c

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ
"2ch." katonai BBS GYIK Kvázi-top oldala felé

サイト・マップへ Oldaltérkép felé

「未分類草稿別館 wiki」トップ・ページへ
Az "Besoroltatlan Vázlat wiki" Oldal Tetejéréje felé

目次へ Index felé

●初心者歓迎 スレを立てる前に此処で質問を 194
Várjuk a kezdő! Mielőtt megalkotunk egy új szál, kérjük kérdezzek itt 194

青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
Azonban, kivéve a korrekciót s a más, hogy úgy korrigáljuk, hogy egyesítse normal stílus "dearu である" s udvarias stílus "deszu です"

※レス回収基準は「v.e.r. = 7」
Res felépülés Kritériuma van "v.e.r.=7"

※既出Q&Aの関連記述は,「追記」で処理.
Úgy kezeltem a Fentiekből Q&A-nak vonatkozó leírása, mint egy "egyszer írható".

※編集に手間取りそうなもの,または,調査が必要なもの等は,<保留>として後日回し.
Az res volt folyamatban és kerülták ki , hogy szánjonok időt szerkesztni vagy

目次


** 【質問】
 なぜWW2勃発前は,戦車に戦車を当てるのは「愚」とどこの国でもされてたの

 【回答】
「戦車の任務は歩兵支援,対戦車戦闘は対戦車砲の仕事」
という考え方が一般的だったため
 要するに,塹壕戦に於ける攻防を軸にした考え方しかしてなかったの.

 もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事だが,当時はそれ「だけ」でよいとされていた.
 武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身だったから,装甲を貫通させる目的には適していなかった.
(でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載している.
 ソ連もその国の一つ.)

 また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていた.
 わざわざ戦車に戦車をぶつけなくとも,対戦車ライフル等で十分対処出来たからそんな事を考える必要も無かった.
 特にフランスでは,WWIの後半を歩兵と戦車の共同攻撃を用いて勝利したため,そのドクトリンに嵌ってしまった.
 戦車の集中使用を考えた人の方が異端だったしな,当時は.

 一方,大戦が始まる前のいくつかの小規模紛争で,戦車同士の遭遇戦が発生している.
 ノモンハンもその一つだ.
 ノモンハンでソ連戦車部隊を率いたのはジューコフで,こいつは縦深戦術理論を構築したトハチェフスキー(ノモンハン時にはすでに粛清されていた)の教え子.
 縦深戦術理論とはロシアお得意の物量作戦の色彩が強いが,戦車を突破戦力として集中運用する点で特殊だった.
 日本は第二次ノモンハン事件の最終段階で縦深攻撃を受け,敗北した.
 で,そのあとはソビエトは機甲師団の育成を行っていない.
 というか,歩兵部隊に戦車をばら撒いている.
 ドイツの電撃戦が成功して慌てて整備しだしたものの,すべての師団をいっせいに機械化しようとした結果,独ソ戦開始時には中途半端な編成となり,ぼこぼこにやられた.

 ノモンハン事件を受けて日本も委員会を設置し,近代化をより推し進めることとなったが,支那事変ですべて吹き飛んだ.

 兵器や戦術は戦訓によって進歩していくもので,最初から今の形態や戦術があった訳ではないのです.

軍事板,2005/07/05(火)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 オスプレイの『イタリア空軍のエース』見てて,ふと思いました.
 どの機体も普通の照準器(ガラスに反射して照準環?が浮きあがる奴)備えてるんですが,イタリアでは,この手の照準器の導入は早かったのデスか?
 ドイツから供与してもらったものデスか?
 それとも,イタリアの国産品でしょうか?
 隼とかが望遠鏡式?の筒型の照準器を1941年になっても使ってたのと比べると,レトロな機体のわりにえらい先進的だな,と意外に感じたので質問させていただきました.

 【回答】
 C.R.32ではキャノピーの前に,Re-2001試作機ではキャノピー内に眼鏡式の照準器を備えていましたが,C.R.42やM.C.200,Re-2000からは光像式の照準器になっています.

 G.50の場合は,スペイン戦争に出撃した初期型では,未だ,キャノピーの前に円環が装備されていますので,光像式の照準器は採用されていません.
 後期型になると光像式に変わっているので,1940年前後からの採用になるのではないか,と思います.

 日本では,海軍が光像式を早くから採用していますが,実際に数が揃いだしたのが1942年ですから,どっこいどっこいだと思います.

 光像式の照準器は,確証は持てませんが,構造を見るにReviのものに似ています.
 イタリアで国産化したドイツ製照準器だと思います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/05(火)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 第一次第二次戦中,戦車の装甲ボルトで固定されおり,攻撃をうけると乗員がよく負傷したと聞きますが・・・何故ですか?

 【回答】
 ボルトじゃなくリベット.
 ボルトのようにぎゅ~っと締めて,摩擦力を発揮するものではなく,リベットにはセンダン力しかない.
 Gパンの「リベット」と同じで両側が広がって留めているだけ.
(古い鉄橋なんか物凄い数のブツブツがあるでしょ? あれ.)
 なので簡単に戦車内部に飛び散るのです.

軍事板,2005/07/08(金)
青文字:加筆改修部分

 ちなみに,今の戦車だって装甲はボルト止め.
 主要部分を電気溶接で一体化しているだけで,全ての部品が一体化してるわけじゃない.

