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世界史なんでも質問スレッド 75

目次

11 【質問】 ポーランドはそれなりの大国で,ドイツともソ連とも不可侵条約を結んでいて,旧連合国とも関係良好で,国としては順風満帆だったはずなのに,なぜ第2次世界大戦が始まると,あっけなく敗北してしまったのでしょうか?

11 【質問】 ビザンツ帝国が徐々に衰退していった理由を教えてください.

 【質問】 ○○○の死は,実は暗殺されたのでは???

 【質問】 中世の大国だったハンガリーがオスマンに負けて,あっさり征服された理由を教えてください.

8c 【質問】 国民党軍って,ナチスのSSみたいに国家じゃなくて政党の軍隊って意味?

8c 【質問】 蒋介石の国民革命軍がなぜ,たった2年の北伐で中国全土を統一できたのでしょうか?

 【質問】 モンゴル帝国は,ありとあらゆる土地で勝ちまくれたのですか?

 【質問】 征韓論から韓国併合への流れについて,,当時の日本側の,庶民レベルでの世論というのはどういうものだったのでしょうか?

 【質問】 オスマンが地中海世界を支配する,ターニングポイントはどこでしょうか?

 【質問】 日露戦争の時のポーランド兵脱走問題について教えてください.

 【質問】 日露戦争の戦死傷者数って,第1次世界大戦と比べ,圧倒的に少なくない?

 【質問】 選挙王制が世襲王制に優る点があった,とでも思ったのでしょうか?

 【質問】 3B政策・3C政策という用語の初出は何なんでしょうか?

経済FAQ 【質問】 宋代の中国で紙幣が出現した背景を教えてください.

 【質問】 なんで西ドイツはWW1後と違い,敗戦後に経済援助されることになったの?

 【質問】 李氏朝鮮には車輪を作る技術がなかったって本当ですか?

 【質問】 聖人や聖女と認められる場合,一体どのようにして決められるのでしょうか?

 【質問】 百年戦争は,なんであんなにこじれまくったんでしょう?

 【質問】 百年戦争中のフランスは何故,ジャンヌ・ダルクを使わざるをえない状態だったのでしょうか?


 【質問】
 ポーランドは中世の大国ですが,第1次世界大戦後の戦間期も列強とは言えないまでも,それなりの大国でしたよね?
 ソ連と戦争して勝ってますし.
 ピウスツキの元で国力も経済力も軍事力も増大しましたし.
 その上,ドイツともソ連とも不可侵条約を結んでいて,旧連合国とも関係良好で,国としては順風満帆だったはずなのに,なぜ第2次世界大戦が始まると,あっけなく敗北してしまったのでしょうか?
 内政でも外交でもうまくやっていた大国が,こんなにあっさり敗北する理由が良く分からないです.

 戦争準備が万端じゃなかったとしても,防衛戦なら戦いながら態勢を整えていくということもできたはずです.
 ソ連のように.
 フランスやポーランドほど国土が広くて軍事力があれば,十分に可能だったような気がするんですが,
 それができないぐらい,あっさり敗北したのはなぜですか?
 軍事的な要因だけでは,ここまであっさり負ける事は無いような気がするのですが.

 【回答】
 「戦いながら態勢を整えていく」ヒマがなかったからこそ,あっさり敗北したんじゃないか.

 ポーランドとドイツの国境は長大で平坦,マジノ線のような堅固な防衛ラインもなかった.
 国内にはヴィスワ川やサン川という天然の防壁があり,進軍を阻む湿地帯や森林もあるので,フランスは
「ドイツが攻め込んできたら,そこまで撤退して防衛線にしたらどうか」
と助言していた.

 しかし国土の西側には,シロンスク(シレジア,シュレジエン)などの重要拠点があり,北西部にはドイツが返還を要求していた「ポーランド回廊」やグダンスク(ダンツィヒ)があった.
 これらを渡してしまうと,途中で停戦したとしても,国際社会がドイツによる占領を承認してしまうおそれがある.
 結局は防衛軍を国境線に長々と展開したり,広い国土に分散配置したりしたもんだから,防衛ラインが破られるとガンガン攻め込まれてしまった.

 また,外交面では,ポーランドは一応英仏と同盟を結んではいたが,
「ドイツが攻め込んできたら,こいつらも動くだろー」
と思ってたら,全然助けてくれなかった.
 英仏は対独宣戦布告して陸軍を国境まで進めたが,ほとんど攻め込まなかったので,世にこれを「まやかし戦争」と呼ぶ.
 しかも,ドイツと密約を結んでいたソ連まで攻め込んできたので,耐え切れるわけがなかった.
 しょーがないので,政府と海軍は国外脱出して英仏に逃れ,亡命政府を樹立してドイツとソ連に徹底抗戦した.

 フランスの場合,マジノ線で防衛するはずが,あっさり迂回されて,その防衛戦略がいきなり破綻し,一気に叩かれ,首都パリを落とされた.
 それにフランスの国土が広いといっても,ソ連とは比較にならない.
 ソ連が戦線を下げたことでドイツが一時占領した地域は,フランス本土の倍以上もの面積になる.
 フランスが同じようにやったら,海にでも防衛線をひいて,海中で生産しながら国防態勢を整える必要がある.

 両国とも,べたーっと平地が広がる国だから,防御戦には不向きだしなあ.

世界史板,2010/04/27(火)〜04/28(水)
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 【質問】
 ビザンツが1000年かけて東方の超大国からバルカンの片隅に追いやられるまで,徐々に衰退していった理由を教えてください.
 ユスティニアヌス大帝の中興も一時的なもので,面白いようにヨーロッパの後進国やイスラム勢力に,領土むしられて行きましたよね?
 敵が強過ぎたのか,ビザンツの内部に問題があったのか?
 それとも,あの時代にあれだけの広大な領土を維持し続けること自体が,当時の政治機構や技術力の限界を超えていたのか?

