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インパール作戦(体験記)
「ワレYouTube発見セリ」◆US Marines Battle of Guadalcanal
『Gパン主計ルソン戦記 戦場を駆けた一青年士官の青春』(金井英一郎著,光人社NF文庫,2002.10)
著者は第一師団の砲兵から,幹候試験を経て陸軍経理学校を卒業し,孫呉に赴任.
戦局の悪化により,ルソン島に上陸し,ゲリラに狙撃され負傷.
本隊と離れ,ルソン島を彷徨し,戦病死寸前で終戦を迎えた方です.
マニラを逃れた民間人の,悲惨な姿も描かれています.
死んだ母親の遺体にすがって,放心した眼差しの少女.
その少女は数日後,白骨と化していた.
飢餓の戦場.
慰安婦と別れや,看護婦との儚い恋の物語も織り交ぜ,中々読み応えのある一冊でした.
------------軍事板,2012/01/04(水)
青文字:加筆改修部分
『アンガウル,ペリリュー戦記』(星亮一著,河出書房新社,2008.6)
ちょっと微妙.
著者の星亮一という人は東北の歴史がメインの作家らしいのですが,どうも太平洋戦争に関して不勉強な部分があるっぽい.
海軍軍人に関する著書も書いているわりには,その視点はステレオタイプな素人目線を脱し切れていないような.
序盤は著者が太平洋戦争の概況を解説してるんですが,これがどうも読んでてもぞもぞする.
ガダルカナル戦で川口支隊長が戦死したことになっていてはあ?と首をひねったり,
いまさらという感じの南雲提督批評とか,ルーズベルト陰謀説の紹介とか,気になることが多いんですね.
中盤〜後半はアンガウル,ペリリュー生き残りの兵士からの聞き取りを再構成したもので,軍板住人にはお馴染みの(w)船坂弘の著書や戦史叢書やら参考文献にしてるんで,それなりに読めます.
しかし,序盤の著者の解説はいかにも不勉強だったです.
文献の調査などは行っているようなので,引用部分はそれなりに読めるのですが.
アンガウル/ペリリュー戦記としては読みやすいんですよね.
ただねー,著者の主観が安っぽい反戦主義者的でいかにも邪魔でしたよ.
――――――名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板(青文字:加筆改修部分)
星亮一は東北の歴史に関しても,戊辰戦争は薩長が悪い!奥羽越諸藩は可愛そう!が基本スタンスなので,作者の主観の入っている部分は信用できないです.
――――――軍事板
青文字:加筆改修部分
『インパール兵隊戦記 歩けない兵は死すべし』(黒岩正幸著,光人社NF文庫,2004.8)
内容はそのまんまで,落伍者(行方不明者)が出ると,後で書類作成が面倒になるという理由で,歩けなくなった兵士を,ゴロツキ同然の古参兵が,泣いて命乞いするのを無視して,殺しまくったって話だった.
その他にも,上官にいじめられ発狂する兵士とか,日本人の鬼畜ぶりが,余すとこなく書き尽くされた一冊かも.
中身は例えばこんな感じ.
――――――
八月二六日,ワヨンゴン,晴れ.
私は早起きして,ぼんやりと白い雲を眺めていた.
指揮班では数少ない生き残りである,新兵の久保一等兵が声を掛けてきた.
「お早いですね,熱は下がりましたか?」
「相変わらず39度くらいかな.お前は?」
「自分は熱が関節に来たのか,ひざががくがくします」
「歩けなかったら大変だぞ」
「死に物狂いで歩きます.
自分には妻や子供が待ってますから,絶対に死ねません.
それにアラカンみやげも渡してやらなくちゃあ」
出発時刻となった.
久保上等兵は必死に歩き始めたが,200メートルと歩かないうちに,足がもつれて倒れた.
彼は中隊長に哀願し,残留し後で追及することを許可された.
中隊長は2人の兵に付き添いを命じた.
古参兵である赤井上等兵と,大学出のインテリ伏木兵長である.
部隊は彼らを残し出発したが,夕方,付き添い兵の2人だけが追及してきて,久保上等兵は潔く自決したと報告された.
信じられないことであった.
後日,マンダレーで真相が判明した.
酒に酔った伏木兵長が泣きながら,自決ではなく,赤井上等兵が射殺したと告白した.
古参兵だから止められなかったともいい,最後の模様を次のように語った.
「おい久保,甘ったれるんじゃねぇ,歩けなければ自決しろ」
「あすの朝になれば,きっと歩けますから,自分を妻子のもとへ帰らせて下さい」
「未練がましいことをいうな,お前の家には,立派に死んだとオレが伝えてやるから,日本軍人らしく早く死ね」
「いやです,内地に帰るんだ,自決は絶対にしません」
「この野郎ふざけやがって,自分でできなきゃオレが撃ち殺してやる」
「撃たないでくれ,一日待ってくれえ」
額を地面にこすりつけ,両手を合わせて哀願したのに……銃声が轟いた.
「お前は先生を殺すのかぁ」
久保は悲痛な叫び声を上げて息絶えたという.
久保一等兵は応集兵で,内地で青年学校の教師をしていた.
赤井上等兵は18歳で志願するまで,その教え子であった.
――――――
――――――軍事板,2000/08/09(水)
『ウィンゲート空挺団 ビルマ奪回作戦』(デリク・タラク著,早川書房,1978)
著者はウィンゲート兵団の参謀長.
ウィンゲートへの英国での評価が,戦時中と一転して低落してる時期の本で,スリム第14軍司令官あたりへの反論本という色彩があります.
------------軍事板,2012/02/08(水)
『ウオッゼ島籠城六百日』(土屋太郎著,光人社NF文庫,2012/5/31)
近代文藝社から出ていた『籠城六百日』を改題したもの.
著者は,第552海軍航空隊整備長となってウオッゼ島と言う島に赴任し,第64警備隊第5大隊長として敗戦を迎える.
その間の陣中日誌を書籍化したもの.
但し,その日誌中の3分の1は割愛している.
ウオッゼ島と言う一つの村社会に,極限の状況で生きている人々を,極めて客観的に記録していて,中には人肉食事件などの記録もあり,中々凄惨な実態が伺える.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2012/05/19(土)
『回想ビルマ作戦』(野口省己著,光人社NF文庫,2000.1)
第33軍参謀の回想記のこの本,ビルマ戦線での辻ーんの暴れっぷりが半端じゃない.
軍司令官からの感状を燃やしたり,イラワジ戦線からの撤退を参謀長に納得させるために,敵の襲撃を装って,実弾を周辺に撃ち込ませたり…….
つくづくヤツは危険人物よ.
――――――軍事板,2011/03/07(月)
『ガダルカナル戦記』第1巻(亀井宏著,光人社文庫,1994.1)
『ガダルカナル戦記』第2巻(亀井宏著,光人社文庫,1994.4)
『ガダルカナル戦記』第3巻(亀井宏著,光人社文庫,1994.6)
愛蔵版で1000ページ超え,文庫で3巻という大作.
対米戦のターニングポイントと言われる,ガダルカナルの攻防について書かれた書籍は多々あるが,その中でも出色の存在.
生存者もこの世を去りつつある中で,同分野で今後これ以上の本が出る可能性は少ないと思う.
――――――軍事板,2010/06/12(土)
『ガダルカナルの戦い アメリカ側から見た太平洋戦争の天王山』(エドウィン・P. ホイト著,元就出版社,2001.6)
『玉砕の鉄獅子 サイパンからの帰還』(下田四郎)
先日の浜松町で行われたビクトリーショウにて,SATのブースで本を売ってらっしゃった小林源文氏に,サインを頂きつつ入手.
(握手もした.イラストレーターの上田信氏もいましたよ)
下田四郎氏が自費を費やして,サイパンの砂浜に埋もれていたチハタンを日本に帰還させるまでの回想録みたいなものだが,手続きやら何やら,資料書類と発掘作業写真が満載で,結構楽しめた.
靖国神社に奉納してあるチハに,あんなドラマがあったなんて知らなかった.
名前がみたて(御楯)号.
左側面に書かれた,「みたて」の字を標的に米軍が射撃練習したらしく,その後,何十年も放置され,S47年辺りにゴミ置き場で,ゴミと一緒にガソリンをかけて燃やして,タナバクの埋立地にゴミとして埋めたのだそうだ.
掘ったらゴミの山が出るわ出るわ,水もでるわで大変な作業だったらしい.
その時,内装品は燃えたんじゃないかな.
――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2009/12/16(水)〜12/17(木)
『菊と竜 祖国への栄光の戦い』(相良俊輔著,光人社,2004.5)
古典過ぎだけど.
最後の玉砕戦のより,通りがかった他の兵団から物資を強奪するところが印象に残ってる.
「弾さえあれば,もっと戦える」
という心意気は立派だけど,味方から物資を奪わねばならないなんて,軍隊としてどうよ?と,旧軍の補給体制の不備を思い知らされたよ.
------------軍事板,2012/01/02(月)
青文字:加筆改修部分
『ココダ 遙かなる戦いの道 ニューギニア南海支隊・世界最強の抵抗』(クレイグ・コリー他著,ハート出版,2012/05/31)
『最悪の戦場 独立小隊奮戦す』(緩詰修二著,光人社NF文庫,1999.11)
イラワジ会戦関連.
最悪というタイトルなのに,読後感はいいよ.
米運びから始まって,対戦車戦闘で栄光を極める瞬間がある.
ある意味,サクセス・ストーリー.
――――――軍事板,2010/12/02(木)
青文字:加筆改修部分
日本最強の対戦車砲小隊の本.
滝沢聖峰でマンガ化もされた.
個人の体験記なのになぜ名前を変えてまで三人称表記にしたのか謎だ.
にしても,その撃破した戦車のうち半分は,機動砲ではなく速射砲(37mm)での戦果なのが恐ろしい.
もちろん貫通は無理で,衝撃による装甲や機材の内部剥離を狙ったみたいだけど.
本来は機動砲装備の小隊で,前半は37o速射砲に装備変更して活動してたんだわな.
後半は47mm機動砲を使ってる.
------------軍事板,2012/01/03(火)
『最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル・インパール戦記』新版(高崎伝著,光人社,1999.8)
文庫版を古書店で4年前に買ったものです.
単行本は昭和49年の発売ですね.
この著者は,福岡の歩兵124連隊の本部指揮班の上等兵で,中支からジャワ,ボルネオ作戦を経てパラオから,川口支隊の中核として餓島に上陸,その後ビルマを転戦し,終戦を迎えたかたです.
作者はユーモアのセンスもあり,読んでいて笑い,また涙する場面もあり,戦記としても傑作の部類に入ると思います.
-------------軍事板,2012/01/03(火)
青文字:加筆改修部分
『防人の詩 インパール編 悲運の京都兵団証言録』(京都新聞社編著,京都新聞社,1979)
インパール作戦前に,衛生材料や薬の前線への輸送を主張する軍医に対して,
「衛生材料はインパールに行けばある」
といって,軍医だけ前線に向かわせた牟田口.
結果,野ざらしで医薬品の全くない野戦病院に,傷ついた兵士が溢れるという事態に.
全く近代の軍司令官とは思えない.
作戦自体は完敗だと思っていたが,初期には六十連隊によるインパール水源地の爆破のような成功例もあったのは意外だった.
撤退時に担送できずに,隠されていたミッション野戦病院の重傷者が,英兵に油をかけられ,生きたまま焼き殺されたこの話,ずっと出所不明の伝聞だと思っていたけど,栃平経技軍曹ら7人が目撃していた実話と知り,衝撃を受けた.
戦時中,まるで日本兵だけが残虐だったかのように思っている,国内外の人たちに聞かせてやりたいエピソードだ.
ケネディピーク監視哨長の曹長が,
「瀬古大隊の集合が遅い」
と,瀬古大隊の辻井軍曹に話しかけ,辻井軍曹が
「集合しております.集合と言われても,もうこれきりなんです」
と,自分一人が大隊残余のすべてだと言う,この部分が一番印象に残った.
監視哨任務に3個大隊が合同であたり,その総勢がたったの7名というのが・・・
―――――軍事板,2010/11/30(火)
青文字:加筆改修部分
『戦場 学んだこと,伝えたいこと』(新装版)(長嶺秀雄著,並木書房,2003.5)
詳しい人なら,特に新しい発見はないかも知れませんが,レイテの決戦場で,指揮官という立場から書かれる事は少ないので,貴重な本でした.
塹壕の実際の運用について,細かく書かれています.
日本兵は塹壕の中でトイレをしないので,塹壕から出る事がある.
そこが危険なのだとか.
-----------------軍事板,2011/10/14(金)
『大陸打通作戦』(佐々木春隆著,光人社NF文庫,2008.9)
『戦いいまだ終わらず 終戦を知らずに戦い続けた34人の兵士たちの物語』(久山忍著,産経新聞出版,2009.12)
海軍の見張り兵としてペリュリュー戦に参加された方を,証言者にして書いたもの.
証言者の方の本格的戦闘はあっさり終わります.
初日に対戦車特攻に志願するか悩みますが,初日に死ぬのはまだ早いな,と踏みとどまります.
やがてバラバラになって,「孤島のグルメ生活」に入ります.
他の孤島は食糧難で読むのがツライですが,ペリュリューは鍾乳洞で水が手に入るのと,管理が甘い米軍食料のかっぱらいと,陸軍の残した備蓄物資が豊富だったらしく,隠れ場所さえ上手に作れば,終戦後まで食料でそれほど困ってはいなかったようです.
一例ではカニ味噌汁,ソーセージ,味噌をつけた刺身など.
自分の食事より豪華かも知れません.
やがて敗残兵士達の興味は,食料よりも娯楽に移ります.
珍しい缶詰を持ち寄っての,将棋の各部隊の交流戦,演芸大会など,他の孤島戦記とは大きくかけ離れた世界・・・
このように自活しているうちに終戦後,2年も経ってしまいました.
ここからがこの本のクライマックス.
証言者の方が脱出して,いち早く「終戦自覚派」になり,ある海軍将官と説得工作に移るのですが,狂信的な「終戦なんてデマだよ派」を,どう説得するかと,米軍を巻き込んでの頭脳戦が・・・
読みやすい文章だったので,一晩使って一気に読んでしまいました.
ハッピーエンドで終わりましたので,読後感もスッキリしてよく,オススメの本です.
――――――軍事板,2010/01/31(日)
青文字:加筆改修部分
『タッポーチョ 太平洋の奇跡 「敵ながら天晴」玉砕の島サイパンで本当にあった感動の物語』(ドン・ジョーンズ著,祥伝社黄金文庫,2011.2)
かなり変った経緯で出版された本だな.
著者はアメリカ人なのに,先に日本語版が出て,それでいて訳書というわけでもないようだ.
サイパンで包囲された日本人グループが,終戦まで戦闘を避けながら,記念品漁りに熱心で,あまり掃討戦をやりたがらない米兵と戦うという話だが,男女が狭い範囲で一緒に暮らせば,誰と誰がくっついてどうのという話は尽きないようだ.
-----------------軍事板,2011/11/03(木)
『タラワ1943』(デリック・ライト著,大日本絵画,2009.11)
『中国遠征軍』(主編;張承鈞&衛道然,中国語)
1943年,初期ビルマ戦で敗北した後から,1945年中国転戦までの中国遠征軍(日本側は雲南遠征軍などと呼ぶ)の戦歴が述べられてる.
