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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.
 また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.

※レス回収基準は「Ver.5」


【初心者】スレッド立てる前に質問を Part8【歓迎】

目次


** 【質問】
 巴御前について教えてください.

 【回答】
 以下,著作権が発生しないと考えられる範囲で,コトバンクから抜粋.

 平安末期〜鎌倉初期の女性.
 生没年不詳.
 源義仲の乳父中原兼遠の娘で,木曾四天王といわれた誇口兼光・今井兼平兄弟の妹.
 武勇をもって知られ,義仲に従って合戦に参加したが,1184年(元暦1)正月,義仲が敗死すると,信濃に帰った.
 「源平盛衰記」によれば,源頼朝に召喚されて鎌倉に参上し,斬首されるところを和田義盛の請により免れ,その妻となり,朝比奈三郎義秀を生んだ.
 和田合戦で義盛・義秀が討たれると,越中国石黒に行き,出家して91歳まで生きたという.

 ただ,女武将として活躍したという話は,軍記物語の中にしか登場しないので,眉唾の可能性が比較的高い.
 『吾妻鏡』に登場する坂額御前のほうが,実在した女武者である可能性がめっちゃ高いのに,こちらのほうは今日,ゲームなどでは無視されっぱなし.
 なんだかなあ…

日本史板,2004/08/26
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 江戸幕府って,参勤交代制で人質やらキリスト教禁止やら鎖国やら,色々手を打っていたじゃん.
 じゃあ,何で滅んだの?

 【回答】
 幕府崩壊の遠因は,貨幣経済の浸透による農村の変質と,都市へのその反映に対処できなかったことにあり,享保,寛政,天保の幕政改革も十分な効果をあげえなかった.

 しかし直接の原因は,ペリーの来航に始まる開国の要求に直面しながら,鎖国に代わる新たな外交体制の樹立に失敗し,征夷大将軍として外国を統御する能力を,幕府がもっていないことが天下に明らかになったことによる.
 来航の当初は別として,近代工業を基礎としたヨーロッパ諸国の軍事力に敵対しえないことが,国内で認識されると,これら諸国をオランダのように江戸城に参府させるものとして受け入れるにせよ,対等な相手として国交を打ち立てるにせよ,相手方に対抗できる軍事力の建設が,幕府の急務となった.
 しかし武器や操練法の導入には見るべき成果があったが,軍制改革は不徹底に終わった.
 これは,幕府の軍制が家格によって成り立っており,その全面的改変は幕府の組織の全面的崩壊に連なりかねなかったため.

 その点で幕府の軍制改革は,奇兵隊をはじめとする諸隊によって,領内諸階層の軍事的再編に成功した長州藩のそれと対照的であり,その差が第2次長州戦争の敗北から大政奉還へと結果した.

日本史板,2004/08/27
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 これは本当ですか?

> 秀吉が明を攻めたのは,スペインに対する牽制が背景にある.
> スペインによる明攻撃計画もあったし.朝鮮を攻めたのは,本来は(途中で戦略思想が変わったが),
>服属を拒否した朝鮮を罰するのが目的.

 【回答】
 うそ.

 本来,秀吉の意図は明国を服属させることで,朝鮮に対してはその道案内を求めるという「仮道入明(かどうにゆうみん)」を標榜していた.
 秀吉が出兵の意志を公表した事実が確認できるのは,関白任官直後の1585年(天正13)9月であるが,その後,対馬の宗義智に命じて外交交渉 にあたらせ,朝鮮国王の来日を求めた.
 九州征服後には博多を兵站基地化し,蔵米を集中できる体制をとるなど,具体的準備が進められた.
 秀吉が対外的な領土拡張を求めて出兵したことはいうまでもない.

 国内の封建的統一の達成後,秀吉が家臣に知行地を給付するには,原則として自己の直轄領を割いて与える以外に方法は無く,それには限界があった.
 諸大名のなかには海外に所領を希望する者もあり,これらの動きを背景にして,国内統一の延長上に朝鮮出兵が企図された.

