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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.
 また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.

※レス回収基準は「Ver.7」


【初心者】スレッド立てる前に質問を Part16【歓迎】

目次


** 【質問】
 馬が日本に入ってきたのは,いつごろなのでしょうか?
 ってか,東国が馬の名産地になったのは何故でしょう?

 【回答】
 古代から日本には馬がいた.
 野生種に近い小型のものだった.
 縄文時代の遺跡からも出土する…というのが定説だったのだが,近年では否定的な見解が出てきた.
 『魏史』倭人伝には「倭に馬はいない」と書かれている.
 少なくとも,家畜としての馬は,日本にいなかった可能性が高い.

 それが神話時代になってくると,スサノオが馬の死体を放り込んだ,オオクニヌシが馬肉を献上した,ヤマトタケルが馬の皮を剥いだなどなど,いろいろな話が登場してくる.
 古墳時代にはご存知のように馬のハニワ,馬具,墳墓…沢山出土する.
 百済からテルペン系の馬を輸入して,生駒山で生産したという記載もあり,どうやら馬と騎馬文化は,古墳時代に朝鮮半島から渡来したのではないかと考えられている.
 例の「騎馬民族征服王朝説」も,この辺が根拠だ.

 長野県の遺跡から,4世紀末〜5世紀ごろのものと見られる馬具が発掘されていることから,東国での馬生産はこの後であろう.

古墳時代を駆けた馬
騎馬民族征服王朝説は検討に値するのか

日本史板,2006/03/26(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 よく,苗字は家に付いてるもので,姓は個人に付いてるものなので,養子に行っても変わらないと書いてるのを見かけますが,本当でしょうか?
 本当だとしますと上杉家は,最初藤原姓で謙信が入って平姓,綱憲が入って源姓,鷹山が入って大蔵姓,戻って源姓と,公的の名乗りを次々と変えたことになりますが・・・

 【回答】
 大体,室町・戦国期以降くらいになると異姓養子を気にしなくなるので,養子に入ったときに養子先の家に合わせて,姓まで変えることが普通になる.
 例えば,上杉景勝は血統的には平姓のはずだが,公卿補任には「藤景勝」ってなってるから,それ以前の上杉氏に合わせて藤原姓に変えていることが分かる.

 他にも,吉川元春以降の吉川氏なんかは血統的には大江氏だが,江戸時代でも公式には藤原姓.
 佐竹上杉から養子を取った.
 室町期の佐竹義憲は山内上杉の出身.
 よってそれ以後の佐竹は,血筋上は藤原氏.
 但し,名乗りはそれ以後も源氏.

 ちなみに秀吉政権の時代には,多くの大名家が豊臣姓を名乗っているが,関ヶ原以降になると木下氏などの一部例外を除いて,みんな元の姓に復姓してる.

 一方,中世前期以前は,畠山の例みたいのが一般的なんじゃないかな.
 畠山氏は鎌倉時代に,平姓から源姓に変わってる.
 同様の例としては,源頼朝の弟の阿野全成(当然源姓)の名跡をついだ家(公家の三条家の一族)は,それ以後藤原姓を名乗っている.
 なおこの子孫から,後醍醐の寵妃の阿野廉子が出る.

日本史板,2006/03/24(金)〜03/28(火)
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

529 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 13:54:35
幕末に過激派志士による暗殺テロが横行しましたが,その後やられた
被害家族からの報復はなかったんでしょうか?武士なら仇討ちということに
なると思いますが
530 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 14:34:27
同志からの報復はよくあって
例えば近藤勇も鉄砲で狙われて負傷している.

531 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 19:15:44
>>529
暗殺した人間が誰か分かってるなら報復もした(>>530)だろうが,多くの場合はどこの誰が斬ったか分からない.
今のイスラム原理主義者によるテロのように,犯行声明は出さなかったからね.
532 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 19:59:49
「最後の仇討」は,幕末に殺された父親の仇を明治13年に秋月藩士族・臼井六郎が討ち果たした事件ですが,
明治6年の仇討禁止令が発せられた後のこと.しかし,一般にはあまり知られておらず,六郎の事件も世間に
は讃美する声の方が多かった由.結局六郎は終身刑となりますが,後に恩赦により服役10年にて出所します.
http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/ntyoshimura3.htm

