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◆◆ジハード論
<◆イスラーム過激原理主義 目次
テロリズムFAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】


 【質問】
 ジハードの考え方が理解できません.
 宗教は平和を願うものではないのですか?
 力づくで布教する,それがだめなら金を取るという感覚が,どうもわからない.

 【回答】
 宗教というものの性質を理解できていないと難しいかもしれない.
 宗教というのは,その宗徒にとっては絶対の教え.
 ▼理系で言う大統一理論にも等しい,絶対の原理なわけ.▲※
 特に一神教の場合は解りやすくそうなってる.

 宗教というのは営業なしでは倒産する企業と同じで,布教をその性質の中心に持っている.
 しかし厄介なことに,この地球上に布教の余地などというものは殆どない.
 というわけで,異教徒を布教しにいくわけだ.
(ここで厄介なのは,そいつも宗教を奉じているわけだから,基督だろうがイスラムだろうが自分の教えを絶対と思って疑わない)
 布教された異教徒からしてみれば,身の毛もよだつような異端話を,堂々としたツラで説くのだからたまらない.
 異教徒同士というのは,そういう風に草の根レベルで対立しあう性質を持ってる.

 国際政治的な問題もあり,それが戦争に発展することはあまりないが,ときたま,そういったナイーブな宗教関係のことに,無神経に突っ込んでくる指導者がいたり,何かの拍子で宗教対立が燃え上がることがある.
 そういう時にジハードなんかが宣言されるわけだ.

 まあ,宗教徒っていうのは,誰でもそうだが,どうにも異教徒が鼻につくんだな.
 特に宗教圏の中で産まれてズブズブに育った連中は.だからどうしてもイラついて喧嘩はじめちまうのさ.

 俺の死んだ母親が基督教やってて,基督式で葬式やったが,仕方なく呼んだ親戚連中は,日本だから宗教様式には拘らないのかと思いきや,ジジババどもはやっぱりしっかりと嫌悪感丸出しだったよ.
「バチがあたるぞ,こんなことして.御先祖様に……」
なんぞというセリフを言う連中が,現実にかなりいた.

世界史板,2010/08/11(水)
青文字:加筆改修部分

▼ ※ まだ完全に立証がなされていないものを「絶対の原理」とは,理系(つか,論理的な人間)はそんなことを考えない.
 それこそ,宗教者の態度だ.
 宗教者と理系とを一緒にされても困る.

ゆきかぜまる in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年04月24日 20:10


 【質問】
 イスラム教の神アラーは,目的を達成するためなら,無辜の人を殺す事も許すのですか?

 【回答】
 まず,アラーって神って意味だから,「イスラム教の神アラー」とか「アラーの神」って表現はおかしい
 事実,アラビア語圏のキリスト教徒も神のこと「アラー」って呼んでるし.
 あと,イスラーム的には神のためには聖戦をしろとは言うが,無罪の人を殺せとは言わない.
 信教の自由も認めている(が,一度信じて棄教したり,信じてないのに入信したふりするのは許されない)

 ムスリムの価値観によれば,以下のようなことになる.

『宇宙の主権者は神であって人間ではない.善悪を決めるのは神であって人間ではない.
 大事なのは神に喜ばれることであって人間に喜ばれることではない.
 おまいらは何の権利があって神の言葉にケチをつけんだ?
 宇宙は神が「無」から創造したのであって,神が万物の基準なのだ.
 つまり,神以外に絶対の基準は存在しないのだ.

 神は善か?という問いは無意味である.神こそが善だからである.
 それは,神の前に何らかの善悪の基準が存在することを前提としているからである.
 1mを定義する原器(単位標準器)に向って「この原器は1mか?」と問いかけるのが無意味であるのと同じである.

 人間至上主義者が行っていることは善悪の基準に対して「それは悪だ!」と叫んでいるのと同じなのであって,それは,1bを定義する原器に向かって「この原器は1bではない」と叫んでいるのと同じなのである.

 聖戦は神が人間に対して定めた義務だったのであって,「それは残酷だからできません.」ということはできないのである.
 もし神の定められた掟を拒否するならば,それは革命であり,神に対して宣戦布告しているのと同じことなのである.

 いわゆる「イスラム・シンパ」も,いわゆる「嫌回派」もこのことを忘れている.
 だから「たしかに人を殺すのはよくないがキリスト教徒のほうが多くの人命を奪ってきた」などという人間中心主義的なイスラム擁護論が生まれてくる.

