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(引用元:朝目新聞)


 【link】

「Gigazine」◆(2010/11/24)【訃報】ホロコーストを生き延びた70年代ホラー映画の女王イングリッド・ピット,心疾患で死去

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/07/23)フランス  ヴィシー政権下のユダヤ人迫害について,オランド大統領が謝罪

「ヤフー・ニュース」◆(2015/8/24) 仏紙襲撃事件に重なるユダヤ人迫害の歴史 ―パリ政治学院教授に聞く(上) 小林恭子 | 在英ジャーナリスト

●書籍

「証言『第三帝国』のユダヤ人迫害」(ゲルハルト・シェーンベルナー編,柏書房,2001.7)

「ナチズムとユダヤ人絶滅政策」(栗原優著,ミネルヴァ書房,1997.3)

『橋 ユダヤ混血少年の東部戦線』(エルニ・カルツォヴィッチュ著,平凡社,1990.4)

 読了.
 著者は,非ナチの将校に助けてもらったり,運がいいな.
 何回か出て来る“対戦車砲”は,前後の文脈から見て,パンツァーファウストの事だろうな.

------------軍事板,2011/03/11(金)

『ホロコーストの音楽 ゲットーと収容所の生』(シルリ・ギルバート著,みすず書房,2012.8)

『ユダヤ人を救え! デンマークからスウェーデンへ』(エミー E. ワーナー著,水声社,2010.11)

 表題はあれだが,第二次大戦でデンマークがドイツに電撃占領されてから,1945年5月に解放されるまでの占領史で,その中の中心部分を為しているのが,1943年のユダヤ人の追放と,その追放からユダヤ人を匿い,スウェーデンに逃した話.
 去年だったか一昨年だったかに出された,『ヒットラーのカナリヤ』と言う本と併せて読めば面白いかも.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/11/18(木)

 【質問】
 第1次大戦後の旧ハプスブルク帝国地域で,反ユダヤ主義が高まったのは何故か?

 【回答】
 ハプスブルク帝国の遺物と見なされ,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになったという.
 以下引用.

 〔第1次大戦後の〕最大の犠牲者は,ハプスブルク帝国の臣民の中でも帝国に対して最も熱心で一番忠実だったユダヤ人であった.
 帝国崩壊後,間もなくユダヤ人は大きな問題に直面した.
 他の帝国の臣民にはそれぞれの祖国があったにも関わらず,ユダヤ人には無かった.
 さらに,ハンガリーでユダヤ人の多くは1914年以前に同化し,マジャール人愛国者になっていたが,超国家主義者の標的になり,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになった.
 旧帝国の他の地域,例えば,民主的なチェコスロバキアでも,多くのユダヤ人がドイツ語を話し,一般大衆からはドイツ帝国と結び付けられる場合が多かったため,ユダヤ人の評判は悪かった.
 痛烈で誇大妄想的,内向きのナショナリズム同士が対立する世界において,ユダヤ人は帝国の遺物だったのである.
 またユダヤ人は,自分達の身の安全のために,経済においてあまりに突出した立場にいた.
 ヒュー・シートン=ワトソンは,冷静に次のように述べている.
「1918年当時,ポーランド,ルーマニア,ハンガリーの産業の殆どがユダヤ人の手中にあり,銀行業も支配していた.
 ……専門的な自由業も,4分の1から3分の2の割合で,ユダヤ人に占められていた」12
 この結果,ユダヤ人に対する不評は高まり,教育や雇用の面でも様々な制限が設けられた.

 とはいえ,この地域で最も反ユダヤ主義に染まっていた者にとってさえ,ヒトラーによる「ユダヤ人問題の最終解決」は想像を超えるものだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.244


 【質問】
 ドラッカーって誰?
 3行以上で教えて!

 【回答】
 ピーター・ファーディナンド・ドラッカー/ペーター・フェルディナント・ドルッカー Peter Ferdinand Drucker (1909.11.19~2005.11.11)は,オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者にして,マネジメント研究の第一人者.
 1929年,ドイツ・フランクフルト・アム・マインの『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』紙の記者となったが,1933年,自ら発表した論文がユダヤ人を嫌うナチ党の怒りを買うことを確信し,ロンドンに移住.
 1939年,アメリカ合衆国に移住し,1950年から1971年までの約20年間,ニューヨーク大学(現在のスターン経営大学院)の教授を務めた.

 「民営化」「知識労働者」「目標による管理」を初めとして,現代のマネジメント思想において,彼が創り出した概念や用語は数知れず.
 もともと彼は「ヒトはどうすれば幸福になるか」を考えていた.
 まず彼は人間は二つに規定した.
1.個人としてのヒト
2.社会的存在としてのヒト
 その上で,
「社会的存在としてのヒトは何かしらの「組織」に属している.
 よって,社会的存在としてのヒトがその所属する組織で幸福になるためにはどうすればよいか?」
ということを彼は研究し,その手段として「マネジメント」を考察した.
 その殆どの著作はマネジメントをテーマにし,後年は取り分け非営利組織のマネジメントを研究対象とした.
「これから,注目されていく社会形態は,自己実現を中心にしたアメリカ型NPO社会か,絆で結ばれた日本の旧来の会社型組織である」
というのが,彼の持論であったが,さて…

 【参考ページ】
http://systemincome.com/tag/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC-%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
http://www.portem.co.jp/DR..htm
ピーター・ドラッカーとは - はてなキーワード

 【関連リンク】
ドラッカー年譜 | ドラッカー学会

【ぐんじさんぎょう】,
を加筆改修

 ドラッカーの『マネジメント』は,ドラッカーよりも先に
「乗客は電車が創造する」
「便利な場所ならば暖簾などいらん」
という,阪急電鉄の創業者にして,世界初のターミナルデパートを作り「顧客の創造」を率先して行っていた小林一三翁らが,いかに先進的だったのかが逆になんか分かってくるんですよね.

ヤン・ヒューリック in mixi,2015年10月26日 23:33


 【質問】
 ユダヤ人の欧州脱出ルートは?

 【回答】
 イタリアが1940/6/10に参戦するまでは,ジェノヴァ,ナポリまたはトリエステから上海への航路が利用可能だった.
 上海航路の船は少なく,しかも6ヵ月から12ヵ月先まで満室だった.
 上海で上陸できる保証はなかったので,往復切符を購入しておく他はなかった.
 イタリアが参戦しても出国制限が導入されたわけではなく,1941年秋までナチスはこれを容認していた.
 他方アジアでは,その間に上海地域を完全に掌握した日本が,難民の群れを止める必要に迫られ,1939年8月以降,入国管理は厳しくなった.

 戦争が続くにつれ,海のルートが閉鎖されたので,難民達はシベリア経由の陸路を選ぶ他なくなった.
 ドイツのポーランド侵攻後,1万人近いポーランド系ユダヤ人が,中立国であるリトアニアに避難.
 そのうち4700人が,シベリア経由で極東へ向かった.その中には杉原千畝のおかげで助かった2千人もいた.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.100-101を参照されたし.


 【質問】
 ドイツ以外の枢軸国に住むユダヤ人は,どのような扱いでしたか?

 【回答】
 国による.
 たとえばイタリア,ハンガリー,フィンランドのような枢軸側でも独立国家であった地域では独自の対ユダヤ人政策をとり,組織的殺戮は行わなかった.
 クロアチアやスロヴァキアのようなドイツの傀儡国家であった地域では,占領地と同じようにユダヤ人の大量殺害が行われた.
 しかし43年のムッソリーニ政権倒壊後のドイツ占領地域や,44年サラッシのファシスト政権が成立した後のハンガリーでは,ユダヤ人の殺戮や強制収容所移送が行われるようになった.

軍事板

 イタリアで反ユダヤ法が制定されたときには,保留事項を多数設けて,骨抜きにしました.
 一つの例は,ユダヤ人一家の誰かがファシスト党員になれば,家族全体が無条件で法律の適用を免除される…とか.
 サロ社会主義共和国成立後,初めて7,500人がドイツに移送されますが,これは全イタリアのユダヤ人の1割に過ぎません.

 東欧でも,ブルガリアは比較的ユダヤ人に寛容でした.
 一応,ルーマニア,ユーゴスラヴィア,ギリシャから得た新領土のユダヤ人15,000人はドイツへの移送だけは黙認しますが,固有領土のユダヤ人に対する迫害政策は,これまた骨抜きにされます.

 例えば,改宗したユダヤ人は迫害の対象から外す…しかも,改宗は何時したかは全く問題にしない…と言うことで,ブルガリアではユダヤ人の改宗が大流行しました.
 では,改宗していないユダヤ人は…星,それも非常に小さなものを付けさせる法律がドイツの圧力で成立したのですが,これまた,付けた人は僅かで,国民は非常な同情を彼らに示しています.
 また,他の国々では,ユダヤ人は首都のゲットーにかり集めましたが,ブルガリア政府は,彼らを地方に分散させます.
 但し,国民はそれに反対し,王宮の前でデモをすると言うことを遣って退けたりもしました.

