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◆◆◆◆品川台場(品川砲台) Odaiba
<◆◆◆日本側の防備 Japan Vedelmi a 19. szazad kozepen
<◆◆開国以前
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


 【質問】
 幕末期の台場防備について教えられたし.

 【回答】
 前にも取上げましたが,江戸幕府が外国船に対する沿岸防備について本格的に検討し始めたのは,1791年以降の事.
 当初は穏便にお引き取り頂くと言う穏健策を執っていましたが,オランダの制海権が落ちてきて,他国船の侵入を防げなくなった時点,特にナポレオン戦争によって,オランダ本国が陥落すると,その傾向は如実となり,1810年以降は,幕府も自国で海防体制を構築しなければならなくなります.

 これは相州並びに房総の海岸線に家門,譜代の有力諸大名家の領地を与えて部隊を常駐させ,一朝有事ならば,それを主力に周辺の中小大名家が支援する体制が採られました.
 1810〜1820年に会津松平家と白河松平(久松)家の2頭体制,以後,1820〜1842年は幕府直轄体制,1842〜1847年は川越松平家と忍松平家の2頭体制に再び戻り,1847〜1853年は川越松平家,彦根井伊家,会津松平家,忍松平家の4頭体制で防備が行われました.

 この間の沿岸防備の重点は,相州観音崎と房総富津を結ぶ江戸湾口部分に指向され,台場も浦賀海峡に面して設けられていました.
 その間,ロシア船の蝦夷地侵入やフェートン号事件などがあり,穏健策から積極的な攻撃策へと転回していきます.
 例えば,1837年のモリソン号事件では,野比沖で浦賀奉行所がモリソン号に砲撃する事態を起こしています.
 とは言え,その当時の相州側警備兵力たるや,与力・同心が92名に,川越松平家の相州詰士卒が116名.
 防御施設も,観音崎と平根山の両台場と,安房崎遠見番所の3箇所しかなく,相手が軍艦だったらどうなっていたか判らなかったりします.
 因みに,時代は少し遡りますが,老中松平定信も,打払いをしても,攻撃を受けても守りきれない事を知っていて,どうやって降伏するかを考えていたとか.

 そんな折,江戸の最終防衛ラインとして計画されたのが品川台場の一連の堡塁群でした.

 さて,江戸湾の防衛として,1847年以降は4家体制となった訳ですが,幕府直轄として浦賀奉行所も又,戦闘態勢の中に組込まれていました.

 浦賀奉行所自体は,1720年に船改めの役所として設置されたものです.
 しかし,1820年に至って海防任務が加えられ,1821年4月,会津松平家から平根山と観音崎の台場を引継ぎ,与力・同心を動員して警備に当ることになります.
 1842年,川越松平家が相州一帯の警備を行う事になると,観音崎台場を川越松平家に引継ぎ,1843年2月に引渡しが行われました.
 その代り,会津松平家が1811〜12年に建設した鶴崎台場を1845年に再整備し,同心を配置,更に,1848年には千代ヶ崎と亀甲岸に新規台場を設置し,前者には洋式砲が備えられることになりました.
 ところが,1852年,幕府は再び西浦賀一帯を彦根井伊家の所管として,浦賀奉行所は外国人応接と浦賀港内警備に特化されてしまいました.
 この為,浦賀奉行所では明神崎と見魚崎に新規の台場を建設し,浦賀湾の直接防禦を行うことにしていました.

 亀甲岸台場は1853年に増築され,300目台付御筒2梃と3貫目焙烙筒1梃が配備されていたものに,ホウイッツル筒2梃が加えられました.

 明神崎台場は,1853年時点では竣工に至っていません.
 しかし,西洋風の砲台で,上中下の3段に砲台が築かれており,上の砲台には4貫500目南蛮鉄御筒,24ポンドカノン,18ポンドカノン,ボムカノン,井上流10貫目筒,田付流5貫目筒の計6門が設置され,中段は隠し台場として,カルバリン砲2門,下段には50ポンドモルチールが設置される予定でした.

 見魚崎台場は1853年に竣工した最新鋭の台場で,1貫500目南蛮鉄が1梃,1貫300目南蛮鉄が1梃,1貫目南蛮鉄が2梃,950目南蛮鉄が1梃,50ポンドモルチールが1梃配備されていました.

 いずれも和洋両用の構えでしたが,明神崎は港の外側に向けての砲台であり,此処には長射程のカノン砲,亀甲岸には湾内全体を射程に収める為,中射程で破壊力の大きなホウイッツル砲,見魚崎は近くまで侵入した船舶迎撃の為に命中率の高い和筒を配備しています.
 近距離用には,何れの台場も破壊力の高い大口径モルチール砲を備えていて,それなりの攻撃力を持っていたことが判ります.

 後,鶴崎台場には石垣3尺が張り巡らされており,当初は備砲が大筒貫目以上3梃しかなかったのですが,1850年時点では増強され,24ポンドカロナーデ砲1梃,24ポンドホウイッツル砲1梃,24ポンドカノン砲1梃に交換されていました.

 取り敢ず,浦賀奉行所配下の砲台に関しては,沿岸防備に関してはほぼ用兵側の要求を満たしていると言えましょう.
 ただ,性能についてはどうしようもありませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/03 22:22

 浦賀港内警備をしていた浦賀奉行所以外の4大名家はどんな装備だったか.

 川越松平家は,相模国に浜附の分領を有しており,寛政令と共に江戸湾海防に関わることになります.
 1842年以後は,相州警備を一手に引受けることになり,川越松平家では大津,三崎,鴨居に陣屋を建設して藩兵を常駐させると共に,観音崎,旗山,十国,安房崎に台場を,八王子山に遠見番所を置いて外国船の警戒に当ることになりました.
 とは言え,この警備は相当な負担になって(それでなくとも,川越松平家は転封に次ぐ転封で財政が苦しかった),1847年には彦根井伊家と警備区域を2分して川越松平家は三浦半島の東南部に縮小され,安房崎台場と八王子山遠見番所を井伊家に引渡しています.
 1853年時点で,旗山,十国,猿島,鳶巣,鳥ヶ崎,亀ヶ崎の各台場を傘下に収めていました.

 旗山台場と十国台場は1843年3月着工,7月に竣工したもので,前者は水面高さ1丈程度,140〜150坪程度の広さで竣工時は貫目以上5梃程度でしたが,1846年には10貫目ボムカノン1梃,2貫目筒3梃,1貫目筒2梃,500目筒3梃に強化されました.
 後者は旗山の山続きの地先の鼻を100坪ほど切り開いた場所にあり,1貫目筒3梃,2貫目筒2梃を備えていましたが,1846年には1貫目筒2梃,500目筒3梃となり,1850年になると1貫目玉筒1梃,800目玉筒1梃,500目玉筒3梃と年々火力が減少しています.

 猿島台場は1847年8月から11月にかけて建設された大輪戸,亥の崎,卯の崎の3つの砲台から成る台場で,備砲は,大輪戸に3貫目玉2梃,500目玉1梃,300目玉1梃,亥の崎に3貫目玉1梃,1貫目玉1梃,300目玉4梃,卯の崎に500目玉2梃,1貫目玉1梃の合計13梃が配備されていました.

 更に1850年12月,幕府から観音崎台場を鳶巣に移転し,鳥ヶ崎と亀ヶ崎へ台場の新設が下令されます.
 とは言え,財政が傾いている川越松平家だけにこれらの台場の建設と装備については,幕府が行い,それを川越松平家に下賜する形式を採っています.
 観音崎台場を移転したのは,この台場が水際から20間ほどで射程に難があったことから,その下方である鳶巣崎に移したものです.
 この時,川越松平家はこれらの台場を洋式砲台とする様,幕府に要請しましたが,台場の工事を地元に請負わせた為に洋式築城法に対応出来ず,結局従来の形式での砲台となっています.
 これらの砲台には,3貫目筒1梃,2貫目筒4丁,1貫目筒5梃を幕府から貸与され,配備していました.

