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「2ch. 世界史板」◆(2003/03/12~) 中央アジア ~シルクロード~
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「2ch. 世界史板」◆(2009/02/19~) 中央アジアの歴史について語ろう!【シルクロード】
 回収すべきレス無し

「朝目新聞」(2013/05/24)●「乙嫁語り」の世界  (of 亜細亜が好き!

突厥が好きっっっ!

●書籍

「革命の中央アジア――あるジャディードの肖像」(小松久男著,東京大学出版会,1996〕


 【質問】
 コーカサス地方で国境が設定されるまでの経緯を教えられたし.

 【回答】
 先日,キルギスタンでクーデターが起きて,大統領が事実上の亡命と辞任を余儀なくされました.

 そこから少し西側に行った場所にコーカサス地方があります.
 古来から東西南北交通の要衝であり,文明の十字路になった場所です.
 現在,コーカサス山脈の南側にはグルジア,アルメニア共和国,アゼルバイジャン共和国が独立国家として存在し,北側には,ロシア連邦に属しているダゲスタン,チェチェン,イングーシ,北オセチア,カバルダ・バルカル,カラチャイ・チェルケス,アディゲなどの民族自治共和国やロシア人が主に住んでいるスタヴロポリ,クラスノダル地域があります.

 この地域は中央から離れた山岳地帯であり,中央政府のコントロールが十分行き届いていない場所となっていますが,一方では,国際政治的にも戦略的価値が非常に高い地域です.
 この為,古来から多数の民族が行き交っています.

 一方でこの地域は,山脈に隔絶された場所であるが故に,谷毎に言葉が違う様な地域です.
 例えば,ダゲスタンは四国程度の面積ですが,この地域に30を超える民族が居住し,しかも彼らは互いに意思の疎通が困難な言語を話しています.
 そういった地域では,道が出来て舗装されると,1つの言語が消滅するとさえ言われています.
 同じ山でも標高の低い地域と高い地域では別の言葉が話されていますが,道が通じるとコミュニケーションが容易になるので,その言葉を話す数が少ない民族は,より大きな民族集団に吸収されてしまうと言う訳です.

 宗教面でも,グルジア正教会,アルメニア教会,カトリック教会,ロシア正教会,ユダヤ教にイスラームと各種ありますし,イスラームもその宗派は様々です.

 こうした民族の坩堝状態の地域には,元々国境と言う存在が希薄でした.
 彼らの生き様は,大帝国を建設する征服王朝ではなく,他民族が造った大帝国の中に,自らのポジションを得て,それを足がかりに,彼らのネットワークを広げていったケースが殆どです.

 例えばアルメニア人の場合は,アルメニアと言う地域での活動だけでなく,外部に進出して,中東諸地域にCommunityを持ち,地中海に面するキリキアに王国を建設するなど広く活動しています.
 政治的に独立を失った後でも,経済共同体として各地に分散して商業活動に従事していました.
 例えば17世紀のペルシャでは,アルメニア人は帝室の絹貿易を独占的に扱う地位を得ていました.
 こうして時の権力者に食い込みながらも,アルメニア人としてのアイデンティティは失わず,自分たちのCommunityには必ずアルメニア語の出版所を設立して,その文化維持に努めています.
 そのネットワークは,17世紀にペルシャのアルメニア聖職者が記した歴史書を,オランダのアムステルダムで出版すると言った世界的なものでした.

 一方,グルジアやチュルケスはイスラームに対し,マムルークの供給源としての側面を持っていました.
 19世紀のエジプトにナポレオンが侵攻した際,彼を迎え撃った司令官がグルジア人イブラヒム・ベイが正にその代表格です.
 彼の本名は,アブラマ・シンジカシュヴィリと言い,グルジアから売られてきた奴隷出身の軍人で,マムルークとなって頭角を現し,遂には軍司令官にまで上り詰めた訳です.
 因みに,彼は出世してから,グルジアの郷里の村に送金をしていたそうです.
 他に,ペルシャには故郷での勢力争いに敗れて亡命したグルジア軍人集団に「王の奴隷」と言う称号が与えられたりしています.
 あくまでも,マムルークというのは「奴隷」と一言で片付けられる訳でなく,国家エリートとして育てられたケースも多かったのです.

 こうした民族が国境の枠組みに捕えられ始めたのは,ここ200年足らずの事です.
 今でもロシアと戦争しているのがチェチェンであり,良くこの地域の出身者がモスクワなどでテロを企てたりしています.
 この地域にロシアが進出したのは,18世紀末から19世紀初めにかけての事です.

 これに対し,1785年にはマンスールと言う人物が反乱を企てて失敗し獄死しました.
 次いで,1834~59年にかけては第3代イマームであるシャミールと言う人物が,ロシア帝国に対する抵抗運動を指揮しました.
 彼は軍司令官としても優れており,最終的にはロシアに捕えられましたが,チェチェンの山岳民からは抵抗のシンボルとして広く尊敬されています.
 こうした素地がチェチェンにはありますが,「野蛮で戦闘的な山岳人」と言う一面的なイメージで見ると,見えなくなる部分も沢山出て来ます.

 バクーに近いこの地域でも油田があり,バクー程ではないにしろ石油が産出されていました.
 チェチェンの首都グロズヌイの近くにあるグデルメスには,石油精製施設が造られ,20世紀初頭には,鉄道も敷かれます.
 こうした油田や鉄道の利権には,ロスチャイルド財閥やノーベル兄弟が絡んでいたりするなど,列強各国の思惑が透けて見えてきます.
 そう考えると,様々に抵抗した勢力の資金や武器は何処から得ていたのか…,中々興味深い話になってきます.

 20世紀に入るとロシアの支配が揺らぎ始め,革命が起きると北コーカサスの諸民族は山岳民共和国と言う連合国家を形成しました.
 その後,内戦を経て,山岳ソヴィエト社会主義自治共和国となります.
 しかし,この自治共和国は短命に終わり,1922年には民族毎に分かれ,1934年にチェチェン・イングーシ自治州となって,最終的にチェチェン・イングーシ自治共和国となりました.

 こうして,ある程度政治領域も地位も固まったかに見えましたが,スターリンの猜疑心により,1944年に強制移住が行われました.
 これが現在でも続く,チェチェン人のモスクワ権力に対する不信感の源になっています.
 第二次大戦で独ソ戦が勃発すると,コーカサスにドイツ軍が侵攻します.
 これを見て,この地域にいる民族が寝返ってドイツ軍を解放者として迎え入れる事を恐れたソ連指導部は,忠誠心の疑われるチェチェン人やイングーシ人を,1人残らず中央アジアに強制移住させました.
 因みに,ドゥダエフやマスハドフ等はこの強制移住先で誕生した人たちで,強制移住先の困難さを身を以て体験しています.

 この強制移住は,スターリン死後の1957年に名誉回復を受けた事で終わりを告げます.
 再び,チェチェン・イングーシ自治共和国が復活したのですが,その領域は昔と異なり,強制移住前にイングーシ人が住んでいた地域を北オセチアに譲渡し,その埋め合わせに,チェチェン北方のコサックが住んでいる地域をチェチェンの領域に組み込みました.
 こうした決定が,現地政府の交渉で無しに,モスクワ中央で行われた事から,古くからチェチェン人,イングーシ人が住んできた地域が分断される事となり,イングーシ人とオセット人の対立が進みました.
 2003年のベスラン事件の遠因が此処にあると言われています.
 尤も,この強制移住は,チェチェン人やイングーシ人の問題だけではなく,ウクライナのクリミア半島に住んでいたクリミア・タタール人の問題や,グルジアに住んでいたイスラームのメスフ人の問題にも結びついている問題です.

 ソ連が崩壊した後,彼らは独立を求めて立ち上がります.
 元々,石油資源もあり,社会的インフラとしての鉄道やパイプラインも整備されている国ですから,独立しようとしたのも無理からぬ事です.
 但し,社会的には100万近い人々はテイプと言う氏族集団に分かれて様々な利害関係で結びついていて,それぞれ考え方や姿勢も異なっている事から,それをまとめ上げるのは至難の業です.
 そこで,ロシアとの関係を保って自治共和国の枠内で暮らしていこうという者,あくまでも独立を求める者がいて,それがきちんとした集団で分けきれなくて,収拾が付かなくなったと言うのが,チェチェン問題の側面です.