 また,16世紀中ごろに勘合貿易が中断されてから,中国産の生糸(白糸)はポルトガル船を介して輸入されていたが,秀吉の意図する貿易独占政策は,明国との直接取引を求めていた.
 この動きは領土拡大の要求に裏打ちされていた.

日本史板,2004/08/27
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 信長が北陸を支配下に納めたのは,いつ頃?

 【回答】
 天正3年段階では越中は,基本的に謙信の支配下にあります.
 天正5年,謙信は能登と加賀の攻略を開始し,閏7月,七尾城を攻略します.

 これに対し,城主畠山春王丸の病死後,家臣の長綱連は信長に救援を求めます.
 これに応じて信長は,勝家を総大将として加賀に軍勢を送り,9月の手取川の戦いを迎えることになります.
 この結果,信長は加賀の南半分(能美郡・江昭郡)の支配に成功しますが,能登と加賀の北半分(河北郡・石河郡)は謙信の支配下に入ります.
 もちろん越中は,引き続き謙信の支配下にあります.

 信長の越中侵攻は謙信死後,いわゆる御館の乱を契機に開始されます.

日本史板,2004/09/03
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 坂上田村麻呂最近興味が出てきたので,彼について教えてください.
 どんな歴史的な事をしたのか,坂上神社と関係あるのかとか知りたいです.

 【回答】
 著作権が発生しないと考えられる範囲で,コトバンクから抜粋すると,だいたい以下の通り.

 平安初頭の武将.
 犬養の孫.
 苅田麻呂の子.
 坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主を祖先とし,大和国高市郡に蟠踞した倭(東)漢氏の一族で,武術に秀でていた.
 田村麻呂も「赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり」といわれた.
 785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任していたが,791年に征東副使の一人として,蝦夷との戦いに加わった.
 数年にわたる戦闘で功をあげ,795年従四位下,翌年陸奥出羽按察使兼陸奥守,さらに鎮守府将軍を経て,797年征夷大将軍に任じられた.
 801年胆沢を平定し,功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった.
 802年胆沢城を築城し,鎮守府を多賀城から移し,翌年志波城を築城するなど,古代蝦夷経営の成果をあげ,804年再度征夷大将軍に任じられた.
 しかしその経営は,
「往還の間,従者限りなし.人馬給し難く,累路費え多し」
と田村麻呂の没時の伝にも見えるように,大規模な遠征は多くの問題を残し,805年の徳政の論争によって,平安京造営とともに征夷が中止された.
 その後の田村麻呂は,中納言,中衛大将,右近衛大将,兵部縁,大納言などに任じられ,正三位まで昇ったが,811年粟田別業で没した.
 54歳.

 東北地方には,延暦・大同年間(782‐810)に田村麻呂が創建したと伝える寺社が,極めて多い.
 なかでも観音堂にそれが多く,神社・毘沙門堂がこれに次いでいるが,それらの縁起はたいてい切畑山の悪路王,大石嶽の大石丸,米木山の大滝丸などの鬼神退治譚を伴っている.
 これらから,この伝承は清水寺や鞍馬の毘沙門天の信仰が東北地方に広まる過程で,地方の山岳信仰と結びついて形成されていたものと考えられている.

日本史板,2004/09/08〜09/09
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 どうして日本の中近世には,馬車が発達しなかったんでしょう?
 江戸時代なんか,伊勢参りに馬車があったら,江戸市民も随分便利だったと思うんですが…
 「思いつかなかった」ってこともないように思うんですけど,どうしてなんですかね?

 【回答】
・平地が少ない.

・雨が多い.

・日本の馬は小型で牽引にあんまり向かない.

