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◆◆◆カルザイ政権誕生
◆◆戦史
◆ アフ【ガ】ーニスタン
南アジアFAQ目次

カルザイ大統領と,警護のデルタ部隊隊員

(画像掲示板より引用)


 【link】

「NAVER まとめ」◆(2013/04/29) 【真っ黒い関係】アフガニスタン,カルザイ大統領は,米CIAから「月々のお手当」的なものを
「VOR」◆(2013/04/29) CIA 10年以上前からアフガニスタン大統領に資金供与

「VOR」◆(2013/04/24) アフガン,マグニチュード5.7の大地震


 【質問】
 ボン合意から今日までにおける,アフ【ガ】ーニスタンの問題点は何か?

 【回答】
 遠藤義雄によれば,以下の点が挙げられるという.

 (1)カルザイ政権がアフ【ガ】ーン人の期待に応えられないでいること.
 (2)軍閥の地方支配力が強固になってきたこと.有力地方勢力は,関税を徴収して財政を潤し,中央政権への関税上納を拒絶してきた.
 (3)治安悪化.

 (1)の原因には次のものがある.
 ・国際社会のカルザイ政権への復興資金供与と治安支援が不充分であること.
 2003年3月時点で,約19億ドルが実際に供与されたが,一方,米軍がアルカーイダ壊滅作戦に投入した戦費は,2002年10月までの1年間で合計100億ドルである.
 ・カルザイ政権内部が,カルザイ大統領に代表される近代主義者・テクノクラート勢力と,ファヒーム国防相に代表されるイスラーム主義者・北部同盟勢力の連合体であること.政権内部対立ではファヒーム勢力が優勢になってきている.

 カルザイ政権が中央政権としての威信を高めるには,できるだけ多くの外国援助を獲得して,復興・再建の実を上げること,政権に対する国民の信頼を高めるための権力を一元化することが必要である.

 (2)の原因は,内戦時代の密輸経済と,対テロ戦争における駐留米軍への協力が重なり合った「戦時現象」の色彩が強い.
 アフ【ガ】ーン史の中で中央権力の地方支配を阻んできたのは部族主義だったが,今日における軍閥の中央権力軽視は,したがって,これとは異なる.
 問題解決には,対テロ戦争後を睨んだ長期の復興戦略が求められている.

 (3)の原因としては,国軍や警察の再建遅延に加え,国連信託の国際治安支援部隊がカーブルだけに展開されてきたことがある.
 この結果,地方は治安空白状態で放置され,密輸利権などを巡る軍閥間武力抗争は元より,一旦壊滅状態に追い込まれたタリバーンの復活をも許すことになった.
 カルザイ大統領始め,国連機関・NGO期間は国際治安支援部隊の地方展開を繰り返し要請したが,軍閥の協力を得てアルカーイダ掃討作戦を遂行してきた米軍や,カルザイ政権内部の北部同盟精力が反対してきた.
 国軍再建は数年先のことである.

(遠藤義雄 from 「アフガニスタン――再建と復興への挑戦」,
日本経済評論社,2004/3/5,p.48-50,抜粋要約)


 【質問】
 緊急ロヤ・ジルガ ELJ の功罪は?

 【回答】
 田中浩一郎によれば,以下の通り.

問題点

 ニ段階選抜方式――緊急ロヤ・ジルガ召集特別独立委員会 SIC を国連が指名 ⇒ ELJ 選出手続きを決定 ――を採用したことが裏目に出,買収・脅迫が容易だった.

 代議員数が当初の1451から1650に増大したことにより,軍閥や現役司令官排除が画餅となった.

 元国王の処遇を巡る混乱から,ELJが軍閥の意向に沿って予定通りに執り行おうとする,国連と米国の強い意思を感じた代議員が,少なからずいた.

成果

 行政能力に限りがある暫定行政機構が,ボン合意の規定通り,発足から僅か6ヶ月で間接選挙を実施できた.

総括

 関係者・関係国が,事前のシナリオ通りの演出に固執したことで,その多くが批判を受ける結果を迎えた.
 国家再建のためのプロセスを,国際社会の最小限の関与によって済ませようとする方針は,キャパシティ・ビルディング(人的能力開発)に配慮していることは,疑問の余地がない.
 が,統治機構が再建されていない中では,むしろ作業の遅滞や迷走を招く結果となっている.

 もっとも,手取り足執り行うようであれば,当然ながら傀儡や占領のイメージも強くなる.
 このような自体はアフ【ガ】ーニスタンに限らず,ポスト・コンフリクトにおける政権樹立と復興事業が,必然的に直面するジレンマである.

 詳しくは,「アフガニスタン――再建と復興への挑戦」,日本経済評論社(2004/3/5),p.94-99を参照されたし.

 Jon Lee Andersonも,色々な問題はあったが,「現代アフガニスタンの画期的な事件」だと述べ,アフ【ガ】ーン知識人などの言葉を紹介している.
 以下引用.

 ロヤ・ジルガは,代議制民主主義の実現に繋がると,おそらく非現実的な希望を抱いていた多くの代表者にとって期待外れだった.
 カルザイがいくら「軍閥」排除を約束しようと,旧北部同盟の実力者達の立場はかえって強力になり,一般の改革者は力を失った.
 歯に衣着せぬ,女性問題担当相,シーマ・サマルは,「アフガニスタンのサルマン・ラシュディ」の烙印を押されて失職した.
 しかし,こうした欠陥があったにも関わらず,ロヤ・ジルガは,現代アフガニスタンの画期的な事件であり,アフガン人が経験したことのない公開政治討論会に最も近かった.
 確かに,こんな出来事が起こるとは1年前には誰も想像していなかった.

 私が「夢の街」執筆のためインタビューした,失意の淵に沈む,カブール大学の元ジャーナリズム学部長,ムハンマド・カゼム・アハン教授は,大学からの要請で復職し,ロヤ・ジルガ委員会の9人のメンバーにも選ばれるという素晴らしい栄誉を授かった.
 私がアフガニスタンを経つ少し前に,新しい絨毯を敷き詰めた彼の自宅を訪ねると,彼はにこやかに言った.
「この年齢では結局,ここにこうして,役立たずでいるしかないのだが,私は祖国の役に立つ機会に恵まれた!
 どんなに嬉しく,誇りに思うか,言葉にできない.
 私の人生が再び始まり,私は生まれ変わった」

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.510-511


 【珍説】
井上ひさし ところで僕らは,つい,いわゆる近代国家,国民国家は良いということが頭にあるので,早くアフガンも民主主義というものを導入して欲しいという願いがあります.
 しかし,ちょっと待てよという気持ちもあるのです.我々がそうだからといって,それがアフガニスタンにとっていいのか,どうか.東京での復興会議も結局,民主主義がオールマイティに善だという前提で話が決まっていきましたが,世界の中に,全く昔風の国の経営をやっている国があってもいいと思うのですけれどね.

(ペシャワール会・中村哲医師「ほんとうのアフガニスタン」巻末対談,P.174)

 【事実】
 第1に,東京でのアフガニスタン復興支援会議は共同議長総括文書にも見られるように,欧米ふう民主主義を押しつけようとするような箇所は,これといって見当たらない.
 実際,この会議の後に,暫定行政機構によって開催されたのは,アフガニスタンの伝統的なロヤ・ジルガであり,設置されたのは同じく伝統的なミリ・ジルガ(国民議会)である.
 それでも,「民主主義がオールマイティに善だという前提で話が決まっていきました」と言いたいのならば,具体例を挙げるべきであろう.
 オールマイティに善だとされたのは,「タリバーンなきアフガニスタン」という状況だけである.

