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 【link】

Pobediteli.

 1941年6月22日から1945年5月9日までの戦線の動きがアニメ形式で動いていって,気になった都市や戦場を地図上でクリックすれば,そこに関しての記録映像も見られるという優れモノ.
 かなりの大長編で,最後まで見るのにかなり時間がかかったのを覚えてる.

 ページの右側の地図をクリックすれば見られる.
 ロシア語わからなくてもなんとかなると思う.

 かなりクオリティが高かったから,ロシア政府が戦勝60周年に合わせて作成したサイトかも.

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

「Togetter」◆(2012/12/02)2012/12/02 とあるWWUドイツ軍戦史の権威のお話

『WWIIドイツの特殊作戦』(広田暑し著,光人社NF文庫,2011.7)

 面白うございました.
 知ってる人は知ってる事ばかりでしょうが.

――――――軍事板,2011/07/02(土)

『ヴィットマン LSSAHのティーガー戦車長たち』(上下巻,パトリック・アグテ著,大日本絵画,2005.9)

 値段がクソ高いが粗製濫造が多い本の中で,極めて高い価値を持った本.
 ただ少々見難い部分もあるが,そんな事は気にならないくらい素晴らしい本である.
 この資料本は戦車戦マニアには必読かもしれない,
 ヴィットマンの戦いは,戦車戦のあり方を的確に示しているからだ.
 戦車の目標が戦車からテロリストに移り変わっているが,両者とも大した違いはない.
 如何に相手より先に発見し,射撃,撃破するのが戦車の戦いなのだ.

 またビットマンは砲隊鏡を愛用していたが,現代に無理やり置き換えれば「車長用独立熱線映像装置(CITV:Commander's Independent Thermal Viewer)」の先駆けとも言えるかもしれないね.

―――CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日16:55

『ヴィットマン戦記1943』(小林源文著,学習研究社,2008.4)

 最新の資料に基づき構成されたヴィットマン戦記.
 また小林源文先生の特徴は,所々に解説が載っていることだ.
 例えば名射手である,バルタザール・ヴォルの射撃についての解説は非常に面白い.
 この細かな気配りというのが,小林 源文先生が今でも支持されている理由だろう.
 是非この方式を,他の漫画家の人達も継いでいって欲しい!

―――CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日16:55

『ヴィレル−ボカージュ ノルマンディ戦場写真集』(ダニエル・テイラー著,大日本絵画,2005.12)

『カセリーヌ峠の戦い1943』(スティーヴン・ザロガ著,大日本絵画,2009.2)

 著者はオスプレイではおなじみのスティーヴン・ザロガ氏.
 戦闘の推移が詳細に書かれていていいけど,北アフリカ戦は既存の資料が大量にあるから,新しい知見があるかというと微妙.
 陸戦,戦術オタなら買ってみるのがいいかも.

――――――軍事板

『カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS 武装SS師団全史』第1巻(高橋慶史著,大日本絵画,2009.6)

『砂漠のキツネ』(パウル・カレル著,中央公論社,1998/10)

 同盟国との関係が詳細に観察されているのが興味深い.
 イタリア軍の軍事的役割が低かったのは確かだけれども,ドイツ軍の足を引っ張ったというのは嘘だろう.
 同書にも,ロンメル指揮下でイタリア兵やアラブ兵との共闘のさまが,生き生きと描かれていて,そのへんが興味深い.

------------軍事板,2001/11/14
青文字:加筆改修部分

『砂漠の狐を狩れ』(スティーヴン・プレスフィールド著,新潮文庫,2009.3)

 戦車隊所属将校の主人公がイギリスの長距離砂漠挺身隊に出向して,戦線後方の偵察やロンメル暗殺など,様々な任務をこなす.
 小説だが,第22機甲旅団の主人公が所属する連隊と,挺身隊で主人公が所属する部隊以外はすべて実在していて,それぞれの行動は史実に基づいておる.
 また,部隊長クラスは基本的に実名.
 戦車連隊所属の時期は後退戦,挺身隊にいる時期の描写もかなりが,砂漠の行軍やトラックの故障と整備の話で全体的に地味だが,敵中突破したり敵装甲車に追われたりと,アクション・シーンもある.
 また,情景描写が細かい.

 ちなみに本文は約470ページだが,そのうち訓練を含めた戦車隊将校の時期が70ページくらいあり,小隊(A15やA9巡航戦車,M3軽戦車などで編成)を率いた戦闘(外装式サスペンションに被弾すると,車高が急に落ちる)や,撤退の混乱を細かく描いているので,北アフリカでのイギリス戦車兵の戦記としても読めないことはない.
 てか,個人的には全編そんな感じだともっと嬉しかったんだが….
 訳も特に軍事的に変な部分はなかったと思う.

――――――軍事板,2009/11/23(月)

 買って読んでる.
 これは面白い.
 これなら今後,迷ったときに作者買いと訳者買いしても良いんじゃないかと思う.
 今,シュトゥンメが死んだ後辺りだが,おそらく今後出てこないだろうスタイン先輩とストリーター曹長(最初の一言特に)がなんかかっこよかった.
 ありがとー.

> 全編そんな感じだともっと嬉しかったんだが….

 同感その2.
 クルセーダー特盛りになりそうだが.
 誰か海外でハヤカワ辺りの海洋冒険ものが海軍将校でやってるような,英戦車将校を主人公に据えた話を書いてないんだろうか.
 開戦前から始まってるのがいい.

――――――軍事板,2009/11/26(木)

『スエズ運河を消せ トリックで戦った男たち』(デヴィッド・フィッシャー著,柏書房,2011.10)

 ジャスパー・マスケリンという英国のマジシャンが行った,北アフリカでのカムフラージュ作戦の話.
 取り敢ず,中々面白そうな内容.
 ヒトラーが彼の首に懸賞金を付けたのも,宜なるかな.

-----------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/10/21(金)

『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3)

 第二次世界大戦の主要な戦場の一つであった欧州戦線.
 その欧州戦線を「中東戦争全史」「完全分析 独ソ戦史」の著者が第一次世界大戦終結からナチスドイツの降伏までを通して解説した一冊.
 今回の舞台は殆どが西部と中部ヨーロッパ.イタリアに関しては「独VS.英米仏」という構成のため,北アフリカ戦線は簡単に触れられてる程度.
 多数の戦況図などもあってわかりやすく,西部戦線について知る事のできる一冊です.

――――――グンジ in mixi,2008年05月04日16:55

『西方電撃戦 フランス侵攻1940』(ジャン・ポール・パリュ著,大日本絵画,2013.4)

『第二次大戦欧州戦史シリーズ』vol.1〜(学研,1997.5〜)

 1〜10はハッキリ言って,もう内容が古いヨ.
 土門周平さんのクルスク戦記事とか,完全に陳腐化した情報ベースだし,冷戦終結後に出てきた事実の見直しや再評価を反映していない.
 そろそろ太平洋みたく完全な新版を,1から出すべきだね.

――――――軍事板,2009/09/11(金)

 まあ,新版を出すなら,北アフリカの巻とか,もう少し通し概況を載せて時系列を判りやすくして欲しいです.
 他に流れの判る本を読んでいれば,あれでもOKですが,個々のエピソードや雑多なコラムや検証記事ばかり目立ち,通史としては非常に読みにくくなってると思うのです.

 ただでさえシーソーゲームな戦域だったのに.

――――――Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/09/11(金)

『第10戦車師団戦場写真集』(J.ルスタン共著,大日本絵画,2004.5)

『タンクバトル』(斎木伸生著,光人社,2002.3)

『タンクバトル 4』(齋木伸生著,光人社,2008.9)

『ティーガーの騎士 ミヘル・ヴィットマン物語』(カール・コーラッツ著,大日本絵画,1993.8)

『擲弾兵 パンツァーマイヤー戦記』(クルト・マイヤー著,学研M文庫,2004.3)

 今さらですが,すげぇ・・・冒険の連続だ.
 これだけ戦い続け勝利し続け戦後まで活躍するとは.

 東部戦線編読み終えた段階で,「まだこんなにページが残っている?」
 北フランス戦が終わった段階で,「彼の戦闘は終わったのにまだ(略」
 なんと捕虜・裁判時期にも,多くのページが使われていたのですね.

 軍事的に思った事.
1 ドイツ軍は連隊の下に2〜3の大隊があるが,連隊が一丸となってではなく,大隊単位で戦っている様に読めました.
  歩兵や戦車は一個連隊=数個中隊=実質一個大隊な陸自連隊との比較で,長所短所について想像してみる.
2 カナダ軍連隊名,長過ぎ.
3 防戦側であっても,局地的な戦力集中による一時的攻勢の有用性.等々

------------軍事板,2012/01/04(水)

 地獄の一丁目にようこそ♪

>軍事的に思った事.1

 「戦場に立たされた一個人」の視点からだと,そんなもんだろおねえ.
 部隊が展開してる地域の,見渡せる範囲での事を語るしかないから.
 該当する戦場について他者の著作物,公式記録,写真etcを揃えて,戦場の再構築をしてみるのも面白いよ?

