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◆◆◆バチャ・イ・サカオの乱〜ダウド独裁時代
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<◆アフ【ガ】ーンFAQ目次
<南アジアFAQ

Sardar Mohammad Daud Khan
(1910-78)


 【link】

『Waging War in Waziristan』( by Andrew M. Roe)

 英軍将校の書いた,北西インド辺境での英軍の苦労を描いた本.
 懲罰遠征という身も蓋もない”焼き働き”を英軍がやっていた時代で,軍を構成する人員は,当の現地部族も多いというのが面白い.
 仏軍の第二次世界大戦後のインドシナ戦争でも,やはり現地ベトナム人が多く入っている.
 ここらの植民地帝国と,その落日時代に通用した戦術や戦略が,どの程度現在に適用できるかは,色々考察が必要ではないだろうか.

――――――軍事板,2010/04/22(木)

『the army in india and the development of frontier warfare 1849-1947』

 インド辺境での山岳戦の歴史を書いた本.
 読みかけ.
 ワジリスタン,カイバル峠や部族直轄地域あたりで,イギリス人とインド人が苦労した話.
 今のパキスタン軍が似たようなことをやっている.
 当時はヘリは無かったので,馬匹を連ねての行軍.
 騎兵は脆弱すぎて,歩兵が主で,パシュトン人はすぐにジュザイルなる鉄砲を使うようになったとある.
 これがホームズのワトソンさんの戦傷に繋がっているんですね.
 あまりインドとかアフガンのことは話さない人みたいだが.

 ちょっと高めなので,円高の今がチャンスです.
 これはとても詳しい本で,イギリス帝国主義は所与なんですが,accidental guerrilaでも勧められていました.
 辺境の山岳戦では,この本が一番良いんだそうです.
 実際詳しく書かれています.

――――――軍事板,2009/12/02(水)

『アフガニスタンの農村から』(大野盛雄著,岩波書店,1980)

『アフガンの四季』(佐々木徹著,中央公論社,1981)

『梅棹忠夫著作集第4巻 中洋の国ぐに』(梅棹忠夫著,中央公論社,1990.12)


 【質問】
 なぜバチャ・イ・サカオの乱が起きたのか?

 【回答】
 アマヌラー国王の急進的な近代化政策が,ムスリムの反感を買ったため.
 また,モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,そうした気運を英国が煽動したという.
 アマヌラー国王が反英姿勢をとっていたのがその理由だと述べられている.

 以下引用.

――――――
 〔アマヌラー国王は〕外交面ではイギリスに敵対姿勢を示す一方,ロシア革命で誕生したソビエト連邦を承認した世界で最初の国となり,1921年には,ソ連と友好・不可侵条約に調印した.
 〔略〕
 こうしたアマヌラー国王の外交姿勢は,イギリスとソ連の間の緊張を再び強めることになり,イギリスはアフガニスタン国内にスパイを放ち,反アマヌラー運動を背後で煽り始めた.
 アマヌラー国王の近代化政策はあまりに急激だったため,イスラム教徒の反感を買っていた.
 とくに女性のベール廃止の政策は激しい抵抗を受け,国民の反アマヌラー感情は次第に燃え広がり,各地の武装反乱へと発展していった.

 28年には,国内は分裂寸前の騒然たる状態になった.
 そこで登場したのがパチャ・イ・サカオ(水運びの息子の意)という山賊の頭領であった.
 反乱を起こしたパチャ・イ・サカオは29年,カブールまで攻め上り,たちまちの内に政権を奪取してしまった.
 アマヌラー国王はこのため,国外への亡命を余儀なくされた.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.24

 【質問】
 バッチャイ・サカーウとはどんな人物か?

 【回答】
 岩村忍は次のように述べている.

 アフガニスタンの民族をその職業で大別すると――もちろん例外は少なくないが――パシュトゥン人は政治・軍事に優れ,ウズベク人はオアシスの農民,トルコマン人は草原の遊牧民,そしてタージク人は商人である.タージク人の多くは商売の巧みな商人か,あるいは農民で,パシュトゥン人やトルコマン人のように政治や軍事を得意とする荒荒しい遊牧民ではない.

 その意味ではハビーブッラー・ガージーは例外的な存在だった.
 彼はバッチャイ・サカーウと呼ばれた.「水運びの息子」という意味である.
 彼は最初アマーヌッラー王の軍隊に一兵卒として入ったが,まもなく脱走して国境のペシャワール地方を荒らし回る山賊の群れに加わった.
 暫くして故郷のコーイ・ダーマンに帰ってきたが,そこでも盗賊の一団の頭になった.
 伝えられるところによると,彼は強者の敵であり,弱者の味方であった.彼が襲うのは政府の役人か金持ちで,常に貧民には施しを与えていた.
 バッチャイ・サカーウがコーイ・ダーマンを荒らし回っていた頃,アフガニスタンはアマーヌッラー・ハーンの改革で騒然たる状態にあった.
 〔略〕
 バッチャイ・サカーウが,このような情勢に乗じて反乱を起こしたのは,1928年の末のことであった.
 またたくまにカーブル盆地を席捲し,首都カーブルを陥れた.
 アマーヌッラー王は暗夜に紛れて逃亡し,南のカンダハールを経てインドに行き,ボンベイから船に乗ってイタリアに亡命してしまった.

 しかしながらアマーヌッラー王の亡命,バッチャイ・サカーウの僭位も,国内の騒擾の解決にはならなかった.
 義賊とはいえ,盗賊上がりのバッチャイ・サカーウには,この広大な国の統治は手に余った.
 アフガニスタンのバック・ボーンであるパシュトゥン族は,タージク出身のバッチャイ・サカーウに服するを潔しとしなかった.
 間もなく王族の一員で当時フランス駐在公使をしていたナーディル・シャーが急遽帰国し,パシュトゥン族長の支援を得てバッチャイ・サカーウの軍と激戦を交え,彼を捕らえて死刑に処した.

 バッチャイ・サカーウは卑賤な出身の義賊で,圧迫された農民の味方ではあったが,ただそれだけのことで,組織的な計画もイデオロギーも持っていたわけではない.

(「アフガニスタン紀行」,朝日文庫,1992/12/1,p.51-53)
※原書は1955年刊.

▼ ちなみに『アフガニスタン』(小西正捷編,講談社,1968/2/24),p.48によれば,この反乱をアマヌッラー王は「無知の反乱」と呼び,知のために命を捧げた人々を称える碑を,カーブル河畔に建てたという.▲


 【質問】
 グラム・ナビ反乱未遂事件とは?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,未遂に終わった,ソ連によるナディル・シャー国王打倒計画.
 ナディル・シャーの親英路線が,その動機.
 ソ連はアマヌラー派のグラム・ナビ・チャルキ将軍に武器を与え,政府転覆を企てさせたが,察知されて将軍は銃殺された.

 以下引用.

――――――
 イギリスと親密な関係を持つナディル・シャー国王の出現で,今度はソ連がアフガニスタンへの警戒心を抱くようになった.
 〔略〕
 ソ連はアマヌラー派のグラム・ナビ・チャルキ将軍に武器を与え,政府転覆を企てさせた.
 しかし,この計画はナディル・シャー国王の知るところとなり,1932年11月8日,グラム・ナビ将軍は宮殿に呼ばれ,喚問を受けた.
 ナディル・シャーはグラム・ナビの裏切りに怒り,その場で部下に銃殺を命じた.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.25

 【質問】
 アル=アフガーニーとアフ【ガ】ーニスタンは,何か関係があるのでしょうか?

 【回答】
 昔々,ジャマール・アッディーンという者がおったそうな.
 彼は我が国西部,ハマダーン近郊の町アサダバードで生まれ,青少年時代をカーブルで過ごし,そこでイスラームと学んだそうな.
 ジャマール坊やは18歳のときに巡礼の旅に出た後,アフ【ガ】ーニスタンに戻って地域政治に関わるようになったそうな.
 それが宗教家・政治家・思想家としての彼の出発点じゃった.

 ところが困ったことには,ジャマール坊やは両親共にシーア派であるが,アフ【ガ】ーニスタンではスンニが主流じゃった.
 これでは地域に溶け込めにくいと考えたジャマール坊やは,同じアサダバードでも「アフ【ガ】ーニスタン東部コナル近郊のアサダバード」出身ということにして,名前もアル=アフガーニー(あるアフ【ガ】ーニスタン人)と名乗ったのじゃった.

 それから先のことは,イスラーム思想史に必ず出てくるから,この際,学んでみるがよかろう.

(イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw@世界史板)


 【質問】
 ザーヘル・シャーはどんな人物か?

 【回答】
 守屋和郎「アフガニスタン」(岡倉書房,1941/11/15)の中に,若い頃のシャーの人となりについて触れている箇所があるので,紹介する.