 国際開発センター主任研究員,田中浩一郎は,ボン合意自体は次のように評価している.

――――――
 ボン合意は,総選挙によって正式政権が成立するまでの2年半の間,段階的に統治権限の正統制を高めていくプロセスに他ならない.平和の回復と安定という目的を確認し,正式政権の設立という目標を定め,達成のための手続きを列記しているのである.
 ポスト・コンフリクトにおける権限委譲と政権移行を考えるに際し,これは不可欠なアプローチである.
 ボン合意は,『アフ【ガ】ーン・オーナーシップ』という表題の下で和平に取り組むアフ【ガ】ーン人の主体性を重んじ,彼らの自助努力に委ねようとする精神に満ちており,国際社会が支援や関与を行う場合でも,できる限り補佐的であるか,補完的な役割に止めるように設計されている」

「伝統的な部族社会が生き長らえる多民族国家のアフ【ガ】ーニスタンにおいて,西欧的な手法である民主主義や選挙は相容れないことから,成功は難しいとの評もある.
 また,国連を始めとする国際社会が,アフ【ガ】ーン人に対して自分達の価値観である民主的な選挙を押し付けたという見方もできる.

 しかしながら,アフ【ガ】ーニスタン内戦の終結のためにボンに招聘されたアフ【ガ】ーン人太刀が,タリバーン時代からの和平活動を通じて国際社会の監督の下で行われる選挙を,伝統的なロヤ・ジルガの開催と共に掲げていた経緯を忘れるべきではない.※13

 もちろん,その平和活動に対する政治的・経済的支援の取り付けのために,外国在住歴が長い一部のアフ【ガ】ーン人達が,選挙という手続きを盛り込んだ意図は否定できない.
 そのような戦術に基づいていたとしても,ほかならぬアフ【ガ】ーン人が,新政権に対する正統性を付与するための手段として選挙を主張した以上,合意を形作る上で『選挙』という手続きが排除されるわけにはいかない事情が存在したのである.

 ※13 例えば北部同盟は,"Position Paper by the Islamic State of Afghanistan Regarding a Political Settlement of the Afghan Crisis"を2001年夏までに用意し,ロヤ・ジルガと選挙の2段構えによる政権構想を提唱していた.

――――――「アフガニスタン――再建と復興への挑戦」,日本経済評論社,2004/3/5,p.89-91,抜粋要約)

▼ ちなみに『ペシャワール会会報』vol.3 (1983年),pp.3-4では,中村医師がパキスタンの病院(ミッション系)に派遣されるに際し,その出発直前または直後くらいのころに,
「キリスト教宣教はイスラーム弱体化のためであり,ミッション病院は現地住民懐柔策」
といった旨,書いている.
 たしかにそういう一面もあるだろうが,これから仕事場にする病院について,わざわざそんなことを書いているところを見ると,どうも初めから,欧米に対するある種の偏見があるのではないか?と思わせる.▲


 【質問】
 新紙幣導入はどういう経緯で行われたのか?

 【回答】
 以下の記事によれば,無統制な紙幣増刷と,ドスタム紙幣などの並立を防ぐため.

アフガン中央銀総裁 1年以内に新紙幣導入
インフレに歯止め/現行紙幣全面廃止/外銀へ門戸開放も
部分的ドル化は見送り決着

 【カブール21日=鈴木真】アフガニスタン再建の重要課題の一つである通貨アフガニの信認回復策について,中央銀行のアハディ総裁(五〇)は産経新聞との会見で、一年以内に新紙幣を導入し、現在の紙幣を廃止す ることを明らかにした。
 インフレ高進の原因となっている紙幣増刷を防ぐため、政府会計に米ドルを使用するよう国際通貨基金(IMF)などが勧告していた問題では、財政規律を守ることを条件に「部分的ドル化」を見送ることで決着した。

 アフガニは長い戦乱と経済困難、無統制な紙幣増刷などのために価値が下がり続け、現在は一ドル=約三万七千アフガニまで下落している。紙幣の種類も中央銀行発行のものと、北部の軍閥、ドスタム将軍派が独自に発行した紙幣の少なくとも二つがあり、混乱に拍車を掛けている。

 このため中央銀行は現在の紙幣廃止とアフガニの新札導入を決めた。時期は「早ければ五、六カ月後、遅くとも九−十二カ月後」(アハディ総裁)としており、現紙幣はすべて新札と入れ替える。中央銀行札は現在、ロシ アで印刷しているが、新札をどこで印刷するかは明らかにしなかった。

 また、アフガニスタンでは財政赤字補填(ほてん)のための紙幣増刷が続き、インフレの大きな原因となっている。「部分的ドル化」は、政府の歳入と歳出に米ドルを使用し紙幣増刷を防ぐことを目的としたもので、IMFや世界銀行、米国、欧州諸国などが一年間をめどに採用を勧告していた。

 しかし暫定行政機構はIMFなどに対し、歳出は歳入に見合った額に留めると約束し、二週間ほど前に出した予算に関する政令の中で明記した。
 その結果、「部分的ドル化案は立ち消えになった」(アハディ総裁)。
 ドルを部分的に使用しても、その分、通貨供給量が増え、やはりインフレを招くとの主張も「部分的ドル化」の採用を見送った理由の一つという。

 アハディ総裁は抜本的な金融改革の一環として外国銀行への門戸開放を検討していることも明らかにした。すでにイランやパキスタン、アラブの銀行から支店開設の申請が寄せられているとしており、ドイツの銀行も関心を示しているという。

http://channel.goo.ne.jp/news/sankei/kokusai/20020422/KOKU-0422-04-02-24.html
翻訳 HN "533"

 アハディ中央銀行総裁は,旧紙幣の新紙幣への切り替えがいかに大変であったかを,旧紙幣の焼却作業を例に私に説明した.
 なにしろ専用の焼却場などないし,信頼できる者が見張っていないと,旧紙幣も焼かれる前に盗まれかねない.
 また,新紙幣を全国に輸送するのも,途中の治安を考えれば大変危険を伴うものであった.
 総裁自身,3〜4ヵ月に渡った新紙幣導入作戦の間,殆ど休むことなく直接,作業の指揮に当たったと述べていた.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.63


 【質問】
 関税収入の,政府への納付状況は?

 【回答】
 軍閥との政府との合意にも関わらず,2002年度では6分の1以下しか納付されておらず,軍閥の財源となっている.
 そのため,中央政府では官吏への給料未払いなどが起こっているという.

 以下引用.

 2002年の関税収入は全土で5億ドル以上であったが,中央政府に納付されたのは8000万ドルでしかなかったとされている.
 カルザイ議長は,2003年5月20日に州知事や有力軍閥をカーブルに召集し,中央政府への関税収入納付を合意させた.
 ヘラートのイスマイル・ハーンは,その直後に2000万ドルを中央政府に納付した.
 また,北部のドーストムは,アフガニスタンと隣国ウズベキスタンを結ぶ「友好の橋」のたもとにあるハイラタンの監視所を中央政府に引き渡した.
 しかし,ヘラートの関税収入は年間で3億ドル程度とされている.イスマイル・ハーンが納付したのは,ごく一部でしかないわけである.