 鳶巣台場は7梃据となっており,観音崎の5梃に幕府の2梃を加えたものと考えられていますが,1853年5月には幕府から洋式火砲の貸与を改めて受けており,1854年6月に鳶巣台場を肥後細川家に引き渡した際には,80ポンド,60ポンド,24ポンドカノン砲を各1門,18ポンド砲2門,15ドイム臼砲1門,12ドイム臼砲2門が配備されていました.
 鳥ヶ崎台場へは当初5梃据となっており,1853年5月には洋式砲が加えられて,1854年6月には洋式砲1門と和筒5門となっていました.
 亀ヶ崎台場は,3梃据で,2貫目筒1梃,1貫目筒1梃を据え付けたものでした.

 ところで,1847年2月15日に川越松平家と共に相州警備に加わったのが,先述の通り彦根井伊家です.
 井伊家では2,000名の藩兵を相州に派遣し,上宮田に本陣を置き,久里浜から腰越の三浦半島西南部沿岸警備の任務に就きました.
 この時,川越松平家から安房崎台場,八王子山遠見番所,浦賀奉行所からは千代ヶ崎台場を引継ぎ,1848年迄に千駄崎,剣崎,荒崎の3台場,1855年迄に大浦山,箒山の2台場を建築していました.

 この内安房崎台場は,元々会津松平家が城ヶ崎の東端に建設したもので,当初は10貫目狼煙御筒1梃,3貫目筒1梃,1貫目筒1梃でしたが,1850年になると,高島流ハンドモルチール3貫目筒1梃,新稲富流1貫目玉筒1梃,荻野流1貫目カノン筒1梃となり,八王子山遠見番所も高島流ハンドモルチール3貫目筒1梃,柴田流400目筒1梃,新稲富流1貫目筒1梃となっています.

 千駄崎台場は,1847年3月19日に幕府が新設を決定し,11月16日に竣工すると同時に彦根井伊家に引き渡されたもので,当初の備砲は10貫目狼煙筒1梃,7貫目筒1梃,13貫700目筒1梃,3貫目筒3梃,2貫目筒2梃,1貫目筒3梃でしたが,1850年には高島流モルチール13貫700目筒1梃,稲富一夢流3貫目玉筒1梃,藤岡流2貫目筒1梃,24ポンドカノン砲1梃,藤岡流100目玉筒1梃,荻野流3貫目筒1梃,柴田流3貫目玉筒1梃,柴田流1貫目玉筒1梃,新稲富流2貫目玉筒1梃,荻野流1貫目玉筒2梃,10貫目狼煙筒1梃に強化されています.

 剣崎,荒崎の両台場についても有力火砲が配備されており,剣崎台場には高島流モルチール36貫目筒1梃,藤岡流1貫目玉筒4梃,荒崎台場には太田流300目玉筒1梃,荻野流400目玉筒1梃,藤岡流1貫目玉筒1梃があり,ペリーも相模岬の砲台については警戒を要していました.

 大浦山台場は湾口守備の為の小規模台場で,箒山台場も比較的小規模なものでした.
 大浦山台場の備砲は高島流ホウイッスル13貫700目筒1梃,太田流1貫目玉筒1梃,太田流800目玉筒1梃,箒山台場の備砲は高島流ホウイッスル6貫目筒1梃,武衛流1貫500目玉筒1梃,藤岡流1貫目玉筒1梃でした.

 1852年5月2日には,浦賀奉行の職制が港内警備に集約された為,西浦賀一帯の警備は全て彦根井伊家に掛かってくることになり,千代ヶ崎台場が井伊家の下に編入されました.
 この時点での台場の備砲は,ホウイッスル13貫700目筒1梃,カルロンナーテ7貫500目筒1梃,モルチール13貫700目筒1梃,ホウイッスル6貫500目筒1梃,狼煙5貫目筒1梃,2貫目筒1梃,1貫目筒6梃,南蛮1貫500目筒1梃,800目筒1梃,500目筒1梃となっています.

 なお,彦根井伊家の台場は,家内で武衛流砲術家として知られていた河上吉太郎と肥田久五郎でしたが,両名とも和式の砲術家だった為,洋式砲台は遂に建築されず仕舞いでした.

 この他,予備として,秋谷村と小坪村に300目玉筒2梃,200目玉筒1梃を保管し,有事の際には臨時の台場を構築する予定でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/04 18:59

 ペリーが来航して「来年来るよ」と言って帰った後,幕府は手つかずだった江戸湾防衛計画の策定に着手することになりました.
 1853年6〜7月,海防掛の若年寄本多忠徳,勘定奉行松平近直,川路聖謨,目付戸川安鎮,勘定吟味役格江川太郎左衛門等は,江戸湾を取り囲む武相,房総の海岸を巡察し,川路聖謨と江川太郎左衛門は連名で江戸湾防備の上申を行いました.

 先ず,方針書では,相州側の旗山崎と房総側の富津岬を結ぶ海上に,「御台場九箇所水中埋立」の形で建設する事の必要性を説きつつ,とは言うものの,来年まで期間がないことから,現実的な対策として,それよりも内海に御台場を普請することとしています.

 本来の江川太郎左衛門の江戸湾防備構想では,先ず第1防禦線として観音崎と富津崎を結ぶ線,それを突破された場合の第2防禦線として横浜本牧と木更津を結ぶ線,更にそれを突破された場合は羽田沖で,最終防衛線は品川沖と考えていましたが,品川沖ならば,水深が浅く,埋立も容易であることから,この部分に御台場を設けることを進言した訳です.
 理想では,第1防禦線に重厚な御台場を設ける方が良いのですが,当時の土木技術,幕府財政,所要の竣工期限を考えれば,それは無理筋と言うものであり,先ずは手近な品川沖からとしました.

 1853年7月23日,松平近直,川路聖謨,竹内保徳,江川太郎左衛門の4名に,「内海御警衛御台場普請」の命が下されました.
 その際,品川台場の建設から備砲の調達に至る迄の実務全般は,江川太郎左衛門に委ねられる事になりました.

 その品川台場は,当初,1番台場と2番台場をカットバッテリー(Kat baterij)つまり,後座砲台を設置する海堡とし,3つの南の方より縁を取り,次第に陸の方に廻り,最後に深川洲崎弁天前に11番台場を設置する計画でした.
 ただ,カットバッテリーを設置する海堡は実際には建設されず,実際に竣工した台場も1〜3番と5,6番のみであり,江川太郎左衛門の見込み通りには出来ませんでした.

 品川台場を巡っては,その工事着工目前に,江川太郎左衛門が老中阿部正弘に内海台場の模型を送ったことが記録に残されていますが,その模型自体は行方不明になっています.
 この為,江川文庫の六稜堡の模型をして品川台場の模型とし,形状が著しく異なっているので,場当たり的な設計変更が行われ,埋立が行われながら上部構造の変更が行われたとする説もあります.

 しかし,品川台場の機能としては,江戸湾に侵入した外国船の武力行動を,海上に於て阻止するための海堡として建設されたものであり,備砲の火力を広い射界と長い射程で運用出来る様,台場の形状は方形堡ないし角面堡としたものです.
 五稜郭や龍岡城の様に陸戦を想定して,要塞の全周に十字砲火の火網を形作るための突角堡を持った多稜堡とは性格を異にしていますし,多稜堡は,軍の拠点と成る施設,或いは敵上陸阻止のための施設として,内陸や沿岸に独立した形で建設されるものであり,海上に間隔連堡として配列する必然性はありません.
 しかも,施工途中の設計変更か否かについて考えると,配列計画に基づいて埋立が行われる訳で,配列計画も波力運用の考え方によって決定される訳ですから,場当たり的な設計変更などは出来よう筈がありません.
 但し,施行方法の変更が行われたらしい記述は残っているので,その辺は謎に包まれています.

 1853年8月3日,御作事,御普請,小普請の3奉行宛に「江戸内海御警衛場御台場御普請仕方之儀」が通達され,1〜11番の各台場の平面プランの外形と,埋立計画が示され,これに基づいて入札を実施した結果,1〜3番と6番,8番は御大工棟梁の平内大隅,4,5,7,9番は御勘定所御用達の岡田治助,10,11番は柴又村年寄の五郎右衛門が普請を請負うことになりました.

 8月28日,内海御台場御普請御用に携わる諸役が任命され,着工にかかりました.
 建設工事は,先ず1〜3番を先行着工し,9月16日には早くも3つの台場とも5間四方の小島が出来るまでになりました.

