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「NY Times」◆(2010/12/22)Israel to Again Press for U.S. Release of Spy

朝目新聞」(2010/06/26)●CIAはマジで怖すぎ 「北朝鮮と中国に」原爆落とすつもりだった

「スパイ&テロ」:松本清張特集 (2009/07/13)

「スパイ&テロ」:(2010/01/11)真犯人に告ぐ
 金大中拉致事件関連

●書籍

『ザ・メイン・エネミー』上巻(ミルト・ベアデン & ジェームス・ライゼン著,ランダムハウス講談社,2003/12/12)

 冷戦末期の,CIAとKGBの諜報戦を描いた本
 者がCIA勤続30年で,幹部を勤めていただけあって,内容は凄く詳しい.
 者は本の中でも,主要人物として登場する.
 尾行を巻く方法や,エージェント獲得,どうやって情報を得ていたのかも具体的に書かれているが,それよりも個人的な興味をひいたのは,大物亡命者ユルチェンコについて.
 彼は将官昇進目前のKGB第1総局大佐というエリートだったのだが,ちょっと病気で弱気になったことと,妻や子供を捨てて,昔付き合っていた不倫相手(ソ連外交官の妻)と自由に恋愛したいという,アレな理由から発作的に亡命してきた.
 CIAもこの亡命者によって,大規模な情報漏洩を複数発見して,裏切り者を見つけることが出来たので,彼の精神を安定させて今後も生かすべく,ユルチェンコの恋路を全力バックアップすることを決意.
 CIAの護衛班を引き連れ,カナダ政府をも巻き込む大恋愛作戦を行うのだが…
 この結末はご自身の目で見てね!

------------軍事板,2012/02/24(金)
青文字:加筆改修部分

『情報収集艦プエブロ号 日本海のミステリー』上下(トレバー・アンブリスター著,大日本絵画,1991.11)

 本著は,1968年1月に日本海で発生した,北朝鮮による,米海軍情報収集艦「プエブロ」号の攻撃・拿捕事件について書かれた本です.
 ハードカバーで2冊という大著ですが,登場人物の「せりふ」が多く,意外にストレスを感じません.
 脚本を読んでいるような感もあります.

 著者のトレバーアンブリスター氏は,米国の軍事ジャーナリストで,プエブロ号事件の調査・報道に生涯をささげた人のようです.

 訳者の中村悌次さんは,前号で紹介した『海の友情―米国海軍と海上自衛隊』にも登場する兵学校卒の元海幕長です.

 綿密に行なわれたインタビューを,ていねいに時系列で纏め上げ,この事件の本質を抉り出しています(まさに抉り出しているということばがぴったりです)
 これこそが調査報道なのでしょう.
 圧巻は,下巻の最後にある「取材協力」リストで,よくもまあ,ここまでするものだと感動すらしてしまう量です.(300人以上です)

 面白いのは,上巻のほとんどが,各乗員の性格や生活を詳細に記すことに費やされていることです.
 「たるいなあ」と最初は思いましたが,読み進めていくうちに,著者の意図が何となくわかってきました.
 艦長・ブッチャー中佐の生い立ちや,軍に入った経緯,といった個人の資質・性格が,事態に接したときに大きな影響を及ぼしたのです.

 また思ったのが,海幕長まで勤められた中村元海将が,なぜ本著の翻訳をしたのだろうか?ということでした.
 氏が,自ら膨大な時間をかけて本著の翻訳をされたのは,なぜだったのでしょう?
 読み終えた今思うのは,
「海自にはこの轍を踏まないでほしい」
との思いが,中村元海将にあったのではなかろうかということです.
 軍艦に乗った人ならわかる,というような活きた教訓が,本著にはたくさん書かれているような気がするんです.
 攻撃され,敵兵に乗り込まれたとき,艦長はどう行動すべきか?,
指揮命令系統の二元化が,いかに部隊を機能させなくするか,
北鮮軍に身柄を拘束された場合,何を覚悟すべきか?,
といったようなことでしょうか.

 基本的に,政治を悪役にすることで幕を引こうとする姿勢が,あまりにステロタイプですが,本著の全容がわが国民・わが自衛隊にとって,きわめて重要な意味を持っていることは確かだと思います.

 米軍の強さの秘密のひとつは,この書籍のような,いわば自軍の弱み・恥といえる部分を平気でさらけ出せる点にあるのではないでしょうか.

 発行から10年以上経過してもまだ新刊として流通していますが,これは,発行時からすでに古典だったことを意味しているのかもしれません.
 できれば,文庫でも発売してほしい本です.

――――――おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)7月10日
 構成は上巻の前半が出航から拿捕まで,後半がプエブロの開発と艦長,副長の経歴とか.
 下巻が北朝鮮での抑留生活と,帰国してからの査問会.

 なんつーか,ぐだぐだ過ぎる.
 艦長と副長の不和は仕方ないとしても,オンボロ船を無理矢理改造して,破壊システムも満足に積まないで,のこのこ出かけて行くとか…
 すったもんだで帰国は出来たものの,本当の最悪の局面は帰国してから始まる,ってのは「敵対水域」のK-219の乗員を彷彿とさせた.

――――――アドバンスト杜聖 ◆REH634FRNQ :軍事板,2011/05/31(火)

『フランス秘密情報機関 ファンビル部長の華麗な冒険』(フィリップ・ベルネール著,時事通信社,1984.7)

 古本屋で購入.
 副題が随分と軽い感じなので一瞬 「小説か?」と思ったが,1950〜1960年代あたりのフランス秘密情報機関 SDECE第7部と,その部長ファンビル氏の活動を描いたノンフィクション.
 第7部が情報収集を担当しており,様々な外国機関の建物の金庫から,気づかれずに文書を盗み出し また元に戻す事を得意としていた事から,そのあたりの描写が詳細に書かれている.
 また,文書だけでなく,ソ連輸送機のジェットエンジンを短時間捕獲し,また元に戻すという離れ業をやってのけたりする.
 ファンビル氏の部長解任と共に,この第七部は解体されてしまったが,そのあたりの事情についても触れられており,政敵や自分を批判する陣営を攻撃するという私的理由のために,ドゴールが情報部を利用しようとした と批判している.

 どこまで本書の内容を信じるかは別として,読み物としてとても面白い.

――――――軍事板,2009/10/25(日)

 【質問】
 J.Wally Higginsとは,どんな人物か?

 【回答】
『発掘カラー写真 昭和30年代鉄道原風景 国鉄編』
 駐留米軍の軍属(CIA要員でもあったらしい)が,日本国中巡り巡って撮りためた鉄道のカラー写真集.
 〔これを出版したのが〕J.Wally Higginsっつ〜お人で,大学卒業後に陸軍に勤務,朝鮮戦争中から後に掛けては海軍軍属,その後空軍軍属として勤務し,日本の永住権を得て,現在,JR東日本顧問だそうな.

 軍での任務は情報関係だったそうだけど,三軍を転々とすると言うのは,珍しいのではないか,と.

 彼はMichigan大学卒業で,大学での専攻は数学だった様です.

 徴兵で,New Jerseyに行き陸軍に所属,
 次いで,New Mexicoに移って空軍の軍属,
 更に,1954年にWashingtonD.C.に行き,海軍の軍属となり,1956年4月に横須賀で2ヶ月ほど仕事,
 1958年6月に府中(?)の海軍軍属となり,1959年に一度仕事でタイに赴任した以外は日本で過ごし,1965年に軍属を辞めて,大学で教鞭を取っていた様で,筑波大学客員教授にもなっているそうな.

 1985年に日本の永住権を取得,一方で父親が貨物鉄道の技師だった関係から鉄道に興味を持ち,各地の鉄道の写真撮影を趣味として,海外に対して日本の鉄道紹介を行うなど,鉄道に対する造詣も深く,現在は,JR東日本総合企画本部国際部顧問になっているそうです.

 数学を専攻している情報畑の人間とすれば,暗号解読などをやってたのかもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 『はだしのゲン』に,米軍が日本人を拉致して拷問にかけて,無理やり工作員にしたてようとするシーンがあったけど,あれって史実なの?
 朝鮮戦争に使ったらしいが…

 【回答】
「進駐軍が孤児を引き取って,中国や朝鮮へのスパイに仕上げている」
と言う話が当時,噂としてまことしやかに流れていたって言うのは事実みたい.
 「はだしのゲン」以外にも結構出てくるので.
 でもその真否は・・・というと,永久にわからないだろうな.

 今でも「アルカイダ関係者,もしくはテロ容疑者」としてアメリカに捕まると,場合によってはどうなるか,というのは信用できるソースとして色々出てるから,知ってるでしょ.
 当時だって同じようなことはしていただろうから,「ソビエトのスパイ」「ソビエトと繋がりのある共産党関係者」としてアメリカに拘束されたら,場合によってはあまり人道的な扱いはされなかっただろうな.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 実際に表沙汰になった事件としては,「鹿地事件」がある.
 これは,GHQのキャノン少佐を長とする「キャノン機関」が1951年,作家・鹿地亘を長期間,拉致監禁してアメリカのスパイになることを強要した事件.
 1952年に鹿地が解放されたことで,事件は発覚.
 だがそのとき,すでにキャノン少佐は解任され,帰国していた.