 3月21日を年度初めとする2003〜04会計年度において,カルザイ政権は一般会計予算を3.5億ドルとし,その内の2億ドルは自力で確保することを見込んでいる.
 この目標を達成するには,有力軍閥が今後とも中央政府への関税納付を実行していくのかどうか,そして最終的には中央政府職員による徴税システムを確立できるのかどうかが鍵となる.
 5月20日の会議の裏には,中央政府の国庫が4月の時点でカラッポであり,公務員への給与支払いが滞っていたとの切羽詰った状況があった.
 カルザイ政権は関税納付合意で一息ついたわけである.
 しかし,それから3ヶ月しか経ていない9月から10月にかけて,カーブルでは解雇された兵士による未払い給与の支払いを求めるデモが発生している.
 歳入確保に向けての将来は,有力軍閥による関税収入の中央政府納付への合意にも関わらず,必ずしも明るくないようである.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.75-76

 やはり,強制力を伴わない内は,関税納付など期待できないだろうが,強制力を伴うためには,国軍再建が必要となる.
 ところが,国軍再建のためには,税収などの収入が必要となる.
 道路や橋の補修も必要だろうが,何よりもまず,国軍再建を果たすべきではないだろうか.
 ちなみに,極東の某島国では,国軍再建への援助は憲法違反だと言って反対した野党があったそうだが(笑).


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンに対するアメリカの施策は成功するか?

 【回答】
 元CIA,ミルト・ベアデンの見方に拠れば,問題を抱えているという.
 以下,抜粋要約.

「アフ【ガ】ーニスタン史の第一人者,故ルイス・デュプリーは,イギリス軍のアフ【ガ】ーニスタンでの失敗の要因を4つ挙げている.
 軍隊を投入したこと.
 人気のない首長を元首につけたこと.
 イギリス寄りのアフ【ガ】ーン人が,他のアフ【ガ】ーン人を虐待するのを黙認したこと.
 部族の長に支払う援助を減らしたこと.

 イギリスは,このような致命的過ちを,大して改めもせずに1839年と1878年に犯し,1世紀後,ソビエトも同じ過ちを犯した.

 アメリカは,人気のない首長を元首につけてはいない.アメリカが選んだアフ【ガ】ーンの指導者,ハミド・カルザイは,候補者の中でも一番異論の少ない選択だ.
 だが,常に混沌としているアフ【ガ】ーンの政治は,現職指導者だけでなく,指導者の地位を狙うライバルによっても左右される.
 タリバーンが去った後の真の権力者はカルザイではなく,暗殺されたマスードの後継者,モハメド・カシム・ファヒーム陸軍司令官だった.
 ファヒームはパンジシール出身のタジク人で,残酷だと言われていた.彼はデュプリーの3番目の指摘に明らかに反し,アフ【ガ】ーンの他の部族を甚だしく虐待した.無謀にも多数派のパシュトゥン人に酷い扱いをした.
 日が経つに連れ,ファヒームはパシュトゥン人やその他の民族に,アメリカが元首に据えた評判の悪い首長と見られるようになった.

 最期に,アメリカとその同盟国が大規模な復興援助を約束し,それを未だに実行していない――40億ドル以上を約束したが,まだ実行されていない――のは,19世紀のイギリスが,部族長へ支払う租税を減額したのと同じことだ.
 このように,アメリカとその同盟国が国の復興に乗り出さないことが,地方の情勢が不安定になっている主な原因だ.

 希望がないわけではない.アフ【ガ】ーニスタンが立ち直るかどうかは,アメリカがパンジシール渓谷のタジク人だけでなく,以下に上手く全アフ【ガ】ーニスタン人の協力体制を確立するかにかかっている.
 だが,失敗すると,この国は再び国際テロ組織の拠点になるだろう.

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」下巻,ランダムハウス講談社,
'03,P.402-403)


 【質問】
 2004/01/04制定の新憲法はどんなものか?

 【回答】
 基本的には王国時代に制定された旧憲法を踏襲し,王制を廃して大統領権限を強化,さらにターリバーン時代の反省に立って,公用語や女性の権利の面で若干進歩派に譲歩した内容となっている模様.
 以下引用.

The constitution established a strong presidential system, but some checks on the president's power, that weren't included in the most recent draft, were added. More conditions have been placed on the president's ability to choose appointed lawmakers, for example, and Parliament was given veto rights over senior appointments and some policy decisions.
 憲法は、強力な大統領制を定めたが、最も新しい草案には含まれていなかった 大統領の権力に対する制限が何点か加えられた。例えば、指名議員を選ぶ大統領 の力により多くの条件が付けられたり、また、議会は閣僚級の指名や政策決定の 一部に対して拒否権が与えられた。

〔略〕
Although Pashto has traditionally been the only official language, under a compromise, Dari will also be an official language, while other minority languages will be officially recognized in the regions where they are spoken.
 伝統的にパシュトゥー語が唯一の公用語 であるのだが、妥協の結果、ダリー語も公用語になり、他の少数言語も使われる 地域では公用語と認められることになった。

The constitution established a system of civil law, but no law "can be contrary to the beliefs and provisions" of Islam. This law isn't regarded as a problem in and of itself, but leaves open the opportunity for strict interpretations of Islam by the chief justice of Afghanistan's highest court. Current Chief Justice Mullah Fazl Hadi Shinwari is considered fairly conservative, having banned cable television and boys and girls studying together. Many observers of Afghanistan fear Saudi-backed Abdul Sayaf, an Islamic fundamentalist, could be next in line.
 憲法はまた,民法の体系を定めたが、いかなる法律もイスラムの「信条と契約に相反することはあり得ない」ものとした。この憲法には、本質的にも、理の当然とし ても、問題視されるものはなく、それは、アフガニスタンの最高裁判所の裁判長 によってイスラムの厳しい解釈が施される余地を残している。
 現在の裁判長であ るファジル・ハディ・シンワリ・イスラム法裁判官(ムラー)はかなり保守的とみなされており、ケーブル・テレビや少年と少女がともに学ぶことを禁じている。
 アフガニスタン・ウオッチャーの多くは、サウジアラビアが支援するイスラム根本主義者、アブドル・サヤフ(訳注:フィリピンのイスラム過激派組織アブサヤ フはこのアフガン人の名前から取った)が次に控えている可能性があると心配している。

More positively, the delegates upheld some important universal rights. Women have been recognized as equal citizens, and female representatives will be given 25 percent of the seats in the lower house of Parliament. In a country where women would otherwise have no or very limited opportunities to participate in the democratic process in the near future, this provision is important.
 さらに明るい面を見れば、代議員らは、いくつかの重要な普遍的権利を支持し た。女性は平等な市民として認められ、女性の代表に下院の議席の25%が与えら れる。
 こういうことでもなければ、近い将来に民主主義のプロセスに参加する機会が全くないか、あるいは、それが大きく制限されるであるような国で は、この条項は重要である。    

ワシントン・タイムズ 2004/1/11)


 【質問】
 ブラヒミ国連アフ【ガ】ーン特別代表は,どんな人物なのか?

 【回答】
 アルジェリア人で,イスラム教に通じ,相手の話にじっくり耳を傾ける性格であるという.
 また,カルザイ大統領には細かいところまで助言していたという.
 以下引用.

 ブラヒミ代表はアルジェリア人で,同国の外相を務めたとき,紛争の坩堝であるアフリカで諸々の紛争解決に関わり,経験と実績を積んできた.
 1994年の南アフリカの総選挙を管理・監督する国連の代表として,アパルトヘイトを廃止し,黒人政権の樹立を実現する大事業に功績を上げた.
 幸い私は,代表からそんな過去の話を聞く機会がよくあった.
 代表は,南アフリカの場合は,黒人と白人の2者の対立であったが,アフガンの場合は,国内勢力も,また,それを支援する外国の勢力も多々あり,その関係は極めて複雑で,民族和解は遥かに難しいと言っていた.
 そんなアフガンでこれまでなんとか上手く和平のプロセスが進んでいるのは,国連の役割,なかんずく,ブラヒミ代表の指導力に負うところが極めて大きい.

