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世界史なんでも質問スレッド86

目次

 【追記】 ギリシャにもスラヴ人・トルコ人他異民族はたくさん入って混血もしたが,

 【質問】 中国の考え方であれば,漢の武帝時代の楽浪郡を根拠に,朝鮮の領有を宣言しても良さそうなのですが,実は既にしているのでしょうか?

 【追記】 当時の人民解放軍は,文革の影響で組織やドクトリンが破壊されつくして,しょぼい武器を持った人間がうじゃうじゃ集まって軍隊を自称してるだけってレベルで,貧弱な兵隊がいくら殺しても突っ込んでくるから,ベトナム軍がビビったほど.

 【質問】 中国はかつては,本当に「眠れる獅子」だった時代があるのですか?

 【質問】 フランスのカペー朝最後の王シャルル4世から見て,ヴァロワ朝最初の王フィリップ6世は従兄弟なのに,なぜ別の王朝扱いされているのですか?

 【追記】 格差を社会問題と捉えるのは我々の発想であり,極論するならお人好しの発想です.中国は理詰め一辺倒で,情を排除して経済を回しています.


世界史なんでも質問スレッド86
※番号重複.

目次

 【追記】 地域活性化

 【質問】 ベルナドットはナポレオンの部下だったんですか?

 【追記】 ヒトラーは国家社会主義を名乗りながらなぜアカと対立してるの?


世界史なんでも質問スレッド87

目次

 【追記】 中国の共産化を,アメリカは黙って見てたのでしょうか?

 【追記】 英米が来ざるを得ないようなしかも広大な2正面状態にしてしまうような事にどうして?

 【質問】 サイクス=ピコ,バルフォア,フサイン=マクマオンのうち結局,中東で採用されたのはどれなんでしょうか?

 【質問】 アラブの統一国家というのは,絶対に不可能なの?

 【質問】 第2次大戦中のトルコって,なんでずっと中立で,最後は連合国についたの?

 【質問】 アラブ人のユダヤ人に対する感情って,イスラエル建国から否定的だったんでしょうか?

 【質問】 ヨーロッパでのユダヤ人差別は,その選民思想が原因では?

 【追記】 本当に植民地が1915年らあたりで時代遅れと認識されていたのかなあ?

 【質問】 青年将校がクーデターを起こし,国家元首に就いた場合,どういう指揮系統になるの? 将官に命令できるの?

 【質問】 長いナイフの夜事件の「長い」とは,それとも刃渡りが長い,の意味でしょうか?

 【質問】 中華世界での傭兵事情は,どうなっているのでしょうか?

 【質問】 下級将校の消耗率は,なぜ高いの?

 【質問】 十字軍遠征にて,ビザンツ皇帝がローマ教会に派兵を頼んだのは,対イスラームで一致団結したと捉えていいんでしょうか?

 【質問】 儒教圏的対外関係って冊封しかないの?

 【質問】 モンゴル帝国の戦法を教えて下さい.

 【質問】 ロマノフ王朝の功罪は,どんなのがありますか?


世界史なんでも質問スレッド88

目次

 【質問】 「軍師」ってのは,東アジア独特のものなの?

 【追記】 武田信虎

 【質問】 ムハンマド・アリーって,そんなに重要視される役割を果たしたのでしょうか?

 【質問】 ナチの強制収容所では,女性や子供はどのような拷問,はずかしめを受けたのでしょうか?

 【質問】 ソ連の連合国入りについて,当時のイギリスやフランスには,ポーランド侵攻時には「ソ連も討つべし」という世論くらいあったと思うんだが,どうやって説得したの?

 【質問】 なぜ国際連盟は,第2次世界大戦を止めることができなかったの?

 【質問】 租界を設置される国の側には,居留地建設による利益を見込んでの,積極的な意志は無かったのでしょうか?

 【追記】 国王のボリス3世自身が割と親独だったよ


世界史なんでも質問スレッド89

目次

 【質問】 ヘロドトスはどういう根拠で,アルメニアはフリギアの植民都市だと思ったんだろ?

 【質問】 ヒトラーやスターリン,ムッソリーニはキリスト教だと思いますが,何派なんでしょうか?

 【反論】 ヒトラーって,修道会系の学校だってよくいわれてるけど,それまちがいね.

 【質問】 カレーは,なぜ英仏百年戦争終結時に返還されなかったの?

 【質問】 田豫はどうやって異民族を撃退したの?

 【質問】 日独伊三国同盟って,ドイツでは反対の世論とかなかったの?

 【質問】 スカルノ,ネルー,ジンナー,ケマル・アタトゥルクらが被ってる帽子って何?

 【追記】 ベトナム戦争でのアメリカの最終目的は何?

 【質問】 キリスト教もイスラム教もユダヤ教から枝分かれしたもので,ヤハウェとアラーは同一神ということでいいの?

 【質問】 キリスト教は,ユダヤ教の堕落や形式化を批判してイエスが新規にひらいた教えで,イスラム教は,ユダヤ教やキリスト教を参考にして,マホメットが新規にひらいたってこと?

 【追記】 ローマ帝国であれほどキリスト教が広まったのはなぜでしょうか?

 【質問】 項羽はなぜ,最初っから二文字の「西楚」を国号にしたのですか?

 【質問】 東ローマ帝国皇帝って,ずっと同じ家系が世襲してたの?

 【追記】 東に向かったトルコ人が進軍を止めたのは,やはり中華帝国の偉大さゆえでしょうか?


世界史なんでも質問スレッド90

目次

 【追記】 スターリンの大粛清とかもシベリア送りになったのは一千万以上だけど死者は百万ぐらいだったはず

 【追記】 ナチス自体は「民主主義の手続き」で乗っ取ったみたいな誤解があるけどそうじゃないしね.

 【追記】 ファシズムとナチズムは民族的同一性を強調することで階級対立を克服する.これに対し共産主義は階級的同一性を強調することで民族対立を克服する.

 【質問】 フランシス・ドレイク及び彼の配下の船員は,どんな剣を持っていたのでしょうか?

 【質問】 「オスマン家」「オスマン朝」などと言いますが,オスマンという名称は,初代スルタンの名前(オスマン1世)に由来するものですよね.「オスマン家」には代々の家族名などはないんですか?

 【質問】 トイトブルグでローマ軍団を叩きのめしたゲルマン人リーダー,アルミニウスの名前って,鉱石のアルミニウムと語源が同じだったりするのでしょうか?

 【質問】 ササン朝と突厥の間で,武力衝突はあったんでしょうか?

 【質問】 アヘン戦争はイギリス本国議会でも,戦争の正当性について紛糾したの?

 【質問】 中国ってしょっちゅう騎馬民族に侵略されてるけど,これは中国兵が弱すぎるの? それとも騎馬民族が強すぎるの?

 【追記】 辛亥革命って王室が異民族だから起きたの?

 【質問】 ソ連では,ロシア正教は排斥されたのですか?

 【追記】 ソ連は国家の生産を軍事にほとんど振り分けた為消費財の生産が割を食った

 【質問】 結城秀康が2代目の将軍になる可能性は,どのくらいあったの?

 【質問】 ナチスは近代の擬似科学の人種理論とナショナリズムの中で生まれてきてる?

 【追記】 ムハマンド以前,アラブ人って,どんな宗教を信仰していたのでしょうか?

 【追記】 逃亡を企てたのはミラボー生前からあったことで,議会では亡命禁止法を審議してたりする.


 【追記】

2472011/01/23(日) 15:26:16 0
ギリシャにもスラヴ人・トルコ人他異民族はたくさん入って混血もしたが,
東ローマ帝国の国民とその遺民の一部は「ギリシャ語を話しキリスト教(正教)を信仰するローマ人(ロマイオイ)」
と自らを定義した(中世の「ヘレネス」は「異教徒や田舎者」を意味する蔑称)ため,
血統や自称はともかく,言語的にスラヴ化することは少なかった.

古代マケドニア王国では北部訛りのギリシャ語が話され,
一応アテナイなどからもバルバロイではなく「ギリシャ人の一種」と認められていた.
現在のマケドニア共和国地域も,フィリッポス以後の征服活動でマケドニア王国の北部領になってはいる.
だが現在のマケドニア共和国の公用語である「マケドニア語」は,
ギリシャ語派ですらない南スラヴ語の一派で,ブルガリア語の一方言程度のものであり,
「マケドニアと呼ばれる地域に居住する南スラヴ人」が近代以後の民族名として「マケドニア人」を名乗っている.
しかもこの「マケドニア民族」は国内総人口の6割余りで,人口の4分の1はアルバニア人.

アルバニア人は近代以後「アルバニア語を話す古代イリュリア人の末裔」と自らを定義する.
イリュリア人は,一応ローマに征服される以前には部族国家程度の王国を築いていた.
またアルバニア語は印欧語族ではあっても独立した一語派をなし,険しい山岳地帯に住むため,
言語的にはギリシャ化もローマ化もスラヴ化もトルコ化も進まなかった.
ただ東ローマ帝国支配下ではキリスト教徒になったが,オスマン帝国支配下で多くがムスリムに改宗した.

世界史板,2011/01/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国は,歴史においてその王朝の最大版図を常にあげ,最大でない版図は出さないことはよく知られていますね.
 現在の中国の領土は,孫文の中華民国ではなく,満州族の清帝国時代の最大版図を規準としています.

 そこで質問なのですが,彼らの考え方であれば,漢の武帝時代の楽浪郡を根拠に,朝鮮の領有を宣言しても良さそうなのですが,実は既にしているのでしょうか?
 現状では北半分は,事実上の属国であるわけですが.

 【回答】
 清末民初の漢民族主義革命家である章炳麟は,すでに1906年の『中華民国解』で,「朝鮮や越南は漢の郡県が置かれた地であるから,絶対に回復すべきである」としている.
(確か孫文も,朝鮮は歴史的に中国の一部と主張してなかったっけ?
 途中で考えを,現実的な方向に改めたらしいが)
 漢の郡県はともかく,朝鮮は長年中国王朝の属国であったため,近代中国人の多くは「うちの版図だ」と考えていた.
 毛沢東は,
「朝鮮は中国の固有の領土だったが,日清戦争で日本に奪われた」
と発言し,蒋介石は1943年のカイロ会談でルーズベルトに,「朝鮮の中国返還」を要求したが,断られた.

 創刊初期のSAPIOだったかによれば,中華人民共和国は,発足して数年後に,回収すべき領土なるものを確定していた.
 それには以下の地域が挙げられていた.
朝鮮半島,沿海州,外蒙古,ブリャート・モンゴル,トゥヴァ,アルタイ,カザフ東部,カシュミール,ブータン,アルナチャル,ビルマ,ラオス,ベトナム,台湾,琉球列島
 まあ,反中カラー鮮明なSAPIOの言うことなので,クロスチェックが必要だが.

 それに,韓国が独立できたのは,運が良かったところが大きい.
 本来ならチベット同様,中国軍が侵攻して再支配開始していたのでしょうが,すぐ近くまで米軍が来ていたのと,独立の動きにロシアも介入していたため,内戦中の中国はすぐに手出しする余裕がなかった.

 現時点では,韓国を攻めるということはアメリカと事を構えるということ.
 だからやらない.
 台湾に攻め込まないのは,アメリカが介入するから.
 フィリピン領南沙諸島は,アメリカが介入しない事を確信したから侵攻した.

 あの国が考えるのはリスクのみ.
 リアリストだから,欲しい土地はどんな言いがかり付けてでも取りに来るけど,その価値が無かったら,たとえ中国本土のど真ん中の土地でも取りに行かない.
 中国は非常に計算高い,甘くない国です.

世界史板,2011/01/24(月)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

6882011/01/25(火) 05:47:00 0
>>685
当時の人民解放軍は,文革の影響で組織やドクトリンが破壊されつくして,
しょぼい武器を持った人間がうじゃうじゃ集まって軍隊を自称してるだけってレベルで,
そんなんで戦争しようって思うこと自体が自殺行為.

無能な将校しかいないから作戦は陣地築いて待ち構えてる敵にひたすら突撃で死体の山を築き,
指揮官が死んだら,指揮序列が決まって無いから誰も指揮権引き継げなくて,はしから部隊ごと潰走する悲惨さ.
貧弱な兵隊がいくら殺しても突っ込んでくるから,ベトナム軍がビビったほど.
不可解だからビビっただけで,来たら殺してたけど.

そんな感じなんで,全滅する前になんとかベトナムの防御を突破したとこもあったんだが,
犠牲が多すぎた上に,全体的には負けが込んでたから,切りあげた後で中国勝利宣言という最悪ぶり.

世界史板,2011/01/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国はかつては,本当に「眠れる獅子」だった時代があるのですか?
 それとも最初から「張子の虎」だったのですか?

 【回答】
 中国は17世紀あたりまでは,世界トップクラスの技術大国で,経済力と軍事力なら,今で言うアメリカ並みの化け物.
 ヨーロッパ全土と同じぐらいの経済力と人口と軍事力があって,文化水準も当時の世界の中じゃ最高級だったからね.

 それがダメになった根本的な理由は,
学問が伝統的に古典の人文偏重で,自然科学を軽視し続けてきたのと,
優秀な学者はみんな人文に行っちゃって,科学を天文学者と極稀に出てくる天才科学者の才能に,技術開発を職人の自発的努力に依存してたのと,
極端な実利主義や保守主義が,常に金に直結する分野と,古典の研究に直結する分野以外の進歩を,妨害し続けたという慢性的な問題.
 それに加えて,歴史の肝心なところで,経済や科学技術が数十年レベルで大きく後退するような事件が起きてた.

 それでいろんなボロが出てひどいことになっても,政権交代が起きてお祭り気分になるか,圧倒的な軍事力と経済力で解決しちゃうから,全部うやむやになって,真剣に体質を見直す機会が無かった.

 しかし,ヨーロッパは16世紀から続いてた,科学技術と経済力の爆発的な進歩で,17世紀頃に中国のレベルに並んで,その後も勢いが止まらずに,何世紀も発展を続けたのに対し,中国は17世紀の高度経済成長で膨れ上がった人口が,深刻な不況や治安の悪化を招いて,さらに政治の失敗と天災がそれに弾みをつけて,経済が恐ろしい勢いで悪化.
 産業も衰退し,技術開発は需要が無くなってストップし,生産施設もどんどん閉鎖される.
 政治に不満のある奴らや犯罪組織が,どえらい大軍を揃えて反乱を起こしまって,政府軍も連戦連敗.

 そんな破滅的な状況で,ヨーロッパに逆転されて,しかも外交を失敗して食い物にされまくり.
 国内は相変わらずの反乱祭り.
 あてにならない正規軍に代わって,軍閥の私兵が清の主力になって,政治に影響力を行使する.
 改革にも失敗.
 地方はほぼ,ヨーロッパと軍閥が仲良く分け合ってる.
 これで20世紀初めには,かつて江界の半分に匹敵する力を誇った超大国は,無残なことになりましたとさ.