 【質問】
 ラインハルト・ゲーレンは自国の諜報機関をどのように守ったのか?

 【回答】
 準備万端で敗戦のときに備え,その後は米軍との取引を持ちかけ,これに成功したという.
 以下引用.

 戦後ドイツの対外情報機関の父となったのは,ラインハルト・ゲーレン将軍である.
 ドイツは第1次大戦での敗戦を受けて,ヴェルサイユ条約により対外情報機関の解体を余儀なくされたが,1919年には早くも新たな対外情報機関が密かに設立された.
 陸軍内部に設置されたこの対外情報機関「東方情報部隊」の指揮官に1942年に就任したのがゲーレンであった.
 1968年まで現役のBNDのリーダーだったゲーレンは,確かな先見性と行動力,そして強烈なまでの愛国心の持ち主だった.
 ゲーレンは,ナチス・ドイツが崩壊するまで総統ヒトラーに仕える一方で,来るべき時に備え,「東方情報部隊」の主要人員と機密文書を密かにドイツ南部・バイエルンの山岳地帯へ疎開させた.
 このときゲーレンは既に,ドイツ南部が米軍管理下に置かれることになることを察知していたという.

 1945年5月20日,疎開先のヘリムで補足されたゲーレンは,捕虜収容所に抑留されるが,1ヵ月半後には早くも,占領米軍司令官サイバートとの面会に成功する.
 ゲーレンは敗戦前より,ドイツの降伏後には米ソの対立が激化し,その中で自らとそのチームの類希な知識と諜報能力が役に立つと信じていたのだ.
 米軍は当初,ゲーレンに強い印象を抱きつつも,直ちに彼とそのチームを実際に使うべしとの結論には達しなかったようだ.
 ところが,ソ連が北ペルシアから1946年3月初旬までに撤退する旨の連合国同士の合意を破棄したことから,米ソ対立が徐々に顕在化していく中で,準備不足を否めなかった米国は,態勢の建て直しに躍起となる.
 ここで再び歴史の表舞台へと踊り出たのが,ゲーレンとその同僚達であることは言うまでもない.

 ゲーレンは米軍との協力を約す中で,またしても先見の明を発揮する.
 ゲーレンは米国への協力を惜しまないとし,米陸軍傘下での情報部隊「ゲーレン機関」の設置に努力する一方で,6つの条件を書面にして米軍に呑ませる事に成功するのだが,その一つには
「ドイツ独立後には,新生ドイツ政府自身が,ゲーレン機関の継続の可否を判断する」
との条項が含まれていたのである.
「自分達が対外諜報活動をするのは,あくまでも最終的には新生ドイツのためだ」
という強い意思表示がここに見て取れる.

(原田武夫〔外交シンクタンク代表〕from「中央公論」2005年7月号,p.169-170)


 【質問】
 クークロフ暗殺未遂事件とは?

 【回答】
 元KGBのクークロフが1957年9月,西ドイツで毒殺されかけた事件.
 クークロフは1954年に亡命.
 以後,彼は詳しい住所などを明かさないでいるという.

 以下引用.

――――――
KGBに殺されかかった元KGB タリウム殺人,半世紀前に「前例」
Weblog / 2006-12-03 17:45:57


 1957年9月,西ドイツ(当時)のフランクフルト,反ソビエト派集会でスピーチを終えた元KGBのNikolai Khokhlov氏は,差し出されたコーヒーを半分だけ飲んだ.これが,まさか….
 震えが止まらず気を失った.

 3年前にKGBから命がけで逃れ亡命した.
 妻子も奇跡的に助かっていた.

 顔じゅうコブで変色し,目から粘液,髪は抜ける.
 米軍病院などで献身的な治療の結果,約1か月半で退院できた.
 原因はタリウムとされたが,症状から従来のタリウムになんらかの要素が加わっているらしい.

 亡命を決定付けたのは,暗殺命令を受けたから(今回と同じ!).
「人殺しのワイフなんてイヤ」
という妻の一言が大きかった.

 亡命から35年たった1992年,エリツイン大統領の許可でロシアの地を踏んだ.
 いま84歳.
 カリフォルニアの大学で教壇にたつなどの生活だったが,詳しい住所をいまだ明かさない.
「I don’t want to get another dose of that stuff. 」(あれを,また盛られたくない)

 自身のことを,ソビエト科学,殺人科学の living proof(生きた証拠)という=3日付DailyYomiuri・12面ロンドン・タイムズ特集から.
――――――

 【質問】
 ヨセフ・シューマッヒャー誘拐事件について教えてください.

 【回答】
 イスラエル情報機関(モサド)のしょうもない話.
 わりかし有名な話かもしれないけど,載せておこうと考えた.

 ことの発端は,単なる家庭問題から始まりました.
 ヨセフ・シューマッヒャーという,8歳の少年が行方不明となりました.
 この少年の両親と祖父は孫(息子)の教育方針を巡り,激しい対立状態でした.
 というのも祖父は孫には,厳格なユダヤ教の律法で教えるべきという信念があり,両親がこれに反対を唱えていたことが発端でした.
 しまいには祖父が孫を隠してしまったのです.
 警察にも届けましたが,何処にいるのか皆目検討もつかず,しまいにはベングリオン内閣にまで,マスコミの批判が出始めました.

 当時の内閣は落ち目であり,ここで世論に対してアピールする必要性がありました.
 そこで,この誘拐事件を政治的アピールに使えると判断したベングリオン首相は,さっそくモサド長官であるイセル・ハレルに,ヨセフ少年の捜索任務を命じました.

 この捜索救出作戦は「タイガー作戦」と言われ,モサドの全組織を挙げて捜索を開始しました.
 当初は宗教の壁が厚く,中々進展は見られなかったのですが,調査の結果,パリに住んでいたマドレーヌ・フェレーユという女性が浮かび上がります.
 この女性は元カトリックでしたが,ユダヤ教に改宗し,ニューヨークを拠点としていた狂信的ユダヤ教サトマル派と通じていたことが判明しました.

 ハレル長官は自らパリに赴き,彼女に脅迫じみた尋問を行い,ヨセフ少年の行方を聞きだすことに成功しました,
 彼女は少年を女装させて,ニューヨークを拠点としていた狂信的ユダヤ教サトマル派に預けたことを認めました.

 そこでハレル長官はロバート・ケネディ長官に連絡し,FBIに少年を保護してもらうように説得しました.
 そしてFBIがブルックリンにいたヨセフ少年を保護し,少年は紆余曲折をへて祖国に戻ることができ,めでたしめでたしで終わりました・・・・というわけにはなりません.

 このタイガー作戦では,モサドの全組織を挙げて捜索を開始と触れたように,1年間の予算を食いつぶし,他の業務が疎かになってしまい,ナチスの大物であるメンゲレの逃走を助けてしまいました.
 そしてしトンでもないことがエジプトで起こりました.

 1962年 7月 エジプト軍 地対空ミサイル発射実験に成功

 人探しに全力を尽くした結果 この有様だよ!という結果になりましたとさ.

 この大失態の後,モサドはミサイル開発計画を探るべく,ある男をスパイとして使い始めます.
 男の名はウォルフガング・ロッツ.
 「シャンペン・スパイ」として名を馳せた男が,ミサイル開発計画の情報を引き出し始める物語が始まるのです.
 それはまた別の話となりましょう.

CRS@空挺軍 in mixi,2010年10月07日01:04


 【質問】
 「黒いジェット機」はどこに降りたのか?

 【回答】
 1959年9月24日,神奈川県藤沢市の引地川沿いにある藤沢飛行場に,米航空宇宙局(実際のオペはCIA)のロッキードU-2偵察機が不時着した.
 不時着5分後には,米海軍厚木基地から飛来したHUPヘリ2機とビーヴァー連絡機が着陸し,中から降り立った武装した米人は,おりから秋分の日で,飛行場で催されていた航空少年団(日本飛行連盟下部組織)のグライダー飛行展示に集まった民間人をけん制した.
 不時着の際,私物の自転車など数台が損傷したが,これらは後刻,日本の横浜防衛施設局を通じて,所有者に賠償が行われたと言う.

 この事件は,日本の警察が到着した時点で,米側によって現場整理がすでに行われ,また,目撃者に対するかん口令がしかれて,捜査は行き詰った.
 そして報道は,地元の神奈川新聞にベタで扱われたのみで,全国紙では取り上げられなかった.
 面白いことに,当時一番まとまった記事を掲載したのは,漫画雑誌『週刊少年サンデー』であった.