 アブハジア問題も複雑怪奇なものです.
 今度の冬季オリンピックが開催されるソチの近くですが,ここも19世紀初めにロシアの勢力下に置かれました.
 その後,1866年に一度反乱を起していますが,ロシア帝国に鎮圧され,それに参加したイスラーム達はオスマーン・トルコに追放されてしまいます.

 1921年にソヴィエト政権の支配下に入りますが,アブハジアは条約を結んで,グルジアと連合して1つの共和国を構成していました.
 それが,1936年に制定されたスターリン憲法の下では,グルジア共和国内の自治共和国に位置づけられました.
 これがアブハズ人から見れば格下げに映り,更にその後の大粛清では,スターリンの側近で彼と同じグルジア人のベリヤが多くのアブハズ人を逮捕して粛清した事から,グルジア化に拍車が掛かったと見なされ,グルジア人嫌悪がアブハズ人に植え付けられていきます.
 そして,ソ連崩壊時のドサクサで,アブハジアはグルジアから独立を図り,1993年に大規模軍事衝突が起きた結果,グルジア系住民は全部追放されて,この地域はアブハズ人が実効支配をする地域となってしまいました.

 現在は両者の争いは小康状態ですが,アブハジアから追放されたグルジア人の帰還問題が燻っています.
 そもそも,アブハジアのアブハズ人比率は僅か20%で,約50%はグルジア人が占めていました.
 当然,グルジア人からすれば,アブハジアはグルジアの一部と見なしています.
 それに対し,アブハズ人は古くからグルジア人とは別の民族であり,民族自決の権利に則って独立したのだと主張し,両者の姿勢は相容れません.

 ところが,1886年のとある統計では,アブハジアの人口は68,773人でしたが,その半分近い30,640名はアブハズ人でもなくグルジア人でもないサムルザカノ人と記されていたりします.
 サムルザカノは現在ではガリ地方となり,肥沃で人口密度の高い地域です.
 此処はアブハズ人の君主が治めていた地域では最も南で,グルジアとの国境地域でした.
 そのサムルザカノ人がどんな民族なのかは,今となってははっきりしていません.

 元々,民族と言うカテゴリー分けも,中央が一方的に押しつけたものなので,現在その地に暮らしている人々から見れば大したことはないのかも知れませんが,面子や政治が介在してくると厄介な問題になってしまう訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/16 23:24


 【質問】
 ロシアの中央アジア進出の経過を教えられたし.

 【回答】

 さて,16世紀初め,ロシアはトルキスタンの領域に接近し始めます.
 先ず1554年,最初にトルコ人の国であるカザン・ハン国を手に入れました.
 その後,そこを足がかりに東へ東へと進み,100~150年の間に,族長単位で小規模な集団で暮らしていた諸部族を征服して,極東,極北のカムチャツカ,ベーリング海峡,ウラジオストクまでの広大な領土,1,000万平方キロメートルを支配します.
 そして,海を渡って対岸のアラスカの150万平方キロメートルを更に支配しました.

 しかし,アラスカはロシアにとって余りにも遠く,気候も厳しく,戦争をするにもロシア軍が守るにも困難な土地であり,そこに暮らす部族をロシア化するのも上手くいかないのでは無いか,と言う懸念を持った上,隣は英国領のカナダ,更に米国が英国と結んでロシアに対抗する懸念もあり,1867年に18回に亘る米国との交渉の末,この地を720万ドルで米国に売却する事にしました.
 その後,アラスカから金などの重要鉱物や石油が発見されたこともあり,ロシアにとって損な交渉をしたと言われるわけですが,ロシアにとっては,遠いアラスカに代って,次の進出目標となったのは,手近なトルキスタンとなります.
 この地はピョートル1世の時代からロシアの渇望の地であり,アラスカに比べると気候が良く,自然も豊かで鉱産資源や農産資源などもアラスカに決して劣ることは無いものでした.
 そして,アラスカの売却代金は,1868年から開始されたこの地の征服費用として使われたわけです.

 ここに至るまでは先に見た様に,1717年のチェルカスキー軍の全滅もあった訳で,一度ロシアは引いて,カザフ・ジュズの境界に「オレンブルグ・ライン」と言う要塞群を設置します.
 この要塞群は,1716年にオムスクに設置されたのを皮切りに,1718年にセミパラティンスク,1720年にウスト・カメノゴルスク,1735年にオルスクと伸びていき,本国と前線との補給路になった他,中央アジア軍事遠征の基地となりました.

 こうして,補給線を延ばし,それを維持した上で,1731年にはカザフの小ジュズを,1740年に中ジュズ,1818年に大ジュズと言う形で順次征服を繰返し,1822年にカザフ・ジュズに於けるハンの統治権を無効にして,ジュズの外交権もロシアが直接管理することになりました.

 カザフスタンを平定したロシアは,次いで1839年からトルキスタンへの侵攻を開始します.
 先ず,ヒヴァ・ハン国の占領の為,オレンブルグから遠征軍を送りますが,これは失敗し,暫くヒヴァ・ハン国への軍事行動は控えられました.

 1851年にはコーカンド・ハン国のトイチュベク要塞を占領してこれを破壊し,その跡にベルヌーイという町を建設しました.
 これは現在のアルマトゥです.
 1853年になると,コーカンド・ハン国のアク寺院の町を占領し,1860年になるとトルキスタン侵略の最後の準備として,ゴスリー,カラマクチー,ジュレクの各軍事要塞から成る「シルダリア・ライン」を作り上げ,その年,シムメルマン大佐指揮のロシア軍が,コーカンド・ハン国のビシュケクとトクマクの砦を占領しました.
 これに対し,コーカンド・ハン国はジハードを宣言して対抗します.

 1864年にロシア軍はコーカンド・ハン国攻撃計画を承認し,西のオレンブルグ方面と東のベルヌーイ方面の双方から攻撃を開始します.
 6月5日にポルコブニク・チェルナヤエフ指揮下のロシア軍がコーカンド・ハン国のアブリヤ・オタを占領し,12日にはポルコブニク・ベリョフキン指揮下のロシア軍がトルキスタンの町を占領,7月20日にはチェルナヤエフ部隊がシムケントを占領し,1865年に占領地域にトルキスタン州が設置され,チェルナヤエフが州の統治者として将軍の肩書の儘就任します.

 その年の6月15日から17日にかけて,チェルナヤエフ将軍の部隊は攻勢を掛け,タシュケントを占領する事に成功しました.
 この時,町の守備兵12,000名が戦死したと言います.

 1866年5月8日,イェルジャル村付近で,ブハラ・ハン国の軍隊とロシア軍とが激突します.
 この戦闘もブハラ・アミール国の軍の敗北に終わり,その年,ロシアはジサフとホジャンドの町を占領して,ブハラ・アミール国とコーカンド・ハン国の分断に成功しました.

 1867年7月12日,ロシア皇帝は占領地域全域を管轄するトルキスタン総督府を設置し,トルキスタン総督としてコンスタンチン・フォン・カウフマン将軍を任命し,総督府はタシュケントに置かれました.
 そして,1868年にはフダーヤル・ハンはコーカンド・ハン国がロシアの保護国となる事を認め,通商条約に調印しました.

 次の目標は,1867年の戦闘でコーカンド・ハン国との共同戦線で軍が敗れ,弱体化したブハラ・アミール国です.

 1868年5月14日,サマルカンドが占領され,6月2日,ジラブロクでブハラ・アミール国軍とロシア軍との決戦が行われ,再びブハラ・アミールは敗れてしまいました.
 結局,ブハラ・アミールはロシアに膝を屈して,6月23日に和平協定を締結します.
 ブハラ・アミール国はロシアにサマルカンド,ウルグト,カッター可汗,ペンンジケントの各地区を割譲し,金貨で50万ルーブルに上る賠償を支払います.
 その上,ブハラ・アミール国内で商売をするロシア商人は関税免除となり,ブハラ・ハン国はロシアの保護国となりました.
 この割譲地域もトルキスタン総督府の管轄下に置かれ,新たにザラフシャン管区が設置されました.

 1870年になると,ブハラ領内のマストチョフ,ファルガル,ファローブ,モギヨン,キシュトゥートの各地区を占領し,ロシア側の支配下に置かれる様になります.

 最後に残ったのがヒヴァ・ハン国です.