拉孟戦(松山戦役)の中国側の損害って約7千名なんだね.
本の内容自体は小ぎれいにまとまってるが,大陸文字なので非常に読みづらい.
参考文献に『大東亜戦争全史』と,防衛庁防衛研修所戦史室の本(おそらく戦史叢書の全訳が妙訳)の中国訳が挙げられているのが興味深い.
抗日戦に関してはイデオロギー的な問題で,台湾の本のほうが信頼できると思うが,イマイチ入手方法が分からん.
次は『中国抗日戦争史地図集』でも買うかなあ.
――――――軍事板,2010/06/13(日)
『中国大陸徒歩四六〇〇キロの戦場体験 兵士たちの日中戦争』(永沢道雄著,光人社NF文庫,2012.4)
『帝国陸軍の最後』(伊藤正徳著,光人社文庫,1998.2)
『ビルマ決戦記 地獄の山野に展開した三十四万将兵の肉弾戦』(越智春海著,光人社NF文庫,2011.12)
『マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録』(田中宏巳著,ゆまに書房,2009.8)
650ページくらいの本.大作.
ニューギニア戦線というと,「小岩井戦記」に代表されるように,体験者の悲惨な実戦経験を綴るものが多い.
この視点の本は,沢山出ているが,全作戦を俯瞰し,分析したものはは少ない.
同書はその少ない本の中の一つ.
太平洋戦争の中で,ニューギニアの戦闘がどう位置づけられるのかという視点で書かれており,非常に興味深い本.
――――――軍事板,2010/06/12(土)
『米軍が記録したガダルカナルの戦い』(平塚柾緒 ひらつか・まさお 編著,草思社,1995.10)
これは,文書は全然「米軍の見た」じゃないが,写真の量がすごい.
日本兵の蝿の集る死体写真が山盛り.
小学生ならトラウマになること必須.
――――――軍事板,2009/09/21(月)
「山猫文庫第3版」◆(2011/06/11)鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第1章・中編)
「山猫文庫第3版」◆(2011/06/16)鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第1章・後編)
『弓兵団インパール戦記』(井坂源嗣著,光人社NF文庫,2008.11)
暴露峠を著者が四度目に往復するところまで読みました.
アキャブ方面(ビルマの沿岸)でも英印軍は攻勢に出てる中でのインパール作戦だったことが,部隊の動きで分かる.
そいと,ジンギスカン作戦ですが,筆者の大隊はアキャブへ進出するときに,アラカン山系を越えているんです.
で,このときもビルマの農家から痩せ牛を買い付けて荷を負わせて,荷が尽きて糧食無くなったら牛を食べるってことをしてる.
だから,牟田口司令官の創意工夫とか,突拍子もない発案として否定するのは,ちょっと思いとどまったほうが良い可能性がでてきました.
白骨街道こと靖国街道の話はいつ読んでも暗然,慄然とさせられます.
――――――軍事板,2010/02/23(火)
ちなみに弓兵団は,いくつかの連隊戦記が戦友会により編纂されてます.
歩兵213/歩兵214/工兵33の各連隊については,その存在を確認済.
たまに古書でも流れてるようなので,諭吉大隊と気力があれば,探してみるのもいいかも.
――――――Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2010/02/23(火)
『ラサ島守備隊記 玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ』(森田芳雄著,光人社NF文庫,2011.2)
1944年,大東諸島の南端のラサ島(沖大東島)に守備隊を率いて着任し,以降終戦まで同島の守備にあたった隊長の戦記.
著者は神宮皇學館を卒業,近衛連隊に徴兵後幹部候補生となり,除隊後は国語教師をしていたが,2度目の再召集でラサ島守備隊長(配備時は第56兵站警備隊第4中隊長)となった.
終戦時階級は中尉.戦後は教師に戻らず燃料関係の商売をしていたようだ.
1960年代に出された本に,1995年に追記を付して刊行した河出書房版を文庫化したもの.
ラサ島守備隊は,部隊規模がそれほど大きくなかった割に,配備先のラサ島を所有するラサ工業の協力(人的資源やダイナマイトなど)を,全面的に受けることができたため,陣地構築を大規模に行うことができた.
また,沖縄本島から南東に400キロ,部隊主力が配備された南大東島からも南に150キロ離れている小島であることもあって,戦備に関して高い緊張度を保つことができ,海軍や企業を含む島全体を掌握しやすかった.
さらに1945年初頭には,民間人が全員退島したため,その後の艦砲射撃や空襲に対しても,被害を抑えることができた.
著者は陣中日誌を処分せずに持っていたため,来襲敵機の機数などもかなり細かく書かれている.
そのほか歩兵砲陣地について,平射用のほか即席の対空砲として運用できるよう,陣地を構築していた話や,とにかく上級部隊からの情報が遅くてイライラしていた話などが興味深い.
元国語教師らしく,文中要所要所で俳句が挿入される.
本書のサブタイトルは,「玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ」.
遠く離れた島に送られた場合,敵が来る=玉砕っていう意識が強くあらわれていることが多い.
独ソ戦みたいに広大でも陸続きだと脱出の機会も多いし,たとえ包囲されても最悪足で何とかならないことはないが(実際そういう例もある),周りが海だとそうはいかない.
そのあたりが,「隔絶しているから頑張ろう」という意識になる一方で,圧倒的な敵の上陸に際して,「すぐに玉砕しよう」的な考えになってしまうのだろうか.
-----------------軍事板,2011/11/08(火)
『虜人日記』(小松真一著,ちくま学芸文庫,2004.11)
フィリピンの戦記では,ネグロス島を中心にした本書も実に良い.
軍属の技術者の戦記で,戦闘をしていないだけ,現地の描写がとても上手だと思う.
技術者だが,登山が趣味だったせいもあって,山に入るときの装備一式を日本から持ち込んでいて,やたらめったらサバイバルに強い.
マニラに残った仲間はほとんど全滅で,最前線のネグロスに派遣されたこの人は,かなりの余裕を残して終戦を迎えている.
それでも,あと1ヶ月長引いたら危なかったとは言われているが.
――――――軍事板,2011/09/21(水)
青文字:加筆改修部分
『ルソンの谷間 最悪の戦場 一兵士の報告』(江崎誠致著,光人社,2003.3)
『烈兵団インパール戦記』(斎藤政治著,光人社NF文庫,1999.5)
烈の工兵連隊の軍曹の戦記.
コヒマで苦労し,インパールへ転進を命じられるも,部隊はボロボロで,ホウホウノ体でビルマまで引き上げてきている.
インパールは大変きびしく,古兵ですら生き延びられるのは稀であったことが,良く分かる.
また,弱兵と自分を卑下してみせつつも,その時々の正直な感情を吐露しようとしてくれるのはありがたい.
――――――軍事板,2010/03/03(水)
『私は魔境に生きた 終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年』(島田覚夫著,光人社NF文庫,2002.2)
これ,サバイバル記録文学として出色の出来だね.
吉村昭の『漂流』(吉村昭著,新潮文庫,1990)に匹敵するんじゃないか,あるいはそれ以上かも.
―――――――軍事板
自らの実体験に基づく手記だからね.
ロビンソン・クルーソーとは各段の差だね.
満足な道具も無い状態で,しかも敵にも原住民にも見つからない場所での開墾.
発火方法や,遺棄され錆びだらけのサンパチのレストア,挙句の果ては実包の再生.
M1のカートリッジに38の弾頭を充填までするとは.
――――――シチュー砲 ◆STEW.ibjrE in 軍事板
さらに驚いたのは著者の観察力.
ジャングルの生態系やら原住民の風習などの描写の細かい事.
ジャングル生活当時はろくに記録する媒体もなかったのに,よく覚えているもんだと.
しかも文章も簡潔で無駄がなく,すごく読みやすい.
おまけにこれだけのものを,内地に帰還して一年と少しで書き上げたというのは信じられない.
さらには著者は,この本を書き上げるまでまとめた文章を書いたことがほとんどないって・・・.
もうね,驚異の塊みたいなもんですよ,ホントに.
そういう観察眼の鋭さとか,手先の器用さ,好奇心の強さみたいな資質があったからこそ,ジャングルで生き延びられたんかもね.
未読だけど,簡潔論理明瞭な文章なら,たぶんその通り書いているんだよ.
この種の人々の記憶=思考方法=体験はだいたい一致していてさ.
多次元方程式「ニューギニア置去り」があるとして
「おれはまず何をするだろう?」
と,要素を素因数分解して,次項方程式につぎつぎと行動をインプットし,その通り実行して回答,「救援隊が来るまで生存」を得たんだろうな.
覚えているというより,多次元方程式を帰国後,一気呵成に次々と解いていく過程を執筆したんだろうて.
――――――軍事板
青文字:加筆改修部分
『われレイテに死せず』(神子清著,ハヤカワ文庫,1988.1)
評判通りの良い本だった.
程よい没入感と,スピーディーな展開,主人公補正がかかったかのような名人射撃.
当時の人でなければ書けない,三八式ガンアクション戦記だ.
頼りになる軍曹に階級章を外す士官,ニセ曹長,指揮を執らない士官.
離合集散,人間模様それぞれ.
ストーリー展開もよく考えられてる本だな,と思ってしまう.
検証スレッドが欲しい気もする.
途中で出てくる2人の高官は,一体誰と誰だったのか.
中継地の島の残留組は,その後どうなったのか.
-----------------軍事板,2011/10/30(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ガダルカナル攻防戦とは?
【回答】
南太平洋の小島,ガダルカナル島を巡る戦い.
日本軍将兵は3万1千人が参加,最終的な死者数は2万人.内戦闘死が5千人.残りはすべて病死及び餓死である.
一方,連合軍死者数は1600人であった.
大本営発表では「撤退」を「転進」と発表.
緒戦において,日本軍は小兵力の暫時投入により虐殺され(一木支隊が壊滅),これにより制空権を握られ,補給路を絶たれた.
この戦がまともな戦であったなら,ソロモン海海戦などもなく,連合艦隊水雷部隊が残存し,南太平洋での制海権の維持でき,故・坂井三郎氏が活躍したラパウル基地の航空兵力への補給も続行,制空権の維持も可能だった.
もともと両軍ともに,ここへの飛行場建設のために生じた戦闘であり,すでに完成していた飛行場を陸軍主力と海軍機動部隊とで維持できたと思われる.
【質問】
知っている方は教えてください.
山岡荘八著作「小説太平洋戦争」で,ガダルカナル攻防戦での記述に昭和天皇が,日光の御用邸で米軍上陸の報を受けて,ただちに帰京すると主張したとあります.
このあたりのやり取りの根拠となる書籍を探しています.
一応ググッてはみましたが,それらしい解答は得られませんでした.
よろしくお願いします.
【回答】
米軍の総反攻の開始だぞ!って奴か.
それなら,伊藤正徳「帝国陸軍の最後」で俺は読んだ.
文献頼みの,山田朗「大元帥・昭和天皇」には載ってない話なんで,伊藤氏の立場からして,関係者から直接聞いたんじゃないかと思う.
(軍人としての昭和天皇については,「大元帥・昭和天皇」は必読.
版元が新日本出版社って時点で,昭和天皇個人への贔屓は一切ないのは判ると思うが,読み終わると,その話絶対に実話だって確信するぞ)
なお,『大元帥・昭和天皇』については,『昭和天皇の軍事思想と戦略』という改題改訂版が出てる.
しかしなあ.どっちを読んでもつくづく思うが,昭和天皇が文字通りに大元帥として統帥権行使してたら,カリフォルニアに日の丸立てて※,ハワイ独立させて終わったよなあ,あの戦争.
軍事板,2010/10/12(火)
青文字:加筆改修部分
※ 要出典
【質問】
「ガダルカナル戦記」という本の内容についての質問です.
川口支隊の川口大佐が昭和17年8月30日に出した指令なのですが,舟艇機動を使って上陸する部隊の中に,「独立工兵第六連隊」という名前があります.
この連隊の詳細を知っている人はいますか?
調べた限りでは,「工兵第六連隊」は上海の鉄道連隊しかなく,ラバウルにいるはずもありません.
また,ガダルに投入できる戦力が一木支隊と川口支隊しかなかったはずなのに,唐突に工兵1個連隊もの兵力が出現したのに,かなり違和感を感じています.
【回答】
独立工兵第6聯隊は,昭和12年7月27日に広島で編成された「乙工兵」(船舶工兵)で,工兵第6聯隊とは別の部隊.
大発などの舟艇を装備し,舟艇機動部隊の輸送を担当.
ちなみに舟艇機動部隊に所属する独立工兵第28聯隊の1中隊(2小隊欠)も同じ.
ただし,駆逐艦乗船部隊の独立工兵第15聯隊は「甲工兵」だから,普通の野戦工兵.
青文字:加筆改修部分
【質問】
ガダルカナル島戦において,第二師団の部隊で島に上陸せず,引き返したものは存在するでしょうか?
祖父に以前話を聞いたとき,ガ島に送られる筈だったが,船が途中で引き返したという事を聞きました.
調べたところ第38師団の部隊で輸送船が引き返したというのは発見したのですが,第二師団の記録は見つかりませんでした.
出身地や戦争で行った地域の話から,第二師団で間違いないと思うのですが・・・
【回答】
戦史叢書「南東方面陸軍作戦<2ガダルカナル・ブナ作戦」によれば,第2師団所属でガダルカナル島へ上陸していない部隊は次のとおり
●ジャワに残留
捜索第2聯隊の主力
野砲兵第2聯隊の1個大隊(第6中隊と第3大隊(第9中隊欠))
師団第4野戦病院の半部
●ラバウルに残置
捜索第2聯隊第4中隊
師団病馬廠の一部
●ブーゲンビル島に残置
師団第2野戦病院の主力
師団防疫給水部の一部
●上記部隊以外の可能性
定員の関係から輸送船等に乗船できなかった
輸送船に乗船しガダルカナルまで行ったが上陸できずに戻ってきた
輸送船等に積めなかった(積まなかった)馬・兵器・機材・物資等を管理するため残留した
など.
青文字:加筆改修部分
【質問】
ガダルカナルに港湾施設は無く,日本軍は揚陸艦投入した訳ではないにも関わらず,日本軍が戦車を持ち込むことができたのは何故ですか?
【回答】
ガダルカナルに重機材が運搬できているのは,当時日本海軍が保有してる最良の高速輸送艦とも言うべき,「日進」の働きが大きい.
甲標的作戦用に備えた,力量の大きなクレーンと,28ノットの高速,駆逐艦と同等かそれ以上の火力を持つこいつがいなければ,重砲などの重機材の投入は困難.
「水上機母艦」っていう分類に惑わされて,運用の実態を把握するのを怠ること莫れ.
Posted by 名無しT72神信者 at 2010年08月27日
09:14:58
「週刊オブイェクト」◆(2010年08月26日)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【質問】
大舛松一とは?
【回答】
与那国島の墓地に,ある大尉が眠っています.
大舛松一と言う人ですが,この人はかつて,沖縄を熱狂させた人でした.
彼は,1917年に与那国村に生れ,沖縄県立一中,陸軍士官学校に進み,卒業後,各地を転戦.
1943年にガダルカナル島において,米軍との激戦の中で壮絶な死を遂げます.
この死が上聞に達し,個人感状が沖縄県人として初めて授与されました.
この報が伝わると,沖縄県下では熱狂的な大舛ブームが湧き起こりました.
演劇や芝居で演じられ,新聞紙上には「大舛大尉伝」が掲載されました.
