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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.
 また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.

※レス回収基準は「Ver.7」


【初心者】スレッド立てる前に質問を Part20【歓迎】

目次


** 【質問】
 賎ヶ岳の戦い以降の柴田家の一族は,どうなったか知ってる方いますか?
 佐久間氏を除いて.

 【回答】
 勝豊は秀吉に寝返ったが,天正11年のうちに亡くなったはず.
 勝家の実子というのがいたらしいが,処刑される.
 勝政は,生き延びたとも,賤ヶ岳で戦死したともいい,よく分からん.
 ただ,この勝政の子孫が,江戸時代に旗本になっているらしい.
 ある本によると,この旗本柴田氏は菅原氏を名乗っているようだね.
 柴田氏は斯波氏族(もちろん清和源氏)だったようだし,男系血縁の佐久間氏は桓武平氏三浦氏流といわれているのだが…,ナゼ?

勝義┬女┬勝政
   │  └勝之
   ├女─勝豊
   ├男─勝春─五右衛門(断絶)
   ├勝家┐→勝政┬a1勝重┬a2勝興─a3勝門─a4勝富┬a5勝定┬a6勝昿─a7勝満
   │   │→勝豊└勝次  │                │     └勝彭─勝峯…
   │   │→勝敏      │                └a8勝房─勝延─a9勝明─a10勝全…
   │   │→勝之      ├b1勝平─b2勝顕→b3勝陳─b4勝敬┬b5勝成
   │   ├勝里        │                      └b6勝清=b7勝直…
   │   ├勝忠        └c1勝昌→c2勝智─c3勝惟─c4勝寿…
   │   └→女─高城胤重…
   └女─勝敏

 勝政は佐久間盛次の3男
 勝之は佐久間盛次の4男
 勝豊は吉田次兵衛の子
 勝里・勝忠は勝家の庶子とも養子ともいわれているが,いづれも早死にしているようなので,どのみちこちらの系統の血筋は残っていない.

 a家は10代越前守勝全で幕末に到っている様子.
 石高3200石,御書院御番頭,一橋家家老に就いている.

 b3勝陳は筑紫茂門の子
 b7勝直は遠山景逵の子(b6勝清の婿養子)
 c2勝智は近山安道の子
-----------

 養女(実は中村文荷斎女)は,旗本の高城胤則に嫁し胤重を生んだ.
 胤重は縁を意識したのかしないのか,市の方の弟(織田信行)の曾孫を娶っている.
 この子孫は,男系が絶えながらもタラタラ続き,8代後の孫之丞で幕末に到った.

日本史板,2007/08/29(水)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 江戸時代の武士のちょんまげについて質問です.
http://imepita.jp/20070905/778750
 この絵の3名はタイプが異なる髷みたいなんですが,階級の違いとかで髷も違うんでしょうか?
 それとも単に好みで,個人ごとに色々な髷を結っていたんでしょうか?

 【回答】
 髷についてのお触れがどうなっているかは知らないが,身分で違うのはタボ(襟足の部分の形)のみだったと思う.
 町人は,今のお相撲さんのように膨らませるが,武士はひっつめに結う.
 町同心は中間だったようだ.

 マゲも市中の医者は,茶筅が多かったようだ.

 大きい髷(TVなんかで柳生十兵衛がやっているような)や,長く髭を伸ばすのは,自分を大きく強くみせようという意識の現われで,歌舞伎者なんかの行動と通じるものがある.
 だから江戸初期のカブキ者なんかは,出来るだけ奇抜で目立つ格好をしたりする.
 風紀上よろしくないと幕府は考えた.
 で,そういう戦国の遺風な格好は,平和な時代なんでやめましょうということに.
(正式な法として指示されたか?って点は知りませんが)

 ところが,そういう意識を変えるのは難しい.
 当時はヒゲがない=貧弱と見られるような感じだったので.(少し前の時代,髭が薄かった豊臣秀吉なんかはわざわざ付け髭をしたりしていた)

 そこで老中の誰かが,あえて髭を剃って見せて(登城した姿を見た大名たちが驚いたとか,記録にあったような),手本を示すことで,髷も小さく,髭も小さかったり無くしたりという格好を皆がするようにになっていった.