世界史板,2011/01/26(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 系図を見て思った疑問です.
 フランスのカペー朝最後の王シャルル4世から見て,ヴァロワ朝最初の王フィリップ6世は,父(フィリップ4世)の弟(ヴァロワ伯シャルル)の子,つまり従兄弟です.
 この時は,従兄弟への王位継承でも,別の王朝という扱いです.
 一方,ヴァロワ朝で,王位がシャルル8世からルイ12世へ継承されていますが,ルイ12世はシャルル8世から見て,曾祖父(シャルル6世)の弟(オルレアン公ルイ)の孫にあたり,従兄弟よりずっと遠い血縁ですが,同じヴァロワ朝の扱いです.
 さらに次の王フランソワ1世も,ルイ12世の曾祖父(シャルル5世)の曾孫(アングレーム伯シャルル)の子で,やはり遠い血縁の継承です.
 別の王朝扱いされたりされなかったりする基準は,何なのでしょうか?
 ルイ12世の系統は1代だけですが,フランソワ1世からはアンリ3世まで,その子孫に王位が継承されているので,アングレーム朝とでも称してよいように思うのですが.

 【回答】
 カペー朝では,実際は世襲制が確立されつつあったけど,建前上選挙で王を選ぶことになってる.
 世子が絶えてヴァロワ朝になるときも,やはり選挙だった.
 それでたまたま,血統的に近いフィリップ6世が選ばれただけ.

 ヴァロワ朝になって14世紀後半から,世襲制が完全に確立されたので,血統的に遠いようでも,他にいなければ王として選ばれる.
 アンリ4世が王になれたのも,血統的に一番近い人物だから.
 だからルイ12世の妻が,ルイ11世の娘であることや,フランソワ1世の妻がルイ12世の娘であることは関係ない.

 そういうわけでカペー朝とヴァロワ朝では,性格がまったく異なるから分ける必要がある.
 細かく見る場合は,ヴァロワ朝を細分する.
 ラルース百科事典の系図にはValois-OrleansとValois-Angoulemeとある.

世界史板,2011/01/26(水)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

9402011/01/27(木) 06:12:06 P
>>939
それ言ったら中国だって「頂点」が嵩上げされただけで,
むしろ貧富の格差がますます広がったとも理解出来るな.

9422011/01/27(木) 06:39:42 0
>>940
その通りです
そこに目がいかない人間は,知識人にも多いですが,しかし世界史的スパンでの国家経済という視点で見るならば,取るに足らない問題であるともいえます
中国に仕事で行けば分かりますが,都市部は厳重に隔離されていて,特別な許可証がなければ他地域の一般人は都市に入る事さえ出来ません.国境みたいな扱いになっています
人口の大規模な流動を抑制するためであり,過去の「流民と反乱のコンボ」に学んだ,非常に効率的なやり方といえます

貧富の格差についても,ある程度資産のある人間でないと欧米の大物から相手にもされないわけですから,そういったチャンネル役となる階層をつくりビジネスを引っ張らせるというのは理にかなっています

格差を社会問題と捉えるのは我々の発想であり,極論するならお人好しの発想です
あの国は理詰め一辺倒で,情を排除して経済を回しています
彼らの奇跡のような成功の理由はそれです

世界史板,2011/01/
青文字:加筆改修部分


 【追記】

1242011/01/28(金) 23:44:20 0
昔,大学で地方自治のゼミに入ってた事があってさ,東北のド田舎に
フィールドワークに行った事がある.
現地のジジババは地域活性化とか言って若者を呼びたいとか言ってるのね.
んで彼らの子供や孫は都市部に住んでる.

そこで俺が夜に酒の入った席で「お子さんやお孫さんにも帰ってきて貰いたいですね」と言ったら
「こんな田舎に帰ってきてもしかたねえだろう」とか
「せっかく街で良い企業・良い大学に勤めてる・通ってるのに」とか言い出すんだわ.

要は若者という奴隷が欲しいんだが,当然自分の身内は奴隷にしたくないってのが本音なわけ.
それに気付いた時いっぺんに問題意識が冷めた.

結局,自分のエゴが満たされないのを社会全体の問題であるかのように語ってるだけなんだよ.

世界史板,2011/01/
青文字:加筆改修部分

※異論あり


 【質問】
 ベルナドットはナポレオンの部下だったんですか?
 家康と秀吉の関係のように,一口で君臣関係とは言えない難しい立場だったのでしょうか?

 【回答】
 ジャン-バティスト・ジュール・ベルナドットは,優秀な軍人であり,タイミングがよければナポレオンと匹敵したかもしれない人.
 ナポレオンの部下となってからは,他の将軍たちと同じように(ここ,微妙なニュアンス(笑))ナポレオンに忠誠を尽くした.

 しかしナポレオンの政策によって,スウェーデンの皇太子になってからは,ナポレオンと距離を置くようになった.
 このへんの呼吸は,家康と秀吉の間柄というよりは,ヒトラーとドイツ陸軍の元帥たちのような関係ではなかったろうか.

 ナポレオンの部下であったときのベルナドットは,腹の中はともかく,家康のように露骨に反抗することはない.
 反論とか異論は呈したことはあるが,基本的に忠実な部下としてふるまっている.
 立場が変わって初めて,ナポレオンの政策の危険さに気づいたのかもしれない.

世界史板,2011/02/08(火)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

6812011/02/10(木) 08:14:03 0
今「やる夫がフューラーになるようです」を見てるんだけど
社会主義と共産主義の違いがよくわからない
ヒトラーは国民社会主義を名乗りながらなぜアカと対立してるの?


6822011/02/10(木) 09:09:52 0
ただの建前.
ファシズムと共産主義は仲が悪い


6832011/02/10(木) 09:22:57 0
仲こそ悪いけど
体制そのものは似たり寄ったりなんだよな


6842011/02/10(木) 09:28:42 0
社会主義(ソシアリズム)というのは,富を平等に分配する社会の実現を目指す思想や運動の総称.
共産主義(コミュニズム)というのは,社会主義のうちのひとつ.
国家社会主義(ナショナル・ソシアリズム)というのも,社会主義のうちのひとつ.

社会主義の実現には,市場経済を統制する「大きな政府」が必要.
共産主義においては「人類平等の共産主義社会(理想郷)が実現すれば,最終的に社会主義政府も消滅する」とした.
実際には「実現」する前にソ連という社会主義政府が消滅したので,いまだに共産主義社会は実現していない.

社会主義が国家主義(ナショナリズム)と結びついたのが国家社会主義.
例の鉤十字の旗において,赤色は社会主義,白色は国家主義を表す.
二つの概念は常に矛盾対立するものでもなく,社会主義的政策を「大きな政府」である国家が行えばよい.
社会主義者や共産主義者は「アカ」と総称され弾圧されたが,これは国家主義(白色)に反対したため.
またネイションという語には国家・国民・民族などの意味が含まれ,民族社会主義とも国民社会主義とも翻訳される.
ヒトラーは,あるネイションの中では平等な分配を約束したが,ネイションの外の人々は差別・殺戮している.


6852011/02/10(木) 09:51:46 0
>>681
ナチスは「国家社会主義ドイツ労働者党」という名称であり,国民社会主義ではない.
ヒトラーが策定した25カ条綱領によれば「企業の国有化」や「国費による教育」などの
社会主義政策を採る一方で「土地の無償収用」「非ドイツ人移民の禁止」といった
国家主義・拝外主義的な主張もしている.

最初に国家社会主義を提唱したモーリス・バレスによれば社会主義と民族主義,
ナショナリズムを融合したものが「国家社会主義」であるから,共産主義が目指した
国境のないプロレタリアート(労働者)独裁の政治形態や理想的共産主義に至る過程と
位置づけした社会主義といった考え方とは自ずと違ってくる.

また,ドイツ共産党は当初はナチスと協調路線を採っていたが(議会の共同法案提出等),
国会議事堂放火事件でコミュニストとの関わりが疑われたことをヒトラーが政治利用し,
ドイツ共産党を含むコミュニスト排斥に動いた.こうした動きは共産党への親和性のある
国民のうち,社会政策が近いナチス支持に移行させることを促し,危険な共産主義という
意識を持っていた国民の支持を取り付け,一気にナチスの支持者を揺るぎないものにした.



6862011/02/10(木) 10:11:51 0
ヒトラーは,自分の思想をファシズムともナチズムとも呼んでいない.
ムッソリーニの唱えたファシズムの一種だとしたのはスターリンらであり,
ナチズムというのは国家社会主義から社会(ソシアル)を抜いた上で略した蔑称.

また「民族集団」というくくりでは,人種・血統・遺伝的特性に重点を置き,
精神性も言語も文化も血統で遺伝するという説に賛同したが,
純血を保つべきというより「優れた血統が入れば優れた人種になる」とも説いた.
また「民族(人種)」内部でも各人は平等ではなく,民族共同体を指導する者(総統)が必要で,
彼の補佐をするものとして指導者集団が形成され,これが新たな貴族になるとした.

世界史板,2011/02/
青文字:加筆改修部分


 【追記】
 中国の共産化を,アメリカは黙って見てたのでしょうか?
 1945年から徹底的な裏工作とか,蒋介石援助強化とかで阻止とかしてたのでしょうか?
 それともソ連との兼ね合い上,放置せざるを得なかったのでしょうか?
 日本の共産化は,断固阻止しようとしてたのに.


 黙って見てたわけじゃないけど….
 蒋介石が台湾に逃げた時,アメリカに援助を要請した.
 しかし台湾に逃げざるを得なかった国民党が,大陸を掌握した共産党にリベンジを挑んで政権奪回できる見込みは,極めて薄かった.
 アメリカとしては支援して国民党が政権奪回できるものなら,したい気持ちはあったが,見込みのない戦争に軍隊をつぎ込むようなアホらしいことはしない.

 それから,ニクソンが国交を結ぶまで中華人民共和国を認めてなかったことはわかってる?
 日本もだけど,長年台湾の「中華民国」の方を,中国の正当な政府だと認めていたんだよ.

 ベトナムだって共産化を阻止しようとしたけど失敗したし,アメリカが軍隊を出せば共産政権撲滅が実現する,というわけじゃない.

以下引用

その支援にも係わらず,敗戦直前まで日本にボコボコにやられていたから,
蒋介石の能力を疑問視する声がアメリカから上がっていたのと,戦争が終わって援助が減らされた為.
それだけでなく国府軍の内部でも,彼に対する不満が噴出していた.
彼の国内での政治生命はある意味,アメリカからの援助で繋がれていた節があった.
その間隙を共産党に突かれた.彼らは国共合作と言いつつ大戦中は前線は国府軍に任せ,
農村を中心に支持基盤を作り上げ,力を蓄え,他の軍閥への切り崩し工作を進めていった.
他にもソ連からの支援等,様々な要素が重なり,国府軍は台湾へと追いやられていった.
共産党が土地改革などの飴をぶら下げて,民衆の支持を取り付けていったのに対し,
国民党側はインフレ抑制の失敗や,官僚の腐敗により,民衆の離反を招いたよう.
また,国民党の支持母体は資本家や地主層.でも,日本軍によって東部の資本家は全滅状態.
農民は土地改革を進める共産党に支持して,地主を追い立てる.
しかも国民党の役人や軍人は腐敗しきっている.これでは勝てんよ.

322011/02/18(金) 03:23:21 0
そもそも,アメリカはモンロー主義がWW1やWW2直後の米世論に強く,
ぶっちゃけていえば欧州やアジアの戦争になんでうちの息子がかりださねばならんのだ
ドイツやソ連がドンパチやろうとしったことじゃねー! 
パールハーバーは流石になぐりかえさないとムカツクが,アジアのことまでしらんわー
マーシャル・プラン? それぐらいなら俺達の先祖もおおいが,アジアのことまでしったことか!
おれは一生自分の州からでることもねえし かんべんしてくれ!

というような米有権者の世論も強かったからね.
基本的に内政の延長に外交がり,援助もあるのだよ特に民主国家はそういう世論を無視できない

とくにポビュリズム的政治は国家の安全保障政策と矛盾するということだよ<中国の共産化過程への合衆国の介入

ただ,出来うる範囲での国民党のテコ入れはポビュリズム的政治の許容範囲でやれるだけはやっているから
その辺は履き違えないように.

世界史板,2011/02/18(金)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

66 : 61 : 2011/02/19(土) 03:03:40 0
東欧巻き込みつつソ連相手に戦いますアピールはしてたんでしょ
ヒトラーはイギリスとやりあいたくなかったって話だし
その後のソ連への斬り込み方もだだっ広い所ご苦労様なカンジだし
英米が来ざるを得ないようなしかも広大な2正面状態にしてしまうような事にどうして?
フランス大嫌いだから?ソ連の方がみんな嫌いだったんじゃない?

792011/02/19(土) 03:50:05 0
>>66
第一次大戦後のドイツとソ連はお互いに戦勝国=西側への不満で共闘関係にあったよ.ラッパロ条約とかな.
ヒトラーを始めとしたナチはイデオロギー上最大の敵は共産主義率いるソ連だったが,
オーストリア併合にしてもミュンヘン会談にしても,西側,東欧諸国,ソ連を相手に
柔軟な対応を取ることによって,現実的な利得を増やすことに成功していた.
まずチェコ併合までの段階で,ドイツとソ連は国境を接しておらず,ポーランドを何とかしなければ
ソ連攻撃は現実的に無理だった.だが,ポーランドを攻撃すれば英仏と交戦状態に入る.
フランスを攻略したのは,西部戦線をドイツ本国の安全のため,遠ざけて大西洋まで追いやろうとしたこと.
また,大陸の連合国側最大の拠点であるフランスが落ちれば,
イギリスは講和を申し込んでくるだろうとヒトラーが考えていたことがある.
付け加えるなら,フランスの資産や人的物的資源なども戦争遂行に役立つので手に入れようとしたのだろうね.

世界史板,2011/02/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 サイクスピコ,バルフォア,フサインマクマオンのうち結局,第1次大戦後にイギリスやフランスが中東で採用たのはどれなんでしょうか?

 【回答】
 結果的には3つとも破ってるとも言えるし,逆に3つとも採用されたとも言えるね.

 実はイギリスの三枚舌外交って,一般に思われてるほどには大して矛盾してなく,細かい国境の線引きを巡って,ちょっとした矛盾があった程度なんだよね.
 まぁ,それが後のパレスチナ問題の遠因となる訳だけど.
 まず,バルフォア宣言は,ユダヤ人の国家建設ではなく,ただの居住地設置の約束という見方もあるため,その見方に立てば実行されたと言えなくもない.
 次にサイクス・ピコ協定だけど,これも基本的には実行され,英仏の間で中東地域の分割が行なわれた.
 そしてフサイン・マクホマン協定だが,これはイギリス委任統治下ヨルダン王国及びイラク王国という形で,当初の協定の内容とは大幅に変わってはいるんだけど,一応実行されたと言えなくもないかなぁ.
 まぁ,フサイン自身は納得しないだろうけど.

オツガイ ◆EAbyJft1LY : 世界史板,2011/02/19(土)
青文字:加筆改修部分

 フサイン自身がその後で自分が諸勢力を統一し,支配するのには消極的だったからなぁ.
 だから自分だけの権力,国家としての統一を保障するような条約は,後々問題を起こすと考えた.
 彼が望んだのは諸権乱立だけど,イギリスはそれじゃ満足しなかったわけで,特にエジプト独立後は,アラブに脅威を感じたため,フサインには消えて貰うことになったわけだ.