 埋立の手順は,先ず砂質泥岩である三浦土丹岩と大量の土砂を海中に投棄して小島を造り,その周囲を更に埋め立てて台場の基盤を形成するもので,1番台場では土砂20,712.9坪,三浦土丹岩5,113.1坪,三浦石401坪が使用され,2番台場では土砂16,166.8坪,三浦土丹岩3,259.6坪,三浦石401坪が使用,3番台場では土砂15,788.9坪,三浦土丹岩3,149.1坪,三浦石413坪が使用されました.

 埋立用土砂の採取は,1番台場が品川宿御殿山最寄,2番台場は下高輪にあった松平駿河守元屋敷より持ち出し,3番台場は高輪泉岳寺から持ち出されました.
 こうして切り出された土は,猟師町弁天脇,駿河守元屋敷下,泉岳寺前に設けられた土出場から,土?船で埋立地に運ばれました.
 10月27日には下埋立を終え,上部の整地が行われます.
 それと並行して,地杭の打込みが開始されました.
 その多くは直径15cm,長さ3間半ほどの杉材で,軟弱な地盤の上に構築される石垣の基礎を支えました.
 地杭の打込みと切揃が終わると,その上に算盤敷土台を取付け,石垣の基礎としました.
 この工法自体は在来工法であり,石垣の基礎となる木材に関しては,常時水に浸かった状態では殆ど腐朽しないと言われています.

 石垣普請は12月から開始されました.
 石は伊豆や相模から搬入され,石垣石の多くは真鶴付近の輝石安山岩です.
 これらが整然と積まれて,裏込部には割栗石が殆ど隙間無く詰められている構造でした.
 その裏込石には,豆州,相州の堅石場,土丹小岩は相州三浦郡,大栗石,中栗砂利,切込砂利は本牧・玉川・大井村海岸にて採取されたものです.

 石垣を含めた塁台部分は,1854年2月であり,江川太郎左衛門の検分の後,火砲配備を行い,4月以降には内部施設が整備され,最終的に1〜3番台場の竣工は1854年7月9日でした.

 1854年3月11日には,次の整備として5番と6番台場の建設が開始されました.
 施工方法は1〜3番と同じですが,量産型みたいな感じで,石垣の石積法をやや加工の粗い切石の谷積みとすることにより,工期の短縮を計り,11月15日にはほぼ完成しました.

 ところが,幕府は外国船との対決を回避して,ペリーと日米和親条約を締結し,当座の外圧を回避します.

 1番台場の建設費用は15,226両2分,2番のそれが12,690両,3番が12,384両で,5番と6番がそれぞれ工期短縮と仕様を落としたことで5,823両2分と6,284両1分で建設しましたが,それでも当座の外圧を回避した事で,台場の緊急性が薄れ,その上,経費も此の後3万両近く掛かる計算になったことから,予算削減を図る事にしました.
 その為,予算削減,即ちこれ以上の建設を断念させようとした勘定奉行の川路聖謨と,建設を継続しなければ,江戸湾防備が出来ないとする江川太郎左衛門との間で激論が交わされています.

 結局,1854年5月4日,老中阿部正弘は5箇所のみの竣工で事足りるとして,これ以上の建設を行わない旨の通達が出てしまいます.
 かくして,品川台場は台場列の東側に空白を残したままの状態となり,不完全な形での防禦線となってしまいました.

 これについては,1860年に来日したプロシアのオイレンブルクが次の様に指摘しています.

――――――
 この海堡は湾の西側,全体の3分の1を占めるに過ぎず,東へは簡単に迂回されてしまう.
 しかしそこには沿岸砲が並んで岸を縁取っており,これは碇泊地に投錨している軍艦の砲には届かないが,上手く操作すれば猛烈な舟艇攻撃を撃退することは出来よう.
 海堡はこの東側から攻撃されれば占領されてしまうだろうが,良く防衛すれば敵に流血を強いることは出来ると思われる.
――――――

 1853年11月14日,取り敢ず,幕府は台場防衛の警備担当諸大名家を選任しました.
 1番台場が川越松平家,2番台場が会津松平家,3番台場が忍松平家です.
 1854年1月のペリー再来の際に,これらの大名家は藩兵を配置しますが,未だこの時点では竣工に至っていません.
 又,5番,6番台場は3月の着工なので,未だ影も形もありませんでした.
 結局は,これらの台場はペリー来航には全く役に立たず,更に防衛線構築にも不完全な状態でした.

 その後,1863年に4番と7番台場が建設され出しますが,前者は7割,後者は3分ほどの進捗にて中止と成りました.
 前者は,埋立を終えて外形が整えられ,石垣が半ばまで積まれての放置,7番は下埋立の段階で放置されていました.
 8〜11番台場は完全にペーパープランの段階で終わっています.
 序でに,この他に御殿山下台場があり,こちらは1854年9月に請負任が決まり,12月17日には竣工しています.

 以後,この品川台場は1868年まで海堡としての役割を果たし,御殿山下台場(後,陸附四番台場となる)を含めて20に上る諸大名家が警備に従事していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/08 23:16

 そう言えば,御台場にGundamが姿を見せたそうですね.
 個人的にはZakuの方が好きなのですが….

 この御台場の設置場所は,当時の江戸市街部の沖合約2km,江戸湾内海の奥まった場所に設置されました.

 これは先に述べた浅水深での埋立工事の容易さも然る事ながら,台場の前方約4kmに水深5m以内の遠浅が拡がっていたことも見逃せません.
 つまり,この遠浅の為,深い喫水を有する大型軍艦がその艦載砲の射程圏内まで接近出来ないと言う防衛上の利点がありました.
 そうなると,内海の防禦線は,江戸市街部を直接砲撃する事が可能なボムケッチの様な浅吃水の砲艦や,沿岸部への上陸を試みようとする小型舟艇の武力行動に対応する事を想定するだけで済みます.

 品川台場の防禦機能は,備砲の砲列を広い射界と長い射程を持った形で運用出来,台場相互の連携によって周囲の海面に濃密な十字砲火を形成出来ると言う条件でした.
 品川台場が装備を計画していた火砲は,その当時の列強が装備していたのと同じ前装滑腔砲であり,決して江戸幕府の技術水準が劣っていた訳ではありません.

 台場の平面プランと配置は,サハルトの築城書を非常に参考にしていました.
 個々の台場の形状は,閉塞式の方形堡ないし角面堡で,3番と7〜11番は方形堡,1〜2番と4〜6番はその前部を切った角形堡が採用され,1,2番,4番と6番,7〜11番台場は同一外形・法量を持つものとして設計され,何れの台場も後端部に波止場を設けています.
 そして,これらの台場を所要の規則によって配置し,防禦線を形成するプランでした.
 これを間隔連堡と呼び,それらの台場は互いに援護為合う為に適切な間隔を持っています.
 サハルトの築城書では下図左の様な感じでの配置です.

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  →  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ ◇ ◇
   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇         ◇  ◇  ◇  ◇    

 品川台場の配置は,この築城書に沿いつつ,1番台場は角面堡である為,右前面の備砲の射界を海上に向けて取るため10度ほど基準線からズラした形に設置し,11番台場のみ10番台場に並行する設置方法であり,若干オリジナルとは異なり,上図右の様な感じの配置になっています.

 この配置の基本は至近距離に接近した砲艦に対する備砲射程,特に霰弾射の有効射程を元に決めていた様です.
 霰弾射は,ブリキ製円筒に直径3cmほどの鉄弾子を填めたBlikdoos(鉄葉弾)を発射するもので,火砲から発射すると一定時間後に空中で破裂して鉄弾子が霰の様に目標へ降り注ぎます.
 これらの鉄弾子が砲艦の艦橋や甲板上で操艦,操砲する乗員や舟艇で上陸を試みようとする兵士を殺傷する訳です.
 今のクラスター弾みたいなものですね.

