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15世紀 15. Század
戦史FAQ目次


 【link】

『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』(ナイジェル・クリフ著,白水社,2013/7/24)

『検閲帝国ハプスブルク』(菊池 良生著,河出書房新社,2013.4)
>グーテンベルクの活版印刷の発明と共に,検閲の歴史は始まった

『戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活』(竹下節子著,白水社,2013/6/15)

『双頭の鷲』(佐藤賢一著,新潮文庫,2001/6/28)

 英仏百年戦争.
 黒太子エドワードの最大のライバルだった,フランスの将軍デュ・ゲクランを描いた小説.
 兵制の変化とか,戦術・戦略の先駆者だったこととか,軍事的な視点で読んでも,じゅうぶん面白かった.

------------軍事板,2001/11/09

『百年戦争期フランス国制史研究 王権・諸侯国・高等法院』(佐藤猛著,北海道大学出版会,2012/10/15)

『ビザンツ帝国の最期』(ジョナサン・ハリス著,白水社,2013/2/23)


 【質問】
 鄭和の艦隊はどこまで到達したのか?

 【回答】
 アラビアまで到達したという.
 以下引用.

 15世紀の明の永楽帝の時,太監鄭和を正史として〔西方使節団派遣が〕行われました.
 第1回の永楽3年(1405)のときは,62隻,27800余人の大船団ですから,中国史上空前の南海遠征で,このときはセイロン方面まで達します.
 それから永楽22年の第7回まで,南海を西征し,多くの南海の物産をもたらしましたが,中には第5次の分遣隊は遠くアラビアまで行き,アデンからキリン(ジラフ),シマウマなどを中国に運んでいます.
 ジラフが中国にもたらされたのは,これが初めてのようです.
 この鄭和の西征は,シルクロードの南海ルートを行った最大の旅と言うことができます.

森豊〔シルクロード研究家〕 from 「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.124-125


 【質問】
 15,6世紀くらいの技術レベルの世界で,2万程度の常備軍を維持するためには大体,どのくらいの生産量が必要なのでしょうか?
 穀物(石高)あるいは金もしくは銀貨など貨幣など,国力を図るのに一般的に用いられる単位でお願いします.
 あと,人口に占める戦闘員の比率などでもOKです.

 【回答】
 地域によって大きな違いがあることを,まず念頭に置く.
 例えば中国も,北方(乾燥・寒冷な麦作地帯)と南方(湿潤・温暖な米作地帯)では,人口維持力も文化も違う.

 さて,日本は米というカロリーの高い主食作物があり,水利日照もよかったので,単位面積あたり大きな人口を養えた.
 1万石に200人として単純計算すると,100万石(加賀前田藩程度)で2万人の戦闘員を常備することができたことになる.

 これに対してヨーロッパでは,気候が寒冷で冬は日照もほとんどなくいため,麦類と牧畜(秋に刈り取った牧草で冬を越す)に頼らぜるをえなかった.
 戦国時代と同時代のヨーロッパでは,単位面積あたりの人口維持力は,フランスのような農業地帯でも日本の三分の一,北方では十分の一程度だったといわれる.

LedifesacostieradelRegnodiNapolidalXVIalXIXsecolo(16-19世紀のナポリ王国の沿岸防衛)
という本によると,1477年に国王フェルディナントが計画した常備軍の兵力がちょうど2万人(そのうち1万2千が騎兵)で,毎年47万ドゥカート(ヴェネツィアの金貨)が必要と試算されていたそうな.
 当時のナポリの人口は150万人ぐらい.
 ドゥカートが現在の貨幣価値でどれくらいかは勝手に調べてくれ.

 ヨーロッパで十万単位の大規模な軍隊の衝突が起きるのは,日本より2世紀以上遅れて19世紀のナポレオン戦争時代だった.


 【質問】
 戦記風ファンタジーを書いてるんだが,人口と兵力の比率ってどれぐらいが適当なんだろう?
 戦国時代ぐらいの規模を考えているんだけど,だいたい一万石につき二〇〇~三〇〇程度の動員能力があるらしいんだが,実際の人口がよく分からない.
 一石=一人という乱暴な換算でいいんだろうか?
 中世欧州風な世界観で,国力を石高で表すわけにもいかないし.

