c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
【質問】 ヨーロッパにおける傭兵制度の進展について教えてください.
<◆中世欧州総記
<戦史FAQ目次
【質問】 ヨーロッパにおける傭兵制度の進展について教えてください.
【回答】
絶対主義時代における傭兵制度については,19世紀の軍人たちが専ら国民軍の見地から盛んに批判的に論じており,彼らの見解は現在においても有力な定説と目されている.
そして,その中には傭兵制の歴史的過程をかなり明確に指摘しているものもある.
「戦争は政治の一手段である」と身も蓋もなく言い切ったクラウゼヴィッツは,その著書「戦争論」の中で次のように述べている.
「封建制度は漸次に衰退し,統一的領土国家が形成され,国家的結合は一層緊密になり,身分上の服従関係物質上の関係に変じ,ついで金銭関係が漸次に大多数の関係を支配し,封建的軍隊は給金を給付される軍隊となるにいたった.
傭兵制度はかかる変化への過渡を形成するものであって,従って一時は大国の器械ともなった.
しかしそれは長くは続かなかった.
短期の契約で雇用された兵士は,常設的な軍隊に変じ,国家の兵力は今や,国庫の負担をもって設けられた軍隊によって維持されることになったのである」
そしてクラウゼヴィッツは,アンリ4世の治世には封建軍と傭兵と常備軍の三種類の軍隊が並用され,その後,傭兵は三十年戦争の頃まで残存し,18世紀においても僅かながらその存在の痕跡を認めることができると述べている.
確かにクラウゼヴィッツが指摘するように,近世初期の傭兵制は一時的偶然的に成立したものではなく,封建制の解体と続く絶対主義の確立と密接な関係をもって成立した産物であった.
傭兵制はクラウゼヴィッツが主張するように封建軍から常備国民軍への過渡的形態に他ならないとしても,その過程は彼が言う程に短期のものではなく,またそう単純でもなかった.
そんだけ.
money-fief
正規の,もしくは純粋な意味での封建軍は,封土を媒介して成立した軍事的主従関係を基礎として成立する.
この場合,軍役奉仕すなわち出軍義務には時間的空間的な制約条件が付加されていたが,臣下が軍役免除金を支払って軍役を免れる慣行もまた存在していた.
ドイツ皇帝フリードリヒ・バルバロッサは,イタリア遠征の際にこの免除金によって現地傭兵を大量に調達できた.
このような軍役免除金の慣行は,他面においては金銭を支給されて軍役奉仕を行う者の存在を示唆している.
彼らは,封建軍の中ではいまだ「給金を支払われている補助軍」的な存在ではあった.しかるに,この手の「補助軍」的な存在が封建軍の中で次第に幅を利かせるようになると,封建制の紐帯とも言うべき封土が金銭化するようになっていく.
最も注目すべき点は,これらの金銭が主君からの恩恵としてではなく,正当な労働に対する報酬としての意味が強いことで,これはすなわち封建的主従関係の希薄化を意味していた
こうして封土による主従関係を基として成立していた封建軍は大きく変化を見せる.
軍役提供に際して土地を担保に金銭を授与するようになり,封土よりもむしろ金銭の授与に重点が置かれるようになる.
こうなると出陣のために金を払うことと封土にかえて金を与えることの差がなくなり,一人で複数の主君に対して軍事的な主従関係を結ぶことも,また全く封建的主従関係にない人間のために金銭の獲得を目的に軍事奉仕を提供することも可能になってくる.
このいわば「傭兵化した封建軍」は,14世紀のヨーロッパ諸国で広く見られるようになっていた.
そんだけ.
契約戦士
この「傭兵化した封建軍」においては,封土が金銭に変わってはいたが,いまだ主従の間には封建的身分関係が明示されており,それに基づいて一定の契約金が付与されていた.
故に「傭兵化した封建軍」の傭兵化がどれだけ進展したとしても,純然たる傭兵軍とは言い難い.むしろ傭兵軍は封建制の崩壊を伴って出現した封建関係の崩壊の過程で伝統的な主従関係を喪失した貴族や騎士を中心に農民や下層民をも加えた一個の武装集団が,封建社会解体の混乱期に形成された.
彼らは言うなれば一種の野武士団,盗賊騎士団であり,各地に散在し,専ら金銭の獲得を目的として求めに応じて有力諸侯に雇用されて従軍した.