 しかし,日本国内における主権侵犯にあたると翌年5月9日,国会本会議で社会党の飛鳥田一雄が,緊急質問に立っている.

 さて,現場である藤沢飛行場は,元来は昭和7年に開業した藤沢カントリークラブというゴルフ場で,昭和18年に海軍が取得,滑走路とエプロン等を開いて,藤沢海軍航空隊を開隊したのを始まりとする.
 航空隊司令は,前筑紫艦長の上田泰彦(海兵47期).
 通信兵装整備の養成を目的とした訓練部隊である.
 特に電探に関して,初めての整備専門課程を持つとされたが,教材,教科書ともにそろわず,実効が乏しかったとも伝えられる.
 また,施設もカントリーハウス,ゲストハウスが司令所等に使われたなど,応急即席措置の感はぬぐえなかった.

 戦後は米軍進駐後しばらく放置されたが,昭和28年(1953年)に航空再開をにらんで,東洋航空が取得.東洋航空藤沢飛行場の名で開業した.
 滑走路全長824m.方向はほぼ南北で,北方の延長線上に厚木基地がある.
 海軍は当初,厚木の非常時用滑走路としての使用を目論んだと見られる.

1944年撮影
1955年撮影
(いずれも米軍.国土地理院アーカイブ空中写真より)

 主に使用したのは,上に述べた日本航空連盟の航空少年団で,青少年に対するグライダー教育にあたっていた.

 しかし,その後1964年(昭和39年)に東洋航空は,航空局に飛行場の廃止届けを提出,航空連盟も竜ヶ崎に移転して,藤沢飛行場はその幕を閉じたのだった.
 その後,敷地は荏原製作所が取得,荏原製作所藤沢工場となったが,クラブハウスなど当時をしのばせる建物は残されているといわれる.

 不時着したU-2(CIA No360 USAF 56-6693)は,のち1960年5月1日,ソ連のスベルドルフスク近郊で撃墜される.
 パワーズ事件である.

ゆずこせう in mixi,2012年08月07日18:52
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 パワーズのU-2を撃墜したのはSA-2ではなく,ミグ21とか聞いたけど,真偽はどうなのか,ご存知の方,いますか?

 【回答】
 U-2がスヴェルドロフスク近くで撃墜されたのは,1960.5.1です.
 撃墜したのはSA-2ガイドラインと言うのが定説.
 当時はスパイ工作説初めさまざまな憶測がありましたが,アメリカに送還されたパワーズの証言やU-2の墜落した機体の状況,さらにペレストロイカ以降に出てきたソ連の関係者の証言などからも,この定説はまず動かないでしょう.
 航空ファン誌で「ドリームランドの住人達」と言うU-2に関した長い連載があって,来月号あたりがまさにU-2撃墜事件になるはずです.


 【質問】
 キム・フィルビーって誰?
 3行で教えて!

 【回答】
 ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビー Harold Adrian Russell "Kim" Philby (1912〜1988)は,英国秘密情報部に身を置きながら次々と重要情報をソ連に流していた,実在のダブル・スパイ.
 ケンブリッジ大学在学中の人脈による,イギリスの上流階級出身者から成るソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイヴ」の一人で,その中心人物.
 MI6の長官候補にも擬せられたが,二重スパイであることが発覚し,1963.1.23,ソ連に亡命した.

 【参考ページ】
http://www10.plala.or.jp/apoe/mys_zatu17.html
http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_12_03/125339090/?slide-1
http://www.news-digest.co.uk/news/features/12372-cambridge-five.html
http://britannia.xii.jp/cinema/title/cambridge_spy01.html
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/1269/cambridge/actors.html

【ぐんじさんぎょう】,2016/04/19 20:00
を加筆改修


 【質問】
 プロヒューモ事件って何?

 【回答】
 プロヒューモ事件 Profumo Affair は1962年,英国においてハロルド・マクミラン Harold Macmillan 政権の陸相であったジョン・プロヒューモ John Profumo が,ソ連側のスパイとも親交があった売春婦に国家機密を漏らしたと疑われた事件.

 1961年7月にプロヒューモは「プール・パーティー」に参加.
 売春婦クリスティーン・キーラー Christine Keeler を知人に紹介され,その後,プロヒューモはキーラーと金銭を介した肉体関係を持つようになった.

 ところがキーラーは駐英ソ連大使館付海軍武官エフゲニー・イワノフ Yevgeny Ivanov 大佐とも肉体関係を持っており,さらに彼女は,イワノフ大佐の友人である整骨療法医ステファン・ウォード Stephen Ward 博士と同棲していた.
 間もなくイギリスの上流階級の間においてプロヒューモとキーラーの関係に関する噂が広がり始め,この噂を知った内閣官房長官のノーマン・ブルック卿 Sir Norman Brook は,
「キーラーがイワノフ大佐とも関係している」
というMI5長官のロジャー・ホリス卿 Sir Roger Hollis のアドバイスを,プロヒューモに話した.
 プロヒューモはこのアドバイスを受けて1961.8.9.,キーラーに「もはや会うことができない」と手紙で伝え,2人の関係はそこで終わった.

 しかし1963.3.21.,イギリス下院で労働党議員ジョージ・ウィッグ George Wigg が噂の真相究明を要求.
 疑いをもたれたプロヒューモは,「その女性は知っているが,不品行な関係はない」と下院で身の潔白を主張した.

 だがその後,キーラーがイワノフ大佐とも関係があったことがマスコミにより明らかになり,国内の大きな関心事となった上,アメリカやフランスなどのイギリスの同盟国でも大きく報じられるようになった.
 同年6月,プロフューモは辞任.
 マクミランの責任問題にまで発展して,同首相も11月には健康上の理由で辞意を表明.
 1964年の総選挙では,同党は労働党に敗北することとなった.

 プロヒューモは政界引退後,慈善事業に尽くし,1975年には叙勲.
 2006.3.9深夜,脳卒中のため,ロンドン市内の病院で死去した.
 91歳だった.

 キーラーは事件から50年後の2012年,「サンデー・ミラー」紙の取材に対し,
「スパイ行為を行った自分を誇りに思うことはなかった.自国を裏切ったのは事実」
と述べ,スパイ活動の一端を担ったことを初めて認めた.
 彼女は当時の自分について,
「情報を漏らしていることも分かっていた.ばかな小娘だった」
とふり返ったという.

 【参考ページ】
https://en.wikipedia.org/wiki/Profumo_affair
https://kotobank.jp/word/プロフューモ事件-128123
http://www.japanjournals.com/uk-today/3706-aaaaaaaa.html
http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20060310000483

【ぐんじさんぎょう】,2016/04/24 20:00
を加筆改修


 【質問】
 '60年代,なぜCIAの対ソ作戦は低調だったのか?

 【回答】
 ミルト・ベアデン Milt Bearden の言葉を信ずるならば,防諜責任者ジェームズ・ジーザス・アングルトンの「魔女狩り」のため.
 以下引用.

「CIA長官リチャード・ヘルムズと親しかったおかげで権力基盤は磐石だったから,アングルトンはそれを盾に,ソ連部の有力幹部達を取り込んでいった.
 そして,彼らの管理するスパイは殆ど全員,KGBから送り込まれた二重スパイだと信じ込ませてしまった.
 たちまち,ケース・オフィサー達はやたらに苦労する羽目になった.鉄のカーテンの向こうでエージェントをスカウトしようとするときは,この人物は追いかける価値があるとアングルトン一党に納得させなくてはならない.CIAを覆う妄想に抵抗したり反抗したりしようものなら,ケース・オフィサー自身がソ連のスパイではないかと疑いをかけられる恐れがあった.
 アングルトンは,ソヴィエトはCIA内部に潜り込んでいると信じ,モグラ狩りに乗り出した.これは何年間も続き,有能な人材が次々に潰されていった.
 遂には捜査の矛先は反転して,アングルトン自身がソヴィエトのスパイではないかと見なされて監視されるまでになっていた.
 セーレムの魔女裁判そこのけの状況だったのだ.

 こういうマインド・ゲームの結果として,1960年代のCIAは,ソ連に対する作戦を殆どまともに実行することができなかった.
 アングルトンの被害妄想的な詮索に悩まされず,CIAのエージェントして働いた最後の大物ソ連人は,赤軍参謀の主任補佐官オレク・ペンコフスキイ大佐だった.62年に逮捕されるまで,60年からCIAのスパイとして活動した人物だ.CIA史上,最も重要なスパイの一人で,ソ連の最高指令部を覆っていたベールを剥ぎ取り,クレムリンが実は,怒号と空疎な恫喝で動いていることを暴露した最初の人物だった.
 彼のおかげで,いわゆるミサイル・ギャップは幻想に過ぎず,ソ連の核戦力は到底アメリカに対抗できるレベルではないことに,ようやく西側は気付いたのである.
 62年のキューバ・ミサイル危機の際,ケネディ大統領がニキータ・フルシチョフ首相より優位に立つことができたのも,一つにはペンコフスキイ情報のおかげだった.

