や特攻戦法の予想以上の効果と相まって,終戦
直前には水際撃滅を徹底して追求する新たな作戦思想への転換を実現
させた.第一線部隊に対しては,これまで営々として築き上げた陣地
の放棄を命ずるため,大本営陸軍部は,総軍司令官以下「自己健存
思想」の一切を打破して水際部で戦い,「一兵の存する限り,背後に
ある大和民族を最後まで護る」という覚悟を表明したのであった.
▽ 究極的に護るべきもの ─ 『日本の国體(国体)』
日本陸軍が85年の歴史を閉じる最後の戦いにおいて,国土・国民
を背にして,水際にて全軍が討ち死にする覚悟を固めてまで護り抜こう
としたものは何であったのか・・・.
昭和20年8月上旬の日本陸軍の戦略は,上陸侵攻する米軍に
対して,空海陸からの特攻作戦と,「水際における必然的弱点」を
突いた攻勢に次ぐ攻勢で米軍兵士に多大な出血を強要して米国民の
戦争継続の意志を失わせる.そして,米国との停戦交渉により
「ポツダム宣言」において不明確であった「天皇の国家統治大権」
の存続を米国に認めさせることであった.つまり,日本陸軍は,
その最期に自らの命に代えて『日本の国體(国体)』を守り抜こう
としたのである.
「国體(国体)」とは,「領土・国民・主権」といった一般的な
国家の構成要素に加え,国家の外的側面と内的側面を兼ね合わせた
国家観である.国家の外的側面とは,制度・組織・機構・権力
構造・・・等として客観化して認識でき,知性で捉えることが出来る
物質主体の側面であり,これを「政体」と呼ぶ.これに対して国家の
内的側面とは,一つの「いのち」であり,価値であり,それを味わい,
感じる以外にはつかむ方法がない,言い換えれば我々の愛すべき対象,
誇りの源泉となりうる精神や魂といったものを主体とする側面である.
国家が「いのち」であればこそ連続性・永続性といった縦の世界を
備えており,その基盤の上に共同体としての同胞意識といった横の
世界が醸し出される.
我が国に対する脅威がいかに複雑・多様化しようとも,我われが
究極的に護らなければならないものは,この『日本の国體(国体)』
である.それは,具体的には「天皇陛下を中心に国民が一つの家族の
ように協力し,助け合って生きてきた,悠遠の神代より今に伝わる
日本の国柄」であり,それを構成する大和民族,すなわち天皇・皇室
と日本人の命,そしてイザナキノミコト,イザナミノミコトの二神が
生み給いし「大八洲」すなわち多くの島々からなるこの美しい国土と
海である.
残念ながら,この『日本の国體(国体)』の中核をなす「天皇の
国家統治大権」は,戦後GHQが起草した「日本国憲法」と称する
「占領統治基本法」により「国民の象徴」というあいまいな状態に
貶(おとし)められたまま,現在まで放置されている.まずは日本人
自らの手で新たな憲法を制定し,これに「天皇の国家統治大権」を
明記することは,真の戦後復興を成しとげる上で喫緊の課題である.
▽ 『日本の国體(国体)』を護持するための「教育」と「国防」
この世界に誇るべき『日本の国體(国体)』は,「教育」と「国防」
の二本柱により護られるものである.占領下でGHQが起草した
「日本国憲法(占領統治基本法)」を放置したまま,経済復興を
何よりも優先し,その裏でないがしろにしてきた「教育」と「国防」
をいかに自らの手で取り戻すか.これらを達成してこそ,真に
『日本の国體(国体)』が護持され,「戦後復興」が完結するのである.
「教育」で特に重要なのは,正しい国史と修身を教えることである.
しかしながら,戦後一貫して日本の学校教育は,日教組を始めとする
左翼・共産主義者らにより,むしろ「国體(国体)破壊」の手段に
されており,今や惨憺たる状態である.国防についても,国軍不在の
擬似国家として他国に領土を侵食され,国民を拉致されたまま,何ら
なすすべも無く虚構の平和を謳歌してきた.これからの日本がこうした
現状を打破して真の独立主権国家となり,『国體(国体)』を護持する
ためになすべきことは,「国境警備隊の創設」,「国軍の再建」そして
「武士道精神の涵養」の三つに集約されるだろう.
つまり,列国並みの国軍と国境警備組織を保持し,四面環海の島国
である日本にふさわしい国防体制を構築するとともに,我が国の歴史
と伝統に根ざした武士道の精神を,軍民を問わずより多くの国民に涵養
することにより,世界に恥じざる「道義国家」を目指すことは,教育と
国防の両面から成し遂げるべき重要な課題である.
▽ あらゆる脅威を水際で排除する国境警備体制の確立
日本の国防上重視すべき軍事戦略は,「あらゆる脅威を水際で排除
する国境警備体制の確立」,「攻守バランスの取れた軍事力の保持」,
すなわち大規模な軍事侵攻に際して国土の戦場化を最小限に抑える
統合防御力の整備,奪われた国民・国土を奪回するための統合攻撃力
の保持,さらには独自の核抑止力の保持である.
国境警備体制に関しては,日本の歴史を見ても国外からの脅威が
顕在化した時代には,防人,異国警固番,屯田兵などのように,国境
警備こそが「国防」の主体であった.幕末から明治初期にかけての
「海防」も同じである.特に脅威の形態が軍事と非軍事の境がない
複雑多岐な様相を呈しつつある現代の国境警備には,列国と同じよう
に軍隊と警察の中間レベルの「国境警備隊」を持つことが極めて重要
である.
北朝鮮による拉致や潜入工作活動を見ても,34,000キロの海岸線を
持つ我が国で漁船やレジャーボートに偽装した工作船,あるいは特殊
な水中船を使用して1人,2人と入ってきている.こうした工作員や
ゲリラを軍隊により発見・阻止することは,軍本来の任務や編成・装備
からは非効率であり,国境警備隊のような軽武装の準軍隊組織を平素
から全面展開しておく必要がある.
このため,現有の海上保安庁に警察の機動隊,陸上自衛隊の普通科
部隊と海上自衛隊の地方隊などを合体させて早急に『国境警備隊』を
創設する.これにより,排他的経済水域(EEZ)境界及び領海外縁
の警備体制に万全を期すとともに,尖閣諸島や与那国島,対馬,
沖ノ鳥島,南鳥島といった国境離島を優先して陸上部隊を配備する.
その後,数年かけて組織を整えながら全国の離島や本土の水際部の
警備体制を完成させるのである.
国境警備隊の主要任務は「国境の警戒・監視」「領海・領土侵犯対処」
「不法操業,不法出入国,密輸の取り締まり」「緊急時における沿岸
重要施設・物件の警備」「領域内における国民の生命・財産の保護」
などである.このため,偵察衛星,高高度偵察飛行船,海中センサー,
暗視カメラや監視哨(目視・レーダー)など各種手段による監視網と,
巡視船・巡視艦,無人偵察機,無人潜航艇や車両巡察などによる警戒,
そして中央の警戒監視統制センターで,二十四時間の国境警備体制を
維持するのである.
国境警備庁は国防省とは別組織であるが,大規模な武力侵攻事態に
際しては国防大臣の指揮下に入る.ただし,国境警備情報については,
常に国防省の統合ターゲティング(射撃目標管理)システムにリンク
させることにより,あらゆる形態の侵攻に対して常に正確な目標情報
を取ることができ,必要とあれば,そこに軍の精密誘導爆弾やミサイル
がピンポイントで飛んで来て,百発百中で撃破する.このように
『国境警備隊』は,平時と有事を問わず我が国の「前哨線」を構成して,
タイムリーに国防軍が必要とする目標情報をキャッチすることにもなる.
▽ 政権の「暴力装置」にならない「国軍」の再建
「国軍」とは,国家元首に統帥権が帰属する軍隊である.日本陸海軍
は天皇が統帥する「国軍」であり,それゆえ予算や編成などの「軍政」
に関しては政府や国会の統制を受けたが,「軍令(作戦指揮)」に
関しては時の政権により左右されること無く,自国民の保護や救出の
為にも自らの意思で,常に「いつ,どこへでも」出動することが可能
であった.
これに対し,「政体」を守るために人民や他民族を武力で鎮圧したり,
軍事力を威嚇手段として濫用するような軍隊,すなわち中共や北朝鮮の
ような一党独裁国型の軍隊は,「国軍」ではなく政権の「暴力装置」で
ある.このような組織は我が国の『国體(国体)』には合致せず,
存在してはならないが,「日本国憲法(占領統治基本法)」第9条の
下でやむなく創設された自衛隊は「国軍」ではなく「武装官庁」であり,
統帥権が内閣総理大臣という「政治家」に帰属するという面では,
むしろ武装警察軍,あるいは党の軍隊である赤軍や人民解放軍に近い
性格を有する.領土問題や北朝鮮による日本人拉致事件などが,
何の進展も無く放置されてきたのも,「国軍」が存在しないため,
実力に裏付けられた強力な外交が展開できなかったからである.
こうした現実を直視し,「日本国憲法(占領統治基本法)」を破棄
して「国軍」を再建しなければならない.この際,統帥権に関しては,
革命性を帯び,あるいは外国にコントロールされた政権ができても,
その「暴力装置」とならずに,あくまで日本の『国體(国体)』を
護持するために行動しうるように統帥権(最高指揮権)を「国家元首」
に帰属させねばならない.国軍再建の根本義とは,「天皇の国家統治
大権」を明記した新たな憲法の下で,「兵馬の権(統帥権)」を明治
維新と同様に国家元首たる天皇陛下にお返しすることに外ならないの
である.
国軍の再建にあたっては,統帥権の所在のほかにも,軍種の構成を
どうするか,国民の兵役義務(あるいは国境警備義務),さらに列国
並みの予備役制度や民兵の充実も考えなければならない.軍種に関して
いえば,陸海空軍だけではなく,戦略ミサイルや地対空・地対艦
ミサイルなどを一元的に運用するミサイル軍,また島嶼奪回や拉致
被害者救出などの作戦を遂行するためには,強襲上陸が可能な海兵隊
も不可欠であろう.いずれにせよ,各軍種の垣根を越えた統合作戦の
ための司令系統や指揮・通信・統制のシステムを平素から構築して
おかなければならない.
予備役制度に関しては,現状の予備自衛官制度のような微弱なもの
ではなく,実効性ある予備役制度の整備が急務である.主として
大規模かつ本格的な武力侵攻に備える陸軍部隊の多くは,予備役を
主体とした組織とし,列国並みの数十万から百万単位の予備役軍人
を常時確保しておくとともに,震災や津波などの大規模災害に対処
するため,これらの即応性を高めておく必要がある.これに加えて
国民参加型の国防政策として民間防衛組織の検討も必要となるだろう.
▽ 攻守バランスの取れた軍事力の保持
大東亜戦争終戦から半世紀がすぎ,狭い平野部に宅地や市街地が
集中して稠密(ちゅうみつ)化し,道路・鉄道,ライフラインその他
の重要なインフラがひしめいているこの国土を戦場にして,敵味方の
陸軍どうしが大々的に作戦することはありえない.もはやこの国土は
戦場にはなりえず,戦場にしてはならないのである.それゆえに
大規模な軍事侵攻に対しては,国土を戦場としない,やむをえない
場合も最小限に抑えるだけの「統合防御力」を整備すべきである.
国土は戦場ではなく,守るべき対象であるというのが,水際撃滅に
帰結した日本陸軍の「遺言」でもある.
四面環海の我が国土防衛の勝ち目は,まず敵の上陸侵攻部隊が
洋上及び空中にある段階で叩き,次いで着上陸前後の段階で叩くこと
にある.すなわち,我が敵よりも早く組織的な戦力を発揮して,
敵に戦力を組織化させないことである.こうしたより前方で,
より早期に敵を撃破することを日本の国防戦略とすべきである.
現代戦では,海からの侵攻と並行して空挺やヘリボンによる空から
の侵攻が大規模かつ広域に行われるが,我の戦力発揮が早ければ
早いほど,局地的に少ない戦力でこれらを制することができる.
この機を最大限に捉えて敵に大打撃を与えるため,命中精度のきわめて
高い対空・対艦ミサイルを集中的かつ効率的に指向しなければならない.
このため,平素から軍種の垣根を越えた警戒監視体制を整えるとともに,
統合ターゲティング(射撃目標管理)システムによる形而上下にわたる
協同連携の完成を図っておくのである.
こうした統合防御力に加えて,奪われた領土や国民を奪回し,
さらに領域や国民の生命・財産に対する侵害を抑止するための
「統合攻撃力」を保持する必要がある.これは,必要に応じ威嚇と
報復,そして先制攻撃ができる軍事作戦能力のことである.
すでに敵手にある我が国固有の領土や日本国民を取り戻すには,
潜水艦などから敵地に隠密潜入して行動する特殊作戦部隊を始めとして,
強力な空軍戦力と海兵隊,長距離爆撃が可能な対地支援戦闘機,
オスプレイ型垂直離発着輸送機,強襲揚陸艦などの着上陸戦闘用装備
が必要不可欠である.力で奪われたものは,力で奪い返すしかない
というのが歴史の必然であり,さらに,日本に手を出したら何をされる
か分からない,という恐怖感のみが北朝鮮の工作活動や中国人民解放軍
の南西諸島攻略を始めとするあらゆる侵攻を未然に抑止するのである.
第二次大戦末期の米軍編成を模倣して創られた陸上自衛隊の編成・装備
は,大挙して上陸侵攻した敵陸軍との「陸戦」を想定したものである.
しかし,上述したような空・海・陸で統合された戦力の重要性に鑑み,
これから編制される国防軍の陸上部隊は,陸地に国境を有する国の
ような編成・装備である必要はなく,装甲車による機動展開能力と
対艦・対舟艇戦闘や対ゲリラ戦闘に優れた数万人程度の常備軍を
主体とすればよい.そして,これを補完するため,「いざ鎌倉」と
あれば小銃一丁と携行糧食を背負って駆けつけ,数十万から百万と
雲霞のごとく集まる予備軍との二重構造にすべきであろう.
▽ 独自の核抑止力の保持 ─ 中国の軍事的脅威への対応
現代の日本にとって最大の脅威は,中国軍のアジア太平洋地域への
進出である.80年代に毛沢東の人民戦争戦略から近海積極防衛戦略
に転換した中国軍が,南シナ海の覇権獲得を狙う真の目的は,海底
資源,漁業資源などではなく,米国と対等に渡り合える軍事超大国
の地位を獲得することである.そのため,核ミサイルを搭載した
原子力潜水艦を聖域化した南シナ海に配備して米国本土を狙い,
核の第二撃力を獲得することを目指している.
中国が核の第二撃力を保持した暁には,日本に対する米国の核の傘
は,全くあてにならなくなり,我が国独自の核抑止力を保持せざるを
得なくなるであろう.このため,我が国も対中(朝)核抑止力として
核ミサイル搭載型の潜水艦を,実任務・訓練・整備のローテーション
を考慮して,最低でも3隻は保持する必要がある.日本が真に自立した
独立主権国家であり,日米同盟が米英関係と同レベルの堅実で信頼する
に足りうるものになれば,米国もまた,このような日本の選択を容認
するだろう.
▽ 特攻兵器をハイテク技術で「無人化」
本土決戦において日本軍が採用した特攻戦法は,敗戦を間近にし,
何もかも足りない最悪の状況下において採り得た唯一の戦術・戦法
であった.人命を兵器の一部として取り込んだ特攻戦法の思想について,
現代の人道的視点からこれを批判するのは簡単である.しかし,
国土防衛上求められる効果に対して,当時の軍事科学技術や兵員の
技量では,ここまでが限界だったのである.
これからの日本の兵器開発には,本土決戦にあたり先人が身を
もって達成しようとした敵艦船や輸送船団などに対する航空あるいは
水上・水中からの特攻戦法や,敵戦車に対する肉薄・挺身攻撃の
ような戦法を,現代のハイテク技術,ロボット技術を駆使して
「無人化」するという独自の視点が求められよう.
すでに開発・配備されている地対艦ミサイルは,いわば
「無人神風特攻機」であり,これと同様に無人特攻艇・無人潜水艇,
地上発射式魚雷システム,対戦車戦闘ロボットなどのような「無人化」
された特攻兵器を開発・装備することが人命を尊重しつつ島国日本を
護る有用なポイントとなろう.さらに,無人特攻艇・無人潜水艇など
は,平時においては,水上・水中における無人哨戒艇として国境警備
にも有効に活用できるであろう.こうした現代科学技術の叡智を
尽した新しい合理的な戦法を開発していくことこそが,特攻で散華
した幾多の英霊に報いる道である.
▽ 武士道精神の涵養
明治維新以降の日本が西欧の科学技術や思想を積極的に取り入れて
いく過程の中で,「和魂洋才(日本古来の精神を大切にしつつ,西洋
技術を受け入れ,これら二つを調和させつつ発展させていくこと)」
を叫びながら,実際には精神面においても西欧的なものに知らず知らず
のうちにのめりこんでいくことは避けられなかった.このことは,
プロシアのメッケル少佐から西欧式の用兵術を学んだ日本陸軍とて
例外ではなかった.
それでも,日清・日露戦争を戦った当時の将兵たちは皆,幼少時代に
武士としての教育を受けてきたサムライそのものであった.屍の山を
乗り越えて突撃を重ね,ついに難攻不落といわれた旅順要塞を陥落
させたとき,乃木将軍を始めとして,全ての将兵たちが明治天皇の
御命令とあらば,万難を排してこれを完遂する意気込みでいくさに
臨んでいた.このような明治時代の日本陸軍に「自己健存思想」の
ようなものが蔓延することはあり得なかった.
これに対して,大東亜戦争を戦った日本陸軍は,陸軍大学校を
優秀な成績で卒業した上級クラスのエリート将校たちによって
動かされており,しかも陸海軍内部に共産主義者や革命工作員が
入り込み,国家革新運動など本来の軍務からは縁の無い政治的活動
が盛んになっていた.このような昭和の日本陸軍では,中枢部や
上層部になるほど精神面において西欧的合理主義の影響が強くなって
いたことは,間違いないだろう.
帝都防衛を放棄し,国民の多くを見捨ててまでも信州・松代に
皇居と大本営を移転しようと画策し,あるいはインパール作戦に
おいて師団長が軍司令官の命令を無視し,友軍を見捨てて無断撤退
したことなどは,それが西欧流の「合理的」な判断であったとしても,
「君民一体」の美しい日本の国柄や,「君命に従わざるところなし」
とされた日本武士の精神からは,およそあり得ない考えである.
軍人のみならず,政治家,官僚,そしてすべての日本国民が
「強く,正しく,潔い」武士道の精神に立ち返ることこそが,日本の
国防において最も求められているのである.具体的には,軍・民を
問わずあらゆる教育機関や企業組織で武士道精神を身につける仕組み
を構築すべきであろう.校内での犯罪が組織的に隠蔽され,いじめに
よる自殺が多発しているような地に落ちて混迷を続ける現今の学校
教育を再生する鍵も,この「武士道精神」への回帰にしか見出すこと
ができないのではないだろうか.
▽ おわりに ─『道義国家』日本の再興
─
本土決戦準備において,日本陸軍がなぜ水際撃滅思想に帰結した
のか,この疑問を解くべく,日本陸軍が身をもって体験した唯一の
国土防衛作戦について半年間にわたり検証してきたが,最後に強調
したいことは,「今,そして将来の国防を担う我ら日本国民は,
帝国陸海軍人の延長上に存在するのであり,この精神的な
紐帯(ちゅうたい)を断ち切ってはならない」ということである.
天皇や首相の靖国神社参拝阻止,南京大虐殺や従軍慰安婦といった
捏造プロパガンダの展開でも明らかなように,日本の弱体化を狙う
国々は,ここにその攻撃の矛先を向け続けてきたという事実を直視
しなければならない.誠に残念なことではあるが,今なお日本を
敵対視することによってしか国家の存立を維持できない国々が周辺
に存在する以上,祖国日本の平和と独立を護るための戦いはこれから
も続くことを覚悟しなければならない.その戦いは,軍事と非軍事と
を問わない国家総力戦である.
我々日本人は,世界最古の『国體(国体)』を護持するという
道徳的正当性を強靭な後楯として,「正直で,元気よく,一生懸命
働き,世界中の範となる」国民・国家を目指すべきである.
国民一人ひとりが,自己を高めて人を愛し,それぞれの職業や役職
に応じた責任を確実に果たそうと務め,政府や国家リーダーたちの
あらゆる行動に全ての国民が等しく納得できる「道義」が存在し,
他国からのいわれ無き非難や理不尽な要求には毅然として対応し,
「強い力と正しい心」に支えられた『道義国家』日本を再興する.
これこそが,一握りの反日国家を除く世界中の国々が神国日本に
求めている「使命」なのである.
・・・偉大であるということは,偉大な戦いをすることである.・・・
ハムレット(イギリスの作家・シェイクスピア作の戯曲の主人公)
(おわり)
(家村和幸)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
⇒ http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
** 【追記】
From:荒木肇
2012年(平成24年)7月4日(水)
□はじめに
朝霞の「りっくんランド」に期間限定で,10(ヒトマル)式戦車が
展示されているとか.ご覧になった方々もおられるのではありませんか.
また,昨年は富士学校の創立記念日で,実際に走った様子をみた方も
おられるのでしょう.今年はいよいよ総合火力演習にも登場するようです.
61式戦車から74式へ,そして堂々たる重戦車の90式.
10式は重さでいえば,中戦車ですか.実際に両者を比べてみると,
そのコンパクトさに驚かされます.おかげだけではないのですが,
機動力の向上も素晴らしいものがあります.今週末の8日は例年より
はやい富士学校の創立記念日.私も朝早くから出かけます.
もし,お出かけになりましたら,ぜひ,富士学校のグランドの横に
あります「資料館」にもお立ち寄りください.3年計画の改修の
2年目になりますが,展示内容などもずいぶん変わっていると思います.
入校する幹部学生の皆さんへ,陸軍の様子を少しでも伝えられるように,
私もずいぶん口出しをさせていただきました.
ご覧いただいて,いろいろご意見,感想などもいただければ幸いです.
▼機動兵団視察団報告
関東軍と極東ソ連軍の「兵力格差」はすでに1937(昭和12)年
になると,師団数では6対20になった.戦車はすでに説明したわが軍
の機甲旅団対1500両,航空機も5個飛行戦隊(実質300機もなかったか)
対1560機とその差は開くばかりだった.
こんなことではどうなるのかと,焦っていたところへ時代の追い風が
吹いた.といっては語弊があるだろうが,北支事変の勃発である
(1937年7月7日).
チハ車かチニ車か.どちらも造って比べてみようといった議論で,
新中戦車の制式化は遅くなった.どう使うか,戦車はどういう戦い方
をすればいいか,はっきりとした方針がなかったらしい.そのことは
これまでで分かった.そんなところで,北支事変が起こったことで
事態は変わった.
一気に陸軍の経済状況は好転した.
予算はあまり心配しなくてよいとなったら,やはり大きいことはいい
ことだとなる.チハ車,すなわち97式中戦車が採用されることになった.
司馬遼太郎氏などにいわせると,「姿がいいだけで戦えない」と
酷評されるが,それは対戦車戦闘において,しかもソ連軍の戦車と
比べての話である.
さて,それでは,ちょっと時計の針を元にもどそう.
戦前の陸軍は情報収集にうとかった.世界の情勢を何も知らなかった
ように思っている人が多い.しかし,それは結果論であって,
実はけっこう情報を集めることには熱心だったと言わざるを得ない.
今も日本人は人の噂話が好きだし,ネットでも真相はこうだなどと
暴露合戦をしている.そういう国民性が急に出来あがったわけではない.
こんな島国にいて,大きな強国に挟まれている.人のことに関心が高く,
マスコミもそれで食っているようなものだ.こういう国民が情報を軽視
するわけもない.
第1次世界大戦のことも陸軍は多くの士官を派遣して調べあげている.
よく,世界大戦を経験しなかったから日本陸軍の火力戦への軽視が
起きた・・・などと,したり顔をする人がいる.冗談ではない.
経験しなくても,調査研究の結果,軽機関銃を先頭にした「浸透戦術」
(分隊ごとに敵陣を攻撃すること)は十分に実行しえていた.
重厚に構築された上海の中国軍陣地を,艦砲射撃,重砲の掩護射撃,
艦上機による空爆によって突破したのは日本陸軍である.
むしろ興味深い論評対象は,日露戦争の火力戦を十分学ばなかった
欧米各国軍だろう.彼らは世界大戦でも,機関銃陣地に白兵突撃をして
1日当たりで何万人もの兵隊を「壕の埋め草」にしてしまった.
どこの軍隊も,まず自分の失敗をもとにして何らかの改善をするものだ.
日本陸軍は1936(昭和11)年11月,「機動兵団視察団」を
ヨーロッパに送りだしていた.その報告がされたのは帰国後の,
翌年3月のことだった.
団長は戦車学校からは井上芳佐(いのうえ・よしすけ)歩兵大佐,
騎兵学校からは工藤良一騎兵少佐,陸軍省からは吉松喜三歩兵少佐
(のち,機動歩兵第3聯隊長になった.戦後,靖国神社に植樹を
しつづけた方である.戦車師団隷下の乗車歩兵聯隊を機動歩兵という.
機歩3は戦車第3師団の隷下だった)という顔ぶれである.
視察団長は井上大佐である.陸大33期卒業,この8月に大佐に
進級したばかり.のち,戦車学校幹事,戦車第5聯隊長,千葉戦車学校長
などを務めて最後には中将,第94師団長だった.
歩兵から戦車の指揮官になった,いわば生粋の戦車将校である.
彼らは東京を出発し,海路でウラジオストックに出る.
シベリア鉄道に乗りこんで,ポーランド,ドイツ,イタリア,フランス,
イギリス,ベルギーの各国を回った.軍隊や学校の見学,各国の機動兵団
の関係者などと会談し,資料を集めてきた.以下,その報告書に基づいて
加登川氏がまとめたものに考察を加えさせていただく.
▼ドイツの情勢
1935年にドイツは「再軍備」を宣言した.ただちに軍の機械化
を始めた.軍隊の配置はフランスやイギリスを刺激しないように
東方重視である.東南方に向けて大規模な機動戦を計画しているよう
にみえる.(この読みはたしかにあたった)
イギリスと同じく運動戦による速戦速決を主題にしている.
(資源がない国はみなそうである)ただし,イギリス軍が少数の高度に
機械化された軍隊を建設しようとしているのに対して,ドイツは広汎な
機械化で全軍の機動性を高めることをねらいとしている.
決戦的機動兵団としては,ドイツは乗馬騎兵師団を全廃して,
戦車を骨幹とする装甲師団を創りだした.戦車は再軍備直後には
装甲師団の骨幹をなす戦車旅団をもっていただけだが,歩兵側の要求
で直接協力用の必要も認められている.列強におくれて機械化に
着手したが現在は驚異的な発展ぶりである.
自動車製造数は1933年には前年の102%だったものが,
34年には220%をこえ,35年にはフランスをぬき去った.
▼ドイツに学ぶこと
機械化についての中央機関の創設,装甲部隊要員の養成,
準装甲部隊と見られる「ナチス」自動車隊の訓練,
自動車工業への振興助成,戦時にはただちに軍の修理工場に
転換できるような,予想戦場の後方においた自動車工場,
燃料およびゴム問題の解決,作戦用自動車道路の開設などの機械化を
推進し,機械化軍の能力を発揮させるためのふだんは見えにくい
諸施設である.
