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◆◆◆◆朝鮮族 Koreaiak Kínában
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東亜FAQ目次


 【質問】
 中国朝鮮族に対する中国共産党の姿勢は?

 【回答】

 中華人民共和国と言う国には2000年段階で55の少数民族がいます.
 少数民族と言っても,そんじょそこらの欧州の国よりも人口の多いものもいますが….

 朝鮮族もその少数民族の1つで,2000年の人口調査統計では凡そ192万人がいます.
 この朝鮮族が,日本に於ける在日朝鮮・韓国人と異なるのは,中国の朝鮮族は,朝鮮半島にルーツがありながら,中国の国籍を所持している事です.

 国籍の決定は一般的に各国の国内管轄事項に属するものとされていますが,その中国共産党の考え方としての嚆矢は,解放前の1931年11月に決定した「中華ソヴェト共和国憲法大綱」第4条に於いて,
「男女,種族(漢,満,蒙,回,蔵,苗,黎と中国にいる台湾,高麗,安南人など)は…皆ソヴェト共和国の公民である」
と規定しています.
 また,東北地区に於ける中国共産党の党組織も,
「1928年以後から東北,特に延辺の朝鮮居民を東北境内の少数民族に列し,彼等は中国人と同等の一切の権利を有し,尚彼等が自治権と分離権を有する事を承認していた.」
としていました.

 これらは当時政権を掌握していなかった中国共産党にとっては,主に民族連合戦線の結成を目的とする為のもので,多分にスローガン的なものだったりします.

 太平洋戦争末期,ソ連が日本に宣戦布告して満洲に流れ込むと,その占領地区は中国共産党と国民党の草刈場となりました.
 国民党政権は,当時国際的承認を得た中国の公式的な政権であり,軍事力に於いても中国共産党より遙かに勝っていました.
 従って,中国共産党は解放後の東北戦略に於いて,日本と戦闘を繰り広げてきた抗日戦争期と同様に,共産主義の影響を早くから受けてきた東北地区居住朝鮮人を国民党に対抗する為の重要な要素と考えたのは当然でしたが,実際には未だはっきりとした方針を打ち出せていません.

 1945年9月に中国共産党東北局は,東北地区在住の朝鮮居民は一般的に中国境内の少数民族と同一視する方針を採りましたが,具体的な内容については言及しませんでした.
 1946年8月になって,「東北各省市(特別市)民主政府協同施政綱領」が採択され,その中では東北局は,蒙・回民族に関しては,「民主自治を賛助する」と言う基本方針を定めていますが,東北地区居住朝鮮人に関しては,「保護」と「友誼」を語るに過ぎませんでした.

 中国共産党が東北地区居住朝鮮人の問題を真っ正面から取り上げたのは,内戦真っ只中の1946年末の事です.
 国共内戦期の東北に於ける中国共産党の有力指導者で,中国共産党吉林省政府主席の周保中は,
「朝鮮人は詰まるところ,中国国内の少数民族なのか? それとも外国の僑民なのか?」
と,東北地区居住朝鮮人の国籍帰属問題について本格的な問題提起をしたのが切っ掛けでした.

 周保中がこの様な問題を取り上げたのは,当時の戦況が多分に関係してきます.
 紅軍は,5月に長春,吉林戦で国民党政府軍に敗北し,中国共産党は軍事的に最も厳しい時期に入ります.
 中国共産党吉林省委員会は,延辺を中心とする東満根拠地を建設する方針を決定し,中国共産党吉林省委員会,省政府,省軍区などの機関は,8月に延辺に移転します.
 こうした状況は1年半くらい続き,延辺は中国共産党吉林省委員会の管轄区域の面積の8割を占める,唯一信頼できる後方基地と化しました.
 そして,この戦略要地である延辺地区の人口の8割が朝鮮人で占められていた事から,中国共産党としてこの問題に触れざるを得なくなったのです.

 演説を行った周保中は,満州事変後に満州地区の党書記に就任し,朝鮮人の多い北満洲や東満州で日本軍と戦う中で,朝鮮人抗日運動家達と深い友誼を結んでいました.
 しかし,この問題についての結論は,
「党は現在の新環境の中で,未だ朝鮮人の少数民族としての地位を明確に宣布していないものの,実際に於いては民族平等政策を実施していて,それは将来必ず発展して行くであろう」
という極めて曖昧なものとなり,朝鮮人の少数民族としての地位は1946年末の時点では未だ確立されていませんでした.

 この点は,中国共産党と当時朝鮮半島北部で着々と建国を進めていた朝鮮共産党の上層部との間で合意が形成されていなかった為と考えられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/29 23:27
青文字:加筆改修部分

 さて,中国共産党は,早い時期から統治区域を確保する為に農村大衆運動に着手していましたが,それは1946年末までに解放区の如何なる地域でも実施すべき土地改革運動と規定されるに至ります.
 1947年後半には,東北地区に於ける戦局が好転し,紅軍優位の状況になり,系統的な指導が発揮できる様になりました.
 10月には「中国土地法大綱」が発布され,12月には東北行政委員会から「補充方法」が公布されました.
 その第13条には,「東北解放区内の各少数民族は官人と同じく土地を分配されるべきであり,同時に所有権を有するべきである」となっていました.

 当時,東北地区居住朝鮮人の職業は殆どが農業で,土地所有権は彼等にとって非常に重要な現実的な意義を持っていました.
 朝鮮人の少数民族の地位問題,つまり国籍問題が具体性を帯びた根本的な問題として浮上してきたのです.