 1873年にロシアはヒヴァ・ハン国に対する軍事行動を開始し,アラル海方面からゴズリ,ブハラ方面からジッザフ,カラクム砂漠方面からクラスノボドルクにそれぞれ軍を派遣しました.
 5月29日,ヒヴァの町の城壁に迫ったロシア軍は,町を大砲で攻撃します.
 ハンは逃亡して町は降伏したのですが,ホラズム地方のトルクメン達は抵抗を止めませんでした.
 この為,カウフマン将軍はトルクメンに遠征軍を送り,7月13~15日にかけて掃討戦を行った結果,この地域の平定も完了しました.
 そして8月12日にはロシアとヒヴァ・ハン国との間で和平協定が結ばれ,この条約に基づき,ヒヴァ・ハン国は現在のカラカルパクの地であるアムダリヤ川右岸とカラクム砂漠をロシアに割譲し,200万ルーブルの賠償金を支払った上,「ロシアの従順な下僕」となることを認めざるを得ませんでした.
 この割譲地は,トルキスタン総督府管轄のアムダリヤ区となりました.

 こうして,中央アジアの各国はそれぞれロシアの影響下に置かれることになったのですが,1875年,アブドラーマンと言う人物が,フダーヤル・ハンの降伏を演出し,それに伴い,ロシアの侵略を呼び込みます.
 これに対して民衆が暴動を起こしますが,ロシアはこれを鎮圧し,それを口実に8月29日にコーカンドを占領しました.
 フダーヤル・ハンはオレンブルグに追放され,その息子,ナスリッディンベク・ハンがロシアによって任命されます.
 新しいハンはロシアの統治権を総て認め,ロシアに奪われた土地を放棄するのですが,民衆の暴動は続きました.
 結局,ロシア皇帝はコーカンド・ハン国を廃止して,新たにフェルガナ州が設置されることになり,コーカンド・ハン国は165年の歴史に幕を閉じることになります.

 また,1880~1884年に掛けてはトルクメン地区が征服されました.
 このうち,ギョクデペの戦闘では,15,000名以上のトルクメン族の人々が殺されています.
 この様に血塗られた歴史を経て,1884年にカスピヨルト区が設置され,何れも植民地州としてロシアの支配下に置かれることになりました.

 結果として,16世紀から開始されたとは言え,実際の軍事行動は19世紀に入ってから僅か80年程度の極めて短期間で,トルキスタンの南部と東トルキスタンのグルジア東部を除くトルキスタン地区の80%がロシアの支配下に入った訳です.

 この短期間での軍事行動は,帝政ロシアの地政学的かつ全世界的権益が関係していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/28 23:04

 1860年代,中央アジアの占領をロシアが急いだのには,それなりに訳がありました.
 勿論,当時の帝国主義国家の雄である英国と地政学的権益がぶつかり合ったのが最も大きな理由です.
 英国は既にインドを抑え,Afghanistanの数州を占領し,中央アジアへの進出を伺っていました.
 一方ロシアは,この中央アジアを自身の金城湯池にしようと目論んでいて,両者の権益が対立します.
 ロシアとしては,1867年にアラスカを手放すのは,1つは中央アジア進出に対する軍資金確保の側面もありましたが,もう1つの側面はこの地を安価に手放すことでアメリカに恩を売り,場合によって英露対立に至った際には,フランスと共に米国をロシアの同盟国にしようと目論んでいました.

 とは言え,後のドイツ皇帝とその政府と異なり,ロシア皇帝と政府は冷静でした.
 英露両国が対立し,中央アジアを巡って戦争を行えば,両国とも利益を損なうことが目に見えていたからです.
 それ故,ロシアは中央アジアを自身の勢力下に置き,既成事実を作った後,両国で中央アジアの利益を分け合い,両国間の競争を減らそうと目論みました.
 その結果調印されたのが,1873年のアムダリア川とパミールの地理上の境界線策定協定です.
 これは,現在のキルギス,タジキスタンとウズベキスタンの旧ソ連邦構成国と中国,Afghanistanとの国境線に一致します.

 中央アジアの国々の内,殆どはロシアが抑えてしまったのですが,唯一Afghanistanだけは両大国の緩衝国として生き延びる事が出来ました.
 とは言え,英国とロシアが地域住民の頭越しに決定した「線引き」条約の結果,ウズベク人やタジク人の多くが自身の歴史的祖国から分断される事になり,現在に至る問題の発端であったわけです.

 そもそも,ロシアが行った中央アジアの軍事遠征については,国際的権利も基準も,また道義すらありません.
 この地域に住んでいるホジャイン達は,ロシア人が偶然出会った地方の部族であり,西洋の基準で言う国家の形成にも至っていない「群れ」或いは「集団」の類でしかありませんでした.
 中央アジアに住んでいた人々はロシアが国家を形成する遙か以前からこの地に住み,独自の文化を形成していたのですが,ロシアも他の帝国主義諸国も,「欧州の価値観以外に他の価値観は無く,西洋文明以外に他の文明は無い」と言う立場を取っていましたから,こうした地域を征服するのに何ら痛痒を感じなかったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/29 23:37

 19世紀末,中央アジアの地は,Afghanistanに編入されたトルキスタン南部を除いてロシアの手に入りました.
 当然,税金を取り立てる為には,この地にどれ位の人々が住んでいるのか把握しなければなりません.
 こうして,1897年にロシアの植民地行政府がこの地を対象にした,最初にして最後の国勢調査を行いました.

 その結果,トルキスタン総督府支配下の人口は7,219,874人で,この地域にはロシア人以外に14の民族グループがいる事になっています.
 因みに,この住民数は,ロシア帝国の人口全体の10%を占めました.
 現在,この地域に住む人口は,約8.5倍の6,000万人おり,これらの人口に対する民族の数は100以上になっています.
 つまり,その内の約7分の1しか民族と見做されなかった訳です.

 1897年当時の民族として認定された集団としては,次の様なものがありました.
 先ず一番多い比率を占めたのが,キルギス及びキルギス・カイサクと呼ばれた人々です.
 この民族は,現在のカザフスタンとロシアに隣接した地域,現在のミルザ砂漠とカラカルバク地方に住んでいる遊牧カザフを指すと言われています.

 次に多いのがサルトと呼ばれる人々で,この民族はトルキスタン総督府と,僅かに命脈を保っていたブハラ・アミール国統治地域に住んでいたウズベクと一部はタジクを合わせた民族であり,現在は使われていません.

 次いで多いのがウズベクです.
 これはトルキスタンの定住者と町の住民の他に,一部遊牧生活をしていた人々を指します.
 彼らは現在で言うウズベク語のチャガタイ方言を話していたのですが,ロシアの研究者はこれらを一括してウズベクと見做されました.

 現在のキルギス地域に住んでいるキルギス族に対しては,キルギスとは呼ばず,カラ・キルギスと言う位置づけを行っています.

 キプチャクは,元のキプチャク・ハン国で政治的支配権を握っていた遊牧民とウズベク族について使われていたほか,元のコーカンド・ハン国に於いて定住者と町の住民に対しても使われていました.

 トルクメンは,ヒヴァ・ハン国と現在のトルクメニスタン地域にあるアハルテカ盆地に住んでいたトルクメン族に対して用いられたものです.

 カラカルパクとウズベキスタンの別の地域に居住していた民族はカラカルパクと呼ばれていました.

 トルキスタンのロシア統治下の一地方で,主に山岳地帯に住む人々を,タジクと呼んでいます.
 これは現在のタジク人の定義とは異なります.

 勿論,この地には西から流れ,8~9世紀に定住したユダヤ人もいます.
 彼らは,大部分がブハラ・アミール領内に住んでいたので,「ブハラ・ユダヤ」と呼んで区別されていました.

 最後に,この地域に19世紀末になって流れ込んできたタタールです.
 これはカザンやアストラハンの両トルコ・イスラーム系民族の名称です.

 この様に,適当に決めたとしか言いようのない不正確な分析により,民族区分を行った結果,1920年に「民族区割り」を行った際に悲劇的な結果を生み出した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/30 23:18


 【質問】
 ロシア革命当時の中央アジア情勢は?

 【回答】
 帝政ロシアは,国力が増すと海外に雄飛するよりも東へ東へと進んでいきます.
 そして,ユーラシア大陸を横断してシベリアを勢力圏内に抑え,更に北米大陸に渡ってアラスカを征服し,更に西海岸にロス要塞を構築する事になります.
 西まで行き着いて,英国の勢力圏とぶつかると,今度は南に向けて拡大しました.