・日本に蹄鉄が伝わるのがかなり遅くなったので,実は長時間の使役に向かないという点もある.
 幕末の写真や浮世絵を見ると分かるが,日本の馬は蹄鉄の代わりに草蛙を履かせているのよ.
 ある程度使役したら休ませ,藁で脚をマッサージしてやらないと鬱血を起こしたりと,馬って実はかなり繊細な生き物.
 戦場でもいざと言うとき以外は,騎乗せずに徒で歩く事の方が多かった.
 時代劇のように長時間疾走って,ってできないらしいよ.

・盲腸で草を発酵分解させるため,栄養効率も悪い.
 反芻する牛と比較して,栄養価の高い餌が必要で,飼育自体もかなり手間がかかる.
 牧草地が豊富な欧米とは,飼育条件が違いすぎる.

日本史板,2004/09/15
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 日本におけるチョコレート・ココアの歴史を教えてください.
 鳥取に住む友達の50歳の母が,小学校で給食で出るようになったと言っていますが,それ以前にもココアは庶民に飲まれていたのでしょうか?

 【回答】
○ 「長崎寄合町議事書上控帳」(長崎県立図書館蔵)
 寛政9年(1797年)3月の項,長崎丸山“筑後屋平右衛門”からの届出に,同人抱遊女大和路の貰い品として,【しょくらあと 六つ】と記載されています.

○ 「長崎見聞禄」(広川某著)(長崎県立図書館蔵)
 寛政9年の項,「しょくらとを」の飲み方,味が記されています.

 これらの文献から,18世紀後半にはチョコレートが日本に伝わっていたことが証明されています.
 また,外国に唯一門戸を開いていた長崎が,日本で初めてチョコレートを食べた地であることも分かります.

○ 1873年の岩倉遣欧使節団,フランスのチョコレート工場を見学

○ 明治10年:米津風月堂,貯古齢糖を広告
 我が国で初めてチョコレートを商品として加工・販売したのは,東京・両国若松町にあった米津風月堂(店主米津松蔵)といわれています.
 明治10年(1877年)11月1日の東京報知新聞に,「新製猪口齢糖」として広告を掲載しています.
 当時はチョコレートの当て字として,[貯古齢糖],「知古辣他」の呼び名が見えます.
http://www.chocolate-cocoa.com/histry_j/histry_j1.html

 その後,各社でつくられましたが,1918年,森永製菓が初めてカカオ豆の処理からの一貫生産に着手し,以後数社が追随して,生産量は急激に増加しました.

 しかし,40年にはカカオ豆が輸入禁止となり,50年の輸入再開まではチョコレートの生産は事実上不可能でした.
 しかし業界では代用品の開発に努め,ココアバターの代りにしょうゆ,大豆油,ヤシ油などを原料とした硬化油を用い,カカオ・マスの代りにユリ球根,決明子(エビスグサの豆),脱脂大豆粉などを配合したものを用いて,代用チョコレートをつくる研究報告を1941年に発表しています.
 また,第2次世界大戦後はアメリカ製チョコレートが,進駐軍の兵士を通じて出回るようになり,日本の業者はグルコースを原料に,薬用カカオ脂の副産物であるココアなどを配合した代用グルチョコを考案して,大衆の欲求に応えました.

 ちなみにココア(Cocoa)は,カカオの実を発酵させ,皮と胚芽を取り除いて磨り潰したもの(カカオマス)に,湯や砂糖,牛乳などを加えた飲料で,ホットチョコレートとも呼びます.

日本史板,2004/09/17
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 漫画で,出てたんですが,六条合戦ってどんな感じだったんですか?

 【回答】
信長公記巻二永禄十二年三好勢返す六条合戦の事

 永禄12(1569)年正月4日,三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し,薬師寺九郎左衛門を先懸けに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた.
 門前はまたたく間に焼き払われて,寺は重囲のただ中に落ち,敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた.