 現王はザヒール・シャーで御年27と拝聞する.
 前王ナディル・シャーの唯一人の王子で,1933年の御即位であらせられる.
 御幼少の時父王の駐佛公使に従つて佛國に留学,1930年に帰國して軍隊に入り歩兵科に勤務,更に他の政務を實習せられ,一時陸軍大臣及文部大臣代理を爲〔な〕されたこともある.
 王はスポーツマンで,テニス,スキー及乗馬に堪能であらせられる.
 冬の間ダルフヌーンの東方の丘は,西洋人や若いアフガン貴族達のスキーの場所であるが,王は時々之にならせられ,軽快なスキーをして楽しまれる.
 著者は下手であるが,其處に度々行つたので,陛下が美事な馬に引かせて高い處まで上り,それから颯爽として辷つて来られ,見事にターンせられて居るのを拝した.
 陛下は皇后陛下との間に1王子及3王女を御持ちになつて居る.
 王子即ち皇太子はモハメット・アクバル・ハンと申し上げる.
 皇后陛下は現宮内大臣アーマド・シャー殿下の姫君であらせられる.

(p.105-106)

 洞察力が鋭いことを示すかのようなエピソードもある.
 以下引用.

 〔2001年〕9月8日,アフガニスタンのザヒルシャー元国王と会談するために,ローマにやってきたのだ.
 当時,元国王はローマに亡命中で,御家族と共に郊外の高級住宅街に住まわれていた.
 私は,元国王の側近であるらスール教授(現カルザイ大統領補佐官)から招待を受け,元国王との会談がセットされたのだ.

 〔略〕

「タリバン政権は,オサマ・ビン・ラディンに支配されている.アフガニスタン人が母国を治めていない」
と断言されたのにも驚かされた.そして,
「オサマ・ビン・ラディンは処刑すべきです」
「いずれ帰国したい」
とも発言された.
 当時はまだ,オサマ・ビン・ラディンがタリバン政権に匿われ,保護されていると考えられていたのに,すでに彼がタリバンを支配していると談じたのには驚いた.私は半分くらいしか信じていなかった.

2004/11/13

(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.58)


 【質問】
 1930年代のアフ【ガ】ーニスタンの国軍組織は,どんなものだったか?

 【回答】
 守屋和郎「アフガニスタン」(岡倉書房,1941/11/15)の中に,それについて触れている箇所があるので,紹介する.

 正規軍は陸軍だけである.
 陸軍には固より空軍も含まれる.
 アフガニスタンに海軍はない.
 オキサス河は蘇聯邦とアフガニスタンとの國境を成す國際河川であつて,其處には蘇聯側の商船隊が主として蘇聯領内のテルメズとケルキとの間を往航し,又上流から下流までの間に幾多の渡船場があつて,地方的に渡船を行なつて居るから,定めし軍艦に似たものがあるであらう.
 外國人の旅行記に依れば,少くとも武裝せる巡羅警察船はあるやうである.
 然しアフガニスタンの側では1,2の渡船がパタ,ヘサルといふ處から對岸蘇聯領のテルメズに運航してゐる以外は,渡船も商船隊もなく,巡羅警察船も又砲艦の類も,ずつと古くから存在しなかつた樣である.
 從つて海軍と稱すべき何等の施設も無いと言ひ得るのである.

 陸軍としては陸軍大臣,參謀總長,近衞師團長,カブール第1及第2師團以下十數個の旅團的師團がある.
 獨立砲兵旅團もある.
 航空旅團もある.
 騎兵は歩兵師團及旅團に分屬して之と合體して居る.
 外に士官學校及幼年學校がある.

 武裝としては航空機,小型の重砲,野砲,山砲,高射砲,タンク攻撃砲,タンク及裝甲自動車がある.
 機關銃は1小隊に9挺位の割に在る樣である.
 航空機は英國及伊太利のものが多い.自國ではまだ製作することが出來ない.
 一切の砲も外國から輸入して居る.獨逸製が多い.英國製もアフガニスタン製もあるが,舊式で役に立たなくなつたものゝ如くである.
 タンクは伊太利製,裝甲車は米國のものであると聞いた.

 現役兵力は大體5萬7千,

 外に平時は警察であるが,非常時には軍隊と成り得る保安隊なるものがある.人員は平時で1萬5千位かと察せられる.
 之は歩兵隊と騎兵隊とに分れる.

 旅團の所在地は首府カブール以外ではマザリシエリフ,ガルデス,ヘラツト,ジャラヽバツド等であり,他は聯隊又は大隊等として各地に分駐し,平時の治安維持に任じて居る.
 保安隊は陸軍の駐在せぬ村落及市街地に駐在し,同じく保安に任じて居るが,大多數はカブールに軍隊と共に駐屯して居る樣である.

 陸軍の階級は元帥,大將,中將,少將を以て將官とし,此の下に佐官があるが,佐官と少將との間に準少將のやうな階級がある.
 他は他國に於けると同樣である.
 警察を本據とする保安隊は,全部陸軍と同樣な稱號を有する將校を持つ.有事に軍隊に變る爲であらう.

 アフガニスタンには現に徴兵制度があり,印ア國境に近きパタン族を除き,壯丁8人から1人を採用する制度で徴兵して居る.
 パタン族には徴兵制を適用せず,政府は補助金を與へて壯丁の訓練を助けて居る丈けである.
 パタン族は壯丁皆兵で夫れ夫れの部族で自由に訓練してゐるのである.

(p.112-114)

アマヌラ王陛下に至つて大々的に外國專門家の招聘が行はれ,〔略〕
士官學校も土耳古教官に依つて開校された.
 航空隊も蘇聯邦から寄贈の航空機に依つて創設された.

(p.117-118)

 〔モハメッド・ハシーム・ハン宰相時代,〕自動車は相当の数を各々の都市が用意して持つて居るし,軍用のトラックも数百台はある.〔略〕
 使用されてゐる車はフォード,シヴオレ,ベッドフォード等米国の車が多い.

(p.124)

 また,「Jane's All The World's Aircraft 1936-P.3bのHistorical(Service Aviation)」によれば,

The Air Force of Afghanistan is in course of re-organization.
All of the machines belonging to the Afghan Military Air Arm of King Amanullar and subsequent civil wars.
The personal and officials of the Air Force number about 400, and several of them have been trained as pilots in Italy and France.
The original Afghan Military Air Aim during the reign of ex-King Amanullah consisted of about fifteen machines.
There was an aerodrome and sheds at Kabul.
The personal were Russians.
About fifty Afghan youths were sent to Russia to be trained in the flying school there.
Plans were made to build aerodromes at Herat,Kandahar,Muzarisharif, and Jelalabad.
In 1924, the British Goverment supplied two Bristol Fighters to the Afghan Goverment.
The Afghans had at that time two German Pilots.
In 1925, the Soviet Goverment presented to Afghanistan a squadron of bombing and reconnaissance aeroplanes.
These machines were flown from Turkistan to Kabul.
In 1928, twenty-five Afghan Aviation Cadets were sent to Italy for a course of instruction at the Cadet College of the Regina Aeronautica, at Casera, Rome.

 さらに,「Jane's Fighting Aircraft Of World War II」 P.17によれば,

-General-

The Afghan Air Force is integral part of the Army under the administration of Ministry of War. The Commandant of the Air Force, Firqa Mishar(Majer-General) Muhammad Ihsan Khan, is responsible to the Minister of War through the Chief of the General Staff of the Ministry of War.

-Organization-

The aircraft of the Afghan Air Force are organized into three squadrons. All squadrons, whitch come directly under the disciplinary control of the Commandant of the Air Force, are normally concentrated at the Kabul(Sherpur) Aerodrome, the Headquaters of the Air Force.

-Administration-

Headquarters, Afghan Air Force, Kabul(Sherpur).
 The Headquaters of the Air Force is organized as follows :--
 Organization Branch
  Responsible for operations, equipment and supply.
 Control Branch
  Responsible for finance, personnel and pay
 Engineering Branch
  Responsible for aircraft and material.
 Aerodrome Guard
  An army Detachment detailed for guard duties. It is also responsible for ordinary soldiers recruted as aircraft hands.

-Training-

There is a small Flying Training School and an Engineering School at Kabul, with capacities for nine student pilots and nine mechanics respectively. A Royal Air Force officer is attached to the Afghan Air Force for general instruction and performs the duties of pilot instructor for the Flying Training School.

-Equipment-

The Afghan Air Force is equipped with Hawker Hind and Meridionali R.O.37 aircraft. Although several Breda 25's and one Stearman biplane are available for training the Hawker Hinds only are used for this purpose.

