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<アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ
(画像掲示板より引用)
『輜重兵マル秘日記』(上原要三郎著,国書刊行会,1983)
故障だらけのトラックよりも,ウマの方が使えねぇ.
よう分かりました.
――――――軍事板,2011/01/02(日)
【質問】
旧日本軍では,輜重部隊に対する差別があったというのは本当ですか?
【回答】
輜重輸卒が兵隊ならば,蝶々・トンボも鳥のうち,なんて揶揄されるくらいに.
西南戦争時に輜重軍夫として雇われたのがヤクザ達だったから,以来,評判が悪いんです.
また,輜重輸卒は他兵科からの転属が主だったっので,『ダメな兵隊の吹き溜まり』と思われていました.
(軍事板)
ただし,兵隊としては規格外だったからと言って,それがすなわち「優秀ではない」ということを意味するわけではないので,念のため.
例えば次のような例がある.
軍隊は,要領を旨とすべしとよく云われたが,木戸一郎なる兵は,この要領を地で示したような男であった.
彼は福岡県築城出身で,私達と同じ輜重隊の召集兵であった.職業は何であったか,誰も的確に知らない.セールスマンと言えばそのようでもあるし,商売人にも見えるし,会社員とも思われる節も窺われるが,結局,彼の本職を探り得た戦友は一人もいなかった.
実に愉快な男で,長い戦地生活を共にした私は,一度として彼の塞いだ顔を見たことがなかった.歩き方も飄々として,容貌は比人に似て色も浅黒く,一見,日本人離れした面白い顔をしていた.
一(いっ)ちゃん,一(いっ)ちゃんと皆から親しまれ,飄逸な仕草と,ウィットに富んだ言動と,巧みな話術は苦しい軍隊生活の中でも常に爆笑を誘い,一陣の涼風に似た心地良い感情を戦友達に撒き散らしていた.
私が彼と会ったのは,ダモルティス(フィリピン)に上陸して,お互いに裸同士で食糧や色々の梱包物を,海水に浸かり乍ら運搬しているときであった.
私の教理は行橋市であったし,築城とは目と鼻の先の距離であったため,特に親しみを感じたためもある.
彼はいつどういう風に上官に取り入ったかしらないが,裸の運搬兵が知らぬ間に制服を着用して小銃に着剣し,糧秣の監視員に成り済まし,ニヤッと私を横目で見て笑うのである.
私達は皆,空腹で働いていたが,木戸二等兵は立哨しながら口をもぐもぐさせ,何やら食べている風であった.
「おい!」
と,私が呼ぶと彼は含み笑いをして,
「腹が減ったかい? ちょっと待っておれ」
と,気軽に天幕の中に入っていき,さも自分の店の菓子箱から菓子を持ち出すように梱包の箱を少しこじ開け,中から乾パンや携帯食料を持ってきてくれたのである.
当時,糧秣の配給のうるさい頃である.判れば重営倉にもなりかねない泥棒行為であった.
彼は梱包を帯剣で器用に抉じ開け,2,3個失敬してはまたもとの通り釘付けするのだが,その手際の良さ,速さは現代の鼠小僧のようであった.
「腹が減ったらいつでも来いよ.爆撃されれば元も子もなく吹っ飛んでしまうからなあ.遠慮するこたあないよ」
そう言って私や他の者にも与え,自分も常時口を動かし,済ました顔で立哨していた.
〔略〕
鶏を声も立てずに捕まえて食べる方法も,彼から教わった者である.左の掌に米粒を載せ,そっと差し出すと,鶏が首を伸ばしてくる.その首をギュッと握り締め,右手の帯剣で一気に首を切り落とし,皮と肉の間に人差指と中指を差し込み,皮を強引に引き裂くと,真白い丸裸の肉が手元に残って,そのまま丸焼きにするのである.
その動作が,ものの1分とかからない早業であるから,恐れ入った次第である.これでは家の前でやられても,鶏の気付くに気付く者はない.