 しかしペンコフスキイ以後の時代には,主だったエージェント候補はたいていアングルトンに疑いの目を向けられることになった.
 スパイ防止活動のトップの要求水準がやたらに厳しくなったため,世界中のCIAのオフィサー達が,ソヴィエト人をスカウトの標的にするのをあっさりやめてしまった.やっても無駄なのが分かっていたし,下手にスカウトすれば自分が疑われる羽目になりかねないからだ.なにしろソヴィエト人をスカウトしようとして動き出すと,必ずアングルトン一党と対決しなくてはならないのだ.
 〔略〕
 〔'70年,ソ連東欧部部長バートン・〕ガーバーは,15年以上遡ってファイルを分析した.協力を申し出たソヴィエト人の内,特にモスクワを始めとするソ連地域内の例を取り上げ,そのファイルを分析して,アングルトンの説が正しいかどうか検証した.彼の危惧を裏付ける証拠があるだろうか?
 あえてCIAの記録を篩にかけ,これほど系統立てて調査を実施し,かのスパイ・ハンターの前提に挑戦しようとした者は,かつてただの一人もいなかった.
 こうして得られたのは,単純ながら揺るがし難い答――妄想に基づく説は,精密な検証の前には無力だということだった.
 ガーバーにいわせれば,記録に見える様々な事実がはっきり示しているのは,汚染を恐れるあまり,CIAがモスクワの真摯な志願者を次から次に門前払いにしてきたということだ」

(「ザ・メイン・エネミー」上,ランダムハウス講談社,'03,P. 43-45)


 【質問】
 日韓国交回復交渉にKCIAはどう関与したの?

 【回答】
 設立後,予備交渉の段階から,部長金鍾泌が積極的に関与した.

 1962年晩秋,日本・東京に,壮年の韓国人が降り立った.
 前年,朴正熙等と5・16軍事クーデターを起こし,情報機関・KCIAの長となった金鍾泌(JP)である.
 国交回復交渉のための来日だった.
 賠償額で双方の主張が埋まらない中,彼は,日本の外相・大平正芳に,日韓併合時の悪役の名を出し言った.
「私は,李完用(イ・ワニョン)になる.あなたは,伊藤博文になってくれ.」
 自分より遥かに若いJPのこの言葉を受け,大平は,自分は今まで無駄に時間を過ごしていた,と彼の人物を認めた.

 条文解釈の相違等あるものの,条約は締結(1965.6.22)発効(1965.12.18)し,北による赤化統一目前と言われた経済力を逆転させ,漢江の奇跡を呼び起こせたのは,このJPの言葉が,大きなきっかけの一つと言って良いだろう.

 周囲の状況に翻弄されながら,昨年(2004年),JPは,政界を引退した.

 2005年で条約発効から40年.
 今日も,玄界灘は荒れている.
 例に挙げられた李完用ともども,「本当の愛国・売国とは,何か?」,再考する必要があるのではないか?

「消火器ちゃん」 from mixi支隊


 【質問】
 ポラード事件って何?

 【回答】
 1985年,ジョナサン・ポラード Jonathan Pollard (1954年生まれ)が,アメリカ国内でイスラエルのために活動していたとして逮捕された事件.
 アメリカ海軍海軍捜査局(現海軍犯罪捜査局)で働いていたが,1984年から,イスラエル空軍のエースパイロット,アヴィエム・セラ大佐に対し,金銭や宝石などと引き換えに,シリア、イラク、リビアイランなどの核兵器や物理兵器保持の可能性や、対イスラエルのテロの情報などの機密情報を流していたという.
 1987年に終身刑の判決を受け、アメリカ国内の刑務所で現在も服役中である.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Pollard
http://blog.livedoor.jp/moshejp/archives/50021065.html
http://www.cnn.co.jp/world/30001317.html
http://reocities.com/researchtriangle/network/4110/people.html
http://www.idaten2.com/meikyu/a033.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/12/30 21:10
を加筆改修

 なおハアレツ紙やイェルサレム・ポスト紙の報道によれば,2008年4月23日(水)に,米国の技術者が,20年前にイスラエルに情報を流していた容疑で逮捕された.
 同時期に逮捕されたポラードと同じルートだったため,他にもスパイ活動があった可能性が浮上.
 この発覚で,ポラード氏のスパイ活動が「単発的なものだった」との,イスラエル政府の米国に対する説明が崩れ,両国の信頼関係に影響が出る懸念も出ているという.
「イスラエル・ニュース」より)

ジョナサン・ポラード
http://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Pollardより引用)


 【質問】
 これってマジでつか?
「小田実はべ平連時代,ソ連から援助してもらったことがソ連公文書から判明.
 総連シンパ工作員であることも判明」

 【回答】
 べ平連に対する工作があったのは確かだが,小田実ではない.

 その情報の出所はスタニスラフ・レフチェンコの"On the Wrong Side" 1988.
 その中で,
「KGBはベ平連事務局員一人をスカウトした」
と書いている.
 レフチェンコは元KGBで1982年に亡命.

 この事務局員とは吉川勇一事務局長とされているが,本人は否定.
「脱走兵の逃走ルートにソ連を使った交換条件として,べ平連ニュースに偽の"米兵手記"を載せるよう依頼されるなどしただけ」
としている.

 まあ,KGBの了解もなしに,逃走ルートにソ連が使えるとは思えませんけどね.

(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)


 【質問】
 「学園浸透スパイ事件」(1971年)で,韓国にて逮捕された徐勝は,本当に冤罪だったの?
 少し前のwikipediaでは,まるで冤罪のように書かれていたけど.

 【回答】
 『徐勝』(張明秀著,宝島社,1994.12)によれば,逮捕時に爆弾や乱数表などの物証が押収されており,本当にスパイだっただろう可能性は非常に高い.
 当人も非転向政治犯だと自称しており,また,北韓へ密航して工作員教育を受けたことも認めている.

 なお,「徐勝君を救う会」なるものが日本には存在したが,そのメンバーだった人たちがその件に関して何か釈明したなどという話は,寡聞にして聞かない.


 【質問】
 辛光洙とはどんな人物か?

 【回答】
 辛光洙は1929年,静岡県生まれ.
 幼いころ,兵庫県尼崎市から,富山県高岡市に転居した.通名「立山富蔵」といった.
 国民学校の同級生だった西田和夫(75)によれば.
「おとなしく,素直な感じだった.チャンバラごっこもしたけど,体が大きくて相撲が強かった.
 高岡工芸学校に進んだものの,終戦の年に家族で帰国した.
韓国にいるものとばかり思っていたんだが……」
 祖国の土を踏んだのもつかの間,光洙は朝鮮戦争がぼっ発するや,北朝鮮の義勇軍に入る.
 戦後,ルーマニアのブカレスト工業大学に留学.平壌再建に身を投じるため,科学院の研究士の職を得た.

 だが1971年,日韓の事情に通じ,インテリだった光洙は工作員に選抜される.
 平壌の招待所で工作員教育を受けた経験のある在日商工人がこう証言する.
「うれしかったですよ.やったぞって感じで.血が熱くなって,燃えるんです.
 そんな充実した思い,味わったことないですから.辛光洙もそうだったでしょう.わかります」

 光洙は,1980年,大阪・鶴橋の中華料理店で働いていた原敕晁(はらただあき)さんを宮崎県の海岸へ連れ出し,拉致.自ら原さんになりすますためである.
 拉致に至るまでにたっぷり時間をかけ,周到に準備した.
 協力者も在日社会では知られた大物を引き込んだ.
 その際,帰国している息子からの手紙を見せている.人質である.
 その協力者(故人)が書いた自伝を入手した.「苦尽甘来」.苦しめば,幸せが来るという意味だろうか.全編,金正日への賛辞であふれ,愛国者としての自負に満ちている.拉致へのかかわりには触れてはいない.

 2006年になって,横田めぐみ,地村保志夫妻拉致への関与疑惑も取り沙汰されるが,真相不明.

 その後,韓国で逮捕され,死刑判決を受ける.
 しかし,太陽政策によるミレニアム恩赦で韓国の獄から放たれ,北朝鮮に送還.※
 北韓では英雄扱いされ,労働新聞に手記まで発表している.

 詳しくは毎日新聞(2006年1月16日)の鈴木琢磨署名記事を参照されたし.

 ※恩赦嘆願書には菅直人ら日本の政治家も署名している.


 【質問】
 ゴルジェフスキイOleg Gordievskyのソ連脱出には,CIAも関与していたか?

