(データ保存ページ 第三者の閲覧禁止)
アドゥワの戦い
それは,1896 年 2 月 28 日の夕方のことです.
タイガの山の上に5人の将軍が集まってます.1人はオレステ・バラティエリ(Oreste Baratieri)将軍.エリトリアの総督である彼は虚栄心の強い人物でした.
残りの4人は司令官で,それぞれアルベルトーネ(Albertone)将軍,アリモンディ(Arimo ndi)将軍,ダブロミダ(Dabromida)将軍,エレナ(Ellena)将軍.この5人が集まったのは,バラティエリ将軍のテント.エンティツィオ(Enticcio )山にあるこのテントの周りには,アフリカがこれまでに対したことがないぐらい屈強な植民地遠征部隊,イタリア人兵士とイタリア軍に統率された現地民軍とが何千もの野営の陣を張ってます.
目の前には古代帝国のキリスト教世界が広がってて,ここから20マイル離れているアドワでは,かつての敵タイガ地方の権力者メンガシア(Mangasha)軍だけじゃなく,大君主のミニリク(Menelik)皇帝軍,帝国の他の権力者たちが率いるショーア,ゴジャム,ベゲムデル,ヲロ地方の軍や南部の召集兵員で構成された軍も野営の陣を張ってます.
どっちにしても,遠征軍の勝利は目前に迫っていました.新生連合国イタリアは,神のご加護があったことはもちろん,エジプトが弱かったこと,ほんで英国が寛容だったこともあって,紅海の国境地域におさまることができてんけど,彼らにとってこの戦いはエチオピア土着の支配者に決定的な勝利を見せつけるまたとないチャンスやってん. 5 人の将軍は十分に承知してました .この戦いに勝利することは,イタリアにとっての巨大な新しい帝国を意味し,自分たちにとっても栄光をもたらすことやっていうことを.今回のような規模を誇るヨーロッパの軍隊にとって,敗北する,ということは全く考へられへんことでした.ほんで,バラティエリ将軍は決断します.アドワに進軍して攻撃を仕掛けることを.
エチオピア人にとって3月1日は,ただの日曜日ではありません.帝国の守護聖人とあがめられている聖ジョージの祝祭日にあたります.
夜明け前,聖ガブリエル教会では,エチオピアの権力者たちがミサに集まっていました.教会のドアは開け放たれてます.コプト教の司祭枢機卿マテオスが聖餐式のパンを掲げたその瞬間,ライフルの銃声が2発轟きました. パーン,パーン!これは,あらかじめ打ち合わせてあった合図でした.
皇帝の従兄弟で,皇帝が信頼を寄せているハラール地方の権力者メコネンが教会を飛び出していってんけどすぐに戻ってきて,イタリア軍が近づいている,と知らせました.その報告を聞いた皇帝は冷静そのもので,壇上の司祭枢機卿に近づいて二言三言囁やき,すぐに席に戻りました.司祭枢機卿は,右手で十字架を持ち上げ,涙ながらにつぶやきました.「息子たちよ.今日,神の審判が下される.行って信義と王を守りなさい.罪は全て贖われるだろう.」
権力者たちは皆立ち上がって十字架に口付けし,各々の持ち場に散っていきました. 権力者メンガシャ軍はタイガ地方北部に,皇帝軍先導者ゲベイエフ(Gebeyehu)はシェローダ(Shelloda)山の南側に陣を取るマハルセファーリ(Mahal Safari)と呼ばれる中央野営へ,権力者メコネン(Makonnen)はゲベイエフと共にハラ地方の騎兵中隊に,権力者モカエル(Mikael)は町の向こう側にいるヲロ地方のオロモ族の騎兵隊に向かいました.
ワグーシューム・グアングール(Wagshum Gwangul)とラスタ地方のハイル(Hailu),ほんでジャンチラール・アスファーウ(Jantirar Asfaw)は,南部のワグ,ラスタ,アンバセルの召集兵員軍に,権力者マンガシャ・アティキム( Mangasha Atikim)はイフラタ地方軍に,権力者ウールはベッゲミディール地方軍に,皇帝の従兄弟である最高指揮官ベーシャ(Beshah)とレケメクアス・アバテ(Liqe mequas Abate)はショーア地方の皇帝軍に向かいました.この時,ゴジャム地方の君主テケレ・ハイノト(Tekele Haimanot)だけはこの場にとどまり聖餐式を行うことを願ってんけど,皇帝は,「罪はすでに贖われた.遅れは危険だ.」と論したと伝えられてます.ミニリクだけは,聖ガブリエル教会に残りました.後々伝えられたことは,ミニリクはイタリア軍が進軍してきたことに感謝の祈りを捧げてたらしいわ.