>陸自連隊との比較

 陸自連隊の初期戦力が,戦闘損耗したドイツの連帯戦闘団だと思えば無問題.
 攻者三倍則からすれば無問題(笑

------------┐<^♯^>┌ ◆MANSEY5L0w :軍事板,2012/01/05(木)

 『擲弾兵』は良かったわ.
 読んでて,自分まで弾丸かいくぐった気になれたよ.
 Sdkfz.250の脇にぶら下がっての突進は,見てもないのに脳裏に浮かぶよ(笑

------------軍事板,2012/01/05(木)

 戦犯(甲)の自己弁護な粉飾本ですぜ,だんな?(笑
 読んでる最中わ臨場感や感情移入で楽しく読めたが,読後に色々な疑問が湧き出て,ミリヲタとしても,出口の無い迷宮に踏み込ませてくれた名作なんだけどな(笑

------------┐<^♯^>┌ ◆MANSEY5L0w :軍事板,2012/01/05(木)

 MANSEYがミリ話をしてるのを,初めて見た(驚

------------軍事板,2012/01/05(木)

『電撃戦』(レン・デイトン著,早川文庫,1994.11)

 著者デイトンは作家で,文章はおもしろいです.
 ドイツ軍装甲部隊の創設から,フランス戦までの成長,電撃戦の戦略,戦術的目的と,その問題点などを簡潔に指摘しています.
 ドイツ装甲部隊の編成に関しても,かなりスペースを割いて,グデリアンの思想を解説しようと試みています.

 一方で,やや断定的,若干のデータ的誤りなどもあり,厳密な研究書というよりは,一般向け解説書という趣ではあります.

 入門編としては,一読の価値ありというところでしょうか.

------------軍事板,2001/12/22
 WW2のドイツの戦法はほとんどが電撃戦で,それが有効だったと思っていた自分は衝撃を受けた.
 ギコ教授の書籍紹介は便利だ.
―――――
 そのまま連続して『電撃戦という幻』も読むんだ.
 デイトンのやつで一新された電撃戦観が,もっと鮮やかに増幅されるはずだ.

―――――軍事板,2010/01/23(土)〜01/24(日)

『電撃戦 グデーリアン回想録』(ハインツ・グデーリアン著,中央公論新社,1999.3)

 読んで損はしない.
 ただし,グデーリアンの人物評はまったく当てにならないけどな.
(軍事板)

『電撃戦という幻』(カール=ハインツ・フリーザー著,中央公論新社,2003.2)

 全体的には良いが,一旦連合軍を持ち上げて,「それに勝ったドイツはもっと凄い」という趣旨の臭いがプンプンしてて,公平さはあまり感じられない.
 例えばオランダ本国軍に,”約40両”の戦車は存在しない.
 オランダの装甲兵力はルノーFT2両,カーデンロイド豆戦車5両,スウェーデン製装甲車26両で全てで,装甲車もカウントしているのだろう.
 この装甲車は確かにそれなりに高性能だったが,これを入れるならば,ドイツ軍にも装甲車の分を上乗せするべきだが,そうしていない.
 この40両という数字はどうやら他の本からの引用のようだし,まあこれを間違っただけでは大きな問題は無いが,調べれば簡単にわかる間違いをしている事実が,都合の良い著者の考えを表しているだろう.

 ダンケルク攻撃中止命令にしても,あらゆる責任をヒトラーに押しつけて,攻撃して困ることなど何も無かった,国防軍は偉かった,を強調してるのが,どうも胡散臭くていかん.
(特に著者が,ブンデスヴェーアの戦史編纂官だという事と合わせて考えると)

――――――軍事板,2010/04/24(土)〜04/25(日)


 対仏戦については画期的な研究かもしれんが,政軍関係の面から見れば,
「ヒトラーは機甲部隊の軍事的意味なんか全く分かってない」
「国防軍の偉大な勝利を面子から台無しにしただけ」
って,ひたすら連呼してるだけの本.

――――――軍事板,2010/04/29(木)

『ヘルマン・ゲーリング戦車師団史』(フランツ・クロヴスキー著,大日本絵画,2007.5)

『ヘルマン・ゲーリング戦車師団史』下巻(フランツ・クロヴスキー著,大日本絵画,2007.8)

 今回は表紙と中面P196,P200〜203で,私が10年近く前にパリにある仏軍公文書館ECPAで見つけた,東プロイセンにおけるヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団の前線写真が掲載されました.
 ただ,残念な事に軍装解説がされていないので,陸軍のウォータースモックと空軍スプリンター迷彩グランドスモックとのチャンポンの使用例や,今回扉で使われた下の写真も解説が無いので,HG師団の中期で,その迷彩スモックと共に多用されていたSS迷彩のヘルメットカバーや,捕獲PPSH短機関銃などの小ネタもたぶん見逃されているのでは?
faq20g01hg03.jpg
faq20g01hg04.jpg

 この時代のHG師団猟兵なら,SSのCパターン(シュロの樹)迷彩カバーをヘルメットに被せて,ウォーター迷彩スナイパースモックを着用し,空軍のベルトバックルとブルーグレーのズボン&レギンスを履くという,「何者?」といった軍装もアリなので,楽しめますねー.

 このウォータースモックは,コレクターの間ではスナイパースモックの名称が付いていますが,実際は一部の擲弾兵師団やこのHG師団でまとまって使用されており,ゆくゆくは陸軍野戦部隊で全般的に導入する予定だったのでしょうか.
 生地はアノラックから綿を抜いた表面の薄い生地ですが,私の手持ちの物は,中間トーンが黄色味の強い物でした.
 また,中には全体に薄いピンク系の物も散見しました.

 兎も角,余り知られていないHG師団戦史にスポットを当てた記念碑的な出版で高橋さんの翻訳労作なので,興味が在る方は是非本屋でご確認下さい.

――――――よしぞうmaro' in mixi,2007年07月08日02:35〜07月11日 01:40

『ロンメルとアフリカ軍団戦場写真集』(広田厚司著,光人社,2012.5)

『ロンメル戦記』(山崎雅弘著,学研M文庫,2009.11)

 なんというか,「文筆家」として山崎氏が著しい進歩を果たした作品だと思う.
 以前より格段にパワーアップwしてるわ.
 素材自体(ロンメル)の面白さとは別に,氏の筆力に由来するテンポの良さと分かりやすさが,この本を面白くしている.
 もちろん,綿密な調査研究や地図作成の努力も素晴らしい.
 これはマジお勧めです.

――――――軍事板,2009/11/18(水)

 【質問】
 WW2欧州方面の本でおすすめのものを紹介していただけませんか?
 欧州方面には疎いもので,戦況の推移及び作戦の開始日時,参加部隊など,一般的な戦線について知りたいのです.
 概要+方面については東部戦線,アフリカ戦線に興味あり.
 全般に関する記述があればなお好ましい+主に陸上戦
といったところです.

 【回答】
 オーダー了解

◆アフリカ戦線
砂漠の戦争 ムーアヘッド(早川文庫)…英寄り
砂漠のキツネ パウル・カレル(中央公論社)…独寄り
ロンメル戦車軍団 サンケイバランタインブックス18

◆東部戦線
バルバロッサ作戦(上中下)パウル・カレル(学研M文庫)…独寄り
焦土作戦(上中下)パウル・カレル(学研M文庫)…独寄り
詳解 独ソ戦全史 学研M文庫…ソ連寄り

◆地上総合
ドイツ機甲師団(ケネス・マクセイ)サンケイバランタインブックス15
ヒトラーの戦い1〜10 児玉襄 (文春文庫)
ドイツ戦車軍団(上下)  フォン・メレンティン (朝日ソノラマ)…生き残った独装甲部隊参謀の手記,独寄りw
『失われた勝利』(マンシュタイン著,中央公論新社,1999.12) …当然,独寄りwww

・その他オプション
 お好みで学研WW2ムック各巻からチョイスして副読本に(笑)

・萌え耐性があるなら
 どくそせん イカロス出版…意外なことに,そんなに悪くは無い(笑)

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦中に行われた,主な空挺作戦を教えてください.

 【回答】
1940年4月 ナルヴィク(ノルウェー)降下作戦(ドイツ第1降下猟兵連隊第1大隊)
1940年5月 オランダハーグ近郊,ロッテルダム近郊降下作戦(ケース・イエロー作戦:ドイツ空軍第7空挺師団(第1降下猟兵連隊等))
1941年5月 クレタ島降下作戦(ドイツ第7降下猟兵師団)
1942年1月 セレベス島メナド降下作戦(日本海軍特別陸戦隊)
1942年2月 パレンバン降下作戦(日本陸軍第一挺進団)
1942年2月 チモール島降下作戦(日本海軍特別陸戦隊)
1942年11月 北アフリカトーチ作戦(アルジェ:アメリカ503空挺歩兵連隊第2大隊等)
1943年7月 イタリアシチリア島上陸作戦(アメリカ第82空挺師団)
1943年9月 イタリアタラント降下作戦(スラップスティック作戦:英第1空挺師団)
1943年9月 イタリアサレルノ南部地区降下作戦(アヴァランシュ作戦:アメリカ第82空挺師団)
1943年9月 ドニエプル渡河作戦(ソ連 第1空挺旅団・第3空挺旅団・第5親衛空挺旅団)
1944年5月 チトー誘拐作戦(第500SS降下猟兵大隊)
1944年6月 ノルマンディー上陸作戦(米82,101空挺師団 英第6空挺師団)
1944年8月 南フランスのリヴィエラ上陸作戦(英米連合 第1空挺任務部隊)
1944年9月 マーケットガーデン作戦(米82,101空挺師団 英第1空挺師団)
1944年12月 ボーデン・プラッテ作戦(バルジの戦い:ドイツ特別任務空挺隊)
1945年2月 コレヒドール要塞降下作戦(米 第503パラシュート歩兵連隊)
1945年3月 ヴァ−シティ作戦(ライン河渡河作戦:米第17空挺師団,英第6空挺師団)

軍事板,2003/03/07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シモ・ヘイヘって誰?

