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◆◆◆◆本土決戦 "Bukás" hadművelet
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 【質問】
 本土決戦における相模湾方面の,陸軍の防衛計画は?

 【回答】
 コロネット作戦は,オリンピック作戦の後,制圧した九州と四国南部からの航空支援を得て,1946年3月に実施される作戦で,東京の制圧を目指しました.
 その上陸地点は2箇所在り,1箇所は九十九里浜,もう1箇所は相模湾です.

 守る側である第12方面軍(司令官田中静壱大将)の作戦計画では,連合軍は九十九里浜,相模湾のどちらかに上陸すると予想し,相模湾の上陸の可能性も高いが,大兵力が展開出来るのは九十九里浜として,九十九里浜を中心とした防衛計画を立て,主力決戦部隊である第36軍は九十九里方面への展開を考えて配置されていました.
 謂わば,相模湾は助攻であると見ていました.

 相模湾の防衛を担当したのは,1945年4月に名古屋で編成された第53軍で,この軍は名古屋からその後,神奈川県高座郡の相武台(今の座間市)にある陸軍士官学校に司令部を開設し,後に七沢温泉近くの玉川国民学校(現在の厚木市立玉川小学校)に移転します.
 軍司令官は赤柴八重蔵中将,彼は七沢温泉の中屋旅館別館を宿舎にしていました.

 既述の様に,第12方面軍の判断では,相模湾は助攻であるとされ,この第53軍が利用出来る兵力は,二宮と大磯の間を境に,小田原など西部を第84師団,東側の平塚や藤沢と言った地域は第140師団が担当しました.
 しかし,これだけでは兵力不足であるのは否めず,後に茅ヶ崎から二宮に掛けての防衛線を担当する第316師団が配備されます.

 とは言え,攻撃主正面になるであろう部分に第3次兵備で編成された兵力不足,練度不足の第316師団が配備したのは解せません.
 赤柴中将は後に,相模湾両岸の地域は兵の配備が手薄で,今までの2つの師団の配置を成る可く変えない様に配置したと手記に書いています.
 また,練度不足の兵達が揚陸軍を迎え撃つ戦法は,海岸線の水際で敵と刺違える戦法しかないと考えられていたので,短期間の速成訓練はこれで可能であると考えた節もあります.

 しかし,この配置変更には配下の部隊からも異論が出て,大磯地域の担当であった第140師団に属する第402聯隊の鈴木薫二聯隊長は,自分達が戦うつもりで一生懸命構築した陣地を離れることを断固として承知せず,遂に,この聯隊は第316師団に配属替えとなる異例の措置が執られています.

 他に,第53軍が利用出来る直轄兵力は,独立戦車第2旅団,満州から転用された野戦重砲兵第2聯隊,独立重砲兵第13聯隊などがありました.

 さて,赤柴中将の作戦はどの様なものだったのか….

 赤柴中将が第53軍司令官に任命されたのが4月7日,相武台に司令部を置いたのが4月16日で,これまで赤柴中将が本土決戦の準備には関わっていませんでした.
 一方,配下の第84師団と第140師団は,彼が着任する前から第12方面軍の指揮下に入り,任務を遂行していました.
 其処で先ず,赤柴中将は4月23日に配下師団の参謀から報告を受けて状況を把握し,その上で翌日,司令としての意図を表明し,29日に作戦計画を示しました.
 それはこんな言葉が綴られています.

1. 敵は必ず我正面に来攻すべし…昭和の多多良浜は此処にあり….
2. 築城は地味なるも面白きものなり.而も作戦準備上,絶対なり….
3. 敵,我が正面に殺到すべしと判断する兵力,此は10対1と考へて施策を考ふべし….

 つまり,赤柴中将は軍上層部の判断とは事なり,相模湾が主攻軸となると確信し,相模湾を多々良浜に例えています.
 因みに,多々良浜とは,元寇において元軍が日本に上陸した北九州の海岸です.
 また,敵は多分我の10倍の兵力で上陸するであろうが,その時に周章狼狽してこんな筈ではなかったと後悔するなと不利を承知で連合軍と対峙する覚悟を述べ,その為には当面地味ではあるが作戦準備の為に必要な陣地造りに兵士を専念させよ,と述べています.
 実際に,連合軍が計画していた関東上陸の主攻軸は正に相模湾だった訳で,その点,赤柴中将の慧眼が光ります.

 5月から赤柴中将は精力的に陣地視察を開始しますが,陣地が内陸部に造られていたのを疑問に思ったと言います.
 彼の経験上(と言っても中国での戦闘のみ),上陸軍は水際で食い止めるべしと言う考えだったからです.
 とは言え,上層部の判断は絶対なので,6月末までの陣地完成に向け,各方面を督励しています.

 後退配備か水際作戦かと言うのは,本土決戦準備でも軍首脳部の腰が中々定まりませんでした.
 元々,大本営では水際作戦に重きを置いていましたが,サイパン上陸作戦を始めとする島嶼戦では,その考えは悉く潰えています.
 制空権,制海権を握られた状態では,空爆や艦砲射撃により水際陣地が徹底的に破壊されたからです.
 水際陣地が破壊されてしまうと,揚陸軍は橋頭堡を容易に築き,後は陣地のない状況で一瀉千里の進撃を許し,最終的には玉砕に至ります.
 硫黄島では,地勢を良く見て,栗林中将が後退配備の持久戦に変更した為,36日の長きに亘って持ち堪えることが出来た訳です.

 決号作戦では,サイパン陥落の反省から,後退配備と決定され,海岸線から離れた地域での陣地構築が進められました.
 しかし,軍内部では,敵に一歩も「皇土」を踏ませるべきではないとか,陣地に籠もって敵を迎え撃つなど脆弱な考えであると言った精神論がこの期に及んでも未だ根強くありました.

 6月27日,阿南陸相が第53軍の築城状況の視察に訪れた時,陸相は水際決戦とその為に必要な海岸陣地の早急な構築の必要性を説きました.
 赤柴中将は此に共感し,軍上層部の方針に関わらず,水際陣地の構築に作戦の重点を置く様に変更することにしました.
 これに先立つ6月20日,大本営参謀次長が「本土決戦根本義の徹底に関する件」を出し,決戦を避け後退によって持久戦に臨むのは本土決戦の真義ではなく,海上及び海岸で敵を討つべきであるとの方針を打ち出してきており,上層部でも再び迷いが生じ,水際決戦へと転回していた事が判ります.

 7月2日,赤柴中将は第1期の築城報告を方面軍に提出し,その後,作戦計画暫定案,築城計画を再検討した上で,第12方面軍司令部にそれを報告し,7月10日に両師団参防長に説明を行い,水際決戦への転向を鮮明にしました.
 とは言え,今まで苦労して築城してきた陣地を抛棄する事に対しては,師団内部の不満が強く,徹底しませんでした.

 しかし,8月3日,第12方面軍は「新決三号作戦計画」を出し,水際作戦へと正式に戦略を転換することになります.
 赤柴中将は,海岸に陣地を造り,連合軍の物量の威力を発揮させず,「斬込み」「体当たり戦法」によって敵に1度は一撃を与え,其処で倒れても,本土には後に続くものがあるだろうと考え作戦に当っていたと回想しています.
 更に,8月5~6日にかけて,第53軍は相模湾防備に当る海軍と共同で,熱海の伊豆山にある相模屋で,兵棋演習を行い,2日目には大本営参謀であった竹田宮恒良も参加して真剣に実施しましたが,連合軍上陸に向けた作戦の結論は出ませんでした.