県教学課では顕彰運動週間を設け,尽忠報国の大舛精神の顕彰運動が軍官民一体となって推進されました.
「軍神」を生んだ地元八重山では,教育界や大政翼賛会が,大舛大尉に続け,と熱狂的に叫び,『大舛大尉をたたえる歌』が児童や青年等によって歌われ,八重山の地元紙であった『海南時報』では「軍神大舛大尉に続け」と銘打ったキャンペーンが繰り広げられました.
これは沖縄県人の皇民化教育の徹底など,数々の施策を行ったにも関わらず,未だに「ヤマトンチュ」になれない「劣等県民」に対して,沖縄の政界,教育界の指導者の苛立ちを表わしています.
指導者達にとっては,大舛大尉の死による「感状」と言うのは,沖縄県民の天皇陛下への忠節をアピールするのに絶好の機会になった訳です.
こうして,大舛大尉は軍神に祭り上げられていくのですが,「大舛大尉に続け」とは即ち,「死ね」と言う事でした.
もう一つ,与那国島にあるその頃の熱狂の遺物が,天蛇花の岸壁に彫り込まれた,1943年制作の伊波南哲と言う人の詩碑「讃与那国島」です.
伊波南哲と言う詩人は,1942年に『麗しき国土』と言う戦争讃美の詩集を出版しています.
この序文は高村光太郎,題字は棟方志功の作です.
そう言う人物が書いたのが,「讃与那国島」でした.
この詩も,戦争讃美の詩で,与那国の住民や駐屯する日本軍の士気を高めるものとして造られたものでした.
敗戦後,郷里に引揚げてきた伊波南哲は,与那国島でこの詩碑と対面する事になります.
詩を揮毫した仲嵩嘉尚は,この詩を揮毫したので,戦争犯罪人として裁かれるのではないかと恐れ,詩碑から氏名を削り取っています.
心配になった伊波も,詩を削るかどうかを当時の与那国警察署長に尋ねましたが,署長はその必要なしと回答しました.
かくて,この詩碑は残される事になりましたが,戦後,『麗しき国土』は絶版にされています.
今は「無かった事」にされてしまった出来事ですが,昨今の話を見聞するにつれ,同じ時代が再びやってきている様な気がします.
世代が変わり,それまでの世代の意識がなくなっていくと,人は又同じ事を繰り返すのでしょうかね.
それじゃ,余りにも進歩がないと思うのですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/13 22:29
【質問】
ニュージョージア島・ムンダの戦い(1942/7/25〜)について調べているのですが,この戦いについての本は戦史叢書くらいしか見あたりません.
体験者の個人戦記でも良いのですが,何かありますか?
【回答】
陸戦隊の戦記でいくつか関係するのを読んだことがあります.
ちょっとすぐには出てこないのですが,少なくも福山孝之「ソロモン戦記」光人社は,コロンバンガラの話があったと思います.
あと,種子島洋二「ソロモン海セ号作戦」光人社は,撤退作戦をやった舟艇部隊の話です.
それと,英語が読めれば,米軍の公刊戦史がネットで読めますよ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ちょっとお聞きしたいのですが,
「太平洋で米軍が日本軍のトイレを偵察したら,ウンコの量が多くてびっくりして,兵力の概算を誤った」
って話,昔からよく言われてるじゃないですか.
あれって出典は何処なんでしょうか?
コメを食うからウンコが多いという話も根拠を聞いた覚えがないです.
単なる都市伝説なんでしょうか?
【回答】
「信じられないが本当だスレ」まとめサイトにも同様の話があって,そのレスでは「糞尿博士世界の旅 中村浩」からと書かれてました.
それの真偽までは私は分かりませんが.
トイレの数だったんじゃないかなぁ〜
ただこの「トイレの数を〜」と云うのは,やや疑った方かもいい話かもしれません.
日本軍の暗号,通信読解に関わったホルムズ氏の話では,
「日本軍の兵力は,通信読解でほぼ分かってた! トイレの数? そんなモン数えてたかもしれないけど,通信読解はそんなモノを数えるより正確だった」
厠の数に関してですが,タラワ島 ベティオ環礁を事前空撮した写真には,桟橋上に突き出た厠が海岸線に並んでいるのがはっきりと写っており,捕虜情報で得た
「何人に付き厠を一つ設置するか」
から計算して,守備兵力が4000人台である事を特定出来たと,アメリカ人の書いた本で読みました.
その話は確か,サンケイの赤本『タラワ』がソースです.
今は NF 文庫で出てますね.
【質問】
マリアナが陥落しそうなのに,ニューギニアで決戦みたいに戦ってたり,硫黄島が陥落しそうなのにフィリピンで決戦みたいに戦ってたりするのはなぜですか?
【回答】
アメリカの対日侵攻計画は2ラインあったから.
マリアナ−硫黄島は海軍(ニミッツ)ライン.
ニューギニア−フィリピンは陸軍(マッカーサー)ライン.
最初はどちらか一本に絞るはずだったが,両者お互いに主張して譲らず,特にマッカーサーがフィリピン奪還に固執したために話が纏まらなくなり,ルーズヴェルト大統領自らが仲介して2ラインの侵攻計画になった.
日本側はその2ラインにその都度決戦を仕掛けてるので,戦力を分散してるように見えるし,実際そうなった.
【質問】
ニューギニア戦(1942.3.7〜1945.8.15)での怖い話を教えてください.
【回答】
妄想と思われないように注意してと(笑)
うちの爺さんはニューギニアから生還した,運のイイ陸軍兵だが,良く魚を捕る時に手りゅう弾を海に投げ込んでね,その時に手足がヒレで,体がスベスベしたデカいワニがたまに捕れたそうだ.
焼いて食ったら,美味しかったと話してくれた.
オカルト板
(「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)
ニューギニア方面に派遣された兵士の体験談の中には,その手の怪物,怪獣の目撃談が他戦線と比較して多く含まれている
戦後,部隊史などをまとめるために行われた聞き取り調査や,新聞社などが発行したドキュメントなど,ある程度,公式な性格を持つ資料の中にも,似たような体験が多く記録されている.
その中でも特に多いのは,爪と長いくちばしを持つ大コウモリ,足が鰭化している巨大ワニ.
当時,古代の爬虫類の外観がどのくらい普遍的な知識だったのかは不明だが,申し合わせたように,この二種の目撃談は余談として頻出する.
中には実際に被害が出て,任務として退治しに行ったなんて話もあるから,それが未知の動物かどうかはともかく,何かがいたのかもしれない.
ちなみにこの手の話は,現地の人たちも良く語るのだが,彼らは渡来した人々が持ち込んだ話や,戦争の風景も,神話や実体験として扱ってしまうので,参考にはならない…….
残念.
オカルト板
(「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)
ニューギニアのあたりのある戦場でのこと.
大規模な戦闘をした部隊があって,その後,その部隊の前線基地に,夜な夜な,死んだ兵隊たちが現われるようになったそうです.
彼らはいずれも,足がちゃんとあり,懐かしそうに
「よお!」
とか言いながら,現われるのだそうです.
いずれも確かに戦死した連中ばかり.
神主の息子の兵士がまじないをやったり,お経をよめる兵士がお経を詠んだりしても,まったく効き目無し.
そのうち,ズカズカ上がり込んできて,貴重な飯をバクバク食う始末.
しかも,いきなり手がスルスルっと伸びて,木の実を取ったりして,明らかに化け物化している様子.
怖いやら迷惑やらで困っていたのですが,なんとも手の施しようが無い.
見るに見かねた中尉だか大尉だかの隊長さんが,幽霊たちが集まっているところへ,ツカツカと歩いていって,いきなり大声で,
「全員,整列!」
と言うと,素直に整列したそう.
そして,
「貴様らは,全員戦死した兵隊である.
よってこの世にいてはならん.
全員あの世へ行って成仏するように.
これは命令である!」
隊長が涙を流しながら言うと,幽霊たちは,しばらく呆然とした顔で佇んでいたが,そのうち全員が泣き始め,やがてボロボロと土人形のように崩れていったそう.
あとにはその土だけが残り,彼らは二度と現われることはなかった.
兵隊たちはその土の大部分は現地に埋め,残りを少しづつ日本に持って帰って,供養したそうです.
軍事板某所よりコピペ in オカルト板
(「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)
コンベンションや市で見かけて余裕がある時にポツポツ買っていますが,今回も良さそうなものがあったのでゲット.
軍用犬とおぼしき,ちょこんと座った白犬がラブリーです.
イタリアにももっと小さな兵隊人形がありますが,これは複数集めて遊ぶ子供の遊具としてで,日本は日本人形の様に一体で愛でますね.
よしぞうmaro' in mixi,2007年05月30日02:09
ラジオ番組で水木しげる先生(歩兵第229連隊の補充兵としてラバウル派遣)に
「先生にとって鬼太郎とはなんですか?」
とのパーソナリティーの問いに,先生は一言
「金のなる木ですかな」
オカルト板
(「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)
やっぱり一番の不思議は水木先生,というお話でしたとさ.
【質問】
玉砕って何? 以下の説明で合ってるの?
――――――
全滅という言葉も実は,一般に受け取られているように,一人残らず戦死した状態ではない.
〔略〕
旧日本陸軍では,玉砕と言った.
――――――林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.72
【回答】
玉砕と全滅は違うぞ〜
玉砕=殲滅だがに……
全滅というのは,同書でも,また,本サイトでも別項に述べられているように,人員の3分の1が戦闘不能になり,部隊としての戦闘を継続できなくなること.
一方,殲滅というのは,損耗約10割.文字通り,部隊が消滅してしまうことです.
例えば,最初に「玉砕」という言葉が使われたアッツ島(1943/5/29玉砕)では,山崎保代陸軍大佐以下,2400名の守備兵のうち,生還したのは27名.戦死率,98.88%.
ちなみに,戦後の遺骨収集により,最後の万歳突撃では,山崎大佐が文字通り先頭を切って突っ込んだことが確認されています.
グアムでは守備兵2万のうち,1万8千余名が戦死.戦死率,約90%.
ビアク島では戦死,約1万3千.生還者83名.戦死率,約99%.(ただし,早期に500名ほど脱出している.それを計算に入れても約95%).
サイパンは正確な数は不明.
ペリリュー島は,正確な数字は諸説あるが,一説には,総兵力9838名のうち,生還者は446名(軍属含む).戦死率,95.47%.
硫黄島では戦死者20129名(軍属含む).生還者1033名.戦死率,95.12%,
「報道に際して,味方が全滅したという表現を避けたのだとされるが,」(同書,p.72)
については,「全滅した」という言葉を「殲滅された」と入れ替えれば,まあ,だいたいその通り.
さっきふれた山崎大佐は,「軍神」とされて称えられたり,アッツ島玉砕が「軍人の華」として喧伝されたりもした.
困難な状況下での勇戦は称えられるべきだろうが,「神」だの「華」だのはどうかと思いますね.
その後に続く文章,
「『生きて虜囚の辱めを受けず=捕虜になるくらいなら死ぬ』
という教育が徹底していて」(同書,p.72)
は,これもどうかと.
別項に述べる通り,『戦陣訓』のせいだというよりは,日本社会の空気,ムードが,捕虜になることをためらわせたと言っていいでしょう.
サイパン島からの生還者なんて,軍人・民間人の別なく,そのあと,ひっでー扱いをされてます.
「空気」に弱い,という日本人の特性は,今も昔も変わってないようですね.
どうも,「大東亜戦争は軍人だけが悪い.日本国民は犠牲者だ」という認識が一部にあるようですが,そのせいでしょうか?,日本社会のせいではなく,「軍人教育のせいだ」と矮小化されることがあるのは.
実態としてそうではなく,むしろ,民間の方が先走って暴走――英語禁止,外国人への投石(被害者はドイツ人にも)など――さえしていた,というのは記憶されておくべきでしょう.
この本は,2〜3冊本を読んで,2ch.軍事板に行き,自説を滔々と述べて叩かれるような,厨房が書いたエッセイ程度のものでしょう.
暇なときに,著者をバカにしながら読むには丁度良い本ですわ.
▼ なお,部隊が全滅と言う意味での用法は,先の大戦からだろうが,西郷隆盛なんかも,自分個人の死の意味で,「玉砕」という言葉を使っている.
軍事板,2008/10/31(金)
青文字:加筆改修部分
▲
万歳突撃後の死屍累々
(画像掲示板より引用)
【質問】
旧軍で玉砕命令が出るときって,命令を出した人も玉砕するのが原則ですよね?
【回答】
そもそも玉砕って,大本営発表で全滅の事を玉砕と称したもので,さらに元々は,アッツ島守備隊の全滅のときに,漢詩から引用して玉砕と言ったのが始まり.
「玉砕しろ」なんて命令は出ない
あと,命令も漢詩風の訓示なんてものは「付け加え」であって,実際に出るのは死守命令とかだ.
離島や包囲下の部隊に対し,後方の司令部から何か抽象的な漢詩みたいな電文が送られてきて,
「実際には命令なんかでないけど,撤退も不可能で,降伏も許可されないから結局,皆死ぬまで戦う」
って状態に追い込まれて全滅して,最後の通信が届いた後で,後方の司令部は「あの部隊は玉砕した」と称するパターンが一番多いはずだ.
この場合,後方の司令部は玉砕してないわけで.
ちなみに「漢詩風の命令」ってのは,明確に「総員玉砕セヨ」とか言わず,前置きがくどくて,とにかく必死の覚悟で戦え的な文語体のやつのこと.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本軍では,なぜ玉砕命令下で偶然生き残るのも許されないんですか?
最後は,死ぬことそのものが目的であるように思えますが,玉砕することで軍には何か利益があるんですか?
【回答】
玉砕命令ではなく,死守命令.
通常,防御や遅滞行動では期限と地点が定められるが,遅滞する地積も無い状況で,より多くの時間を稼ぎたければ,可能な限り防御戦闘を行って敵を足止めせねばならない.
命令の趣旨は「生きてる限り闘って,敵を足止めせよ」なので,生きてるのに戦闘を放棄して敵に行動の自由を許しているのは,命令違反.
死ぬ事が作戦目的ではないので,軽率に攻撃に出て玉砕し,短期間で敵に行動の自由を与えてしまうのも同様に命令違反.
前者と比べて,後者は戦死しているので責任の追及ができないだけ.
軍事板,2009/07/17(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
硫黄島やペリリュー島で生き残ったわずかな兵は,なんで助かったんですか?
気を失って捕まったりが多い?
それとも降伏した人も結構いるんですか?
【回答】
投降者はまずいない.
ほとんどが,気を失ってた人たち.
例えば硫黄島の守備隊員で,戦傷で気絶して米軍に救助された人の手記があるよ.
大概は負傷して気絶したところを救助された,と言うのがほとんどだが,自ら降伏したって人もゼロではないだろう.
そういう人は体面を慮ってその事を自分からは言わないだろうから,いてもあまり記録には残らないだろうけど.
ただ,戦争後半になると例え動けないくらい負傷していても,日本兵は米兵が近寄ってきたのを見計らって,懐に隠し持った手榴弾で自爆したりしたので,米兵の方も負傷して気絶してるからって,容赦はしなかった.
さらに,終戦まで隠れたままで,終戦後に投降した人も結構いる.
ペリリュー島の37人だったか,組織的に行動してた組がいたり.