 「人の道」ではなく「神の道」を求めるべきなのだ』

(宗教板)

 問題は,勝手に「人間」がそれそれの主義主張に都合のよいように,「これは聖戦である/ではない」と決めている点.


 【質問】
 小ジハードとは?

 【回答】
 イスラーム法によれば,世界は,イスラームの教えが貫徹されている「イスラームの家(ダール・アル・イスラーム)」と,イスラームの教えをまだ受け入れていない「戦争の家(ダール・アル・ハルブ)」に二分されます.
 前者が通常で言うイスラーム世界,後者が非イスラーム世界を指します.
 「イスラームの家」を拡大するか,あるいは防衛する行為が〔小〕ジハードであり,ジハードの戦死者は殉教者(ジャヒード)として天国行きが約束されています.

 現在,殆どのイスラーム過激派は,「侵略者への反撃」として,この防衛ジハードの論理を用い,米国へのテロを正当化しています.

(立山良司 〔中東現代政治専門家〕 from 「『新しい戦争』を知るための60のQ&A」,
新潮社,2001/11/15,P.172)

 イスラム教スンニ派の最高権威,アズハル大学総長はマレーシアで,
「自爆攻撃を行うグループはイスラムの敵」と発言.「過激派の『ジハード』と本来のそれは天地ほど違う」
と述べています.

(BBC,2003/07/12)

 ジハードはそもそも「聖戦」ではない.
 ジハード jihad (動詞 jahada の動名詞)のアラビア語としての字義通りの意味は,「精神的であれ,肉体的であれ,努力すること」である.
 したがって,「聖戦」という翻訳語が胚胎している暴力性とは本来,直接しないはずであった.

 ところが,「アッラーの道のために奮闘努力する」(すなわち「ジハード・フィ・サビーリィルッラー」を略してジハード)というイスラーム的文脈におけるジハードは,信仰を巡って「自己において努力すること」という大ジハードのレベルから,ムハンマドが非ムスリム・アラブに対して行わざるを得なかった「共同体において努力すること」(イスラームを人々に伝え,説明すること,悪と汚濁に反対して働き,また,不正・社会的不平等・文盲・貧困・疫病その他の問題のため,戦う個人や団体に力を貸す事も含む)の一環としての「戦争」レベルにおける小ジハードまでをも包み込む,極めて重層的な観念であった.
 したがって,この共同体レベルのジハードが拡大解釈され,いわゆる「聖戦」を意味するようになる余地は十分にあった.

 さらに厄介なことに,このジハードの観念は,それ自体予め重層的であるばかりではなく,E.W.サイードの批判したオリエンタリズムを始め,多重層の偏見のヴェールを纏ったものとしても,一種典型的な観念なのである.
 その幾重もの厚きヴェールを振り払うためには,ムスリムが好戦的な人間集団であるとか,ジハードを展開して「『クルアーン』か剣か」と異教徒に迫った,などというのは西欧オリエンタリズムが創作した物語であって……という具合に,ジハードの観念を覆っているヴェールを一枚一枚剥がしていかなければならないのである.
 〔略〕

 その意味では,ジハードはロジカルな定義によって規定されているというより,むしろムスリム共同体を統一していく,ある種の「勢い」として感覚されるような性格を元々帯びているのだと言える.
 〔略〕

(鈴木規夫=政治哲学者・イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P74-75.,抜粋要約)


 【質問】
 「クルアーン(コーラン)」日本語訳では,「ジハード」は「聖戦」と訳されているが?

 【回答】
 それはその通りだが,その場合の「聖戦」は,具体的に戦うことを意味するカタラ qatala などの言葉が予め混入した記述となっている.
 「聖戦」を巡る具体的な戦闘行為自身は,クルアーンでもジハードとは異なる他の言葉で表現されていることも多い.
 以下,ソース.

 ムスリムにとっては重要な規範の一つである「ハディース」の日本語訳では,ジハードとそれに関連する観念は,紛れもなく「聖戦」として括られ,訳出されている.
 これはそもそも「ハディース」が,ムハンマドとその教友達が具体的に異教徒と戦ってきた過程を記録したものでもあったからに他ならないけれど,その場合の「聖戦」はジハードの観念と共に,具体的に戦うことを意味するカタラ qatala などの言葉が予め混入した記述となっている.