 【回答】
 ユスティニアヌスの大帝国が崩壊したのは,相次ぐ大遠征と大建築事業に国力が追いつかなくなり,さらにペストが大流行して人口が激減し,ササン朝との戦争では膠着したのちに,多額の和平金(歳幣)を支払うことになり,それを補うために重税をかけたら,経済と財政が破綻し……,など多くの要因がある.

 またヘラクレイオスがイスラムに敗退したのは,直前までササン朝と大戦争を続けていて,帝国の国力が疲弊しすぎていたためもある.
 このため,結局はエジプトもシリアも失った.

 それでも,超大国となったイスラムに長らく対抗できた理由は,
・国土の周囲を山脈と海に囲まれ,地の利を得ていたこと,
・皇帝への中央集権を進めて国家体制をより強靭なものに作り変えたこと,
・勇猛な異民族を軍隊に加え,軍管区(テマ)制という効果的な国防体制を整えたこと,
・「正教を奉じギリシア文化を継ぐローマ人」として団結を強めたこと,
などがあげられる.

 やがて西欧ではフランク王カールが皇帝に擁立され,地中海世界は三分される.
 フランクはさほど海へ進出せず,内陸で分裂し,実質はイスラムの独壇場.
 だが9世紀末以後,アッバース朝も衰退して各地に諸侯やカリフが分立し,テュルク系・イラン系軍閥が入り乱れて群雄割拠の様相を呈する.
 長らく雌伏していたビザンツは,テマの反乱を終息させると外征を再開.
 北シリア・南伊・バルカンを統一して中世の最盛期が現出する.
 かつてのユスティニアヌスのように,国が傾くほどの大戦争もなく,大いに繁栄した.

 ところが,国内では軍事貴族による大土地所有が進み,帝位争奪が深刻化.
 また,愚帝や女帝や宦官が次々と現れ,国政を惑わした.
 そうこうするうちに,北からはハンガリーやスラヴ人がバルカン北辺を襲い,西からはノルマン人が来て南伊を奪い,東からテュルク人が来てアナトリアを制圧.
 ついに皇帝アレクシオス1世は,「専制君主」であることを諦め,大貴族に封地(プロノイア)を安堵するなどして味方につけ,帝国を「大貴族による連合共同体」に作り変えた.
 この体制は100年ほど帝国を持ちこたえさせたが,愚帝兄弟やヴェネチアが…

世界史板,2010/05/02(日)
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 【質問】
 ○○○の死は,実は暗殺されたのでは???

 【回答】
 ちょうどいいタイミングで死んだとか,死んだことによって誰かが得をしたってだけで,暗殺説が出るってのも,なんだかなー.
 人間誰でもいつかは死ぬ.
 その死んだ時が,たまたま,どこかの勢力にとってちょうど都合のいいタイミングになることだって,そりゃあるだろ.
 敵の多い権力者,国内が多事多端な権力者ほど,そのちょうどいいタイミングも多いから,そのたまたまのタイミングになる確率もぐっと高くなる.
 極端なことを言えば,権力者なんて,いつ死んだって,誰かにとってはちょうどいいタイミングになってしまう.

 それに,権力者が死ねば,必ず誰かが得をするのは当たり前.
 暗殺説を唱えるなら,それ以上の説得力のある根拠(関係者の証言とか,検死記録とか)が欲しいところだ.

世界史板,2010/05/04(火)
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 【質問】
 中世の大国だったハンガリーがオスマンに負けて,あっさり征服された理由を教えてください.
 ハンガリーは衰退したから,オスマンに負けて征服されたのですか?
 それとも国力は充実してたのに,オスマンがさらに強かっただけですか?
 あれだけ広大な王国が,なぜあっさり征服されたのですか?

 【回答】
 あっさりといっても,ニコポリスの戦いからモハーチの戦いまで130年ぐらいは持ちこたえてるじゃないか.
 それもハンガリーは,選挙王政になってポーランド王や神聖ローマ皇帝に王位を兼ねられ,大貴族が分立して国内をまとめあげること自体が大変な上,継承争いやら農民暴動やらヴァルナでの大敗やらで大混乱していた.
 マーチャーシュ1世はとうとうオスマン帝国を味方につけ,その後ろ盾でウィーンを陥落させたが,彼の死後は再び弱体化し,スレイマン大帝のもとで絶頂期を迎えていたオスマン帝国の大軍に敗れ,実質的に滅亡した.

 まあ,ヨーロッパ規模で「大国」と言っても,三大陸にまたがるオスマン帝国には勝てなかったわけです.

世界史板,2010/05/06(木)
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 【質問】
 国民党軍って,ナチスのSSみたいに国家じゃなくて政党の軍隊って意味?
 それとも共産軍との区別の便宜上,そうよばれてるだけで国軍なの?

 【回答】
 北洋軍閥(北京政府)→軍閥割拠→蒋介石の国民革命軍→中華民国国軍
 中国工農紅軍(中国共産党の軍)→八路軍・新四軍→中国人民解放軍

 もともとみんな軍閥だから,党も軍も政府も渾然としていた.
 モンゴルでウルス(人の集まり)が国を指すようなもんか.

 国民党軍というのは通称で,正式には「国民革命軍」であり,北伐によって北京政府が滅亡した1928年からは一応,正統な中華民国政府の国軍ということになる.
 しかし「中華民国」の枠内には,まだまだ無数の軍閥が群雄割拠しており,さらに日本軍もやってきて泥沼の様相を呈し,「国民政府」があちこちに分立する有様となった.

世界史板,2010/05/08(土)
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 【質問】
 広東に割拠していた,軍事的にはそれほど強力ではない地方政権に過ぎなかった,蒋介石の国民革命軍がなぜ,たった2年の北伐で中国各地に割拠する軍閥や,強大な軍事力を誇る北京政府を破り,中国全土を統一できたのでしょうか?