日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分


<保留>

** 【質問】
 本能寺の変の情報が全国に行き渡るまでに,どれくらい時間がかかったのでしょうか?

 【回答】
面白い着眼.
しかし関東の北条や薩摩の島津は殆ど関心を示さなかったんじゃあるまいか.
たとえ分かっても,ヘエーてなもんじゃなかろうか.
光秀が手紙を出したとしても源氏系の家だろうから,佐竹あたりへは出したかも
知れないが,動きは取れまい.後に秀吉の北条攻めでうまいことやった津軽は
敏感に情報収集していて1ヶ月とかではなくもっと早く知ったかも知れない.
(敏感なところは知っていて,そうでなければボーっとしていたと想像.だから
それなりの武将が天下に威令を示すにはギョウギョウしい行列でデモンストレー
ションしたんだろう)
伊達政宗は秀吉に出て来いと言われてやっと小田原へ出てきた程度だった.
870 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 14:48:00
北条は信長が死ぬといっきに滝川と戦ってるじゃん


873 :869:2006/06/18(日) 18:07:53
>>870
浅学がバレタ.勉強し直しました.
6月 2日 本能寺の変
6月 9日 滝川一益,変を知り上洛敢行?
6月13日 光秀大山崎で敗戦
6月16日 滝川ー北条 第一戦
8月19日 第二戦,一益軍敗れる


ところでさ,どうして1.2万もの大群が迫ってるのに
本能寺の信長は気付かなかったの?   ネタ?
876 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 21:15:02
>>874
三法師&織田秀信で調べればスグに分かります.
877 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 21:16:16
>>874
秀吉の庇護のもと,文禄元年に岐阜城主となる.
関ヶ原の戦いで西軍に加担し籠城するも,福島正則らの攻撃を受けて開城.
剃髪して高野山に入り,慶長10年同地で没.
878 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 22:38:48
戦国時代に会津若松から大坂へ向かった場合,
徒歩でどれくらいの日数で行けるのでしょうか?
879 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 23:21:45
秀吉の第一子鶴松は三歳で死亡していますが,
彼はそれまで「お捨」と呼ばれていたのでしょうか.
それともすでに「鶴松」と呼ばれていたのでしょうか.
幼名は元服前までの名というので,やはり「お捨」でしょうか.
880 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 00:39:18
>>869
北条うんぬんについての浅学は分かったんだけど

>>光秀が手紙を出したとしても源氏系の家だろうから

これの根拠となるソース頂戴.
たしかに光秀は足利義昭に仕えててその後信長に仕えたという経緯はあるけれど,
実際にたくさん味方が欲しい時期に,あえて源氏系にこだわって書状を送ったのだろうか?
つーかそもそも毛利への書状をうばって本能寺の変を知った(このあたりは詳しくないので分からないけれども・・)
秀吉が光秀を討ったわけなのだけれども,毛利は源氏じゃないんじゃない?
その当りソースあるなら教えてください.
881 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 11:35:03
>>880
現在分かっている明智が出した信憑性の高い唯一の書状は
上杉氏宛のものだけど,
上杉は源氏か?


>たしかに光秀は足利義昭に仕えててその後信長に仕えたという経緯はあるけれど,
>実際にたくさん味方が欲しい時期に,あえて源氏系にこだわって書状を送ったのだろうか?
>つーかそもそも毛利への書状をうばって本能寺の変を知った(このあたりは詳しくないので分からないけれども・・)
>秀吉が光秀を討ったわけなのだけれども,毛利は源氏じゃないんじゃない?
その説の1次史料はないんじゃないかな
882 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 16:23:13
>>881

>秀吉が光秀を討ったわけなのだけれども,毛利は源氏じゃないんじゃない?
>その説の1次史料はないんじゃないかな

毛利は大江氏系であり,源氏系ではない.
それに,源氏に書状を送ったといってるのは>>869であり,
>>880ではない.

885 :873=869:2006/06/19(月) 23:49:41
>>873
×8月19日
○6月19日

確認したいことが分からないので,書くのを控えていたんだが,ミスがあったので.

