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諜報FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

Quick Jump

書籍

ゾルゲ事件

「VOR」◆(2013/05/23) 英諜報機関は1941年2月時点で日本の太平洋戦争開戦を関知していた

「スパイ&テロ」:ソ連スパイ「ナザール」

「スパイ&テロ」◆(2010/09/13)『日米秘密情報機関』

「そっと××」◆(2010/08/09)インパール情報戦〜その時,日米首脳を決断させたもの〜

「そっと××」◆(2010/08/09)インパール情報戦2〜英国情報部をも泣かせた日本の戦略決定のあり方〜

●書籍

『菊と刀』(ルース・ベネディクト著,光文社,2008.10)

 本書の第一意義は歴史的位置付けで,内容そのものは,不明瞭な情報や誤解に基づく分析もあるが,それでも日本文化について考えなおす十分な機会になる程度には充実してる.
 鋭い刃のような分析というよりは,上等な真綿という感じ.

――――――軍事板,2011/05/20(金)

『戦艦大和』(平間洋一編,講談社,2003.5)
 イタリア諜報機関の活躍ぶりが,ちょこっと書いてある

『スターリンの対日情報工作』(三宅正樹著,平凡社新書,2010.8)

『読後焼却』(ラディスラス・ファラゴー著,朝日ソノラマ文庫,1985/6)

『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』(中田整一著,講談社,2010.4)

『トレイシー』を読んで思ったこと」(2010/05/10)■「kojii.net」

『日米情報戦』(実松譲著,光人社NF文庫,2009.11)

『フランコと大日本帝国』(フロレンティーノ・ロダオ著,晶文社,2012.2)

 主に,フランコ政権成立後の,日本とスペインの外交関係について述べた本で,今までその実態が余り知られていなかった,日本の対米諜報網の全貌や,中国やフィリピンを巡る日西両国のせめぎ合いなどが,赤裸々に描かれている.
 意外に枢軸国と雖も,一枚岩では無い事がよく判る本だったりする.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2012/02/13(月)

『米海軍から見た太平洋戦争情報戦 ハワイ無線暗号解読機関長と太平洋艦隊情報参謀の活躍』(谷光太郎著,芙蓉書房出版,2016)

 国家が総力を挙げて取り組むのが戦争で,そのとき情報はすべてをつなぐ緊要点になります.
 国が持つ情報能力は,戦争という事態に接したとき最大限に発揮されます.

 ですから戦時の情報史については,あらゆる角度から眺める必要がありますし,味わう意味があります.

 眺める角度の一つに,
「当時の敵国の視点」
があります.
 この本は,大東亜戦争太平洋戦線(いわゆる太平洋戦争)における主敵「米海軍」の情報戦についてまとめた本です.
我の視点から見た情報戦と
敵の視点から見た情報戦を
突き合わせることではじめて情報戦の全貌が浮かび上がってきますし,教訓を得ることができるのではないでしょうか?

 大東亜戦争太平洋戦線(いわゆる太平洋戦争)で,がっぷり四つで戦った日米両国.
 太平洋戦線の主役は海軍でしたが,想像以上にあっさりと米海軍に軍配が上がりました.

 その理由についてこれまで種々言われてますが,比較されてきたのは目に見える作戦用兵の話ばかりで,目に見えない「情報」面の比較が十分研究されているとは言えない気がします.
 われわれ国民が,大東亜戦争太平洋戦線敗戦の歴史から何を学ばなければいけないか?
 それは作戦用兵の分野より情報分野の方が大きいのではないでしょうか?
・敵と我の情報取り扱いのどこがどう違ったのか?
・当時のわが国には何が足りなかったのか?
に真摯に取り組み,情報への関心を高めて今に活かす必要があるのではないでしょうか?

 本著は,そのきっかけとなるとても良い本です.
 ひとつひとつの出来事が興味深く,つい読みふけってしまいますが,この種の情報に接するときに脊髄反射で出てくる「だから日本は・・・」という感覚を捨て,全体を俯瞰する視座を失わないよう意識して読むと,今に活かせるダイヤモンドがあちこちから顔をのぞかせてくるでしょう.

 著者はいいます.
 わが国の歴史で情報が重視された時代は戦国時代と幕末明治初期のみであり,いずれも例外的な時代だった.
 国家存亡の危機から遠のくと,先祖返りが始まる,と.
 大東亜戦争太平洋戦線で戦った帝国海軍の情報軽視の姿勢は,まさにその構図に当てはまります.
 ただ,より正確に言うと,国全体がそうなったから軍に反映された,という見方のほうが妥当では?と思います.
 国家国民が,軍事や情報への意識・対処を怠ると歴史は繰り返されることになる.
 その意味で,今のわが国をとらえなおす本でもありましょう.

