- 71 :征けば生きては帰れず :03/12/27 09:56 ID:???
1364年のシャルル5世の即位直後からフランス国内の政局は急展開を見せる
まず,ブルゴーニュ公位を巡ってフランス王とナヴァール王シャルル・ル・モーヴェーの間で争われていたいわゆる
ブルゴーニュ継承問題が,デュ・ゲクランの介入で1365年3月にナヴァール王が屈したことによって解決した
次いで,イングランド王が推すジャン・ド・モンフォールとフランス王が支持するシャルル・ド・ブロアの間で
争われていたブルターニュ継承問題が,1365年8月にブロアが戦死してモンフォールがブルターニュ公位についたことで
決着した
こうした軍事的な緊張と弛緩によって,新たな野武士団が再びノルマンディー,メーヌ,オーヴェルニュに流れ込み,
その被害もまた増加していった
前述したように,野武士団を国外に誘い出して一時的に国内の被害を局限する施策,すなわちその目的で彼らを一時的に
雇用する施策が執拗に試みられた
既に1365年5月には,シャルル5世は教皇と皇帝の諒解を得て,オスマン・トルコの侵攻に対抗すべく
ハンガリー十字軍を計画している
ただし,余りにも遠くしかも多大な危険を予測させるこの計画に野武士団は何の魅力も感じず,ストラスブール近傍まで
進軍した僅かな野武士団も2ヶ月で帰還する始末だった
しかし,イングランドとナヴァール両国王を味方と頼むカスティリア王ドン・ペドロと,その庶出の兄弟にして
アラゴン王アンリ・ド・トラスタマールとの,カスティリアの王位を巡る紛争が絶好の機会を提供することになる
そんだけ.
72 :盗賊帰還 :03/12/27 09:57 ID:???
アラゴン王と,ラングドックに亡命中のアンリ・ド・トラスタマールの要請を受け,1365年以降,デュ・ゲクランは
各地の野武士団を結集し,彼らを率いて年末にはピレネーを越えた
この軍勢には各国出身の野武士団が,中にはヒュー・オブ・カルヴァリーのように従来イングランド陣営にいた
野武士団まで参加し,一説では総勢3万に達した
その後のカスティリア戦役は,1366年4月にペドロの敗走とアンリの即位,1367年2月,黒太子の介入と
ペドロの王位回復,アンリとデュ・ゲクランの反攻と続き,1369年3月にペドロの戦死とアンリの再即位で一応の
決着を見るが,ともかく一時的にしろ野武士団を国外に連れ出そうとしたシャルル5世の計画は成功した
もちろんこれによって野武士団がフランス国内から消滅したわけではなく,カスティリアへの遠征に最初から
参加しなかった野武士団は依然としてブルゴーニュその他の地方で活動していたし,その上カスティリアから帰還した
野武士団は再びラングドックやオーヴェルニュ,アンジュー,シャンパーニュ等,各地に侵入して再び略奪を働いている
しかしその頃には,フランスの各都市や各地方でも,野武士団の略奪に対する防備が組織され強化されていた
ラングドックでは1365年にアルビ市と周辺の農民が武装して侵入してきた野武士団を撃退しており,
またナルボンヌでは野武士団と交戦してこれを全滅させ,ブルゴーニュではディジョンの代官ユーグ・オーブリオが
野武士団を狩り出して極刑に処している
この時期,野武士団の活動による被害は一応は峠を越したことになる
そんだけ.
73 :狼藉御免 :03/12/27 09:58 ID:???
以後しばらく野武士団の活動は,英仏間の暫時の小康状態が野武士団の発生を抑制したことにより,全く根絶された
わけではないが,比較的少なくなっている
しかし,1415年のアジャンクール戦を契機に英仏領国の緊張が増し,1422年のシャルル7世の即位以降,
野武士団の活動が再び活発化する
既に国土の大半を喪った「ブルージュの王」シャルル7世は,十分な給与支給の能力に欠きながらも,アルマニャック党の
兵力以外に頼むべき軍事力を持たなかった
1429年5月のオルレアン解囲や7月のランスにおける国王の戴冠を可能にしたのはこれらの兵士たちの活躍にあった
けれども彼らの活動を促した決定的な要因は,間違っても哀れな国王に対する忠誠心でも,
ましてやイングランド・ブルゴーニュ軍の圧力からフランスを解放しようとする情熱でもなかった
百歩どころか地球の裏側まで譲っても,そのような動機はたかだか副次的な要因でしかなかった
むしろ彼らを動かした動機は戦争そのものにあり,ことに戦争に伴う破壊的な略奪にあった
シャルル7世が頼みとしたほとんど唯一の軍事力は,アルマニャック党の野武士団だった
従って,1430年以降,戦線の膠着状態は彼らの略奪を軟化するどころか,むしろ加速させ促進させることになった
年代記者オリヴィエ・ド・ラ・マルシュは次のように記している
「フランス王国全土は略奪横領に明け暮れる城や砦で満ち満ちている
王国のまっただ中に,『追い剥ぎescorcheurs』と呼ばれる種々雑多な戦士たちが蝟集し横行し,生きんがため,
奪わんがため,食糧と冒険を求めて地方から地方へと移動し,フランス王の直領にすら斟酌を加えない
いかにポトン・ド・サントライユとラ・イールがフランスの主要にして著名な指揮官であったにせよ,彼らはこれら
略奪の徒,これら追い剥ぎの徒に属した」
そればかりではなく,オルレアン公シャルルの庶出の弟でオルレアン防衛を指揮したデュノアでさえ野武士団の首領に
過ぎなかった
そんだけ.
74 :聖少女の愉快な仲間たち :03/12/27 09:58 ID:???
旗を振り回す電波女を助けて活躍したことで知られているラ・イール(本名エチエンヌ・ド・ヴィニヨール),
サントライユ,アンブロアーズド・ロレをはじめ,デュノア,アントアーヌ・ド・ジャバンヌ,フロケ,
ギー・ド・ブランシュフォール,アルノー・ギラン・ド・バルバザン,ゴーチェ・ド・ブリュザック,フォルテピス
(本名ジャック・ド・ブイイ),レストラック卿,アルマニャック家の庶子,ノアイユ家の庶子,ブルボン家の二人の庶子等
が率いるアルマニャック党の「追い剥ぎ」たちは,それぞれあるいは前線にあって,あるいはむしろ戦線を遠く離れて
各地で横暴を極めまくった
とりわけ王侯のような威容と財力を誇り「盗賊の王」の異名を持つカスティリア出身のロドリグ・ド・ヴィランドランドは,
ほとんどフランス全土,中でもラングドックやブルゴーニュ,オーヴェルニュ,アンジューを荒らし回り,人々は彼が
進軍してきたという噂だけで恐慌し,この恐怖は彼を伝説化した
例えば,リヨンの評議会は彼が接近しているとの報せに議論が沸き,ニームでは彼に対する恐怖から特別の監視役が
任命されていた
また,ジャン・ド・ラ・ロシュはポアトー,リムーザン,ペリゴール,サントンジュの各地方,更にブルゴーニュで
活動している
彼ら「追い剥ぎ」による被害は前世紀の同業者たちのそれに優るとも劣らない
彼らは耕地を荒廃させ,農具を破壊し,農作物を奪い,住民を拷問し,婦女子を強姦し,更に都市や教会から多額の
身代金を強要し,至る所に恐怖を撒き散らした
そんだけ.