 【回答】
★★★同志スターリンと語らい合うスレ【69】★★★
より.

----------------------------
 頭を撃ち貫かれたい赤軍将兵にお薦めの「白い死神」(Белая Смерть),シモ・ヘイヘ

・4000人いれば大丈夫だろうとコラー河一帯へ侵入したら,たった32人のフィンランド兵に撃退された
・銃声と硝煙を発見したが,すでに頭部を撃ちぬかれた後だった
・足元がぐにゃりとしたので雪を払ってみると,頭部を撃ちぬかれた赤軍兵が敷き詰められていた
・「スナイパーだ!」と叫んだ将校が,次の瞬間こめかみを撃ちぬかれてて倒れていた
・スコープもない旧式モシンナガン小銃で狙撃,というか距離300m以内なら確実にヘッドショットされる
・いとも簡単に1分間に150mの距離から16発の射的に成功した
・野営中の真夜中にトイレからテントまでの10mの間に頭を撃ちぬかれて即死
・戦車と合流すれば安全だろうと駆け寄ったら,戦車長がヘイヘから狙撃済みだった
・赤軍の7/10000がヘイヘに狙撃された経験者,しかも白い死神という伝説から「積雪期や夜間ほど危ない」
・「そんな奴いるわけがない」といって攻撃しに行った25名の小隊が1日で全員死体になって発見された
・「サブマシンガンなら狙撃されないから安全」と雪原に突撃した兵士が穴だらけの原型を止めない状態で発見された
・最近流行っているヘイヘは「何が何でもヘッドショット」,気温が−40℃でも弾薬が残りわずかでも赤軍狩りに出て行くから
・5階級特進で少尉となったシモヘイヘに狙撃の秘訣を尋ねると,ただ一言「練習だ」
・コラー河付近はシモヘイヘに殺される確率が150%.一度狙撃されて命をとりとめても凍死する確率が50%の意味
・ヘイヘが狙撃で殺害した数は505人,他にサブマシンガンで倒した数は正式なものだけで200名以上

----------------------------

 そういや,我が敬愛するワシーリー・マルゲロフ将軍も,フィンランド戦線(冬戦争)で戦っているんだよな・・・
 もしヘイヘに狙われていたらきっと・・・・・

CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日21:28

「大丈夫,跳ね返した」


◆◆◆◆フランス降伏以降


 【質問】
 マジノ線Maginot line に莫大な予算を使わず,連合国が効率的に軍備を進めていれば,チェコの段階でドイツを掣肘していた?

 【回答】
 フランス降伏までは,各国の軍部も国家元首も(ヒトラー含む)みんな,WW1型戦闘,1日でウン万人が死んでもおかしくないような塹壕型大消耗戦になると予想していた.
(だからこそフランスはマジノ線を整備したわけで)

 だから最後の最後までみんな開戦に及び腰だったし,ヒトラーもそれを読んだ上で軍事力の誇示を続けていた.

 よって,連合国側の軍備が向上していたとしても,ヒトラーの「本気で戦争しちゃうぞ」ジェスチャーは有効.

54 :名無し三等兵 :03/11/06 08:58 ID:???
マジノ線を自走化すればいいじゃない

55 :名無し三等兵 :03/11/06 09:00 ID:???
超重多砲塔マジノ線車キタ━━━━━━(°∀°)━━━━━━!!!!

56 :名無し三等兵 :03/11/06 09:04 ID:???
1日数mmドイツに迫る,恐怖のマジノ線車

114 :名無し三等兵 :03/11/07 00:44 ID:???
フランス全土を覆う「マジノ面」ってのはどうか?

(軍事板)


 【質問】
 フランスはセダン以東の仏独共通国境にはマジノ線を築いていたが,仏白国境にはより弱い縁辺部防衛線を築いていただけだった.なぜ海岸まで伸ばさなかったのか?

 【回答】
 マジノ線の延引をセダンで停止したのは,ベルギー領内にドイツ軍を嚮導させるための高等戦術だった.何の役にも立たなかったが.

 また,マジノラインを海岸まで伸ばしちゃうと低地諸国を見捨てることになってまずいという政治的判断があった.
 で,マジノラインの分浮かせた戦力で低地諸国保護のため積極的に兵を進めてドイツを迎え撃つ計画を立案.
 まあ,史実では集中した戦力は戦車師団にあっさり背後から包囲されて終わったが.

(軍事板)


 【質問】
 マジノ線を大西洋まで延長してたら,フランスは勝てた?

 【回答】
 それは無理かと.
 要塞だけあっても,独軍の機動力に対応できる部隊(戦車の運用も重要だが,部隊間の連携がとれるよう無線の配備をしておくのが必須だろうね)も合わせて存在しなきゃ,意味無いし.
 アルデンヌにも作っておくというのはいいかもしれないが.

 陣地防御に関する戦術思想が,フランス軍は第一次大戦レベルだった.
 独軍主攻正面の仏第9軍壊滅の原因が,「一連不断の戦線」という旧観念にとらわれ,両翼側の掩護を各隣接部隊に依存していた為,独軍の戦線突破によって連鎖反応的に戦線の崩壊を招いた.
 この戦訓からウェイガン将軍は,全周防御可能な無数の拠点を散布した縦深陣地帯をエーヌ〜ソンムの戦線に構築し,独装甲部隊の進撃を食い止めようとしたが,装甲部隊予備をフランダース会戦で失っていた為,有効な機動打撃を与え得ず,3日で突破されてしまった.

(軍事板)


 【質問】
 フランスが,開戦のどさくさ紛れにベルギー領の一部を掠め取ろうとしていた,という話は本当ですか?

ニュー速VIP板
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 これこそ聞いたことのない珍説ですが,いったいどんな本にフランスのベルギー進出はベルギー領を自国の物とするためのものだったなんて書いてあるんでしょうか?
 存在するんなら是非とも読んでみたいのですが.

 フランスとベルギーは第一次世界大戦以降対独戦に備えた軍事的な会合を断続的に持ってきました.
 30年代に入って協議は一度途切れますが,開戦直前になり,軍首脳レベルでの意見交換は再開されています(ドイツを刺激するのを恐れて,ベルギー政府はぎりぎりまで中立を通しましたが).

 手持ちの書籍ではベルギーとフランスが,ドイツの黄色作戦に対して協同で対処するような合意に達したかどうかは見つけられませんでした.
 しかし1940年4月9日という段階ですら,フランス政府は戦争会議において
「仏軍のベルギー領内での作戦への,ベルギー政府の同意を取り付ける努力をする」
「同意を得られたらベルギー領内作戦を実施する」
と決しています.
 ベルギー領を掠め取る気なら,ベルギー政府の同意を取り付けるような行動を取るものでしょうか?

名無しクルセイダー信者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マンシュタイン計画は,「黄色の場合」作戦と何か違うのですか?
(どうも特にアルデンヌを突破する部分を指しているような気がしてはいるのですが)

 【回答】
 「黄色の場合」の初期計画は,周知のとおり第一次世界大戦の「シェリーフェンプラン」を踏襲したもので,中部ベルギーを強行突破して大西洋岸に進出した後,南下.
 パリの西に進出して,連合軍を包囲殲滅した後に,フランスを征服するものでした.
 しかし,マジノ線の途切れたベルギーからの進入は,連合軍も当然想定しており,「ディール計画」と呼ばれる,ベルギー国内中央のディール川ぞいに進出しての反攻計画を策定していました.

 フォン・マンシュタイン将軍は,この連合軍の反攻計画を無効にするために,防御の手薄なベルギー南部とルクセンブルグから侵攻してフランスへ侵入,そこからイギリス海峡に向けて突破を図るというプランを策定しました.
 B軍集団がオランダを占領して連合軍をひきつける間に,A軍集団がアルデンヌの森を突破して,南部ベルギーと北部フランスを通った後に西進する,つまり,「ディール計画」のためにフランス北部に集中している連合軍の 背後を絶つ形になるのです.

 簡単に言えば,ベルギーから右フックを撃つのが「シェリーフェンプラン」,左フックを撃つのが「マンシュタインプラン」という形になります.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 マンシュタインプランではB軍集団の動きは同じだが,陽動部隊として英仏軍をひきつけることに役目が変わった.
 主力は中央のA軍集団となり,これが手薄なアルデンヌを突破して,英仏軍の後方に突進し,その退路を断ってB軍集団と共に英仏軍を包囲殲滅する.
 マンシュタイン・プランではこの後,兵力を南方に前進させて残存兵力を掃討しつつ,マジノ線を後方から襲うことになっていた.
 これは実際の作戦でも行われ,「黄色の場合」に次ぐ第二段階として「赤の場合」という名称がつけられている.

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 原案の「黄色の場合」が修正されて,マンシュタイン計画を取り入れた形になったってことですか ?