 品川台場には,佐賀鍋島家に製造を依頼した36ポンドカノン砲を除き,全ての備砲にこの「鉄葉弾」を交付していました.
 この「鉄葉弾」を使用した場合の各砲の最大射程は,24ポンド乃至12ポンドカノンでは7町19間2尺(797m),6ポンドカノンで5町7間3尺(558.6m),15ドイムランゲホウイッツルで3町55間(426m)を有していました.
 これらの砲から「鉄葉弾」を撃ち出せば,それぞれ隣接の台場を適切に防禦出来ます.
 また,この品川台場は,江戸市街の沿岸部から約2km離れた場所に建設されていましたが,その距離は何も適当に決めた訳でなく,その背後の岸に配備された12ポンドカノン砲の最大射程22町32間1尺(2,452.2m)に対応するもので,万一台場の背後に回り込まれても,その背後から攻撃を加える事が可能でした.
 その基本構造は,エンゲルベルツ曰く,「水路に対して夥しい十字砲火をなせる様にしなければならない」と説いており,そのセオリー通り,江川は台場を配置したことが判ります.

 江川太郎左衛門自身,海岸砲台が備えるべき機能は,迎打(Tegemoetkomende),横打(Evenwijdige),追打(Vervolgende)の3種を挙げており,品川台場にはこれらを組み合わせた火力構成となる様な設計を行っています.
 つまり,1,2,5,6番台場はその前部を切って防禦線の正面方向に対する迎打の機能を持たせ,全台場の左右前面から行う横打によって,防禦線前方に濃密な十字砲火を形成出来,且つ,全台場の背面には野砲を配備して,十字砲火による追打を行える様にしていました.

 品川台場が当初予定通り11番台場まで竣工していれば,その北東には大川と中川に挟まれた干潟が1里半余り広がり,防禦線背面への迂回侵入を妨げることが出来ました.

 例えば,ペリー艦隊のサスケハナは喫水6.2m,最も浅いサラトガでも5mであり,何れも台場の前方4km以内に侵入出来ません.
 でもって,最大射程ではサスケハナの9インチ榴弾砲の3,105mであり,僥倖に恵まれない限り,台場を射程に収めることは不可能.
 もし,江戸市街沿岸に攻撃を仕掛けようとする場合,浅吃水の砲艦もしくは舟艇が大型軍艦からの支援砲撃無しにこれを担当しなければならず,攻撃側は相当の損害を覚悟しなければなりません.

 実際は,台場建設は中途で放棄され,東側にポッカリと防禦の空隙が出来てしまいました.
 これを埋めるため,幕府は1854年に江戸市街沿岸部に金沢前田家,福井松平家,姫路酒井家,徳島蜂須賀家,津山松平家,桑名松平家,松山松平家を配備しましたが,これら諸大名家は,輪を掛けて旧式な和式火砲しか備えておらず,しかも,これらは陸戦用の火砲であって,軍艦に対抗出来る代物ではありませんでした.

 因みに,1番台場と品川猟師町の海岸に挟まれた澪筋も実は3フィートの水深があり,この部分が防禦上のネックと成る可能性がありました.
 この為,5〜6番台場竣工と同時に1854年に本土側に御殿山下台場を設置しています.
 この御殿山下台場は,当初和式塁台を有していた台場ですが,品川台場の1番台場と連携しながら,横打,追打の十字砲火を加える役割を担っていました.

 御殿山下台場は,凸角部を形成する2辺の長さがそれぞれ82間(147.6m)あり,「Bastion」に分類されるものでした.
 備砲は,水戸徳川家が自領の神崎鋳造所で製造した75門の青銅砲の内,「太極砲」1門を除く74門を幕府に献上していますが,この内の5貫目筒5門と1貫目筒25門が配備されました.
 但し,これらは何れも和筒であり,1863年にはその内12門を他へ転用して,80ポンドボムカノン砲5門と24ポンドカノン7門に入換えています.
 また,此の年に和式塁台を,より防禦を徹底させるため,洋式に改修しています.

 これら品川台場は,1858年に日英修好通商条約締結のために来日した英国の外交使節がそれを間近に見て,「その築造にも,また位置にも,築城学の相当の知識が示されていた」と報告しており,少なくとも外見的構造や配置は,列強が保有する海堡の技術水準に達していたものと類推出来ます.

 もしかしたら,幕末期の日本が欧米列強の支配を逃れ得たのは,こうした建造物を間近に見た事で,「日本侮りがたし」と言う印象を彼等に植え付けることに成功したからかも知れません.
 そう言う意味では,品川台場と言う施設は,未完成に終わった,一発も撃たなかったと言っても,其相応の軍事的な抑止効果を得ることに成功した施設ではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/10 22:53

品川台場に配備されたガンダム
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 幕末時代の台場の砲の能力は?

 【回答】
 台場に装備された大筒は,多くが在来の和筒でした.
 これは既に戦力としては陳腐化したものであり,全く役に立ちませんでした.
 例えば,1837年のモリソン号事件の際,浦賀奉行所の与力,同心達が平根山台場から行った砲撃では命中弾を得られず,野比村海浜からの砲撃で辛うじて命中弾を得たものの,モリソン号に対しては全くと言って良いほどダメージを与える事が出来ていません.

 当時使われた砲は,300目玉筒,100目玉筒,50目玉筒の3種の和筒でしたが,なるほどこれらの大筒は射程に関しては概ね1,000m内外あり,命中精度もそこそこ有りましたが,玉は文字通り小口径の鉛製実弾であって,対艦用の砲弾としては全くの威力不足だったりします.
 更に,和流砲術は一子相伝とか口伝などによって伝承が行われる,謂わば伝統芸能的な閉鎖的修練であり,近代砲術の様に火砲の規格化や運用技術の標準化には対応出来ません.
 これは,万一外国との戦闘になった場合,器材や人員の消耗により,劣位にあることを意味します.

 と言う訳で,1850年9月,老中阿部正弘が「海岸守衛心得」の為に蘭学を認める旨の触書を出したことから,俄に西洋流砲術の修得が,浦賀奉行所を始め江戸湾防備の各大名家にもブームと成っていきます.

 西洋流砲術の先駆けとなったのが,高島秋帆です.
 彼は長崎町年寄で,出島出入の特権を有しており,1810年代にオランダ商館長ステュルレルから砲術を学び,1830年代頃に独自の流派を立てました.
 高島秋帆の門下では,「荻野流,荻野新流,高島流,西洋銃陣」が教授科目となっており,この内,高島流が西欧の近代砲術,西洋銃陣が歩兵の戦法でした.
 1841年,幕命により武州徳丸原で西洋流戦術の演習を行いましたが,1842年,鳥居耀蔵等,守旧派の目の仇にされ,讒訴により検挙されてしまいました.

 高島秋帆が検挙された後も,高島流砲術と銃陣は,彼の有力な門人であった江川太郎左衛門や下曽根金三郎等によって継承され,浦賀奉行所や4つの大名家は門下を招聘したり,家臣を派遣したりして西洋流砲術の導入を図りました.

 浦賀奉行所は,随分前の洋式船の項でも書いた様に,洋式への反発が強く,井上流や田付流の和式砲術が主流でしたが,流石に1847年になると和式に執着する訳にもいかなくなり,与力・同心には「海陸備打訓練」が課せられる様になります.
 更に1848年には先に見た様にハンドモルチールが導入され,1849年には「異国剣付筒」,つまり銃剣付の鉄砲が50梃配備される様になります.
 西洋流砲術の稽古に関しては,下曽根金三郎とその門下が浦賀奉行所の炮術教授とする旨の幕命が下り,遂には従来の井上流,田付流と並ぶ砲術の一流派として定着していきます.
 こうして,1853年5月時点では所管台場の19門の火砲の内,12門が洋式砲となっていた訳です.

 川越松平家も事情は同じでした.
 家中の砲術は,外記流と言う井上流の分かれと武衛流の2系統があり,観音崎のみ武衛流,それ以外は外記流となっています.
 こちらも1847年以降は,洋式砲術の修得を開始し,江川太郎左衛門の主宰する韮山塾に岩倉鉄三郎,肥田波門,肥田金之助,鹿沼泉平の4名を入門させ,1851年6月には藩士吉村平人が主立世話役となって西洋流砲術の導入が始まり,1853年になると幕府から洋式砲10門を借用して,所管台場に配備するようになっていきます.
 ただ,川越松平家では未だ和式砲術の抵抗が強く,台場警備で用いられたものの,家の砲術の一流派を形成するまでには至っていません.
 1853年5月時点では,所管台場6箇所の42門の火砲を有していますが,洋式砲は9門だけに留まっています.