 〔略〕

 ブラヒミ代表の存在は,アフガンの平和と復興の実現のために,本当に幸運であった.
 代表の周辺には,いつも人の輪がある.
 中でも,国連の専門家に加えて,財務相となった世界銀行出身のアシュラフ・ガーニ氏,アメリカ人で学者のルービン博士,パキスタンのジャーナリスト,アフメド・ラシード氏など,アフガンに造詣の深い有能な専門家が,知恵袋として代表のそばにあるのをよく見かけた.

 代表自身,タレバン時代も国連事務総長代表としてアフガンに関わり,かつまた,アルジェリア人としてイスラム教に通じ,アラビア語を通してアフガン現地語にもある程度理解がある上に,人の話によく耳を傾ける.
 これ以上の適任者は見出し得ない.
 私のアフガン在勤中も,多くの日本からの来訪者をブラヒミ代表のところに案内したが,代表は決まって相手の話にじっくり耳を傾け,相手の問題意識を聞き取ってから丁寧に返事をしていた.

 代表はボン合意を纏め上げ,しかもそれをアフガンの現場で一つ一つ,不慣れなカルザイ大統領を助けながら,実現に向かって引っ張ってきた.
 カルザイ大統領には,相当細かいことまでアドバイスしていたようである.
 暫定政権の発足式にも舞台上にその姿があり,高揚したカルザイ大統領とは反対に,本当に心配顔であった代表の姿は,印象に残っている.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.70-71


 【質問】
 ジョン・アルノーUNAMA(UN Assistance Mission in Afghanistan 国連アフ【ガ】ーニスタン支援団)次長は,どんな人物か?

 【回答】
 語学の天才.明晰な頭脳の持ち主で,緻密な論理を実に見事に説明してのける人物であるという.
 以下引用.

 フランス人であるが,癖のない英語を見事に駆使する他,ロシア語の通訳であったこともあり,ロシア語,さらにはスペイン語と,いずれも母国語並みとのことで語学の天才である.

 もともと政治家であるブラヒミ氏は,細かい点によく気のつく人ではあるものの,仕事上の細々したところまで首を突っ込む人ではないし,またそんな暇もない.
 それを裏で支えたのが彼である.
 明晰な頭脳の持ち主で,緻密な論理を実に見事に説明してのける.
 ジョン・アルノーが国連事務総長代表に昇格してからのことであるが,選挙時期をどうするか議論したとき,大統領選挙と議会選挙を同時に実施すべきことを主張して譲らなかった私に,彼は,国連としては信頼される選挙を実施することが重要であり,そのための準備作業を一つ一つ積み上げてきた,その結果,秋の大統領選挙実施は可能であるが,より複雑な議会選挙については,とても準備が間に合わず,来年に遅らさざるをえないとじゅんじゅんと説いた.
 議論に一点の飛躍もなく,最後は私も同意せざるをえなかった.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.74-75


 【質問】
 ハリルザード駐アフ【ガ】ーニスタン米大使はどんな人物か?

 【回答】
 マザリシャリフ生まれ.米国へ移住.長身で声も大きく,また,冗談が上手いという.
 以下引用.

 もともと彼はアフガン人である.現地の言葉もでき,人脈,土地勘もある.
 公務員の父親の仕事の関係でマザリシャリフに生まれるが,米国への移住後,そこからベイルートのアメリカン大学に留学した.
 そこでの同級・同窓生がアシュラフ・ガーニ財務相,アハディ中央銀行総裁,パシュトン・カンダハール知事などであることは既に述べた.
 長身で声も大きいから,どこにいても目立つし,また,冗談の上手い大使の周りには,どこでも人の輪ができる.
 カルザイ大統領も,元はアフガン人のよしみもあって,ハリルザード大使にべったりの感じである.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.82-83

 ハリルザード大使は,当時は民間人として,パイプライン構想の実現を目差して,タレバンとの協力関係構築を試みている.

 〔略〕

 ブッシュ大統領の中東地域担当補佐官であるハリルザードは,ボン会議の取り纏め,およびそれ以降のアフガンの政治プロセスの実施・促進の原動力となっていた.
 彼は,同じく担当地域内のイラクへの攻撃とサダム政権崩壊後,イラク和平にも関与せざるをえなかったが,アフガン情勢は,一人の専門家がイラクと同時に見るといった簡単な状況ではなかった.
 もちろん,イラク情勢こそ片手間にできる状況ではありえなかった.
 そこでハリルザードはアフガン専任となり,さらに,03年11月には,ワシントンに勤務して頻繁に現地に出張する従来の形から,大統領特使兼大使として現地に赴任する.

(同,p.80-81)


◆◆カルザイ関連


 【質問】
 カルザイ政権は傀儡政権か?
 以下のように書いてある本もあるが.

――――――
 現在のカルザイ政権は事実上はアメリカの「かいらい政権」に過ぎず,戦争被害の調査などはいっさい行っていない.民間人が米軍に殺されても抗議も調査もしない.
 米軍は被害者への補償はしていない.それどころか,調査の妨害をしている例がある.

――――――アフガニスタン国際戦犯民衆法廷(ICTA)実行委員会編「アフガニスタンの戦争犯罪」(耕文社,2004/7/17),p.54

――――――
 所詮,アフ【ガ】ーンのカルザイ政権なんて傀儡政権なんだから,アフ【ガ】ーンにいる他国の軍隊を占領軍,侵略軍として認識し,カルザイ政権を打倒し,外国軍を領内より駆逐せよと考えるのは,思考的にはごく自然なものだろう.
 また武器を手にパルチザンに入るのも当然のいきさつであり,そのパルチザンがタリバンであるというだけの話.

――――――経済板,2010/09/12(日)

という意見はどうだろうか?▲

 【回答】
 カルザイが傀儡かどうかであるかですが,暫定大統領選出時点までは,そう見なすのは難しいでしょう.事前にパシュトゥン人候補者を一本化する過程において,ザーヘル・シャー元国王が立候補を降りた以外,不明瞭な点は見つかりません.

 特殊部隊の護衛がつかなければならないのは,アルカーイダという老練な組織によるテロの危険が高いためで,仮に米軍が去ったからといって,直ちにカルザイ政権が崩壊することはないと予測されます.

 また,支持率は,その政権が傀儡であるかどうかとは無関係です.
 支持率の極端に低い,傀儡ではない政権はいくらでも存在しましたから.
 我が国にも森政権や宇野政権といった例がありますし,金正日の支持層は現在では,いわゆる「核心階層」のその上層部のみであると推測されています.

 ユノカルにかつて所属していたことを,傀儡だという根拠にされることもありますが,それは,ちょっと前まで終身雇用制だった日本の感覚で見過ぎているのではないかと考えられます.
 それならば,かつてパキスタンに逃亡したこともあるマスードは,パキスタンの傀儡か?ということになってしまうでしょう.

 しかし傀儡ではないかといえば,そうではありません.
 現在における政権内最高実力者は実はファヒーム国防相(マスードの後継者)であり,実質ファヒーム政権となっております.
 すなわち,カルザイはタジク人派閥の傀儡と見なしたほうが良いかもしれません※.

 ドスタム、イスマイル・【ハ】ーン、グル・アガら有力軍閥ひしめく谷間の弱小軍閥の一人であり、カルザイ政権はそれら有力軍閥の微妙なバランスの上に成り立っているという見方もできるでしょう。
 ちょうどアフマッド・シャー・バーバエ・ドラーニが,ドラーニ族の9つの亜族の間のバランス人事で王に選ばれたようなもので。

(初心者質問スレッド in 軍事板 &そこに貼られたリンク先

 ※その後の大統領選において,旧北部同盟は分裂して大敗したため,政権におけるタジク派閥のカルザイへの影響力は大きく後退したという見方もあります.