 ドイツ人は,ブルガリアの大ラビと話をしようとしますが,四方手を尽くして探しますが,何処にも居ませんでした.
 それもその筈.彼は,ブルガリア正教総主教に匿われていたりした訳.

 そんなこんなで,ブルガリア本土では一人も収容所で死んだものはいませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月04日22:59

 日本では元々欧州のように反ユダヤ主義の歴史がなく,さらに軍部の思惑もあって,当初はシベリア経由で満州や本土に来たユダヤ人を保護している.

 しかし,親独傾向が陸軍を中心に広まるにつれ,ドイツからの圧力もあって,次第にユダヤ人を冷遇する方向へ変わり,例えば上海ではゲットーの如きものが作られることになった.
 その変遷は,安江弘夫著「大連特務機関と幻のユダヤ国家」(八幡書店,1989/8)に詳しい.

(軍事板)


 【質問】
 フランスではどんなユダヤ人迫害が行われたのか?

 【回答】
 元々,フランスにはユダヤ人差別の歴史があったことから,ヴィシー政権の方が,ナチスより「熱心」にユダヤ人迫害を行ったという.
 以下引用.

 作家エミール・ゾラ(Emil Zola)によるユダヤ人差別糾弾で有名なドレフュス事件を思い出すまでもなく,もともとフランスにはユダヤ人差別の歴史がありました.
 このため,先の大戦前,フランス在住のユダヤ人とフランス人の間にはほとんど交流はありませんでした(注28).

 1940年にフランスはナチスドイツに敗れ,フランスの三分の二はドイツの占領下に置かれ,南部の三分の一にドイツへの協力を義務づけられたヴィシー政権が成立します.

 さて,ご存じのように,ナチスはユダヤ人迫害を始めるわけですが,1944年にナチスがフランスから撤退するまでの間に,ナチス占領下のフランスでは77,000人のユダヤ人がフランス外に移送され(強制収容所に送られた)たのに対し,ヴィシー政権下のフランスでは,81,000人のユダヤ人(24,5000人は元からフランスに在住していたユダヤ人,56,500人は外国から避難してきていたユダヤ人)が移送されています.
 これだけでも,ヴィシー政権の方が,より「熱心」にユダヤ人迫害を行ったことが分かります.
 実際,ヴィシー政権の方が,ユダヤ人の定義を広く取りました.
 おまけにドイツやナチス占領下のフランスでは,キリスト教徒を配偶者とするユダヤ人は移送されなかったというのに,ヴィシー政権では移送したのでした.
 もっとも,当時フランスにいたユダヤ人の約四分の三は逃げ延びることができています.
 これは,ナチスの他の占領地や勢力圏では見られない,高いユダヤ人生存率であるのは確かです.
 しかしこれは,必ずしも当時のフランス人のユダヤ人差別意識が低かったことを示すものではなく,ドイツに対する反感が,一般のフランス人をして積極的なドイツへの協力を控えさせたために過ぎません.
 また,スペインというユダヤ人にとっての聖域が,フランスに隣接していたことも幸いしました.

 いずれにせよ,連合国の一員としてフランスを「解放」したドゴール政権以降,フランスの歴代政権は,ヴィシー政権関係者を裏切り者として断罪し続けてきたにもかかわらず,卑怯にも,このようなヴィシー政権のユダヤ人迫害の事実は隠し通してきたのです.
 フランス政府及び社会が,戦時中のユダヤ人迫害の事実を認めたのは,実に1995年になってからです.
 (以上,http://histclo.hispeed.com/essay/war/ww2/hol/holc-fra.html(11月24日アクセス)による.)

 しかし,まだまだフランス政府は隠している,ということが昨年明らかになりました.
 1944年にフランスが「解放」された時点で,フランス内に約300あった収容所はすべて閉鎖されたと考えられていたのですが,トゥールーズ(Toulouse)の南25マイルにあった収容所だけは閉鎖されず,(米英等の),連合国や中立国の数百名もの市民が,数を減じつつも引き続き戦後の1949年まで収容されていたことが判明したのです.
 どうやらこれらの収容者達は,ユダヤ人の収容所への収容と移送の目撃者であることから,「解放」前後に一箇所の収容所に集められ,「解放」後も密かにドイツに移送され,移送できずに上記収容所に残された人々は,これまた密かに「消されて」行ったようなのです.
 (以上,http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1318972,00.html(2004年10月5日アクセス)による.)

 (注28)あのニール・ファーガソンは,戦間期までには西欧でユダヤ人社会は非ユダヤ人社会と完全に統合されていた(?!)にもかかわらず,ホロコーストが起こったとし,だから異質の少数派が多数派と完全に統合された・・少数派に対する差別が完全になくなったように見えた・・としても,安心することはできない,と主張している(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson21nov21,0,2648368,print.column?coll=la-news-comment-opinions.11月22日アクセス)が,史実を知らない歴史家は,歴史家の名に値しない.

太田述正コラム,2005/11/25

 ただし,
「週刊オブイェクト」●軍事評論家
の,太田述正に関するエントリを見ても分かるように,自己検証能力欠如という点において,太田個人の信頼性には問題があるようなので,要クロスチェック.


 【質問】
 アンリ・ベルグソンって誰?

 【回答】
 アンリ・ベルグソン Henri Bergson (1859~1941)は,パリ生まれの哲学者.
 第一次世界大戦中は外交使節として,スペインとアメリカを訪問.
 第二次世界大戦中の1941年1月4日,ドイツ軍占領下のパリで死去したが,彼がユダヤ人の血をひいているという理由で,葬儀らしい葬儀もいとなまれなかった.


 【質問】
 手作り自転車で脱出したユダヤ人がいたというのは本当ですか?

 【回答】
 おさるのジョージが主人公の『ひとまねこざる』という絵本を見られたことがあると思います.
 この本の著者レイとその妻マーガレットはハンブルク生まれ.
 マーガレットはハンブルクにある『Klosterschule』という学校卒.
 二人が(二人ともユダヤ人)6月12日,自分たちで組み立てた自転車(それほどすでに交通手段が無い)でパリから脱出しました.
 14日にドイツ軍がパリ入城.
 ぎりぎり.
 自転車をこいで106km南のオルレアンで汽車に乗り,スペイン・ポルトガルを通ってリスボン・リオデジャネイロ・10月14日ニューヨーク着.
 その間,おさるのジョージの原稿も一緒に移動していました.

 昔,何気なく読んでいたひとまねこざるの知らなかったエピソードでした.

バンケン in mixi


 【質問】
 映画「ライフイズビューティフル」を見て気になったのですが,イタリアにはユダヤ人収容所はあったのでしょうか?
 イタリアはユダヤ人弾圧に反対していたのですから,収容所があるのはおかしいですよね?

 【回答】
 16世紀以来,ユダヤ人のゲットーがトリエステにありました.

 1943年9月8日以降,ドイツ軍の占領下(アドリア海沿岸管区)に置かれ,この地のユダヤ人は絶滅の対象となりました.
 トリエステのサン・サッパにある,1913年建設の精米工場には,当時,ドイツ軍が政治犯収容所,ユダヤ人を別の収容所に移送する中継収容所として使用されてきましたが,戦争末期には,掃討した住民,労働者,ユダヤ人のうち,“健康”で「運搬できる者」は,別の収容所に移送し,拷問によって虫の息となったPartisanなどの「運搬できない者」を「処理」する火葬場付き収容所として使用されています.
 その収容所で生じた灰は,アドリア海のムッジャと言う場所の入り江に投げ捨てられていたそうです.

 そう言う意味では,イタリアの地にも収容所はあったと言えるでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/09/27(火)
青文字:加筆改修部分

ちなみに,その「ライフイズビューティフル」のパンフにはこうある.

------------
Production Note

 1938年当時,イタリアにいたユダヤ人の数は約4万5千人.そのうちの約8千人がナチスの強制収容所に送られ,生還者は数百人にすぎなかった.
 こうした事実を,ロベルト・ベニーニは数多くの歴史書にあたって調べ上げ,さらにいくつかの生存者グループにも意見を聞いた.
 企画の当初から,紅ーには,この映画を「歴史的な記録ではなく,寓話の文体描く」ことを意図していたが,いっぽうではミラノの現代ユダヤ記録センターと密接な連絡をとりあい,歴史家や生存者の証言を作品に取り入れていった.