 【回答】
 ミルト・ベアデン Milt Bearden の言葉を信ずるならば,

「これは全て英国が単独で実行した作戦だった.ゴルジェフスキイが英国のスパイだということはCIAも知っていたが,それはオールドリッチ・エイムズの分析を通じて自力で突き止めたことだ.
 ゴルジェフスキイが英国のエージェントだと,ロンドンがCIAに公式に伝えたのは,彼が無事ソ連国境を越えた後,それも随分経ってからだった」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P.116)


 【質問】
 コズロフ事件とは?

 【回答】
 1980年1月,元陸将補が現職自衛官から軍事情報月報などを得,ソ連GRU(軍参謀本部情報総局)のコズロフらソ連大使館付武官に交付していた事件.
 自衛隊関係の3人が自衛隊法違反容疑で逮捕されたが,コズロフ本人は発覚後に帰国した.


 【質問】
 キューバによる対米麻薬工作について教えてください.

 【回答】
 柘植久慶によれば以下の通り.

 80年春,キューバ人13万が共産政権を嫌い,アメリカに難民として流入した.その多くは実際に反共的なキューバ人で,以前から出国を熱望していた人々だった.

 ところが数千人は違っていた.アメリカに定住できた後,麻薬ビジネスを開始する要員として,キューバ当局の指示で動いた連中なのである.アメリカはお粗末にも,それを知らずに受け入れた.
 もし2人の人物がいなかったら,その全貌は,外部に洩れるまでさらに多くの時日を要したであろう.
 一人はメンデスというキューバの情報管理総本部の大尉で,彼は祖国を逃れてアメリカに亡命した.83年のことである.
 もう一人は,密輸中に逮捕され,情報提供を約束してアメリカ側の保護を受けた,エステヴェスなる人物だった.
 彼ら2人の証言は,殆どの点で一致し,信頼しうるものとして評価された.

(「麻薬戦争地図」,銀河出版,'93,P.198)
柘植には信頼性の問題があるが,
同書はブライアン・フリーマントルの著作を参考にしたと推測される.


 【質問】
 「1985年の損失」とは何か?

 【回答】
 1985年,ソ連諜報機関内部のCIAスパイが次々に逮捕され,CIAが大打撃を蒙ったことを指す.
 これは,オールドリッチ・エイムズ,ロバート・ハンセン,エドワード・リー・ハワード,および,現在でも正体不明なKGB側スパイが,ソ連当局に彼らの名前を教えたためだった.

 詳しくは,M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上下巻,ランダムハウス講談社,'03を参照.


 【質問】
 FBIのオールドリッチ・エイムズがソ連のスパイだったことを,アメリカに亡命したユルチェンコは知っていたか?

 【回答】
 ミルト・ベアデン Milt Bearden の言葉を信ずるならば,絶対確実とは言えないが,ノー.

「エイムズを担当していたのはK局,すなわちKGB第1総局のスパイ防止活動部門である.
 ユルチェンコは,85年1月にk局を不本意ながら去ったが,それは少なくともエイムズが志願する3ヶ月前のことだ.
 その後は,第1総局のアメリカ部で数人の副部長の一人に任命され,カナダおよびアメリカの予備要員を担当している.
 しかしKBGは官僚組織であり,何十人もの『副』部長がいて,責任範囲は細分化されている.自分の上官が何をしているのか知っている者は殆どいない,というのが実情なのだ.

 エイムズがKGBのスパイだと知っている者が第1層局アメリカ部にいたとしても,それはまず間違いなく部長とその最も信頼する側近だけだろう.ユルチェンコがその一人だったとは考えにくい」

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P.)


 【質問】
 エイムズはポリグラフ・テストをどうやって切り抜けたのか?

 【回答】
 長年,工作本部にいたおかげで,エイムズはポリグラフにかける側に立ったことがあり,その機械の限界を知っていた.テストする側になってみると,試験官が何を探そうとするかも分かった.テスト結果は技術者の予測と一致することも知っていた.
 だから,ポリグラフ・テストにパスするのは,試験官と良い関係を作れるかどうかにかかっている.

 エイムズは巧みに答えていったが,金に関する質問で躓いた.試験官がまたその問題に戻ったので,何か問題があったのが彼には分かった.
 彼は,CIA退官後の職について話し始めた.
「ニューヨークとコロンビアにいる友人と一緒に輸出入の事業をするという,私がその場で思い付いた計画について,私達は長々と話した」と,後に彼は語っている.「それはただの計画で,結局計画だけに終わったが,引退前の計画や活動に関して,いかなる規則も私が破っていないし,破るつもりもないことを,試験管に納得させるには相当なやりとりを要した」
 巧妙に視点を逸らす事で,彼は難を逃れた.

 詳しくはM. Bearden他著「ザ・メイン・エネミー」下巻(ランダムハウス講談社,'03)P.312-313を参照されたし.


 【質問】
 エイムズやハンセンのスパイ行為が発覚したのは何故か?

 【回答】
 ロシア人エージェントによる情報があったためだという.
 以下引用.

 CIAはエイムズ逮捕以来一貫して,彼の正体が分かったのは綿密な分析調査の結果だと主張してきたが,実はこれには裏話があり,パズルの一片はその後10年近くも隠されたままだった.CIAはエイムズの件では,ロシア人エージェントの力を借りたのだ.エージェントはエイムズの名前を特定することはできなかったが,彼の提供した情報の,日時や場所などが,ある容疑者――オールドリッチ・エイムズの行動と合致したのだ.

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.393)

 エイムズのときと同じように,ハンセン逮捕もロシア人エージェントの助けを借りた.ただ,エイムズのときと同じ人物ではない.

(同,P.394)


 【質問】
 ローントゥリー事件とは何か?

 【回答】
 モスクワのアメリカ駐ソ大使館で衛兵を務めていた海兵隊員,クレイトン・ローントゥリーがKGBのスパイであることが発覚した事件.1987年12月.
 後,3月には,もう一人の衛兵,アーノルド・ブレイシーもKGBに手を貸していたことが発覚.
 彼らがKGBに,大使館内のCIAソ連東欧部の最高機密への鍵を渡した可能性も十分にある.

 詳しくはM. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.79-80を参照されたし.


 【質問】
 冷戦末期のKGBとシュタージとの協力関係は?

 【回答】
 以下の書籍を信頼するとするならば,シュタージの膨大なデータをKGBもまた利用していたと考えられる.

 そのころ東ベルリン郊外のカールホルストにある本部に,数千人のKGB機関員はリポートを送っていた.
 ソ連軍の情報部もまた東独で活動していた.
 しかし東独の諜報活動の大元は秘密警察シュタージで,この組織は数万人の市民を見張り,数百万の資料を管理していた.
 この広範なシュタージのネットワークを,しばしばKGBは利用していた.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.78

 また,別項で述べられているウラジーミル・プーチンの当時の活動内容から考えて,独自ネットワーク構築も行っており,その構築過程でシュタージと対立することもあった模様.

written by ナポレオン・ソロ(うそ)


◆◆プーチン in KGB


 【質問】
 プーチンはどのようにしてKGBに入ったのか?

 【回答】
 1960年代のソ連では,ナチス・ドイツに対するソ連人スパイの活躍を描いた映画「盾と剣」や,それに関連する小説が大人気だった.
 プーチンもそうした映画や小説の強い影響を受けていており,自分もスパイになりたいと漠然とながらも憧れるようになった.
 プーチンの机には,当時のソ連人スパイの英雄の写真が飾られていたと言う.
 プーチンも
「一人の諜報員が千人の運命を決めるといったシナリオに感動した」と当時を回想している.

 9年生になったプーチンは化学の中等専門学校に進学した.
 この決定に,教師のヴェーラ・グレーヴィッチは大変驚いたという.
 一時期プーチンはスパイではなく,パイロットを目指していたらしい.

 9年生の始め頃に,プーチンはレニングラードKGB支部をたった一人で訪れた.
 事前に誰も相談せず,一人で決めたことだった.
 親戚や周囲にKGB関係者がいなかったことも,彼を駆り立てた原因の一つでもある.
 彼はそこで,KGBに入るにはどうしたら良いのか?と訊ねたところ,大学の法学部を卒業して出直すように言われた.
 これがレニングラード大学法学部を目指す最大の動機になった.
 プーチンの人生が大きく変わった出来事であった・・・

 当時の様子を,KGBレニングラード支部に勤務していたユーリー・レシチェフ大佐はこう証言する.
「ワロージャ・プーチンはKGB支部にやってきて,KGBで働くためにはどうしたら良いかと関心を示しました.
 当時,私が直接話したわけではありませんが,KGBに採用されるためには,まず高等教育を受けることが必要だと説明しました.
 すると,彼はどんな教育が必要なのかと尋ねました.
 当時は法律家が求められていましたので,法学部に入るよう提案したのです」.