 戦後しばらく経ってパワーパックが採用されるまでは,砲塔を挟んでエンジンと変速機を配置するデザインが一般的だった.
 車体前部に配置された変速機を整備するためには,大きな開口部が必要になるため,ここの装甲は溶接ではなくボルト止め.
 61Tkの全面装甲なんか,笑っちゃうくらい巨大なねじ回しで開ける.
 最近の戦車は後部上甲板を開口するので,ボルトが目立たないだけ.

 一体成型のハルや砲塔を造るには,整備上の問題をクリアするデザインと高度な溶接技術の他に,生産ラインの問題もあった.
 車体を溶接で一体化するには,車体を丸ごと持ち上げたりひっくり返して加工できる設備が必要.
 戦車の生産ラインを簡単に増設できない理由がこれ.

 ボルト,リベット製法なら比較的軽易な設備で生産が可能になる.

軍事板,2005/07/08(金)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 マウントバッテン将軍について教えてください.

 【回答】
 ルイス・マウントバッテン,初代マウントバッテン伯爵はウィンザー城でビクトリア女王の曾孫として生まれた.
 ジョージ5世の大伯父にもあたるれっきとした王族.

 13歳で海軍士官学校入校.
 第二次大戦中は第5駆逐艦隊司令として駆逐艦ケリーに座乗して活躍,チャーチルの信任を受けた.
 1943年から連合軍東南アジア最高司令官に任命され,シンガポール,ビルマの奪回と蒋介石支援を指揮.
 戦後は最後のインド総督としてインド独立とパキスタンの分離を監督した.
 後,第一海軍卿,国防軍参謀総長として陸海空軍省の国防省への統合を監督.

 海軍元帥,伯爵,ガーター勲爵士,バス最高勲爵士.

軍事板,2005/07/09(土)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 日本海軍の艦艇で機関出力ナンバー1って何ですか?

 【回答】
 翔鶴型空母と大鳳型空母が160,000馬力
 空母飛龍が153,000馬力
 空母蒼龍,雲龍型空母の一部,利根型重巡,最上型重巡,重巡伊吹(未成)なんかが152,000馬力
 大和型戦艦,空母信濃が150,000馬力

 ちなみに単位排水量当たりの出力だと,峯風型,野風型が1,345tの38,500馬力で28.62hp/t
 神風型が1,400tの38,500馬力で27.50hp/t
 睦月型が1,445tの38,500馬力で26.64hp/t
 ロートルの樅型が850tの21,500馬力で25.29hp/t
 吹雪型が1,980tの50,000馬力で25.25hp/t

 島風はその次で3,048tの75,000馬力で24.61hp/t
 小型駆逐艦の出力を甘く見てたよ orz

 まぁ,島風の75,000馬力っちうのは改装後の扶桑型と同出力なんで,すげーのはすげーと思います,実際.

 ちなみに対象にしたのは第二次大戦に参戦した艦ね.

軍事板,2005/07/09(土)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 ツィタデレ作戦って何?

 【回答】
 城砦作戦(ツィタデレ作戦)は1943年,クルスクにできていたソ連軍の巨大な突出部を南北から切り取る作戦として実施された.

 ドイツ軍はこの作戦に兵員151万4000名,戦車5000両(定数:実数はこれを下回る),支援火砲1万6600門,航空機5000機を投入.
 また,VI号戦車ティーガーを初め新型V号戦車パンターとフェルデナント重駆逐戦車も参加した.

 しかしソ連軍はスパイ活動によりこの作戦を察知しており,兵員264万,戦車8200両,火砲5万3500門,航空機7000機を集結させ,これを従深防御陣地に布陣した.
 防御陣地はドイツ軍機甲部隊を消耗させ,そこに自軍の戦車部隊を突入させてドイツ軍を壊滅に追いやる計画である.

【経過】
1943年7月5日:
 戦闘状態へと突入.
 作戦北部担当の第9軍の進撃進まず(10kmほど).
 第4戦車軍団とケンプ軍支隊担当の南部は40kmほど進撃することができた.

7月12日:
 ソ連軍はドイツ軍の動きが鈍ったのをみて反撃に転じる.
 クルスク南東のプロホロフカ付近で後方待機していたソ連軍第5親衛戦車軍の戦車が,「ねずみの群れのように」続々と姿を見せ,これとSS戦車軍団が遭遇.
 この戦をクルスク戦役といい史上最大の機甲戦とよばれる.
  ソ連軍の反撃は,効果的な対戦車防御陣地と歩兵の奮戦により停止させられ,またドイツ空軍によって甚大な損害を蒙り,反対に逆襲を受けて撃退され,最後にはドイツ軍がこの地域を制圧することに成功.
 この戦闘では第1SS戦車師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」(LAH),また,同師団に所属していたティーガー部隊の奮闘が有名.

7月12日:
 同日,北部のソ連軍が大攻勢を仕掛ける.
 これにより北部を攻撃中だった第9軍は後退を余儀なくされ,作戦は困難となった.

7月13日:
 プロホロカ戦闘後,ヒトラーは作戦の中止を命令.
 連合軍がイタリアへと上陸したため,機甲戦力を西部へと割かねばならなかった.

 この作戦の結果,ドイツ機甲部隊は予備兵力を消耗してしまった.

軍事板,2005/07/10(日)
青文字:加筆改修部分
※なお,元のレスはコピペの可能性ありと見てgoogle検索してみたが,該当するサイトは見つからなかった


目次へ Index felé

「未分類草稿別館 wiki」トップ・ページへ
Az "Besoroltatlan Vázlat wiki" Oldal Tetejéréje felé

サイト・マップへ Oldaltérkép felé

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ
"2ch." katonai BBS GYIK Kvázi-top oldala felé