越後道起

 ナチスによるユダヤ人殲滅がもっとも酸鼻を極めたのはポーランドで,ポーランド人自身がそれに手を貸したし,ナチスに抵抗するポーランド人すらユダヤ迫害を繰り返す始末だった.
 しかし,この映画の舞台であるイタリア及び同国ファシスト占領地域では,ユダヤ人は比較的人道的に扱われた.
 クロアチアなどの占領地での強制収容所の建設も,リッペントロップ元帥がムッソリーニに強要して,仕方なく実行された.
 フランスやユーゴのナチス占領地域から逃れてきたユダヤ人を匿うイタリア人も多かった.
 とはいえ,この映画にも描かれるように,ドーラの婚約者に祝福を与える黒シャツ隊(ムッソリーニのファシスト隊)や,グイドの叔父のようなイタリア人も,多々いたのである.
------------

 映画は,史実を参考にしたフィクションといったところかな.

軍事板,2005/09/27(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ムッソリーニはホロコーストには協力的だったの?

 【回答】
 ムッソリーニ自身は反ユダヤ主義者だったにもかかわらず,まったくの倫理的観点から,ユダヤ人の絶滅収容所への移送に対し,彼はサボタージュを行っています.
「なに!? イタリア沿岸主要都市のユダヤ人をすべてドイツに引き渡せだと!?
 ただちにすべてのユダヤ人を内陸部に移せ!」
 一休さんのトンチなみで,数多くのユダヤ人を救ったイタリアの良識は,やはり褒め称えねば成りますまい.

 むしろ占領下のフランス警察の方が,嬉々として,ユダヤ人狩りに協力しました.
 43年には在仏イタリア部隊が,グルノーブルで「手前ら,それでも人間か!?」と,ユダヤ人狩りを強行するフランス警察と全面衝突したそうです.
 フランス南部のイタリア占領地でのことででしょう.
 イタリア占領地ではユダヤ人の拘束がないだけではなく,ナチの手からかくまっていたと聞いた事があります.

 そもそもドイツ人は歴史的に,イタリア人などのラテン人種を見下していた事もあり,イタリアとではなくムッソリーニと同盟を結んだような感じに思えます.
 人種差別・優越主義にウトいラテン人種に,ナチ精神は理解しがたかったのか,スペインのファシストリーダー ,フランコ総統もユダヤ人の救出を考え,スペインに亡命させたと聞きます.

 三国同盟をやぶった腰抜けイタリアとして何かと評判悪いですが,人間的には1番,大人(良くも悪くも)で,好きな民族ですね.

軍事板,2000/07/09(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦イタリアのユダヤ人政策の移り変わりについて,簡単に教えられたし.

 【回答】
 1861年の統一国民国家建設までは,ユダヤ人憎悪は目立たなかったが,19聖飢魔Ⅱになると,ナショナリズムや人種主義の副産物である新しい反ユダヤ主義の波が,ドイツ,オーストリア=ハンガリー,フランス,そしてイタリアに押し寄せてきた.
 1922年からムッソリーニ率いるファシスト運動が台頭してきたが,彼は反ユダヤ主義であった反面,国際的なユダヤ人の力をやみくもに信じていたので,体制初期にはユダヤ人との公然たる対決を控えた.

 1936年のエチオピア征服を国際連盟が非難して経済制裁が行われると,ムッソリーニ・イタリアはナチス・ドイツに接近し,反ユダヤ的なイデオギー・統治上の影響を受けるようになった.
 1938.7.14,「イル・ジョルナーレ・ディターリア」紙に論説「人種宣言」が出されたが,これはムッソリーニの口述だった.
 これによれば「イタリア人はアーリア起源であり,純粋なイタリア人種が既に存在すること,そしてユダヤ人は
「イタリア人によって決して受け入れられなかった唯一の人種であり,イタリア人の起源を提供した諸要素とは全く違う非ヨーロッパ人種の要素から構成されている」
と述べられていた.

 1938.9.2の閣僚会議において,最初の人種保護法2法が承認された.
 一つは,全ての国公立学校における「ユダヤ人種の成員」による研究や教育を禁止し,いかなる文化団体においてもユダヤ人研究者の会員資格を認めないというもの.
 もう一つは外国籍ユダヤ人の永久的なイタリア居住を禁止し,1919.1.1以降にイタリアに移民したユダヤ人の市民権を取り消し,6か月以内の国外退去を命じるものだった.
 また,内務省に「統計・人種本部」が設置され,人種政策に関する広範な権力を与えられた.

 同年10.6~10.7,ファシズム代表議会が開催され,「人種布告」を承認した.
 この決定に従い,イタリア人種保護基本法が1938.11.17に発布され,ユダヤ人として住民台帳に登録することを義務化,ユダヤ人種と「アーリア人種のイタリア市民」との結婚を禁止し,さらに,社会的・経済的制限をも課した.
 1939.2.9布告の法律では,ユダヤ人所有が許された財産価値が大きく引き下げられ,
同年6.29からはユダヤ人は自由業への就業,行楽地に滞在すること,ラジオ受信機を所有すること,新聞に書くことが禁止された.

------------
 1939年は確かに危機を迎えた年だった.
 ファシスト党のイタリアは侵攻を続け,イギリスを敵視する宣伝活動が,猛烈な速度で推進された.
 学校の授業はもはや重要ではなくなった.
 学生たちはフィレンツェの通りに集結し,西側の「金持ちユダヤの民主主義」に対するデモを繰り返した.
 この群衆は決まって最後には,イギリス領事官とイギリス人街のあるトルナブォーニ通りへ押しかけた.
 イタリア国旗が高々と掲げられ,ファシスト党の腕章とポスターが入り乱れた.
 イギリス,フランス,アメリカに対する威嚇が絶え間なく続いた.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.33

 しかしイタリア人の大多数は,迫害されたユダヤ人を社会的にも道徳的にも支持.
 ファシスト党員でさえ,公然とユダヤ人への支持と連帯を表明する者がおり,1938年末~1943年7月までに,この逸脱行為のために何百人ものファシスト党員が党から追放された.

 1940.6.10,イタリアは第二次大戦に参戦するが,その前夜,ユダヤ人数千人が逮捕された.
 逮捕されたのは
・破壊活動の嫌疑をかけられたか,ファシズム反対で知られたイタリア・ユダヤ人(約200人)
・1938年の人種保護法による国外退去命令を無視していた外国籍ユダヤ人
・ドイツ占領下の国々から密入国してきたユダヤ人難民
 子供も女性も関係なく逮捕された.
 1940.9.4,捕虜収容所建設が開始され,抑留された「敵対諸国の市民」がこれに収容されたが,逮捕されたユダヤ人もここに移された.
 収容所の生活は当初,過密と設備不足のため,極めて過酷だったが,時が経つうちに大きく改善された.

------------
 [1941年]9月の半ばにフィレンツェに到着すると,私たちは大学に行くことを許されたが,状況は非常に不安定だった.
 イタリアのあらゆる施設が破壊され,教授の多くが兵役でいないために,事態は急速に悪化した.
 その学期に驚かされたことがある.
 例えばアウル・アンコーナのような多くの友人が,仲間の中に見えなかったことである.
 私たちは
「アンコーナはどうしたの? レヴィはどうした? どうしてここにいないんだろう」
と訊き続けた.
 ついに私たちは,いなくなった生徒が皆ユダヤ人だということに気付いた.
 いろんな噂が囁かれたが,誰もはっきりとは教えてくれなかった.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.40

 一方,戦争中にイタリア軍はいくつかの地域を占領したが,1942年半ばまでは差別的な法律は発布されなかった.
 占領地には人種保護法が適用されなかったので,イタリア軍占領地域のユダヤ人の社会的地位は,イタリア本土のユダヤ人よりも良好という逆説的な状況が生まれた.
 これは,占領地域のイタリア人コミュニティにとって,ユダヤ人集団が消えうせることが致命的打撃になるという懸念によるものだった.

 1942.5.6,内務省は,18歳から55歳までの「ユダヤ人種に属する」男女イタリア市民は,「義務労働」のために申告しなければならないと公表した.
 しかし,登録手続きは非常に複雑で,ムッソリーニ失脚までに,その命令が適用されるユダヤ人1万5517人のうち,労働に送り出されたのは2038人だけだった.
 彼らは農場や工場,道路舗装に動員され,僅かばかりの賃金を受け取った.

 イタリア軍占領地においては,1942年半ばから全ユダヤ人の移送が始まった.
 イタリア人の目の前で残虐行為が行われた結果,イタリア人将兵・外交官によるユダヤ人救済活動が始まった.
 彼らは抗議が繰り返されたにもかかわらず,ドイツ人やウスタシャ,ヴィシー警察にユダヤ人を引き渡すことを頑として拒んだ.
 ユダヤ人難民約4万人が,イタリア軍支配地域で生き延びることができた.