 【回答】
 取り入れたっつうか,ほとんどまるまるパクってる.
 作戦立案責任者のハルダー参謀総長は後に
「色々考えた末にアルデンヌ突破案に至ったんで,べ,別にマンシュタイン・プランなんか参考にしてないんだからねっ」
と参考にしたことを否定している.
 んでマンシュタインは栄転という名目で,東プロイセンで編成中の軍団長に飛ばされてる.
 この辺の経緯については,レン・デイトンの「電撃戦」か,カール=ハインツ・フリーザーの「電撃戦という幻」で詳述されてるんで,そっちのほうを読むといいかも.
 まあ読んだ後は,ドイツ軍の強運さとフランス軍のへたれっぷりが印象に残るが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2緒戦のフランスの総司令部はどこですか

 【回答】
 総参謀長ガムランの司令部.
 情報が遅れるというか,フランス軍は総司令部に無線を置いておらず,指令もバイク便で行なっていたため,前線に伝わる頃には戦闘はとっくに終わって,前線は数十キロ進んでいたということが普通だった.
 電撃戦でなく,WW1のように塹壕戦主体ならそれでもやっていけたかもしれない.

 もっともフランス軍はガムランに限らないが.
 ウンチージェ将軍によれば,ジョルジュの北東方面軍司令部は,防衛の要であったムーズ川線が崩壊する際に,前線に何の支援も指示もしなかったとのこと.
 ウンチージェの方から指示を仰いでも,忘れているのか全く返答が無く,直接ジョルジュに会いにいって話せば,
「君が最善と思う事をやりたまえ」
とだけ言われたとのこと.
 全く仕事をしてない.

 そして英派遣軍司令部はスダン地区防衛のため,英本国から大規模な航空兵力の増援を出すと決定したが,ジョルジュは「現有兵力だけで十分守りきれる」という声明を発表して断った.
 その声明を出したその日のうちに,スダンが抜かれて仏軍が全面壊走に移っていくことになったわけで,前線の状況なんて全くわかってなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分

フランス軍
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 フランス降伏までの戦闘経過を教えてください.

 【回答】
 1940年5月10日,ドイツ国防軍はマンシュタイン計画に基づき,
マジノ線の要塞群に立てこもるフランス軍守備隊を釘づけにするC軍集団,
ベルギーとオランダに侵攻する歩兵主力のB軍集団,
森林地帯を抜ける装甲師団主力のA軍集団
の3つが一斉に越境.
 同日,ベルギーのエバン・エマール要塞にグライダーで工兵が降下し,翌日制圧.
 5月13日,A軍集団の3個装甲師団が,スダンでムーズ川を渡河,連合軍の背後に回る.
 5月14日,オランダ降伏.
 5月16日,連合軍は総退却開始.
 5月19日,A軍集団先頭の第2装甲師団がドーバー海峡到達.
 5月21日,予備兵力として温存されていたイギリス大陸派遣軍2個師団により,アラス方面へ反撃するが,失敗.
 5月22日,フランス軍,カンブレー方面へ反撃するが,失敗.
 5月23日,ヒトラー,進軍停止を命令.
 5月28日〜6月4日,ダイナモ作戦(ダンケルクより連合軍撤退)
 5月28日,ベルギー降伏.
 同日,A・B軍集団,ダンケルクを包囲.
 6月5日,ドイツ軍,ダンケルク制圧.
 6月10日,フランス政府はパリを無防備都市と宣言して放棄し,政府をボルドーに移転.
 同日,イタリア,対英仏宣戦布告.
 6月14日,ドイツ軍,パリに無血入城.
 6月18日,ド・ゴール将軍,ロンドンに「自由フランス委員会」設立.
 6月21日,フランス降伏.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_France
http://www.c20.jp/1940/06f_kof.html
http://www17.ocn.ne.jp/~senshi/seihoudengekisen3.html
http://www.geocities.jp/torikai007/1939/france-jew.html(重いので注意)

【ぐんじさんぎょう】,2010/08/07 21:20
を加筆改修

最近海外オークションに独空軍写真ロットに混じって出ていた〔略〕,襟の白い人達の写真

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月03日22:10


 【質問】
 WW2時,通れないとされていたアルデンヌの森を,ドイツ戦車が通れたのは何故ですか?
 ベルリンオリンピックの聖火リレーのコース調査という名目で,欧州各国の主要幹線道路の様子をドイツは調べていたそうですが,道路があったなら,なんで「通れない」なんてフランス軍は思ったんでしょうか?

 【回答】
 「通れない」というのが,そもそも幻想.

 「電撃戦という幻」上巻(カール=ハインツ・フリーザー著,中央公論新社,2003.2))の「『通り抜けできないアルデンヌ』という神話」という章から引用したいと思います.

 2 「通り抜けできないアルデンヌ」という神話

 フランス軍上層部の軍事思想は,第一次世界大戦後ますます硬直化し,教条主義的になった.とりわけアルデンヌ-セダンの戦線区については次の二つの先入観が人々の心を支配していた.
-「アルデンヌを車輛部隊が通過することはできない」
-「ムーズ川を渡ることはできない」

 「戦車が走れないアルデンヌ」,「渡れないムーズ川」という観念は普遍的法則となり,権威ある人々がこれを保証した.
 「ヴェルダンの英雄」アンリ・フィリップ・ペタン元帥は
「アルデンヌの森を通り抜けることは不可能である」
と断言し,総司令官ガムラン将軍はムーズ防衛線について
「ヨーロッパ大陸においてムーズ川は戦車に対する最良の障害物である」
と太鼓判を捺した.
 フランス軍にとってアルデンヌ-ムーズ川の二重の天然の要害は,克服不能な,もはや迂回するしかない戦略上の障害物であり,セダン地区は明らかにこの二つの障害物に守られている安全地帯であった.
 そこで彼らは,他の戦線区を優先させるため,セダンの防衛陣地をなおざりにし,二戦級の部隊をここに駐屯させることにした.
 ドイツ軍がアルデンヌで攻勢をかけたと聞いたとき,フランス軍総司令部は,これからでも増援部隊を送る時間はまだ十分にあると考えた.(p.239)

 はじめから「絶対にアルデンヌ&ムーズ川は通行不可!!」と考えてたわけです・・・

 この神話に対し,かの有名な軍事評論家のリデル・ハートが,意見を述べましたが……

 「通り抜けできないアルデンヌ」は神話にすぎないとする警告の声が第二次世界大戦前の連合国のあいだに無かったわけではない.
 イギリスの軍事評論家リデル・ハートは,1928年にアルデンヌを視察旅行したさい,フランスの軍人たちが「ここは天然の要害である」と安心しきってることに驚きを隠せなかった.
 1933年,イギリス国防省が大規模な機甲師団を編成したとき,ハートは戦車戦術の専門家として意見を述べるように要請された.「将来の戦争における機甲師団のもっとも有効な運用法」について助言を求められた彼は,
「たとえばドイツ軍がフランスに侵入した場合,機甲師団によってアルデンヌから反攻に出るべきである」
と提案した.
 彼がイギリス軍から公式に得た回答は
「アルデンヌは通り抜けできない」
であった.
(同書 P240)

……イギリス軍もフランス軍と同じでした.

 最後に実際にアルデンヌが障害物として有効かどうか試験されました,
 その結果は…….

 1930年代,フランス軍においてもアルデンヌが障害物として本当に有効かどうかが試験された.
 たとえばブルギニョン大佐は,戦車部隊によるアルデンヌへの奇襲攻撃はおそらく可能であるとする報告を行った.
 1983年の五月と六月に第二司令官(当時)アンドレ・ガストン・プレートラ将軍が指導した兵棋演習の結果は,1940年五月にグデーリアン装甲軍団が実際に演じた攻撃と恐ろしいほどに酷似していた.
 上層部の誰もがぎょっとしたことには,プレートラは,ドイツ軍は60時間でムーズ川に達し,一日で川を渡るだろうとの調査結果をつきつけたのだ.
 実戦でドイツ軍はセダン北方,ムーズ川の小さな屈曲部に面したサン・マンジェに57時間で到達したから,誤差はわずかに3時間ということになる.
 兵棋演習のただならぬ結果について報告をうけたガムランは,プレートラを,悲観的展望を示した――「いたずらに不安をかきたてた」――罪できびしく問責した.
 フランス軍総司令部が講じた唯一の措置は,「将兵に不安をあたえないように」,この兵棋演習の内容を封印することであった.
(同書 P240〜P241)

……もうアホかとバカかと小一時間(以下省略).

 このように,アルデンヌ攻勢の成功は,フランス軍上層部の致命的な失策を重ねた結果だったのです.

CRS in FAQ BBS


 【質問】
 電撃戦であっけなくドイツに降伏したフランスですが,マジノ要塞の中の兵士はほとんど戦わずして降伏してしまったのでしょうか?
 それとも,ある程度の期間は立て篭って交戦し,ドイツ軍にダメージを与えていたのでしょうか?

 【回答】
 当時はマジノ線に10個要塞師団を貼り付けていました.
 ドイツ軍が最初に攻撃を行ったのは,その最西端にあるラ・フェルテ要塞で,此処には,47mm対戦車砲1門, 25mm対戦車砲2門,機関銃2丁から成るブロックと,25mm機関砲2門の隠顕式砲塔と機関銃2丁を有したブロックから成っていましたが,砲兵支援が後方の一方向しか受けることが出来ず,12月15日からドイツ軍は攻勢を開始し,16日に要塞東南の高地を奪取,18日から88mm〜210mmの砲259門を集中し,19日に陥落させています.