 月代の形は,お城や役所に出仕する,ちゃんとした武士は,今のちゃんとした勤め人背広ネクタイ形式のように,一定形式になっている.
 月形半平太や沖田総司がやっている,月代を狭めた形は,正規の出仕役人でないんで変形だろう.
 自分の想像では,月代を広くするとマゲに行く髪が少なくなるんで,量を稼いでいるんでは?と思う.
(本多髷という,やたら月代の広い形もあった)

 公家・学者は,月代を剃らなかった.
(戦に行かず,兜もかぶらないから,剃る必要がないという趣旨か)
 月代の部分をタワシのように伸ばしているのは,浪人やなんかで,「お勤め人」でないんでズプラを決め込んでいるからだろう.
 旗本ヤッコといわれている不良武士は,ビンの部分を膨らませて威勢を張った.
 今の一部の若者が,ソリコミをするようなものだろう.

 説明が見つからないが,子供が前髪をつけるのは,マゲを前に引っ張るためのようだ.
 まだ毛が軟らかく,前髪がないと,マゲが後頭部へずり落ちる.
 この意味で,元服して前髪を落すのは,髪の毛も(多分体毛も)ちゃんと成長した証しと見れる.

日本史板,2007/09/06(木)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 ひと口に大名といっても,上は100万石から下は1万石まで.
 旗本御家人も同様に,上は5千石以上,下は200石前後までと,上下差は非常に大きかったわけなのだけど・・・・・・

・実際に,直参武士たちの石高って,活躍しだいで増えたのでしょうか?

・武士の家に子供が複数いた場合,長男は家をそのまま継承するとして,後の子供たちはどうなったのですか?
 分家してそれなりの待遇を受けたのか,それとも何も貰えずに浪人になってしまったのか・・・

 【回答】
 活躍次第では変わる.
 将軍の側近なんかだと,一代で数百石から大名に出世したりする.
 そこそこの出世だと,家禄は変わらないで,役職のランクだけ上がることも.

 基本的に家禄百表以下から布衣以上に昇進で,家禄が百俵に加増.
 遠国奉行で二百俵,
町奉行・勘定奉行で五百石,
御側衆で二千石に加増される.
 そこまで昇進しないと,元の職禄が家禄のまま.

 下級の御家人の場合は「足高」といって,家禄のほかに役料がつくことがある.
 御家人で抱席から譜代席になると,前の職禄を家禄にされたり,前の職が与力のように結構もらってると,家禄百俵+差額足高.
 本来,幕府の役職には格があって,「この役(たとえば奉行)に就くのは何石とりの人」と決まってるわけなんだが,それだと,人材抜擢の際に家禄を引き上げねばならず,家禄を引き上げると,その子孫にずっと,引き上げた禄を払わなきゃならなくなる.
 それを防ぐために,
「その役についているときだけ,その役に応じた禄を払う」
という形になった.
 当然,隠居とか降格されると,元の家禄に戻されちゃう.

 この足高の制度化は,吉宗のとき.
 ただし,綱吉の頃に似たようなことを,微禄の者に適用している.

 なお,「布衣以上に昇進で家禄百俵に加増」以外は,幕末に廃止.

 相続のとき,兄弟で分割するのか長男の総取りなのかも,ケースバイケース.
 遺言で分割相続するときもあるし,幕府の意向で分割させることもある.
 親父の功績や,母親の血統がよいことを評価して,次男以下を取り立てることもあるし,一種の懲罰(家の格を下げる)として分割相続させることもある.

 有名な例だと,柳生但馬守は旗本から大名に出世したが,亡くなった後分割相続したので,長男十兵衛は旗本に逆戻り.
 しかし,十兵衛が跡継ぎがいないまま亡くなったので,弟がその分まで受け継いで大名に戻った.

 継嗣以外の子供は,よその家に養子にいかないかぎり,一生,家の厄介者,無駄飯くらいの居候暮らし.
 一生嫁さんももらえませんし,父親が生きている間はともかく,継嗣の代になって,そこに嫡男が生れちゃうと,もうご飯も部屋では食べられず,台所で使用人と一緒に食べなきゃいけないくらいの扱いになる.
 ただ,山岡鉄舟や岩瀬忠震みたいに,部屋住みのまま登用されることも結構ある.

日本史板,2007/09/07(金)〜09/08(土)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 源頼朝は,近衛大将より自由度がより高い征夷大将軍就任を希望したらしいですが,前者と後者では何が違うんでしょうか?