 1943.9.8,イタリアが連合国に降伏すると,直ちにドイツ軍は北イタリアを占領.
 同地でのユダヤ人に対する虐殺,資産略奪,アウシュヴィッツ移送が始まった.
 不幸なことに,歴史的経緯から,イタリア・ユダヤ人はローマ以北に集中していた.
 数千人のユダヤ人が国境を越えてスイスへ逃亡.
 時にはスイスの国境警察に逮捕され,ドイツ側に送り返されることもあった.

------------
 次第に私たちは,ラウル・アンコーナのようなユダヤ人の友達が,スイスに逃れたことを知った.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.41

 イタリア警察は殆ど非協力だったので,ドイツ保安警察部隊とファシスト民兵とがユダヤ人逮捕の主体となり,北イタリアから6746人,ロードス島から1805人のユダヤ人が移送された.
 そのうち生還できたのは183人だけだった.

 【参考ページ】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.71-81

※ 一部誤変換がありますが,ちょっと吹いたので残しました.

mixi, 2016.8.20


 【質問】
 第二次大戦中,欧州で2番目にユダヤ人を最終的解決場所に送ったのは何処の国でしょうか?

 【回答】
 一応,帝国領土となった地区(Austria,Czech,Polandはこの地域に含まれる)を除けば,その国ではその国の国民が,その国に住んでいた75%のユダヤ人を「回収」して,連行し,その国から「最終的解決場所」に送り込みました.
 ちなみに,ベルギーは国王が結構悪し様に言われていても50%.
 ベルギーの警察はドイツ人に協力せず,鉄道員は移送列車の鍵を掛損ね,待ち伏せの為の情報を流しています.
 また,彼らにはなるべく隠れ家が提供されました.

 ノルウェーにはユダヤ人は1,700人しかいませんでした.
 しかも,ドイツからの亡命者で,政府の保護が受けられないとされた人々ですが,それでも,ドイツ人がその移送を命じると,Kisling政権の閣僚の幾人かが辞表を提出します.
 ノルウェーの王室はBBCの放送で,常に彼らの救出を促し,実際にノルウェーのユダヤ人は,900人がスウェーデンに逃れることに成功しました.

 フランスも同様で,反ユダヤ主義のマジャールですら,1944年の矢十字党独裁政権になるまで,言を左右にしてドイツの要請に屈せず,更に盟友だったイタリアも同じ状況だったりします.
 例えば,イタリアにある反ユダヤ主義の指導者は,秘書にユダヤ人を使っていました(ぉぃ.

 〔枢軸国については別項目の通り.〕

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月04日22:59

 ナチス圏内で,ブルガリアと共に,最も激しく抵抗したのが,デンマークです.
 この国には7,800人のユダヤ人がいました.
 で,これに関する措置をドイツ占領軍が求めると,政府の回答は判で押したように,「我が国にはユダヤ問題など存在しない」と答えるのが常でした.

 ChristianXII世国王が,黄色の星を付けて首都を歩いたと言うのは,伝説ですが,彼は星が導入されたら真っ先に自分が付ける,と常々言っていたそうです.
 1941年12月,首都のユダヤ教寺院が放火された時,国王自らが大ラビに支援のメッセージを送り,放火犯は逮捕されて厳しく処罰された上,放火犯が最高裁に送られた時には,刑が更に厳しくなっていました.
 さて,そんなこんなで1942年,王はちょび髭総統からバースデーカードを貰いますが,その返事は,一言.
「最大限の感謝を.Christian王」
とだけ返して,ちょび髭総統を激怒させ,国防軍のハネッケン将軍とSSのベスト将軍が送り込まれました.

 しかし,1943年夏には造船所で暴動が,都市でストライキがあり,ハネッケンは戒厳令を敷き,レジスタンスを処刑します.
 そこで,SSは,ユダヤ人問題を解決するために,首都に船を回すことになりました.
 普通は,それで終わりな筈.
 ところが,ハネッケン将軍はユダヤ人を駆り集めるための軍隊の提供を拒み,ユダヤ人に「労働」の為に出頭を求める証書の発行も拒んだのです.
 しかも,デンマーク駐留のSS部隊も屡々反対に回り,ベストですら,デンマークからの移送者は,最終解決の為の収容所ではなく,示威用キャンプであるテレジエンシュタットへの移送を本国と交渉しています.

 1943年10月1日,ユダヤ人の輸送を開始する予定で,ドイツから特別警察部隊が送り込まれます.
 しかし,ベストはこの部隊が,ユダヤ人家庭に押し込むのを許さず,ドアをノックして,出てきた者だけを逮捕することになりました.
 その数僅か477名で大多数が混乱した老人だったり.

 残りの人はどうしたか,と言うと,ドイツの海運業者で,後に西ドイツの駐デンマーク大使となった人物が,デンマークの政治家に危険を知らせ,政治家達は大ラビに伝え,9月30日,この日はユダヤ教の新年の前日,その朝に,シナゴーグで大ラビは会衆に危険を知らせ,彼らはいち早く他のデンマーク国民の協力で匿われました.
 非ユダヤ系の人々のうち,特に病院関係者は大活躍し,例えばある救急車の運転手は,電話帳で片端からユダヤ系の名前を見つけて電話を掛けて移送を申し出たり,移送されたユダヤ人を適当な偽名を名乗って,病院に入院させたり,見舞客に化けさせたり,スタッフにしたり,果ては死亡した患者の会葬者になったり….
 特に首都の市民病院では,スタッフ1,000人のほぼ全員がこの救援に関わっていました.

 実は,これにはドイツ軍や警察だって絡んでいます.
 首都の或る街角で,ゴミ収集車を止めたドイツ軍兵士は,中を改めた際に,ユダヤ人が隠れていたのにも関わらず,見逃して行かせましたし,ゲシュタポに捕えられたユダヤ人は,警察まで連行された際,非ユダヤ教徒と結婚していると分かると,彼は逃げなくとも良かった,と諭され,また,彼を逃亡する手助けをしたデンマーク人学生と延々,
「デンマーク侵攻は合法的な行為だったか」
を論じ,彼は4~5日止められた挙げ句,煙草とコーヒーをおまけに,デンマーク警察に引き渡されたりしています.

 そして,7,800人のユダヤ人のうち,7,200人がスウェーデンにデンマーク人が操る漁船で渡っていったのです.

 普通はそれで満足するのですが,彼らはそれに満足しなかった.
 移送された470人のユダヤ人を解放させるか,より酷い場所に移さないように,心を配りました.
 84歳の学校教師は,数百名の教え子,教育省の役人,コペンハーゲン市長の嘆願書で釈放され,テレジエンシュタットへは,デンマークの政府代表団,赤十字がのべつ幕無しに訪問し,食料の差し入れや,国王のメッセージを届け続けました.
 そして,彼らは1945年4月13日に解放されます.
 その時の死者は,僅かに50名程度にしか過ぎませんでした.

 さて,答え,それはオランダです.
 この国のユダヤ人は,オランダ人警官の手によって連行され――ドイツ人の警察官は,ヒムラー宛の報告書の中で,「オランダの警察は抜群の行動力で,昼夜分たず何百人ものユダヤ人を捕えています.彼らの助けが無ければ,ユダヤ人の一割も逮捕できなかったでしょう」と書いている――,占領下のオランダ政府は,ユダヤ人をせっせと収容所に送り出し,一般市民はユダヤ人から彼らの財産を奪って知らぬ顔の半兵衛を決め込んだりしました.
 ちなみに,Anne Frankを逮捕したのも,ドイツのゲシュタポではなく,オランダの警察官.
 其の内の一人は,1980年まで警察に奉職していたそうです.

「Anne Frankは何を象徴している? オランダの抵抗か,それとも裏切りか?」

 もし,オランダ人に会う機会があったら,こんなことを聞いてみるのも良いかもしれません.

 相手が思慮深い人なら後者を,無邪気もしくは本当の友人と見做していないなら,前者の答えが返ってくることでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月05日07:28


 【珍説】
「ホロコーストというアイディアをヒトラーの頭に植え付けたのは,パレスチナ人のムフティ(宗教指導者)」
by イスラエルのネタニヤフ首相

イスラエルのネタニヤフ首相が、「ホロコーストはパレスチナ人のせい」と発言した件、実は何年も前から…… - NAVER まとめ

 【事実】
 ネタニヤフの発言は,「事実の断片をもとに,悪意ある推論を重ねると,こんなトンデモな結論になるかも」という印象.
 2ch.の荒らしによくあるタイプ(苦笑)

 ナチス・ドイツがユダヤ人を追い払うために,パレスチナへドイツ・ユダヤ人が移住することを認める協定を結んでいたが,アラブ人感情を慮って,後にそれをやめた,というのは本当.
 というか,パレスチナ人の反発を買って当たり前.