説明を加えよう.機械化についての中央機関としては,
わが国では陸軍機甲本部が発足したのが1941(昭和16)年
のことである.ただし,この本部も全軍の機械化を担当するというような
ものではなかった.機甲本部長(中将)は学校管轄の業務をもつ,
たしかに学校が4つもあった.戦車学校,騎兵学校,少年戦車兵学校,
機甲整備学校の4校である.この他の管轄業務とは,「戦車,装甲車,
牽引車の及び自動車の整備,機甲部隊,騎兵部隊,戦車を主体とする
諸兵連合部隊に関する調査・研究,それらの燃料に関する調査及び研究」
であった.とてものことに,中央機関というようなものではなかった.
「ナチス」自動車隊というのはSS(武装親衛隊)の装甲部隊の
基になった組織.昔,私のような素人にはここがよく分からなかった.
ヒトラー率いるナチス党は政党であり,武装した党の軍隊をもつことも
自由だったのだ・・・と納得したのはずいぶん軍隊について知ってからだ.
作戦用自動車道路開設というのはいまも有名なアウトバーンのことだろう.
燃料,およびゴムもドイツは困ったことだろう.わが国もなかなか
エンジンその他の潤滑油の問題,冷却系統のシーリング,パッキング
には苦労していた.技術があっても,資源が無い.わが国は技術も
追いついていなければ資源もない.「ふだんは見えにくい」諸施設,
設備についても,それにはなかなかおカネが回らない.3人の視察員
は絶望的な気分になったことだろう.
▼イギリス軍の様子
英軍は中近東での小戦,ヨーロッパ大陸で他の強国軍と協同しての
大戦を準備している.その展開予想地は,たいていが自動車の行動を
許すから,高度の機械化による運動性,機動性の増大で速戦速決を
考えている.35年以来,5カ年間の軍備充実計画では主に空軍と
陸軍の機械化を大切にしている.35年からは騎兵師団の編制を解いて,
戦車を骨幹として機械化騎兵(ただし馬匹なし),砲兵,工兵などを
結合した機動師団を編成した.
これまで戦車を野外決戦兵種としようとしたが,35年以来は
歩兵に協同する戦車の必要性は認めていて,重装甲戦車を実験中なのは
確実である.機械化はすすみ,将来は歩兵では小銃小隊長以下が歩くのみで,
他はみな自動車に乗るようになるのは確実という.
こうなったのも大戦以来,フラー,リデルハートといった先覚者がおり,
国民の間にも機械化構想は徹底しているからだ.
▼フランス軍の状況
フランス軍はどうか.フランスはマジノ要塞線を国境に築いた.
この線を確保する絶対守勢作戦を準備している.そこで機械化といっても,
機動力を増すより,優勢な砲兵火力と併用する重装甲威力を重視している
のが特徴になる.決戦的機動兵団としては一部を機械化した騎兵師団
をもっていたが,この年(1936年)には,その一部を装甲車を骨幹とした
軽機械化師団に改編した.
戦時には,騎兵師団,軽機械化師団,自動車化歩兵師団,ときによっては
歩兵師団などで騎兵大兵団を編成するとのこと.機械化師団と騎兵師団
の組み合わせは,ソ連軍とは違った行き方である.
フランスは世界大戦からこのかた,もっぱら歩兵用の兵器として
歩兵に直接協力する戦車ばかりを造ってきた.
それが戦車の統一的機動運用も考えて,快速重装甲の戦車を開発している.
優勢な火力と重装甲威力尊重だったフランスが路線変換する.
そして,視察団はフランス軍戦車の状況を報告している.30トン,
装甲45ミリ,75ミリ砲と37ミリ砲(もしや47ミリか?)それぞれ1,
機関銃×2,最大速度30〜35キロというB型重戦車.任務は敵陣突破,
対戦車戦闘,対戦車砲の撲滅,対砲兵戦と多様なものである.
また,統一機動に用いるのはD型中戦車,重量10トン,装甲は30ミリ以上
(40ミリに達するか?),最大速度は20キロ,47ミリ砲と機関銃×2.
そして,最新型のR35型は約10トン,最大装甲30ミリ以上,
37ミリ×1,機関銃×1,最大速度25キロ.
戦後に明らかになったそれぞれの実像をあてはめてみよう.
30トンのB型重戦車とはシャールB1bis重戦車のことだろう.
32トン,75ミリ,ただし18口径の榴弾砲,そして34口径の
37ミリ砲,機関銃×2,乗員4名,最大装甲厚はさすが60ミリである.
D型中戦車とは,ルノーAMR35軽戦車か.これは重量は6.5トンだから
装甲厚も13ミリでしかない.すると,ホチキスH35戦車を間違えたか.
これなら11.4トン,21口径の37ミリ砲と機関銃×1,最大装甲厚は
34ミリである.
▼ソ連戦車軍団について
大規模な機動作戦で速戦速決を期している.騎兵軍団,戦車軍団,
独立戦車旅団をもっている.騎兵師団以上には機械化部隊がついていて,
戦車軍団と旅団は強力な戦車隊を骨幹とする.最近のソ連軍「野外教令」
の改訂版では,優勢な空中勢力,強大な砲兵,戦車兵団と騎兵団によって,
立体的完全包囲による殲滅戦を強調している.現在,推定戦車保有量は
5000輌とされる.その物質的威力は断じて軽視できない.
解説しよう.ソ連においては歩兵直接協力か対戦車戦闘かなどという
議論はなかったようだ.機動兵団は絶対に必要なのだ.騎兵にはどんどん
機械化部隊をつける.馬糧や水を飲むために馬は馬を必要とする.
わが陸軍の場合,10頭の馬のためには3頭の馬が必要だった.
その3頭の馬のために1頭が必要である.この部分をトラック化するだけで,
十分,戦力は向上するのである.
歩兵隊の戦力向上には直接協力する戦車が要る.騎兵軍団のほかに
戦車を主体とした戦車軍団,自動車化歩兵を主体とする機械化軍団,
戦車旅団,歩兵軍団につける独立戦車旅団,それでも不足というわけか,
狙撃師団にも戦車大隊をつける.
▼ドイツ装甲師団の編制
「フランスの雑誌によれば」とことわり書きがついている.
1937年には6個となり,いずれ11個になるという.
師団司令部のもとには戦車旅団がある.旅団は連隊2個でつくられ,
各連隊は2個大隊.大隊は2個中隊からなり,軽戦車3個中隊と
中戦車1個中隊である.軽歩兵旅団もある.
軽歩兵旅団は現在でこそ連隊1個だが,将来は2個に増強の予定.
連隊は2個大隊とオートバイ大隊.各大隊には五個中隊.
ただし,オートバイ大隊の内容は不明.
各中隊はサイドカー,機関銃,砲の各1個小隊と2個歩兵小隊.
また,機械化捜索隊がある.これは4個中隊で,各中隊は装甲,
乗車歩兵,重小隊の各1個.重小隊とは説明されていない.
対戦車砲隊は3個中隊で各中隊は3個小隊12門.
合計36門の対戦車砲をもつ.これに軽砲兵連隊,3個大隊,
各大隊は軽榴弾砲3個中隊をもつ.そして,通信隊と工兵大隊が編制内に入る.
報告書はさらに大隊の編制の細部にもふれている.次回はそれを紹介する.
(以下次号)
(荒木肇)
☆ 編集・発行人:エンリケ航海王子(おきらく軍事研究会)
⇒ http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
** 【追記】
◆工藤美代子『岸信介伝・絢爛たる悪運』を読み解く
岸信介は,総理大臣として安保改定を実施.
安倍晋三氏のじいさんである.
※要旨
・1914年,中学を首席で卒業した岸信介は,
直ちに高等学校入学試験の準備のため単身上京する.
全国から秀才を集め,質実剛健の校風が憧憬の的となっていた当時の一高である.
・大正9年7月,岸は東京帝国大学を卒業すると,すでに内定していた農商務省に就職する.
・大学,それも一高,東大へ進んだ理由は,官僚を経て政治家になろうと早くから決めていたからだ.
・後世の評者はとかく岸を,「タカ派的権力」を駆使した裏金操作の名人,
というようなステレオタイプの尺度で測ろうとするが,どうもそう単純ではなかったようだ.
むしろ,一筋縄ではいかないしたたかな「裏技」を持っていたと考えたほうが理解しやすい.
・成績抜群だった岸がなぜ大蔵省や内務省でなく,いわば「二流官庁」と見なされていた農商務省を選択したのだろうか.
それは,大蔵省などは優秀なライバルが多いが,農商務省なら早く出世できる可能性があった.
皮肉なもので戦時経済を迎えるとにわかに権力の中枢に接近するのである.
入省間もない岸は逸材として評価され,ひときわ目立った存在として頭角を現す.
・岸の官僚としてのキャリアは,農商務省に入省し商工省のトップへと進んだ時代,つまり大正9年にはじまって,
昭和14年に商工次官に就任するまでの19年間,ということになる.
最後の3年間,すなわち昭和11年から次官就任の直前までは満州国実業部(産業部)で過ごす.
その19年間を語ることは,ほぼ日本の満州経営の実態と,日中戦争へ続く苦難の轍を追尾する作業とも重複するのである.
・キャリア組の中でも出世コースといわれる大臣官房文書課勤務の辞令を受けたのは,異例の早さといっていい.
そのときの文書課長・吉野信次が大正2年入省である.
岸はその吉野から信頼され,役人としての遊泳術など多くを吉野から学んだという.
・吉野は強面の上席として周囲から恐れられ,機嫌をとるのも難しいとされていた.
ところが岸だけは一度も雷を落とされたことがなかった.
吉野のお気に入り,というのではなく,岸の要領が上回っていたのだ.
・彼はいつでも吉野の部屋のドアを細めに開けて,室内の模様を密かに眺め,空気を察してから改めてノックをするようにしていた.
その判断が正確無比だったので,吉野のお天気模様の診断は岸に任されるようになり,やがて吉野・岸ラインと呼ばれるようになる.
状況判断に狂いがない,タイミングを計るのがうまい.
それが政治家の必須条件だとすれば,彼は天性の才を備えていた.
・満州では,権力と「濾過されたカネ」を手中に収めていた岸は,
血気盛んな少壮将校を連れて夜の宴席にも繰り出し,周到な気配りを見せた.
酒豪とはいえなかった岸が,軍人たちと料亭でうまく付き合ったというのは,
頭の回転や,座持ちの良さに加えて,学生時代から身に覚えがあった寄席通いの成果なども助けになったのではあるまいか.
・かつて岸側近のひとりである福家俊一は,
「岸さんは,同じ長州人の高杉晋作に知性をつけたような人物だ.
帝国大学の恩賜の銀時計(首席)をぶら下げたような晋作ということだ」とうまいことを言っている.
・ときに危険視されるアヘン密売者とのつき合いや満州浪人風情との飲食や,
芸者遊びも気にしない剛胆なところが,高杉晋作そっくりだったのは間違いないところだろう.
タフに接し,しかし証拠を残さない.
・「確かに満州では,単純なる官僚的な基準あるいは官吏道というものは外れていたね.
しかし,政治というのは,いかに動機がよくとも結果が悪ければ駄目だと思うんだ.
場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う.
これが政治の本質じゃないかと思うんです」
(岸信介)
・1957年,岸は内閣総理大臣となった.
・岸の書の腕前は抜群で,頼まれるとふたつと同じ書を書くことはなかった.
500以上の漢詩を諳んじていて筆に墨を含ませ,一気に書き上げるのだ.
※コメント
晩年,岸は「総理というのは,ほかの大臣になるのとは違って,だれでもなれるというものではない」と言っている.
実力だけでは務まらないのが総理大臣.
今一度,彼の言葉をかみしめたい.
◎国際インテリジェンス機密ファイル
のバックナンバー・停止はこちら
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2012年9月21日 金曜日 午前7:30
** 【追記】
From:長南政義
件名:ウィロビーの対中観
2012年(平成24年)9月20日(木)
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軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月,国連軍の敗北〜(29)
1950年11月に起きた「中国人民義勇軍の参戦に伴う国連軍の敗北」を
素材として,朝鮮戦争における「情報の失敗」を検討します.情報を
提供「された」側(高級指揮官や作戦立案者)だけでなく,情報を
提供「する」側にも,失敗への責任はあるのです.
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□前回までのあらすじ
中国の国益はモスクワの戦略目的と異なっていたにもかかわらず,
ウィロビーは共産主義陣営を一枚岩として見ていた.
その結果,ウィロビーは,中国の国家目的がソ連の国家目的とは
正反対であるにもかかわらず,中国がソ連の操り人形であり,
朝鮮戦争への中国の参戦にもソ連の承認が必要であると考えていた.
そして,ウィロビーのミラー・イメージングが1950年11月の
国連軍の敗北の原因の一つになった.
また,ウィロビー1人に責任を押し付けてきた先行研究とは異なり,
1950年11月の情報の失敗の原因となったミラー・イメージング
は,「情報提供者」であるウィロビー率いる極東軍司令部参謀部
第二部だけではなく,情報を要求する側である「カスタマー(政策
立案者)」の側にも存在した.
たとえば,ルイス・A・ジョンソン国防長官は,「1950年6月
の時点でソ連との戦争に巻き込まれるリスクを中国との戦争に
巻き込まれる可能性よりもより深刻に考える」との意見を持って
いた.また,ディーン・ラスク国務長官は,「もし,ソ連が世界戦争
を引き起こそうと決断しない限りは,朝鮮半島への中国の介入は
起こりえないと,強く感じていた」と証言している.
また,統合参謀本部は,1950年7月13日の報告書の中で,
「ロシアが共産主義者による世界支配計画の全く新たな段階に乗り
出したことは,韓国の情勢から今や明白となった」と述べている.
さらに,統合参謀本部は,この共産主義者による世界支配計画の
新たな段階が,ソ連の従属国が周辺国に彼らの意思を軍事的に
押し付ける性格を持つものであると考えていたのである.
▼「北京はロシアによる支援の確証がなければ宣戦布告をしない」(マッカーサー)
では,ウィロビーの上官であるマッカーサーは,中国の脅威をどの
ように認識していたのであろうか.
極東担当国務次官補ディーン・ラスクは,ウェーク島会談の際,
中国が朝鮮戦争に参戦する脅威に関しマッカーサーに特に意見を
求めた.マッカーサーは中国の選択について「ソ連の支援を算入
しなければならない」という条件を付けてコメントした.
ラスクによれば,中国が宣戦布告をするかどうかと尋ねられた時の
マッカーサーの反応は以下のようなものであったという.
「マッカーサーは,北京はロシアによる支援の確証がなければ
米国に対し宣戦布告をすると信じていなかった.マッカーサーは,
中国がジェスチャーで宣戦布告をするようなことはないだろうと
信じてもいなかったし,米国は宣戦布告を厳粛に受け止めなければ
ならないとも思っていなかった」
このマッカーサーの発言は,10月中旬の時点において,
マッカーサーが中国による介入の可能性をどのように理解していた
のかを雄弁に物語っている.
▼日中戦争史研究からウィロビーが得た知見〜中国軍の戦闘能力は貧弱である〜
では,ワシントンとマッカーサーに提出されたウィロビーの情報分析
は彼のどのような認識に基づいてなされたものであったのだろうか.
ウィロビーの最もひどい欠点の1つは,中国人を劣悪な戦闘能力しか
持たないものと見なしていた点である.ウィロビーはこのような偏見
を1937年から始まり第二次世界大戦終結まで継続した日中戦争に
おける中国軍の戦闘能力を観察することで有するに至った.
そして,中国軍の戦闘能力に関するウィロビーの意見は,彼が米陸軍
指揮幕僚学校の教官時代の間に研究した日中戦争研究を通じて形成
されたものであった.
ウィロビーの著書『戦争における機動』(Maneuver
in War)を
繙くと,この本には数的に劣勢な日本軍が数で優る中国軍を撃破した
多くの事例が引用され,機動戦の重要性が強調されている.
上海攻略戦および南京攻略戦に関する作戦を説明する際に,ウィロビー
は,日本軍が数的に圧倒的優勢を誇る中国軍を完全に撃破するために
いかにして陸海統合作戦を展開したかについて詳述している.
ウィロビーは,兵力数では日本軍に対し約3倍近くの優勢を誇る
中国軍を撃破するために日本軍がいかにして機動作戦を展開したのか
について細かく言及している.数的優勢と海外からの兵器支援を受けて
いた中国軍が,数的に劣勢な日本軍に完全に撃破された戦史の例証は,
ウィロビーが1950年に中国軍と戦火を交える可能性が出てきた
ときに,ウィロビーの脳裏に深い印象を植え付けており,これが
ウィロビーの情報分析に悪影響を与えることとなった.
▼ウィロビーによる台児荘の戦いの分析
日中戦争において徐州会戦で日本軍が中国軍の殲滅を企図し殲滅に
失敗したのは有名な話である.この徐州会戦の引き金となった戦闘
に台児荘の戦いがあった.
台児荘の戦いは1938年3月から4月7日にかけて山東省最南部
の台児荘近辺で戦われた戦いで,台児荘攻略を企図した日本軍2個
師団が約10万の中国軍に包囲され撤退したため,中国側が「抗戦
以来の大勝利」と大宣伝した戦闘である.中国側は日本軍の「死傷
2万人余,捕虜無数,敵の板垣・磯谷両師団の主力は我軍のために
潰滅された」と誇大発表を行ったため,中国軍を率いた李宗仁の
名前と共に台児荘の戦勝は中国国内ばかりではなく世界各国にまで
広がり,プロガンダの面で非常に大きな効果を発揮した.
「潰滅」という中国側発表と異なり,中国軍司令官の李宗仁は大規模
な追撃命令を発令しなかった.このため日本軍は中国軍による包囲の
環を逃れることに成功し,中国軍は日本軍を殲滅することに失敗
した.中国軍のドイツ人軍事顧問であったアレクサンダー・フォン・
ファルケンハウゼンは,中国軍が追撃を実行しなかったことを聞き
「頭髪をかきむしって」焦慮を表現したといわれる.ちなみに実際
の日本軍の損害は,戦死約2370人,負傷者約9600人という
ものであった.
ウィロビーは,日本軍に対し約6対1の優位であった中国軍が
1938年4月に台児荘の反攻作戦で日本軍の後方連絡線をあともう
少しで遮断することに成功しそうになったことを知っていた.
逆に言うと,ウィロビーは,緒戦の敗北にも屈せず,日本軍が戦線を
安定させ中国軍の決定的勝利を防いだことを評価したのである.
ウィロビーは,このことを考慮して,中国軍と交戦するときの数に
対する質の重要性に関して以下のように書いている.
「日本は常に優勢な兵力を有する敵と交戦し,日中戦争を通じて
十分でない兵力比で敵と戦った.このことは即席に編成された部隊
[中国軍]に対する十分な近代兵器を装備した部隊[日本軍]の有効性
を物語るものといえる」
▼ウィロビーの「日中戦争アナロジー」
ウィロビーは,兵力で優る敵と交戦し勝利をおさめるためには
大胆な機動を利用する指揮官の能力が重要であると考えていた.
1938年5月に日本が反攻を企図した徐州会戦について描写した
ウィロビーは以下のようにコメントしている.
「日本軍は中国軍に対し5対1の劣勢であったが,日本軍は敵軍を
包囲するために機動を使用することができ,中国軍に退却を
強いることができた」
つまり,ウィロビーは,台児荘の戦いや徐州会戦の分析を通じて,
数的に劣勢な日本軍が戦術的機動をもって機動性で劣る中国軍を
撃破するイメージを確立するに至ったのである.
ウィロビーによる日中戦争の戦史研究と朝鮮戦争とを比較すると
面白い事実が浮かび上がる.本連載では,マッカーサーが太平洋
戦争で日本に勝利した戦略を朝鮮戦争において中国に対しても
使用し失敗したとして,「パシフィック・アナロジー」という概念
を筆者は提唱した.この「パシフィック・アナロジー」と同様に,
ウィロビーは,日中戦争における中国軍の戦闘能力の分析から
朝鮮戦争での人民義勇軍の戦闘能力を推し測ろうとしたのである.
筆者はこれを仮に「日中戦争アナロジー」とでも名づけることにしたい.
しかし,マッカーサーのパシフィック・アナロジー同様,
ウィロビーの日中戦争アナロジーも1950年11月の国連軍の
事例では通用しなかった.
1950年11月の事例では,中国軍は国連軍に対する兵力数の
優勢のみならず「機動性」の面でも優勢であったのだ.
なぜならば,人民義勇軍は,重砲や戦車といった装備が少なかった
ため道路に拘束されることなく,米軍であれば行動不能地域と
みなされる森林地帯や山間地帯に浸透し,国連軍を包囲することが
できたからであった.
つまり日中戦争における常に機動性に欠けるゆえに「包囲される」
中国軍というウィロビーの観察は,1950年11月には
ウィロビーにとって不利に働いたのである.1950年11月の
事例では,米陸軍および米海兵隊が十分な兵器を有し数的に劣勢な
日本軍の役割を演じ,満州に集結する数的に優勢な中国軍が,
質で優る敵軍によって撃破される役回りを演じる代わりに,機動力
を活かして質で優れる国連軍を撃破することに成功したのであった.
▼情報の失敗をもたらしたウィロビーによる中国人蔑視
では,ウィロビーはなぜ「日中戦争アナロジー」によって失敗を
犯したのであろうか.これにはウィロビーが心の中に抱いていた
中国人に対する偏見・蔑視が大きく関係していた.
たとえば,駐韓米大使ジョン・ムチオは,ウィロビーが中国人を
軽蔑していたとして以下のような証言を残している.
「ウィロビー将軍はあらゆる階級の中国人の能力を軽蔑していた.
中国人の能力に関するウィロビーの評価は,彼が共産中国の出現
以前の中国についてほとんど何も知らなかったということに起因
するものである」
ウィロビーは,太平洋戦域で経験を積む以前の時点ですでに中国人
の戦闘能力に関する自身の印象を形成し終わっていた.このウィロビー
の中国人の軍事能力に対する印象は日米開戦後に中国大陸で中国軍
が日本軍に対し優勢となった後も変わることがなかった.このような
ウィロビーの偏見は,中国共産党が朝鮮戦争に参戦する脅威を
分析評価する1950年11月にウィロビーが誤った判断をする
基礎を形成することとなったのである.
(以下次号)
(長南政義)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
⇒ http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
** 【追記】
◆ダン・ケネディ『富裕層マーケティング,仁義なき戦略』を読み解く
http://123direct.info/tracking/af/253378/dF7i86vi/
本書には3つの目的がある.
ひとつ目は,富裕層に売り込み,アピールし,
興味を持たせるためにビジネスを変容させ,
結果的にあなたの収入と安全とビジネスライフを
変容させることの価値を説明することである.
(中略)
ふたつ目の目的は,裕福な顧客やクライアントとは誰か,
彼らはどこにいて,何を,なぜ買うのか,
そして今までのやり方を捨てて彼らと調和するには
どうすればよいかを理解してもらうことである.
(中略)
3つ目の目的は,
裕福な顧客への売り込みを成功させるための戦略の数々を紹介し,
最終的には,順を追ってそれを実行できるよう説明することである.
(中略)
本書の使命は,あなたに3種類の顧客
ーー大金持ちつまりウルトラ富裕層,富裕層,そしてマス富裕層ーー
について重要な説明をし,さらに類似の3つのグループである
ウルトラ富裕ブーマー,富裕ブーマー,そしてマス富裕ブーマー
についても解説する.
ここで,6つの異なるドアを開けるための
6つの異なる金のカギをお渡ししよう.
それぞれのドアは,業界やキャリアに関係なく,
あなたが多大な金銭的報酬を手に入れるための入り口である.
それは理解のためのカギである.
富裕層の顧客グループの重要性や,
その爆発的な増加,心理,消費傾向を理解するためのカギである.
(中略)
あなたは真剣に,心から裕福になりたいのですか?
もしあなたの返事が 「イエス」なら,この本を足がかりとして,
すべての富がある場所へと導いてくれる黄金の道を歩いて行ってほしい.
これ以上遅らせることなく,ためらうことなく,先延ばしすることなく.
★目次:
Foreword 富裕層を引きつけるのは簡単だ
Preface 大金持ちになるためのこの本の取り扱い方
Part1 すべての金を持っている人たちーマス富裕層,富裕層,ウルトラ富裕層の秘密
Section 1 いったい富裕層って誰なんだ?
Section 2 ウルトラ富裕層 あなたや私とは違う人々
Section 3 フロイトが答えられなかった質問
Section 4 いくつになっても少年は少年
Section 5 タブーではない富裕層の同性愛者へのマーケティング
Section 6 富裕ブーマーの消費ブーム
Section 7 たたき上げの人たち
Section 8 4分の3入ったコップ
Section 9 心の奥底をのぞく
Section 10 富裕層の情緒的要素
Part2 「彼ら」は何に金を使っているのか?
Section 11 誰が「彼ら」を見つけるのか
Section 12 富裕層に訴える商品とは?
Section 13 見る人の目の中にある価値
Section 14 製品とサービスを売るのを止めよう
Section 15 ウルトラ富裕層向け製品とサービスその変貌
Section 16 マス富裕層が高い物に買い替えるプロセス
Section 17 おばあちゃんが作らないディナー
Section 18 お金は情熱につぎ込まれる
Section 19 お金はコレクションにつぎ込まれる
Section 20 お金は子どもや孫につぎ込まれる
Section 21 お金はペットにつぎ込まれる
Section 22 お金は女性につぎ込まれる
Section 23 お金は光る石につぎ込まれる
Section 24 お金は家につぎ込まれる
Section 25 お金は外食につぎ込まれる
Section 26 お金は経験につぎ込まれる
Section 27 お金は自由につぎ込まれる
Part3 富裕層から金をもらうリアルな方法
Section 28 境界線はあなたの頭の中にしかない
Section 29 不況に強いビジネスを作る
Section 30 富裕層の消費者をおびき寄せる「罠」
Section 31 「彼ら」はどこで見つかるのか
Section 32 言葉を注意深く選ぶ
Section 33 「メンバーシップ」に込められた暗号
Section 34 クライアントからの推薦を得る
Section 35 凡庸さを消し去ろう
Section 36 何もないところから価値を作り出す
Section 37 情報ビジネスは専門家への近道
Section 38 法外な価格設定を可能にするメソッド
Section 39 価格,利益,そして力
Section 40 容易に価格を上げて利益を出す方法
Section 41 価格を付けるのはチャンスである
Section 42 金があるのは厄介なこと
Section 43 富への抵抗と抑制
Section 44 富裕層は悪なのか
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2012年9月3日 月曜日 午前10:30
** 【追記】
◆田村耕太郎『君は,こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか?』を読み解く
※要旨
・かつて佐々木賢治さんからこう指摘された.
「田村君の英語は内容がない.
教養が足りないからだ.
教養がないと論理的に話せない.
だから勢いはあっても説得力がないんだ.
大学でろくに勉強していないだろ.
教養がないと世界で通用しないよ.
そのためには時間が経っても生き残っている本を読め.
それが古典だ.古典を読め」
・海外の古典を読み直して気づいたのは,本当にいいものはシンプルに書いてあるということ.