 朝鮮人多数派地域であった延辺の党書記は,劉俊秀でした.
 劉俊秀は,土地所有権の取得に当たり,朝鮮人は中国国籍が無い為中国公民としての待遇を受ける事が困難であると言う状況だったと述懐しています.
 しかし,朝鮮人は「我が祖国は朝鮮」と言う感情が強い為,彼等を急に中国国籍に編入すると,彼等の感情を傷つけるのでは無いか,と悩んだそうです.

 ある時,劉俊秀はある朝鮮人の老人に,
「こちら側(つまり中国)とあちら側(朝鮮)とどちらが好きですか?」
と尋ねてみました.
 すると,その老人曰く,
「まるで父親と母親みたいなもので,どちらがもっと好きなんて言えるか?」
 この答えを聞いて,劉俊秀は,朝鮮人に性急な国籍選択を迫る事の難しさを悟って,より柔軟で便宜的な方法を講じ,彼等の二重国籍を承認する事で,当面の緊迫した問題も解決でき,彼等の感情も害さずに済むのでは無いだろうか,との考えに至りました.

 劉俊秀がこの意見を党中央に挙げたところ,中央から即座に許可が出たと言います.

 この「二重国籍」政策の目的は土地所有権以外にもう1つの問題,朝鮮人子弟向けの徴兵問題も絡んでいました.
 兵役義務は国家に対する忠誠義務の主な表れで,自国国民に対してのみ課せられるのが一般的です.

 劉俊秀の回想に依れば,
「(東北居住の朝鮮人は)中国人民の解放戦争に参加できるし,又朝鮮が外敵の侵略を受けた場合には,彼等が望めば何時でも朝鮮公民の身分で朝鮮に帰り,反侵略戦争に参加する事も可能である」
としており,東北地区居住朝鮮人への徴兵問題も考慮に入れられていたことが伺えます.

 事実,東北地区に居住していた朝鮮人は,紅軍にとって貴重な兵源でした.
 国共内戦期に入隊した朝鮮族は64,942名となっており,その内死者は3,943名と結構な数に上ります.

 また,朝鮮戦争に於いても,朝鮮族は多大な犠牲を払いました.
 先ず,中朝両国の協議により,1949年夏から1950年春にかけて,国共内戦期に入隊し前線を経験した挑戦族出身の軍人4万名近くが人民軍として,朝鮮戦争に参加しています.
 彼等は,満州国崩壊直後に於ける東北地区の社会の混乱と治安の悪化から自分の家族と故郷を守る為に紅軍に入隊し,国共内戦の過程で人民解放軍の一部となりました.
 その後,中隊長以下の兵士達は,真夜中の移動する列車の車内で北朝鮮行きが告げられました.

 そして,東北地区に居住している朝鮮族の中から,新たに1万名以上が朝鮮戦線に赴きます.
 地域別に見ると,延辺では,5,000名の朝鮮族青年が直接前線で戦い,5,740名は中国側の最も必要とする通訳,看護婦,運転手として朝鮮戦争に参加し,総計で6,840名以上が戦死すると言う損害を出しています.
 延辺の他に,黒竜江省から2,526名の朝鮮族青年が入隊し,遼寧省の瀋陽から入隊した朝鮮族青年の中で156名が戦死しました.
 中国側は戦死者の人数を公表していないので,正確な数字は不明ですが,当時107万人程度の人口であった朝鮮族全体からすれば,その数字は決して小さなものでは無かった事が伺えます.

 それは扨措き,中国共産党は1947年5月に,国民党軍との2ヶ月に及ぶ戦闘に勝利し,秋に入った9月には東北地区での勝利を幹部達も確信できる様になりました.
 1948年は東北地区に於ける人民解放軍の大攻勢と共に始まり,中国共産党は3月までには瀋陽,長春,錦州を除く総ての地域を手に入れました.

 豆満江を越えた対岸の北朝鮮では,1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が成立し,11月20日から公民証の交換,交付及び身分証の登録事業が開始されました.
 この時点で,今まで先送りしていた東北地区居住朝鮮人の国籍に対し,中国共産党は明確な方針を打ち出します.
 8月15日に中国共産党延辺当局は,
「延辺朝鮮民族人民の中国境内の少数民族としての地位を確定」
すると言う公文を発表しました.
 12月9日に中国共産党延辺当局は,延辺居住朝鮮人の中国少数民族としての地位を再確認し,「朝鮮少数民族」と言う言葉を用い始めました.

 朝鮮人の中国公民としての地位wが確定された以上,中国政府は民族平等の原則に従って,彼等に土地権,人権(此所で言う人権とは参政権の事)及び財産権を与え,彼等の生命や財産の安全を保護するとしています.
 村・区・県・省レベルの選挙工作が「勝利的に」終了した1949年8月,第1次東北人民代表大会が行われ,東北人民政府が成立しました.
 高崗,林楓等41名の政府委員の中には,朝鮮人の朱徳海も入っていました.

 そして,1949年9月に全国政権としての中華人民共和国を準備した中国人民政治協商会議が北京で開かれましたが,政治協商会議の代表は,個人的な経歴,特に中国共産党との距離関係によって与えられたものでした.
 朱徳海は「国内少数民族代表」に選ばれ,臨時憲法の役割を果たした「中国人民政治協商会議共同綱領」の採択に参加しました.
 朱徳海は,延辺に於ける民族自治制度を主張し,中国政府に中国朝鮮族のリーダーとして認められ,文化大革命で失脚するまでの間,延辺の党・行政・軍のトップや,吉林省副省長の地位に就き,東北全体の実力者として活躍します.