一例として硫黄島にいた海軍兵が書いた「十七歳の硫黄島」
少尉率いる飛行兵の一団は,米軍の投降呼びかけに応じて,地下壕を出た.
最初に少尉が出て交渉して来たあと,戻ってきて飛行兵グループをつれて投降.
著者は,その後も逃亡を続けてたが,意識不明となり,はっきりした記憶があるのはもうグアムと.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
大陸打通作戦ってどういう作戦なんですか?
【回答】
昭和19年初頭から行われた,中国での大規模な攻勢です.
細かいことは
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-ichgo1.html
このあたりで
――――――
大本営参謀の堀 栄三が,水際防御を止めて,内陸に深く穴を掘り,潜むことを指導しました.
ペリリュー島や硫黄島の防御は,その指導に沿って行われました.
――――――霞ヶ浦の住人 ◆SJ6H1biwJ2 in 軍事板
というのは本当ですか?
【回答】
堀参謀が指導したかどうかは知らんが,少なくともペリリュー島は「水際防御」ですよ.
サイパン戦の戦訓により,
『主陣地は海岸から適宜後退して選定する』
と定めた「島嶼守備要領」が,大陸指示第2130号で示達されたのが昭和19年8月19日,
ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月15日.
常識的に考えて,4月末からサイパンと同様に水際防御で陣地構築されていたペリリュー島が,1か月程度で陣地配備を変更できるとは思えない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
堀参謀が指導したのは,水際玉砕を禁止し,抵抗力のある陣地構築についてです.
ですから水際陣地か内陸陣地かは二の次です.
「戦艦は2個重砲連隊,重巡洋艦は1個重砲連隊相当以上の火力があり,したがって上陸に備えた米国艦隊の艦砲射撃は,戦艦1隻につき2個師団重巡洋艦は1個師団に敵対すると考えよ」
と初めて,陸軍が理解できる言葉で作戦要領をつくりました.
さらに,戦艦級の40cm砲については陣地は最低1m以上の鉄筋コンクリート構造にすべきとの指導が,初めて行われたのです.
(それまでは遠距離からの24cm級榴散弾に対する防御から,40cm程度とされていました.)
ぺリリューもタラワも内陸と呼べるほど奥行きはありませんから,陣地は水際になりますが,いずれも米軍をかなり苦しめたのは事実で,堀参謀のガイドライがも大きく貢献していると思っています.
陸軍入門者 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ペリリュー島での米第1海兵師団の損害は?
【回答】
日本軍守備隊は以下の陣容.
第十四師団第二連隊(水戸,3,300人)を基幹に第十四師団戦車隊(12両),
第十五連隊第三大隊,独立歩兵大隊,海軍部隊等で総兵力約10,100人.
米軍側は以下の陣容.
第一海兵師団(24,200人),第八十一歩兵師団(19,700人),海軍部隊(5,000人)の総兵力約48,700人.
戦闘結果は以下の通り.
日本側:玉砕
米軍側:第一海兵師団(死傷者約6,300),第八十一歩兵師団(死傷者約3,700).
これだけだと,意外に第一海兵師団の損害が少ないように見えるが,その詳細は,
第一海兵師団,基幹3個連隊.
第一連隊:損害率56% → 戦闘能力喪失認定
第五連隊:損害率43% → 戦闘能力喪失認定
第七連隊:損害率47% → 戦闘能力喪失認定
第一海兵師団はガ島戦にも参加した,当時米軍でも屈指のエリート部隊.
守備隊の善戦に対する,陛下の御嘉賞は異例の11回を数えた.
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-pll.htm
本防衛戦の詳細については,児島襄氏の「天皇の島」参照.
画像は,パラオの監視塔の壁面に書かれている文字.
これには,ちょっと泣きそうになった……
【質問】
サイパン玉砕戦を知りたいんですが,お勧めなの教え下さい.
【回答】
「太平洋戦争 上・下」児島襄/中公文庫
「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴[13] 悲劇のサイパン 絶対国防圏の崩壊」三ヶ野大典/フットワーク出版
「悲劇のサイパン島」堀江芳孝/原書房
「アメリカ海兵隊の太平洋上陸作戦 上」河津幸英/アリアドネ企画
「烈日サイパン島」中日新聞社会部編/東京新聞出版局
「タッポーチョ」ドン・ジョーンズ/祥伝社
「サイパン島作戦」陸上自衛隊幹部学校親会/東宣出版
全体的に見るとしたら,これらのものだと思う.
各部隊別に見たいなら,18,118,135,136連隊と独立山砲兵第三連隊は連隊史が出ているらしいので,それらを探してください.
戦車第9連隊関係では,「慟哭のキャタピラ」が光人社文庫に入ってるから手に入りやすいかと.
ちなみに今は「サイパン戦車戦 戦車第九連隊の玉砕」に改題してるようです.
内容がわかりやすくなってるね.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
「マリアナの沿岸砲までラバウルに持っていく」
というのは本当にあったことなんでしょうか?
【回答】
本当は直接にサイパン戦について書いた本がいいのでしょうが,とりあえず.大井「海上護衛戦」学研M文庫の109〜110頁によると
――――――
内部の防備が犠牲にされた.
サイパン,トラック,パラオなどに備えつけることになっていた大砲も部隊もソロモンやギルバートなどに流用された.
すでに備えつけてしまってあったものまで,わざわざ取り外して,これを最前線にもって行くという始末でさえあった.
――――――
同書216頁によると,19年2月に現地にいた海軍参謀曰く「サイパンには高角砲一門すらない」
また,同じく当時,サイパンにいた海軍空挺部隊の士官によると,
――――――
この島に送られてきていた防御用の水上砲や,対空砲などすべての砲火器は,ことごとくトラック島へ,あるいはラバウルへ運び去られていく.
―――――――
ということが起き,昭和18年末にはサイパンに重砲が皆無に近くなったとのこと.
(丸エキストラ版第41集・山辺雅男少佐の手記抄録)
眼い人 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
南雲中将は海軍出身ですが,陸戦となったサイパン防衛戦の指揮はきちんと,執れていたんでしょうか?
【回答】
サイパン島の防衛責任者は第31軍の,北部マリアナ地区集団長(第43師団長)である斉藤義次陸軍中将.
南雲中将は中部太平洋方面陸海軍部隊の最高指揮官だったが,サイパン防衛戦を直接指揮した訳ではない.
以下引用.
――――――
大本営発表(昭和19年7月18日17時)
一 「サイパン」島の我が部隊は七月七日早暁より全力を挙げて最後の突撃を敢行所在の敵を蹂躙し其の一部は「タポチョー」山附近迄突進し勇戦敢闘敵に多大の損害を与え,十六日迄に全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む.
同島の陸軍部隊最高指揮官は陸軍中将斉藤義次,海軍部隊最高指揮官は海軍少将辻村武久にして,同方面の最高指揮官,海軍中将南雲忠一亦同島に於て戦死せり.
二 「サイパン」島の在留邦人は終始軍に協力し,凡そ戦い得るものは敢然戦闘に参加し,概ね将兵と運命を共にせるものの如し.
―――――――
軍事板
青文字:加筆改修部分
――――――
「wikipedia」:サイパンの戦い
多くの民間人が戦いの末期にバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した.
多いときでは1日に70人以上の民間人が自殺した.
アメリカ軍は自殺を防止するために島内にその旨の放送を繰り返していたが,日本軍に吹聴されたプロパガンダのためにほとんど効果がなかった.
但し,アメリカ軍によって集められた邦人の老人及び子供の周りにガソリンがまかれ火が付けられたり,米軍の呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性全員が裸にされ,トラックに積み込まれ運び去られたという証言もある[1].
――――――
これ本当?
【回答】
本当なのかの確証は多分取れないだろうが,「そんなことがあるわけない」とは言えないだろう.
ただ,米軍を弁護するわけではないけれど,
「米兵が来たので死んだ振りをしてやり過ごそうとしたら,ガソリンをかけて焼かれた――衛生の為に乱暴な手段として死体を焼却処分しようとしたのであって,人間を焼き殺すことが目的だったわけではない」
とか,衛生の為汚れた服を脱がせてシャワーを浴びさせようとしていたのを
「降伏した人を裸に剥いて,建物の中に連れ込んでいる(その後暴行したに違いない)ということになった」
という,ある種の誤解に基いた話になってしまった,という例はある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
サイパン島では「バンザイ・クリフ」が有名ですが,同島の日本軍には,投降者は誰もいなかったのですか?
【回答】
いました.
米軍側には,投降を説得するための特殊コマンドまでいました.
以下引用.
訃報 〜サイパンの笛吹き男〜
●ガイ・ガバルドン氏
(太平洋戦争中,サイパン島上陸作戦に参加した元海兵隊員)
ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると,8月31日,フロリダ州で心臓病のため死去,80歳.
44年6月,海兵隊二等兵として南太平洋のサイパン島上陸作戦に参加. 玉砕戦を挑む日本軍に対し,「一匹おおかみ」と自ら名付けた「説得作戦」を提案し,実行した.
日本軍が潜む洞窟などに一人で夜間に潜入.片言の日本語で降伏後には尊厳をもって取り扱うことや,日本への帰還を約束,一日に約800人の日本兵を連れ出すなど計1000人以上を降伏させ,「サイパンの笛吹き男」と呼ばれた.
この活躍ぶりはのちにテレビドラマや映画にもなった.
(2006年9月6日付け中国新聞より引用)
サイパン戦と云うと 『バンザイ・クリフ』 が有名ですが,その一方で,こういう人も居たんだ〜 もっと知られてても良い人だな〜 と思いましたのでここに転載し,ガイ・ガバルドン氏のご冥福を祈りたいと思います.
この人を題材にしたドラマや映画があるものなら,ぜひ見てみたいものですねぇ……
ベタ藤原 in mixi,改
(画像掲示板より引用)
サイパンの偽対空機関砲
(画像掲示板より引用)
【質問】
サイパン島以外にもスーサイドクリフという場所のある島があるとききました.
その島の名前を教えてください.
【回答】
沖縄本島の糸満市米須山城海岸のこと.
また,テニアンにもそう呼ばれた岬があったようだ.
悲しい話だ.
◆◆◆フィリピン防衛戦
【質問】
比島防衛を巡り,大本営,総軍と,現地の幕僚との間では,どのような意見の違いがあったか?
【回答】
第35軍参謀長・友近美晴少将の手記によれば,次の通り.
「参謀本部では,
『比島のように大小3千以上という多数の島嶼群から成っているものの防衛は,陸上撃滅戦ではいかぬ.
航空戦で上陸軍を海上で叩き,上陸軍がひょろひょろの状態になったところを陸上防衛軍が叩けばよい.
すなわち,比島防衛は航空機によるもので,地上軍はこの航空機の戦闘を助ければよい.
したがって作戦準備では,地上軍は飛行場建設・燃料集積とか,航空部隊の掩護をやればよいので,地上戦闘の陣地構築とか訓練などは二の次である』
というのであった.
そして,この方針で第11号作戦準備が第14方面軍に課された.
当時の黒田司令官は,
『そのイデオロギーはよいが,イデオロギーだけで戦争はできぬ.
飛行機で米軍を皆海没させるなど,言うべくして実行はできない.双方の航空兵力を比べれば判る.
主戦闘は必ず陸上で起こる.そのときには我が航空兵力は零に等しい.
いくら14方面軍が航空部隊のために働けと言われても,地上決戦が起こったら戦いをやらねばならぬ.
したがって,地上軍自体の準備も進めねばならぬ』
という意見であった.
黒田司令官の交代の理由には,こうした見解の相違が一つの理由であったようだ.
この黒田司令官の意見には鈴木・第35軍司令官もだいたい同意見で,
『大本営で言うほど我が航空軍も充実せず,連合艦隊も当てにはなるまい.
ゆえに地上軍の作戦準備は促進せねばならぬ.
それかといって,航空軍に気を腐らせてはいけないから,できるだけの力で航空作戦準備もする』
というのであった.
また,黒田司令官は,
『比島の至るところを防衛するには,いくら兵力があっても足りない.ミンダナオ島だけでも10個師団は要るし,そういうことは到底できない.
ゆえにルソン決戦に備えて方面軍をルソンに集結する.
ミンダナオに上陸したときはあっさり放棄する.すなわち,同島にある第30師団も,レイテ島の第16師団も,大部分はルソン島に呼び返す』
という考えであった.
しかし南方総軍では,この考え方では,敵がミンダナオに上陸すれば,南方と日本内地との交通が遮断されるというので,9月初め頃にはミンダナオ島の軍の配置を総軍命令で決めるという有り様であった」
この総軍のやり方には,第14方面軍も第35軍も不満であった.
第3船舶輸送司令官・稲田正純中将の手記「傍目八目」によれば,
「5月,総軍司令部は昭南からマニラに進出した.
その結果,無力であった第14軍をカヴァーして作戦準備が相当促進されたことは事実だが,他面,占領以来,比島の仕事を専管してきた14軍と,総軍の業務の分界がすっきりせず,撞着する事態も少なくなかった.
黒田司令官も総軍の前参謀長であったし,意思はよく通じていたにもかかわらず,
『やりたければ総軍が勝手にやるがいい.どうせ物にならぬ作戦準備なのだから』
とでもいった批判的態度を持していたくらいだった.
その第14軍が第14方面軍となり,やがて10月6日,新司令官に山下奉文大将が,同20日に新参謀長に武藤章中将が着任し,陣営が整ってくると,総軍司令部はだんだん中に浮いていく感があり,総軍の存在はむしろ簡明直截な陶酔を錯雑化するに過ぎなかった」
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.160-161,抜粋要約)
【質問】
なぜ大本営は,従来の作戦方針「ルソン決戦,レイテ防戦」を一夜の内に変更し,「レイテ決戦」を決めたのか?
【回答】
中村八朗によれば,「台湾沖航空戦の幻の戦果を信用したため」だという.
以下,引用.
大本営では,米軍がレイテ島に侵攻してきた事は知っていたが,せいぜいマッカーサー指揮下の4万程度と判断していたようだ.
また,台湾沖航空戦で米軍空母を全滅させたと誤解しているから,制空権のないレイテ海域へマッカーサーが反攻してきたのは,まさに飛んで火にいある夏の虫だと判断したのである.米軍は空母を失っているから,空軍基地にモロタイ,パラオの飛行場を利用するしかない.しかし,距離が遠すぎてレイテの航空戦には参加できない.大本営はそう考えていた.
その判断から,米軍に制空・制海権がないため,フィリピン各島間の日本軍の移動は容易であると考えた.
かつ,台湾沖航空戦で海軍機の大半は失ったが,陸軍機はまだ健在だから,レイテの航空戦は陸軍機で足りる,と判断したのである.
南方総軍でも,寺内元帥以下司令部内では9月頃から「レイテ決戦論」が出始めていた.大本営の方針通りに「ルソン決戦」で行けば,ビサヤ地区(レイテ,ネグロス,セブ,バナイ各島)が敵に占領され,敵空軍跳梁を許すことになり,たちまち苦境に追い込まれることになる.
そうなったら,ルソン決戦も成立しなくなる.
そこで,敵がビサヤ地区のどの島へ来ても,そこで決戦すべきだという考えだった.
したがって,南方総軍では大本営の方針変更は大歓迎だった.
しかし,第14軍司令官,山下奉文大将は「ルソン決戦,レイテ防戦」を固い信条としていた.