・世界に出てみなければわからないことで,私が強調したいことの一つは,
「日本人ほど世界でまんべんなく好かれている人たちはいない」ということだ.
日本のパスポートは世界最強である.
・空気を読む力で日本人は無敵キャラになれる.
「空気を読む」という表現がある.
他人の顔色をうかがうという意味であり,世界中程度の差はあれ,どこでも必要な能力だ.
・日本人が日本社会でマスターしている空気を読む力は,
活かし方によっては,最終的には大きなプラスにすることができる.
「空気を読みつつ,場合によって空気を断ち切って発言する.行動する」
これができれば世界一だ.
・日本最大の強運はアジアにあること.
アジアのエリートはアメリカに学びに行く.
世界最高の教育現場があり,最も多様で有意義なネットワーキングの場は,アメリカなのだ.
アジアでのネットワーキングを狙うならまずアメリカを狙えと言いたい.
・海外に出るための資金繰りこそが海外生活の第一歩.
国内での資金調達こそが,海外でやっていく予行演習だ.
計画性,駆け引き,面の皮の厚さ,経済計算,調査能力,熱意の表明など.
これらがない人は海外ではうまくいかない.
国内で海外へ出るための資金調達ができない時点で,海外でのサバイバル能力が不合格と判定されるようなものだ.
・何をするにせよ,英語という武器を徹底的に身につけよ.
英語は詰め込み.詰め込みは一気呵成.
・英語勉強法が定まらなければ全部やれ.
英語を学びたい人にとっては日本は今,史上最も恵まれた環境にある.
・グローバル舞台での人脈術について.
顔の広いキーパーソンを押さえよ.
人脈作りは,自分の影を追うような行為である.
捕まえようとすると逃げていく.
・教養を蓄積しておくこと.
いい人脈構築にはストレートなビジネスの話だけでは足りない.
グローバルな舞台では教養も大事だ.
パネルディスかションや講演で話すときはもちろん,
夕食の席やレセプションの立ち話でちらっと教養をチラ見せして,
「深い話のできる奴」と思わせることも大事だ.
歴史や哲学や科学の話がいい.
「人生論ではトスルトイもいいが,セネカの方が深い.
ローマ時代から学ぶものは多い」などと教養を見せると非常に有効だ.
・パーティは最後まで.
パーティは最後まで残ろう.
有名人や有力者が来る時間だけいてさっといなくなるのは効率的である.
ただ,主催者やその近しい人は必ず最後までいる.
最後までいる人は少ない.
・有名人は意外と孤独.
私が出た国際会議でもGEのイメルト会長やヒラリー・クリントン国務長官や,
サマーズ元財務長官らがフリーでウロウロしていた.
こういうときはすかさずアタック.
果敢にアタックしてくる人には皆好感を持ってくれる.
一発で仲良くなる紙一重のジョークも必要.
・シンガポールは,たしかに国家戦略立案,実行能力は間違いなく世界一だ.
だが面積や人口が全然足りない.
この話は親しいシンガポールの政治家や政府幹部がよく私に聞かせてくれる.
「われわれがいくら頑張ってもしょせんは日本の大規模な都道府県にも届かないレベル.
日本のサイズがうらやましい」
※コメント
田村氏のこの本は,内容が濃い.
自身の豊富な体験と幅広い人間関係から出てくる話は,ネットや新聞ではなかなか得られないものが多い.
現場で実際に人と触れ合うことの大切さを教えてくれる.
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2012年6月29日 金曜日 午前7:30
** 【追記】
From:長南政義
2012年(平成24年)6月28日(木)
戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月,国連軍の敗北〜(19)
□前回までのあらすじ
1950年10月15日,ウェーク島でダグラス・マッカーサーと
ハリー・トルーマン大統領とが会談した.
世に名高いウェーク島会談である.
このウェーク島会談で,マッカーサー,統合参謀本部および
トルーマン大統領は,朝鮮戦争が最終段階にあるという共通認識を
持つにいたった.
マッカーサーは戦争が「クリスマスまでに」終わると考えており,
仁川上陸作戦成功直後であったこともあって,この会談において
朝鮮戦争の見通しに関し楽観的な認識を披露した.
ウェーク島で会談した当事者が持っていた朝鮮戦争が
「最終段階にある」という認識は,米国の軍事的資源を情勢
が緊迫化している欧州に再配置するために,朝鮮戦争を
迅速に終結させなければならないというプレッシャーを
マッカーサーに与えることとなった.
たとえば,ウェーク島会談で統合参謀本部議長オマー・ブラッドレー
陸軍元帥は,「第二師団か第三師団を1951年1月までに欧州へ
投入するために利用できないだろうか?」とマッカーサーに
対し要求していた.そして,マッカーサーは,ブラッドレーの
要求に同意を示し,第二歩兵師団を1951年1月までに欧州へ送る
と言明したのであった.
▼ミラー・イメージングの罠に落ちたマッカーサー
〜中国の南進は「大虐殺」となるだけだ〜
トルーマン大統領と彼の補佐官たちは,満州で増強中の
人民解放軍が持つ意味と中国の要人たちが発した警告に
関するマッカーサーの解釈を聞きたがっていた.
トルーマンがマッカーサーに対し,中国が介入する可能性
について尋ねたとき,マッカーサーは以下のように回答した.
「(中国が介入する可能性は)極めて小さい.もし中国
が開戦から1か月ないし2か月のうちにこの戦争に介入して
いたならば,介入は決定的な意味を持ったであろう.
われわれは,もはや中国の介入を恐れていない.
われわれは,もはやかしこまってなどいられない.
中国は満州に30万人の兵力を有している.
おそらく,30万人のうち,鴨緑江沿いに配備されているのは
せいぜい10万〜12万5千人だ.たったの5万人〜6万人のみしか
鴨緑江を渡ることができない.中国は空軍を有していない.
現在,われわれは韓国領内に空軍基地を保有している.
したがって,もし,中国が平壌に向けて南進を試みたとしても,
大規模な虐殺となるだけであろう.」
このトルーマンに対するマッカーサーの回答は,
国連軍に対する中国の脅威に関するウィロビーの評価を
反映したものであり,このことは,マッカーサーが自身
の判断の大部分を彼の上級情報幕僚により提供された
情報分析結果に依存していたことを示している.
また,この回答の中にみられる「中国は空軍を有して
いない.・・・(中略)・・・したがって,もし,中国が
平壌に向けて南進を試みたとしても,大規模な虐殺となる
だけ」だという分析評価は,満州に存在する30万人の
人民解放軍により提示される脅威を国連軍の空軍力で無力化
できるということが前提となっており,国連軍の空軍力に
力点を置き中国の南進の可能性を予測する論理構造となっている.
つまり,このマッカーサーの回答にみられる論理は,
マッカーサーとウィロビーが空軍力を重視する米国流の
用兵思想に基づいて中国の出方を判断したことを暴露している.
自分たちの常識に基づいて相手の出方を考えてしまうことを
「ミラー・イメージング」というが,マッカーサーと
ウィロビーは,ミラー・イメージングの陥穽にはまって
しまっていたのである.
▼ディーン・ラスクの懸念
ウェーク島に来た政府高官の中で,中国の出方について
懸念していたのはトルーマン大統領だけではなかった.
前回の連載でも登場したディーン・ラスク極東担当国務
次官補は,中国が米国に対し宣戦布告する可能性に関して,
マッカーサーに明確に質問している.ラスクのこの懸念は,
もし国連軍が38度線を越えたならば中国は朝鮮戦争に参戦
するであろうという,中国要人が発していた警告に基づく
ものであった.このラスクの問いかけに対するマッカーサー
の回答を,後年ラスクは以下のように回想している.
「マッカーサーは,中国がなぜそのような危険な状況に
乗り出すのか全く理解できない,中国は今や自身が
気づいている苦境によってひどく困惑しているに
違いない,と述べた.」
ウェーク島会談のわずか1日前にマッカーサーに提出された,
ウィロビーの情報日報(Daily Intelligence
Summary:DIS)
は,周恩来が発した「米国が戦争を拡大するつもりで38度線
を越境しようとしている.もし米軍が実際にそのような
行動に出たならば,我々はそれを座視できないし,無関心
のままいることはできない」というステートメントを
「恐喝」にすぎないと評価していた.
さらにラスクは,中朝国境をパトロールする国際部隊創設
の可能性についてもマッカーサーとの会談の際に議題の
1つとして持ち出した.これに対し,マッカーサーは,
満州と北朝鮮との間に広がる国境地域の地形上の困難と
政治的複雑性を認めたうえで,次のように答えた.
「それは軍事的観点から言って認められない.私はその
地域に韓国軍を配置するつもりである.韓国軍は緩衝物
となるであろう・・・(中略)・・・私はできるだけ
速やかにすべての非韓国軍部隊を韓国から撤退させたい
と希望している.」
ウェーク島会談で政治的に複雑な中朝国境地帯に韓国軍を
展開させると明言したマッカーサーであったが,
その後,マッカーサーは自身の発言を反故にしている.
というのも,マッカーサーが計画した中朝国境へ向かう
11月攻勢において,マッカーサーは鴨緑江へ向かう進撃の
先陣部隊に米軍部隊を配置したからである.
▼ウィロビーの変節 〜人民解放軍は「鴨緑江を渡河したにすぎない」〜
駐韓米国大使ジョン・ムチオは,マッカーサーに同伴して
ウェーク島会談に参加していた.ムチオはウェーク島会談
の重要性について別の視点を提供している.ムチオの回想
によると,マッカーサーは人民解放軍がすでに鴨緑江を越え
北朝鮮領に侵入していたことを認識していたが,その重要性
を過小評価していた.さらにマッカーサーは次のように
述べたという.
「私の情報部はこの地域に2万5千人から3万人の人民解放軍
が所在することを確認しているが,鴨緑江を渡河したに
すぎないし,(それ以上のことをすれば)情報部が気づくで
あろう.」
ウィロビー率いる自身の情報部に対するマッカーサーの信頼は,
ムチオに対して述べたこの発言において人民解放軍がすでに
北朝鮮領内に所在することを認める一方で,なぜ人民解放軍
が北朝鮮領内に存在し,彼らが何を意図しているのかという
2つの問題についてウィロビーが回答を見出すことに失敗した
という事実を見落としてしまっている.
朝鮮戦争のこの時点で,ウィロビーの分析は,満州における
人民解放軍増強が持つ意味を分析し警告を発するという
立場から,鴨緑江へ向けたマッカーサーの攻勢計画を中止
させないようにするため,マッカーサーに不利な情報に
言及しない,もしくは過小評価する方向へと変化してしまった
のである.
▼ウィロビーの弁明
〜「敵の意図」の分析評価は情報部の職責ではない〜
ウィロビーは1954年に刊行された自身の著作
『マッカーサー:1941年〜1951年(MacArthur
1941-1951)』
において,ウェーク島会談でマッカーサーが中国の脅威を
無視したという批判に対して反論している.
ウィロビーは,中国が朝鮮半島に何十万人もの部隊を
展開することを情報部が認識できたということと,
毛沢東の意図を予言することの不可能さをはっきり区別して,
以下のように述べている.
「情報の専門用語には『能力』と『敵の意図』との間には
広く受け入れられている区別が存在する.ここでいう能力
とは,圧倒的兵力で韓国へ向け進撃する物理的能力であり,
敵の意図とは,北京が本当に進撃を準備しており,したがって
西側世界の半分と戦争をするリスクを冒すか否かという問題
である.」
この一文はシークレットとミステリーというインテリジェンス
が抱え持つ難問を象徴している.シークレットとは,相手国の
軍隊の規模や保有する兵器の数など,秘密ではあるが存在が
確実なもののことであり,ミステリーとは,相手国の将来の
政策や意図など,その存在自体が疑わしく,だれにも回答できない
もののことである.
一般に,インテリジェンスはシークレットに対する情報収集
や分析を行うことは可能であるが,ミステリーの領域まで
踏み込むことはできないとされている.しかし,本稿でも
指摘したように,トルーマン大統領やディーン・ラスクに
代表される大統領の補佐官たちといった政策立案者が
マッカーサーに回答を希望したものは,「中国が介入する可能性」
や「中国の意図」というミステリーの領域に属するものであった.
情報分析結果という生産物を要求する政策サイドという「顧客」
が情報部に要求するのは,多くの場合ミステリーに属する分野の
問題なのである.ここに,インテリジェンスの難しさがある.
先に引用した一文の中で,ウィロビーは,巧妙に敵の能力と
敵の意図とを区別することにより,敵の行動可能方針を
分析予測してその結果を自身の司令官に提供するという自身の
職責を回避している.しかし,既述したように,ウィロビーは
自身が提出した情報日報の中で,周恩来が発したステートメント
に対し「恐喝」にすぎないという評価を下すことで,敵の意図
に関しても評価分析を行っていることもまた事実なのである.
したがって,敵の能力と敵の意図とを区別して,情報部の役割
が敵の能力のみを分析することにあったという彼の弁明は責任
回避にすぎないといえるであろう.
(以下次号)
(長南政義)
☆ 編集・発行人:エンリケ航海王子(おきらく軍事研究会)
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** 【追記】
◆浜口直太『稼ぐ力,50のルール』を読み解く
※要旨
・周りの人に感謝すればするほど,お金は集まってくる.
稼ぎは「感謝」の集積.
・小さな成功を一つひとつ積み重ねる.
苦労して稼いだからこそ,お金を大切にできる.
・稼ぐと決めたら,まず計画を立てる.
稼ぐは人間学であり,人間力.
・儲けるということは,お金,厳密には,現金を得ること.
現金を得るための努力や研究をし,知恵を絞って行動する.
・稼げる人というのは,一つひとつの事業なり,取引で決着をつけている.
できるだけお金をかけずにお金を稼ぐ方法を考えてみる.
お金を使わずに工夫するから本当に儲かる仕組みができる.
・お金に対する感謝の念,言動が金運を良くする.
・お金は「信用力」のある人が好き.
信用力があれば必要な資金は集まる.
・お金も恋人も束縛すれば逃げる.
本当に必要なときに,お金はちゃんと回ってくる.
これは実は恋人との関係も同じ.
恋人のことが本当に好きなら,かえって自由にさせてあげること.
・いい仕事をしていれば,大きなお金は必ず後からついてくる.
米国の会社で働いていたときの尊敬する上司はこういっていた.
「目先の小金を追えば,大金を逃す.
信念を貫いていい仕事をすれば,大きなお金は必ず後からついてくる.
とにかく,報酬の計算をする暇があれば,いい仕事をすることに全力を尽くしなさい」
・華僑のハングリー精神を見習う.
華僑の凄さは,ビジネスを進めるスピード,つまり進化する速さの凄さ.
・「ギブ&ギブ&ギブ」がお金を呼ぶ.
お金は人を大事にするところに集まる.
・お金儲けの上手な人は,人の意見や知恵を集めるのが得意.
恩返しを忘れない.
・その人の器の大きさがお金を引き寄せる.
・お金儲け=「ありがとう」集め.
誠心誠意,できるだけ,彼らが求めるものを提供する.
・何のためにそのビジネスをやるのか,目的を明確にする.
・バカになって,やれることはすべてやってみる.
何で稼ぐかを決め,やるべきことをリスト化する.
テキサスの大富豪のパーティで学んだシンプルなことは,
一言でいうと,「稼ぐと決めた者だけが稼げる」ということ.
・金儲けの上手な人を徹底的に真似する.
アメリカの会社時代のできる2人の上司に共通していたことは,
とにかく会社のために,また自分のためにも,稼ぎまくること.
自らの部署をナンバーワンの高収益部署に育てようと,いつも一生懸命だった.
あなたのビジネスに関わるすべての人を大切にしよう.
・目標金額と期間を決めて集中すれば,お金は必ず貯まる.
これで稼ぐと決めたら徹底的に集中してやる.
私がかかわってきた米国の大富豪達は,お金儲けをする上で,いくつかの共通点があった.
その一つは,選択と集中を徹底していた.
・お金持ちになれる人は,勉強家で謙虚な人.
金運を維持するには勉強が欠かせない.
・いくら稼ぎたいのか,具体的な目標数値を持つ.
あなたのファンが金運をよくしてくれる.
・気配りの達人になると収入が増える.
人より稼ぎたければ,人間関係マネジメント力をつければいい.
・稼げるノウハウってありますか?
職業柄よく聞かれる質問です.
一言でいうと,「一つのことを徹底してやり続けること」
ポイントは,「自分なりのやり方を仕組み化する」こと.
これと決めた道で達人になるまで勉強する.
何でもいいからその分野の達人になる.
※コメント
浜口氏は,100冊以上の本を執筆している.
その仕事力,スピード感は凄まじい.
長年の経験,膨大な勉強量が,そこに繋がっている.
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2012年6月24日 日曜日 午前11:00
** 【追記】
◆原口泉『龍馬を超えた男,小松帯刀』を読み解く
※要旨
・小松帯刀を一言で語るなら,坂本龍馬や西郷隆盛や大久保利通を活躍させた人物であるという一語に尽きる.
・彼は薩摩藩の名門・肝付家出身.
小松家に養子に出て,薩摩藩の要職を歴任.
持ち前の社交性と人間性により,藩主と実力下級武士との橋渡しを行う.
朝廷や幕府とも良好な関係を保ち,維新の立役者となる.
・帯刀は,藩政の最高位である城代家老時代も,政治,経済,外交,教育と,
あらゆる分野に関わる一方,勝手掛として,予算と資金繰りを直接担当していた.
また優れた経済人であった.
・彼は,身分,国籍を超えて慕われる人格を作った.
名門の生まれながら,幼少体験から苦労人のところもあり,
人の気持ちがよくわかる,この気質あってこそ,さまざまな考え方や勢力が渦巻く薩摩藩を,
大きくまとめあげることができた.
・供を連れずに庶民と交わる「独行の人」.
帯刀は身分が高かったにもかかわらず,供も連れずに一人で,
あちこち出歩いていた.
・彼は探究心が旺盛だったようで,自ら大砲の撃ち方を習い,実弾射撃の練習を繰り返すなど,
最新技術の研究に熱心に取り組んでいた.
・有力諸侯や公卿方への帯刀の交渉術は,実に卓越したものであった.
この手腕を高く評価した島津久光は,27歳の若き帯刀を,家老に昇格させた.
さらには,軍事,財政,教育,商工業など各種の重要な掛も兼任させていく.
・帯刀の社交性は,いうなれば「庶民性を持った貴族」とも言うべきものだった.
それは人種や身分の壁を超えて民意を聞く耳を持ち,宴会やパーティなどの社交的空間においてふんだんに発揮されていく.
・社交の場で情報をキャッチするには,優れたアンテナを要し,
収集した情報が信頼できるものか時間をかけて精査しなければならない.
そうして初めて信じるに足る質のいい情報が得られる.
帯刀はそうした一連の能力にも長けていた.
・維新は,個人の力ではなく,組織の力で成就した.
歴史をみるときは,いざという決定的なときに,組織が動いたか動かなかったか,
動いたとしたらどう動いたかという,政治力学的な観点が必要.
※コメント
薩摩藩に隣接する人吉藩の家老・犬童は,あるとき5,000両の借財を帯刀に求めた.
小松帯刀は家老になったばかりであった.
人吉藩は,突然の火事に見舞われ,借財に走り回ったが,どうにも5,000両足りなかった.
窮状を訴える犬童に帯刀は多くを語らず,五千両を都合することを約束した.
どうにも工面できなかった大金をずいぶん若い家老が,即答で都合すると言っているのだ.
あまりのあっけなさに,驚いたのは犬童であった.
人吉藩と薩摩藩は,これをきっかけに密接な関係になっていく.
のちに薩英戦争で,大きな打撃を受けた薩摩は,人吉藩より膨大な米の支援を受けることになる.
まさに,困ったときは,お互い様である.
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2012年6月28日 木曜日 午前7:30
** 【追記】
From:荒木肇
横浜より
2012年(平成24年)6月27日(水)
□台風被害
先日は久しぶりに本土を直撃する台風4号.
あなたは無事でお過ごしになれましたか?
私どもの住む横浜にも大雨が降り,強風が吹き荒れ,にぎやかな夜になりました.
2階建ての隣家の屋根がわらがめくられ,駐車場も覆いがはずれ,
車にも大きな枝があたるなどの被害があったようです.
心が痛むニュースは,必ず死者やけがをされた方が出ることです.
こうした位置にわが国があり,何千年来,台風の被害に遭いつづける.
それが宿命であって,耐え続けなければなりません.
東北地方の方々も昨年の震災被害,そこへ大型台風の直撃.
ご無事でありますように.
▼戦車の乗員数は今も昔も問題
戦車の乗員数はおおよそある時期から4人ほどということになったようですね.
戦車の主要な武器はとうぜん主砲です.
主砲は照準手である砲手が操作し,砲弾をこめるには装填手が必要.
さらにドライバー(操縱手)と,昔なら前方銃手(固定機関銃),
それに車長(指揮官)でしょう.
陸上自衛隊の74式戦車も乗員は4人.ドライバーが左前方に,
主砲の右斜め前には砲手がすわる.砲尾の左側には装填手が中腰で立ち,
右側には車長.装填手の頭上には主砲と同軸の車載機関銃がついています.
車長は指揮官であり,同時に砲手と同じく主砲を動かし,照準と発射操作も
できるようになっています.
これが90式になって,砲弾は120ミリと大型化し,自動装填装置が
つきました.おかげで乗員はドライバー,砲手,車長と3名になったのです.
このことは,戦車隊のメンバーに聞いたところ,戦闘はともかく,整備や
補修,野営などの作業時に乗員の負担が増える.また,乗員教育の面
からも,装填手の経験を積んで育っていくというシステムが変わる
といった悩みがあるとも聞きました.
時代は変わりましたが,戦車の乗員数の数は昔も問題でした.
前回,ご紹介したチハ車(重い方)とチニ車(軽い戦車)の問題でも
乗員数が話し合われました.
▼まとめに入る議論
軍事課長町尻大佐の最終的な要望は次のとおりである.
●戦場付近の渡河だけではなく,道路の状況,小さい橋を渡ること
などを考えても,車体重量は10トンないし12もしくは13トン
というところ,たとえ500キロでも減らしてほしい.
●速度などは低下してもよい.なるべく軽いもの,少しでも軽くしてほしい.
技術本部側の所見がただされる.第1案(約14トンで乗員4名)
を主とする.エンジン,武装,最大速度をなどはなるべく第1案とする.
できるだけ重量を落とすとなるとどうできるか.技本の答えは次のようである.
●極力軽くするように努めるが,一面,脆弱(ぜいじゃく・もろくて
よわい)なものにすることは避けたい.この重量14トンはぎりぎり
のところで,200キロから300キロの誤差はできるだろう.
この軍事課の案に対して幹事長はたずねる.
若干,装甲は薄くするとか,速度を落とすとか,こういう条件は
要らないのだろうか.すると,軍事課長は装甲については25ミリ
の滲炭(しんたん)鋼鈑で大丈夫なら,それでいい.速度は要らないという.
●概算だが,鋼鈑を25ミリに減らせば約500キロ,速度を落として
いいなら,なお200キロや300キロは減らせるというのが技術本部
の担当者.
▼戦車学校は装甲と乗員について主張した
戦車学校の矢崎勘十歩兵中佐は陸大36期(のち321師団長・中将),
この戦車が歩兵直協用であることを前提にして話す.
「戦車自体が敵の戦車と戦闘することにはあまり頭を向けず,敵の
対戦車火器については装甲で身を守り,歩兵のために働くようになりたい.
そのためには,装甲は少なくとも30ミリはほしい.25ミリの新しい
装甲板で十分といわれるが,その点は確信がもてません.
なお,対戦車火器の発達がなお予想されるので,わずかな重量の軽減で,
いちじるしく戦闘力を失いたくないのです.戦車らしい活動ができる
のは装甲が強いためですから,ぜひ,装甲は30ミリがほしいと思います」
つづいて第2案について,軽くするために砲塔の小型化を図り,
そのために乗員が3人に減る.そのことについても矢崎中佐は学校代表
としての意見を出した.
「3人乗車では,車長ひとりが砲塔の中にいて,敵を見,地形を見,
しかも射撃までとなる.この第2案では射弾の数がいちじるしく
少なくなります.その戦闘力は,第1案から1人へらした4分の1減
ではなく,半減,いやそれ以下になります」
さらに通信機材の改良についていう.
「現在の無線機では力が足りないから能力向上をお願いしたい.
とうぜん,大型化するだろうから,第1案のように大型砲塔にしてほしい.
そこで,前面および側面の要部を30ミリの装甲ではなく,側面,
前面の全部を30ミリにしていただきたい.砲塔に1人しか収容できない
というのは戦闘上,ひじょうな欠陥です」
速度についてはどうかときく軍事課長に対して,矢崎中佐はいう.
「現在の89式と同じくらいで直協としては間に合います.
機械化部隊のために使おうと言うのなら,第1案(空冷ディーゼル
200馬力)で十分エンジンにはゆとりがあるので使えるでしょう」
▼砲塔にいるのが1人ということは?
くわしい説明を求められた矢崎中佐は砲塔内2人必要説について語った.
「89式でいえば,砲塔内の1人は射撃する.もう1人は車長であって
地形,敵情,小隊長戦車に目を向けて,射手,操縱手を指揮しています.
ところが,1人だとその車長が射撃もし,敵情も見,小隊長戦車にも
注目する.射撃をしているときは,他のことはほとんどできなくなって
しまいます.操縱手も車長も,ただ前面の一点に向かっているだけで,
部隊としての行動はまったく出来なくなります.半分,盲目のようなものです」
また,小隊長車や中隊長車では,ほとんど射撃をするひまがない
と矢崎中佐は説明を加えた.これで戦闘力がたいへん落ちる.
現在,開発中の6トン戦車(95式軽戦車のこと)でも同じ問題を抱え,
その前の輸入車ルノー戦車でも乗員が少なかったために苦労があったという.
じっさい,95式軽戦車にも機関銃が砲塔にも装備されていた.
砲手である車長は,主砲と機関銃の2種類を操作することになる.
しかし,それは戦闘中には難しく,のちに機関銃を外してしまうことが多かった.
こうして,3人乗りで軽いチニ車,4人乗りで重量があるチハ車
が誕生した.両者を比較検討したら,性能はほぼ互角だった.
そうなると,多数を整備したい参謀本部は軽い戦車にこだわってくる.
97式中戦車は15万円,95式軽戦車は6万円,当時の戦車は
トン当たり1万円といわれる製造価格だった.チニ車は約10トン
だから,10万円と見積もられる.軽い戦車は値段でいえば,
重いそれの6割くらい.参謀本部がムキになるのも分からなくもない.
大正という時代は世界大戦による好況,その後のバブル崩壊,
関東大震災以来の不景気の中にあった.平和,軍縮,とくに陸軍の縮小
が叫ばれ,反軍意識も戦った時代でもあった.日本陸軍は不遇だった.
第1次世界大戦の結果から学んだことを実現化しようとしても,
予算不足,世論の逆風はどうしようもなかった.
やむなく,第1次大戦型以前の軍備で我慢しているしかなかったのである.
その苦境が満洲事変の成功が追い風になり変わっていた.
世間の目は陸軍を頼もしく思うようになった.満洲防衛のためにも
本格的軍備充実を立てようとムキになっていたのである.
とにかく,その時点では数が欲しかったというのがホンネのところだろう.
