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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.
 また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.

※レス回収基準は「Ver.6」


【初心者】スレッド立てる前に質問を Part5【歓迎】

目次


** 【反論】
 占領下日本がGHQに洗脳されていたわけではないと言っていた人がいたが,まぁ日本国民に極端な大本営発表に洗脳された人がいるのは事実ではあるが,
【マッカーサーによる三十項目の検閲方針】
(説明・で禁止した事を以下に綴る.)
1.SCAP---連合国最高司令官(司令部)に対する批判
2.極東軍事裁判(東京裁判)の批判
3.SCAPが憲法を起草した事についての言及と批判
4.検閲が行われている事に関する言及と批判
5.合衆国に対する批判
6.ロシア(ソ連邦) に対する批判
7.英国に対する批判
8.朝鮮人に対する批判(以下長いので略,あとは自分で調べてチョーダイ)

 これ(以下に続く検閲も含む)を見ると,どちらも極端な気がするな.
 これだけ権利を手にすれば,何をやっているのかなど分からないだろ.
 日本の悪は表に出しておいて,GHQの悪は一切出さない.
 これでは日本国民が洗脳されるのも無理はない.

 また,占領側の立場としては当然〜と言っているがそれは,占領側が何をしようが容認する様な事ではないか.

 【再反論】
 1946年5月27日・毎日新聞が世論調査を掲載しているが,それによれば,
「憲法草案への世論調査」
・象徴天皇制(=主権を天皇から国民に移す)→支持85%:不支持13%
・戦争放棄の明記→支持70%:不支持28%
・2院制(=貴族院の廃止)→支持79%:不支持17%
・国会議決に対する政府または天皇の拒否権→必要なし52%:必要あり47%
1,世論調査が許可されている
2,実質的国体変革・戦争放棄には国民の圧倒的な賛意があった
(この頃は,天皇は,カリスマ性があったにもかかわらず)
(君主制廃止の共産党は,この点では,あまり支持を得られていなかった)
3,「拒否権を政府や天皇にもたすかどうか」の件では,率直に賛否が分かれてる
4,賛否が分かれた記事が,この時期に出ていると言うことから,必ずしも,完璧な情報操作や,洗脳が行われていたとは言いがたい

 GHQは意識改革を迫った.
 それは,それがベストの統治策だったから.
 日本人はイラク人と違って,天皇・支配者層が率先して占領軍に従った.
 特に,皇統断絶の危機に際して,天皇がとった絶対恭順の姿勢が与えた影響は大きい.
 フセインや金正日が,絶対恭順を国民に指示するようなもの.
 意識改革は,北朝鮮崩壊後に韓国や国連が行うだろうのと同じこと.

 問題は日本の場合,支配者層が崩壊してなく,軍部のみ尾を切って,天皇・保守権力層がGHQに「追随した」点にあるのではないかな?
 歴代保守政権が今に至っても,原爆や大空襲を決して非難しなかった点に,最大の問題があると思うが.
 つまり,彼らと英米には共通の利害があったとは思いませんか?

日本史板,2003/11/28
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 廃仏毀釈ってあるじゃないですか.
 どうして神仏分離令が出された,途端みんなで暴れたんですか?
 なんか恨みがあったんですか?

 【回答】
 恨みというよりは,江戸時代に僧侶のほうが地位が高かったことへの反動.
 また,国学や水戸学の影響による,政策的なものもあった.

 コトバンクより,著作権が発生しないと考えられる範囲で抜粋すると,以下の通り.

------------
 江戸時代の大きな寺社では,僧侶身分の者が高い地位を占め,神職身分の者はそのもとに従属していたから,明治初年の一連の宗教政策は,後者の勢力拡大の機会となり,寺院からの神社の独立や神社からの仏教的要素の除去などが,全国的に行われた.
 また,国学や水戸学の影響をうけた人物が藩政の実権をにぎり,藩政改革の一環として徹底的な廃仏をすすめ,藩士はもとより領民にも仏教信仰の放棄を強要して,神葬祭を行わせるような場合もあった.