 【回答】
 実態は既に,東アジア版の冷戦だったから.

 ソ連の傀儡になったり,アメリカの手駒になったりで,背景の親玉の思惑と勢力で変わる.
 日本の手駒の張学良とグダグダな感じなってるのもそれ.
 背後の日本そのものには逆らえないから,日本の介入や勢力操作で,その都度混乱がおき,宗主国の出先の現地軍閥だけでは決まらない.

 最終的に,過激な日本の軍人の一部が暴れて,hot war になって勢力がはっきり分かれたおかげで,長い紛争も決着する結果となった.

 北伐終結つっても,奉天の張学良が
「そっちの旗を掲げるから,俺の領地に来るな」
と言った程度.
 道々の軍閥勢力と離合集散しつつ,なんとか北京には入城できたといったところだべ.
 沿海部だけみても,張学良と李宗仁がそのまま温存しているもの.

世界史板,2010/05/08(土)
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 【質問】
 モンゴルが,中央アジアや中近東や中国や東欧と言った,ありとあらゆる土地で勝ちまくれたのはなぜですか?
 遊牧民が強いと言っても,一つの民族集団がこれほど広範囲にわたって征服を続けた例は,皆無のような気がします.
 他の遊牧帝国とモンゴルは何が違ったのでしょうか?
 ナポレオンやヒトラー征服できなかったロシアですら,モンゴルはあっさり征服してますよね?

 【回答】
 「あらゆる土地で勝ちまくれた」は,あきらかに言い過ぎ.
 東南アジア方面ではチャンパなどに侵攻したが,結局は失敗している.
 特に,ベトナム人の密林ゲリラ戦には,後にアメリカ人がベトナム戦争で苦戦したのと同様,苦しめられた.
 インド方面にも何度か侵攻したが,ハルジー朝に撃退されている.
 中東ではアイン・ジャールートの戦いで,後にマムルーク朝エジプトの王となるバイバルスに撃破されて,シリア侵攻に失敗.
 日本を攻めた弘安の役は,言うに及ばず.
 とうてい「あらゆる土地で勝ちまくれた」とは言い難い.
 あと,ジャワでも負けてるね.

 まあ,あれだけ無節操に攻めまくれば,負けが多くなるのも当然.

 モンゴルが勃興した背景には,ユーラシア全体に,これといって図抜けた強国がない分裂状態だったのもある.
 シナは金と南宋と西夏.
 中央アジアは西遼とウイグルとホラズム.
 中東はアイユーブ朝やテュルク・フランク系諸侯国.
 ルーシはキエフ公国が分裂中.
 ビザンツ帝国も同時期にフランク人が滅ぼしてしまって,ラテン帝国とニカイア帝国になっとる.

 それにモンゴルはいわば「多国籍部隊」で,有用な人材や兵器はどんどん取り入れた.
 投石砲や火薬もモンゴルの遊牧民が開発したわけではないし,情報戦にはムスリムの商人が活躍した.
 風水師がカレーズの水脈発見して渇水攻めとか.

 さすがにあまりにも広がりまくって,各ウルスの連携が取りにくくなったが.

世界史板,2010/05/10(月)
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 【質問】
 征韓論から韓国併合への流れについて,不平士族の再就職先,日本本土の防衛戦略,植民地獲得での経済繁栄など,さまざまなことが目的として挙げられていますが,当時の日本側の,庶民レベルでの世論というのはどういうものだったのでしょうか?
 ひょっとして,未開な隣国を開国してさしあげよう的な,押し付け善意が多数派ですか?

 【回答】
 韓国併合の先駆として台湾問題があります.
 宮古島の商船が,島嶼である台湾に漂着した際に船員が殺害されました.
 既に開港していたはずの清国が,誠意の無い対応をしたことが原因で,台湾人を征伐せよという世論が興り,台湾出兵が行われています.

1860年 北京条約 清国開港(台湾も含む)
1871年 牡丹社事件@台湾
1873年 征韓論下野事件
1874年 牡丹社事件未解決 → 台湾出兵
1877年 西南戦争
1894年 東学党の乱→ 日清戦争
1895年 台湾割譲
1897年 大韓帝国成立
1910年 日韓併合

 未開な隣国という意識は,牡丹社事件をきっかけに発生したかもしれませんね.
 もちろん,これは1874年を近隣諸国が庶民レベルの視野に入ってきた原点とした場合の話です.

世界史板,2010/05/11(火)
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 【質問】
 アナトリアの一君侯国だったオスマンが,やがてアナトリアやバルカン半島を制圧し,中東やエジプトまで支配して,地中海世界を支配するターニングポイントになったのはどこでしょうか?
 長年の地道な積み重ねによるものですか?
 それとも,どこかでオスマンの発展を運命づける名君が出現したり,決定的な改革が行われたのですか?
 そういう決定的なことが一度ではなく何度かあったのなら,全部教えていただけるとありがたいです.

 【回答】
 オスマンの子オルハンがブルサを首都とし,初めてバルカン側にも進出.
 オルハンの子ムラト1世が,バルカン側のエディルネを首都とし,イェニチェリ軍団を作り国制を整備し,エジプトのカリフから「スルタン」の称号を得て実質的な帝国を築く.
 ムラトの子バヤジットは,欧州の十字軍を撃破するが,ティムールに敗れて帝国は一時崩壊.
 それでもなんとか再統合を果たし,ついにメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国を滅ぼす.
 しばらく国内を整えたあと,セリム1世の代で一気にエジプトのマムルーク朝を撃破,シリア・パレスチナからアルジェリアまでを飲み込む地中海帝国となる.
 この膨張は,火砲をいち早く導入したことも大きい.
 スレイマン1世(大帝)は欧州・中東に遠征して勝利を重ね,最盛期を築くが,以後は大宰相に国政が委ねられ,基本的に守成の時代となる.