▼満洲建国以後の環境
満洲事変前の作戦計画では,ソ連軍の主力は遠くヨーロッパから
シベリア鉄道にのってやってくる.西方から大興安嶺をこえて,
満洲の平野部に進出するものと考えられていた.これに対抗して
わが陸軍も満洲に兵力を送る.日露戦争と同じく,満洲を決戦場とする.
ただし,日露戦争と異なるのは,今度は南満州鉄道の沿線地域を
根拠地にできる.そこで,大きな会戦の始まりは,北満洲の平原で
行われるというのが計画だった.
ところが,あの広大な満洲のほとんどを手に入れてみると,
事態はまるで変わってしまった.シベリア鉄道ももちろん長大では
あるが,日本本土から満ソ国境もまたはるか遠くである.軍備は
あくまでも相対的なものであり,ソ連は1928(昭和3)年から,
有名な五カ年計画を実行していた.国民生活を犠牲にしても,
重装備,強大な軍隊の建設に手をつけ,極東アジアにも兵力を送りこんできていた.
日ソの兵力の差は大きく開いていたのである.
とりわけ,1932(昭和7)年から33年にかけて,再整備された
ウラジオストック方面の戦備は増強につぐ増強だった.
狙撃師団(列国でいう歩兵師団)の数は8個と変わらないが,戦車は
250両から300両へ.航空機もまた200機から350機へと増えていた.
対して関東軍は,師団数は3個,それに混成旅団1個でしかない.
なお,ソ連の狙撃師団の戦時定員は約1万3000人とされる.
わが師団と比べれば小さいが,これは砲兵や後方兵站部隊は軍団がもつ
からである.
対して日本陸軍の戦備は最低といってもいいものだった.
戦時に動員できる兵力といえば,常設師団17個,特設師団11個の
合計28個師団でしかない.戦車隊は4個大隊をそろえるのがやっと,
航空機は常設の飛行聯隊こそ8個だったが,動員できるのはわずか
戦闘4個大隊,偵察5個大隊,軽爆1個大隊,重爆1個大隊でしかない.
他には独立飛行中隊が12個あるくらいである.
1934(昭和9)年になると,ソ連軍の師団数は11個,
戦車は650両,航空機は500,総兵力23万人となり,ウラジオ軍港
には潜水艦が14隻もつながれていた.いってみれば,極東では互いに
領土を接する国家の間に大きな「均衡破綻」がおとずれていたのである.
ところが,わが国はどうか.表面的な陸軍の活躍に国民は喝さいし,
1933(昭和8)年には,明るい気分が社会にみなぎっていた.
実際,敗戦後の昭和30年代になっても,「昭和8年に戻りたいなあ」
と大人の多くは言い合っていたのである.それでいて,大正軍縮の
ツケは回ってきていた.日露戦後に士官学校に入校した現役将校たちは
次々と定年を迎える.元気のいいはずの大尉クラスまでの初級・中級将校
や相当官たちは,軍縮のおかげで同期生が200人とか300人
という少なさである.
陸軍は危機感の中にあった.それでいて,国民の前に弱音は
なかなか吐けなかったのである.
次回は陸軍人事や,軍備の整備計画についてもまとめておきたい.
(以下次号)
(荒木肇)
☆ 編集・発行人:エンリケ航海王子(おきらく軍事研究会)
☆ メルマガ紹介(まぐまぐ):< http://www.mag2.com/m/0000049253.html
>
** 【追記】
◆レアメタルハンター中村繁夫『山師の兵法』を読み解く
※要旨
・日本にとってみると中国の資源政策や金属メジャーの資源戦略はわかりにくい分野であり,
よほどの国際感覚を持たない限り,政治面においても経済面においても理解することが難しい.
食うか食われるかの国際競争の中でM&Aや国際カルテルは当然のことであり,
力と力のぶつかり合いであるということを理解するべきである.
・中国の胡錦濤主席も温家宝首相も資源の専門家である.
政治局最高幹部の8人までが技術系の出身であり,その資源政策はしたたかである.
一方,金属メジャーの歴史は古く,ユダヤ系資本が世界を席巻していると言っても過言ではない.
従って「資源をめぐるM&Aは,中国政府とユダヤ資本との戦いである」といった見方もできる.
・先行き予測,洞察力はどうしたら鍛えられるだろうか.
1.機先を制すること.
失敗を恐れず行動に移す.
自分の専門分野のチャートを毎日20分ぐらい沈思黙考して相場の流れを読むことを心がけると良い.
2.情報の取捨選択と分析力をつけることだ.
少なくとも新聞に載っている情報は事後報告と思うくらいがいい.
3.自分の持っている知識や経験を総動員した直感力を発揮する.
・レアメタルは希少にして偏在しており,ハイテク産業ばかりでなく軍需産業にも関係するため,
日本でも,資源貧国として獲得に向けての国家戦略は必要である.
・多様性が組織を強くする.
森林も人間も多様性がないと強くなれない.
・アメリカでは国防兵站局が国家備蓄を管理しているが,
いつどこで誰がいくらのレアメタルを購入したのかは公表しないのが普通であり,
備蓄予算は国防総省の機密費である.
・大国の条件は人口と軍事力.
軍事力というのは技術力.
・日本のODAには戦略性がない.
戦略とは国家目標を実現するための長期的な策略である.
行政は戦術レベルの競争を仕掛けるべきであるが,
政治家には国益を追求した独創的な戦略性(戦略的思考力+戦略的設計力)が不可欠である.
・現場に立ち,ものの表裏を知る.
世界中どこに旅行しても,そこには歴史や伝統が息づいている.
注意深く観察するといろいろな事実に出くわす.
何事についても,現場に行って,現物を見て,現実的に対応する観察眼が必要だ.
・「ひっそり,こっそり,しっかり」の成功戦略を描く.
・トップを落とせ.
それがビジネスの始まりだ.
・キューバは世界一のニッケルとコバルトの大資源国であることを知っている人は少ない.
・近江商人のモットーは,
「売り手よし,買い手よし,世間よし」である.
※コメント
中村氏は,世界を飛び回っている.
飛行機の中のほうが,エッセイの構想を練るのに適しているようだ.
仕事にせよ,エッセイにせよ,空の上のほうが面白いアイデアが出てくるようだ.
やはり異空間に身を置いたほうが,良い発想の創出につながる.
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2012年9月24日 月曜日 午前7:00
** 【追記】
◆早川光『私は,利休』を読み解く
※要旨
★稽古と練習について
・いたずらにスキルの上達を目指すのではなく,先人の遺したものを受け継ぎ,
学ぶことが大切な場合,「稽古」の語で我々は自ら戒めている.
・何気ない言葉の使い分けに,古人への敬虔の念が込められている.
・稽古に一番必要なのは,こうした謙虚な姿勢.
・居ずまいを正す,とは単に,姿勢を良くするだけでなく,
謙虚かつ真摯な気持ちで物事に接して,その結果,姿かたちから
心根,身に纏った空気まで美しく正すことなのです.
★千利休,その人物.
・利休は,茶の湯界のエポックメイカーである.
それまで見向きもされなかった粗末な器を採り上げ,
素材そのままのうぶな美しさを発見した「眼の人」でした.
・茶聖とか,侘び茶の祖,茶の湯の大成者など,利休を讃える2つの名はたくさんある.
とはいえ,いったい利休の何が偉かったのか?きちんと説明できる人は少ないのでしょうか.
偉人であっても,平たくいえばお茶の先生.
要は文化人.
・当時,堺の町は,海外貿易や京都・大阪,畿内一円から諸外国への物流の拠点であり,
港湾都市であった.
・商人達にとって重要な社交の手段であった.
茶の湯が,現代の経営者にとってのゴルフにたとえられることが多いのはそのため.
・織田信長に用いられた茶道は,津田宗及,今井宗久,そして千利休の三人に代表される.
・利休の遺した作品の中で最も有名なのが茶室「待庵」でしょう.
現存する最古の茶室として,国宝.
※コメント
信長,秀吉と数々の戦国武将に愛された茶の湯.
それは奥深く,また魅力的だ.
なぜ天下を目指した荒武者たちが,それに魅了されたのか,興味は尽きない.
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2012年9月23日 日曜日 午前11:00
** 【追記】
◆鳥居祐一『お金持ちにはなぜ,お金が集まるのか』を読み解く
※要旨
・お金はいかに稼ぐかよりも,いかに使うか
・人と会うことに投資する
・人をランチやディナーに招待する
・本にお金を惜しまない
・興味あるセミナーは,高くても参加する
・健康に投資する
・良質の水を飲む
・歯に投資する
・「空間」「時間」にお金を使う
・一流ホテルのラウンジを使う
・あえて背伸びして高級レストランに行く
・自分がしてほしいことを先に相手にしてあげる
・報酬や見返りを期待しない方がうまくいく
・今できることを精一杯やる
・具体的な目標設定をして,紙に書く
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2012年9月25日 火曜日 午後12:00
** 【追記】
◆久保巌『日本の7大商社』を読み解く
※要旨
・我々は物財やサービスの直接交換,あるいは貨幣・通貨を媒介とした間接交換を行い,
「通商・交易する人間」として,知的好奇心をともないながら地理的空間の拡大を遂げてきた.
・そもそも商社の「商」とはどういう意味なのか.
商とは,そもそも高いところ,たとえば丘の上に立ち獲物や事象との距離を計る,という意味がある.
・ひところは,東京本社社長への登竜門の一つとされたのが,アメリカ現地法人駐在のトップ経験だった.
近年では必ずしもそうではなくなった.
・日本とアメリカの「トモダチ」関係は,とくに商社においては長く強い関係を維持してきた.
・商社のワシントン事務所は,アメリカの政治動向や世界の情報が集積するところである.
駐在員はビジネスには関与せず,政財界関係者,有力シンクタンク関係者や
オピニオンリーダーなどと接触し,情報収集と分析にあたっている.
・三国間貿易は,「商社のグローバル展開力をはかるバロメーター」として重要視されてきた.
それは,海外拠点網の充実,出向・駐在社員及びナショナルスタッフの知見と実務能力,
現地での人脈,これまでの実績,信用,伝統などの要素を含む総合的な力量が求められるからである.
・インフラ関連のプロジェクトに取り組むには,現地の政府との折衝や,
開発工事への応札・入札,資機材調達,人員確保,施行・建設,資金調達,運営,
メンテナンス,研修・トレイニーなど多岐にわたるプロセスと,
それをトータルにこなすマネジメント能力が必要になってくる.
※コメント
商社マンには,ただ営業能力だけでなく,会計知識やプロジェクトマネジメント能力が要求される.
これらを習得するには,日々の膨大な勉強と経験が欠かせない.
あらゆるビジネスに,このことは当てはまる.
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2012年6月18日 月曜日 午前7:30
** 【追記】
** 【追記】
■ コラム:MBAの“視点”:「なぜシャープは危機的状況に陥ったのか?」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
パナソニックを始め,ソニーやシャープ・・・
日本の家電メーカーの業績不振が深刻化しています.
中でも特に心配なのがシャープ.
株価が急落したことで,支援を仰いだ台湾のホンハイとの提携は暗礁に
乗り上げ,最近ではインテルが支援に乗り出すとか,携帯電話事業を富士通と
統合するなど,危機回避へ向けて様々なニュースが流れています.
先日,テレビ東京の『カンブリア宮殿』という番組で関西を代表する財界人が,
「パナソニックは助かるだろうが,シャープは助からないかもしれない」
という趣旨の発言をされていました.
公の電波で具体企業名を挙げて先行きを案じることに非常に驚きを覚えました
が,裏を返せばこの発言は相当な確信をもってのうえといえるでしょう.
それだけシャープの経営は危険水域に達しているということなのです.
かつて,シャープは“液晶のシャープ”として,経営資源に劣りながらも,
パナソニックやソニーなど大手企業に対しても互角以上の戦いを繰り広げ,
液晶分野ではNo.1のマーケットシェアを誇っていました.
ところが一転,テレビの地デジ化やエコポイント制度によって先食いされた
需要の影響で,薄型テレビがまったく売れなくなると業績は悪化し,
数千億円という膨大な赤字を計上することになります.
ただ,この“薄型テレビショック”は何もシャープだけでなく,パナソニック
やソニーにも襲い掛かり,家電各社は空前の赤字を計上することになるのです.
では,なぜ「パナソニックは助かり,シャープは助からない」のか?
それは,戦略の違いにあります.
パナソニックは家電業界のリーダーであり,経営体力にものを言わせて
様々な事業に投資しています.
事業ポートフォリオは多彩で,薄型テレビが駄目になったとしても,
他の事業でカバーすることが可能です.
一方シャープはニッチャーの戦略で,経営資源を液晶事業に
集中的に投資してきました.
結果として事業ポートフォリオは乏しく,液晶事業が駄目になれば,
会社全体が傾いていくことは避けられません.
このようなリスクを避けるためにシャープは太陽光発電という,
次の事業の柱の育成に注力します.
ところが,この太陽光発電事業においても中国メーカーの
非常に価格の安い太陽光パネルが市場を侵食.
かつての世界No.1のシェアを誇ったドイツのメーカーでさえ倒産に
追い込まれるという,高収益化が難しい市場に変貌して,
シャープの思い描いた戦略が外れることになります.
結局のところ,次世代の液晶技術も立ち上がらず,
液晶以外の新事業も育たないといった状況では,
次に打つ手がなくなったというのが偽らざる事実なのです.
シャープ自体に戦略的な間違いはありませんでした.
ただ,予想を上回るスピードでグローバル化とプロダクトライフサイクルの
短命化が進展し,環境の変化に対応するだけでも困難を極めたのです.
誰もが現在の1ドル70円台が定着するという歴史的な円高を予想できなかった
でしょう.この円高水準では,中国企業や台湾企業,韓国企業と海外市場で
戦って勝利を収めることは難しいといえます.
また,日本企業がコスト削減からリストラを推し進める一方で,
新興国企業は日本の優秀な技術者を引き抜き,
急速に技術力を高めてきました.
その影響で多額の投資を行って素晴らしい技術を開発しても
すぐに新興国企業から追いつかれ,投資資金を回収する暇がないほどに
プロダクトライフサイクルが短命化してしまったのです.
集中化戦略でチャンスを切り開いてきたシャープですが,
集中化ゆえに自ら大きなリスクを抱えることになりました.
生き残るためには多くのオプションは残されていませんが,
素晴らしい技術と人財を誇る会社だけに,
起死回生の戦略でV字回復を成し遂げることを期待しています.
━━━━━━━━━━━
◎ 今回のポイント!
━━━━━━━━━━━
1.集中化戦略は経営資源の乏しい企業が大手企業と互角以上に
わたり合うために重要な鍵を握るが,市場環境が悪化すれば
企業自体の存続も危ぶまれるというリスクを孕んでいる.
2.日本企業は,グローバル化の急速な進展で,自国通貨安による
低価格を武器した新興国からの強力なライバルが次々と現れる
厳しい戦いを勝ち抜かなければならない.
3.技術流出で日本企業と海外企業の技術レベルの差はなくなりつつあり,
プロダクトラフサイクルの短命化が予想を上回るスピードで進んでいる.
◎ビジネスマン必読!1日3分で身につけるMBA講座
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2012年9月26日 水曜日 午後6:12
** 【追記】
■ コラム:MBAの“視点”:「なぜシャープは危機的状況に陥ったのか?」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
パナソニックを始め,ソニーやシャープ・・・
日本の家電メーカーの業績不振が深刻化しています.
中でも特に心配なのがシャープ.
株価が急落したことで,支援を仰いだ台湾のホンハイとの提携は暗礁に
乗り上げ,最近ではインテルが支援に乗り出すとか,携帯電話事業を富士通と
統合するなど,危機回避へ向けて様々なニュースが流れています.
先日,テレビ東京の『カンブリア宮殿』という番組で関西を代表する財界人が,
「パナソニックは助かるだろうが,シャープは助からないかもしれない」
という趣旨の発言をされていました.
公の電波で具体企業名を挙げて先行きを案じることに非常に驚きを覚えました
が,裏を返せばこの発言は相当な確信をもってのうえといえるでしょう.
それだけシャープの経営は危険水域に達しているということなのです.
かつて,シャープは“液晶のシャープ”として,経営資源に劣りながらも,
パナソニックやソニーなど大手企業に対しても互角以上の戦いを繰り広げ,
液晶分野ではNo.1のマーケットシェアを誇っていました.
ところが一転,テレビの地デジ化やエコポイント制度によって先食いされた
需要の影響で,薄型テレビがまったく売れなくなると業績は悪化し,
数千億円という膨大な赤字を計上することになります.
ただ,この“薄型テレビショック”は何もシャープだけでなく,パナソニック
やソニーにも襲い掛かり,家電各社は空前の赤字を計上することになるのです.
では,なぜ「パナソニックは助かり,シャープは助からない」のか?
それは,戦略の違いにあります.
パナソニックは家電業界のリーダーであり,経営体力にものを言わせて
様々な事業に投資しています.
事業ポートフォリオは多彩で,薄型テレビが駄目になったとしても,
他の事業でカバーすることが可能です.
一方シャープはニッチャーの戦略で,経営資源を液晶事業に
集中的に投資してきました.
結果として事業ポートフォリオは乏しく,液晶事業が駄目になれば,
会社全体が傾いていくことは避けられません.
このようなリスクを避けるためにシャープは太陽光発電という,
次の事業の柱の育成に注力します.
ところが,この太陽光発電事業においても中国メーカーの
非常に価格の安い太陽光パネルが市場を侵食.
かつての世界No.1のシェアを誇ったドイツのメーカーでさえ倒産に
追い込まれるという,高収益化が難しい市場に変貌して,
シャープの思い描いた戦略が外れることになります.
結局のところ,次世代の液晶技術も立ち上がらず,
液晶以外の新事業も育たないといった状況では,
次に打つ手がなくなったというのが偽らざる事実なのです.
シャープ自体に戦略的な間違いはありませんでした.
ただ,予想を上回るスピードでグローバル化とプロダクトライフサイクルの
短命化が進展し,環境の変化に対応するだけでも困難を極めたのです.
誰もが現在の1ドル70円台が定着するという歴史的な円高を予想できなかった
でしょう.この円高水準では,中国企業や台湾企業,韓国企業と海外市場で
戦って勝利を収めることは難しいといえます.
また,日本企業がコスト削減からリストラを推し進める一方で,
新興国企業は日本の優秀な技術者を引き抜き,
急速に技術力を高めてきました.
その影響で多額の投資を行って素晴らしい技術を開発しても
すぐに新興国企業から追いつかれ,投資資金を回収する暇がないほどに
プロダクトライフサイクルが短命化してしまったのです.
集中化戦略でチャンスを切り開いてきたシャープですが,
集中化ゆえに自ら大きなリスクを抱えることになりました.
生き残るためには多くのオプションは残されていませんが,
素晴らしい技術と人財を誇る会社だけに,
起死回生の戦略でV字回復を成し遂げることを期待しています.
━━━━━━━━━━━
◎ 今回のポイント!
━━━━━━━━━━━
1.集中化戦略は経営資源の乏しい企業が大手企業と互角以上に
わたり合うために重要な鍵を握るが,市場環境が悪化すれば
企業自体の存続も危ぶまれるというリスクを孕んでいる.
2.日本企業は,グローバル化の急速な進展で,自国通貨安による
低価格を武器した新興国からの強力なライバルが次々と現れる
厳しい戦いを勝ち抜かなければならない.
3.技術流出で日本企業と海外企業の技術レベルの差はなくなりつつあり,
プロダクトラフサイクルの短命化が予想を上回るスピードで進んでいる.
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2012年9月26日 水曜日 午後6:12
なぜ沖縄出身の社長は少ないのでしょうか.ひとつの理由としては,大学進
学率の低さがあげられます.文部科学省の平成21年度学校基本調査によると,
沖縄の大学進学率は37.1%で全国最下位.1位の京都府は65.8%で,その差は
歴然としています.
もう一つは「官尊民卑」の土地柄です.ノンフィクション作家の佐野眞一さ
んは著書『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』で「那覇駐在のある全国
紙の記者」の発言として,「完全に官優位の世界で,県庁の職員は日本一いば
って,日本一働かない.そういう沖縄独特の構造があるんです」と記していま
す.さらに,こんな話も聞いたことがあるといいます.
<沖縄で大学を卒業して二,三年勉強して公務員試験を受ける若者が珍しくな
いのは,民間の大企業が本土のようにないせいもあるが,受験勉強をしている
間,親や親戚が面倒をみてくれる環境も見逃せない,というのである.もしそ
うであるなら,親族同士が助け合う沖縄のユイマール精神は,沖縄人の進取の
精神を殺ぎ,ひいては沖縄の発展を阻害する要因ともなっている.>
沖縄は「被害者」であり,「無垢の土地」だと決めつけるのは,佐野さんが
いうように,沖縄への冒涜でしかありません.それでも沖縄のことを知れば知
るほど,心に引っかかりを覚えるのもまた事実です.歴代国王の御後絵は,実
は沖縄戦ですべて焼失しています.私たちは写真でしか,御後絵をみることは
できません.貴重な文化財が残らず焼失するほどの激戦.その事実にあらため
て戦慄をおぼえます.
◆苫米地英人『30代で思い通りの人生に変える69の方法』を読み解く
※要旨
・人生で最も重要なことをひとつ挙げるとすれば,
それは「思い通りに生きること」である.
・個々人にとって最も価値あることは,他人から見て価値あることではなく,
その人にしか価値のないものであることがほとんど.
その自分にしかわからない価値を手に入れようとすることが,思い通り生きること.
・周囲の期待に応えようとしない.
周囲の期待を超えた結果を出しなさい.
・本当にやりたい事だけやると,必ず結果が出る.
会社で成功し,社長に登りつめようとする要件の一つは,
「本心からやりたい,よほど好きな仕事に就いていること」という点.
・本当に好きな仕事を見つける.
寝食を忘れるくらい楽しめることを選択するには,30代のいまが一番よい環境.
・「仕事の向き不向き」を考えた時点で負け.
たとえば,恋人に対して,「自分は本当に彼女のことが好きなんだろうか?」
と万が一考えるようならば,それは彼女のことが好きではないという証拠.
「自分は彼女と本当に結婚したいのだろうか?」
と悩むなら,それは結婚したくないということ.
・恋愛や結婚は,相手と日常的に一緒にいる関係.
空間も時間も共有し,長時間にわたって話をしたり,同じテーブルで食事をしたりしなくてはならない.
平気でそれを何年も何十年も続けることができる理由は,よほど相手のことが好きだから.
・やっている仕事の「好きか嫌いか」は,ゼロか1か.
悩んだら嫌いということ.
・知識を増やし続けることが,成功と自由の鍵になる.
社長にしても,役員にしても,ほとんどの人が大変豊富な知識を持ち,大変な量の本を読んでいる.
・知識の量を増やすだけで,脳はさまざまな問題を解決する.
賢人たちが発揮する隠然たるパワーの源は,人脈や政治力ということができる.
しかし,その人脈や政治力がなぜ備わったのかということを,私たちは考えてみる必要がある.
そのような力を持つことができるのは,彼らが圧倒的にたくさんの知識のゲシュタルトを持ち,
それゆえ抽象度の高いところで物事を考え,判断するがゆえ.
・自分が見ていない世界を見ること,から新しい生き方が見えてくる.
・知識のゲシュタルトは多読で獲得する.
知識のゲシュタルトをつくるには,テーマを決め,関連する本を総ざらいし,
それらを次々に読み込んでいくしかない.
・関連する本をすべて読み,仮設を立て,検証し,
それが成立するために必要なミッシングリンクを埋める作業を繰り返していけば,
知識のゲシュタルト,つまりテーマ全体を俯瞰する認識が生まれる.
・情報や知識の塗り残しをなくせば,人生の本当のゴールが見えてくる.
・会社の運用で必要な会議は,ブリーフィング.
それをよく理解している会社は,営業会議でも開発会議でも,
長時間ダラダラと会議をするなどということはない.
それぞれの担当者から的確な報告を聞き,課長や部長が結論を出していく.
・長い会議はいらない.
決定権者に決断を迫ればいい.
・情動に振り回されず,データを把握し,決断する.
大きな決断をしなければならないときは,最初はあれこれ迷うもの.
しかし,判断に迷いが生じるケースは,それがたとえどんなに大きな判断であったとしても2つしかない.
ひとつは,情実が絡んでいるとき.
もうひとつは,データが不足して判断がつかないとき.
・「データ」こそが,ビジネスの最大の武器.
瞬時に判断できるようになるためには,データを使いこなせる人になろう.
・「価値があるけどマーケットがないもの」こそ本当の価値がある.
・複数の視点を持つことで初めて,まったく新しい稼ぎ方が見えてくる.
趣味をやる,社会貢献するなど.
・人はハッピーになれば,悩みは消える.
ものすごく好きな趣味や活動があり,そこに打ち込んでいるハッピーな人は,
会社の人間関係や仕事のつまずきなど悩んだりしない.
注意して眺めると,そういうハッピーであっけらかんとした人は,身近にけっこういるはず.
・ビジネスで成功したいなら,起業以外にない.
・起業を成功させるコツは,読者のみなさんの頭の中にある価値を,
形にすること.
※コメント
付加価値ビジネスが,今後のキーポイントになりそうだ.
特に日本のような国は,いちばんこれが求められる.
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2012年9月26日 水曜日 午前7:00
** 【追記】
From:荒木肇
件名:メッケルの指導─兵站の仕組みという難問(1)
2012年(平成24年)9月26日(水)
-------------------------
□はじめに──森林太郎は脚気の原因をどう考えていたか?
蘇州在住のN様,お便りありがとうございます.森軍医総監が
死ぬまで伝染病説をとっていたという批判?があることは聞いた
ことがあります.逆に,それはどのような確証,つまり,森が
発表したどんな論文や行動からまとめられた推論でしょうか.
いずれであれ,大問題について,明確な書き方をしなかった
私に責任があります.
結論からいえば,森は著書である衛生学書の改訂出版を
1914(大正3)年に行いました.そのことが,彼が過去の
言説(脚気病原細菌説)を撤回した証拠になると思います.
また,彼は医学者である以上に,軍医官たる軍人であり,
軍の衛生行政の頂点にまで登りつめた人でした.だから,彼が
どう思っていたかについては,彼の論文や言動の記録,行動を
見ての推論しかできないと考えています.
ここからは,医学史の権威である山下政三氏の研究から示唆を
受けたことを基にしています.『衛生新篇』という共著があります.
1897(明治30)年に同僚だった小池正直とともに,森はその
第1版を出しました.その後,改訂が3回され,自らの退官を意識
したであろう森は,第5版を上梓します.その中の疫種の章に
初めて「脚気」がのりました.
その詳細は煩雑であるので省きますが,まず,医史学の大家の
説,伝染病説(東京帝大医科大学長青山胤通),細菌学のコッホ,
臨時脚気病調査会の専門委員,そしてビタミン研究の第一人者
鈴木梅太郎の諸説を紹介するように並べています.ここには森自身
の見解が書かれていません.おかげで,森が最後まで細菌説だった
という誤解が生まれたと山下氏は指摘しています.
山下氏も紹介されているように,この明治最末期から大正の初め
ごろ,脚気医学はたいへんな混乱の時期にありました.まず,
オランダの医師エイクマンが当時の蘭領インド(いまのインドネシア)
の風土病ベリベリの研究からニワトリの脚気を発見したのが明治22
(1889)年.これが紹介されたのが,わが国では1897(明治
30)年のことでした.このエイクマンの研究は次の通りでした.
