c

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページに戻る

目次に戻る

青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.

※レス回収基準は「Ver.5」


世界史なんでも質問スレッド80

7072010/10/25(月) 09:22:12 0

(´-`).。oO 何か季節の変わり目だな

目次

j-economy 【質問】 世界最古の金融業者って銀行? 金貸し? 投資機関?

 【質問】 「植民地」の定義を,歴史板的にきちっと説明いただけるとありがたい.

 【質問】 「アジアで植民地になっていないのは日本とタイだけ」と言われるけど,中国も植民地になってないのでは?

 【質問】 敗戦直後の日本の主権は,否定されていたの?

 【質問】 鄭和の艦隊は,インカ帝国建国に何らかの影響を与えたのでは?

 【質問】 ノヴゴロドはいつ,誰によって滅ぼされたのですか?

 【質問】 中世ヨーロッパの有力な都市は,独自の兵力を持っていたようですが,具体的にどういった人々がその将兵になっていたんでしょうか?

 【質問】 前近代のイスラム圏の知識人は,民主制や共和制について,どう考えていたんでしょうか?

 【質問】 エチオピアの皇室は,2000年以上の間,ずっとエチオピア全土に君臨していたのでしょうか?

 【質問】 中世のヌビアは,どこの国の支配下にあったのでしょうか?

 【質問】 「蒙古は末子相続」ってホント?

 【追記】 中国の万里の長城って,実際に防御効果はあったのでしょうか?

 【質問】 ヨーロッパにも長城ってなかったっけ?

 【質問】 東インド会社と西インド会社の違いがわからないんですが…

 【質問】 第1次世界大戦後,クレマンソーやロイドジョージがウィルヘルム2世を,戦犯として裁こうとしたのはなんでなの?

 【質問】 オーストリアのカール1世も裁判にかけられなかったのに,ウィルヘルム2世だけ執拗に裁判にかけようとしたのは何故?

 【質問】 ナポレオン1世が流刑となったのは,戦犯として裁かれたから?

 【質問】 敗戦国の元首を裁判にかけたのは,WW2後が最初?

 【追記】 WW1では,戦争犯罪に関する裁判は破綻していた

 【質問】 李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国と改めますが,なぜ大「朝鮮」帝国ではなく大「韓」帝国なのでしょうか?

 【質問】 カナダでも先住民の迫害等はあったのでしょうか?

 【質問】 日本は南北朝鮮に賠償金払ったの?

 【質問】 ブルゴーニュ公位が断絶した時,なぜハプスブルグ家の後継者は,フランス国内の領土を継がなかったのでしょうか?

 【質問】 アーリア人って具体的に,いつのどういう人達ですか?


** 【質問】 世界最古の金融業者って銀行? 金貸し? 投資機関?

 【回答】
 金融と言うのがどこまで含めて言ってるのかにもよる.
 貨幣経済以前から,播種期に種を貸して,収穫期に利子付けて返済すると言う事は行われてた.
 バビロニアのハンムラビ法典には,穀物や銀の貸付に関する利率や債権の条項がある.
 これ以前にも金融はあっただろうし,その後もフェニキア人やアラム人らが両替・振替・投資などを行った.

 貸主は有力者や神殿なんかだけど,そうじゃなくて貨幣じゃないと駄目とか,業者としてそれのみを専門に行う人間の発生とか言うなら,また別.

 ゴールドスミスが片手間に両替したり貴金属を預かったり,ある支店で預かったものを別の支店で払い戻したりし始めたのが14〜15世紀.
 本業としてやってる訳じゃないゴールドスミスを,金融業者と呼んで良いのかどうか.

 要するに現代の区分で何々の最初はとか起源はとか言う場合,その区切りをどこに置くかという問題になるわけで,この場合何を持って金融なのか,どこからどこまでが業者なのか,それを最初の質問者が確定しない限り,回答が色々出るのは仕方ない.

世界史板,2010/10/12(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「植民地」の定義を,歴史板的にきちっと説明いただけるとありがたい.

 【回答】
 植民地って言葉がどうにも不完全だから,定義を論ずる方が愚かしいと思う.
 コロニーから来てると思うが,文部科学省は呼び方を改めるべきだな.
 併合地,占領地のほうがよっぽど明解だ.

 そもそも植民地という言葉には,明確な定義はない.
 恣意的に解釈して,貶めるために使われることが多いね.

 強いて言えば,

1,軍隊で占領する
2,その軍隊で脅しつけて憲法や倫理法,安全保障条約を制定,布教をする(欧米の植民地は,ほぼすべてキリスト教国家になる)
3,2は民意に基づかない
4,経済的に搾取する
5,言語を奪う

6,為政者は宗主国が任命する.
7,法律は宗主国が制定する.
8,通貨は宗主国のものを使う.
9,植民地と宗主国の人民はお互いに通行自由で旅券や査証を必要としない.
10,植民地の財政は宗主国の特別会計.

世界史板,2010/10/14(木)
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 8,9は違うだろ.

 まずは,9.人の移動.
 普通は,植民地の人が,本国へ行く,別の植民地へ行くには厳しい制限があるし,本国の人が植民地へ渡航する場合や,植民地から帰還する場合にも制約がある.

 8にしても,豪ドル,香港ドル,カナダドル,メキシコドル,CFAフランなんかは,植民地が独自に外交権を付与されたり,独立したり,租借が解消されたりする以前から,本国通貨とは別の体系で発行されていた.
 メキシコ・ドル銀貨のように,本国通貨よりも信用度の高い基軸通貨になったものすらある.
 スペイン領ギニアは,フランスが植民地に発行させたCFAフランが通用していた.

世界史板,2010/10/15(金)
青文字:加筆改修部分

 宗主国となんらかの従属関係にある,広義の「従属国(dependent state)」には,以下のものが含まれる.
冊封国・朝貢国(tributary state):交易などを目的として,名目的な従属関係にある
被保護国(protected state)or衛星国(satellite state):独立国だが,条約で定められた範囲で外交などに干渉される
傀儡国(puppet state):名目上独立しているが,宗主国の強い影響下にある
半主権国(semisovereign state)or付庸国(vassal state):宗主国の一部とみなされ,不完全な主権を持つ
植民地(colony):本国に対して従属的地位にある領土

 植民地はcolonyの訳語で,ラテン語のcolonia「開拓地」から来ている.
 統治の形態には,
内政には原則として干渉しない保護領(protectrate),
現地の政権を通じて支配する間接統治領,
本国が外交と防衛を担当する自治植民地,
本国から統治者が派遣される直接統治領
がある.
 また,租借地や租界は,潜在的主権は貸した国にあるが,統治権は借りた国に移り,治外法権の準領土となる.

 古代フェニキアやギリシャの植民地は,母都市(メトロポリス)から移民が出て行って,開拓地に入植して独立した都市を作るもので,同盟関係はあっても従属関係はなかった.
 未開無人の土地を新しく開拓するなら問題ないが,先住民との対立や同盟も多々ある.