 R.A.F.Museum編集の「Conbat Aircraft Of World War Two」によると,Hindの配備機数は20機で,うち,12機が英国空軍からの中古機.
 全部がMk.Iで,4機がKestrelV,8機がKestrelVDR装備,残りは不明で,これらは1940年代末まで使用されていました.
 Ro.37は機数が不明ですが,全機bisではなく,初期型だったみたいですね.

 「世界の戦車1915-1945」のP.344には,Afghanの陸軍が用いていた戦車が掲載されています.
 一つが,ディストン・トラクターというもので,米国製.ディストン・トラクター社が製造したもので,1936年に配備.
 ベースは,Caterpillar30トラクターで,それに装甲板を貼り付けたもの.

 もう一つは「まとも」な戦車で,イタリア製二人乗り豆戦車のC.V.33.こちらも1936年配備です.

ディストン・トラクター戦車(右側)

C.V.33

毎度おなじみルノーFT-17

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in FAQ BBS


 【質問】
 1930年代のアフ【ガ】ーニスタンの軍事教育機関は,どんなものだったか?

 【回答】
 守屋和郎「アフガニスタン」(岡倉書房,1941/11/15)の中に,それについて触れている箇所があるので,紹介する.

アマヌラ王陛下に至つて大々的に外國專門家の招聘が行はれ,〔略〕
士官學校も土耳古教官に依つて開校された.
 航空隊も蘇聯邦から寄贈の航空機に依つて創設された.

(p.117-118)

 教育に關聯して陸軍士官の養成に就て述ぶれば,カブールに士官學校があり,又幼年學校もある.
 其の教官はトルコ士官が主であり,6,7名ある.
 1,2名のドイツ及びイタリー士官等も居るが,大體アフガニスタンの軍隊の教育はトルコ式だと言はれる.
 士官學校の卒業生の十數名は年々トルコに留學せしめられて居る.
 土耳古政府は授業料其の他の費用を何等徴することなくして,アフガニスタン人士官に軍隊教育を授けて居るとのことである.

(p.125-126)


 【質問】
 1930年代,アフ【ガ】ーニスタンの觀兵式の様子は?

 【回答】
 守屋和郎=元アフ【ガ】ーニスタン駐在武官?「アフガニスタン」(岡倉書房,1941/11/15,\1.70(外地1.87))によれば,以下の如し.

 獨立祭には國内津々浦々まで,人々は皆業を休んでお祝ひをする.官廳も休むし商賣も休む.
 此の間に首府カブールでは,皇帝陛下を始めとし文武百官が種主の催しに參加する.
 皇帝陛下には宮中において,祭日の最初に,進化一同の御慶祝を受けさせられ,これに勅語を下し賜ふを例とする.
 此の日に陛下は又先帝陛下の瑩域を訪はせられ,御參拜遊ばされる.之が終つて觀兵式に御出席になり,親しく閲兵せられるのである.

 觀兵式場は,カブールの南の入り口の陸軍練兵場で行はせられることもあるし,雨の爲に練兵場が濕つて居る場合等には,他の場所で取り行はせられ,時に練兵場の周圍の廣い道路を使用せられることもある.

 皇帝陛下には,文武百官を從へさせられ,定めの玉座に即かせられ,後方の右側には外國使臣を,其の左側には總理大臣以下の内閣員及兩院議長等を佇立せしめ,御自身も始終御立ちのまゝで觀兵式を御統監遊ばされる.練兵場で觀兵式の行はれるときは,之に面して立つ白亞の土木省廳舎の中央部の一寸露臺のやうになつてる20疊位の室が玉座のある室となる樣である.

 陛下は陸軍大元帥の盛裝に最高勳章を佩びて,御出になる.
 總司令官には例年陸軍大臣が之に任ぜられる如くである.
 諸兵の整列終はつて,陛下は玉座を去り,練兵場に下りられて,馬上から親閲せられる.

 終つて分列式に移る.
 陛下は再び玉座に歸つて,行進する陛下の諸兵を檢閲せられ且各軍旗の敬禮を受けさせられるのである.
 軍隊はカブールの諸師團及旅團の兵並に士官學校及幼年學校の生徒の外に各地の師旅から代表を出して觀兵式に參加せしめる.保安隊も參加する.
 全員2萬前後が之に參加するを例とする.
 分列式には飛行機も空中で參加する.例年30機位は飛ぶ.傳單を空中から撒布する.
 始めに歩兵,次いで騎兵,更に山砲,野砲,高射砲,タンク,タンク攻撃砲の諸隊,次に警察隊といふ具合に,約2時間に渉つて分列式を行ひ,最後に裝甲自動車と軍用ローリー隊が出て,觀兵式は終了するを例とする.
 聯隊毎に,赤字にアフガニスタンの國の紋を金線で美しく刺繍した大きな旗が,颯爽と風に靡びきつゝ陛下に敬禮する.
 陛下は擧手の禮を以てこれを受けさせられるのである.

 總じて觀兵式は何處の國でも同樣な樣式であるが,アフガニスタンの觀兵式も中々立派である.
 特に將校や兵士の體格が良いから,行進なども見事である.
 又騎兵隊の馬がよひ.鹿毛馬丈け全部揃へた2個聯隊の騎兵の如きは,實に見事なものである.
 アフガニスタンの馬,特にカタガンの馬は,世に名高いものであるし,アフガン人は乘馬は巧みであるから,騎兵の姿が美しい.

(p.168-170)


 【質問】
 1930年代のアフ【ガ】ーニスタンの民兵組織は,どんなものだったか?

 【回答】
 守屋和郎「アフガニスタン」(岡倉書房,1941/11/15)の中に,それについて触れている箇所があるので,紹介する.

 有事の際に民兵を集めるにも,ムラーの説教から始まり,其の旨を受けた部族中の指導的人物が太鼓を鳴らし,急を知りて武装参集せる民兵をムラーが統率して外敵と戦ふ地へと赴くのである.
 ムラーの地位は今尚牢固として抜くべからざるものがあり,彼らは時に頑迷なることありとするも,國土を愛する念が非常に強いのである.
 國王と雖〔いえど〕もムラーの反感を買つては安んじて王位を保つことが出来ないとも言はれる.
 アマヌラ王亡命の原因は,ムラーの反對に在つたと傳へられて居るのである.

 〔略〕

 アフガニスタンの軍隊に就て,注意を要するのは,五萬七千や七萬弐千の兵力で國防が充分かと言ふ問題である.
 日本の本土にも匹敵する領土全體を 守るのに,之丈けで足る譯はない.漸次其の常備兵数は増すものと見てよいのである.

 然しながら,アフガニスタンの國防に就て,正規軍のみが國防を分擔すると考へたら間違である.
 正規軍は平時國内及邊境の治安を分擔し,一旦緩急ある場合,應急の備を爲〔な〕すに止まり,有事の際にはこの他に無數の民兵即ち不正規軍が,立ち處に組織せられるものであることを忘れてはならぬ.
 之はアフガン族の愛國的精神及年來の傳統に依つて,今尚可能とせられる處であつて,特に印度とアフガニスタンの國境に住むパタン族及純アフガン族は,一旦緩急あれば傳統的なる太鼓の合圖で,老幼青年男子は自ら有する小銃と彈藥とを以て武裝し,國土の防衞の爲に馳せ參じるのである.
 第1次,第2次の英ア戦争に於ては全部此の不正規軍が英印軍と戦つたのである.
  獨立戰爭では正規軍が敗れたが,不正規軍は勝つた.米國人のベン・ジエームズは「アフガン旅行記」中に,
「アフガニスタンはパタン族があつたればこそ獨立を維持し得たのだ」
と大膽に批評して居る.
 眞に近い樣に思ふ.

 又ナディル・シャー王に従つて,パッチャ・サカヲをカブールより追ひ出したのも不正規兵であつた.不正規兵は實に強いのである.
 有事の場合には其の總數70萬乃至百萬までは集まるだらうと想像せられて居る.
 正規兵は徴兵制度の實施後日も淺いし,動員をしても30萬を越すことは六ヶ敷しいのではなからうか.
 アフガニスタンの國防,特に,印ア國境方面よりする侵略及北方から南アフガニスタンに至る外力の侵入に對する國防には,不正規兵が重要なる役割を演ずるものと考へて間違ひはないのである.
 アフガニスタンの民兵は,世界に於て最も特異の存在である.
 正規兵の總數のみを見てアフガニスタンの國防を批判すると,大變な過誤に陷る譯である.