 津和野藩・苗木藩・富山藩・松本藩・佐渡・隠岐などはそうした事例として知られているが,廃仏の動きがはげしくなると,真宗の僧侶・門徒を中心にこれに反対する運動が高まり,菊間藩三河領や越前では,廃仏毀釈に反対する農民一揆がおこった.
 明治政府は,最初のはげしい廃仏である日吉山王社の事件の直後に,私憤をはらすような破壊行為の禁止を命じ関係者を処分したが,70年12 月には地方管庁で勝手に寺院の廃合を行わないように命じて,仏教勢力との妥協をはかった.
 そのため,地方寺院を廃絶する動きは収束されたが,山岳信仰など神仏習合的な宗教と宗教施設における仏教的要素の除去は,その後にむし ろ強化された.

 また,路傍や山間の小祠・石仏・石碑などの民俗信仰的な宗教施設の廃絶は,大規模な廃仏毀釈の嵐がすぎてからも,上からの文明開化の風 潮のなかでさらに徹底して行われていった.
------------

日本史板,2004/01/01
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 高百石の武士の収入は現在ではどの位?

 【回答】
 物価の変動とかあって難しいけど,,.
 100石取とは知行取になりますが,一般にこれは100俵の蔵米取と実収は同じとされています.

 そこで例えば,当時の大工の日当を,現在の大工の日当に置きかえる.
 当時の大工の日当と米価を対比する.
 それによって,現在の大工の日当を当時の米価に換算する.
 それを石高に換算する.
 そうすると,100石取り=現在の年収800〜1000万円程度にはなるようです.

------------
 大工の日当から換算する.
 文化・文政時代(1800年代初)大工の日当は銀3匁〜5匁であった.
 今仮に5匁とすると,現在の大工さんが1日,2万円の日当として銀1匁は
20000円:5匁=X円:1匁
から,1匁は4000円となる.
 米1石が銀60目として1石の価は
4000円×60=240000円
となり,従って100石取りの武士の手取り40石の価格は
240000円×40=9600000円
 年収960万円.
 月収にすると80万円となる.

http://member.nifty.ne.jp/chohu/zkyuyo.htm[リンク切れ]
------------

 また,例えば天明4年の御張紙値段は100俵48両です.
 1両60匁として,銀に直せば2貫880匁ですが,同年の京都の大工日当は2匁9分なので,米100俵は大工日当の約1000倍ということになります.
 これを現在の大工日当に換算しなければなりませんが,平成15年の国土交通省の公共工事設計労務単価(大工)は18815円なので,これで計算すると100俵は1800万円程度ということになります.

 さらに,
日本銀行金融研究所貨幣博物館
の換算を使って,
大工の日当で比較すると1440万〜1920万,
蕎麦代金で比較すると576万〜624万,
となります.

 ただここで忘れてはいけないのは,使用人の食費や賃金をここから支払わねばならないということです.
 親子4人,若頭・中間・下女各1人とすると,必要な飯米は年間12石6斗なので,残る22石4斗です.
 これを御張紙値段で換算すると,31両弱になりますが,給金は若頭3両,中間2両,下女1両2分として,給金を払った残りは24両強になります.

 つまり主食費と使用人への給金を引いて,手元に残るのは,禄米のおよそ半分ということになりますので,サラリーマンの平均以上の高額所得とは言えないでしょう.

日本史板,2004/01/23〜01/24
青文字:加筆改修部分



** 【質問】
 一石24万円で計算すると,加賀百万石は2兆4千万円円ですか
 もはや金持ちの枠を越えてるな…

 【回答】
 加賀藩の「百万石」は,越中とかを含めた数字です.
 加賀藩の石高は,
加賀国3郡(河北・石川・能美)の35万2,924石8斗7升,
能登国4郡(羽喰・鹿島・鳳至・珠洲)の21万1,432石8斗4升,
越中国3郡(新川・射水・利波)の47万9,879石6斗9升.
 それに飛地(近江国高島郡)の2,260石2斗8升2合を加え,合計104万6,497石6斗8升2合でした.