 因みに神奈川では,鎌倉の滑川以東の防衛を海軍が担当しました.
 この他東京湾封鎖も担当しており,第53軍とは江ノ島に砲台を造って要塞化するなどの協力も行っていました.
 伊豆半島では,下田と江之浦に,三浦半島では油壺,横須賀,野比などに特攻船艇の基地が設けられ,陸海軍協同の上陸防御策として,江ノ島,真鶴,沼津,三保には,陸上から魚雷を発射する射堡隊が設けられ,浦賀水道と相模湾には機雷が設置される予定でした.

 それにしても,この腰の定まらなさ,末期のグダグダ状況は何だかなぁと思いますね.
 既に正気を失っているとしか言い様が….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/04 17:31

 さて,昨日から小田原地方の本土決戦について書いている訳ですが,今日はその主力となった第84師団の話.

 本土決戦に備えて,小田原地方防衛の主力となったのは,第84師団でした.
 この師団は,サイパン陥落後に検討された,本土防衛,所謂「捷号作戦」の為に,1944年7月に留守第54師団を基幹として編成された部隊で,元々は司令部を姫路に置く部隊でした.
 初代師団長小倉達次中将から,1945年2月に佐久間為人中将に交代し,以後,敗戦まで佐久間中将の指揮下にありました.

 神奈川県の場合は聯隊区は甲府で,召集された兵士は甲府の歩兵第49聯隊に入営するのですが,第84師団は,姫路で編成された為,姫路の歩兵第199聯隊,鳥取の歩兵第200聯隊,岡山の歩兵第201聯隊の郷土部隊が配置されています.
 何故,甲府聯隊区の部隊ではなく,姫路の部隊が小田原の防衛になったのかは,追々書いていくとして….

 小田原地方の住民から,歩兵第200聯隊は「鳥取部隊」,歩兵第199聯隊は「白鷺の勇士」と呼ばれていました.
 歩兵第200聯隊は,ビルマ作戦に出動した歩兵第121聯隊の補充隊と新たな召集により編成された部隊でした.
 因みに,この聯隊の聯隊旗親授式は奇しくも1944年7月18日,つまり,東条内閣総辞職の日だったそうです.

 この歩兵第84師団は,本土決戦準備計画の変更で常に最前線への派遣が検討されていた精鋭部隊の1つで,編成後,ずっと待機命令が続き,やっと戦場としてやって来たのが縁もゆかりも無い小田原の地でした.

 元々,歩兵第84師団の任務は,海上機動反撃部隊としての性格を持っており,編成後は各聯隊共,瀬戸内海の島を舞台に,舟艇で島に上陸する訓練を繰り返していました.
 姫路の歩兵第199聯隊は,淡路島で孟宗竹を筏に組み,その上から海に飛び込む訓練を行っていますし,岡山の歩兵第201聯隊は,姫路の飾磨港沖で,砂を詰めた背嚢を背負い,救命胴衣を付けて海に放り込まれ,縄ばしごを上る訓練を繰り返し行っていました.
 大本営では,この部隊を姫路に待機させてこの様な訓練を繰り返し行わせることで,捷号作戦に於ては,神戸に集合して,小笠原諸島・伊豆諸島に派遣する機動部隊,高速輸送船で沖縄や台湾に派遣する部隊として考えていた様です.

 捷号作戦が発動され,歩兵第199聯隊では,いよいよ出動命令が下り,一同真夜中に列車に乗り込み移動を開始しますが,列車が途中で止まり引き返せと言う命令が出たとか,他の聯隊でも,動員完結の軍装検査の途中,レイテ陥落の報が入って,作戦が中止となったと言う証言があったりします.
 つまり,本来ですと,比島方面へと海上逆襲戦力となるべき師団が,捷号作戦の失敗で宙に浮いてしまった訳です.

 以後,12月中旬には台湾派遣も考慮されますが,これも実現せず,大本営が本土決戦に向けて「帝国陸海軍作戦計画要綱」を決定した直後の1945年1月22日,1個師団を台湾に引き抜かれて弱体化していた沖縄に,
 この第84師団を転用することが決定し,天皇にも内奏し,沖縄の第32軍にも報告されていたのですが,23日,派遣は急遽中止となりました.
 これは,大本営参謀本部の宮崎周一作戦部長の判断によるもので,彼は,海上輸送が既に危険な状況で本土決戦の為の貴重な兵力を無駄には出来ないと言う理由でその派遣を中止した訳です.
 本来ならば,沖縄の土となっていたかも知れない第84師団はこれで命拾いをしました.

 第84師団参謀長の回想では,師団に夜0時に大本営から直通の親展電話で出動準備の連絡があったものの,昼の11時には中部軍からの電話で出動中止の連絡が入ると言う慌ただしさだったと言います.

 以後,大本営の関心は日本本土決戦とされ,硫黄島を含む小笠原諸島や沖縄など本土周辺の島々は,本土への連合軍到達を少しでも遅らせる為の「捨て石」として利用される事になった訳です.

 2月7日,新方面軍設置となった際には,第84師団は大阪の第15方面軍の下に置かれました.
 3月17日,神戸空襲の際には神戸の防衛に行く様命じられ,各部隊から一部を抽出して出動しましたが,これから帰ってくると,今度は関東の第12方面軍の指揮下となって,小田原に行く様急遽命じられたと言います.
 こうして4月8日,第84師団は第53軍の指揮下となり,相模湾西部,駿河湾地域での防衛に就きました.

 この師団は完全装備師団だった為に,1個聯隊での人員は3,090名に達します.
 この為,3月下旬から先遣隊が派遣され,駐留場所の選定を始めました.
 4月2日付で小田原市の城内,本町,新玉,芦子国民学校の一部を借りる為に師団経理部長から照会書類を市長宛に提出しました.

 申請書類には,市から入手したらしい各学校の配置図が添付されています.
 トレース紙に校舎図が写され,軍の使用する教室が赤鉛筆でなぞられており,仮の施設として,校門に哨舎と衛兵所,敷地内に炊事場,厩の設置場所が図示されていました.
 市は,国民学校の授業を二部授業とし,それにより空いた教室を軍に提供する様に考えていました.
 これを受けて師団側で,各部隊が利用する学校を調整し,市に申請して,市は4月7日に使用承認を出しています.
 ところが,4月14日付で県の内政部長から市に対し,学校校舎の使用では県の承認が必要であるからこれを徹底させる様にせよという通知書類が来ています.
 縦割り行政はこんな切羽詰まった時期にもあった訳ですね.

 4月26日,第84師団側より,更に大窪,早川,足柄国民学校の一部校舎を借りる照会書類が出されますが,市は県の内政部長にお伺いを立て,5月9日に漸く使用許可が下り,11日に市から師団経理部宛に使用許可を出しています.
 結局手続きには半月かかりました.
 但し,実使用はそれ以前から行っているので,単に小役人のエゴを満たすだけだったりするのですが…

 因みに,県の内政部長は,第84師団にも同様の書類を部隊長宛に送付しています.
 その中には,使用範囲が目的から見て明らかに広い場合は,「認可を取消すこともあるべし」と強い姿勢で部隊に通知していますが,後に師団参謀長は,「住民の協力は良かった.小田原地方事務所長は態度不良」と回想しています.
 師団長も,地域の人の民情が良いことを挙げています.