(p.111-116)


 【珍説】
 〔第一次大戦での中立に〕続いて1931年,アフガン・ソビエト中立相互不可侵条約が,両国政府によって締結された.
 第2次大戦が起こると,1941年,アフガン政府は「国家間の紛争に中立の立場を保持すること」を宣言した.
 アメリカのアフガニスタン研究者ドナルド・N・ウィルバーは述べている.
「アフガニスタンのこの中立主義のスタンスには,重要な意義が含まれていた.
 この政策は,アフガン人民の歴史的経験が培ったものである」
("Afghanistan――its people, its society, its culture" by Donald N. wilber, New Haven, 1962, p.175).
 つまりこの政策は,イギリスの侵略に抵抗した人民の受難と困苦から生み出された知恵であり,ソビエトとの信頼醸成の結果である.
 アフガニスタンはアジアにおいて,2度に渡る戦争に,人民の意思によって参戦しなかった数少ない国の一つである.
 それは戦禍を免れたばかりか,国の国際的な威信をも高めたのである.

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.54)

 【事実】
 第2次大戦にアフ【ガ】ーニスタンが参戦しなかったのは,親独感情があったからに過ぎません.
 仮に,英国とソ連という連合国側の2大強国と隣接していなかったとしたら,枢軸国側に立って参戦していたかもしれません.

 以下引用.

 1930年代において,ドイツは得意の土木事業で失態を見せていたにも関わらず,影響力を伸ばしていた.
 ただ,この時期にドイツが建設したダムや橋は,春の大雨が始まると流出してしまうという,当惑するような事態が生じたが.
 しかしドイツはアフガニスタンの貧弱な発電力を増大させ,シーメンスは有用な影響力を確立することに成功した.
 また,ルフトハンザもカーブル=ベルリン路線を始めている.
 これに伴い,ドイツが宣伝した人種的優位と兄弟関係の神話に助長され,多くのアフガン高官が親独派となり,中にはナチのシンパになった者さえいた.
 アフガニスタンは純粋なアーリア人種であるという概念が広まり,逆に,アフガン人がかつてイスラエルの失われた部族の一つだったという,それまで有力だった神話は忘れられていった.

 〔略〕

 第2次世界大戦中,親独感情があったにも関わらず,アフガニスタン政府は再び厳しい中立政策を採用し,これは1941年のロヤ・ジルガで正式に認められた.

マーティン・ユワンズ著「アフガニスタンの歴史」(明石書店,2002 Sep. 01),p.181

 そもそも人民の意思どころか,当時,摂政政治を行っていたハーシム・【ハ】ーン首相は保守的な独裁政治――「摂政」のもう一人,シャー・マフムードのほうは,ハーシムよりは寛容でリベラルだったが――を行っているのですが.

 ナーディル・シャーの死後〔1932年〕,生き残った3人の兄弟は,ナーディルの19歳の息子,ザーヒル・シャーの周りに終結し,支配の連続性が保証された.
 ハシム・ハンは首相として続投し,その後の20年間,彼とシャー・マフムードが事実上の摂政政治を実行した.

 〔略〕

 ハシム・ハンの保守的で独裁的な手法は,1920年代と1930年代初期の衝撃の後ではいかに望ましかったとはいえ,〔第2次世界大〕戦後の時代の要求には合わないという意見が王族の間で出ていた.
 それに従い,1946年初めにハシム・ハンは引退する.

同,179-182

 佐々木辰夫の言説は荒唐無稽です.


 【質問】
 ザヒル・シャー親政時代は反ソだったのか?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,決して反ソ的ではなく,逆に共産主義者を刺激しないようにしていた模様.
 また,外交上は全方位の融和外交を目指していたという.
 以下引用.

――――――
 〔略〕
 新憲法は民主主義に不可欠である政治結社設立の自由を認めていなかった.
 〔略〕
国王が共産主義の脅威を考慮したためであった.
 アフガニスタンへのソ連の影響力が,国内の政治組織を通して浸透するのを警戒したのである.
 だが国王はやがて機会を見て,政治結社の自由を国民に付与する意向も持っていた.
 ザヒル・シャー国王のこうした思惑にもかかわらず,共産主義者たちは結局のところ新憲法下で地下活動を開始した.
 その活動は首都カブールばかりでなく,あらゆる地方,あらゆる階層へと広がっていった.
 国王はこの不法活動を阻止することもできたが,2つの理由でそこまで踏みきらなかった.
 一つはモスクワの怒りを買いたくなかったためである.
 もう一つは,彼自身の真意である自由化に,国民から疑問を持たれなくなかったからである.

 ザヒル・シャーのこのような態度は,当時まだ一握りの人数でしかなかった共産主義者を大胆にさせ,挑発行為にすら出てきた.
 彼らは野良犬の頭を剃り,ペンキで「ザヒルのはげ」(国王は頭をそっていた)とペンキで書いて通りやバザールに放すようなことをした.
 これに対し王家は静観を保ち,いかなる挑発にも乗らないようにした.
 ザヒル・シャー国王は,どんなささいな反応でもモスクワから必ず強烈な反発が返ってくると見ていた.

 誰でも知っている当時のエピソードがある.
 共産主義者の侮辱に耐え切れなくなって,ある日,国王の妹たちがザヒル・シャー国王のもとにやってきて大声で泣き出した.
 国王は妹たちの説明を聞いてから,
「おまえたちの誰かが侮辱されたのか」
と尋ねた.
 妹たちは
「いいえ,しかし侮辱されているのは国王です」
と答えた.
 これに対し国王は,彼女らを慰めて言った.
「それは私に対してであって,お前たちにではない.
 堕落した彼らもまた私の子供達なのだ.
 おろかな子供は世界中どこでも親に逆らうものだ.
 がまんしなさい.
 激情に身を任せてはいけない」
 〔略〕

 〔略〕
 〔モハマッド・〕ユスフ首相〔1963.3-67〕は,ザヒル・シャー国王の意向を受け,西側諸国との関係緊密化を促進した.
 この外交政策は一般国民に歓迎された.
 〔略〕
 経済開発事業は,かつてはその90%がソ連の独占であったが,ユスフ政権下では西側諸国の援助が急激に増加した.

 アフガニスタンのこうした西側寄りの路線は,ソ連にとっては当然の事ながら好ましいものではなかった.
 この新たな動向をじっと見守っていたカブールのソ連大使館は,密かに反政府活動の工作を開始した.
 最初の目標はカブール大学であった.
 そして何も知らない高校生,さらには小学生程度の子供まで煽動して,国王と政府に反対するデモを背後で操り,ついには首都の通りをデモで埋めさせるまでに至った.
 このいわゆる政治デモの内実は,学校を離れて楽しい時間を過ごすための口実でしかなかった.
 だが,デモは日に日に大きくなっていった.
 〔略〕
 カブールでは,興奮した反政府デモの学生たちが首相を車から引き摺り出して,襟首を掴むという騒ぎまで起きた.
 〔略〕
ソ連にとっては国境の南に安定した民主的イスラム国家が出現することは大きな脅威であった.
 アフガニスタン国境に接するソ連領内のタジク,キルギス,ウズベク,トルクメンの各共和国には数百万のイスラム教徒が住んでおり,彼らが刺激されるのを恐れたのである.
 ソ連がユスフ政権に対する反政府工作に乗り出したのはこのためであった.

 ユスフ政権は西側寄りの政策をとったが,決して反ソ的ではなかった.
 逆に友好的共存,善隣関係を求めていた.
 現に,反ソ的プロパガンダを行ったことも,ソ連国内のイスラム教徒を煽動したこともなかった.
 またソ連ばかりでなく,隣接するイラン,パキスタン,中国とも平和的,協調的関係を作ろうとした.
 サルダル・ダウドが政権から退いてアフガニスタンの対パキスタン政策は変わり,パキスタンもこれを歓迎した.
 〔略〕
 だが,アフガニスタンが次第にイラン,パキスタンとの関係を深めて行くのを見て,ソ連は神経を苛立たせはじめた.
 〔略〕
 地域の情勢は1963年に中国がインドに侵攻して以来悪化していた.
 ネルーは,中国の予期せぬ大攻勢を受け,自分の外交政策の失敗に気付かされた.
 インドがソ連に近づいたのは,この事件がきっかけであった.
 こうした情勢のもとにおけるアフガニスタンとイラン,パキスタンの関係修復は,インド亜大陸における反ソ陣営の新たな強化につながった.
 このためユスフ首相は,政権存続を危ぶまれるほどの内外からの様々な圧力を受けるようになった.
 当時,アフガニスタンの共産主義者は,議会やマスコミを通じ,ユスフ首相に対抗する共同戦線を張っていた.
 共産主義者の数はとるに足らなかったものの,政治的自由を保障した新憲法下では,公然,非公然を問わず彼らを排除することはできなかった.
 その共産主義者の支配下にある新聞を,ユスフ政府が,憲法違反だとして発禁処分にした.
 この発禁処分に対する反ユスフの動きは実に素早く広がった.
 背後にはソ連の煽動もあり,反ユスフ運動は火がついたように活発になっていった.
 この国内情勢悪化を食い止めるために,ユスフ首相は最後に辞任せざるをえなくなった.