 やがてカルタゴやアテナイでは,征服地に「政治的独立性のない植民都市」を作り覇権を確立していくが,ローマでも母都市ローマから武装移民を占領地に入植させ,「コロニア」とした.
 他にも同盟国(ソーチ)などをケースバイケースで使い分け,イタリア半島を統一した.
 総督(インペリウム保持者)が統治権を持つ属州(プロヴィンチア)が作られるのは,第1次ポエニ戦争以後.
 英語のプロヴィンスは州や地方を指す語になったが,植民地にはcolonyが総称として用いられた.

 wikipediaを見ると,「植民地」というものにも,いろいろな分類がある.

 インド帝国は,英国と元首を同じくし総督が統治する半主権国.
 アイルランド・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカは,総督が統治する自治領(ドミニオン).
 中南米・カリブ海・アフリカ・アラビア半島・セイロン・マレーシアなどは植民地(コロニー).
 イラク・パレスチナ・ヨルダン・アフリカの一部は,第一次大戦後の国際連盟委任統治領.
 香港は永久割譲地と租借地.

※ ただし中国史においては,冊封国・朝貢国ってひとくくりにできない.

 琉球とか,マジャパヒトとか,シャムとかの,遠方で明・清の実質的な勢力が及ばないところは,“交易などを目的として,名目的な従属関係”に合致するんだけれど,そうでないところも,形式上は冊封・朝貢.
 たとえば,明の永楽帝.
 この人,皇帝になる前には,燕州に領地を貰って,燕王の地位を授かってた.
 皇帝の親族が国内に封土を貰って,朝廷の意向に沿って統治している全くの国内だが,中央との関係は冊封だし,納税は朝貢だ.
 これは,属国と同じ形式で行われていた.
 もう一つ,冊封国・朝貢国とされている,清と朝鮮との関係.
 朝鮮が従属的な立場に置かれるにあたって,清国皇帝の親征があり,一度朝鮮国王は捕縛されている.
 清国を本国,朝鮮が従属的な立場との確認を行うことで,捕縛を解かれ,冊封国として自治権をみとめられてはいるが,内政・継承に度々干渉を受け,朝貢の品目・数量を厳しく指定され,対外関係については本国が全く取り仕切っている.
 たとえば,1876年・日朝修好条規や1882年・米朝修好通商条約や,清国と日本・アメリカとの間に成立した条約を,清国理藩院が朝鮮に突きつける状態だったし,内乱(壬午事変)では朝鮮の王族が問責のため,清国に捕縛連行されいる.
 上記の定義で言うと,李氏朝鮮は,清国を宗主国とする,傀儡国どころか半主権国〜植民地の地位.

世界史板,2010/10/21(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 学校の先生は
「アジアで植民地になっていないのは日本とタイだけ」
というけど,中国も植民地になってないのでは?
 局所的に占領支配されたり分割されたけど,一応,固有の政府があったじゃん.
 清の統治機能が失われたということは無い.

 【回答】
 清と明治までの日本は関税自主権がなく,外国人の治外法権が認められ,諸外国に経済的に支配された.
 外国人によって運営される警察組織を持つ外国人居留地(租界)があり,さらに清の場合は租借地があり,外国に割譲された国土があって,それらが国内経済を圧迫する外国資本の拠点となった.

 このような状態を,孫文は「半植民地」と呼んだ.
 このショッキングな用語は,当時のシナで論争の的になった.

 富国強兵の自助努力によって,段階的にこの状態を脱したという事を誇りたい日本の歴史は,かろうじて独立国であったということを強調し,清朝の腐敗と堕落による危機的状況を強調し,革命による政権を正当化したい中華民国および中華人民共和国の歴史は,当時の植民地的性質を強調する.

 日本の場合,この自己評価は,天皇制が維持されて国体を保ったという国民感情による所が大きい.

世界史板,2010/10/14(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 敗戦直後の日本の主権は,否定されていたの?

 【回答】
 主権は否定された.
 主権者である天皇(降伏当時)は,連合国最高司令官の「従属の下」に置かれた.

 外交権も否定され,外務省はGHQとの折衝が主な仕事になった.
 占領時代,日本に派遣されていた各国外交官は,日本政府ではなくGHQに対して派遣されたもので,日本政府の外交権は講和まで停止されていた.

 何よりも,国家の基本法である憲法が,GHQの要求で全面的に改正され,政治・経済のあらゆる分野にわたってGHQの介入を受けた.

 これを「保護国」同然と言わずして,何というのか?

 しかも日本政府自体が,連合国との講和による占領終結を,「主権回復」「独立」と言っている.
 逆に言うと,敗戦から講和発効までの6年半は,主権のない非独立国だったということ.
 当時の新聞記事も,みんな「独立」と書いている.

世界史板,2010/10/15(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 鄭和の艦隊が,インカ帝国の建国に何らかの影響を与えていたと思うんですが,皆さんどう思いますか?
 鄭和の艦隊は1421年の第6回の航海で,カリフォルニア沖まで航海していたという説もあるらしいですが,途中,南米の西岸を通った可能性も十分ありますよね.
 インカ帝国の建国は1438年.その周辺地域はそれ以前にも文明が存在したらしいのですが,何か外から影響を受けて,突如として強力な帝国ができたと思えます.
 当時のアメリカ大陸は,他の文明との接触がなかったので,余計にそうだと.

 【回答】
 とりあえず,鄭和の航海がアメリカに行ったとか,そういうこと主張する人間は,Gavin Menzies(イギリス 1937年−)一人だけであり,トンデモ説とされていることを心得ておいてくれ.
 このメンジースのおっさんは,専門家でもなんでもない.
 ただの好事家だ.
 漢文も現代中国語も読めない.
 井沢元彦以下だよ.
 そんなあやふやなものを基礎に空想を広げても無意味だ.

 そもそもインカ以前にチムーが大帝国作っているし,南米にはいくつかの文明や国家が興亡している.
 「外部からの刺激がなければ帝国ができなかった」と思えるのか不思議だ.

 だいたいインカの国家の中心は高山地帯で,100万が一にも鄭和がもし来たとしても,接触なんか考えられない所だ.
 鄭和の航海は海岸地帯の港を回っており,奥地になんか踏み入れてないだろうが.

 また,中国には鄭和の時代より前は,外洋航海の伝統があまりなく,せいぜい東南アジア程度までしか航海してなかった.
 それがアフリカまで行けたのは,イスラム教徒である鄭和のコネで,インド洋沿岸の地理や気象の知識を事前に得たり,水先案内人を雇ったりできたからだ.
 これに対し,太平洋や大西洋は,どれぐらい進めば陸地に着くといった情報が当時は皆無.
 コロンブスのように,その先に陸があるという確信がない限り,わざわざ大洋を横断しようという発想自体がそもそも出るわけがない.
 それとも,鄭和はあてもなく闇雲に大洋に乗り出すほど,愚劣な指導者だったとでも?