75 :陵辱の大地 :03/12/27 09:59 ID:???
しかし,このような「追い剥ぎ」すなわち野武士団の暴虐が最悪を極めたのは,1435年にフランス(=アルマニャック)
とブルゴーニュの間で成立したアラスの休戦以後のことだった
王国を割っていた両派の接近は人民を喜ばせたが,一方で,失職による事態の悪化を危惧する野武士団に不安を
巻き起こすことになった
イングランドとの戦争が今後も続いたとしても,今までのような多数の兵力は必要とはならないだろうこと,
シャルル7世が伝統的な流儀に従って彼らを解雇するだろうことを彼ら自身が完全に理解していた
こうして,フランス,ブルゴーニュ両軍から解雇されて野武士団化した兵士が続出し,「追い剥ぎ」の活動は一段と
激しさを増していく
しかも,彼らを引き続き雇用するに足るだけの財政的余力に欠いていたシャルル7世は,人民の筆舌に絶する苦難に対して,
「彼ら(野武士団)も生きねばならぬ」と無責任な回答しか与えられなかった
当然,野武士団の活動はフランス全土に及び,パリ周辺,ボーヴェジス,ピカルディー,ヴァロア,シャンパーニュは
アルマニャック党だけでなく,ブルゴーニュやイングランドの野武士団まで横行していた
1443年12月,ソンム諸都市の総督ボードゥアン・ド・ノアエルは,メーニュレー及びサンス地方が,「その近傍に
あってこれらの地方での農耕を妨げているクレイユ,クレルモン,ムーイ,グルネーその他の要塞の守備隊」のために,
4年間何の収益も得られていないと嘆いている
ロアールではブールジュの代官が野武士団によって殺害され,ノートルダム・ブールディユー僧院は周辺住民の避難所と
なり,「幼児の泣き声と妊婦の出産の叫び声の中で」ミサを執り行わねばならなかった
オーヴェルニュはロドリグ・ド・ヴィランドランドの草刈場となり,ラングドックはあろうことか自らの総督である
ジャン・ド・グレーリによって荒らされていた
中でもブルゴーニュは,ラ・イール,サントライユ,ヴィランドランド,アントアーヌ・ド・ジャバンヌ,フロケ,
ブルボン家の庶子ギー・ド・ブランジュフォール,ゴーチェ・ド・ブリュザックらの破壊的な訪問を相次いで受け,更に
彼らに迎合した在地貴族や,あるいは公領救援に派遣されたピカルディー兵の略奪を甘受しなければならなかった
そんだけ.
76 :平和はお前を解放しない :03/12/27 10:00 ID:???
以上のように,百年戦争期の野武士団の活動が集中した時期は概ね二つに区分できる
ブレティニーの休戦後のジャン2世からシャルル5世の治世の時期と,シャルル7世の治世,特に1435年から
1444年の時期である
これら二つの期間のそれぞれの野武士団の軍事的性格にはほとんど差異は見られない
彼らの広汎で長期にわたる活動の基礎は,戦闘集団としての個々の野武士団の統一性と団結にあり,ドイツの盗賊騎士団と
同様に,成員の間には通常の封建的主従関係は存在しない
野武士団は国王や諸侯と軍事的な主従関係を結び,しかも解雇されればその主従関係もまた消滅する
デュ・ゲクランがピレネーを越えてカスティリアに殴り込んだ際に率いていた軍勢の中には,もともとイングランドに
与していた野武士団もいた
また,15世紀においても,ヴィランドランドはブルゴーニュ公,シャルル7世,その側近ラ・トレモイーユと雇用主を
転々とし,ジャン・ド・ラ・ロシュもペリゴール伯ジャン・ド・ブルターニュ,ラ・トレモイーユ等に雇われている
このように,各野武士団はそれぞれいわば一個の独立した勢力を形成していた
そんだけ.
77 :介者たち :03/12/27 10:01 ID:???
野武士団の活動の動機は報酬のみであり,戦争とそれに伴う略奪が彼らの稼業だった
しかも講和や休戦は彼らを解散させることは出来ず,むしろ収入源を失った野武士団は略奪に走り,故に彼らの破壊的な
活動は戦時よりも平時において甚だしかった
そして,傭兵としての報酬と略奪の戦利品は,時として野武士団に莫大な財産をもたらした
主にブルゴーニュ党に属してラ・シャリテを中心に活動したペリネ・グレッサの財力は,ブルゴーニュ公自身が彼に
資金援助を頼るほどだった
またヴィランドランドもその晩年には教会に多額の寄進をし,かつ膨大な遺産を子孫に遺している
ただし,特殊な場合を除いて野武士団は相互の連絡もなくそれぞれ単独で行動し,しかも個々の野武士団の兵力は必ずしも
大きくはなかった
数百名に達することは極めて稀で,通常は多くても100名程度で大抵の場合は100名に満たなかった
1362年のブリニュー戦におけるアルノー・ド・セルヴォール麾下の兵力は騎兵200ランス,弩兵400名を
誇っていたが,これはむしろ例外だった
オルレアン防衛のために兵員数が最も増加した1429年3月でさえ,オルレアンの庶子デュノア,
ポトン・ド・サントライユ,ギョーム・ド・サルネーの率いていた兵力はそれぞれ85名,61名,12名しかいなかった
ジャン・ド・ビュエイユが率いていた兵力は1428年の時点では42名に過ぎず,数年後には約600に増加しているが,
これも例外的である
もっとも,野武士団の周辺には常に蹄跌職人,靴職人,屠殺人,桶職人,洗濯女,書記が付き従い,野武士団と一緒に
宿営しており,その周りには更に住民たちから巻き上げた品物を売買する古物商がいたため,所帯自体は相当に大きかった
そんだけ.
78 :武者揃 :03/12/27 10:02 ID:???