 因みに,朱徳海はこの政治協商会議で,
「東北の朝鮮人民は中華民族構成の一部分であり,中華各族人民大家庭の一員である」
と宣言して,中国居住の朝鮮人の地位に決着を付けたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/30 23:32

 さて,1948年春以降,東北地区での中国共産党の勝利は確定的になり,共産党政府は解放区に於いて,近代的な行政制度を整える事になりました.
 6月,東北公安処は「戸口管理暫定辨法の頒布に関する件」を公布しますが,戸口,即ち戸籍と言うのは国籍と密接な関係があります.
 その中には,
「我が東北解放区境内の城鎮に居住する住民は,国籍,民族,職業を問わず,一律に戸口を登録し,移動を報告し,管理に服従する事…(中略)…戸口の整理が完了してからは,各々審査して,住民証を発給する」
と規定していました.

 8月15日,中国共産党延辺地委は,「延辺民族問題に関して」と言う文書を出していますが,この文書では「公民」と「僑民」を次の様に明確に区別しました.

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 凡そ延辺に居住している朝鮮人民で,戸口を登録して戸籍のある人民は公民である.
 凡そ家族は朝鮮にいるが,財産は延辺にある者は,政府の許可を経て公民としての承認を受けられる.
 凡そ臨時に往来していて,戸籍の無い者,(朝鮮に)移住してから,再び戻ってきた者,我が高級政府の批准を得ないで,移住してきた者は僑民である.
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 1949年初めからは,延辺でも村レベルの選挙が始まります.
 この際に中国公民と朝鮮僑民の区別が一層明確にされ,中国公民には選挙権と被選挙権を与え,「公民証」を発給し,中国公民の総ての権利が行使できる様になりました.
 漢族と雑居している黒竜江省の朝鮮人の中でも,1948年9月から選挙が行われ,「朝鮮民族事務は一般的に少数民族問題として処理した」とされています.

 1950年6月,朝鮮戦争が勃発すると,中国東北地区と北朝鮮との間に激しい人口移動が発生しました.
 中朝国境に位置し,朝鮮族が多数居住している延辺,遼寧省の東部などには,朝鮮からの人口の流入が増大したのです.
 具体的には戦争初期に於ける避難や戦時中の負傷兵安置の為のサンクチュアリと言う位置づけでした.
 こうした事から,中国共産党中央は,朝鮮族の国籍について2回補充的な指示を出し,更に停戦協定成立後の1953年8月17日,中国朝鮮族と僑民の違いを次の様に指示しました.

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 凡そ中華人民共和国の成立以前から,東北境内に居住していて,農村で土地,家屋を分配され,或いは都市に家と職業を持つ朝鮮人民は,中国国籍を持つ朝鮮族である.
 しかし,既に朝鮮僑民に登録した者は,依然として朝鮮僑民で変更できない.
 凡そ,1949年10月1日以降東北に移住してきた者は,一律に朝鮮僑民である.
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 戦前,中国と朝鮮半島の間は,一応,豆満江を境界にしていたとは言え,ほぼ地続きに等しく,徒歩で豆満江を渡り,親戚を訪ねたりする朝鮮人が普通にいました.
 「満州国」独立期の1942年に道路橋が開通し,図們税関には監査科が駐屯していたものの,「国境」を渡る旅客は通行証など持たずに,自由に往来していました.
 1945年8月17日,ソ連軍が国境の橋梁を接収し,1946年春のソ連軍の撤兵後は,中国共産党図們城防司令部が警備隊を派遣して国境管理を行っています.
 そして,1948年4月以降,東北人民政府商業部駐図們弁事処警備隊が管理業務を引き継ぎました.

 とは言え,この当時でも中国と北朝鮮との間には明確な国境の概念は無く,豆満江を越えての交通には何らの制約もありませんでした.
 1946~1947年にかけて図們に居住していた人に依れば,一部の朝鮮人学生は毎日豆満江を越えて通学してましたし,住民達は川を越えて自由に親戚を訪れる事が出来ました.

 ところが,1948年8月に東北政府が掲示した「朝鮮人帰国申請に対する暫行辨法」で次の様に規定されます.

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 凡そ朝鮮人で帰国しようとする者は,事前に所在地県以上の政府の許可を受ける事が必要である.
 凡そ朝鮮人で帰国しようとする者は,帰国請求書に次の点を記載する事.
 1. 姓名,性別,年齢,職業,詳細な経歴
 2. 帰国理由,目的地(北朝鮮のどの道,どの郡)
 3. 朝鮮国内での経歴を証明できる社会関係
 上記の請求書は,当地の県以上政府の審査許可を経てから東北政委外事処に送って処理する.
 凡そ帰国許可を得た朝鮮人については,東北政委から北朝鮮人民委員会に照会して,返事を貰ってから外事処から当地政府に通知し,本人に旅行証を発給して帰国させる.
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 同時に北朝鮮側も国境管理を強化し始めました.
 1948年12月から,北朝鮮は東北地区居住朝鮮人が朝鮮に入国する条件を次の様に明確に規定しています.

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 必ず朝鮮人民共和国内務省で許可した合法的越境証明(咸鏡北道は当分の間,道内部許可で有効)を持つ者だけに入境を許可し,その他機関の証明は総て無効とする.
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 即ち,両国とも近代国家が成立した時点で国境の管理が強化され始め,出入国手続きが要求される様になったのです.

 出入国手続き,国境通行証などパスポートとヴィザに当たる書類の主要な機能は,人々の移動を規制し,誰が何処に帰属しているのかを明確にする事です.
 パスポートは,国家による個人の移動の管理装置で,所持者の国籍の明白な証拠となります.
 同時に,国家が想定上「国民」を構築しようと活動する際に,極めて重要な役割を果たすものとされます.