 タリバーンに同情的な山根聡も,カルザイについては肯定的意見を書いている.

「暫定行政機構の議長に選ばれたハミード・カルザイは,1996年のタリバーンによる暫定政府樹立時,国連大使に着任予定だった.
 パシュトゥン人ドラーニ族のカルザイは,祖父が国王時代に国会議長だった.
 彼自身はアメリカやインドへ留学し,1992年のラバニ政権時代に外務次官を務めた.
 タリバーンが台頭するとタリバーン支援者となったが,タリバーンに父親を殺害されたため,タリバーンを離れた.
 アメリカの空爆が始まった頃は,CIAの協力を得てタリバーン分裂工作を開始.途中,タリバーンに身柄を拘束されかける危機もあったが,その頃,北部同盟がカンダハールを陥落させた.

 カルザイはドスタム派を除く主要勢力の全てを渡り歩いた人物で,主要派閥の声を吸い上げる適格者と言える.
 アフ【ガ】ーニスタンにこのような変わり身の早い人物がいたことが,結果的には幸いであったといえよう.
 彼が公式の席で,ドスタム派から貰ったコートを羽織っていたことは,ドスタム派への配慮であろう」

(山根聡「アフガニスタン史」,河出書房新社,2002/10/30, p.223)

 そもそも,国際支援のシステムがアメリカだけに偏らないようになっています.

 国連によるアフガン介入では,東ティモールのように完全統治という形ではなく,国連は一歩も二歩も退く形になった.
 カルザイ暫定政権をあくまで主体とし,国軍建設をアメリカ,警察復興をドイツ,司法整備をイタリア,麻薬対策をイギリスという形で2国間援助で実施する計画である.日本の担当はDDRだった.

伊勢崎賢治 from SAPIO 2004/6/23号,p.24

 このような多国関与のシステムでは,どこか一国の傀儡政権になるのは非常に難しいと言えるでしょう.

 なお,ICTAの後段部分については,
「主張をするならソースを出そうね」
としか言えませんな(笑).

カルザイ大統領

(画像掲示板より引用)


 【珍説】
 アフガニスタンに新しく樹立された暫定行政機構の代表ハミード・カルザイは,ブッシュ政権によってまるで手品のように任命された.
 そのカルザイは,サウジアラビアの「アル・ワタン」紙によると,80年代以来CIAの隠れた要員であった.
 カルザイはまたターリバーンの支持者であり,ユノカル社のコンサルタントであった.

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.245)

 【事実】
 「報道があった」というだけでは,それが事実であるという証明にはなりません.
 その報道がどういう根拠に基いているのかも述べてほしいものですな.
 カルザイ=CIA説は,アフ【ガ】ーン空爆に批判的な人の中から少なからず聞かれますが,説得されるに足るだけの論拠を備えた説は,寡聞にしてまだ見たことはありません.
 80年代のアフ【ガ】ーンにおけるCIAの弱体ぶり(なんせ,911テロの後に,既に引退していたエージェントを呼び戻していたくらい※.つまり現役エージェントの中に,役立つ人材がいなかったってことですな)を考えますと,そのような説は信憑性が薄いのですが.

 弱体ぶりについては,例えばこんな話も.

 アフガン内戦は沸騰しようとしていた.
 私は,ダリ語とパシュトゥン語(原文ママ)の話し手の派遣を繰り返し要請した.タジキスタンへ洪水のように流れ込む難民から話を聞きたかったのだ.彼らは情報の宝庫だった.
 何人かをスカウトして国境の向こうへ送り返し,アフガン情勢を報告させることも可能だった.
 ところが,ダリ語やパシュトゥン語の話し手などどこにもいないと一蹴された.
 CIAはもうアフガン情報の収集をやめたので,そういう言葉は必要ないとまで言われた.
 本部は代わりに4人編成のセクハラ問題指導チームを送ろうと言ってきた.
 それを断ると,私の名前にもう一つ罰点が加えられた.

ロバート・ベア著「CIAは何をしていた?」(新潮社,2003.2)

 また,ターリバーンの支持者だった(のちに幻滅して離脱)ことが,何か問題があるとも思えませんな.
 当時の状況を考えますと,多少なりでも国の行く末を憂う人間ながら,世直し運動(だと,最初は思われていた)に参加したくなるのも無理はないでしょう.
 不幸にして,ターリバーンの実態は,年を経るに従って,世直し運動から徐々にカルト宗教運動へとシフトしてしまったわけですが,それはカルザイの責任ではありません.

 ユノカルのコンサルタントであったことも,しばしば陰謀論めいた論調の中で語られますが,それは,ちょっと前まで終身雇用制だった日本の感覚で見過ぎているのではないかと考えられます.
 それならば,かつてパキスタンに逃亡したこともあるマスードは,パキスタンの工作員か?ということになってしまうでしょう.

 佐々木の見解は総じて,説得力に欠けると言えるでしょう.

※ボブ・ウッドワード著「ブッシュの戦争」(日本経済新聞社,2003.2)より


 【質問】
 カルザイはどんな性格か?

 【回答】
 しばしば優柔不断と評されるほどの気配りの人であるという.
 以下引用.

 大統領は,よく気のつく,心配りの人である.
 緒方代表が2003年7月に訪問したときには,宮殿の中庭で会食をしてくれたが,大統領は野菜サラダが出ているのを見ると,緒方代表に,旅の人には生野菜は良くない,お腹を壊すので食べないほうがいいと言っていた.
 また2004年7月,大統領が,私とアルノー国連事務総長代表および米国大使を呼んで,ファヒーム国防相を次の副大統領候補から降ろそうと思うが,どうかと聞いてきたとき,同席していた大使館の女性書記官が冷房機の前の椅子に座っているのを見て,そこでは身体が冷えてしまうからと前の席に誘うなど,大変な心配りをする人である.

 〔略〕

 政府機構や軍隊・警察機構も未成熟で頼りにならない中で,デリケートな民族バランスに常に配慮しながら物事を進めなければならず,さらには,気配りをし過ぎるせいもあってか,大統領は政治家としては優柔不断の印象が強いが,3年の経験と苦労の結果であろう,ずいぶんと指導力を見せるようになった.
 副大統領候補からファヒーム国防相を引き降ろす決断は,その最たる物であろう.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.200


+

 【質問】
 カルザイはタリバーン支持をなぜやめたのか?

 【回答】
 カルザイ自身は以下のように説明している.

「タリバンが力を持つようになった1994年―そうです、私は彼らを支持しました。むしろ私は一番最初から彼らを支持していました。私は旧ソ連に対する聖戦の日々から彼らを知っていましたし、彼らは良い人たちでした。
 しかし彼らがアフガニスタンの舞台に現れてから5か月か6か月たったとき、私たちは彼らがどんどんアフガニスタンの価値感や現実に対して異物と化してきたことを悟りました。彼らがアフガニスタンのためにするだろうと私たちが期待していたこと、つまり国の統一、進歩、平和と尊厳をアフガニスタンにもたらしてくれるという期待に反して異物と化していったのです。

 私たちの期待や思いに反して、彼らは国の統一、独立、経済的側面などについての期待とまったく反対の仕事を始め、アフガニスタンの殺人機械になっていきました。彼らはすべてのアフガン人に対する戦争を始め、アフガニスタンに外部からの巨大な影響をもちこむようになり、アフガニスタン内でテロリズムと密接なつながりをもつようになりました。そして彼らはアフガニスタンの惨めさと災厄の原因になったのです。

 そこで私は彼らと対立するようになり、闘争を始めました」

http://www.afgha.com/article.php?sid=14172&mode=thread&order=0
翻訳: "533"


 【質問】
 アシュラフ・ガーニ財務相はどんな人物か?