 「名君」別に纏めると,以下のようになる.

二代オルハン:
 オスマン朝で最初の本格的首都プルサを整備.

三代ムラト1世:
 征服地を大幅に拡大.中央集権化を大幅に進める.
 当時最も先進的な組織と技術を持った,イェニチェリを初めとする常備軍を建設.

七代メフメト2世:
 コンスタンティノープルを陥落させる(これが一番オスマン帝国の発展の上では大きいんじゃないかな)
 陥落後,公衆浴場・賃貸店舗・ハンなどの施設を作り,東西交易の一大中心地としたことにより,経済力が大幅に上昇した.
 また,同都市の人口回復を図るため,帝国各地からの自発的移住や強制移住を行ったが,その中の非ムスリム達も大変貢献した.
 より具体的に言えば,彼らの持つ種々の技能やネットワークが役に立った.

9代セリム1世:
 チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝に大打撃を与え,その脅威を当面取り除く.
 彼の最大の業績は,マムルーク朝を滅ぼしてイスラム世界の古来からの中核地域であるエジプト・シリアを支配下に置き,かつ二大聖都メッカ・メディナの庇護者となったこと.
 これにより,オスマン帝国はイスラム世界において高い権威を持つに至り,イスラム世界を代表する国家となった.
 また,オスマン帝国の経済の基は遠隔地間商業の利益と農業生産にあったが,カイロは当時の地中海世界を代表する国際交易都市であったし,エジプトそのものも優れた穀倉地帯であった.

10代スレイマン1世:
 この頃がオスマン帝国の全盛期.
 対外発展の時代でもあったが,対内的にも君主専制・中央集権的な帝国体制が確立した時代でもあった.
 彼は何度も親征を行い,領土を大幅に拡大し,海軍もアルジェリア水軍の長であるフズール・レイスの帰順により,巨大な海洋戦力を持つに至る.

 スレイマン1世の『君主専制・中央集権的な帝国体制』については具体的に書くべきだろうけど,大体こんなもんかな.

世界史板,2010/05/12(水)
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 【質問】
 日露戦争の時のポーランド兵脱走問題について教えてください.

 【回答】
 ロシア軍の多く(1割)は実はポーランド人で,初めからロシアのためになんか戦う意思がなかった.
 そのため,ポーランド地下政府と日本政府がポーランド人兵士の大量脱走を謀って,ロシア兵が日本軍側へ突撃してきたときに,彼らが「マツヤマ!」と叫べば撃たないで,彼らを日本軍陣地へ迎え入れることにした.
 計画はうまくいき,大量のポーランド人兵士が日本軍に無事に合流,国際法にのっとって,愛媛の松山の捕虜収容所に送られた.
 松山の収容所ではポーランド人たちを暖かく扱い,松山の地元の市民たちもやってきて,いろいろ差し入れをしたり,ポーランド人たちと酒を飲んだり,スポーツや花札をしたり,一緒に道後温泉に浸かったりして,楽しく交流したという.
 捕虜収容所からの外出も完全自由で,ポーランド人たちは街に出てきて松山の人たちと交流し,伊予鉄道は海水浴イベントを開いてポーランド人たちを招待し,地元の人と楽しいひと時を過ごした.
 道後温泉での温泉体験は,彼らにとって衝撃的だったらしい.

 連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅したときには,松山のポーランド人たちは狂喜乱舞し,みなで万歳三唱をしたという.

 松山のポーランド人の話の参考資料;
http://www.urban.meijo-u.ac.jp/zchiharu/rjw/top-j.htm

 その後,彼らが母国ポーランドへ帰り,ポーランドの人々に日本で起きた「信じられない出来事」についていろいろ話し,ポーランドで「日本人は素晴らしい人々だ」という評価が広まった.
 これはポーランドの親日が決定したできごとであった.

 ロシアが日本を叩き潰そうとした日露戦争の副産物は,日本とポーランドとの友好を深めるというロシアにとって思いがけない,あってはならない結果となってしまった.

 その後ポーランド陸軍は,日本陸軍に最新の暗号法を徹底的に教えてる.
 当時はルヴフ学派のポーランド論理学が,世界最先端の論理学を展開していた.

 こちら
http://www.seibunsha.net/books/ISBN4-915730-45-X.htm
はロシア人兵士のほうが主体の話だが,どういうわけか少なかったロシア人の話が強調されているので,この逸話の主体だったポーランド人が,松山で受けた待遇やエピソードがほとんど端折られて,副次的な扱いにされている.
 ちょっと政治的.

世界史板,2010/05/12(水)〜05/13(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争の戦死者数って,両軍とも15万人そこそこだけど,これって10年後に起こる第1次世界大戦と比べたときに,圧倒的に少なくない?
 ロシアは,あまり本腰入れて日本と戦争してなかったってこと?

 【回答】
 参戦数と死傷者数は比例する.
 比較するのが間違い.
 あと,クロパトキンから「日本が欧州の小国と互角に戦えるまで百年はかかる」と言われるほど,当時の日本は貧しく,動能力も欧米ほどではなかった.

 また,開戦当初のロシア軍は,予備兵が主力.
 ポーランド兵は1割といったとこ.
 レーニンは日露戦争を評し,
「最早,戦争は傭兵や一部の階層の者達のものではなく,全国民に関わる」
と語っている.

 WW1での戦死傷者が多いのは,後方の政治家・軍上層部が前線の実情を知らないまま,戦闘を続けさせたから.
 機関銃を備えた陣地への兵突撃は,死体の山を築くだけで無駄であることを理解するのに,彼らはそれだけの数を必要としたってこと.
 後のヒトラーの台頭に対する英仏の融和政策と,同政策への国民の支持には,そうなるだけの理由があった.

 加え第1次大戦では,非戦闘員にも多数の戦死者が出たことも見逃せない.