 彦根井伊家は,相州警備の命を受けた直後の1847年3月に,中村文内,尾崎勘三郎,北村清三郎,中沢宇三郎,小田軍次等に西洋流砲術を学ばせ,韮山塾に,津田十郎,堤勘左衛門,柳沢右源太,一瀬田大蔵,一瀬豊彦,一瀬一馬,藤枝勇郎等を入門させ,この内,堤勘左衛門と柳沢右源太が免許皆伝になりました.
 更に1850年3月,高島秋帆の高弟成瀬平三を召し抱えて,相州諸台場の整備に当らせています.
 1853年5月時点では,成瀬の尽力もあって,8箇所の台場と2箇所の備場に54門の火砲を備え,12門が洋式砲でした.
 因みに,井伊家では,新稲富流,荻野流,柴田流,稲富一夢流,藤岡流,太田流,武衛流,井上流,田付流と言った和式砲術もありましたが,西洋流砲術はそれに加えた一流派として位置づけられていました.

 会津松平家は,1788年以来,長沼流兵法によって軍制を整えていました.
 この長沼流兵法は,西洋兵法学に対応出来ると考えられた為,その兵法師範である黒河内高定を現地に派遣して砲術指導を行わせました.
 しかし,西洋流砲術そのものを排するものでは無く,その長沼流兵法の基礎とも言うべき長沼澹齋の著した『兵要録』にある,「陳法節制於漢土,弓馬鎗刀仍 本朝之旧,大小火器取洋夷長,本末備具大不遺,実兵家之模範也」と言う教義を元に,西洋流砲術の導入が図られています.
 1850年時点で富津,竹ヶ岡に既に洋式砲が配備されているのがその現れで,稲富流,種子島流,自由齋流,夢想流と言った和式砲術の一角に,西洋流砲術が加わる形となりました.
 会津松平家には,1830年頃に既に高島流砲術を学んだ山本良重がおり,1847年には江戸で洋式砲の鋳造を行った小平左隅,柴田忠等がいました.
 1853年5月時点で,3箇所の台場を管理しており,30門の火砲を備えて,うち9門が洋式砲です.

 忍松平家については,井狩作蔵と言う家士が韮山塾にて西洋流砲術を学び,1845年に免許皆伝になっています.
 とは言え,忍松平家は西洋流砲術の導入に積極的とは言えず,武衛流,安東流,荻野流と言った従来の和流砲術が重んじられ,井狩自身も武衛流の砲術師範だったりします.
 この為,1853年5月時点でも,台場2箇所,遠見番所2箇所,備場4箇所に39門の火砲を備えていますが,洋式砲は僅かに1門しか有りません.
 尤も,忍松平家の警備担当地区は湾口の入口であって,沿岸防禦を積極的に行うよりも,異国船の発見,監視が主任務だったと言う事情もあった訳ですが….

 江戸湾の湾口警備を担当した各大名家と浦賀奉行所に関しては,総計189門の火砲を備え,洋式砲がその内43門を備えていました.

 繰り返しになりますが,1853年5月の洋式砲の種類と数は,以下の通りです.

 浦賀奉行所は,24ポンドカノン砲2門と18ポンドカノン砲1門,ボムカノン砲1門,30ポンドカロナーデ砲,20ドイムホウイッツル砲2門,15ドイムホウイッツル砲1門,39ドイムステンモルチール砲1門と29ドイムステンモルチール砲1門の合計12門.
 川越松平家は,60ポンドカノン砲1門,24ポンドカノン砲2門に18ポンドカノン砲2門,80ポンドボムカノン砲1門,15ドイムホウイッツル砲1門,12ポンドハンドモルチール2門の合計9門.
 彦根井伊家は,24ポンドカノン砲1門と8ポンドカノン砲1門,60ポンドカロナーデ砲1門,20ドイムホウイッツル砲2門,15ドイムホウイッツル砲2門,29ドイムモルチール砲2門に13ドイムハンドモルチール砲2門,29ポンドステンモルチール砲1門の合計12門.
 会津松平家は,150ポンドボムカノン砲1門と,20ドイムホウイッツル砲2門,29ドイムモルチール砲2門,3寸5分モルチール砲2門,12ドイムハンドモルチール砲2門の合計9門.
 忍松平家は,29ドイムモルチール砲1門.

 この中には相当数の国産洋式砲が含まれています.
 浦賀奉行所の場合,輸入砲は「長崎廻り」,国産倣製砲は「下曽根鋳立」と言う形で区分されています.
 また,彦根井伊家は,藩領の佐野や彦根晒山で鋳造された西洋式の青銅砲を相州の諸台場に配備したと言われ,会津松平家も,国元で鋳造したモルチール砲や江戸で鋳造したホウイッツル砲を房総の台場に送り,江川太郎左衛門にもペキサンス砲の鋳造を依頼しています.
 これらの洋式砲は何れもオランダの前装滑腔砲を倣製したものであり,弾道性能によってカノン(加農砲),ホウイッツル(榴弾砲),モルチール(臼砲)に大別されましています.

 てな訳で,次回はそれら西洋式火砲について若干.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/06 22:49

 さて,江戸湾警備で配備された洋式砲の話に戻って….
 良く,ペリーの黒船が来た時,幕府の海防は旧式な火縄銃と刀鎗で…等と言う論調がありますが,実際には江戸湾内防備に付いていた各大名家や浦賀奉行所の火砲の5門に1門強は,何らかの形で洋式砲になっていました.

 軍ヲタには馬の耳に念仏ですが,カノン(Kanon)は,仰角の浅い平射で主として実弾(Massige kogel)を発射する長い砲身の火砲です.
 強装薬を用いて砲弾の初速を高め,低伸弾道,長射程,侵徹力に優れていました.
 又,カノンを用いては,発射砲弾を水面に跳飛させつつ目標に命中させる滾射(Ricochet schoten)と言う射法もあり,艦の舷側を洞射するのに適していました.
 江戸湾沿岸には10門のカノンが配備されており,最大の60ポンドカノンの最大射程が13町32間(1,474.6m),24ポンド並びに18ポンドカノンの最大射程は25町37間4尺(2,792.8m),8ポンドカノンは18町40間5尺(2,035.5m)でした.

 ボムカノンはフランスのペキサンスが1830年代に開発した大口径榴弾を発射出来るカノンで,幕末期の日本では,「暴母加納」とか「伯苦斬刪」と呼ばれていました.
 このボムカノンに利用される暴母弾(Bommen又はBom)は弾径が20ドイムよりも大きな炸裂弾を指し,当時の砲術書には,「暴母ト柘榴弾(Granaat)ハ同物ナリ」と書かれており,弾の大きさによって,20ドイムを境にそれより大きければ「ボム」,小さければ「ガラナート」と呼んでいました.
 川越松平家の80ポンドボムカノンの射程は1,880歩(1,410m)とされ,使用される暴母弾は,「鉄製球形榴弾にして中径219.3mm,空弾重量23斤,炸薬量1キロ520グラムとなっていました.
 この他,会津に150ポンドボムカノンと浦賀奉行所にも大きさ不詳のボムカノンがありましたが,性能など詳細は不明です.

 カロナーデ(Carronade)は,1779年にスコットランドのCarron鋳造所で艦載用に製造された軽量の短砲身カノンです.
 幕末の日本では,「加尓論奈特」又は「葛龍砲」と呼ばれ,台場の備砲に良く用いられています.
 彦根井伊家の60ポンドカロナーデは射程が不明ですが,浦賀奉行所の30ポンドカロナーデは12町28間3尺(1,359.3m)の射程を,24ポンドカロナーデは11町21間3尺(1,219.7m)の射程を持っていました.

 ホウイッツル(Houwitser)は榴弾砲のことで,火砲に緩い仰角を掛けて擲射にて炸裂弾を発射する砲です.
 幕末の日本では,「忽烏微子児」とか「射擲砲」と呼ばれ,20ドイム(60ポンド)と15ドイム(24ポンド)が多用されました.
 射程距離は20ドイムが17町16間5尺(1,883.3m),15ドイムが13町39間2尺(1,487.8m)でした.