 【回答】
 米国留学経験あり.優秀であるが,しばしば強権的.また過労気味.歯に衣を着せない発言をするという.
 以下引用. 

 この間〔緊急人道支援から本格的な開発支援への移行の間〕,非常に印象的であったのは,アフガン側の主導的役割である.
 特に,アシュラフ・ガーニ財務相の役割と貢献は特筆に価しよう.彼のことを書けば,アフガンの開発・復興の経過の主要部分は尽くせるほどである.

 ガーニ氏は,カブールの南に位置するロガール県を中心とするパシュトン人のアフマドザーイ族の族長の家の出である.
 高校時代から目立った存在で,高校生による弁論大会でも激烈な弁を展開していたとのことである.
 その後,ベイルートのアメリカン大学で学ぶが,その同級生にハリルザード在アフガン米国大使,アハディ中央銀行総裁,パシュトン・カンダハール知事などがいる.
 さらに米国で学び,引き続き教鞭をとった後に世界銀行で勤務する.
 そのとき名古屋市を訪問する機会があり,戦後の見事な都市計画による名古屋市の復興ぶりに感銘を受けた.
 ガーニは私に何度も,日本から都市計画の専門家を送って欲しいと言っていた.

 暫定政権の成立後,アドバイザーを務めていたブラヒミ代表に乞われてアフガンに戻り,カルザイ大統領の経済顧問を務める.
 経済や開発については経験も知識も乏しいカルザイ大統領である.また,暫定・移行政権では計画相や復興相に人を得ず,さらには開発計画を実施する省庁も形をなさない中で,ガーニは,国際社会との交渉やアフガン政府内の支援受け入れ体制作りに奔走した.

 暫定政権から移行政権になり,財務大臣に任命された.
 正式に政権の国際社会との交渉役になってからは,財務相として本来の責務である歳入の確保,歳入計画の策定を越えて,開発計画の策定や開発案件の決定にまで関与した結果,これに与れない同僚大臣から大いに疎まれ,嫌われもした.
 大統領候補となったモハッケク計画相が,その数ヶ月前に,閣議で啖呵を切って辞職する羽目となったのも,もとはといえば,計画相である自分の仕事をガーニが取ってしまってけしからん,というところから始まっている.

 また,ガーニは大臣でもなかった当初,援助受け入れのための体制作りを進める中で,自分の世界銀行時代の部下や知己を中心にして援助庁なる組織を作った.
 援助庁は昔首相府があった宮殿の構内に事務所が設けられ,治安上も安全であったし,樹木の多い構内は,カブールでも数少ない気持ちのいい場所である.
 ガーニは政敵から身を守るため,安全な援助庁のほうで人と会うことが多くなった.
 しかし,同僚大臣のやっかみや,ガーニに権限が集中することに批判が高まる中で,援助庁の機能・権限は次第に削減され,しかも援助庁長官の兼職も解かれた.
 その後暫く,彼は,市内中央部の財務省で人に会うようになるが,それも束の間で,また,しばしば援助庁のほうで会うことが多くなった.
 私が理由を尋ねると,人の出入りが多く,警備も手薄な財務省では,幾つ命があっても足りないとのことであった.
 それだけ疎まれ,批判されながらやってこられたのは,本人の能力に加えて,国際社会からの強力な支援やカルザイ大統領の信頼があってのことである.

 歯に衣を着せない発言は,分かり易いと共に,相手の感情をいたく刺激することが多い.アフガン人のみならず,財務相と交渉事をした外国人ならば誰でも,頭に来たことは再三ならずともあるはずである.私も同様である.

 〔略〕
 閣僚の中でも飛びきり忙しい人である.そのためにしばっしば,出勤前の時間に自宅に呼ばれることがあったし,それも休日の金曜日の朝ということもあった.
 1週間休みなし,毎日15〜6時間働くと言っていたが,あながち誇張ではないと思う.

 ガーニは胃癌を患い,殆ど胃がない.
 また,よく首筋や腰の辺りが痛むようだ.
 そんなことを考えれば驚異的な頑張りだと思うが,大統領はじめ,要職にあるアフガンの人達は多かれ少なかれそんな仕事ぶりである.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.59-61


 【質問】
 モハッケク計画相はどんな人物か?

 【回答】
 宗教・軍閥指導者.弁舌家であり,地元での人気は圧倒的だという.
 以下引用.

 軍閥指導者は,概して大変な能弁家である.
 例えば,ハザラ人の指導者の一人,モハッケク計画相である.
 〔略〕
 地元での彼の人気は圧倒的であった.

 モハッケクとは,東京でのアフガン復興支援会議からの知り合いである.
 英語ができないし,また,周辺国を除き,外国への旅の経験もあまりなく(イランのマシャッドに家族を住まわせている),東京では極めて寡黙であった.私が現地語で話しかけても,殆ど話は続かなかった.
 私は勝手に,彼が無口な人だと決め込んでいたが,実際はそうではなかった.

 元々イスラム教シーア派の宗教指導者である.説教が仕事であり,また,軍閥指導者としての経験も長い.
 旅の最中には色々話をしたが,タレバン時代には,イスラム教徒でありながらシーア派とということで,ハザラ人は徹底的に敵視され,苛められた.
 タレバンに追い詰められ,自分(モハッケク)達はヤカーラング近郊の山に立て篭もり,長く辛い戦いを強いられた,と体験談を幾つも話してくれた.
 排他的なタレバンは,
「タジク人はタジキスタンに帰れ.
 ウズベク人はウズベキスタンに帰れ.
 トルクマン人はトルクメニスタンに帰れ.
 ハザラ人は地獄に帰れ」
と叫んでいた,と私に話したときには,彼の目に涙さえ浮かんでいた.
 そんなわけで,彼が決して寡黙でなどなく,むしろ,コーランやペルシャ・アフガンの詩句などをふんだんに引用し,大変な弁舌家との印象であった.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.114-116


 【質問】
 2004年の大統領選において,カルザイ以外の大統領候補に勝ち目はあったか?

 【回答】
 最初から殆どなかった.
 旧北部同盟はもはや団結力はなく,最有力対抗馬のカヌニさえカルザイを脅かす存在とはなっていなかった.
 17人の対立候補の出馬自体が,カルザイ側と取引するための作戦だと見る向きも少なくない.
 以下抜粋.

 〔略〕
 17人いる〔カルザイに対する〕対立候補は,当選を目指して政治工作や選挙運動に力を入れるより,事前の取引を通じて政治力を確保したほうが得策だと考えている.
 〔略〕
 アフ【ガ】ーン国内には,17人の対立候補の出馬自体が,カルザイ側と取引するための作戦だと見る向きも少なくない.
「どの候補も,カルザイに勝てるとは思っていない.
 それでも大統領選に出馬するのは,取引に有利な立場を確保したいからだ」
と,カルザイ政権に近い欧米の消息筋は言う.

 その点では,最強の対立候補と目されるユヌス・カヌニ前教育相(46)も例外ではないようだ.
 〔略〕
 もちろん,カヌニ自身は事前取引の噂を否定している.
「投票日前にカルザイと取引する気はない.最後まで選挙活動を続ける」
と,カヌニはカーブルで語った.
 だが同時に,カルザイが第1回投票で過半数を獲得できず,決戦投票になった場合は,
「国の統一のために取引の申し出を拒否することはない」
とも語っている.