 日露戦争の主戦場が中国東北部で,人口密度も低いし,それぞれの相手国の本土ではなかった
(地元民の協力はほしいから,そうむやみやたらと地元の非戦闘員を攻撃するわけにもいかない)
 戦死者は戦闘員が中心.

 これに対し,第1次大戦の主戦場はヨーロッパ.
 人口密度も高いし,戦争の当事国の領土だ.
 敵部隊自体や要塞,軍港のような軍事施設だけでなく,都市そのものが意図的に砲撃,爆撃の攻撃対象とされることが格段に多くなり,戦闘員だけでなく,非戦闘員にも多大な犠牲が出た.
 第一次世界大戦で,戦闘員の死者900万人.
 非戦闘員の死者は1000万人.
 非戦闘員の方が多く死んでいる.

 さらにまた,第1次大戦の戦死者の数字の中には,インフルエンザ(スペイン風邪)の大流行によって前線で病死した兵も含まれている.

 ちなみに奉天会戦は,あくまで史上最大規模の会戦であって,最大ではない.
 奉天会戦当時は,有史以来最大の会戦だったけど,ソンム会戦とかクルスク会戦の方が規模は大きいよ.
 これよりも大きい作戦も実施はされてるけれども,完全に局地戦の範疇を超えてる.

世界史板,2010/05/13(木)
青文字:加筆改修部分


保留

 【質問】
 選挙王制を選んだポーランド=リトアニアは,いったい何を考えて選挙王制なんて制度を選んだんでしょうか?
 王位が世襲じゃないと,王位継承のたびに混乱が起きるし,選挙で選ばれた王だと力が弱くて,国を守るには頼りないと思うんですが.
 選挙王制が世襲王制に優る点があった,とでも思ったのでしょうか?

 【回答】
王の力が強ければ,貴族が押さえつけられる
シュラフタ(ポーランドの貴族)たちが,作り出した選挙王制度なんだから,
王の力が弱い方が都合がいいのは当たり前
混乱だの,国防だの,そんなことは彼らにはどうでもいい話

4742010/05/13(木) 22:39:05 0
>>465
>混乱だの,国防だの,そんなことは彼らにはどうでもいい話

そうでもない
絶対王政による中央集権国家が出現する前はどの国でも常備軍は持たず,
戦争のたびに各地の貴族たちが手兵を率いてきて国内連合軍を作るのがデフォだった
16世紀までのポーランド・リトアニアはそれで滅茶苦茶強かったから,その制度自体に特に問題は
露呈していなかったんだな
そこで制度の欠陥は,周囲の絶対王政中央集権国家との闘争で露呈してきた
しかし問題に気づいたときは時すでに遅かった
特にリトアニアの成り上がり貴族のラジヴィウ家の本家が生意気に公家を名乗って神聖ローマに接近して,
ラジヴィウ王国として共和国から独立しようとした

>>470
>そもそも,国家という概念が今とは違う
>貴族の領地はそれ自体が国家内の小さい半独立国だし

実質上の帝国だったのさ
カトリックの国だから西方教会の秩序に乗っ取って,帝国を名乗るのを憚っただけ
そのかわりRzeczpospolitaすなわち「共和国(=連邦)」を名乗った

482 :>>468 :2010/05/14(金) 02:55:52 0
>>474
ありがとう.俺が言いたかったことを言ってくれた.
もちろん今と国の形は違うのは当たり前だけど,どの国も等族議会を持っていて貴族が政治に関与していた.
政治に関与する,あるい政治権力を欲するということは,愛国心というか国家への帰属意識がなければできないことだとと思う.
なんつーか高貴なる義務とでもいうやつかな.

ヨーロッパの議会制はそういった等族議会の系譜を引いていると思うんだよ.
フランス大革命だって三部会から起こったもんだろ.

4862010/05/14(金) 07:54:57 0
>>482
Norman Daviesはこの当時のポーランドの政治制度を評して,
「満場一致と個人の自由の両立を実現していたこの素晴らしい共和国理念は,
王と市民の間に存在する至高の理解によって維持されていた.この理念は
非常に高度に知的な人々によってのみ機能していた.であるから常備軍も持たず,
(フメリニツキーやルボミルスキのような)不条理な叛乱者たちを抑えつける手段も
以前は必要なかった.このポーランドの叡智が残虐な力に屈服したとき,
共和国は崩壊の危機に陥ることになったのである.ルボミルスキの叛乱は共和国の
頭痛であると言われたが,この頭痛は致命的なものだったのである.」
と言っている

彼の言う「非常に高度に知的な人々の叡智」が
その「高貴なる義務=ノーブレス・オブリージュ」のことであるのは言うまでもない

共和国があまりに巨大化して雑多な政治文化を持つ多くの民族を抱え込んだため,
政治文化がポーランドほど成熟していない地方の貴族の身勝手な参政権行使によって,
共和国は崩壊へ至ったのである,ということは間違いない

4882010/05/14(金) 08:00:26 0
>>482
ポーランドではすべての貴族が制度的には完全に平等な参政権を持っていたので,
>>486で書いた「非常に高度に知的な人々によってのみ機能していた.」というのも,
全人口の1割を超えるポーランド貴族(シュラフタ)のすべてのことを指す

これは建国時のアメリカ合衆国で参政権を持っていた人々の割合よりも多い
独立13州のアメリカがブルジョワ民主主義ならば,
ポーランドはそれ以上の貴族民主主義だった
むしろアメリカこそ,ブルジョワ層による擬似貴族民主主義だと考えてもいい

コアであるポーランド王国ではもともとはしっかりとノーブレス・オブリージュの常識があったが,
リトアニアと合同して共和国となり王国版図もウクライナまで拡大していくにつれ,
「ポーランド」の政治文化に馴染まない人々も政治に入ってきてしまったんだな