世界史板,2011/02/19(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アラブ人のアイデンティティが良く分からないが,アラブの統一国家というのは絶対に不可能なの?
 歴史的に見ても,たとえばサウジなんかはサウード家が排除されれば,残ったのはただのアラブ人であって,イギリスが宗主国,フランスが宗主国の違いはあっても,歴史が全く別々で,明らかに相手と自分達は違うって感じでもなさそうだし.

 【回答】
 アラブ人全体で1つの統一国家を作るっていうのは,かなり難しい気がする.
 歴史的には,エジプトがシリアと連合してアラブ連合共和国を作ったけど,結局解体してしまった.
 現在のアラブ地域ってかなり広いから,その中のどこを中心にするのかって事や,地域間の相違などがあるからね.
 アラブが1つの統一国家だったのって,ウマイヤ朝にまで遡らないとないし.

オツガイ ◆EAbyJft1LY : 世界史板,2011/02/19(土)
青文字:加筆改修部分

 だいたいアラブ世界・イスラム世界を同一視してもなあ.
 テーゼで日本軍が「アジアはひとつ,五族協和」といっても,おまえらは噴飯物としてしか受けられないだろ.

 アラブというのは,「荒地(アラバ)に住む人」程度のくくり.
 スラヴ,ケルト,ゲルマン,テュルクなどに相当するレベルでの,大きな言語・文化的集団であって,現在も無数の部族・氏族に分かれており,初期イスラーム帝国での中核種族としてならともかく,一つの国家を持つ「ネイション」としてまとまったことはない.
 アラブ民族主義運動は近代欧州の影響を受けた現象で,イスラエルやイランといった敵がいないとまとまらない.
 UAE(アラブ首長国連邦)というのはあるが,あれもアラブ系の首長国の連邦であるに過ぎず,部族や氏族はそのまま.

 あちらもネトウヨっぽいのとかテロリストが,自分たちを犯罪を「大義によるもの(キリッ」という口実で使ったりしているけど,口だけの話だよ.
 おまえらだって朝鮮人や中国人のどうのこうのと言ってるのに,なんで連中だけコスモポリタニズムが普及していると思い込めるんだか.
 イスラム教はそういう思想をおしえているけど,実際のアラブは部族中心に物事を考えるし,宗派がちがうと互いのモスクでテロ起こすようなキチガイも一杯いるし,世俗主義者も多い.

 エジプトの政変でもわかるように,その日暮らしの人々も多いというのに,過去のイスラム帝国のように,イベリア半島からイラクあたりまで旅行するような時代とは全然ちがうわな.
 極少数のお金持ちと,自分の身の回りの世界以外は興味ないし,一生に一度はいきたいとおもっているメッカ以外は,他地域に興味ないっていう人も多いよ.
 おまえらだって,韓国の田舎とかミャンマーとかカンボジアにわざわざいって,現地で結婚して一生すごそうかと考えている奴,どんだけいるんだ?
 そういう意味で,あまり夢見てもねえ.
 同じ人類,そんなに思考かわるわけねーだろ.ってことだよ.

世界史板,2011/02/19(土)
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 【質問】
 第二次大戦中のトルコって,ケマルの盟友だったイノニュが大統領で,国父ケマル以来の独裁体制のもと,反英反共で比較的親独だったはずなのに,なんでずっと中立で,最後は連合国についたの?

 【回答】
 第二時世界大戦中のトルコは,国内でも参戦すべきかどうか,かなりもめたけど,結局イノニュは中立を選んだ.
 というのも,革命直後で,まだ国内が安定しなかったからという理由と,第一次世界大戦の時に懲りてるからという理由がある.
 まぁ,結果的に見ると,イノニュは正しい判断をしたと言えるのかな.

 とは言え,第二時世界大戦中のトルコは,戦時中のような国内状態だったらしいし,末期には連合側についたけど.

 ちなみに末期に連合についたのは,単に連合側が優勢になったために,枢軸に宣戦布告するよう圧力がかかったため.
 これはトルコに限らず,第3世界の国々には結構あったこと.
 戦後のトルコは一気に親米国になった訳だし.冷戦下になるとイノニュは西側陣営につくのを選択した.

オツガイ ◆EAbyJft1LY : 世界史板,2011/02/19(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アラブ人のユダヤ人に対する感情って,イスラエル建国以前,19世紀ぐらいから今と同じぐらい否定的だったんでしょうか?
 つまり,ユダヤ人に対して差別意識があったのでしょうか? その逆は?
 ユダヤ人差別はあくまでも,キリスト教→ユダヤ教のみと思ってたのですが.

 【回答】
 中東のユダヤ人(=セファルディム)は,同時代のヨーロッパに比べれば,マシなほうだったね.
 オスマン帝国なんかは,スペインから亡命してきたユダヤ人が大量にいたし.
 まぁ,何だかんだ言っても異教徒だったから,それなりに差別や偏見もあっただろうけど,イスラーム圏での異教徒は,ズィンミーとして不平等な扱いではあるけど,信仰自体は保護されたしね.

 シリアやレバノンやエジプトなんかのキリスト教は,イスラーム征服前の,ビザンツ帝国領だった時代に出来た宗派がほとんどだよ.
 あそこら辺の地域は,初期キリスト教において結構重要な聖地や教会も多いからね.
 イスラーム支配下になってもズィンミーとして,信仰を保ち続けた人も結構いた.

オツガイ ◆EAbyJft1LY : 世界史板,2011/02/20(日)
青文字:加筆改修部分

 キリスト教徒がユダヤ人を嫌っているのは,彼らがイエスを殺したせいなので.
 イスラム教徒からしたらイエスは,数多くいる預言者の一人に過ぎないから,ユダヤ人だけ取り上げて対立する理由なんてありません.
 特別な差別意識は,キリスト教徒→ユダヤ教徒でしか発生しないと思っていいかと.

 シリアのキリスト教人口については知らないので,適当に言いますが,ベイルート地方(現レバノン)には,昔からしぶとく少数派のキリスト教徒がコミュニティを守っていたようなので,その辺の人もいるんじゃないかと思います.
 ウィキペヂアを見たらレバノン国民は,実に4割がキリスト教徒らしいですね.

 ただイスラム教徒が,(彼らが宣伝しているように)異教徒に対して特別な宗教的寛容があるわけではなく,ユダヤ人・キリスト教徒が同じ,「唯一の神」を崇める「啓典の民」であることを考慮しなきゃならない.
 ベイルートのキリスト教徒やエジプトのコプト派のように,啓典の民であれば,ある一定の範囲では存在を認めますが,多神教徒や自然宗教・精霊信仰の偶像崇拝邪教徒には容赦しませんから.

 2ch的不等号で表せば
ムスリム≫ユダヤ・キリスト教徒≫[文明人の壁]≫多神教徒≫≫≫自然宗教・精霊信仰≫ユダヤ・キリスト教徒≫[文明人の壁]≫多神教徒≫≫≫自然宗教・精霊信仰
ってとこかと.

 【反論】
 ユダヤ人がキリスト教徒から差別されてきたのは,ヨーロッパの話.
 圧倒的少数者だし,キリスト教が絶対的に正しい世界だから.
 「キリストを殺した」なんて後付けの理由.
 そもそも磔の理由は,ローマに対する反逆だし.

世界史板,2011/02/20(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヨーロッパでのユダヤ人差別は,その選民思想が原因では?

 【回答】
 ユダヤの選民思想というステレオタイプな批判は,結構的はずれだよ.
 どちらかと言えばそれは,欧州の排外主義者が方便として用いたもの.
 ユダヤ教ではバビロン捕囚とディアスポラの時代に,大幅な選民思想の緩和を行い,ヘブライ人の生き残りを優先するようになった.
 エスノセントリックを維持したままでは,民族自体の消滅の危険性があったから.

 でなきゃあ,アディアバネ王国やハザール可汗国が,「ユダヤ教に改宗する」なんてできんわな.
 布教とか改宗運動もさかんにやってたし,異民族との結婚も可能になった.
 暴走してローマに潰されたのは過激派で,ディアスポラ・ユダヤ人のほうが多かったし.

 【反論】
>ユダヤ教ではバビロン捕囚とディアスポラの時代に大幅な選民思想の緩和を行い,
>ヘブライ人の生き残りを優先するようになった.

 教義以前にまさにこのような姿勢,そのための手段が,ユダヤ人をヨーロッパ社会から迫害された原因となったのではないだろうか.

 戦争により祖国を失くし,離散したユダヤ人が,生き残りのためにしたことは,戦うことや守りを備えることではなく,世界各地にネットワークを作って,危険な情報を感知したらすぐに脱出する用意や避難場所の確保だった.
 交易や遊牧で生きる,見知らぬもの同士が行き交う砂漠の部族社会なら,このような生き方も大して目立ちもしないだろうが,中世以降のヨーロッパのような社会では,傍目からはどのように見えただろうか.
 おそらく,戦乱や災害があれば真っ先に逃げていくユダヤ人をみて,
「自分たちと苦労や運命を共にしない,信用のならない者」
と思っただろう.
 また,情報網を利用し,非常事態を利用して投機をする者もいただろう.
(おそらく少数派だろうが,とても目立ったはず)

 ユダヤ人以外の,その地域や社会に根ざした者にとって,そのようなユダヤ人は「信用ならない」,さらには「自分たちを利用して利益を得ている」,「自分たちを(戦争時は)外国,(天災・疫病時は)悪魔に売っているのではないか」
というように見えていく.
 教義云々は理解以前に,不信感を持たれれば,いくらでもレッテルは貼られる.

世界史板,2011/02/22(火)
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 【追記】

2642011/02/23(水) 15:35:41.16 0
>>237
英領マレーは1909年まで拡大していたし,1915年のニサヤランドの反乱は武力鎮圧した後,搾取を強化.
イギリスがオーストラリアの政治に直接干渉したのは実質1975年まで続いた.法制度上は今もイギリスの任命する総督がオーストラリアの
首相を罷免する権限を持っている.
1986年には南半球でフォークランド紛争.
仏領では,象牙海岸の支配確立は1917年,赤道アフリカ植民地は1910年成立1920年再編,上海租界は1914年に領域拡張.
オランダのアチェ征服は1904年,このときに双方に万単位の戦死者を出す激戦.
第二次世界大戦後も,フランス・オランダは東南アジア地域の植民地奪還・再経営のために大規模派兵をしている.
アメリカ領では,フィリピンは1916年にようやく自治法,将来の独立に言及したのは1934年.サイパン,グアムはいまだ解放されず.
……とみると,本当に植民地が1915年らあたりで時代遅れと認識されていたのかなあ?

世界史板,2011/02/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 カダフィで疑問に思ったが,ていうかナセルや朴正熙でも同じだが,大佐や少将といった青年将校がクーデターを起こし,大統領や国家元首に就いた場合,どういう指揮系統になるの?
 大佐が元帥に命令できるの?
 今みたいに文民政権とかなら,大統領の権限.
 あくまでも軍事政権だから,余計疑問なんですが,たとえば元帥が大佐に命令したら,大佐はどういう立場なの?

 【回答】
 一般的には,位の低い将校が国家指導者となった場合は,大統領とか,国家元首とか,ナントカ評議会議長とか,
 とにかくその国家指導者としての権限として,自分より上の階級の軍人にも命令する.
 たとえば朴正煕は,クーデターから大統領に就任するまでの間,「国家再建最高会議議長」.
 軍事政権であっても,とにかく実権を握った者の勝ち.
 軍の系統より上の権限の役職を作って自分がそのトップについてしまい,反対者は粛清する.
 そうなったら,軍では階級がそいつより上の将軍だろうと,形の上では上官だろうと,命令なんてできるもんじゃない.
 できるとしたら,再クーデターで権力が交代した時だ.

 あと,権力を握った時点で,自分の軍の階級を上げる者もいる.
 カダフィもクーデター当時は大尉だったが,自らを大佐に昇格させた.
 これは彼が尊敬するナセルの階級にあやかったもので,以後もずっとその階級にこだわって,大将とか元帥とかにはならないでいるのが面白い.
(リビア軍にも当然,大佐より上の将官の階級はあり,将軍たちがいる)
 なお,カダフィは「革命指導者」で,リビアを直接民主制国家ということにしたので,法的には国家元首ではない,と主張している.

 ちなみに,鶏唐揚げ屋のサンダースさんは正規の軍人ではなく,彼の「カーネル」は,功績に対してケンタッキー州が贈った「名誉市民」みたいな称号で,いわば「名誉大佐」とでもいうべきもの.

世界史板,2011/02/27(日)〜02/28(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 長いナイフの夜事件の「長い」とは,時間としての長い,ですか?
 それとも刃渡りが長い,のどちらを意味でしょうか?
 あと,この名前となった由来も教えてください.

 【回答】
 形容詞の位置の問題は,外国語での呼び方を見ると,一発で解決するよ.
 英語だと,「Night of the long knives」
 「長い」は明確にナイフにかかってるね.

 由来はウィキペディアによると,

――――――
 長いナイフの夜事件(Nacht der langen Messer)とは,1934年6月30日から7月2日にかけて,ナチ党が行った粛清事件である.
 …事件名は,5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による,ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)にちなむ.
――――――

 だそうでス.
 なんでブリテン人やザクセン人が出てくるかっつうと,もとはアーサー王伝説の一場面だったとかで,そもそもザクセン(サクソン)が「長い戦闘用のナイフ」を意味するとかなんとか.
http://en.wikipedia.org/wiki/Night_of_the_Long_Knives_%28Arthurian%29

 しかしまあ,誰が呼んだか「長いナイフの夜」.
 気取ったメディアかイギリス人か.
 聖杯探した伍長閣下は,自分らの所業をだまし討ちとは言わず,「レーム事件(プッチュ)」とか呼んでますが.

世界史板,2011/02/28(月)
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 【質問】
 中華世界での傭兵事情は,どうなっているのでしょうか?
 今回のリビアの内戦でも,大佐は国軍が信用できないといって,主力を傭兵で賄っていますが,中華世界では傭兵は,限られたところでしか使っていないように思えるのですが?
 ヨーロッパ・中東世界では主力を傭兵で賄うどころか,下手をすれば傭兵が国を乗っ取って,王朝を作るところまでいっているのに.

 西洋・中東的な,商取引と同じような考え方で雇うのとは,違う感覚のような気がするのですが?

 【回答】
 昔から胡族を傭兵に使っていました.
 比較的新しい時代といっても,1400年前の話になりますが,武川鎮の鮮卑とか,1100年前の沙陀とか.
 東晋は,胡族に国家を乗っ取られて東南へ逃げましたし,北宋は胡族の協力なしには建国できませんでした.

 しかし中華世界ですと,傭兵は常に補助的な役割を担わされてて目立ちませんね.
 中華の国家は基本的に,強烈に自給自足志向なので,アウトソーシングによって業務効率化をはかろうという発想が希薄です.
 軍制においては特に曹魏の屯田制以後,その傾向が顕著になります.
 私家軍は若干それっぽい所がありますが,傭兵というには私的紐帯が強すぎますし,平時に秩序から遊離する存在でもありませんから,傭兵とは違うものと考えるべきでしょう.