そこで寺内は,レイテの兵力増強にはルソン以外からの兵力を転用(上海に待機中の第1,第26師団.満州公主嶺の第68旅団),ルソンの防備は手薄にしないと約束して山下を説得.
山下も折れた.
寺内元帥は命令を発した.
「驕敵撃滅の神機到来せり」
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,1972,p.164-168,抜粋要約)
「神機」…….
【質問】
思ったんですけど,太平洋戦争末期,フィリピンでは決戦せずに持久戦したほうがよかったのでは?
そうすればベトナムみたいな泥沼化は可能でしたか?
【回答】
日本側は補給が持たないので無理.
また,フィリピンで持久戦してもマッカーサーの主導している方の攻勢軸が足止めされるだけで,海軍主導の攻勢軸が史実どうり動くので意味なし.
太平洋戦争末期の米軍は,同時に2本の攻勢軸を持ってた事を理解しよう.
それにドイツ降伏以降は,ヨーロッパから兵力が転用されてくるので持久しても事態は悪化するだけ.
そもそもフィリピンで「決戦」した,というかできたのは海軍だけで,陸軍は,海上輸送がマトモに行えないので増援の輸送も兵力の移動もままならないまま,物資不足で半分自滅している.
そんな状態で何ほどの「持久」が出来たはずもなく.
むしろレイテ方面なんかに兵力を移動させず,マニラの近郊でどうにかして温存
(空襲と砲撃に耐えらればの話だが)
した兵力を一気に叩き付けて「決戦」を挑んだ方がよかったかもな.
あっさり玉砕して終わりだったとは思うけど.
ちなみにフィリピンの陸軍首脳は当初はマニラ決戦を考えたが,
「台湾沖に置いて,航空戦で米艦隊に多大な損害を与え,これを壊滅に追い込むことに成功セリ」
という”台湾沖航空戦”の大戦果
(よく知られているように全くの誤認)
を受けて戦略を変更,
米軍の上陸してくるレイテ島へ兵力を移動させて,ここで迎え撃ち一気に壊滅させるという方針に転換した.
・・・結果,海上輸送中に大半の兵と装備,物資を失ってしまいマトモな作戦が行えず,フィリピン配備の陸軍主力はレイテ島で壊滅した.
【質問】
米軍によるマニラ空襲は何故,奇襲になったのか?
【回答】
前日に,明午前中に演習がるという連絡があり,日本軍兵士は米軍機を最初,友軍機だと思っていたため.
以下に,その体験談を紹介する.
「正確には米軍が大空襲作戦を開始した昭和19年9月21日の正午前であったと思う.
その前日,内務班の通達で,明午前中に演習があるという連絡があったのだ.
兵隊達はもちろん誰一人として緊迫した気持ちはなく,至極当り前の表情で,その朝を迎えたのである.
私は遥か彼方のマルビレスの山頂に豆柱ほどの黒い二,三点を見つけ,それがほどなく数機の飛行機であることに気付いたが,疑いもなく友軍機と信じ,兵舎の2階から戦友と見物していた時である.前の1機が不意に真黒い煙を上げ,アッと息を呑む間もなく海の中に突っ込んだのだ.
演習でこんな事態が起きるのは,余程の異変である.咄嗟に私の背筋をゾッと冷たいものが,電撃に似た速さで突き抜けた.
そしてもう,海中に没して見えなくなった筈の飛行機が,私の体内で黒煙を上げ,広がってゆく.
その猜疑の妄念を嘲笑うが如く,黒い雲と化した数知れない飛行機が,マルビレス山頂から湧き出すように現れ,マニラ湾の海面をスレスレに低空飛行で来て,私達の兵舎の頭上をヒユゥーンと物凄いスピードで掠め去り,空港に殺到するや,ドドドドーンと爆弾の雨を降らし,キューンと無気味な金属音を残して急上昇し,もうマルビレスのほうに飛び去って行ったのだ.
その間幾分であったか,否,数秒であったか詳らかでない.
『わあ!! 敵の空襲だ!! 演習ではないぞ! 本当の敵襲だ!』
と,私は声を限りに叫び続けた.
度肝を抜かれた兵達の動転ぶりは,その極みに達した.演習だと信じていた日に,この予期しない急変に,もう周章狼狽という表現以上の体たらくである.
米軍は日本軍が演習をやる日を察知して,この日の奇襲を敢行したと思料される.
瞬時に人間が思わぬ事実に遭遇したとき,驚き,恐怖をさらに倍加するものはないであろう.
とっさにどう対処すべきか,浮き足立った人心を押さえる事は不可能で,寸時の頭脳の回転が必要である.
『わあ!!』
と,蜘蛛の子を散らすように兵達は思い思いの方向に走ったが,その間にも次々と戦闘機の波状攻撃が続けられたのである.
この執拗な攻撃は,4波であったか5波まで続けられたか記憶が詳らかでないほどの激しさであった」
(泉桂吉〔元第16師団兵士〕,「比島への道」,
新風舎,2003/9/6, p.75-76,抜粋要約)
【質問】
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann/20050507/20050507-00000017-ann-int.html
フィリピンでの旧日本軍の行為を批判し,大戦末期,マニラで毎日3000人を虐殺したとされることが日本の歴史教科書に載っていないとして,加藤駐米大使に謝罪を求める要望書を提出しました.
当時の日本軍に可能なのでつか?
【回答】
当時マニラにいた日本兵は約二万.犠牲になった市民の数は10万と言われています.
被害の原因としては,米軍がマニラ解放のために連日無差別砲爆撃を行ったことと考えられます.
体よく責任を押しつけられた形ですね.
【質問】
フィリピン防衛戦における,日本軍の陣地構築状況はどうだったか?
【回答】
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)という本があります.
著者は第8師団野砲第8連隊第12中隊の中隊長として昭和19年9月にルソン島に上陸.
その後数度に渡る陣地変更を経て昭和20年1月,マニラ市の水源であるイポダム付近の陣地で戦っています.
同書によれば,イポ陣地の場合,陣地自体は難攻不落な地形――前縁地帯には多数の鍾乳洞を利用した陣地.西は道路一本を除いて断崖.南は湿地帯.北は大峡谷アンガット河.東は前人未踏のジャングル――ですが,堅固な陣地を作るには時間が無く――台湾沖航空戦の誤報やレイテ決戦への方針転換などの影響による陣地変更で時間を浪費してしまった.イポ周辺はセメントの産地なので,十分な時間があったらコンクリート製の陣地が作れたはずだ,としている――,作業も敵機を警戒して作業は夜間のみ.
他の部隊との木材の争奪戦(建材に適した木材は少なく,見つけた木には番兵を残した)など,様々な制約がありました.
(陣地は約50uの地積に3mの穴を掘り,柱を立てて屋根の上に1mの土を盛る.その中に火砲を入れた)
また,イポ陣地を守る河島兵団(歩兵第82旅団)の殆どが,
航空部隊の地上要員(通信や整備,航測など)
他方面へ向かう途中でフィリピンで立ち往生したり,原隊が海没した将兵
病院を退院した(させられた?)将兵
で,正規の戦闘訓練を受けていた部隊は
第8師団の歩兵第31連隊と野砲第8連隊(前者は後に他方面へ移動)
独立歩兵第358大隊(移動中に五分の四が海没し,ルソン島で再編成)
のみ.
食糧も不足しており,保存食糧は命令で使用が禁じられ(補給の当てが無く,攻防戦がどれぐらい続くのか分からない為),三度の食事はパラパラと入った米と芋の葉(時期が悪かったのか,芋はついてなかった)やバナナの木の芯(幹を剥いていくと最後にズイキに似たものが残る.下痢をしやすいが,毒ではない)を混ぜた雑炊
椰子の芽(生食だと生栗のような,煮ると竹の子のような味がする)を塩味を強くした総菜という,カロリーを無視した物になっています.
この様な逆境の中,しかし中隊は砲撃や挺身切り込みなどを行います.
特に4月8日には,陣地前面に攻撃をかけてきた米軍に対する砲撃で第8連隊は武功章を授与されています.
また,戦線を突破してきた米軍に対して砲撃を行ったり,陣地奪回も行っています.
(著者は陣地奪回の際,先頭に立って突撃の指揮を執っています)
しかし機械力の差(著者はこの戦いで初めてブルドーザーを見た,と記している),そして圧倒的な戦力差によって陣地は崩壊.転進命令によりすべての火砲を破壊,半減した隊員を率いてジャングルに入り,集結地点の「十三の谷」(兵団はここに物資を集積していた,と言われてた)を目指します.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
【質問】
レイテの地上戦が,敵上陸1ヵ月も経たない内に敵に主導権を握られるようになった理由は?
【回答】
米軍がレイテに大輸送船団を送り,一挙に大軍を集中したのに反し,日本軍の作戦準備が不統一で,このために兵力集中が遅れてしまったことである.
ことに,空襲と潜水艦,魚雷艇などで海上を米軍が荒らし,日本軍の輸送を妨げたからだった.
以下に,その根拠となる箇所を引用する.
第1に捷一号作戦では,地上戦の決戦場はルソン島に決められており,中南部の島々では海軍と航空部隊が受け持ち,地上軍はこれを援助するということだった.
そして地上作戦の最高指揮官である山下大将が,第14方面軍司令官として着任したのが,レイテ上陸戦の僅か2週間前,軍参謀長武藤章中将が着任したのが上陸戦当日だった.
武藤中将は,移動命令で10月18日シンガポールからマニラに来る途中,パラワン島のポート・プリンセサ飛行場に着陸した際,米機の襲撃を受け,飛行場を焼かれて命からがら逃れるという一幕もあった.
そして20日,たまたまルソン島から退避してきた爆撃機に便乗してクラーク飛行場に到着,灯火管制の真っ暗な道を,マッキンレー兵営の第14方面軍司令部に到着したのだった.そこは旧米比軍兵営で,地下50mくらいの深い防空壕があった.
翌朝,武藤参謀長は,この壕内で司令部の各部長や参謀と初めの会見をしたが,参謀達も山下司令官と相前後して着任した者が多く,フィリピンの情況に通じている者は少なかった.
そのとき,田中参謀が米軍のレイテ上陸を報告すると,武藤参謀長は,
「上陸とは面白いぞ.ところでレイテ島はどの辺にあるのか?」
と言ったという一つ話さえ残っている.
一方,大本営がレイテで地上決戦も行うよう決定して,南方軍に指令したのは,この20日だった.
南方軍総司令部ではこの方針を第14方面軍に指示したが,方面軍では,今突然命ぜられても準備もなく,輸送が困難で,また,ルソン決戦もできなくなるという理由で受容れなかった.
そこで22日,寺内元帥が山下大将を招致して直接に話をつけ,「神機到来」の命令を下したのであった.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.139-140,抜粋要約)
【質問】
フィリピン防衛戦における一式自走砲の戦闘について教えられたし.
【回答】
それについては,
「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識 第5回 一式七糎半自走砲(ホニT)」(アーマーモデリング1997年10月号)
に詳しい.
これは,模型メーカー「ファインモールド」社長の鈴木邦弘氏が,元機動砲兵第二連隊の隊員の証言を基に綴った,フィリピンでの一式自走砲の戦史.
一式自走砲は,戦車第二師団隷下の機動砲兵第二連隊に四門配属.
1944年6月30日,戦車第二師団は軍機電報により転出内示を受け,満州からフィリピンへ転進.
師団の一部は釜山からフィリピンへ向かう途中,米軍の攻撃により海没したが,機動砲兵第二連隊の大砲,弾薬の大部分は無事に到着.
1945年1月8日の米軍のリンガエン湾上陸後,自走砲はウミガン,ルパオの前線の各所に,自走砲の壕を準備.
米軍戦車を引きつけて連続砲撃を加えて退却させ,反撃を受ける前に次の壕に移動する,ヒットエンドラン戦法で戦ったとしている.
一式自走砲は対戦車戦闘及び通常榴弾射撃においても,相当の効果を発揮.
M4に対しては前面において500メートルくらいで撃破できたという.
(なお,タミヤの「一式砲戦車」の解説書に記された,「米軍のトラックに徹甲弾を撃ち,12台を貫通した」というエピソードは,他の史実と混同した物で,執筆を担当した竹内昭氏によると,捕獲した75ミリ砲搭載M3ハーフトラックで米軍のトラックを砲撃した際の記録と混同した,としている.
また,実際の戦闘に参加した元隊員によれば,自走砲は徹甲弾と榴弾を間違えて射撃した事はなかった,としている)
ノモンハン戦生き残りの部隊幹部によるカモフラージュは完璧で,頑丈な掩体の中で連日数百発におよぶ射撃を行い,米軍の進撃を阻止し続けたが,師団主力の戦車連隊(第六,七,十)は壊滅的な打撃を被り,1月中に殆どの戦力を消耗.
以降,師団は歩兵部隊として戦い続けた.
3月からのルソン島サクラサク峠の戦闘は激烈を極め,三ヶ月に及んだとしている.
この時,機動砲兵第二連隊も,自走砲四門と機動九〇式野砲二門を有する渡辺第二中隊のみとなっていた.
サクラサク峠の戦闘で第二中隊は,後方陣地のサンタフェから制圧射撃を実施.
自走砲は昼間,サンタフェの後方アリタオにおり,夕方にサンタフェへ進出.
夜間射撃を実施して,払暁までにアリタオに戻っていた,としている.
また,移動の際はキャタピラの痕跡を隠す為,各車の後尾に樹枝等を牽引させており,米軍はこの自走砲の運用を高く評価したとしている.
(米軍は戦後,師団長に対する問答の中で,サンタフェ付近を「毎日戦爆各1個連隊で捜索させた」が,陣地を発見するには至らなかったと述べている)
3月31日夜,自走砲と九〇式野砲に15榴(150ミリ野砲)3門を加えた支援射撃では,一千発を発射.
この砲撃と歩兵部隊の夜襲により,サクラサク峠前面の天王山に布陣していた米第32師団は,退却を余儀なくされ,同地の奪還に成功している.
(この時,射撃に加わった15榴は,手持ちの書籍などでは,戦車第二師団が15榴を保有していたとの文言が無かったので,おそらく他の部隊の大砲(四年式か九六式)ではないかと思われる)
4門の自走砲はその後も,サンタフェ陣地で制圧射撃を続けたが,4月18日,松岡連隊長が陣地偵察中に負傷(後戦死),25日には寺尾大隊長が戦死.
26日,サンタフェとアリタオの間にあるボネで自走砲2門が発見され,砲爆撃により1門が横穴壕に埋没(後に米軍が掘り出して捕獲し,アバディーン戦車試験場に展示される),この戦闘で渡辺中隊長ほか数十名が戦死.
残余の自走砲は戦車撃滅隊に配属され,戦闘を継続したが,5月28日にアリタオ付近の戦闘で2門が砲爆撃により破壊炎上,最後の1門はバンバン南方のジャンクションで失われ,自走砲中隊は壊滅した,としている.
機動砲兵第二連隊の総人数は1279人.
戦死者1087人.生存者192人.
損耗率は約85%だったとしている.
グンジ in mixi,2009年09月12日12:46
青文字:加筆改修部分
【質問】
比島では一式砲戦車部隊への燃料補給は,どのように行われていたのですか?
【回答】
本棚の比島戦に関係ありそうな本を漁ってみた.
佐山二郎「機甲入門」
記載無し.
というか,機動砲兵第二連隊に関する記載が無い.