ニワトリを白米だけで飼うと脚気になる.この脚気は人間の
ベリベリ(脚気)と同じである.玄米や籾米を食べさせると脚気に
ならず,米ぬかを食べさせると快癒する.これがドイツの医学雑誌に
掲載されて,各国の医師が追試験をします.結果はすべて,エイク
マン説の正しさが証明されました.(そして,のちに米ぬかの中から
人類がそれまで知らなかったビタミンが発見されます)
これが明治末期にわが国に紹介されると,大反響を呼びました.
同時に,ニワトリの脚気とヒトの脚気はほんとうに同じものかという
論争が始まります.そして,ヒトの脚気に米ぬかが効くのかという
論争に発展しました.同じだ,だから米ぬかが効くのだという説の
支持者は,都築甚之助(陸軍2等軍医正),遠山椿吉(東京衛生
試験所長),鈴木梅太郎(東京帝国大学農科大学教授)という人たち
でした.
逆に,同じではない.米ぬかは効かないという主張をしたのは
東京帝大医学部の学者(臨時脚気調査会の委員)たちです.
混乱の第2は伝染病説が信じられていたのに,肝心かなめの病原菌
が発見されておりませんでした.青山胤通や三浦謹之助という人たち
は想像でしかものを言っていません.しかも,この1914(大正3)
年には,青山が新著『脚気病論』で,三浦のドイツ語論文『脚気』,
それに林春雄の講演などですべて伝染病説があらためて主張されました.
3つ目の混乱は,ぬかの有効成分の化学実体が,なお不明だった
ことからでした.オリザニン(鈴木),アンチベリベリン(都築),
ウリヒン(遠山),ビタミン(フンク)と名づけられた有効成分は,
すべて不純物であり,どういう化学物質か純粋に取りだされては
いなかったという技術の限界もありました.
そういう時代だったのです.だからこそ,森林太郎は公平に,
すべての説を並列するしかありませんでした.また,森は委員長と
してインドネシアのベリベリ研究を決裁し,現地調査団も派遣しま
した.都築軍医正も出かけた研究者の1人です.その上,森は
米ぬか有効説を発表し,同調者が少ないことから委員を辞任した
都築を励まし,明治44(1911)年には,調査会で発表まで
させました.
そして,混乱が収束したのは,森が予備役に服したあと,なお
臨時委員を務めていた大正8(1919)年から10年ころでした.
この間,森は総会に熱心に出席し,大正6(1917)年の田沢鐐二
のビタミン説を認めています.また,議長を代行した大正7年の
第19回総会では,東京帝大の学者が米ぬかエキスの有効性を発表
することを見つめていました.そして大正8年には偕行社で田沢の
『ビタミン欠乏主因説』が主張されたのです.
こうした動きについて,森は一言も反論したり,妨害したりして
いません.たしかに森は,兵食の問題で,海軍の高木兼寛に激しく
反対し,麦飯給付にも納得していませんでした.それは,若いころ
に,ドイツ人医師ベルツの強い影響下にあったこと,また,医学界
の大立者石黒に引き立てられたことからきたこともあったでしょう.
そして,海軍対陸軍という,どこの軍隊にもあるといわれる対立
意識.これもあったことでしょう.
しかし,晩年には「学理」にてらして納得できることなら,彼は
むしろ正々堂々と賛成するという気分になっていたに違いないと
思います.ベリベリに着目したこと,都築軍医正を励まし続けたこと
などが,私には彼が軍人らしく誠実だったことを表していると考えて
おります.
大正11(1922)年7月9日,鴎外森林太郎は満60歳で亡く
なりました.
N様,日露戦争で凱旋されたお祖父さまのこと,ありがとうござ
います.金鵄勲章も受けられたとのこと,輸卒としてよほど功績が
あったのではないでしょうか.私の曾祖父も,1年志願兵出身の
砲兵軍曹で戦死しました.くだされたお金で祖父は育ちました.
おかげでいまの私たちがあります.戦闘を支えた輜重兵,輸卒の方々,
砲兵輸卒の方々をはじめ,歴史の表舞台に出なかった方々にも
感謝の念をもつ毎日です.
▼兵站について
ロジスティックスの訳語で有名な言葉である.ちょっと昔,外務省
の公金不正経理が話題になった.「ロジ坦」という人たちが役所の中
にいて,外務省の高官が海外に出る時など接遇や周囲への根回しなど
に活躍?したらしい.官僚組織のもつ,ひどく嫌な部分の話だった.
もちろん,逮捕されたのは下級の役人たちである.
高級官僚はそれにふさわしい給与を得ているはずだ.規約で定めら
れた出張費や,それにかかる経費なども公金から出されるはず.
それを超した分は,自らの給与の中から支払うべきで,それをなんと
恥知らずなことに,下級の役人が悪事を働き捻出した公金を使って
いたらしい.がっくりする話である.それにロジスティックスという
言葉を使う.外務省とはなんと下品な役所であり,品性のない人間が
組織の上にいたものだ.
自衛隊では「兵站」という言葉がいまも使われている.何事に
よらず,「兵」や「軍」という言葉がタブーだったはずの自衛隊.
海自には「兵曹」という言葉はなく,陸自にも「軍曹」という階級名
もない.しかし,ロジスティックス,こればかりは「後方」と訳す
他には兵站というしかないだろう.陸自の師団にある後方支援連隊は,
たしか英語表記ではロジスティックス・レジメントのはずである.
来月早々には,陸上自衛隊武器学校に講話に出かける.対象は
『兵站FOC学生』の皆さんである.FOCとは幹部特修課程,
フィールド・オフィサー・コース,3佐(少佐)クラスが学生で,
専門家養成の課程.各科におかれているが,兵站FOCの皆さんは,
武器科,需品科,輸送科などの後方支援職種の方々のことである.
この前,日露戦争時の輜重輸卒や砲兵輸卒などの雑卒といわれた
軍人の話をしたが,さらに,「兵站」そのものの話をしたい.
▼兵站,メッケルの指導
メッケルといえば,NHKの『坂の上の雲』でも有名になった
ドイツ軍人.まるで兵站・補給に関心がうすかった日清戦争
(1894〜5)前の陸軍軍人たちにさまざまな教育を施した.
1885(明治18)年,来日早々,茨城県で陸大学生を率いて
「参謀旅行」を実行する.いまでいう「現地戦術」である.
実際の地形に合わせて,実地で参謀将校を養成する授業であった.
そこでは司馬遼太郎氏の作品でも有名だが,ある少佐はメッケル
に「食糧の補給と集積は?」と問われ,正直に「梅干を集めた」と
答えたらしい.他にもずいぶんと,危険なやりとりがあったという.
学生たちは誇りばかりが高かった士族ばかり,メッケルの厳しい
指導に腹を立て,腰の帯剣を抜いた人までいたらしい.
これにこりた陸軍は,翌年の参謀旅行の前に『準備講義』を
メッケルに依頼し,輸送と輜重についてのレクチャーが行われた
という.その中で,メッケルは,
『自分が日本の地形を観ると,道路は狭縊(きょうあい),
橋梁は堅固ではない.その上,いたるところに山あり田あり.
野砲の運転にはきわめて悪条件,したがって師団には山砲を
つけて,輜重および行李も駄馬編成にすべし(意訳)』
と述べたらしい.
これらの結果から,輜重兵大隊は改編され,「行李(こうり)」,
「兵站縦列(じゅうれつ)」,「輜重監視隊」の定義が定められた.
輜重兵大隊の改編は大きなものだった.それまで大隊本部と
2個中隊で編成されていたものが,戦時編制では本部と「糧秣
(りょうまつ)縦列」が5個,そして馬廠(ばしょう)が1となった.
縦列はおそらくTRAINの訳語だろう.
平時の輜重兵大隊にあった各中隊が戦時編制になると縦列になった.
人員規模も予備役将校下士兵卒が召集され,大きなものとなった.
糧秣とは,人が食べる食糧と馬用の秣(まぐさ)の意味である.
馬廠は100頭あまりの軍馬を管理し,補充,治療などにあたる.
「行李(こうり)」は大小2種に分けられた.『戦闘中必需ノ物品
ヲ載スル者』が小行李.『宿営地ニ於テ要スル所ノ物品ヲ載スル者』
を大行李という.小行李は軍隊に直従し,大行李は「ヤヤ隔離シテ
其ノ後方ニ随ハシム」とされていた.
▼歩兵大隊行李や師団単位の兵站縦列
中隊は戦闘単位であり,大隊は戦術単位である.歩兵中隊は200人
規模だが,大隊には4個中隊があり,総員は1000名にもなる.
同じ釜の飯を食う最小単位が中隊であり,カンパニーといわれる.
それらを4個も集めると,メシばかりか補給,経理,衛生その他の
面倒をみるので,平時には6〜7人の大隊本部が大きく200名近く
にもふくれあがる.
参謀旅行記事によれば(偕行社記事),小行李は衛生駄馬3頭,
弾薬駄馬16頭である.大行李は将校荷物駄馬7頭,炊事具駄馬8頭,
糧秣駄馬12頭だった.
各師団ではそれぞれ,「兵站縦列一個」が基幹部隊としてつくられた.
これは師団が複数個で集成された軍直轄の輸送部隊で,後方の倉庫と
師団集積地の間の糧秣輸送にあたる.
このほか師団には「輜重監視隊」3個が編成される.
手元の日露戦争の従軍記の中に,召集された歩兵軍曹が,戦場で
現役時代の同僚に出会う場面があった.
『たしか隣の郡出身の現役時代いっしょだった○○軍曹である.
なぜか,騎兵服を着ていて,手に鞭をもって,乗馬長靴をはき,
騎兵刀を吊っている.聞けば,監視隊だという.将校以下50名
の部隊で,全員,乗馬だとのこと・・・略(現代語訳)』
多くの軍夫とわずかの輜重兵だけで編成された「輜重縦列」を
統括,管理,護衛する完全乗馬編成の戦闘部隊を輜重監視隊といった.
有事に召集される部隊だから,予備役の下士などは馬に乗れれば,
歩兵だろうが工兵だろうが「騎兵服」を着せてしまったのだろう.
▼明治24(1891)年の野外要務令から
○歩兵大隊大行李の編制
荷持駄馬9頭,炊事具駄馬8頭,糧秣駄馬13頭,予備駄馬2頭,
馬匹合計32頭.
尋常糧秣 精米6合,塩ないし梅干し,魚菜若干.
精米6合というのは人員1人当たり1日分の支給量である.
魚菜若干とあるから,読者の多くはすぐに気づくだろう.例の
「脚気病量産食」である.尋常糧秣は部隊の日常の給食スタイルの
給与をいう.炊事具でつくるのだ.
これに対して,携帯糧秣は「予備糧食」ともいわれている.
糒(ほしいい:乾燥飯)を1日3合分とし,調味料は塩若干とある.
状況に応じて,「乾麺麭(かんめんぽう)」や「精米」で代用される
こともあった.この乾麺麭は東京の「風月堂」が陸軍の発注を受けた
ビスケットの改良型だったという話もある.
炊事具はいわゆる鍋釜のことであり,「戦用炊具(せんようすいぐ)」
といった.映画の『八甲田山』の考証はなかなか正しかった.遭難
した集成中隊はおよそ200名,大きな鍋や釜をかつぎ,薪なども
橇に積んでいたことを記憶されている方もおられるだろう.雪の中
での行軍では,小グループで火を起こすより,伝統的な戦用炊具に
よる一斉調理がいいと判断されたからだろう.ただし,直に火にかけ
られる飯盒が開発されたのは日清戦争後の明治31(1898)年
である.それまでは,陸軍将兵は大行李の尋常糧秣を,大行李の人員
が炊事具でつくった食事を配られていたのである.
▼日清戦争時の背嚢入組品定数
まず,革製の背嚢である.重量は2175グラム(以下省略),
村田銃弾薬40発,1835,同手入具45,燕口袋(えんこうぶく
ろ:先がすぼまって閉じられる袋)にハサミ,クシ,糸巻,糸,針で
45,糒(ほしいい)2日分6合で765,食塩100,襦袢(じゅ
ばん・シャツのこと)292,袴下(こした・ズボン下)232,
靴下2組95,木綿脚絆(もめんきゃはん・靴とズボンの間を
覆う)83,草鞋(わらじ)113,予備短靴750,
外套1550,飯盒(1食分)1000の合計9170グラムだった.
次回は,民間人から集めた軍夫の管理に頭を痛めた陸軍が輜重
輸卒を組織化した日露戦争時の兵站の実態をまとめてみたい.
(以下次号)
(荒木肇)
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** 【追記】
From:長南政義
件名:信頼感に欠ける著作・議会証言
2012年(平成24年)9月27日(木)
--------------------------
軍事情報特別連載 戦史に見るインテリジョンスの失敗と成功
朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月,国連軍の敗北〜(30)
1950年11月に起きた「中国人民義勇軍の参戦に伴う国連軍の敗北」を
素材として,朝鮮戦争における「情報の失敗」を検討します.情報を
提供「された」側(高級指揮官や作戦立案者)だけでなく,情報を
提供「する」側にも,失敗への責任はあるのです.
-------------------------
□前回までのあらすじ
前回,ウィロビーが抱いていた「中国人が劣悪な戦闘能力しか有しない」
という偏見がどのようにして形成されたのかについて分析した.
ウィロビーは米陸軍指揮幕僚学校の教官時代の間に研究した日中戦争
研究を基礎として戦間期に『戦争における機動』(Maneuver
in War)
を執筆した.
同書の内容を分析した結果,ウィロビーが抱いた偏見の萌芽が台児荘
の戦いや徐州会戦といった日中戦争の戦闘を分析した結果に胚胎して
いる点を指摘した.
日中戦争の初期から中期にかけての中国軍は圧倒的数的優位にも
かかわらず数的に劣勢な日本軍を撃破することに失敗するどころか,
劣勢な日本軍の巧みな戦術的機動に翻弄された.その結果,
ウィロビーは,台児荘の戦いや徐州会戦の分析を通じて,数的に
劣勢な日本軍が戦術的機動を以って機動性で劣る中国軍を撃破する
イメージを確立するに至った.
筆者は,日中戦争における中国軍の戦闘能力の分析から朝鮮戦争
での人民義勇軍の戦闘能力を推し測ろうとしたウィロビーの論理を
「日中戦争アナロジー」と名付けた.
しかし,諸条件が相違したため朝鮮戦争では「日中戦争アナロジー」
は通用しなかった.すなわち,1950年11月の事例では,中国軍
は国連軍に対して兵力数で優勢であったのみならず「機動性」の面
でも優勢であったからだ.なぜならば,重砲や戦車といった装備が
少なかったため人民義勇軍は道路に拘束されることなく,米軍で
あれば行動不能地域とみなされる森林地帯や山間地帯に浸透し,
国連軍を包囲することができたからであった.
日中戦争における常に機動性に欠けるゆえに「包囲される」中国軍
というウィロビーの観察は,1950年11月にはウィロビーに
とって不利に働いた.11月の事例では,歩兵主体の人民義勇軍
の方が機動力を発揮でき,機械化され重装備の米陸軍および米海兵隊
が機動力に欠け,人民義勇軍により包囲される役回りを演じる羽目
になったのである.
▼主観的で信頼性に欠けるウィロビーおよびマッカーサーの著作・議会証言
前々回,ウィロビーの著作やマッカーサーの議会証言は主観的で
信憑性に欠ける部分が多く,史料的に問題がある旨を指摘した.
では,より具体的にどういった点が信頼できないのであろうか?
今回から2回にわたりウィロビーの著作やマッカーサーの議会証言の
中に見られる弁明の真偽について考察してみたいと思う.
ウィロビーは,戦後に執筆した著書『マッカーサー:1941〜
1951年』(MacArthur, 1941-1951)の中で,中国共産党の意図を
確知することに失敗した責任をワシントンに帰して以下のように批判
している.
「外国の意図をあつかう軍事的政治的調査は,通常,国務省もしくは
CIAが所管していた」
このウィロビーの記述はマッカーサーの弁明に対応したものである.
マッカーサーは司令官解任後の1951年5月に開催された米国上院
軍事外交委員会の席で以下のような証言をしている.
「1950年11月に,わが国のCIAは,中国軍が一部兵力で
大規模な介入を行うチャンスは存在しないと思われると言っていた」
米国上院軍事外交委員会の証言席に立ったマッカーサーは,CIAを
批判し,自身とウィロビーがCIAから意図的に疎遠にされたと述べている.
しかし,マッカーサーが1950年10月12日に受領したCIA
の報告書は,マッカーサー率いる極東軍司令部参謀第二部の「中国が
朝鮮半島に介入する機会は過ぎ去ってしまった」という分析結果を
そのまま反映させたものであった.
したがって,CIAが「中国軍が一部兵力で大規模な介入を行う
チャンスは存在しないと思われる」と報告書で述べていたとしても,
それは極東軍司令部参謀第二部の分析内容とほぼ同一内容であった
のだ.このことからもわかるように,マッカーサーの議会証言および
ウィロビーの著作の内容は,客観性に欠けている部分が多いのである.
▼ウィロビーまたもやミラー・イメージングの罠にはまる
ウィロビーは自著『マッカーサー:1941〜1951年』の中で,
自身の情報分析報告書が,中国共産党による戦争介入の脅威に対処
するためワシントンの政策中枢もしくは国連による反応を引き出した
に違いないと述べている.さらにウィロビーは,中国が朝鮮戦争に
現実に介入するだろうと結論づけなかったとしてワシントンの政策
中枢や国連を批判してもいる.
しかし,この連載で何度か指摘したように,ウィロビーは,中国が
朝鮮戦争に介入するかもしれないという周恩来ら中国要人の公式
声明を単なる「政治的な恐喝」にすぎないと評価していた人物で
あり,このことを考慮するならば,ウィロビーが書いた報告書の内容
がワシントンに中国の脅威に対する対応を引き出すような深刻な内容
であったとは考えられない.
中国側要人が発する国連軍に対する警告の言葉や満州で増強中の
人民解放軍の存在をワシントンは知っていたとして,ウィロビーは
中国共産党を抑止できなかった責任をトルーマン政権にあるとして
以下のように述べている.
「もし,朝鮮半島に中国共産党員の1人たりとも進入した場合,
それは敵対行為とみなされるであろうという効果的な警告を米国が
発していたならば,朝鮮戦争は終結していたであろう.・・・[中略]
・・・その代わりに,弱い政策やロシアによる戦争介入の恐怖から,
事態は正反対の方向に進んでしまった.こうして,中朝国境に架かる
諸橋梁は聖域となり,満州に所在する中国の基地は無傷なまま
残されてしまった」
ウィロビーが鴨緑江に架かる橋梁に注目していることは,彼が,
大規模な軍事部隊を行軍・展開させるうえで橋梁や道路といった
インフラを重視する米軍基準で中国側の軍事行動を考えていたこと
を証明している.
朝鮮戦争において米軍は荒涼とした山岳地帯が広がる朝鮮半島北部
においてしばしば道路に拘束されたが,中国側は急造された貧弱な
橋梁や国連軍が機動困難であった山岳地域を頻繁に利用することで,
国連軍に対し位置的に有利な地点を占めることに成功したのである.
すなわり,ここでもウィロビーはミラー・イメージングの罠に
陥っていたといえる.
▼ウィロビーによる陸軍上層部批判
『マッカーサー:1941〜1951年』の中で,ウィロビーは,
仁川上陸作戦計画を進めようとしたマッカーサーと計画に反対する
統合参謀本部との対立を以下のように評した.
「彼[マッカーサー]の計画は,ワシントンに居る強力な軍事指導者
たちによって反対された」
このウィロビーの言葉の後には,統合参謀本部議長オマー・ブラッド
レーは水陸両用作戦が「時代遅れ」の戦術であると宣言したという
告発の一文が続いている.さらにウィロビーはこのブラッドレーの
対応について,「明らかに,上層部は軍事史の教訓を忘却して
しまった」とのコメントを付け加えてもいる.
ウィロビーは,マッカーサーが最も嫌っている将校の一人である
陸軍参謀総長ジョセフ・ロートン・コリンズ陸軍大将に対しても
以下のような批判を展開している.
「コリンズ陸軍大将が仁川上陸作戦計画とそれを現実的に達成する
手段の重要性について理解することに失敗したことは,戦場に
おいて司令官[マッカーサー]が直面している現実の諸問題に対処する
彼の能力の程度を物語るものである」
「戦場において司令官が直面している現実の諸問題に対処する
彼の能力の程度を物語るものである」とはかなりの皮肉である.
ウィロビーは,もしコリンズがマッカーサーの立場であったと仮定
するならば,コリンズが司令官として国連軍が直面する諸問題に
対処できないだろうと述べているのである.
マッカーサーとコリンズとの間の摩擦は,戦術をめぐる意見対立を
超えるものであった.朝鮮戦争で第十軍団を率いたマッカーサーの
寵臣ネッド・アーモンド陸軍少将は,マッカーサーがアーモンドが
第十軍団軍団長に就任するであろうとコリンズに伝えた時に,
コリンズが大激怒したと述べている.
コリンズが激怒したのには理由がある.軍団長任命のような重要人事
は,陸軍参謀総長の事前承認を得るのが普通だったからである.
マッカーサーがコリンズの事前承認もなしにそのように自由気まま
に振る舞えたのは,マッカーサーが第13代の陸軍参謀総長
(ブラッドレーは17代目,コリンズは18代目)を経験していた
陸軍最古参の現役将官の1人であり,陸軍内部に大きな影響力を
持っていたからである.
人事権を握る陸軍参謀総長コリンズを無視して,独断で軍団長人事
を決定したマッカーサーの行動は,この当時の陸軍内部における
マッカーサーの威信と声望の高さを物語ると同時に,彼がいかに
増長し独裁者に近づきつつあったのかを示す逸話であるといえる.
そして,誰も逆らえない独裁者であったがゆえに,仁川上陸作戦は
成功し,1950年11月の敗北と自身の失脚をも招いたのである.
(以下次号)
(長南政義)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
⇒ http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
** 【追記】
◆橋上秀樹『野村克也の監督ミーティング』を読み解く
橋上秀樹氏は,今期より,読売巨人軍の一軍戦略コーチであり,優勝の立役者である.
野村克也氏のID野球を巨人に取り入れた.
ヤクルト,阪神,楽天の3球団で,現役選手として,コーチとして,野村監督の薫陶を12年間にわたって受けた.
※要旨
・野村監督と他の監督との大きな違いは,そのミーティングにある.
普通のミーティングでは,フォーメーションやサインの確認を行う程度である.
しかし,野村監督はそのようなことよりもまず,「人生観」や「仕事観」をミーティングで選手やコーチたちに説くのである.
・野村監督の考える人生には4つの側面がある.
1.人として生まれる(運命)
2.人として生きる(責任と使命)
3.人を生かす(仕事,チーム力)
4.人を生む(繁栄,育成,継続)
・野村監督がヤクルトに来た最初のキャンプでの「監督ミーティング」は,休日前夜を除いて毎晩2,3時間かけて行われた.
ミーティングといっても,基本的にはホワイトボードに野村監督が黙々と板書していき,それを選手たちが,必死になってノートに写していくもの.
補足説明が必要なところだけ,監督が口頭で説明していく.
当時のヤクルトでは,「野球道具は忘れても,筆記用具は忘れるな」がキャンプ前の合言葉だった.
・野村監督が一番伝えたかった「変化する」ということ.
監督ミーティングでも「進歩とは変わること.変わることが進歩である」と繰り返し述べていた.
・目の前にある現実を好転させるためには,自分が変わるしかない.
「最大の障害は,実は自分自身のなかにある」というのが教えだった.
・合言葉は「言い訳は,進歩の敵」.
・仕事,人生は結果でなくプロセス重視である.
プロ野球とは,結果がすべての世界である.
しかし,野村監督は,仕事も人生も,結果主義でなく,プロセス主義が大切だと訴え続けた.
・平凡なことを継続することこそが,非凡なる結果への道なのだ.
常に考えながら,テーマをもって取り組むことが,練習において重要だ.
・野村監督は,一流になる人の条件を以下のように挙げている.
1.独創的な考え方やアイデアに優れている.
2.自主性と自発性をもっている.
3.観察力に優れている.
4.頂上体験や至高体験が多い.
5.旺盛な問題意識がある.
6.人から離れてプライバシーをもつ欲求が大きい.
孤独な時間を精神的な成長に使う.
・選手の考え方を変えるボヤキ術.
野村監督は常に聞き手を意識したボヤキしかしない.
私も一緒にベンチにいて,最初の頃は,よくあれだけ毎試合毎試合,ずっとしゃべっていられるものだと驚いたものだ.
不思議なことにこのボヤキをずっと聞いていると,次第に野村監督の野球学が理解できるようになってくるのだ.
野村監督には無知な選手たちに教えたい膨大な量の野球学がある.
・野村監督と落合監督は,よく話が合った.
「俺も野球の話は好きだが,落合はオレ以上に野球のことが好きだな」と言っていた.
・データは集めれば集めるほど,物事は複雑ではなく簡単になっていく.
・ボヤキとは,高い理想があるからこそ口に出る.
・強い組織は,規則も厳しいものだ.
※コメント
野球もビジネスも,より多くデータを集め,分析することに成長の近道がある.
よりよく知ることによって,そのテーマが分かり,楽しくなる.
ちょっとした視点を変えること,情報を多く集めることから変化が生まれるものだ.
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2012年9月28日 金曜日 午前7:00
** 【追記】
◆美月あきこ『ファーストクラスに乗る人のシンプルな習慣』を読み解く
※要旨
・機内でさまざまなお客様と接してきたなかで,人格を含め「参考にしたい」と思わせてくれた方々は,
ご自身が起業してファーストクラスに乗るまで上り詰めた,創業社長の方々です.
彼らこそ,真のビジネスエリートであると思います.
・ファーストクラスは,顔が知られているがゆえに起こりうるトラブルを完全にシャットアウトしてくれる「安心」を確保してくるスペースである.
・寝心地のよさとプライバシーが座席のポイント.
極上サービスはグラスに入ったシャンパンから始まる.
・ファーストクラスのお客様をみていてびっくりさせられるのは,じつにこまめにメモを取るという姿勢です.
メモをとることで,相手への心遣いにもなる.
メモを取れば,信用も得られる.
・成功者は話に集中してよく聴き,これは大切だ,と思ったところを逃さずにメモをとる.
・ファーストクラスは読書家ばかり.
ファーストクラスのお客様の外見的特徴として「身軽」が挙げられる.
大きな荷物を持ち込みすぎて荷物棚がいっぱいということは滅多にない.
・彼らは人目に着かない場所に靴を揃えている.
・ファーストクラスのお客様は,CAのサービスに対して,じつに気持ちのよい対応をしてくださる.
礼儀正しくスマートで,CAへの気遣いにあふれている.
・成功している人は,巻き込み名人.
他人を自身の魅力で上手に巻き込み,ファンにするということ.
・ファーストクラスは挨拶から違う.
CAはお客様の目を見て,笑顔で挨拶します.
ですから,お客様さえこちらをみてくだされば,必ず目が合うようになっています.
アイコンタクトの際に,すかさずご挨拶してくださるのが,ファーストクラスのお客様です.