 師団や聯隊の本部には学校が充てられたのですが,歩兵第199聯隊本部は芦子国民学校が宛がわれました.
 此処では教室を3つ使い,1つは連隊長と経理主計将校がいる部屋,2つ目は事務方の仕事用に利用され,残り1つは締め切りとなっていました.
 事務方では,丘陵部に陣地を構築する為の事務仕事を担当し,各部隊からの要請に従って,地元の運輸会社から徴用したトラックを毎日5台くらい割り振って校庭から発車させていました.
 また,各部隊の下士官が陣地築城の状況を赤鉛筆で地図に書いて報告したものを,本部の地図に転記する作業も行いました.
 更に陣地構築の為に動員する住民を,各部隊からの要請に従って割り振り,必要な人数を派遣してくれる様に,市役所総務課にお願いしに行くのも重要な仕事でした.
 聯隊長と副官など幹部は,小田原市荻窪にある法正寺のある場所にあった企業の別荘に寝泊まりしており,事務方は国民学校に寝泊まりして,夜中に何か命令があると,其処まで歩いて伝えに行ったそうです.

 この他,足柄国民学校の講堂には,軍の毛布,缶詰を収納し,主食は運動場に敷いた板の上に置き,シートを掛けて保管したと言う記録があります.
 当初は講堂に集積していましたが,流石に空襲が頻発した7月になると,缶詰は搬出され洞窟に運ばれています.
 足柄国民学校には,100~150名の部隊が駐留していました.

 明日は師団本部とかその辺について….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/05 22:39

 日本陸軍の一般の師団と同じく,第84師団は,師団司令部,3個の歩兵聯隊,野砲兵聯隊,工兵聯隊,輜重兵聯隊,速射砲隊,通信隊,衛生隊,野戦病院,制毒隊,兵器勤務隊,病馬廠などで構成されていました.

 師団司令部には作戦・動員計画,日々の命令・報告を担当し,参謀長,参謀,副官などで構成されていた幕僚部,兵站業務を含んだ管理運営業務を担当した管理部があり,他に兵器部,経理部,軍医部,獣医部がありました.
 管理部長は,高級副官が部長を兼任しています.
 この師団司令部は,1945年4月5日より,城内国民学校(現在は本町小学校と統合し三の丸小学校)に置かれましたが,管理部と経理部は,4月9日と13日に松田町立松田国民学校(現在の松田町立町田小学校)へと移転しています.
 7月6~15日にかけて,更に師団司令部全体も松田国民学校へと移転しています.

 後述する聯隊本部も7月に移転する場合が多かったりしますが,これは6月末の陣地工事の第1期築城準備期間が終了し,次の作戦準備に取りかかった為と見られます.

 そして,本土決戦が起きた場合の師団の戦闘指揮所は,輜重兵聯隊により松田山に構築されていました.
 この地からは足柄平野が一望出来,戦闘指揮には最適の場所となっていました.

 歩兵聯隊は,歩兵3個大隊,砲兵隊,速射砲隊,通信隊,作業(工兵)隊等から成り,1個大隊は3個中隊,機関銃隊,大隊砲隊で構成され,1個中隊は3個小隊からなっています.
 つまり,第84師団は典型的な3単位師団だった訳ですが,1つだけ異質だったのが,作業(工兵)隊です.
 これは,各中隊から身体強健な者,陣地構築に必要な土木知識を持つ者を併せて編成した中隊規模の隊でした.
 即ち,本土決戦に備えて陣地構築を重視した結果と言えるでしょう.

 歩兵第199聯隊の聯隊本部は4月半ばから芦子国民学校に置かれました.
 その後,7月17日に小田原の西部丘陵地にある足柄国民学校久野分教場に移転し,戦闘時の聯隊本部は小田原西部の威張山(辻村植物公園と水之尾の間にある山)附近に構築されていました.
 現在でも,辻村植物公園の中には丸太を重ねて入口を塞いだ横穴があり,聯隊の関連施設と考えられています.
 歩兵第199聯隊の担当地域は,小田原市の酒匂川以西の地域,湯河原方面でした.
 第1大隊が小田原に本部を置いて,丘陵北部の舟原,諏訪原,南足柄の三竹地域に,第3大隊が現在の伊豆箱根バス車庫辺りにあった久野青年学校に本部を置き,坊所周辺で陣地構築を行っていました.
 第3大隊の第9中隊のみは,石垣山と早川で陣地構築に当っていました.
 また,第2大隊は真鶴・湯河原方面に駐留しています.

 歩兵第199聯隊には新兵器が配備されていました.
 この兵器を運用する為独立部隊が作られ,最初は,速射砲中隊に属していましたが,後に独立して中隊になっていたと考えられています.
 今まで日本陸軍の対戦車兵器と言えば,地雷を抱えて戦車の下に飛び込んだり,竹の先に爆薬を持つ刺突爆雷を用いた肉薄特攻とか,火炎瓶を投げつけると言った事しか出来なかったのですが,歩兵第199聯隊が装備したのは,初めて対戦車砲以外に歩兵が持ち得た対戦車ロケット砲「ロタ砲」でした.
 これは,日本版バズーカ砲,パンツァーシュレッケで,2本の筒を繋ぎ合せて約1.5mの砲身とし,これに直径7.4cm,長さ36cmの成形炸薬弾である「タ弾」を挿入し,バズーカなどの様に電気着火ではなく,撃発式で発射するもので,弾底には30度の方向の穴が6つ空いており,ここから噴流が吹き出て,弾に回転力を与えながら飛翔します.
 射程距離は短い100mですが,それでも,刺突爆雷よりは遙かにマシ.
 このタ弾の威力は,着角60~90度の場合,80mmの鋼板を貫通するくらいのもので,命中率は60%,発射速度は慣れていれば1分間に6発を発射することが出来ます.
 発射時には火傷をしない様に,顔にはパンツァーシュレッケと同じく覆いをしています.

 この新兵器,しかも小倉と大阪で3,500門しか生産されていないものの優先配備を,歩兵第199聯隊は,何故か15門ほど保有していました.

 この部隊は酒匂川の中流の栢山近くにあった国民学校に,満州から引上げてきた部隊の後に駐留していました.
 部隊の構成は兵員約250名ですが,職業軍人は50名足らずで,残り200名は長野や新潟から6月に根刮ぎ動員で入隊した初年兵だったそうです.
 そして,この部隊は,8月23日に第1期検閲を受ける予定で猛訓練の最中に敗戦となったそうです.
 因みに,「タ弾」の供給も意外に豊富だったらしく,赤柴中将は,擲弾筒より「タ弾」を発射する訓練を行って,実用の見通しを得て,軍兵器部直轄工場で擲弾筒製作を試作したところで敗戦になったそうです.
 これは或いはパンツァーファウスト的なものだったのかもしれません.

 こうした新装備の充実振りを考えると,意外に赤柴中将は対戦車戦に自信を持っていたのかも知れませんね.

 一方,歩兵第200聯隊は,酒匂川東側地域,国府津,二宮から北へ大井,中井までを担当し,当初聯隊本部は国府津国民学校に置かれていましたが,こちらも国府津駅北の山際にある宝金剛寺に移転しています.
 戦闘時の聯隊本部の陣地は,国府津北部丘陵地陣地の最深部の浅間山に構築中でしたが,水際作戦への変更で抛棄されています.