 〔略〕
 〔国王は〕晋首相にモハマッド・ハシム・マイワンドワルを指名した.
 彼は雄弁家であり熟達した作家であり,そして有名な政治家であった.
 また,首相という地位に昇りつめるまでに,様々な階層の人々を知人に持った.
 彼は前任者の政策を受け継ぎ,それを段階的に実施した.

 これに対しソ連はマイワンドワル首相の施策を露骨に敵視し,CIAのエージェントだと非難した.
 愛国者で民族主義者のマイワンドワル首相は,この挑戦を受けて立ち,ユスフ首相の政策を踏襲し,サルダル・ダウド時代に形成されたモスクワ一辺倒の経済の自立化を進めた.
 ソ連はこれをソ連敵視政策と見て,再び政治不安を煽り,アフガニスタンの経済発展はそれによって,またもや阻害されることになった.
 〔略〕
 議会では,議員の一人バブラク・カルマルが政府と王制に対する激しい批判を繰り広げていた.
 議会でのカルマルとその一派の挑発的発言は,議員たちの怒りを買っていた.
 ある日,長老議員のサルダル・アブドゥラシドがカルマルに向かって
「アラー・アクバル」
と怒鳴りつけ,他の議員たちに
「ソ連の共産主義の手先を叩きのめせ」
と叫んだことがある.
 イスラム教徒の議員達はこれに呼応し,カルマルに殴打の雨を浴びせた.
 彼は,議会建物から仲間に担ぎ出されなければ,間違いなく死んでいたであろう.
〔略〕
当時,マイワンドワル首相も大きな政治的失敗を犯していた.
彼は進歩民主党の指導者として,自分の党員から運営の難しい政府の高い地位に抜擢した.
 だが彼らの貧弱な資質には,まったく考慮を払わなかった.
 しかも高い地位を得た彼らは,自己保身に汲々としていただけだった.
 このことは政府職員を失敗させたばかりでなく,共産主義者にマイワンドワル政権を攻撃する武器を与えることになった.
 そればかりではなく,共産主義者はマイワンドワル首相のCIAとの関係に一般国民や政府職員の関心を集めるのにも成功した.
 このためザヒル・シャー国王もマイワンドワル支持を打ち出せなくなり,彼も辞任するはめに陥った.

 エテマディ首相(1967年11月−71年)
 ヌール・アーメド・エテマディはモハマドザイ王家の一員であり,かつてのアブドゥラーマン.ハーン国王の有能な首相アブドゥル・クドゥース・ハーンの末裔に当たる.
 外務省での長い輝かしい経歴も持ち合わせていた.
 新たに首相に指名されたエテマディは,保守派の西側寄り政治家として,西側諸国との強調関係維持をはかった.
 彼の首相在任中,アメリカの商工業専門家チームがイランとアフガニスタンを訪れ,投資の可能性を詳細に調査した.
 このチームは約150の大型工業プロジェクトへの投資に合意したと言われる.
 このうち60が政府間,90が民間レベルのものであった.
 〔略〕
 エテマディ首相もこうしたジョイント・ベンチャーには乗り気だったが,ソ連指導者は南の隣国の工業化と繁栄からくる脅威を容認することはできなかった.
 ソ連は,これらの事業は受け入れ難い通貨交換レート≠ノ基づいて計画されているという見え透いた口実を設けてアフガニスタン政府に圧力をかけ,これを放棄させるのに成功した.
 当時の事情通は,この計画破棄には計画省モハマッド・ハーン・ジャララールが深く関与していたのではないかとの疑惑を持った.
 この疑惑はのちに,事実であったことが立証された.
 ジャララールはソ連領ウズベク共和国からやって来た難民という経歴を持ち,一見,優雅に洗練された柔和な紳士であったが,KGBスパイだった.
 彼はソ連の支持を受け,その後も計画相,蔵相,商業相などのポストに何度も就き,定期的に国家機密をソ連大使館に流していた.
 この裏切り者ジャララールは現共産政権の商業相の座に収まっている.

 エテマディ首相はこうした政治状況下に置かれ,議会と対立し,民主主義と全体主義の対立の新たな犠牲者になってしまった.
 エテマディが首相の座から去って,共産主義者の征服への長い道のりは一挙に縮められたと言えよう.
 〔略〕
――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.38-47

 また,ユスフ首相の前任者,ダーウード首相の時代には,むしろソ連との軍事的結びつきを強化している.
 『アフガニスタンの歴史と文化』(ヴィレム・フォーヘルサング著,明石書店,2005.4.25),p.452
によれば,これは,アメリカと手を組んだパキスタンに対抗(特にパシュトゥニスタン問題に関して)するためだったという.

 よって,少なくとも現段階では,ザーヒル・シャーが反ソだったとする証拠は何も見出せない.


 【質問】
 「自由,一般参加,直接秘密投票」による最初の議会,1965年の議会は,なぜ混乱したか?

 【回答】
 民主主義具現化の方法論が,各政治勢力でバラバラだった.
 また,政党法が批准されなかったため,議会は伝統勢力とモダニスト・エリートの噛み合わない議論の場となり,そこに煽動的な少数派がさらに論戦を混乱させた.

 最初に混乱を巻き起こしたのは,当選者3人という成績(上院の内,民選分は28議席.下院は216議席)に終わった左翼勢力(アフ【ガ】ーニスタン共産党)だった.彼らは学生デモを組織して議会を包囲.軍隊が出動して鎮圧にかかると暴動になり,死傷者が出た.責任を追及するデモが連日起こり,ユスフ首相は辞任した.

 当時の政治勢力は,3つ
・急増する学生達に支援された,思想的左翼勢力
・伝統的エリート層,つまり名望家・宗教家勢力
・近代教育を受け,近代化を標榜する新エリート層.王室関係者から左翼勢力までを含む.
に分かれていた.

 この3勢力はいずれも,1964年憲法の標榜する民主化路線や議会政治を支持した.
 しかし,民主主義具現化の方法論は違っていて,それぞれは使えるチャンネルを通じ,自勢力影響力拡大を追及した.
 左翼勢力は,議会内で煽動する一方,街頭デモや労働者ストを組織した.
 伝統的エリート勢力は,議会支配に熱を入れた一方,政府と癒着して既得権益拡大に関心を払った.
 新エリート層は,新聞発行や議会での論戦を通じて存在をアピールした.
 こうした,方向を異にした動きが,議会を混乱させることになった.

 混乱議会を招いた原因には,1964年憲法自体の欠陥もあった.
 新憲法は政党法批准を未決定(ペンディング)にしていた.ザーヘル・シャー国王が批准を躊躇い,政党法は次の選挙後に批准される手筈になっていた.
 この間,議会は政党政治抜きになった.
 憲法を起草した人々,閣僚,高級役人は,教育を受けたモダニスト・エリート達である.
 しかし,議会で多数派を成していたのは伝統的エリート,つまり部族長,名望家,宗教家達であった.
 こうした違いから,内閣と議会は,噛み合わない論議を延々と展開することになった.
 そこに少数派の新エリートや左翼が煽動的な論戦を挑んだから,議会は喧騒の場となった.

(遠藤義雄 from 「アフガニスタン――再建と復興への挑戦――」,
日本経済評論社,2004/3/5, p.71-72,抜粋要約)


 【質問】
 「教授団」とは?

 【回答】
 世俗化・近代化への反作用として,公的教育を受けた主に地方出身者層の中から現れた,イスラーム主義集団.
 後にカーブル大学神学部学部長になるゴーラム・ムハンマド・ニヤジに率いられ,1958年からイスラーム協会として活動を開始.
 その中には,イスラーム協会率いるブルハヌッディーン・ラバニ,アフガニスタン解放イスラーム同盟を率いているアブドゥラッスール・サヤフも含まれていた.

 これら教授団のメンバーは,いずれも公的学校で教育を受け,スンニー派にとっての最高学府であるカイロのアズハル大学に留学していた.
 彼らは,この留学中にエジプト・ムスリム同胞団の「近代派」イスラーム主義の息吹に触れ,アフガニスタンに帰国してからカーブル大学で教鞭をとっていた.
 また,ナクシュバンディ教団教組一族のスィブガトゥッラー・ムジャディディーの支持も得ていた.彼もまた,アズハル大学に留学していた.

 この教授団が当初主眼にしていた学生達への啓蒙活動は,大きな影響を及ぼし,学生組織「ムスリム青年団」が1969年に設立された.
 この活動家の中には,アフマド・シャー・マスードやグルブッディーン・ヘクマティアルが含まれていた.
 
 イスラム協会は,指導部として評議会を設置,大衆運動化を積極的に進めていった.
 しかし,ダーウドがPDPAパルチャム派の協力で,1973年7月にクーデターにより権力を掌握すると,そのイスラム主義者への弾圧が始まった.
 この弾圧を逃れ,多くの指導者がパキスタンのペシャーワールに逃れた.