 とはいえ,本来的には暴力とは直接しないことを先ず強調することが,ジハードについて語り始められるときの習いである.
 イスラーム世界の急激な拡張期においてさえ,この「アッラーの道のために努力すること」と,イスラームの敵と戦う義務とが必ずしも結び付いていたわけではないからである.
 ジハードの観念は,「クルアーン」においても文脈に応じてかなり幅広く解釈可能なものであったといってよい.
 「クルアーン」悔悟章20節には,
「信仰する者,移住した者,またアッラーの道のために財産と生命を捧げて奮闘努力(ジハード)した者は,アッラーの御許においては最高の位階にあり,至上の幸福を成就する」
とあるが,アブドゥ・ルッラー・ユースフ・アリーは,この場合のジハードについて次のように注解を与えている.
「ジハードは自己犠牲の形でアッラーのための戦いを要求する.
 だが,ジハードの本質は,
(1) アッラーへの眼差しをしっかり凝らすことによって,全ての利己心や世俗的動機がつまらぬものに見えて消え去ってしまうような,真正で誠実な信仰であり,それはまた,
(2) アッラーに使えるために必要とあらば,生命・身体・財産を犠牲にすることをも伴う,誠実で不断の営為であり,ただ残虐なだけの戦闘は,ジハードの根本精神に反するが,誠実な学者の筆,説教者の声,富める者の寄付などは最も価値あるジハードのカタチと言える※.

 ジハードおよびその動詞形の観念が表象するのは,アッラーの道のために奮闘努力するという精神的態度と,それを行為として表現した全てを包括したものである.
 イスラームの大義のための異教徒との戦争としての「聖戦」という観念がそこに含まれうるが,それだけを一義的に表象するというのでは,やはり無理がある.

 かえって,その「聖戦」を巡る具体的な戦闘行為自身は,「聖戦」について記されている「クルアーン」牝牛章(190-195)における以下のような叙述のように,ジハードとは異なる他の言葉で表現されていることも多い.
 行為性を伴うそうした直裁的表現は,イスラームの文脈ではジハードとの明確な観念連合を生じさせるものなのである.

「汝らに戦いを挑む者があれば,アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい.
 だが,こちらから不義をしかけてはならぬぞ.アッラーは不義をなす者どもをお好きにならぬ.
 そのような者と出くわしたら,どこでも戦え.
 そして彼らが汝らを追い出した場所から(今度は)こちらで向こうを追い出してしまえ.
 もともと(彼らの引き起こした信仰上の)騒擾(フィトナ)は殺人よりもっと悪質であったのだ.
 だが(メッカの)聖殿近くでは,向こうからそこで戦いを仕掛けてこない限り,決してこちらから戦いかけてはならぬ.
 向こうからお前達にしかけてきたときは,構わんから殺してしまえ.信仰なき者どもには,それが相応の報いというもの.
 しかし向こうが止めたら(汝らも)手を引け.まことにアッラーは寛大で情け深くおわします.
 騒擾がすっかりなくなるときまで,宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一条になるときまで,彼らを相手に戦い抜け.
 しかしもし向こうが止めたなら,(汝らも)害意を捨てねばならぬぞ,悪心抜き難き者どもだけは別として.
 神聖月(戦闘行為を一切宗教的に禁止される斎忌の月)は神聖月で返せ(神聖月に向こうが攻めてきたら,こちらも神聖月の禁を破って返報してよい).
 聖所・聖物が犯された場合は(こちらも同じことをして)返報せよ.
 誰によらず汝らに不当なことをしかけたら,汝らのほうでも,向こうからされた通りの不当な行為で返報せよ.
 ただ(いつの場合でも)アッラーを畏れかしこむ心だけは忘れてはならぬぞ.アッラーは常に懼神の念の厚き人々と共にいますと心得よ.
 アッラーの道に惜しみなく財を使え.※4

 こうした「クルアーン」の諸節を引きながら,ジハードの観念を想起させ,ムスリム共同体における「勢い」を喚起することに成功すれば,それはムスリム共同体の防衛に有効であったという事になる.
 また,「向うが止めたなら」という状況の変化に対応する一節も,日本ムスリム協会「聖クルアーン」注記によれば,
「相手が圧迫を止めるならば,彼らに対する敵意は解消するが,友になるわけではない.
 戦争は,アッラーの道に従うムスリムの多神,邪神の徒に対する自衛のためで,単に人々に対する憎悪からではない」ことを意味し,そもそも「非戦闘員には危害を加えず,樹木や収穫物を損傷せず,敵が降伏すれば講和して敵意を解消するのが,イスラームにおける聖戦」※5
である事を示している.
 ジハードは基本的に,イスラームの信仰とその共同体を守るという防衛的性格が強いと主張される所以である.