戦争を商売とするこの集団は有利な条件を求めて諸侯,君主とも雇用契約を結び,平時には一種の失業状態に陥って略奪を行うこともあった.
この手の傭兵集団は,14世紀のドイツではrittergesellschaft,百年戦争期のフランスではcompagnie,15世紀のイタリアではcompagnie
di venturaと呼ばれて悪名を流しまくった.
これらの傭兵軍はどれも雑多な階層で構成されており,騎士身分の下級貴族がその中核をなし,それに郎党,奴隷,農民,職人等が参加していた.
しかし時には有力貴族の庶子や次男三男も多く参加しており,諸侯が高額な契約金をもってこのような傭兵集団を雇用していたという事実と相まって,封建制の危機の深刻化を物語っている.
そんだけ.
悪党と手を結ぶ
封建危機の進行は,封建制の国家規模での再編成によって,絶対主義体制の確立により一応の克服を見た.
政治的に見れば,混乱した封建秩序を再建し強力な絶対主義を築き上げるために,第一に軍事力の集中強化が要求された.
傭兵軍は封建的秩序の混乱を体現した忌むべき存在ではあったが,皮肉にも同時に当時唯一の頼みとなる軍事力でもあった.
王権はこれを整理統合し,自己のみに所属する軍隊を編成することにより,絶対王権形成のための軍事力の集中を図った.
こうして,傭兵軍はいわば常備軍化していく.
フランス王シャルル7世の編成した軍隊は,封建的要素が色濃く残るものの,同時にこうした常備軍的性格をもつものでもあった.
また15世紀のイギリス軍は,全国的統一規模のものではなく,有力諸侯によって編成された軍隊であったが,やはり常備軍としての要件を備えていた.
勿論,このような常備傭兵軍による軍事力の集中を可能とするためには,その物的基盤を保証する王室または諸侯の財政の充実が前提となっていた.
王領からの収入のみならず,臨時税や間接税,戸別税等の様々な徴税権の独占が同時進行していた.
更にその常備傭兵軍の中核が貴族や騎士と呼ばれる階層で構成されており,根底には封建的性格が根強く残っていた.
しかし,絶対主義下の軍隊が全てこの常備傭兵軍によって構成されていた訳ではなかった.
常備化された傭兵集団は間もなく,壮丁の徴募兵と俸給制度を基礎とした常備軍へと改編され,純粋な意味での常備傭兵軍は,主に外国人傭兵部隊として存続した.
例えばフランスでは伝統的に,スイス人とドイツ人で編成された部隊が維持し続けられた.
無論,これらの他にも僅かではあるが純粋な封建軍も存在していた.
しかし,いずれにせよ絶対主義軍隊が傭兵的性格が濃い常備軍であったことは否定できない.
そんだけ.
新義ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀,制禁ノ事
盗賊騎士団はその社会的立場と成立の経緯から,当時の封建社会と異なる一種独特の組織的体質を有していた.
前述の1328年に盗賊騎士団が皇帝と交わした傭兵契約によれば,イゼンブルクのヨハネス以下25名にのぼる多数の人物が,皇帝と契約を結び,しかも彼らが,「我々自身と我々の仲間全員のために」と言明していることから,盗賊騎士団が封建的階層秩序を止揚した,いわば成員の平等を原則とする同志的結合とも呼ぶべき代物の上に成立していることが推察できる
さらに,フリードリヒ1世バルバロッサが1158年に発した勅令では,「都市の内と外,都市と都市,私人と私人,あるいは都市と私人の間に結成される集団,あらゆる誓約団体は,血縁的結合をも含め,いかなる形のものであれ,余はその結成を禁止し,既に成立したものに対してはこれを解散せしむるものである」と述べ,かかる同志的結合集団が,既にこの時期に発生していたことを示唆している.
同様のことが1224年のフリードリヒ2世の治世の際にも発生している.
フリードリヒ2世の忠実な封臣リバルドゥスの従士たちが,ハウスブルク渓谷に拠り,誓約によって成立する団体や同盟のごときものを勝手に結成しようとした.
その団体の中にはリバルドゥスの軍事力の中核を担っていた従騎士が多く参加しており,しかもあろうことか,彼らがこの団体の指導的立場にあったことから,処置に困ったリバルドゥスはそのような団体の結成の可否についての裁決を皇帝に求めざるをえなかった.