やることなすことが人の意表を突く彼であったから,一ちゃんの呼び名もいつしか一郎兄(ニイ)と尊兄の愛称で戦友達から呼ばれるようになった.
日本軍が大戦果を収め,コレヒドールが攻略され,私も一郎兄も他の部隊に転属されて別々に別れたが,一時平和となったマニラのパサイにある病馬廠で,奇しくもまた再会したのである.
そのときは私は,馬の肥料の牧草集めに彼方此方と各地を走り回ったり,自給自足の畑の耕作に汗を流したり,病馬の手入れや夜の厩舎の見張り当番などをやったりして多忙であった.
このように少しの暇もなく私達が働いていた時,彼は何の使役にも出ずに,兵舎の横の小屋を医務室と半分に仕切ってもらい,別格の個人部屋を持ち,悠然とタバコを吹かしながら皆の苦役を眺めていた.
見ると,何と左右の腕にこれ見よがしに4,5個ずつの腕時計を嵌めているではないか.聞けば時計の修理を専門にやっているという.
いつの間に,誰の許可で時計屋になったのか,初めて知った私は,驚くよりも唖然として言葉もなかった.彼に質すと,全然素人だよと平気で笑っているのだ.
手先の器用さで,初め准尉の時計を頼まれ,簡単な捩子の修理をしたのが糸口であったが,時計の中を開けてみたこともない者達からすれば,優秀な修理工に思われたのであろう.また,一郎兄の大風呂敷にかかれば,准尉の心を誑かすことくらい朝飯前であったかもしれない.
准尉の口利きで,曹長,班長と手当たり次第に時計を預かって,修理業を始めたのであった.
そうなると,どこか静かな一室が欲しいと言い出したに違いない.
で,医務室の中を区切ってもらい,そこを根城にしたのだ.
兵士は動作所作が激しく乱暴だから,時計の狂う率も多い.1週間に一度の外出で,時計の修理を店に出す煩わしさが省け,その上,無料であるから皆が重宝にし,誰にも遠慮することもなく気の向くまま,時計を弄繰り回していれば良いのである.
一度,彼のところに遊びに行った折,修理している手つきを見ると,お世辞にも上手とは思えなかった.
「本当に時計の修理をしたことがあるのか?」
と,私は不審に思って聞くと,
「やったことなんかあるもんかよ」
と,薄ら笑いをしている.
呆れたのはそればかりではない.
見ると,歯車の間にパッキンとして紙を挟んだりしている.
「おい,そんなことをしてよいのか?」
私は真剣に聞いたが,
「はははは,これで暫くはうまく回るのだから,チョロイもんだよ.捩子の足らないのは,別の時計から失敬してさ,つまり要領だよ」
誠に人を食った話である.
「すると,最後の一つか二つはいつも修理不能ではないか」
「そうなんだよ.後から持ってきた奴は,運が悪いんだよなあ,はははは」
と,呵々大笑している.なにをか言わんやである.
夜の外出は将校でないとできないが,彼は私の制止も馬耳東風で,夜毎出かけていた.もちろん正門からでなく,裏の塀を乗り越えて闇に紛れていくわけで,比人の愛人に会うためであった.
器用な男は行動だけでなく,語学にも通じるらしい.比人の彼女に教えられた彼は,立派に通訳ができるほど,タカログ語が堪能であった.軍服を脱いでちょっと惚けた顔で比島語を喋っていれば,誰も日本兵と思われないほどであった.
兵隊の夜間外出は絶対禁止である.が,この規則も彼には通用しない.毎晩兵を乗り越えて出かけたが,そのときは愛人から貰った比人のシャツを着込み,ズボンも替え,ご丁寧に帽子まで被っていくのだった.
長い間,彼の無断外出は私以外知る者がなかった.
ある朝,私が彼の部屋に入ると,愛人から貰ってきたマンゴーをぱくつきながら,
「おい,昨晩はとうとう憲兵さんに捉ったよ,はははは」
と,他人事みたいに笑って驚かせたのであった.