・ファーストクラスのお客様は,姿勢がいい.
また,声がよく,「成功者の顔相」に満ちている.
・商売は連想ゲーム.
頭の中であれもしたい,これもしたいと考えているときには妄想状態ですが,紙に書き出すと,その妄想が計画や企画となって現実味を帯びてくる.
※コメント
誰もが一度は乗ってみたいと思うファーストクラス.
そこに乗るためにはお金ではなく,品格を磨かなければ,フィットしないことを教えてくれる.
そのためには,ガムシャラに働くのではなく,いろいろ工夫して,ビジネスを展開していかなければならない.
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2012年9月29日 土曜日 午後3:00
** 【追記】
◆山内昌之『リーダーシップ,胆力と大局観』を読み解く
※要旨
・大臣の職務は,仕事でいちばん大切なところだけを大体押さえておけばよい.
日常の細かい事柄は,従来のやり方に依拠することもできる.
ただ大臣の重要な職務は,人の言いづらいことを語り,人の処理が難しい事柄を処理する点にある.
このようなことは一年間に数回に過ぎないほどだ.
従って,平素から細かいことに関わりあって疲れ,心を乱すことがあってはならない.
(江戸時代の儒学者,佐藤一斎『言志四録』現代語訳)
・歴史上,大震災などの危機を乗りきってきた内外のリーダーたちには大きな共通性がある.
その第一は,英国の戦史家リデル・ハートが述べたように,
「こころの平静は指導者に不可欠の資質である」ということだ.
・西郷隆盛が言いたかったのは,たとえ外交が不得意で細かな故実を知らずとも,
政治家たる者は平常心に加えて筋道を通す判断力と胆力が要求されるということだ.
・リンカーンほど政治家として軍事にリーダーシップを発揮したアメリカ大統領も少ないだろう.
リンカーンの軍歴は民兵として勤務した数ヶ月だけにすぎない.
しかし,南北戦争が始まると議会図書館から借りた軍事関係の書物を読みふけり,
独学ながら持ち前の勤勉さで戦争について勉強した.
その上で,比類ない知性,優れた常識によってリンカーンはすぐに卓越した戦略的思考を身につけた.
・日露戦争の将軍には有能な指揮官がたくさんいた.
第一軍の黒木為?や第二軍の奥保鞏,第八師団長の立見尚文などは,日本陸軍史はもとより,
世界戦史でも有数の用兵家だった.
かれらがそれぞれの持ち場で存分に指揮官として能力を発揮できたのは,
やはり満州軍総司令官として将に将たる器をもつ大山巌をいただいていたからだ.
・沙河会戦のとき苦戦を強いられ総司令部内が殺気立っていたところ,
昼寝から起き出してきたらしい大山がふらりと現れて,
「児玉さん,今日もどこかでユッサ(戦)がごわすか」と聞いた.
このユーモアあるいは諧謔めいた一言に,あっけに取られた参謀たちは一瞬の沈黙の後ゲラゲラ笑いあった.
そして,笑いが収まると,部内の空気がピリッと締まったという有名な逸話なのである.
・こうしたユーモアはいかにも薩摩人らしく,大山の茫洋とした人格は薩摩の雄大な風土が生んだといってよい.
大山のようなユーモアも時にはリーダーシップを形づくる大事な要素の一つとなる.
人格的なおかしみや愛嬌は薩摩人の特性といってもよい.
・大山の人格が決して生得の素質だけでない点に彼の凄みがあった.
若い頃は,まさに俊英と称すべき鋭さと敏捷な行動力で,兄とも慕ういとこ西郷隆盛の手足となって活躍していた.
大山は独仏語に堪能で緻密な頭脳をもち,アメリカ帰りの知性派,山川捨松を妻に迎えたほどハイカラな男であった.
・「綸言汗のごとく」と比喩されるように,統帥やリーダーシップの要諦は言葉の重みにあるからだ.
人心を収攬するのは論理的な弁舌ではなく,言葉に込めた誠意こそ必要となる.
・予測不可能な世界の未来を分析する戦略的思考にとって,歴史は依然として知の宝庫なのである.
・山口多聞から学ぶべきは,状況が混乱し情報が錯綜しているときも揺るがなかった確かな判断力である.
・真珠湾攻撃の飛行隊長だった淵田美津雄は,
戦後クリスチャンとなり人命の尊さを誰よりも強調しながら,
指揮官たるものは必要とあらば死地に兵を投じることを迷うべきでないと断言する.
「目前の悲惨に目を覆われて全局を忘れてはならない.
これは洋の東西を通じ,いつの世にも変わることのない指揮官の統率である」
・外交で相手が非常識なほど強く出てくる時は相手も苦しいのである.
これについては山口多聞の教えを学ぶべきだ.
相手が攻勢をかけてきている時は,それと我慢比べしながら現場の部下を督励すべきが宰相の役目.
※コメント
山内氏は,リーダーの条件について,総合力,胆力,人心掌握力の3つを挙げている.
これらを備えるためには,青年時代よりさまざまな訓練と修羅場の経験が必要となる.
現代においても,これらを身につけるために修行を続けたい.
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2012年9月28日 金曜日 午前7:00
** 【追記】
From:石川明人
件名:軍人もまたひとりの人間である
2012年(平成24年)9月25日(木)
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軍事情報短期連載 戦争は人間的な営みである〜新戦争文化論〜(4)
「軍人もまたひとりの人間である」
石川明人
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こんにちは.
石川明人(北海道大学助教)です.
コメントをいただきました.
EWAT2672さま.コメントありがとうございます.
ご感想をいただき,感謝いたします.「軍事」と「宗教」の二つは,
人間社会に非常に深く長い影響を与えるものですね.
どちらにもプラスとマイナスの両面がありますが,いずれも人間社会
から完全に取り除くことはできないものです.両者とも非常に
「人間的」な営みであるがゆえに,その二つが交錯する場面では,
私たち人間が本来的に抱える様々な矛盾や限界が,かいま見られる
ような気がいたします.これからもじっくり考えていきたいと思って
おります.
杉浦さま.コメントありがとうございます.
ご指摘のとおり,「トレンチコート」や「セーラー服」など,軍服に
由来するものは今でもありますし,「戦略」や「キャンペーン」など
の言葉は,会社経営の場面でも普通に使われますね.
「将棋」や「チェス」などの娯楽も,つまりは戦争ゲームです.
戦争や軍事は私たちの日常に浸透しています.偏見なく戦争・軍事に
向きあえば,きっと私たちは,多くを学ぶことができるのではないか
と考えています.今後ともよろしくお願いいたします.
では,【戦争は人間的な営みである】の第4回目をお送りしましょう.
今回のテーマは,「軍人もまたひとりの人間である」です.
軍人・自衛官というのは特殊な職業ですが,しかし彼らもまた,
それぞれの人生を背負い,愛する家族をもつ普通の人間です.
そのことについて,考えてみます.
忌憚のないご意見,ご感想をいただければ幸甚に存じます.
(参考動画:石川明人「戦争は人間的な営みである」約15分)
http://www.youtube.com/watch?v=gL_de198QsE
************
▼誰もが戦争と関わっている
戦争に関わる,軍事に協力する,とは一般にどこまでをいうのだろうか.
開戦を決断する政治家,そして銃を手にする兵士たちは,もちろん
「戦争に直接関わっている人々」である.兵士のために武器を整備
するエンジニアもそうだろう.
芥川龍之介も,横須賀の海軍機関学校で英語の嘱託教官をしていた
ことがある.彼の初の短篇集『羅生門』が出版されたのはその時期
である.では,軍人にその職務に役立つ知識を教えていたという点で,
芥川も戦争に協力した者の一人と見なされるべきであろうか.
軍隊の基地のトイレに便器を納入しているメーカーも,軍隊の活動
を影で支えている,ということになるだろうか.
戦争や軍事への関わりは,結局は,どこまでを直接的・間接的・無関係
と認識するかという「感覚」の問題でしかない.戦争への関与や
軍事への協力ということの意味は,本来は,果てしなく曖昧で,
恣意的なものである.どこまでが林でどこからが森か,どこからが山
でどこまでが丘か,という話にも似ている.
もちろんこうした理屈は,戦争や軍事に限ったものではない.
他の多くの職業,他のさまざまな事柄についても,同じようなこと
が言えるであろう.
だが,「戦争」や「軍事」に関する事柄が人類全体の問題であり,
人間や社会の根本的なありようを問いかける深刻なものであるならば,
なおさらそうした究極的な「つながり」は意識されねばならないの
ではないだろうか.
最初にも述べたように,社会の一員として生活する限り,戦争や軍事
という人々の命や生活にかかわる重大な事柄へのつながりは,
明確にどこまでは責任がありどこからは責任がない,と境界線を
引くことなどできない.
そもそも,少なくとも近現代においては,戦争をやるかやらないか
を決めるのは軍人や自衛官ではない.決めるのは政治家であり,
そしてその政治家を決めるのは,国民の全員である.
軍隊や自衛隊に批判的な一部の人たちは,軍人は訓練でさまざまな
武器を用いているから,きっとそれを実際に使ってみたくなって
しまうのではないか,などとも言う.つまり軍隊や自衛隊の存在
自体が,戦争の可能性を高めているなどと考えているようでもある.
しかし,例えば消防隊員は,日々の訓練の成果を発揮できる機会
として,火災や事故の発生を待ち望んだりはしないだろう.医師
もまた,他人の病気や怪我を,自分が得た知識と技術を活用させ
られる機会として喜ぶわけではないだろう.
同じように,軍人や自衛官も決して武力衝突を欲しているわけでは
ない.有事にはまっ先に危険に身をさらし,家族を悲しませるリスク
を背負っているのは彼らである.平時でも事故による殉職は少なく
ない仕事である.
日露戦争時,あるいは太平洋戦争時には,日本では軍人にも開戦に
消極的な者が多くおり,一方で,民間人のなかにはかなり多くの
開戦論者がいたということも,決して忘れてはいけない.
▼軍人・自衛官へのまなざし
現代日本では,とりわけ一九六〇年代から七〇年代にかけては,
自衛隊に対する社会の目は異様に冷たいものであった.
例えば,防衛省では職務上の必要から,自衛隊員を国内の大学院等
において研修させることがある.しかしこれまでには,受験の際に
大学側からその辞退を求められたり,せっかく送った願書が
返送されてくるという事例も頻発していた.つまり大学による自衛官
の受験・入学の拒否である.
それは一九六四年から一九七一年までの間だけでも,約五〇名に
及んだ.一九七六年度版の防衛白書によれば,最近はトラブルの
予想される大学には出願を避けている等の理由から入学を拒否される
例は少なくなっているが,今なお希望の学校や科目等を自由に
選べない実情にあると記されている.
また,私費で夜間に大学等ヘ通学したり,通信教育により勉学に
励んでいる者も,一九七五年の時点で約一万二三〇〇名に達して
いた.だがこの場合ですら,自衛官であることを理由に高校通信
課程の転入学を拒否されたり,あるいは大学入学後に自治会学生
らによって一年間にわたって通学を妨害され,現地の地方法務局
に人権侵犯問題として申告したという事例もあったのである.
一九七三年には,立川市で同市内へ移駐してきた自衛隊員六五名
の住民登録が理由もなく留保されたため,市長が職権濫用で告発
されるという事件があった.いわゆる自衛隊員住民登録拒否事件
である.これは明らかに違法であり,偏見に基づく人権侵害で
あったが,事件は立川市が住民登録を再開し自衛隊側も処罰を
求めなかったことから,起訴猶予処分となった.
今現在でも,軍事や自衛隊に関することを大学内に持ち込むには,
教員の側に相当の覚悟が必要となる.
私もこれまで,戦争に関する授業を担当してきた.その講義では
自衛隊に関する事柄にも触れるわけだが,私には自衛隊での勤務
経験はないので,現場のお話をしていただきたいと思い,広報官
や知り合いの自衛官をとおして誰かを紹介してもらい,講義に
ゲストとして自衛官をお招きしたいと考えた.
すると自衛隊側は快諾してくださるのだが,しかし,大学側
(事務方)はそうした企画に対して極めて渋い反応を示し,
結局なかなか実現することができないのである.
他の授業では,会社経営者,法律家,芸術家,その他何らかの
専門職の方がゲスト・スピーカーとして教壇に立つことはよくある.
講義のテーマと連関する事柄において,現場の第一線にいる方に
お話をしていただくことは,学生にとっても明らかにプラスで
あろう.ところが,自衛官だけは呼べないのである.
それは国内の法律にも学内の規則にも違反していないにもかかわ
らず,実行に移すのは大変困難なのである.
もちろん大学は,明確に「禁止である」,「許可しない」とは言わ
ない.理屈の上では不可能ではないのだが,トラブル回避のために,
自粛するようにそれとなく促されるのである.私としても上司や
同僚に迷惑をかけるわけにはいかないので,その「助言」に
従わざるをえない.
聞くところによれば,一部の大学では,近くの駐屯地から
現職自衛官を講師として招いているなどの例もあるようだ.
しかしそれは例外的なものであり,日本のほとんどの大学では現在
でもそうしたことは難しいであろう.
ひと昔前ほどではないが,今も「軍事」や「自衛隊」は総じて
デリケートな話題であり続けているのである.
東日本大震災よりも数年前,私は学生数名をつれて千歳基地の航空祭
に足を運んだ.私自身は航空祭や駐屯地祭には何度も行ったことが
あるが,一緒に行った学生たちのほとんどは自衛隊施設に入るのが
初めてであった.私たちは展示してある戦闘機,輸送機,ヘリコプ
ター,ミサイルなどをみて,屋台で焼きそばやたこ焼きを食べ,
デモフライトを眺め,夕方になって帰路についた.
そのとき,一人の学生が今日一番印象的だった光景として口にした
のは,F15戦闘機の爆音でもブルーインパルスの華麗な技でもない.
制服や迷彩服を着た自衛官が,赤ん坊を抱きながら奥さんと仲良く
並んで歩いている姿だったという.
それまでその学生は,軍人は軍人,自衛官は自衛官であり,彼らは
戦争・軍事に関わる人々だというだけで,その一人ひとりの人格
や,生活や,家庭というものについてまで想像をしたことが
なかったというのである.
▼軍人・自衛官の不条理
軍隊の仕事は,他の仕事とくらべて本質的に異なる性格をもって
いる.戦争や軍事・軍隊の営みのなかに,独特な伝統や,儀礼や,
慣習や,価値観が生まれたのは,それが本質的に不条理なもの
だからである.
というのは,まず第一に,兵士は日々の厳しい訓練によって技術や
知識を習得しているにもかかわらず,社会からは,それらが実際に
活用される機会は永遠にこないことが期待されているという点である.
この点は,吉田茂の有名な訓示に見事に表現されている.「自衛隊
が国民から歓迎されちやほやされる事態とは,外国から攻撃されて
国家存亡の時とか,災害派遣の時とか,国民が困窮し国家が混乱に
直面している時だけなのだ.言葉を換えれば,君達が日陰者である
時のほうが,国民や日本は幸せなのだ.どうか,耐えてもらいたい」.
この不条理は,彼らの仕事の大きな特徴の一つである.
そして第二に,戦争は確かに政治の延長線上にあるにもかかわらず,
最も直接的にそれにかかわる兵士一人ひとりは,政治的活動に関与
することができないという点である.
国防の任務は,民間人がイメージしている以上に地味なもので
あり,決して華々しいものではない.軍隊は社会に極めて強い影響力
をもっているがゆえに,兵士は個人の価値観や信念で動いてはならず,
あくまで組織として行動し,上からの命令に絶対に従うことが求められる.
軍隊や自衛隊へ入る若者たちのなかで,必要以上に強い政治的信念
を抱いてくる者たちは,むしろ途中で挫折しやすいともいわれている.
戦争そのものは何らかの大義をもっていたとしても,現場の兵士たち
は必ずしもいちいちそんなことを考えていられない.徴兵された者や,
単に他に仕事がなかった者もいるだろう.崇高な理想を抱いていたり,
あるいは家族や故郷のために戦うという者もいるかもしれないが,
彼らはもっとも直接的には,隣にいる同じ部隊の仲間のため,戦友
のために戦うのである.
それは美しいと同時に不条理なことでもある.一番辛いはずの
彼ら戦闘の当事者が,実際にはその戦争の目的に直に関わる余裕
を持つことが困難であり,結局戦いのための戦い,防衛のための
防衛にならざるをえないからである.
そして第三に,軍務は一つの職業,あるいは制度に他ならないが,
それにもかかわらず,軍人は時にはそのために自らの私生活を犠牲
にし,命をも危険にさらさねばならないという点が挙げられる.
収入を得て家族を養うための手段を「職業」というのであれば,
自分や家族を犠牲にしうる軍務とは,むしろ通常の職業の域を
超えたものだともいえよう.
自衛官の「服務の宣誓」の最後の一文,「事に臨んでは危険を
顧みず,身をもって責務の完遂に務め,もつて国民の負託に
こたえることを誓います」というのは,こうした彼らの覚悟を
端的に示している.
軍事組織はその時代の科学技術や工業力を最大限に活用する.
しかしその組織の維持や継承においては,伝統を無視して物質的
ないし経済的な合理性のみで割り切っていくことはできない.
なぜなら組織の全体を維持し,任務を遂行し,それを継承していく
のは,それぞれの人生を背負い,感情をもった,生身の人間に
他ならないからである.
軍隊は,構成員の仲間意識,プライド,伝統,文化というものに
多く依存して成り立っている側面が強い.軍事を種々の合理性だけで
扱おうとすると,さまざまな矛盾があらわになり,軍の規律は低下し,
やがては平和の阻害にさえつながるだろう.
構成員に「意味」を与えるために,軍事組織には一見したところ
非合理的に見える伝統や文化というものが必要なのである.それが
戦争や軍事を格好よく見せてしまうこともあるが,それはそもそも
そのように意図しているのだから当然のことなのである.
外見においても内面においても,格好の良さや美しさがなければ,
そして一人ひとりのプライドを育まなければ,強力な兵器を扱い,
苛酷かつデリケートな役割を担い,本質的に不条理を抱えた大組織を,
安定して維持することはできない.戦争や軍事の格好の良さは,
それがもつ根本的な不条理の裏返しなのである.
▼軍人・自衛官への敬意
私の父方の祖父は陸軍将校で,朝鮮半島に派遣されたこともあり,
陸軍予科士官学校の教官もつとめた.その祖父が残した遺品の中に,
『士官学校記事』という定期刊行の論文集から「精神訓話」という
文章が載っているページだけを分解して取り出し,各号のその部分
だけを丁寧に紐で閉じた10センチほどの厚さの束があった.
その「精神訓話」というのは,文字通り軍人の精神のあり様について
書かれたコーナーである.だがそれらの内容は,決して攻撃的で
あったり敵愾心を煽るようなものではない.むしろ,大変謙虚な,
素朴で美しい日本的道徳を論じた文章ばかりなのである.そこには
「軍人」という職業に必ずしも直結するわけではないような,
人ならば誰もが心に抱いておくべき道徳が書かれているのである.
同じことは,「軍人勅諭」における,忠節,礼儀,武勇,信義,
質素,の五つについてもいえるであろうし,また批判的に触れられる
ことの多い「戦陣訓」でもそうである.それらはもちろん軍人という
特殊な人々へ向けた文章ではあるが,しかし冷静に読んでみると,
全体の基本線は,あくまで人間一般にほぼ普遍的に受け入れられる
ような道徳なのである.
一般の会社員や公務員のためには,わざわざこのようなものはない.
軍人に対してのみ,生き方,死に方,日々の佇まいについての規範
が求められる.そうしたことそれ自体に,軍人という立場の特殊性
が表れているのである.
近代以降の日本では,実在した人物が「軍神」とされることがあった.
廣瀬武夫,橘周太,東郷平八郎,爆弾三勇士,真珠湾九軍神,そして
特攻隊員たちなどである.
だが廣瀬武夫も橘周太も,敵愾心を燃やし,戦闘意欲を鼓舞し,
多くの敵を倒したことが評価されたのではない.そうではなく,
当時の人々は,彼らの「真面目で潔癖な性格」,「愛すべき人柄」,
「部下思いの優しさ」,「皇室への尊崇の念」などの要素に注目した
のである.そうした素晴らしい人物の壮絶な戦死に,日本国民は
感動したのである.
つまり,「多くの敵を倒す勇猛果敢な軍人」としてではなく,
「人を思いやる優しく潔癖な男」の姿を尊敬したのである.
しばしば「軍神」は,軍部が国民を戦争に駆り立てるために,意図的
につくり出したと言われることもある.だがこれらは,むしろ期せず
して生まれ,一般国民の強い支持があったからこそ定着していった
のである.
「軍神」は,輝かしい勝利によって戦意を高揚させるための狡猾な
手段だったのではなく,美しい献身的な若者の死という「涙」に
よって,「悲しみ」によって,日本人のすぐれた資質を国民の皆が
再確認するための存在であったと言ってもよいかもしれない.
戦争が好きな人間などいるはずがない.職業軍人も,徴兵された者も,
みなさまざまな思いを抱きつつも,国のため,仲間のためにと思い,
戦って死んでいった.今の日本の平和が,彼らの犠牲のもとにある
ことは明らかである.
人々は軍人の内面に,崇高な何かを求めるのである.軍人の仕事,
使命には,人々の生死や国家の存亡にかかわるという,究極の深刻
さと重大さがあり,特別なものだと捉えられているのである.
もちろん人間は,誰しも,完全な善人でもなければ完全な悪人でも
ない.軍人も普通の人間であり,一般の人々と同じように,それぞれ
の欲望や,理想や,喜びや,失敗や,後悔のなかを,のたうちま
わって人生を生きていくものである.
だがそれでも人々は,軍人に重大で深刻な役回りを任せるからこそ,
彼らに崇高さを求める.また軍人は,不条理な役回りを引き受ける
からこそ,自ら崇高であろうとするのである.戦争や軍事は,
あくまで人間による営みである.
硫黄島で壮絶な持久戦を指揮した栗林忠道中将が,家族に宛てて
書いた手紙をみてもわかるように,高級将校でさえ,当たり前の,
それぞれの人生を背負った,普通の人間に過ぎない.軍人は,
特別な存在であると同時に,普通の人間なのである.
毎年正月,知り合いの自衛官から私のところに年賀状が送られて
くる.そこに印刷されている彼の家族の写真を見るたびに,
私は,日本が戦争をすることがありませんように,と心から思う
のである.
軍人や自衛官一人ひとりの人生,生活,彼らの家族や将来を,
丁寧に想像してあげることもまた,私たちに出来るとても大切な
平和主義的営みの一つなのではないだろうか.
(いしかわ・あきと)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
⇒ http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
** 【追記】
◆畑村洋太郎『失敗学のすすめ』を読み解く
※要旨
・記憶に残る失敗談が学生の成長を促す.
・失敗は成長する.
ハインリッヒの法則というのをご存知だろうか.
一件の重大災害の裏には,29件のかすり傷程度の軽災害があり,さらにその裏には怪我にはいたらないまでにも300件のヒヤリとした体験が存在する.
・失敗情報は伝わりにくく,時間が経つと減衰する.
・人が失敗情報から学ぶとき,正確な事実を把握し,その失敗の全容を正しく理解することが必要.
・失敗は神話化しやすく,ローカル化しやすい.
・失敗は知識化しなければ伝わらない.
失敗情報の記述は,事象,経過,原因,対処,総括の項目ごとに行うべき.
・アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック社)は,それぞれの製品ごとに事故や故障を含むすべての情報を体系的に整理し,
門外不出の宝物として使用している.
この活動はすでに50年以上も続けられており,GEの世界戦略の基礎になっている.
・実際に失敗の当事者から話を聞きだし,その失敗を知識化するときのコツ.
それは,失敗者に代わって情報をまとめる人が注意しなければならない点は,とにかく,当人から話を聞くという姿勢を忘れないこと.
可能ならば,失敗者の実名を加えることができれば,ベター.
・解を求める学習で得た知識と体感学習で得た知識は違う.
・勝負ごとは痛い目にあわないと身に付かない.
ノウハウの多くは失敗から生まれる.
他者の失敗であっても同じである.
しかし,他者の失敗から学ぶには,学ぼうとする目的意識が強く,高い科学技術の基礎能力がなければ不可能である.
まずは行動してみよう.
・全体を知ることの大切さは,世の中のいろいろな場面で見ることができる.
たとえば優秀なメーカーの営業マンの条件のひとつに,「自分の会社のものの流れをよく把握していること」というのがある.
取引先との付き合いやセールストークに長けていても,社内の流れを把握できない人は,注文を取るだけ取って,
結局生産現場をコントロールできずに,納期が遅れるなどということになりかねない.
・大切なのはシュミレーションすること.
アイデアの種は,大胆に切り捨てる.
本当にいいものをつくるためには,大胆に切り捨てるというのは,どんな仕事にも共通の真理である.
・思いつきノートをつけよう.
創造力,企画力を高めるためには,個人としてこれを培う努力を続けることも必要.
・単純な理由で致命的な失敗が起こる原因は,簡単にいうと2つ.
1.技術が成熟していること.
2.大増産,もしくはコストダウン対策やリストラ策がはかられていること.
大きくはこの二つ.
逆に言えばこうした業界や企業を探せば,失敗は予測できる.
※コメント
最近の会社では,年長者との飲み会や,社員旅行が減っている.
普段忙しいと過去の昔話や失敗談を聞くことは少ない.
しかし,そういった先輩や上司の失敗話には,貴重なノウハウや教訓が多い.
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2012年6月12日 火曜日 午前10:00
** 【追記】
2012年(平成24年)6月11日(月)発行 ◇◆◇
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軍事情報特別連載 フランス外人部隊・日本人衛生兵のアフガニスタン戦争(15)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
□はじめに
現地時間6月2日夜,アフガニスタンで人質となっていた4名の民間人(英人1名,ケニ
ア人1名,アフガン人2名)が,イギリスSASに救出されたそうです.誘拐犯らは救出作戦
の際,全員殺されたそうです.(犯人の人数は,メディアによって「11人」「8人」
「5人」などと,バラつきがあり,正確な人数は不明です.)
イギリスには頼もしい部隊がいるものです.フランスにも当然いますし,実行命令を
下す勇気を持つ政治家もいます.そして,その政治決断に理解を示す国民もいます.
日本にも頼もしい部隊がいます.しかし,政治決断と国民理解がないため,本領を発揮
しづらい状況にあるように思います.現場のかたがたは本当に苦労されてることでしょ
う.
外国で日本人が人質になるような事件が起きたとき,英米仏のように,日本の部隊が救
出作戦を遂行することが,ごく一般的な国民的認識となるよう,願っています.
さて,前回は,アフガン兵たちの調理場へ招かれ,そこで英語を話すアフガン兵と出会
うところまで書きました.今回は,アフガン兵たちとの交流をお届けしたいと思いま
す.
どうぞ.
▼アフガン兵たちとの交流
私が調理場に入ってきたアフガン兵に歩み寄ると,お互いに通じる英語での会話が
始まった.
「僕の名前はノダだ.フランス兵だ.」
「私はラゼックだ.昼食を一緒に食べよう.」
私はどう答えるべきか悩んだ.あまり物質的に豊かではないアフガン兵に甘えてよいの
だろうか.私が食べることで,彼らの食べる量が減ってしまったら申し訳ない.1〜2秒
後,私は答えた.