 しかし,これはあくまでも朱印高(表高)で,新田開発が進むにつれて内高は増加していき,明治元年の調査において,新田高が333,512石あったことが知られています.

 あと,免率は一定していなかったので,200年以上続いた加賀藩の収入を単純に計算するのは難しいと思います.

 ちなみに石川県の予算は1兆7千億円.
 微妙.

日本史板,2004/01/23
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 戦争と戦役の違いを教えて.

 【回答】
 明治・大正期には,「戦争」という言葉はそれほど使われていないと思います.
西南戦争は「西南の役」
日清戦争は「日清戦役」「明治二十七八年戦役」
日露戦争は「日露戦役」「明治三十七八年戦役」
 こういう言い方が一般的でしたし,第一次大戦からシベリア出兵についても「大正三年乃至九年戦役」という言い方があります.

 「○○戦争」という表現が一般的になるのは,大東亜戦争以降ではないかという気がするのですが,このあたりは専門ではないので,詳しい方が補足していただけると有り難く思います.

修士(文学) ◆EaV4Ar5GJ. :日本史板,2004/02/01
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 牛肉を日本人が食べるようになったのは明治維新から

 【回答】
 牛肉は意外と食べられてた.
 「食肉のために牛を飼育し,食肉のために屠殺する」っていうのは忌み嫌われてたけど,逆に言えば,それ以外の抜け道なんていくらでもある.
 例えば彦根藩は将軍家などに牛肉の味噌漬を献上している.
 関西において農耕用の牛を食うことはポピュラーだった.

 牛以外の四つ足も,日本人もけっこう食ってた.
 ただし,建前上は禁忌でおおっぴらにできなかったので,イノシシは山鯨と言って,魚と言う事で(鯨はほ乳類だが,当時は魚と考えられてたからね)食っていた.
 ウサギを一羽二羽と勘定するのも,あくまでも鳥であると言う建前から.
 牛肉に限らず,イノシシやカモシカ,ウサギなど,あくまでも薬として食されており,江戸っ子は「薬食い」と呼んでいた.
 上述の彦根藩の近江牛も,「薬」という名目だった.

 もっと言えば,江戸前期は犬も日本人は食っていた.
 これを禁じたのが五代将軍綱吉.
 犬鍋は江戸庶民のささやかな楽しみだったのだ.

 理由はよく分からないが,綱吉の生母も含めて,彼の周辺には京都出身の女性が多かった.
 京都では昔から犬を食うのを忌避していて,それが綱吉の政策に影響したと言われる.
 俗説に言う,隆光に「世継ぎが生まれないのは」云々と吹き込まれたと言うのは,嘘のようである.
 隆光と出会う1年前に,すでに生類憐れみの令の萌芽と思える政策を打ち出している.

 ただ,綱吉の生類憐れみの令が長く続いたため,日本人は全国的に犬を食わなくなり,薩摩や離島など,ごく一部に残るのみとなり,中国人や朝鮮人の犬食をバカにすると言う状況を生み出しているが.

修士(文学) ◆EaV4Ar5GJ.(黄文字部分)他 :日本史板,2004/02/01〜02/03
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 徳川御三家に水戸家は入るんですか?

 【回答】
 本来は「入らない」.

 御三家とは本来,江戸徳川本家,尾張徳川家,紀州徳川家を指す.
 ただ,本家の血統が七代目で絶えたため,いつのまにか水戸家を加えた御三家が以後定着したが,八代将軍擁立の際も,水戸家は対象にさえなってない事からも,本来は御三家に含まれていないのが分かる.
 根拠となる史料としては『柳営婦女伝系』がある.