これら14世紀と15世紀のフランスで活動していた野武士団の出身地は種々雑多で, ブルターニュ,ガスコーニュと
いったフランス国内のみならず,イングランド,ウェールズ,ナヴァール,アラゴン,ブラバント,ドイツ等の近隣諸国出身
の野武士団は珍しくなかった
出身階層についても事情は同じで,彼らの社会階層は決して単一ではなかった
彼らの多くが騎士すなわち下級貴族の出身だったことは注目に値するが,従僕,職人,農民等の非貴族層の出身者も
決して少なくなかった
例えばジョン・ホークウッドは鞣革業者の息子,プチ・メシャンは騎士の従僕,ロバート・ノールズは織布工だった
このように,出身地及び出身階層が雑多を極める彼らの社会的性格は,14,15世紀を通じて一貫しているが,
14世紀に比して15世紀には比較的多数のフランス人,しかもフランス貴族が野武士団に参加していたという
僅かではあるが簡単には見過ごせない相違点もあった
14世紀の著名な野武士団の首領としては,セガン・ド・バードフォル(ペリゴール),ベルチュカ・ダルブレ
(ガスコーニュ),プチ・メシャン(ラングドック,一説にはサヴォイ),アルノー・ド・セルヴォール(オーヴェルニュ)
等のフランス出身の他に多数の外国人の名を挙げることができる
ウェールズからジャック・ウィン,スペインからガルシオ・ド・カストロ,ドイツからフランク・ヘネクィン,
そしてイングランドから,ヒュー・オブ・カルヴァリー,ジェームズ・パイプ,ジョン・ホークウッド,
ロバート・マーコーント,ジョン・オブ・ハールストン
このように,イングランド人を中心とする外国人が多数参加し,彼らの率いる野武士団がむしろ主流を占めていたことは,
14世紀の野武士団の多くがイングランド軍から解雇されたという事情に因るところが大きい
勿論,15世紀の野武士団に外国人がほとんど参加していなかったというわけではなく,15世紀においても
カスティリアのヴィランドランドのような外国人が外国からフランスに相当数流入していた
しかし,シャルル7世の治世の頃には,没落貴族,中小貴族の非嫡子,あるいはオルレアン家,ブルボン家といった
大諸侯の庶子等,フランス貴族層から多数の野武士団が生まれることになる
そんだけ.
79 :傭ヲ賃シテ之ヲ戦ワシムル :03/12/27 10:02 ID:???
前述のように野武士団には様々な社会階層の出身者によって構成されていた
中世末期の社会変動,特に百年戦争による混乱が,市民や農民の一部を野武士団に参加させたことは間違いない
15世紀にはタバリと呼ばれる農民が主に農民で構成された兵団を率いて数年にわたってリヨンの森に立て籠もり,
イングランド,フランス,ブルゴーニュの別なくあらゆる軍隊に攻撃を加えたと言われている
しかし注目すべきは,このように雑多な社会階層のうち,多くの貴族が野武士団の中核を形成していたこと,
特にシャルル7世の時代に盛んに活動した「追い剥ぎ」は,フランス貴族階層が構成員の大半を占めていたことにあった
直属家臣団の召集を中核とする封建軍制は,必然的に深刻な時間的空間的制約と兵力の限界を伴う
このような制約下で比較的大規模な軍勢の動員を妨げられた国王や諸侯は,制約を克服すべく帝国騎士やジェノヴァ弩兵に
代表される外国人傭兵の雇用を試みた
しかし,これらのエリート兵としての外国人傭兵は,その高い軍事能力に劣らぬ高額な報酬を要求したため,量的制約を
克服するには至らなかった
封建軍制の有する諸制約,差し当たって特に時間的制約を克服する基本的な手法は,封建軍を構成する個々の貴族への
給与の支給だった
本来封臣の軍役奉仕期間の延長を求めるための給与支給は,同時に封建軍の行動半径の拡大を伴い,併せて従来軍役義務を
怠りがちだった貴族の従軍を促すことによって兵力の増強をも期待できる筈だった
換言すれば,金銭による給与支給は,封建制の枠内で固有の諸制約を克服しつつ封建軍の軍事力を強化しようとする試み
だった
フランスでも十字軍を契機として既に12世紀に出現したこのような給与支給は,その後13世紀末までに普及して
規則化し,1274年の勅令では,指揮官級の高級騎士,平騎士,騎士見習の日給はそれぞれ20スー,10スー,
6〜7スー,弩兵は15デニエ(4デニエで1スー),一般の歩兵は1スーと定められていた
そんだけ.
80 :田を分かつ者 :03/12/27 10:03 ID:???
ただし,このような貴族の軍役奉仕に対する給与の支給が,封建軍の傭兵化あるいは封建軍制の解体の直接の原因に
なった訳ではなかった
本来,給与は軍役奉仕期間の延長に対応したものであり,実質的には「封土」の特殊な一形態と解釈される限り,それは
単に封建軍制を補強するものに過ぎない
しかし,給与が延長された軍役奉仕期間に対する報酬という本来の性格を超えて軍役奉仕全般に対する報酬としての意味を
持つに至れば,話は違ってくる
一般に,百年戦争はフランス貴族層の消耗と没落を促し,王権による権力の集中を準備したと言われている
しかし実際には,フランス貴族の疲弊とそれに伴う領主権力の解体は既に12,13世紀には著しい進展を遂げていた
十字軍以降,農奴の解放が徐々に進行し,領主の直営地が永代農民保有地に分割され,更に農民の負担は軽減していく
この過程は,広範に行われた開墾が多数の自作農を生み出すことによって更に促進される
一定の諸負担を代償に保有地の自由処分権が農民に譲渡され,逆に多くの領主は一定の限られた地代の取得者に
過ぎなくなった
13世紀末には定期小作農が出現し,これに伴い農業賃労働さえその萌芽を見せはじめる
当然,領主である貴族階層の経済的基礎は危機に瀕した
事態は中小領主にとって一層深刻で,封土の細分化の傾向がその疲弊を更に推進した
相続権の平等が一般に認められていたフランス南部の成文法地域は言うまでもなく,長子相続法が確立していた北部の
慣習法地域でも,事実上封土は子弟たちの間で分割され,時には娘の婚姻の持参金がわりにされていた
既に領主の収入源としての価値を徐々に減少しつつあった封土のこのような細分化は,個々の貴族の経済的没落を
決定づけた
そんだけ.
81 :悪代官 :03/12/27 10:04 ID:???
勿論,これに対して長子以外の子弟すなわち次三男や庶子の相続権を制限ないし禁止し,あるいは彼らを半強制的に
宗門に入れる等,非嫡子を意識的に貴族階層から排除することによって封土の細分化を阻止しようと試みられてはいたが,
部分的な成果しかもたらさなかった
いずれにせよ中小領主の貧困化は阻止されがたく,貴族階層としての経済的基盤を掘り崩され,実質的に支配階層から
転落しつつあった
一方,公伯諸侯では一般に長子相続制が支配的で,領土の不可分割性が確立されていたため,中小領主が直面していた
封土細分化は一応問題にはならなかったが,中小領主の経済的疲弊をもたらしたのと同じ経済的発展,すなわち領主収入の
減退は作用していた
このため,特に大貴族で問題になっていたのは,権力集中の犠牲となって貴族としての十分な経済的保障を許されず,
寄生的な生活に追いやられた非嫡子の存在だった
このような危機は12,13世紀には既に著しく進行していた
ブルゴーニュ公ユーグ3世は自領を通過するフランスやフランドルの商人に追い剥ぎを働き,ルノー・ド・マルタンは
領民の家畜や穀物を強奪し,説教僧ジャック・ド・ヴィトリは,「農民が一年間刻苦精勤して蓄える全てを貴族は一時間で
奪い尽くす」と語っている
この手の事実は,貴族の単なる横暴,好戦性を示すというよりむしろ,深刻な危機にさらされていた領主が気狂いじみた
収奪に走らねばならなかったことを物語っている
貴族の中にはイタリア商人からの負債に悩み,その封土さえ抵当に入れねばならなかった者も珍しくなかった
シャンパーニュ伯アンリ2世は43パーセントの高利でしか融資を受けられず,アモーリ・ド・モンフォールは両親を
抵当に入れねばならなかった
そんだけ.