 【回答】
 中世(15世紀)以前では,兵力は国の状況と経済規模によるとしか言えない.
 このころの軍隊は,期間契約の傭兵が主体であり,その多くは外国人だった.
 したがって,危急の際には多くの兵士を雇い入れたが,平時は必要最低限のみで,兵力は一定ではない.
 このころは常備軍は無く,中世から脱却し始めた16世紀以降,ようやく,いくつかの豊かな国で常備軍らしきものを整備できたに過ぎない.
(古代ローマのような)常備軍の発想は,ずっと以前からあったが,主に経済的な理由により実現は不可能だった.

 あまり信頼できない数字の上に,すでに近世の時代に入っているが,いくつかの資料では
1660年 イギリス  人口500万以下 6000人(平時編成),人口比0.2%  島国
同時期 プロイセン 人口300万程度 18000人(平時編成)人口比0.6%  ドイツの小国
1690年 フランス 人口1800万以下  18万人(平時編成) 人口比0.9% 当時の大国 周囲は敵 

 ちなみに,戦時には自国兵力に加えて,近隣の同盟国軍が臨時に指揮下に入ることもあり,この場合人口比は,あまり意味を成さない.
 加えて,1645年のイギリス内戦(ネーズビーの戦い)の際,議会派は13000人を,王党派9000人を投入した.
 両陣営会わせれば21000人になり,人口比0.7%となる.
 さらに,他方面に展開していた兵力を含めれば,総兵力はこの二~三倍になると思う.
 このことから見ても,人口比は国の状況によって異なり,また平時と戦時では兵力に数倍の開きがあるので,これといった人口比は存在しないという結論に落ち着く.

 ファンタジー書くなら,リアリティーより話の面白さを優先したほうが良い.
 設定作るのが楽しいってのはわかる.
 俺も経験がある.
 でも,物語を書いていると,設定って邪魔にしかならないよ.

軍事板


 【質問】
 15世紀にはまだレーションも兵站という概念も存在しなかったとききましたが,遠征をする際には兵隊は霞でも食ってたんでしょうか?

 【回答】
 兵站の概念はないわけではないが極めて貧弱だった.

 そもそも保存できる食料が少なかった.
 瓶詰めがナポレオン戦争時代の発明.缶詰はさらに後.
 当時なら,干し肉とか小麦粉をいくらか持ち込めたら上等な部類じゃね?

 だから,どうしても現地調達に多くを頼らざるを得なかったわけよ.

 ちなみに「現地調達」と書いて「略奪」と読む.
 真っ当に機能している軍隊なら,きちんと代金を払ったり商人を介在させるが,機能してない軍隊が実に多いから・・・

 ドイツの30年戦争では内戦でこれをやったので,国土はことごとく荒廃した.
 しかも正規軍ではなく,傭兵主体の軍隊だったので尚更.
 更に,ちょっとでも戦争が収まると雇用主は傭兵を首にしてしまうので,首にされた傭兵は独自に「現地調達」をやり始める.
 つまり,戦争やっててもやってなくても国土が荒廃するという悲惨な状態になった.
 それが30年も続くんだから・・・.

 また,真っ当に機能している軍隊でも,代金がわりに軍票を貰っても嬉しくないやい,とか,アヘンが通貨代わりになっちゃったとか,偽札を頑張って刷って代金に当てるとか,そういう悲しい話もあるです.

軍事板


 【質問】
 クレシーの戦いって何?

 【回答】
 クレシーの戦い Battle of Crécy は,百年戦争中の1346年8月26日,フランス北部,カレーの南にあるクレシー近郊で行われた戦い.
 エドワード3世率いるイングランド軍約1万2千人が,フィリップ6世率いるフランス軍約3万~4万人を,練度の高いロングボウ部隊を効果的に使い,打ち破った.
 フランス軍は幾度となく重装騎兵による突撃を繰り返し,正面のイングランド軍歩兵部隊に猛攻をかけたが,その陣形を崩すことができず,両側面から矢を射掛けられて負傷者が続出したという.

 【参考ページ】
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F187C200.HTM
http://www.nicovideo.jp/watch/sm832071
http://www.inforoot.jp/yuyu/index.php?ID=303
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-150.html
http://www.nagaitosiya.com/c/war_studies.html

【ぐんじさんぎょう】,2009/10/7 23:00
に加筆

 イングランド側の大勝利は,事前の周到な準備が大きく寄与しているとのこと.
 具体的には,落とし穴と馬防柵によって騎兵の進軍経路を制限し,密集したところを長弓の曲射で,遠距離から削っていったとのこと.