 【回答】
 近衛大将は,皇居の警備や天皇の身辺警護に直接的に関わる場合しか,軍事的権限を行使できないが,征夷大将軍の場合は,朝廷に敵対しない限り,天皇のいる京都から離れた地域で,かなり自由に軍事活動を行うことができる.

 そして頼朝は,官職について厳密に考えていて,武士が名目だけの任官するのを嫌っていたという話がある.
 義経や部下の武士が勝手に任官したといって怒ったのも,そういう面があったらしい.
 例えば義経が検非違使になっているけど,頼朝の考えだと,京都の治安を司る役目の人間を,京都から離れた場所で働かせるわけにいかない.
 よって,義経を平家討伐の指揮官にすることが出来なくなって,腹を立てたと.
 また例えば,自分が大納言や近衛右大将になったときも,上洛したあとで任官して,鎌倉に帰る前に辞任している.

 要は,この頼朝の考え方にあったのかもしれない.
 後世では考えられないくらい朝廷の権限が強かった時代だし,相手はあの政治怪物・後白河法皇.
 「名目だけの任官」という訳にはいかない時代でもあるんだよね.

 ましてや,頼朝たちは決して立場の強い人ではなかった.
 もし言われるがままに任官を受けていたら,結局は平清盛のようなカタチで生きていくほかはない.
 運命は朝廷の思惑次第.
 武田や三浦などに追討令が出れば,今度は頼朝たちが討伐されるだけ.
 奥州合戦でも「(奥州討伐の)勅許はないけど,御家人はついて来てくれるだろうか…」というのも当然だろうね.

 ところで,義仲は法皇を幽閉して,無理矢理征夷大将軍に任じさせている.
 あの時は,とにかく頼朝に勝たないと立場が危うかったこともあるけれど,義仲が征夷大将軍を何故望んだのかよく分からない.
 東国に対し,フリーハンドで(=勅許なしに無制限)戦えると思ったからかな.

 最終的に頼朝が征夷大将軍を望んだのは,案外,義仲から学んだのかもしれないね.

日本史板,2007/09/08(土)
青文字:加筆改修部分



** 【反論】
 後白河って,実の父親(鳥羽法皇)から「帝の器にあらず」といわれるほどの,稀代のアホ天子だったって聞くけど.
 それに後白河って政治的な関心が薄く,遊ぶことしか考えてなかったらしいから,息子である二条天皇からも周りの公卿達からも,バカにされていたのが真相なんじゃないの?
 最後までちょっと抜けてる,ただの遊び人.
 当時の公家の日記とかを見ていれば,よく分かる.
 確固とした政治的な見識とか信念があるわけじゃないから,次から次へと後白河の立場を利用しようという者が現れて政治が混乱.
 後白河自身もそれに振り回されただけで終わった感じがする.

 後白河が政治家・戦略家として優秀だったと言ってる研究者を,見たことない.

 【再反論】
 むしろ後白河は,いろいろな政治的事件に遭遇する中で,一皮向けた気がする.
 さすがの鳥羽法皇も,この展開は予想つかなかったのでは?

 例えば,最後まで征夷大将軍に頼朝を任命しなかったあたりは,なかなかかと.
 奥州藤原氏まで滅びて,日本全国の兵馬を大権が握られた後だ.
 後白河得意の「毒をもって毒を制す」がまったく使えなくなった状況で,ようやく気がついたんじゃないか?

 1190年の頼朝上洛時の,後白河とのやり取りが記録に残っていたらと思うよ.

日本史板,2007/09/08(土)〜09/16(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 戦国時代の足軽とかは,徴兵制だったのですか?
 また,給料とかは現金でもらっていたのですか? 米ですか?

 【回答】
 戦国時代の足軽は徴兵制じゃない.
 というか,徴兵制は日本では明治以降だけと思う.
(武士が台頭した後の話.律令制時代は除く)

 戦国時代の軍隊は領地の規模に応じて,○○人出すという契約を,大名と国人領主が結んでいるようなイメージ.
 その代わり,大名側は国人の領地が攻められたら,防衛してやらないといけない.
 防衛してくれないのなら,別の大名に乗り換えても当然という考え方.
 毛利元就は息子達に,領主たちはなんのかんのと理由をつけて兵力を出さない,と愚痴ってる.