 パシュトゥニスタン問題を抱えるパキスタンは,この亡命イスラム主義者を庇護して利用しようとした.
 しかし,蜜月時代は長く続かなかった.「近代派」イスラム主義者を取り巻く環境が,1975年を境にして変化した.
 ダーウドがムスリム諸国に接近し,ソ連から距離を置くようになった.
 サウジアラビアとイランがダーウド政権支持へと変化したために,アフガニスタンのイスラム主義運動への大スポンサーがいなくなったのだ.
 パキスタンもダーウドとの正面衝突を望まなくなった.
 このような中,イスラム協会は77年頃,比較的穏健なダリー語話者集団と急進的なパシュトゥー語話者集団とに分裂した.
 穏健派はラバニを代表とするイスラム協会を,急進派はヘクマティアルを代表としてイスラム党を名乗った.
 この分裂は,ほぼ民族線と一致するものでもあった.
 イスラム党はさらに,ヘクマティアル派とハーリス派とに分裂していった.

(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.18-20,抜粋要約)


 【質問】
 外国援助は,アフ【ガ】ーンの発展にどれだけ寄与したか?

 【回答】
 アフ【ガ】ーニスタンの事例は,外国援助が経済発展にとってあまり有効とは言えなかったケースである.

 アフ【ガ】ーニスタンでは,1957年から,ソ連の侵攻が始まった前年の1978年までの間,政府投資(≒国内総投資)の約73%が外国援助によって賄われてきており,政府歳入を原資とした投資資金の占める平均割合は,僅か17%に過ぎなかった.
 アフ【ガ】ーニスタンは政治的理由もあって,1978年までは南アジアで最も援助の多かった国であり,1968年から1978年までの援助額は,人口一人当たり年平均で410万ドルにも達していた.

 このような多額の援助にもかかわらず,アフ【ガ】ーニスタンの国内総生産(GDP)に占める国内総投資の比率は,1960年の16%から1978年には13%にまで減少し,国内総貯蓄の占める割合も,同じく13%から10%にまで減少したのである.
 また,1960-78年にかけての一人当たり実質GDPの年平均成長率は0.4%であり,これは南アジア諸国の中で2番目に低い成長率であった(Sabeh [1992]).
〔略〕

 外国援助の規模にもかかわらず,極めて低い経済成長しか達成できなかった理由としては,次の2点が挙げられる.
 第1は,外国援助を主要な原資とした公共投資計画が,援助国の都合で決定され,投資収益率が低かったということである.
 第2は,アフ【ガ】ーニスタン政府が,自国の貯蓄によって資本蓄積を進める努力を殆ど払ってこなかったことである.これは,外国援助が容易に利用できたことのマイナス面の影響である.
 アフ【ガ】ーニスタンにおいては,政府は,外国援助を経済発展に有効に結びつけるための政治的・社会経済的および制度的な環境整備を殆ど行ってこなかった.
 経済発展を妨げる社会経済的要因の一つは,所得分配の不平等である.所得分配の不平等度が極端なまでに大きいため,大多数の国民は低所得に苦しみ,貯蓄率も極めて低いものになっていた.
 そのため資本蓄積率は低く,また購買力も低かったが,それがアフ【ガ】ーニスタンにおける市場発展を阻害し,民間投資流入の大きな妨げになっていた.
 これまで外国援助に過度に依存してきたことが,自立的発展に必要な計画策定能力,財政運営能力,財政制度の発展を阻害した.
 また,工業発展に寄与するような外国援助が行われなかったため,アフ【ガ】ーニスタン経済の国際競争力は改善されず,輸出の中心は依然として加工前の農産物となっている.

 なお,一般に,1960年代以降の外国援助の有効性についての理論的・実証的研究の多くは,3つの仮説を中心として行われてきた.
 第1の仮説は,援助が援助国の政治的・商業的意図で行われると,それは被援助国の経済成長を歪める恐れが大きくなる傾向があるというものである.
 第2の仮説は,外国援助を自国の貯蓄や資本財の輸入に用いると,その援助は生産能力を高め,経済成長を促進させる可能性が高いというものである.
 逆に,外国援助で自国の貯蓄を代替させ,消費に使用すると,援助は負の効果を持ち,経済成長を妨げるものとなるというのが,第3の仮説である.

(サイード・ガザンファ・サーベ Sayed Ghazanfa Sabeh
from 「社会資本と経済発展」,名古屋大学出版会,'94,P.114-119)


 【質問】
 なぜ1950年代からソ連は,アフガーニスタン軍への影響力を強めていったのか?

 【回答】
 アフガーニスタンとパキスタンとの間には国境問題,いわゆるパシュトゥーニスタン問題があって,1955年には武力衝突までにはいたらなかったものの,アフガーン軍が動員されるところまで悪化していた.
 ところがそのパキスタンとの間に,アメリカは1954年,ムトゥラ安全保障条約を締結し,1955年にはアメリカ,トルコ,イラク,イラン,そしてパキスタンから成るバグダード条約(のちの中央条約機構CENTO)という反共連合が出来上がっていた.
 こうなるとソ連としては,「味方(インド)の敵(パキスタン)の敵は味方」の論理により,「敵(パキスタン)の敵」であるアフガーニスタンに接近し,パシュトゥーニスタン問題ではアフガーニスタンを支援することと,兵器を含む大規模な援助の提供を申し入れた.
 当時のダーウード首相はこの申し出を喜んで受け入れ,まもなくソ連製の大量の兵器と,ソ連軍軍事顧問団がやってくることになったのだった.
 後にダーウードは独裁政権時代,そのソ連に訓練を受けた軍隊の共産クーデターによって殺害されてしまうのだから,皮肉としか言いようがない.

 【参考ページ】
『アフガニスタンの歴史と文化』(ヴィレム・フォーヘルサング著,明石書店,2005.4.25),p.452-453

【ぐんじさんぎょう】,2010/03/27 21:00
を加筆改修


 【質問】
 1960年代のアフ【ガ】ーニスタン王国の軍事力は?

 【回答】
 1967年度は,軍事費は約10億アフガニで,総予算の約15%.
(当時1ドル=76.4アフガニ)

 アフ【ガ】ーニスタンでは1955年以降,ソ連・チェコの援助によって軍の近代化を行っており,そのためにソ連からの借款,約1億ドルが費やされた模様.
 そして陸空軍とも,ソ連軍事使節団の指導を受けていた.

 兵力は3個軍団,4個師団で,約8万人程度と見られていた.
 ただし有事の際には予備役のほか,各部族民に兵器を与えることで,相当数の補充兵力が得られると見積もられていた.

 徴兵制(2年)と志願制が併用されており,徴兵対象者は22〜42歳の男子.
 士官教育はカーブル陸軍士官学校(1932年設立)で行われている.
 同校では戦前は多数のトルコ人教官が指導していたが,戦後はもっぱらソ連式訓練.

 空軍はMiG-17,MiG-21,Il-28が主力.
 ほかに旧式機,ヘリコプター含め,総数200以上あったと推定される.
 主要基地はマザリ・シャリーフ,ファラー,バグラム.
 バグラムはソ連の最新設備を備えている.
 航空学校は1958年に開設している.

 【参考ページ】
『アフガニスタン王国』(在アフガニスタン日本国大使館編,日本国際問題研究所,1969.3.25),p.30
http://www.clavework-graphics.co.uk/(画像引用元)

MiG-17 - Afghan Air Force 1979

MiG-17F - Afghan Air Force 1983

【ぐんじさんぎょう】,2010/03/20 22:00
を加筆改修


 【質問】
 モハマドザイ王家衰退の原因は?

 【回答】
 経済学者で元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミによれば,ザヒル・シャー国王の臆病さと極端な警戒心,王家自体の分裂,そしてシャフィク首相のスタンド・プレーが原因だったという.
 以下引用.

――――――
 〔略〕
3つの原因が考えられる.
 第1はザヒル・シャー国王の臆病さと極端な警戒心であった.
 第2は王家自体の分裂であった.
 王家が権力を握っていられたのは,長老や真の実力者たちの団結があってこそのものであった.
 第3はムーサ・シャフィク首相のスタンド・プレーだった.
 シャフィクは有能な官僚であり,度胸もあり,決断力もあった.
 しかも愛国者で,共産主義者には手強い敵であった.
 だが彼は,主人であるザヒル・シャー国王のように控え目な態度をとることができず,自分の力を誇示し,墓穴を掘ってしまった.
 〔略〕

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.55-56

 【質問】
 ダウドがクーデターを起こした理由は?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,王家メンバーの政治参加禁止を規定する新憲法が,ダーウードの野心の妨げになったからだという.
 以下引用.