「是非!」
アフガニスタンにはよそ者を手厚くもてなす文化があるので,食事を断ることは,
ラゼックの好意を踏みにじることになると私は判断した.食べないと失礼だ.
ラゼックはカマドの番をしている炊事兵にダリ語で何かを伝えた.料理を皿に盛るよう
に言ったのだろう.炊事兵が左手で大皿をとり,右手でオタマをつかみ,カマドのそば
のバケツのような黄色いプラスチック容器から,ご飯をよそうのが見えた.容器の外観
は少し汚れているが,内側はどうなのだろう?
「こっちで食べよう.」
ラゼックが言い,歩き出したので,私はついて行った.
調理場を出てすぐのところにプラスチックの青いイスが1つだけあり,ラゼックは私に
座るように言った.私がイスに腰掛けようとすると,彼はイスから1mほど離れた地面
にしゃがんだ.現地の文化からして,標準的な座り方だ.私はそれを見て,イスに座る
のをやめ,イスをどかして地面にしゃがんだ.それを見て,ラゼックが言った.
「イスに座る方が楽だろう.遠慮するな.」
「いやいや.アフガン式にやりたい.異文化が大好きなんだ.」
私が答えると,ラゼックは微笑んだ.
カマドの炊事兵が皿に盛った料理を持ってきた.ご飯に肉スープをかけたものだ.ぶつ
切りの肉とジャガイモが何切れか載っている.炊事兵は皿を,ラゼックと私のあいだの
地面に置いて,自分もしゃがんだ.3人で食べるのだ.炊事兵の左手にはナン(インド料
理に出てくる平べったいパン)が数枚入ったビニール袋が握られている.
「スプーンがあるけど,使うか?」
ラゼックが私に言った.普通,アフガン人は右手の指で食べる.私は言った.
「いや,いらない.僕も君たちの方法で食べたい.」
ラゼックは嬉しそうに微笑んだ.私はかっこよく言ったものの,心中では,腹痛になる
ことを恐れていた.調理場の衛生状態がわからないし,どんな調理をしたのかも不明
だ.しかも私は手を洗っていない.アフガニスタンでは手洗いをしないと高い確率で
下痢になる.これはピンチだ.
炊事兵が私にナンを1枚差し出し,「ナン,ナン」と言った.
あきらめて食べろ,と自分に言い聞かせた.今さら「食べない」なんて言えないし,命
を落とすほどの下痢にはならないだろう.危険を冒してでも,アフガン兵と友好関係を
築くことのほうが有意義だ.私は現地密着型なんだ!それに,皿の料理はいい匂いを
放っていて食欲をそそる.
私は笑顔を見せながら,ナンを受け取り,言った.
「食べ方を教えてくれないか.」
ラゼックと炊事兵が右手の指を器用に使って肉スープで味のついたご飯をすくって
食べ,ラゼックが説明した.
「こうやって指を使ってもいいし,ナンに挟んで食べてもいい.」
ラゼックはナンを5cmくらいちぎりとり,それでご飯をつまみ,口に運んだ.そのや
りかたのほうが,指が汚れなくていい.マネをしよう.
私は,まず,迷彩ジャケットの腹の部分をつまむようにして,右手の指を生地とこすり
合わせ,指の汚れを可能な限り落とした.そして,ラゼックの実演のように,ちぎった
ナンでご飯をつまみ,食べた.ジャガイモが入っているからなのか,肉ジャガのような
味がした.とてもいける!
ひとりじめにしたいくらいの美味だと思ったが,私は2人の食べるペースを計り,それ
より緩やかなペースで料理に手を出した.彼らよりも多く食べるべきではない.招かれ
ている者として,謙虚に振る舞うべきだ.
「みんなで同じ皿の料理を共有するのがアフガニスタンの伝統的な食べ方だ.」
ラゼックが言った.
私はラゼックと,食べながら会話を続けた.ラゼックはその内容を炊事兵に通訳した.
ラゼックに聞いてみた.「君はどこで英語を勉強したの?」
「パキスタンだ.コーラン(イスラム経典)の学校に行ってたとき,英語も学んだ.パキ
スタンへは,かつてタリバンが政権を取ったあと,亡命したんだ.まだ子供だった.
5年前にアフガニスタンに戻ってきて,陸軍に入ったんだ.」
ラゼックが政治状況に大きく人生をふりまわされたとわかり,気の毒だと思った.
ラゼックが続ける.
「アメリカは,タリバンをひとまとめに敵というが,良いタリバンと悪いタリバンがい
る.良いタリバンは真剣なコーラン学生.悪いタリバンはこの国で戦争してる奴ら.
外国からも来てる.」
確かに「タリバン」とは「学生」という意味であることは,書籍で読んだことがある.
アフガン人から直接聞くと,書籍を著した専門家の解説よりも重みがある.
「ノダ,君はハザラ人みたいな顔をしているが,本当にフランス兵なのか?」
ラゼックが聞いてきた.ハザラ人とは,アフガニスタンに住む民族のひとつで,モンゴ
ル人のような顔をした人が多いという.
「フランス軍に所属しているけど,日本人なんだ.フランス軍には外国人を受け入れる
部隊があって,そこに所属している.」
そう私が答えると,ラゼックがさらに聞いた.
「私もそこに入隊できるか?」
「試験に受かればOKだが,まずはフランスに行く必要がある.アフガンから行くのには
ビザが要る.発給してもらえるかどうかが問題だな.」
そんな会話をしながら,我々は料理をすべて食べ終えた.3人で1皿を食べたので,腹は
満たされなかったが,アフガン兵とのあいだに絆が生まれたことが嬉しくて,胸いっぱ
いになった.ラゼックは,礼を述べる私に茶を飲むように言い,我々は調理場に入っ
た.
今度は地面にしゃがまず,皆でイスに座った.私は青いプラスチックのイスに座り,
ラゼックは金属の棒を溶接してこしらえた即席のイスに座った.炊事兵がカマドのほう
からやってきて,お盆に載った透明なコップに入った黄色っぽいお茶を私とラゼックに
配った.そして彼自身のコップを持ち,即席の金属イスに座った.
コップの中を見ると,底に砂糖が小山を成して沈殿していた.以前,軍医のプルキエ少
佐が,「アフガン人は茶に大量の砂糖を入れるが,混ぜない」と言っていたことを思い
出した.まったくそのとおりだ.
私は飲んだ.
「うまいよ.ありがとう.」
味の感想は本音ではなかった.あきらかにフランス軍ラッション(携帯糧食)に入ってい
るミントティーの味だ.COPでともに生活しているOMLTのフランス兵にもらったのだろ
う.重要なのは味ではなく,彼らからの優しさなので,「ありがとう」というのは本音
だった.
炊事兵がラゼックにダリ語で何かを話したと思うと,ラゼックが通訳して私に言った.
「アフガニスタンは好きか,と聞いているよ.」
「ああ,好きだ.」
アフガニスタンに到着して日数がそんなに経っていないので,正直,好きか嫌いか判断
できなかったが,彼らが気を悪くしないように,笑顔でそう答えた.そして,理由を添
えないと説得力がないと考え,さらに言った.
「山が美しい.日本もアフガニスタンみたいな山国だ.」
すると,ラゼックが言った.
「Japan is Peace Country. Afghanistan is
War Country(日本は平和な国.アフガニ
スタンは戦争の国)」
これを聞いたとき,胸が痛くなった.私はこの国へ,戦争するために来ている立場だ
が,彼らのことがかわいそうだと思った.そして言った.
「今は戦争中だけど,いつか発展していい国になるから,希望を捨てるな.日本だっ
て,第2次世界大戦のあとは,英米に占領されてたけど,やがて発展したんだよ.アフ
ガンだってそうなれるさ.」
彼らを元気づけるにはよい例えだったが,アフガンが本当に平和になるかどうか,私に
はわからない.正直,そうは思えない.また彼らに嘘をついてしまい,良心が少し痛ん
だ.彼らの反応があまりなかったので,さらに私は言った.
「戦争で日本は本当にひどい状況だったんだよ.」
「ヒロシマ!ナガサキ!」
炊事兵が強い口調で言った.
「そう!原爆だ!」
こんな末端のアフガン兵が原爆のことを知っているとは驚いた.
そういえば,2006年2月から6月に派遣されていたアフリカ・コートジボワールで,熱帯
雨林にある村の16歳の黒人少年と話をしたら,広島と長崎を知っていたし,広島につい
ては,原爆が投下された年月日だけでなく,爆発した時刻も知っていた.
日本が世界に平和メッセージを発信していることの証明だと思う.すばらしいことだ.
しかし,日本人の側は,世界からのメッセージを受信しているだろうか.まだまだ世界
は平和ではないことを意識している日本人は,いったいどれだけいるのだろう.私はあ
まり歴史や国際情勢に詳しくないので,偉そうに言えないのだが,平和メッセージを発
信するだけでなく,戦争のある国からのメッセージを受信することも大切だと感じた.
ミントティーが残り少なくなり,糖度がやたら濃くなったころ,中隊長と第3小隊の連
中がVAB群のところに戻ってきたことが,聞こえてくる音や会話でわかった.
「そろそろ行かないと.」
私はそう言い,お茶を飲みほした.溶けきれていない砂糖が少し,舌にのり,ジャリッ
とした.私は最後に言った.
「いろいろありがとう.話ができて本当によかった.」
2人は立ち上がり,ラゼックが言った.
「僕らもだ.また来てくれ.」
私は調理場を出て,VABに戻った.15分後に出発だ,という命令が伝達でまわってきた.
VABの後部内側の座席に,プルキエ少佐とオアロ上級軍曹が座り,携帯コンロで沸かし
た湯で入れたコーヒーを飲んでいた.フランス人は本当にコーヒーが好きだ.もし,こ
こがイギリス軍なら,ミルクを入れた紅茶だったに違いない.
そんなことを思いながら,私はアーマーを着用した.どこかに行っていたミッサニ伍長
も戻ってきた.VABが1台,また1台と,エンジンをかけ始めた.コーヒーセットを片づ
けた少佐と上級軍曹は,ミッサニとともにアーマーを着て車内の持ち場についた.
「出発.」
無線から中隊長の声がして,我々はCOPフォンチーを出発した.そして,もと来た道
を,やはり緊張しながら,FOBトラへと帰還した.何の問題もなく,無事に到着した.
何も起きなければ,モロッコの田舎をドライブするような感じではないだろうか.
この初任務は,アフガン兵たちのおかげで,予想をはるかに超える楽しさだった.これ
から6ヶ月,楽しみだ.今度,COPに行くときは,ラゼックたちのため,ジュースやお菓
子をお土産に持って行こう.
(つづく)
(野田 力)
☆ 編集・発行人:エンリケ航海王子(おきらく軍事研究会)
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** 【追記】
◆中原圭介『騙されないための世界経済入門』を読み解く
※要旨
・「物事の本質」「経済の本質」が分かると,あるとき一見バラバラな情報が,ピンと1本の線でつながる.
・10年前,マイクロソフトのビルゲイツが「あなたにとって一番怖いものは?」と問われ,
「近所のガレージで,何か新しいものを作り出そうと考えているような連中が一番怖い」と答えている.
グーグルが誕生したのは,その頃.
・日本人には「安全保障は,経済問題でもある」という視点があまりにも欠けている.
・排出権取引は,世界全体の排出量がコントロールされ,効率的に温室効果ガス削減に取り組めるというのが表向きの説明.
しかし,京都議定書で排出権取引が導入された背景には,「新しい枠組みのもと,排出権取引を活用して稼ぎたい」と先進国の思惑が見え隠れしている.
・「地球温暖化対策」というのは,決してきれいごとではない.
実はここ数年の世界的な環境意識の盛り上がりは,環境経済で稼ごうとする欧州や米国が仕掛けた結果によるところが大きい.
・経済的事象ばかり見ていると,本質を見誤る.
EUとユーロの存在意義は何か.
それは安全保障にあり,本来の目的は平和の維持にある.
・米国が基軸通貨であったのは,圧倒的な軍事力と経済力があったからだ.
欧州はいずれは軍事力を統一欧州軍に集約して強化を図り,経済については域外との自由貿易協定拡大を目指す戦略をとることになる.
・中国政府は企業に対して,2つの政策を積極的に指導している.
一,企業の合併または経営統合による規模拡大.
一,企業の過剰な設備を廃棄する一方,過剰な投資を抑制すること.
・中国が抱える4つのリスク
一,外資企業撤退のリスク
一,インフレリスク
一,国家統制経済の効果減退リスク
一,民主化運動の高まり
・政府のトップである温首相,そして共産党のトップである胡主席が,金融政策の決定権を握っている.
温首相は経済や金融政策について国内外で語ることが多い一方で,胡主席は語ることがほとんどない.
温首相の発言を注視していれば,人民銀行の次の動きを先読みすることができる.
金融政策に何か動きがある場合は,前もって温首相が国内外へメッセージを発信することが多く,人民銀行はその意を受けて,金融政策を実行しているに過ぎないとみるのが妥当.
※コメント
中原氏曰く,日本経済の将来を考える上で,ポイントは3つあるという.
成長戦略,教育,人口である.
これらをうまく分析・政策実行できれば未来は明るいとのこと.
どれも国の本質であり,それぞれとリンクしている.
よりよい方向性についてみんなで考えたい.
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2012年10月1日 月曜日 午前10:00
** 【追記】
◆高橋洋一『日本経済の真相』を読み解く
※要旨
・ギリシャは破綻する.
これは時間の問題だ.
経済的な見地からすれば,ギリシャをユーロから離脱させたほうが,
ギリシャにとっても,ユーロにとってもハッピーだ.
・ヨーロッパ危機の本質は単純だ.
破綻常習国のギリシャがユーロに加盟し,しかも加盟時に財政状況で嘘をついた.
それなのに,欧州金融期間は破綻常習国であったことを忘れて,
無防備にギリシャに貸し込んだ.
それを助長していたのが,「ヨーロッパは一つ」とか「米国を越える」といった政治スローガンだ.
・経済的な解があっても,政治的メンツや特定の受益者がいると,
合理性のある話が出てこなくなる.
結果,ギリシャが本当の破綻に向かう確率は高いが,これはユーロにとっても自業自得である.
政治的メンツによって馬鹿げたことが起こるのは,いままでの歴史の中でも繰り返されている.
・増税は愚策.
100年国債を発行せよ.
経済学には「課税の平準化」という理論がある.
決して難しいことではなく,今回の大震災が100年に1回のショックなら,
100年間でその負担を平準化する,つまり100年かけて毎年均等に負担する,
という考え方である.
・復興プランは現場に任せ,国は財政面の支援に集中せよ.
ちなみに「公共投資=無駄が多い」というイメージがあるが,
震災後のインフラ整備は無駄に当たらない.
公共投資は,それによって得られる利益(便益)の大きさとかかる費用を比較し,
便益が費用より大きいなら行うべきで,
便益より費用が大きいならやめるべき,というのが基本である.
・復旧復興のためのインフラ整備は,ゼロから始めるため便益は大きく,
ほとんどの場合で得られる便益が費用を上回る.
このため,復旧復興段階でのインフラ整備は大いに推奨でき,
その意味でも,復興資金を出し惜しみしてはいけない.
・「歳入庁」をつくれば,税と社会保険料の納付率が高まる.
一体改革などという前にやるべきことは,保険料や税金の徴収漏れという不公平の解消である.
社会保険料は法的には税金と扱いが一緒である.
国民保険料を滞納すれば,原則的には脱税と同様に財産が差し押さえられる.
国税庁と日本保険機構を合体させた「歳入庁」をつくればいいのだ.
・デフレを脱却するために必要なのは,お金を刷ることであり,
お金の量が増えれば円高も解消される.
また,日銀は「雇用促進」の責務を明文化すべし.
・大臣がなすべき目標を持っていても,
それを実現するために必要な知識をすべて持っているわけではないので,
専門家をそばに置かなくてはいけない.
そのためには大臣になる前に「誰を連れていくか」を考えておくことが重要で,
大臣になってから考えても遅い.
・オフレコ発言はマスコミ操作の手段.
一定の役職以上になったキャリア官僚は,政治家やマスコミと接触しながら,
情報を収集したり,工作することを仕事にするようになる.
オフレコ報道では,「政府首脳」というのは官房長官,
「政府高官」といえば官房副長官,「政府周辺」といえば首相秘書官などを指すのは暗黙の常識だ.
「○○省筋」は課長や課長補佐であることが多い.
・組織のトップや会社の経営者にとって最も重要なのは,誰に,どう頼むかということだ.
政治家の真の役割は,全部はできないということを自覚して信頼できる人物に任せ,
「責任は私がとる」と腹を決めることだ.
小泉元総理は,「総理にできることは,解散と人事しかない」と言っていた.
・私は新聞を読まず,役所の資料などの一次情報をとっている.
普通の人がそうするのは大変だが,新聞は二次情報,三次情報であることを知っていて欲しい.
たとえば,国家予算.
一次情報である予算書は2,000ページにも及んで数字が羅列され,普通の人にはとても読みきれない.
マスコミがニュースソースにしているのは,役所が作った50ページの要約資料だ.
・組織に忠実に仕事をしているだけでは,組織の枠から出ることは難しい.
自分の頭で考える知的な人間には,組織を出て泳ぐ力がある.
・自分が認めてもらえないと不満を言う人もいるが,チャンスは必ずある.
大事なのはそれを逃さないことである.
・チャンスを掴むためには,つねに準備し,チャンスが来たときガッと行くことだ.
私が役人のとき,よく勉強して,いろいろなアイディアを紙に書き,
机の引き出しの中にしまっていた.
上司がたまに「こんな問題があるな.どうかね?」といったときに,
その解決策を書いた紙を出して上司を驚かせていた.
求めに対して瞬間的に対応できるのは,インパクトが強い.
・無駄になることがわかっていても,用意しておかないとチャンスは生かせない.
10発でも20発でも用意して,そのうち1発当たったら勝ちだ.
分析して,考えて,それでもニーズがなかったものは山ほどある.
しかし,考えるというスキルは残り,考える力はほかにも応用できる.
だから,売り込みも絶対しない.
ニーズがないときに売り込んでも意味がなく,
本当に相手が求めるときにしか価値を認めさせることはできないからだ.
・最後に,これから起こるであろうと思うことを書いておく.
希望的観測もあるので,当たるかわからない.
1.野田総理退陣,解散総選挙になる.
その理由は消費税増税法案の国会審議が行き詰るからだ.
2.ユーロが崩壊する.
その理由はギリシャが完全に破綻するからだ.
3.オバマが再選を果たす.
その理由はリーマンショック以降,FRBの積極的な金融政策によって米国経済が持ち直してきたからだ.
4.日銀法改正が政治日程にのぼる.
消費税増税法案の国会審議の過程で,デフレ・円高が日銀の責任であることがようやく認識され,
政府と日銀の適切な関係を定め,インフレ目標を日銀に与えられるような日銀法改正が本格的に議論される.
※コメント
仕事も予測と計画を自分で考えておくとやりやすい.
突発的な軌道修正が迫られても,すぐに調整できる.
なにも戦略を持たずに,プロジェクトに突入するとあたふたしてしまう.
バランスよく計画をもち,果敢な行動力を示せば,山は動く.
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2012年6月8日 金曜日 午後7:32
** 【追記】
From:石川明人
件名:9条もまた戦争文化の一部である
2012年(平成24年)10月2日(火)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
軍事情報短期連載 戦争は人間的な営みである〜新戦争文化論〜(5)
「9条もまた戦争文化の一部である」
石川明人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
こんにちは.
石川明人(北海道大学助教)です.
前回配信したマガジンへのメッセージをいただきました.
EWAT2672さま.コメントありがとうございます.
ご家族のお話を拝読し,私も厳粛な気持ちになりました.
今でも私の実家には,軍人だった祖父の写真があります.それは
戦後に撮ったものなので背広姿ですが,とてもやさしい笑顔です.
しかし,戦争中の軍服姿の写真には,緊張と厳しさが感じられます.
私はもちろん直接戦争を知らない世代の者ですが,せめて人から
よくお話を聞き,よく本を読んで,戦争や軍事について考えて
みたいと思います.「平和」というのは,究極的には,平時における
私たち一人ひとりの,戦争に関するイマジネーションの力にかかって
いるのかもしれない,とも思うのです.
べーさま.コメントありがとうございます.
べーさまも似た体験をされたことがあるとのこと,慰められる思い
です.学校というのはいろいろな意味で特殊な組織ですね.自衛隊
と聞いただけで拒否反応を示す教職員ばかりのところもあれば,
逆に,学校単位で自衛隊音楽隊のコンサートを聴きに行くところも
あるようです.軍人,あるいは自衛官と,一度でも一緒に御飯を
食べたり,お酒を飲んだりすれば,彼らが私たちと全く同じ人間で
あることを実感できるはずです.多くの人がそれを十分感じていれば,
かえって過激で無責任な主戦論なども起きにくくなるでしょう.
軍人や自衛官との交流は,非常に大切な平和主義的営みだと思って
おります.
池田さま.コメントありがとうございます.
別の方への返答にも書きましたが,自衛官の方たちと普通に接する
機会があれば,彼らに対する偏見がなくなるのみならず,強気だが
無責任な主戦論もなくなると思います.自衛官と知り合いになり,
その家族を知っていればなおさら,戦争など起きないといいな,
と心から思うものだからです.軍人や自衛官一人ひとりの人格・
生活・家族などを想像することそれ自体が,とても大切な
「平和主義」的佇まいなのだと考えております.
Yさま.メールをありがとうございました.
ご教示をいただき感謝いたします.吉田茂の有名な言葉は防衛
大学校卒業式での訓示ではなく,ある一人の方に直接おっしゃった
言葉だったとのこと,初めて知りました.資料も教えていただき,
大いに納得いたしました.あらためて,御礼を申し上げます.
もし今後もお気づきの点がございましたら,ご指導いただけます
よう,何卒よろしくお願い申しあげます.
では,【戦争は人間的な営みである】の第5回目をお送りしましょう.
今回のテーマは,「9条もまた戦争文化の一部である」です.
戦争や軍事は,政治,経済,科学技術などと密接なものですが,
「平和」について人々の抱く考え方それ自体もまた,広い意味では
戦争の一部に他ならないと思われます.
忌憚のないご意見,ご感想をいただければ幸甚に存じます.
(参考動画:石川明人「戦争は人間的な営みである」約15分)
http://www.youtube.com/watch?v=gL_de198QsE
************
▼私たちの「戦争」イメージ
一般に,戦争について考える,あるいは平和について考える,というと,
特に私たち日本人の多くは,無意識のうちに,まず第二次世界大戦の
ような戦争をイメージして話をする傾向が強いであろう.
特攻隊を送り出し,原爆が落とされ,軍民あわせて約三一〇万人が
死んだあの戦争は,直に戦争を体験していない世代にとっても,
強烈な国民的記憶となっている.
ヨーロッパでもアジアでも壮絶な戦いが繰り広げられ,虐殺も横行
し,銃後でも様々な葛藤を強いられた.歴史上類を見ない規模で
多くの地域,多くの人々が巻き込まれた.
だが人間の歴史のなかで,一言に「戦争」といってもそれは実に
多様である.戦いの動機や,戦う人々の様子や,あるいは戦いで
用いられる兵器の質,そして戦争それ自体に対する人々の見方は,
それぞれの戦争によって全く異なる.
相対的に見るならば,第一次世界大戦や第二次世界大戦などは,
むしろ非常に特殊なスタイルの戦争だったとも言えるだろう.
その特殊なスタイルとは,一般に「総力戦」と呼ばれる.総力戦は,
二〇世紀前半の軍事文化であり,戦争文化だったのである.
「総力戦」にあたる言葉が最初に用いられたのは,第一次大戦末期
のフランスにおいてだとされる.だが,一般にその言葉や概念が
定着しはじめたのは,ルーデンドルフが『総力戦』を書いた頃,
すなわち一九三〇年代半ば以降だと考えられている.
総力戦においては,軍事力だけでなく,軍需生産を支える工業力や
食糧確保のための農業生産力も重要となり,それらの生産を支える
ために労働力を全面的に動員することになる.老人や女性を含む
全国民的な戦争協力が求められるため,それを可能にし正当化する
ための宣伝と教育にも力が注がれ,思想及びイデオロギーが極めて
重要となる.
簡潔に言うならば,総力戦とは,戦闘員と非戦闘員との明確な区別
がなくなって交戦諸国のあらゆる人々や資源を総動員して行われる
戦争である.
こうしたスタイルの戦争においては,もはや敵軍隊との戦いという
よりも,敵国民との戦いという様相を呈するようになっていく.
狭義の軍事面だけでなく,財政,商業,生産,国民教育,プロパ
ガンダなどを全面的に指導・調整していくことが求められるように
なっていくわけである.
総力戦というスタイルの予兆は,一九世紀中頃からあらわれはじめ,
二〇世紀初頭の第一次世界大戦で誰の目にも明らかになった.
そして一九三五年のルーデンドルフの著作を皮切りに「総力戦」と
いう概念が一般にも浸透していくようになり,それは第二次世界大戦
で頂点に達した,と要約してもよいだろう.
▼変化していく「戦争」スタイル
二一世紀現在は,中国をはじめとして東アジアにも不安定な要素が
あるものの,一九四〇年代のような総力戦スタイルで大国間の戦いが
おこなわれる可能性は低いとされている.ただしその代わりに,
テロやゲリラなど新たな形態への対応が迫られている,というのが
今後の状況だとされている.
戦争は時代とともにそのスタイルを変えていく.では一般に,戦争の
スタイルや軍事の形を大きく変えていく一番の要因は,いったい
何なのだろうか.
軍事における発展や革命といえば,まず私たちの頭に浮かぶのは,
科学技術の進歩によるものであろう.火薬,大砲,機関銃,爆撃機,
核兵器,ミサイルなど,新しい兵器の登場は,その時代の戦闘と,
その後の戦争の様相を大きく変えたことは確かである.
もちろんそこには,狭義の軍事技術だけでなく,内燃機関,電信,
鉄道網,精度の高い地図,航空機など,軍事の外側で発明,発展した
ものも含まれる.こうした科学技術を,軍事における革命の鍵とする
議論はよくみられるものである.
また,そうした科学技術の重要性を認めつつも,もっと本質的なのは
それらの「運用」の問題だとする立場から,戦略や戦術,あるいは
軍の組織形態などを重視して分析しようとする研究者も多い.
現在の情報通信技術が軍事のあり方を大きく変えていることは,
確かに間違いないだろう.それはさしあたりRMAと呼ぶには値する
かもしれないが,しかし軍事革命と呼ぶに値するものになるか
どうかについては,まだ断言できない.
戦争や軍事は社会全体の動きと連関しているものであるから,
軍事上の革命を広く考える際に重要なのは,特定の科学技術や戦略
思想にばかり目を向けるのではなく,社会のありようそのものとの
関連をよく見ていくことが必要になるのである.
戦争や軍事という営みについて議論される際,しばしば国際政治や
軍事技術などに話が集中する傾向にある.だがそれらと同じくらい
に重要なのは,人間の行動,振る舞い,あるいは心,情緒,魂など,
人間存在そのものに対する洞察なのである.戦争に対する人々の意識
こそが,戦争と軍事のあり方を大きく変える.
▼世俗化していく戦争と軍事
現在,暴力としての戦争に対するタブー意識がこれまでよりも
強まってきた結果,今後は狭義の軍事以外の活動がさらに重要視
されるようになっていくように思われる.