4902010/05/14(金) 11:49:36 0
>>474
>カトリックの国だから西方教会の秩序に乗っ取って,帝国を名乗るのを憚っただけ
>そのかわりRzeczpospolitaすなわち「共和国(=連邦)」を名乗った

ポーランドあるいはポリト連合が帝国に成ろうとした(王が皇帝になろうとした)
形跡は全くないんだが…ソースきぼんぬ
そもそもポーランドは王位の保持者を王国の所有者でなく管理人とみなしており
王の財産と国家財産の別やシュラフタ達を含む全会一致の指針が
quod omnes tangit 全ての者に関わる事は全ての者によって決す と決まっていた
だから神聖ローマ皇帝という「一人だけ突出した位」というものにシラけた態度をとってる

「都市の領主でさえそこの平民の同意なくしてその都市を譲渡することはできない」
(領土割譲を権力者の一存で強行できるお前のとことは違う,という皇帝ジギスムントへの書簡)
「皇帝とは何ぞや.我々の隣人にして我々の王と対等の者である」
(カール4世を激怒させたポーランド使節の言葉)

第一市民(王)と元老院(シュラフタ)と市民というSPQRの伝統を守るのがポーランド「共和国」
であり,皇帝を戴く神聖ローマなどよりよっぽど由緒正しい,という認識であり
帝国と名乗れないから共和国,などというのは全く逆だ
491 名前: 474 [sage] 投稿日: 2010/05/14(金) 12:08:37 0
>>490
あんたの言うのと全く同じ意味で書いたんだが,「憚った」という表現が誤解を招いたか?
ポーランドによるロシア征服を開始したヴァーサ朝の王も
教皇からオファーされた帝冠の戴冠の話を断ってるしね
ポーランド=リトアニア共和国には下位の(準)国家を纏めて
統一国家の形態にしている帝国構造があったが,ただしポーランド人は
ドイツ人が自国を「帝国」と名乗ることの馬鹿馬鹿しさを,一番よくわかっていた

世界史板,2010/05/13(木)〜05/14(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 3B政策・3C政策は日本だけの用語だって言われますが,これらの用語の初出は何なんでしょうか?

 【回答】
 日本で戦前から学術書・教科書ともに使用されていたということだけは間違いないみたいだ.
 しかし,その政策を行っていた当時のドイツ・イギリスの本の中にも,そのような表記があったという明確な痕跡は見つかっておらず,この単語が生れた理由は今でも謎となっている.

 ただ,第1次世界大戦の戦争責任をめぐる論争が1920年代に行われ,その頃アメリカの研究者がドイツの「B-B-Bの政策」に,他方ドイツの研究者も,イギリスの「ケープーカイロとカイローカルカッタを結ぶ野望」について言及しているそうだ.
 日本でもその頃,アジア進出の機運が高まっていたから,そのような議論について関心が生れた可能性が高いみたい.

 だから1920年代か30年代始め頃の,日本の学術書辺りが初出なんじゃないかな?
 教科書だと研究の成果を反映するのに,最低でも5〜6年はかかるからね.

 あんまり参考にならなくてスマン.

世界史板,2010/05/14(金)
青文字:加筆改修部分


保留

 【質問】
 宋代の中国で紙幣が出現した背景を教えてください.
 銀行もない時代に,中央政府が紙幣の信用を保証できるほど,当時の経済制度が成熟していたとも思えないのですが.

 【回答】
6752010/05/21(金) 18:48:39 P

6762010/05/21(金) 19:22:52 0
>>675
いや.
紙幣というのは信用を保証してもらえるから流通するわけじゃないんだよ.
必要だから便利だからやむを得ないから流通するんだよ.

もちろん,二種類の紙幣があったとして片方の紙幣がかならず金に交換できるという信用があるならそちらを民衆はほしがるだろう.
信用の無い紙幣は受け取ってもらえないだろうさ.
でもそれしかなければ流通してゆくんだよ.

しかもいきなり押し付けたわけじゃないだろう.
民間でその先駆となるような書き付けタイプのものが既に重宝されてたんだろう.
民間の信用よりも国家の信用の方が「普通は』上だからね.

兌換紙幣から不換紙幣にきりかえたときのことを考えてご覧.
なにがおこるんだ!ってね.心配してたけど何も無かったよね.
6772010/05/21(金) 19:26:17 0
それと宋はすごい経済が充実してた.
朝まで空いている飲食店が初めて可能になった時代なんだぞ.
実際,宋の経済力で金も日本も西夏もみんなやしなってたんだからなぁ..
6782010/05/21(金) 20:05:16 0
>>676
それは国民国家と言う形がある程度確立されていたからだと思う.
元の交紗は長期的には失敗したし.
6792010/05/21(金) 20:06:16 0
こっ 国民国家ぁ?
6802010/05/21(金) 20:22:35 0
つ 藩札

太政官札から紙幣が始まったわけじゃない
6812010/05/21(金) 20:26:32 0
鎌倉時代にすでに為替手形があったんだよ
6822010/05/21(金) 20:38:44 0
宋や金や明の「紙幣(交子・銭引・会子・宝鈔)」も結果的に失敗した.
軍事費の増大や商業の活性化で需要が増えたから乱発し,額面価値が暴落して,ついに兌換できんようになって紙くずになった.
のちの欧州でも何度も同じようなことが起きている.

もともとシナの貨幣は最低額面の銅銭ばっかりで,これを何百枚,何千枚と持ち運ぶのはひじょーに重い.
しかも唐末には銅山が枯渇し,藩鎮が割拠して領内からの出銭を禁止した.
で,民間の商人は銭(塩や茶の場合も)を「兌換準備金」とする手形(牌)を作って切り抜けた.これを藩鎮や王朝がパクって紙幣とした.