 一方,カルザイと旧北部同盟幹部の橋渡し役を務めるマスード〔故アフメド・シャー・マスードの弟アフメド・ジア・マスード〕は,カヌニも他の対立候補も本音では取引を望んでいると主張する.
 実際,カヌニとは直接会談し,選挙前または選挙後のカルザイ陣営復帰を話し合ったという.
「権力の分け前が欲しいカヌニは,こちらの陣営に戻ってくるだろう.
 もし選挙に出て負ければ,今後数年間は,力のない野党指導者として過ごすことになりかねない」

 カヌニは既に孤立感を覚えているかもしれない.
 確実に支持が見込める地域は,タジク人が多数を占める,出身地のパンジシール渓谷ぐらい.全国規模の政治組織を持たないため,アフ【ガ】ーン各地の村村で選挙運動を展開したり,多くの有権者が参加する部族会議に働きかけるのは不可能だ.
 〔略〕

 マスード〔弟〕が寝返る前から,旧ムジャヒディン勢力はばらばらだった.イスマイル・カーン,アブドル・ラシド・ドスタム,モハマド・モハゲクといった有力軍閥は,それぞれの地盤に事実上の「地方政権」を築いている.
 ドスタムはカヌニ陣営の協力要請を蹴り,自ら大統領選に出馬した.
「(旧北部同盟が)団結を取り戻すのは不可能だ」
と,カーブルで活動するNGO「国際危機グループ」のビクラム・パレフは言う.

 〔略〕

 しかし妥協の結果,カルザイ政権の旗印とも言うべき改革が犠牲になる事態も十分に考えられる.
「今はカルザイにとって,溜まった膿を一掃する,最高の,そして最後のチャンスだ」と,独立調査機関「アフ【ガ】ーニスタン調査審査機構」のアンドルー・ワイルダーは言う.「もし(軍閥と)取引すれば,今後の改革が進めにくくなる.下手をすれば,改革が実現不可能になるかもしれない」
 カルザイにとって,ここで取引するのは得策ではないようだ.

(ロン・モロー & サミ・ユサフザイ from "Newsweek" Jananese Edition,
p.36-37, 2004/9/1)


 【質問】
 パンジシール派は,なぜ最大軍閥指導者ファヒームではなく,カヌーニが大統領選挙に立候補したのか?

 【回答】
 ファヒームはカルザイの副大統領候補として指名されるものと思っていたが,土壇場で外された.そのため,自身が立候補するには間に合わず,代わりにファヒームを当て馬として立候補させたのだという.
 以下引用.

 7/26の大統領選挙立候補登録の締切を控えて,カルザイ大統領が誰を副大統領候補に指名するのかが注目された.
 移行政権では4人の副大統領が4つの主要民族から選ばれた.
 新たに制定された憲法では,これが2人に減らされ,大統領候補は立候補に当たって,2人の副大統領候補も指名する必要がある.

 カルザイ大統領はパシュトン人であるので,副大統領はタジク人とハザラ人から選ばれるのが順当であり,タジク人の副大統領候補としては,実力ナンバー・ワンと目されるファヒーム副大統領兼国防相が指名されるものと見られていた.
 しかしファヒームは,自らが最大の軍閥指導者といってよい人物であり,これを引き続き副大統領としたのでは,なんとも変わりばえのしない本格政権となりかねない.
 だからといって,実力ナンバー・ワンのファヒームを切るだけの勇気が,カルザイ大統領にあるのかといえば,それも疑問に思う向きが多かった.

 そうした中で,大統領は,あえてファヒームを切る決断を行った.

 大統領は選挙立候補登録締切の2日前に,副大統領に指名しない旨をファヒームに伝えた.
 彼は激怒したが,自ら対抗馬として立つには時すでに遅かった.
 カルザイ大統領に一矢報いようと,同じパンジシール派の盟友カヌーニ教育相を大統領候補に指名するのが関の山であった.
 カヌーニにしてみれば,内相を解任されて教育相を受け入れざるを得なかったものの,将来の夢を捨てたわけではなかった.私にも話していたが,どちらかといえば,5年後の次の大統領選挙を目差していたようである.
 もとより,棚から牡丹餅式に飛び込んできたチャンスを逃がす法はなく,直ちに選挙準備を本格化させたが,今回の選挙には時間がともかく不足していた.

 弊害の目立つ軍閥の解体を,最も至難と見られ,かつ,それまで大統領の後ろ盾と見られたファヒームから始めたことで,国民も大統領の決意を見直したことであろう.
 大統領選挙では,第1回の投票で得票数が最も多くても,過半数に達していなければ,上位2候補で決戦投票が行われる事になっている.
 カルザイは10月九日の第1回の投票で過半数を得て当選した.
 勝利にあたって,この決断は極めて大きかったと言えよう.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.33-34

 忘れもしない,7月23日,金曜日,休日である.
 前の日に,明日宮殿に来るようにと大統領儀典長より直接電話があった.
 〔略〕
 話題は全く〔DDRとは〕別のことで,想像外のことであった.
 会談の中身は大統領選挙に際しての副大統領候補のことであり,大統領は突然,自分はファヒーム第1副大統領兼国防相を副大統領候補から落とすつもりだがどうかと尋ねてきた.
 私は一瞬戸惑ったが,はっきりと言った.
 本来内政事項である,こうした問題に外国の大使である私が口を挟むべきではないが,DDR運営委員会委員長としての自分の立場から言えば,ファヒーム国防相はDDR実施責任者として能力を有しながらも,全力を出していない.
 彼が留まる限りDDRは上手くいかず,大統領は国民への約束を果たせないであろうから,大統領の判断は適切と思うと答えた.
 同席していたアルノー国連代表は,国際機関が内政に口を挟む事は本来あるべきことではないが,国連が責任を委ねられている自由・公正な選挙の実施のためには,望ましくない人物であると言っていた.
 〔ハリルザード〕米国大使も大統領の質問に答えて,大統領のいかなる決定も支持し,そのための支援を全力で行うと約束した.

 大統領はファヒームを副大統領候補から外した.

(同,p.132-133)


 【質問】
 2005/9/18の議会選挙の主な立候補者は?

 【回答】
 主要軍閥の他,ターリバーン分派も立候補しているという.
 以下引用.

アフガン議会選18日投票 カルザイ派過半数なるか 「和平合意」総仕上げ

 【バンコク=岩田智雄】アフガニスタンで内戦終結後,初めての議会選挙の投票が十八日に行われる.予定されているのは,上下両院のうちの下院と州議会の選挙.過去,銃を手に内戦に身を投じた武装勢力の指導者が政党指導者となって多数,立候補している.多数民族パシュトゥン人を中心とするカルザイ大統領の支持勢力が下院の過半数を得られるかどうかが焦点だ.
 下院選では,三十四の全州での直接投票で二百四十九人の議員が選出される.このうち約四分の一の六十八議席は女性に割り当てられる.昨年の大統領選に続く第二弾の民主的選挙で,和平の道筋を示したボン合意の総仕上げとなる.

 立候補者は二千七百六十人で,七十余りの政党が組織されている.主要政党をみると,旧ソ連のアフガン侵攻当時にムジャヒディン(イスラム戦士)として親ソ・ナジブラ政権と戦った武装勢力や,その後のイスラム原理主義組織ターリバーンの政権と敵対した北部同盟の指導者が党首に名を連ねた.
 この中には,ターリバーン政権崩壊後,暫定政権づくりから除外されていた軍閥指導者も含まれており,下院選で勢力の巻き返しを図っている.かつてターリバーン政権の外相を務め,ターリバーンとの決別を宣言しているムタワキル氏も出馬している.