 足軽は大名が直接雇用している場合が多いので,大名の意思で動員できる.

 戦場での足軽の給料は,米の支給が基本.
 金で払うこともある.
 一度にやると,米からお酒を作って浪費してしまうので,数日分ずつ支給していた.

日本史板,2007/09/24(月)
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

407 :日本@名無史さん:2007/09/29(土) 02:09:16
質問です

1.東南アジアはイスラム教徒が多いのに,なぜ日本ではイスラム教徒がいないんですか?
隠れキリシタンとかはよく話し聞くけども.イスラム教徒は日本で布教したとかそういう例はないんですか?

2.フィリピン・グアムを植民地にしてたスペインは江戸時代中期・後期・幕末に日本に
影響を与えるような事件を起こしたりしてないのですか?
ロシアやアメリカは時々来航したりしてますけど.

408 :日本@名無史さん:2007/09/29(土) 06:03:45
芝山監物の石高や役職を教えてください.
ググったのですが,生没年不詳というばかりで.
409 :日本@名無史さん:2007/09/29(土) 17:31:38
>>407
1.マレーシア・インドネシアがイスラム化したのは,
イスラム商人が香辛料を求めて進出してきて,同時に布教したから.
イスラム商人は中国までは進出したがその先の日本や朝鮮にまで
活動範囲を広げようとはしなかったので,
日本にはイスラム教は入ってこなかった.

2.無い.スペインはすでに衰退期.日本周辺に進出して
何かをやろうとする必要も活力も無かった.
410 :日本@名無史さん:2007/09/29(土) 18:29:46
>>393以下
言語学の話は,言語学板でやれよ.
てゆうか,>>392はどう考えても煽りだろ.
411 :日本@名無史さん:2007/09/29(土) 18:46:38
>>407
1.イスラム教徒の商人なんかが個人的に日本へ来航することはないわけでは
なかったが,イスラム教の場合,16世紀のイエズス会のように組織的に
布教活動を行うような勢力が日本には入ってこなかった.

2.スペインはフェリペ2世の時期が全盛期でそれ以降はどう考えても衰退期.
17世紀に入ると,ヨーロッパ内においても新たに強国に成長し始めた
英仏などの勢力に締め上げられているような状態になる.
そして18世紀に入るとスペインの王位継承問題を巡る仏墺の対立によって
スペイン継承戦争が起こって国内はズタズタになり,さらに18世紀末以降は
オーストリアとともにフランス革命&ナポレオン戦争に振り回される.
ヨーロッパ外のことに干渉するような余力は正直全くない.
412 :日本@名無史さん:2007/09/29(土) 19:56:51
>>409
嘘を書くなよ.
8世紀か9世紀頃に,日本にもイスラム教が来ているぞ.
413 :日本@名無史さん:2007/09/29(土) 21:15:21
キリスト教もそうだな.

日本史板,2007/
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 江戸幕府の討幕〜廃藩置県までの流れがよく分からないのですが,教えてもらえますか.
 大政奉還で幕府は朝廷に政権を返して,そのあとの王政復古の大号令というのは何なんですか?
 天皇に政権が渡ったなら,べつにクーデターなんてしなくてもよかったと思うんですが….

 あと,薩長土肥はなぜそのあとにわざわざ藩籍奉還したのですか?
 廃藩置県で藩をなくした意味って,何だったんでしょうか?

 【回答】
 大政奉還とは,日本の統治権を朝廷に返還すること.
 これを奨めたのは土佐藩だが,当時は武力倒幕の気運が高かまってたので,薩長に倒幕の口実を与えずに公武合体の方へ進めるため.

 徳川慶喜は統治権を返還しても,朝廷には実務能力がないだろうから,結局自分が筆頭参議のような感じで,新政府の中でも実権を握れると考えてたみたい.

 一方,薩長は新政府にて徳川の影響力が残ることを廃除したくて,武力倒幕にこだわった.
 この姿勢が鳥羽・伏見の戦いから,戊辰戦争へとつながる.

 廃藩置県の目的は地方分権的な封建体制から,中央集権的な近代国家へ改革するため.
 幕藩体制では各藩の財政は独立採算だから,現在に例えるなら,地方税たる藩の税のみで,国税がないことになる.
 幕府はその直轄領で,徳川家と日本国を賄ってたわけ(外様大名に公共事業を負担させたりはしてたが).