 大要塞自体も頑強に抵抗したため,降伏までに39要塞のうち,4要塞,102堡塁中12が攻略されたに過ぎません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/31(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦時,なぜフランスはドイツに敗れたのですか?
 ドイツの攻勢のポイントはわからなくとも,いつかドイツが西から攻めてくると言うのは可能性として十分検討すべき問題であった訳ですから.前線に配置した主力が遊兵と化しても,戦略予備と志願兵を活用して縦深陣を敷き,出血を強いれば,勝てないにせよ負けはしなかったと思うのです.

 【回答】
 仮に志願兵が集められたとしても,使い物になる前に正規軍の主力がダンケルクで消滅してるので,どうしようもない.

 フランスはドイツとの国境地帯に要塞を築き(有名なマジノ線),ここでドイツ軍を食い止めているうちに戦略予備を集結させて,一気に反撃する計画だったが,ドイツ軍はマジノ線を無視して迂回して来た上,鉄道網と道路網を爆撃で破壊されまくって,戦略予備の移動も集結もままならなかった.

 だからと言ってマジノ線に配置した主力を動かすこともできず――そんなことしたら,空いた国境線からドイツ軍の続陣がなだれ込んでくる――,結局,北部配置の部隊でかろうじて集結に成功した部隊だけが,ドイツと戦っていた.
 フランス軍はパリ付近の戦略予備まで北翼に投入して,危機を拡大させてしまった
(ディール計画のブレダ修正案に基づいた対応だから,その辺は戦前からの計画の通りではあったわけだが……

 縦深陣を敷くような兵力の余裕がなく,総司令部は戦況をよく把握できていない上に,通信網が潰されたので戦略規模での指示が出せず,戦略的戦闘は事実上不可能になっていた.

 「俺ならこうした」は後知恵にすぎず,そうできなかったのにはそれなりの訳があるということを,まず知ってくれ.
 毎回薦めるが,「電撃戦という幻」を読むといい.
 まぁ,ドイツの現地指揮官が暴走するとは誰も予想できなかったし,フランスの将軍たちは想定外の事態に素早く対応する訓練を受けてなくて,ただ呆然としている間に勝機を失った.

 ていうか,フランス政府とベルギー政府との連携も悪すぎるのが,一番悪いような.
 ベルギー側はアルデンヌをちゃっちゃと放棄して,ムーズ川後方へ後退するわ,フランス軍のベルギー領進出はベルギー国王に拒絶されるわ,当時のフランス軍的には,空気読めよベルギー・・・という気持ちだったと思われ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ 昨日から幕張メッセで始まった全日本模型ホビーショーですが,マイミクさんのご好意でチケットを頂いたので,業者デーにチョコっと行って来ました.
 〔略〕
 そして,更に驚かされたのが,噂に聞いていたフランス軍歩兵セット

 アクションポーズも決まっていて,ちゃんとシャテルロー軽機関銃兵も付いていて,大西画伯の迫真のボックスアートを見てると,往年の,ドイツ軍歩兵セットを見た時の少年時代のトキメキを,思い出してしまいました(^^;

 この先の展開が楽しみですが,いよいよ仏軍の襟章や記章など軍装解説した記事を,何処かで特集する必要がありそうですね.

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月12日23:58


 【質問】
 1940年のフランス陸軍は,そんなにダメな組織だったのか?

 【回答】
 惨状を呈していました.
 『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3),P.163〜252から,フランス軍が主戦線と考えていた北東方面だけを挙げると,仏軍最高司令官ガムラン大将と東北方面軍司令官ジョルジュ大将は,ガムランがジョルジュの頭越しに命令を下す等の行為が原因で不仲.
 そのため独軍の進攻開始当日は,「ジョルジュのプライドを傷つけない様に配慮」して,具体的な指示を出さず,仏軍参謀総長はパリ東端バンセンヌのガムランの司令部と50キロ以上離れたラ・フェルテ・スー・ジウアルに置かれたジョルジュの司令部を,自動車で往復する事を余儀無くされます.
(参謀本部は両者の中間のモントリに置かれた)

 おまけに司令部に無線機はもちろん,伝書鳩も無くオートバイや自転車の伝令と民間の有線電話(混雑時には不通になりやすい)を使って下された命令は,戦場の実態にそぐわない物だったり.

 とどめにガムランは,当時の仏首相レイノーとも対立していたり.
 ガムランの能力に疑問を持ってたレイノーは,解任を画策するが,国防相兼陸軍相でありガムランの友人でもあるダラディエ元首相が反対し実現せず.
 これにより政府と軍のトップが完全に決裂.

…という状態.
 ほかにも色々あるけど,悲しくなるので後は本書を読んで確認されたし.
 負けて当然だわ,こりゃ.

グンジ in mixi,2008年05月04日16:55


 【質問】
 エバンエマール要塞はどうやって攻略されたの?

 【回答】
 ドイツ軍はヒトラー総統の発案により,エバンエマール要塞攻略とアルベルト運河に掛かる橋の奪取にグライダー空挺部隊の降下猟兵による強襲作戦を実行します.
 要塞に投入された兵力は僅か78名.
 隠密のうちに部隊は降下し,成形炸薬と火炎放射器を使い,要塞のトーチカを次々と沈黙させ,無力化に成功します.
 守備隊が外に出て戦っていれば撃退に成功していたでしょうが,混乱する守備隊は何もできず,次の日の朝にドイツ軍主力が到着し,降服しました.

週刊オブイェクト,2004/12/12


 【質問】
 WW2イタリア軍の,フランス戦での戦いについて教えてください.

 【回答】
 6月初旬,イタリア軍は22個師団,30万人をフランス国境に集結させ,6/10に対仏宣戦布告.
 しかし,直ちに侵攻しようとはせずに敵の出方を伺い,ドイツ軍のパリ占領が伝えられた14日,ようやく一部が国境を越えて数箇所を占領した.
 本格侵攻は21日から始まったが,装備と機動力が不足.
 ピッコロ・サン・ベルナルドとコッレ・デラ・マッダレーナの山岳国境地帯では,フランス軍の頑強な抵抗に遭って,イタリア軍の進撃は遅々として進まず,リヴィエラ海岸地帯ではモナコにすら到達できなかった.

 【参考ページ】
『イタリア軍入門』(吉川和篤他著,イカロス出版,2006/2),p.22-24

【ぐんじさんぎょう】,2010/11/21 20:40
を加筆改修

戦中発行のイタリア陸軍写真集にあった着色カラー写真

 1940年7月2日,トラヴェルセッテ山岳要塞を行進しながら伊軍(左列)に明け渡した仏軍守備隊(右列)で,山岳兵達は伝統のベレー帽を被り,ピレネー犬を連れています.

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月28日19:34


 【質問】
 第二次大戦時,連合軍の「ボレロ作戦」と「ラウンドアップ作戦」違いを教えてください.

 【回答】
 イギリス軍内では1941年9月にはすでに,イギリス海峡を渡ってフランスに上陸する計画案を策定してました.
 これがラウンドアップ作戦です.
 しかし12月にアメリカが参戦すると,その上陸作戦の実行可能性について,米軍の上層部からかなり厳しい意見が提出されました.
 これを元に米陸軍最高司令官マーシャル大将の支持を受けて,米軍の戦力と物資をイギリスに集結させる案がルーズベルト大統領に提出されています.
 これをボレロ作戦と呼びました.
 マーシャルは早期に対日戦に集中するために,上陸は1年以内に行う意向でしたが,チャーチルとイギリス軍首脳はこれに猛烈に反対します.
 最終的にルーズベルトの判断により,チャーチルの希望に沿って北西アフリカ侵攻(トーチ作戦)を先に行うことになり,上陸作戦は1944年に延びることになります.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板


 【質問】
 アイザック・アシモフの雑学本の中で.「1942年に潜水艇でニューヨークに上陸しようとしたドイツ特殊部隊」というのが出てくるのですが,
・これは本当なのですか?
・本当だとしたら,どのような計画で何度くらい行われていたのでしょうか?
・この作戦のことが書かれているほかの本はありますか?

 【回答】
 実話です.1944年にも工作員はアメリカに上陸してますよ.
 西部タイム刊/アメリカの世紀(6)1940-1950パールハーバーの衝撃の198〜199ページ参照.
ISBN4-8275-1228-0
3900円
 たぶん絶版だけど,大きめの図書館にあるよ.


◆◆◆◆アフリカ戦以降


 【質問】
 WW2の北アフリカ戦線の経過を教えてください.