 ※ The Holy Qur'an, text, translation & commentary by Abdullah Yusuf Ali, Dar al Arabia, 1938, p.444.
 ※4 井筒俊彦訳「コーラン」上,岩波文庫,1957年,p.46-47
 ※5 「日亜対訳注解聖クルアーン」,日本ムスリム協会,p.34

(鈴木規夫=政治哲学者・イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」
河出書房新社,2001/12/31, P75-77.,抜粋要約)


 【質問】
 愛や平和を説くべき宗教が,なぜ武力を容認するのか?

 【回答】
 むしろ武力を容認しないほうが非現実的,とイスラーム学者の東長靖(とうなが・やすし)は述べる.
 以下,引用.

 現実の共同体でる近代国家の中で,戦争放棄という気高い理想を憲法に謳っているのは日本だけである(その日本も,現実には世界有数の軍隊である自衛隊を保有している).
 他の諸国は全て,紛争解決の最終手段としての戦争の権利を,当然主のとして自らに認めている.
 共同体思想をとるイスラームにとって,武力を容認するのは,このような発想と軌を一にしているのであり,現実的共同体の運営者としてはごく普通の考え方なのである.
(ただし,そのことと,今年9月のテロとは話が別である.
 イスラーム知識人・イスラーム指導者の殆どが,今回のテロ行為そのものを非難している.
 このテロと結びつけて語られているオサーマ・ビン・ラーディンへの共感があるとすれば,それはテロそのものへの賛意ではなく,長年イスラーム世界を不当に扱ってきたと彼らの目に映るアメリカへの反感の裏返しである)

(from 「だれでもわかるイスラーム」,2001/12/31, p.47-48)


 【質問】
 イスラーム過激原理主義者はジハードをどう解釈しているのか?

 【回答】
 例えばエジプトのイスラーム過激派は,西欧文明がイスラーム世界を破壊し,その背後にはシオニズム陰謀論があると考え,これを打ち破るには武装闘争「ジハード」しかないと考えている.
 以下,ソース.

 「ジハード団」などエジプトのイスラーム過激派は,イスラーム法(シャリーア)に基づくイスラーム共和国の建設,また,西欧法の根絶と,イスラーム法の完全なる実施を訴えていった.
 その手段は暴力を伴う「ジハード」であり,イスラーム過激派にとって暴力以外の手段でエジプトの指導者達を排除する事は考えられない.
 エジプトのイスラーム過激派は,「外部の力」がイスラームを破壊していると考える.
 彼らは,ムスリム社会の西欧化が政治的腐敗・経済的衰退・社会敵不平等・精神的病弊をエジプト社会にもたらしたと見なし,また,クトゥブのように,エジプト社会の現況をイスラーム時代以前の無知・偶像崇拝・野蛮主義に例える.
 また,イスラーム過激派の考えでは,西側の十字軍的メンタリティー・新植民地主義・シオニズムの力がユダヤ―キリスト教の陰謀の背後にあって,西欧をイスラーム世界と闘争させるのである.
 こうした不敬虔な外部勢力と「ジハード」を行うことは,ムスリムにとって最も崇高な宗教的義務であり,それによってムスリムはジャーヒリヤの社会を破壊し,イスラームを再び生き生きと蘇らせることができるのである.
 そして,武装闘争のみが「ジハード」であり,外部の敵との戦いはイスラームの旗の下に行い,ナショナリスティックな目的のために遂行されるべきではない,とエジプトのイスラーム過激派は考えている.

(宮田律=イスラーム地域研究家 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.82-83)

 おそらくこれは,他の地域のイスラーム過激原理主義者もほぼ同じだろう.

 また,宮田は,特に彼らの反米について次のように解説する.

 イスラーム過激派による反米「ジハード」の目的は,イスラーム世界から米国の存在や影響力を排除することにある.
 また,イスラーム過激派は,改善し難いイスラーム世界にある矛盾は,米国によってもたらされたと考えている.イスラーム過激派が台頭するイスラーム世界内部の要因には,抑圧的な政治・政治腐敗・貧困・経済的不平等・欧米による文化的侵略とムスリムのアイデンティティ・クライシスなどがあるが,これらの矛盾は,米国が,「不敬虔」で抑圧的な政府と親密な関係を持つことによって生じたと,イスラーム過激派は見ている.
 こうした思いは,特に親米的なエジプトやサウジアラビアなどの国で根強い.