 南への拡大は結構遅く,19世紀の初め頃からになります.
 先ずは,シベリアからカザフステップに南下し,1715年にオムスク,1720年にセミパラチンスク,1743年にオレンブルクとトロイツク,更に1752年にペトロパブロフスクに要塞を構築して,それらを結んだ要塞線を築いていきます.
 その要塞線を基地に,更に南に拡大すると言う手法を用いて,19世紀後半には遊牧民地域を超えて定住民地域へと進出していきます.

 その当時,この地域にはコーカンド・ハン国,ブハラ・アミール国,ヒヴァ・ハン国の俗にウズベク3王朝と称される薄ベク系民族の王朝が三つ巴になって存在していました.
 最初に,ロシアに征服されたのがコーカンド・ハン国で,ロシアはこれを解体してフェルガナ州,サマルカンド州を形成し,大ジュズを組み込んでヴェールヌイ州を設置しました.
 残りのブハラ・アミール国は,アラル海沿いの領地を大幅に削ってこの地にシルダリヤ州を設置し領土そのものが縮小され,ヒヴァ・ハン国も,アラル海沿いの領地を削ってアムダリヤ管区を設置し,その代わりにブハラ・アミール国の領地を割譲してヒヴァ・ハン国に組み込み,何れも完全征服は行わず,君主を残した形で保護国化されました.

 1867年にはセミレチエ州,シルダリヤ州,フェルガナ州,サマルカンド州,アムダリヤ管区に,トルクメン諸部族が暮らすカスピ海とアラル海を結ぶ線をザカスピ州とした領域を管理する為,タシケントにトルキスタン総督府が設置され,以後,ロシアはこの地から中央アジア南部地域を統治していきます.

 その統治が始まって僅か半世紀しか経っていない1917年,突然ロシア革命が勃発し,帝政ロシアは倒れます.
 その出先機関として君臨していたトルキスタン総督府も革命勢力によって打倒され,トルキスタン総督府領にトルキスタン・ソヴィエト自治共和国,ヒヴァ・ハン国の領域にはホラズム人民ソヴィエト共和国,ブハラ・アミール国の領域にはブハラ人民ソヴィエト共和国が形成され,オムスクに設置されていたステップ総督府に属していたウラリスク州,トルガイ州,アクモリンスク州,セミパラチンスク州には,それらの大部分を擁するキルギズ・ソヴィエト自治共和国が誕生しました.

 その後,内戦が収まるにつれて,民族理論や民族政策を念頭に置き,社会主義建設のための新たな行政区分が求められ,1924~25年にかけて,中央アジアの民族別国境画定が行われます.
 これにより,ウズベク,キルギズ(今のカザフ),カラ・キルギズ(今のクルグズ),タジク,トルクメンの5つの民族が主体となって社会主義建設を行うべき5つのソ連邦構成国,即ち,「ソヴィエト社会主義共和国」が出現しました.
 これ以後,ソ連から「トルキスタン」という言葉は消滅し,この地域は「中央アジア」と言う言葉で称される事になります.

 そして,1991年に今度はそのソヴィエト連邦が崩壊し,連邦を構成していた共和国であったカザフ,トルクメン,キルギス,タジク,ウズベクの各共和国が図らずも独立する事になります.

 さて,1920年代に話を戻すと,暫定的に独立させた領域を再編する為に2つの案が検討されました.
 1つは「中央アジア連邦構想」,もう1つは「民族別共和国構想」です.
 前者は,中央アジア全体を緩やかな連邦としてまとめる案であり,後者は現在と同じ様に民族別に共和国を構成して各民族が主体となって統治を行うと言うものです.
 その意思決定は,モスクワの党中央を頂点に,その出先機関としてタシュケントに置かれた中央アジア・ビューローに領域再編成の原案作成が委ねられ,更にその下部組織に民族別の領域委員会が設置されてより具体的な検討を行うと言うものでした.

 中央アジア・ビューローは,党中央から派遣された人々と,中央アジア出身の民族エリートを含む中央アジアのそれぞれの共和国代表から構成されていました.
 更に,民族別の領域委員会は,ウズベク人代表がウズベク委員会,カザフ人代表がカザフ委員会,トルクメン人代表はトルクメン委員会を形成する形を採り,それぞれで領域再編成案が検討され,検討結果を中央アジア・ビューローに持ち寄って決定すると言うやり方でしたが,実際にはスターリンの意向により,中央アジアが一丸となってモスクワ中央に反乱を起すのを抑止する為に,「分割して統治せよ」を根底に据えたと言うのが今までの定説になっています.

 しかし,当時の中央アジアはその様な一体感は存在せず,モスクワ中央では,中央アジアは寧ろ非常に小さい単位の集団の集合体,謂わば寄せ木細工の様な状態であり,統治者達は領域の集団の間に生じる不和や反目,衝突を抑えようと腐心しており,極めて不安定な立場にあると見ていました.

 本来,それを抑止する為には,強力な軍事力が必要ですが,1920年代の初頭は内戦の余韻も冷めず,外部からの干渉も懸念される状態で,大規模な軍事力を中央アジアの辺境に展開するのは,政府にとって荷が重い状態でした.
 この為,党中央としても,此処は妥協して現地出身の協力者達に依存しなければならない点も多く,彼らの意見を可能な限り吸い上げ,妥協点を見出して,彼らが敵側に寝返らない様にしようとするほど,実は切羽詰まっていました.

 従って,中央アジアの民族別国境画定は,「分割して統治せよ」と言うよりも,如何にして小さな集団を適正な規模に取り纏め,統治しやすくするかに重きを置いていました.
 一方,中央アジアの人々にとってみればどうかと言えば,統治の中心である知識人階級は,19世紀末にロシア帝国領内のムスリーム知識人による教育改革運動であるジャディード運動の担い手達から,この地域の諸部族をトルキスタン人として一纏めにする動きは以前から根強くありました.
 しかし,こうした動きは全住民レベルに広がることなく,自分たちの民族意識さえ,どうやって住民達に意識させるかと言う問題が立ちはだかって,こちらも統一などを考える余裕が無かったと言う状態が伺えます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/17 21:18

 20世紀初頭の頃,中央アジアの人々には「民族」と言う概念が存在していませんでした.
 特に定住民にその傾向が強く,ある人はムスリームと言うものであったり,出身の都市や居住する都市,帰属する部族に由来する上,それが屡々重なり合っている事もありました.

 しかし,ソヴィエトが成立してその中で民族理論が形成されていき,民族を主体とした行政区分が成立していく中で,中央アジアの指導層もその状況を見ながら政治的な権利を少しでも多く手に入れる為には,ソヴィエトが指定した「民族」と言う概念を前面に打ち出す事が重要だと悟っていきます.

 例えば,「ウズベキスタン創設の父」と呼ばれるファイズッラ・ホジャエフと言う人物は,元々,出身地であるブハラ人としてのアイデンティティを強く打ち出し,ブハラの利益の為に戦っていましたが,中央アジアの民族別国境画定が議論され始めると,ブハラを大きく超えた「ウズベキスタン」設立の急先鋒に立ち,ブハラ人である事を超えて,民族として「ウズベク人」とならなければならないと変化して行っています.
 当時の人々は「民族」と言う概念が無かった為,ホジャエフはこれを馴染みのある言葉に置き換え,「ミッラト(イスラーム共同体)とカヴム(部族的共同体)が合わさった様なもの」と繰り返し人々に説いて回ったと言います.

 因みに当時,モスクワでは領土的自治を与え得る中央アジアの主要民族として,ウズベク,カザフ,トルクメンしか認識していませんでした.
 そして,細部の議論は中央アジア・ビューローに委ねられ,モスクワは下から上がってくる案をそのまま承認しました.
 この時,クルグズとカラカルパクの代表は,「カザフ」に包摂される事を良しとせず,「我々にも権利がある!」と手を挙げました.
 これが中央アジア・ビューローで認められ,それがモスクワに上げられてそのまま承認されました.
 こうして,カザフから分離する形で,3カ国の他にクルグズ人の国クルグズスタン,カラカルパク人の国としてカラカルパクスタンが成立しました.