「え? だから言わんことじゃない.いつかは露顕するぞと注意したろ」
「いや,まいったよ」
「それでどうした? よく無事で帰れたな」
「うん,それがまた傑作なんだ」
彼の顔からは,当惑した影が微塵も窺われないから不思議な男である.
「重営倉だぞ」
漫才しみたいな相手であるが,心底から心配したのだ.
「塀を乗り越えて百米も行ったところで,巡回中の二人の憲兵にばったり遭遇し,不意に呼び止められたので,俺もドキッとしたよ」
「そりゃ当前だろう.そしてどうした?」
「それがさ,おいと日本語で俺を呼ぶのだ.俺はとっさに知らんぷりをして,口笛を吹きながら,そのまま行き過ぎようとしたんだ」
「ふーん,心臓の強い奴じゃなあ」
私は呆れて次の言葉を飲んだ.
返事もせずに行き過ぎる不審な人物に腹を立てた憲兵2人は,
「おい! こら!」
と,馳足で走ってくるが早いか,一郎兄の後ろ首を掴んだと言う.
「もう万事休すと思ったよ.はははは」
タバコにゆっくり火をつけて,美味しそうに煙を吐き出した.
「こら! お前は日本兵と違うのか?」
憲兵は顔を突き出して怒鳴ったという.
一郎兄の風貌も態度も比人と見紛う程よく似ており,一寸見だけは判別もできない男であった.
「ふふっ,憲兵の奴,ピリ(比人)にそっくりの俺の顔だけ見ても,自慢じゃないが判るものかよ」
「……」
「俺は糞度胸を決めてさ,タカログ語で
『マガンダンガビポ,マイニット』(こんばんは.何ですか? 暑いですね)
と言って,
『アコ,アイシサントス』(私の名前はサントスです)
『アコ,ヒンディ,コ,ナイインティン,ディハン』(私,わかりません)
と言ってやったんだ」
「……」
憲兵も比島語を勉強しているが,愛人から教わっている彼のタカログ語は流暢で,面相も本物に負けないほどだから,誰が見ても判別はできるはずがない.
「すると憲兵さん,ポカンとしてさ,暫く俺の顔を穴の開くほど見つめていたが,
『此奴,本当のピリらしい』
と,2人で話し合い,よし,行けと,手を上げて放してくれたよ」
「よかったなあ」
当の本人よりも私のほうが安堵したのである.
「この後の芝居が難しいんだ.余り急いではまた怪しまれるからさ,ペコと頭を下げて,
『ワラン,アヌマン,ポ』(どういたしまして)
『マラミン,サラマット』(ありがとうございます)
『パアラム』(さようなら)
と,続けて言ってやったら,(うん)と相槌を打って見送ってくれたよ」
「へえ!」
「もう大威張りさ,大手を振って彼女の処に行ったよ.
しかし,掴まった時はさすがの俺もドキッとしたなあ」
話とは裏腹に,一つも驚いている風もない一郎兄であった.
(泉桂吉〔元第16師団兵士〕,「比島への道」,
新風舎,2003/9/6, p.33-38,抜粋要約)
こういう人材は,輜重隊より中野学校に入れた方がよかったんじゃ…….
輸送中の米俵
(画像掲示板より引用)
【質問】
日本陸軍についての質問です.
「勤務隊(中隊)」と「輸卒隊」のちがいは何なのですか?
どちらも「水上〜」「建設〜」等があり,一見,任務的には同様にも思えるのですが.
【回答】
勤務隊と言うと,師団にある兵器勤務隊と,大戦時に編成された臨時勤務隊があります.
前者は,師団内に於ける兵器修理の為の組織で,それには兵士が所属していました.
後者であれば,補給の望めない地区に派遣される師団や独立中隊などの自活の為に,鋤や鍬を持って,農地を切り開いたりする軍属の集団で,徴用された人が多かったみたいです.