 軍事・国防・安保・情報関係者,研究者はもちろん,戦史・情報史ファンや情報オタクにも手に取っていただきたい本です.

------------発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2018.9.20

●ゾルゲ事件

CRS@空挺軍 in mixi◆(2010年01月13日)ソビエト式名誉回復
ゾルゲ事件の画家にロシア勲章=宮城与徳やっと「名誉回復」
ソ連の勲章45年ぶりに授与 ゾルゲ事件の宮城の遺族に
>ソ連の2等祖国戦争勲章.
Орден Отечественной войны
Order of the Patriotic War
 ソ連の勲章順から8番目 高位の勲章である
 ・・・さて佐藤優氏はどうコメントするかねぇ
ゾルゲ事件関与者・宮城与徳さん 大祖国戦争勲章を受賞
 さすがロシアの声 詳しく紹介してるぜ.
 そばに立っている士官は,もちろんGRUの(ry

「VOR」◆(2012/05/09)駐日ロシア大使 ゾルゲの墓に献花

「VOR」◆(2012/11/08)ウラジオストク ソ連スパイ・ゾルゲの記念碑建立計画

「VOR」◆(2013/03/01) 沿海地方に リヒャルト・ゾルゲ広場が登場

「ワールド&インテリジェンス」◆(2013/04/16) ゾルゲ事件 端緒情報の謎

『ゾルゲ事件資料集 米国公文書』(白井久也編著,社会評論社,2007.6)

『ゾルゲ,上海ニ潜入ス 日本の大陸侵略と国際情報戦』(楊国光著,社会評論社,2009.11)


 【質問】
 日中戦争〜太平洋戦争期にかけ,
日本のスパイに川島芳子
国民党スパイに鄭蘋茹
がおりますが,共産党スパイとして名を馳せた人物はいるのでしょうか?
もしいるのなら,何という名でどういった人物だったのでしょうか?

 【回答】
 頼軍強.
 国民党に潜伏.
 幹部党員まで出世し, 機密情報を共産党に送り続け, また日本と国民党の戦いが泥沼化するよう策動した.
国共内戦後の消息は不明.

世界史板
青文字:加筆改修部分


  【伝説】
 太平洋戦争前からその中盤にかけて,米国は日本の外交暗号,海軍暗号を次々に解読していったが,陸軍暗号を最後まで読解することが出来なかった!!


【回答】
 無限乱数を用いたモノに関しては,ほぼ本当.

 戦後,陸軍暗号作成の関係者がGHQに尋問されたとき,尋問官に陸軍の暗号の総評を逆に尋ねたところ,
「コンプリート・パーフェクト」
 と云って誉められたそうな.

 無限乱数による暗号は,コードブックに書かれている数字を,日本本土の参謀本部と現地部隊のみが持つ,一対の乱数表の数字を足し算して出た数字を発信するもので,一度使った乱数表は二度と使われることはなく,破棄されていました.

 乱数表自体は薄い紙で作られ,それを黒い紙と交互に挟んで一冊の乱数帳に纏められ,潜水艦等で現地部隊に配布されていました.
 乱数帳の表紙に数字が書かれており,現地部隊は最初にその数字を参謀本部に通告して,どの乱数帳を使ってやりとりするかを決めていたそうな.

 しかしながら,完全に解読されてなかったか? と云うと,そうではなく,昭和18年6月頃,米軍は沈没した輸送船から陸軍船舶用暗号のコードブックを回収し,これの解読に成功しています. 
 ただ,船舶暗号の場合,一日400通ぐらい発信されているのですが,米軍は,昭和18年6月から昭和19年2月までの約8ヶ月の間で4000通程度しか解読していません. 解読されたモノの中には,発信から数ヶ月後に解読されたモノもあったとか.

 ソースは,「歴史と人物」60年冬号の座談会「日本陸軍の暗号はなぜ破られなかったのか」.

ベタ藤原 in mixi支隊


 【質問】
 リヒャルト・ゾルゲとは?

 【回答】
 ソ連は1941年の段階で,対日政策をどう考えていたのでしょうか?
 ソ連側資料では,正面の敵であるドイツ軍を全力を挙げて防御する為,日本を静止させておき,更に周辺の隣国を対独協力から脱落させると言う目的を持っていました.

 その第一の標的がフィンランドであり,彼の国を離脱させる為,スターリンは1941年8月4日に親書を送り,フィンランドの中立化と対独協力からの離脱を図る様,米国から圧力をかけることを要請し,対フィンランド講和の為には若干の領土上とをも辞さないとしています.
 尤も,この領土とは人が全く住まないラップランドだったりする訳ですが….