 参考文献は『オスプレイ戦記シリーズ イングランドの中世騎士』

VF-22 in mixi,2009年10月06日 23:14

▼ 「ディスカバリーチャンネル」では,百年戦争当時の仏諸侯騎兵軍が,英軍の長弓隊に負けたのは,弓の威力というよりは,矢の雨によって落馬した騎士が,その鎧の重さと,泥による粘着によって身動きが取れなくなり,泥に埋もれるor著しく機動力が落ちた状態で,軽装の弓兵による追撃(弓兵は矢を射つくした後は,各自得物で白兵戦に入る)によって,ことごとく殺害・捕縛された結果であるとしていた.

世界史板,2006/09/02(土)
青文字:加筆改修部分

 この戦いで歩兵部隊が用いた格闘術が,「クレシー柔術」である(民明書房)

新所沢の三等兵 in mixi,2009年10月07日 12:16

クレシーの戦い(フロワサールの年代記より)
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-150.htmlより引用


 【質問】
 イギリスとフランスが戦争していた時の話.
 両軍の弓兵は英軍長弓,仏軍石弓であり,速射性に勝る英軍長弓部隊が,仏軍石弓部隊を圧倒したと,世界史資料集にありました.

 そこで質問なのですが,なぜ仏軍は速射性に劣る石弓を使っていたのでしょうか?
 長弓より石弓の方が,次の矢を番えるのに時間がかかるのは明らかだと思うのです.
 長弓に対して石弓の優位点はあるでしょうか?

 【回答】
 やはり訓練が必要という点が大きかったのでしょう.
 英国の弓兵は小さい頃から訓練され,鍛えられました.
 彼らの骨格は完全に左右非対称になっており,極端に言えば「シオマネキ」のような状態だそうです.
 弓を射るために奇形になるまで訓練された集団がいないと有効な長弓は使えなかったということのようです.
 小銃が最初のうちは速射性などで長弓に劣っていたのに普及したのは,そのような特殊な集団でなくとも使用することができたからだとよく言われています.

system ◆systemVXQ2 :軍事板,2004/07/21
青文字:加筆改修部分

 ●長弓(ロングボウ)の特徴は
高度な使い方をする→山なり弾道で敵に当てるには,非常に高度な訓練が必要.
 射程はクロスボウと比べて優位にあるわけではなく,むしろ劣っていたと考えられます.
 威力については,ロイヤル・アーマーラーの実験によって,1470年イタリア製のプレートを射た結果,胴部分(最高厚4.75mm)を貫通ししまた.
 英国が100年戦争の折に使ったものは,イチイの木によって作られ,長さ150~180cm,重量0.6~0.8m,矢は75~100cm,重量0.5~0.7kg足らず,矢じりはソケット状で先を尖らせた単純な形状だが,鋼鉄製でした.
 よく訓練された兵士が用いる場合,10秒に1本の矢を打つことができ,敵を狙わずに射撃すれば6秒に1本の矢を射ることができました.

 ロングボウを扱った兵士は,殆どはヨーマンと呼ばれる自由民でした.
 彼らは,エドワード3世の頃には毎週,矢場での訓練を義務付けられ,厳しい訓練を施されていました.彼らの骨格は完全に左右非対称になっており,極端に言えば「シオマネキ」のような状態だそうです.
 当然,他の兵士から一目おかれた存在で,給料も優遇されていました.
 初期の小銃が速射性などで長弓に劣っていたにも関わらず普及したのは,そのような特殊な集団でなくとも使用することができたからだと,よく言われています.

 英国が百年戦争でロングボウを用いた上で,他の国の弓隊の運用とは決定的に違う点があります.
 通常,弓は部隊の集結する前面に立って,気勢をそらしたり,自軍の本隊と敵が激突する間に少なからず敵に損害を負わせる部隊です.
 しかし,”ロングボウの父”とうたわれるエドワード1世は,長弓を積極的に攻撃する部隊として訓練し,戦列の両翼に配しました.
 彼はまず,ウェールズ進攻やスコットランド進攻において長弓部隊を実験的に運用し,これを生かして経験をつみます.
 特に1298年7月22日「フォルカークの戦い」において,スコットランドのパイク(長槍)部隊を完敗させました.

 エドワード3世の治世になり,百年戦争が勃発しロングボウの優位が証明されるようになります.
 1346年8月26日のクレッシー,1356年のポラティエ,1415年10月25日のアザンクール,等の戦いにおいて両翼に配置されたロングボウは,フランスの騎士に多くの出血を強いました.