 こんな状況から,新政府が全国から税を集めれるようにするのが廃藩置県の目的.
 つまり,租税徴収権を持つことにより,新政府の財政基盤を確立し,効率よく近代化を進めようとしたわけ.

倒幕派「大政奉還って幕府が権威放棄したってことだけやん.
     しかし幕府には今も力がある.これじゃ幕府ある限り公武合体の流れに戻るだけ.慶喜めそこが狙いか」
親徳川派「いやあのそれで何が悪いの.孝明帝のご遺志も…」
倒幕派「ああ,こいつらがいたんだ.こりゃあ新帝のお言葉が要るな…」

12月8日夜
 岩倉具視「雄藩の重臣どもっ,王政復古を断行するからヨロシク!」
12月9日朝
 朝議で岩倉らの赦免を決定
12月9日午後
 朝議のあと御所の門を薩摩藩士でシャットアウト
 王政復古の大号令「親政にする!だから摂関や幕府は廃止!総裁,議定,参与の三職をおく!」
12月9日夕方
 公議政体派「ちょっと待て!公議がベースなら慶喜を呼んで議長にするべきだ!こりゃ陰謀だっ!」
 岩倉具視「るせえバカ,天子様のお言葉だ!」
 薩摩家老「どうしますかあいつら」
 西郷隆盛「短刀一本あれば片付くことでは…」

     クーデター成功.

日本史板,2007/09/29(土)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 利休七哲の一人,芝山監物の石高や役職を教えてください.
 ググったのですが,生没年不詳というばかりで.

 【回答】
 芝山監物/芝山源内こと芝山宗綱は,いわゆる荒木村重・中川清秀・高山右近らと同じ摂津衆で,大和田城にいたとき,城主・安部仁右衛門(二右衛門)と一緒に信長に帰順し,黄金を賜った…と,『信長公記』巻十一にあります.
 どうもこれが,歴史に登場する最初のようです.
 だからかしら,帰順後も高山と行動を共にしています.

 で,安部のほうは川辺郡を与えられ,池田恒興隷下で役に就いていますが,
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html
ここ(↑)に芝山の名はないんですよね…
 将としての才覚はなかったのかもしれません.

 のち豊臣秀吉に従い,御咄衆として1万石を給せられ,小田原陣韮山城攻めのときに戦目付をやってたり,聚楽第御幸の際先駆をやってたりしてたみたい.

 武将としては芽が出なかったようですが,天正9年には,茶人として知られた堺の天王寺屋津田宗及や山上宗二らを招いた茶会を行っているから,このころには茶人としても知られていた模様.
 利休から贈られた長次郎作の黒楽茶碗「雁取」を所持しており,芝山型手水鉢,芝山緞子などにも名を残しています.

(芝山監物 とは - コトバンク)

日本史板,2007/09/30(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 利休七哲の一人,瀬田掃部 SETA Kamon について教えていただけないでしょうか?

 【回答】
【瀬田掃部】(1547?-1595)
 正忠,清右衛門.馬允・掃部頭.
 出身は近江瀬田とも武蔵国ともいう.
 初め後北条氏に仕え,天正10年頃,高山右近の推挙で秀吉に仕える.
天正12年(1584) 小牧長久手の合戦で兵150を率い秀吉軍に従う
天正13年(1585) 秀吉関白就任に伴い従五位下掃部頭叙任
天正15年(1587) 九州征伐で兵120を率いる
天正16年(1588) 後陽成天皇の聚楽第行幸の際,騎馬で左の前駆を勤める
天正18年(1590) 小田原征伐で相模玉縄城攻略戦に参加
文禄04年(1595) 豊臣秀次秀次に近かったため,秀次自刃後,処刑.

 茶人としては,天正12(1584)年ごろから茶会に名が見える.
 櫂先の大振りな,掃部作の茶杓は,のちに「掃部形」と呼ばれるようになったという.
(瀬田掃部 とは - コトバンク)


 以下のようなエピソードが伝えられている.