82 :賞ヲ干メ利ヲ蹈ム兵 :03/12/27 10:04 ID:???
このように疲弊し弱体化した貴族階層によって構成されるべき封建軍が極めて維持困難だったことは言うまでもなかった
本来,封建軍は個々の貴族の自主独立的な軍事力を基盤としている
前述の給与支給も,貴族の自主的な軍事力の維持を前提としてのみ,それを補うものとしての補助的性格を持ち得た
しかし,貴族の経済的な没落は貴族の軍事力の経済的基盤を崩壊させ,同時に収入源としての価値の低下した封土は
封建的主従関係を媒介する意義すら下落させた
そして,貴族の自主的な軍事力の崩壊は彼らの軍役奉仕を基礎とする封建的主従関係を弛緩させる
こうなると,金銭給与が本来の補助費的なものから,あらゆる軍役奉仕を対象とする一般的なものへとその性質を
変換せざるをえなくなってくる
給与支給は本来の封建軍制を補強するに留まらず,その構成員に傭兵的な性格を付与することによって封建軍制そのものの
変容すら引き起こした
封建軍制において軍役義務を負う貴族すなわち封臣はもはやその義務の履行を必ずしも全うしなくなっていた
軍役免除税は史料上でも既に11世紀には存在していたが,特に12世紀以降,著しく増加していた
1274年には軍役忌避に対する罰金が規定され,1316年には軍役免除税の金額が公布されており,これらの事実は
貴族階層の少なからぬ部分が既に封臣軍召集から脱落していたことを物語っている
軍役免除税の納付と軍役奉仕に対する金銭による給与支給は表裏一体で,軍の維持を欲して給与支給の財源を求める国王や
諸侯は,むしろ軍役忌避者の免除税納付を奨励した
ここに封建軍の傭兵化への変容の起点が存在している
この時点で,貴族はもはや必ずしも軍役奉仕の直接の担い手ではなく,貴族はもはや戦士の同義語ではない
貴族は,単に一定の給与を支給されて従軍する兵士たちの供給源としての機能しか要求されなくなった
そんだけ.
83 :戦争職人 :03/12/27 10:05 ID:???
中世フランスの基本的な戦術単位は「旗団banniere」と呼ばれており,兵員数は一定していないが複数の装甲槍騎兵を
中核として軽騎兵や弩兵,槍兵等で構成された最小の諸兵科連合チームで,中核となる装甲槍騎兵の数は5〜6名以上,
14世紀以降には15〜30名以上に増加している
しかし,封臣団の無償軍役奉仕という本来の性格を失い傭兵化しつつあった封建軍は,当然その編組や指揮系統に重大な
変質を余儀なくされた
旗団の指揮官である高級騎士chevalier banneretは,もはや必ずしも上級貴族である必要はなくなった
貴族たちは政治的社会的紐帯の有無にかかわらず,自らの代理人として声望と軍事能力に優れた高級騎士を求め,
そのような高級騎士は兵員募集人としての性格を帯びるようになる
封建的主従関係ではなく給与支給によって統率されるようになった旗団において,高級騎士が隷下の兵士に対して極めて
強力な指揮権を発揮できたのは当然で,こうして野武士団の首領の無制約な指揮権に非常に類似した指揮権が封建軍内で
成立することになる
14,15世紀フランスの野武士団はこのような軍制上の変容から発生した
野武士団の発生要因は封建軍制そのものの中に準備されていたのだった
百年戦争勃発後,「旗団」はその組織的性格の劇的な変化に伴い,その名称も「兵団compagnie」へと変化する
百年戦争,1347年以降の黒死病,ジャックリーの一揆は,既に進行していたフランスの封建制の危機を更に促進させた
戦争と疫病による耕地の荒廃は農民を貧窮化させ,必然的に封建領主の窮乏を加速させた
しかも,イングランドとの戦争で捕虜になった貴族は更に深刻で,巨額の身代金は彼らの経済的没落を決定づけ,
彼らを支配階級から転落させた
15世紀の例になるが,ケルシーのレーモン・ベルナール・ド・ゴールジャックはイングランド軍によってその居城を
占領され,自身は僅か1年の間に捕虜になること5度にわたり,その身代金のために全資産を売却して破産している
そんだけ.
84 :上から下から :03/12/27 10:05 ID:???
このような危機の深刻化は,諸侯や大貴族の間で,非嫡子の権力からの排除による嫡子への権力集中を促した
当然,ヴァロア王家も例外ではなかった
1374年10月の勅令で,シャルル5世は次男ルイへの采邑地の授与,すなわち王領地の分割を認めず,
1万2000リーヴルの地代年収と4万フランの一時金を与えること,長女及び次女にはそれぞれ10万フラン,6万フラン
の一時金で満足すべきことを定めている
このような王室や公伯諸侯による権力集中は,一方で王権や諸侯権力による中小領主への侵害を伴っていた
シャルル5世が,ボージュー卿の所領のボージョレーや,ジャン・ダルマニャックの所領のシャロレー伯領で間接税の
徴収に成功したように,国王や諸侯の徴税吏はその権限を領主たちの所領に浸透させていく
多くの領主は慣例的に自己の領内で徴収される税の3分の1乃至3分の2を取得する権利を認められていたが,
そんなものは何の役にも立たなかった
こうして貴族階層の大半は軍事力の経済的基盤を喪失していった
彼らは既に各自の城塞を維持する能力すら喪っていた
要塞の修理と防衛のためにアランソン伯は1000フラン,ヴァンドーム伯夫人は600フランをシャルル5世から
支給してもらわねばならなかった
また,ラ・マルシュ伯は自領防衛のために40ランスの兵力の支援をシャルル5世に仰いでいる
その結果,シャルル5世はこのような要塞に対する監督権を強化していった
折しも,イングランド軍の長弓戦術で何度も地獄を見たフランス軍は,ポワチエ戦後,戦略方針を転換して
イングランド軍との野戦を回避し,攻城戦と局地戦を重視しつつあり,王権の要塞への介入を更に加速させた
1367年7月,シャルル5世は勅令を発し,全国の要塞の調査,要塞の防護力の強化,防備の手薄な要塞及び
その周辺地域の王領地への併合,防衛困難な要塞の即時撤去を命じている
もはやフランス貴族の自主的な軍事力の整備は死文に等しかった
既に百年戦争が始まる前から変容しつつあったフランスの封建軍制は,戦争とともに急速に解体していくことになる
そんだけ.
85 :べからず :03/12/27 10:07 ID:???