 しかし,戦場の花形であったロングボウはこの時期を境に下り坂にさしかかります.
 それにはまず,火器の発達が上げられますが,最も大きな要因はバラ戦争という英国の内乱で多くの優秀な兵士を失ったことです.
 また,ロングボウが有利な戦闘を展開するにはそれなりの下準備を必要とします.
 というのも,敵が突入してくる場合,接近戦において応戦する方法を持っていません.
 なので,木の杭を植えたり壕を掘ることでそれに対応してきました.
 しかし,国内の戦争ではお互いの手の内を知るものによって,そうした準備がままならなくなりました.

 ちなみにロングボウというと,西欧においては英国が使用したもののみを指すのが一般的です.

 ●石弓(クロスボウ)の特徴は,ほとんど訓練をしなくても,操作方法を覚えるだけで長弓に比して威力のある矢をより遠くに飛ばすことが出来ることです.
 しかし,次の矢を装填するのに時間がかかるのが致命的な欠点です.
 この欠点は最後まで改良できず,小火器に場を譲ることになります.
 大きさは縦0.6~1.0m,横幅0.5~0.7m,重量3~10kgが相場です.

 ヨーロッパにおいてのクロスボウの起源は正確に判っていませんが,1066年にノルマン人が用いていたことは確かだといわれています.
 戦乱が続くこのころのヨーロッパにおいてクロスボウの威力は絶大でしたが,キリスト教徒には相応しくない残虐な兵器とされ,法王インノケンティウス2世は使用を禁じました.
 ところが逆にドイツのコンラート3世はその治世(1138~1152)においてクロスボウを正式な武器として採用しました.
 この後,第3回十字軍における英国軍で異教徒を撃つための武器として使用しました.キリスト教徒を射るのではないので良いとされたわけです.

 本格的なクロスボウを装備した軍隊の登場は,さらに1世紀を経たイタリアの都市国家においてでした.
 ここではアルバレストと呼ばれ,いち早くこの武器を大量に取り入れました.
 ヨーロッパではジェノバ人がクロスボウを携えて傭兵として雇われるようになり,1340年のフランスには20000人も雇っていたといわれています.
 実際,クレッシーの戦いでは,フランス軍の前衛としてロングボウよりも有利と考え,ジェノバ人のクロスボウ部隊を配置しました.
 しかし,英国のロングボウ部隊の敵ではなく,多くの被害を出して壊走し,彼らがもたらした混乱はフランスが戦いに敗れる一因となりました.

 それでもなお,フランス王はクロスボウを諦めることなく,その軍隊に取り入れていきましたが,クロスボウを上回る威力を示すことは出来ずに,武器としてはその時代を火器に譲ることとなります.
 16世紀以降,狩猟やスポーツに用いられ,それほど大きくする必要も無く,軽量化されより扱いやすいものになっています.

 ところで,日清戦争における清で,主に防御の時にクロスボウを用いられた記録があります.
 短射程ながら威力があり,連射できるように数発の太く短い矢が装填されていました.

 これらの記述の多くは「truth in fantasy20 武器と防具 西洋編」市川定春著 新紀元社 によります.

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS

 【参照】
 「イギリスの長弓」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~t-shibu/subB1.htm


 【質問】
 百年戦争の頃の普通の弓兵って矢を何本くらい持ったの?
 矢って高かったって聞いたんだけど.
 かといって少なくて足りないんじゃ,洒落にならないだろうし.

 【回答】

――――――
http://en.wikipedia.org/wiki/English_longbow

"A typical military longbow archer would be provided with between 60 and 72 arrows at the time of battle,"
(平均的な射手は,一度の会戦で60~72発の矢を放った)
――――――

とあるので,一人当たりそれだけの矢は持っていたか確保されていたということになる.
 ただしcitation needed(出展不明)となっており,これが間違っていないかどうかはわからない.
 他にも"An experienced military longbowman was expected to shoot twenty aimed shots per minute."などと,やたら景気のいい数字が挙げられてるので,割り引いて読んだほうがいいかも.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ イングランドのロングボウの場合,一人平均60-70本を携帯したそうだ.
 クロスボウの場合,よくわからないが,ボルトは,矢より数倍重かったらしいので,一人あたり携帯する数はロングボウの場合より少なかったと思われる.
 しかし,クロスボウの場合は補助員が付く場合が多いため,クロスボウあたりの数は多かったかもしれない.

 ただし,どちらにしろ騎射とは違い,小荷駄が到着していれば,歩兵の弓兵は戦闘中にも補給はできたため,携帯する数に限られる訳ではない.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ジャンヌ・ダルクって誰?