輸卒隊は,輜重兵部隊に配備され,駄馬や輓馬の馬の口を取る役割を持つ,輜重輸卒(1931年に輜重特務兵と改称)の集団のことです.
その教育期間は2ヶ月で,その中身は徒歩,輓駄馬,梱包積載,陣中勤務からなっていました.
彼らは戦時召集されて任務に就きますが,長期にわたることを想定せず,万年二等兵でしたが,板垣征四郎が陸軍大臣に就任した1937年に一等兵への進級が認められ,1939年にやっと輜重兵と改称されました.
但し,正規の輜重兵とは武士と足軽のような関係で,輜重兵は長靴,長剣を帯びて馬に乗り,二等兵でも一個班15名の輸卒を統率するのに対し,輸卒はゲートルにゴボウ剣で馬の口を取る仕事をしていました.
余談ながら,輸卒を統率する必要があるため,輜重兵は二等兵であっても,軍曹並みの指導力を必要としたそうです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
太平洋戦争時の軍直轄部隊などとして見られる「水上勤務中隊」というのは,前者に近い系列の,港湾設備や港湾配置船舶の整備運用をする兵士と考えてよいのでしょうか?
それから大陸方面の一部師団指揮下に「建築輸卒隊」というのがありますが,これは,工兵の補助を行う「準」兵士集団ということでしょうか?
【回答】
ちょっとその辺に関する資料が不足しているのですが,特設水上勤務中隊の場合は,泊地や停泊場等の水上業務・桟橋等を管理するための兵站部隊です.
桟橋の建設とか,物資の陸揚げ,小型舟艇の操船などを行っていたようですね.
建築輸卒隊は,後方施設(野戦病院とか補給処などの)の建設,その施設(便所とか炊事所とか倉庫など)の建設,井戸の開削や復旧,後方補給路の補修,破壊橋梁の修理なども任務となっています.
これは工兵そのものであり,その配下として,所謂,土方が配属されていたと言うことだと思います.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
『飢死した英霊たち』(藤原彰著,青木書店,2001.5)ってどう?
【回答】
藤原彰氏が,
「戦死者の過半は栄養失調だった.
戦争なんて華々しいものじゃない」
と主張した本だったかと思います.
所謂コヴァな方々への反論として書いた,なんて作者が新聞に載せていたような.
「日本軍最強!」みたいな人が迷い込んできた時に,「これでも読め」と参考にさせる本としては無難なものだと思いますし,そのように使うのは作者の本望でもあるでしょうね.
名無し整備兵 in 軍事板,2009/09/25(金)〜09/26(土)
青文字:加筆改修部分
藤原彰は日本陸軍の元士官.
戦後に旧軍の問題点を暴いた人.
本書は,徴兵された兵隊たちの栄養失調症や餓死の内容.
『飢死した英霊たち』自体は2001年の本でも,日本軍の死因は大部分が餓死や戦病死という話は,藤原彰が長年言い続けてきたこと.
藤原が『軍事史』を書いて,左翼系軍事史学の先鞭を付けたのが1961年.
これは服部卓四郎の『大東亜戦争全史』(1953〜56)年や,西浦進らの戦史研究など,旧軍出身者に戦史研究が独占されていることへの反発からといわれる.
今でこそ実証史学が主流となっているが,戦後の軍事史学界は左右のイデオロギー対立の場という側面があったわけだ.
藤原・大江両氏の思想に賛同するかはともかく,彼らが旧軍中心の研究体制に一石を投じたのは事実であって,その辺は素直に評価しないといかん.
オタク的な軍事趣味を過大評価して,史学を舐めたらあかん.
晩年の藤原氏(というか,近年の左翼系軍事史研究)に色々アレな所があるのは百も承知なんだけどね.
歴史学としての軍事史研究の歩みを踏まえた上で批判していくのと,単に現在の通説と比べて「何を今更」と一刀両断してしまうのは,似ているようで違うと思う.