 中華人民共和国は,その成立間もない1949年10月6日に,北朝鮮との外交関係樹立に合意しました.
 12月22日は中国駐在初代大使として,北朝鮮政府から李周淵が任命され,1950年8月13日には北朝鮮駐在中国大使として倪志良が就任しました.
 此所に,中国と北朝鮮との間に,公的な外交関係が結ばれ,それに伴って,豆満江を境界とした明確な国境線が引かれる事になったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/05 21:40


 【質問】
 太平洋戦争終結時の満州における朝鮮人の状況は?

 【回答】

 中国東北部には,1945年8月当時,約230万人の朝鮮人がいました.
 彼等の半分程度は祖国に引き揚げることが出来ましたが,残りの半分は現地に残ることを選択しています.
 この引揚げを韓国では一般に,「帰還」と呼んでいますが,この帰還は,国共内戦の推移や食糧不足,冬期の気候条件,治安に与える影響や輸送船舶の確保,送還費用負担など複数の要因を巡り,中国にあった大韓民国臨時政府(後の韓国独立党,駐華代表団)と各地韓国僑民会,中国国民党(の中の東北行轅,東北保安司令長官部など),朝鮮半島南部の占領軍当局である駐韓米軍政庁,東京の連合国軍総司令部,米国国務省等の意向が交錯し合う中で進められていきました.

 一口に中国在住の朝鮮人と言っても,その構成成分は極めて複雑でした.
 1945年8月当時,推定230万人の朝鮮人が満州地区にいましたが,解放直後に約80万人の朝鮮人が半島に帰還したと言われていますが,それでも残り120~150万人が残留した計算になります.
 朝鮮人の中国東北部への移住は,満洲の独立前,19世紀半ばから始まっており,既に100年近い年月が流れ,そこには既に東北地区で生まれ育った2世,3世の時代に入り,農業を中心にそれなりの生活基盤を有していた者も少なくなく,都市部では商工業など多様な職種に従事している朝鮮人も増加していました.

 と言う事は,解放を契機に朝鮮半島,特に南部に帰還を望んだ者は,居住期間が短く生活基盤が薄弱な者や極貧者,親国民党系列の独立運動家や,地主などの富裕層,宗教関係者など,中国共産党に対して距離を置く必要のある者,国共内戦の過程で生活基盤を失い,定着への見込みを喪失した者等でした.

 一方の中国側から見ると,国共内戦勃発当初は,東北地区では国民党を支持する漢族が少なくなかった反面,共産党側は朝鮮人に支持基盤を求めざるを得ない状態に置かれていました.
 即ち,中国共産党側は,東北地区の朝鮮人を如何にして自らの支持基盤に取り込むか,その為には朝鮮人に現地定着の道を拓きつつ,内戦に動員する方法を考究しなければならなかったのに対して,国民党側では朝鮮人を「韓僑」として半島に送還することを基本方針としていました.

 一方,解放直後から金九を中心とする韓国独立党が重慶の大韓民国臨時政府を掌握し,大韓民国臨時政府の帰国後の在中韓僑事務,及び中国(国民党)政府との交渉の為,韓国臨時政府駐華代表団を組織していました.
 それに対し,朝鮮義勇軍を始めとする共産主義運動勢力は中国共産党と共に満州に移動し,これら韓国独立党と対峙することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/26 23:43
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「韓僑処理暫行辨法」「韓僑管理辨法」とは?

 【回答】

 さて,中国国民党が最初に朝鮮人問題に対処したのは,1945年11月の「韓僑処理暫行辨法」によってです.
 これは天津市政府よりしない在留朝鮮人の処置に関する問い合わせに応じたもので,中国国内の朝鮮人について犯罪の有無を調査し,帰国を願う者には,できる限り速やかに帰国させる,身分や行動に疑念のある者は方により処罰するか,国外退去させる,滞留を願う者については,品行方正で正業を有し,生活を維持しうることを条件としていました.
 12月には中国軍事委員会が,「韓僑韓俘処理辨法」を修正頒布し,日本人俘虜,朝鮮人俘虜を別々に集中管理し,各方面軍単位に韓国官兵管理収容所を設置します.
 日本軍降伏後に各地で収容した朝鮮人兵士は,方面軍毎に集中管理し,光復軍が訓練することを許可する,朝鮮民間人は各省市毎に日本人と区別して集中管理し,大韓民国臨時政府と各地の宣撫団で処理するとしていました.
 因みに,大韓民国臨時政府では戦争中より,日本軍や満州国軍に徴兵された朝鮮人兵士を韓国光復軍に編入していましたが,解放後には本格的に兵士を含む朝鮮人を再教育し,国民党に協力させる宣撫団を組織していました.

 この時期,大韓民国臨時政府主席金九と蒋介石との間で開かれた会談でも朝鮮人処理に関して,大韓民国臨時政府側は正当な職業を営み,善良な朝鮮人には居留証を発給する一方,日本と交流のあった朝鮮人は戦犯として懲罰し,財産を没収すること,一律に強制収容せず,有罪者は収容後に処罰すること,著アス人参と日本人を区別して待遇すること,各地軍警や特務員による朝鮮人虐待を防止することを申し入れました.
 また,中国軍当局に対しても,朝鮮人兵士の待遇を改善し,訓練に協力する事を重ねて要請しています.
 しかし,これらの対応は米国側の認めるところとならず,国民政府は1945年末には「韓籍捕虜処理辨法」を制定して,光復軍の拡張禁止,活動制限,朝鮮人兵士と民間人の強制集結と送還を決定しました.

