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世界史なんでも質問スレッド96

目次


** 【追記】

232011/11/26(土) 15:44:53.52 O
第一次大戦後,なんでイギリスはイラク,ヨルダン,パレスチナって分けたの?
民族的には全部アラブ人だし歴史的にも一体だったでしょ

32 : オツガイ ◆EAbyJft1LY : 2011/11/26(土) 20:59:40.86 0
>>23
それは近代のアラブナショナリズム的な考え方だと思う.同じアラブと言っても,
歴史的に一体だったとは限らないでしょ.そもそも,歴史的に一体という定義が,
曖昧だけど.歴史をさかのぼれば,それらの地域が分かれてた時代もあったし.
イギリスがそれらの地域を分けたのは政治的な理由が大きいかな.ヨルダンと,
イラクの分離はそもそも文化・社会面でこれらの地域の相違が大きかった面が,
あると思うけど.パレスチナとヨルダンに関してはシオニストとの関係も配慮して,
その上で,アラブ人との協定も考えて分けたという政治的な理由が大きいかな.
ただ,だからといってこれらの地域が必ずしも一体だったか否かはまた別だよ.

332011/11/26(土) 21:44:48.44 O
≫32

中東戦争の時は団結して異民族のイスラエルと戦ったってことでok?


35 : オツガイ ◆EAbyJft1LY : 2011/11/26(土) 21:59:18.14 0
>>33
中東戦争の時もどこまでアラブ諸国が団結してたかは結構微妙だよ.第1次中東戦争は,
アラブ側の連携が上手くとれなかったことが敗因の1つだと良く言われてるぐらいだからね.
第4次中東戦争じゃそれまでアラブの盟主を自認してたエジプトがイスラエルと和平してる.
エジプトとシリアによるアラブ連合も短期間で終了してるし,必ずしもナショナリズムだけで,
全ての国家がまとまれるとは限らない.そういうのは少し楽観的すぎる見方かなと思えるね.
まぁ,アラブ連盟など汎アラブ主義に基づきアラブ人の団結を目指す動きはまだあるから,
一概にアラブ人の統一なんてあり得ないなんていうのもそれはそれで極論だとは思うけど.

世界史板,2011/11/
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** 【質問】
 何でヒトラーって,第1次世界大戦みたいに東西に戦線広げたの?
 せっかくソ連と条約結んでたのに.

 【回答】
 もともとのヒトラーの主張が,「ドイツ民族は東方へ勢力伸張すべき」だから.
 そのために,ポーランドやソ連西部を占領して,現地のポーランド人やウクライナ人を排除して,ドイツ人を移民させるのが本来の政策目標.
 反共主義という要素もあるけど,社会主義国でなくても旧バルト三国などの,現地民族の独立国家は認めない.

 西側(イギリス・フランス)については,初めに叩いておいて,東側を攻めている間の安全が確保できたら講和するという,都合のいい予定だった.
 イギリスが頑張ったので予定が狂ったけど,本来の目標を優先して東側で戦闘を始めた.
 どうせ,東側も一年で組織的な抵抗を排除できる,短期戦になると予想していたから.

世界史板,2011/11/29(火)
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** 【質問】
 モンゴルは外蒙古だけとはいえ,よく独立できたなぁ.
 他の遊牧国家は全部,中国に併合されたというのに.

 【回答】
 外モンゴルが独立したのは,モンゴル帝国の後継者ロシア帝国の後継者であるソ連のおかげ.

 また,ボグド・ハーン(Богд хаан)活佛が,ジュンガル蒙古からハルハ蒙古へ亡命してきた経緯があり,清朝は,この活佛を冊封して地位を与えていた.
 ハルハ蒙古は,この活佛を王として,袁世凱へ朝貢することによって,ハルハ全体が袁世凱から冊封をうける=独立地域認定となった.
 この手続きを経ているので,モンゴル国の建国の条件が整っていた.
 民族としては,10%程度のカザフ民族を含んでの形なので,モンゴルは,最初から多民族国家だった.

 内モンゴルが独立できなかったのは,清朝末期に漢人農民が大挙侵入してたせい.
 ただ,外モンゴルでは,モンゴル文字に代わってソ連のキリル文字が普及してしまい,モンゴル文字を残した内モンゴルと,文化的に断絶してしまった.