(四式自走砲中隊については記載があるが,燃料補給についてはやはり記載無し)
土門周平 入江忠国「激闘戦車戦」
こちらも機動砲兵第二連隊に関する記載は無し.
ただ,多大な犠牲をはらった師団の防御戦闘の結果,
「退路上のデグデグ付近に集積してあった軍需品は,その全部をカガヤン河谷にうつすことに成功した.」(259頁)
との記載があり,この中に燃料が含まれている可能性はあると思われる.
村尾国士「日本の戦歴 フィリピン決戦」
機動砲兵第二連隊に関する記載はやはり無し.
132頁では極度のガソリン不足がマニラ撤退作業が進まなかった一因となった,との記載あり.
(;-_-)(探し方が悪いのかなぁ….
そういや「サイパン戦車戦」でも燃料補給の話は出てこないなぁ….
まさか燃料を補給する前に壊滅したので,そんな話が残っていないとか)
グンジ in mixi,2009年09月15日00:33
【質問】
四式自走砲のフィリピンでの活動状況は?
【回答】
アーマーモデリング(AM)誌「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識 第13回四式十五糎自走砲『ホロ』」(99年2月号)
および
「帝国陸海軍戦車大全 第18回「四式十五糎自走砲(ホロ)」『既存兵器ノ戦局即応化』(前編)」(07年12月号)「最終回 同(後編)」(08年6月号)
によれば,比島戦に投入された四式自走砲部隊は「第14方面軍仮編自走砲独立鷲見(すみ)文男中隊」.
昭和19年12月8日に野戦砲兵学校,同幹部候補生隊,陸軍戦車学校,東部72および73部隊から将校・下士官・兵を選抜.
(AM誌Vol.104の記事では野戦砲兵幹部候補生隊付の鷲見文男大尉以下,同校から下士官2名,兵12名.東部72および73部隊や戦車第四師団等からも合わせて91名)
12月11日,部隊は板橋補給所で3両のホロ車(四式自走砲)を受け取って19時ごろ品川駅で貨車に搭載,22時に品川駅を出発.
人員と車両は別便だったらしく,地震の影響(12月7日に東南海地震が発生)もあり13日に部隊が,19日に部隊段列が門司に到着.
12月22日,輸送船に乗って門司を出港.
部隊は急遽編成された為,各隊員は初めて顔を合わせるような状態であり,出発までの約一週間が内地での互いを知る唯一の機会だったとしている.
12月31日,輸送船団はルソン島北サンフェルディナンドに到着.
翌1945年1月1日から上陸を開始.
その際,米軍機の空襲により輸送船が沈没,自走砲一門が海没する.
鷲見中隊は第十四方面軍司令官山下奉文大将直轄部隊とされていた.
比島戦では当初,ルソン決戦が予定されていたが,台湾沖航空戦の大誤報(米機動部隊に壊滅的な打撃を与えたとされたいたが,実際には殆ど無傷だった)が主因でレイテ決戦に変更された為,多くの部隊がレイテ島に送られた.
しかし自走砲中隊は,あえてルソン島へ送られている.
その理由は定かではないが,部隊としては山下大将の直接指揮下で戦うという特別扱いされる予定だったと想像されるとしており,隊員の「内地を出発する時の命令は,山下閣下の直接配下」という証言がそれを補う物として有力であるとしている.
よって少数でも一矢を報いうる,あるいは山下大将を守る為の貴重な戦力として,陸軍中央から大いに期待されていた事も考えられるとしている.
中隊は夜行軍でマニラに向かったが,山下大将はこの時バギオに後退していた為,現地部隊(江口支隊)に判断を仰いだ所,江口支隊所属の柳本支隊(戦車第二師団機動歩兵第二連隊第三大隊)の指揮下に入り,クラークフィールド飛行場を守る岩下戦車中隊(独立戦車第八中隊)と協同して,隣接するクラークマルコット飛行場を守る事になる.
1月20日ごろ,クラークマルコット飛行場に到着.
飛行場から東北一本に道路(バターン街道)があり,両側は断崖,奥に行くに従い一の谷,二の谷と言う具合に名付けられており(六の谷まであった),さらにその奥にはピナツボ火山があった.
中隊は二の谷に段列を配置して陣地を敷き,部隊は連日,二の谷からクラーク飛行場へ出撃して砲撃を実施.
段列が無傷だったので弾薬は豊富だったとしている.
指揮班:鷲見中尉,神戸少尉,寺岡軍曹,兵3名
第二分隊:自走砲一門,小幡少尉,安藤曹長,兵6名
第三分隊:自走砲一門,中村中尉,斎藤曹長,兵6名
段列:長嶋准尉,名取主計軍曹,他下士官,兵
1月26日夕方,初めてM4戦車を視認.
1月27日,隊員全員が集合して戦況説明の後,9時ごろに出陣してクラークマルコット飛行場東北のマンゴなどの大木の下に停車して敵情を視察.
10時ごろから砲爆撃による波状攻撃が開始され,14時ごろにはM4も攻撃に参加.
広い飛行場は土煙や砲煙で視界が悪く,「何もわからない」状況だったとしている.
中隊はそれぞれの各車戦闘となり,砲撃してすぐ二〜三分で陣地変換し,また砲撃するという機動戦闘になった.
M4との射距離は2-300mという至近距離で榴弾を使用.
16時ごろ,この日の交戦がやっと終了.
戦死者は出なかったが,鷲見中隊長をはじめ6人が負傷.
以降,中隊の指揮は第三分隊の中村中尉がとった.
1月28日は戦闘は無く,29日,いつもの様に大木の根元に自走砲を隠し,命令を待っていた.
14時ごろ,マルコット飛行場を守っていた岩下戦車中隊に,一斉攻撃が開始された為,自走砲中隊に援護射撃の命令が出たが,一昨日と同じ激しい土煙による視界不良に加え,岩下戦車中隊と無線連絡が取れず,所在地もわからない状況下,同じ所に三分と停車できず,100-200mと移動しながら砲煙をすかして,直接射撃でM4を射撃.
16時ごろ砲撃が止み,自走砲を林に中に隠して点検,キャタピラの修理を行いながら日暮れを待った.
この日の戦果は,戦後生還者の証言によれば,敵戦車7両のかく座が確認されたとしている.
(岩下戦車中隊との共同戦果)
18時ごろ,やっと日暮れとなった為,段列に引き揚げようとした際,前方60-80mの道路上に3両のM4がこちらを向いて停車(道路の前方は十字路になっていて,その向こう側に停まっていた)しているのに気付き驚愕する
(自走砲はエンジンをかけていなかったので,米軍は自走砲の存在に気付いていなかった).
第二分隊は小幡少尉以下7名が,これが最後と水筒の水を全員で分けてのみ,互いに手を握り,覚悟を決め,敵戦車が前進してきたら二発発射して道路を左折,二の谷に後退する事を取り決める.
約20分後,戦車が前進を始めると同時に直接照準で二発発射,全速力で二の谷に向かい,2kmほど遮二無二後退して脱出に成功.
敵からの砲撃は激しかったが,あたりが暗闇のせいか,砲弾は殆どが自走砲の上を通過.
しかし榴弾を主に使用したらしく,小幡少尉は戦死,4名が重軽傷を負った.
そしてこの日,マルコット飛行場が陥落している.
その後も中隊は風土病,食糧不足と戦いながらも三の谷四の谷に後退.
2月8日,M4を先頭に二の谷を攻撃してくるとの情報が入り,前進して交戦するか,壕を掘ってその中から迎撃するかの案に分かれ,前者を主張した中村中尉は自走砲一門を二の谷まで前進させる.
しかし既に周囲の山上には米軍の歩兵部隊が前進しており,山上からの重機関銃の集中射撃を受けた自走砲は爆発炎上して4名が戦死.
中村中尉と他1名が脱出したが,中村中尉は責任の重さを痛感したのか,その後,中隊から姿を消したという.
最後の一門はその後も戦い続け,3月初旬ごろに喪失(「帝国陸軍機甲〜」ではM4と交戦して破壊されたとしており,「帝国陸海軍〜」では零距離射撃でM4を攻撃した後,爆破したとしている),その後徒歩部隊としてピナツボ山方面に向かったとしている.
中隊は6月ごろには20名ほどいたが,食料のないままジャングルを彷徨した結果,戦後復員できたのは5名だったという.
一式自走砲を装備した関東軍精鋭の機動砲兵第二連隊と異なり,自走砲中隊は速成編成で,ベテランを選抜したとはいえ訓練をする機会を得られず,しかも各種訓練未了のままで,戦場でのこの戦いぶりは見事だろうといえるだろうとしている.
(例えば「帝国陸軍機甲〜」で取材した安藤曹長は陸軍自動車学校出身で,牽引車の運用に長け,しかも砲の扱いについても助教が勤まるベテラン(当時砲兵学校幹部候補生)だったが,自走砲については実戦はおろか,訓練の経験も無いまま選抜されている)
グンジ in mixi,2009年10月03日16:10
青文字:加筆改修部分
【質問】
フィリピン戦当時の日本陸軍の輸送能力はどうたったか?
【回答】
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)によれば,日本軍は戦う前から劣悪な条件を多く抱えており,特に輸送力の問題が目に付きます.
元々は150頭の軍馬があてがわれてたのですが,フィリピンへの移動の際,輸送船不足の為に定数の三分の一に減らされており,それも糧秣の不足(日本軍の多くは軍馬を使用しており,日本軍はこの時期,兵力を集中していた)や酷暑,過労で次々と倒れていきます.
軍馬の不足分は水牛などを徴発(勝手に持ってくる)で補おうとしますが,これらは疲れるとすぐにへたり込み,仕方なく牛で引っ張る大八車にその牛を載せて運んだそうです.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
【質問】
フィリピン防衛戦当時の日本陸軍の食糧状況は?
【回答】
例えば『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)によれば,食糧も不足しており,保存食糧は命令で使用が禁じられ(補給の当てが無く,攻防戦がどれぐらい続くのか分からない為),三度の食事はパラパラと入った米と芋の葉(時期が悪かったのか,芋はついてなかった)やバナナの木の芯(幹を剥いていくと最後にズイキに似たものが残る.下痢をしやすいが,毒ではない)を混ぜた雑炊,椰子の芽(生食だと生栗のような,煮ると竹の子のような味がする)を塩味を強くした総菜という,カロリーを無視した物になっています.
〔略〕
そして圧倒的な戦力差によって陣地は崩壊.転進命令によりすべての火砲を破壊,半減した隊員を率いてジャングルに入り,集結地点の「十三の谷」(兵団はここに物資を集積していた,と言われてた)を目指します.
しかし
食糧不足(保存食糧は多数残っていたが全部持って事はできず,脱出時は二週間分の米を持っていたが,これまでの節約の反動で殆どの兵が一週間で食べてしまった.ただ幸運な事に多量の塩を持たせることができた.ジャングルでは上述したバナナの木はもちろん,タヤバスの実や河の蟹などあらゆるものを食べている)
米軍やゲリラの攻撃(観測機が常時飛んでおり,目に付いたものには砲撃を加えた.ゲリラもマンゴーの木や籾の入った米籠の近くで待ち構え,日本兵を射殺していった)
そして病気や栄養失調で多くの兵士を失います.
また規律も崩れかかっており,米を食い尽くした兵士がまだ残してる兵士の米を盗もうとして乱闘になっています.
さらに,
・著者の部下が水筒に水を汲もうと沢に下りたら,友軍の物取りに撃たれて負傷した
・人肉を食べた兵士の一団を発見した将校が即座に射殺した(伝聞)
・河島兵団司令部が日本兵に襲撃され,兵団長が軽傷を負った(食糧目当ての強盗.その後,偶然にも合流した著者の部隊を親衛隊にして警護に当たらせた)
などの凄惨な話もあります.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
また,火野葦平もこんな悲惨な記述を遺している.
[quote]
「だって,北ルソンの山奥に逃げこんで,まるきり,人間の食ふものでないいろんなものを,手あたり次第に食つたからな.
饑餓といふ文字は,前から知つてゐたし,その概念も理解してゐたが,自分が實際に飢ゑてみて,僕らの智識がいかに口甘ちよろいか,わかつたんだ.
乞食とか,餓鬼とか,獸とか,そんな生やさしいもんぢやない.地獄といふ言葉も,遠いほどだ.到底,眞實を表現する言葉がない.君も,一度その状態におちいらねば,ほんたうのことは,わかるまいよ」
―――『バタアン死の行進』(小説朝日社,1952/10/5), P.23
【質問】
なぜ米軍はオルモック湾に上陸したか?
【回答】
レイテ作戦の早期終結を企図したもの.
日比慰霊会による解説は以下の通り.
1944/12/6,米第77師団を乗せた輸送船団,約40隻は,レイテ湾を出発,翌日払暁,隠密の内にオルモック湾に到着した.
オルモックの海岸砲台は先制砲撃を加えるも,敵駆逐艦群も一斉砲撃し,これを沈黙させる.
特攻機は米艦船7隻を撃沈したが,延べ約50機に及んだ日本軍機の攻撃は,36機が撃墜され,米軍は上陸に成功.
日本軍第68旅団の輸送船団,赤城山丸,白馬丸,第5真盛丸は8日朝,サンインドロに各坐上陸したが,重機材,軍需品は放棄.
一方,第30師団第77連隊の2個中隊が機帆船でオルモックに上陸,オルモックを守備する,光井大佐指揮下の船舶部隊の中心となって戦闘したが,米軍は上陸後1時間足らずで橋頭堡を構築.
市街戦の後,12/9,オルモック市も陥落する.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.150-151,抜粋要約)
【質問】
漁撈隊とは?
【回答】
比島の船舶工兵隊で編成された水上特攻隊.小型舟艇に爆雷を装置して,米輸送船団に体当たりしようとしたもの.
日比慰霊会によれば,
「1945/1/9夜,リンガエン湾に上陸作業中の米軍に奇襲攻撃をかけたが,戦果は不明」
だったという.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.172,抜粋要約)
【質問】
建武集団の海軍部隊は,どの程度の戦闘力があったか?
【回答】
日比慰霊会によれば,能力は低かったという.
以下,引用.
集団総兵力3万の内,海軍は半数の約1万5千.第1航空艦隊(首脳部は台湾),甲,乙両航空隊,航空廠,設営隊などだが,戦闘員は1万に過ぎなかった.
こうした陸海軍混合部隊を,どう編成して布陣するかは,首脳部の頭を悩ました問題だったが,結局,陸軍が前線の戦闘を担当,海軍が後方で複廊陣地を構成することになった.
しかし陣地構築は,米軍がリンガエン湾に現れた1月6日頃から開始されたので,粗末な陣地しかできず,また,弾薬食糧などの集積もごく僅かで,米軍の立体的物量攻撃に太刀打ちできるものではなかった.
また,海軍の複廊陣地では,極力洞穴防御,近距離爆雷戦闘を奨励したが,陸上戦闘の知識のない海軍部隊では,その趣旨が徹底せず,また,戦闘方法も下級指揮官から一兵に至るまで理解していた者は少なかった.
そこで一部の陣地では,いたずらに洞穴に潜伏すれば能事足れりとする有り様で,このため,2月上旬から中旬に渡り,敵の猛烈な砲撃に続く歩兵の攻撃で,第15,14戦区の洞穴陣地は次々と米軍に侵略され,複廊陣地は遂に北東方面から崩壊して,中央に楔を打ち込まれることになった.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.178-179,抜粋要約)
陸戦訓練は海軍でもそれなりに行われていたはずだが,最新の戦訓が普段から海軍に伝えられることがなかったのかもしれない.