------------
 ある夏の暑い日に,大振りの平茶碗が何かに使えないかと利休に言われ,弟子の瀬田掃部(せたかもん)は,大振りの茶碗に水をたっぷりと入れ,琵琶湖に見立てて,茶杓を橋(琵琶湖にかかっていた瀬田の唐橋)に見立て,その中に茶巾を入れ,点前の中で茶巾を絞って涼しそうな音を立てたということです.
 その時,利休から茶杓の名を聞かれ,自分の名前の“瀬田”と“瀬田の唐橋”から,茶杓の名を「瀬田」と名乗ったそうです.
                 
 利休はたいへん感心したということです.

------------「洗い茶巾・瀧直下三千丈: しあわせな日々」より引用

日本史板,2007/09/30(日)
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

秀吉には秀頼以外に子供がいたというのは本当ですか?
早死にしたのも含めると,全部で何人ぐらいいたのでしょう?
495 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:04:16
現行条約励行 と 内閣弾劾上奏 の意味を教えてください
496 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:49:15
はじめまして!
質問が2っあります.
1.『もしタイムマシーンがあったとして,いつの時代の私たちの祖先となら
普通に会話ができる(通じる)でしょうか??????』
2.『タイムマシーンで夜の京都の左大文字山の上あたりに行ったとします.
いつの時時代なら街の”夜景”を確認できるでしょうか????』
明治なら電気の灯りが存在したので”夜景”を確認できるでしょうが,
桃山時代とかローソクの灯りとか確認できるでしょうか??
497 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:49:49
>>494
豊臣秀吉の実子は,長男鶴松(夭折)と次男秀頼の2人.
いずれも母親は浅井長政の長女,淀君.

ほかに,豊臣秀吉が長浜時代,戦乱で荒れた竹生島宝厳寺の復興をした時の
「竹生島奉加帳」に,寄進者として石松丸と南殿という名があり,
石松丸(=秀吉の子),南殿(=石松丸の母親)という説があるが,詳細は不明.
長浜で秀吉に信仰された妙法寺に羽柴秀勝と伝わる子供の肖像画が残り,
竹生島奉加帳との関連から,秀勝とは石松丸のことだと現在されているが,関連性は不明.
妙法寺に葬られた羽柴秀勝が,秀吉の実子であったことを証明する資料はない.


498 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 10:45:08
>>494 簡単にまとめてみた

実子
鶴松  幼名棄.母は淀殿.秀頼の兄.3歳で夭逝.
?秀勝  幼名石松丸.長浜時代の側室南殿の子.存在や関係を疑問視する声もある.
?女子  南殿の子.こちらはより存在や関係を疑問視されている.
?女子  北政所側近の孝蔵主の姪の子.丹羽家家臣に嫁ぎ娘が3人いたとされる.こちらも以下略.

養子
羽柴秀勝  織田信長の四男.
小早川秀秋  北政所の甥.
結城秀康  徳川家康の次男.
豊臣秀勝  秀吉の甥,姉日秀の次男.
豊臣秀次  秀吉の甥,姉日秀の長男.
豪姫  前田利家の娘.宇喜多秀家の室.
菊姫  前田利家の娘.7歳で死去.
?お江  淀殿の妹,浅井長政とお市の方の娘.

猶子
宇喜多秀家  宇喜多直家の子.母おふくは秀吉の側室.
智仁親王  正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六皇子.

淀殿の猶子
完子 淀殿の妹お江と羽柴秀勝(秀吉の甥で養子)の娘.

北政所の養女
辰姫 石田三成の娘.

日本史板,2007/
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 「白村江」って,どうして「はくすきのえ」なんて変な読み方するの?
 朝鮮の地名なんだから,朝鮮語で「ぺくちょんがん」でいいのに.

 【回答】
 現代韓国語では白江戰鬪(ペッカンチョントゥ),
 現代中国語では白江口之戦なので,白村江という文字列を,朝鮮読みする必然性は全く無い.

 「白村江」は『日本書紀』に書かれている語で,「はくそんこう」は日本語式の訓(よ)み.
 那々志先生の受け売りだけれど,分かり易く書けば「はくすきノ江」で,最後の「ノ江」は「の河口」という意味.
 騰波ノ江,塩ノ江,鵜ノ江,下ノ江…日本には「ノ江」を含む地名がたくさんある.
 残りの「白」は「はく」でいいとしても,日本語では「村」を「すき」と読んだことはない.
 だからこれは,古代朝鮮語での地名を,そのまま写したんじゃないか…っていう話があるそうな.