 第1大隊は国府津駅北側の弁天山,高山に,第2大隊は不動山,浅間山に,第2大隊が中井山の台山に陣地構築を行っていたと考えられています.
 第3大隊の本部は4月24日に山田国民学校に置かれましたが,5月5日の夕刻,計画変更で引揚げ海岸付近に移動したと言われています.
 その場所は何れもはっきりとはしないのですが,「第53軍築城施設図」では,丘陵地に2個大隊分の陣地,平地部の上府中に2個中隊,酒匂川河口東側の酒匂と小八幡の海岸線に1個中隊分の陣地が描かれており,平地が第3大隊の配備であると考えられています.
 この他,第2大隊の第6中隊の一部も敗戦近くには国府津駅裏側に穴を掘り,海岸に向けての機関銃座を設置していました.
 もし,足柄平野に連合軍が侵攻した場合,東京方面への進出を考えると,先ず主力は酒匂川東側海岸線への上陸が想定され,この海岸線と平地の陣地が第84師団の正面部隊となったであろうと考えられています.
 なお,歩兵第200聯隊にも作業中隊が編成されており,この中隊は曽我の城前寺,宗我神社附近に展開していました.

 こうした陣地は,爆弾に堪えなければなりません.
 この為には,地下陣地から地上まで,25m以上の掩護土層が必要とされました.
 故に,山の斜面から2分の1の勾配で斜めに穴を掘っていきました.
 土は聯隊本部陣地では手で搬出していましたが,第1大隊の本部陣地や台山陣地ではトロッコの線路を敷設し,それによる土砂の搬出が行われていたと言う記録が残っています.
 浅間山の陣地は関東ローム層の素掘り穴で,その崩落を防ぐ為に板材による補強が行われました.
 それは坑道の上部に角材を置き,両端に角材の足を組立て,天井部に頂板,横壁に側板を嵌め込み,地山との間は空間を無くす様に土を詰めたものでした.
 作業は3交代制,1日の掘進速度は3mがノルマだったそうです.
 陣地は両側から掘削していきましたが,最終的に穴が若干ずれてしまい,最後には鉄の棒で突っついて貫通させたとあります.
 勿論,陸軍の事ですから,トランシットやレベルも用いていたのですが,それでも陣地構築は難しかったようです.
 また,坑道が長くなると酸素欠乏になる兵士が出て来るので,鳥取から扇風機を徴発して換気を行ったそうですが,始めは坑道の入口から風を吹き込んだのですが,経験者の兵士のアドバイスで,孟宗竹を繋いで中から空気を送り出す様に改めました.
 夜間も工事が行われたのですが,電線を坑内に引き込んでいたものの,それは裸電線だった為に長くなると途中で放電して,坑内尖端での明るさは唐辛子くらいの灯火にしか成らなかったと言う,過酷な条件での作業でした.

 こうした陣地構築の道具も不足していました.
 陣地構築の道具としては,小円匙しかなく,師団長佐久間中将自ら編成地の姫路に人を遣って,大十字鍬8,000個,大円匙1,200個の寄贈を受けてきました.
 穴掘りは人力が主ですが,兵庫の生野銀山から削岩機を借りてきたこともあった様です.
 陣地用の木材の伐採は,足柄平野北部の松田山や山北,南足柄で行われ,陣地周辺では行いませんでした.
 こうした木材は,山道に丸太を線路の枕木の様に並べ,それを道として,蔓で縛った木を橇で滑らせて下に下ろしたりしたそうです.
 勿論,この様な陣地構築や伐採では事故も絶えず起き,何人もの兵士が死亡しています.

 しかし,兵力は十分でも火力が不足していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/06 22:40

 さて,本土決戦に備えては火砲の増強が行われました.
 勿論,火砲のリソースが余っている訳ではなく,別の所から転用しているので,その方面は弱体化した訳です.

 四国の項でも出て来ましたが,転用元はこれまた満州で,第53軍へは野戦重砲兵第2聯隊が配備され,第84師団にはそのうちの1個中隊が配備されました.
 この部隊は,15糎榴弾砲を6門装備し,浅間山付近に配備されています.
 野戦重砲兵第2聯隊は,元々静岡県三島で編成され,1943年4月に満州に渡りますが,1945年4月に本土決戦部隊に転用され,満州を発ち,朝鮮半島を南下して羅津から新潟に向かいました.
 新潟からは列車で相模原の淵野辺に赴き,其処から大井町柳に駐留して本土決戦の任務に従事しました.
 その本部は柳にある稲荷社で,その裏山の櫟林の中に弾薬を保管していたそうです.

 本隊の3分の2,段列の一部も浅間山で陣地構築を行いました.
 現在,曽我丘陵を巡るハイキングコースの一部になっている,「いこいの村あしがら」から浅間山への登山道は,陣地構築の為に車輌が通れる様,この部隊が整備した道を今でも流用しているものです.

 この他第53軍の重砲は,直属の独立重砲兵第36大隊に属するものがあり,この部隊は,四五式24糎榴弾砲を4門装備していました.
 この砲は浅間山近辺に2門,北部の篠窪,峠附近に1門が配備される計画でした.
 これらの砲は,両陣地から酒匂川両岸と大磯海岸を射程に収め,揚陸戦時には橋頭堡を攻撃する役割を担っていました.

 何れにしても,浅間山,不動山近辺は火砲陣地の中心であり,相模湾防衛戦にはこの場所が非常に重要視されていたことが判ります.

 さて,昨日は歩兵第199聯隊と第200聯隊について書いた訳ですが,岡山で編成された歩兵第201聯隊は,両聯隊とは少し離れ,第53軍の守備範囲の西端にある富士川付近以東の静岡県と駿河湾の防衛に回されました.
 当初はその西端に当る沼津市に駐留し,聯隊本部は第三国民学校(現在の沼津市立第三小学校)に置かれました.

 沼津では,香貫山から徳倉山に掛けての陣地を構築し,ほぼ完成させていました.
 第12方面軍司令官の築城検閲ではこの部隊が構築した築城陣地が,第12方面軍の全軍で2位になり,相模湾よりも完成度が高かったことが伺えます.

 なお,第53軍の守備範囲は富士川左岸は含まれず,こちらは第36軍に属した第81師団の歩兵第173聯隊(編成地高崎)が陣地構築に当っていましたが,其処との連絡の為か,富士市の入山瀬に聯隊から1個中隊を割いて配備していたそうです.

 しかし,6月末になると第201聯隊は,突然神奈川県松田町へと配置替えになりました.
 沼津には代わりに独立混成第117旅団が駿河支隊として配備されることとなりましたが,この時点での配置替えは,軍首脳部が師団主力を相模湾に貼り付け,相模湾を決戦場に想定した為と思われます.
 7月は,大磯と平塚では第140師団に代わり,第316師団が配備され始める時期でもあり,二宮は第84師団と第316師団の境でした.
 実際,第84師団の佐久間師団長の回想では,第3次動員で人員も不足し,装備も満足でない第316師団による陣地構築が満足に行くのか心配だったと言う事で,平塚方面に敵が上陸する蓋然性が増し,其処には満足な装備もない第316師団がいると言うので,師団長としては二宮地域への軍備増強が図られたようです.

 8月に入ると,多くの岡山から来た兵士が吾妻山の西側から中村川の間の地域にある寺院,集会所,一般民家にやって来て駐留しています.
 つまり,沼津から移転してきた歩兵第201聯隊の部隊であると考えられます.

 西光寺には対戦車砲部隊が駐留していました.
 此処に駐留していた兵士達は,「タイヤの付いた砲は我々の砲だけだ」と自慢していたと言っていたそうですが,聯隊速射砲中隊は九四式37粍砲が配備されており,こちらは人力もしくは馬力で牽引するので,「タイヤの付いた」とは言い切れませんから,多分師団速射砲隊の一式機動47粍砲の分隊であると考えられています.
 彼等は本堂で寝起きし,寺と海岸の間にある山王山に横穴を掘って砲を隠す様にしており,弾薬は近くの釜野横穴古墳群に格納していました.