 しかし,現在のタジキスタンはこの頃未だ産声すら上げていません.
 タジクは唯一ペルシャ系の言語を持つ人々ですが,同じ定住民であるチュルク系のウズベクと非常に良く似た文化を持っており,都市部ではウズベクと混住して,知識人もバイリンガルな状態でした.
 サマルカンドやブハラでは,ウズベクよりも寧ろタジクの方が多数派でしたが,この領域再編成の際に,タジクの知識人達は,ウズベクと共同歩調を取る事を選びます.
 その結果,タジク人の国はウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内のタジク・ソヴィエト社会主義自治共和国として設定され,その領域は,多数派を形成していたサマルカンドやブハラを含まず,山岳地域のタジク語住民を包摂した地域が設定されました.

 ところが,1920年代後半から,ウズベキスタンでは急速に「チュルク化」を強化する諸政策が浮上し,ソヴィエト・ウズベキスタンの文化がチュルク語に基礎を置いた方向性が明らかになると,タジク人の知識人達は,此処で初めて声高にそれに抵抗し始め,その結果,1929年になって名称の「自治」が取れて,ウズベキスタンと対等な共和国として,タジク・ソヴィエト社会主義共和国が成立した訳です.

 こうした民族単位の共和国が形成されていった反面,国境画定に際しては,その民族比率を考慮せず,行政や社会主義建設の効率を優先した事が屡々見られたりします.

 トルクメニスタンにダシュオグズと言う都市があります.
 アラル海にアム川が注ぐ三角州地帯にある主要都市ですが,此処はウズベキスタンとトルクメニスタンの境界です.
 国境画定当時,この地はタシャウズと呼ばれ,人口約1万人のウズベク人中心の都市でした.
 トルクメンはこの周辺部の砂漠地帯に暮らしていました.
 本来は,人口の殆どがウズベク人なので,この地はウズベキスタンの帰属になるのが原則ですが,ソヴィエト体制の下で想定された社会主義建設や近代化政策を考慮すれば,遊牧民を定住させる為の都市インフラが必要である事,また都市に行政府を置いて統治するのが効率的でもある事から,これが重要課題となり,タシャウズはトルクメニスタンの都市としなければ,トルクメニスタン北部の行政が成立しないと言う意見がトルクメニスタン側から出され,種々調整の結果,結局,タシャウズはトルクメニスタンに帰属する事になりました.

 一方,フェルガナ地方のクルグズ人も,同じ論理でウズベク人が多数を占める都市アンディジャンを要求します.
 しかし,こちらはアンディジャンのウズベク人から猛烈な反対が起きるかも知れず,そうなれば大きな混乱をもたらしかねないと言う判断から,結局,この要求は退けられて,代わりに妥協策としてオシュがクルグスタン領に組み込まれる事になりました.

 現在ウズベキスタンの首都であるタシュケントでも綱引きが繰り広げられました.
 帝政時代,この地にはトルキスタン総督府が置かれた様に,中央アジアの政治・経済の要衝であったこの都市は,民族別国境画定の際に,カザフ代表からタシュケントをカザフスタンの首都とし,ウズベキスタンの首都をその代わりにサマルカンドにするのはいかがかと言う案が出され,カザフ人とウズベク人との間で紛糾しました.

 そもそも,カザフの指導層はカザフ草原の北辺にあるオレンブルクを中心と考える人々と,カザフ草原の南にあるタシュケントを中心とするかつてのトルクメニスタン総督府領を中心に考える人々がおり,その路線対立の中から出て来た案でもあります.

 このケースではモスクワが介入します.
 モスクワの狙いは,そもそもこの地域には不安定要素が多く,その要因を取り除くには,中央アジア南部地域に定住民を主体とする強力な共和国を成立させる事が必要であり,それにはウズベキスタンの建国が望ましく,その首都にも要地であるタシュケントが相応しいと言う考えがあったからです.
 こうしてタシュケントはウズベキスタンの首都となりましたが,実際には当初はサマルカンドが首都となり,遷都は1930年になって漸く行われましたが.

 こうして,以前は遊牧民が何の意識をもせずに超えていた場所が国境線となり,名目上の独立国から実質的な独立国となってしまった現在では,隣国に行くのにもビザが必要な地域になってしまいました.
 現在,ウズベキスタンからカザフやクルグスタンへ抜けるには日本人はビザ免除ですが,ウズベク人は1人12ドル取られます.
 また,鉄道網や幹線道路もソ連時代ではそんなに国境線を意識しなくとも良かったので,幾度も各国を横断していましたが,現在ではその複雑な経路が逆に徒となってしまっています.
 もっとも,こうしたものには裏道があって,某かの裏金を掴ませば何とでもなるのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/18 21:00


 【質問】
 ロシア革命当時のトルキスタン情勢は?

 【回答】
 中央アジア
の地を支配した帝政ロシアは,その支配を固めて半世紀に満たない1917年10月25日にボルシェビキの革命の為,呆気なく潰えてしまいました.
 トルキスタンの地にも革命の波は押し寄せたのですが,この地では共産主義イデオロギーは受容れられませんでした.
 しかしながら,従来の権力態勢を刷新し改革すると言う運動が発生しました.
 これをジャディード運動と言います.

 ジャディード運動と言うのは,社会,経済の進歩発展の諸側面で,世界の先進地域に後れを取るトルキスタン地域に於いて宗教,政治,経済の改革を推し進め,民族的理性と伝統に基づいた近代的社会の形成を目指すものです.
 この萌芽は,ロシアに於いて最初の革命が発生した1905年頃に,トルキスタン総督府統治下のブハラとヒヴァの両国で見られました.
 この時は,ロシアの統治を排し,トルキスタンに独立した民主的な近代国家建設を目指しました.
 こうして,ボルシェビズムとジャディード主義は,大きな2つの流れとして中央アジアを席巻した訳です.

 1917年にロシア帝国で革命が起きると,トルキスタンに於いてもロシア人住民が共産主義思想を基盤としたトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国を成立させ,片やジャディード主義者達は,トルキスタン自治政府,アラシュ・ホルダ,ホラズム人民共和国,ブハラ人民共和国と言った民族国家を成立させました.
 しかし,これらの国家は長続きしていません.
 その背景にはレーニン指導下のボルシェヴィキ達が,トルキスタンのトルコ・イスラーム諸民族を自陣営に取り込み,彼らの間に共産主義イデオロギーを広めようと目論んだ事が挙げられます.

 早くも革命直後の1917年11月30日,レーニンとスターリンは「ロシアと,東方の総ての労働者へ」と言う声明文に署名してこれを発表します.
 それによると,ムスリム達に対し,こう述べています.

------------
 それぞれの民族は自由活民族固有の生活が保障される.
 各自これについて権利を有する.
 次のことを伝えよう
 全ロシアの人々の権利同様,諸君(諸民族)等も革命とその機関…労働者,兵士,農民代表等が組織したソヴィエトの権力…によって守られる.
 我々はこの旗の下,全世界の人民に自由を齎す.
------------

 表向きは中央アジアのムスリム達を立てている様に見えますが,その実,「我々は抑圧された民族の自決,独立,分離の権利の擁護者である」と述べています.
 つまり,この地域の住民に対する自決権は自分たちの手の内にあって,中央アジアの人民では無いと言う訳です.

 しかし,このデマゴーグにトルキスタン民衆と知識人は騙されました.
 かくして,彼らの精神は高揚し,自分たちの民族国家樹立に対し動き始めた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/30 23:18
青文字:加筆改修部分

 トルキスタンでは最初,1917年10月28日に革命の報が伝わるや否や,タシュケントのロシア兵士と鉄道労働者達が,ボルシェビキのタシュケント・ソヴェトと力を合わせてタシュケント総督府から政権を奪い,タシュケント人民委員会ソヴェトを組織します.
 しかし,この政府には1人のトルキスタン出身者もいませんでした.
 謂わば,外国人による傀儡政権そのものでしたが,トルキスタンはロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国の中の自治共和国であると宣言しました.

 1917年11月26~29日,コーカンドの町に各地方ムスリム達が集まり,4回の特別なクリルタイの結果,トルキスタン自治政府の樹立が宣言されました.
 それに先立つ10月29日,つまり,ロシア革命から僅か3日後に,トルキスタンの中心地タシュケントに,少し前までコーカンド・ハン国の首都であったこの地に人々が集まり,ロシア占領から50年後に,自分たちの新しい民主主義国家を樹立することを宣言し,それが11月のクリルタイで形になったものです.
 この為,時にこの自治政府をコーカンド自治政府と呼んだりもしています.