 化学の中等専門学校に進学したプーチンだったが,化学者になるつもりはなく,成績も文科系の科目が良かった.
 プーチンは大学受験の必須科目を猛勉強した.
 その後レニングラード大学法学部に一発合格を果たした.
 彼はそこで熱心に勉強に励み,コムソモール(共産主義青年同盟)には入らなかった.
 レニングラード大学には自由な雰囲気が漂っていた.
 プーチンはフランスに作家カミュなど西側の文学の講義を受け,西側の法理論や複数民主主義なども学ぶ事が出来た.
 ちなみにビートルズの音楽も好んで聴いていた.
 彼の卒業論文は「国際貿易における最恵国待遇の諸原則」.
 法学部の学生には異例の論文である.

 プーチンは大学でも柔道を続けており,2年後には師範になり,1976年にはレニングラード市の大会で優勝する腕前になった.
 大学時代の恩師であり,その後サンクトペテルブルク市長となったアナトリー・ソプチャクは当時のプーチンの様子をこう語る.
「勉強熱心な好青年で,優等の成績で大学を卒業しました.
 品行方正で,学生によく見られるイザコザを起こした事はなく,学習を怠らず,いったん決心したことは必ずやり遂げるすべを心得ていました.
 私が初めは助教授,次いで教授をしていた学部で学んでいまして,よくできる学生として記憶に残っております.
 学生だった頃,彼は柔道をやっていました.
 大変上手でレニングラードのチャンピオンになったほどですが,親しい友人の他には誰一人,そのことを知らないわけですね.
 大学内でも,プーチンが柔道が得意でスポーツ・マスターのタイトルを持ち,大会で優勝したのを知ってる人は殆どいませんでした.
 自分のことを喋り散らさない.
 実際に手柄になることをしてもみだりに口外しない.
 そういう性格なんです」

 1975年,レニングラード大学法学部を卒業した.
 プーチンは念願のKGBに入った.
 大学4年の頃に待ちに待った誘いが来た.
 望みを捨てて現実的な就職先を決めている最中にスカウトされたのだ,
 その後,大学の就職決定委員会の割り当てで,KGBレニングラード支部へ配属が決定した.
 この時大学からKGBに就職したのは僅か4人.
 それ以降16年間KGBで働いたプーチン・・・
 スパイ・プーチンの始まりであった.

 KGBに正式採用された時にプーチンは友人を誘い,カザン寺院近くにあるコーカサス料理のレストランに行った.
 二人でちょっとだけリキュールを飲んで,食事をした.
「何か重要なことが起きたとは感じた.
 でも彼は,その件に関しては何も言わなかった」
と友人は振り返っている.

 私情はどんな近い友人や家族でもあってもなるべく外には出さない.
 KGBに入る前からそんな訓練を心掛けていたかもしれない,プーチンらしいエピソードの一つである.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月12日20:45

▼ 佐藤優氏の著作『国家の謀略』(小学館,2007.12)に,プーチンKGB入りの裏話が載っていました.

 プーチンはレニングラードのKGB支部で聞いたアドバイスを元に,レニングラード大学法学部を目指し猛勉強します,
 そして見事合格し,学生としてKGB入りする準備をし,KGBからの勧誘を心待ちにしていましたが,なかなか接触がありません.

[quote]

「私は,KGBが積極的に働きかける人間を好まないことを覚えていたので,自分からは連絡しなかった.
(中略)
 私が大学4年生のときに,一人の男が近づいてきて話をしたいと言った.その男は正体をあかさなかったが,私はすぐにピンときた.彼はこう言ったからだ.
『きみの就職について話しあいたい.まだ具体的には話さないがね』(中略)
『準備はすべて整っている』と彼は言った
『ワロージャ(プーチンのこと),少し先のことになるが情報機関で働かないかと誘われたら,どう思うかい?』
少年の頃からこの瞬間を夢に見てきたのだと彼に打ち明けることはなかった.そう話さなかった.というのは,以前にKGB職員に言われた,『我々は向こうから近づいてくる人間を好まない』という言葉を覚えていたからだ」

[/quote]
―――『プーチン,自らを語る』,扶桑社 2000年 56-57頁』 」

 『国家の謀略』も面白い著作なのでオススメですよ.
 チェチェン独立派指導者マスハードフ殺害に関する文が興味深かったり.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年12月09日16:27

 なお,

 プーチン自身,自らの諜報機関勤務を少しも後悔しておらず,「立派な人物は全て諜報機関から始まった」というヘンリー・キッシンジャーの言葉をよく繰り返している.

『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.87-88

という.

▼ ちなみにアレクサンドル・ソルジェニーティンも,プーチンと同様のことを述べているという.
 太田述正コラム#1885(2007.7.30)より.

[quote]

「プーチンはKGBの一員ではあったけれど,KGBのスパイ(invetigator)でもなければ,強制収容所(Gulag)長であったわけでもない.
 第一,諜報機関に勤務することは,どの国でも否定的に受け止めらるわけではない.
 というより,時にはそれは称賛を引き起こすことさえある.
 ブッシュ父はCIA長官であった経歴を米国でさして批判されていないと承知している」

[quote]

 同コラムのこの部分に関しては,
http://www.nytimes.com/2007/07/23/world/europe/23spiegel.html?pagewanted=print
及び
http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/IG25Ag01.html
をソースとしていると述べられており,ゆえに普通程度の信頼度はあると愚考する.

プーチン近影
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faq49m01ad.jpg
faq49m01ae.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 「盾と剣」とはどんな映画?

 【回答】
「盾と剣」(Щит и меч)
・1967年,モスフィルム
・2部作(78分+103分)

 主人公は,第二次世界大戦中の対独諜報員アレクサンドル・ベーロフ(Александр Белов).
 ヨハン・ワイスの偽名でSSに入隊.

NH「元諜報員」 by mail,2007年09月02日 10時30分


 【質問】
 プーチンは何年間KGBに勤務してたの?
 また所属は??

 【回答】
 16年間KGBに勤務しています.
 11年間はソ連国内でレニングラード支部に勤めており,
 1970年代には海外派遣準備のため,モスクワにある「赤い星学校(現対外防諜アカデミー)」に派遣され ,そこでスパイ養成訓練を受けた.

 彼の所属は第1総局,主に対外諜報を担当する部署.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26

 ただし,正式のメンバーだったかどうかはともかく,1970年にはすでにKGBとの繋がりがあったという,比較的確度の高い情報もある.

 以下引用.

 〔プーチンは〕1970年にレニングラード大学法学部に入学した.
 そのころ彼を教えていたワレーリー・ムーシンは同大法学部がKGB,内務省,官僚の養成所だったことを認めている.
 1975年に大学を卒業する以前に,すでにKGBがプーチンの就職先として決まっていた.
 彼自身が強い希望を持っていた.
 すでに在学中からKGBとのつながりはできていて,学生時代,急に羽振りが良くなり,学生の身で乗用車を買い,乗り回していたとの証言もある.

 〔略〕

 プーチンの大学時代の法学部教授アナトーリー・ソプチャクは,ゴルバチョフ時代の改革派政治家の代表の一人だった.
 ソプチャクがレニングラード市の評議会議長(市長)に選ばれると,プーチンは中佐でKGBを辞め,ソプチャクの政治担当顧問になった.
 プーチンは学位論文を書きたかったが,ソプチャクに会って考えが変わったと述べていた.
 しかしKGBの協力を望んだソプチャクに対し,KGBレニングラード支部が,教え子の一人だったプーチンを側近に送り込んだというのが真相だった.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.78-81

 同書では,後段の「真相」についての根拠は,何も示されていない.
 しかし,その後の「シロヴィキ」とプーチンとの深い関係を見るに,今もなお関係は切れていないと見るほうが自然だろう.

 現代の諜報界にあってさえしばしば似たことが言われるように,「忍びは死なねば抜けられない」のもまた一面の事実なのである.

消印所沢

▼ 以下,余談.
★★★同志スターリンと語らい合うスレ【72】★★★
より.

――――――
249 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/06/12(木) 19:22:10 ID:???

 まだプーチンちんが大統領でなくてKGB職員だった頃.
 なにかの用事でKGB職員という肩書きを隠し,使節団かなにかにくっついてアメリカのホワイトハウスに行ったとき,当時大統領顧問だったあのヘンリー・キッシンジャーがプーチンに近づいてきて,こう言った.
「君はKGBだろ」

 プーチンは死ぬほど驚いて,思わず「なぜ?」と聞いてしまった.
 するとキッシンジャーは「いや,眼光でわかる」とあっさり言って見せたという.
 さらにキッシンジャーは,
「見たところ,君はなかなか見所がある.将来は出世するだろうからがんばれよ」
とプーチンを励ましたという.
 将来そのKGB職員が大統領にまで出世すると見越していたのかは不明だが,プーチンもいまだに
「キッシンジャーは恐ろしい」
と,ことあるごとにぼやくそうだ.
 亀の甲より歳のなんとかとはよく言ったものだ.