 モルチール(Mortier)は臼砲の事で,弾径の大きな炸薬弾を曲射で撃ち出す砲身の極めて短い火砲のこと.
 江戸湾岸のは,150ポンド級の暴母弾を発射出来る29ドイムモルチールの他,携帯式の陸軍用13ドイムハンドモルチール,海軍用の12ドイムモルチール,更に鏡版榴弾(Spieglgranaat)を用いる29ドイム,39ドイムのステーンモルチールがありました.
 この他,オランダ軍の制式装備にない,和製洋式の3寸5分径のものがありますが,これは8ポンド弾を使用するモルチールでした.
 射程については,29ドイムが24町58間1尺(2,716.7m),13ドイムが7町(763m)でした.
 29ドイムステンモルチールは,円盤形台座に6ポンド榴弾24個を搭載した鏡版榴弾というものを用います.
 発射すると,これらの榴弾が拡散して,目標の周囲195歩×50歩(146.2m×37.5m)の範囲に散布されるもので,最大射程は凡そ900歩(675m)でした.
 39ドイムステンモルチールは,鏡版に1ポンドの石弾(12〜50個)を搭載して発射するもので,散布量は装薬量によって調節していました.

 取り敢ず,砲についてはそれなりの性能でしたが,その砲を据え付ける台場は,全て和流兵法による築城術に因って建設されたものでした.

 細部は各流派によって異なりますが,基本構造は,所用の平坦地を造成して前面に砲座を設け,側周に柵若しくは土堤を巡らし,内部に木造の番所を建設したもので,砲座は玉除土手(洋式築城の側墻に類似したもの)によって仕切られた空間に,木造雨覆いを設け,その中に1門ずつ火砲を収納する構造となっていて,海側に大きく開いた砲門口の前方には洋式台場の様な胸墻はありませんでした.
 玉除土手は,幅7〜8尺,奥行き8尺,高さ7尺,馬乗幅4〜5尺の法量を持った土盛の構造物であり,雨覆は,縦6尺,高さ6尺程度の木造小屋掛けで,その前面には開閉式の扉が設けられていました.

 現在では,こうした構造を残しているのは房総側の竹ヶ岡台場のみです.
 この台場は既に述べた様に,陰の台場,十二天の鼻台場,石津浜台場の3箇所から成っていましたが,石津浜台場は現在石垣の一部が現存するのみです.

 陰の台場は,平夷山の山腹(海抜54m)に築かれた高地砲台で,5基の玉除土手が残されています.
 玉除土手は左端のみ縦4m×横2.5m,他の4基は縦5m×横4mで,高さは何れも1.5mです.
 玉除土手間の間隔は2mで,その中に木造の雨覆に格納された火砲4門が据えられていたと思われます.

 十二天の鼻台場は,白狐川河口に面した平夷山の山裾部突端(海抜7.5m)に築かれた低地砲台で,此処にも5基の玉除土手と堤状の土塁1基があります.
 こちらの方も間隔は2mと一定していますが,こちらには玉除土手の間に胸墻的な土塁が設けられているのが特徴です.

 何れの台場も,玉除土手の部分を残す形で地山を1.5m程掘り下げ,砲座とそれに連なる平坦部を造成したものですが,土?を造る版築工法ではなく,地山を削り出して成型する工法が採られています.

 しかし,砲は扨措き,砲台のこれらの構造は,全く実戦的ではありませんでした.
 これらの砲台は,砲撃目標として敵に視認されやすく,至近弾によっても致命的な損害を受ける構造でした.
 また,臨戦態勢に際し,台場の内部やその周囲に陣幕を張り巡らせると言う作法を遵守していると,敵から見れば,堡塁の位置を暴露し,防禦上不利な条件を造り出すものとなっていました.
 その上,火薬庫と番所は木造であり,万一引火した場合は大損害を被ること必定だったりします.

 江戸湾に侵入したペリー提督も,その構造上の不利に気がついて,『日本遠征記』に記しています.

 因みに,1853年以前に洋式台場を建設する計画を川越松平家が要請しましたが,これは受容れられませんでした.
 既に和式砲台として建設した台場を改めて洋式として改修するのは極めて困難だったからです.
 しかし,幕府としても,洋式台場的なものの試作はしています.

 それが浦賀奉行所が1853年築造した明神崎台場です.
 此処は浦賀港の入口に面して明神山の突端,海抜15mの地点に造られたもので,正向射(Frontvuren)機能に重点を置いた後開式(Openewerken)の方形堡(Vierkantschans)であったと考えられています.
 砲座は側墻(Traverse)で仕切られ,その前面には胸墻(Borstwering)が設けられていました.
 また,1848年竣工の亀甲岸台場は,形状が「亀甲形」とされており,平面プランが西洋式の突角堡(Lunette)に倣ったものであった可能性があり,更に上部構造は,1853年の増築時に西洋式堡塁に改修されたものと考えられていました.

 ペリー艦隊の来航時,江戸湾防備の砲は22%が洋式砲になって,性能面は欧米のそれに比べても大差ないものでした.
 例えば,サスケハナ号こそ9インチ榴弾カノンの射程は3,105mでその数12門であり,幕府軍の洋式砲射程外から射撃が出来ますが,それ以外のミシシッピ号の備砲は10インチ榴弾砲で射程1,485mで2門,8インチ榴弾砲が1,620mで8門,プリマス号とサラトガ号の備砲は8インチ榴弾カノンは射程2,340mで4門と32ポンドカノン18門で射程は1,580.4mでしたから,命中率さえ良く,更に海上との連携が取れれば,それなりの戦いは出来たかも知れません.

 実際は,ペリー艦隊がやって来た時には,米国側は大統領から武力行使そのものに著しい制約が加えられていたのと,日本側は天保薪水令に基づく避戦策が相まって直接砲火を交わすことはありませんでした.
 尤も,砲台の状況を見た限り,四国連合艦隊によって完膚なきまでに叩きのめされた萩毛利家の下関砲台の様なワンサイドゲームになったかもしれませんが.

 この事件で江戸湾防備に重大な欠陥が発見され,江戸市中を守る最終防衛線として海堡が建設されることになった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/07 21:54

 御台場に装備する火砲は基本的にオランダ式前装滑腔砲で,これらは全て自製する方式を採り,1853年8月に湯島馬場鋳砲場,12月には下田高馬に建設予定だったものを下田開港により機密が保てなくなった為,韮山に反射炉を建設する工事が開始されました.
 品川台場への火砲供給は湯島馬場鋳砲場が担当し,一部の銑鉄砲を反射炉を有していた佐賀鍋島家に外注しまし,韮山の反射炉が完成次第,銑鉄砲を供給すると共に,大坂でも青銅砲を製造して移送する事になっていました.
 湯島馬場鋳砲場では,江川太郎左衛門の監督下,江戸の鋳物師が製砲を請負う形で運用され,在来の鋳物技術で洋式青銅砲の倣製が行われました.
 湯島の青銅砲,佐賀鍋島家の銑鉄砲,韮山の銑鉄砲は洋式砲であり,大坂の青銅砲は和筒です.

 因みに,5基の台場に於ける砲数は1853〜57年までに若干の異同ががありますが,大凡以下の感じでした.
 80ポンドボムカノン20門,36ポンドカノン6門,24ポンドカノン24門,12ポンドカノン48門,6ポンドカノン12門,15ドイムランゲホウイッツル16門,舶来36ポンドカノン1門,松平下総守所蔵の80ポンドボムカノン1門.

 調達計画では,湯島馬場鋳砲場で製造する洋式青銅砲が,80ポンドボムカノン20門,24ポンドカノン10門,12ポンドカノン53門,6ポンドカノン17門,15ドイムランゲホウイッツル18門で,佐賀鍋島家の外注洋式銑鉄砲が36ポンドカノン25門,24ポンドカノン25門,韮山で製造する洋式銑鉄砲が,60ポンドカノン9門,36ポンドカノン13門,24ポンドカノン砲47門,18ポンドカノン18門で,大坂から調達した和式青銅砲が,8貫500目1門,3貫500目3門,1貫700目1門となっています.