 「はくすきのえ」という読み方にも,その時代を生きた人の記憶がある.
 調べれば当時の人々の思いが蘇るタイムカプセル.
 こういうのを大切にすると,皆に歴史が分かる.
 歴史教育によい.
 タモリも言っている:
「地名はその土地の記憶だから,簡単に変えてはダメだよね」


589 :日本@名無史さん:2007/10/24(水) 01:51:38

 じゃあ当時の読み方通りに,「ぱくすきのうぇ」って読まないとね.


590 :日本@名無史さん:2007/10/24(水) 01:57:23

 そこまでするとアナクロニズム.


592 :日本@名無史さん:2007/10/24(水) 02:14:14
>>589
 「パクツキノイェ」もしくは「ファクツキノイェ」だと思うが.

 この時期だとハ行子音は[p]か[Φ]か微妙.
 サ行子音はおそらく[ts]だが,[t∫]の可能性もある.
 ただ,前舌母音の前では,引きずられて[t∫]になり易いが,後の母音が[u]なら,たぶん[ts]か.
 「江」はヤ行の「エ」.

 なお,「はくすきのえ」の「き」については,これが上代特殊仮名遣いで,「キ」の甲音なのか乙音なのか,知らない.


593 :日本@名無史さん:2007/10/24(水) 02:37:07
>>592
 訂正さんくす.
 「江」は「ゑ」だと思ってた.


594 :日本@名無史さん:2007/10/24(水) 05:37:12
>>593
 いわゆる歴史的仮名遣いにおいても,「江」の読みは「ゑ」ではなく「え」.
 但し,平安中期の発音がベースの歴史的仮名遣いは,既にア行とヤ行の「エ」を区別しなくなっているので,注意.
 「江」の場合は,平安初期以前の万葉仮名の書き分けから,ヤ行の発音であることが分かっている.

 なお中世以降の文献では,「江」を助詞の「へ」のように用いる用法があるが,これはいうまでもなく,ア行とヤ行の「エ」,語注語尾の「ヘ」,「ヱ」が 全て[je]という発音に統一された後に生まれた用法.


596 :日本@名無史さん:2007/10/24(水) 13:10:26

 むしろ白江口という用語を使えということだ.


597 :日本@名無史さん:2007/10/24(水) 18:14:39

 一瞬,白濁エロと読んでしまった.

日本史板,2007/10/23(火)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 弓矢についての質問です.
 アーチェリーの講演で
「矢に適した枝は基本的に無い.矢は貴重品だった.」
「木を裁断して整え,矢を作るのは大変な作業.竹も,扁平であるのを整える問題や,強度に難がある.」
「矢は木目に沿わなければ折れ易い.」
「矢では致命傷を与えにくく,石を投げた方が効果的.」
等の話がありましたがホント?
 矢では致命傷を与えにくいが,石を投げた方が効果的で致命傷を与え易い状況って?
 シチュエーションが思いつかないのですが・・・

 【回答】
 破壊するには大質量をぶつける.これが鉄則です.
 例え運動エネルギーが等しくても,小質量の弾ならば弾のほうが壊れるだけ.
 壊れないように丈夫にすれば,貫通するだけなのです.

 人体に対してもやはり同じことでして,石をぶつけたほうが致命傷になり易い.
 一撃であっても骨を砕き,脳や内臓を破壊・破裂させることができるからです.
 逆に矢でそれは難しい.
 眉間や心臓などの急所に当たらなければ,絶命させられない.
 弁慶の立ち往生の話をご存知でしょうが,つまるところ,一本二本当てたという程度では,なかなか死なないということなのです.

 それでも,弓矢は武器として重宝なものでした.
 遠戦が可能な武器であるというばかりではなく,携帯性に優れていたからです.
 また,逃亡や進撃を食い止め,戦闘力を奪うだけなら,あの程度の攻撃力で十分ですから.
 尤も,より効果を出そうと思うのなら,毒(矢)の助けを借りることになってしまうのですが.

 石(スリング)はとにかく手元にないと攻撃になりませんし,そうかといって多数を携帯するわけにもいきません.