世界史板,2010/10/16(土)〜10/17(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ノヴゴロドはいつ,誰によって滅ぼされたのですか?

 【回答】
 1478年,モスクワ大公のイヴァン3世によって併合され,独立を失った.

 ノヴゴロドは,キエフにルーシの中心地が移って以後も自由都市となって繁栄し,ハンザ同盟にも加わった.
 13世紀にはノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーが,ドイツ騎士団を撃退.
 彼の子のひとり,ダニールがモスクワ公となり,その子孫がモスクワ大公となって,ノヴゴロドなどルーシ諸国を征服した.
 ルーシの本家ともいえるノヴゴロドの征服により,モスクワはルーシの正統な後継者だと自認することになる.

世界史板,2010/10/18(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中世ヨーロッパの有力な都市(ドイツのケルンとか)は,独自の兵力を持っていたようですが,具体的にどういった人々が軍を為していたんでしょうか?
 専業の兵士がいたのか,普段別の職業に就いてる市民が有事の際に武器を取ったのか,それとも傭兵にお任せだったのか.
 また,いざ戦闘になった時の大将格は,どういった人になるんでしょうか?

 【回答】
 ギルドごとに割り当てられた兵員数を揃えたり,市内の教区ごとに割り当てられた兵員数を揃えたり,といった感じで普通は集める.
 兵士のなり手は様々で,下層市民から都市に従属する農村出身者,騎士などの下級貴族層の次男以下,上級市民の子弟など,ほんとに雑多.
 もちろん傭兵も含まれる.
 上級市民の子弟は,下級の隊長として従軍する.
 封建上,諸侯,司教などに従属している場合はその指揮下に入ることに.
 都市が自ら兵を起こした場合は,名目上の指揮官は都市の有力者(都市貴族や大商人からなる参事会員など),
 傭兵に全面的,もしくはかなりの部分を依存してる都市のほうが多いと思うけどね.

 戦闘でも実質は,雇われ指揮官(傭兵隊長や地元貴族)が軍を統率することに.
 ただし傭兵隊長は,必ずしも戦術指揮能力が優れているとは限らず,兵隊を養う方面に優れた「経営者」的な才能の者もいたようだ.

 農民戦争のとき,農民軍は傭兵隊長として名の知られた鉄腕ゲッツを指揮官として雇ってる.
 契約期限が切れると,農民軍を見限って,とっとと自分の城に引っ込んで諸侯軍に降伏.
 ゲーテの戯曲とは大違いの悪党ね.
 当時の傭兵隊長としては普通の行動だけど.

※ イタリアじゃ,市民兵から外国人傭兵→イタリア人傭兵と,全面的に傭兵に頼るようになった.
 神聖ローマの帝国自由都市と,イタリアの都市国家は違いすぎるから,面倒くさいところだなあ.

世界史板,2010/10/18(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 前近代のイスラム圏の知識人は,民主制や共和制について,どう考えていたんでしょうか?
 ギリシャ哲学をリスペクトしてた人たちだから,世襲君主制以外の政体がありうるということに対して,自覚的だったと思うんですが.

 【回答】
 イスラームが発生したメッカやメディナは,有力部族長たちの合議制で統治されていた「共和国」だった.
 クルアーンでも合議制は推奨されており,ムスリムは「イスラームの共同体(ウンマ)」に属する者とされた.

 世襲君主が登場したのはウマイヤ朝のヤズィードから――正統カリフ制やマムルークの王朝は,世襲君主制じゃないよ.共和制や民主制でもないけど.――で,スンニ派的には「必要悪」という認識.
 それでもマリク(王)よりは,アミール(指揮官)やハリーファ(預言者の代理人),スルターン(執政者)という称号が好まれた.

 民主政は,古代・中世においては「衆愚政」「蒙昧な人民(デモ)の暴力的な支配(クラシー)」というイメージがあった.
 プラトンも衆愚政治の弊害を論じ,「哲人政治」こそが望ましいとしたし,近世欧州のモンテスキューやホッブズ,ロックらでも,統治に関しては王政か共和政の方が望ましいとした.
 だから「衆愚政より賢人による共和政の方がよいが,世襲君主でも有能ならば共同体を守るのには役立つ」というのがスンニ派的解釈.
 ギリシャの民主制知っていても,その末期の衆愚も知ってるからな,イスラムは.
 イスラムでシャリーアによる法治を選んだだけだ.
 オスマン帝国の君主だって,イスラム法に反するとされれば廃位された.

 シーア派は「アリー様の聖なる子孫こそがウンマの指導者(イマーム)にならなくては」というのだから,本来は世襲君主制しかないはずだが,いろいろあって「隠れておられるイマーム・マフディー(救世主)のご帰還を待とう」ということになり,「国王がイスラームに反すれば,法学者が代わって信徒の統治を行うべし」というホメイニの理論が生じた.

 「人民主権」となると,イスラームとしては「主権」をアッラー以外が持つわけがないので,本当は論外.
 近代にはカダフィが,「ジャマーヒリーヤ(直接民主制による大衆の共和国)」などと言い出しているが,某人民共和国とよく似ている.

世界史板,2010/10/18(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エチオピアの皇室は,かつては世界で一番古い帝統だったそうですが,2000年以上の間,ずっとエチオピア全土に君臨していたのでしょうか?

 【回答】
 実は続いていない.
 19世紀後半の段階でも,地方豪族が群雄割拠している戦国乱世の状態で,その中から有力な豪族がエチオピア全土を統一して皇帝になった.
 だから,ハイレ・セラシェがソロモン王の子孫なんてのはインチキくさい.
 ハイレ・セラシェの父親は,マコーネン公爵という地方領主にすぎない.

 ソロモン王とシバの女王の息子メネリクが実在したとすれば,紀元前10世紀末頃の人だが,エチオピア最古のアクスム王国が記録に現われるのが紀元前後.
 アクスムには古くからユダヤ教も入っており,4世紀にキリスト教(コプト教)化する.
 ソロモンの子孫と称したのはこの頃からで,「王たちの王(ネグサ・ナガスト)」とも称したから,まあ皇帝と言える.

 アクスムは7世紀以後,イスラムの台頭で内陸へ追いやられ,12世紀にアガウ人のザグウェ朝に取って代わられる.
 ザグウェ朝はソロモンの子孫でないということで嫌われたが,ラリベラの岩窟教会などを残した.
 1270年,ザグウェ朝を倒したイェクノ・アムラクは「アクスム王の末裔,ソロモン王の子孫」と号し,ザグウェ朝を否定して正統を主張した.
 これがエチオピア帝国の成立で,日本でいうと蒙古襲来の頃.
 その後は繁栄と分裂を繰り返し,18世紀には諸侯が分裂して戦国乱世となり,19世紀半ばに再統一された.