 このとき寺内にあって公方様を警護していたのは,細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らであった.
 このうち若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く,そろって敵将薬師寺の旗本勢へ突入し,並居る敵勢を切り崩して激闘した.
 しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き,両名とも槍下にて討死した.
 他の御所勢も奮戦し,敵が突入してくればその都度これを押し返し,なかには敵勢三十騎を一度に射倒して,敵が算を乱す場面も見られた.
 三好勢は攻めあぐねた.

 そのような中,三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆らの援軍がようやく到着し,桂川河畔で三好勢にぶつかった.
 戦は黒煙うずまく激戦となったが,来援軍は高安権頭ら敵方の大将を次々と討ち取って勝利を得,三好勢の撃退に成功した.
 戦の後,来援軍は岐阜の信長公のもとへ急使を送って,変事出来を知らせた.

日本史板,2004/09/20
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 昭和15年はやはり,太平洋戦争以前の,最後にしてもっとも華々しい年だったと言えるのでしょうか?
 日中戦争では勝ってたわけですし,なにより,紀元2600年という国家総動員の祭典があったわけですし.
 中途半端な知識しかないんですが,このような認識をしても構わないんでしょうか?

 【回答】
 永井荷風の「断腸亭日乗」をお読みになることをお薦めします.
 荷風はこの年9月15日に,

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 黄昏花村に至り夕飯を喫して後,三越店頭に立ちて電車を待つ.
 女の事務員売子ら町の両側に群れをなして同じく車の来るを待てり.
 颯々たる薄暮の涼風,短きスカートと縮らしたる頭髪を翻すさま,また人の目を喜ばすに足る.
------------

 いかにも荷風らしく,女性のファッションに触れているが,以後こういう記述は姿を消し,物資や食糧不足を嘆く記述が目につくようになります.

 また,11月10日の紀元2600年式典のお祭り騒ぎを,

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 この御許しは年末にかけて窮民の暴動を起さんことを恐れしが為にて
 来春に至らば政府の専横いよいよ甚だしくなるべし
------------

と評しています.

 また,戦前・戦中,日本の国力のピークは昭和14年だったと,アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の報告書だか,『戦時戦後の日本経済』だかに記載されていたような・・・
 昭和15年という年は,ある意味(日中戦争等による)バブルのはじけた頃ですから,太平洋戦争以前の,最後にしてもっとも華々しい年だとも言えると思います.

 要は,どの階層からの観点かという視点の問題ではないでしょうか.

日本史板,2004/09/22〜09/23
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 十五年戦争って言い方おかしくない?

 【回答】
 日中戦争とは盧溝橋事件に始まる戦争を指すが,十五年戦争とは満州事変から太平洋戦争終結までを一連の戦争と見るもの.
 実際の期間は14年足らずだが,足掛け15年ということで,このように呼ばれる.

 この言葉を初めて使い始めたのは,鶴見俊輔であるらしい.

------------
鶴見俊輔 「国際シンポジウム 東京裁判を問う」(講談社学術文庫) p.344-345

 私は,偶然に「十五年戦争」という言葉をつくったんですけれども,それは,子供のとき,小学校三年生のとき満州事変が起こったんです.
 それが片付いたといわれて,今度は上海事変が起きた.
 これも片付いたといわれて,今度また日中事変でしょう.
 そのときは中学二年生ですけれども,そのことから,全部バラバラにおぼえていたんですね.
 戦後になってから,バラバラにおぼえていたんではだめだということに気がついて,一つながりに見たほうがいいという考え方を持つようになった.