【質問】
当時の在フィリピン日本軍の防御戦には,どんな面に困難があったか?
【回答】
岡田安次・建武集団参謀の寄書によれば,
「我が方の最も苦悩としたのは,陣地内に集積していた糧食・弾薬・その他の軍需品の後送であった.
敵の制空権の下では昼間行動は全く不可能で,日没と共に搬送を開始したが,何を言っても山地のことで,車馬は一切使用できず,人力による他はなく,その行程も遅々として捗らなかった.
しかも,そのころに至って給与は悪くなり,体力は衰え,栄養不良の者が大部分で,こうした兵士が敵弾下に険しい山道を攀じ登って重量物を後送させる事は,実に見るに忍びない惨状であった.
したがって火砲のような重材料は残念ながら主陣地からの後送は不可能で,それ以後は重機関銃以下の火器で戦うほかはなく,彼我の戦力の差はいよいよ甚だしくなり,どうすることもできない状態であった」
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.180,抜粋要約)
【質問】
フィリピンにおいて,戦争末期,正規の軍法会議を経ない処刑が日本軍で行われたのは何故か?
【回答】
日本軍の法務組織に欠点があったためだとされる.
以下引用.
日本軍における法務組織,中でも作戦軍のそれは,大陸作戦の場合に准じて設けられ,広大な地域にも関わらず,軍法会議はマニラに1つのみであった.
ために特に交通連絡の十分でない比島においては著しく不便を感じ,それがため,マニラから遠隔の島々の要所には,臨時または特設軍法会議を開設して法務の適切を期するよう申請されたが,なかなか実現するに至らず,昭和19年,第35軍が編成されて,セブ市に軍法会議が設置されたに過ぎず,客観的情勢からしても,到底この2つの軍法会議のみでは目的を達成する事は至難であった.
このため,方面軍司令官の命令(昭和20年5月頃)と軍法の示すところにより,各軍各師団,独立部隊で軍法会議を開き,事件を処理したのであったが,昭和19年9月以降,米軍の爆撃熾烈となり,これら正規の軍法会議の存在しない遠隔地に駐屯する部隊は,軍律違反者をこれら正規の裁判機関へ送致することが不能なのは勿論,上級指揮官に報告してその指示を受けることも,交通・通信途絶のため不可能な状態に置かれた.
そこで調査の結果,当然裁判をえて死刑となる者については,現地指揮官が慎重審査し,処刑するのやむなき実情に立ち至ったものもある.
これも戦争裁判においては,いわゆる戦犯として問われた原因をなしているのみならず,前述する各正規の裁判機関によって審判し,その結果処刑した事件までも,その責任が追求されているのである.
これに対し方面軍法務部長は,
「そんな軍法会議をやらせた覚えなし.
また,そんな命令が出されたる覚えなし.
それらの行為は,その部隊で勝手にやったものであろう」
と終始押し通してしまった.
このために多くの〔戦争裁判による〕犠牲者を出している事は見逃せない事実なのである.
(坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」,東潮社,1967/5/25,p.53-54)
【質問】
建武集団兵士が投降後,ゲリラに虐殺されたというのは本当か?
【回答】
坂邦康は,そのように主張している.
以下引用.
建武集団(中部ルソン,クラーク付近の防衛に任じた,空輸挺進団を基幹とする兵団,兵団長塚田中将)とバターン方面の支隊は全滅し,その詳細を知る事は不可能であるが,終戦後,該地区より投降してきた同胞は数名を数えるに過ぎない.これは何を物語るであろうか.
原資爆弾を使用した場合ならいざしらず,2万数千名の日本軍部隊が,あの拡大な地域で一兵も残さず戦死したとは,どうしても考えられない.
同地方はゲリラの巣窟であった.南サンフェルナンド(中部ルソン)で投降した日本兵は皆,ゲリラに殺害され,あるいは絞首せられたという風聞を耳にしている.
全滅? この裏にはゲリラの惨虐行為の行われている事は,疑う余地を存しない.
(坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」,東潮社,1967/5/25,p.63)
確かにゲリラについては,フィリピン上陸戦以後活発となっています.
例えば,パナイ島に展開していたゲリラ勢力は,ビサヤ地区で最も規模の大きなものでしたが,これが兵力2〜3万人でした.
この地域を警備していた守備隊の兵力は,2,300名余,パナイ島に上陸した米軍は7,000名で,米軍との戦闘で,戦死者850名を出していますが,生存者は1,560名でした.
ゲリラの兵力であれば,その全滅は赤子の手を捻るようなものでしたでしょうが,実際には米軍が戦闘をしているだけです.
中部ルソンでのゲリラの規模や指導者は不明ですが,職業軍人でなければ,それだけのことは出来ないのではないか,と思います.
ちなみに,パナイ島のゲリラ指導者は,米比軍出身のマカリオ・ペラルタ大佐という職業軍人でしたけど,それでも,積極的に戦闘に加わったのは1942〜43年頃の一時期だけで,以後は上陸までは積極的な戦闘を控えるよう,豪州から命令が来ており,戦闘は低調となりました.
ルソン島北部山岳地帯なら,Lamuet川の氾濫で,橋が流失して動けない在留邦人に対し,米軍機と戦車が集中攻撃を行い,1000名以上が亡くなったケースはありますが,これとて,米軍というのがファクターになっているのですから,ゲリラ主体でそれだけのことを成し遂げるのは無理ではないかと,愚考します.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
また,開戦初期のバタアン攻略戦において,1個連隊が丸ごとジャングルの中で迷子になった例もある.その中には,今も行方が分からない部隊もあるという.
それを考えると,ジャングル内で迷子になったまま,飢えで全滅した可能性も考えられなくもなく,軽軽に上記推測を肯定することには躊躇いもある.
【質問】
戦後もレイテ島の山中でゲリラ戦を続けた部隊があったそうだが?
【回答】
第68旅団長の栗栖少将が率いた残存兵力だと想像されている.
この部隊は米軍をひどくてこずらせた.これに困った米軍当局は,日本政府に対して降伏勧告をしてくれるようにと依頼してきた事実がある.
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,1972,p.,抜粋要約)
【質問】
義烈空挺隊の実際の戦果と損害を教えてください.何機沖縄に降り立ったのか? 何機途中で撃墜されたのか?
検索したら,二つ出てくるんです.
八機着陸して四機帰ったというやつと,
一機だけ成功して残りは打ち落とされたってのが.
どっちが正解ですか?
【回答】
手元の「歴史から消された兵士の記録」(土井全二郎・光人社)によると,12機のうち3機は不時着,1機は器材の不調により反転.
8機が目標に向かったものの,ほとんどが撃墜され,1機のみが北飛行場に強行着陸.
米戦闘機機26機を破壊,大量のガソリンを炎上させた,とあります.
同書によると,どうせ特攻用の機体だからと言う理由か,中古の,状態の酷い機体ばかりが集められていたそうで,1機はエンジンを始動することすら出来ず,仕方なく予備機に乗り換えたため,1時間遅れの出撃になったとのこと.
(ちなみにこの機は機位を失して突入出来ず,有明海に不時着,全員生還だそうです)
「8機突入」ってのは,一種の作文だと思いますよ.飛行場に突入後,戦死した隊員と,突入前に撃墜された戦死した隊員で,叙勲などに差をつけるわけにいかないから.
末期の特攻隊は,出撃しただけで,
「○○方面にて敵機動部隊に突入」
などと勇ましい布告が流されたりしております.
しかし,実際の戦果とはかけ離れたものが殆どでした.
飛行場に辿り着いたのは1機のみ,のほうの記述は,米軍の記録に基づくものでしょうから,こちらの方が正解に近いかと.
◆◆◆インパール作戦
【質問】
インパール作戦とは?
【回答】
日本軍は1942年の段階でイギリスの屈服を目的とした東部インド侵攻作戦を立案していた(二一号作戦).
だが,ガダルカナル島を中心に展開された消耗戦がインド侵攻作戦の物的基盤を奪い,参謀本部はビルマ防衛とインド人による反英運動の煽動工作の方に力点を移していった.
しかし,チャンドラ・ボースのインド侵攻要求などもあり,1944年3月,ビルマ防衛・太平洋戦局の敗勢打開・援蒋ルートの遮断・インド独立工作の進展などを目的としたインパール作戦が実施された.
当初,戦況は順調に推移しているかに見え,インド国民軍も2個師団で作戦に協力したが,途中で日本軍の補給路が途絶えて戦況は逆転した.
7月中旬,日本軍はインパール作戦の中止を決定した.
http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html
インパール問題ですが,日本が敵の策にのせられてしまったのは本当でしょう.
但し,個々の戦闘からいえば,イギリスの計画的後退も日本軍の急進撃にあって一部の部隊が包囲されて(インド第17師団)),コヒマに丸々1個師団を派遣して意表をついて補給基地ディマプールを脅かしたり,結構がんばっていたのは本当でしょう.
もっとも,補給の見込みもなしに自分の2倍もの敵に突っ込んだ無謀さが,せっかくの精強部隊を無駄に消耗してビルマの防衛を崩壊させてしまいました.
東条の政治的リーダーシップ維持のために発案.
1発の弾丸も,1粒の米も補給されない現地調達の,無謀極まりない東条の作戦.
10万人以上の将兵が参加.
日本軍の,ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた.
ジャングル内の道には,白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は7万2千人.生き残った兵士はわずか1万2千人にすぎなかった).兵士たちはこの道を「靖国街道」・「白骨街道」と呼んだ.
第33師団長柳田中将はティディム作戦での失敗を問われ更迭,第15師団長山内中将は病気のため解任,第31師団長佐藤幸徳は,独断でコヒマへの撤退を命じ,この判断は全く正しく退却した部隊は助かったが,佐藤は直ちに罷免され,敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが,「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった.作戦に参加した3師団長がすべて作戦中に入れ替った.
安全地帯から死守を命じ罷免を繰り返した第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)は作戦も将兵もなくなった後,責任を部下に押し付けた.
この狂った作戦がなかったなら,陸軍主力が無傷.
政治力外交努力いかんでは,ドイツ降伏以降厭戦気分の出てきた連合国軍と,少しは有利な講和が可能であったと思える.
【余談】
インパール戦を生き延びた古参兵は,寝るときに片耳を地面に押しつけた姿勢で睡眠をとり,英軍戦車やコマンドの音を何キロも先から感知,素早く蛸壺陣地を移動したそうだ.
【質問】
インパール作戦みたいにインドを解放する作戦って,もっと早い時期に計画しなかったの?
ビルマ攻略の勢いで追撃すれば,勝てたんじゃない?
【回答】
早期のインド侵攻はいくつか検討されたようで,1942年8月には21号作戦が立案されています.
第18師団を主力とする2個師団で,インド東部へ陸上侵攻する計画でした.
しかし現場の第18師団長が,
・険しい山道であること
・交通網の未発達
・雨季となった場合の道路の泥濘化
・過疎地帯で食料徴発は困難
といった理由から,補給が不可能として強く反対意見し,同年11月に無期延期決定となっています.
なお,当時の第18師団長の名前は,牟田口廉也といいます.
◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
もし15軍司令が牟田口中将でなかったら,インパール作戦は行われなかったでしょうか?
【回答】
高木の本や戦史叢書には出てこない話だが,牟田口の前の第15軍司令の飯田中将は,インド侵攻に反対したことが直接の原因となって,この職を追われた(憲政資料室蔵・片倉日記による).
そもそも軍の支配的な意見が,インド侵攻に傾いていたというべきだね.
この作戦は,15軍司令・牟田口中将自身にも責任はあるでしょうが,やはり,当時の日本軍の組織,組織を操る軍人にも,大きな責任があるのは確かです.
何せ,牟田口自身が作戦を決めても,上(大本営・南方軍など)に,その意見が認められないといけません.
この作戦では,真田譲一郎大本営作戦部長らが,猛烈な反対をしていました.
しかし杉山元参謀総長,寺内寿一南方軍司令などの意見等により,決行されたのです.
十五軍では,この作戦にあたり,兵站,工兵などの部隊の大増強を,申し出ていたのですが,ビルマ方面軍,南方軍,大本営と申し入れが伝わるにつれ,部隊数は削減されていったようです.
で,インパール作戦に突入,大惨事を招く結果となりました.
軍内部にも,先に書いたように反対するものは少なくはなかったのです.
実際,15軍参謀長は,この作戦にあたり猛反対し,牟田口によって職を解かれることとなりました.
この参謀長は,陸軍大学校を出ているのはもちろんなのですが,その中では珍しい部類に入る,兵站出身の軍人だったそうです.
インパール作戦の問題を書いているものでは,NHKドキュメント太平洋戦争が面白かった.
文庫本でも出てますので,探してみてはいかがでしょう?
【質問】
インパール作戦の死者はどれ程なんでしょうか?
だいたい戦死3万,戦病者4万みたいのが多いんですが,戦病者が餓死や餓死を含むになってたり,生き残ったのは1万人程度という表記も多いので.
【回答】
戦死・戦病死あわせて3万人くらい.
うち多くは後者.
参加兵力の額面は4個師団+支援部隊で,戦時編成だと8万人を超えるけど,補給能力の問題で投入兵力が制限されたため,実際にチンドウィン川を越えて侵攻作戦をやったのは,半分の4万人程度.
大損害を受けたのは,この侵攻作戦組.
生還者1万2千というのは,この侵攻作戦組の話.
インパール作戦と同時期のビルマ各地の戦闘を合算したり,場合によっては作戦終了後,終戦までの1年間の戦闘を全部加算したりして,「インパール作戦の悲劇」を強調するために数字を膨らます傾向はある.
まあ,ビルマ戦域が悲惨だったことには変わらんが,インパール作戦の損害ではないのだ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
インパール作戦ではかなりの戦病死者も出ていますが,日本軍は現地の疾病状況を把握していなかったのですか?
【回答】
ビルマ公路の建設時から,マラリアその他の疾病多発地域だと言うことは当然承知していた.
面白いことに日本も,欧米のジャーナリストの書いた従軍記を訳して,戦争前には書店で売っていた位.
というか,事変つながりの地域なので,現地の地誌を啓蒙するのが出版の目的.
しかもあの地域のマラリアは,特に性質が悪いそうだ.
良く知られている話だが,フーコン渓谷は現地語で「死の谷」.
ある程度免疫の出来ている現地ビルマ人すら居住を諦めた土地,ということ.
日本側も南洋や台湾,大陸で得た経験からマラリア予防策は知っていた.
蚊を近づけない為には密林は切り開いておくとか,キニーネや当時知られていた治療薬数種は常備しておくとか.
(完全な抗マラリア薬はなかったらしい),
薬剤や油の散布も同様.
その上,蘭印占領時に現地の医療機関の経験も,オランダから取り込んでる.
問題は,作戦地域で悠長にディーゼル油を撒いたり,排水路を整備する余裕など無かったこと.
軍医達の所見は幾つも出てるが,日本側の病死が多いのは,治療の仕方を知らないからではなく,補給切れによる栄養失調と,衛生環境に配慮する余裕が無くなったから.
例のジンギスカン作戦とチャーチル給与(のコンビーフやチーズ)による栄養の偏り,加えて米の偏重志向なんかも指摘されてる.
森鴎外の頃と違って,脚気の理由も対策は世間レベル分かっていたけど,輸送力に余裕が失われると,「とりあえず食べられるものを」ということで,そういうことは起きる.