 なお,「中国」というが,中華民国も中華人民共和国も遊牧国家を併合してはいない.
 清朝は旧明領(狭義の中国)をも統治した満洲族の征服王朝ではあるが,旧明領には天子皇帝,満洲族やモンゴル諸族には遊牧国家のハーンとして振舞っており,モンゴルやチベットやマンチュリアなどを漢人(狭義の中国人)に統治させたことはない.

世界史板,2011/11/30(水)
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** 【質問】
 中国・三国史で孫権が,劉備の後継ぎの息子を拉致って.というのは史実だったん?

 【回答】
 正史本文にはない.
 裴注の引用する『漢晋春秋』や『趙雲別伝』では,劉備が益州に入った時に,孫呉の船団が夫人を迎えに来て,彼女が劉禅を連れて行こうとしたのを,孔明・張飛・趙雲が阻止した,と記す.

 正史では,孫夫人が帰国したのは劉備の益州獲得後で,孔明・張飛・趙雲はすでに益州に入っており,荊州にはいない.
 孫呉としては,孫夫人(とその部下たち)を荊州での御目付役として止め置いた方が都合がよいので,劉備側から
「益州で別の妻(呉夫人)を迎えたので」
として,自立のために孫夫人を返還したのかもしれない.
 あるいは実際に孫呉側が迎えに来て,
「益州取ったんなら荊州明け渡せや」
と迫ったか.
 劉禅まで拉致ると同盟が決裂するので,やらないだろうが,やってもおかしくはないぐらい,緊張した関係ではあった.

世界史板,2011/12/05(月)
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** 【質問】
 戦時中,日本もドイツもそしてアメリカも,共産主義を恐れ共産主義者を排除したのはなぜですか?
 ヒトラーもスターリンも歴史的に見れば,全く同一種類の指導者だったと思うが.

 【回答】
 共産主義そのものは,具体性のない理想論で済んでも,共産党は弁証法とかいって,
「今の法律や制度は今は許されても,将来は許されない」
「テロもゲリラも,革命のためなら正しい」
といって,勝手放題に秩序を否定し,自身を正当化するので,現在の社会秩序から利益を得ている者にとっては危険だった.
 共産党自身も内部で争い始めると,理屈で答えが出ないので暴力で解決した.
 しかし,失うものが無い人や,自棄になった人や,自分に都合のよいことしか見えない人は,共産党の闘争正当化宣伝に取り込まれたりするので,そのような人が多い国(日本ドイツアメリカ)の政府やブルジョアは,共産党活動を弾圧した.

 ヒトラーもスターリンも戦時体制国家の指導者で,ヒトラーの場合,民族主義,スターリンの場合,共産革命を標榜し闘争を正当化し,戦時体制国家を建設維持したということで,2人が同じに見えても,共産主義かどうかの問題ではないと思います.

世界史板,2011/12/13(火)
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** 【質問】
 投石っても,道具使うのあるよね?

 【回答】
 スリングだな.
 石を投げるというよりも,遠心力で発射するもの.
 しくみは簡単で,紐やベルトの中央に石を乗せる部分があり,そこに石を乗せて紐の両端を持ち,勢いよくブンブン回す.
 そしてその紐の一方の端を,急に離す.
 すると,遠心力で石が飛んでいく.
 ダビデがゴリアテを倒したのも,この武器だ.
 手で投げるより威力はでかいし,紐やベルトで誰でも簡単に作れるから安価.
 欠点は,扱うのに熟練が必要なことと,発射に時間がかかること.

世界史板,2011/12/17(土)
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** 【質問】
 弓がメイン武器じゃなかった理由は何ですか

 【回答】
 弓は専門的な教育がいるから,安価に多数そろえられないんだよ.
 馬術と一緒で,若い頃から数十年とか教育して数をそろえないと,軍隊では使えない.
 相手より遠くから攻撃出来るって利点は判っていてもね.
 そして,教育にさほど時間がかからない鉄砲は,量産出来るようになると,世界中の軍隊であっという間に普及して,数の上でも主力になる.

 それまでは,どこでも数の上では槍が主力.
 騎兵と弓兵は,専門職なので数の上では主力になれない.
 だからこそ,そういう専門職だらけの遊牧民族が少数でも強いんだよ,鉄砲普及までは.