 御三家と言う呼称は,五代綱吉の時代,延宝八年(1680年)に幕府公文書中に初出する.
 忠長の自刃による駿河大納言家の断絶と,家光の息子である綱吉の時代に至って御三家という概念がでてくるのだが,上記のように八代将軍擁立の際に尾州または紀州からという選択肢しかなかった事からも,吉宗以前は御三家とは将軍家,尾張,紀伊の三つを指すと考える根拠になっている.

 あと,傍証にすぎないが,尾張徳川家と紀州徳川家は従二位が最高位(藩祖の頼直と頼宣は同時に従二位に昇進),水戸家は正三位が最高位(ゆえに黄門.ただし光圀は従三位).
 明らかに差がつけられている.
 また,家光の弟忠長は駿河遠江五七万石を与えられているが,これは水戸家の石高よりもかなり上.
 だが,尾張と紀州よりは微妙に下.
 家格の上で,尾張と紀州には気を使っているが,水戸家には気を使っていない.

 もっと言えば,水戸家自身が,御三家という言い方は本来違うと言明してる.
 そのように,徳川家の中ではポジションは高いながらも,将軍を擁立できないという微妙なコンプレックスが,尊王の水戸学を生んだ遠因でもある.

 ついでだから,ちょっと面白い伝説も紹介.
 天海が上野の東叡山を開いたのは,江戸の鬼門封じの意味もあったが,同時に内乱になった時の最後の砦としての役目も考えての事だった.
 信長が本能寺に宿泊してたように,戦国期の寺院は作りもしっかりしていて,陣屋の代わりになりうる存在だったので,上野の東叡山も戦時の陣としての機能も隠し持っていた.

 で,その天海が,
「水戸家から将軍が出たら,徳川は滅びる」
と語ったという伝承がある.
 実際,最後の将軍慶喜は水戸家出身で,上野東叡山は上野戦争の場になり,天海の思惑通り,徳川家最後の砦になった.

 【反論】
 例えば『徳川実紀』承応三年三月二十四日条に,
「三家并に松平新太郎光政,松平安芸守光晟,松平阿波守忠英,藤堂大学頭高次,松平土佐守忠義,有馬兵部大輔忠頼,丹羽左京大夫光重,伊達遠江守秀宗,津軽土佐守信義証人交替あり」
という記述があるが.

 『日本史広辞典』(山川出版社)でも,
>ごさんけ【御三家】
>徳川将軍家の親藩のうち尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の三家.(以下略)

日本史板,2004/02/04〜02/06
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 農民と武士の境界線って,どの辺なのでしょうか?
 戦国大名から俸禄をもらっていれば,武士とみなされたのかな?
 でもそうだとすると,戦国時代は,殆どの農民が足軽として戦に駆り出されていたし,戦役ごとに幾分か手当てもらっていたから,日本中が武士になってしまう.
 このへんの境界線をご存知の方は教えてください.

 また,江戸時代は職業選択の自由がなかったわけですが,藩が改易されて浪人になり,次の勤め口もなく生活が苦しくなったら,一時的に身分の低い仕事(農業とか)をやろうとしたら可能だったのでしょうか?
 また,その子孫び身分は,武士から農民に下がってしまうのでしょうか?

 【回答】
 侍が身分を捨てて町人になるのは,よくあったようだ.
 有名な所では,近松門左衛門や松尾芭蕉.
 両方とも,元は武士.
 同様に,農民になったりとか,わりと融通が利いた.

 御家人株が売買されてたりするので,農民が江戸にでてきて商売で一発当て,御家人株を買って武士になったりもできた.
 例えば,勝海舟の祖父は盲目の検校で,金貸しで財を成して御家人株を買って,息子達を武士にした.
 幕末の剣聖・男谷精一郎と勝海舟の父親は従兄弟.