でも結局はモンゴルが通貨としてた「銀」が世界経済とつながり,明代以後はシナでも中東・西洋と同じく銀が基軸通貨になる.
アヘン貿易なんかも銀で支払われたのよ.
6832010/05/21(金) 20:52:53 P
銀は枯渇せんかったの?銅より埋蔵量も少なそうだし,希少価値も高そうなんだが.
明や清では銀で納税してたから,商取引以外でも銀の流通量はハンパでなかったと思うんだが,
銅は枯渇したのに,どうして銀は枯渇しなかったの?
6842010/05/21(金) 20:57:30 0
納税されたものをまた還流してたから.ぐるぐる回せばいいだけで.
6852010/05/21(金) 21:10:29 0
つ のちの欧州でも何度も同じようなことが起きている
なぜヨーロッパに限定するのか
軍票の有名な国家の国民なのに
6862010/05/21(金) 21:15:01 0
銀は新大陸で大量にとれた時期があったからさ.
でも銀がたりなくなったんだぜ,中国
6872010/05/21(金) 21:19:41 0
銅銭は戦国時代から南宋まででも1500年は続いたが,銀を通貨にしたのは数百年間のことだし,
シナや中東だけで産出する銀を使ってたらそのうち枯渇したかもしれんけど,
お隣の日本国では金銀が産しますし,南蛮貿易では欧州や中南米産の洋銀(カルロス・ドル)が入りますわな.
688 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2010/05/21(金) 22:00:30 0
>>687実は戦国時代の頃の日本の銀の産出量は世界一だったって説あるよね.
6892010/05/22(土) 00:18:40 0
銅も明治頃,日本は世界有数の産出国
6902010/05/22(土) 00:20:48 0
宋軍は中華の歴代王朝軍でダントツの弱さだったそうですが何が原因でしょう?
6912010/05/22(土) 00:44:49 0
>>76らへんへ.
692 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2010/05/22(土) 01:31:12 0
>>683
今の日本を考えて御覧.通貨で形になってるのは紙の札が基本通貨だけれど,流通している貨幣のなかの
何十分の一だけが実際の紙の札になっている.
紙の札にしても,最高額面のもの(一万円札)の枚数が流通量が突出して多い.
決済手段としての通貨は実際の貨幣の流通量の極めて少ない割合あれば十分なんだよ.

世界史板,
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なんで西ドイツはWW1後と違い,敗戦後に経済援助されることになったの?

 【回答】
 戦時中のアメリカではモーゲンソー・プランといって,ドイツを解体して産業をぶっ潰し,無害な農園国家に変えてしまえ的な懲罰計画が提唱されていた.
 提案したモーゲンソーはユダヤ系だったから分からんでもないが,占領後はこのプランに沿って,財閥解体とか非ナチ化が行われた.

 が,あんまりドイツを苛めると,WW1後のように第2のヒットラーを生み出すやも知れず,東にはソ連が「鉄のカーテン」の向こうで虎視眈々と西側諸国を狙っていた.
 モーゲンソーに入れ知恵したのはソ連のスパイじゃねえの,なんて説もある.
 こりゃやばい,てんで欧州復興が進められ,(西)ドイツは急速に国力を回復しましたとさ.

 フランスは無理やり戦勝国に名前をつらねたものの,復興は進まねーわ植民地は次々と独立宣言するわ,
「なんで米英ソにペコペコしなきゃなんねえんだ,俺は欧州の大国だぞ」
と吠えてみても,どうにもこうにも発言力がない.
 じゃあ,気に食わないがドイツを味方にして,第3極になってやれとドゴールあたりが考えたようだ.

世界史板,2010/05/25(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 李氏朝鮮には車輪を作る技術がなかったって本当ですか?

 【回答】
 李氏朝鮮の鄭東愈が,1805年にこう書いている.
「他国にあって朝鮮には無いものが三つある.針と,羊と,車である」

 まずもって車(車輪)を使うには,道路が平坦に整備されている必要がある.
 だが,朝鮮の道は狭くてデコボコで,川に橋をかけても,技術が未熟なのでよく落ちたという.
 首都を防衛する必要もあったのかも知れないが,19世紀末でもこの有様だった.

 またそもそも,車に乗せるほどたくさんの物を運ぶような物資の流通もなければ,人の動きも無い.
 馬やロバの背に乗せてパカポコ運ぶ程度.
 偉い人は輿に乗るか,人力引きの一輪車に乗って運ばれたというから,まったく車がないわけではないが,江戸時代に使われたような大八車のたぐいは全然なかった.

 さらに,朝鮮には曲げ輪の技術が無かったので,大きな車輪が作れなかったとか.
 小さいのは作れて使われた.

 針は支那からの輸入.
 日本も,品質の高い中国産針を輸入してた時代があった.

 多分,朝鮮では労働者とか職人を蔑視する風習があったから,技術が失われたのだろうが,それにしても想像を絶する.

世界史板,2010/05/26(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 聖人や聖女と認められる場合,一体どのようにして決められるのでしょうか?
 wikiからで申し訳ないですが,ジャンヌ・ダルクのページには
『聖職者たちも,ポワティエでの3週間にわたる審理の結果,ジャンヌを認めた』
とあり,その少し前にはシャルルの王としての秘密の話によって信じられたとあります.
 例え王太子が信じても,教会側(聖職者達)が認めなければ聖女にはなりえないと思うのですが,
 では,聖女かどうかの判断にはどういったことが行われていたのでしょう?
 身辺調査の後,裁判のように本人の目の前で認める側と認めない側の争いがあったのでしょうか?
 それとも本人から話を聞いた後,聖職者達で協議し,一人でも反対する人間がいれば認められなかったのでしょうか?