 また,世界貿易センターが標的になったのは,米国によって「搾取」されているというイスラーム過激派の思いが象徴されているのかもしれない.
 また,世界貿易センター・ビル周辺のニューヨークの金融街を支配するのは,イスラームの「最大の敵」と見なされるユダヤ人で,テロはユダヤ人に対する「懲罰」という側面もあったかもしれない.

(同,p.85)

 常に誰か他人に責任を押しつける生き方は,楽でいいね.


 【質問】
 イスラーム過激派に,「ジハード」論の思想的バックボーンを最初に提供したのは?

 【回答】
 イスラーム地域研究家・宮田律によれば,ムスリム同胞団のサイド・クトゥブ(1906-65)だという.
 宮田はイスラームに肩入れする傾向があり,全面的に信頼する事は難しいが,一応,以下に引用する.

 1960年代中期のエジプトは,ナセル大統領率いるアラブ・ナショナリズムの絶頂期であったが,クトゥブは,こうしたナセルの権威に挑戦した.
 クトゥブは,イスラームはその宗教的原理に基づいて,万人は平等であるという社会正義を説く,と主張する.
 それゆえ,イスラーム的支配は,人類が創出したシステム,例えば資本主義や共産主義によってもたらされた抑圧を排除するのである.
 彼は,ジャーヒリヤ(無明)とは,神の法や掟が社会や支配者によって無視されたときに生じる状態であると主張している.
 クトゥブは,イスラーム的原理によって支配されていないアラブ=ムスリム世界の殆どの政府をジャーヒリヤと規定した.
 ムハンマドがジャーヒリヤを「ジハード」によって打倒し,神の支配をもたらしたように,不敬虔な者達に対して「ジハード」を行わなければならない,とクトゥブは考えた.
 クトゥブは,ナセル時代のエジプトはイスラーム的国家では全くなく,ジャーヒリヤの国家である,と訴えた.
 クトゥブは,
「予言者はアラブ・ナショナリズムに基づくナセルの国家体制を,腐敗した,朽ち果てた国家であると規定するであろう」
とも述べている.

( from 「だれでもわかるイスラーム」,河出書房新社,
2001/12/31, P.81-82,抜粋要約)

 予言者の威を借る狐.


 【質問】
 過激原理主義者は何故医療機関も攻撃するのか?

 【回答】
 過激原理主義者は,どうやら病院を市民生活に必要不可欠なものとは考えていない模様.

 山本敏晴によれば,彼らは,
「病気になっても,神に篤い信仰を捧げれば治してくださる.だから病院に行く必要などない」
と考えて,クルアーンなどの経典に書いてあること以外は,科学的な新しい知見なども含めて一切受け入れず,さらに,西洋文明を嫌っているという.

 詳しくは,山本敏晴著「アフガニスタンに住む彼女からあなたへ」(白水社,2004/8/10),p.40を参照されたし.


 【質問】
 近代以前,イスラムはキリスト教社会より異教徒に寛容だったって本当?

 【回答】
 本当,と言いきるのは難しい.

 ユダヤ,キリストの「啓典の民」に対しては確かに寛容だったが,一方,多神教徒には冷酷であった.
 イランのゾロアスター教徒とインドに移住したパールシーの歴史を見れば一目瞭然.
 呼び名ひとつ取っても,インドではパールシー(ペルシアから来た人)と呼ばれたのに対し,イランでは公然とカブル又はガウル(不信仰者)と蔑称で罵られ続けた.

 17世紀イランを訪れたフランス人シャルダンは,彼らについてこう記録を残している.
「ゾロアスター教徒は友好的であったが,宗教的事柄については無口で,この世に彼らほど,自分たちの宗教の秘密を発言するのに小心翼翼たるものはいない」
 欧米のユダヤ人より地位が低かったのがこれで知れるだろう.

 この状態は20世紀になってもさして変化ない.
 20年程前,NHKのシルクロード取材班がイランのゾロアスター教徒の村を訪ねた際,ムスリマと異なりにこやかに挨拶を返した村の女性が彼らの宗教について質問したら,たちまち顔が強張ったそうだ.
 インドのパールシーは,外国人が彼らの宗教を訊ねても,ムガル帝国以前からそんな反応は示さない.

 一般にパールシーの祖先はサーサーン朝ペルシアが滅亡し,祖国がイスラム化していく過程でインドに亡命してきたと思われている.
 もちろんこれは正しいのだが,ティムール(1336-1405)の時代にも多数インドに逃れてきた.
 すでに移動が禁じられ,法を破れば死罪になる18世紀末においても,亡命者がいた.
 19世紀,パールシーはイランのゾロアスター教徒の地位向上のため,代表団を派遣するに至る.
 代表団の30年近い不屈の努力が実り,やっと1882年に人頭税廃止に成功している.