 けれど,それをして「ホロコーストはパレスチナ人のせい」という解釈になるのは,発想の飛躍が過ぎる.
 ドイツ・ユダヤ人のパレスチナ流入は,1937年で3700人,1938年には4800人,1939年は8500人,1940年は900人.
(数値出典は, amazon.co.jp/dp/4000241702
 ユダヤ人ジェノサイドを決めたとされるヴァンゼー会議は1941年7月~10月頃.
 パレスティナ人の大ムフティー,アミーン・フサイニーがヒトラーと会談し,ユダヤ人の殲滅を求めたのは1941年11月.

 つまり「最終的解決策」が決断されたとされる1941年秋より前には,移住は尻すぼみ.
 フサイニー・ヒトラー会談に至っては,「最終的解決策」より後.

 両者に因果関係があると見るのは難しいと思うのだが.

 【参考ページ】
amazon.co.jp/dp/4000241702
https://mobile.twitter.com/ActioSurrealism/status/656737957857116160?p=p

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658049599081283584?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658054634565603329?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658056426519068672?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658058942430363648?p=p
を加筆改修


 【質問】
 パレスチナ人の中に,ナチ・シンパは本当にいたの?

 【回答】
 反ユダヤ主義という一点でナチに共鳴した連中は実在した.
 パレスチナ・ナチ党まであって,アラブ諸国の反英闘争を支援していたりする.
 ナチとパレスチナ人の結びつきという話の中で,よく名前が出てくる大ムフティのハッジ・アミーン・アル・フサイニーは,早くも1933年にドイツ領事館を訪れている.
 けれども,そんなのは急進主義者の話であって,急進派が多数派となったのも,ロンメルが北アフリカで活躍していた一時期だけ.
 それを「パレスチナ人が~~」などと一般化するのは,論理の飛躍が過ぎる.

 そもそも,ヒトラーの『我が闘争』では,アラブ人も劣等民族呼ばわりされていたので,アラブ人の中にナチ・シンパを作ろうとするプロパガンダを展開するに際し,ナチス・ドイツ外務省はアラブ人に対する言い訳に苦労させられている.

 【参考ページ】
amazon.co.jp/dp/4000241702

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658060375187787776?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658060852747071489?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658062659548393476?p=p
を加筆改修


 【質問】
 戦後,アラブ世界のナチ・シンパはどうなったの?

 【回答】
 ほぼ放置された.
 アラブ世界は大戦前から大戦中まで,ほぼ連合国の支配下にあった.
 そのため,ヨーロッパのように物理的に敗北して,連合軍によって強制的に解体されることも無く,かといって,戦犯として責任追及されることも無かった.
 すでにパレスチナ問題が存在する中にあって,「親ユダヤ」的な活動をして,アラブ社会の世論を余計に刺激するようなことは,連合国もやりたがらなかった.
 今ではユダヤ陰謀論は,それなりの知的エリート層の中にまで敷衍しているそうだが,それはこのようにアラブ人のナチ・シンパが放置された結果,ナチスの反ユダヤ・プロパガンダも受け継がれていってしまったためと思われる.

 【参考ページ】
ジェフリー・ハーフ『ナチのプロパガンダとアラブ世界』(岩波書店,2013)
池内恵『現代アラブの社会思想』(講談社,2002)


 【質問】
 「最終解決案」が決定される前は,ナチはユダヤ人を虐殺する気はなかったの?

 【回答】
 確かに虐殺は主ではなかったが,死んでも or 殺しても構わないという態度だった.

 たとえば最終解決案が決定された1941年秋より前,独ソ戦勃発後には,占領地においてSSやドイツ国防軍による突発的処刑やポグロムが様々な地域で起きている.
 それより前,ポーランド占領後には同国のニスコという町の中継収容所への大量移送が試みられているが,これも高い死亡率を伴った.そのため,ハイドリヒはこれを中止させた.
 当時はまだ,殺すのは主ではなかったので(殺さないとは言っていない).

 大戦勃発前にも,ドイツ国内および併合地のユダヤ人は,様々な暴力に晒されている.
 1933年ごろからの散発的暴力は,次第にエスカレートしていき,有名な「水晶の夜」と呼ばれるポグロムに発展する.

 まあ,どう見ても最初から殺(や)る気満々だよね.

 【参考ページ】
amazon.co.jp/dp/4760124136

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658197750056546304?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658200173240193024?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658200582407065600?p=p
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/658202011947528192?p=p
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 【質問】
 ユダヤ600万人殺害って数字は,どの程度根拠があるのかな?
 なんか,数がデカすぎてさ.ホンマかいなって思ってしまう.
 もう少し少なかったんじゃないかな?と.

 【回答】
 国別にもちっと細かい数字もあるが.
 ▼この数字には「戦争が起こったことでの人口減」(かなり間接的に“殺された”わけだよね)も含まれてる.
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.156
によれば,

――――――
 最新の研究に基礎をおいて推定された,ヨーロッパ・ユダヤ人の犠牲者数は,ガス室で殺されたものや射殺されたもの,あるいは餓死や肉体的虐待による死者を合わせて,少なくとも600万人というものが,一番確実である.
――――――

という.
 全員が全員,ガス室に消えたわけではない.

 ▼ただ,それをさっぴいても有史以来ぶっちぎりのジェノサイドなので,ドイツも今更数が多少減ったところで,と諦念にある.
 また,有史以来ぶっちぎりのジェノサイドなので,ドイツも今更数が多少減ったところで,と諦念にある.▲

世界史板

 下記のサイトに,「600万人」の根拠として以下の内容の記述があります.
http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/600.html

 「600万人」という数字自体の信憑性を立証するものとは言い難いかもしれませんが,一応の根拠として紹介します.

-------引用----------------------------------------------

 1945年11月26日になされた元親衛隊保安本部の少佐ヴィルヘルム・ヘットル(Wilhelm Hoettl)の宣誓供述書があります.
 それはニュルンベルク裁判に提出され,これが世界中にユダヤ人犠牲者の数として流布されたのです.
 ヘットルはアイヒマンを個人的にもよく知っており,1944年8月末にどれほどのユダヤ人が殺されたのかを,「歴史家としての」(alsHistoriker)興味からたずねています.つぎがアイヒマンの答えです.

「彼[アイヒマン]は少しまえに,ヒムラーが殺されたユダヤ人の正確な数を知りたいといったので,彼に対する報告をまとめた.
 彼はそのさい,自分の持っている情報を基礎にして,以下のような結果をえた.
 さまざまな絶滅収容所で,約400万人のユダヤ人が殺され,他方でさらに,200万人が別のかたちで殺されたが,その大部分はロシアに対する戦争の間に,保安警察の特別コマンド[移動殺戮部隊]によって殺されている.
 ヒムラーはこの報告に満足しなかったようだ.というのは,彼の意見では,殺されたユダヤ人の数は600万より多いはずだったからだ.
 ヒムラーはこう宣告した.自分の統計局からひとりをアイヒマンに派遣し,アイヒマンの資料をもとにして,新しい報告を作成させ,そこで正確な数を仕上げるべきだ,と.
 私は,アイヒマンの私に対する上記の情報は,正しいものだと受け入れざるをえない.というのも,問題にかかわった人々のなかで,彼だけが殺されたユダヤ人の数について,最良の概要を作れたからだ.云々.」(IMT,Bd.31,p.86.(2738-PS))

 アイヒマンは周知のように,親衛隊におけるユダヤ人問題処理についての,事実上の最高責任者といってよく,彼の計算結果がそのまま受け入れられたのは当然でした.
 ヒムラーが実際に,もっと高い数字の結果をえたかどうかは,判明していません.

-------引用終わり----------------------------------------------

lala in FAQ BBS

 被害者の統計的精査で最も包括的なものは,イスラエル・ガットマンらによるもの.
 「Encyclopedia of the Holocaust (Macmillan Library Reference) (Hardcover)」の中で,ナチスの支配下に入った各国毎に,住民票,選挙人登録記録等によりナチスによるユダヤ人の拘束前のユダヤ人人口をカウント.
 その後のドイツ国鉄による強制収容所移送記録,アインザッツグルッペによるユダヤ人処理報告,警察連隊によるユダヤ人殺害報告等を加算.
 戦後,原居住地に帰還,もしくはイスラエルに移住した,収容所からの生還者に広汎にインタビューし,行方不明者・殺害が確実視される被害者総数の累計が560万から586万と弾きだしている.
 当該追跡調査には,オランダ赤十字などが純粋に連行された自国民の安否確認という意味合いで参加している.
 ロシア・ウクライナなど旧ソ連内の犠牲者に関しては,原則的にアインザッツグルッペによる報告のみでのカウント.