 【回答】
 ジャンヌ・ダルク(1412~1431)は,百年戦争におけるフランス救国の英雄.
 ドイツ・フランス国境に近いドンレミ村の,貧しい農家に生まれたが,子供の頃から信仰篤く,13歳の頃から神の声や,聖者の声を聞くようになったというから,現代的に言えば「不思議ちゃん」かな?
 そして,「フランスを救え」という「神の声を聞いた」(おいおい……)ことから,フランス皇太子シャルル7世のところに行って彼を説得し(王子も説得されるなよ……),軍隊を指揮して1429年,オルレアン城を包囲していたイギリス軍を撃破.
 シャルル7世の戴冠式を行わせ,その功績で貴族に列せられたものの,皇太子側近の者たちの妬みを買い,彼女は陰謀によってコンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕らえられ,イギリス軍に渡されて火刑に処せられた.
「男の嫉妬は醜い」
という一例.
 そら,「廃棄物」にもなるわ.

 しかしその後,大衆の前で処刑後,ジャンヌを名乗る女が出現し,兄弟により一時期本人と認定される.
 ただし,女子バレーボール部員だの貧乳だのといった扱いをされるのは,99%ミラ・ジョボヴィッチのせい.

某板,2010/12/25(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ジャンヌ・ダルクが処刑されたのは,「魔女」だと見なされたから?

 【回答】
 ジャンヌ・ダルクは,「異端」審問で裁かれ,「異端」として処刑されたのであって,魔女としてではない.

 ヨーロッパ大陸では火刑が多く,イギリスでは絞首刑が多い.
 自白すると罪が多少軽減され,斬首になる.

 火刑は遺体が残らないので,灰にして川に流すなど分散させてしまうことができ,埋葬することによりシンボルになることを防ぐ,という目的がある.

 また,火刑はキリスト教の刑罰では一番重い.
 体が焼かれてなくなってしまうと,キリストの再臨時に復活できないから.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フス戦争って何?

 【回答】
 フス戦争(Hussite Wars,1419~1436)は,ヤン・フスの開いたキリスト教プロテスタントであるフス派信者と,それを異端としたカトリックのローマ教皇および神聖ローマ帝国の間で戦われた戦争です.
 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度もフス派に対する十字軍を組織しましたが,連戦連敗.
 しかしフス派内部で抗争などが起こり,1436年,ウトラキスト派の主張が承認されて戦争は終結しました(1439年終結説もあり).

 【参考ページ】
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P332C100.HTM
http://www.ma-vlast.opal.ne.jp/smetana/tabor.html
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/fu/fusu.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tasai/honyaku-ka/cz_dejny/03hus.htm

【ぐんじさんぎょう】

▼ フス戦争の頃のハンガリー兵の装備の一例:

http://www.hung-art.hu/frames-e.html?/english/k/kolozsva/muvek/keresztr.html
http://www.hung-art.hu/frames-e.html?/english/k/kolozsva/muvek/k_vitel.html
 1427年の祭壇画.
 もともとはスロバキアの要塞のような大教会ガラムセントベネデク(Garamszentbenedek現在のスロバキア [Hronsky Svaty Benadik]) にあったもの.
 一枚目の画の騎士の従者の持ったバックラーに注目.

http://www.hung-art.hu/frames-e.html?/english/zmisc/oltar/15_sz/1/berzenk2.html
 1450年ハンガリー・ポーランド国境地帯で描かれた祭壇画.
 もともとはBerzenke(現在はBrzenov)にあったもの.

 恐らくは,ヤン・イスクラ率いる傭兵軍団の装備も,こんな感じだったのではないかと思われます.

ギシュクラ in mixi,2009年03月21日23:24

 【関連リンク】
「ザイーガ」:【動画】人骨で作られた教会,セドレッツ・コストニツェ(墓地教会)

フス派の「戦車」
faq17md08.jpg
faq061201j.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 フス戦争の時に使用されていた鉄砲って,どんな代物なんでしょうか?
 ピーシャラチってピストルの原型らしいけど,今の拳銃とは似ても似つかぬものだとか.

 【回答】
 新紀元社「武器甲冑図鑑」に図解がある.
 「手砲」と呼ばれているものだと思う.
 銃身が短い筒で,その後ろに棒がついてて,この棒を持って支える.
 銃身の後ろに穴があって,ここに火を差し込んで点火する.
 つまりストックや引き金というものがない.

 「もののけ姫」に「石火矢」という鉄砲みたいなものが出てきただろう?
 あれ.