 クリルタイのトルキスタン自治政府宣言の声明文には,以下の様な文言が書かれています.

------------
 我々ムスリムが順次開いたそれぞれ4回の地域クリルタイは,トルキスタンに住んでいる諸民族の希望と意思を表明する.
 偉大なロシア革命により宣言された原則に基づき,トルキスタンはロシア民主連邦共和国の一員として自治政府を宣言する.
(中略)
 4回のクリルタイはトルキスタン居住の少数民族の権利が強く守られることを宣言する.
------------

 こうして,クリルタイに於いてトルキスタン自治政府の常設管理組織であるトルキスタン定例会議と,トルキスタン臨時政府が組織されました.

 トルキスタン自治政府は地域に住む全住民の民主的な国家であり,臨時政府の首相になったのは,最初はムハンマドジャン・ティニシュボエフ,後にムスタファ・チョカイが選任されています.
 チョカイは首相と外相を兼任し,ティニシュボエフは内務大臣,他に首相代理,国防大臣,農業水利大臣,食糧大臣,財務大臣が選任され,3人に2人は地方の住民代表,3人に1人はロシア人とユダヤ人で,この他の4大臣のポストはロシア人住民代表の為に空けられていました.

 この自治政府は地域の全都市や村々で歓迎され,タシュケント,サマルカンド,シムケント,アンディジャン,アシュハバード,ベルヌーイ,そしてホジャンドで,自治政府を強力に支援する人々のデモ行進が行われました.
 特に12月13日にタシュケントで催された集会には15万人もの人々がデモを行いますが,当時この地を支配していたロシア・ボルシェビキ政権はこの静かなデモに対して発砲し,何百人もの人々が命を失いました.
 そして,1918年1月19~28日に開かれた会議に於いて,トルキスタン地区ソヴェトは,ボルシェビキはトルキスタン自治政府の法律を超越していると宣言し,「コーカンド自治政府の法律に左右されるな!指導者等を投獄せよ!」とまで言い切りました.

 自治政府の指導者達は,トルキスタンの共産主義者を通じてレーニンやスターリンに請願を行いますが,レーニンとスターリンは,トルキスタンのボルシェビキに武器を援助して,自治政府転覆の命令を下しました.

 その結果,2月19日からボルシェビキの軍隊と赤軍は自治政府を攻撃し始め,2月22日,コーカンドは赤軍とコーカサス地方から連れてこられたアルメニア民族主義者の軍隊,ダシュノクによって占領され,この時には18,000もの人々が殺害されてしまいました.
 そして,フェルガナ盆地の諸都市アンディジャン,マルギラン,ナマンガンなどで市民等は大量殺戮され,自治政府は地に染められて,敢えなく自治政府の民主主義国家への夢は潰えたのです.

 トルキスタン自治政府のムスタファ・チョカイは,後に自身の回想録で此の事に触れ,「我々の人生そのものであった自治政府は,ロシア革命と民主主義を盲目的に信じることがどんなに空しいことであったかを教えてくれた一里塚であった」と書いています.

 トルキスタンには他にも自治政府がありました.
 カザフ地区の代表者達は,1917年12月5~13日に,オレンブルグで開いた全カザフ第2回クリルタイで,アラシュ・オルダ自治政府の設立を宣言しました.
 この会議の構成員はカザフの著明な知識人達で,アリ・ハン・ボケイホノフ,アフメト・ボイトゥルシノフ,X.ドストムハメドフ等でした.
 この大会で,カザフの地を統合した新しい国に「アラシュ・オルダ」の名称を与え,その首都をセミパラチンスクに定めました.

 アラシュ・オルダ自治政府の臨時政府は定期人民会議を組織し,その議会は25名で構成され,ロシア人にその内10議席が割り振られました.
 アラシュ・オルダ政府の首相には,アリ・ハン・ボケイノフが選ばれ,この政府はトルキスタン自治政府の状況を見て,シベリアとカザフスタンでソヴィエト政府に対抗して戦っていた白軍と関係を結び,ソヴィエト政府と敵対する姿勢を取ります.

 1918年6月,アラシュ・オルダ政府は次の様な決定を下しました.
「ソヴィエト政府の出した総ての法令は,アラシュ・オルダ領域内では無効とする.」
 しかし,アラシュ・オルダ政府とカザフ民族政府の支配に対し,ボルシェビキも白軍も反抗しました.

 1919年2月,ウファの町でロシア臨時政府の資格で白軍により組織されていたウファ政府は,アラシュ・オルダ自治政府を廃止する決定を下しました.
 また,カザフスタンのボルシェビキ政府も1919年12月,アラシュ・オルダを非合法組織と宣言しました.
 結局,1920年初めにはアラシュ・オルダ自治政府はその機能を停止します.
 全連邦中央実行委員会(BMIQ)はその時の決定で,アラシュ・オルダ政府職員と軍人の罪を問わないとの声明を発表しますが,1920年終わりには早速アラシュ・オルダの全指導者やその軍隊で活動していた者達を弾圧し始めました.

 時計の針を戻して,1918年4月30日,コーカンド自治政府を滅ぼしたトルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国は,首都をタシュケントに定めました.

 この政府は,独善的なロシア人共産主義者の巣窟と成り果て,コーカンド自治政府を滅ぼし,ヒヴァ・ハン国を1919年に,ブハラ・アミール国に革命を仕掛けて,それぞれの政権を転覆させています.
 こうして,この政権は中央アジアの共産化に大きな役割を果たしました.
 勿論,この政権はモスクワのトルキスタン代表部と言う位置づけでしか無く,モスクワ中央から軍事援助,経済援助を受け,その指示に基づく政治を行ったに過ぎません.
 その後,ロシア共産党組織の一部となったトルキスタン共産党は,トルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国の政権与党となり,1918年から24年まで政権を担うことになります.
 そして,1924年に,中央アジアでの民族境界策定を実施と共に活動を停止しました.

 結局,中央アジアの人々にとって,政権交代は何の益ももたらさないばかりか,更なる災厄をもたらしてきたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/01 23:24

 当時,トルキスタンには君主国が2つ未だ残っていました.
 とは言え,ロシアの保護国であり,ただただ,名目上の独立国家となっていた訳ですが.

 まず,ヒヴァ・ハン国は1919年11月にトルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国の赤軍の援助により,「人民革命」が起きて,政府が転覆します.
 その結果,1920年2月にホラズム人民共和国が誕生しました.
 首都はヒヴァに置かれ,広さは62,000平方キロメートル,人口は60万人,民族構成はウズベク族中心でその他にトルクメン,カラカルバク,カザフなどからなっていました.

 この革命を主導したホラズム共産党は1919年初め,トルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国に背いてトルトコルの町で創立され,11月に政権を奪取しました.
 ホラズム赤軍部隊は,王位に固執したジュナイード・ハンを倒すことでホラズム革命を支援しました.
 ただ,ホラズム革命自体は,その土地のジャディード達による近代化運動の結果でした.
 しかし,ホラズム・ジャディード達が,赤軍に援助を求めたことが悲劇の始まりであり,自動的に新しい共和国をロシア・ボルシェビキの影響下に置いてしまいました.

 1920年4月26日に,ソヴェトによる第1会全ヒヴァ議会が招集され,この会議に於いて正式にホラズム人民共和国が正式に宣言され,最初の憲法が採択されました.
 この憲法では,土地と生産手段に付随する私有財産,シャーリアに基づく裁判が守られていました.
 ところが,時間が経つにつれてホラズム人民共和国はソヴィエト化が進み,共和国の旗さえもそれに反映されていきました.

 1921年,ホラズム共産党(XKP)の第1回大会が開催され,1922年になるとこの党はロシア共産党の組織の一部に成り下がりました.
 1923年の第3回大会では,ホラズムに於ける社会主義建設プログラムが採択され,10月には全ヒヴァ・ソヴェトの第4回大会が開催されて,ホラズム人民共和国を,ホラズム・ソヴェト社会主義共和国にすることが宣言されました.
 そして,1924年9月29日~10月2日に開催された,全ヒヴァ・ソヴェトの第5回大会では,中央アジアに於ける民族境界策定に従って,ホラズム・ソヴェト社会主義共和国の人々に対し,新たにウズベキスタン並びにトルクメン・ソヴィエト社会主義共和国の創設と,その中に編入されるカラカルパク自治区設置の許可を与える決定を承認しました.
 この結果,この地で約1,000年間続いていた独立国家は消滅することになった訳です.