これに対し,フリードリヒ2世は自らの許可無しにいかなる団体の結成をも禁ずる決定を下している.
このように,従士たちが領主を除外した誓約によって,恐らくは各自平等の立場から結成した団体を,そのまま盗賊騎士団と同一視することは出来ないが,彼らが容易に放浪して盗賊騎士団へと変容していくことは十分に推測できる.
そんだけ.
義理と人情の渡世
しかしながら,盗賊騎士団の同志的結合と呼ぶべき性格は,いわゆる高度に理念化されたものではなかった
前述の年代記の記述でも見られるように,彼らは幾度も離合集散を繰り返し,しかもそれは何らかの金銭的な利害と常に絡み合っていた.
このことは,彼らの同志的結合が,より刹那的でかつ極めて稀薄な性質になる傾向にあったことを示している
つまり,盗賊騎士団内の封建的階層秩序を否定するという性質が,成員の金銭的利害の一致という一時的な動機によって導かれているということ,そしてこの金銭的利害こそが彼らの組織の本質を決定していたことを意味している.
盗賊騎士団が戦闘員の他にも家族をはじめ多くの非戦闘員を含んでいたのも,また騎士身分のみならず雑多な階層で構成されていたことも,このような組織的性格を前提としていたからである.
盗賊騎士団の利害追求型同志的結合は,妻子や売春婦のような非戦闘員のみならず,金銭的利害を媒介することによって一般の都市民や農民,下層民をも積極的な戦力要素として内に取り込むことになる.
かのジョン・ホークウッドもその出自は鞣革業者の息子だったと言われている.
いずれにせよ,盗賊騎士団は従来の封建軍隊の中核をなしていた封臣軍とは全く別の種類の軍隊だった.
そんだけ.
戦争の犬のプロ
ケルン年代記によると,1228年に,ブラバント公ヨハネスとゲルレンス伯レイノルトの不和が募り,遂に両者が戦争準備をはじめたことについて次のように記されている
この際,
「ブラバント公ヨハネスは,ケルン市民及びその他の多くの貴族や従者に報酬を与え,味方に引き入れた.
これに対してゲルレンス伯レイノルも,多くの者を味方にしたが,彼らは各地で行われた種々の戦争に熟練している連中であった」
「種々の戦争」というものが,大軍同士による野戦というよりむしろ,小規模な攻城戦や小部隊による襲撃,伏撃,略奪といった小競り合いであり,そしてその手の小競り合いに「熟練している連中」が容易に盗賊騎士団に身を投じる存在だったことは言うまでもない
しかし一方で,この係争にケルン市民もまた報酬を得て参加していることを考えると,この戦争熟練者の中に,民兵としての経験にものをいわせて盗賊騎士団にその身を託することによって,ようやく生計の途を見出した都市部の下層民が含まれていたことが推定できる
15世紀以前の都市における階層分化が,具体的にどのようなものであったかは明らかではないが,多かれ少なかれ,時代が下るにつれて都市民間の貧富の差が顕著となって,貧困化無産化が進行する傾向にあった
特に,アウグスブルク,ゲールリッツ等の商業と輸出工業が発達した都市では,この度合いが極めて深刻で,社会構造全体において安定性に欠けていた.
少なくともケルンのような大都市では,このような傾向が早い時期から存在し,その内部に相当数の無産下層民を抱え込んでいたと考えられる
特に,1329年のブレスラウ,1351年のシュパイエル,1392年のハルシュタット及びラウフェンで,それぞれ職工が賃金問題を巡ってストライキやサボタージュや一揆を起こしていることは,ギルドの閉鎖性が強化された結果,生計の目途が立たずにランツクネヒトに身を投じた15世紀末の遍歴職人のように,既に14世紀において盗賊騎士団に身を投じて熟練兵となる以外に生きていく方策のない下層民が,都市の内部に相当数潜在していたことが推測できる.
そんだけ.