フィリップ6世以降,ジャン2世,シャルル5世等,歴代のフランス国王が対イングランド戦で用いた戦力の中核は,
一部の外国人エリート傭兵を除けば,給与の支給に頼る傭兵化した封臣軍だった
シャルル5世の時代においてもなお純粋に伝統的な封建軍は部分的に存在し続けたが,それは主にドーフィネのような
辺境地方に限られていた
むしろフランス王室は,既存の情勢を把握し利用しつつ,可能な限りの軍事力を整備し維持すべく努力を注いだ
召集を期待できる貴族の調査が全国規模で実施され,兵科に基づく給与体系が確立した
シャルル5世は兵士の日給を倍増させ,高級騎士で40スー,平騎士で20スー,騎士見習で10スー,弩兵で
5〜10スーに定めている
更に幾度も発せられた勅令において,彼らの装備と乗馬の査閲が月2回予告無しに行われることが定められていた
このような入念な施策,特に同一内容の勅令が幾度も発せられたことは,当時の軍隊が勅命を遵守せず,ややもすれば
国王の統率から逸脱する傾向にあったこと,戦術単位としての各兵団が恣意的な行動に走りやすかったこと,また,兵員数や
装備に関する虚偽の申告が頻繁に行われていたこと等を物語っている
1374年にシャルル5世が発した勅令では,各兵団長が兵員数をごまかし,部下に給与を支払わず,かつ軍の規律が
無視されていることが記されている
そして,将軍は4名の副官をそれぞれ査閲のために任命することを指示し,続いて「充分に武装して自ら出席する
立派な戦士以外は」査閲を受ける資格がないこと,これらの兵士に対して「都市や要塞において正当な価格を支払わずには
如何なる物品も手にせず,誠実かつ潔白に身を処すること」を宣誓させるべきこと,正当な理由無しにいかなる休暇も
許されるべきでないこと,軍隊に随伴する者は「軍に役立つ職人,商人」でなければ立退きを強制されるべきこと,
兵は100名の兵団に編制され,各々に兵団長が任命されるべきこと,兵団長の任命権は国王あるいはその代理人のみに
帰されるべきこと,100名の兵を率いる者は月100フランを受領し,部下が犯す無秩序の責任を負うべきこと等が
規定されていた
そんだけ.
86 :悲惨の城 :03/12/27 10:07 ID:???
このような勅令によって軍規を保たねばならなかったということは,その軍隊が実質的に野武士団の集合体と紙一重だった
ことを物語っていた
兵団長と野武士団の首領は本質的に相違点がほとんどないと考えてまず間違いない
封建軍の変質は極限に達し,もはや伝統的な封建軍は存在せず,もう野武士団への変容はあと一歩だった
ただし,14世紀においてはこの変化はまだ一般的ではなく,この時期に従軍したフランス貴族は
一般に従軍直前に軍役奉仕の契約を結び,作戦が終了すれば,一部は野武士団として略奪を続けてはいたが,大部分は
解散してそれぞれ自領に帰還していた
14世紀の野武士団におけるフランス出身者の比率は15世紀と比較すれば低い
14世紀において既に極めて深刻化していた封建危機も,まだフランス貴族の社会的経済的基盤が,野武士団に
転職しなければならなかった程には破壊されてはいなかった
封建危機が洒落にならなくなるのは15世紀のシャルル7世の治世においてだった
戦禍で荒廃したノルマンディーは言うに及ばず,フランス貴族の没落は全フランスに及んだ
ガスコーニュでも貴族の没落が著しく,プレーニャンの領主ベルトランは債務決済の能力を欠いて破門され,
プロヴァンスでは多数の乞食貴族を輩出した
一方で権力の強化と集中を推し進めていた大貴族では,ブルボン,オルレアン,アルマニャック等の諸侯のように,
非嫡子がそのツケを払わされた
従軍した貴族階層の脱落者たちは,軍事行動が終了して給与の支払が停止した後も兵団を解散することなく,
野武士団として略奪行為に走った
これは,彼らの多くが帰還すべき所領を持たず,あるいは自らの貴族としての地位を保障する収入源としての領地を
欠いていたからに他ならない
彼らにとって貴族という身分は単なる名目にしか過ぎず,実質的に彼らは貴族ではない
既に極度に弛緩した貴族間の封建的紐帯は問題とならず,彼らは純粋に戦争技術者であり,傭兵であり,もはや封建軍を
構成していた封臣とは全く別の種類の人間だった
そんだけ.
87 :苦悩の王 :03/12/27 10:09 ID:???
15世紀のフランスにおいて封建軍制は完全に崩壊し,既に変質しつつあった封建軍は多数の野武士団に解体した
そして,これら野武士団こそシャルル7世の治世において存在したほとんど唯一の軍事力だった
権力の集中を企図していた王権が軍事力集中の直接の対象としたのは,これら野武士団以外にはなかった
1365年12月,デュ・ゲクラン率いる野武士団の大軍が入国した際,アラゴン王は彼らの略奪や破壊を怖れつつ,
野武士団以外に頼みとする軍事力が存在しないが故に,彼らの来援を歓迎しなければならなかった
フランス国王もまた,野武士団のビジネスライクな性格と破壊活動を甘受し,唯一有効な軍事力として利用すべく,
心を砕かねばならなかった
ジャン・ド・ラ・ロシュは1431年4月に赦免状を与えられ,更にポアトーの代官に任命されている
また,ヴィランドランドは1432年に「フランス国王顧問侍従」の称号を与えられ,かつジャン・ド・ブルボンの娘との
婚姻を許されて王家の親族に列している
このように,野武士団の首領たちに対して多くの赦免状を発行してその罪を許し,更に高位の官職への就任を認可して
その歓心を買ったのは,このような国王の配慮に基づくものであった
しかしながら,対イングランド戦に最後の勝利を握らんとしていたシャルル7世にとって,野武士団の略奪や反抗のような
恣意的な無政府的活動を放置することはできなかった
粛清を断行し,彼ら野武士団を強力な王権の統制に服させることは緊急にして不可欠な課題となった
もっとも,こうして緒についたばかりの軍事力集中の道は決して平坦ではなく,目の前に横たわる障害の克服は容易では
なかった
そんだけ.
88 :野盗の尊厳 :03/12/27 10:09 ID:???
個々の野武士団は一個の独立した勢力であり,王権その他のいかなる権力に対してもほとんど拘束されない戦闘集団だった
自ら野武士団を指揮してシャルル7世の下で戦ったジャン・ド・ビュエイユが晩年に著した歴史物語「ル・ジュヴァンセル」
は野武士団の貧乏ながら大胆な貴族たちの物語だが,その中で登場人物の一人にこう言わせている
「生まれながらの貴族でない者も,それ自体高貴な軍務の訓練によって貴族である
その素性の如何を問わず武器は人物を高める」
このような自負と自信,武器を手にする生活への絶対的な信頼は,彼らが構成する野武士団の自主独立性に由来していた
この物語の中で,野武士団に身を投じた貴族たちは,直接従軍しない国王側近の貴族に対して軽蔑を隠さない
国王の許への出仕を希望するある青年に,野武士団の先輩は次のように語っている
「お前は馬鹿げた真似をしたいのか
御殿でとりとめもないお喋りをしたり,お上品なシャッポ,でかい頭巾,流行の帽子を被ったお上品な連中と
お付き合いするより,我々の仕事のほうがはるかに立派だ」
このような野武士団の旺盛ではあるが奇妙な自尊心にもかかわらず,一方で権力への接近を求める傾向が多少なりとも
存在していたことは否定できない
また,フランス土着の貴族にとって,王室との直接間接の封建的紐帯が彼らの独立性をある程度制限していたことも
まず間違いない
しかし,この時期の極度に弛緩した封建的紐帯が,彼らの無拘束で恣意的な活動を完全に制御する能力を喪失していた
こともまた事実だった
そんだけ.