 更に,1946年3月には「韓僑管理辨法」が制定されました.
 その内容は,第1条で中国収復区(国民党管理地区)各地に散在している韓僑は,省市政府の指定区域に集中居住させる,数が特に多い地区は此の限りでは無い,と規定し,第2条に於いて,集中管理されない者として,
・韓籍官兵で中国の軍事系統に編入されている者,
・過去現在の大韓民国臨時政府職員,
・韓僑で中国や連合国の作戦に協力し,功績を挙げたと中国政府に認定された者,
・正当な職業を営み,行為が善良で,同業資本相当の華商二家より保障された者,
・特別な理由で地方当局により許可された者
の5つのパターンを挙げています.
 第3条では,集中を命じられた韓僑は日常生活物品,その他私有物品は携帯し,1人中国法幣1万元まで携帯することを認め,その他有価値貨品は中国政府銀行にて保管すると規定し,第6条に於いて,集中管理の対象となった韓僑は一律に速やかに韓国に送還させるとしていました.

 しかし,こうした措置に対しては,韓僑の中には集中管理を嫌い,韓僑有資産者はその財産を分散移転させ,現金を隠匿したり,ある条件の下で中国人に保管を依頼したり,中国の軍政機関の公務員の身分取得を画策したりして収容を免れようとしていましたし,資産の無い者は逆にソヴェト区に逃亡したり,あるいは国民党軍に雇傭されない様にしていました.
 その上,韓国北部にある咸興市解放民族執行委員会は,ラジオを通じて国民政府が韓僑を虐待していると宣伝しており,こうした情報を得て,上海韓僑は頗る険悪な状態を醸し出していたと言います.

 華中は兎も角,多数の朝鮮人が居住する東北地区の場合は,1箇所に収容するのが不可能であり,状況はより複雑になっていました.
 1946年春よりソ連軍の撤収が始まり,4~5月の四平戦役を経て,この地区に国民党が勢力を拡大すると,東北保安司令長官部では,朝鮮人の財産差押や没収を開始しました.
 4~9月までの間で,遼寧省では鉱山12,976,300平方メートル,工場39箇所,機械1,289件など工業関係を中心に,吉林省では水田4,490,908平方メートル,旱田345,308平方メートルなど農業関係を中心とした差押が行われました.
 また,「東北韓僑処理通則」を定めて,東北韓僑はその職業により居留と即時送還を区別するとし,韓僑は原処に居住することが出来,収容しなくとも良く,その固有の生活習慣を保持しうる反面,独身韓僑は即時送還の対象となり,即時送還の韓僑は,遼寧省,安東省は安東に,吉林省,松江省,合江省は延吉に,嫩江省は長春,遼北省,興安省は瀋陽に収容されると規定していました.

 因みに,これらの規定を発布したのは1945年8月,長春に設置された国民党政府の機関で,東北接収工作を担当した東北行営であり,この機関は翌年8月,東北行轅に改組されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/27 23:44
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東北韓僑難民の送還計画は,どのようなものだったのか?

 【回答】

 1946年8月には,
「盤石県境内韓僑10万人が旱魃により収穫がなく,冬になれば食糧がなくなる事,また日僑の後には韓僑を直ちに帰還させるとの風聞の影響で,韓僑は帰還を望んでおらず,現在輝発川南岸に移動しつつあり,それらは必ずや共匪に利用される」
と言う報告が残されている様に,在東北朝鮮人の生活環境は悪化の一途を辿っていきました.

 そして,1946年6月からの国民党側の一方的停戦が,秋に破られ内戦が再開されると,関内地域にいた韓国独立党幹部も続々と東北に入り,東北韓国僑民会総会を初めとする現地僑民会の掌握を通じた朝鮮人社会に対する影響力の拡大に努めました.

 更に,東北韓国僑民会総会では,東北朝鮮人の帰還の為,営口より人選に輸送する案を講究し始めました.
 その理由は,
「陸路を採れば共産区域及びソ連占領区を経由しなければならない.」
と言うもので,直接,韓国南部米軍占領区内に引揚者を送る為には,海路を採らねばならないと言う結論に達しました.
 この時,彼等が作成した「韓僑難民計画書」に依れば,吉林と長春の韓国僑民会が吉林150名,長春300名,その他50名,合計500名を営口から輸送するとしており,その船賃は直接難民自身が負担し,15歳以上を大人とし,1人流通券2,900元,6歳以上14歳以下は子供とし,1人流通券1,500元としていましたが,これは実現しませんでした.

 代わって難民引き上げ計画を立案したのは米国でした.
 その計画では,嘗て北緯38度以南に居住していた朝鮮人15,000名を,船で送還するとしていました.
 米国が乗り出したのは,難民化している朝鮮人を放置すれば中国共産党側に利用されかねないこと,また農業技術を持つ朝鮮難民を帰還させて,新国家建設に従事させようという意向が作用していました.

 その結果,12月7日より東北各地の朝鮮人が瀋陽の収容所に集まり始め,17日までに総人数2,492名,内病死者6名,退所者3名を除き,最終的に2,483名(内38名は錦州・葫蘆島収容所から直接出発)が22日に瀋陽を出発し,葫蘆島を経由して仁川港や釜山港に帰国しました.
 この地域別内訳は,瀋陽990名,長春543名,営口199名,撫順202名,吉林49名,哈爾浜37名,四平39名,錦州38名,その他395名でした.
 最初に見た様に全体の朝鮮人が200万名以上であることを考えれば極めて少ない数なのは,契闊立庵から実施までの帰還が極めて短期間であったのが原因です.