 そう考えていくと案外,後漢後期から後漢末あたりが,中華世界の傭兵の全盛かも知れません.
 後漢の軍縮やり過ぎのせいと,天災による農民の困窮による反乱などで,太守が各々傭兵をその都度雇うようになります.

 そして中華の傭兵は,金で雇われた兵でも,官位もらって正規軍扱いになります.
 不要になったら離脱して次の雇い主探すってのは,ほとんどありません.

世界史板,2011/02/28(月)
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 【質問】
 よく下級将校の消耗率は高いと言われるが,官費で養成した将来の指揮官たるべきエリートを,戦場ですりつぶすのはもったいないのではないだろうか?
 だから,大学生を予備士官に採用して,下級将校の不足を補充してたそうだが,これも当時としては数少ない高等教育を受けた,人間の無駄づかいのような.
 そもそも,下級将校の消耗率はなぜ高いのか?

 【回答】
 下級将校ってそのまま前線の管理職だから,必然的に多大な危険を伴う.
 あと,小隊格の部隊が,取り立てて高等教育を受けてない人間の指示で,前線を徘徊することになるというのも微妙.

 少なくとも方針決めには高等教育を受けた仕官が現地で携わらないと,統制が取れないし責任も取れない.
 下士官なんて,映画や小説や漫画じゃ,「戦場のことなら何でも知っている」と訳知り顔の軍曹に,士官が何でもかんでもおんぶに抱っこ出来るようなイメージだけど結局,下士官以下の世界しか理解してない人間も多い.
 更に士官も,後方から指揮して
「現地の状況が解りませんでした」
を繰り返されては,前線はたまったものじゃない.
 戦場は水物だし,管理職が責任と危険を共有しているということをやらないと,人は動かないんだよ.

 一方,前線に出るような人たちの世界を全く知らないまま,その上だけを養成することもまた,余り意味がないしね.

 だから幹部は大変だって言われるんだ,と過去に自衛隊の幹部候補生試験受けた人間が言ってみる.

世界史板,2011/03/06(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 十字軍の遠征には,ビザンツ皇帝がローマ教会に派兵を頼んだとの記述なんですが,当時彼らは仲が悪かったのではないでしょうか?
 対イスラームには一致団結したと捉えていいんでしょうか?

 【回答】
 仲が悪いからルノーとかと戦ったし,後年には占拠されたんじゃん.
 しかしロベールの関連で,神聖ローマ帝国との関係はそこまで悪くなかった.

 で,イスラムとの関係だが,ファーティマ朝の時代には,キリストとイスラムは結構仲良くやってるし,トルコが敵対関係を作っただけで,別段異教徒だからというわけではない.
 支援が来る以前にグレゴリウス七世は計画していたし,十次軍派遣はアレクスィオスの要請によるものにせよ,ある一定の準備はあった.

 おおざっぱに言って,こんな感じ.

ビザンツ皇帝アレクシオス1世;
「マンツィケルトで大敗して以降,うちの国はトルコ人に浸蝕される一方でさぁ.
 ここらで食い止めないとあとがないんだよね.
 だからさ,対トルコ戦のために,援軍を送ってくんないかな?
 相手はイスラム教徒なんだから,共通の敵だろ?」

ローマ教皇ウルバヌス2世:
「見よ! ギリシャ人の皇帝が,頭を下げて,トルコ人の手から聖地イェルサレムを,キリスト教徒の手に取り戻してくださいと申し入れてきておる!
 さあ,十字軍を送ろうではないか!」

アレクシオス1世
「??? なんでそーなるの?」

世界史板,2011/03/06(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 儒教圏的対外関係って冊封しかないの?

 【回答】

 漢と匈奴みたいな対等な関係もある.
 一時期だけど.

 漢が匈奴に従属→高祖〜武帝初期
 皇帝と家臣の質によってシーソーのように優位劣位が入れ換わるけど,形式上も実質上もおおよそ対等→武帝期以後〜前漢末
 どんどん扱いを下げていく→前漢末・王莽期
 匈奴が分裂して,漢は匈奴の南側を完全に跪かせて,形式上も完全に漢の従属下に入る→光武帝期
 完全従属側以外の匈奴を追放する→安帝・順帝期

 内情として,まず平帝期に目下扱いに変更して,匈奴は屈辱に涙するも,政治的に正しい手続きを踏まれたんで,泣き寝入りしてる.
 んで,王莽が即位後更に引き下げて,蛮族扱いすることで激発.
 最終的に光武帝期で,漢は匈奴を完全に目下に扱うようになる.

 光武帝の使者の段チンが,匈奴に印綬を授けに赴いた際,長年の対等関係もあって単于は,
「即位したばかりで面子もあるので,部下の前で跪くのだけは勘弁してもらえないだろうか」
と懇願したが,段チンはそれを無視して,単于を無理矢理跪かせて印綬を与えて,更に洛陽まで匈奴の人質引っ張って来てる.
 その時,部下はあまりの屈辱と単于の不憫さに涙したというが,それ以上のアクションは起こせなかった.

世界史板,2011/03/08(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 モンゴル帝国の戦法を教えて下さい.
 騎射が主流だったというくことですが,馬の上からピュンピュン矢を撃ってるだけで,重装歩兵に勝てたんでしょうか?
 他に,モンゴル馬は日本の馬とそれ程体格が変わらないけど,騎馬突撃とかあったのか,騎兵と歩兵の割合はどの位だったのか…なども教えていただけるとおしります.

 【回答】
 まず,攻撃対象の城市から半日〜数日行程ほどの,平原のくぼ地や丘の蔭に陣営を造ります.
 水と飼葉を用意して,一騎あたり4〜10頭くらいの馬,兵員数は騎兵が100〜300,歩兵がその倍くらい,非戦闘員の随伴者も同じくらい.
 20騎そこそこの少人数で,城市やそこに往来する人を攻撃.接近せず弓矢や石弓を使い,矢を射尽くす前に退散.
 城市の守備隊が出てきたら,やはり相手が弓を射るより前に退散.
 城市近傍での防衛戦であるかぎり,連日,人を替え馬を替えて波状的に攻撃します.

 いよいよ,城市側がイラついて,本格的な討伐に乗り出します.
 それを合図に,陣営から本隊へ伝令を飛ばします.
 城市の斥候や騎兵は各個撃破.もしくは捕虜に取ります.
 巧みに攻撃と後退とを繰り返し,本隊からの増援が到着する時間帯にあわせ,最初の陣営近くに城市の歩兵隊をおびき寄せます.
 城市が兵站を考えない程度に,絶妙に近く,城市の兵員が疲弊する程度に,絶妙に遠地点までおびき出します.

 本隊の分遣隊の一部,もしくは最初の陣営の騎兵が城市を攻撃,本隊が城市の歩兵隊を潰します.

 潰し終わったところで,城市の兵の首級や兵装を,城市へ持ってきて見せびらかします.
 ここで降伏勧告.
 城市の兵の捕虜を使い,城市の守備隊の壊滅を報せます.
 大抵,ここで,守備をあきらめて投降しますが,降伏しない場合には,半月ほど騎兵が城市の出入りを封じて,兵糧攻めとしますが,一旦,全軍退却します.
 数週間が数ヵ月後,城市の兵や武器の再編の整う直前に,前回の本隊の数倍の兵員で,城市を直接攻撃します.
 支配下の別の城市の兵員や兵装を使っての,本格的な城壁破壊を伴う城攻めです.

世界史板,2011/03/10(木)
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 【質問】
 約300年,ロシア帝国に君臨したロマノフ王朝の功罪は,どんなのがありますか?
 革命で滅んだ末期の様子から,暴虐と圧制のイメージが大きいですが,国内外に善行も行っていたから,300年も続けてこれたのでは?と思うのですが.

 【回答】
 ロシア帝国およびその後継者としてのソ連の最大意義が,広大なユーラシア大陸にそれなりの法秩序を維持し,しかも民族形成の苗床となったことを評価している.

 近年のロシア帝国研究の状況については,次の文献を参照.

・松里公孝
「ソ連崩壊後のスラブ・ユーラシア世界とロシア帝国論の隆盛」
 山下範久編『帝国論』 講談社 2006年

・北海道大学スラブ研究センター監修
『講座スラブ・ユーラシア学』(1〜3巻) 講談社 2008年

 ロシア史の概説として,

・田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編
『世界歴史体系 ロシア史』(1〜3巻) 山川出版社 1994〜1997年

・和田春樹編『ロシア史』(新版世界各国史22) 山川出版社 2002年

・『新版ロシアを知る事典』 平凡社 2004年

・土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』(興亡の世界史14) 講談社 2007年

世界史板,2011/03/19(土)
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 【質問】
 「軍師」あるいは「参謀」ってのは,中国(&文化的影響を受けた日本)独特のものなの?
 『ローマ人の物語』でかじったレベルで申し訳ないが,ハンニバルもカエサルも,戦略立案から実際の指揮まで,基本的に一人でやってたみたいだから気になって.
 近代以降を混ぜると混乱しそうなので(俺自身知識が浅いからついていけない),古代から中世までの時間軸でお願いします.

 【回答】
 中国や日本の軍師って,講談やら小説やらで美化されがちだけど,実はイメージの割に,現代人の目から見ると,意外に非科学的な人たちだよ.
 兵法に基づいた軍事作戦への進言もするけど,吉凶を占って戦の日取りや戦場を決めたりもする.
 中国の軍師といってすぐに連想される,あの孔明も(虚構である演義ではもちろん,正史でも),星を見て占ったりしている.
 極端なことを言えば,今で言う軍事顧問や参謀というよりも,従軍占い師といったところ.

 戦国時代の日本の軍師も,意外に大まじめに吉凶を占って,戦の日取りを決めたりしている.
 もちろん,当時は占いやまじないを人々が信じていたからこそ,成り立つ役職だ.
 高度な占いは天地の理(ことわり)を知っていないとできない(と考えられていた)し,それを軍事に応用するには,兵法書を読んでいるなど,学がないとできない.
 だから武将は,そういうことは専門家の軍師に任せて,助言させたわけ.

 軍師というものをそういうものだと思ってみれば,キリスト教化されて以後,中世頃までの西洋で,軍師的な者があまり目立たないのもうなずけるんじゃない?

 ちなみに西洋でも,全く例が無いわけではない.

 ヘロドトスの「歴史」には,リュディア王クロイソスがペルシャのキュロス大王に降ったあと,軍師・参謀的存在として仕え,助言を与えたことが記されている.

 また,ハンニバルはシリアへ亡命したのち,アンティオコス3世に「軍事顧問」として仕えている.
 宮仕えは性に合わなかったようで,あまり役に立ってはいないが.

 さらに,ローマ不安定期,パルミラという都市国家が,ローマとパルティアの狭間,シリアにあった.
 その後半期は若死にした王の配偶者・ゼノビア妃が仕切ったけど,軍事に関してロンギヌスという亡命者を登用した.
 ロンギヌスはパルティアにおいて地歩が無く,自ら軍隊を引率することはできない.
 ゼノビアに作戦立案を提示し,質疑応答を受ける立場だった.

 「マハーバーラタ」のクル族大戦争パートでも,主人公の強敵として立ちはだかる老将は,鎧を着用せずに薄衣を纏った智略家.

世界史板,2011/03/24(木)
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 【追記】
 戦国時代,伊勢志摩も豪族同士が勢力争いを繰り広げていた.
 その中でも九鬼氏は伸張傾向にあり,敵も多かった.
 反九鬼連合は兵の数は多いものの,九鬼氏が堅固な砦に拠っていることもあり,戦況は膠着していた.

 そこへ老人が現れ,兵法がなってないと指摘する.
 反九鬼連合は老人に教えを請い,作戦まで授かる.
 効果はてき面で,一撃で九鬼氏を打ち破ってしまった.
 これで九鬼氏は,一旦は没落することになる.

 それにしても,この老人は只者ではない.
 その正体は,この時代屈指の軍事家だった武田信虎だったのだ.
 領地を追放され,強制的に隠居させられてブラブラしていた老人が,気紛れで一地方の勢力争いに介入してしまったのだった.

世界史板,2011/03/24(木)
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 【質問】
 ムハンマド・アリーって高校の世界史の教科書にも,写真付きで載っていますが,彼がそんなに重要視される役割を果たしたのでしょうか?
 今のアラブの混乱の決定的な原因を作ったとかさ.

 地域史としてはもちろん重要人物なんだろうけど,高校の世界史レベルでも載るぐらいの重要人物なんでしょうか?

 【回答】
 19世紀の世界にとって戦略上の重要地であるエジプトに,ムハンマド・アリー朝という政権を築いたんだから,それだけで十分,重要人物だろ.

世界史板,2011/03/26(土)
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 ムハンマド・アリーの功績を,単にエジプトの近代化を進めた事だけだと思ってない?
 今のアラブの混乱の決定的な原因とまではいかなくても,その遠因にはなってるよ.
 個人的にムハンマド・アリーの主な歴史的影響を,箇条書きするとこんな感じかな.

・現代まで繋がるエジプトの近代化の基礎を作った.
 これらはオスマン帝国や,イランなどにおける近代化のモデルにもなった.

・オスマン帝国との争いにヨーロッパ諸国が介入したことによって,近代ヨーロッパ政治において重要な問題となる,東方問題が始まった.

・エジプト事件での失敗により,エジプト経済がイギリスに対して従属することになり,後のイギリスによるエジプト植民地化の基礎を作った.

・エジプトナショナリズムの原型ができ,後のウラービー革命やエジプト革命の,下地(≒遠因)となった.
(これは少し苦しいかな?)

オツガイ ◆EAbyJft1LY :世界史板,2011/03/26(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アウシュビッツ等ナチの強制収容所では,女性や子供はどのような拷問,はずかしめを受けていたのでしょうか?

 【回答】
 あれは追放のための隔離,強制労働,絶滅などが主目的であって,拷問や辱めが目的となったことはありません.
 わざわざそれを行うにはコストがかかりすぎます.
 ガス室というものが存在する理由を考えて見てください.
 処理のために効率的に「多数」を殺害する方法はあっても,拷問のために「個人」に割くような人手はないのです.
 そもそも情報を隠匿していた場合は,ゲシュタポの元へと返されるでしょうから,わざわざ何か問うような事柄もありません.
 故にそういった事が行われた場合は,結構なイレギュラーですので,調べることは難しいでしょう.

 あと,女子供は良い労働力にならないので,そもそも数日で殺されることも多かったようです.

世界史板,2011/03/29(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ポーランド侵攻で連合国はドイツにだけ宣戦して,ドイツと一緒に攻め込んだソ連には,宣戦どころか連合国の仲間にしたよな.
 これについて,当時のイギリスやフランスはどういう説明をしたの?
 「ソ連も討つべし」という世論くらいあったと思うんだが,どうやって説得したの?

 【回答】
 ソ連のポーランド侵攻の名目って,「戦禍にあえぐ難民の保護」なんだぜ.
 まぁ,実際にはナチスとの裏協定に基づく分割なんだけどね.