89 :争議 :03/12/27 10:12 ID:???
野武士団は,必ずしも直接に国王に雇用されていた訳ではなく,むしろ彼らは諸侯や有力貴族に,しかも前述の
ヴィランドランドやジャン・ド・ラ・ロシュのように,転々と雇用主を変えて雇用されるほうが多かった
このような場合,当の諸侯や有力貴族が国王と敵対関係にあれば言うまでもなく,例え国王と友好関係にあったとしても,
彼らが雇用する野武士団と国王の間の軍事統帥権は間接的なものに過ぎなかった
1424年にブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンとシャルル7世との間で,両派の野武士団が占領する全要塞の
国王への明渡しを定めた休戦条約が結ばれた際,ブルゴーニュ党に属していたペリネ・グレッサールは,国王と
ブルゴーニュ公の説得にもかかわらず,自らの預かるラ・シャリテ城の明渡しを頑強に拒否し,更にブルゴーニュ公に
使したラ・トレモイーユをその途上で捕らえて1万4000リーヴルの身代金を課した
その後1436年に彼はようやくシャルル7世と和解したが,その代償として国王は彼をラ・シャリテの守備隊長に任命し,
毎月400リーヴルの給与を与えねばならなかった
そんだけ.
90 :無賃 :03/12/27 10:13 ID:???
多くの野武士団に対して本来このような間接的な主従関係しか持ち得なかった国王による野武士団の直接的な掌握,
即ち王権の絶対的な軍事統帥権の確立による軍事力の集中への試みは,当然,野武士団を雇用することで直接的な
軍事統帥権を握る個々の諸侯や有力貴族の抵抗を覚悟しなければならなかった
当時のフランスでほとんど唯一の軍事力である野武士団を独占集中せんとする企図は,必然的に諸侯たちからの軍事力の
収奪を意味するからだった
しかし,軍事力集中を目指す王権にとって最大の障害は,野武士団の独立性や諸侯の抵抗よりも王室の財政難にあった
財政逼迫故に少数の野武士団しか雇えず,しかも彼らへの給与は不十分で,時には金庫の中身が完全に枯渇して給与の
支払が停止され,いずれにせよ野武士団の略奪を黙認せざるを得ないような状態では,全野武士団の活動を王権の拘束下に
置くことなど不可能だった
ある「追い剥ぎ」に与えられたシャルル7世の赦免状によれば,その者は「若いときから我が軍に属して従軍し,宿年の
敵イングランド軍及びその他の敵と戦い,しかもその従軍期間中,給与も報酬も精々ほんの僅かしか支給されず,この理由の
ために敵味方の区別無く犠牲にして略奪に走ることを余儀なくされた」のだった
そんだけ.
91 :grande ordonnance :03/12/27 10:14 ID:???
1439年11月2日,シャルル7世は,オルレアンに会する三部会の承認を得て「大勅令」を公布した
国王のみが軍隊を召集し兵団長を任命する権限を持つこと,貴族はただ各自の要塞の守備隊を保有する権利のみ
許されること,兵の大部分は解雇され,有能な者のみ軍役に留まること,各兵団長はそれぞれの兵団について定められた
兵員数を正確に維持し部下に対して責任を負うべきこと,国王の雇用から漏れた兵団及び略奪を行った兵は草の根分けても
追い詰めること,そのために平民が彼らの略奪と襲撃を武力で撃退する権限を許されること,以上を貫徹するために
不可欠な財政的措置として,徴税の権限もまた国王の独占に帰するべきこと,すなわち領主は各自の領民に対し慣習的な
負担以上を課することを禁じること
以上が「大勅令」の骨子だったが,その発布が直ちに効果を上げた訳ではなかった
直ちに施行されたのは,国王に属する各兵団が配置されるべき要塞の決定と,その一月分の給与に該当する資金の調達
だけだった
ジュヴネル・ド・ジュルシンが言っているように,「多くの勅令が作られるが,それは文書が公布されるだけ
全く馬鹿げたこと,嗤うべきこと,王にとって不名誉なこと」だった
しかも,その内容自体も決して目新しいものではなかった
一般に王権による軍事力独占の試みは,1314年及び1320年に貴族による軍隊動員権の要求を受けて必ずしも
達成されなかったが,既に14世紀初頭に行われていた
特に,1374年のシャルル5世の勅令は,軍隊の厳正な軍規の維持を求める点で類似の内容で,シャルル7世の大勅令は
むしろシャルル5世の時期の軍制の再現を当面の目標としていたと考えられている
ただし,大勅令の要旨である,封建貴族からの軍事権の収奪による国王の独占的な軍事統帥権の確立,兵団すなわち
野武士団の粛清と軍紀の粛正,その物質的基盤としての徴税権の独占は,軍事力の集中独占の全過程そのものを示している
換言すれば,この勅令はフランス王権による軍事力の集中の全プログラムの集約的表現だった
例え直接的には野武士団の耐え難い横暴と対イングランド戦争遂行の必要性から生じたものであるにせよ,シャルル7世の
軍制改革はこのプログラムの忠実な履行によってのみ達成されたのである
そんだけ.
92 :叛 :03/12/27 10:15 ID:???
勿論,シャルル7世の軍制改革の道程は容易ではなかった
軍事権の収奪とそれに並行する徴税権の剥奪の危機に怯える諸侯や有力貴族と一部の野武士団の激しい抵抗が
起こるべくして起こった
シャルル7世に対する諸侯たちの反抗は,既に1435年のアラスの休戦の直後に芽生えていた
政治的野心から王権を利用するために,または必要に駆られて年金その他の贈与を国王から獲得するために宮廷に
接近しようとする諸侯たちと,国王の側近で排他的優越的な地位にあったメーヌ伯シャルル・ダンジューやリッシュモンとの
軋轢がその直接の動機だった
しかし,1437年4月,ブルボン公シャルル1世,アランソン公ジャン2世,ブルターニュ公ジャン5世,
アンジュー伯ルネ,アルマニャック伯ジャン4世ら不平貴族が企てた反乱は,国王軍の迅速な行動によってあっけなく
失敗している
更に1439年の大勅令はこれら諸侯の神経を逆撫でし,しかもこの軍制改革案によって存在を脅かされた「追い剥ぎ」
も反国王陣営に加わることになる
先の不平貴族たちに加えてヴァンドーム伯,ラ・トレモイーユ,デュノアが参加し,ジャン・ド・ラ・ロシュ,
アントアーヌ・ド・ジャバンヌ,ブルボンの庶子アレクサンドルらの率いる野武士団が加わり,その上更に彼らは
太子ルイを擁立した
いわゆるプラグリーの乱である
1440年2月に始まったこの戦争は終結に数ヶ月を要したが,国王とリッシュモンの軍隊は反乱軍の拠点ポアトーを
制圧し,更にオーヴェルニュを席巻した
結局,国王はルイにドーフィネの領有を許し,ブルボン公に1万5000リーヴルの年金を約するなど不平貴族に対して
慰撫に努めなければならなかったが,ともかく王権に対する反抗は失敗に終わった
そんだけ.