 今回の送還に際して,瀋陽市内には2箇所の収容所が設置されました.
 1つは鉄西区の落下傘工場であり,もう1つは西塔の朝鮮共善会の建物でした.
 鉄西収容所は日僑俘収容所旧跡を利用したもので,各地より瀋陽に集まった者を収容しました.
 西塔収容所は瀋陽僑民会の難民収容所旧跡を利用したもので,瀋陽市内の朝鮮人を収容しましたが,間もなく西塔収容所は撤去され,鉄西収容所に移管されました.
 しかし,鉄西収容所の施設は劣悪で,米国人医師は疾病を恐れて収容室増設を要求したほどでした.

 ただ,国民党側では送還朝鮮人を一切虐待しない様に特に注意し,次の様に「送還環境の教育及び宣伝」に力を注ぎました.

1. 朝鮮が日本の鉄蹄の下に40余年あり,今植民地から一躍独立国家となり,実にその大半は我が国の援助にある事を説明すること.
2. 中国の徳を持って怨に報い,過去の過ちを追求しない伝統思想,並びに朝鮮の独立自主を共助する誠意と決心,一切の陰謀と中傷を捨てることを徹底して悟らせ,ただ中国だけが朝鮮の復興と独立の唯一の助力たり得ることを説明する事.
3. 朝鮮は過去一部分の浪人が東北で日本人の指図を受け,日本人の手先となり,害悪を齎し,公憤を引き起こし,中国韓国の感情を破壊したことを説明し,今後は出来るだけ速やかに復興し,眼前の朝鮮の深刻な危機が再び朝鮮を滅ぼす陰謀である事を徹底して理解させ,再び過ちを犯さない様にさせる事.
4. 三民主義思想を教え込む事.
5. 中国韓国両民族は必ず友好合作しなければならない重要性を徹底して宣伝する事.
 これを見ると,清の頃から朝鮮に対する見方は変わっていないように思えますね.
 しかし,こんなに余裕をかませられない事態が発生します.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/27 23:44
青文字:加筆改修部分

 さて,1947年6月,国共内戦は激化し,次第に共産党軍が優勢になっていきます.
 こうなると,東北地区各地で商売や農業を営んでいた朝鮮人が,多数瀋陽に押し寄せてきました.
 韓国駐華代表団は,国民党に対し,
「多数の韓農は既に絶望的な境地に陥り,且つ各地の軍事的不利で難民が瀋陽に集まり…(中略)…野宿し,飢餓に瀕し…(中略)…且つ最近瀋陽は四面包囲され,情勢は危急である」
と指摘し,8月にも,
「瀋陽一帯の韓僑難民には衣食が足りず,日々餓死しつつある.この反乱の時期に不良分子に利用される事を恐れるが故に,彼等の帰国は一国も忽せにできない」
と督促しています.

 こうした情勢を受けて,国民党政府に於いて韓僑事務を担当していた東北行轅では,
「東北行轅韓僑事務所弁事細則」
「東北韓国僑民会連合会章程」
「戒厳時期瀋陽市韓僑臨時辨法」
「東北韓僑臨時辨法」
「東北韓僑産業処理辨法施行細則」
「東北韓僑居留証発辨法」
など10数件の関連法規を制定して,朝鮮人問題の処理に当たりました.

 折しも,共産党の夏季攻勢を受けて戦局は国民党に不利となり,瀋陽とその近郊は紅軍に包囲される中,米国は送還実施を決定し,それを受けて東北行轅では遼寧地区を中心に,特に赤貧者1万名の送還を実施しました.
 当初の計画では,10月5日に瀋陽に集め,16日に葫蘆島より出航し,19日には韓国に帰国する予定になっていました.
 その為に,3,000名収容の汽船3隻,瀋陽から葫蘆島までは輸送用の貨車を毎日2回運行する事になっていました.

 しかし冬期に入ると葫蘆島が結氷した為,東北行轅では集合地点を秦皇島に改め,更に送還を3回に分ける事にして,第1回は1948年1月15日,第2回が2月1日,第3回を2月15日としました.
 ところがこの修正案も,船舶の派遣困難,難民に対する予防接種の不備を理由に延期されました.
 そうこうしている内に,1948年に入ると紅軍の冬期攻勢が熾烈を極めるようになり,国民党は各地で撤退を開始しました.

 この時期の人口移動は甚だしく,国民党側の記録によれば,1948年,東北収復区に於ける朝鮮人人口は1月に76,797名,2月に74,460名,3月には46,270名,4月39,233名となっています.
 3月の人口減少は,吉林,四平,永吉,九台県から国民党が撤退した為であり,4月以降は瀋陽の物価急騰がそれに追い打ちを掛けた為でした.

 紅軍により,長春や瀋陽が包囲されると,韓国駐華代表団や韓国独立党などの要人やその家族は,飛行機で瀋陽を脱出して北京や天津に向かいました.
 最初に脱出したのは,事実上の最高責任者とも言える韓国独立党東北特別委員会委員長,韓国駐華代表団東北総辯処副処長であった金学奎でした.
 金学奎は金九が1948年に入り,南朝鮮単独選挙に反対し,南北協商路線を採ると,金九の路線を修正するという名目で2月に瀋陽を離れました.
 そして5月以降,韓国駐華代表団東北総辯事処長の李光,韓国独立党東北特委組織部長兼東北韓僑民会連合会常務理事の李時燦,瀋陽僑民会長の徐容圭等要人の瀋陽脱出が相次ぎました.