――――――

 出典が「信じられないが,本当だ.」らしいので信憑度は・・・な所がありますけど.
 眼光でわかるのか?普通

CRS@空挺軍 in mixi,2008年06月12日19:11

 カマをかけられて,その上でからかわれただけでは?▲

KGB時代のプーチン,1976年
(画像掲示板より引用)

プーチン近影
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faq49m01e.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 プーチンは何時頃東ドイツへ?

 【回答】
 1985年に海外転勤が決まり,行き先は東ドイツだった
 旧東独のドレスデンにKGB支部があったので家族で赴任した.
 プーチンは1990年1月に帰国するまで,5年間勤務した.

 プーチン自身は
「行列とモノ不足のロシアから行ったかもしれないが,東独にはモノが沢山あった.
 あそこで体重が12キロも増えた」
と振り返っており,赴任当初は
「電話が鳴るたびに.ドイツ人が何を言ってるのか分からなかったらどうしよう.まともにドイツ語で答えられなかったらどうしようと,びくびくしていた」
という.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 東ドイツでのプーチンの任務は?

 【回答】
 KGBドレスデン支部で,東ドイツの秘密警察シュタージと緊密に連絡を取りながら,NATO諸国の政治団体や政党指導者に関する情報を入手し,評価・分析する任務に就いていた.

 当時プーチンが連絡を取り合っていた元シュタージ・ドレスデン副支部長イエームリッヒ氏の証言
「プーチンはKGBのドレスデン支部で,最終的には党書記として文化的政治的な仕事の責任者を務めていました.
 私はKGBとの連絡要員で,プーチン達の仕事がしやすくなるようにあらゆる便宜を図るように命じられていました.
 例えば,彼らが経済界や文化芸術分野の人々や何らかの施設に関心を示せば,そうした対象に接近できるように密かにパイプ役を務めたのです.
 彼は非常にインテリで,上昇志向があり,目標に向かって努力する人物だという印象を受けました.
 控えめで,いつも変わらず友好的で親切で,そして興味のある話をしたり,楽しくおしゃべりすることができました.
 それに彼はドイツ語を上達させ完璧なものにしようとしていました.
 ドイツの文化にも興味を示し,小説も読んでいて,ゲーテやシラーについても知っていました.」

 またプーチンはシュタージを辞めた元諜報員を探し出し,KGBに役立てようとした.
 プーチンに口説かれた元諜報員であるツーコルト氏は,ドレスデンの外国人専用ホテル「ネヴァ・ホテル」のフロント係に送り込まれた.
 ツーコルト氏の任務は,ホテルに宿泊する西側のビジネスマンから精密機器に関する最新情報を手に入れることであった.
 報酬は1000マルクから10000マルクだった

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26

 一方,他の書籍では若干ニュアンスが異なる.

 ドレスデンの街のエルベ川を見下ろす小高い丘の上のアンゲリカシュトラセ4番地の灰色の2階建て住宅が,旧ソ連国家保安委員会(KGB)の少佐だったプーチンの活動拠点だった.
 ここで80年代後半を過ごした彼は,東独やソ連の一般人をスパイ活動に勧誘していた.学者,ジャーナリスト,技術者など,西側に旅行できる可能性を持った東独国民が主な対象だった.
 ドイツの情報当局者によれば,当時のプーチンのスパイとしての仕事は,西側の技術または北大西洋条約機構(NATO)の軍事機密を盗むことだった.
 明かにされた資料では,プーチンはスパイ生活の最後の頃,無線通信の訓練を受けたスパイの発掘,養成に熱心だったとされた.

 〔略〕

 プーチンの活動拠点だったドレスデンのKGB本部は,シュタージの建物と通りを隔てて向かい合っていた.
 プーチンのドレスデンでの活動の詳細については,情報はほとんどないが,スパイ活動への協力者の発掘,要請を含む幾つかの仕事が挙げられていた.
 ドレスデンには当時「ロボトロン」というエレクトロニクスの大企業があ_が,この東側最大のコンピューター・メーカーも,プーチンの情報収集活動対象に入っていたと見られていた.

 〔略〕

 シュタージの協力者リストは東独内の数万人に上ったが,もちろんkGBの協力者としても可能性があった.
 そこで背景のしっかりした外国と商売するビジネスマン,外国の学会に出席する学者などが,プーチンの情報収集の対象となった.
 〔略〕
 彼は表向きライプチヒのソ連の施設「友好の家」を運営する役目を持っていた.
 専門家たちによれば,ホーネッカー政権崩壊に備え,彼は当時のソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフに共感する東独の人物と接触する使命を帯びていたのではないかとも言われた.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.77-80

 まあ,いろんなことをやらされるのは,中堅〜下っ端にはよくある話.

 公になっていない部分もまだありそうだ.

消印所沢

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 東ドイツでのプーチンへの評価は?

 【回答】
 上述のツーコルト氏はこう証言している
「シュタージを辞めて一ヵ月後,東ドイツの終焉が近づいてきた状況の下で,プーチンと諜報活動をどう再構築するのかを話し合いました.
 そして,私はKGBのために働く用意があると告げたのです.
 彼と話しているとすごく気分が良くて,彼が圧力をかけなくても,打ち明けてしまいたくなってしまうのです.
 プーチンには人に秘密を打ち明けさせる才能があるのです
 一見すると人と打ち解けない印象を受けるかもしれませんが,彼が笑うと,がらっと印象が変わりますから.
 彼と付き合っていたとき間に2回か3回,彼が心底から笑う所を見ました.
 その時はもう信頼関係が出来ていたので,その瞬間は諜報機関のお面をかぶっていなかったのですね.
 通常は警戒怠りない人でしたが,それは彼の役職からしたら当然のことです,
 マイナス面をできるだけ他の人に見せないようにします.
 プーチンは他人をわずかな言葉だけで自分の味方にしてしまう才能を持っているのです.
 彼が怒鳴り声を上げるのを聞いた事はありません.
 言葉数は多くないですが,はっきりと物を言います.
 こうしたことから,とてもまっすぐな人だと思っています」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26

 否定的評価もある.

 1989年3月,シュタージのドレスデン支部長だったホルスト・ベームは,プーチンの上官だったウラジーミル・シロコフにKGBの活動について抗議のメモを伝達した.
 後に発見されたそのメモの中で,幾つかの名前が塗り潰されていた.
 消息筋によると,その中にプーチンの名があったという.

 ベームはKGB機関員が東独の退役軍人をスパイに誘っていると不満を述べていた.
 ある退役軍人はドレスデンで,2人のKGBスパイからソ連の情報活動に協力するよう提案された.
 その話の内容は無線通信の訓練と,3ヵ月に1回の仕事の誘いだった.
 ベームはその者がすでにシュタージで働いているとして,KGBにその人物から手を引くよう要請した.
 ベームは後に自殺したが,ベームの手紙は当時のプーチンの活動ぶりを示すものだった.

 〔略〕

 1987年,プーチンはシュタージとの協力関係への貢献で,東独の治安当局からブロンズ・メダルを貰っている.
 しかしそのメダルは最低レベルから2番目ぐらいの賞であり,どこから見てもプーチンのスパイとしての評価が高かった証拠はなかった.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.79-80

 まあ,たとえ同盟国同士であったとしても,その両国の諜報機関までが関係良好とは限らないというのは,アメリカ―イスラエルのそれを見ても分かる話.

消印所沢

「俺の『プーチン』フォルダが火を噴くぜ」
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 東ドイツでのプーチンの知名度は?

 【回答】
 無名で典型的な内務官僚の域を出なかった.

 87年6月に第1総局のボスであったクリュチコフKGB副議長がドレスデンを訪問したことがあった.
 しかしクリュチコフは,プーチン達の働きぶりには関心を示さなかったようである.
 プーチンは海外赴任中に2階級分の昇進を果たしたが,クリュチコフに近い退役KGB幹部の一人はこう証言している.
「プーチンがドイツで働いていた時に,彼は全く有名な存在ではなかった.
 スキャンダルもなかった代わりに,優秀な成績でもなかったのだろう.
 仮にソ連がそのまま存続し,プーチンがそのままKGBに残っていたとしても,地方支部の部長程度の昇進が精一杯であっただろう」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26

 この点では,他の書籍も一致している.
 以下引用.

 プーチンの活動は旧ソ連のスパイとしてはごくありふれたもので,彼を知る当時のドレスデン市長も「凡庸なスパイ」と印象を語っていた.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.79

消印所沢

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 プーチンが故郷サンクトペテルブルクに帰還したのは何時か?
 また仕事は何をしていた?

 【回答】
 1990年一月頃.
 東ドイツから帰国したプーチンにあてがわれた配属先は人事局.
 もうKGBに憧れの職場ではなく,KGBには予備役として籍を残して,母校のレニングラード国立大学に戻った.
 そこで見つけた職は学長の国際担任補佐.
 この転職が彼の真の転機へとなった.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33

 異説もある.
 江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.80によればレニングラード大学に戻ったのは,KGBへ学生を勧誘する仕事のためだったという.
 以下引用.