なんつーか,もう少し先行研究へのリスペクトを持とうよ,と.
軍事板,2009/09/25(金)〜09/26(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
小林よしのり「戦争論」で,
「先の大戦では,悲惨な戦場ばかりではなかった.
とか言って,親戚の叔父さんの事を書いた下りで,
「わしの部隊では,食料はたんまり有った」
とのエピソードを紹介していたけど本当?
【回答】
本当かもしれない.
だが,あれこそ旧日本陸軍の悲劇の象徴なんだよ.
日本軍は補給線が機能していなかった為,前線には物資が届かなかった代わりに,後方には必要以上の物資が溢れるといった現象が,日中戦争の時から現れていた.
「戦争論」と銘打つなら,西尾とか渡部とかのドキュソの話を鵜呑みにするのでは無く,もっと軍事の勉強をするべきだったね.
あっ,そんなヒマも気もないか.
しょせん,その場の勢いで書き飛ばすだけだもんね.
【質問】
旧日本陸軍では給食を作るのはどういう人達だったのでしょうか?
陸自みたいに指揮官だけ専門職で,炊事作業は交代で兵が作っていたのか,それとも海空自みたいに専門の給食兵が当たっていたのか?
旧海軍は主計科の人が専門で作っていたみたいですが.
【回答】
平時の炊事は現在の陸自とほぼ同じで,普通の兵隊を数ヶ月交代で炊事所に送り込む方式だった.
ただ,一般的に成績の悪い兵隊が送りこまれる傾向にあったため,炊事所勤務兵の進級は遅めで,さらに実際はいったん炊事所に送り込まれると,なかなかその勤務から抜け出せなかったとか.
もちろん役得もあり,調理後の一番いいところを味見と称して食べ放題だったり,つまみ食いもOKで,腹を空かしていた兵隊にはある意味天国のような場所.
他に,教練にあまり出なくてもすむとか,炊事所勤務兵の間では「俺たちは落ちこぼれ」という意識からくる連帯があり,一種和気藹々としていて,私的制裁も他に比べ軽めだったとか.
▼ 昭和15年6月発行の,支那派遣軍荻洲部隊の戦場写真集「我殲滅譜」(非売品).
昭和12年10月の上海戦線から江南追撃戦,徐州作戦と昭和14年8月までの戦場での歩みを写真で記録したもので,多くの興味深い情景写真が含まれまていました.
左は野戦炊事の風景写真で,こういった資料もまた貴重です.
よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21▲
【質問】
第二次世界大戦中の日本陸軍には,ドイツ軍が使ったフィールドキッチンのようなものは配備されていたのでしょうか?
霞ヶ浦の住人 ◆SJ6H1biwJ2
【回答】
日本陸軍の大行李に装備された野戦炊具は,鉄竈と釜で構成されている.
大行李というのは大隊に配属される補給部隊で,人員は輜重兵連隊から抽出した者.
つまり補給専門の部隊.
これが1個大隊に5基装備され,輜重車(荷車みたいなもの)で運ばれる.
一部の部隊では炊事車や炊事自動車が配備されたが,それらは全軍に配備はされなかった模様.
炊事車が試作されたのは昭和初期の頃で,それを母体に量産されている(大量ではなさそうだが)
なお,独軍もフィールドキッチンは中隊には配属されず,中隊の炊事班は大鍋などの野戦炊具を使って調理する.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧軍での炊事の最小単位は?
【回答】
中隊ごとの炊事にこだわってたようだが,個人の回顧録系の戦史を読むと,ソレすら出来ずに個人携行の生米を泥水(誇張だろうけど)で一日一回飯盒炊飯して味噌で食ってる.
鶏,豚等が「現地調達」できる場合は罪悪感無く実行している.勿論,生で食ってるとは思えない.
これは場所によってはほぼ常態化している.ネットですぐに探せる例だけでも
私が老河口作戦中に何を食べていたのかほとんど記憶にない.
出発の時5kgの米と携帯口糧として乾パン(3個)を携帯されられた.