 また,瀋陽市内で朝鮮人クリスチャンが共産党により殺戮された為,4月19日から5月12日にかけて合計19便の米軍チャーター機で長老会牧師,信徒等624名が北平に脱出,更に吉林でも僑民会青年団幹部等46名が長春への脱出途中に戦闘に巻き込まれ,犠牲者2名,行方不明6名が発生しています.
 多くの人々は徒歩で瀋陽より錦州に向けて移動しましたが,葫蘆島から汽船でよる帰還が不可能である事が分かると,更に天津へと移動しました.

 そして5月6日より大規模送還が再開されました.
 5月6日に橘丸が923名,
5月20日がKBM010が1,203名,
5月25日が波多丸で523名,
5月28日が橘丸で1,090名,
6月4日にKBM010で1,090名,
6月27日がCity Of Yechowで1,191名,
7月27日がKBM006で1,344名,
最終便が9月1日で船名不明で1,300名
となっています.
 それ以降,輸送が停止されたのは,9月から遼瀋戦役が開始され,11月2日,瀋陽が共産党に掌握されて東北の国共内戦はその帰趨が決まった為です.

 ところで,中国国民党は中国に滞在していた朝鮮人を,どの様に扱おうとしたか.
 その基本方針は,朝鮮半島への送還する事でした.
 こうした国民党の政策の背後には,朝鮮人は日本帝国主義の侵略の手先である故,早急に送還すべきであると言う不信感が,根強く横たわっていたと考えられています.
 在東北朝鮮人の帰還は,こうした国民党による送還の他に安東(丹東)等を経由して個人で朝鮮半島に戻った者や,シベリアに抑留された後に帰還した者も少なくありません.
 逆に,「親日派清算」を避けて,朝鮮半島北部より安東へ移動した朝鮮人もいます.
 また人口の関係からも,中国関内地域や台湾の朝鮮人の帰還は,東北地区とは違った特色を持って推進されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/28 22:30


 【質問】
 朝鮮戦争に対する中国朝鮮族の反応は?

 【回答】

 さて,中華人民共和国の指導部と北朝鮮の指導部との間には強い繋がりがあり,戦後に於ける国共内戦,朝鮮戦争の際にも緊密に連携し合った事は言うまでもありません.
 しかし,国境線と言うのは幾ら一衣帯水を標榜する両国間にも横たわるものであり,特に朝鮮族問題は常に敏感な立場に置かれています.

 朝鮮族が中国公民になったとは言え,大衆レベルに於いてはその重大性や意味が未だ実感できませんでしたし,自分のルーツである朝鮮への愛着は深いものがありました.
 ただ,朝鮮半島南部,彼等の言う「南朝鮮」は既に米国の手先である李承晩によって植民地に転落したという宣伝が成されていたので,朝鮮への思いと言うのは即ち北朝鮮への思いとなっていました.

 1948年9月9日,朝鮮民主主義人民共和国が成立しますが,東北地区居住朝鮮人は,それを最大の慶事として受け止めました.
 延辺では,20,000余名に上る大衆集会が開かれて盛大に建国を祝ったほどですし,哈爾浜市の朝鮮人は空前の規模の慶祝大会を開催しました.
 その会場にはスターリン,毛沢東,金日成の写真,ソ連,中華人民共和国,朝鮮民主主義人民共和国の国旗が飾られ,朝鮮の愛国歌の中で会議が開催されました.

 更に11月10日,朱徳海を始めとする東北地区居住朝鮮人代表団100余名は,豆満江を越え平壌に入って,「祖国同胞」を慰問します.
 彼等は,金日成に接見しましたが,金日成は,
「海外で自分の祖国を常々愛し,我が祖国の隆盛と発展の為に毎日の様に祈願している東北百万余人の同胞達」
に感謝すると述べ,
「皆さんは,自分はもう国の無い民族として海外で彷徨する民族で無く,自分の独立国家があって,中央政府もある堂々とした民族になった事を光栄に思うべきである」
と述べました.

 しかし,朝鮮が日本の植民地統治から解放され,独立国家が成立した事により,民族的な誇りがピークに達していた朝鮮族にとって,朝鮮戦争の勃発は意外な出来事で,「祖国愛」の違った一面を表す激しい感情が表出されます.
 朝鮮戦争勃発の理由について,共産圏側は,米国の「傀儡国」である「南朝鮮」が北朝鮮を侵略したのだと主張し,朝鮮族はそれに何の疑いも持ちませんでした.

 北朝鮮人民軍の幹部達は延辺にやって来て,「南朝鮮」軍の「北侵」を非難する演説を行いました.
 それは朝鮮族社会に衝撃を与え,祖国の朝鮮が独立して2年も経たないうちに,米帝国主義に侵略されたものだと思われていきます.
 また,朝鮮族の多くは北朝鮮に出自を持つ人が多い為,更に激しい憤怒の感情を巻き起こしました.

 日本の植民地統治から脱却して新しい「祖国」への熱望が,朝鮮戦争下に於いて「祖国」防衛活動として表現され,それは朝鮮の戦場に於いて直接国連軍…と言うか米軍…と戦う事になっていきます.
 1950年11月2日に中国共産党東北局の機関紙である『東北日報』は,
「延辺の朝鮮民族は米帝国主義の朝鮮侵略を見て見ぬ振りは出来ないとし,特に広範な労働者と農民は祖国(北朝鮮)に戻り,祖国(北朝鮮)を防衛する戦争に参加する事を要求した」
と報道しました.