 安政年間には,80ポンドボムカノン20門(1857年以降は22門),36ポンドカノン6門(1857年に2門の砲身破裂事故で4門に),24ポンドカノン22門,12ポンドカノン48門,6ポンドカノン12門,15ドイムランゲホウイッツル16門が配備されていた記録があります.
 計画からすれば随分未達です.

 ところで,韮山の反射炉は随分有名ですが,湯島馬場鋳砲場は余り知られていません.
 これは,1853年7月23日の阿部正弘が発した「内海御警衛御台場普請」に際し,江川太郎左衛門に大砲の製造も命じたことからスタートしています.
 江川は手附手代から8名,家来や砲術門人から7名を大砲鋳造の御用懸に任命しました.
 15名は手代の中村清八,柏木総蔵,網野久蔵,雨宮新平,石川政之進,根元慎蔵,斎藤左馬之助,高島喜平,御小姓組の榊原鏡次郎,阿部伊勢守家来の前田藤九郎,本多越中守家来の星野覚兵衛,鳥居丹後守家来の友平栄,松平誠丸家来の岩倉鉄三郎,江川家来の矢田部郷雲に長谷川刑部です.

 この内,長谷川刑部は前にも出て来ました,江川家中での青銅砲製作のエキスパートである鋳物師であり,1850〜51年に掛けて,彦根井伊家と会津松平家に24ポンドカノンや150ポンドボムカノンを鋳造,供給した実績を持っており,彼の銘が入った29ドイムステンモルチールも現存しています.
 矢田部郷雲は蘭学者で,ベウセルの本を翻訳して『陸用砲術全書』を上梓しています.
 高島喜平は,あの高島秋帆その人で,江川家の手代に召し抱えられる形で品川台場建設計画を補佐していました.
 また榊原鏡次郎は,江川太郎左衛門の義弟で,ペリー来航直後に浦賀奉行所に60ポンドホウイッツル2門を献上するなど,江戸湾海防に関わり深い人物でした.

 鋳砲場は,文字通り湯島に設けられました.
 これは元々桜馬場と呼ばれる湯島聖堂に隣接した火除け地であり,桜や楓が植樹された花見の名所でした.
 現在は東京医科歯科大学の敷地で全く痕跡は残っていません.

 この鋳砲場での製砲作業は民活プロジェクトであり,作業そのものは民間請負としていました.
 製砲を命じられたのは,1貫目当り「1分永15文」の見積を出していた,江戸浅草新堀端浄福寺門前の万吉と古伝馬町の久右衛門の2名の鋳物師です.
 因みに,鋳造では川口宿も有名でしたが,こちらは1貫目当り「2分永170文」と江戸のそれに比べて法外な高値であったため,諦めています.
 この他,砲架製作などの木工には,大工の芳太郎,市右衛門,伊助,鍛冶職の儀兵衛等と契約しています.

 この湯島馬場鋳砲場は,蹈鞴場3箇所,形鋳場,錐入場,仕上細工小屋等があり,これらは1853年11月に完成して,12月から作業が開始されました.
 因みに1855年6月以降は,この鋳砲場を利用して「西洋流小銃」,俗にゲベール銃と呼ばれたオランダ式前装滑腔銃(Oorlogs geweer)が製造され,旗本御家人や諸大名家への有料頒布も開始しています.

 ただ,湯島馬場鋳砲場で生産された青銅砲は,「土型に鋳込み,心鉄を使用せしが,鋳泡多きのみならず,熔銅土型に流れ込み,鋳損多き」と幕末より批判され,8年後の1863年には「巣中砂目籠瑾等相顕候」と言う問題が生じており,8月に湯島馬場鋳砲場は12ポンドカノン30門とランゲホウイッツル10門,6ポンドカノンを新たに鋳造してそれらと入換えますが,この時点でも既存技術の延長であって,大砲を無垢に吹いて刳貫くと言う方法では生産されていませんでした.
 因みに,砲身の材料は銅が約90%,錫が残りを構成した青銅ですが,鋳造過程に於ては原材料の25%が目減りしたと言われます.

 佐賀鍋島家も反射炉を有していたのは有名な話で,色々な洋式砲を試作していたのですが,1853年7月,幕閣より「公儀御用鉄製砲200梃」の製造を命じられます.
 未だ製砲技術も手探りの状態なのに,200門もの火砲製造を命じるのは不可能である,と幕府と留守居が丁々発止の遣り取りを行い,結果的には「鉄製大筒50梃台車共」に落ち着きました.
 砲身を載せる車台は,Nieuwe vesting en kustaffuitと呼ばれ,要塞砲に用いられる木製大型車台の事を指しています.
 50門の内訳は,36ポンドカノン25門と24ポンドカノン25門です.

 これを受けて,佐賀鍋島家は領内の多布施に1853年9月から反射炉を建設し始め,1854年3月に竣工しました.

 品川台場用の火砲は,7月から1855年3月に掛けて製造され,試射を行った後,逐次江戸へと送られていきます.
 7月に36ポンド砲2門と24ポンド砲4門,8月に24ポンド砲2門,10月に36ポンド砲1門,11月に24ポンド砲2門,1855年1月に24ポンド砲1門,2月に24ポンド砲1門と36ポンド砲1門,3月に24ポンド砲1門と記録にはあります.

 これらが結局何門になったのかは諸説ありますが,1番台場へは24ポンドカノンが3門,2番台場に24ポンドカノンが7門,3番台場に36ポンドカノン2門,5番台場に24ポンドカノンが1門と36ポンドカノンが2門,6番台場に36ポンドカノン2門の総計17門で,配置については,例えば24ポンドカノンが2番台場と5番台場に配備されていたものを1番台場に3門回して計6門とするなど若干の入繰りはありますが,製造数は予定よりも大幅に未達でした.

 佐賀鍋島家の鋳造砲も問題を抱えていました.
 特に国産砂鉄銑を砲身材料に用いた事から,砲身破裂の危険性を孕んでおり,既述の様に,1857年4月2日には品川の5番,6番台場に配備されていた36ポンドカノン2門が相次いで砲身破裂事故を引き起こしています.
 佐賀鍋島家では鋭意原因の究明に当りましたが,砲身材料の砂鉄銑に問題があるとの結論に至り,オランダからの輸入銑を用いることで暫定的な解決としました.

 こうした砲の内,80ポンドボムカノンは弾径が20ドイムよりも大きなBommen(炸裂弾)を主用する大口径カノン砲で,先述のペキサンス砲が知られていますが,品川の1番,2番台場に配備されたのは,旧式化した48ポンドカノンの砲腔を80ポンド炸裂弾の弾径に合わせて拡張した再利用砲である,「四十八斤鑚開八十斤」長カノンでした.
 最大射程は1,327.5mとされていますが,実際には828m程度のものでした.
 現物は遊就館で見る事が出来ます.

 カノンは銑鉄製のMassige kogel(球形実弾)を平射で撃ち出すもので,長い砲身を持った火砲です.
 強装薬で発射することから,砲弾の初速が大きく,命中精度や射程距離が優れていました.
 品川台場には,正面沖合に来寇した艦船を「迎打」または「横打」する為に36ポンド,24ポンドカノンと,台場の背面に侵入した舟艇を「追打」する為の12ポンドカノンが配備されていました.
 最大射程は銑鉄製球形弾を使用した場合は2,500m内外ですが,有効射程は1,035m前後で,これより遠いと射撃しても命中する確率は非常に低いとされていました.
 最大射程だけを見ると,36ポンドカノンは2,451.8m,24ポンドカノンが2,795.4m,12ポンドカノンが2,458.2m,6ポンドカノンが2,467.8mでした.
 24ポンドカノンの現物は,何故か江戸東京たてもの園で見る事が出来ます.

 ホウイッツルは擲射で木製のコロスにブリキバンドで球形榴弾を固定し,砲口側に信管を向けて装填するGranaat(擲弾)を発射する榴弾砲で,品川台場には背面への「追打」用に15ドイムの青銅製ランゲホウイッツルが配備されていました.
 最大射程は1,487.8mでした.