 次いで,南方のイランに関しては,1921年のソ連・イラン条約によってイランに進駐することとし,英国と呼応して1941年8月25日に北部イランを制圧します.

 残る日本とトルコについては,
「これら諸国からの攻撃の潜在的脅威を考慮して,極東国境と南方国境とに,ファシスト・ドイツとの戦闘に支障を来さない程度の,相当の兵力を止めた」
訳です.

 ソ連をして最も対日警戒心を募らせたものは,1941年7月,関東軍がその兵力を,40万人から一挙に70数万人に増加し,満州の野に一大演習を展開したことでした.
 その情報は既に日本の中枢部に入り込ませた諜報者によって,探知されていました.
 言うまでもなく,有名なスパイ,ゾルゲです.

 因みに,リヒャルト・ゾルゲは,1924年,フランクフルトでのコミンテルン大会で,初めてソ連の有力者に認められました.
 その後,中国で活動した後,1933年以降情報活動の密命を帯びて日本に派遣されました.
 彼の出自は父方がドイツ人で,母方がロシア人であり,該博な国際知識と思想的情熱を持ち,同志を糾合しながら,自らは在日ドイツ大使館の最高スタッフに接触すると共に,日本人と組んで近衛文麿の側近者から情報を集め,上層部の動向を探知していました.
 その後については知られているとおりですが,彼の死後20年を経た1964年9月14日付のプラウダ紙には,初めて「同志リヒャルト・ゾルゲ」なる題下に,彼の隠れた功績を称え,11月5日にはソ連国家から「ソ連邦英雄」の名誉称号が追贈されています.

 ソ連側資料では,既にゾルゲは1941年3月5日,独外相リッベントロップから東京のオット駐日ドイツ大使に宛てた電報写しを添えて,独軍が同年6月後半に対ソ攻撃に出ることを報告すると共に,正確な開戦の日付も無電で報告したとなっています.
 更に,ソ連側資料では,次の様に書かれています.

――――――
 ソ連政府は,日本の対ソ意図と東京に於ける政府と軍部の対立について諜報を受けた.
 7月30日,ソ連の名諜者ゾルゲは,モスクワ宛てに「日本は厳正中立を維持するに決した」と,無電を打ってきた.
 それから間もなく,更にまた東京では,東南アジア攻撃が最終的に決定したこと,そのために日本軍のソ連領土への即刻攻撃に関するドイツの懇請が拒否された,と言う報告が送られてきた.
 9月6日,御前会議の翌日には,ゾルゲは日本が年内に対ソ攻撃を決行し得ないことと,太平洋戦争の準備に忙殺されていることをモスクワ宛に報告してきた.
 数日たって,彼は既に1通の無電を送ってきた.
 それは,「1941年9月15日以降ソ連極東は,日本側からの攻撃の危険なしと認めうる」と言うものであった.
――――――

 ゾルゲは日米関係を研究し,東京とワシントン間の交渉の成り行きを注意深く見守った上,米国と日本との妥協は不可能であり,太平洋戦争は1941年末には勃発するとの結論を得ていたのです.
 ソ連側資料に依れば,この報告を受けて,モスクワ郊外の防衛戦でソ連が最大の危機に直面していた時,極東から狙撃師団3個,戦車師団2個が送られたのです.

 後にスターリンは,モロトフの外交を賞賛して,「巧みな外交は二個三個の師団の勢力に匹敵する」と述べていますが,ゾルゲの功績もまた数個師団に匹敵するものでした.

 時に,今回の〔尖閣諸島漁船体当たり事件で,船長釈放の〕決断を下した某国政府の外交当局者は,その国に何個師団の損害を与えたのでしょうかねぇ(皮肉.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/25 21:46


 【質問】
 リヒャルト・ゾルゲはコミンテルンのスパイだったのか?

 【回答】
 No.
 実際にはソ連軍第4本部のスパイだった.
 1935年の第4本部の諜報員名簿にも,東京の主要メンバーとして彼は登録されている.
 「ゾルゲはコミンテルンのスパイ」という誤解が広まったのは,ゾルゲが彼の手先の尾崎秀美にそのように信じさせたらしいことと,裁判で「コミンテルンの手先」と断定されたためだと思われる.

 【参考文献】
『ゾルゲ 引裂かれたスパイ』(ロバート・ワイマント著,新潮社,1996.6.15)

【ぐんじさんぎょう】,2008/11/23 20:30


 【質問】
 なぜゾルゲは尾崎らに対し,コミンテルンのスパイだと偽ったらしいのか?