 こうした動きは,職業や階層に関係なく,朝鮮族の中で幅広く見られました.
 朝鮮族の多数を占める農民や労働者は,
「民族祖国である朝鮮に戻って,祖国防衛戦に参加する準備は総て終わっているので,一日も早く行かせてくれる事を待っている」
と,朝鮮の前線に赴く事を要求しました.

 しかも彼等は,朝鮮人民軍への入隊を希望していました.
 教師を養成する目的で設立された延辺師範学校の学生700余名は,
「我が祖国(北朝鮮)の人民達は無上の英雄気概で侵略者と血まみれの戦いを続けています.
 …(中略)…
 私達は一日も早く祖国(北朝鮮)に戻って,侵略者を追い出し,祖国(北朝鮮)を護りたいです」
と言う内容の手紙を毛沢東に送りつけたほどです.
 1950年冬から1951年春にかけて,延辺の朝鮮族青年の殆どは,朝鮮戦争の前線行きを希望して,入隊志願を行いました.

 ただ,その動きは,中国指導部にとって,朝鮮族の帰属に関する重大な問題になっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/06 23:31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「祖国観」論争とは?

 【回答】

 さて,1950年代初頭に盛り上がった,北朝鮮への愛国ブームですが,その後,これは朝鮮族が,北朝鮮からの僑民であるのか,それとも,中国の国民なのかと言う「祖国観」論争へと発展し,それは1950年代後半に反右派闘争が行われるまで,続けられました.

 1949年初春,中国共産党から朝鮮族リーダーに抜擢され,延辺に赴任して間もない朱徳海は,先ず延辺の名士80余名の参加した座談会を召集しました.
 座談会では民族,国籍などの問題に関するマルクス・レーニン主義の理論を学習してから,討論を行いました.
 その中で,一部の参加者は
「朝鮮族の祖国は朝鮮で,朝鮮族は東北に避難して,他人の国に頼っている民族だ」
と主張します.
 また,教育界のとある参加者は,
「無産階級の祖国はソ連で,民族の祖国は朝鮮で,現実の祖国は中国」
と言う「多祖国論」を提起し,それは忽ち広がりました.

 それに対し,朱徳海は「朝鮮族の祖国はもうすぐ成立する新中国1つしかあるまい」と主張し,常二兆千足の中の「祖国観」を明確にし,見直させる様に努力しました.
 朱徳海は,こう主張します.

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 東北の大多数の朝鮮民族は自己民族に対して,虚無主義的な態度を取っている.
 自分がこの国の公民である事を否定するなら,どの様な資格で土地を分配され,どの様な資格で入隊し,どの様な資格で政治的権利を行使するのか.
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 しかし,朱徳海が主張した
「朝鮮族の祖国は,もうすぐ成立する新中国1つしかあるまい」
と言う考え方は,直ぐ二兆千足の中に根付く事はありませんでした.
 中華人民共和国が成立して10年も経った1960年正月,朱徳海はわざわざ長春の各大学で学んでいる朝鮮族学生を集めて,彼等と民族と祖国問題について話し合い,青年達に中華民族の一構成員である事に誇りを持つ様に指導したりもしたのもその表れです.

 中国共産党の現地幹部は,東北地区居住朝鮮人の国籍問題を処理する際に,朝鮮人の「祖国観」にかなり悩まされたようです.
 そして,
「朝鮮民族の特徴は,祖国のある少数民族であって,…(中略)…三代以上中国境内に居住していても,朝鮮は祖国であると言う思想は相当濃厚である.」
として,暫く傍観視していました.

 朝鮮戦争勃発後1年が経過し,朝鮮では休戦会談が始まり,延辺の社会も安定を取り戻しつつある時期に入り,当初の熱気が徐々に冷めてくると,中国共産党延辺地区委員会は朝鮮族の「狭隘な民族主義観点」を改め,中華人民共和国への愛国主義教育の強化を図りました.

 延辺の行政副首長である漢族の董玉昆は,今後最も重要な工作として,朝鮮族に「祖国」を正確に認識させ,祖国中華人民共和国を愛する思想教育を強化する事を強調します.

 同時期に中華人民共和国延辺地区委員会は,
「延辺民族地区の状況及び今後の工作に於ける幾つかの意見」
と言う内部文書を作成していますが,その中では朝鮮族について,
「部分的な大衆は往々に狭隘な民族主義観点に陥る」
としています.
 そこで,今後の工作中心は,大衆の中で絶えず,経常的に愛国主義宣伝教育を行う事だと指摘し,それを通じて,朝鮮族の愛国心を向上させ,抗米延朝の最後の勝利を迎える自信を強化する事が出来る,としています.
 また,朝鮮族大衆だけで無く,朝鮮族の幹部に対しても,継続して愛国主義と国際主義教育を実行し,祖国意識に対する教育を強化する事を要求しました.

 東北地区居住朝鮮人は,中華人民共和国の建国期に「朝鮮族」と言う1つの少数民族に「創出」され,明白な立場と新国家への忠誠心が求められ,時には監視の対象になり得る様になったという訳です.

 中華人民共和国建国後,初めて中国共産党の文書に現れた朝鮮族に関する統計に依れば,1951年1月現在,朝鮮族の人口は106万8,839名となっていました.
 うち,61%は吉林省に居住しており,90%以上は農業に従事しています.
 また,新中国では1958年までに4つの自治区,28の自治州,53の自治県が成立し,民族自治区行きの枠組みが基本的に出来上がりましたが,朝鮮族には延辺朝鮮族自治州と長白朝鮮族自治県の2つの自治区域が指定されています.
 これが,朝鮮族地域の初期の輪郭であると言える訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/07 23:32
青文字:加筆改修部分


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