93 :黄金で埋め尽くす :03/12/27 10:16 ID:???
プラグリーの乱以降も諸侯の反抗は根絶されたわけではなかった
1442年2月に,今度はブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンとオルレアン公シャルルの主導のもと,ブルターニュ公,
ブルボン公,アランソン公,ヴァンドーム伯,ユー伯,ヌヴェール伯らほとんどの諸侯がヌヴェールに会して国王に対して
要求を突きつけている
しかし少なくとも者シャルル7世の治世において貴族たちの集団的反抗はこれが最後となった
この時点で,シャルル7世の軍制改革に対する障害の一角は崩壊した
もっとも,これには買収,年金の付与,徴税権の部分的許容等,国王にとって少なからぬ経済的負担を要求した
アランソン公とデュノアは買収されて不平貴族の列に盃を返した
ヴァンドーム伯,ラ・マルシュ伯,ユー伯,フォア伯は6000リーヴル,ヌヴェール伯は8000リーヴル,
アングレーム伯は1万1000リーヴル,アランソン公は1万2000リーヴル,オルレアン公は1万8000リーヴルの
年金を得た
また,オルレアン公は16万8900エキューの間接税徴収権を獲得した
しかし,不平貴族に対する徹底的な懐柔によってこの最後の反抗が慰撫されて後は,貴族はもはや激しい抵抗をほとんど
示さなくなった
それでも抵抗の姿勢を見せた貴族は皆無ではなかったが,今度は国王も容赦しなかった
シャルル7世の治世末期に若干の抵抗を見せたアランソン公は1456年に,アルマニャック伯は1460年に,それぞれ
所領を没収されることになる
そんだけ.
94 :兵隊は野を駆け王様は謀を巡らせる :03/12/27 10:17 ID:???
諸侯に対する王権の強化と並行して,他方では野武士団の粛清と掌握が進行していた
1441年,シャンパーニュに軍を進めたシャルル7世は,ブルボンの庶子アレクサンドルをはじめ野武士団の
首領十余名を処刑し,更にヴォークルールでも野武士団の首領ロベール・ド・サルブリュックを処刑した
しかし,真に処罰に値する野武士団の多くは国王の追求を逃れて依然として各地を横行しており,この粛清行は極めて
部分的な成果しかあがらず,しかも1444年5月のツールの休戦は,更に新手の野武士団を野に放った
やはり,かつてデュ・ゲクランが行ったやり方,すなわち野武士団を国外の戦争に連れ出す以外に有効な手はなかった
チューリヒの裏切りに激怒するスイス誓約同盟諸都市とチューリヒを支援する皇帝フリードリヒ3世との抗争,
アンジュー公ルネとメッツとの債務を巡る紛争が絶好の機会を提供し,シャルル7世は,「秩序と軍紀が殆どまたは全く
保たれない兵士たちを集め,自らメッツとロレーヌに向かおうと決心した」
野武士団は当時のフランスに存在するほとんど唯一の軍事力であり,従って彼が企図する軍事力集中の唯一の対象でも
あったから,国王は野武士団を国外で無駄に消耗させようと考えていたわけではなかった
国王は,皇帝や諸侯の軍資金負担を利用して暫時野武士団を国外に誘導し,その活動によってロレーヌ諸都市の制圧という
年来の野望を達成するとともに,軍制改革の準備のための時間を捻出しようとしたのだった
1444年7月,ラングルに集結した野武士団の大軍約4万は,太子ルイに率いられてスイスに入り,8月26日,
ザンクト・ヤーコプでスイス誓約同盟軍1500と衝突した
この戦闘は後にヨーロッパ中で恐怖と憎悪で語られることになるスイス槍兵密集陣のデビュー戦となったが,ともかく
この戦闘でスイス軍を皆殺しにしたフランス軍は,10月に誓約同盟と和解した後にアルザスに転進し,翌年4月まで
アルザスに留まって暴虐の限りを尽くした
一方,国王が直率する軍勢も1444年9月にロレーヌに侵入し,翌年2月の和約までメッツ周辺を略奪し,2月以降も
なお数ヶ月にわたってこの地方の諸都市を攻撃した
そんだけ.
95 :compagnies d'ordonnance :03/12/27 10:17 ID:???
この間にナンシーに滞在していたシャルル7世は,1445年初頭以降,元帥リッシュモンをはじめ,アンジュー公,
クレルモン伯,フォア伯,タンカルヴィル伯,デュノアらの協力を得て,軍制改革の準備を始めた
速やかに野武士団の粛清を行い,同時にこの休戦期間中に国王直属の常備軍を編成することが計画された
既に内密に国王軍への雇用を保障されていた主要な野武士団の首領たちは,予想される他の野武士団の反抗に率先して
対抗することを約束していた
4月にはリッシュモンは自らロレーヌに赴いて信頼できる野武士団に国王への忠誠を誓わせ,またアルザスから帰還した
軍勢にも同じく忠誠を宣誓させている
この根回しはものの見事に成功し,計画は期待を裏切って支障なく運んだ
国王の常備軍への雇用に漏れた野武士団には,過去の悪行の特赦令が発布され,同時に武装解除と兵団の解散が
命じられたが,彼らにはもはやこれに抵抗して武力蜂起を試みるだけの力も意志もなかった
残る課題は雇用を約束された野武士団の国軍への編入で,その詳細は1445年5月26日の勅令で規定された
フランス陸軍は15個の兵団からなり,各兵団はそれぞれ100ランスで構成するよう定められた
ランスの定数は時代と場所で一定ではないが,この時期の一般的な構成は装甲槍騎兵1名,剣または槍兵1名,弩兵2名,
従僕1名,小姓1名の計6名で,少なくともフランス軍の法規上の総兵力は9000に達した
しかし実際には,各兵団隷下のランスの定数及びランス内の兵員数は必ずしも規定量には達していなかった
このため,兵団数を当初の15個から20個に増加することによって兵力の不足を補い,更に1446年にこの規定を
ラングドックにも拡張適用して新たに5個兵団を追加し,総兵力は1万程度にまで増強されている
軍はランスを単位として要塞や都市に分散配備され,それぞれの地方の住民が負担する租税によって維持され,通常,
1ランスにつき毎月30リーヴルの給与を支給された
各兵団長の任命権は国王が独占し,王の官吏は給与の支給に先立って各兵団の兵員数を検閲し,駐屯地を巡って軍紀違反を
罰した
そんだけ.
96 :francs-archers :03/12/27 10:18 ID:???