 農民と武士の境界線はわりと曖昧だったのだが,要は藩が召し抱えるか召し抱えないか.
 足軽として徴用されても,それは臨時雇いのアルバイトみたいなもので,正社員じゃない訳だ.
 アルバイトはアルバイトであって.

 あと,足軽という言葉をちょっと誤解してるね.
 軽装の雑役兵としての普通名詞としての足軽と,身分としての足軽は,実は違う.
 例えば尾張藩の職制を見ると,足軽=同心という意味で初期は使っている.
 江戸町同心が,建前上は一代限りの召し抱え(実際は息子の代には新規召し抱えと言う形を取って世襲してるが)なのも,契約社員みたいなものと考えればちょっとは似てるかな?

 また,武士の場合,浪人すると再仕官を狙って頑張る連中も多かったが,読み書きの先生になったり,享保以前は普化宗の僧侶になるヤツが多かった.
 要するに,虚無僧ですな.
 だから時代劇を見ると,虚無僧はいちおう帯刀してる.

日本史板,2004/02/17
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 幕府老中職になることができるのは,どんな身分の者だったの?

 【回答】
 老中や,その下若年寄は幕府内の職で,譜代大名・旗本から選ばれる.
 各譜代大名大名・旗本・御家人には家格というものがある.
 家の格だ.
 ○家は老中になれる家とか△家は若年寄になれる家とかが決まっている.

 外様大名は幕政に参与できないので,当然なれない.

 ただし幕末になると,幾つか例外が出てくる.
 天保・弘化期に若年寄・老中格となった信濃飯田藩主堀親シゲ(ウカンムリに「王」,その下に「缶」)
 文久から元治にかけて,若年寄・老中をつとめた越前丸岡藩主有馬道純
 慶応3年に若年寄となり,明治元年江戸城中で自刃した信濃須坂藩主堀直虎
 彼らはいずれも外様大名.

日本史板,2004/02/17
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 江戸時代の「造り酒屋」について教えてください.

 【回答】
 発祥は諸説あるけど,出発点は神社でのお神酒を作る,宗教的な専門職が発祥ですな.
 元々は甘酒のように,自宅で小規模に作ってたものです.
 今でも,ポリバケツで作ろうと思えば作れるし,酒税法で罰せられる云々は過去の話,個人が楽しむものを取り締まれないと言うのが現状ですね.

 おっと,脱線した.
 で,江戸時代だと社会が安定して,酒の需要が増大したので,財力のある富農が,農閑期のビジネスとして始めたのが多いようです.
 商品として大量生産するには,資本のある家でないとできない.
 だから,元首相の竹下登の実家も造り酒屋だけど,地元の名士と言う場合が多いです.

 ただ,やはり莫大な富を必要とする事業だったので,杜氏も仕込みに失敗したら,首を括るような事も多かったとか.
 昔の酒造りは,腐造で腐らせたり酢になったりと,苦労も多かったようです.

 関東の場合,酒を造る技術が立ち後れていて(専門的に言うと,火入れと言う清酒の香味を変質させる酵素を,酒を温めて破壊する操作の温度管理が難しかった.当時は温度計がなかったし),基本的に関西のお酒を船で輸入していました.
 この酒は下りものと言って,ボジョレーヌーボーの初物競争のような新酒争いがありました.
 現在の大手酒造メーカーの多くが関西発祥なのも,その名残です.
 言葉にも『下らない』という言い回しがありますが,これは「関西からの下りものでない酒=ダメな酒」という意味から派生した言葉です.

 江戸時代も元禄期以降になると,関東で酒の需要を賄おうと,幕府主導で酒造が奨励されます.
 特に八代将軍吉宗の時代に,これが推進されました.
(関東は金本位,関西は銀本位経済で,関東側の貿易赤字が深刻だった)
 関東の酒造メーカーの多くが埼玉と茨城に多いのは,その名残です.
 この場合は,自然発生的な酒造メーカーと言うより,人工的なものですので,富農によるサイド・ビジネスの意味合いが,より強くなります.
 地図で有名な伊能忠敬の家も,代々名主で米や薪の取引の他,酒造りもやっていました.
 関東では,こういう造り酒屋が多かったようです.