 【回答】
 外国の共産主義者には,コミンテルンのほうがウケがいいからと考えたようだ.
 ゾルゲにとって日本での人脈を広げるためのキー・パーソンだった尾崎は,帝大在学中から共産党シンパだった.
 そのため,尾崎と宮城与徳は「コミンテルンのために働いた」と検事に答え,ヴーケリッチは「コミンテルンが司令塔だと思うが確認はしていない」と答えた.
 ゾルゲ本人は,軍事法廷に引き出されるのを恐れた模様で,そのために赤軍との繋がりを認めなかった.
 これは,国体変革を企てた容疑でゾルゲを死刑台に立たせたがっていた検察にとっては好都合だったようだ.

 【参考文献】
『ゾルゲ 引裂かれたスパイ』(ロバート・ワイマント著,新潮社,1996.6.15)

【ぐんじさんぎょう】,2008/11/24 22:51
に加筆


 【質問】
 ゾルゲ・グループ以外に,ソ連のスパイは当時の日本にいたか?

 【回答】
 暗号名「エコノミスト」と呼ばれる日本人スパイが,日本政府内部にいたことが,近年明らかになっている.
 以下引用.

対米開戦方針,ソ連に伝達 政府内の日本人スパイ

 【モスクワ13日共同=松島芳彦】太平洋戦争が始まった一九四一年,日本政府内部に暗号名「エコノミスト」と呼ばれるソ連の日本人スパイが存在し,日本の対米開戦方針にかかわる重大情報をいち早く最高指導者スターリンに報告していたことが十三日までに,ソ連国家保安委員会(KGB)の前身である内務人民委員部(NKVD)の極秘文書から明らかになった.
 同年十月には,東京でソ連のスパイ,ゾルゲらが逮捕されており,ドイツと日本の挟撃を恐れるソ連が,日本の中枢部に迫る重層的な情報網を築いていた実態を示すものだ.
 共同通信が入手した内務人民委員ベリヤからスターリン,モロトフ外相への四一年九月九日付「特別報告」によると,「エコノミスト」は,当時の左近司政三・商工大臣が九月二日,要人との昼食で,日米交渉決裂なら開戦となり「九月,十月が重大局面」と明かしたと報告.また,対米関係悪化のためソ連とは和平を維持し,外交方針はこれらの原則を基礎に決めるとの商工大臣発言を伝えた.
 その四日後の九月六日,日本は御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定.対米交渉の期限を十月上旬,戦争準備完了の目標を同下旬とし,開戦方針を固めた.
 「エコノミスト」の報告は,元海軍次官で機密に通じた重要閣僚の発言を詳細に報じ,御前会議の決定をおおむね先取りしており,対独戦に専念するため日本の対米開戦を期待していたソ連指導部には,極めて貴重な情報だったとみられる.
 「エコノミスト」の正体は不明だが,大臣の昼食に同席,または会話内容を直接知り得る立場にあったとみられる.東京のソ連大使館にいたNKVD要員ドルビンと連絡しており,外交団と公に接触できる高い地位の公務員との見方もある.
 同年十一月のベリヤからスターリンへの報告書などにも「エコノミスト」への言及があった.開戦後もソ連に情報を流していた可能性がある.

ソ連指導部が信頼,重視 外交官の可能性も

 ソ連の情報活動に詳しいモスクワ大学のアナトリー・スドプラトフ教授の話
「エコノミスト」はスターリンへの報告書に何度も引用されており,当時のソ連指導部が信頼性が高い情報源として重視していたことが分かる.日本で活動したソ連スパイではゾルゲが有名だが,スターリンは「エコノミスト」も含め多くのスパイの情報を基礎に戦略を策定していたとみられる.
 スターリンへのベリヤの報告を調べると「エコノミスト」周辺や,ルーズベルト米大統領周辺への工作を通じ,日米を衝突させようとしたことをうかがわせる記述もある.これはソ連指導部が「エコノミスト」を単なる情報提供者ではなく,政策決定に影響力を及ぼすこともできる重要人物とみなしていた可能性を示す.だが「エコノミスト」が官僚だとすれば,それほどの実力があったかどうかは疑わしい.外交官だったとの証言もある.
 ドイツとの戦いで疲弊したソ連は,非常に厳しい状況にあった.日本がソ連ではなく対米開戦に向かうとの「エコノミスト」報告は高く評価されたのではないか.
 当時日本で活動していたソ連内務人民委員部工作員のドルビンは,このほかにも複数の日本人スパイを担当しており,ベリヤ報告には「サトー」の暗号名で登場する日本人もいる.(モスクワ共同)