(苦しい言い訳というか,前提は無いでもない.
 もともと,ソ連もポーランド含めた中東へ伸びる石油経路・生産4国の保護に参加する予定だったが,何のメリットもないバルト三国も保護対象に加えようとしたから,イギリスが拒否ったんだよ.
 もちろん国連に参加してたとはいえ,距離的にも4国に影響力で有利なソ連を参加させたくなかった気持ちもあるだろうけど.
 この最終的な決断が8月のこと.
 だから,独自にソ連がポーランドを"守ろうとしても"しょうがないんじゃね,という世論はあった)

 どう見ても黒なんだけど,下手に刺激して敵を増やしたくないし・・・ってのが欧州の総意,この時点では.

 ソ連は調子に乗って,バルト三国やら北欧やらに手を伸ばして,国際連盟から除名されることになる.
 このころはさすがに,ドサマギの覇権主義がバレバレで,欧州(主に英仏)から総スカン喰らってるわけだ.
 ソ=フィン戦争が始まった折は,イギリスは対ソ宣戦すらも考えたという.
 その時にドイツの宣伝省がもっと頑張っていたら,独英仏vsソもありえたかも.

 だが,フランス降伏・英本土陥落危機を経て,独ソ戦の勃発で状況は一変.
 強大なナチを倒すためには,パートナーを選んでいられる状況じゃない.
 敵の敵は味方,その理屈が全ての不満をねじ伏せた.
 ちなみに,ソ連が連合国にカテゴライズされるのはここからだからね.

 そんな流れ.

世界史板,2011/04/04(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ国際連盟は,第2次世界大戦を止めることできなかったの?

 【回答】
 まず,米ソを欠いた国際連盟自体が,ドイツの膨張を押し留めるには力不足だった.
 それから満州事変では果断な行動が取れず,またエチオピア侵略ではイタリアへの経済制裁を課すも,英仏の対独包囲網に伊を加えたいという思惑から,併合後に制裁は解除された.
 さらにラインラント進駐など,ドイツがベルサイユ体制に抵抗し始めた時も,連盟は何も出来なかった.
 英仏にはドイツに対して,ベルサイユの負い目を抱えていたため,こうした動きを容認する世論も強かった.
 こうしてタガが外れていき,数年の後に多くの国が侵略を受けることに.

 根本的問題は,国際連盟に求めることそのものが,大国はすべて異なっていたこと.
 各国の考え方が異なる以上,それがまとまった力になることはない.
英:大国は各国の利害を尊重しようぜ.でも戦争は勘弁な.
仏:大国はお互いを縛り合おうぜ.俺も我慢するからさ.
日:大国は協力しあおう! みんな平等だ!
伊:小国が虐げられることがあってはならない.連盟員として彼らを加入させ守ろう.

 この結果,最初に英が自身の利害を求め,伊がぶち切れ,仏は何もできず,日は協力してくれなかった瞬間,離反した.
 目的が明確に決まっていないのが悪かったわけだ.

 いわゆる
「国際連盟は,みんながきょうりょくしあうそしきだったけど,ちからぶそくだったんだよ」
ってのは,国際連盟の一体感を前提としているが,伊が小国を誘導して嫌われたように,最初からそこまで強固に統一された組織ではなかった以上,ちょっと無理があると思うな.

世界史板,2011/04/06(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前中国の租界や,日本の居留地は,直接的には植民地確保への足掛かりとして,外国からの要求により建設されたものだと思いますが,設置される国の側としては,(欧米列強からの要求に従うという以外に),居留地建設による利益を見込んでの,積極的な意志は無かったのでしょうか?
 例えば,外国企業の進出に伴う経済の拡大や,貿易港により国内に入ってくるさまざまな物資などです.
 現代中国の「経済特区」は,端的に言ってしまえば,こうした利益を見込んで設定されたものだと思いますが,当時の「弱小国・植民地←→欧米列強」の貿易の構図では,このような国内への効果は期待できなかったのでしょうか?

 【回答】
 見当外れだ.租界は植民地確保への足掛かりではない.
 租界は一義的には,富士サファリパークのジャングルバスみたいなものなのだ.
 つまり,外国人が猛獣に襲われない為の安全地帯が租界.
 清朝だって外国人が猛獣に襲われる度に,賠償金を払っていたのでは破産してしまう.
 そうでなくても破産も同然の切り売り状態だったが.

>貿易港により国内に入ってくるさまざまな物資などです.

 その物資の中身が問題.
 アヘンなんて入ってきても,清朝には何の利益もない.
 代金で銀が流出していくだけ.
 で,戦争になって賠償金代わりに,鉄道敷設権を売り払う.
 外国資本で鉄道が敷設されても,清朝には利益にはならない.
 鉄道の技術も運営ノウハウも,清朝には入ってこない.
 それじゃたまらんから,共同経営という形になるのだが,教育レベルが違うから,技術者がついていけない.
 結局,中国人は単純作業の下請けだけに成り下がる.
 鉄道が敷設されると,中国人の人力車夫などが失業してしまう.

 そういう外国人に対する不満が,蓄積して爆発したのが,義和団の乱なのだ.
 こうなるとジャングルバスもお手上げ.
 なんせ多勢に無勢で,ひとたまりもない.

世界史板,2011/04/15(金)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

6132011/04/16(土) 00:41:08.25 0
国王のボリス3世自身が割と親独だったよ


6142011/04/16(土) 00:46:44.32 0
ファシズムなんて結果に見えるね.
反共かつブロック経済圏からしめ出された国が
窮余の策で行き着いてしまうところ.


6152011/04/16(土) 00:54:30.36 0
第一次世界大戦での敗北後,国内は混乱を極め共産党が台頭したが,
王政打倒を危惧した国王ボリス3世がクーデターを起こして政権を掌握.
1934年には全政党を解散して親政を行うこととし,独裁体制を敷く.
1941年,ブルガリアは枢軸同盟に参加し,周辺諸国への侵攻を開始する.
しかし1943年にボリス3世が急死すると,政府と国民は枢軸離脱に傾いた.


6162011/04/16(土) 00:58:28.81 0
>>612
バルカン諸国はどれも弱小民族で単独では独立が保てない.
だからブルガリアもオスマン帝国に植民地化されていた.
オスマン帝国の弱体化に伴い,なんとか独立したといえど,
弱小は所詮弱小でソ連とドイツのどちらかにつくしか独立を
保つ方法がない.で,ブルガリアは共産化を怖れてドイツに
ついた.それでソ連の侵攻を防げたかと思いきや,ドイツが
倒れて万事休す.結局ソ連軍の侵攻になすすべなく共産化されてしまったわけだ.
というわけでブルガリアはファシズムでもなんでもない.
ファシズムだからというのでなく,ソ連が戦後処理の都合で,ソ連の侵略に抵抗した
国を枢軸国と色分けしただけの話だ.

世界史板,2011/04/
青文字:加筆改修部分


 【質問】

――――――
 ヘロドトスによるとアルメニア人は,紀元前7世紀頃ヴァン湖周辺に移住したフリギア人の植民者だという.
 ただし言語学的には,フリギア語とアルメニア語の関係ははっきりしていない.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A2
――――――

てウィキで書いてあったけど,ヘロドトスはどういう根拠で,アルメニアはフリギアの植民都市だと思ったんだろ?

 【回答】
 原典の『歴史』をあたってみると,第7巻,ダレイオスの軍勢に参加した諸族を紹介するところに,
「プリュギア人の装備はパプラゴニア人のものに最も近く,相違は僅かであった.
 マケドニア人の伝えるところによれば,プリュギア人はマケドニア人とともにヨーロッパに居住していた間はブリゲス人と呼ばれていたが,アジアに居住した後はプリュギア人と名乗ったのであるという.
 アルメニア人はもともとプリュギア人の移住民であるから,プリュギア人と装備も同じであった」
とある.

 マケドニア人とともに住んでいたというなら,トラキアから小アジアに来たということになろうか.
 プリュギア王国は前7世紀初めに,キンメリア人によって一度滅ぼされたが,前7世紀末にリュディアがキンメリア人を追い払い,プリュギアの地はリュディア王国の領土に組み込まれた.
 このどさくさで東方のウラルトゥ王国,のちにアルメニアと呼ばれる地域へ移住した連中がいたのかも知れない.
 あるいはウラルトゥのフルリ人と,プリュギア人を混同でもしているのか.

世界史板,2011/04/24(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヒトラーやスターリン,ムッソリーニはキリスト教だと思いますが,何派なんでしょうか?
 プロテスタント? カトリック?

 【回答】
 ヒトラーはカトリック教徒で,修道会系の学校で初等教育を受けた.
 しかしオカルト思想にはまり,イエスは神になったスーパーアーリア人だと信じるようになり〔要出典〕,カトリックやプロテスタントなど既存のキリスト教は,共産主義のもとだとして嫌悪するようになった.
 別に教会がナチスを支援したわけではなく,ナチスに味方しない連中は誰だろうと弾圧されている.

 ムッソリーニはカトリック国イタリアに生まれたが,父が熱心な社会主義者であったこともあり,ニーチェやマルクスにはまって社会党に入党,カトリック教会を非難した.
 のち,民族主義的社会主義に傾倒してファシズムを唱えたが,バチカンとはラテラノ条約を結んで関係を改善させた.

 スターリンはグルジア正教の教会学校で教育を受け,ゴリの神学校に進んだが,在学中にマルクス主義にはまり,無神論者になった.
 ちなみに,スターリンが神学校退学した理由がふるってる.
 結婚詐欺やってカネをだまし取ったことが学校にばれて,退学になったというロクでもない坊さん見習いで,フツーにクズだから.
 後に銀行強盗もやっているみたいだし,独裁者以前に犯罪者だろ・・・スターリン.

世界史板,2011/04/26(火)
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 ヒトラーってオーストリア出身でしょ.
 それと修道会系の学校だってよくいわれてるけど,それまちがいね.
 ホントは公立学校だよ.
 なぜってヒトラーが通ってた頃は,修道会系学校は一時閉鎖されてて活動してなかったんだよ.
 だから新しい評伝とかで,ちゃんと調べてるものは,公立学校ってなってるよ.
 古いのは当然,修道会系ってなってるけどね.

 【再反論】
 教会が学校を,「公立学校」として提供していただけ.
 実際は教会が運営していた.
 普通に教会の中に学校があるし,政教一致(笑)でしょう.

 ヒトラーはミサに参加したり,聖歌隊で歌っていたりしていた.
 「若い頃のあこがれは修道院長だった」と言っている.
 (どこまで本当かは知らない).

 ま,この頃のヒトラーは危険思想にもはまらず,のんきにインディアンごっこやったり,聖歌隊を熱心にやっていたりしてたんだ.
 DQNなスターリンや,アナーキストが父のムッソリーニに比べると,普通の育ちだと思う.

 それに,あまり人の悪口は言いたくないが,2009年に日本人が書いたヒトラーの新書は,あらが多い.

 ちなみにヒトラーの出身地は,オーストリア帝国北端のブラウナウ.
 その後,リンツやウィーンで暗い青春を過ごし,徴兵逃れのためミュンヘンへ行き,オーストリア国籍のまま,ドイツ帝国陸軍に志願.
 ドイツ国籍を正式に取得したのは1932年で,ナチス党結成から12年もあと.
 彼のアイデンティティはオーストリアよりも,バイエルンやドイツにあったようだ.

世界史板,2011/04/26(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 カトーカンブレジ条約でイギリスからフランスに返還されたカレーについて.
 なぜ英仏百年戦争終結時に返還されなかったの?

 【回答】
 「百年戦争」なんて区切りができたのは近代の話で,当時の人にとっては「これで終わり」ではない.
 1453年に起きた事態は,フランス王がボルドーをイングランド王から奪っただけで,両国間に終戦協定や平和条約が結ばれたわけではない.
 しかもイングランド王は,その後も1420年のトロワ条約をもとに,「フランス王」を名乗り続けている.
 王家の出身地である大陸側に残存領地があっても,別段不自然ではない.

 また,島国イングランドにとって,大陸における橋頭堡はどうしても必要で,要衝カレーだけでも自国領として確保しておけば,軍事的にも経済的にもずいぶん助かる.
 のちの英国が,ジブラルタルなどの戦略拠点を押さえたのと同じ.
 1558年にこれがフランスに取られてしまったのは,メアリー1世がスペイン王フェリペ2世と結婚したせいで,イタリアを巡るフランス・スペイン(ハプスブルク)間の争いのとばっちりを受けたから.

世界史板,2011/04/27(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 田豫はどうやって異民族を撃退したの?

 【回答】
 魏書田豫伝に曰く.

・烏桓討伐に随行し,伏兵の奇襲で陣営が混乱した時には,車で円陣を作って弓や弩により防御を固め,敵が諦めて撤退すると追撃して打ち破った.

・鮮卑や烏桓の諸部族が互いに連合しないよう,策略をめぐらして常に争わせた.

・魏に友好的な部族を救援するため出撃したが,敵部族が退路を絶った時,陣営で牛馬の糞を燃やして炊煙に見せかけ,密かに別の道を通って退却した.

・敵軍が追撃して城を囲むと,旗を立て軍楽を鳴らしたおとり部隊を,南門から出撃させ,自分は精鋭を率いて密かに北門から出撃し,挟み撃ちにして撃破した.

 蛮族の大軍に寡兵で正面から挑んだわけではなく,いろいろ策略をめぐらして勝ったわけです.

世界史板,2011/04/28(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日独伊三国同盟って,ドイツでは反対の世論とかなかったの?
 WW1で火事場泥棒的に参戦して,植民地を奪った日本に対して,むかついてたりしそうだが.

 【回答】
 太平洋や中国の利権は,当時のドイツ帝国にとって二義的な存在で,経営的にも出超だったからね.
 日本が第1次大戦当時,欧州に大兵力を派遣しなかった一因として,当時の日独関係は良好だった事がある.
 つまり,事を構えたくなかったわけだ.
 それが英仏に対する敵意よりも和らげることに繋がったことはあるだろう.

 ドイツでは伝統的に,中華民国との関係を良好に保とうとする勢力が,国防省と外務省にあったが,ナチ党の外交顧問だったリッベントロップや,海軍のカナリスなどを中心に,対ソ連携では中国より日本との連携を進めるほうが適切である,とする勢力が現れて,ノイラート外相やファルケンハイン国防相の地位を侵食しつつ,親日論をヒトラーに説き続けたわけだ.
 30年代半ばを通じてドイツは,日中双方と友好関係を保つ両建て主義に則ったが,最終的に外務省・軍部の伝統勢力が権力闘争に負けたことや,ヒトラーが帝国陸軍の価値を強く認めたことなどがあって,日独同盟が推進された.

 ちなみに日本の世論では,ヒトラーが登場したばかりの頃は批判的な記事も多く,ベルリン五輪開催から賞賛的になるも,独ソ不可侵締結に伴って幻滅,ポーランド・フランスに華々しく勝利を収めると,再び賞賛というように紆余曲折している.

世界史板,2011/04/30(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 インドネシアの大統領,ネルー,ジンナー,ケマル・アタトゥルク,この辺りがかぶってる帽子って何なの?
 全イスラム人や指導者がかぶってるわけでもないし,ネルーはイスラム教徒じゃないし.