世界史板,2010/10/20(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中世のヌビアは,どこの国の支配下にあったのでしょうか?

 【回答】
 紀元前6世紀から紀元後4世紀頃まで,ヌビアにはメロエ王国が栄えた.
 ローマやエチオピアのアクスム王国の侵攻などで衰退・滅亡したあと,ノバティア(ヌバ),マクリア(マクラ),アロディア(アルワ)というヌビア人の王国が成立した.
 彼らは6世紀頃,エジプト経由でキリスト教(コプト教)を受容している.

 7世紀にイスラム勢力がエジプトを征服すると,一挙にナイルを遡ってヌビアにも侵攻したが,最終的に和平が結ばれ,6世紀にも渡り平和な交易活動が行われた.
 13世紀からはマムルーク朝の攻撃を受け始め,ヌビア諸国は徐々に衰退とイスラム化が進み,15世紀頃には南方から来たナイル・サハラ語族のフンジ人に滅ぼされた.
 フンジ王国はムスリムで,19世紀まで分裂しつつ存続したが,1821年エジプトのムハンマド・アリに滅ぼされた.

 フンジは紅海沿岸部からエチオピアの端っこにいた黒人部族で,早くからムスリム化していた.
 同時期に西部には,ムスリムのフール人がダルフール王国を築き,現スーダンはほとんどイスラム化した.
 エチオピアもコプト教ばかりでなく,紅海沿岸部にはアダルやイファトなどムスリム小国家があった.
 なにしろ対岸が,メッカを含むヒジャーズ地域だから,スムーズに交易を行うにはムスリム化するのがてっとり早い.
 16世紀にはアダルからジハード運動が起き,オスマン帝国の支援により一時はエチオピアの大半を征服している.
 これを鎮圧するため,エチオピアの皇帝はポルトガルの支援を受け,カトリックが入って宗教紛争になったり,さらに南から異民族のオロモ(ガラ)人が侵入したりして,しばらく混乱する.

世界史板,2010/10/21(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「蒙古は末子相続」ってホント?

 【回答】
 遊牧圏は末子相続というけれど,真の意味での末子相続ではないよ.
 末っ子に,家督や家産やなんかの継承最優先権があるわけではない.

 前提として,遊牧という経済形態では,人が大勢一箇所に居ると,たちまち資源の枯渇をもたらすような土地条件なので,大きな集団を少人数に分割して分散しなければならない.
 大きな集団としては生き残り易いが,分割した個々の小集団は,いろいろな理由で全滅し易い.
 ここで大勢一箇所に居ない工夫として,或る程度の年齢なり技量に達した子供には,家畜やなんかを分け与えて,親の小集団が大きくなりすぎる前に独立をさせる.
 相続でいうと,生前分与だ.

 例えば,男児が5人いて,一人前と看做された長男・次男が既に独立し,三男もそろそろ独立する年齢・技量に達したというようなときに,家長たる父親が死去したとする.
 さて,このときに,親の天幕・家畜群を引き継ぐのは誰か.
 末子相続だから,また幼い末っ子か?というと,そんなことはない.
 この場合には,次男を呼び戻すか,三男が引き継ぐか,どっちかだ.

 次男が呼び戻された場合には,程なく三男に,家畜が分け与えられ,独立を促される.
 以降,末っ子まで順次独立し,次男が老母および独立前の弟の扶養義務を負い,次男の子が更に次代を引き継ぐ.

 三男が引き継いだ場合には,同じく,四男・末っ子の成人まで面倒を見て,年齢・技量の達したところで,それぞに家畜を分けて独立させる.
 天幕・家畜群を最終的に引き継ぐのは,三男の子孫だ.

 分散している個々の小集団は,戦闘なり,事故なり,病気なりで,維持が難しい状況になりやすい.
 その際には新たに,家畜や家族の扶養義務の再分配が行われる.
 最初に独立した長男が,親の天幕に呼び戻されることも珍しいことではない.

 こうなると,単に
「長兄に継承の最優先権があるとは限らない」
というだけで,決して,末子相続がルールとはなっているとは言いがたいだろ.

世界史板,2010/10/21(木)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

4832010/10/22(金) 11:36:21 0
中国の万里の長城って異民族の侵入から漢民族本土を守るために作られたと
言われていますが実際に防御効果はあったのでしょうか?
また,長城を作っているときに敵がやってきた場合どうしていたんですか?


4842010/10/22(金) 12:00:10 0
駐屯兵がちゃんと働き,ちゃんと補修され,内応者が出ない限り効果はあった.
敵がやってきたらそこで工事を中断して武器を持って戦う.


4852010/10/22(金) 12:15:54 Q
はしごを使ったり盛り土をすれば簡単に侵入出来そうww
駐屯兵って言ってもあれだけの長さを防御するわけだから当然密度も小さくなるわけだし


4862010/10/22(金) 12:29:43 0
長城とは国境警備軍の拠点でもあって,運用する兵士がいてこそ機能するものだった
その兵士がいて指揮系統も整っていれば防御効果を発揮できた.
当然,国内が乱れる等の理由で長城に兵を配する余裕が無くなり,放置されてしまえば,
単なる建造物なだけの長城なんて容易に突破された.
また,そんな時代には長城の整備もされず,朽ち果てていく傾向にあった.

まあ長城を効果的に運用した軍人という点なら,西漢(日本では前漢ともいう)の李広かな.
匈奴が長城に攻め寄ろうとしたら,城壁の上から弓射で狙い撃ちにし,撃退し続けた.
李広自身が弓の達人だったこともあるが,指揮下兵士の弓術もよく鍛えておいたんだな.
こういう防御戦に才能を発揮した軍人だから,後年の武帝の「討って出て匈奴を補足撃滅せよ」だなんて
攻勢型の命令を遂行しようたって,そりゃ無理なんでしょうが…

長城を作っているときに,ってのは何だかなあ…
近くに軍隊を駐留させて,警備されながらの作業だったけど.
というか漢の長城建造に関して言えば,建造作業自体,主に軍が担った.
まあ軍隊が蹴散らされてしまえば,作業は遅延したわけだけど.


4872010/10/22(金) 12:35:38 0
そのはしごや盛り土のための道具はどうやって持ってくる?

草原の彼方の敵兵を見つけたら敵兵が取り付くポイントへ守備兵が駆けつけることは考えられない?