日本の『防衛白書』でもかなり以前から解説されているように,
中国は21世紀の初頭から,「三戦」というものを重視している.
三戦とは「輿論戦」,「心理戦」,「法律戦」という三つの非物理的
手段をいう.防衛白書ではそれぞれ次のように解説されている.
まず「輿論戦」とは,中国の軍事行動に対する大衆および国際社会の
支持を築くとともに,敵が中国の利益に反するとみられる政策を追求
することのないよう,国内および国際世論に影響を及ぼすことを目的
とするものである.
そして「心理戦」とは,敵の軍人およびそれを支援する文民に対する
抑止,衝撃,士気低下を目的とする心理作戦を通じて,敵が戦闘作戦
を遂行する能力を低下させようとするものを指す.
「法律戦」とは,国際法および国内法を利用して,国際的な支持を
獲得するとともに,中国の軍事行動に対する予想される反発に対処する
ものである.
このような,以上3つの非物理的手段を軍事と密接に連関させていく
ことを,現代の中国は極めて重要視しているのである.
『孫子』の有名な一節に,「凡そ用兵の法は,国を全うするを上と
為し,国を破るはこれに次ぐ.軍を全うするを上と為し,軍を破る
はこれに次ぐ」というのがある.また,「戦わずして人の兵を屈する
は善の善なる者なり」という一節も有名である.
戦争は,決して狭義の軍事兵器や軍事戦略だけの問題ではない.
要は自分の意思をとおすことが目的なのであるから,戦わないで
その目的を達することができれば,それにこしたことはないのである.
もちろん,こうした非物理的手段を軍事と連関させるという考えは,
現代中国に限ったものではない.外交,国際交流,いわゆるインテリ
ジェンスの世界など,非軍事分野での活動は昔から大変重要視されて
きたし,それが決定的な意味や力をもってきたことは言うまでもない.
しかし今後はそうした活動の対象が,権力者や要職に就いている者に
対してだけでなく,より大規模に,そして普通のこととして,一般の
老若男女の日常生活にも広がっていくと思われる.軍事に対する人々
の見方が敏感になってきたがゆえに,かえって軍事はその裾野を広く
して,ゆるやかに日常に浸透していくであろう.
かつて,毛沢東が次のように述べていたのも興味深い.
「中国人民の解放をめざす闘争には,各種の戦線がありますが,
なかんずく,文と武の二つの戦線がある,といってよいでしょう.
つまり,文化戦線と軍事戦線です.われわれが敵にうち勝つためには,
なにはさておき,銃を手にした軍隊にたよらなければなりません.
しかし,この軍隊だけでは不十分で,ほかに,文化の軍隊が必要です」
(毛沢東著,藤田敬一,吉田富夫訳『遊撃戦論』中公文庫,二〇〇一年,八七頁)
もちろん毛沢東がここで言う「文化の軍隊」の具体的な意味について
は,慎重に理解されねばならない.詳しい点については省略するが,
重要なのは,このように狭義の軍事以外の営みを「戦い」と認識する
傾向は,今後ますます強まるであろうということである.
喬良と王湘穂による『超限戦』によれば,「勇ましい武人がわが城を
守る」という時代はすでに過去のものだという.そして,今日の世界
では,「度の強い近視眼鏡をかけた色白の書生の方が,頭が単純で
筋肉の盛り上がっている大男よりもっと現代の軍人にふさわしい」
(喬良,王湘穂著,坂井臣之助監修,劉?訳『超限戦』共同通信社,
二〇〇一年,五九頁)と述べている.こうした指摘は,決して大げさ
なものではないであろう.
古代から現代にかけて,戦闘空間は,陸上,海上,海中,空中,宇宙
へと広がってきた.物理的な空間は拡大の一途をたどったが,それら
の場所で戦いの主体となるのは,基本的には軍隊であった.
総力戦の時代になると,工場やインフラ,都市部なども標的になった.
そこで総力戦の特徴として,戦争の「主体」,すなわち戦闘員と非戦
闘員との区別が曖昧になるという点が指摘されてきたわけである.
だがこれまでそうした特徴は,あくまでも「戦時」という限られた
時間的枠組みの中での話であった.
それに対して,おそらく今後は,戦争の「時間的枠組み」がさらに
曖昧になっていくであろう.20世紀的な戦争がもっていた「曖昧さ」
は戦闘員と非戦闘員の区別であったが,今後の戦争では,戦時と平時
の区別における「曖昧さ」が以前よりも増していくように思われる.
それはつまり,薄まった形の戦争が,四六時中日常生活のなかに浸透
していくような傾向である.
もちろんそうした傾向は,20世紀においてもある程度すでに見られて
いた.だがこれからの戦時と平時の区別の曖昧さは,「戦争と平和」
の区別そのものについての根本的な問い直しにもつながっていくよう
な,より根本的なものであるだろう.
これは端的に,戦争の世俗化と言ってもよいかもしれない.常に平和
であると同時に,常に戦争であり,それはいわば,冷たい総力戦である.
世俗化した戦争においては,戦時と平時の区別が不明確になり,
大きな衝突が起きにくいという意味では常に平和であるように見える.
ただしその代わりに,小規模な衝突やテロの不安は常に残り,金融,
インフラ,あるいはサイバー空間など,一般市民の社会生活が,常に
ぼんやりとしたゆるい戦場のようになっていく.
経済活動はもちろん,災害派遣も,スポーツも,芸能文化も,シビア
な「戦い」の文脈に組み込まれる.これが本当に望ましい人間社会の
ありようなのかは,まだわからない.だがいずれにしても,戦争の
スタイルは,多かれ少なかれ,その時代の人々が自ら選んできたもの
である.
コントロールしきれない要素も常にあるものだが,そのなかでもどう
にかこれまでの戦争を踏まえて,少しでもましな戦争スタイルを模索
してきたのが人間の歴史だったのではないだろうか.
今後の軍事的状況を十分に予測せねばならないということは,平和主義
の文脈においても言えることである.
戦争に反対することはもちろん正しい.しかし「戦争反対」と叫ぶ
そのときに想定されている「戦争」が,第二次世界大戦のような
イメージであるならば,特にいま私たちがわざわざ反対などしなくて
も,そのようなスタイルの戦争は起きないであろう.戦争はその時代
ごとに,必ず何かしら新しいスタイルでもって遂行されるものだからである.
すべての戦争は,常にその時代にとって新しい顔で立ち現れてくる.
したがって,平和主義とは,現在の戦争スタイルを十分に理解し,
また近いうちに戦争が起こるとしたらそれはどういうスタイルの戦争
になるかを予測して,それらについて反対することでなければ意味が
無いのである.
もし万が一,来年日本が戦争に巻き込まれるとしても,1940年代の
ような徴兵制や学徒出陣はないであろうし,塹壕戦や銃剣突撃も
なければ,特攻隊が編成されることもないだろう.そうした時代
とは,軍事行政も,作戦用兵も,軍事兵器も異なる.そして何より
も,戦争に対する国民の考え方が,以前とは全く違うからである.
戦争反対というのは,あくまで現在と未来の戦争に対する反対で
なければおかしい.現在の戦争スタイルと次の戦争スタイルをある
程度イメージできていて,そこで初めて「戦争反対」は意味をもつ.
だからこそ,一般教養としても,戦争学は大切なはずなのである.
▼9条を「戦争文化」として捉えよ
今後はさらに,軍事文化の裾野が広がり,戦争という営みはこれまで
よりも広く薄まった形で日常に浸透していくであろう.戦時と平時の
区別は,かつてよりもさらに不明確になっていく.
そしておそらく今後は,これまでよりも,もっと気軽に,
戦争・軍事を学び,あるいは研究しようとする人々が多くあらわれる
ようになるであろう.
だが,今後戦争や軍事を考えるうえで,狭義の軍事と同じくらいに
重要なのは,人間の行動,振る舞い,あるいは心理,情緒,魂など,
人間存在そのものに対する洞察なのである.
戦争が悪だということは,今では一部の人々の主張ではなく,
ほとんど全員がもっている常識である.だが,そうした常識や感覚の
変遷それ自体が,「戦争」と「軍事」の極めて重要な部分なのである.
戦争をもっとも大きく変え,戦争や軍事のあり方が社会のあり方にも
影響をおよぼすようになるほど重要なものは,究極的には,戦争と
いう営みに対する人々の考え方,あるいは感性である.
20世紀から21世紀にかけての日本の軍事に関して言うならば,
具体的に最も大きな影響力をもったものは,憲法9条である.9条は,
単なる言葉・文章に過ぎない.だが現に,良くも悪くも,今の日本の
軍事にこれほど大きな影響を与えているものはない.
自衛隊は違憲であるかどうか,海外派遣は是か非か,憲法を改正
して自衛隊を自衛軍・日本軍にすべきかどうか,といった様々な議論
がなされている.だが9条に肯定的であれ否定的であれ,あるいは
その解釈にかなりの幅があるとはいえ,現にそれが,日本の軍事・防衛
における極めて大きなファクターとなっていることはまぎれもない事実
である.
憲法9条というと,多くの人は,単にそれを「平和主義」の文言と
して捉えている.しかし,頭から「9条=平和主義」,と捉えて
しまう態度そのものが,平和や外交に対する奇妙な「甘え」なのである.
9条は日本の軍事・自衛隊のありように,現に,巨大な影響を与えて
いる.だからそれは,平和の象徴である以前に,現代日本の「戦争文化」,
「軍事文化」の一部に他ならないのである.そして日本の軍事に影響
を与えている以上,周辺諸国の軍事にも影響を与えていることになる.
9条に対する意見は人によって異なる.だがいずれにしても重要
なのは,それをセンチメンタルに「平和主義」の象徴などとして
捉えるのではなく,むしろ,良くも悪くも現代日本と近隣諸国の軍事
に大きな影響を与えている「戦争文化」の一つであると認識しておく
ことである.
9条に肯定的な人は,戦争文化としての9条の妥当性を論じてみれば
よい.9条に否定的な人は,9条の戦争文化としての問題点を論じれ
ばよいのである.
戦争は立ち止まらない.軍事は常にその装いを変えていく.戦争は,
政治や地理や科学技術のみならず,その時代の人々の平和観にも強く
呼応しながら,そのスタイルを常に新たに変えていくのである.
(いしかわ・あきと)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
⇒ http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
** 【追記】
◆与沢翼・新刊『スーパー・フリーエージェント・スタイル』を読み解く
※要旨
・ダニエル・ピンクは,ハイコンセプトを身につけるために次の6つを大切にせよを述べている.
1.機能だけでなくデザイン.
2.議論よりは物語.
3.個別よりも全体のシンフォニー.
4.論理ではなく共感.
5.まじめだけでなく遊び心.
6.モノよりも生きがい.
・個人が持てる最大の武器は,知識と情報とアイデアだ.
・スーパーフリーエージェントとは何か?
1.24時間365日稼動する仕事を持っている.
2.無限供給.
3.無限商圏.
4.在庫を持たない.
5.システムとネットワークを駆使する.
6.粗利が高い商品を作ること.
・わが社のコンピュータシステムは,私自身がプログラミングこそ書いていないが,
システム設計もフローも仕様もすべて私が指示している.
財務に強く,デザインができて,システムがわかるという私の3つの背景は,
今のネットビジネスにおいても私の大きな強みになっている.
・成功者に共通する要素は,ある分野の専門家であることだ.
ある分野に関してものすごく詳しく,知恵と知識,勘や先見性が豊富であることだ.
・努力は倍々ゲーム.
顕在意識と潜在意識を一致させるための最高の方法は,
今すぐにできることを考えることだ.
ソフトバンクの孫さんもビル・ゲイツも,フェイスブックのマーク・ザッカーバーグも皆,
自分にできることをただひたすらやってきた.
・厚さ0.1ミリの折り紙を,毎日1回,2つに折っていく自分をイメージしてほしい.
1ヶ月後には200キロメートルになる.
地上から100キロを超えるとそこは宇宙と呼ばれる.
偉大な成果を残す人間は,常に0.1ミリのアクションを継続し,宇宙空間にまで突き抜ける.
そのように,すべての偉業は0.1ミリの行動から生まれるのだが,
多くの人は自分に今すぐできる簡単なことを軽視する.
※コメント
この本は,与沢氏のビジネス哲学が書かれているが,
それよりも彼の波乱万丈な人生エピソードが面白い.
彼のド根性精神から学ぶものは多い.
◎国際インテリジェンス機密ファイル
のバックナンバー・停止はこちら
⇒ http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2012年10月2日 火曜日 午後8:00
** 【追記】
From:荒木肇
件名:エリートだった輜重兵─兵站の仕組みという難問(2)
2012年(平成24年)10月3日(水)
-------------------------
□はじめに
皆さん,私の住む横浜は突然,秋になりました.朝夕の涼しさは
格別で,台風のなか仲秋の名月も素晴らしい美しさでした.
急な気候の変化で,体調を崩されていませんか.夏の疲れも出てくる
頃かと存じます.ご自愛ください.
それにしても橋下氏の領土に関する発言,いささか賛成しかねます.
彼と私の「国益」観の違いでしょうか.日曜日の産経新聞の記事に
よれば,氏は『国益は領有ではなく利用すること』と語っておられ
ます.国際司法で勝てるという自信もあるとか.しかし,強制力の
ない国連の採決.そこで同時に共同利用.そんなご都合主義な・・・
と私は思ってしまいますが,それが彼のいう日本人の「民意」なの
でしょうか.
また,大江健三郎氏などのすでに苔が生えたような(失礼),
自称「文化人・知識人」たちが「日本人は反省せよ」といった趣旨の
共同声明を出し,お隣の国では高い評価を得ているらしい.たしかに
一部の声でしかないようですが,いい気分なのでしょう.ああいう
方々は,時代の変化に鈍感で,いつまでも喝さいを浴びていたい
体質があるようです.
タレント,アグネス・チャン氏なども「正しい歴史授業を受けた」
自信からか,わが国の歴史教育について『日本だけがヘン』と断言.
別に歴史は多数決で決まるわけでもないし,まさに偏(かたよ)った
歴史知識をもっていることが自慢らしい.
どの人たちも,一定の支持者をもっているのでしょう.しかし,
それぞれの歴史的な経緯や,事実関係の確認など怠っている,
あるいは,意図的に捻じ曲げている疑いだらけです.中には,私と
公開の話し合いの最中に,言葉につまったあげく,『そんな細かい
ことはどうだっていいのですよ.要は相手さんたちが納得する
お詫びが大事なんだから』と放言された大学のセンセイもおられました.
そうであるなら,こちらは,淡々とある時代の時代相を追究する
だけしかないようですね.
今回の兵站に関する話は,私自身の研究メモでしかありません.
勝手ながら,編年的にしていくつもりもありませんので,そのあたり
もご容赦ください.制度的な話は,読者の中にも退屈で,面倒くさい
と思われる方もおられるでしょうが,それもまたご勘弁を.
私は手元に,破れ目だらけの『兵站綱要(昭和5年刊行)』,
『陣中要務令(昭和2年刊行)』があります.どちらも,ずいぶん
昔に神田の古本屋で見つけました.たしか,200円ほどでしたが,
重宝しています.今回,特に出所は書きませんが,大方はそこから
得た知識です.
▼兵站の定義を厳密に見よう
戦時においての野戦軍への糧秣の追送は「陸軍糧秣本廠」が行った.
セクションとしては,兵站基地,集積基地,集積主地,兵站主地,
兵站地,海運地があった.
兵站は『作戦軍と本国の策源地を連絡し,その連絡線に所要の
設備を施し,必要の機関を使用し,これに依りて軍需を充し繋累
(けいるい)を去り,もって作戦軍をしてその目的を遂行せしむ
べき諸般の施設及びこれが運用をいう』と定義されている.
また,陣中要務令には,兵站勤務の実務について,次のように
まとめられていた.
1)馬匹や軍需品の前送
2)補給作戦に関係しない人馬物件の収容,後送
3)交通人馬の宿泊,給養,及び診療その他
4)野戦軍の後方連絡線の確保
5)遺棄された軍需品の蒐集と利用
6)戦地における諸資材の調査利用
7)戦地における民生
これらのうち,戦場での糧食の給与を「作戦給与」といった.
より具体的な供給システムを「戦時給与勤務」とも定義していた.
順に解説する.1)馬の前送は兵站の仕事の一部であり,重要な
仕事だった.とにかく,馬の損耗はたいへんな数に及んだ.
また,2)補給作戦に関係しない人馬物件とは,より分かりやすく
いえば,部隊組織から離れてしまった人馬である.本人たちの意思
に関係なく,転属や部隊の移動,入院,病気やけがの馬なら馬廠に
入るなどにしたがって,必然的に起こる事態だった.3)はよく
戦記などに出てくる転属者や出張などの公務者,兵站病院への通院者
も含んでいる.4)はともかく,5)は「戦場掃除」などで集めら
れる兵器・物資などの遺棄された物件をいう.戦地での缶詰の空き缶
などもリユース対象品である.6)もまた,兵站の重要な仕事だった.
7)は言うまでもなく,戦闘と無関係な一般住民への「宣撫工作」
であろう.
▼兵站の各セクション
○「兵站基地」 出征している師団の内地の師団管轄区ごとに編成
される.出征部隊に必要な物資を組織的に収集し,管理し,野戦
から帰ってくる人馬・物品を管理する.次に述べる「集積基地」を
統括している.じっさい,大東亜戦争までは召集解除,転属,
人の入れ替えはけっこう行われており,帰還する人や馬もめずらしく
はなかった.
○「集積基地」 戦地に輸送すべき軍需品を集積し,前送する.
また,前線から還送された人員物件を後送する機関.兵站基地と
戦地の集積主地の間にあって,宅配便にたとえれば配送センターと
いえる.
○「集積主地」 戦地に置かれて,人員の輸送・物件の集積,輸送
を行う機関である.内地から送られてきた物資を,作戦軍が行動
する地域に置かれる兵站主地へ送る.
○「兵站主地」 作戦地域内にある.兵站地区司令部,補給廠,
衛生機関(兵站病院,病馬廠など)が置かれ,人馬・物件の前送,
還送などを「掌(つかさど)る」と書かれている.集積主地から
送られてきた物資を,戦闘部隊に配送する役目をもつ.
○「兵站地」 兵站地区司令部支部や,出張所が置かれ,人馬の
宿泊や休養・診療,警備,交通通信の保護を行う場所である.
戦闘部隊が補給を受けるとともに,要らなくなった物品を返納する
ところでもあった.これが野戦師団の「師団集積所」になり,隷下
の輜重兵聯隊が各戦闘部隊,同支援部隊の行李に物品を輸送し,
交付することになる.つまり,兵站地までは,「兵站輸送部隊」と
いわれる部隊が物資を輸送するので,輜重兵部隊は関係しない.
○「海運地」 戦時には輸送船などで海外に軍隊を派遣する陸軍
には必要な機関である.「海運基地」とは「集積基地」の海上版
といえる.多くの場合,指揮系統は大本営の直轄となり,「陸軍
運輸部」の隷下になることとなる.ここから物資が送られる
「海運基地」は「集積基地」の海上版.「海運主地」とは陸上の
「集積主地」である.戦地の主要港湾に設けられ,内地の「海運
基地」から海路運ばれた物資の受け入れ機関だった.
▼輜重兵の仕事
「輜重輸卒が兵隊ならば,電信柱に花が咲く」ともいわれた輜重
輸卒.その実態は前にも述べた通り,ろくに戦闘訓練も受けず,
馬をひき,輜重車を引っぱるといったものだった.武装といっても,
身を守るのは銃剣のみ.体格も決して良いような人たちでもなく,
かなり悲惨な境遇だったことは,脚気の罹患率の高さでも分かる.
これに対して輜重兵とはエリートだった.明治45(1912)
年度の数字があるが,この年の『現役兵補充兵配賦員数表』を見て
みよう.現役兵は10万3784名で,補充兵は15万3080名
にのぼる.現役兵の中で占める割合は,歩兵約66.6%,騎兵と
工兵はほぼ同数,いずれも約4000名強で,それぞれ約4.3%,
同4%である.輜重兵たるや,実数はわずかに1836名,全体の
中では同1.8%.これに対して,現役輜重輸卒は1万5492名,
現役兵の中では約15%を占めている.補充兵ともなると,全員
は15万3080名のうち輜重輸卒は6万3012名ともなり,
約41%である.
つまり,同じ「藍色」の兵科色を襟には付けていたものの,
かたや1800名あまりの「帯刀・乗馬本分」の輜重兵,もう一方
は銃剣(帯剣本分という)のみの1万5000名の輜重輸卒.
現役兵での比率でいえば,およそ1:8というのが実態だった.
2等卒として入営直後からサーベルをさげ,乗馬長靴に拍車をつけ,
騎兵銃を負い,粋なマントをひるがえす輜重兵と,ゲートルに銃剣
のみという姿の差でもあった.「輜重輸卒」はバカにされても,
「輜重兵」を揶揄する言葉はあまり残っていない.せいぜい,士官
学校では歩兵をバタ(歩く音からきたらしい)といい,砲兵をガラ
(砲車が走る車輪の音),輜重兵をミソ(食糧運搬のことだろう)と
いったらしいが,それも親しい仲間内でのこと.騎兵のバキ(馬狂い
といった意味らしい)も現代からすれば,ひどい差別用語だが,
同じ兵科兵としての誇りは共有していたにちがいない.
当時の各兵聯隊,大隊付きの将校の定員をみると,歩兵聯隊の
中隊には2.2人の士官候補生出身将校(中尉・少尉)と1.8人
の准士官(特務曹長)がいて合計4人である.これに対して,
輜重兵大隊には4.2人の前者と,2.8人の特務曹長がいる.
合計7人だった.
つまり,それだけ,教育訓練の対象者が多かったことが分かる.
約2000名の現役輜重兵の教育をしながら,同時に1万5000人強
の現役輜重輸卒も年4回に分けて入営してくる.今の自衛隊に例え
れば,自衛官候補生(前期教育・約3カ月)を年間通じて行い,
同時に2年間の現役兵教育もしなくてはならなかったという状態になる.
歩兵聯隊の中隊では,おもに少尉が初年兵教官を務め,2年次兵の
教官は中尉もしくは特務曹長が務めればすんだ.これに対して,
輜重兵大隊では,さらに教育召集された補充兵役輜重輸卒の教育も
行わなければならなかった.だから,輜重兵将校たちは年がら年中,
教育に明け暮れていたのである.
余談だが,昨今流行の「若者の徴兵制」採用意見だが,その意気
やよし,とは思われるものの,実施に当たってはかなりの体制変革
(自衛隊を筆頭に)を覚悟しなければならない.ただでさえ,
少ない幹部(しかも,防大・一般大卒が少ない)を現場から離して
若者教育にあてることになる.今後,准尉が廃止される陸上自衛隊
にあって,その負担に耐えられるのか.
ある論者はいう.3カ月でも半年でもいい,自衛隊に,消防に,
警察にという.しかし,そこでの教育内容はいずれも,わが国の
公共安全に関わることを含んでいる.昔の陸軍はたとえ短期の輸卒
教育でも現役兵であり,予備,後備といった身分を付与していた.
現役を離れても,在郷軍人として軍事警察の対象者でもあった.
秘密保持の問題,不適格者の処分問題,規律の維持などに自衛隊の
警務官は振りまわされるだろう.
ほとんどの徴兵制実施論者は,徴兵システムを支えるさまざまな
環境,制度的なもの,経済効率などを無視しているとしか思えない.
明治45年といえば,すでに歩兵現役2年制をとっていた時代で
ある.社会の要請,すなわち若年労働力を確保するといった主張に
陸軍が譲歩していたことを表している.その代わりといっては語弊
があるが,陸軍は文部省と手をつないでさまざまな「入営前予備
教育」を工夫していたところだった.
戦後,文部省の役人たちはすかさず「平和不戦教育」を立ち上げ,
あたかも戦前の諸施策についてはすべて陸軍を「悪玉」にした.
詳しい話は別にするが,「現役将校学校配属制度」も文部省が陸軍省
に働きかけたというのが定説になりつつある.
▼輜重兵の活躍
『輜重は師団内に於ける行李用品を補充し,且つ戦場に必要なる
軍需品ヲ携行し,又負傷者を収容治療する設備を運用する等,
戦闘・給養・衛生に緊要なる軍需品を運搬する機関を言ふ』(兵語解説)
輜重兵大隊は大隊本部と隷下に4個から6個の縦列(じゅうれつ・中隊
のこと)をもっていた.「師団集積所」に兵站部隊によって運ばれた
物資を,戦闘部隊の行李に運びこむのが仕事である.これが日露戦争
の時には,弾薬大隊が戦闘部隊すべての弾薬を配布する任務があった
ため,砲兵輸卒がいたこと(弾薬縦列の存在)は前回も書いた.
大正期以降の輜重兵大隊の戦時編制には「糧食縦列」と「弾薬
縦列」ができた.伝統があった砲兵輸卒と同助卒も廃止された.
戦闘部隊には行李(こうり)があった.歩兵大隊を例にすれば,
「大(だい)と小」がそれぞれ1個隊ずつ編成された.戦時の動員で
歩兵大隊本部は人員が増える.これを基幹にして,輜重兵大隊から
配属された輜重兵と輸卒が合わさって行李はつくられた.
大正時代の輜重兵大隊の編制表をみよう.大正13(1924)年の例である.
○大隊本部 大隊長 副官 付将校 主計 がそれぞれ1名
火工長 鞍工長 木工長 鍛工長 計手(経理部准士官,下士)
書記(准士官各1名) 輸卒8(うち4名は馬卒) 自動車運転手3
乗馬7 挽馬3 車輛3
○ナンバー中隊,1〜5はみな同じ
●中隊本部 中隊長 付将校3(特務曹長を含む) 曹長1
材料掛下士 1 給与掛下士官1 喇叭手1 火工長1
軍医1 獣医1 計手1 看護長1(衛生部) 看護卒3
馬卒6 蹄鉄工長1 徒歩蹄鉄工卒3
●各中隊 3個小隊で各小隊は2個分隊に分かれる.分隊は
4個班に分かれた.
○馬廠 廠長(騎兵中尉) 獣医2 給与掛下士1 喇叭手1 徒歩騎兵5
計手1 看護卒1 蹄鉄工長1 馬卒3
馬廠については説明がいる.徒歩騎兵とは何か,また中隊本部の徒歩
蹄鉄工卒とは何かである.本来,輜重兵大隊は「乗馬部隊」に指定されて
いた.輸卒,馬卒以外は,誰もが原則として乗馬するのが本来であり,
騎兵はもちろん存在そのものが乗馬本分者であった.
わざわざ「徒歩」と冠するのは,乗馬の配当などの問題があるからである.
中隊は原則として輜重車の輓曳(ばんえい)だった.荷車を1頭
ないしは4頭,あるいは6頭でひいた.戦時編制になると,中隊は
総兵力下士以下442名にふくれあがり,282台の輜重車を運用した.
ある年の陸軍大学校の口頭試問だったそうだが,『輜重兵輓曳中隊
の行軍長径,また,物資の運搬量はいくらか?』と聞かれた.受験生
は歩兵少尉,思わず目を白黒させたという.
正解は「1660メートル,運搬量は約53トン」だったそうだ.
(以下次号)
(荒木肇)
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