 「武器甲冑図鑑」に絵があるので,引用する.

 他に,クロスボウの台座に銃身を乗っけたアークウィバス,引き金の原型みたいなものがあるサーペンタインってのも用いられた.
 どれも熱した鉄や石炭を直接,火門に突っ込むタッチ・ホール式で命中精度には難があったようだ.

 フス派の軍隊は農民が主体で弓どころか槍すら持ったことも無い連中.
 白兵戦用の武器が穀竿,斧,鎌だし.
 そう言うのを戦力化するには促成し易い銃のほうが向いている.

 長弓は扱うのにかなりの訓練がいる.
 フス戦争では農民が主体(後には貴族も加わったが)なので,長弓ほど訓練が要らず,そのうえ騎士に対抗できるハンドガンは有用.

 どの道,生半可な弓じゃ重装騎兵は効かない.
 銃なら当たれば,甲冑を身に着けた兵士に対しても十分な殺傷力を持つし,当たらなくても轟音と煙で兵や馬を怯えさせ,攻撃をためらわせることができた.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ビザンツ帝国は門の鍵閉め忘れて滅んだって本当ですか?

 【回答】
 そう言われている.

 1453年5月29日未明,オスマン帝国軍が首都コンスタンティノープルへの総攻撃の際,防衛軍が奇襲作戦に使っていたブラケルナエ地区のケルコポルタ門の,通用口の鍵を掛け忘れを発見.
 そこから敵兵300人程が城壁内に侵入.
 防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した.
 コンスタンティノス11世は,最後まで前線で指揮を執り続けたが,結局はコンスタンティノープルは陥落,東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は滅亡した.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 薔薇戦争における,ケイスター荘を巡る紛争とは?

 【回答】
 1469年夏,薔薇戦争は北部のランカスター勢の反乱によって新局面を迎え,翌年10月,ヨーク家エドワード4世の逃亡,ランカスター家ヘンリー4世の短命な復位へと続いた.
 この騒乱の1470年の9月12日,マーガレット・パストンはロンドンの息子ジョンに次のような書状を送っている.
 「母は貴台の弟,朋友たちがケイスターにおいて危難に立ち,兵糧もなく,ドーブニー,バーニーらは既に死し,他の多くの者たちも大きな痛手を蒙ったことをお知らせしなければなりません.
 また矢弾も尽き果て,ケイスターは敵の大筒に酷く荒らされ,もし早急な援軍がなければ,彼らは命もろともその場所も失わんこと計りがたい様子であり,加えて公はますます激しく攻撃を加え,以前にも増して残酷の度を加えております.
 彼はあらゆる地方から彼の農民その他の者を呼び寄せ,来る火曜日にはケイスターに臨まんとする勢いです.
 恐らく当日は多くの人々が其処に相見えることでしょう」
 ノーフォーク公によるパストン家の一荘園ケイスターの包囲の模様を伝える「パストン家書簡集Paston Letters」の一節だが,この土地はもともとはノーフォーク州ヤーマスに近い景勝の地を占めたサー・ジョン・ファストルフの壮大な居城だった.
 1459年のファストルフの死後,ケイスター荘を含む莫大な遺産は一旦,遺言によってマーガレットの父にあたる,生前の「畏友」ジョン・パストンの所有に帰したが,これを不服とした共同遺言執行人が裁判所に訴えたため,ジョンの半生は不毛な法廷闘争に費やされることになった.

 1466年にジョンが死ぬと,この係争は息子のジョン・パストン2世に引き継がれ,その破局としてやって来たのがノーフォーク公の暴力的な訪問だった.
 父ジョンの仇敵であり,ファストルフの共同遺言執行人であるウィリアム・イェルヴァトンとトーマス・ハウズは,ケイスターに関するファストルフの遺言を無効として,ノーフォーク公にケイスター荘売却の交渉を始めており,息子ジョンが首都ロンドンにいたのは,まさにこの係争を有利に運ぶべく,宮廷の知己に支援を仰ぐためだった.
 しかしこの年の戦争の形勢逆転に乗じて,ノーフォーク公は兵3000を率いてケイスター奪取を企てたのだった.

 そんだけ.

軍事板,2003/12/27
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オスマン帝国など北アフリカ(古代のカルタゴのあたり)を領有していたイスラム国家は,イタリア半島へと侵攻しなかったのですか?
 地理的にも非常に近く感じるのですが…

 【回答】
 してるぞ.失敗してるだけで.
 オスマン朝のメフメト2世の遠征軍は1480年にオトラントを占領しているが,メフメト2世の急死で撤退している.