4882010/10/22(金) 12:55:14 0
>>483
>また,長城を作っているときに敵がやってきた場合どうしていたんですか?
そもそも今「万里の長城」と呼ばれてるもの以外にも古代から北方の国境付近には
長城は存在しているわけでそういうのを修復や延伸しながら徐々に万里の長城が作られて行ったんだよ
当然,軍隊が守りながらの作業だった


4892010/10/22(金) 13:19:49 Q
>>487
馬に折り畳み式のはしごや土嚢を積んでこればいいだけだし
仲間の守備兵が駆けつけるまでにできるかどうかが問題だけど…


4902010/10/22(金) 13:27:45 0
「長城を作っているとき」という表現からして,なんだか質問者が
長城は一為政者の時代だけで成り立ったと誤解しているように思えてならない


4912010/10/22(金) 13:43:02 0
>>489
遊牧民が梯子や土嚢の袋を持ってるって? pu


4922010/10/22(金) 13:44:41 0
駐屯兵同士の連絡には狼煙を使っていたんでしょ?それでいて徒歩で侵入ポイント
に向かっていたなら当然間に合わないわな
長城はしょせん中華思想という名の漢民族歴代皇帝のオナニーww


4932010/10/22(金) 13:49:35 0
現在見られる明の長城でも,石積みや煉瓦積みの巨大なものは北京周辺にしかなく,
ほとんどの「長城」は版築で,突き固めた土の壁(土+成=城)に過ぎない.
内陸部に行くほど長城は低くか細くなっていき,単なる土製の国境線と化す.

要は騎馬兵が飛び越えられなければいいので,土壁を数メートル盛り上げ,塹壕が掘ってあれば事足りた.
そこで足止めを食っている敵を,砦の守備兵がうまく撃退できれば,どうにか守ることができる,という程度.
うまく使えば役に立たないこともないが,気休めや象徴といった部分が大きい.

また長城は中華と草原を分けるとはいうが,中華本土より北に一回り大きい.
しかし漢人の王朝は,長城を自分の支配が及ぶ「限界」としてしまい,なかなか越えることはできなかった.
それに長城の南北でいきなり「野蛮な」遊牧地と「文明的な」農耕地に分かれるはずもなく,
モンゴル高原から中原までは一続きの牧畜適地で,遊牧民は簡単に乗り越えた.


4942010/10/22(金) 13:54:47 0
>>492
十分間に合う,夜中に一人二人が不法入国するなら何とかなるが
数万に規模の軍勢だと,例え騎馬軍団でもなかなか統制は利かないし
馬や羊などを超えさせるとなれば,はしごじゃ駄目で,破壊するか
土嚢を積んで坂を作るしかないわけで,長城を越えて馬や羊を
捨てて侵攻すれば,騎馬民族は数が少ないから一発でやられる.
もっとも,これは国内がまとまっている時だけだけどな


4952010/10/22(金) 14:05:30 0
まあ長城に張り付いてる軍だって当然騎兵隊はいるだろうし
遊牧民は馬から降りて戦いはせんだろう
長城の内側にも羊飼ってる人々は山ほどいる

ふと思うんだが,漢人捕虜の奴隷兵士とか使えば歩兵もいるわな
そいつらに長城を破壊or土嚢積みさせればいいんじゃないか?

5002010/10/22(金) 14:24:12 0
漢:匈奴支配地に攻め込んで長城(塹壕線)を構築,中華本土に組み込もうとする
晋:匈奴や鮮卑が中華の内乱に乗じて攻め込む
唐:突厥を分裂させて一時は草原世界にも覇を唱えるが,安史の乱で崩壊
宋:契丹に燕雲十六州を抑えられ,長城どころではない

元:長城?ああ,そんなのあったね(笑)
明:モンゴルこわいモンゴルこわい(永楽帝除く)
清:蒙古とシナで行政上の区域分けするのには便利じゃね?


5012010/10/22(金) 14:40:37 0
永楽帝でも拠点を持たない遊牧民を撃滅することは困難を極め,大遠征は多大な国費の消尽を招いた.
そのため長城を拠点とした防衛システムを構築したのであり,軍事面に秀でた将軍が守れば効果的であった.
が,あくまでシステムを運用するのは人間であるから,良将を讒言によって更迭・処刑したり,
守将や守備兵が弱すぎたり,守将が自分の管区外との相互支援を怠ったりすればどうしようもない.
遊牧民側もそんなことはわきまえていて,スパイを送り込んだり内通者を作ったり,
守備兵の少ない脆い箇所を突いたり,同時に複数箇所へ侵攻したりしている.
わざわざ真正面から堅固な防衛システムに突撃するのは愚の骨頂.

5022010/10/22(金) 14:47:48 0
>>492
世界遺産系の番組でよく長城特集やってるけどさ,あれなんで急こう配の山の尾根や断崖絶壁
の上とか防衛上問題ないところまで長城建ててるのかといったら,なるべく長城を途切れさせない
ほうが大勢の応援兵が駆けつけられるからだってな

5042010/10/22(金) 16:30:41 0
日本独自の格言(?)に,「世界三大馬鹿建造物.ピラミッド,万里の長城,戦艦大和」というものがある.
これは太平洋戦争末期,世界に誇るスペックだった戦艦大和が大した戦果を挙げていないことに不満を抱いた海軍将兵が
大和を揶揄して言い出したことがルーツとも言われる.上層部の方も同様に大和は役立たずとする認識があり,
菊水作戦などという,たとえ成功しても船としては終わってしまう,見殺し的な策が立案された.
もっともレーダー関係の装備が英米に較べて大幅に遅れていたとは言え,
大和がそこまで役立たずだったのは運用法に問題があったからなのだが.

戦時中の日本人にとってのピラミッドは,無駄に巨大な王墓という程度の認識でしかなかった.
おそらくギザの三大ピラミッドのことを指していたのだろう.
ヘロドトスが自己の空想を書いたに過ぎない「十万の奴隷を用いて20年がかりで建造した」とする記述を真に受けていたほどだ.
(社会システムが奴隷労働力によって成り立っていたギリシア人らしい空想である)
ところが実際には,ピラミッドの建造目的は未だに謎である.
農民救済目的の国家事業説が登場したのが1974年,ナイル川護岸物説は1992年になってからだ.

そして万里の長城も並べられている.
実際には適正な運用がなされていた場合には異民族の侵入を阻止していた長城ではあるが,役立たずの引き合いにされてしまった.
近代戦で役に立たない点は事実だが,古来からずっと役に立ったことがないと断じるのは史実を知らない者の暴挙.
当時の日本が政治的にも押さえていた漢土は漢満蒙の混在地域であり,
満蒙人を比較的担ぐのと相対的に漢人を貶めようとする意識も影響したのかもしれない.
ともかく日本において,「万里の長城=役立たず」のフレーズが独り歩きを始めてしまった.
長城は役に立たなかったという妄想の中の結論が先にありきで,史実の指摘を無視する者も散見される.
日本人の一部にあることだが,その一例が>>492

5062010/10/22(金) 17:23:00 0
観光資源になっている長城ってのは,明の長城の中でも足を運びやすい北京近郊部分のことだろうな
秦や漢の長城の遺構は交通の便が悪い辺境だし,保存状態も極めて悪い
研究者にとっては古い遺物の方が興味深いのだろうけど


5072010/10/22(金) 17:29:37 0
おっと,漢の長城の遺構部分て,今では大部分がモンゴル国内だっけな

5082010/10/22(金) 17:34:31 0
長城は落書きとしょんべんだらけ

5132010/10/22(金) 18:26:39 0
古今東西の要塞すべてに言えることだが,壁の形成はそれだけで道を遮断し
補給線を切断できる.ちょこちょこ壊す程度では物資を詰んだ数十トンの荷馬車が何十と
通り抜けることなどとてもできない.
良い例が亡命を防ぐ壁だ.小ベルリンの壁は個人なら突破はそう難しいことはないが,
家具一式を持って行くとまず不可能になる.