軍事板

▼ 犠牲者の個人名を特定する作業も,粛々と進められている.
 2010年の段階で,400万人の特定が終わっているという.
 以下引用.

読売新聞朝,2010年12月26日付 p.6
-------------

 ナチス政権下で虐殺されたユダヤ人の身元確認を進めるホロコースト記念館「ヤドバシェム」(エルサレム)は今月,犠牲者約600万人のうち約400万人の特定を終えた.
 しかし,遺族の高齢化などで新たな証言や記録を入手するのは年々難しくなっており,犠牲者の特定は時間との戦いを余儀なくされている.

 「ヤドバシェム」は1953年に設立され,ユダヤ人虐殺の資料収集,研究などを行う学術機関.
 犠牲者の特定は55年に始めた.
 強制収容所への移送者リストや,約250万ページにも及ぶ生存者や遺族などの証言録などを基に,この10年間で新たに150万人の身元を特定した.
 職員10人が国内の墓地を訪ね,墓石に刻まれた家族の名前を照合する地道な作業も続けている.

 400万人のうち55%は証言録による確認だが,特定作業を指揮するアレクサンダー・アブラハム氏は
「我々に残された時間は少なくなっている」
と語る.
 また,ロシアや東欧諸国では関係文書がほとんどなく,ロシアでの犠牲者特定は32%,ウクライナでは36%にとどまっている.

 親族全員が虐殺されたユダヤ人もおり,被害者全員の特定は不可能だ.
 困難は多い.
 それでも,同記念館は3~5年以内に,身元特定者数を500万人にすることを目指している.
 アブラハム氏は
「我々には,犠牲者の人生を後世に伝える責務がある」
と話している.
------------



 【珍説】
そりゃ,印象操作のプロが書いたすごい物だろうから,良くできているだろうと思うよ.

>収容所からの生還者に広汎にインタビューし,

 これがある限り無価値に近いな.
 インタビュアー,レポータが信用できるかどうかの問題だ.

 【事実】
 自分でいっぺん読んでみなって.

 インタビューに一番力をいれたのは,オランダ赤十字ね.
 この調査があってはじめて,アンネ・フランクがベルゲン・ベルゼンで病死したことがほぼ確定できたのよね.
 インタビューのなかで,アンネ・フランクの死亡は2月中とほぼ間違いないとしてたけど,尚,慎重に3月中までには死亡が確実視されるっていう線を出すだけの分別があるわけ.
 この種の卓見を示した否定派文献って寡聞にして,知らんな.

 ああ,それとね,オランダ赤十字の調査って戦後すぐに着手しててね,ガットマンはそれを引用してる.
 まあ,そう意味では,俺のオランダ赤十字の参加ってのは厳密には間違い.

 とりあえず,史料出したんだから,頑張って読んで,反証あげてくれや.

軍事板


 【質問】
 レオン・ポリアコフの「550万人以上」説は,どのようなものか?

 【回答】
 パリ現代ユダヤ人資料センター代表,レオン・ポリアコフは,レスチンスキを参考にして,SS行動部隊による犠牲者数を,150万人と見た.

 参考にされたレスチンスキの推計というのは,1959年,人口統計学者ヤコブ・レスチンスキが算出した推計値で,275万人という1950年に生存していたヨーロッパ・ユダヤ人人口のデータと,1939年のユダヤ人人口統計をもとにしている.
 その結果,600万人以上のユダヤ人がナチスのジェノサイドの犠牲になったことになると推定した.

 ポリアコフはまた,ポーランド戦犯裁判調査委員会によるベウジェッツ,ソビブル,トレブリンカ,ヘウムノ絶滅収容所ガス室で殺害された人数が,185万人であるという推定も用いている.

 マイダネクで死亡した人数については,20万人という数字を採用している.

 アウシュヴィッツについては,200万人という数字のほうが,より正確な推定であると考えた.

 この推定は初期の研究の一つであり,それ以降に出てきた史料よりも信頼度が低い史料に依拠したものだった.

 詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.152-153
を参照されたし.


 【質問】
 ジェラルド・ライトリンガーの460万人説とは,どんなものか?

 【回答】
 歴史家ライトリンガーは1953年,「議論の余地のない最小の数字を算出する」ことを原則として,当時知られていたホロコースト犠牲者数に関する情報を,批判的に検証.
 そのため細心の注意をもって,証拠を取捨選択し,疑わしいケースはナチスの公式情報であっても使わなかった.
 例えば彼はアウシュヴィッツでの死者数が,75万人を超えることはないと判断した.

 彼が最終的に到達した,ナチスによるユダヤ人殺害数は,最小で419万4200人,最大で458万1200人というものだった.
 彼は600万人という数字と,彼自身が出した数字との差について,
「現在ソ連とルーマニアの統治下にある地域では,分かっている事実と何ら関係のない数字が提示され,極めて恣意的な被害推定がなされた」ことに求めた.

 詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.153-154
を参照されたし.


 【質問】
 ナチスは,ユダヤ人以外の民族もかなりの数を虐殺しているというのは本当でしょうか?

 【回答】
 調べればすぐに出てくると思うが…
 ソ連領内でもユダヤ人以上にロシア人を殺しまくってるし,ジプシーもやられた.
 同性愛者,社会主義者,身体障害者は,ドイツ人であっても収容所送り.
 ドイツ人だけでも50万と言われている.
 ナチスの収容所=ユダヤ人用という認識が強すぎるし,他はもう抗議しないので話題にならないが.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦争やってるさなかに,多大な労力かけてホロコーストやってるなんて,ナチス・ドイツって馬鹿じゃね?

 【回答】
 現代史家の栗原優氏は,次のように述べています.

――――――
 しばしば,ユダヤ人絶滅政策は,生かして働かせれば役に立つものを殺したのだから,非合理的な行為だというように考えられている.
 しかしそれは正しくない.
 のちにも明らかにするように,絶滅政策において実際に行われたのは,なによりもまず労働能力のないものの殺害であって,労働能力のあるものについては生かしておいて,これを使いきるという政策が取られたのである.
 それ故,殺害の対象となったのは何よりも病人,身体虚弱者であり,女子供であった.
 いうまでもなく,これらは食料を消費するだけで価値を生まないものと考えられたのであり,ナチスの食料政策からすればむしろ「合理的」な行為であったのである.〔……〕

――――――『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(MINERVA西洋史ライブラリー19)ミネルヴァ書房,1997,p.80

 そして現実には,東方に追放したユダヤ人が収容されたゲットーは,食料の欠乏に晒され,収容能力を超える人数が詰め込まれた事から,伝染病の温床ともなっていました.
 また,ナチのイデオロギーによれば,ユダヤ人は文明を損なう人種であり,ヨーロッパから根絶されるべきものでした.
 ゲルマン民族の東方植民を円滑に進める為には,「ユダヤ人問題の最終的解決(Die Endlosung der Judenfrage)」が必要とされたのです.
 戦争の最中だったからこそ,穏健な追放(もちろんこれも民族浄化と呼ばれるべき行為なのですが)をすることができずに,ホロコーストという手段が選択された,とみるべきではないでしょうか.

「ストパン」■(2009-03-22)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・番外編
青文字:加筆改修部分

 なお,
『ホロコーストと国家の略奪 ブダペスト発「黄金列車」のゆくえ』(ロナルド・W・ツヴァイグ著,昭和堂,2008.10.30)
によれば,絶滅させる側にとっては,これは極めて利益性の高い事業だったという.
 高官から末端の兵士に至るまで,ホロコーストの過程でユダヤ人から財産を没収,または掠奪することができた.

 つまり,たとえ国家単位では損益であっても,ナチス単位では旨味があった.
 ある意味,大規模な汚職と言えるかもしれない.

 現代でもいますよね?,私腹を肥やすためなら,薬害などで何人死んでも構わない,といったような連中が.


 【質問】
 収容所勤務やユダヤ人やなどの殺害を目的とする一般SSに対し,武装SSはそういう活動には手を染めていなかったの?

 【回答】
「武装親衛隊はアルゲマイネSSとは違い,純粋な戦闘集団である」
という意見は主に,武装親衛隊出身者が自分達を正当化するために好んで用いられており,正直いって疑問だね.
 両者は基本的に同一組織で,当然ながら人事交流もあった.
 よって,区分して考える事自体がナンセンス.
 一般も武装も髑髏も,SSには違いない.
 その組織内に髑髏部隊やディルレバンガー師団がある以上,やはり犯罪者組織だったんだろうね.
 それと,武装SSもアインザッツグループに参加してる.
>アインザッツグループA
>Waffen-SS: 340
>Gestapo: 89
>SD (security service): 35
>Order Police: 133
>Kripo: 41
>(Taylor, Anatomy, p. 510.)