こうして成立した新しい軍隊「勅令騎兵団」は,直接的には対イングランド戦に備えて創設されたものであり,
戦後も永続的に維持されるかどうかは怪しいものだったが,間違いなくフランス最初の常備軍だった
かつての軍事統帥権の拡散に終止符を打ち,軍事力の集中はようやくその最初の成果を得た
ただし,シャルル7世の軍制改革は勅令騎兵団の創設のみを指している訳ではなかった
1448年4月28日の勅令で組織された「自由弓兵」は一種の民兵制度であり,弓または弩の操作を修得した壮丁を
各小教区から1名乃至数名の割合で集め,戦時召集に備えて祝祭日に訓練を強制した
その代償として,自由弓兵は戸別税を免除され,召集中は月4フランの給与を支給された
装備は各人の自弁が原則だったが,1451年以降は貧しい兵に対しては各小教区が費用を負担するようになっていた
しかしこの制度は,フランドルやアルトアを含むブルゴーニュ公領,更にブルターニュ,ラングドック等をその適用範囲
から除外し,しかも徴兵官の恣意と不正もあって,シャルル7世の治世にはその総兵力は8000を超えることはなかった
その上,こうして編成された自由弓兵は,現代では国民兵の先駆けとして過大評価されてはいるが,実戦では
余り役に立たなかったと言われている
例えば,サンリス出身のある弓兵は,自身が軍役に適さないにもかかわらず,専ら戸別税の免除を目的とした強欲な
老人だった
ルイ11世は自由弓兵の徴募率を50戸につき1名に引き上げて総兵力を1万6000に増員させたが,その治世の
末期にはこれを疎んじて一時この制度を廃止している
結局この制度は約1世紀間にわたって細々と維持されたが,1535年12月24日の布告によって最終的に廃止され,
類似の民兵制度「レジョン」が後を継いでいる
そんだけ.
97 :compagnies de petite paye :03/12/27 10:19 ID:???
更にシャルル7世の治世中には,「薄給騎兵団」と呼ぶしかない特殊な軍隊が存在していた
勅令騎兵団の総兵力は1万を上回り,うち戦闘員は7000程度に達していたが,やはり兵力不足は否めなかった
このため,1449年に対イングランド休戦期間が満了した直後に徴募されたのがこの薄給騎兵団だった
これは勅令騎兵団への編入に漏れていた貴族や非貴族階層で構成された軍勢で,その名称のちょっと嫌なイメージに
反して編制や運用は勅令騎兵団と変わらなかったし,兵員の装備訓練も勅令騎兵団に伍するものだった
その地位も勅令騎兵団の補助部隊ではなく,実質的に勅令騎兵団と相互連携しつつ行動する独立した作戦単位であったが,
その名の示すように給与の額は幾分低かった
ただし,薄給騎兵団は勅令騎兵団に比して非貴族階層の比率が高く,この点で過去のシャルル5世の時代の典型的な
傭兵的封建軍に近かった
勅令騎兵団では,中核兵科である騎兵のみならず,本来平民の兵科と目されていた弩兵や槍兵にも貴族階層出身の兵が
数多く見られ,過去の純然たる封建軍よりも貴族的な軍隊だった
これは,勅令騎兵団の母胎となった野武士団にフランス貴族が多く存在していたことが原因だと考えられる
また,勅令騎兵団への入隊を機に貴族の身分を許された非貴族階層出身者も珍しくなかった
少なくとも,非貴族階層の入隊を制限して勅令騎兵団を貴族階層で独占することを意図するような史料は存在していない
そんだけ.
98 :徒花 :03/12/27 10:20 ID:???
シャルル7世は,野武士団化した貴族を再編成し,野武士団固有の傭兵的性格を払拭することによって比較的安定した
常備軍である勅令騎兵団を創設した
14世紀後期に登場した歩兵の携行火器である手銃は15世紀中頃にはアルケブスへと発展し,15世紀末には
ヨーロッパ中に急速に普及した
16世紀中頃には銃兵と槍兵を連携させる運用と実績が蓄積され,野戦戦術に大きな変化を促すことになる
一方で中世伝統の騎兵突撃に頼る旧態然とした戦術と,騎兵中心のランスという昔ながらの古い戦闘単位で編成された
勅令騎兵団はしかし,なおも戦場で自らの戦術的有効性を証明し続けた
1543年,フランス軍が銃と槍で改編された時でさえ,勅令騎兵団は野戦軍の主要な一角を占め続けていた
勅令騎兵団は騎槍をホイールロックピストルとサーベルに持ち替えて,ヨーロッパで装甲槍騎兵の戦術的価値が消滅した
16世紀末以降も存在し続け,最終的に17世紀中頃まで生き延びた
しかし,シャルル7世の軍制改革の主眼としていた,選抜された常備野戦軍としての勅令騎兵団が成功したとは
言い難かった
軍事力整備の重点は,常備軍ではなくフランス内外から徴募された純粋な傭兵へと移行しつつあった
16世紀以降,フランス国王の軍隊は,スイス槍兵,ランツクネヒト,イタリア軽騎兵等の外国人傭兵の比率が著しく
上昇する
軍事能力に定評のあるこれらの外国人傭兵こそが,職業的な兵士を中核とする絶対主義の軍隊の主力を占める
かけがえのない存在だった
シャルル7世の常備軍構想は,絶対主義への傾斜を辿るヨーロッパ王権の軍事力集中の最初の成果でありながら,
皮肉にも絶対主義の成立と前後してその軍事制度から排除される過渡的な運命を担うことになる
そんだけ.
99 :stipendarii milites :03/12/27 10:21 ID:???
早くもシャルル7世の治世下で常備軍化への途を模索したフランスの軍制と対照的に,イギリスではかなり後になるまで
名実ともに傭兵が軍事力の主流を占め続けた
封建軍制の確立するノルマン征服以降の中世イングランドでは,ヘイスティング戦で既に傭兵の活動が認められており,
初期ノルマン朝期には既に傭兵は普遍の軍事力としての地位を確かなものにしていた
封建的無秩序が支配したスティーヴンの時代を契機として,続くプランタジネット諸王の軍隊にはブラバントや
フランドル出身の傭兵が大量に参加していた
ヘンリー2世,リチャード1世の大陸での長期にわたる軍事作戦を遂行した軍勢を構成していたのも傭兵だった
1204年のノルマンディー喪失後の大陸傭兵軍の本国召請はジョン王の不評の原因の一つに挙げられている
マグナ・カルタの一条には,戦後「王の不名誉たるべき」「外国人騎士,弩兵,傭兵」の即時追放が規定されているが,
ヘンリー3世の治世下でも傭兵は大量に使用されていた
外国人傭兵の役割が減少したと言われているエドワード諸王の時代からランカスター,ヨークの治世にかけての百年戦争,
薔薇戦争等には,また別な形態の傭兵制,いわゆるインデンチュア制が広汎に採用された
イギリスに一応常備軍の萌芽らしきものが形成されるのは,1645年,市民革命下のニュー・モデル・アーミーまで
待たねばならないが,この期に及んでもまだイギリスの絶対王政は傭兵軍を頻繁に使用していた
1547年の対スコットランド戦では,サマセット摂政はスペインとイタリアの傭兵を大量に動員した
1549年のケットの反乱では,ノーサンバーランド麾下のドイツ人傭兵1400が反乱の鎮圧に投入されている
三十年戦争では多くのイングランド人がドイツ諸侯の傭兵として続々と海峡を渡った
市民革命において,議会軍,王党軍の中核をなしていた志願兵の多くは,大陸の戦線から帰還した古参の傭兵,
クロムウェルが言うところの「腐れ切った給仕人」だった
そんだけ.
from 101
2003/12/27
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