5332010/10/22(金) 19:51:09 0
漢代の長城は砂漠の中,明代の長城は山の尾根.
越えたからそれで終わりじゃなくてそこからまた何百里も馬で南下して始めて略奪できるような場所に着く
そして帰る時もまた狭い突破口から帰ろうとして渋滞するところを捕捉して撃滅する.
それで十分役に立つから何代にも渡って作ってる.
更に重要な拠点には関を作って防備して最初から突破さえできないようになってる.
山海関のように満州女直の侵略を食い止め続けた歴史もある.

世界史板,2010/10/22(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヨーロッパにも長城ってなかったっけ?
 水道橋とかじゃなくて.
 古代ローマがガリアに長城を作ったって,資料集で見たことある.

 【回答】
 ラインとドナウの間に築かれた「リメス・ゲルマニクス」な.
 万里の長城みたいなのじゃなくて,木柵と土塁と道路と軍団基地と砦の連携で構成されてる.
 当時のゲルマン人は森の民だし,防衛線たるライン・ドナウの両河川の上流部の間の隙間を埋めるように,森の中に作られてる.
 遺跡も一応残っており,後述の,英国の「ハドリアヌスの長城」「アントニヌスの長城」とともに世界遺産登録された.

 ブリタニアには,「ハドリアヌスの長城」と「アントニヌスの長城」が作られた.
 これは石塁の遺構が残ってる.

 元来ブリタニア北半はケルト人の抵抗が強く,ローマは征服を諦めて守りに回り,長城を築いて境界線とした.
 ガリアの長城よりも後の時代のことだと思うが.

 ローマ衰退後のブリタニア南半には,アングロ族やサクソン族が流入して,イングランドが樹立.
 北半のスコットランドとしばしば係争したが,講和の際に勢力境界線(国境みたいなものか)を定めるのに長城を根拠にすることも.
 より北方に築かれたアントニヌスの長城は,すぐに放棄されて,ハドリアヌスの長城が実質的なローマ国境線になってる.

 東方ではシリアにも,砦を連ねた一種の長城があった.

世界史板,2010/10/22(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東インド会社と西インド会社の違いがわからないんですが…

 【回答】
 ヨーロッパに対して西か東かの違い.
 ヨーロッパから西側にあるのが西インド,東側にあるのが東インド.

 本物のインドは東側.
 東インドは,本来のインドや東南アジア,シナまで含む広義のアジア.

 旧西ローマの領域のヨーロッパ人の視点で,世界の真ん中が西ローマ帝国の領域,
 その東側を近い順に,
ローマ帝国の支配したことの或る地域=近東,
マケドニアのアレクサンダー三世王が攻略したことのある範囲までが中東,
それより東のところを漠然と極東と言った.
 で,極東の中で一番最初に接するのがインドなので,極東全体を漠然とインドと呼んだ.

 コロンブスが勘違いした方は西側.

 中東・近東の大部分は,仇敵イスラム教徒の世界になって,まぁ知らない土地でもないが,その先というのは全く様子の判りにくいところで,西ヨーロッパ,中東・近東という知っている世界と,それ以外のところという漠然とした分け方をし,且つ,西側に舳先を向けて到達するところを西インドと呼んだ.

 そしてコロンブスは,カリブ海の島々を,
「地球を回ってインド(インディアス)についた」
と誤解し,先住民をインディオと呼んだ.
 しかしのちに本来のインドではないと分かり,英語などではこの地域を「西インド」と呼んで区別した.
 それで英語では西インド諸島といい,南北アメリカ大陸も西インドと呼ぶことがある.

 西インド会社は,スペインの植民地からあがる利益を,海賊行為でぶん取ろうという目的で設立.
 英仏蘭が別々に作ったが,あんまり利益があがらず,東インド会社より早く解散してしまった.
 ただ,オランダは大西洋を渡る奴隷貿易や植民地経営に切り替えたので,アフリカ西岸部もこの西インド会社の管轄に含まれたりする.
 まあ,デンマークなどは,東インド会社が西インド諸島で活動してるが.

世界史板,2010/10/23(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次世界大戦,クレマンソーやロイドジョージがウィルヘルム2世を,侵略の戦犯として裁こうとしていたが,なんでなの?
 ただの積年の恨みつらみだけが理由?

 【回答】
 勝者側としては,敗戦国の戦争指導者は厳しく責任を追及して罰しておかないと,後々禍根を残す.
 島流しにされてさえ復位に成功した,ナポレオン1世の例もあるんだから.

 戦争の理由が正当だったかどうかはあまり関係ないし,どうでもいい.
 戦争指導者であったこと自体が,裁きの対象となる.
 その戦争指導者のヴィルヘルム2世が,たまたま皇帝だってだけのこと.

世界史板,2010/10/23(土)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 それだと,ナポレオン3世を裁判にかけて死刑にしなかったのはなんで?
 ドイツ側で敗戦国の君主を裁判にかける発想すらも無かったみたいだし.

 それに第1次世界大戦で,同じ敗戦国のオーストリアのカール1世は裁判にかけずに,あくまでもウィルヘルム2世だけ,執拗に裁判にかけようとしたのもアレだし.

 【回答】
 正戦論を復活させたのが第1次大戦からだから.
 戦後のパリ不戦条約で侵略戦争の禁止が明言されたのも,この文脈の内にある.
 戦争の責任の所在を明確化し,敗戦国の指導者を裁くという考え方が醸成されたWW1は,戦争の犠牲があまりにも大きすぎたことを知らしめた.

 ヴィリーについては敵の首魁,同盟軍の親玉として裁判にかける事が,連合軍の一つの目玉であったし,開戦当時のオーストリア皇帝は前任者であり,「主犯ヴィリー」を抜きにして彼だけ裁くのも,政治的に意味が無い.
 連合側が開戦当時の「責任」を,どのように見ていたかは分からないが,ドイツ皇帝の白紙手形は,開戦責任問題の中で最重要と呼べる事件だったよ.

世界史板,2010/10/23(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナポレオン1世が流刑となったのは,戦犯として裁かれたから?

 【回答】
 ナポレオンは処罰されていない.
 裁判にかけられてもいない.
 公式には「流刑に処されていない」.

 ナポレオンは退位宣言後に,英国への亡命を希望して,英国戦列艦に乗り込んだ.
 乗り組まれたベレロフォンの艦長は,戦闘中でもないし,他国の貴族でもあるし,どうにも処置できず,そのまま賓客として乗せて,上の判断を待った.