 ただ,占領地の維持が困難ってのもあるけど,あの時代の大規模軍集団を纏め上げるには,強力な指導者が現場に臨んでないとヤバイ(情報の伝達etc...
 それと,メフメト2世が文字通り急死したせいで,オスマン帝国お家芸の跡継ぎ問題で本国が揉める可能性が出てきた(現にバヤジット2世は弟と跡継ぎ争いしてる)ような,そんな時に海を越え,かなりの防御力を持った都市が多いイタリア半島を攻めるなんてのは自殺行為.
 なので撤退.

世界史板


 【質問】
「世界史は妄想を超えて (世界史FAQ)」
 こちらのサイトのトリビアのコーナーにある,

[quote]
 迷信深い同時代人の中で唯一コロンブスだけが, 「世界は球体であり,西に向かってどこまでも行けばアジアに着くはずだ」
という論理を理解しており,この論理に従って船出した──
といったような,コロンブスに関する通俗伝説がある.
 しかし実のところ,コロンブスと同時代の欧州人は,世界の形についてほぼ正確な知識を持っており,地球の直径とユーラシア大陸の横幅を基本的には正しく推定していた.
 しかしアメリカ大陸の存在は知らなかったので,「大西洋+太平洋」という巨大な海を越えるのは無理と考えていたのである.
[/quote]

というトリビアの確実なソースを教えてください.書籍の名前とかを.

 【回答】
 多分星新一訳の『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫,1986.7)かと.

pp.235-236だ.

> 地球が丸いと主張したのは,コロンブスだけではない.スペインの宮廷での議論は,丸い
>のを前提として.その大きさに関してだった.対立者たちは,コロンブスは小さく考えすぎ
>ていて,欧州から東洋までの航海は無理だと言った.そして,それは正しかった.
> 途中に未知の新大陸がなかったら,あきらめて戻ったか,消息不明になっただろう.

 ハヤカワ文庫から発行されてる『アシモフの科学エッセイ8 次元がいっぱい』(1985.12)には,もうちょっと詳しい話がある.
 第15章「地球の形は」(pp.275-293)ね.
 それによれば,地球が球と証明したのはアリストテレスで,紀元8世紀の聖ビードや14世紀の『神曲』でも球とされていることを挙げて,
「歴史を通じて,アリストテレスの著書に触れたことのある教養人は,全て地球が丸いことを認めている」
と書いてる.
 地球の周の長さについての論争についても触れられてるな.

 マイルで書いてるんでわかりにくいんだが……
・エラトステネスは25000マイルと測定
・BC1世紀頃のアパメーアのポセイドニウスは18000マイルと測定
・マルコポーロの旅行から考えてヨーロッパからアジアまでは13000マイル

 エラトステネスの計算が正確だった,というのは有名な話.

 あと,例えばダンテの『神曲』なんかでも,地球は当然丸いものとして描かれている(つまり地球球体説+天動説).

 少なくとも,コロンブスだけが気付いていたという事はないな.

業界人A「ひょっとして地球って球体なんじゃね?」
業界人B「てことは,一周して戻ってこられる??」
業界人C「インドにも行けるじゃん・・・」

てな雰囲気になってて,

・・・1492年

A「おー,やりやがったか!」
B「くそー,コロンブスって誰だよ?」
C「ほら,あいつ.ポルトガルに援助断られた奴」
A「ポルトガルワロスw」

 コロンブスが影響を受けたトスカネリの球体説は,実際より地球を小さく見積もっていたので, コロンブスはインド行き西回り航路を甘く見ていた.
だけど偶然アメリカがあったのでそこにたどり着いた.
―――というのは有名な話.

 上述の『次元がいっぱい』によれば,トスカネリは
「地球の大きさは18000マイルだから,西回りだと5000マイルでアジアに到達するよ!」
と主張した
という
 で,コロンブスこれを採用.ということらしい.

 ただ
「コロンブスと同時代の欧州人は,世界の形についてほぼ正確な知識を持っており」
ってのは言い過ぎかと.
 地球が球だと知ってたのは上流階級の知識層だけでしょ.

カラジチ ◆mWYugocC.c(青文字)他 in 世界史板

コロンブスが乗ったキャラベル船
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 カオナボとは?