 また,経典の民に寛容だったと言っても,こんな例もある.
 オスマントルコ時代,バルカンのキリスト教圏には,教会の高さ制限があった.
 その制限とは,トルコの役人の身長よりも高い教会は建ててはならないというもの.
 よって,オスマントルコ時代の教会は全て半地下式でできるだけ小さくした.

 その他に,キリスト教徒は馬に乗っていても,ムスリムが通りかかった時は下馬しなければならなかった.
 さらにユダヤ,キリスト教徒はムスリムと区別する為,靴の色も指定されていた.
 イスラム,キリスト教徒の平和共存,というより異教徒がおとなしくさせられていたのが真相.
 かつてのオスマン・トルコやムガール帝国,イランでも異教徒がムスリムを殺害すれば,たとえ正当防衛でもイスラムに改宗しない限り死刑.
 その逆にムスリムが異教徒を殺しても,裁判に掛けられる事さえ稀.裁判になってもはした金で放免,という有様だった.
 異教徒がイスラムを侮辱しても死罪.ムスリムが異教徒を「不信仰者」と罵声を浴びせ,それに口答えしただけで「ムスリムへの中傷は許されない」と斬首された者さえいた.

宗教板

 オスマン帝国の場合,「イスラームの寛容」というよりは,「強者の寛容」と見たほうが妥当だが,ミッレト制が,多様な宗教や民族に寛容だった点において,抜きん出ていることも確かである.

――――――
 実際に誰一人として意見を求められたわけではないにせよ,オスマン帝国が当初の2世紀にもたらした法や平和,秩序を,バルカン半島に住むキリスト教徒の農民が歓迎したのは間違いない.
 その後も,ベッサラビアが1812年にキリスト教の帝政ロシアに編入されたにも関わらず,農民数千人がその「自由」から逃げ出した.たとえ農地を捨てる犠牲を払っても,オスマンの支配のほうが遥かに好ましかったのである.17
 さらに重要なのは,キリスト教徒の中心的なエリートは,オスマン支配の主な受益者だったため,それを歓迎し,支持する十分な理由があったことだ.
 このエリートには,ラグーザの商人やルーマニア公国の「ファナリオット<新興貴族層>」と呼ばれたギリシャ人支配階級,階層的なギリシャ正教会も含まれていた.
 とりわけ正教会はオスマン帝国の許可の下,ギリシャ人,スラブ人,アラブ人であれ,正教徒全てに対する多大な威信を振るった.
 事実,正教徒はオスマン支配下で,ビザンチン末期には一度も掌握できなかった,スラブ正教会に対する権力を回復できたのだった.
 ギリシャとアルメニアの裕福な商人達(特にアルメニア人の場合は金融業者)はしばしば階層的な教会と手を結んだ.
 19世紀に至るまで,彼らの財産,時には生命さえも,オスマン当局の恣意的な攻撃から全く安全というわけではなかったが,そうした立場は富裕なムスリムの場合も殆ど変わらなかった.
 それでも,ギリシャやアルメニアの有力商人達は,オスマン帝国をビザンチンの後継者と見なして支持し,オスマン内部で自分達の置かれた地位の向上を望んだのであり,帝国の解体を願ったわけではなかった.

 もっとも,西洋のナショナリズムの概念がキリスト教徒の社会に浸透し,非宗教的で急進的,大衆迎合的な知識層が力を持ち始めると,ギリシャ人とアルメニア人のどちらの社会でも,新興知識層と旧来の宗教的エリートや有力商人との間で激しい対立が生じた.