世界史板,2011/12/17(土)
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** 【質問】
 明朝廷が,秀吉の朝鮮割譲要求無視して日本国王叙位だけ与えたのは何だったんだろ?
 足利義満時代のカビた先例持ち出して,有り難がって刀納めるに違いないと勘違いしたのか?
 それと,京都の帝に対しては,当然"日本国王”秀吉よりさらに上の叙位を与えなければならない筈だけど,そこは明朝廷,どう考えてたの?

 【回答】
 秀吉や義満が実権を握っていて,天皇家が使節を派遣しているわけではないから,
「なんか天皇とか僭称している奴もいるらしいけど放置」
ぐらいな認識.
 だもんで,明治新政府が「天皇」を正面に出して外交文書送った時は,大騒ぎになった.

 また,日本と交渉した明の使者が,日本の文章を偽造したから当然,日本の要求なんて伝わってない.
 そもそも,明側には負けているとか講和やむなしって考えはないんだから.
 この使者は,偽造がバレて処刑された.

 ちなみに,日本側の使者も偽造してる.

小西行長「明国は降伏しました.講和を…」
秀吉「よし,降伏使節を来朝させよ.さらに明の皇女を日本の帝に嫁がせ,朝鮮の半分を割譲せよと伝えい」

沈惟敬「秀吉は降伏しました.朝貢(貿易)の再開を要求しています.講和を…」
明朝「よし,降伏使節を来朝させよ.朝貢は許可せぬが日本国王に封じ,順化王の称号と金印を授けよう」

沈惟敬「ど,どうしましょう」
行長「国書を読む人にアドリブを頼んでみます」→駄目でした

秀吉「…なんじゃ,この書状は? もう一回戦争じゃな」
明朝「…なんじゃ,降伏しとらんではないか?」

 幸いに行長は周囲のとりなしで,武功を立てて償うことになったが,沈惟敬は帰国後に処刑されたという.

世界史板,2011/12/18(日)
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** 【質問】
 なぜトルコは近代化に成功し,政教分離政策で民主主義が定着したのに,イランも同じように近代化政策を進めていたのにイスラム革命が起きて,イスラム国家になったんですか?
 あと,アラブ諸国はどうして近代化に失敗して,民主主義の定着が遅れているのでしょうか?

 【回答】
 イランとトルコの違いは,在任期間の長さの違いのように思える.
 確かにケマル・アタテュルクとモハンマド・レザー・シャーの政策は似てるからね.
 実際のところ,ケマルの政策に対しても,イランと同じように不満を持つ層はいたし.それでも,モハンマド・レザー・シャーが40年近く在位したのに対し(モサッデクを失脚させ権力を確かなものにした時から数えても20年以上),ケマル・アタテュルクのほうは15年程度しか大統領になってなかったからね.
 しかも,ケマルは第1次世界大戦での敗戦から国土を守ったというカリスマ性もあり,彼の存命中は,国内の不満も政権を転覆させるほどにはならなかったんだと思う.
(まぁ,暗殺未遂やクルド人による反乱などは,ケマル時代にも起きてたけど)

 トルコで民主主義に移行したのは,ケマル死後のイスメト・イノニュからだけど,ケマルが死んで独裁体制が終わってからは,何度か揺り戻しも起きてるんだよね.
 でも,その度にトルコでは軍がクーデターを起こして,ケマル主義の維持に努めたからね.
 そして,このように軍がケマル主義を支持してるからこそ,クーデターを起こしても,すぐに軍は民政移管をして,現在でも民主主義を保ってるんだよね.
 最近は憲法改正をして軍部の影響を弱めたから,民主化がより進んだと言えるかな.

 モハンマド・レザー・シャーも,軍の支持は一応あったんだけど,軍人出身のケマルほどは,軍部とのコネが形成されてなかったように思える.
 そういった点が,イランとトルコの違いになったんだと思う.

 また,イラン革命は元々はイスラーム革命ではない.
アシュラフ王女とその息子のシャーラム王子らの腐敗,
過大な公共投資によって起きた凄いインフレ,
その公共投資の工事停滞に伴い,収入が途切れてしまう下層階級の間に社会不安が生まれたこと,
農地改革により,自分たちの経済的基盤が損なわれることに反発した宗教界
などの複合要因によって起きたもの.
 革命勢力も同床異夢の諸勢力の連合体だった.
 しかし,アメリカ大使館を一部勢力が占拠し,そこから出てきたとされる「文書」を利用して,革命防衛隊は世俗勢力を革命から排除していった.
 だから,
「革命をイスラーム勢力が盗んだ」
と言われることもある.