 英国政府はナポレオンの希望を聞いたが,本国に亡命場所を指定するのは,政治的に問題外だった.
 しかたないので警備兵を付けて,一番害にならないところ,大西洋上の交易中継点のセントヘレナ島に,「邸宅」を与えて住まわすことにした.

 つまり公式には,英国はナポレオンを流刑にしたのではなく,「保護した」ことになっている.
 なんてややこしい(笑)

世界史板,2010/10/23(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 そもそも,戦争に負けた相手の国の元首を裁判にかけるなんて,WW2後が最初じゃないの?

 【回答】
 そういう意味では,
カール1世=亡命するも裁判にはかけられず余生を送る
ウィルヘルム二世=裁判にもかけられずに余生をおくる
ヒットラー=追いつめられて自殺
ヴィットリオ・エナヌエーレ3世=国民投票で王制廃止になったが裁判にはかけられずに余生を送る
昭和天皇=裁判にかけられず40年以上も余生を送る

……と,敗戦国の国家元首で裁判にかけられたのは,一人もいないわな.
 強いて言えばデーニッツぐらいか.

 ちなみに
ムッソリーニ=反ゲリラに公開リンチで殺される(裁判で処刑されたのではなく,あくまでもリンチで殺された)
ニコライ二世=革命軍に亡命される前にどさくさにまぎれて殺された

世界史板,2010/10/23(土)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

コピペだが,戦争犯罪に関する裁判は破綻していたっぽい

第1次大戦後,ドイツ軍将兵の残虐行為についての,カイザー・ヴィルヘルム2世の責任が問題となった.
連合軍は,ベルサイユ条約第227条で
「同盟および連合国は,国際道義に反し,条約の神聖を犯したる重大なる犯行につき,前ドイツ皇帝ホーヘンツォルレン家のヴィルヘルム2世を訴追す」
と規定して,カイザーを法廷に引き出そうとした.
しかし彼は休戦直前,皇位を放棄してオランダに蒙塵,オランダは彼の身柄引渡を拒否した.
これについては,連合国内においても囂々たる議論があった.
フランスは,ドイツの将軍,将兵による残虐行為に対する責任は,最終的には長の長たる皇帝にあると強硬に主張.
しかしアメリカ代表ランシングは,これに反対して,
「皇帝には道徳的見解からするならば,人類に対して責任はあるが,法的見地からするならば,
その国の臣民にだけ責任があるに過ぎない.他の国民に対しては何ら法的責任はない」と主張した.
さらに,その他の戦争犯罪人の裁判が,これまた当を得ないものだった.
1921年5月23日,ライプチヒにおいて戦犯裁判が開始されたが,裁く者はドイツ帝国裁判所戦犯処理委員会だった.
多くの戦犯達は,ドイツ人の手では逮捕されることがなかった.
結局,裁かれたのはドイツ側が起訴した2名,英国が起訴した4名,フランスが起訴した5名,ポーランドが起訴した1名の12名に過ぎなかった.
課せられた刑罰は,ドイツの起訴した2名が4年,英国の起訴した者の内2名は6ヶ月,1名が10ヵ月,
フランスの起訴した者の内1名が2年といういい加減なものであり,連合軍使節は12人の事件の結果に対して抗議して撤退.
すると,ドイツ法廷は800の戦争犯罪事件を訴訟取り下げ,あるいは証拠不充分として処理してしまう.
1922年1月,連合軍は,ライプチヒ裁判所をこのまま継続する事は無意味であるので,
ドイツ政府は速やかにベルサイユ条約228条によって連合軍側から起訴されている戦犯を引き渡すべきであると勧告した.
が,ドイツ裁判所及び国民は強く拒否.また,有罪判決を受けた戦犯6名も,間もなく脱獄・逃亡してしまう.

世界史板,2010/10/23(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国と改めますが,なぜ大「朝鮮」帝国ではなく大「韓」帝国なのでしょうか?
 朝鮮半島で韓の字が国号(?)に使われたのは,遠く三国以前の三韓時代までさかのぼってしまうと思うのですが,「大韓」と名乗ることに何の意味があったのでしょう?

 【回答】
 「朝鮮」は王朝名で国号,「韓」は地域名であり略称の役割もあります.
 略称とはシナの省名や都市名を,一字で表し造語に利用するもので,現在もあります.
 「湖南」方言を「湘」語と言ったり,「山西」の軍閥を「晋」軍と言ったりします.
 日本の略称は倭や和であり(略称以外の用途はここでは措きます),朝鮮は韓が略称です.

 かつて漢語の造語は三文字を嫌い,リズム的に二文字か四文字を好みました.
 日本の「征韓論」の「征韓」は,当時の日本人の感覚では「朝鮮征伐」の略語化なのです.
 さらに「論」が付いて三字になりましたが,内容的にはこれで語呂がいいのです.

 さて,朝鮮が独立という運びになって大清と対等の名を付けたい,という事になり,大を付けるかわりに略称の韓の字のほうを使ってリズムを整え語呂を良くしました.
 当事者にはもう少し細かい理論づけがあったでしょうが,言い換えとしては当時からすんなり受け入れられるものだったのです.

世界史板,2010/10/24(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 カナダ=多文化共生社会のイメージがあるんですが,そんなカナダでも過去にはアメリカのような先住民の迫害等はあったのでしょうか?


 【回答】
 1763年,英国はフランス領北米植民地を獲得すると,先住民とは和平関係を結び,「英国王室の許可なき先住民との土地取引を禁ずる」と宣言した.
 北米植民地の開拓者はこれに異議を唱え,アメリカ独立戦争の発端のひとつにもなったという.
 その後,カナダ自治領が成立すると,西部開拓に伴い先住民は抑圧されていったが,欧州系移民と先住民との間にメティという混血児もでき,ルイ・リエルというメティの人物は,連邦政府に2度も反乱を起こしている.
 カナダで先住民が選挙権を獲得したのは1960年.

世界史板,2010/10/25(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本は南北朝鮮に賠償金払ったの?

 【回答】
 日本は南北朝鮮に賠償金払ってないよ.
 大韓民国に関しては,1965年の日韓基本条約締結時に,韓国側は賠償金を請求したが,日本側が拒否.
 アメリカが仲裁に入り,日本が韓国に残してきた財産権を放棄する事で,賠償金と相殺する事となった.
 よって日韓基本条約に,賠償金について一文も書かれていない.
 そして,それとは別口として経済援助を行うという事で無償金3億ドル,円有償金2億ドル,民間借款3億ドル以上を資金提供,融資を行った.

 北朝鮮に関しては賠償金どころか,両国政府間に国交すらありません.
 ちなみに,米英中など連合国すべては,日本への賠償金請求をしていない.