 梅沢橋近くの等覚院(藤巻寺)では,聯隊の兵士達が,二宮海岸から海岸近くの民家の庭先まで地下壕を掘っていました.

 6月末に水際作戦へと変更になった際に,沿岸地域に於ては第201聯隊を中心に海岸陣地が構築されつつありました.
 特に,敵の水陸両用戦車を中心とした上陸車輌を攻撃する為に,対戦車攻撃を行う速射砲隊に重点が置かれていたようです.

 中村川下流の小田原市と二宮町の境にある押切橋近くには,重機関銃陣地が構築されていました.
 二宮海岸近くでは,先述の様に,海岸手前の陣地から海岸に向け,現在の国道一号線の地下に4~5本の隧道を通し,海岸には蛸壺陣地が掘られました.

 これらは,連合軍の艦砲射撃や爆撃が終わり,上陸用舟艇が動き出したら,待機していた陣地から隧道を通って蛸壺に潜って待機し,戦車が砲の死角まで近付いたら,爆薬を持って戦車に飛込み,自爆して擱座させる作戦で用いられる予定でした.

 こうした陣地構築は第201聯隊だけでなく,第200聯隊でも行われ,国府津駅の裏山から東海道線の下を潜り,海岸に通り抜ける隧道が何本も掘られていました.
 また,国府津の断崖の裏手には洞窟陣地を構築して,背後からの攪乱を考えてもいました.

 因みに,こうした海岸の蛸壺陣地は,砂地である為に幾ら掘っても崩れてしまいます.
 板による補強も行われましたが,結局,附近の酒蔵や醤油醸造業などから酒樽や醤油樽を徴発して,それを海岸に埋めて水の浸入や砂の崩落を防ぎました.
 樽だけでなく,勿論,部隊の備品であるドラム缶も転用しています.

 師団速射砲隊は,当初,本部が秦野の上国民学校(現在の秦野市立上小学校)に5月2日~7月10日まで置かれ,松田付近に洞窟陣地を構築していましたが,水際作戦に変更されてからは,本部は大井町篠窪の民家に置き,三島神社に部隊の一部が駐留しています.
 この配置は,足柄平野に上陸した連合軍が東京を目指す際に通るであろう道,即ち,松田から現在の国道246号線,松田山と渋沢丘陵に挟まれた川音川沿いの道を通り,秦野・伊勢原方面に進む事になっており,この辺りに,幾つもの偽陣地と,幾つかの速射砲陣地を設けて敵の通行を阻止しようとしていました.

 師団直轄の野砲兵第84聯隊は,曽我国民学校(現在の小田原市立曽我小学校)に本部が置かれていたようです.
 7月からは水際作戦への方針転換に伴い,足柄国民学校(現在の小田原市立白山中学校)に第2大隊が駐留しています.
 ただ,部隊名は不明ながら足柄国民学校には既に砲兵部隊が駐留しており,他に小田原市板橋にあった大窪国民学校(現在の小田原市立大窪小学校)に第1大隊第1中隊と第2大隊の段列が駐留しており,第1大隊の段列だったかも知れません.

 野砲兵第84聯隊には野砲(九〇式?)9門,九一式10糎榴弾砲9門を装備し,足柄平野東西の丘陵陣地で,海岸線から垂直に2~3km地点,第199聯隊側は板橋付近,第200聯隊側には沼代付近に,それぞれ野砲3門,10糎榴弾砲3門が配備され,酒匂川河口に照準を合わせていました.
 まあ,不動山にも一部が配備されています.
 砲兵は,その主力を小田原の北部に,一部を国府津に置きますが,反撃を考慮して砲撃目標の重点を酒匂川左岸に指向していました.

 これらの火力を補完するものとして,第84師団直轄兵力ではありませんが,小田原西部の石垣山と入生田,二宮では吾妻山に14糎加農砲が各1門配備され,これまた酒匂川河口を指向していました.

 輜重兵第84聯隊は,松田町の寄国民学校(現在の松田町立寄小学校)に5月2日から本部を置いていましたが,7月10日に速射砲隊が移動した後の秦野の上国民学校に移動しています.
 これは師団戦闘指揮所の工事が一段落したからかも知れません.
 輜重兵聯隊は,3個中隊で構成されており,第1中隊が輓馬中隊,第2,第3中隊が自動車部隊でした.
 トラックは小隊毎に聯隊支援の為に駐留場所を割り振られ,林の中に並べて小枝を被せて偽装していました.
 配置場所は南足柄,山北,松田や第199聯隊が構築していた丘陵陣地北部の福沢村(現在の南足柄市),大井町にも及び,各聯隊が利用していた木材搬出場所に近い場所に駐留していました.

 これらのトラックは,歩兵聯隊が構築している陣地用に,原木を製材所まで運び,材木に加工して陣地構築場所まで持って行ったり,食糧調達などに活用されていました.

 機動兵力はトラックだけではなく,戦車までありました.
 と言っても,戦車第2聯隊の第2中隊と言う中隊規模でしか有りません.
 この部隊は,5月28日から8月2日まで大井町の山田国民学校に本部があり,国民学校近くの竹藪に戦車が隠されていました.
 平野北部に配備された戦車部隊(と言っても,中戦車8両ぽっちの兵力ですが)は,連合軍が足柄平野地域に上陸するや,機動部隊として打撃を与える為のものでしたが,水際作戦への移行と共に,配置場所が移動となってしまったそうです.

 こうして見てみると非常に充実した戦力がこの地域に展開されていましたが,急な作戦方針転換による現場の混乱を考えると,どれほどの効果があったかは定かではありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/07 21:47

 ところで,この地区での兵士の任務は,陣地構築に専念することでした.

 兵科,兵種に限らず,全兵士が作業を分担して,総力を挙げて丘陵地域での陣地構築を実施しました.
 そして,陣地構築後は,連合軍を迎撃する為の肉攻訓練などの教育訓練に重点が置かれる予定でしたが,途中での作戦方針転換もあって,結局,敗戦まで彼等の任務は陣地構築で終わりました.
 陣地構築の仕事の大部分は,トンネル掘りと,坑道を補強する為の木材の伐採と製材が主でした.

 「国土築城実施要綱」では各部隊は,自力で陣地を築城することが原則でしたので,部隊の兵士は,伐採班,製材班,築城班に分かれて作業を行っています.
 勿論,地域住民の有効活用としての労務動員も自前で地方行政当局と交渉して調達し,セメントなどの工業製品に頼ることなく,現地の材料を活用し,地形を有効に利用した陣地構築が求められました.
 こうした築城では,陣地構築に多くの人手が取られて坑道補強の木材の生産が間に合わなかず,結果として進捗が遅れたり,掘削に困難な岩盤が出た場合の措置が人力では限界があること,更に地下での作業により,戦力となるべき兵士達への健康悪化の問題が出たりしています.

 本土決戦では,築城だけでなく全ての面で自活が求められました.

 食糧も勿論自活が求められています.
 一般の兵士の主食は大豆や高粱ですが,第53軍に関しては,副食物が比較的豊かな方でした.師団長命令で宮城県気仙沼市に主計将校を派遣して,鰹節や塩物を多数購入してきています.
 これにより,炊爨時に煙が出るのを防いでいました.