 【回答】
1940.09.13,イタリア軍,エジプトへ侵攻.
1940.12.09,イギリス軍反攻に転じ(コンパス作戦),同地のイタリア軍,壊滅の危機に.
1941年3月,ロンメル指揮するドイツ・アフリカ軍団による反攻
同年4月,ドイツ軍,ベンガジ奪回.
同年5月,英軍,トブルク解囲を目指す(ブレビティ作戦)も失敗.
同年6月,英軍,再びトブルク解囲を目指す(バトルアクス作戦)も失敗
同年11月,英軍,トブルク解囲に成功(クルセーダー作戦)
同年12月,日本参戦により,英軍の進撃停止
1942年1月,エル・アゲイラまで撤退していた枢軸軍,反攻開始
1942年5月,トブルク西方,ガザラの戦いに英軍は敗北して,エジプトまで撤退し,トブルクを枢軸軍が占領
1942.7.1,カイロの西,エル・アラメインに設定された英軍の防御ラインにて,ドイツ軍との戦闘になる(エル・アラメインの戦い)も,ドイツ軍の戦力不足により,戦闘は膠着
1942年8月,英第8軍指揮官にモントゴメリー着任
1942.10.24,英軍反攻(スーパーチャージ作戦)により,枢軸軍は敗退し,リビアへの撤退
1942.11.08,連合軍,モロッコとアルジェリアに上陸(トーチ作戦)
同年5月,枢軸軍壊滅し,以後,戦いはシチリアへ移る…

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/North_African_Campaign
http://adolf45d.client.jp/gunjiww2.html

【ぐんじさんぎょう】,2011/03/20 20:40
を加筆改修

 私も協力者として名前を列ねている,今日届いたばかりのイタリア軍装雑誌「UNIFORMI E ARMI」最新号.
 今号で目を引いたのは,1942年のエルアラメイン戦線の戦跡を訪ねる企画で,今だに砂漠からイタリア軍や英軍の,数々の遺品が出る事が判ります.
 中には地雷まで!
faq110223ys11.jpg

 また,意外と知られていないのですが,戦後のイタリア政府は戦後,エジプト政府に武器や食糧を輸出しており,パネライのダイバーズ・ウオッチからマッキ戦闘機まで,エジプト軍は使用していますが,そのおかげか各地にイタリア軍慰霊碑も建設が許されています.
 左下の巨大な塔は,無名戦士の墓で,映画「炎の戦線エルアラメイン」のラストに登場します.
 右真ん中は有名な激戦地,33高地の基地と慰霊碑.
faq110223ys12.jpg

 そして私が一番好きな記念碑はコレ.
 いわゆるモスクワ郊外にある,“ドイツ軍はここまで来ました”巨大対戦車障害物の記念碑と似た物ですが,アレキサンドリアまで後111kmのリトラネアまで辿り着いた,枢軸軍と伊ベルサリエリ第7連隊を称えた記念碑.
 もちろん戦後,イタリア政府が立てさせたものです.

 碑文曰く,
『運が無かったのだ.勇気(が無かった訳)では無い―1942年7月1日』
 いやー,イタリアの意地ここにあり!ですなー(^^;

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月10日23:32


 【質問】
 中東地帯での戦記ってありますかね?
 一兵士視点でできればWWUが…
 ああいった気候での弊害だとか生活が知りたいです

 【回答】
 航空ファンイラストレイテッド ロンメル戦車軍団DAK

 イギリス軍の戦闘機パイロット視点でよければ
 ロアルド・ダール 「単独飛行」(ハヤカワ文庫)

 アフリカに赴任中に第二次世界大戦が勃発し,空軍に志願した思い出が,デテールたっぷりに描かれている.
 この人,「チャーリーとチョコレート工場」の原作者でもある.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 ちなみに「チョコレート工場の秘密」等の童話作品は,『あなたに似た人』(早川文庫)だったかの解説によれば,ダールが自分の子供に読み聞かせるために書いた,いわば余技で,どちらかといえばダールは奇妙な味の短編小説の書き手として有名.

 また,映画化されたダール作品としては,「チャーリーと……」よりは「ジャイアント・ピーチ」のほうが出来がいい.
 監督は同じくティム・バートン.

消印所沢

「チャーリーとチョコレート工場」
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ドイツアフリカ軍団と聞いて思い出したのですが,帝政時代も含めてドイツ軍が砂漠戦を経験するのは,第二次大戦が初めてですよね.
 ドイツアフリカ軍団はアフリカに到着する前に,北アフリカあるいは砂漠気候と言うものに対しての知識を持っていたのでしょうか?
 砂漠戦のノウハウはあったのでしょうか?
 それとも,実際に北アフリカに到着してから,自分達の経験や才能で,砂漠戦ノウハウを手探り状態試行錯誤で手に入れたのでしょうか?

 衣服や車両の色を薄黄土色にする.
 飲料水を常時確保せよ.
 昼と夜の温度差が大きい.
 暑いからと言って裸になり,直射日光に肌をさらすと火傷の危険.
 これぐらいは事前に分かりそうですが,実際に歩兵や戦車や砲兵をを配置して動かしてとなると,その地形地物がドイツ(演習場)と北アフリカでは,大きく異なるのでどうかなと思いました.

 【回答】
 一応,アラビアではありますが,第1次大戦に顧問としてOsman帝国軍に赴任していたドイツ将校は,多数おりますし,Persiaを縦断して,Afghanistanまで侵攻した人もいます.
 また,Namibiaは従来,ドイツ帝国の植民地であり,そこは砂漠地帯.
 そこで戦った兵士達のノウハウもあります.

 従って,或る程度は砂漠戦の知識はありますし,それをイタリアの知識で補完すると言う感じではないか,と考えます.

眠い人◆gQikaJHtf2:2006/10/05(木)


 【質問】
 WWUのアフリカ戦線に興味があります.
 主戦場となったリビアでは河川はなく,トリポリなど一部を除けば,水資源はほとんどないように思えます.
 20万?程度の兵士を派遣していた独伊は,必要とする水を主にどこから補給していたのでしょうか?
 イタリアあたりから船舶で運んでいたんでしょうか?
 それともオアシスなどが所々にあったりしたのでしょうか?

 【回答】
 砂漠といっても完全に河川がないのではなく,地下水脈の形で存在する.
 その為,海岸付近では地上に現れる.
 海岸付近の都市のあるところには,そういった何らかの水資源があり,そこの住人が生活できるだけの水が得られる.
 砂漠に点在するオアシスでも,地下水脈から井戸で水を汲み上げている.

 とはいっても,主戦場となる砂漠のど真ん中では近くにオアシスがないことも多く,後方の都市からトラックで水を運ばねばならなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦のイタリア軍が,10万で1000人に負けるという大敗を喫したそうなのですが,誰かご存知ありませんか?

 【回答】
 1000対10万は若干大げさですが,1940年2月5日に,北アフリカのベダフォムというところで,約3000名の英軍によって数万のイタリア軍が壊滅したという事実はある.

 (1)1940年12月初旬の一連の「コンパス作戦
 在キレナイカ地方のイタリア軍約25万のうち,約8万人がエジプトに侵攻.
 英軍は僅か2個師団を基幹とする兵力4万人で,反攻に出て,シディバラニ付近で,これを包囲殲滅.

 (2)「コンパス作戦」後の追撃戦〜ベダフォムの戦い
 攻勢主力が殲滅され,英軍がリビアに侵入してきた事態に対し,イタリア軍は未だに数的優位を持つにもかかわらず,海岸道路沿いに敗走状態に陥る.
 この敗走の最中,約4万人が戦死または降服(この間に英軍には1個師団が増援され,総兵力は6万程度になっている).

 さらに,英軍は,一部戦力に内陸の砂漠を突っ切らせ,キレナイカ−トリポリタニアの境界近くの小村ベダフォムにて,海岸道路を封鎖.
 ベダフォムにおいて,この封鎖を突破しようとしたイタリア軍と英軍との間で起った戦闘において,このときイタリア軍はベダフォムに辿り着けた数万人,約100両の戦車以外に重火器を有さず,対するイギリス軍は,約30両の戦車を巧みに利用してイタリア軍を待ち伏せし,イタリア戦車隊を壊滅.
 唯一の重火器を失ったイタリア兵は,イギリス軍に投降.

 こうして,在キレナイカのイタリア軍は,ほぼ殲滅された.

 ただイタリア軍の名誉のために言っておけば,最弱のように言われているイタリア軍だが,勇戦した例がないわけでもない.
 例えば1941年12月,アレクサンドリア港に潜入したイタリア海軍フロッグメン部隊が仕掛けた爆弾により,英戦艦クイーン・エリザベスとヴァリアントが大破着底している.
 この任務を担当したXMAS戦隊はこの他にも爆装ボートによる体当たり攻撃で巡洋艦や貨物船を多数撃沈.ジブラルタル近くで座礁した貨物船を秘密基地にして,そこから出撃した人間魚雷部隊が14隻の船舶を撃沈するという,映画みたいな活躍もしている.
 なおこのXMAS戦隊はイタリア降伏後も枢軸側につき,XMAS師団を編成して終戦まで戦い続けた.
 そして終戦後,捕虜収容所に押しかけたパルチザンによって,多数の隊員が殺害されるという悲劇も味わっている.(「ラスト・オブ・カンプグルッペ」)

 何かと評判の悪いアフリカ戦線でも,包囲され,絶望的な状況になったとき,ドイツ兵があっさり諦めるのに,イタリア兵は最後まで戦意旺盛だったという.これなどはちょっと信じがたい話ではあるが.
 イタリア軍は,自分の戦いじゃないと思うとあっさり降伏するが,ロマンチシズムや自分の男意気を示す為には命を賭けて戦うという感じだろうか.

 最近では,こんな例も.

 フランス公共ラジオによると,イタリアのフラティニ外相は2004年4月15日,イラクで「カタイバ・ムジャヒディン(戦士大隊)」と名乗るグループに拉致,殺害されたファブリッツィオ・クアトロキさんの最期の様子を明らかにした.
外相によると,クアトロキさんは短銃を突きつけられると,頭にかぶせられた袋を外そうとし,
「イタリア人の死にざまを見せてやる!」
と叫んだという.
 カタールの衛星テレビ,アルジャジーラに届けられた映像に基づく情報とみられる.
 また外相は同日,国営テレビで,残る3人の人質を解放させることは極めて難しいとの認識を示した.

http://www.sankei.co.jp/news/040415/kok096.htm


 【質問】
 トブルクの戦いって何?