世界史板,2010/10/26(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 【回答】

8762010/10/27(水) 19:07:40 0
ブルゴーニュ公位が断絶した時,なぜハプスブルグ家の後継者はフランス国内の領土を
継がなかったのでしょうか


8772010/10/27(水) 19:34:14 0
>>876
継がなかったじゃなく,継げなかった.
フランスのルイ11世と妥協した.



8782010/10/27(水) 19:41:57 0
>>874
山川の世界史総合図録とか


8792010/10/27(水) 19:50:56 0
シャルル突進公の死後,フランス王が先んじてブルゴーニュ公国に侵攻し,主要な地域を押さえていた.
ハプスブルク家のマクシミリアンとブルゴーニュ公女マリーは,
婚約してはいたが結婚していたわけではなく,まだマクシミリアンに継承権はない.
だから急いで挙式してギネガテの戦いでフランス王を破り,フランドルを確保した.
その後も戦争や謀略合戦を続け,なんとか旧ブルゴーニュ公領を回復している.
この地域がフランス王国の領土になるのは17世紀後半.


8802010/10/27(水) 21:01:57 0
ブルゴーニュ公国のネーデルラント支配ってどんなもんだったんだろうね.
あの頃はまだカトリックだから,宗教上の軋轢は無いと思うから,
意外と順調だったんだろうか?あと,ネーデルラントが本来神聖ローマ帝国の領域内なのか,
領域外なのか良く分からない.


8812010/10/27(水) 22:17:50 0
9世紀にフランク王国が分割されると,ネーデルラントはロタリンギア(中フランク),次いで東フランク領となる
その後多くの伯領や都市国家が形成され,名目的には神聖ローマ帝国の宗主権下にあった
ブルゴーニュ公国は,14世紀にヴァロワ王家の分家が「フランス王国」内で封じられて成立したが,
フランス王の宗主権下にあるフランドル伯と結び,「神聖ローマ帝国」枠内であるネーデルラントなどにも支配を広げ,
本家のはずのフランス王に逆らうほどになった


8822010/10/27(水) 22:28:33 0
>>880
封建制りときには領地は飛び地飛び地が当たり前だし,
支配域とか君臣関係とかは交錯するものだし.
本邦の徳川時代のような支配域・君臣関係の比較的すっきりしているようなものにも
陪臣なのか支藩なのか直参なのか判然としない大名のような領内分家のような
どっちつかずの微妙な立場の領主とか居たし.


8832010/10/27(水) 22:38:48 0
ブルゴーニュ公国と一言でいわれるが実態はブルゴーニュ家領の集合体.
フランス王を上位封主とするブルゴーニュ公領,アルトワ伯領など.
皇帝を上位封主とするブルグンド(ブルゴーニュ)方伯領,ホラント伯領,エノー伯領,ゼーラント伯領,ルクセンブルク公領(旧伯領)など.
本来はフランス王の封臣だが伯領がフランス,帝国にまたがっているため,自由諸侯として行動できたフランドル伯領など.


8842010/10/27(水) 22:55:37 0
ルイ11世は,フランス国内の封建諸侯領をできるかぎり確保しようとした.
その対象が,ブルゴーニュとブルターニュ.
当時のフランスは,あえて帝国内の所領まで確保しようとしなかったため,シャルル死後の混乱期,
マリーの死によるマクシミリアンのブルゴーニュ内での影響力の低下にもかかわらず,
ハプスブルクは帝国内の旧ブルゴーニュ家領とフランドル地域を確保できた.


23:04:28 0
ブルゴーニュ公といえども,長らく独立勢力が割拠してきたネーデルラントを一元支配するのは不可能
よって中央政府は各都市・司教区などの独立性を尊重しつつ,文化的・経済的支援や軍事的保護を与えた
また貴族・聖職者・市民の代表者からなる議会が作られてもいる

世界史板,2010/10/27(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アーリア人って具体的に,いつのどういう人達ですか?

 それと教科書なんかで,アーリア(アーリヤ)人が南下して,インドを支配して階級制度を作って,自分らはサンスクリットを話したとのことですが,どこまで本当なんでしょうか?
 なんかうさんくさく思えてしまいます.

 【回答】
 印欧語族の中の,インド・イラン語派に属する言語を話し,アーリア/アイルヤ(高貴な人)と自称していた人々.
 イランという国名はアーリヤナ/アイルヤーン→エーラーン/イーラーン,すなわち「アーリア人の国」を意味する.
 中央アジアを発祥の地とし,一部はインダス川流域へ,一部はイランへ進入.残った連中はスキタイになったらしい.
 必ずしも暴力的に征服活動を行ったわけでもなく,傭兵や遊牧民として徐々に移住してきて,現地住民とも混血した.
 のちインドでは,ヴェーダの宗教を信じアーリア系の言語を話す者が「アーリア」とされたので,ヴェーダの宗教を奉じないイランの連中は蛮族視されていった.

 ヴェーダ研究の鬼子として,19世紀半ばにドイツで提唱された「アーリアン学説」では,かつて「アーリア人」という民族集団が,欧州・イラン・インドを「征服」した結果,これら全ての地域で,彼らが話していた印欧語族系の言語が話されるようになった,という.
 イギリスでは
「我々がインド人を支配しているのは,同じアーリア人による支配だから正当だ」
などといったが,ワーグナーなどは
「ドイツ民族はもっとも純粋な『アーリア人』である」
などと言い出し,ナチスが採用してしまう.
 そもそもドイツ民族自体が,近代になって形成されたものであるし,言語が血統で遺伝するわけもないので,現在はアーリアン学説自体が「妄説」「疑似科学」として否定されている.


9152010/10/29(金) 03:40:33 0

 流石にモヘンジョダロがアーリア人の遺跡とかいう,ヒトラー時代の誤解してる奴はもう居ないだろう.


9162010/10/29(金) 04:49:20 0

 インダス文明がアーリア人に滅ぼされたと誤解してる奴なら,たくさんいると思うがな.


9172010/10/29(金) 05:05:09 0

 原っぱの近くにあるのが,モヘン所だろ?


9182010/10/29(金) 08:07:45 0

    | ̄ ̄|          【審議中結果:火あぶりの刑】
    |∧∧|       (( ) )   (( ) )  ((⌒ )
 __(;゚Д゚)___  (( ) )   (( ⌒ )  (( ) )
 | ⊂l>>  l⊃ |    ノ火.,、   ノ人., 、  ノ人.,、
  ̄ ̄|.|.  .|| ̄ ̄    γノ)::)   γノ)::)   γノ)::) 
    |.|=.=.||       ゝ人ノ   ゝ火ノ  ゝ人ノ
    |∪∪|        || ∧,,∧ || ∧,,∧ ||  ボォオ
    |    |      ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
    |    |      ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
   ~~~~~~~~     | U (  ´・) (・`  ). .と ノ
              u-u (    ) (   ノ u-u


世界史板,2010/10/28(木)〜10/29(金)
青文字:加筆改修部分


目次に戻る

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページに戻る

軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事初心者まとめ