手に持つ鋤を槍に替え
農民であっても事情は変わらなかった
1244年,バイエルンのラント・フリーデは,次のような布告を行って農民の武装に制限を加え,騎士と農民の間に明確な一線を画そうとした
「農民及び彼らの息子は,教会に行く場合に限って,鉄兜,鉄帽,革鎧,両刃の短剣,鎖鎧その他の軍装を着用することを許可する
農耕に出る場合には,短いナイフと鋤だけしか携行してはならない
帯剣できるのは家長のみで,その他の者には許されない
ただし,犯罪人を捕縛し,外敵の侵入を防ぎ,国の危難に備えるために必要なものは,欲すれば如何なるものであれ,家の中に貯蔵してもよい」
しかし,このような12世紀の身分法思想の名残はすでにこの時代においてはほとんど消滅していた
前述のエッセン女子修道院長が1328年に発した布告では,「悪しき人々の攻撃」によって苦難に陥った修道院領の農民を守るため,「領民にして,馬,甲冑その他の武器を所有する者があれば,その馬や武器は所有者の死後もエッセンの防備のために子孫または相続人の手に保有されるべきである
余も余の役人も,かかる馬や武器を遺産相続やその他の理由によって没収してはならない
また何人も,これらの馬や武器を負債の故をもって差し押さえてはならない」と規定されていた
盗賊騎士団が横行した14世紀では,むしろ農民の武装化は強化される傾向にあり,これは逆に農村部の下層民が,容易に盗賊騎士団に身命を売り渡せたことをも意味していた
特に農民戦争期のドイツ南部では,農地の細分化と農民の小作農化貧農化が進行したが,14世紀においても,このような傾向は既に認められていた
正業をもってしては生活し得ない貧困小作農にとって,盗賊騎士団が極めて魅力的な職場となったのは当然だった
そんだけ.
赤貧の騎士
これらの都市民や農民の下層分子を組織し取り込んだ盗賊騎士たちも,何も好き好んで放浪していた訳ではなかった
この時期に出現したテリトリウム(領邦制)国家の形成は,それ以前に存在していた個々の権利の集積ではなく,かつてのインムニテート(不輸不出権)圏の散在性を否定し,隣接地に対してはインムニテート圏の不当な拡大,新しい特許状の獲得,売買,交換に対し,広汎な封鎖地域を形成し,そこに新しい権力原理による統一主権を確立しようとするものであった
大グルントヘル(荘園領主)が領邦領主へと変貌していく反面,他者はそれに服属していった
領邦国家を作ることができなかった大土地所有者は領邦領主の主権にとっては障害物であり,消滅する運命にあった.
この場合,地代収入の減少や公権利の消失は彼らの没落を早めた.
このような競合関係が生じた際に,こうした抗争に巻き込まれた小土地所有者である騎士階級は,新しい領邦領主に従属するか,または盗賊騎士団を結成して各地を放浪するかしかなく,いずれにせよ没落の道を避けられなかった.
騎士身分で領邦領主となった事例は僅かしかなく,14世紀には,同一家系の出身でありながら,ある者は騎士として生活していたのに対し,他の親戚は農村や都市で労働に従事しているような例さえ少なくない.
無論,全ての盗賊騎士が土地を失ってしまった訳ではなく,盗賊騎士団の中には一定の根拠地を持ち,そこを基点に各地で活動した集団も少なくなかった.
しかし,いずれにせよ領邦成立に伴う経済変動によって,騎士たちが彼らの土地からの収入のみを頼りにして満足な生計を立てられなくなっていたことは明らかであり,そこに彼らの没落の原因があった.
更に,種々の事情で土地を手放さなければならなかった場合,彼らの没落はより凄まじかったに違いない.
そんだけ.
支配者の剣
前述したように,領邦国家の出現により,下級貴族である騎士は大別して二つの選択を迫られた.
領邦に隷属した騎士は,後に等族議会を通じて,領邦の絶対主義化に抵抗する機能を果たすことになる.
もう一つは,いずれの領邦にも属さず,結果として帝国議会に出席権を持たない帝国騎士たちで,彼らのうちの少なからぬ数が,盗賊騎士へと転身することになる.
ドイツにおいて,盗賊騎士団がシュワーベン,フランケン,アルザス,ラインの各地方で多数発生したのは偶然ではなかった.
これらの地方は,いずれも強力な領邦が成立していなかった.
多くの群小領邦が発生したこれらの地方では,そのどれもが弱体なため,騎士が領邦に吸収される可能性も低く,それだけに帝国直属の身分を維持しつつも,それ相応の経済力を持ち得ない彼らは,盗賊騎士団として活動していく.