日本の情報に大きな関心 ゾルゲとは別のスパイ網か

 下斗米伸夫(しもとまい・のぶお)・法政大教授(ロシア現代政治)の話
 当時のソ連側からみると,日本が南進して対米開戦に踏み切るか,北進してソ連と対決するかは,ソ連軍のシベリア部隊をどのように動かすかを決める上で決定的な意味を持っていた.当時のソ連上層部内に,日本の情報を得ようとするピリピリした雰囲気があったことは容易に想像でき,
 ゾルゲのような軍(ソ連赤軍第四本部)の統括下にあったスパイ網とは別系統の,内務人民委員部(NKVD)統括下のスパイ網があったことは大いにありうる.
 一方で,日本の指導層にも,米内光政元首相や東郷茂徳元外相など日ソ中立条約を重視する人脈と,北進を唱える人脈の間の暗闘があった.ソ連側からの働き掛けを受けてのものかは分からないが,日本政府内部にもソ連にある種のシグナルを送っていた人物がいてもおかしくない.(共同)

政府部内にも左翼思想浸透 思想表に出さず情報提供

 袴田茂樹(はかまだ・しげき)・青山学院大教授(ロシア政治)の話
 一九三〇年代から四〇年代にかけての時代は,ゾルゲと情報を交換していた尾崎秀実(おざき・ほつみ)に代表されるように,日本の知識人層の多くがソ連の左翼思想の影響を受けていた.
 日本の政府部内でも,自らの思想的立場を表に出さない形でソ連側に情報を提供していた人物がいたことは大いにありうる.
 政府部内での左翼思想の浸透は「赤い三〇年代」ともいわれるぐらいで,欧米も含めた世界的な潮流だった.
 ゾルゲは赤軍第四本部の指揮下で情報活動を行っていたが,「エコノミスト」という人物が情報を提供していたという内務人民委員部(NKVD)は,赤軍とはライバル関係にあった組織.
 「エコノミスト」が,ゾルゲとの関係を持っていたかとなると,それは分からないだろう.(共同)

(共同通信,2005/8/13)


 【質問】
『情報戦に完敗した日本 陸軍暗号"神話"の崩壊』(岩島久夫著,原書房,1984.11)
によれば,日本陸軍の主要な暗号は米軍には解読されていたそうですが?

 【回答】
 面白い本だけど,解読されたかどうかの結論は間違ってる本だよ.
 日本陸軍の主要暗号は,原理的に解読不可能.
 その本で紹介されてる事例は,いわゆる解読がされちゃったものではなく,鹵獲した暗号書類を使って,過去の通信の復号に成功したというもの.
 応用が利かないので,戦後までかかって,ほんの数%が復号されたという程度のようだ.

 まあ,それでも役に立つ情報は結構獲られちゃってたので,アメリカの情報収集にかけた努力の凄さを知るって意味では,興味深いと思う.
 サイパンで拾った書類から,ペリリューの守備配置が把握されたりしてたようだ.

軍事板,2011/02/16(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ミッドウェイで日本海軍は暗号読まれて敵空母に待ち伏せされましたが,インド洋で英軍にも暗号を読まれて待ち伏せされてたというのは本当ですか?

 【回答】
 極東合同局(FECB)は1942年時点で,日本海軍の暗号JN-25をある程度解読しています.
 艦隊編成までは無理でしたが,攻撃目標と攻撃日時は解読されました.
 日本海軍による昭和17年3月から4月のインド洋作戦において,日本艦隊は4月1日にセイロンのコロンボとツリンコマリを攻撃することを攻撃する事を知ってました.

 しかし,日本海軍側の理由により攻撃は4月5日に延期されたため,イギリス側の努力は無駄に終わりました.

軍事板
青文字:改修部分


 【質問】
 「第二次大戦中にアメリカ軍は,作戦会議に民間人の専門家を呼んだ」みたいな話を聞いた事がありますが,詳細を教えて下さい.

 【回答】
 それはOSS(乱暴に言えばCIAの前の組織)での話でないかい?
 OSSでは対日分析や宣伝工作にあたり,民間人を
日本の専門家――
・ハーバード大学教授セルジュ・エリセーエエフ博士,
・元駐日参事官ユージン・ドゥーマン
ほか
日系人――
・小出貞二
・許斐氏信(このみ・うじのぶ,現在は許斐仁と改名)
・坂井米夫(朝日新聞通信員)
・藤井周而(ロスの邦字紙「同胞」発行人)
・幸地新政(「同胞」スタッフ)
・中村信義(   〃   )
・芳賀武(横浜正金銀行――現・東京銀行――の元NY支店行員)
・保忠三(画家)
・貴田愛作
・下村忠直
・ケイ・スガハラ(戦後,海運王)

まで幅広く登用していました.
 後の日本共産党の大物,野坂参三もこのとき協力していたそうナ.