 【回答】
 世界各地のイスラム帽子のもとは,アラブのターキーヤと思われ.
 その上にターバン(イマーマ)を巻いたりもする.
 東南アジアではソンコ(ペチ,スカルノ帽),南アジアではトーピー(ガンディー帽,ネルー帽),トルコではフェス(トルコ帽),マグリブではタルブーシュないしシェシーアという.
http://www.k5.dion.ne.jp/~museum/headdress/songkok.htm
http://www.k5.dion.ne.jp/~museum/headdress/gandhi_topi.htm
http://www.k5.dion.ne.jp/~museum/headdress/fes.htm

 いわゆる「トルコ帽」はフェスのことだが,もともとモロッコの首都フェズの民族衣装.
 19世紀にターバンに代わる「洋装」として,オスマン帝国の文官・武官の制服に導入された.
 当時はイスラム世界の近代化の象徴たる,ハイカラなものだったフェスであるが,トルコでは1925年にケマルが「ターバンと同じく宗教的なものだ」
と,着用を禁止したため廃れた.
 ケマルがトルコ帽被ってる写真は,それ以前のものだろう.
 ケマル帽とは呼ばない.

 ジンナーはシーア派のムスリム,ガンディーやネルーはヒンドゥー教徒だが,トーピーはインドではムスリム以外も着けていて,インド独立運動の象徴にもなった.

世界史板,2011/05/02(月)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

3742011/05/02(月) 18:59:07.75 0
ベトナム戦争についてですが
・アメリカの介入ですが,具体的にアメリカの最終目的は何がしたかったのか?
・トンキン湾をでっちあげてまでジョンソンは何がしたかったのか?
・共産軍を追い出すとして,ベトナム共産はアメリカにとってどういう問題があるのか?
・それは北爆や枯葉剤を使ってまで阻止めるべきものなのか?
・今のアメリカはベトナム戦争は敗戦だと思っているのか?それともただの作戦失敗レベルで敗戦とは思っていない?

3802011/05/02(月) 20:30:23.86 0
アメリカの目的は,ベトナムにおける共産勢力の封じ込め,撃滅.
ベトナム全土が共産化すれば,東南アジア各地が連鎖的に赤化するだろうという危惧がアメリカにあった.
この「ドミノ理論」は,共産革命の飛び火やアジア・アフリカ諸国の大挙独立といった先例があるし,
現在でも東欧や中東で民主化連鎖が起きているので,杞憂というわけではない.朝鮮戦争もあったし.

しかし南ベトナムの元首たちは,共産ゲリラばかりか仏教徒をも弾圧して国際的非難を浴びたり,
政権争いに終始して機能不全に陥っていた.さらにキューバ危機は起きるわケネディは暗殺されるわ,
もはや南ベトナムには任せておけない,というんでトンキン湾事件を起こして直接武力介入に踏み切る.
ソ連や中国も北を支援するし,ベトコンはジャングルに隠れて襲い掛かるし,
北爆や枯葉剤使用もやむなしだが,国際世論が厳しくなってきたので不本意ながら撤退した.

当初の目標は達せられず,ベトナムは共産化したのだから「アメリカは敗北した」とは言えるが,
アメリカ政府は「これ以上の介入をベトナム国民が望まないから撤退した」としている.
しかし心配していた東南アジアのドミノ赤化は小さく,ベトナムは中国と敵対を続けたし,
アメリカも中国との連携でソ連に対抗するという新戦略を得られたから,完全な失敗というわけでもない.

4312011/05/04(水) 11:45:31.34 0
でもケネディは撤退しようとしてたんだよな
その時点で東南アジアの共産化はないって判断じゃないの?

それにしてもフランコやマルコスや朴や南米の軍事政権など
反共というだけで支持していた連中はCIAが裏で動いていたのに
ベトナムだけ直接的に介入したのは南ベトナムがあまりにもアレだから?
そうせざるを得なかったのかしら


4322011/05/04(水) 11:55:36.38 0
>>431
何度も撤退考えて,最終的に撤退したのは,議会の反戦勢力が強過ぎたから
ホワイトハウスは一貫して介入が必要って判断だったけど,
議会がうるさいから泣く泣く手を引いたってニクソンが回顧録で書いてる


4332011/05/04(水) 12:18:41.45 0
>>431
>>ケネディは撤退しようとしてたんだよな
してないよ
現実的な米軍撤退計画なんて全くなかった
あの大統領演説はゴ南越大統領に対するブラフというのが定説


4342011/05/04(水) 12:18:45.66 0
>>431
アレな上に,北ベトナムがいて解放戦線がいて
そもそも南ベトナムって,第二次大戦以来の由緒正しい傀儡政権で政治基盤が弱すぎたし

世界史板,2011/05/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 キリスト教もイスラム教もユダヤ教から枝分かれしたもので,ヤハウェとアラーは同一神ということでいいの?
 マホメットは,モーセやイエスに続く,最後で最大の預言者らしいけど,イスラム教徒にとって,聖書も神の教えの書になるの?

 【回答】
 ちょっと違う.
 キリスト教もイスラム教もユダヤ教も,旧約聖書をベースにして独自に発展して,それぞれが別の宗教になっているという関係.
 ヤハウェは,唯一絶対神の名前ですが,キリスト教では,人間が神の名前を直接口にするのは恐れ多いので,「主」と呼ぶのです.

 同様に,人間ごときが唯一絶対神の名前を口にするのは,不届き千万で許しがたい,という考えから,イスラム教では「アラー」と呼ぶのです.
 つまりアッラーは,名前ではありません.
 アラビア語での唯一絶対神の呼び方といったところです.
 アラビア語アッラーフAllahは,ヘブライ語エローアフEloahやエロヒームElohim,アッカド語イルiluと同じ語源で,元来は「強いもの」「力あるもの」を意味しますが,まあ「神」と訳されます.
 ついでにいえば,イスラム教徒でない者がアッラーという言葉を口にするのは,許しがたいと考えるイスラム教徒もいます.

 イスラム教徒は,聖書を神の教えの書とは位置づけていません.
 イスラム教徒は,旧約聖書の中身はコーランに取り込まれていると解釈しているのです.

 ムスリムは,ユダヤ・キリスト教の聖書も,その時代の使徒・預言者がアッラーより受けた啓示と認めています.
 律法五書(タウラート)はモーセが,詩篇(ザブール)はダビデが,福音(インジール)はイエスが授かったとしています.
 彼らの教えを信じる人々は「啓典の民」と呼ばれ,イスラーム王朝の支配下でも,厳しい制限付きで存続が認められました.

 しかし,クルアーン以外の啓典は,伝承の過程で原典が失われ,弟子や後の人々が都合の良いように改竄したため,今残っているのは彼らが説いたとおりの「正しい」教えではない,とムスリムには考えられています.

※ 古代ヘブライ文字は母音表記がないから,ユダヤ人が離散した後,読み方が分からなくなった.
 で,ヤハウェとエホバの2通りの読み方が,説として挙げられている.

 ヤハウェYahwehは,出エジプト記によれば「在りて在るもの」「私は存在する」という意味で,ヘブライ人を救い出した「造物主」を名乗る存在自身が,「我が名はこれである」とモーセに告げている.
 ヤハウェの考古学的起源も判然としないが,一応聖書上では,エロヒームとヤハウェは同じ神のこととされている.
 神自身が名乗っておきながら,「みだりに神の名を呼ぶな」と十戒で定めてしまったので,ヤハウェという神の固有呼称は直接呼ばれず,エロヒーム(神)とかアドーナイ(主)などと呼びかえるようになった.
 YHVHをイェホヴァと誤読したのは,宗教改革時代のドイツ人で,YHVHにアドナイの母音をつけて呼んだとか.
 アッラーフにも99の異名があるといい,ラフマーン(慈悲深い方)とかアジーズ(力ある方)などとも呼びかけられる.
 まあ,ヤハウェも同体異名ということにしてあるのだろう.

世界史板,2011/05/04(水)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 ユダヤ教からの枝分かれという表現が不正確とするなら,キリスト教は,ユダヤ教の堕落や形式化を批判してイエスが新規にひらいた教えで,イスラム教は,ユダヤ教やキリスト教を参考にして,マホメットが新規にひらいたってこと?

 【回答】
 基本的なところからおさらいすると,ユダヤ教という既存宗教があるところに,イエスはキリスト教という新興宗教を,ユダヤ教・キリスト教という既存宗教があるところに,マホメットはイスラム教という新興宗教を興したわけです.
 布教するにあたっては,既存宗教との関係を説明する必要があります.
 しかし,よちよち歩きの段階から既存宗教を全否定しては,既存勢力から邪教として総攻撃されて,粉砕されてしまいます.
 といって全肯定しても,新興宗教の存在意義を説明できません.
 だから全否定でもない,全肯定でもない,バランスの取れた関係を保つわけです.
 権力者を怒らせずに,「庇を借りて母屋を乗っ取る」戦略で,布教を図るのです.

世界史板,2011/05/04(水)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

4572011/05/04(水) 20:20:32.42 0
ローマ帝国であれほどキリスト教が広まったのはなぜでしょうか?
ギリシャ神話を基にした,日本の八百萬の神みたいな既存の神と信仰があったわけでしょう.
それもローマ人にすれば,植民地での宗教ということで,一段,低いという
目でみてもおかしくないと思うんだけど.

4602011/05/04(水) 21:13:18.23 0
>>457
元々属国の一宗教扱いの上,他の神を認めないんだから迫害されていました.

しかし,ローマ帝国は拡大していき,土着の神々を皆認めているには大きくなりすぎた.
風土も歴史も全然違い,哲学を受け入れるほど教養もない野蛮人たちを帝国内に抱えて
多神教では収拾がつかなくなっていった.八百万の神々など自然現象や歴史風土に
基づくものですが,同じ自然現象でも地域によって価値が違います.
太陽などは農業地帯では恵みですが砂漠の遊牧民には悪魔だったり.

ローマ人自身も帝国が世界帝国になるに伴い地域や民族に対する帰属意識は希薄となっていった.

そして特定の民族や職業,風土の影響下にない一神教として
(ユダヤ教やミトラ教えでなく)キリスト教が受け入れられ,
やがて帝国を統一する価値観として帝国の統治機構に
取り入れられるようになりました.

4632011/05/04(水) 21:53:01.13 0
唯一絶対の神,という概念が,皇帝への権力集中に都合がよかったってのもあるな
もちろん,すでに民間レベルの布教でローマにかなりキリスト教が浸透していた(特に,兵士に多かった)からこそ
コンスタンティヌスもその概念を利用するようになるわけだが


4642011/05/04(水) 22:16:33.81 0
ローマ帝国は,狂信者が反乱でも起こさない限り,土着の神々もみんな認めていた.
各民族には各民族の神々がいたし,ミトラ教やイシス教など信者救済式の宗教もたくさんあって,
それが帝国統合に役立ち,現世や来世の利益があるならば問題ない.
他の神を絶対に認めないユダヤ教徒の方が異常で,何度もテロや反乱を起こして潰されたし,
キリスト教も当初から「胡散臭いカルト教団」として気味悪がられた.

キリスト教が大きく広まったのは,戦乱や天災で帝国の屋台骨がいかれてきた3世紀以後.
終末論を煽り弱者を救い,既存の神格・宗教の取り込みを行い,
「信じる者だけは救われるが,信じなければ地獄へ落ちる」と盛んに喧伝した.
まあ後漢末に太平道が流行したのと大して変わらんが,4世紀に皇帝がこれを公認したのは,
皇帝の正統性を元老院ではなく「唯一神から権威を授かったから」とするため.
かくして皇帝の後ろ盾を得たキリスト教は他の宗教や神々を迫害し,帝国をのっとってしまった.
まあ古来の神々も,聖母や天使や聖人として生き残ってはいるが.

世界史板,2011/05/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 項羽はなぜ,最初っから二文字の「西楚」を国号にしたのですか?
 北魏は「魏」と名乗っているし,前秦と後秦は「秦」と名乗っている.
 なのに,なぜ「西楚」なんですか?

 【回答】
 国号を「西楚」にしたというの間違い.
 自分自身に付けた称号が,「西楚覇王」であることから来た誤解だろう.
 なぜ西楚かというと,出身地が西楚だったから.

 戦国末期,楚は秦の攻勢を受けて旧来の本拠地である湖北・湖南を奪われ,北東の陳(河南省),次いで寿春(安徽省)に首都を移転した.
 この頃から,湖北・湖南を「南楚」,彭城(江蘇省徐州市)より西を「西楚」,彭城より東の沿海地域(旧呉越の地)を「東楚」と呼ぶようになった.

 楚の王族熊心は反秦の旗印として担がれ,昔の楚懐王槐にちなんで「楚の懐王」と呼ばれた.
 また項羽により「義帝」ともされたが,あくまで「楚の義帝」であって,西楚の義帝ではない.
 項羽は「諸侯の盟主」として実権を握り,自分の本拠地である西楚を直轄地として「西楚の覇王」と号し,漢王・斉王・常山王・九江王・河南王などの諸侯王を自ら封建した.
 義帝を廃してからも,項羽は帝王を号しなかったが,緩い諸侯王連合の盟主(覇王)ではあり,西楚以外の楚地域にも覇権を及ぼしたので,彼の政権・勢力は「楚」と呼ばれている.

世界史板,2011/05/07(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東ローマ帝国皇帝って,ずっと同じ家系が世襲してたの?
 帝国で革命があったという話も聞かないし.

 【回答】
 東ローマ帝国は千年の間に,何度も何度も王朝が変わっている.
 395年から数えても,
テオドシウス朝(〜457),
レオ朝(〜491),
アナスタシウス朝(〜518),
ユスティニアヌス朝(〜610),
ヘラクレイオス朝(〜711),
イサウリア朝(〜802),
アモリア朝(〜867),
マケドニア朝(〜1056),
ドゥーカス朝(〜1081),
コムネノス朝(〜1185),
アンゲロス朝(〜1204),
ラスカリス朝ニカイア帝国(〜1261),
最後のパレオロゴス朝(〜1453).

 大雑把に言えば,6世紀にユスティニアヌスが,地中海帝国を再興しようとして大赤字.
 ササン朝と大戦争を続けた挙句,アラブ人にエジプトやシリアを奪われ,アナトリアとバルカン周辺に引きこもる.
 10世紀にアッバース朝が緩んでくると,マケドニア朝が勢力を拡大して最盛期となるが,ノルマン人やトルコ人やフランク人に攻め込まれ,1204年には第4次十字軍により一度滅亡.
 1261年に亡命政権が首都を奪回したが,14世紀にはオスマン朝に圧迫されて,都市国家に成り下がった.

>革命があったという話も聞かない.

 そんなことはない.
 むしろ,東ローマ帝国ほど革命,クーデター,反乱,内紛,暴動,皇帝暗殺などの多かった国は他にないんじゃ ないかっていうぐらい,権力闘争がしょっちゅう起こっている.
 日本じゃ知名度低いのであまりそういうイメージがないけど,欧米では,ビンザンティン人というと,陰謀家とか 曲学阿世,面従腹背で信用できない人といったイメージだ.
 なにしろ,この国は建前上,ローマ帝国なので(東ローマ帝国とかビザンティン帝国というのは後世の呼称で,当事者たちはあくまでもローマ帝国と呼称していた),実質的には皇帝位が世襲の時代になっても,制度上では 皇帝位はかならずしも世襲ではない.
(ローマ帝国における皇帝は,本来は,市民の中の第一人者という位置づけだ)
 だから,革命で王朝の家系が変わったら,国号も変わる中華の王朝と違い,東ローマではクーデター等で王朝を世襲する家系が変わっても,国名はそのまま変わらずローマ帝国.
 古代ローマで軍人皇帝とかが,勝手に権力奪取して皇帝に即位しても,ローマ帝国はローマ帝国のままでしょ.
 それと同じ.