 【回答】
 イスパニョーラ島のハラグア(サンフアン)一帯に棲んでいた先住民,マグアナ Maguana族の酋長.
 カリブ Caribs族出身の彼は,戦闘技術と獰猛さとで名声高かった.
 コロンブス探検隊の残留部隊がシグアヨスに侵入.Maguana族と遭遇.強奪と強姦を繰り返したため,これに怒って1493年,そのスペイン人全員を殺害したという.
 金鉱があったのは北部山脈と中部山脈のあいだを走るシバオ川の上流,現在のベガ・レアル付近という.

 1494年4月,コロンブスは部下のオヘーダに対し,カオナボを捕らえるよう命令.
 オヘーダは9人の部下を引き連れ,原住民から掠奪を繰り返しながら,カオナボの本拠地ニティ(Niti)に到着.
 オヘーダは,カオナボに贈り物を捧げ,親愛の言葉を連ね,イサベリアにおける平和条約の締結を提案し,信用をかちとるために馬に同乗させた.
 その上で,儀式用の腕輪と称してカオナボの腕に手錠をかけ,彼を連行した.

 同年10月,カオナボの弟マニカトー Manicatex 以下,タイノ族七千人が,カオナボ奪還を試みてスペイン人を攻撃するも,オヘーダの部隊は大砲数門,火縄銃200丁,猟犬20匹を保有しており,この火力の前に惨敗.
 タイノ族は死者多数を出し,1500人が捕虜となった.

 1495年,コロンブスはカオナボと,捕虜のうち500人を,スペインに帰る船団に積み込むが,そのうちカオナボおよび200名が航海中に死亡,残りはセビリアで奴隷として売りに出されるが,まもなく,ほとんどが死亡した.

 なお,カオナボの妻であるアナカオーナ Anacaona は,タイノ族の酋長だった兄のボヘチョの死後,その後継者となった.
 兄が子孫を残していなかったためである.
 彼女はスペイン人との間に友好関係を維持しようと試みたが,スペイン人がより多くの貢物を要求するようになり,困難となった.
 1503年,スペイン人統治者は直接支配することを決定.
 統治者となったニコラス・デ・オバンドー Nicolas de Ovando は,アナカオーナや他の部族のリーダーを宴会に招き,彼女たちに大量のワインをふるまって酔わせ,スペイン人の部下たちに殺害を命じた.
 アナカオーナは助命されたが,しばらく後に公開絞首刑となった.

 【参考ページ】
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/world/~1550.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/palante809/48350404.html
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/haiti.htm
http://studio10.sakura.ne.jp/hoh/co/log0206.htm
http://wapedia.mobi/ja/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9
http://www.stjohnbeachguide.com/caonabo.htm
http://es.wikipedia.org/wiki/Caonabo

スペイン人を襲撃するカオナボ
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2010/04/26 21:00
を加筆改修


 【質問】
 1495~1497年のロシア・スウェーデン戦争とは?

 【回答】
 スウェーデンの王権を取り戻そうとしていたスウェーデン(カルマル同盟下ではスウェーデンはデンマーク=ノルウェー二重王国の一部だった)のストゥーレ家が,デンマーク王ハンスと同盟していたロシアのイワン3世と戦火を交えたものです.
 イワン3世は王子2人を派遣して,スウェーデン方の城,ヴィボルグ Vyborg を3ヶ月にわたって包囲.
 城は堅固だったものの,長期戦に耐えることはできなかったので,交渉の結果,スウェーデン独立軍は城を引き渡すことになり,それに火をかけて退去しましたとさ.

 【参考ページ】
「wikipedia」:Russo Swedish War 1495-1497
日本語ページは発見できず.

 【関連リンク】
「Gigazine」:中世ヨーロッパの戦争のような戦いをするロシアの祭り(画像共)

▼>中世ヨーロッパの戦争のような戦いをするロシアの祭り

 本格的なヨロイやカブトを身にまとい大人数がぶつかり合う光景は,本当に中世ヨーロッパの戦争を見ているようで迫力があります.
 この祭りは夏に行われているようで,北国のロシアといえども相当熱いのではないかと思われます.

 戦いは何日にも渡って行われるようで,実際に戦う人たちの体力はすさまじいものです.

http://nikolkaya.livejournal.com/248881.html?page=3#comments
http://nikolkaya.livejournal.com/170006.html?page=2#comments

 ・・・・・・・・物凄く怖いです,何所の殺人鬼だよ(;゚д゚)

CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月22日00:18

faq17e10v.jpg
faq17e10v02.jpg
faq17e10v03.jpg
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2008/10/30 23:20
に加筆.


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