 オスマン帝国におけるキリスト教徒やユダヤ教徒の扱いは,ムハンマドや初期のカリフによる統治,中東でのイスラム以前の帝国の伝統に沿うものだった.すなわち,イスラム以外の宗教的共同体が税を納め,政治的に忠誠を誓う限り,宗教や文化については自治が許されたのである.
 しかし,イスラムの分離派や異端に対しては,とりわけそれが敵対的な外国から支持を受けている場合,遥かに厳しい措置が伝統的にとられてきた.
 オスマン帝国初期のセリム1世(在位1512〜20)は,アナトリアのシーア派という宗教的少数派を最も過酷に扱った.
 また,オスマン帝国とサファビー朝イラン双方の政治的・宗教的な境界地帯では,スンニー派とシーア派の支配者達から,反正統派で政治的にも危険だと見なされたムスリム社会が,同じように大規模な虐殺や追放,強制的な改宗に遭った.
 後の東アナトリアやザカフカスも,こうした伝統から免れなかった.帝国同士の競争が,現地のスンニー派,シーア派,キリスト教徒の共同体同士の激しい衝突と結び付き,いずれの側でも住民の大虐殺や追放という結果を招いた.
 後述するように,ロシア帝国もこうした地域的伝統の犠牲になった.ロシア,オスマンの当局は共に,外国の敵と同じ宗教を信奉している少数派が,敵のトロイの木馬になるのではないかと恐れたのだ.
 20世紀初めまでにオスマンは,東アナトリアに住むアルメニア人に対して,同様の懸念に悩まされることになる.オスマンを公正に評価すれば,かつて少数派のキリスト教徒と列強が手を結んだことが,こうした懸念を生み出したのである.
 アルメニア人の虐殺は,その規模とむごさにおいて類を見ないが,ある程度はこうした地域の歴史的文脈で理解しなければならない.

 しかしながら,帝国末期の数十年間に発生した民族紛争および大虐殺の経験と,帝国初期のオスマン支配者が示した,遥かに寛容な行為との間には,著しい格差があった.
「自分自身が弱く危険だと感じているときよりも,強いと感じているときのほうが,寛容でいるのはたやすい18」ものだ.
 実際のところ,オスマン帝国によるキリスト教徒やユダヤ教徒の扱いは,オスマン社会における宗教の地位といった全体的な構図に合致していた.
 オスマン帝国の古典時代には,政府は経済や文化生活の側面も規制したが,概してイスラム社会で政権が果たす役割は厳しく制限され,日常生活の殆どはイスラム法,すなわちシャリーアによって支配されたのである.
 それは家族や文化,教育の問題の殆どを決定しただけでなく,広義の経済や政治的行動に対しても大きな影響を及ぼした.
 従って,オスマン当局が家族や文化・教育・社会生活の問題を,キリスト教やユダヤ教など少数派宗教の共同体に委ねる代わりに,法を守り,税を納め,君主に対する忠誠を誓うよう要求したのも理にかなっていた.
 これこそ,オスマン帝国と非ムスリムとの関係を規定した「ミッレト制」の本質に他ならない.
 もちろん厳密に言えば,ミッレト制そのものを19世紀に適用する事は時代錯誤である.19
 それにも関わらず,支配者に対しては政治的忠誠を,そして民族や宗教の多くのグループに対しては文化的自治をそれぞれ保障するといった,帝国におけるある種の民族間関係を簡潔に表現するには便利な用語である.

 奇妙なことだが,ミッレト制はある点で現在も共感を得ている.
 生活に関する大半の分野でかなりの自治が社会に認められている国家では,政治的忠誠と文化的多元主義が結び付けられている.
 その点で,ミッレト制は現代の多文化主義を予感させるものであった.

 しかし,オスマン帝国の観点に立てば,ミッレト制も長期的に深刻な不利益をもたらした.
 少数派は追放も根絶も同化もされず,アイデンティティを保ったままで,ひとたびナショナリズムが知識人の間で広まり,政治的議題になれば,オスマン政権にとって深刻な脅威になった.
 19世紀にオスマンが中央集権化のほか,オスマンの市民性や忠誠心といった共通の感覚を作り出そうとしたところ,キリスト教徒達は反発して,自治の伝統を強く擁護した.

 しかし,ミッレト制の組織や機構は,少なくとも1856年の改革以前には,民族主義者の願望にとって必ずしも好都合だったわけではない.