 軍司令部でも,自活の為に種々工夫していましたが,幸い第53軍は経理部長に人を得ていて,先ず糧秣費を其の儘使わず,福井の人絹,北海道の鰊など輸送が出来なくて滞貨しているものを買い集め,その物で物々交換をすることにより,糧秣予算で直接購入するよりも何倍もの食料を手に入れていました.
 また,芝浦の倉庫に太平洋諸島部隊に送られる筈の補給糧秣が輸送出来ずに滞貨していたものを,担当者と話を付けて独占的に手に入れ,これでゴム袋に入った米,味噌,氷砂糖を手に入れました.
 他に,経理部長は第53軍内部にいた専門家を集めて,漁撈隊を編成したり,干魚の備蓄,熱海で海水を利用した電気製塩工場の直営,自活農園の計画などに才能を発揮しました.
 因みに,この経理部長,1951年には日本でもロシア料理店の草分けとなる渋谷ロゴスキーの経営者になりました.

 こうした生活物資を得る為に,伐採,製材,築城の各班だけでなく,農耕隊,漁撈班,炭焼班,製塩班が第84師団にも設けられました.
 足柄国民学校には,1945年4月15日から農耕隊が駐屯し,学校に農地の提供を依頼していますし,城内国民学校でも,威張山の報徳道場と農場を第199聯隊に貸与したと言う記録があり,これも農耕隊であると思われます.
 これら農耕隊は,これらの農地で馬鈴薯や野菜を栽培していましたし,炭焼班は諏訪原辺りで活動していたようです.
 また,漁撈隊は湯河原町の福浦で活動しており,兵士の中には海豚を食べたと言う人もいました.
 一方,熱海の製塩工場は余り能率的では無かったようです.
 この他に,第200聯隊では,鳥取から牛や豚を連れてきて自活の足しにしていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/08 23:09

 さて,今まで小田原地方の第53軍,第84師団を中心に書いてきましたが,彼等の築城作業を支えたのは,地域住民達の勤労奉仕でした.
 「国土築城実施要綱」には,「資材,労力に関し軍は自活,自力整備及地方官民労力の有効なる運用に著意する」と書かれて居るほど,当初から地域の物的,人的能力が宛にされていた訳です.
 それだけ国内は物資不足であり,戦場となる地域の協力なくしては,秋に予想されている連合軍の本土上陸に備える陣地構築を間に合わすことが出来ない状態でした.

 この地域住民の活用は,1940年に法制化された町内会,隣組を使って行われています.
 これは,
政府
→都道府県知事
→市町村長
→町内会(都市部)・部落会(農村部)
→隣組
と言う行政の上意下達機構の一機能で,各種戦時行政業務として住居登録,配給,貯蓄奨励,労力奉仕などがこのルートで行われ,月に1回,定期的に隣組常会が開かれ,各戸から1人,町内常会・部落常会では隣組長が出席して,政府の方針を末端まで伝える役割を担っていました.

 その常会に於て,軍動員の記事が出て来るのは5月のことで,15日間に亘って,1日当り各町内会で300名,在郷軍人150名を参加させての作業伝達が来てからです.
 これは連合分会が指揮し,鋸,鉈,斧,ロープを各区で用意した上,各人には中食を持参させて作業に参加しろと言うものでした.
 この他,牛車,馬,手車などを携行した者には,賃金が支払われ,重要工場の工員であってもこれに参加する場合は欠勤扱いとしないとあり,更に如何なる地位に於ても拒むことを得ずと言う命令が出ています.
 15日で,動員員数は延べ4,500名+在郷軍人2,250名で,動員人数の割り振りは,各町内会の世帯数によりました.
 この動員比率は,平均的に総世帯数の35~36%の範囲に達しました.

 こうした人的協力だけではなく,物資の供出も命じられました.
 5月の大日本婦人会の常会伝達事項に,5寸(約15cm)四方の古繊維を各班で1貫目(約3.75kg)分無償で供出する様に伝達が為されています.
 これは,各部隊で利用する兵器手入れ用の繊維であり,同様の伝達は,8月にも砲兵部隊から足柄地区の婦人会に依頼が為されています.

 作業は主に男性が行いましたが,大日本婦人会を通じての労働奉仕もありました.
 自分の田畑を放っておいてまで,軍部隊の為,炊事・洗濯・軍部隊の農耕地での草取り作業を行っていました.
 更に,夫が出征して妻が幼い子供を懸命に育てている家庭でも,容赦なく動員命令は下され,男手の足りない常会では,男に交じって,材木運搬や陣地構築に駆り出されていました.

 在郷軍人は在郷軍人会を通じて「軍隊協力会に関する参加命令」が下され,分会単位で陣地構築に動員されています.

 これとは別に,防衛召集によって,在郷軍人が本土決戦部隊と共に活動しています.
 この防衛召集というのは,敵の来襲や空襲の際,その附近の在郷軍人並びに国民兵役にある者を召集して,教護防衛に当らせるもので,こうした召集で,特設警備隊や地区特設警備隊が編成されました.
 小田原では,1943年に特設警備隊第14中隊が小田原市板橋の大窪出張所を本部として発足し,これは8名が常置,有事には126名の部隊となる予定でした.
 本土決戦では第53軍指揮下に入り,断七八九一部隊となりました.
 県西部には,山北役場を本部として松田に分屯中隊を配置した第18特設警備隊(東三〇七三八)が,南足柄岡本役場を本部として第19特設警備隊(東三〇七三九)が,下曽我村役場を本部として国府津に分屯中隊を配置した第20特設警備隊(東三〇七八〇)が,宮ノ下宮城野役場を本部として元箱根に分屯中隊を置いた第21特設警備隊(東三〇七四一)が,真鶴町役場を本部として第22特設警備隊(東三〇七四二)がそれぞれ配置され,東部軍の指揮下に入っています.

 更に,大井町赤田では11名の高年齢者が防衛召集を受けています.
 この防衛召集令状は,短冊状に切ったわら半紙に印刷された粗末なもので,召集期間が書かれ,携行品として,防雨外套(傘を禁ず),弁当箱1,丼2,箸1,水筒1,雑嚢(風呂敷にても可),針,糸,シャツ,ズボン下,靴下3,日用品若干を用意して持ってくる様に求めています.
 これらの防衛召集部隊も,同様に陣地構築作業に従事していました.

 こうした陣地構築作業については,小田原憲兵分隊長から,「軍の協力作業に関する言葉は(防諜上)慎むこと,兵の女に対することに注意,兵が食糧を強要せし場合,部隊名を調べ通知のこと」などと言う注意が常会にて発言されており,一部に問題があったと思われます.

 6月になると,根刮ぎ第3次動員が為された後に,常会の席上で国民義勇隊についての冊子が配られました.
 これは3月に提唱されたものですが,主導権を巡って暗闘があり,最終的に内務省が主導し,中央組織は置かず府県毎に本部を置き,本部長は知事とする組織とし,大政翼賛会,翼賛壮年会,大日本婦人会,在郷軍人防衛隊を発展解消してこれに一元化すると言うものとなりました.
 これは,戦局の悪化に伴い,綻び始めた国民の気持ちに緊張感を与え,戦時体制を維持し,生産を維持する目的で造られたものです.

 神奈川県では政府の決定に伴い,知事が5月7日に準備会を開催して「国民義勇隊組織要綱」を審議した後,9日に各市長,地方事務所長を集めてこの要綱の徹底を図り,小田原市では12日に町内会長を集めて国民義勇隊結成の打ち合わせを行いました.