その頃,ラトスタット(Latsat)山にいるタイテゥ(Taitu)皇后は,砲兵隊の司令官で,オロモ族の歳若い宦官であるバジロンド・バルチャ(Bajirond Balcha)の指揮する6丁の速射ホッチキス銃の背後に身を構えてました.義理の娘ヲイゼロ・ゼウディテゥ(Woiz
ero Zewditu)と幾人かの付き人とが皇后に付き添って黒い天蓋の下で身を寄せ合ってます.天蓋の色が帝国の色の赤じゃなくて黒なのは,キリスト教徒同士の戦いを悲嘆してのことです.
アクスム地方の統治者が十字架と旗印を携えて,長いホーンを響かせながら皇后の一軍に加わりました.エチオピアで最も神聖な場所であるアクスムのマリア教会は,ソロモンとシバの息子のミニリクI世が契約の箱を持ち込んだ所やねんけど,そこから統治者が聖母マリアの像を持って帰ってきた時,イエスキリストの母が皇后を救いに来られたという噂がエチオピアの民衆の間で瞬く間に広がりました.
夜明け後まもなく激しさを増した戦いは,アドワの 5 つの教会を臨む山道や渓谷を戦いの場に午後まで続きました.その朝には,皇帝軍先導者ゲベイエフが機関銃の弾を受けて傷を負っていました.捕虜になっていたイタリア人,砲兵隊のカルソ中尉が,樫の木の下で皇帝が息絶えるのを目撃したらしいねんけど,マハルセファリのライオンを従えた指揮者たちは,このリーダーが死んだことに動揺して,士気を喪失して逃げてしまいはってん.でも,昼近くには,アルベルトーネ将軍の率いる戦力を増したエリトリア人部隊も孤立して,同様に士気を喪失してもーたらしい.
アリモンディ将軍は殺され,エレナ将軍の部隊は悲惨にも仲間割れをおこし,バラティエリ将軍の部隊は北にあるエリトリア,つまり安全な場所へ襲歩していってしまいました.ほんの3時間前には,16,000人の兵士と52丁の強力な銃を配し.アフリカ大陸で最強と謳われていた植民地部隊の傷ついた味方を置き去りにして.
午後からしばらくの間,皇帝は馬のダグニウーに跨って,君主テケレ・ハイノトが率いるゴジャムの民衆が,未だ無傷のダブロミダ将軍の部隊に最後の攻撃を加える様をじっと見つめてました.5 時になる頃には,イタリア軍は最後の一斉射撃を終えた後,士気を喪って四散していきました.その後,ダブロミダ将軍を見かけたと言う老女は,「例のメガネと時計をしていて,金星章をつけていたね.立派な隊長だったよ.水を欲しがってて,そのときに自分は将軍だと言っていたんだ.」とその時の様子を語ってます.
夕方近くなると,赤いマントをつけた権力者モカエルのオロモ族の騎兵隊から逃げてきた兵士らが続々と集まって,タイガの高地は何千もの脱走兵でいっぱいになったんで,25人の兵士を率いるテゥルカバシュはダブロミダ将軍に追いつき捕まえて銃で撃ち殺し,彼の武器,財布,そしてスカーフを奪い去りました.これは,その1ヵ月後に権力者メコネンが,捕虜となったアルベルトーネにダブロミダ将軍のサーベルとスカーフを手渡しながら話した内容です.
ダブロミダ将軍は,この日に殺されたイタリア軍将校262 人,兵士 4,000 人のうちの一人でした.この戦いはヨーロッパの植民地の歴史で,最も悲惨な戦いだとされてます.アルベルトーネ将軍を含むイタリア人1,900 人と,イタリア軍に同調した約 1,000 人のエリトリア人が捕虜になってんけど,ミニリクの従兄弟の最高指揮官ベーシャの死に激昂した兵士達は,手当り次第に捕虜を殺し,遂には70人のイタリア人とイタリア軍に同調した230人のエリトリア人に手をかけました.
この罪で,ミリニクは皇帝軍先導者レンマをとある山頂に追放しました. エリトリア人の捕虜は皇帝を裏切ったとされ,長い議論の末に反逆者の罪で右手と左足とを切り落とされました.その多くはその夜のうちに死んでしまってんけど,不具となった生き残った400 人は解放されました.でも,イタリア人捕虜に対する待遇は十分なものやったみたいです.イタリア人の捕虜で一番ひどい屈辱を味わったのは,タイテゥ皇后の前に連れ出されて「フニクリ」と「ドルチェナポリ」を歌わされた捕虜やろうな.