前述したように,ラント・フリーデ運動が,こうした盗賊騎士団の絶滅を意図したものであるのも当然だった.
ラント・フリーデ運動によって支配権の確立を目指した領邦にとって,主として都市を喰い物にする盗賊騎士団の活動は,領邦領主の経済的基盤を実力で脅かすものと考えられたからだった.
ただし,領邦成立の過程における必然的結果として盗賊騎士団が発生したと単純に結論づけられるほど,事態は単純ではなかった.
領邦成立期に盗賊騎士団を傭兵として使ったのは,実は領邦領主自身だった.
1283年,ルドルフ1世はその勅書の中で,土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成する権利を認めている.
また,1356年に金印勅書の結社禁止規定では,諸侯や都市が国土の治安と防衛を目的とした相互協定や同盟の結成が承認されている.
実のところ,盗賊騎士団の活動こそが領邦の発展を強化し,それが更に盗賊騎士団自身の消滅をも早めることになった.
そんだけ.
王様は二言目には金と言い
フリードリヒ1世バルバロッサは,軍役免除税に関して三つの勅令を発している.
1158年に発せられたものでは,「余は,ドイツ及びイタリアにおいて皇帝戴冠式のために公示された出征に,自ら出陣するか,または封土に応じて軍費を支払うことによって,おのれの主君を助けざる者はその封土を失い,主君はそれを没収して,自らの用に供する権利を持つことを,ここに厳に布告するものである」と記されている.
また同年,「公示された出征において,主君によって召集された者は,誰でも定められた期間を自ら従軍するか,適当な代理人を主君に提供するか,あるいは封土の年収の半分を主君に納めることをなさない場合は,主君は彼の者の封土を没収して,自らの用に供する権利を持つことを,余は厳に布告するものである」
さらに1160年の「ローマ進軍についての規定」では,「この法によって出征を命ぜられた者で,主君に従って軍勢を引き連れて集合しない場合は,余の面前で権利回復の望み無しにその封土を奪われるべきである.
(中略)
しかし,留まらんと欲して主君の許可を得た者は,その年の封土の現金その他の収入を軍費として支払わなければならない」
軍役免除税を意味する「軍費」の徴集こそ,「他の傭兵を集め得るための金銭の提供」であり,盗賊騎士団を雇い入れるための有力な財源となった.
このような重大な意義を持つ軍役免除税を納める相手が,皇帝に対してではなく自己の主君に対してであったこと,
そしてこれを怠った場合に没収された封土の所有権が,皇帝ではなく当該主君に帰属することは,既にオットー2世の勅令でも示されており,軍事統帥権の二重構造を示唆するフリードリヒ1世の勅令は,当時既に慣行となっていたものの再確認に過ぎない.
もともと現実の出陣の代償としての意味を持つ軍役免除税は,中世初期以来,名目的に存在していた自由民の一般的な従軍義務を理由として,広く徴収されて傭兵を雇うための有力な財源となっていた.
やがてこれらの主君が領邦領主へと移行していき,その過程で実際の出陣よりもむしろ軍役免除税の納付を奨励することによって,自らの勢力拡大のために盗賊騎士団を傭兵として利用していくことになる.
そんだけ.
最初の一匹はどこに
もっとも,領邦国家成立の時期はフリードリヒ1世バルバロッサの時代よりも後のことであり,シュタウフェン家滅亡と,それに続く大空位時代こそが領邦の発展に絶好の地盤を提供することになる.
しかし,当時既に新しい領邦成立の萌芽はすでに芽生えていた.
1180年のハインリヒ獅子公失脚の際に出された,フリードリヒ1世の宣告文では,次のように記されている.
「かつてバイエルン及びウェストファーレン公であったハインリヒは,教会と帝国貴族の自由と彼らの財産を奪い,彼らの権利を侵すことによって著しく圧迫した.
このため,諸侯及び貴族の激しい訴えによって召喚されたが,余の面前に出頭することを怠り,その後も教会と諸侯並びに貴族の権利と自由を侵害することを止めず,
(中略)
バイエルン,ウェストファーレン,エンゲルン公領並びに彼が帝国より受封した全ての領地は,ヴェルツブルクにおいて開催された厳粛なる法廷において,諸侯の一致した判決によって没収されることになった」
この事件の告訴が諸侯と貴族からなされているのに対し,判決に関与したのは諸侯のみであり,ここでは諸侯と一般の貴族が明確に区別されて用いられている.