 国民義勇隊の組織自体は,当面,防空及び防衛,食料増産,空襲被害の復旧や軍の陣地構築の補助,警防活動と言った,従来の活動と何ら変る事はありませんでした.
 小田原市の国民義勇隊は,本部を小田原市役所に置き,隊長1名,副隊長2名,幕僚若干,中隊長13名,小隊長71名,分隊長若干の役員が置かれました.
 隊長には当時69歳だった鈴木英雄小田原市長が就任し,隊員は市に居住する国民学校初等科修了以上で65歳以下の男子,45歳以下の女子で構成され,職域などの隊員,「不具廃疾者,病弱者並に妊産婦」は除外されました.
 因みに,鈴木市長は69歳ですから65歳以下と言う規定に引っかかりますが,隊長は市長が就任することになっており,また年齢を超えていても,志願により隊に編入出来ると言う条項もあり,問題はありませんでした.
 しかし,二宮町に於ては,町長が老齢の故にその職を辞する事例もあったりして,必ずしもスムースに隊が編成できたわけではないみたいです.

 副隊長以下の役員は隊員の中から市長が任命し,小田原市では市会議長と在郷軍人会連合分会長が副隊長に,幕僚には大政翼賛会,翼賛青年会,在郷軍人会の役員,市役所助役,議会関係者などを選任しています.
 要は,今までの組織の役員をそのまま宛がったに過ぎません.
 また,要所の隊長には,戦闘隊への移転も考えて,在郷軍人会の役員を配していました.
 小田原市の国民義勇隊に於ては,顧問と言う役職が設けられています.
 これは,隊長の諮問に応じ必要なる意見を具申するのが任務となっており,警察署長,勤労動員署長,警防団長,市会副議長,町内会長,大日本婦人会小田原支部長,小田原市農業会長と言った,当面の目的に関連する団体の役員が就任していました.

 中隊は,在郷軍人分会の区域で全部で13個中隊を編成していましたが,在郷軍人会の分会長が其の儘横滑りで中隊長に就任する事は少なく,そう言った事例は4個中隊の中隊長だけでした.
 小隊は,町内会単位で編成して71個小隊が設けられ,小隊の下には隣組で分隊を編成し,それを男子隊と女子隊に分けたと言う記録がありますが,この分隊に関する詳細は不明です.
 即ち,上で書いた上意下達組織の戦時行政事務組織が,其の儘,国民義勇隊と言う看板に掛け変わっただけだったりします.

 この他,会社,工場で常時50名以上人員が居た場合は,職域国民義勇隊を組織し,人員が少ない場合は地域国民義勇隊に編入されたり,別の職域と合併して職域国民義勇隊を組織しています.

 そして,この組織が,本土決戦時には国民義勇戦闘隊に移行する予定だったわけです.
 ドイツの国民突撃隊よりも貧弱ですから,どれだけ実際の戦力に寄与したかは実際に戦闘が起こっていない以上,定かではありませんが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/09 21:48

 ところで,6月末に水際作戦が復活し,水際陣地を造る様になると,またも資材が不足します.
 8月には,有刺鉄線の回収命令が常会を通じて庶民に下されます.
 この時は,1貫目41銭で有償買い上げされる布告が為された結果,570貫940匁(約2.14t)が集められて,うち,築城に於て366貫40匁(約1.37t)が用いられました.
 実現するかどうかは不明ですが,計画では,電流鉄条網を採用する予定でしたから,残りはそれに使用する予定だったのかも知れません.

 また,8月になると「老幼病者妊産婦調査」が町内会,隣組毎に行われ,国民学校初等科児童,乳幼児(1~7歳),妊産婦,老年(男性66歳以上,女性56歳以上),病者又は不具癈疾者,乳幼児病者の付添人の住所,氏名,年齢などの一覧表を作成する通知が来ています.
 即ち,上で出て来た様に,国民義勇隊の非構成員の名簿であり,本来は本土決戦時に避難する対象の人員の名簿でした.
 ただ,四国と同じく,住民の避難計画はその人数の多さ,避難受容れ地域の収容能力の問題から進んでいません.
 第84師団の参謀は,「疎開に対し,住民が無関係であったので,如何に住民を誘導するかを考え,山梨県方面に住民を待避させたらと考えた」と回想していますから,全く計画を立案しなかった訳でもありません.

 軍は四国同様,上陸が予想される沿岸地域を,直接戦場となる戦場地区(甲地区)とその周辺の交戦地区(乙地区)に指定し,神奈川県全域はこのどちらかの地区に指定されていました.
 その割には,神奈川県は千葉県に比べて住民待避計画が遅れていた様です.
 ただ,山北町では8月4日に緊急協議会を開催し,足柄上郡避難計画指示案に関する件と言うのが討議された記録が残っています.

 ところで,学生の場合は,1941年から軍需資源確保と食料増産確保の為,学校報国隊が組織され,年間30日の授業を勤労作業に振替えることが出来る様にしましたが,その比率は年を経るに従って大きくなり,1943年10月の「教育に関する戦時非常措置方策」では年間3分の1の勤労動員,1944年1月には「緊急学徒勤労動員方策要綱」で通年恒常循環的な勤務が可能となり,4月からは中等学校程度の学徒は常時工場等に動員可能となり,8月の「学徒勤労令」で学徒動員体制が法制化されました.
 そして,1945年3月からは「決戦教育措置要綱」が閣議決定され,学徒を,食料増産,軍需生産,その他直接「決戦に緊要なる業務」に動員する為に,国民学校初等科を除いて1年間授業を停止し,教職員と学徒とで「学徒隊」を組織することが決定されました.

 〔略〕
 とは言え,小田原の場合は,国民義勇隊でもそうですが,学校組織がそのまま学徒隊に移行しただけであり,余り何かが変わったと言うほどのことではなかった様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/10 18:53

一方そのころ,近くの清水市では……
(うそ)
(画像掲示板より引用)




 【質問】
 ペリリュー戦のときから,水際防御は徐々に放棄する方向にあったと記憶しているのですが,
・訓練未熟の兵士は水際用,
・マシなのは内陸用
ということでしょうか?

消印所沢

 【回答】
 本当は陸軍も後退配備をしたかった様です.
(だから松代大本営を建設した)
 しかし鈴木貫太郎首相が,大本営と協議する際に,強硬に本土水際での一撃作戦を主張した為に,陸軍としても引っ込みが付かなくなり,内部からの突き上げもあって,水際作戦へと雪崩れ込んだとか言う話を聞いた覚えが….

 謂わば,首相の作戦勝ちみたいな感じですかねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/04 21:44

 今まで第84師団を中心に足柄地域の配備状況を書いてきた訳ですが,後退配備の持久戦から水際作戦への転換と言うのがありました.

 もし,後退配備の持久戦で連合軍を迎えているとすれば,足柄平野に連合軍を誘い込み,東西の丘陵地から砲撃を行い,丘陵陣地に連合軍を引きつけて戦うことになった筈です.
 其処を強行突破して,東京方面に向かった場合は,平野北部の松田に配備している対戦車砲部隊や戦車隊により,東京方面への進撃を阻止する…つまり,足柄平野全体が沖縄戦の様な様相を呈していたと考えられます.