 もちろん,そうでない部隊もあったことは認めるけどね.

 しかしさすがのSSも,一部は虐殺に神経を悩まされ,発狂する者,自殺する者が増えたので,ドイツ人の精神的負担を軽くする為に,外国人に汚い仕事を要求した例もあるようだ.
 そのためか,特別行動隊に荷担している武装SS部隊には外国人義勇兵(ワロン人,ウクライナ人,ラトヴィア人) などが多かった.
 特別攻撃隊指揮官E フォン デム バッハ ツェレヴスキー大将も神経痛に悩まされたという.
 『SSガイドブック』の記事より.

 また,そもそも収容所勤務での虐待や殺戮に同意できない者や,ユダヤ人に同情を示した者は武装SSに転属され,階級(場合により襟章も)を降級,剥奪された後,東部戦線へ送られた人もいたとのこと.

軍事板,2000/08/21(月)~08/23(水)
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 SSがユダヤ人を虐待することは犯罪だった.
 アウシュヴィッツ収容所では親衛隊員すべてが
「私はいかなる囚人も傷つけたり殺害することを許されない」
という内容の宣誓書に署名させられた.
 したがってホロコーストは捏造.

 【事実】
 そりゃ,SSの治安部隊としての面からすれば当然のことだろう.
 下手に私刑行為がまかり通れば,規律が崩れる.
 ワルシャワ蜂起でのディレルヴァンガー特別連隊やカミンスキー旅団なんかいい例だ.
 それともSSを,SAみたいなチンピラゴロツキ(だつお風)集団とでも思ってるのだろうか?

 ロシア中部HSSPFだったバッハ=ツェレウスキーが神経をやられて,肝硬変を起こして職務続行が困難になったのも,オットー=ラッシュSS少将が職務放棄したのも,ハインツ=ヨストSS少将が転地療養となったのも,単に「ゲリラの掃討とそれに伴う民間人の犠牲」に耐えられなかったからか?
 ライヒ保安本部への「事件通報・ソ連」は捏造か? これに記載してあるユダヤ人の数は誇張されてるのか?

 ディルレワンガ-連隊の戦闘日誌でも,ユダヤ人とシンチ・ロマの殺害は別枠で報告してるんだよね.パルチザン何人,同容疑者何人,ユダヤ人何人,ロマ何人って報告の仕方になってる.
 その仕方はアインザッツグルッペンの報告でも同じ.
 無論,戦線後方の治安を担当した,数多くの警察大隊(ORPO指揮下)も同じく.

 いずれも,SSの組織内だけど,命令系統って別だし,
 こんなの見てると,戦線後方で活動の中に,ユダヤ人の狩り出しと殺害っての含まれるが,SS全般の共通の了解事項にしか見えないのよ.
 ってことは,組織としての虐殺行為の傍証って感じではあるなあ~

 ナチスの理解では,パルチザンや人民委員の処刑は直接的だが表面的な方策,
 ユダヤ人やロマの処刑は,間接的だがより根本的な解決をめざすやり方という感じだろう.
 で,後者が今日ジェノサイド,すなわちホロコーストとして理解されているわけだ.

 ディルレワンガ-に関しては
『The Cruel Hunters: Ss-Sonderkommando Dirlewanger Hitler's Most Notorious Anti-Partisan Unit (Schiffer Military History) (Hardcover)』
 脚注で,アメリカ国立公文書館所蔵のマイクロフィルム:中央軍集団警備部隊報告

 警察連隊に関しては
『Uniforms, Organizations & History of the German Police, Vol. 1』

 同書脚注では,下記の書籍からの引用となっている.
『Hitler's Willing Executioners: Ordinary Germans and the Holocaust (Paperback)』
by Daniel Jonah Goldhagen
 Goldhagenの原著は未読のため,一次史料に関しては不明.
 個人的見解だが,『Uniforms・・・』の著者Angoliaの過去の実績から見て,記載内容に信頼が持てない書籍から引用はしないとおもわれるので,少なくともAngolia自身はGoldhagenの記載を信頼に値するものと考えていたのは確実.

軍事板


 【質問】
 ネオナチの外国人襲撃は,どれだけ増加しているのか?

 【回答】
 91年頃から急増し,92年の1年間で死者17人,4000件強の外国人に対する刑事事件が起き,その内700件以上が焼き討ち事件だったという.
 以下引用.

 1991年頃から,一般にネオナチと総称される様々な集団による,外国人への暴力沙汰や殺人事件が一気に増え始めた.
 既にドレスデンでは91年の3月に,走行中の市電からモザンビーク人が突き落とされて死亡しているし,同年6月には,南ドイツの風光明媚な町フリードリスハーフェンでアンゴラ人がスキンヘッドに殺されている.
 9月にはフランス国境近くのザールルイでガーナ人が放火により死亡、といった具合で東西〔ドイツ〕の区別がなかった.

 だが,人々の耳目を顫動〔せんどう〕したのは,91年九月に旧東独のホイアースウェルダという工業都市で起きた,外国人宿舎への大規模な襲撃事件である.
 襲撃後,当局は今後を恐れて外国人を「疎開」させたが,これが火に油を注ぐことになった.要するに襲撃すれば「外国人抜き」(ナチの時の「ユダヤ人抜き」のもじり)にできると受け止められたからである.
 この事件は,旧東独時代の計画経済による人工的工業都市の侘しい団地が舞台だった.
 そのため政府は,劣悪な都市環境による人心荒廃を理由に挙げて説明しようとしたが,このような「情状酌量」は政治的鈍感さでしかなかった.
 というのも,旧西ドイツ北部の「普通の町」メルンでも,92年11月23日未明に残酷な放火事件が起きたからである.トルコ人の家に火がつけられ,3人が亡くなった.警察には「ラッツェブルガー通りで火事だ.ハイル・ヒトラー」という電話があった.
 さらに92年の8月24日には,旧東独のバルト海に面した古い港町ロストックの郊外団地リヒターハーゲン地区で越南人や庇護権申請中の外国人が沢山住むアパートに,数日に渡って大規模な襲撃が繰り返され,アパートが燃え盛った.
 幸いこのときは,住民達が屋根伝いに隣のブロックに逃げたために死者は出なかったが,警察も消防も初めは真剣に事に当たらず,襲撃犯や放火犯のなすがままだった.機動隊長は午後に「休憩」と称して家に帰って昼寝をしていたという有り様で,さすがにこれは後で問題になった.
 襲撃は4日間続き,2日目以降は一晩中燃え盛った火事の光景を始め,一部始終が全ドイツにテレビ中継された.
 周りには夕方になると集まる右翼の若者と見物人目当てにソーセージ屋のスタンドが立ち,野次馬達がビールを片手に外国人が逃げ惑うのを見て歓声を上げる始末だった.

 92年から93年にかけて,外国人への襲撃のニュースがない日はない,といっていいほど事件が続いた.
 例えばロストックの事件直後の92年8月30日のたった一日だけで,シュヴェリーン(旧東ドイツ)で,60人の集団が庇護権申請者の収容所を襲い,旧西ドイツのダルムシュタット近郊で外国人の宿舎に何発も銃弾が撃ち込まれ,アイゼンヒュッテンシュタット(旧東ドイツ)では,八十人のスキンヘッズが同じく庇護権申請者の収容所に放火するなど,全ドイツで7件も大規模な事件が起きている.まさに同時多発攻撃である.

 翌93年5月30日,旧西ドイツのゾリンゲンで,子供も含む4人のトルコ人が焼き殺され,多数が大火傷を負った事件は,世界中の耳目を驚かせた.
 外国人宿舎にスキンヘッズの若者が野球のバットを持って侵入し,乱暴狼藉を働くのは,あるいは夜の街路で肌の色の違う外国人が襲撃されるのは,この頃,日常茶飯事だった.
 地下鉄で外国人が半殺しに殴られているのを,他の乗客が黙って見ていた事件もあった.

 結局,92年の1年間で死者17人,4000件強の外国人に対する刑事事件が起き,その内700件以上が焼き討ち事件だった.
 また,ユダヤ人墓地の破壊も頻発した.
 1990年までは旧西ドイツで年間に200件から250件ほどだった右翼の暴力沙汰は,91年にほぼ1500件,92年には4000件となった.
 2年間で20倍に増えたことになる.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.64-67
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし

 穏やかなトロムソの町にも,ナチスを気取る青年がいます.
 彼らを山で厳しく鍛錬させ,歴史の大家にナチスの戦時中の蛮行について講義してもらったが,効果がない,どうしたものかとの訴えが〔,トロムソでの国際会議にて〕ありました.
 野村生涯教育センターでは,家族や学校から排斥される若者をまず受け入れる.
 そして,彼らの人生を狂わせた原因が,家族に,学校にないか,親,教師の側から自己凝視を行う.
 そこから話し合いの糸口が見つかる,と東西の対話が続きました.