序に言えば,光秀は佐竹なんぞに手紙を出していないだろう.もし出すなら佐竹かな
ということ.光秀も多少学があり,平家物語,太平記くらい読んでいて,義昭の手法
を思い出していたら源氏系の佐竹を頼ったかも知れないと思っただけ.
元の質問が情報伝達の時間・日数にかかわるものだから,全国の主要点を考えないと
いけないだろうと思い,めぼしい武将を思い浮かべた.畿内動向に関心のある武将
豪族,あるいは言われると反応しそうなところはそんなになさそう.(いやあると
いう御仁があるなら挙げて頂くと助かる)
ぐぐって光秀が手紙を出したところを見たが,出て来ない.細川と筒井くらい.
それにしても信長の配下が攻めてくると思われるのに,公家に戦利品の金を配った
り悠長なこと.(で,情報を出す側からのトレースで到達日数を得るのは終わる
見たい.関係不明だが,光秀の家臣で佐竹出羽守というのが出てくる.)

情報を欲しがる側からのトレースでは,真田がある.一益の甥がいた沼田城が空い
たらすぐ取り返している.これが何日だったかが分からない.真田は忍者で有名
だから忍者がもたらしたか.北条にも忍者がいたかも分からない(幻庵が生きて
いたから何らかの情報活動があったと見たい.が90歳だから発言力は疑問).
家康はマ現場にいたから置くとして,穴山梅雪の死など誰がどう知らせたんだろ
うと思った.

886 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 00:31:31
作文とかは苦手?>885
887 :885=873=869:2006/06/20(火) 00:55:02
神流川の戦いでぐぐっていたら
ttp://s42masa71.ld.infoseek.co.jp/rekishi/kannagawa.htm
の記述で,一益は上野の諸将を集めて事実を話したとある.
また別の記述では,一益は5日後(6月7日か)に変を知ったというのもある.
>>886
ぐぐれば分かることと重複しても冗長でしょう.

日本史板,2006/06/18(日)〜
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 民話などでよく猟師が出てきて鉄砲で撃った,というのを見かけますが,安土〜江戸時代の一般人の銃所持に関して,許可・法令というものはあったのでしょうか?
 また,容易に銃は入手可能だったのでしょうか?

 【回答】
 兵農の分離が確立した江戸時代,幕府,諸藩は猟師の鉄砲,農耕に有害な鳥獣に使う威鉄砲,盗賊等に備える用心鉄砲だけを,お上より拝借という形で所持を許し,毎年支配の役所に預り証文を差し出し,乱用しないことを誓約させました.
 江刺でも,各村に「猟師鉄砲本帳」があり,大肝入からは「御預かり鉄砲証文」が提出されました.
 本張は持主の氏名,鉄砲の種類(何匁銃),鉄砲の来歴を詳細に書き,毎年「鉄砲改役人」の検閲を受けて村肝入に交付されました.
 明和6年(1769年)の「村鉄砲持主名元書上」では・・・(中略)・・・で合計295丁の鉄砲を民間で保有,特に山手に数が多く猟師が多かったことが分かります.
 山立猟師には板判(鑑札)が支給され,御役金を上は100文,中60文,下20文が取り立てられました.
 譲渡の際は,本人と組頭,肝入,大肝入の連名で鉄砲改役人の許可が必要でした.
 この鉄砲改めは浪人,切支丹には特に厳しく,村に浪人が来た際は肝入は鉄砲所持の有無を調べ,鉄砲持ちの場合は指南する者でも必ず届け出させました(文政9年の布令).

 切支丹については,鉄砲の持ち主には類族の者もあろうから「切支丹方役人」と協調し,間違いのないよう取り計らえ,ことに猟師の代替りの節は一層手落ちのないように−と命じています.
(元禄6年の布令)

 vol.100 近世の江刺37 仙台藩の政治(31)(広報えさし昭和63年11月号より)

日本史板,2006/06/30(金)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 上杉や武田は,鉄砲の火薬をどうやって入手していたの?

 【回答】
 硝石を得にくい位置に本拠地を置いていた信玄や謙信だが,信長の鉄砲隊が強化されていくのを,指をくわえて見ていたわけではない.
 彼らはまもなく,「塩硝」と呼ばれる硝酸カリウムを用いるようになった.
 上杉家の古文書の中には,謙信の時代に塩硝を使った火薬の製法にかかわる,永禄二年(1559)の文章が見える.
 後北条氏に関係する天正17年(1589)の文章には,下野国の知内町(栃木市)から四貫八二九文(約50万円分)の塩硝が,年貢として納められた事を示す記述がある.

 【参考ページ】
《 海外貿易から読む戦国時代 》武光 誠

日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分


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