 しかも,交通上の重要地点に立地しているから,1000年の歴史の間,さまざまな敵国から侵攻されている.
 フン族,東ゴート族,ササン朝ペルシア,アヴァール族,ブルガリア人,南スラブ人,キエフ・ルーシ,イスラム帝国,シチリアのノルマン人王朝,セルジューク・トルコ,十字軍,セルビア,そして最後にオスマン・トルコなど,よくまあ,こんなにというほど,入れ替わり立ち替わり,東西南北からさまざまな国や民族が攻めてきている.
 内紛が多かったことも合わせて,よくこれで1000年も存続できたってぐらい,激動に次ぐ激動の歴史だよ.

 もし興味があったら,井上浩一の『生き残った帝国ビザンティン』あたりを読んでみるといい.

世界史板,2011/05/11(水)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

830 : 記憶喪失した男 : 2011/05/11(水) 17:57:21.35 0 BE:1163307773-2BP(791)
おりは,イスラム教開祖ムハンマドの功績に非常に関心があります.
当時,ムハンマドの教えは革命的であり,イスラムは理想郷でした.
その他大勢の民族を全部服従させるほどに良心に満ちた正しい教えでした.
その勢力が急速に拡大し,ムハンマドの時代にアラブ半島を征圧したのは当然,
ウマイヤ朝が北アフリカからスペインにまで拡大し,
オスマン朝トルコは神の千年王国である東ローマ帝国を滅ぼしました.
で,東に向かったイスラム勢力が気になるのですが,
漫画マスターキートンの第四話に出てくる話を詳しく知りたいのですが.
これは,イスラム教を知ったトルコ人が東に向かって進軍したら,
中華にまで到達したという話ですよね.

東に向かったトルコ人は,誰が率いていたのでしょうか?
万民平等のイスラムですから,指導者というものはいないかもしれませんが.

東に向かったトルコ人が進軍を止めたのは,やはり中華帝国の偉大さゆえでしょうか?

教えてください.

8442011/05/11(水) 20:25:41.02 0
>>830
ササン朝が滅亡した651年,カリフ・ウスマーンが唐の皇帝に使節を派遣し,教義の大要を説明したと「旧唐書」にある.
軍事的征服は8世紀にはフェルガナに達し,タラス河畔で唐の軍を破ったが,
マニ教徒のウイグルと仏教徒の吐蕃に阻まれてそれ以上は進めず.
10世紀後半にはテュルク系のカラハン朝がイスラームに改宗するが,
すでにシナには契丹や北宋,西夏などが割拠しており,みな仏教や道教を奉じていて,
ムスリムがシナ本土を征服する,ということは起きなかった.

一方で,イスラム商人は陸海の貿易路を通って続々とシナに行き,国際貿易の担い手となっていく.
長安や広州・泉州には特に多く,混血者や改宗漢人も現れ,徐々に土着化した.
モンゴル帝国時代にはさらに多くのイスラム商人がシナ各地へ移住し,官吏としても活躍した.
明の鄭和は,フビライに仕えて雲南を統治したブハラ出身のムスリムの子孫.


8452011/05/11(水) 22:32:49.26 0
>>844
西夏の遊牧民が離散して甘粛・寧夏・陝西などの回族のルーツ,東干人となった.
寧夏は,現在でも回教の信仰を保っている住民が多い.見た目は東アジア系.
彼ら回族は,漢語ないしチベット系言語を話す.トルコ語系ではない.
仏教を信仰している場合は,同じような容貌でもチベット族登録.
甘粛の天祝というところは,回族地区に囲まれた仏教地区.

鄭和の先祖は,現在のウズベキスタン(ブハラ)から,北回りでやってきた.
長安(西安)であって,広州・泉州ではない.

人数的には,長安(西安)経由のほうが圧倒的に多く,
西夏王家が滅亡した11世紀以降あたりから,北回りのムスリムが入ってくる.


8462011/05/11(水) 23:04:26.90 0
西夏の領民にもムスリムはいたが,滅亡後に多くがムスリム化したのは,
クビライの孫・安西王アナンダが敬虔なムスリムで,その領民が改宗したためともいう

世界史板,2011/05/11(水)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

1082011/05/21(土) 00:36:27.37 0
スターリンの大粛清とかもシベリア送りになったのは一千万以上だけど死者は百万ぐらいだったはず
むしろウクライナ大飢饉のほうが死者は多い


1092011/05/21(土) 00:44:50.24 0
崩壊後明らかになったソ連の人口調査だと
実は三〇年代の人口減少数は少ないんだけどな.
同じく崩壊後に公開された逮捕数・処刑数だと170万程度で50%くらいは
手続きを踏まずに処刑されたんじゃないかって推定から350万くらい処刑されたという
推定が出ているわけだが.
(ちなみにこれは崩壊前のイギリス人研究家の一人が亡命者の証言などから
割り出した値に近いので,これが正解という主張が大きい)

ソ連は政府がいい加減すぎてどの行政の資料をあたるかでまちまちなので
大人しくイギリスの研究に従ったほうが世間一般の常識に近い.
それだと大飢饉の方が少ないはず.

世界史板,2011/05/
青文字:加筆改修部分


 【追記】

1152011/05/21(土) 03:22:13.50 0
>>113
ナチス自体は「民主主義の手続き」で乗っ取ったみたいな誤解が
あるけどそうじゃないしね.

実情は過半数とれず連立政権.しかも最大勢力になった時も共産党,社会党への
暴力や攻撃で事実上公正な選挙できないようにしてたし,全権委任法の時は
共産党に濡れ衣着せて逮捕させたり,国会に出席させなかった.
保守政党が嫌々ながらも妥協と政治取引で取り込んだ上で無力化しようとしたのが,
次々に裏目に出て行った.この辺の細かい現場の政治のやり取りが権力掌握への本質.
途上国の典型的な失敗例で,「ナチスは民主主義だった」は完全な誤り.

2372011/05/25(水) 13:11:38.49 0
>>120
>反共という点では民主主義だったよ
何か勘違いしてないか?
反共はそれこそ前近代的なイスラム国家だろうが,非民主国家でも起こる.
保守既得権益側と衝突するわけだから.

>それを現行の法で達成できないのは疲弊した経済のせいで
この辺の論理展開の意味が分からん.ナチスは社会主義的な所もあったし,
成功した経済政策はワイマール時代から引き継いだものも多い.アウトバーンなんか典型.

んでナチスはあくまで政権に参加できるかどうか程度の支持で,掌握過程も不正と政治の現場
の駆け引きに付け込んで成功した部分が大きい.駄目だと分かってからも弾圧の中で合法的にヒトラーやナチスを
追放する手立てがない.
ソ連でさえ書記長解任の手続きとか定められて
血を流さずに政権交代できるのは民主主義の利点の一つなのに,どこが民主主義だ?

2862011/05/26(木) 23:24:52.68 0
>>237
パーペンの政策が目覚しく向上し変化を見せたのは
途中の管理組織を利用しなくなったナチ政権以降だよ.

"IGファルベンの一票"は大きいね.
ただその組織票がないからといって,国民に支持がないかは確実ではない.
結局のところ国民の意思よりも会社の意思が優先される状況では
投票数が何らかの意思を示すものとは成り得ない.

あとどうでもいいけど,アルシングは政権をめぐり血みどろの闘争を繰り返した挙句
最終的にスノッリが暗殺され,ノルウェーに占拠されたんだがな.ナチが
「古き法」の古ゲルマン主義に基づいていたことを考えるなら,それは古い民主主義と
近代的法治国家の民主主義の違いでしか無い.

世界史板,2011/05/
青文字:加筆改修部分


 【追記】

1222011/05/21(土) 13:13:02.45 0
>>111
ファシズムとナチズムも労使協調の労働者政権だ.
これに対し共産主義は階級闘争至上主義の労働者政権なのだ.
ファシズムとナチズムは民族的同一性を強調することで階級対立を克服する.
これに対し共産主義は階級的同一性を強調することで民族対立を克服する.
方法論が違うだけです.
ソ連は多民族国家だから民族社会主義が許せない.
民族的同一性を強調することはソ連では不可能です.
スターリンにしてもグルジア人であってロシア人ではない.
こういう構図を理解できれば,日独伊三国軍事同盟が結ばれた理由も理解できる.
共産主義と民族社会主義は水と油です.
資本家を血祭りに挙げたい人は共産主義を支持し,
民族社会主義をファシズム,ナチズムと呼んで貶めようとする.

世界史板,2011/05/
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 【質問】
 フランシス・ドレイク及び彼の配下の船員は,どんな剣を持っていたのでしょうか?
 よく海賊映画などでは,カットラスやシャムシールを装備していますが,当時のイギリスではその可能性は低そうなので…
 良ければ,教えていただけるとうれしく思います.

 【回答】
 カットラスなどの片刃の片手剣は,水夫などが戦闘用に使っていたもの.
 むろん英国でも例外ではない.
 すなわち船員の武器というと,そういった片手剣,槍,短剣などが主流.

 船内では帆装の絡みなどをぶった切るため,片手斧が常備されているが,これがまた異常なほど刃が研がれていないなまくらなんだよね.
 切断と言うより叩き切る感じ.
 そうじゃないと,取り扱いの時危ないから.

世界史板,2011/05/22(日)
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 【質問】
 オスマン帝国の皇帝家を,「オスマン家」「オスマン朝」などと言いますが,オスマンという名称は,初代スルタンの名前(オスマン1世)に由来するものですよね.
 その後もオスマン2世,3世といるし,オスマンの名が特に尊重されてるようには思えないのですが,「オスマン家」には代々の家族名などはないんですか?

 【回答】
 1930年代以前のイスラム世界には,姓や苗字に相当するものはなく,個人名(イスム)・父親の名(ナサブ)・出身(ニサバ)・尊称(ラカブ)などを並べて人名とする.
 ただ,先祖がはっきりしていれば,有名な先祖の子孫であるとして,彼の名を代々家名のように用いる.
 別にその先祖の名前を誰が人名に使ったって,実名忌避する中華王朝じゃないんだから咎めだてはないし,むしろ先祖の栄光を回復する期待を担わされることもある.

 オスマン帝国は,「オスマン家(オスマンの子孫)の崇高な国家」が正式名称.
 サウジアラビアはサウード家(サウードの子孫)のアラビア,ヨルダン・ハシミテ王国はハーシム家(ハーシムの子孫)のヨルダン.
 ウサマ・ビン=ラディンは,ラディンの子孫のウサマ.

 フランス王国だって,メロヴェクの子孫でメロヴィング朝,カールの子孫でカロリング朝,ユーグ・カペーの子孫でカペー朝だから,たいした違いはない.

世界史板,2011/05/23(月)
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 【質問】
 トイトブルグの森で,絶頂期ローマ軍団を叩きのめした,ゲルマン人リーダーのアルミニウスの名前って,鉱石のアルミニウムと語源が同じだったりするのでしょうか?

 【回答】
 Arminiusはゲルマン語の名前Irminをラテン語形にしたもの.
 強い,背の高い,大きい,などの意味があるという.
 タキトゥスの「ゲルマニア」にも,「イルミンの子孫ヘルミノーネース」というエルベ川内陸部の諸族がいるし,4世紀のゴート人の族長にもエルマナリク(Ermana-ric)というのがいる.
 ルターやヒトラーは,「ゲルマン(German)の英雄,戦士(Hermann/army-man)だ」ともてはやした.

 Aluminiumはラテン語alumen(明礬)から.
 alumenの英語形はalum.
 さらに印欧祖語まで遡るとalu-(苦い,魔法,酔っ払う)となり,ビールの一種エール(ale)と同じ語源.
 つづりも意味もArminiusとは全く異なる.
 まあ,ゲルマン人はエール飲んでただろうけど.

世界史板,2011/05/26(木)
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 【質問】
 エフタル滅亡後のササン朝と,突厥の間で武力衝突みたいな事はあったんでしょうか?
 英語版wikiでturco-persian warsという項目見ると,3回ほど大規模な戦争が勃発してるようなんですけど.

 【回答】
 588年頃,西突厥に降伏したエフタルの残党が国境周辺を荒らしたため,ササン朝が彼らをアム川の北へ撃退.
 この時参戦していた東突厥の葉護可汗が,流れ矢に当たって戦死したらしい.

 619年,西突厥がホラーサーンのトゥース付近を荒らしたが,地方総督に撃退された.

 625年,ササン朝の帝王ホスロー2世の侵攻に悩まされていた東ローマ皇帝ヘラクレイオスは,西突厥との同盟を強化.
 トビリシ近郊では,統葉護可汗とヘラクレイオスのトップ会談も実現し,皇女を可汗の后にやるという条件で,西突厥に服属する部族ハザールの騎兵,4万という軍事援助を得ることに成功.
 627年から翌年にかけ,連合軍を組んで小アジア・カフカス方面から大攻勢をかけ,敵国の首都クテシフォンを包囲し,ホスロー2世も反乱により殺される.
 ところが628年に,統葉護可汗もクーデターで暗殺され,さらに思わぬ伏兵アラブ人が襲い掛かって,ヘラクレイオスの覇業も水泡に帰することとなった.

世界史板,2011/06/01(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アヘン戦争はイギリス本国議会でも,戦争の正当性についてかなり紛糾したんじゃなかったっけ?
 開戦するかの投票も,賛成・反対は僅差だったはず.

 【回答】
 国民は知らず,議会はパーマストンに対する支持とアヘン商人への保証問題だけで動き,パーマストンはマセソン商会の意向に従ってたって言われてるね.
 戦争か否かは金の問題であって,正当性を論じるような時間はなかった.

 最近の研究では経済はあまり関係なく,辺境の国家が何かイギリス人に手を出したのでキレただけ,って見解も有力.
 アヘン戦争自体,戦争後しばらくしてからの呼称であることなどを鑑みて,アヘンに対して同じく利益を得ていたアメリカが,戦争後に中国への同情が集まったので,イギリスになすりつけることにしたっていうのも,それなりに説得力のある話.

世界史板,2011/06/01(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国ってしょっちゅう騎馬民族に侵略されてるけど,これは中国兵が弱すぎるの?
 それとも騎馬民族が強すぎるの?

 【回答】
 騎馬民族が強いというのは確かにある.
 動員人数,練度,兵站,装備などの面で,農耕民族に対し大きく有利であり,また,それを実現するためのコストも,農耕民族に比して極めて少ない.

 だけど究極には,互いの生存圏が近すぎることが大きな問題.
 そして寒冷化があると,極めて自然な成り行きとして,騎馬民族は南下することになる.
 真北に遊牧民の一大生存圏があって,そこから遮る物の少ない平原を,漢民族もまた主要な生存圏としている.
 これは一種の不幸といって良い.
 他の地域,ヨーロッパは「強大な」遊牧国家に触れたことは,フンとモンゴルの2回しかないし,その時も東からだった.
 中東は実質,遊牧民国家に席巻されている.