ちなみに,「白骨街道」の通称は開戦初期,インドに撤退していく英印軍につけられたものが最初らしい.
あれも結構な病死者を出しているので.
岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM in 軍事板,2010/12/01(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
インパール作戦での,敵英印軍の損害はどの程度であったか教えてください.
【回答】
手元の資料「BURMA:The Longest War 1941-1945」によると,インパール作戦期間中,およびその後の,雨季を挟んだチンドウィン河までの戦闘(1944年3〜12月)における英連邦軍死傷者数は16,667名とされています.
このうち戦死者はおよそ5千名程度と思われます.
対する日本軍の死傷者数は約6万名となっており,15,000名程度が戦闘による戦死者とされているようです.
【質問】
独断でコヒマへの撤退を命じた第31師団長佐藤幸徳が,敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが,「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった理由はなんでしょうか?
【回答】
佐藤中将本人は軍法会議で白黒つけることを熱望していたが,ビルマ方面軍司令部は,ビルマ方面軍,ひいては南方軍の責任問題にまで発展することを防ごうとしたためという説がある.すなわち,親補職の師団長を軍法会議にかけると,任命者から推薦者まで全部に迷惑がかかるため,そういうことにしてごまかした,という説.
また,将官を捜査する権限を持つ高等軍法会議検察官(大将一人を含む中将三人を必要)がビルマにおらず,軍司令官は判士になれない規定だったため,事実上ビルマでは開くことができなかったというのも理由にあるらしい(だったら何で内地で開かなかったの?,ということになるが…).
【質問】
これってどれくらい正しいんでしょうか?
---------------------------------------------------------------------------------
戦後左翼が牟田口廉也のインパール作戦をけなすけど,ちょっとした軍ヲタだったら,兵站をなくすことで後顧の憂いを無くした天才的機動作戦というの判るんだけどな.
実際,インパール正面まで陽動に出かけた弓師団(だっけ?)を追って,英軍はビルマ内陸部まで補給線の延びきった下手な追撃線をやらかして,包囲殲滅される恐れがあった.
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【回答】
つまり,弓,烈,祭(だっけ?)を囮に用いた作戦という説ですか?
囮が大きすぎるよ…3個師団なんで…
兵站を考えないでいいのは,軍オタ初期のスペックオタの状態だけだと思われます.
スペックオタは楽しいですよ.なんてったて常に自分の考えうる最良の状態で戦闘が出来るので.
それに,兵站は無くしていません.計画(妄想)通り行かなかっただけ.
>天才的機動作戦
イギリス軍がアキャブ,チンジット作戦を行なうまで,アラカン山系の大部隊の通過は不可能と思っていました.
>実際,インパール正面まで陽動に出かけた弓師団(だっけ?)を追って
>英軍はビルマ内陸部まで補給線の延びきった下手な追撃線をやらかして
>包囲殲滅される恐れがあった.
インパール作戦開始時,既に北部は米式装備の中国軍,西部においては英軍の旅団,師団規模の侵入を再三受け,ビルマ方面の戦局は悪化しています.
インパール作戦が中止される頃には北部ビルマの放棄が決まっており,ビルマ戦線の崩壊が始まっています.
特にインパール作戦による損害は甚大で,日本軍は作戦前の1/5程度の戦力でイラワジ河で迎撃を行ないますが,英軍との戦力差は大きく作戦を中止.
以後,ビルマ戦線は崩壊,総退却にうつります.
ついでに牟田口廉也は,天皇陛下の親補職である師団長を勝手に罷免する,という犯罪も犯してるので忘れないように.
▼ いまだに忙しいわけだが,何とか土門周作の『インパール作戦』(PHP研究所,2005.2)を読破しますた.
「攻勢防御」の一環なのはわかるし,あのままでは,防御正面が守れなかったのも事実.
だが「鵯越」で強襲なんて,平安時代ならともかく,航空機技術が既に発達していたWW2時代には,既に陳腐化していた.
その上,インパール作戦は,「奇襲」が失敗したら,事実上崩壊するような作戦であった――補給も奇襲一点張りだったからこそ,用意しないことを想定した,まぁ,逆で補給ができないから奇襲だったのかもしれないけど――上,兵力の結集も悪く―――他部隊は,道路整備をやっていることろもあったし,移動距離1200kmを「歩いて」来た部隊すらあった――,その上,野砲などは,そもそも数が足りない上,馬轢が途中の河で大量に流されて死んだため,ほとんど用意できなかった.
さらにさらに,「鵯越」であったがゆえに,糞重い銃弾や砲弾を抱えての山歩き・・・
こりゃ,素人でも無茶だってわかる.
もちろん,むっちー以外の参謀,幕僚は反対してた.
日本陸軍の数々のお間抜け作戦にあって,最悪の結果(ビルマ撤退戦も,これが響いてるわけだし)を生んだこの作戦だったわけですが,要はむっちー閣下のごり押しだったわけですな.
はい,ここで美談です.
むっちー閣下の果敢な「インパール作戦」提案に対して,深い友情で結ばれていた,ビルマ方面司令官・河辺中将閣下が,これに感激して,GOを出しちゃったわけですな.
攻勢大好き日本陸軍が,これに反対するわけもなく,「なせばなる,なさねばららぬ」で行ったらしい.
要は,冷静に戦局自体を見なければならない方面軍司令官と,軍司令官がともに,現場の感覚でいたこと.
ま,これは旧日本軍全体に言えるのだけれどね.
結果,7万人以上が死亡したという最悪の結果が生まれた.
また,上に甘く,下に厳しい日本らしく,むっちーは,単なる左遷・・・しかも,陸軍大学の校長という,「信じられないが本当だ」というオチまでついちゃいましたとさ.
この病巣って,現代日本でも見つかりそうだね.
ますたーあじあ in mixi,2007年10月05日13:54
青文字:加筆改修部分
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▼ 牟田口閣下のお料理行進曲
いざ進めやビルマ
目指すはインパール
腹へれば
草の根かじって
空腹を癒せ
遠吠犬 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年05月23日
16:12
青文字:加筆改修部分
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【質問】
牟田口元中将が遺言により,自分の葬儀の際に「インパール作戦は正しかった」と書いた冊子を参列者に配布したというのは本当ですか?
【回答】
ホントっスよ.自伝という形を取ってますが内容はインパール作戦の正当化です.
蛇足ですが,辻政信大佐も存命中に「逃亡三千里」つー血湧き肉踊る自叙伝を発表しとります.
軍事板
その他の牟田口経歴;
・国会図書館に押しかけて「証言テープ」と称する自己弁護談を残させる
・ビルマ方面軍の慰霊祭に出て行って,遺族の前で堂々と
「俺は悪くない.悪いのは佐藤・柳田・山内だ」
と言い放つ.
他にも第15軍関係者が揃って口裏をあわせたせいで,戦史の上では
「インパール失敗は,牟田口に個人的怨恨があった柳田が命令に逆らって統制前進をしたから」
ということにされていたのは有名な話ですな.
▼ 6万の兵士を餓鬼と疫病の地獄の中で死なせた司令官,牟田口廉也は昭和36年,天寿を全うして畳の上でご家族に見守られ,安らかにご逝去されました.
最後まで「自分の作戦は正しかった」との考えは変わらなかったようです.
ビルマに遺骨収集に言った友人の話では,白骨街道とよばれる撤退ルートでは,集めても集めても遺骨が多すぎ,手配したトラック満杯で持ちかえれず,多くを残したまま日本にもどってしまったと,悔やんでいました.
一つ一つの遺骨には家族があり,子供がいて,彼らは本当に死ぬとき無念と,後の家族のことが気がかりだったでしょう.
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【質問】
ムッチーは当時の事を,沢山文章にしてるの?
【回答】
してない.
ムッチーも,死ぬ数年前まで謹慎してたからな.
短い雑誌記事1本か2本書いたのと,対談記事1本,テレビインタビュー1回?
国会図書館で2回録音を受けたのと,そんときの原稿30枚をまとめた小冊子.
あとは,戦前に書いた「武経入門」という小冊子1冊.
「俺は悪くない」って主旨の小冊子をバラまいたのは,死ぬ2年位前の話.
国会図書館がやったオーラルヒストリー録音の発表原稿として,1964年4月に作ったもの.
それのコピーを,翌年の7月のビルマ従軍者の大会や,2年後の本人の葬式で配った.
そもそも牟田口が自己弁護をするきっかけになるイギリス軍中佐からの手紙をもらったのが,死ぬ4年前になってからで,牟田口が動きだしたのはそこから.
70代半ばで病気で死にかけで,失意のどん底の爺さんが,かつての敵方から過分なおほめをいただいて,舞い上がっちゃったわけだな.
たまたま戦記ブームも重なって,NHKのインパール番組絡みで取材を受けたり(1965年夏),『丸』に対談記事が載ったりしたわけ(1964年末).
国会図書館の件は,たまたま1963年に盧溝橋の件でインタビュー録音を求められたとき,ついでにインパール作戦も聞いてくれないかとムッチーから頼んで,1965年に実現したもの.
死に際に雪辱を求める私欲と,このままだと自分の死で「真相」が闇に消えるという使命感で,必死になってやったことなんだろうなと思うよ.
しかもね,件の手紙をもらう前の年に,独断撤退した佐藤幸徳が死んでるんだが,その葬式に牟田口は出かけて,遺族に自分が悪かったと頭を下げて詫びてるんだ.
それが,わずか1年後に変な手紙もらったせいで,大暴走しちゃうんだから,差出人のイギリス軍中佐ってのは,なんとも罪作りだと思うのだよ.
軍事板,2012/02/24(金)
青文字:加筆改修部分
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牟田口中将殿
小生はただいま,『デリーへの進軍』という題名の本を書いておりますので,貴殿のお言葉は非常に貴重なものでございます.
この本は完全に客観的なものにする予定であり,英国人の見解と同様,日本人の見解にも,同じ重要性を与えるつもりです.
ご存知のように,戦記物の大部分は,作家の国にどうしても偏りがちです.
といいますのも,作家は相手方の見解をあらわす,十分な資料を得ることが出来ないためです.
まず最初に申し上げたい事は,日本兵が勇敢に,かつ全力を尽くして戦ったことは,疑う余地がないということであります.
貴殿の優秀な統率のもとに,インド攻略作戦は九分通り成功しました.
アーサー・バーカー
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軍事板,2012/02/18(土)
青文字:加筆改修部分
664 :名無し三等兵:2012/02/25(土) 00:55:17.24 ID:???
renya_mutaguchi 牟田口廉也
ガミラス人は捕虜として処遇する必要もないし,最悪食ってもいいわけで,宇宙戦争は日本陸軍の大変得意とするところであります.
軍事板,2012/02/25(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ミートキーナ戦で,第五十六師団の増援部隊に出された命令,
「水上少将はミイトキーナを死守すべし」
って,辻〜んの私物命令?
この命令のせいで,水上少将が脱出命令の責任をとって自決したんだよなぁ.
【回答】
命令そのものは第33軍の正式なものだけど,「水上少将は〜」の一文を突っ込んだのは,間違いなく辻〜ん.
んで,野口参謀(『回想ビルマ作戦』の著者)が直接その件について問いただすと,
「ノモンハン戦では部隊に対して死守命令を出したために,後退してきた将兵を敵前逃亡として断罪せざるを得なかった.
今作戦でも同じことが起こらないとは限らないので,水上少将個人に責任を取ってもらうように,あえて電文を作成した」
とのこと.
ただし,同著では辻〜んよりもむしろ,水上少将に責任をかぶせたかたちで撤退を行った,配下の連隊長丸山大佐に大きな批判を行っていて,いかにも「参謀殿」が書いた著作という気がしたり.
軍事板,2011/03/07(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
この事件の詳細を教えてください.
――――――
1944年5月の中国戦線,歩兵一個中隊が豪雨の中を「雨を恐れて戦争ができるか」と強行軍を命じられた.
路上で水が腰まで浸かるような状態となり,濡れた装備の重さに倒れる者続出.
水が退いてみると,166名が陸上で溺死体となって発見された・・・
戦死ではなく事故死扱いであった.
――――――軍事板
【回答】
この事件を起こしたのは中国北支戦線.
河南省で作戦行動中の第二十七師団(師団長:竹下義晴中将)です.
当時いわゆる大陸打通作戦のために行動していた師団は,京漢線打通作戦のため,4〜5月にかけての20日ほどですでに四百キロを踏破していましたが,さらに湘桂作戦のために漢口集結を命ぜられ,確山から信陽を経て漢口へ向かう行軍を始めました.
しかし,その時点で師団の将兵は激しく消耗しており,さらに糧秣の不足や米空軍の空襲により,夜間行軍を強いられたことなどから,栄養失調からくる下痢や関節炎,靴擦れの悪化による歩行不能者が師団内に既に多発していました.
5月14日,長台関付近に達していた師団は,前方の渡河点での混乱に巻き込まれて前進が停滞していました.
前進できず立ちすくむ将兵たちに20時頃,突然局地的な大集中豪雨が襲いかかりました.
驚異的な雨量の上に風速十メートル,体感温度は五度にまで下がるという恐ろしいまでの天候の変化に,辺り一帯は泥の海と化し,動くことも出来ない将兵たちは凍えて泥の中に倒れていきます.
翌朝までに泥の海に溺れ,あるいはすでに発病していたために衰弱して命を落とした『凍死者』は,師団全体で百六十六名に達しました.
この死者の多くは,歩行不能のために馬車等で護送中だった入院予定の患者でした.
この事件の後も師団は,信陽や漢口の野戦病院に約千五百人の患者を残して作戦を継続しましたが,患者の中にはパラチフスで入院した竹下師団長も含まれています.
この事件の責任の所在は明らかにされることはありませんでしたが,予想し得ない気候の激変,突然の豪雨に対する対応処置の不徹底や,交通整理の不首尾などが原因に挙げられています.
また,第27師団には3月に補充されたばかりの,体力の劣弱で年嵩の補充兵が約2千人ほどおり,これらの兵が過酷な戦場に対応できなかったことも,死者を増やした原因となっています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
●江(しこう)作戦(1945.1.29〜)当時,大戦末期の中国大陸にあった日本軍の内情はどんなものだったのか?
【回答】
『湖南戦記 知られざる日中戦争のインパール戦』(小平喜一著,光人社NF文庫)によれば,この時期の日本軍はまさに末期戦状態です.
蕉湖から武昌までを徒歩で(一ヶ月かけて)移動.
補給がないため,とにかく徴発(略奪)に懸命になる警備隊.
被服も補給がなくて,軍服の代わりに中国服を着用.
軍紀も崩壊.将校に対する反抗のみならず,手榴弾で殺害する事件まで起きてます.将校のほうも横領や横流しに手を染めてるし.
さらに頭が痛くなるのは,日本軍が立案する作戦の中身.
重慶への挺身攻撃計画(「生還を期せざる精神でやれば可能」て…)
兵力転用計画(本土防衛決戦を見越した,事実上の全面的敗退転身)が発令される直前に行われた●江作戦(このまま撤退するのは嫌,てな理由で決行…)
しかも戦闘部隊に対して補給が行われず,戦闘中に命令系統が崩壊.
ちなみに同書は,敗戦時の状況や捕虜生活も興味深く,末期戦が好きなら一読の価値があると思います.
グンジ in mixi,2007年05月01日23:14
●=草冠に止
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