 ですから,私自身の主観的な経験からいえば,バラバラなんですよ.
 主観的に書くとすれば,バラバラでいいと思います.
 しかし,歴史として大きく見るのは,十五年をまとめたほうが,分かるところが多い.
 −(略)−
 それから,31年から45年をよくよく計れば,十三年戦争か十四年戦争かというのは,たしかに自分の満年齢を計るときには,そういうふうに計りますけれども,1931から1945というと正確にいえば十三年と,学者として考証すれば
そうなるんですけれども,私は専門的な学者じゃない,雑文家だもんですから,1931から45というと,やっぱり「十五年戦争」のほうが通り易いと思って,そういうふうにしたんです.
------------

 しかし,
「満州事変(1931年-)は塘沽協定(1933年)で終了し,日華事変(1937年-)とは別々の戦争であって,これを纏めてしまうのは非合理的」
だとする説も,有力に唱えられている.
 満州事変が終わったのは(塘沽協定)33年の5月の終わり.
 支那事変が始まったのは(盧溝橋)37年の7月.
 確かに,約4年間の間がある.

 ただ,塘沽協定は停戦協定だから,戦争状態は継続していると見ることもできる.

日本史板,2004/09/27〜09/29
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 日本に鉄砲伝来して最初の戦いは何?
 つまり,実戦に最初に鉄砲が導入されたのはいつ,どことどこが戦った合戦なんでしょう?

 【回答】
 戦闘に初めて使用されたのは,文献にみえる限りでは,天文十九年(1550)七月十四日,畿内で細川晴元と三好長慶の戦いに与力が鉄砲に当たって戦死したというもの
「細川右京兆人数足軽百人計出会,野伏有之 きう介鉄砲に当死云々」『言継卿記』より
しかし鉄砲という言葉自体は,「蒙古襲来絵詞」にも見られ鎌倉時代にも使われていた.
応仁の乱の頃,中国伝来の火薬を使用して殺傷力は小さなものであったが,
銃火器は存在していたことが,『蔭涼軒日録』や『碧山日録』にみられる.

日本史板,2004/10/05
青文字:加筆改修部分

 西国では,毛利氏が厳島合戦で大内軍を破った時にも,敵の鉄砲に警戒しています.
 それから数年後には,毛利でも採用された様ですが.

 因みに,鉄砲伝来は1542年の事とする史料も存在します.

山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :日本史板,2004/10/04
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

種子島開発センター落成シンポジウムでの諸氏の公演をまとめたものが「鉄砲伝来前後」という本として
出版されていますが,その中で所荘吉氏が説得的な仮説を展開しておられます.
 要点は,こうです.1542年にポルトガル人が漂流して日本のある島に漂着して,
彼らが貿易相手国か金儲けの相手としていい国を見つけたという情報を携えて東南アジアか
インドのポルトガルの拠点に帰る.そして翌年今度は 本気で鉄砲という商売道具を携えて,
日本を目指したというものです.
http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory_gun02.htm

日本史板,2004/10/05
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 敗戦後の日本は,どのような無償援助を米国から受ける事ができたのでしょうか?

 【回答】
 本来なら負けた日本が,賠償金を払うのが筋.
 しかしアメリカは請求を放棄した.

 無償援助は,占領地域統治救済資金 (略称ガリオア)と占領地域経済復興資金(略称エロア).
 いずれも第2次大戦後,アメリカが占領地に対して与えた資金ないし援助.

 ガリオアは主として疾病・飢餓を防いで社会不安を除き,もって占領行政を円滑ならしめる目的で,アメリカ政府の予算から1947‐50年度(アメリカ会計年度)にかけて支出された.
 この資金で食料,医療品,肥料などが供給され,日本ではその代金は見返資金として積み立てられた.

 エロアは冷戦の展開に応じ,単なる救済でなく経済の復興と強化を目的として,アメリカ政府の予算から1949,50年度(アメリカ会計年度)の2回,日本や韓国を対象として支出された.
 この資金では鉄鉱石,石油,石炭,機械などの基礎資材が輸入された.

 両資金とも当初は贈与とされていたが,結局債務ということになり,日本の場合合計18億ドルにのぼった資金の返済交渉は,1954年以来続き,61年に妥結した.

日本史板,2004/10/14
青文字:加筆改修部分


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