 この状況で何度も強大な農耕民の国を作り上げたというのは,むしろ一種の偉業と言って間違いないよ.

世界史板,2011/06/02(木)
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 【追記】

5592011/06/03(金) 09:46:34.13 0
辛亥革命って王室が異民族だから起きたの?
もしも明朝みたいに漢民族の皇帝だったら,日本やドイツみたいにして君主制を維持することが可能だった
余地はありますか?それとも,易姓革命の原理で力無き皇帝が成立することは伝統的に不可能ですか?
この辺を扱った論文がどうしても見つからないので,皆さんの知恵を借りたいです


5602011/06/03(金) 10:53:01.51 0
支配層が何者だってその統治がダメだと思えば民衆は蜂起するし,指導者が有能で支配者が低能なら革命は成功するだろう.
結局「革命」の理論に西洋的概念が浸透してるかどうかの問題じゃないの?

明治維新の時は軍事科学など実学の分野が先行していて「西洋的」・「近代的」な思想面の理解は全く進んでいなかった.
だから良かれ悪しかれ「東洋的」な君主制は残されたわけだけど,辛亥革命はそれよりも後の話だし
王室が何民族だろうと革命が18世紀後半に起これば当然君主制のままだろうし,
1866-68年あたりに起こったらどうなるかはわからないけど,20世紀に起こったそれは歴史に知られるとおりの結果.
あとドイツはちょっと同列に論じられる話じゃないと思う


5612011/06/03(金) 10:59:29.38 0
>>559
異民族王朝だったから漢民族やその他の民族のナショナリズム的な感情を革命に利用できたという面は
あるだろうけど,基本的には王朝支配に対する民主革命,近代化のための革命(少なくとも,孫文などに
とっては)だったのだから,漢民族王朝だったとしても結果はたいして変わらんだろ
ところで,ドイツが君主制を維持したって,何を指して言ってるの?
第一次大戦末期のドイツ革命では,皇帝は廃位され,追い出されてるが


5622011/06/03(金) 11:28:55.05 0
別に辛亥革命は西洋的概念に基づいて起きた革命じゃないだろ.
確かに孫文は革命の火付け役になったのは間違いないけど,帝政を崩壊させる最大の原因だったのは
袁世凱の裏切りであって,西洋的価値観が浸透してたからではない.
護国戦争が起きるまでに一時的にとは中国が統一国家足りえたのは袁世凱の手下が地方で軍権を握って実体権力を押さえていたからであって
辛亥革命は民衆革命とはいえないというのは最近の通説じゃないか?


5632011/06/03(金) 12:09:20.69 0
一方袁世凱は中華皇帝を号した


5642011/06/03(金) 15:33:37.36 0
いずれにせよ,征服王朝だろうが漢民族王朝だろうが,前王朝の皇帝が形の上でも
存続し続けることはありえなかったってことだ
袁世凱にとってジャマだから

世界史板,2011/06/
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 【質問】
 ソ連では,ロシア正教は排斥されたのですか?

 【回答】
 されたよ.

 スターリン期には30年代後半まで「生きた宗教」によって排斥され,在外シノド派とモスクワ派に分裂した.

 その後,大粛清で「生きた宗教」が一気に衰退し,モスクワもそれまでの成果不足から,彼らを見捨てたために正教が復活する.
 第2次世界大戦も,いくらかの地位向上を引き出した.

 しかしフルシチョフ時代に入ると再度弾圧が始まり,一気に30年代前半の頃まで戻る.

 ブレジネフは寛容政策をとっていたので,存続には多少の制限があったものの,それほど悪化はしなかった.

 で,ペレストロイカを経て今の段階に至ると.

 これはイスラームに比べればかなりマシな方で,この個別化も,共産主義的な宗教批判と一括りに出来ない要因の一つ.

世界史板,2011/06/05(日)
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 【追記】

6362011/06/05(日) 23:01:41.66 0
>>617
ソ連は国家の生産を軍事にほとんど振り分けた為消費財の生産が割を食った
具体的にはあらゆるものが足りない,食糧,服を始めとした日用品を手に入れるに行列を作った
自動車などを手に入れるには何十年も前から予約して置かねばならなかった上に
手に入るものは西側に比べれば完全に時代遅れの第二次大戦前の型だった
帝政ロシア時代に比べればソヴィエトの成立によって一般人の生活は向上したが
ソ連の経済成長は西側諸国に比べれば劣っていた為相対的に貧乏になっていった

ソ連が貧乏だった理由は
・身の丈に合わぬ財産を持ったせいで日常生活が苦しくなった
・昔はカラーテレビ,洗濯機,掃除機があれば贅沢だったけど
 今は陳腐化して贅沢なんて言えなくなってしまった

6412011/06/05(日) 23:41:47.87 0
>>617
補足しておくとソ連が軍事用の重工業生産を重視した理由は,
それが工場間の競争や対立を統制・防止する上で役立つのと,
重工業・資源の技術力を普及させるにはそれしかなかったから.

食料と服に関しては,初期と大戦後の危機を除けばいわゆる「高級品」が行列を作り,
品質に拘らなければ必要な分を揃える事は出来た.簡単に言えば
生産力はあったものの,経済力がない.

こうしたソ連の発展不足は,大学の権威低下と比例していた.
職業の安定的な就職環境とブルジョワ階級を撤廃する方針によって
市民の多くは大学への進学を特殊なものと考えた結果,大学に行く人間は
政府との協力者かオタクだけで,オタク連中は人付き合いがあれ過ぎて
頭はよくても社会でやってくには難しいし,そもそも自分の好きな事してりゃいいと
思ってるから,天才ではあっても社会に貢献しようとはしない,
政府との協力者は互いが競争的な上に,数の少なさから民間の技術を
発展させるには厳しい階級となった.

ソ連の工業力を一言でいうなら「簡単な構造でどこまで品質を上げられるか」.
大学層がいないのと工場ごとの品質の均等化は,購入者個人による修理を
促す傾向があり,需要は常に,修理できず壊れたら交換せざるを得ない複雑なものより,
自前で修理出来る簡単なものを求めた.
これがどれだけ世界とそこで主流的な経済主導社会と逆行しているかは言うまでもない.

世界史板,2011/06/05(日)
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 【質問】
 結城秀康が2代目の将軍になる可能性は,どのくらいあったの?

 【回答】
 結城秀康は秀忠の官位を一度も上回ったことがないので,家康は秀康を後継に考えたことなど,一度もない.
 そういう意味でも,秀忠を上回る待遇を幕府からうけたこともないし,関ヶ原の戦い後数年して秀忠にゆずった経緯みても,秀康を後継に考えたことなど全くないね.

 それと家康は,秀康を禍の種になると思ったのか,結城家に養子に出している.
 普通は信康亡き後,弟を出すものだが,秀康を出している.
 最初から徳川の屋台骨にする気全くナッシング.
 むしろ関ヶ原の戦いの時に後詰を命じるなど,死んでもいいや的な節が伺えるし,徳川の安定から考えると,秀康はいらない子だったんじゃね?

世界史板,2011/06/12(日)
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 【質問】

 【回答】

9292011/06/15(水) 00:13:55.57 0
>>286
ナチスは近代の擬似科学の人種理論とナショナリズムの中で生まれてきてる.
それに反共と言ってもヒトラー自身が「ボルシェビキの手法に学んだ」と言ってるように,軍事復興の四ヵ年計画
前衛党としてのナチス,民青みたいな青年団組織,北欧ばりの福利厚生の充実,労働者の優遇みたいに
社会主義に強く影響を受けて成立してる.古代のゲルマン民主主義どころか,中身はワイマールに成立した
近代民主主義の中で非民主的に乗っ取った近代型の全体主義政党なわけ.

9332011/06/15(水) 01:21:07.55 0
>>929
ナチスの(人種的)民族理論が疑似科学なら
シオニズムを国際的にも正当化したユダヤの民族理論は何なのよ.

まあ実際のところ擬似であることに問題はないという結論に行き着くんだけどさ.
ナチス,いわゆる国民社会主義,政策ではなく一つの世界観の形成は,
近代的というには少し特殊な課程を経ている.そもそも「近代的」というのは本来は
ゲゼルシャフトによるゲマインシャフトの克服にあるのであって,それが非民主的という
曖昧な概念を生むことは無いんだが.

反共理論は第一に民族自決の観点から.
いうまでもなくベルサイユ条約で提唱されたアレすぎる民族自決理論は,
ナチの最も重要な基盤であり,自決すべき民族の保全のため「多民族国家」を否定する
単一民族原理に結びつくわけだが,この原理は回帰保守的で,
当然に共産主義国ソ連の提唱する近代的な民族連邦主義と対立する.
同じ民族主義である以上,影響を受けるのは必然だが,根本的に相容れない.

次に個人主義の否定がイタリアにおける「ギリシャ・ルネッサンス」に代表される
国際観に対抗して,ゲルマン的民族主義として現れる.ゲマインシャフトの君主によらない
民族主義はコサックに代表される全体主義的な民主制の形態を取るが,
これは近代個人主義においては抑圧的に映るにせよ,近代的全体主義とは云えない.

いずれにせよワイマール期が産業の集積化や労働組合の再編失敗,
多党の政治的失敗などの独裁基盤を完全に整えた以上,どのような政党だろうが
全体主義的独裁になったのは間違いないが,その過程が近代的であるにせよ,
取った政権のイデオロギーまで必ずしも近代的と見なす必要はない.
(そして,それゆえに政権奪取をナチ革命ともいうわけだ)

9372011/06/15(水) 19:40:01.44 0
>>935
あるから民族問題があるんだよ.
ユダヤ民族はない,というならその通り.
しかしその民族定義の理論は,例えそれがフィクションの集団を
指す以上には成り得ないとしても,現実にあるし,それに国際的な承認と権利が与えられ,
現実のユダヤ的共同体がその権利に預っている.

9552011/06/16(木) 19:53:53.99 0
>>937
では,国際的に正当化したというソースをプリーズ


9562011/06/16(木) 21:23:35.53 0
>>955
46年4月の国連の委任統治の廃止にも関わらず,
イギリスの事実上の48年までの継続統治(WZOによる)を承認し,
更に8カ国承認の分割決議はユダヤ機関としてハダサーなどの分割派ではなく
イギリス以来の歴史的全土統一派のWZOのユダヤ機関を認めた,
加えてユダヤ機関による分割決議の受託に際し上述の委任廃止によって
本来パレスチナ人が持つはずの主権は無効とされた,
イスラエルの建国に対して米国とソ連が早期に承認を与え
安保理もアラブ側を侵略者とし,アラブ側とアラブ・パレスチナのみに
戦闘員と軍事物資の供給を停止させた

など色々あるが.

9852011/06/17(金) 04:46:23.30 0
>>933
>シオニズムを国際的にも正当化したユダヤの民族理論は何なのよ.
ユダヤが何の関係があるんだ?
反共だから民主主義だとか,古代ゲルマン民主主義とかイミフな主張が錯綜してるから書いてんのに.

>いうまでもなくベルサイユ条約で提唱されたアレすぎる民族自決理論は,
>ナチの最も重要な基盤であり,
だからその辺ひっくるめて当時の未熟な歴史学の結果や民族意識含めた「近代の」産物だよね?
近代の国民国家イデオロギーとか人種理論の産物で,近代に意図的な操作とナショナリズムの中で
作り出された過去なんだよ.民族意識はあっても元からユダヤだのスラブだの普通に混血同化していって
近代の強烈な国家主義が元からあったわけでもない.
ワイマールの民主制を非民主的に乗っ取る形で成立してるわけ.
んでナチスは反共とは言っても濃厚に社会主義国家とも言える側面があった.近代の全体主義だ.

世界史板,2011/06/
青文字:加筆改修部分


 【追記】

9572011/06/16(木) 22:29:03.55 0
よろしくお願いします
ムハマンド以前,アラブ人って
どんな宗教を信仰していたのでしょうか?
キリスト教以前はユダヤ教で,ユダヤ教ってのは
ユダヤ人の宗教だから,アラブ人は信仰しませんよね?
唯一神であるアラーを信仰してたのですか?
イエスとかムハマンドのような特別な指導者が居ない状態で
アラーを信仰していたのですか?
アラー教?って呼んで良いんですかね?


9582011/06/16(木) 22:36:10.87 0
ゾロアスター教とかマニ教とかユダヤ教とかキリスト教とか.
アラーの意味は神であって何か特有の神名というわけではない.


959 : オツガイ ◆EAbyJft1LY : 2011/06/16(木) 22:38:09.96 0
>>957
イスラーム史においてムハンマド以前のアラブ社会をジャーヒリーヤと呼ぶんだけど,
この時代のアラビアではいわゆる偶像崇拝的な多神教を信仰してた人が多かったよ.
とは言え,それらにはキリスト教やユダヤ教などのアブラハム系一神教の影響も多く,
見られカアバ神殿の伝承なんかにそのことが表れてる.ユダヤ教徒やキリスト教徒も,
それなりにいたらしいしね.明確に体系化されたアラブ人の宗教があった訳じゃないよ.


9602011/06/16(木) 22:54:45.80 0
古代アラビアの多神教では,アッラーも神々の父的な感じで拝まれてはいた.
有名どころではアッラート,マナート,アルウッザーという三大女神で,アッラーの娘とも呼ばれた.
シリアからはフバルという偶像がカーバに持ち込まれたが,これは紅玉髄でできた老人の像だったという.
こうした有象無象の偶像神をムハンマドがぶち壊し,本来の一神教に「戻した」とされる.
ただ,今もカーバには「黒い石」があるが,あれは古代の石神信仰を引き継いでるらしい.


9612011/06/16(木) 23:12:37.48 0
もっとも重要な史料はイスラム後に書かれたイブンの『偶像の書』で英訳で読めるね.
http://answering-islam.org/Books/Al-Kalbi/
見ればわかるがあまり詳しいことは分かっていない.

世界史板,2011/06/
青文字:加筆改修部分


 【追記】

9952011/06/17(金) 10:00:06.70 0
>>981
> 1791年4月には,国王と議会の調停を保っていたミラボーが急死し,王室を守る人間がいなくなったため,
ミラボーは王党派でラファイエット,バルナーヴらと共に立憲君主制を目指していたのは確か.
ミラボーが急死しても,まだ国王は民衆からは見放されてはいなかった.

> 国王と王妃のマリアントワネットはヴァレンヌに逃亡しようとして,失敗した.
逃亡を企てたのはミラボー生前からあったことで,議会では亡命禁止法を審議してたりする.
(法案は王党派の反対で否決)また,厳密に言えばマリー・アントワネットはオーストリア亡命を
希望していたが,ルイ16世は亡命を不名誉なことと考えており,国境付近でレオポルド2世から
支援を取り付けたオーストリア軍と合流して,憲法を否定する声明文「パリ逃亡の際の国王の宣言」を
出す計画だった.レオポルド2世も亡命を受けいれる意志はなかった.

> この事件により,国民の王に対する信頼感が崩壊し,反王世論が形成された.
国民や議会が最も重視したのは国王の裏切りが外国の軍隊(オーストリア軍)を使って,
反革命をしようとしたこと.この行動計画のため立憲君主制を求めた勢力すら敵に回した.

世界史板,2011/06/
青文字:加筆改修部分


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