――――――
 〔略〕
 新憲法は,個人の自由,報道の自由,司法権の独立,自由選挙を認め,第24条では王家メンバーの政治参加禁止を規定するものであった.
 国王は,殆ど無修正で,この新憲法承認に成功した(発布は64年10月).
 〔略〕
新憲法はダウド首相と弟のナイムの野心には大きな打撃となり,二人は排除された.

 表面上,すべてはうまくいっているように見えた.
 だが,このときからダウドは復讐の執念にとりつかれ,自らの誇大妄想の夢を抱きつつ,ザヒル・シャー国王打倒の道を探り始めたのである.
 〔略〕
――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.37

 一方,
『アフガニスタンの歴史と文化』(ヴィレム・フォーヘルサング著,明石書店,2005.4.25),p.463-464
では,明言はされていないが,

(1) パキスタンが当時,ソ連の主要敵国だった中国との関係を模索
      ↓
(2) ソ連はパキスタンの敵であるインドと条約締結
      ↓
(3) イン・パ戦争

という当時の国際環境を紹介している.
 それは暗に,ソ連がパキスタン対策のためにアフ【ガ】ーンでも何らかのアクションを起こしたかもしれないことを示唆しているように思える.

 同書ではまた,
>ダーウードは軍と共産党のパルチャム派の支持を受けていた.(p.464)
とも述べている.

 詳しくは同書を参照されたし.


 【質問】
 なぜクーデター以前にダウドを排除することができなかったのか?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=は,以下を理由として挙げている.
・ソ連に対する配慮,
・王家の絆,
・いかなる暴力にも生来的に嫌悪感を抱く性格
・彼の側からのどんな些細な行動も共産主義者を利するという恐怖感があったこと
 そして最後の理由が,決定的な理由だったとしている.

 以下引用.

――――――
 国王が憂慮していた一つの大きな問題は,サルダル・モハマッド・ダウドの動静であった.
 国王はダウドが野心に燃えながら,ソ連の手中に嵌まり込んでいるのを知っていた.
 だが穏健で保守的なザヒル・シャー国王は,ダウドを排除しなかった.
 おそらく,できなかったのであろう.
 それにはいくつかの理由がある.
 まずソ連に対する配慮,そして王家の絆,さらにはいかなる暴力にも生来的に嫌悪感を抱く性格が挙げられる.
 だが決定的なことは,当時,彼の側からのどんな些細な行動も共産主義者を利するという恐怖感があったことだろう.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.49

 ダウドとパルチャム派との結びつきを考えるに,少なくとも否定はしえないだろう.


 【質問】
 クーデター直前,ザヒル・シャーは何故国外に出たのか?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,ソ連からの招待を拒否し切れなかったからだという.

――――――
 この頃,ソ連は周到な準備のすえ,ソ連最高会議幹部会議長ポドゴルヌイをカブールに公式招待するようアフガニスタン政府に要請した.
 ザヒル・シャー国王は,ソ連が鎧のそでから何かものを新たな出そうとしているのがわかったが,拒否できず,この要求に同意してしまった.
 〔略〕
国王との非公式会談で,ポドゴルヌイは国王に露骨に迫った.
 ポドゴルヌイは
「国王になって何年たったか」
とザヒル・シャー国王に質問した.
 国王が
「40年」
と答えると,ポドゴルヌイは意味ありげな笑いを浮かべて,さらに続けた.
「40年も経って,あなたは疲れているにちがいない.休みが必要です.
 ソ連政府は喜んでソ連領内のどこでも,あなたの行きたい場所で休暇をとることを引き受けます」
 国王は,その言わんとする意味を十分理解した.
 そして
「私は確かにおもわしくない.
 現在,ヨーロッパへ療養に行く計画を立てています.
 あなたの心遣いに感謝します」
と答えて,その場を切りぬけた.
 〔略〕
 ザヒル・シャー国王はソ連に追い詰められ,国内では混乱に直面し,自分が悪魔の深みに嵌まったことに気付いた.
 そして,ついに祖国を離れる道を選んだ.
 彼はまた,貧しい国民に血生臭い争いをしてほしくなかったし,そうなった場合,その責を負いたくもなかったのである.
 〔略〕
 だが,サルダル・モハマッド・ダウドが危険な動きをしているさなかにおいてすら優柔不断であったことは,非難されるべきだろう.
 〔略〕

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.54-56

 ただし,ダウド・クーデターとソ連との結びつきは2010年現在,確認はされていない模様.
 上記の会話も,当事者取材を経ての記述なのかどうか不明.


 【質問】
 ダウドのクーデターはどのように行われたのか?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,ザーヒル・シャー国王外遊中に,ラスリ准将らが小部隊に分かれ,アブドゥル・ワリ将軍,ムーサ・シャフィク首相,防衛大臣ハム・モハマッド,摂政アフメド・シャー皇太子,ホマイラ皇后らを拘禁.
 将校達は出勤途中,通りかかったところを車から引き摺り下ろされて,おとなしく降伏し,動物園にまとめて収監されたという.
 宮殿警護の戦車は,前日の工作で脱輪止めピンを外されており,動けなくなっていたという.

 以下引用.

――――――
 〔略〕
 1973年7月17日深夜1時,数人の下級士官を含む33人が行動を開始した.
 一行は,23番街のナーデルシャーメナと呼ばれるロシア風の建物が立ち並ぶ一角にあるモハマッド・ハイデル・ラスリ准将のアパートを出発し,ディルクシャ宮殿に向かった.
 〔略〕

 ダウドは,自宅にほど近いディルクシャ宮殿前広場で,ラスリ准将を待っていた.
 アブドゥル・ワリ将軍の邸も,この近くにあった.

 ラスリ准将の一団が到着するのを待ち構えていたダウドは,到着後まず皆に向かって尋ねた.
「この計画が失敗に終わったら,お前達の中の誰が,この私の始末をつけてくれるか」
 すると,ファイズ・モハマッドというソ連でコマンド教育を受けた准大尉が進み出て,
「私に銃を撃たせてください」
と言った.
 この男はワリ将軍から数知れぬ恩恵を受けながら,その恩を仇で返そうとしていた.
 彼はすでに,その前日,宮殿警備に当たっている戦車の整備,給油をすると偽って,車輪の脱輪止めピンを外し,動けなくしていた.

 反乱グループは,ダウドの首相時代の秘書官,モハマッド・ハッサン・シャークを通じて,ソ連大使館から無線機と自動小銃を手に入れていた.
 午前2時,数台の戦車と共に反乱グループはワリ将軍邸に向かった.
 ラスリ准将は,ワリ将軍を生け捕りにするよう命じていた.
 突然の攻撃を受け,ワリ将軍と兵士達は機関銃で応戦して逃げ回った.
 だが武器も兵士も不十分だったため,ワリ将軍は結局,生け捕りにされた.
 将軍邸の上部は,数発の戦車砲を受けて吹き飛び,反乱グループに4人,将軍側に数人の死者が出た.

 別の小隊は,イタリア滞在中のザヒル・シャー国王の留守を守る摂政,アフメド・シャー皇太子を押さえるため,宮殿の外にある王子の邸宅に派遣された.
 こちらのほうは大した衝突もなく,制圧に成功した.
 防衛大臣のハム・モハマッドは,イラクの革命記念レセプションに出席した後の寝入りばなを急襲され,自宅で拘禁された.

 午前4時,反乱者達は,ホマイラ皇后の住む宮殿を襲撃した.
 宮殿警護の戦車は,前日の工作で脱輪止めピンを外されており,動けなくなっていた.
 宮殿は厚い警備体制で守られていたのだが,流血の事態を避けるため,皇后は宮殿を明け渡すよう命じた.
 夜は明けようとしていた.
 ムーサ・シャフィク首相は早い段階で,カルガ地区の自宅で逮捕され,カブール動物園に拘禁されていた.

 戦車2台が首都の北西部出口に当たるカルテ・パルワンに配備され,コヒスタン守備隊からの反撃に備えていた.
 軍の将校達の多くは,市中心部からカブール動物園より,さらに西にあるカルテ・チャール地区に居を構えていた.
 そこで,動物園近くの交差点に戦車1台と武装した反乱兵士数人が配備された.
 襟の赤線と灰緑色の軍隊ズボンだけが,その地位に足る資格を示すに過ぎない無能な将校達は,出勤途中,通りかかったところを車から引き摺り下ろされて,おとなしく降伏し,動物園にまとめて収監された.
 〔略〕

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.60-63

 【質問】
 モハマッド・ハイデル・ラスリ准将とは?

 【回答】
 ラスリ准将は,モハマドザイ王家出身で,グラム・ハイデル・アダラト元農業相のいとこ.
 ダウドの熱烈な支持者の一人.
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,信仰心は篤く,愛国心に溢れ,勇猛果敢で,革命的な思想の持ち主であったが,頭の切れる政治家ではなく,不満分子に過ぎなかったという.