作戦中に正式に補給を受けたのはそのときとあと2〜3回であった.4か月以上にわたる作戦中の食糧のほ とんどが現地調達だったというわけであった.
http://www.geocities.jp/ktoyo2004/sub7..html
炊事の単位が分隊であった記述も良く見受けられる.
私の班には中国人が2人付いていてその人たちが主になって食事の準備をしてくれた.
私たちは薪を探したり,副食物の材料を集めたり,出来た食事の配分に当たった.
米は各人が携帯する米がら出すのだが古年次兵や下士官から先に出す事になっていた.荷物の負担が軽くなるからである.
しかし,彼等は1kgは残していたようである.
(軍事板)
なお,「飯盒炊飯」の,よりマニアックで正確な表現は「飯盒炊爨」になります.広辞苑の「飯盒」の項の用例では後者だけが載っています.
ちなみに,Wikipediaの「飯盒」の項は軍事色が強く,なかなか参考になります.
よしぞう(maro') in mixi,2007年03月03日01:49
【質問】
洞窟陣地内で行われたという蝋燭炊飯は,本当に可能なのですか?
【回答】
上手に使えば,15センチぐらいのろうそく1本で,一合の飯は炊ける.
煙も全く出ません.
ただ,これで毎回飯を炊くことは考えられないのだが……
実際には夜の内に薪を使って,一日分の飯を炊いたそうで.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
帝国陸軍では基本的に食料などは現地で調達するのが基本らしいのですが,主に南方作戦の時などは何を食べてたんですか?
食料の補給は全く無かったんですか?
【回答】
補給がちゃんとある頃は,ご飯に味噌汁に・・・っていう普通の食事が出てた.
補給がなくなると・・・それこそ食べられそうなものは何でも喰う羽目に.
オオトカゲは鳥肉みたいでおいしかったとか,そういう話が.
1943年になって米軍の潜水艦部隊が本格的に活動すると,マトモな補給は来なくなった.
結構あとになっても食料の補給は行われてたが,輸送船がガンガン潜水艦その他に沈められるので,ほとんど届かなくなった.
ただ,かろうじて届いても,送られてきた物資も現地の実情をよくわかってないものが多く,塩鮭とか魚の粕漬け”だったと思われるもの”(どれも南方の気候の為輸送途中で完璧に腐ってた)が入っててがっかり・・・と言うような事もよく起こったとか.
それでも戦闘地域以外ではサツマイモやタロイモなんかを植えたりして,自活する努力をしている.
日本兵の生活に関しては本が結構出てるのでそれを読んでみるといい.
光人社NF文庫の「兵隊よもやま物語」なんかは基本としてお奨め.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
先の大戦で,アリューシャンにいた日本軍は,鮭を捕って食いまくって,まるまると太った兵が多かったというのは,マジですか?
【回答】
実のところ,アリューシャン方面に上陸した日本軍の食糧事情がよかったのは,豊漁でなおかつ野菜なども栽培できた,最初の数か月の夏の間のみ.
海空からの米軍の圧力が激しく,日本側の制海・制空権の確保が難しくなったため,この方面は補給も不足がちでした.
さらに昭和18年に入ると,米軍はアムチトカ島に飛行場を建設して,アッツ・キスカ両島に連日の猛爆撃を加えるようになったため,輸送船による補給はほぼ途絶えています.
このためアッツ島では,主食であるコメは一か月分の備蓄を,六か月で消費するように計画され,一日の支給は一人当たりわずか一合にまで減らされています.
野菜の類は,採取した苔とわずかばかりのモヤシしかなく,頼みの綱の漁も,米軍の爆撃で漁労班がしばしば襲われたために禁止せざるをえず,将兵は飢えに苦しむことになりました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本海軍の海軍カレーは有名ですが,どうして陸軍カレーは有名じゃないんですか?
【回答】
海軍の場合は長期の洋上任務で,曜日感覚がなくなるのを防止するために,「金曜日には必ずカレーを食べる」伝統を作りました.