 武器は何がいいかというのは,戦いの起こり方や戦い方(野戦,篭城戦など)によっても有利不利があります.
 百姓が戦うのには,石しかないこともあります.
 相手が弓矢でも,占めている場所や人数によっては,石の方が有利ということもあります.

 北条の山中城での戦いは鉄砲の時代になってて,半日で落ちました.
 それ以前の小田原本城の方は,信玄,謙信に攻められても落ちませんでした.

日本史板,2007/11/06(火)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 旧武田家臣についてですが,徳川家臣団に多いそうですが,信憑性は高いのですか?
 東北諸藩にも多いそうですが,こちらの信憑性は?

 武田家臣団って言うと,農のイメージが大きくて,山梨や長野の庄屋あたりなら,旧武田家臣っと名乗っても納得できるのですが,兵農分離された純粋の士であろう,あちこちの諸藩で散見されるものについての信憑性はいかに?

 【回答】
 武田が滅んだあと,その領地は徳川家が大部分を支配した.
(織田氏の部将たちは本能寺の後,殺されたり逃げたので)
 その地域の旧来からの慣習などを熟知している武田氏の遺臣は,徳川氏側としても是非スカウトしたい人材だったということだな.
 元々その土地にいた者を採用するということは,現地の民衆の人心を動揺させないという点でも効果的.

 のちに羽柴氏と徳川氏が争ったときに,家康の重臣だった石川数正が羽柴氏に出奔,軍事機密が流出したということで,徳川氏の軍法を武田氏の方式に変更した.
 ってことは,経験者は仕官に有利.

 家康が,自分が負けたことで武田氏のことを評価していて,遺臣を積極的に登用した.

 それに徳川氏は駿河を勢力下に収めた時点で,岡部正綱などいったん武田氏に下っていた,元今川氏の遺臣層の多くを吸収しているから,こうした者達を通じて,甲斐や信濃にいた武田氏の遺臣達に対しても,徳川氏への仕官を呼びかけていた側面もある.

 これらのことが重なって,徳川氏には武田氏から流れた武士が多いのではないかと.

 東北は良く知りませんが,越後の上杉氏(江戸時代は米沢)は武田が滅亡する直前同盟関係(信玄の娘が上杉景勝の正室)になっていたことや ,織田氏と敵対していたので,こっちに逃げた人も結構います.
 そのことを指しているのかな?

 米沢以外の東北だと,戦国期の甲斐武田氏とは直接的に関係はないけれど,南部氏や松前氏のように,祖先が甲斐源氏だというような家系伝承を持つ大名家があるので,そうしたところにいる人達が武田氏との縁を主張しているような面もあるんじゃないかな.

日本史板,2007/11/15(木)〜11/16(金)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 江戸時代に各藩(藩は明治以降らしいですが・・・)が,どうやって町や村を治めていたか教えて下さい.
 住民を取りまとめる機関が役場なんですか?
 役場以外に施設はあったんでしょうか?
 あと,その施設の偉い人の役職名ってなんでしょうか?

 【回答】
 思い切り大雑把に言うと,都市は町奉行,農村は勘定奉行,それ以外(後述)は寺社奉行の管轄でした.
 従いまして,最終的に取りまとめる官庁は奉行所や代官所です.
 この枠組みは,幕府直轄領でも各藩でも大差ありません.

 町奉行が監督するのは,町名主(年寄),元締や町代・手代という人々で,まとめて町役人(町方三役)と呼ばれます.
 役人とついていますが,彼らは町人です.
 落語や時代劇によく出てくる,大家さんや親分さんといった人々です.

 勘定奉行が監督するのは,名主(庄屋,肝煎),組頭,百姓代という人々で,彼らは村役人(村方三役)呼ばれます.
 彼らは農民です.
 彼らの権限は広く,徴税や治安など,今の我々が想像しうる一般行政サービス全てを行っていたといっていいでしょう.

 寺社奉行は本来,寺請制度(檀家制度)によって各人の宗門(宗教)を管理するものですが,同時に門徒(によって作られた門前町),教団全体の管理も行いました.
 また,寺や神職のみならず,歌人・修験者・陰陽師などの芸能民も寺社奉行の管轄でした.
 香具師や行商人もここに入るのでしょうか,ちょっと判りませんが…

 ともあれ,この「三奉行」が政治サービスの柱だったのです.

日本史板,2007/11/20(火)
青文字:加筆改修部分


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