日本史板,2004/02/23
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 西郷隆盛の像は,どうして上野に建っているんでしょう?
 吉井友実が建てたことは分かったのですが,どうして上野公園だったのでしょう?

 【回答】
 最初は楠木正成の象とかと同じように,皇居近くにって話もあったそうですが,曲がりなりにも賊軍の将,反乱軍の首魁ですから,反対意見(特に長州閥)が出て,けっきょく上野に収まったようです.

 なぜ上野か,という部分では公式見解はいろいろあるでしょうが,自分はあれ,怨霊封じの意味もあったんじゃないかと思っています.
 言うまでもなく,上野は幕府最後の激戦地.
 また,上野自体が元々「東叡山寛永寺」,つまり東の比叡山と意識されて設計されています.
 本家の比叡山延暦寺が,京都の鬼門封じとして機能しているように,江戸の鬼門の守りとして,寛永寺は意図的に作られています.
 不忍池を琵琶湖に見立て,弁天堂は竹生島に見立てて,人工的に作られた島なのです.

 もっと言えば,江戸で戦闘状態になった時の,最後の防衛ラインとして上野の寛永寺は作られています.
 それは,日光東照宮がいざとなったら軍隊を置いて篭城できる構造になっているのと一緒です.
 そこら辺の風水も含めたグランドデザインは,天海がやったことでしょうが.

 日本には古来から,強力な祟り神を公式な神に祭り,そのパワーを利用すると言う発想があります.
 古くは北野天神の菅原道真.関東では神田明神の平将門が,恨みを呑んで死んだ英雄の霊力を,明神として祀っていますね.
 自分は,徳川幕府最後の激戦地で,明治新政府に恨みを呑んで死んだ幕臣達の怨念を,彼らを倒した側でありながら,明治新政府に反逆して最後は死んだ西郷をもって,怨霊封じにしたような気がします.

 なにをそんなオカルトな,と言う意見もあるかと思いますが,そもそも明治新政府の思想的なバックボーンになった平田神道は,非常にオカルティックな部分を多々持っています.
 また,明治天皇の即位が,讃岐廃帝と言われた崇徳天皇の御霊を京都に移すのを待って行われたという事実を見ても,文明開花の世と言われながら,実はそういう部分を色濃く持っていたと思います.

 なお,日本では古戦場など,人間の血が多く流れた場所は,桜を植えるという傾向があります.
 桜を植えると,土の中の遺骨が早く分解され,土に還るからともいわれていますが,真意は不明.
 「桜の木の下には死体が埋まっているのです」という詩がありますが,上野も桜の名所ですね.

日本史板,2004/02/25
青文字:加筆改修部分



** 【反論】
 西郷は1889年に天皇勅令で賊名を除かれ,正三位になってるんだよ.
 欽定憲法発布による一君万民の幻の強制や,対外戦争も予想される状況を考えると,根強い国民的人気者だった西郷と,天皇政府が和解する必要があったわけなんだよ.
 つまり,西郷の特赦は,天皇政府と国民の和解なんだよ.
 で,その後の対外戦争へ向かっていったというわけ.
 政府の国民融合作戦なのか,政府が国民世論に負けたのか分からんが.

 上野は,徳川旧幕府軍を壊滅させた西郷の思い出の地,西郷は上野戦争では官軍代表だったから,都合がいいんだよ.

 ついでに言っておくと,神田明神の将門は,明治政府によって,祭神の中心からはずされているよ.
 神社の格も,不当に低くされている.
 徳川家が好んでいたからね,嫌がらせされたわけ.
 明治政府は,パワー利用など全くしてません.
 逆に潰しにかかった.
 江戸庶民に,時代が変わったのを強制認識させようとしたんだね.