 砲弾は,1番,2番台場に8,400発,3番台場へ10,000発,5番,6番台場に6,800発と砲側側弾丸が1門平均約300発以上が確保されていました.
 弾種は,中空の弾殻に炸薬を充填した「空弾(Bommen又はGranaat)」,鋳鉄製の球形弾で,炸薬を内蔵しない「実弾(Massige kogel),薄鉄板製の円筒中に弾子を填めた「ブレッドキース(Blikdoos)」の3種があり,各砲毎に「空弾」「実弾」のいずれかと「ブレッドキース」を組み合わせて支給されていました.

 総じて,品川台場の火砲は,1850年代の世界の主流からも外れた訳ではありません.
 ただ,1860年代に入ると前装施条砲が普及することによって,時代の趨勢から取り残され,旧式化していくことになっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/11 21:36


 【質問】
 品川台場建設の際の参考資料は何だったのか?

 【回答】
 さて,品川台場の話をもう少し.

 品川台場の建設が行われる前の台場は,一般的に和式兵法の築城術に依るもので,折角洋式砲を装備しても,近代砲戦に於ては余り意味がない事であるのは前に述べた通りです.
 品川台場の建設の前,1850年頃から江川太郎左衛門は,西洋式築城術による砲台や多稜堡の研究を行い,模型を製作したりしていました.

 江川が参考にしたのは5種類の書籍で,1830年代のものが主であり,1840年代のものは1種類しか有りません.
 更に,これらは何れも前装滑腔砲段階の軍事技術に対応したものでした.

 1つ目はフランスのサハルトが書いた築城書です.
 これをオランダのナンニングが蘭語訳した"Beginselen der versterkingskunst"(『要塞技術の基礎』)と題するもので,この書籍は2巻から成っていて,第2版が1836〜37年に出版されています.

 これらは"Eerste deel. Veldverschansing"(第1巻「野戦堡塁」),"Tweede deel. vestingbouw"(第2巻「要塞建設」)で,江川文庫にはその原書を幕府から借り,オランダ語の儘毛筆で書き写した写本が残されています.
 また,江川文庫には江川の家臣である矢田部郷雲が翻訳した邦訳本があります.
 その題名は『強盛術』で,目次構成としては「原上篇」「原中篇(上・下)」「原下篇(上・下)」とあり,原書の翻訳は相当進み,5〜6冊まで出されていた様ですが,現存しているのは「原上篇」の第1篇,第2篇のみです.
 サハルトの築城書は,品川台場の平面プランや配列と言った点で参考にされた様です.

 2つ目は,エンゲルベルツの著した論文です.
 エンゲルベルツの本は,2冊あって,1つは1838年に書かれた"Handboek der bevestigingskunst"(『築城技術の手引書』)で,江川文庫には4冊から成る写本の形で現存していますが,こちらは品川台場の設計と直接繋がる部分はありませんでした.
 また,これを邦訳したと言われる『防海試説』も,台場建設に利用されたと言われていますが,これはそもそも,この本の邦訳ではないとされ,結局,この本も台場建設の参考にはしていないようです.
 もう1つの本,1839年の"Proeve eener verhandling over de kustverdediging"(『沿岸防禦に関する実例的論文』)は,江川文庫に写本があり,これも元々は江戸幕府が購入していたものでした.

 エンゲルベルツの論文の内容は,沿岸台場に関する7章の論功からなり,品川台場の塁台部分に関わる記述が多く認められます.
 この論文を邦訳したのが,先に出た『防海試説』ですが,昌平坂学問所に蔵されたものでした.
 この構成は,以下の様に成っています.

第一篇 海岸防禦の総括
第2篇 海浜ノ防禦スベキ岬ノ製造
 A 石塔
 B 海浜台場
 C 防禦スベキ海水ニ従テ台場ヲ築ク位置
第三篇
 a 海浜台場ノ水面ニ出ル高サヲ録ス
 b 胸壁ヲ築タル海浜台場ノ側面
 c 海浜台場内部ノ結構
 d 海浜台場ノ造営
 e 敵軍精兵ニテ襲来ルヲ防禦スル術
 f ヘカセマール デ キュストハッテレーン
 g ケプリンデール デ キュストハッテレーン
 h 大ナル「ボム」避ノ上ニ築クル台場
 i 海浜ノ臨時ニ備フヘキ処
第四篇 海禦ノ要説及ヒ堡府城の新造
第五篇 海浜ノ防禦スヘキ地ニ銃砲ヲ備ル事ヲ録ス
第六篇 海浜台場兵士ノ活用
第七篇 防海援助ノ水軍

 ただ,韮山の「長沢家文書」には,第5章で示された14箇条の教則を邦訳した「台場ヨリ敵船射擲心得書」があり,江川が昌平学問所とは別に邦訳版を作っていた可能性があります.

 3つ目がパステウルが1837〜38年に掛けて著した"Handboek voor de officieien van het korps Ingenieurs,Miniurs en Sappeurs"(『軍の技術者,坑道兵,工兵将校のための便覧』)と言うもので,築城事典とも言うべき書物です.
 この本は4巻本で,1〜3巻が本編,4巻が補遺となっています.
 これは日本に結構入っていたみたいで,江戸幕府の蔵書にもあり,江川文庫にも同じ原書が残されています.
 内容は,項目別解説を集成した事典であり,品川台場の建設に当っても,Kustbatterij(海岸砲台),Linie(防禦線),Redoute(レドウテ)の項目が参考にされています.

 4つ目がケルキヴィークが1846年に著した当時としては最新の築城書である,"Handleiding tot de kennis van den vestingbouw"(『築城に関する知識の手引書』)で,江戸幕府蔵書にも江川文庫にも原書があります.
 この本は,工兵と砲兵の士官候補生用の教本であり,築城に関する基礎理論を纏めたものです.
 この中の海岸防禦に関する項目が,参考にされたと考えられています.

 最後が1832年にスチルチースによって書かれた,"Handleiding tot de kennis der verschillende soorten van Batterijen"(『砲台の様々な種類に関する知識の手引書』)で,この中の海岸砲台の部分を参考にしたと考えられており,江川文庫には原書の毛筆写本が2冊収蔵されています.
 因みに,この著書は1848年に高野長英が『砲家必読』として完訳したものを出版しており,この写本が利用されたのではないかとも考えられます.

 砲術に関しては,球形砲弾を使用する前装滑腔砲段階の教本で,火砲の種別,操法,射撃学とそれらの戦術運用,砲台に関するものが江川文庫に2種類残されています.

 1つは,カルテンが1832年に書いた"Leiddraad bij het onderrigt in de Zee-artllerie"(『海上砲術の教育に関する指針』)です.
 これが輸入された後の1842年,幕命を受けて,蕃書和解御用の杉田成卿,箕作阮甫等6名が翻訳に当り,『海上砲術全書』として邦訳が成って,その後は写本として日本国内でも伝播していました.
 江川文庫にも,写本が7冊残されており,江川も写本を利用した可能性が高かったりします.
 『海上砲術全書』は砲術の解説を主体としたもので,品川台場の備砲選定に大きな役割を果たしたと考えられます.

 もう1つはベウセルが1834〜36年に掛けて著した"Handleiding voor onderofficiern tot de kennis der theoretische en practische wetenschappen der artillerie"(『砲兵の理論的・実務的学術の知識に関する下士官向け手引書』)と言う長い名前の本で,陸軍向けの本でした.
 これも,江川の家臣矢田部郷雲が翻訳を試みており,江川文庫には『海上砲術全書』と対を成す形で,『陸用砲術全書』と題したものの一部が残されています.

 この他の参考書としては,ペルが1852年に著した"Handleiding tot de kennis der versterkingskunst"(『築城技術に関する知識の手引書』があったものと考えられています.
 この輸入原書も江川文庫にありますが,江川没後の1860年には同書の完訳が刊行されています.
 その訳者はあの大鳥圭介で,大鳥は台場建設中に江川に命じられて翻訳したと記しており,江川もその本を参考にしたと思われます.
 因みに,これの内容も下士官向けの築城解説書で,品川台場では主に内部構造の普請の参考として使用されたものです.

 江戸幕府の時代は鎖国だ,暗黒時代だとか良く言われますが,意外にたくさんの海外書物が,それほど時をおかずして入ってきていることが判ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/09 22:08


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