 詳しくは,
『イラン・アフガニスタンにおける変革の歴史的研究』1(大阪外国語大学,1983.3)
参照.

 ついでにアラブ諸国だけど,国によって状況は結構違うよ.
 エジプトやチュニジアなどは,最近のアラブの春で独裁政権が崩壊するまでは,親欧米的な近代化政策を行なってた訳で,いわゆる開発独裁に近かったね.
 民主主義こそ取り入れてなかったけど,それなりに近代化を進めてた.
 アラブの春は,民衆中心の民主主義革命という面が強調されてるけど,民衆主導のイスラム主義革命という面もある.
 そういう点を考慮すると,これらの政権はある意味,モハンマド・レザー・シャーと同じと言える.
 実際,政策などの点でいくつか似てる点も見られなくはないからね.
 まぁ,本当はここら辺の国も,それぞれに個別な事情があったりするんだけど.
 エジプト,チュニジア,シリア,モロッコなどが大体そんな感じかな.
 これらにはいわゆるアラブ民族主義なんかを唱えてたりする国もあるね.

 後,モロッコはアラブの春以前からも,多少民主化改革は進めてた.
(その後,アラブの春をきっかけに憲法が改正され,モロッコではさらに民主化が進んだ)

 逆にアラビア半島諸国は,20世紀になるまで辺境地帯だったこともあって,前近代的な王政が支配してる場合が多いね.
 湾岸諸国などは石油収入で国内経済が潤ってるから,国王独裁でも,あまり国内の不満が出にくいところが多いんだよね.
 UAEなんかが良い例だけど,国民のほとんどが石油によって富裕層を形成してるから,政治に対する民主化要求をしようという気が起きないんだろうね.
 だから,現在まで民主主義も定着せず,石油収入による表面的な近代化だけが進んでる.

 基本的には上の2パターンだけど,それ以外にもレバノンなどの特殊なケースもある.
 アラブ諸国といっても国によって事情はまちまちだよ.

オツガイ ◆EAbyJft1LY : 世界史板,2011/12/19(月)
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** 【質問】
 スペイン・ブルボン朝の成立は,フランスによる南ネーデルラントやルクセンブルクの攻撃に耐えかねたスペインの,停戦案みたいな解釈でいいのでしょうか?
 王位譲るから,勘弁してくれと.

 【回答】
 ヨーロッパのパワー・バランスの問題だよ.
 子供のいないカルロス2世が亡くなり,スペイン・ハプスブルク家が断絶した時,一番近いその継承者は,フランスのルイ14世の孫のフィリップ(フェリペ5世)だった.
 ルイ14世妃のマリーテレーズ(父・スペイン王フェリペ4世)がフランスに輿入れする際に,王位継承権は放棄されたけど,スペインからの持参金が払われておらず,それを盾にフランスが放棄を無効とし,継承権を主張.
 政治,経済ともに行き詰ったスペインは,フランスの主張を断れず,カルロス2世の遺言状で,フィリップを後継に指名した.

 だが,フランスがスペインまで手にしたら,強大になりすぎるとおそれたオーストリア,英国,オランダなどが,オーストリアのレオポルト1世の子カール大公をスペインの後継者に擁立し,スペイン継承戦争が始まる.

 ヨーロッパの王家や大貴族は,相互に婚姻で結びついているので,A国の王位継承者がB国の王族,といったケースはぜんぜん珍しくない.
 だからこそ,英語のできないドイツ人が,英国王になったりもするし,○○継承戦争という戦争が何度も起こる.
 ナポレオンの時代と違って,この頃は,誰でも好きに王にしていいってもんじゃない.
 王の継承者は血筋こそがなにより大事で,血縁のない国内の他人を次の王にするよりも,血縁のある外国の親戚を後継者にしたいのさ.