 一方,ブハラ・アミール国でも,ジャディード達が1918年3月,コーカンドでトルキスタン自治政府を地に染めたトルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国のボルシェビキ達に援助を請い,アミールに対する戦いに参加してくれる様依頼をしました.

 これまた,自ら狼を引き入れることになった訳です.
 しかし,コーカンドの戦闘が楽に終結したのに慢心した赤軍司令官コレソフは,ブハラに出兵したものの,アミールの軍に大敗を喫してしまいました.

 1920年9月2日,ブハラ問題に対処する為,モスクワからミハイル・フルンゼ指揮下の歴戦の赤軍部隊が派遣されてきます.
 こちらは,アミールの軍を鎧袖一触で下し,アミールをその座から追放しました.

 この結果,9月14日にブハラ人民共和国の成立が宣言されました.
 この国は,ホラズムよりも大きく,面積は182,193平方キロメートル,人口は220万人を超えていました.
 住民の民族構成は,ウズベク,トルクメン,タジクなどで,首都は勿論ブハラに置かれました.
 ブハラ人民共和国の初代大統領はウスマン・ホジャ・ポラトホジャベイ,首相はファイズーラ・ホジャエフで,何れも彼らはブハラ・アミール時代のジャディード運動の指導者でした.

 ところが,大統領のウスマン・ホジャは1921年までボルシェビキと共同歩調を取っていたものの,それを棄ててブハラ東部で自由国民運動に参加します.
 一方のホジャエフは共産主義者との協力関係を長らく続け,1938年に死亡するまで指導者の地位にありました.

 とは言え,この国の未来も暗いものでした.
 ホラズムと同様に,この国も1歩,又1歩とソヴィエトの影響下に入っていきます.
 1921年3月4日,ロシアとブハラ人民共和国との間で,友好と相互援助についての同盟条約が締結され,この協定に基づき,赤軍は当時ブハラ人民共和国で,最高潮に達していた自由国民運動の掃討を行う為,共和国内で自由に行動出来る特権を手にすることになります.
 また,ソヴィエトの勧告に従い,ブハラでは土地改革が実施され,土地私有が否定されました.

 そんな時,ブハラに現れたのが,オスマン・トルコ帝国で政治指導者の地位に就き,先の大戦を指導していたエンヴェル・パシャでした.
 エンヴェル・パシャは汎トルコ運動を標榜しており,この地で盛り上がりつつあった自由国民運動の指導者に就任しました.
 まさにその時,ウスマン・ホジャ始め幾人かのブハラ人民共和国リーダー達がこの自由国民運動に移った訳です.

 しかし,赤軍は1921~23年の掃討戦で相次いで勝利を収め,この運動の鎮圧に成功しました.
 結局,1924年9月19日,ホラズムと同じ様に全ブハラ・ソヴェトの大会で,ブハラ人民共和国をブハラ・ソヴィエト社会主義共和国とする宣言が採択され,それから間もなく,トルキスタンで実施された民族境界策定に従いこの国は発展的に解消され,その領域はウズベキスタン,トルクメニスタン・ソヴェト社会主義共和国とタジク自治ソヴェト社会主義共和国に分割されてしまいました.
 此処に,ブハラも国として消滅するに至った訳です.

 少し時計の針を戻して,1922年12月30日,ボルシェビキ達はほぼ内戦に勝利を決定づけ,ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立しました.
 そして,モスクワは,トルキスタンをその機構の中に組み込もうと意図します.

 こうして,1924~25年に掛けて,中央アジアで「民族・共和国境界策定」政策を実施します.
 モスクワの指示に従い,ブハラ共産党中央委員会は1924年2月25日,ホラズム共産党中央委員会は3月3日,トルキスタン共産党中央委員会は3月10日,何れもソヴィエト・トルキスタンに於いて民族境界策定の実施を決定しました.
 これは,第2次世界大戦後でも屡々顔を覗かせる「地方諸人民の希望と意志に基づく」と言う論理での粉飾です.
 兎に角,1924年6月12日,ロシア共産党政治局は「中央アジア各共和国の民族境界策定について」と言う決定を承認しました.

 この決定に基づき,夏には中央アジアの人々に新しい民族境界を周知徹底させるばかりでなく,更にその準備作業に入ることを命じられ,秋には新しい連邦共和国が設立される運びとなりました.
 これに反対したトルキスタン,ブハラ,ヒヴァの愛国者達は,ボルシェビキの分割政策に反対して最後の戦いに臨みます.
 しかし,共産党中央は,特にその時点でトルキスタンの指導的地位にあったリスクロフ,ホジャエフ,ラヒムバイエフなどの愛国者を,「民族主義者」とか「排外主義者」「汎トルコ主義者」「汎イスラーム主義者」であると非難し,彼ら愛国者の言う「統一トルキスタン」とか「大ウズベキスタン」の主張を激しく否定しました.

 そして,反対運動を徹底的に弾圧し,5つのソヴェト社会主義共和国,2つの自治ソヴェト社会主義共和国,1つの自治州に分割された訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/02 23:20


 【質問】
 中央アジア諸国はいつごろ,どのようにしてソ連邦に併合されたのか?

 【回答】

 1924年10月24日,所謂「民主的な」手続きに伴い,中央アジアの各地域はそれぞれソヴェト社会主義共和国などに再編されました.

 元のトルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国のフェルガナ州とシルダリヤ州,ブハラ人民共和国の大部分とホラズム共和国のタショブスから外の総ての地域は,ウズベク・ソヴェト社会主義共和国となりました.
 首都はサマルカンドに置かれ,人口は4,701,788人で,その内ウズベク人の割合は74.2%でした.
 政権党はウズベキスタン共産党,最高国家機関はウズベク・ソヴェト社会主義共和国最高ソヴィエトで,,政府はウズベキスタン・ソヴィエト社会主義共和国閣僚ソヴェト,1925年5月13日にソヴィエト連邦の機構の中に組み込まれました.

 なお,この時はタジク自治ソヴィエト共和国もこの国の中に含まれていましたが,1929年にタジクは分離して独立した連邦共和国となり,1930年に首都がサマルカンドからタシュケントに移されています.

 トルクメン・ソヴェト社会主義共和国は,元のトルキスタン自治ソヴェト共和国のフェルガナ州とシルダリヤ州を除いた地域とホラズム人民共和国の地域から構成されていました.
 面積は488,100平方キロメートルで,首都はポルトラスクに置かれ,1927年にこの市はアシュハバードに名称が変更されました.

 政権党はトルクメニスタン共産党,最高国家機関はトルクメン・ソヴェト社会主義共和国最高ソヴィエトで,政府はトルクメニスタン・ソヴィエト社会主義共和国閣僚ソヴェト,成立の3日後である1924年10月27日にソヴィエト連邦の機構の中に組み込まれました.
 因みに,ソ連の崩壊による連邦からの離脱は1991年10月27日なので,丁度77年間その機構の中にいたことになります.

 タジクについては最初,1924年10月14日にウズベク・ソヴェト社会主義共和国の中の自治ソヴェト社会主義共和国の一員として成立し,先述の様に1929年10月16日に連邦共和国への昇格が為され,ソヴィエト連邦の中に直接加入しました.
 面積は143,100平方キロメートルで,首都はドゥシャンベに置かれ,人口は120万人でした.
 この分離の際,ブハラ人民共和国の東ブハラ州が山地のバダフシャーン自治州と共に,ウズベク・ソヴェト社会主義共和国のホジャンド地区がタジキスタンへの援助として付けられました.

 政権党はタジキスタン共産党,最高国家機関はタジク最高ソヴィエトで,,政府はタジキスタン閣僚ソヴェトです.
 独立後,1929年12月5日にソヴィエト連邦への加入が認められました.

 カザフスタンは元々ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国に組み込まれており,1920年8月26日に「キルギス」自治ソヴェト社会主義共和国として成立しました.
 これは,トルキスタンのロシア人官僚達がこの地方の民族の違いがよく判らず,適当に付けた結果です.
 最初の首都はオレンブルグでした.