 あと,武士は桜を嫌ってて,わざと松を植えてたはず.
 桜が広まったのは,大君のために散れ!との近代学校教育の成果でないかな.
 第二次大戦後に,青年を死なせた罪が桜の木にかぶされて,全国各地の桜が憎しみを込めて切り倒されたのは知ってるよね?

 【再反論】
 上記回答では一般的な御霊信仰の例として将門を挙げてるのであって,明治政府が将門の霊力を利用したとは書いてないんですが?

 だいたい,家康が好んだ神田明神の社格を不当に低くしたって事は,家康が豊国神社を破壊したように,明治新政府は江戸と徳川家の風水として機能してた神田明神の力を,名実共に弱めよう(名=社格 実=信仰の力)としたのは間接的に,そういう風水を強く意識してたって事じゃないのかな?

 あ,念のために言っときますが,自分はオカルトを肯定してる訳じゃないですよ.
 むしろ,産經新聞的なオカルト趣味は大嫌いだし.
 そういうものが実在するかどうかは分からないけど,ただ,当時の人達はわりと真面目に,そういう御霊や祟りとかの存在を意識してたって前提で書いてますんで.

>あと,武士は桜を嫌ってて,わざと松を植えてたはず.

 これは鎮魂のために松を植えたと言う事ですか?
 初耳ですので文献資料とか教えてください.

>桜が広まったのは,大君のために散れ!との近代学校教育の成果でないかな.

 元は中国伝来の梅見が盛んだったようです.
 万葉集では梅の和歌118首,桜の和歌41首で,圧倒的に梅が多いですが,平安時代すでに野生の山桜を,自宅に植えて鑑賞する風潮は生まれていました.
 古今集になると,桜の和歌が圧倒的多数になり,日本人の桜好きが定着したのが伺われます.
 紀貫之,紫式部,西行と,桜を愛でた代表的文化人ですね.

 武士の台頭とともに,桜はさらに好まれたようで,源義家の和歌に
「吹く風を なこその関と 思えども 道もせに散る 山桜花」
があり,潔く散る桜に,死と隣り合わせに生きた武士の姿を重ね合わせる風潮が,すでに見えますね.
 安土桃山時代になると,秀吉の醍醐の花見など,武士による大規模な花見が行われ,普賢象や楊貴妃,御衣黄など,数十種類の桜が品種改良によって生み出されたのも,この時代ですね.

 江戸時代になると,家光や吉宗の施策で盛んに桜が植えられ,現在も残る桜の名所が生まれたのは周知の通り.
 ただ,潔く散る桜が一時期嫌われたのは事実.
 しかしこれは,椿の花のあまりの栽培熱が盛んになったために,これを抑圧しようとして,
「椿は首がポロリと落ちるのに似てるから不吉だ」
と言われたのと同じ流れのようです.
 椿はこの言葉が定着しましたが,桜は義経千本桜や忠臣蔵で美化されたため,歌舞伎の隆盛とともに,「花は桜木」という意識が強固になって行きます.

 江戸時代には数百種類もの品種改良を生んだ桜は,むしろ明治期には顧みられなくなり,桜の名所は荒廃します.
 大正期に桜の復興運動があり,貴重な品種の保存が行われますが,絶滅してしまった品種も数多くあります.
 近代学校教育の成果と言うより,元々あった桜への意識を,軍国時代に利用&強化したと言うのが正確でしょう.

 蛇足ながら,松と言うのも戦国から江戸初期は武士に嫌われていました.
 風の日には松葉の形状から,風切り音が大きく,賊が忍び込むのに好都合だったからだそうです.
 これも時代が下ると,目出たい木と して盛んに植えられるようになってしまいます.