 1990年,プーチンはレニングラードに戻った.
 レニングラード大学の副学長補佐の職を得た.
 実際はKGBのために学生を選び,勧誘するのが仕事だった.
 彼は後にそれを認め,学長も承認済みのKGB将校としての隠れ蓑だったと告白した.

 同様の記述は,他にも見られる.

 レニングラードでプーチンといっしょに働いていた元諜報機関職員のひとりは,『コムソモーリスカヤ・プラウダ』のインタビューで
「プーチンが携わっていた仕事の分野は,諜報機関の中で最も責任が重く,緊迫した分野の一つだった.
 彼はキム・フィルビーのような人を作り出す℃d事をしていた」
と語った.※68
 これはプーチンが諜報活動だけでなく,その雇用にも携わっていたことを意味する.
 レニングラードではジャーナリスト,西ドイツの旅行者,学生,ビジネスマンがそのような可能性があった.
※68 『コムソモーリスカヤ・プラウダ』2000年2月27日

――『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.88-89

 本サイトでは原文の『プラウダ』記事は入手していないが,「最も責任が重く,緊迫した分野の一つ」を新米に任せるとは思えないので,この同僚は1990年以降のプーチンについて話している可能性が高い.
 そうだとすると,後者の説でほぼ確定のように愚考する.

消印所沢

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 何故プーチンはFSB長官に任命されたのか?

 【回答】
 エリツィンの意向.
 コワリョフ長官がビジネスに捜査の手をのばしたのを,彼は嫌ったため.
 そこで民主主義や市場改革に理解があるプーチンを採用した.
 しかしプーチンは内心イヤだったらしい.

 1998年7月に彼はFSB長官に就任した,
 異例のスピード出世.
 しかしこの人事はプーチンにとってショックだった.
 同じ川に二度も踏み入れなくなかったと自伝で述べている.

 何故エリツィンはプーチンをFSB長官に抜擢したのか?
 彼は自伝でこう述べている.
「コワリョフ(前FSB長官)は良いプロのKGBマンだが,ビジネスや企業家に対して大きな反感を持っていた.
 彼は金持ちが好きではなく,FSBは次第に新たな敵,民間銀行や個々のビジネスマンのスキャンダルを探すようになっていた.
 1998年の夏,私はコワリョフの後任を誰にしようかと考えた.
 答えは瞬間的に見つかった.プーチンだ!
 第一に彼はこの機関で長く働いていた.
 第二に大きな管理業務をこなしてきた.
 しかも重要なのは,プーチンは民主主義や市場改革にも理解があり,国への忠誠心にあふれていたことだ」

 当時のFSBは大きな問題に直面していた.
 連邦崩壊後,優秀な人材が流出し財政難から民間会社に転出し,社会での権威を失っていた.
 この権威を回復し,組織を立て直し,活動の内容をより政治色の薄いものにする必要があった.

 プーチンはエリツィンから,FSBの再編成や市場経済で生まれた民間ビジネスを守る事,テロや過激な政治勢力の取り締まり,チェチェンを含む分離独立活動の阻止を命じられた.

 FSB長官時代のプーチンについて前サンクトペテルブルク市長ソプチャクはこんなエピソードを語った.
「1996年のことです.
 エリツィン大統領はプーチンを連邦保安長官に任命することにし,当時大佐であったプーチンに将軍の称号を与えようとしました.
 大統領が少将を素通りして中将の称号をプーチンに与えようとした際,プーチンはエリツィンにこう言ったそうです.
『私は将校です.将校の間では,実績もあげないのに昇格される人間をとても嫌います.
 新任早々ニ階級特進だと,こう言われるのです.
 私は連邦保安長官に着任したばかりですから,将軍の階級章は遠慮させていただきます.
 今のところ,大佐が私に見合った称号ですから,大佐のままで勤務させていただきたい.
 将軍に価するだけの仕事をしたら,将軍の肩章をお受けしましょう』

 このエピソードはたちまち局内に広がり,プーチンは心から将校達に尊敬されるようになったということです.
 将軍の官位を授与すると言われて,それを断る者は当節ではそう多くありません.
 大統領はロシア軍の最高司令官ですが,その人間が今でも大佐なのです.このことは彼の人となりをよくも物語っていると思います」

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月01日20:47

 事実,組織としてはかなり異例の登用であり,これによりプーチンの名前が西側でも知られるようになる.
 治安機関トップになる人間は,将軍クラスが通例だったからだ.

消印所沢

 ※ 江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22)では,最終階級は中佐とされている.

 【関連動画】
Man's Work
 プーチンFSB長官(当時)のインタビュー映像.

CRS@空挺軍 in mixi, 2007年11月02日17:48

プーチン・フォルダより
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こちらより引用)

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 なぜ最終階級中佐のプーチンが,FSB長官になれたのか?

 【回答】
 これもまたチュバイスの推薦だった模様だが,漠然とした状況証拠しか存在しない.

 以下引用.

 この人事もチュバイスのさしがねではないかとの憶測が出た.
 連邦保安局長官の前任者だったニコライ・コワリョフも,チュバイスによって据えられた人物だった.
 1996年大統領選の期間中,大統領府警護局長コルジャコフとの政争に勝って,チュバイスはコルジャコフをクレムリンから追放した.
 この時コルジャコフの盟友だった連邦保安局長官のミハイル・バルスコフも解任させ,後任にコワリョフを据えていた.

 だからコワリョフに代わって連邦保安局長官に就任したプーチンにも,チュバイスとの関係について質問が出た.
 「コメルサント」紙とのインタビューで,彼は
「サンクトペテルブルク時代,チュバイスとは入れ違いで個人的にあまり知らなかった」
と,チュバイスとの個人的関係を否定する発言をした.
 プーチンはチュバイスとの仲を公に知られることを警戒していた.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.86

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 FSB長官としてのプーチンがやったことは何か?

 【回答】
 人事の入れ替えに力を入れ,後に「シロヴィキ」と呼ばれる,プーチン自身の側近グループを作り始めたという.
 以下引用.

 連邦保安局でプーチンが力を入れたのは人事の入れ替えだった.
 KGBのサンクトペテルブルク時代の人脈が,モスクワに集められた.
 上司だったヴィクトル・チェルケソフ,ニコライ・パトルシェフ,サンクトペテルブルク市政時代からすでに市の総務局長に登用していたヴィクトル・イワノフなどが,プーチンへの協力者として連邦保安局を動かし始めた.
 人事登用で彼らが重視したのは,サンクトペテルブルク出身の地縁とプーチンへの忠誠心だった.

 〔略〕

 大統領府にいたときは,プーチンにはまだ側近グループはいなかった.
 「セミヤー」グループの大統領府長官ユマシェフの忠実な部下として行動し,「セミヤー」から離れて自己のグループを作ることは謹んでいた.
 しかし連邦保安局に移ると,一転してKGB時代の同僚や上司を主体にした自己の側近グループ形成に熱を入れ始めた.
 このグループは後に「シロヴィキ」と呼ばれる政治・経済勢力に発展する.
 「シロヴィキ」は武力関係省庁の出身者を総称する言葉だったが,プーチン政権下で特別な意味を持つことになる.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.87

 私見だが,プーチンが強い上昇思考を持つようになったのは,この「シロヴィキ」作りを始めた頃からではないかと愚考する.

プーチン・フォルダはまだまだあるぞ
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 プーチンが尊敬するKGBの人物は?

 【回答】
 ユーリ・アンドロポフを尊敬している模様.
 彼に関する記念施設を,プーチンは復活させている.
 以下引用.

 1998年に連邦保安局長官に任命されていたV.プーチンは,ルビャンカの建物の中にY.アンドロポフ記念執務室を復興させ,1985年にここに据えつけられた記念銘板を,元の位置に戻す決定を下した.

『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.91

 本書の全体のトーンはプーチン翼賛的であり,したがって,プーチンに対するマイナス・イメージを抱かせることになるだろう,この記述は,逆に信頼に値すると愚考する.

▼ ちなみに以下は元KGB,オレグ・カルーギン将軍のアンドロポフ評.

――――――
 人間アンドローポフの評価は一筋縄では行きません.
 彼がKGB議長に就任すると,体制批判派への弾圧がますます強まり,任期中に政治諜報活動の体制は完璧なものとなりました.
 アンドローポフは党内序列についてあらゆる事を知っています.
 彼は社会が求めていることと,ブレジネフやスースロフの目論見とのあいだをたくみに立ち回りました.
 〔略〕
 とはいえアンドローポフは政治的殺人には反対でした.
 つねに別の方法を選びました.

――――――『不死身のKGB』(ナターリヤ・ゲヴォルキャン Natalija Geworkjan 著,エディションq,1998.9.10),p.22

プーチン,世界の旅
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(画像掲示板より引用)


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