 エリセーエフ博士らは評価委員会のメンバーとなって諜略工作の内容を精査.
 日系人は工作の実務に当たりました.
 ちなみに,「狐を使って日本人をばかす」というアイディアを考えたのも,「日本学の大家」エリセーエフらしいとか,
 まあ,戦前アメリカの対日認識レベルはその程度ですな.

 詳しい事は,春名幹男著「秘密のファイル」(共同通信社,2000/4/10)上巻の第2章あたりを.

消印所沢 ◆z3kTlzXTZk :軍事板,2005/09/25(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中田整一『トレイシー』はどう?

 【回答】
 捕虜が情報ダダ洩らしなのは,別に目新しい話でもないが,アメリカの情報収集にかける執念は分かる.
 それと,日本の軍艦のイラストが上手すぎるな.
 捕虜の話だけであそこまで描けるとすると,三波伸介以上の絵師もいたということか.
 こりゃ負ける.
 というか,日本相手にここまでせんでもいいだろってなくらいの全力.

 ただし,日本の捕虜拒否に対し,戦陣訓を理由にもってくるあたりは,私は賛同しかねた.
 戦陣訓「生きて虜囚の辱めをうけず」は,普通に他の軍隊でも言われている,「降伏するな」というレベルの話.
 士気高揚のために,どこの国の軍隊でも程度の差はあれども,「最後まで戦え」は言っている.
 例えば,「アメリカ海兵隊のドクトリン」に記載されている海兵隊のお約束は,戦陣訓に負けていない.

軍事板,2010/07/21(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ルース・ベネディクトとは?

 【回答】
 ルース・ベネディクト Ruth Benedictは文化人類学者.『菊と刀』の著者.

 1887年,ニューヨーク生まれ.
 2歳の時に父は原因不明の熱で亡くなり,母は,娘2人を連れて実家に戻り宣教師になって,各地を回った.
 奨学金で大学に入学.

 生化学者で後にコーネル大学医学部教授となったスタンレー・ロッシター・ベネディクトと結婚.

 その間,彼女は3学期間で人類学の博士号を獲得.
 そして彼女は講師として各地で調査を続け,研究論文を発表.

 1931年,離婚.

 ヒトラーのアーリア民族優秀論に対抗して,彼女は,彼女の先生であるボアズと共に,『人種−科学と政治』を出版,彼女はアメリカ人類学の最も優れた研究者として認められる.

 戦時中,日本軍,日本兵の行動,価値観に大きく戸惑ったアメリカ政府は,ベネディクトに日本研究を依頼.
 彼女は,カリフォルニア州の日本人移民や日本人捕虜たちの話,ジョン・エンブリーの日本村落に関する研究書,日本で製作された映画,さらにはアジア諸国の文化研究など,現地調査以外のあらゆる調査を行い,その研究成果を『菊と刀』という本にまとめた.
 彼女は同書でこう述べる.
「彼等は自分の行動を他人がどう思うだろうか,ということを恐ろしく気にかけると同時に,他人に自分の不行跡が知られない時には.罪の誘惑に負かされる」

 出版翌年,アメリカ人類学会会長となる.

 1948年の暮れ,冠状動脈血栓で死去.


 【質問】
 ルーズ・ベネディクトの「菊と刀」を最初は名著と賞賛したホワイトハウスが,後に悪書に指定したという話をどこかで聞いたのですが,詳細が語られているページを教えて下さい.

 【回答】
 「悪書に指定した」という話は寡聞にして聞かないが,「菊と刀」批判自体は存在する.

http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/benedict.htm
によれば,ラミズは「菊と刀」を次のように批判しているという.

・彼女の分析が自らの方法論を裏切っている可能性がある.
 実際,いくつかの個所では,自文化中心主義(エスノセントリズム)批判の視角が徹底されていないようにも見える.

 また,
『二つの占領統治』と『セイモア・ハーシュの一撃』
というコラム(?)によれば,
”余談:マッカーサー占領軍はルース・ベネディクトの矛盾だらけで要領を得ない『菊と刀』をバイブルにしたおかげで,方針がたてられなかった”
,という.

 【関連URL】
『菊と刀』の勉強(000)

マーガレット・ミードとルース・ベネディクト

( from 「はてな」)


 【質問】
 第二次大戦中に,アメリカ軍はナヴァホ語を暗号に使用しましたが,日本側はこれに対して,何の対策もとれなかったんでしょうか?

 【回答】
 なんでナヴァホ語を使ったかというと,日本人で理解できる者がいる可能性が極端に低い上に,文法が非常に複雑で習得が難しいから.