このように,カレーを食べなければならないれっきとした理由があるために海軍カレーは有名となり,また各艦個々に味に工夫をこらしたのです.
陸軍ではこのような理由が必要ありません.
ゆえにカレーを食べるにしても,別に曜日を決めたりといったことがないので,特段有名になる事情がないのです.
また,海軍であれば,たとえ戦争が始まっても,「戦闘」にならなければ艦の厨房が使えますが,陸軍だと戦場に「展開」しただけで,調理器具は野戦対応したものだけになり,暖かいかどうかが重要になるくらいに,一気に食事のレベルが落ちます.
カレーは「大きいなべで作るとおいしい」などといわれますが,大きいなべをあっためる火力を持った調理器具も,中を満たす水も,戦場によっては容易に入手困難になりえるので.
軍艦だと,電気や蒸気を使った乗組員の数に見合った調理器具,そして作戦行動分の真水があります.
あと,調理にあたる人員も,海軍は専門の教育を受けた要員ですが,陸軍は基本的に所属部隊員の持ち回りです.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦場では日本陸軍兵士は,食糧をどのくらいの量持ち歩くことになっていたのですか?
【回答】
携帯糧食6日分の内訳
精米 870g×3日分
麦飯にすると水分が多くなり腐りやすいので野戦では原則として米オンリーとのこと
乾麺麭 690g×1日分
圧搾口糧 690g×2日分
1食分は圧搾膨張玄米(54g×3包)+圧搾田麩(8g×3個)+圧搾梅干(4g×1個)+圧搾砂糖(8g×5個)
缶詰肉 150g×1日分
牛肉大和煮缶詰
乾燥肉 30g×6日分
携帯粉味噌 30g×6日分
今のインスタントみそ汁(焼麩1gとワカメ3g入り)
携帯砂糖 20g×6日分
砂糖をプレート状に固めたもの(4枚/日)
携帯食塩 5g×6日分
食塩を焼き固めてプレート状にしたもの
乾燥魚肉 90g×6日分
おそらく鰹節
味噌 75g×6日分
栄養食 45g×6日分
卵黄粉・粉乳・水飴にビタミンとバターを練り込み低温乾燥し表面を糖衣したもの
学研の歴史群像太平洋戦史シリーズ39「帝国陸軍戦場の衣食住」から引用.
ちなみに,この「戦場の衣食住」は軍板住人必読の良書だと思う.
米は,大隊でまとめて運ぶ場合や,兵士がきれいな靴下に1足につき1回分の米を入れて持ち歩く場合も.
兵個人が持つ携行口糧の定数は甲(麦入り精米870g)と乙(乾パン230g×3食分)を合わせて2日分,
副食として牛缶1個,干し肉または干し魚,乾燥野菜,調味料(粉味噌や粉醤油).
戦闘応急配食には状況の応じて第1種から第5種まであるが,第1種から第4種までは,240gの白米から2,3個の握り飯を作り,1食分として配食する.
第5種は乾パン,缶詰,水を容器に入れ各所に置いておく.
麦飯870gというのは,「2合(米220g+麦70g)×3食分」で6合分の米麦.
個人携帯用の牛缶は150g
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
うろ覚えなんですが,先の大戦で,陸軍は侵攻先での闘いで必要な食料は現地調達と聞いたようなんですけど,これは本当ですか?
【回答】
当時の軍隊はみんなそうです(米軍などを除く).
限られた兵站はどうしても本国から送ってもらわないと調達できない装備品を優先して,食料は原則的に現地調達する.
もちろん現地調達してばかりだと時間がかかるし,地元民の反感を買うので,出来れば全部本国から送った方がいい.
しかし,それができたのは大金持ち米軍など一部の軍と状況のみ.
日本軍がどれだけ頑張ってカンパンや米,味噌を送る努力をしても,現地の必要量を満たすことは不可能だった.