 では,水際作戦だったらどうなるかと言えば,連合軍の上陸に対し,後退配備よりも前進した重砲陣地から酒匂川の河口に砲撃を浴びせ,上陸した敵に対しては,速射砲や蛸壺陣地からの肉薄攻撃で対応したと考えられます.
 また,第84師団の佐久間師団長は,回想で,敵の前進阻止の為に堰堤を構築し,斬込み隊を配置したと述べているので,平地陣地での阻止を考え,更に新兵器「ロタ砲」を平野中央部に配備していた為に,これが強力な対戦車火力網を構成したと考えていたと思われます.
 但し,第1総軍の杉山元帥,阿南陸相など軍部上層部は,この作戦で完全に米軍の上陸を阻止出来るとは考えておらず,1回は阻止し得ても,2回目の上陸は無傷の部隊が投入されるであろうから,既に掃討の損害を被っている部隊で阻止は不可能であると悟っていました.

 勿論,第53軍の赤柴軍司令官も同様でしたが,此処で倒れても本土には後に続く者があるであろうと考えていました.
 実際にこうした戦闘が行われなかったのは幸いでしたが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/08 23:09

コロネット作戦
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 国民義勇戦闘隊とは?

 【回答】
 本土決戦になると,国民義勇隊は国民義勇戦闘隊に衣替えすることになっていました.
 とは言え,直ぐに戦闘に投入される訳ではなく,作戦に必要な生産,輸送,築城,防空,復旧,救護などの兵站任務での活動が考えられており,状況により戦闘任務に就く様に決められていました.

 また,戦闘隊に移行した場合は,軍管区司令官などの指揮下に入り,統帥権の下に置かれることになります.
 その為,6月23日に公布されたのが義勇兵役法で,これは年齢15~60歳までの男子,17~40歳までの女子(但し,学齢以下の子女を有する母親は除く)に対し義勇兵役の義務を課し,この年齢以外でも志願により義勇兵役に服することが出来るとしました.
 状況が緊迫すれば,義勇召集を行い,召集を逃れる為逃亡した者は2年以下の懲役に処することが定められました.

 更に24日には,陸海軍は「国民義勇戦闘隊教令」を作成し,発表しました.
 これによると,国民義勇戦闘隊は天皇親率の皇軍となり,皇土を身命を捧げて守護すること,そして,主任務は本土決戦に参加することで,それと共に作戦軍の後方業務を担うことになりました.
 とは言え,兵站業務より先に,敵が上陸若しくは空挺部隊の降下があった場合は,一般部隊に協力したり,或いは独力で郷土を護り,遊撃戦で一般部隊の作戦を支援し,直接攻撃を行う時には肉弾(特攻攻撃)で敵を撃滅する気概を持つべきだと説いています.
 しかし,この為の武器は軍から給与されず,手弁当で服装は行動しやすいものに「戦」の文字を書いた白布を胸に縫い付けると共に,軍の制服や階級章は付けてはいけないとされました.
 ドイツの国民突撃隊の場合は,曲がりなりにも腕章くらいは配布されていますから,随分と投げやりな態度だったりします.
 一応,一億総特攻を叫んでいる手前,形式だけは整えたのだと思いますが,実際に,軍部は余りこの国民義勇戦闘隊を戦力として考えていなかったのではないか,とされる証左です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/10 18:53


 【質問】
 「学徒隊」とは?

 【回答】
 学生の場合は,1941年から軍需資源確保と食料増産確保の為,学校報国隊が組織され,年間30日の授業を勤労作業に振替えることが出来る様にしましたが,その比率は年を経るに従って大きくなり,
1943年10月の「教育に関する戦時非常措置方策」では年間3分の1の勤労動員,
1944年1月には「緊急学徒勤労動員方策要綱」で通年恒常循環的な勤務が可能となり,
4月からは中等学校程度の学徒は常時工場等に動員可能となり,
8月の「学徒勤労令」で学徒動員体制が法制化されました.
 そして,1945年3月からは「決戦教育措置要綱」が閣議決定され,学徒を,食料増産,軍需生産,その他直接「決戦に緊要なる業務」に動員する為に,国民学校初等科を除いて1年間授業を停止し,教職員と学徒とで「学徒隊」を組織することが決定されました.

 これは一般国民の国民義勇隊に対応したもので,5月から文部省は,「学徒体錬特別措置要綱」を出して,決戦教育措置要綱に基づく教練内容を定めました.
 これによると,学徒が「皇土防衛任務に勇躍挺身」する為の体錬は,戦闘第一主義に重点を置き,短期に養成するものとし,訓練項目は手榴弾の投擲,銃剣術,剣道,柔道の「白兵戦技」などであり,この訓練は国民学校高等科以上の男子学徒が対象,初等科ではこの主旨を持つ規定の課程で実施するものとされました.
 また,女子学徒は,防空,救護,非常炊爨,運搬に必要な能力の育成に加え,手榴弾投擲,薙刀,刺突法,護身法の訓練も要請しています.

 こうして5月22日に戦時教育令が公布され,正式に学徒隊の結成が決まりました.
 これは先述の様に,文部省の肝煎りで国民義勇隊に対応するものとして決まった訳ですが,文部省は学校教育の為の組織と位置づけており,陸軍省の思惑から外れかねない組織の構築は,陸軍内部から猛烈な反発があった様です.
 つまり学徒隊は,国民義勇隊に並立する存在な訳で,決戦に際して命令系統の一元化を目論んだ陸軍省から見れば,目の上のたんこぶの様な存在になっていました.
 後に文部省と陸軍省は妥協し,6月末に,学徒隊は其の儘の組織で国民義勇隊に入ることとされ,戦闘に移行した場合は学徒義勇隊となる,と言う事で決着をみます.
 但し学徒隊隊員であれば,地域国民義勇隊に入隊する必要はありませんでした.

 学徒隊は,中学校学徒隊,青年学校学徒隊,国民学校学徒隊など学校毎に結成され,小隊が50名程度(3~5班),3~5個小隊で中隊,3~5個中隊で大隊に編成され,男子部,女子部に分かれていました.
 各隊長は教職員若しくは学徒内の適任者が充てられ,工場動員の学徒については,工場毎に職場学徒隊に編成されることになっていました.

 学徒隊は戦時に緊切なる要務に出動し,教育訓練を行う組織であり,学徒隊の出動を請求する場合は,その仕事の性質,場所,人員を地方長官に申請し,学校長を通じてその任務に当ることになっていました.
 国民学校では初等科1年児童から既に学徒隊隊員とされ,行事・団体訓練は学徒隊で実施します.
 但し,緊急要務の為に行われる通年挺身は高等科児童とし,初等科児童は心身の発達に応じ,所定の授業時間を下回らない様に食糧増産の為の要務に随時挺身するとされていました.

 7月には学徒隊の軍事教育内容を定めた「学徒軍事教育特別措置要綱」が通知され,学徒隊の軍事教育内容が定められます.
 男子には郷軍,皇土防衛隊要員として実践的に活動出来る能力が求められ,時期的,地域的な要請により重点的な訓練を行うものとされ,細部については,軍事教官は軍管区司令官の指示を受けるとされました.
 更に中学高学年生には指揮官としての重責を自覚させる様な精神教育が求められ,独立小隊,遊撃戦指揮の能力会得を求められると共に,地域防衛の中核として位置づけられています.

 女子に関しては,地域の老幼婦女の中核として国を守る精神を養うこととされ,団体訓練や砲爆撃下でも迅速に措置出来る防毒,救急法の訓練を行うとされました.
 そして,男女とも勤労動員の合間の時間を縫って諸訓練を行う事とされました.
 これは,沖縄戦での「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」の役割を本土でも期待していた事が伺えます.

 とは言え,小田原の場合は,国民義勇隊でもそうですが,学校組織がそのまま学徒隊に移行しただけであり,余り何かが変わったと言うほどのことではなかった様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/10 18:53


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