 ナヴァホ語の動詞は,主語だけでなく目的語に応じても変化しました.
 しかもその変化は,目的語が
「長い物(エンピツなど)」
「ほっそりして柔軟なもの(ヘビ,ひもなど)」
「粒状のもの(砂糖,砂)」
「束になったもの(干草など)」
「粘り気のあるもの(泥など)」
などをはじめ,実に多くのカテゴリーに応じて,動詞が一つ一つ変化するのです.
 また,動詞には副詞までもが取りこまれており,たった一つの動詞がまるごと一つの「文」を表わすことさえあります.
 もし,第二外国語としてナヴァホ語を習得しようと思えば,フランス語などとは比較にならない,おそろしいほどの動詞の活用を覚えなければなりません.
 そのため,部族以外の人間がそれを理解することは不可能だったのです.

 こんなわけのわからない言語じゃあ,何語か分かったところで兵士に習得させるのは無理でしょう.
 分かったからといって,当時の日米の戦力差ではどうしようもなかったけど.

 日本軍も鹿児島弁を暗号代わりに使ったという話がある.
 ただ通信傍受や通訳を担当した日系兵士に,鹿児島出身の移住者がいて,内容が筒抜けだったとか.
 そして,自分の活動により,多くの日本人が死んだので悩み,その人は自殺.
 吉村明の「深海の使者」の中に,そのエピソードが出てきます.

 日本もアイヌ人を暗号部門に大量徴兵すれば良かったとも思いますが,方言が多く,共通アイヌ語がなかったので暗号には使えなかったでしょう.
 沖縄方言も,アメリカには沖縄から大量の移住者が行っているので無駄だったでしょう.



 【質問】
 日本の大学で,アメリカインディアンについて研究している関係者は皆無だったんでしょうか?

 【回答】
 いたかもしれないが,軍の担当者がインディアンの言葉だと気付かなければ無理.
 まさか,「この暗号解ける人」みたいに一般公募する訳にも行かないし.

 というか,ナヴァホ族の言語が選定された理由として,言語自体の複雑さに加えて, 「ドイツ及び日本の研究者が寄り付いてない」ってのがあったと聞く.
 もちろん言語学者の中にはアメリカインディアン言語の専門家もいた.
 しかし,もしナヴァホ語だと分かっても,研究室の数人で,文献と格闘しながらでは,意味はないだろう.

 【質問】
 第二次大戦中,米軍が日本の重要な軍事施設を把握していたのは何故?
 そりゃ,呉とかの鎮守府や東京とかは判るけど,どうやって群馬とかの中島飛行機とかの存在を知っていたのでしょうか?
 いや,昔から有名だったのかも知れないけど.

 【回答】
 例えば飛行機工場なら,昭和のはじめの絵葉書や昔の航空機写真を探し出す.
 戦前の航空機工場の建設には,先進国である英仏米の協力が必要だったが,当時日本の航空機工場建設を指導した米英仏国人の記録や記憶で,航空機工場の所在地を割り出す.

 さらに,捕虜からの情報.
 日本軍は捕虜になった際の教育をしていなかった.
 「捕虜になる前に死ね」という教育なので,捕虜になった後どうすべきかは教えなかった.
 だから捕虜になった人は,「鬼畜米英」と教わった人たちから親切にされて,雑談ついでにいろんな情報をしゃべってしまった.
 例えば,
「あなたの家の近くには有名な神社がありますよね,で,その近くには有名な飛行機工場がありますね.
 その飛行機工場は最近できた,日本でも最新鋭の自慢の工場じゃないですか.
 すごいですね」
と聞かれると,日本人なら
「いや,某所の工場ほどたいしたものではないですよ.
 あそこはもっとたくさん飛行機を・・・」
と,つい謙遜してしまう.

 さらにはは戦死者の日記や手紙からの分析,飛行機の残骸にある製造番号からの分析によって,大まかな工場所在地や工場の能力を割り出し,本土空襲前にB29の偵察専用機F-13により,徹底的に写真撮影して分析.

 そこまで情報を集めた上で,空襲しています.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 参考になるかどうかわからないけど,大佛次郎「終戦日記」にこんな記述が.

――――――
昭和二十年五月二十二日
(中略)
○ スパイの一例.
 三島にある三菱重工の機械類を新しい丹那トンネルへ疎開させるトラック,途中で老婆に頼まれ,乗せてやると山上の祠に息子の武運を祈願に行くというのだったが,百円札を運転手にくれた.
 憲兵隊に話して捜査すると,祠の内部に無電装置あり.
 他の一名の男と捕えられる.
 老婆は悪いと知らず使われていた.
 これはその運転手自身がゲッティに話したもの.