 以下引用.

――――――
 ラスリ准将は,グラム・ハイデル・アダラト前農業相のいとこであり,義弟でもある.
 ダウドの熱烈な支持者の一人であり,任期半ばにアブドゥル・ワリ将軍の命令で,退役させられたと噂されている.
 ラスリ准将は,モハマドザイ王家の出で,信仰心は篤く,愛国心に溢れ,勇猛果敢で,革命的な思想の持ち主であった.
 だが,頭の切れる政治家ではなかった.
 彼は自分が不当な扱いを受けたと思い込み,その報復を企てた不満分子に過ぎなかった.
 ラスリは,事がうまく運べば,その分け前にあずかれるだろうと,盲目的にダウドの下に馳せ参じた.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.60-61

 【質問】
 ダウドのクーデターが成功したのは何故か?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=は,以下の諸点を挙げている.

――――――
 アフガニスタン王朝が,ダウドのクーデターに倒された主な理由として,次の点が指摘できよう.
 1,ザヒル・シャー国王に,軍のダウドおよび共産派に対する徹底的な抵抗意思が欠けていた.
 2,ホマイラ皇后が,流血の惨事や破壊に対し,恐怖心を抱いていた.
 3,ダウド自身が国王のいとこであり,また,義弟(ザイナブ王女の夫)でもあった.
 4,ダウドは30年もの間,軍内部で実力を備えた将軍としての地位を保持し,退役後も,兵士の間に絶大な影響力を持っていた.
 5,国民の果たせぬ夢であった共和制を宣言することにより,青年層の支持を獲得した.
 6,インテリ層も,アフガニスタンの社会全般にわたる後進性に失望し,王制に幻滅していた.
 7.ソ連は巧みにこのクーデターを操り,イスラム教の原理主義者は,事の本質を理解しないまま,クーデター支持者として仕立て上げられていった.特に青年層がそうだった.
 この宗教的にも,思想的にも統一を欠いた構図が,ダウドおよびその同誌,ソ連につけこまれたのであった.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.63-64

――――――
 元首相,元防衛大臣の肩書を持つダウドは,軍内部に大きな影響力を持ち,特にソ連で軍事教育を受けた若い士官たちは,30年間に渡って軍部を率いてきたダウドに心酔していた.

――――――同,p.61

 要するに,ダウドの意思が強く,ザヒル・シャーの抵抗の意思が薄弱だったことと,軍や青年層,インテリ層の支持を支持を得られていたためだと言えよう.
 ただし,ソ連がクーデターを操っていたかどうかについては,判断保留としておきたい.


 【質問】
 ダウド独裁政権は共産主義政権だったのか?

 【回答】
 クーデター前にPDPAと手を結んだに過ぎず,そのPDPAは1980年代になっても6500人の党員しかいなかった.
 とても,共産主義を前面に打ち出した政権といえるようなものではなかった.
 以下引用.

 〔略〕
 憲法に則った君主政治の期間,王によって権力から遠ざけられていたダウドは,アフガン政府に不満を抱いていた――共産党員――人々と協力関係を結んだ.
 PDPAはいまだに小さな党(1980年代初頭になっても2000〜6500人強の党員しかいなかった)でしかなかったが,ハルク派の支持層は教員,ジャーナリスト,軍の下士官,部族から離れた地方のパターン族で,パルチャミ派の支持層は主にダリ語を母語とするホワイトカラーであり,カブールに基盤を置いていた.
 ハルク派は支持者の数を重視していた.

 王が外遊中,ダウドは打って出た.
 1973年7月17日のクーデターで,彼は大統領に就任し,アフガン君主政治に終わりを次げた.
 〔略〕
 ダウドは協力した共産党員を内閣のポストにつけた.
 彼の政策ではソビエト連邦と,より緊密な関係を持つことに重点が置かれ,パキスタンとの間にはこれまでにも増して緊張を生み出すこととなった.

 しかし1年もたたない_に,PDPAの関心の対象はダウドのものよりはモスクワの関心に近いものであることが分かった.
 そこでダウドは,権力を確固としたものにするため,徐々に最初の政府を形成していたパルチャミ派のPDPA閣僚を退任させる様動いた(強硬路線をとるハルク派はすでに排斥されていた).
 1976年にはイラン(シャーは安定した隣国関係を望んでいた)からの救援物資を受け入れ,再び伝統的なバランスのとれたアフガンの中立性を主張した.
 また,ダウドが就任した始めの何年かで政府内にかなり大きくなっていたソビエトの影響を制限するため,ソビエト人アドバイザーの数を減らすなどの措置をとった.
 〔略〕

デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.24-25

 なお,ダウドのクーデターは共産党抜きにはなしえなかった,などと誇大表現する人もいるようなので,注意されたし.


 【質問】
 ダウド・ハーンの性格は?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,独善的性格であり,利己主義者だという.
 また,決して物怖じしない人物でもあったという.
 そして,野心家でもあったと述べられている.

――――――
 〔略〕
 ナディル・シャー国王は即位まもないころ,ドイツの有名な第1次大戦退役将校,クリスティン大佐に頼んで,自分の息子モハマッド・ザヒルと,甥のサルダル・モハマッド・ダウドら30人にドイツ式軍事訓練を受けさせた.
 このとき,モハマッド・ザヒルは厳しい軍機に対応したが,ダウドは,のちに彼を不名誉な死に追いやった意固地さと反抗的態度を示した.
 クリスティン大佐はダウドの態度に腹を立て,彼を叱った.
「アフガニスタンはやがて君のモノになるだろう.
 だが君の独善的性格と利己主義は,壁にぶつけた卵のようにアフガニスタンを破壊するにちがいない」
 〔略〕
――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.25-26
――――――
 〔略〕
 ソ連がアフガニスタンへの影響力拡大の道具として,国王のいとこであり,義理の兄に当たるサルダル・モハマッド・ダウドを選んだのは,したたかな計算をした上でのことである.
 自己中心的な野心家ダウドは,アフガニスタンの偉大な指導者,過去の栄光の再建者となることをひたすら夢見ていた.
 彼の机の上には,たった一冊の本しかなかったといわれる.
 それはナポレオンの伝記だったという.
 とはいえ,彼には偉大な指導者たる資質はまったくなかった.
 中学卒の学歴しかなく,複雑な政治的駆け引きを操る知識は皆無に等しかった.
 だが,決して物怖じしない人物ではあった.
 彼の野心は,ソ連にそそのかされて火が付いたといえよう.
 そして,親類筋に当たるグラム・ハイデル・アダラト(著者のおじに当たる)の助けを借りて,極秘で政党作りに乗り出した.
 〔略〕
――――――同,p.31

――――――
 〔略〕
 サルダル・モハマッド・ダウドは混乱した精神の持ち主であり,性格は分裂症で,とめどもなく野心をふくらませる人間だった.
 彼に政府の手綱をさずけるべきではなかったのである.
 彼はあまりにも誇り高く,ナイーブで,かつあまりに鈍感であった.
 20世紀のマキャベリ的政治家として外交問題をこなすことなどとうていできなかった.
 〔略〕
――――――同,p.107

 少なくとも野心家であったことは,クーデターを起こして独裁政権を打ちたてたところから見ても,間違いないだろう.


 【質問】
 マイワンドワル元首相獄死はダウドの差し金だったのか?

 【回答】
 モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,そうではなく,マイワンドワルは自白を強いられての自殺だっただろうと推測している.
 以下,引用.

――――――
 〔略〕
マイワンドワルが獄中で,ネクタイで首を吊って自殺したとの報告をダウド大統領が受けたときに,その場に居合わせた者の証言で推察できる.
「当時の内相,アブドゥル・カディル・ヌーリスタニの入室が告げられたとき,私は大統領と一緒にいた(前内相のフェイズ・モハマッドは,リビアへ外交特使として追放されていた).
 カディルは入ってくると敬礼して,
『閣下,マイワンドワルが死にました』
と報告した.
 テーブルの前にかがんでいたダウド大統領は驚きのあまり,背をぴしっと立て直し,次いで
『お前達が殺したんだ.お前達のせいだ』
と言った.
 そして両手で頭を抱え,左右に揺すって
『ホォブナショド.ホォブナショド』(起きてはならぬことだ)
と呟いていた」
 一般には,大統領がマイワンドワル殺しの罪を着せられているが,大統領はつんぼ桟敷に置かれており,彼の非情な革命的部下達がどのような手段で自白を強いたのか,まったく知らなかったことがこの証言で読み取れる.
 〔略〕
 ※マイワンドワルの死 マイワンドワルは1973年12月,死刑判決を受けたとされる.
 だが死亡年月日は,本書のこの記述からすると,カディル・ヌーリスタニが内相になった76年以降のことになる.
――――――『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.69-70

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