 ところが,継承戦争が長引くうちにレオポルト1世が亡くなり,その後を継いだヨーゼフ1世(カール大公の兄)も病没してしまう.
 で,ヨーゼフ1世の弟カール大公がカール6世として即位する.
 こうなると事情が変わってしまい,カール6世がスペインまで継承すると,今度は,オーストリアが強大になりすぎる.
 で,英国などは手のひらを返して,スペインを併合しないことを条件として,ブルボン家のスペイン継承を認めたというわけだ.

世界史板,2011/12/30(金)
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** 【質問】
 三国時代の戦乱で,人口が10分の1に減ったとか本当ですか?
 さすがに減りすぎと思うんですが.
 昔すぎて物証も少ないと思うし.

 【回答】
 岡田英弘さんはそう主張している.
 確かに書物を文字通り解釈すれば,10分の1になっている.
 実際,減っていると言う証拠はかなりある.
 匈奴を中国国内に移住させたりしているから,後の五胡十六国の時代になると,それら移住させた異民族が華北に,続々と国を作っている.

 しかし,三国時代が終わって間もない晋の時代の人口統計は,1500万ほどになっている.
 20〜30年くらいで人間の数が,500万からいきなり1500万になるわけがないので,十分の一と言うのは,国家が把握できた数だと考えたほうがいい.
 明らかに誇張されている.

 『漢書』以後のシナの正史には,州や郡ごとに戸籍人口が記載されている部分がある.
 『後漢書』郡国志によれば,桓帝の永寿3年(西暦157年)には戸籍人口が5648万6856人に達した.
 しかし『晋書』地理志では,西晋が呉を滅ぼした西暦280年頃の統計で1616万3863人しかいない.
 つまり戸籍人口が4000万人以上も減少している.

 では三国時代はどうかというと,曹操の孫の明帝曹叡の時代に,3人の重臣が口を揃えて,
「わが魏の人口は,漢代に比べれば一つの大きな郡程度です」
と上奏している.
 後漢で一番人口が多かった郡は,南陽郡の243万9618人.
 三国初期には魏呉蜀を併せても,この倍程度しかなかったというから,500万人に満たず,157年から見れば10分の1以下.

 ただ,戸籍に登録されていたのは,「租税を納めるべき人々」で,流民や屯田兵や豪族の私有隷民(農奴)はカウントされなかったから,それらを併せれば10分の1までは減少していないともいう.
 西晋代に急に人口が増えたのは,屯田兵が戸籍に戻されたためらしい.
 まあ,戦乱・飢饉・蝗害・疫病が頻発した時期だから,それ相応に人口減少はしただろうが.

世界史板,2012/01/04(水)
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** 【質問】
 中世のチベットは宗派が群雄割拠していたけど,チベットには貴族階級や奴隷階級のような身分制度は無かったの?
 また,群雄割拠と言うと各地に武将や貴族がいるイメージだけど,チベットの場合は寺院が割拠していたんですか?

 【回答】
 ラサ周辺(現在のチベット自治区)には,奴隷制度はありました.
 奴隷は土地に縛りつけられ,逃亡したら舌を抜いたり目をくりぬいたりされていた.
 寺院は割拠していないが,貴族の所領の安堵状をラサの宗教勢力から出してした.

 青海もチベット仏教でチベット語なのだが,純遊牧民なのでモンゴルと社会が似ている.
 その遊牧集団は,宗族を単位としていて巨大なことが,モンゴルとは違う.
 青海の安多(アムド)と呼ばれる集団には,奴隷制度はなかった.
 四川雲南のチベット仏教地区は,半農半牧であり,交易によってラサにも出入り可能だった康巴(カム).
 こちらは,もともと大理国解体後からは土司制度がとられていた.
 同じ四川でも,長江(金沙江)の北岸は純遊牧民なので,安多(アムド)に分類される.

 19世紀に,もともと四川雲南カム地方の五品官宣撫司の安堵を清朝が出していたのを,ゲルク派の法王が出すようになり,ラサと同じゲルク派の布教が始まった.
 カギュ派がもともと拠点を持っていたほか,ポン教と親和したニンマ派も存在し,四川雲南は宗派のバリエーションが多い.

 四川省(西康省)甘孜藏族自治州新竜県にて発生した,ゴンポ・ナムギャルの乱を平定したのが,ダライラマ法王であったため,安堵はそちらから出すようになったが,20世紀になって川●辺務大臣趙爾豊によって,元の形に戻された.

●=さんずい+眞

世界史板,2012/01/08(日)
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