 立候補者はほとんど出身民族や部族を支持基盤としており,外交筋によると,特に地方の村落などでは誰に投票するかはほぼ事前に決まっている状態.所属政党を届け出た立候補者は12%に過ぎず,政党政治の概念はほとんど根付いていないという.
 選出された議会は過半数の賛成で閣僚を不信任とすることができる.反カルザイ派は少数民族を中心に勢力の結集をはかるとみられるが,武装勢力は利害をめぐり同盟と裏切りを繰り返してきただけに,議会招集後の勢力バランスがどうなるかは不透明だ.

 州議会選では,計四百二十議席に三千十六人が立候補.下院選と合わせると,約五千八百人の候補者がいるが,選挙監視団は,これ以外の二十一人の立候補届け出者について武装組織と関連があるとして候補者資格を取り消している.

 また,過去半年間に約千二百人が戦闘や襲撃で死亡,候補者六人も殺害されており,武装勢力がアフガンの安定にとって脅威となり続けている.
 イスラマバードのイスラム指導者筋によると,ターリバーンに加え,暫定政権づくりから除外され,対米テロを呼びかけているヘクマティアル元首相が支持基盤を再編,国際テロ組織アルカーイダの資金を得て二千−三千人の勢力に盛り返している.
 元首相はターリバーンと違い犯行声明は出さず,潜伏先からひそかにテロの指令を出しているという.
     ◇
≪アフガンの議会選挙≫ 18歳以上の登録有権者は約1200万人.有権者は州単位の各選挙区で候補者個人に投票する.国民の7割以上が非識字者のため,投票用紙には候補者の氏名と顔写真,番号のほか,動植物などのシンボルマークも候補者識別用に印刷する.開票作業には約1カ月かかる見通し.
     ◇
 【アフガンの主な政党と党首】

 ≪大統領派≫
 ◎アフガニスタン国民青年団結党
  モハマド・ジャミル・カルザイ
  大統領のおい,パシュトゥン人
 ◎イスラム国民戦線党
  サイド・アハマド・ゲイラニ
  元反ソ武装勢力指導者,パシュトゥン人
 ◎国民救済戦線組織
  ジブガトラ・ムジャディディ
  同上

 ≪中間派≫
 ◎イスラム連帯党
  カリム・ハリリ
  現副大統領,元北部同盟指導者,ハザラ人
 ◎イスラム勧誘組織
  ラスル・サヤフ
  元反米武装勢力指導者,パシュトゥン人

 ≪反大統領派≫
 ◎アフガニスタン民主イスラム連帯党
  モハメド・モハッケク
  前計画相,元北部同盟指導者,ハザラ人
 ◎イスラム国民運動党
  サイド・ヌールラー
  元北部同盟ドスタム将軍の組織,ウズベク人
 ◎アフガニスタン・イスラム協会
  ブルハヌディン・ラバニ
  元大統領・北部同盟指導者,タジク人
 ◎新アフガニスタン党
  ユヌス・カヌニ
  前教育相,元北部同盟指導者,タジク人

産経新聞,2005/9/16


 【質問】
 カルザイ政権下で,宗教保守派はどんな影響力を持っているか?

 【回答】
 今なお強い力を持ち,穏健派と対立している模様.
 以下は,2002/12/7付,朝日新聞(大阪版)12月7日朝刊の武石英史郎署名記事からの引用である。

 今年8月、宗教省内にイスラム振興局が新設され、傘下の女性部の職員が真っ黒なスカーフをかぶって,カブールで
「化粧はやめなさい」
「地味なスカーフをかぶりなさい」
と説いて回った。

 国連は
「タリバーン時代に宗教警察と呼ばれた悪徳追放・美徳増進省を連想させる」
と警戒感を強め、行動監視に乗り出した。
 カルザイ大統領は最近になって保守的な女性部長を更迭し、穏健派閣僚の妻を新部長に据えた。
 新部長は、保守派のナセルヤル宗教相に女性の権利保障を求める異例の公開文書を出すなど、活発に動き出したが、予算を凍結されて実質活動停止に追い込まれた。

 カルザイ政権に影響力を持つ保守派の中核は80年代、ソ連侵攻に対する「聖戦」を主導したラバニ前大統領や軍閥指導者のサヤフ氏といった北部同盟の長老たちだ。宗教相もラバニ氏とつながりが深いとされる。
 保守派には、ファヒム副大統領兼国防相ら政権内で若手が台頭する中で、宗教回帰を訴えることで自らの存在感を高める狙いがある。

 保守派の圧力が脅迫につながった例もある。
 ラバニ氏系の新聞が6月、社会進出する女性の代表格シマ・サマル前女性相への批判を展開した。 イスラム教を冒涜したとしてイランの故ホメイニ師から死刑宣告を受けた作家サルマン・ラシュディ氏になぞらえ,
「サマルはアフガンのラシュディ」
と書き立てた。
 前女性相は殺害の脅迫を受け、最近まで自宅を国際治安支援部隊の装甲車が警備する状態が続いた。

 保守・穏健派対立の最大の山場は03年12月に予定される新憲法の制定だ。
 カルザイ大統領は憲法起草委員会のメンバーの大半に穏健派の法学者を起用。
 これに対して,保守派の影響力が強い最高裁判所は
「新憲法はシャリアを基本理念とするべきだ」
と決議。
 人口の99%がイスラム教徒の国柄で、カルザイ大統領も宗教的要求を真っ向から否定しにくい事情もある。

 政権の支配が及ばない地方ではもっと極端だ。
 国際的な人権団体ヒューマンライツ・ウォッチによると、ヘラートのイスマイル・カーン州知事は独自に宗教警察を創設し、音楽カセットやビデオは非宗教的だとして商店から没収し始めた。
 東南部ホーストでは、ビデオ店を狙った爆弾テロも起きた。

 まあ,今に始まったことじゃないし.ダウド政権でも宗教保守派は強く抵抗していたし,また元に戻ったってことで.


 【質問】
 ランジン・ダドファル・スパンタって誰?
 3行以上で教えて!

 【回答】
 ランジン・ダドファル・スパンタ Rangeen Dadfar Spanta は,アフ【ガ】ーニスタンのパシュトゥン人政治家.
 1953.12.15,ヘラート州生まれ.
 カーブル大学で政治学を修め,トルコ留学.
 ソ連のアフガーン侵攻と,それによる紛争を避け,難民としてトルコへ渡り,さらにドイツへ移住.
 1992年,ドイツのアーヘン工科大学において,哲学博士号取得.
 1996〜2005年,同大学において教授を務める.
 その傍ら,「アフ【ガ】ーニスタン民主主義同盟」スポークスマンを務める.
 2005年1月,カルザイ大統領の顧問(国際問題)となり,2006年5月,外相に就任(〜2010年).
 2007年,アフガーン難民の窮状に関連して議会下院 (Wolesi Jirga) に,スパンダの外相解任の動きが起こり,下院とカルザイとの間に溝が生じるきっかけとなったという.

 既婚者であり,子供が二人いる.

 【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/ランジン・ダドファル+スパンタ
http://www.afghan-web.com/bios/spanta.html
http://rusisworld.com/en/about/members/rangin-dadfar-spanta

 【関連リンク】
https://www.facebook.com/Rangindadfarspanta/

スパンダ近影
(こちらより引用)

mixi, 2016.6.17


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