 家康と村正の伝説(村正は徳川家に祟ると,家康が嫌った)のように,来歴が良く分からなくなって,牽強付会の珍説が生まれていますが,家康は嫌うどころか多数の村正を所有しています.
 家康が松平の親藩に村正を多く下賜したため,大名が遠慮して村正を差さなかったのが,いつの間にか村正は徳川家に祟るので,大名はこれを忌避した云々と言う話が定着し,幕臣すらまじめにこの説を書き記す事態が生まれたように,桜にしろ椿にしろ松にしろ,時代時代によって評価も認識も変わっていますので,一時代の評価や認識を以て全体を論じるのは,いらぬ誤解を生むのではないでしょうか.

日本史板,2004/02/25
青文字:加筆改修部分

 【再再反論】
 鎮魂のためとは,それこそ,どこにも書いてないよ.
 江戸時代に松が武士に嫌われだしたのは事実でしょ.
 中期以後かな?
 各地の城に桜が植えられた年代を調べてみたら?わりと最近だよ.

 国学は桜を日本国の木として,日本にしか生えていないと言い張ってたんだよ.
 調べてみたら?
 わりと笑えるよ.
 天皇賛美主義者にとっては,事実は問題じゃないんだ.
 イデオロギーなんだよね.

日本史板,2004/02/26
青文字:加筆改修部分

 神田明神がつぶされた理由は
>徳川家が好んでいたからね.嫌がらせされたわけ.
ということでは一致してるんじゃないの?
 神田明神や西郷の怨念を利用したかしてないかなんてのは,とても歴史学的な根拠がある話には思えないので,とりあえず個人の想像ということで,また別の次元の話では?
 チカラが利用されたとかされてないというのも,そういう類の話で…

 桜と松に関して.
 江戸時代には,松が松平氏を顕彰する意味で,国の樹木と同じような意味合いで植えられたのは事実らしい.
 関所などの幕府の公的機関には,必ず松が植えられていたという.

 それもあるが,当時の武士は「もののふ」というより,次ぐを以って家とする「武家」であったのだし,潔く散る意味で好まれた桜を,江戸時代以前と同じ意味で武家が好んで植えたとも思えないのだが…
 レジャー的な意味で桜がたくさん植えられたのは,おっしゃるとおり.
 庶民が,劇中でかつて潔く散った武士と重ね合わせたのもおっしゃるとおり.
 鎮魂の意味で桜が植えられたということは,私は知らないのでなんとも言えないが,しかし
>ただ潔く散る桜が一時期嫌われたのは事実.<
とあるので,理由はともかく嫌われたのは事実としていーということなんでないの?
 いつからいつまで嫌われたのかはしらんけど.

 とりあえず,桜や松(に限らずなんでもそうだけど)って,時代だけでなく,TPO(江戸時代の場合は身分もか)で使われ方が違っていたと思うのだが,なんだかみんな話がごっちゃになって,わけ分からんくなってるような気がするよ.

 ていう自分も,史料出してないのは同じだね.ゴメソ.

日本史板,2004/02/26
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

172 :名無し三等兵 :04/02/26 01:18 ID:???
事後法による東京裁判の違法性ってのは,左派右派ともに戦後の基本的な
共通認識だよ.アメリカでも当時から批判があったくらいだし.
原爆や無差別爆撃を非難する以上,左翼だって東京裁判の内包する矛盾に突き当たる
のは道理でしょ?
大学の現代史や国際関係,国際法の講義で東京裁判の違法性に言及しない
教授はまずいないし,BC級戦犯の悲劇は膾炙されていることだったし.

べつに小林で知ったからってバカにするのはよくないけど,左翼や知識人は
東京裁判マンセーか批判精神ゼロばっかりだったって,若い奴に鵜呑みに
させたのは問題がある.
930 :日本@名無史さん:04/02/26 02:21
まあね.違法だったけど意義があったって言う人はいるけど,
違法性を否定する人はまともな学者にはいない.
ニュルンベルク裁判の方は,自然法で正当化することはできる.

日本史板,2004/02/26
青文字:加筆改修部分


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