 【回答】
 シャルルと彼に仕える聖職者たちが認めたのは,「ジャンヌが聖人や聖女であるか」じゃない.
 農民の娘ジャンヌが,
「大天使ミカエルや聖女からの,シャルルの王位継承に関する秘密のお告げを受けたか」
だ.
 多少のカリスマ性はジャンヌにはあったし,それを士気向上などにある程度利用することは可能だった.
「天使さまのお告げを受けた乙女っこが味方じゃー」
とか叫べば,士気はあがるだろうという読みが,そこにはあった.
 お告げの内容は
「フランスを救え」
「シャルル様の味方をしろ」
「くそったれのイングランド人をぶっ殺せ」
など,群集にはどうとでも噂で広がる.
 民衆にとっては,傭兵が毎年暴れ回るわ,重税はおっかぶさるわ,もう自称メシアが何人出てきてもおかしくない状況だった.

 のちの異端審問では,彼女が「天使や聖女のお告げを受けた」ことは否定され,悪魔の声だったことにされた.

 また教義上では,生きた人間が聖人や聖女に列せられることはない.
 生きてる人間ってのは,これから何をしでかすかわからないからだ.
 ある市が,その市を有名にしてくれた芸能人に名誉市民の称号を与えたら,その芸能人が犯罪事件を起こしたので慌てて取り消した,なんてこともある.
 名誉市民ぐらいならかわいいものだが,バチカンが正式に認めた聖人には,カトリック社会において非常に高い,宗教的な権威が生じてしまう.
 その人物がスキャンダルを起こしたら,聖人と認めた側も権威が落ちるし,あるいは,その人は聖人の名を利用して政治的な影響力を行使したり,プロテスタントのように教義解釈に口を出してきたりするかもしれない.

 だからバチカンは,生きている人間は絶対に列聖しない.
 生前に大きな宗教上の功績があった上で,殉教したか,あるいは
「死後に2回以上の奇跡的現象を起こしたか」
(遺体が腐敗しなかったとか,遺体に触ったら病気が治ったとか)
によって,教皇庁の厳正な審査により列福・列聖される.
 生前からカリスマ的人気があったアッシジのフランチェスコも,異例に早いとはいえ,死後2年目に列聖された.
 自称メシアは無数にいるが,まともな教会はイエス以外は誰一人承認しとらん.
 ヒンドゥーやイスラムの「聖者」の場合は,別に彼らを認定する教会組織はないので,普通に民間から宗教的カリスマとして尊敬されている.

 ジャンヌが列聖されたのは20世紀になってから.それも宗教的というより政治的な理由で.
 衰退するカトリック教会が人気を取りたかったためと,フランス政府が国民の愛国心をかきたてるため.
 フランス国内でも,ナポレオンが国民的英雄としてもちあげるまでは,ほぼ無名の人物か,異端の魔女扱いだった.

世界史板,2010/05/28(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 百年戦争は,なんであんなにこじれまくったんでしょう?
 双方戦い疲れて休戦しては,また戦い始めるのを何度も繰り返してるし.
 正直,イギリスはどうしてそこまで,フランス王位に固執したのでしょう?
 また,フランス諸侯が一致団結してイギリスに対抗しなかった理由は?

 【回答】
 くわしく話すと非常に長くなる.
 そもそも「百年戦争」というくくりが近代のもので,1337年から1453年までの一連の戦争を恣意的にまとめてある.
 その前には,アンジュー家の内紛につけこんだ,百年にわたるフランス王の領地拡大戦争があった.

 もともとカペー朝は,西フランク王家断絶後に,パリ伯が有力諸侯に推戴されて王位を得たものにすぎない.
 その勢力はパリと,せいぜいオルレアンにしか及ばず,大諸侯には全然歯が立たなかった.
 それを「国王」という権威や内紛を利用して,じりじり領土を広め,どうにかこうにか国王らしい勢力を築いていた.
 これでは,諸侯が一致団結するどころの話ではない.

 この過程でわりをくったのが西のアンジュー家で,せっかく大領地を得ていたのに,イングランドとアキテーヌしか残らなかった.
 彼らはまだ「イングランド王位も持っているフランス人の大諸侯」でしかなく,フランス語を話しフランス名を名乗っていた.
 だから,カペー朝が断絶してヴァロワ伯が跡を継ぐや,フランスの王女を母に持つイングランド王は,
「われこそ正統なフランス王なり」
と宣言し,反ヴァロワ派の諸侯や都市を糾合することができた.

 で,黒死病や農民暴動や財政難で,何度も休戦を繰り返しつつ戦ううち,だんだん両者に「英国」とか「フランス」といった意識が芽生え,ついに彼らは「別々の国」となった.
 しかしシェークスピアなぞは,
「英国は長い戦いの末,フランスに勝利をおさめ,両国を一つにした」
といい,ジャンヌを「正当な英仏の国王に歯向かった魔女」として醜悪に描いている.
 また,戦争終結後も,長らくイングランド王は「フランス王」を称号のひとつとして名乗り続けた.

世界史板,2010/05/28(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ジャンヌを利用するにしてもお告げを受けましたというだけではとりたてられません……よね?
 後の裁判でも,シャルルに話した内容は口にしなかったそうですし,そうすると他の人間は内容のわからない『お告げ』によって,ジャンヌを戦争に使ったことになります.
 当時のフランスは百年戦争中でしたが,そんな曖昧(悪い言い方かもしれませんが)な人間を使わざるをえない状態だったのでしょうか?

 【回答】
 シャルルは母親の不義の子ではないかという疑いがあって,もしそれが本当なら王位は継げない.
 しかしジャンヌは,神のお告げでシャルルが国王の正統な子だと言って,シャルルが戴冠式をして王位に就くのを助けた.
 新しい国王が誕生したことで,フランス人は国王の下にまとまり,これがフランス軍がイギリスに反撃する原動力になったので,ジャンヌのカリスマ性が高まった.

 つまり当時のフランス人には,ジャンヌのお告げを信じたい要素があったのだ.
 国王は自分の出自に自信を持ち,臣下は新しい旗印を得て軍を立て直すという….

世界史板,2010/05/28(金)
青文字:加筆改修部分


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