 【回答】
 1941年2月〜1942年6月,ロンメル指揮下の枢軸軍と,英軍との間で起こった,兵站拠点トブルク Tobruk を巡る争奪戦です.
 ロンメルは1941年2月,ドイツ・アフリカ軍団の指揮官に任命されると,4月にはベンガジを奪回し,英軍のトブルク要塞を包囲しましたが,補給不足などにより陥落させることはできませんでした.
 トブルク解囲を目指す英軍との何度かの攻防――5月のブレビティ作戦,6月のバトルアクス作戦,11月のクルセイダー作戦――の後,1942年5月にトブルク西方のガザラの戦いで英軍を破り,トブルク占領に成功しました.

 【参考ページ】
http://www7.plala.or.jp/kutaragi/page047.html
http://adolf45d.client.jp/gunjiww2.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tobruk
http://www.answers.com/topic/battle-of-tobruk

 とりあえず,トブルク観光ではしゃぐドブスは,海に叩き込んでよし.

【ぐんじさんぎょう】,2009/3/26 02:18
に加筆

 Twisting Toysから1942年トブルク戦線設定の,〔サン・マルコ海軍歩兵〕1/6フィギュアの新作が発売に!
 早速予約注文していたのがこの休みに届いたので,ちょっといじってみました

 今回はカーキ綿生地の熱帯服設定ですが,特徴あるセーラー服や,やはり英軍型ミルス装備をちゃんと再現していて中々の仕上り.
 マスクも顎髭が凄いが,以前の様なアラブ人顔と比べると悪くは無い.

 同社製品で休戦以前は,現イタリア陸軍監修でお墨付きなのですが,今回は海軍モノなのでどうなったのかと思って箱の裏書きを見ると,何と友人の,空挺/ヘルメット研究の大家であるPaolo Marzetti氏が監修しているではないですか!

 どうりで良い出来だった訳で.
 でも綿ベルトが英軍式であればもっと良かったのですが…
 これはルーズパーツを買いましょうか.
 でも何故ベレッタ短機関銃装備なのか?
 おかげで三連弾薬盒に入れる為に10連マガジンしか付かないのですが.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月08日00:51


 【質問】
 ロンメルの処遇についてだが,ヒトラーの贔屓が無ければ将官,それも一方面軍,一軍集団の司令官に成るなんて有り得ない.
 アフリカ戦の推移から見ると,あの人事はまずかったのでは?

 【回答】
 ロンメルも評価が難しい人物らしく・・・・
 英雄として,しばしば過剰なまでに宣伝されたのと,それと反発するような批判が混在している.

 個人的に調べた限りでは,「優秀な前線指揮官」ぐらいだろうか.
 最前線で陣頭指揮してこそだと思う.

 また,一言多い人ではあるみたい.
 ケッセルリングに余計なこと言ったりして批判されているね.

 ちなみにヒトラーの命令は,
「苦戦にあるイタリー軍を援護しろ,現状の防衛ラインを維持しろ」
であって,誰もアレキサンドリアまで攻め込めなんて言っておらん.
 そんなところから,
「ロンメルは兵站を理解していない」
という批判もある.

軍事板,2009/05/07(木)
青文字:加筆改修部分

ロンメル将軍
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ロンメル・アフリカ軍団が補給で苦労したのは,マルタ島を英軍に押さえられて,「トミーの航空機のせいで輸送船沈められまくりだよ・・」 だったから?

 【回答】
 これ自体は嘘じゃないけど,実際の時期とずれている.
 ドイツ軍が一番調子よく進撃してた頃は,マルタ島の脅威はそれほど大きくはなかった.
 手が付けられなくなったのは,アフリカで撤退し出してから.
 この辺りはクレフェルトの『補給戦』(中公文庫,2006.5)に詳しい.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 トリポリ,ベンガジ,アゲダビア,トブルク,アレキサンドリア,ポートサイドおよびカイロとスエズを「点」で見る.
 そんでもってイタリア半島,クレタ島,ギリシャ,スーダンの位置関係みれば,ロンメルがアレキサンドリアを目指す事をもって防御するのは妥当では?
 トブルク手前で踏みとどまってもジリ貧だよ.
 チャドから北上してるフランスはおまけだけど.

 【回答】
 陸上交通路の現実がそれを許さない.

 仮にアレキサンドリア取っても「ジリ貧」.しかも激しく消耗する.
 もっとうまく戦線を整理する方法はなかったかと.
 1942年に入ってからはアメリカも参戦してるんだし,ドイツ側が掌握してない,アフリカの大西洋側から上陸してきたら,北アフリカ戦は終わりなんだから.
 ロンメルが目に見える形の「成果」を欲しがってるように感じる.

 散々既出だが参考文献を読むことをお勧めする.
 もう読んだ上でそれなら仕方ないけど.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 アレキサンドリアを確保できれば,直接補給をアレキサンドリアに海上輸送.
 で,アレキサンドリアを失った英軍の補給拠点は大きく後退←ここ重要

 あとは大英帝国海軍vsルフトヴァッフェの海上補給戦次第に持ち込める可能性が出てくると.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
 全力で奪還してくると思いますが.
 更に中東はフランスと英国が既に根を張っているし(1940年〜41年にケリが付いている).
 しかし喜望峰ルートは遠いなあ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【再再反論】
 大英帝国海軍vsルフとバッフェの場合,せまい地中海はルフトバッフェに味方します.
 ちなみに短期間ですが,マルタ戦で大英帝国海軍の損害はご存知ですよね.
 これをいつまでも続けるのはいかに大英帝国海軍でも不可能です.

 マルタはルフトバッフェが引き上げたから息を吹き返せたのであって・・・
(独はいつも最後の瞬間にふんばりがききませんなぁ.英軍と違って)

 完全に追い出され英海軍が大損害を受けた場合たら,奪還はいつになることやら.
 その分,大陸反攻も大きく遅れるでしょうし.

 ま,どうせ独は東部戦線で大変なことになりますが…
 末期戦こそ独軍の華!うらー!

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大戦中,英軍はリビアのドイツ・北アフリカ軍団司令部にコマンドを送り込み,ロンメル将軍の暗殺を 狙ったらしいですが,本当ですか?

 【回答】
 本当です.

 簡単に解説すると,この作戦はトブルク奪回作戦に先立って敵にショックを与えるという趣旨の元に計画された作戦でした.
 この作戦を指揮したのは,元コマンド部隊総指揮官であったロジャー・キーズ海軍元帥の子息,ジェフレー・キーズ中佐です.
 1941年11月14日,キーズ中佐に率いられた奇襲班はベダ・リットリアにあるロンメルの司令部を奇襲すべく,二隻の潜水艦に分乗して潜入しました.
 17日深夜,キーズ中佐達は司令部と思われる建物に突入しましたが,ドイツ兵の逆襲によりキーズ中佐は戦死.残りの人員は急ぎ撤収しましたが迎えの潜水艦との合流に失敗.
 陸路脱出に成功して41日後にキレナにたどり着いた2名を除いて,他の隊員はすべて戦死もしくは捕虜になってしまいました.

 キーズ中佐は独軍によって丁重に葬られ,死後ビクトリア十字勲章を受章しました.
 ちなみに,彼らが突入した建物は独伊軍の補給本部の司令部で,もちろんロンメルは不在でした.

 私の手元にある本では,バランタイン第二次世界大戦ブックス「コマンド」ピーター・ヤング著がそこそこ詳しかったです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/06/03(金)
青文字:加筆改修部分

アフリカ戦線でロンメルによって作られたニセ戦車
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 WW2の時のドイツ軍将校って北アフリカで,どうして夏でもコート着てるんですか?
 あれって暑くないんですか?

 【回答】
 まず,北アフリカの砂漠でも夏の平均気温は冬よりも高いです.
 ただし,それ以上に昼夜の気温差が大きいため,どの季節であっても冬はコートが必要な気温にまで下がります.
(「寒く感じます」というのは誤り.実際に寒い)
 日中は太陽光を防ぎ通風性の良い服装が適しているため,ドイツの冬を想定した通風性の悪いコートは適していません.
 このため,アフリカ戦専用の被服が用意されていました.

軍事板
青文字:加筆改修部分

海外オークションに,独空軍写真ロットに混じって出ていた写真

 熱帯野戦制帽を被ってHG師団のカフも巻いていますし,右の下士官の上着は,陸軍熱帯服並みのオリーブグリーンに見えるダークカラーで,実に面白い写真です.
 下襟に第一ボタンホールが見えるので,襟を止められない陸軍熱帯服とは異なる,空軍熱帯服である事は間違いないのですが.

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月03日22:10


 【質問】
 WW2ドイツ軍,北アフリカ戦線には数個師団が送られましたが,突撃砲とか駆逐戦車は送られたんですか?
 例えば第21装甲師団の中に,突撃砲大隊なんかが存在するってことですか?