このことは口減らしのために捕虜処刑することにつながったりする.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
特に中国戦線についてはその傾向が強い.
どこの部隊かも忘れたが,華南から仏印まで歩いた部隊は,補給はほぼ略奪だったそうだ.
時たま塩が支給された時だけは,物々交換が出来たそうだが.
太平洋戦線では,それも叶わず,飢え死にコース.
また,佐々木春隆氏の一連の著作を読むと,大陸打通作戦の最中,著者の属した第40師団は一年以上,食料の補給がなかったらしい.
当然その間は現地調達という名の略奪に頼っていたわけで.
ただし誤解のないように言っておくが,現地調達というのは普通は
「現地後方で軍の兵站組織が食糧などを購入すること」
を指す.
大軍で長期間駐留する場合だと,現地の食糧生産力が不足することもあるから,本国から送付というのもあるだろうが,新鮮な食料などは現地で買う.
日本軍でもドラム缶に米詰めて駆逐艦で運んだ例もあれば,軍票が紙くず同然となったのでウィスキーや古着,米ドルなどで,部隊の主計が現地民から芋を買うこともあった.
それとは別に,対価を払わずに食糧その他を得ることもあった.
小は農家の軒先から卵を盗むことから,大は師団司令部が空き家から机を持ち出す,橋を架けるのに民家を材料にするなど.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍は中国で略奪しまくりながら進軍しましたよね.
たとえば,ある地域に日本軍の部隊が複数いて,どっちが先に略奪するかとか,どっちがどの範囲を略奪するかとかで,揉めたことはありますか?
【回答】
1.基本的に略奪とは言わない.
現地調達もしくは徴発というのが用語的に正しい.
軍票によるお買い物や物々交換(まあ軍票が空手形になることも)
それらは最初にその地域に入ったものが当然先に行っており,後から来た部隊は買う(または奪う)物がないということも.
自分の立場というのは自分で守らないと,誰も守ってくれないよ.
また,すべての地域で徴発しもって進軍したというわけではない.
軍のスタイルとして略奪を旨とした支那軍,ソ連軍と行動されたらたまらない.
さらにいえば,軍隊は必要以上の食糧があっても行軍の邪魔になることがあるので,根こそぎ調達するとは限らない.
兵数は多くても行軍中なら1箇所にとどまる期間は短く,とりあえずその地域の余剰食糧の何割かで済むことも
.
2.徴発を行いもって進軍する場合,九州部隊などが先に進撃していると住民の帰還が悪く,日本軍の評判が悪くなっていることがある.(あくまでも後続隊の言い分)
3.徴発エリアは部隊によって暗黙のうちに決まる.
4.住民の宣撫が上手だと,安全保障上も主計的にも有利な条件で支配できる.
逆だと八路の浸透を有利にする.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍は,太平洋戦線での食料の衛生管理ってどうだったんでしょう?
湿気の多い所で暑いし,大変そうですが.
【回答】
一言で言えば「劣悪」
シベリア出兵などの経験もあり,寒冷地での食料研究は進んでいたが,南方での食料研究は進んでいなかった.
おまけに,冷蔵庫も無い輸送船で運ばれるのだから,もうどうしようもない.
箱詰めの塩鮭を送ったら,全く食べられなかった,なんて話も聞いた事がある.
さらに,送られた食料はいったん糧秣集積所に集積して分配するのだが,倉庫も無く露天積みするから,スコールにやられたりで滅茶苦茶.
かくて前線にとどくのは,かびて青くなったりコクゾウムシだらけの米.
副食は粉味噌とわずかばかりの乾燥野菜と缶詰.それすらも事欠くありさま….
その米を,インパールやニューギニアでは泥水や,下手すりゃ死体が浮かんでるような水たまりの水で炊いた.
それも,1個小隊に米一掴みしかない重湯みたいな代物.
「ドキュメント太平洋戦争」に,
「お,今日は米が三粒もある」
って喜んだという元兵士の証言があったな.
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