 ユダヤ人の場合,ミッレト制の宗教で区切られた境界は,民族の境界とまさしく一致していた.
 そして,オスマン帝国内部の少数民族の内,ユダヤ人は最も満足し,最も忠誠を尽くしていた.
 ユダヤ人社会の中心的存在は,15世紀から16世紀にイベリア半島のキリスト教徒による迫害から逃れてきたセファルディム<離散したユダヤ人の内,スペインとポルトガルに居住した人々と,その子孫.1492年にスペインでキリスト教への改宗を拒否したユダヤ人への追放令が出されたため,約25万人が北アフリカ,イタリア,オスマン帝国に移住した> だったので,オスマンの宗教的な寛容と保護に感謝する,尤もな理由があった.
 19世紀になると,ユダヤ人達は,オスマン支配に入った最初の世代ほど豊かではなくなったものの,それでもユダヤ人達の忠誠心は揺るぎ無かった.
 オスマン帝国内部でのギリシャ人との衝突は言うまでもなく,ロシアやバルカン半島でのキリスト教徒による虐殺を目の当たりにして,忠誠心は強まった.
 その上,ほんの一握りのシオニストを除いて,ユダヤ人は帝国外に,自分達で国民国家を建設するという現実的な選択肢もなかった.
 ユダヤ人には,アラブ人,さらにはキリスト教徒の民族的ナショナリズムの標的にされるのではないかと恐れる十分な理由もあった.
 たいていのユダヤ人をハプスブルク帝国の忠実な臣民に仕立て上げ,後には多くを国際マルクス主義へと惹きつけていった論理も,オスマン帝国にとって有利に作用した.

 キリスト教徒,ことにギリシャ正教徒のミッレト制に関しては,状況がかなり異なっていた.
 ギリシャ人は迫害から逃れてきたのではなく,キリスト教の大帝国の中核を占めてきたが,後に征服された.
 そのため,ギリシャ人大衆の意識にはビザンチンの記憶,その復活を求める願望が留まっていた.
 19世紀以前のギリシャ正教会のミッレト制は,民族ではなく宗教で決まっており,18世紀のギリシャ正教のエリートは,ミッレト制内部での権力を用いて,スラブ人社会の一部にギリシャ正教を広めようとした.
 ところが,オスマンの権威よりも,ミッレト制の権威のほうが人々の生活に強い影響力を持っていたため,スラブ人キリスト教徒やアラブ人達のナショナリズムは,少なくとも反トルコ的だったのと同じくらい反ギリシャ的になる場合があった.
 そのため,アルメニア正教会やオスマン帝国の保守的な宗教的・政治的エリートと同じように,ギリシャ正教のミッレト制指導者も,新たに生まれつつあった非宗教的な知識層やその民族主義的な信条を毛嫌いした.
 19世紀半ばにオスマン帝国でミッレト制改革が行われると,ムスリム以外の社会で,知識層達の新興階級と,それが訴える民族主義的な信条が促され,その過程で体制の保守的な同盟関係も弱まっていったのだった.

 ミッレト制をロマン的に扱うべきではない.
 その条件下では,ムスリム以外の臣民は明らかに二流扱いされ,特別な税を課せられ,(着る服や旅の仕方まで)法による差別を受けた事は屈辱的だった.
 ミッレト制の宗教指導者達は,オスマン帝国内部で名誉と権限を与えられたが,オスマン体制の核をなしたのは,ほぼ独占的にムスリムだった.
 この事実は,1856年の改革によって,他の宗教を信奉する者達にも原則的に高い役職に就く事が許された後でも変わらなかった.
 そうではあるが,歴史上の多くの帝国やキリスト教諸国の基準から見ても,多様な宗教や民族に寛容だった点において,ミッレト制は確かに抜きん出ているのである.
 17. この点は,LSE博士課程でモルドバ人のアイデンティティについて研究しているバレンチン・マンダチェ氏に負っている.
 18. B.Braude and B.Lewis, Christians and Jews in the Ottoman Empire. The Functioning of a Plural Society, 2 vols, Holmes & Meier, New York, 1982, vol.1, pp.9-10.
 19. 例えば,B.Braude and B.Lewis, Christians and Jews in the Ottoman Empireの第2,3,4章参照.
――――――Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.278-283

▼ イスラームが実質的に宗教的迫害を行っていた,というのは,近年の学会でよく取り上げられるネタの一つなのよ.
 イスラームにおけるズィンミーという階級は一見,寛容を示しているように見えるが,その実はほとんどの人権を制限されていたし,ムワッヒド朝は「剣かイスラームか」を強制した.
 シーア派のファーティマ朝は,ユダヤのシナゴーグを一切の例外なく破壊し,ユダヤ人に黒いターバンの着用を義務づけた,なんて話もあるしね.

 そもそもコーランにも,反ユダヤ的記述が散見されるね.

世界史板
青文字:加筆改修部分

▼ イスラームは,クルアーンに政治関連の記述がいっぱいあって,政教分離が非常に難しい宗教だから,ムスリムの多い国では必然的にイスラム国家になってしまう.
 それが宗教的に不寛容に見える原因の一つではないかな.

 政教分離できているのって,事実上,トルコぐらいじゃまいか.
 最近は怪しいけれど.

世界史板
青文字:加筆改修部分


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