 【回答】
 アフリカ戦線で突撃砲は,ほとんど活躍していません.
 その数少ない突撃砲部隊に,独立中隊「アフリカ」があります.
 アフリカ戦線に投入予定として編成中だった第242突撃砲大隊は,急遽東部戦線に投入されることになりましたが,第1中隊のみは分離されてアフリカに送られました.
 しかし,その戦力は突撃砲6輌に過ぎず,しかもその一部は海没してしまいました.

 チュニジアに送られた中隊は,第90突撃砲中隊として第90砲兵連隊の指揮下に置かれ,さらにラムケ旅団に送られています.
 中隊は最後まで果敢に戦いましたが,武運拙く,43年5月に他の部隊共々降伏しました.

 この他にアフリカに送られた部隊には,第288突撃砲中隊があります.
 この部隊は第288特別部隊の第5戦車駆逐中隊に,1個小隊3輌が配属されたと言われますが,実際は海没したとも言われ,活躍したかどうかは疑問が残ります.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE:2006/10/05(木)


 【質問】
「戦車を高射砲で攻撃するなんて卑怯だ」
「高射砲でしか撃破できない戦車の方がよっぽど卑怯だ」
って何のやりとり?

 【回答】
 ロンメルの副官,シュミット中尉の回想によるようです.

 バトルアックス作戦における208高地の戦いにて,捕虜となった英軍戦車兵が英語で
「私の意見では,高射砲で戦車を撃つのは卑怯ですな」
と言ったのに対し,その訳を脇で聞いた独軍砲兵が,
「なる程.だったら88mm高射砲以外には打ち抜けない装甲の戦車で攻めてくるやつは,それ以上に卑怯だよ」
と言った・・・というのが原典のようです.

 ソースはタミヤのFlaK36/37の説明書です.
 解説は菊地氏による.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【伝説】
 北アフリカ戦での一こま.
 ドイツ軍に隣の戦区のイタリア軍から
「水が不足して戦闘不能になりそうだ! 至急水の救援を!」
って要請が来た.
 ドイツ軍が急いで水を運んで行ってやったら,イタリア軍は将兵総出でパスタを茹でる準備してて
「よかった,これでパスタが茹でられるよ」
と言って,ドイツ軍を唖然とさせたことがある.

 【事実】
 う〜ん,まあ,話としては面白いのですが,それは都市伝説の一種で,イタリア兵も最前線では食事と言えば缶詰めレーションがほとんどでした.

 イタリアはドイツ軍ほどフィールド・キッチンの配備が進んでいなかったので,暖かい食事は兵舎以外はなかった様で,当時の記録を見ても,砂漠の真ん中での食事は,レーションも配備されていましたが補給が滞り,わずかな牛肉缶詰めの配給とビスケットと水だけです.

 ただし,将校はこれにあてはまらず,戦線後方の司令部では豪奢な食事をとっていたので,もしかしたらこれがドイツ軍の戦史本などを通して伝わったのかも知れません.
 兵と将校の待遇差は英軍以上,ロシア軍以下と言えば判り易いでしょうか.

 …だから,パスタを食べれなかった前線の塹壕にいた兵隊達は,戦争をやる気も起きなかったのかも知れませんが(笑

 ここの英文サイト
http://17thdivision.tripod.com/charlottesaxisattic/id26.html
にイタリア軍の糧食について,やや詳しく再現写真付きで解説しています.

 下の項目をクリックすると兵舎での食事や,部隊,個人糧食についても写真付で解説しているので,ご覧ください.

 因に現用イタリア軍では,暖めて食べる缶詰パスタが入ったレーションを個人支給しています.

 それから,なんとなく「砂漠でパスタ」を思うと,日本人ならのんびり大鍋でスパゲッティを茹でている図を想像するのではないでしょうか?
 実は兵舎や国内の演習場で供される暖かい食事でパスタ料理が出る事がありますが,それはペンネやマッケローニの様な短いパスタをトマトとひき肉ソースで煮込んだ料理がほとんどだった様です.
 何故か?
 それはちょっと考えてみれば判る話ですが,それは長いスパゲッティと違って,短いパスタなら手早くおタマでよそって飯盒に分配しやすいからです!

 また,海軍の話ですが艦内でパスタを茹でる際は,海水を汲んでこれに水を半分加えて湧かし,それでパスタを茹でて水の節水に努めていたとも聞きます.

 詳しくは,拙書『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006/2)をご覧ください.

吉川和篤 by mail

 ちなみに,パウル・カレルの「砂漠のキツネ」にも,

 アメリカ軍は戦争の全期間を通じて,兵士にホテル並みの食事を出すことができた.
 ドイツ軍も,時に滞ることはあったが,下宿屋の晩餐程度は可能であったが,イタリア軍には何もなかった.

とあります,
 その後の記述もイタリア軍はそれでも戦い続け,カメラード(戦友)という言葉の意味をイタリア軍から学ぶドイツ人が多かったとあります.

「笹山さん」 in FAQ BBS

faq20i.jpg
faq20i02.jpg

「MC☆あくしず」7号より


 【質問】
 アフリカ戦線でのフォルゴーレ空挺師団の奮戦について教えられたし.

 【回答】
 1942/10/25-11/1,第二次エル・アラメイン戦の最中,パヴィア歩兵師団,アリエテ機甲師団と共に南部戦区を守るフォルゴーレ空挺師団は,兵力比1:13,戦車比1:70という絶望的戦況下に置かれた.
 空挺師団という部隊の性質上,軽武装で戦車など持たず,対戦車砲すら少数しか持たない彼らだったが,火炎瓶や対戦車地雷を抱えて肉薄攻撃を敢行,連合軍の攻撃を数度にわたって撃退するという大奮闘をしてのけた.
 結局,絶え間ない敵の攻勢により大損害を蒙り,他の友軍部隊が後退を始めたため退却を余儀なくされたが,その活躍振りは,後にチャーチルをして「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛せしめるほどのものだったという.

 【参考文献】
『イタリア軍入門』(吉川 和篤&山野治夫著,イカロス出版,2006.2),p.59

【ぐんじさんぎょう】,2009/3/7 22:30

 詳しくは,今月号の「グランドパワー」誌『イタリア空挺部隊全史(前編)』を読まれたし(^^;

よしぞうmaro' in mixi,2009年03月07日 09:56
青文字:加筆改修部分

イタリアの軍装雑誌「UNIFORMI E ARMI」誌より

 目玉は,“M33ヘルメットの子供”としての,M41型空挺ヘルメット解説(写真右).
 額のパッドが無く,後頭部にネックガード布が付いた初期型空挺メットの紹介は貴重です.
 また,次ページに掲載されているカラビニエリ空挺のステンシル入り空挺メットも激レア.

 しかも面白いのは,M33型通常ヘルメットに穴を開けたボール紙を被せて,どの辺で縁をカットして空挺ヘルメットのシルエットになったか検証している点.

 表紙(上写真左)は,パルチザン軍装.
 手にする大戦末期イタリアの珍銃,F.N.A.43サブマシンガンが気になります(笑)

よしぞうmaro' in mixi,2007年04月25日01:10

現代のフォルゴーレ空挺師団
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faq59i02p02.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 キレナイカでのイタリア軍コマンド降下によるB-24爆撃機20機撃破(1943年7月)について教えられたし.

 【回答】
 このコマンドは,空軍空挺コマンドです.

 北アフリカでの英軍コマンド部隊の活動に刺激された最高司令部が,空軍にも陸軍第10連隊と同様な特殊空挺部隊創設を決定,1942年2月にタルクィニアでアルディーティ空軍爆破大隊(ADRA,デ・アジェリス大尉指揮)を編成しました.

 9チーム兵員305名には,敵飛行場制圧と航空機破壊を主眼にして,陸軍と同様に厳しい破壊工作・コマンド戦闘訓練を課し,空挺兵達は4回ずつ地上降下(昼夜)と海上降下(昼夜)行い,さらにグライダー降下,ゴムボートや潜水艦を使った上陸,地上走破及び夜間戦闘を学んだそうです.

 11月,部隊はチュニジアに送られ特殊作戦行動に入り,1943年4月の戦闘で負傷した大隊長に替わりダルマス中佐が指揮を執り,アルジェリアやリビアの連合軍飛行場攻撃を陸軍空挺と共同で行いました.

 そして,7月18日ベンガジ近郊ベニーナ第2航空基地に夜間降下したCargnelとProcida二名は約20機の米B-24爆撃機破壊に成功,その後生きて捕虜になり,二人には後に戦功章が贈られたそうです.

 まあ,普段のダメっぷりと引き換えに,こんな例外的な超人達もいるイタリア.なかなか魅せてくれます.

よしぞう(maro') in mixi,2007年03月12日 10:20


 【質問】
 チョイグイ峠の戦いって?

 【回答】
 1942年11月26日,チュニジアのチョイグイ峠西方で発生した米独戦車大隊同士の戦闘.
 50mm砲3号6両,75mm砲4号7両からなる独軍に対して,米軍はM3スチュワートで25両で対抗した.
 米戦車大隊A中隊が独軍右翼に回り込んだが,独戦車の装甲を貫徹できず,反対に4号の75mm砲で手痛い打撃を受ける.
 しかし,その間にB中隊が背後へ迂回,9両を撃破.
 これは奇襲となり,独戦車残余は退却.追撃した米戦車部隊はドイツ陣地を確保した.
 この戦闘で米軍は戦車25両中7両,独軍は13両中9両を失った.

丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM


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