 1924~25年の民族境界策定の後,トルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国内のカザフ人が住む州とカラカルパク自治ソヴェト社会主義共和国地域とで,カザフ自治ソヴェト社会主義共和国が成立しますが,1925年にオレンブルグ州が無理矢理理由も無くカザフ自治ソヴェト社会主義共和国から引き離され,ロシアに加えられました.
 その結果,首都が消滅する事態となり,カザフスタンの首都はクズルオルダに移されました.

 1930年に今度はカラカルパクが分離してロシアに編入され,最終的に残った地域が1936年12月5日,カザフ・ソヴェト社会主義共和国としてロシアから分離して連邦を構成する1共和国となりました.
 首都は三度移転してアルマトゥとなり,面積は27,173,000平方キロメートルを誇りました.
 政権党はカザフスタン共産党,最高国家機関は最高ソヴィエト評議会で,,政府はカザフ・ソヴェト社会主義共和国閣僚ソヴェトです.

 カザフスタンと同じく1936年12月5日にソ連邦の1共和国として昇格したのがキルギスです.
 元々は1924年10月14日に,ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の中にカラ・キルギス自治州として設置され,1926年2月1日にキルギス・ソヴィエト社会主義共和国に昇格しました.
 更に元のトルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国内のキルギス人居住地域が加えられました.
 前述の通り,1936年にキルギスに対する連邦共和国への加入の誘いがあり,そのままソヴィエト連邦に加盟しました.

 首都はビシュケクで,後にフルンゼへと改称されました.
 面積は198,500平方キロメートル.
 政権党はキルギス共産党,最高国家機関はキルギス・ソヴィエト社会主義共和国最高ソヴィエトで,,政府はキルギス・ソヴェト社会主義共和国閣僚ソヴェトです.

 1924年,かつて中央アジアの最高国家機関であった全連邦中央実行委員会トルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国は,カラカルパク人居住地域にカラカルパク自治州の設置を決定し,1925年2月19日にカラカルパク自治州が設置されました.
 この新しい自治州にはトルキスタン自治ソヴェト社会主義共和国のアムダリア区とホラズム人民共和国の数地区が分与され,首都は当初トルトコルに置かれました.

 当初,カラカルパク自治州は前述の通り,カザフスタン自治ソヴェト社会主義共和国の中にありました.
 しかし,1930年7月20日にこの地域はロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国に編入され,自治州から1932年3月20日にカラカルパク自治ソヴェト社会主義共和国に昇格したのも束の間,1936年12月5日にはウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に編入されました.
 1939年には首都は,トルトコルからヌクスに遷都します.

 面積はウズベキスタン領域の37%を占める160,000平方キロメートルで,統治はウズベキスタン共産党カラカルパク支部が行い,共和国の最高機関はカラカルパク自治ソヴェト社会主義共和国最高ソヴィエト,政府はカラカルパク自治ソヴェト社会主義共和国の閣僚ソヴェトでした.

 山岳民は,険しい山に隔てられている分,様々な独自文化を擁しています.
 この為,山岳部のバダフシャーンは1923年7月に山岳バダフシャーン自治州として早くから自治権を付与されていました.
 その後,トルクメン自治ソヴェト社会主義共和国に編入され,1925年1月2日からはタジク自治ソヴィエト共和国の中に移され,ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に属することになりましたが,後にタジク自治ソヴィエト共和国がソ連邦内の共和国に昇格すると,それに付属されます.
 面積は,タジキスタン領域の44.5%を占める63,700平方キロメートルで,自治州の州都はホログでした.

 これらの国々や地域は,1991年にソヴィエト連邦が解体すると相次いで独立や自立を模索することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/03 22:53
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 第三次ナゴルノ・カラバフ紛争(仮称)の概要を教えてください.

 【回答 válasz】

 ナゴルノ・カラバフ紛争が再燃してから一週間が経とうとしています.
 今の所アゼルバイジャンも,ナゴルノ・カラバフ自治州をアルファツ共和国と自称して占領し続けているアルメニアも,戒厳を布告して国家総動員体制を敷くなどして,どちらも譲歩する様子はありません.

 2020年9月27日に戦闘が再開したナゴルノ・カラバフでは,アゼルバイジャン空軍はイスラエルのハーピーや同盟国トルコからのバイラクタールTB2といったUCAV(無人攻撃機)でアルメニア空軍の9K33オサーSAMや陸軍の戦車を撃破し,ナゴルノ・カラバフに侵攻.
 民間人を含めて少なくとも300人が死亡し,10月10日に一時停戦しましたが,その後も散発的に戦闘が続いています.

 アルメニア空軍はSu-30が4機,Su-25攻撃機を10機しか保有していないのに比べて,アゼルバイジャン空軍はMiG29が49機,MiG21か21機,Su-25が34機,JF-17が4機で,後述しますがパキスタンから更なる調達が予想されるので制空権はアゼルバイジャン側にあり,アルメニア側は無人機相手に苦戦を強いられてる模様.
 さらにアゼルバイジャンの盟友トルコがF-16CやE-7Tなどの戦闘機やAWACSをアゼルバイジャンに派遣しているというアルメニア国防省の報道もありますが,確認はされていません.
 ツイッターではそれぞれが敵国に憎しみめいたレスをしており,1988年のソ連時代に双方の民兵による衝突以来の根深さを見る思いがしました.

 元々ナゴルノ・カラバフはアルメニア領域でしたが,アゼルバイジャンがソ連上層部に掛け合ってアゼルバイジャン領域に変更.
 それ以来アゼルバイジャンとアルメニアは対立を続けて,紛争にまで発展しました.
 それでもソ連時代はソ連軍が治安維持に介入したものの,ソ連崩壊により独立した両国はソ連軍のお下がりの装備で戦闘再開.
 1994年にOSCE(欧州安全保障機構)の仲介で停戦はしたものの,度々停戦違反がありました.

 トルコの支援の背景には,アゼルバイジャン人はトルコ人と同じテュルク系民族で言語も意思疎通が可能なくらい共通しており,トルコ国内にもアゼルバイジャン人が住んでいてトルコ人に同化している事から一つの民族二つの国家と言われるほど緊密な兄弟民族.
 また,バクー油田はソ連時代から開発が進み,油田からのパイプラインはアゼルバイジャンからジョージアを経由してトルコにたどり着く事から経済的結びつきも強く,両国は国家連合と言っても差し支えない程.
 相違点はトルコがイスラム教スンナ派,アゼルバイジャンがかつてペルシャ=イランに支配された経緯からシーア派ですが,トルコは宗教的結びつきより民族的結びつきを重視するからあまり気にはなっていないようです.

 一方,アルメニアとはオスマン帝国時代の第一次世界大戦に発生したアルメニア人虐殺では謝罪を拒否.
 さらにアルメニアの東アナトリアにあるアララト山の領有権を巡り,しばらくは国交もなく国境を封鎖していたくらい対立関係にある.
 国交は回復はしたものの,国境は閉鎖されたままで両国は度々この二つの問題で対立.
 さらに兄弟のアゼルバイジャンの領土を占領したのも,感情悪化の理由の一つ.

 さらにイランは国内のアゼルバイジャン人がたびたび民族紛争を起こしているから,同じシーア派のアゼルバイジャンではなくアルメニアを支援.
 と思いきや,スンナ派のパキスタンがトルコとアゼルバイジャンを支援を表明.
 JF-17売却もその一つ.
 その理由については明確なソースがありませんので確かな事は言えませんが,アゼルバイジャンから原油を廉価でパキスタンに輸出してるからではないかと愚考します.
 当然パキスタンの敵国・インドはアルメニア支持を表明.
 ナゴルノ・カラバフ紛争は単なる二国間紛争では無くなりつつあります.
 ロシアはアルメニアとは伝統的に友好関係があり,アルメニアはCSTO(集団安全保障条約機構)の加盟国.
 さらにアメリカフランスには国内にアルメニアロビーがあり,今の所三カ国は停戦を呼びかけていますが,アルメニア・アゼルヴァイジャンどちらも聞く耳を持ちません.
 ただ,アゼルバイジャン外務省は日本に仲介を呼びかけています.
 もっともナゴルノ・カラバフからのアルメニア軍の撤退を条件としていますが….

 ナゴルノ・カラバフ紛争については順次動きがあれば書いていきます.

ねらっずーり in mixi, 2020年10月04日
青文字:加筆改修部分


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