この宣告文が発せられた時には既に,単なる「主君」の間に分裂が起こり,そのうち一部が諸侯と呼ばれる存在へと変化しつつあったことを示唆している.
そんだけ.
都合のいい人
封土を介して発生した封臣の軍役義務は,必ずしも無制限なものではなかった.
国土防衛戦のような総力戦における根こそぎの総動員令を除けば,「東部地方へ」,「州の中で」,「二日行程は自弁で」,「河岸まで」,「一日行程の行軍」等,地域的時間的な制限があらかじめ決められているのが常であった.
もっとも,この手の制約は封建軍に限ったものではなく,国民徴集軍でも同様だった.
そして,このような制約の多いシステムの克服こそが,領邦実現を目指す王権にとって克服すべき重要な課題の一つであった.
貨幣収入の増加によって自らの強化を図った領邦王権が,一方で軍役免除税の徴収によって封建軍の現実の出陣を無用とし,他方で貨幣の力によって思うがままに運用し得る軍隊,すなわち傭兵軍を自らの権力の基盤に据えようとしたのも,ある意味で自然の成り行きだった.
こうして盗賊騎士団が脚光を浴びることになる.
1360年,ブレティニーの休戦によって敵地で解雇されたイングランド傭兵のように,何時でも何処でも放棄して,他と代替できるこの軍隊は,権力強化を目指す領邦王権にとって極めて有力な手段を提供した.
1314年にゲルレンス伯レイノルトとオーストリア公フリートリヒが交わした協定では,ゲルレンス伯がオーストリア公の要請に応じて,契約金を受け取って自らの指揮下にあったソキエタスを提供している.
このような盗賊騎士団の雇用は,領邦権力にとって必要不可欠なものだった.
没落騎士を中核として都市民や農民の下層分子をも内に取り込んだ盗賊騎士団は,領邦実現を目指す諸権力の競合の産物であると同時に,自らを傭兵として領邦権力に身売りすることをその本質としていた.
彼らが出没したのが,シュワーベン,フランケン,ライン,アルザス等の各地方であったのも,群小の領邦国家が発生した.
これらの地方が,単に領邦の吸収を免れた盗賊騎士を多く輩出しただけでなく,彼らが傭兵として雇用される機会が極めて多かったことをも示している.
そんだけ.
全てを解決する素敵な道具
領邦成立を巡る競合関係の煽りを受けて没落を余儀なくされた騎士が,非騎士階層まで抱き込んで組織した盗賊騎士団が,領邦権力に有力な軍事的基盤を提供していたことを考慮すれば,領邦国家にとって盗賊騎士団は必ずしも全面的な抹殺の対象にはなり得ない.
「土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成」したり,金印勅書の結社禁止令で「州や国土の一般的な平和のために,相互に組織する同盟や協定」が除外されているのがいい例である.
しかし,一方で領邦国家が支配権確立の有力な手段としたラント・フリーデが,その主要な目的として盗賊騎士団の根絶を掲げていることも否定できない.
この盗賊騎士団の二つの矛盾する性格は,いつ解雇されてもおかしくなかった彼らの不安定な立場に起因している.
ラント・フリーデが実は一種の空文規定だったのか,それとも盗賊騎士団が必要悪的存在だったのかについては,この際どうでもいい.
最も注目すべきは,貨幣収入が増大した領邦国家にとって,金銭で動員可能でありそれ故に非常に指揮掌握が容易な盗賊騎士団が,極めて使い勝手の良い軍事力だったという事実にある.
もっとも,盗賊騎士団自体は必ずしも当時のドイツの軍制を代表する存在ではなかったし,ドイツに存在した軍事力の中核をなすものでもなかった.
現実の軍役奉仕のかわりに提供される軍役免除税が,傭兵動員の有力な財源になるという慣行は,すなわち正規の封建軍もまた,傭兵として出陣できることを意味していた.
強力な財源を有する領邦国家は,封建契約外の従軍に対して金銭の支給を行うことによって,封建軍の地域的時間的制約を克服しただけでなく,実質的に金銭契約下の傭兵軍と酷似した封建軍を,無制限に,そして大量に戦争に投入することになる.
そんだけ.