原不二子著「通訳ブースから見る世界」(ジャパンタイムズ,2004.12.5),p.148


◆◆◆ホロコーストとヒトラー


 【質問】
 ホロコーストは,ヒトラーがユダヤ人を憎んだから起きたものですか?

 【回答】
 まず確認しておくと,ホロコーストの原因にはおおまかに分けて次の2つの説があります.
・意図派
・機能派

 前者は,ヒトラーなどナチ党中枢の,あるいはもっと広げて,社会全体に蔓延していた反ユダヤ主義を重視します.
 後者は,反ユダヤ主義の影響を認めますが,戦争による物資の欠乏の中で,緊急避難的措置としてホロコーストが行われたのだと主張します.

 つまり,「ゲルマン人>スラヴ人>ユダヤ人≧ロマ」という階層構造があり,最も大事だとされたゲルマン人のための食糧を確保するために,優先順位が下の人びとを「口減らし」するというのがホロコーストの構造なのだ,というのが機能派の理解です.
 また,優先順位が下の人びとの中でも,「利用価値がある人びと」は強制労働に用いられました.
 ホロコーストとは,「人間の生命よりも効率を優先させる歯止めのない合理主義」の姿だ,といえるでしょう.※2

※2 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策――ホロコーストの起源と実態』(MINERVA西洋史ライブラリー19)ミネルヴァ書房,1997,p.84.

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
青文字:加筆改修部分

▼ ヒトラー自身は,
「3ヶ月でソ連軍が崩壊しなければ,独ソ戦は長期戦となり,もはや勝利は不可能」
と1941年秋の段階で考えてた,という研究もあるね.

 ゆえに,自身の哲学の根幹である
「この戦争は,ユダヤ・ボルシェビキ体制に対する聖戦であり,万が一ドイツが敗れるようなことがあるときは,せめてユダヤ人を巻き添えにしてやる」
と,41年秋に絶滅指令をヒムラー・ゲーリング・ラインに出したらしい.
(ヴァンゼー会議は翌年正月)

 ヒトラーはじめドイツ右翼,そしてドイツ国防軍は
「WW1で敗れたのは,ユダヤ人社会主義者による背後からの裏切りが原因」
と叫んで,政権をとった.
 ゆえにユダヤ人絶滅令というのは,駆け引きなしの,宗教的ドグマまで高まった「ドイツの譲れない部分」だった.

軍事板,2000/07/24(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヒトラーはユダヤ人の血が流れていたと言う話を聞いたのですが,本当ですか?

 【回答】
 ユダヤ人の血の定義にについては(ややこしいので)おいとくとして,ヒトラーの父アロイスがマリア・シックルグルーバーの私生児として生まれたために出た噂.

 マリアがグラーツで女中として勤めていた,フランケンベルガーもしくはフランケンライターというユダヤ人が産ませたという説があった.
 しかしその名をもつ人物は実在せず,マリアの結婚相手のヨハン・ゲオルク・ヒードラーもしくはその弟のヨハン・ネポムク・ヒードラーが実父であるといわれている.
 後にアロイスは母のせいから改姓したが,そのときからヒトラーを名乗るようになった.

 なおアロイスの二度目の妻の息子(長男)アロイス二世は後にイギリスに移住し,その息子(アドルフの甥)ウィリアム・パトリック・ヒトラーはアメリカに渡って大戦中は米海軍に勤務した.
 長女のアンゲラの娘(アドルフの姪)がヒトラーの最初の愛人のゲリ・ラウバル.
 アロイスの三度目の妻の息子として生まれたのがアドルフ.
 アドルフの母クララの母はヒードラー家の生まれ.
 このようにヒトラーの家系は複雑に入り組んでいる.

 手塚治虫「アドルフに告ぐ」の元ネタですな.

軍事板

 付記しておくと,ヒトラー自身もこの噂の真偽には悩んでおり,ひそかに調査させていた.
 が,その結果が出るまえにベルリンが陥落した.
 ということで彼は疑惑を抱えたまま死んだらしい.

世界史板

▼ 【追記】
 最近,こういう話がありました.
ヒトラーの祖先,ユダヤ人の可能性も――DNA検査で発覚

OOM-7大佐 in FAQ BBS,2010/9/1(水) 0:16
青文字:加筆改修部分

 ヒトラーが星占い師に相談した.
 ヒトラーは独裁者として暗殺を極度に恐れていた.
 すると,星占い師が,
「あなたがユダヤの祭日に暗殺される」
という.
 ヒトラーはすぐに親衛隊の司令官を呼んで,
「今後,ユダヤ人の祭日には警備をいつもの10倍,いや50倍にせよ」
と命じた.
 すると星占い師は,こう答えた.
「いや,それは役に立ちません.あなたが暗殺された日がユダヤ人の祭日になるでしょうから」

――――――マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.214-215

 【質問】
 ヒトラーはどこで反ユダヤ主義に感化されたの?

 【回答】
 ヒトラーの反ユダヤ主義はウィーン時代の生活と,当時の欧州に見られる反ユダヤ主義の系統だとする説が現在では有力視されてる.
 ヒトラーは濫読家だったから,ヘーゲルやらニーチェやらの原典,引用,孫引きなんかを徹底的に誤読して理論を組み上げたとゆー話がある
 青年時代のヒトラーが劇場通いして見ていたワーグナー歌劇の影響もある.

 ま,ヒトラーに限らずユダヤ人蔑視はヨーロッパの伝統だったからね.

 「大工の嫁っこが産んだててなし子」を十字架にかけたせいで,以後2000年迫害される・・・
 後先考えて行動しないとね.

世界史板

 上記項目に対する解答について似たような内容が記述された資料がありましたので,紹介させていただきす.
 著者は青年時代のヒトラーとリンツおよびウィーンで共に過ごした人物で,ヒトラーの反ユダヤ傾向について以下のように記述しています.

-------引用----------------------------------------------

私がヒトラーと出合った当時,すでに彼は明らかに反ユダヤ主義の考えを持っていました.
ある日,私と彼がベツレヘム通りを歩いていて,小さなシナゴーグの前を通りすぎたとき,彼はこう言いました.

「これはリンツにいらない」

私の記憶では,ヒトラーがウィーンに行ったときにはすでに明白な反ユダヤ主義者になっていました.
ウィーンでの体験によって彼はユダヤ人問題についてさらに急進的になりましたが,ウィーンで初めて反ユダヤ主義者になったわけではありません.

-------引用終わり----------------------------------------------

『アドルフ・ヒトラーの青春 親友クビツェクの回想と証言』
(アウグスト・クビツェク著,三交社,2005/7/25),135頁

lala in FAQ BBS


 【質問】
 絶滅計画があったなら,命令書がなければおかしいのでは?

 【回答】
 絶滅計画は,ひとつの体系だった政策として存在していたのではなく,むしろ戦況の悪化に伴う,行き当たりばったり的な政策として遂行された,というのが機能派の理解です.
 最初から「絶滅」が企図されていたというよりも,事態の「累積的急進化」現象が起こったとみるのが妥当でしょう.
 第三帝国の官僚機構は,無憲法状態の中で権力争いを激化させていました.

 なお,この立場からいうと,命令がヒトラーという肉体を通過したかどうかも,本質的にはどうでもいい事です.
 問題にされるべきは,そのような政策を導いた構造なのですから.

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
青文字:加筆改修部分

 付け加えて言うならば,明確にホロコーストの全体について命令を下した書類こそ見つかっていませんが,「ガス室」「集団殺害」などホロコーストの細部についての命令書は発見されており,また,前線で活動していた人びとも
「命令を受けてやった」
と主張しています.
 そしてナチの虐殺は,戦場での逸脱というレヴェルを遥かに超えた,国家全体を動員して遂行されたものなので,ナチス・ドイツという国家の関与は明白です.

「ストパン」■(2009-03-22)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・番外編
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ホロコーストに関するヒトラーの命令書って,そこまで重要なものなの?

 【回答】
 現在ではさして重要な資料ではありません.何故なら発見されていないから.
 無いものをあてにして研究をする学者はいません.
 残された資料から,探って行くのです.
 実際,「ヒトラーの命令書」を拠り所にした研究などありません.

 もちろん,発見されれば重要な資料となるでしょう.
 でも無い物は無い.
 それが無くてもホロコースト研究は続けられ,様々な事柄が明かになってきています.

 リビジョニストがこれの有無にこだわるのは,要するにコケオドシです.
「無いであろう命令書を出してくれないと信じないっ」
と言っているワケです.

軍事板


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