○ 他の例.
 これはデマかも知らぬが土浦の工場を女の気違いが,いつも口をあけて歩いていて門内にも入る.
 これが調べたら女装の二世だったという.
 とにかく敵は工場の疎開先など,短日時に嗅ぎ出し確実に爆撃する.
 伊那の山中に横穴を掘ったのを,穴に向け機銃掃射までしたくらいで,知っていること驚くばかりだという.
(後略)

 「どうやって」かは分かりませんが,結構知られてたみたいです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 SF作家のコードウェイナー・スミスことポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガー博士ですが,訳された彼の作品の後書きを読むと,必ずと言っていいほど
「中国語で,"名誉"と"義務"に当たる単語をいくつか叫ぶと"I surrender"という英語に聞こえるから,投降したい者はそう叫ぶように」
と宣伝する作戦を朝鮮戦争で立案し実行した,という逸話が載っています.

 コードウェイナー・スミスの話に関しては,『ノーストリリア』の第六刷後書き原文は
「朝鮮戦争では,ラインバーガー中佐としてふたたび軍務についた.
 彼の立案した作戦のひとつは,投降しても体面をたもてると中国軍兵士を説得することだった.
 それには中国語で"名誉"と"義務"にあたる単語をさけぶだけでよい.
 ただ,これらの単語は,正しい順序でさけんだ場合,"私は降伏する(アイ・サレンダー)"という英語に聞こえる」
となっています.

 また,同じくSF作家のジェイムズ・ティプトリー・ジュニアことアリス・B・シェルドン博士ですが, 彼女は
「女性として初めて空軍情報学校を卒業し,写真解析士官としてペンタゴンで軍務に就き,1945年にはドイツの科学技術や科学者たちを米国に連れてくるプロジェクトに参加.
 その後プロジェクトの指揮官であったハンティトン・D・シェルドン大佐と結婚し,52年頃よりCIA設立に関わる」
という,なんだかよく分からない経歴の持ち主です.

 この両者に関する逸話ですが,両方とも事実なのでしょうか?

 「作品の訳書の後書き」とか,「そこから引用されたネット上の記述」といったソースしか知らないため,よく考えてみると信頼性があやふやな気がします.
 スミス博士のほうはそれでもなんだかありそうな気はするのですが,シェルドン博士の方は若い頃左翼運動に傾倒していたという話もあり,そんな人が「写真解析士官」だの,ドイツの科学者を連れてくる云々だのといったプロジェクトに参加できるものなのだろうかと,以前からちょっと疑問でした(ましてやCIAの設立においてをや).

 【回答】
 コードウェイナー・スミスが米軍の心理作戦顧問だった時代の功績として有名な話だが, ネタ元は J.J. PierceのThe Best of Cordwainer Smithの序文.
 今となっては真偽のほどは確認できないが,研究サイトでも否定はされていないので,あり得ないともいえない.

 "I surrender" の中国語音訳はおそらく, 愛,責,仁,徳(アイ,サ,レン,ダ)

 アメリカ人も
http://www.raygirvan.co.uk/apoth/2004_05_01_arc.html
 中国人も
http://www.garyfeng.com/wordpress/2005/04/03/??仁コ-投降/
多分そうだろうと推定している.

 Jame Tiptree Jr/Alice Bradley Sheldon もいろいろな意味で伝説的人物.
 伝記はいろいろあるが簡潔なのはこのあたり.
http://mtsu32.mtsu.edu:11072/Tiptree/index.htm#bio

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 1915年シカゴの上流家庭に生まれ,画家を目指したが成功せず,短期間で離婚して陸軍航空隊情報部(この時代空軍はまだない)に加わる.
 そこで同じくウォール・ストリートから転じたエリート情報部員ハンティントン・シェルドン大佐と知り合い,結婚.
 終戦時には少佐で退役した.
 冷戦開始でワシントンに戻り,1952年設立中のCIAに夫婦で参加した.
 いつごろまでCIAに関係していたかは諸説あるが,東部・中部の良家のエリート子弟で構成された初期CIAで,この夫婦はかなり重要な地位にあったといわれている.

 70年代から80年代にかけてジェームズ・ティップツリーのペンネームで旺盛な創作を続け,ネビュラ賞を受賞するなどトップSF作家となった.

 80年代に入ると夫婦とも健康を害し,夫は失明して寝たきりとなる.
 87年,「私がまだ私であるうちに…」という遺言状を残し,夫を射殺した後自らも頭を射って自殺.
 アメリカ文壇・SFファンに大きな衝撃を与えた.
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軍事板,2005/06/25(土)
青文字:加筆改修部分


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