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世界史なんでも質問スレッド83

目次

 【質問】 クルド人は何故不遇なんですか?

 【質問】 遊牧民族の中で,テュルク系だけがなぜ幅広い地域で根付く事ができたのでしょうか?

 【質問】 タタール語はもともとモンゴルっていうわけでもないんじゃね?

 【追記】 金は茶葉を得て……

 【追記】 アヘン貿易

 【質問】 古代中国人はコーカソイドなんですか?

 【質問】 王族に大きな領土を与えて封建する事が,洋の東西において常識化してたのはなんで?

 【質問】 今まではだしのゲン読んで,「アメリカって酷いな…」と思ってましたが,実際悪いのはパールハーバーに奇襲攻撃した日本ですよね?

 【追記】 現在の新疆ウイグル自治区って,清がジュンガル征服→清支配下の「新疆」となる →中華民国,人民共和国に引き継がれる(独立運動を弾圧しつつ)→中国曰く,「固有の領土」って流れでおk?

 【質問】 完全な縁故登用で,誰も期待してなかったのに,仕事させたら開花した歴史上有名な役人っている?

 【質問】 オーストリアは何を意図して,ボスニア=ヘルツェゴビナを併合したんですか?

 【質問】 中国はどうやって,常備軍の補給の問題を解決してきたのでしょうか?

 【質問】 カリグラがローマ市民権をバラ撒いたのって,あまり高い評価受けてないけど,納税者や軍役人口を増やし,ローマへの帰属意識を高める妙策だったのでは?

 【質問】 軍務以外の時でも,軍服を着ている皇帝や王がいるのはなぜですか?


世界史なんでも質問スレッド84

目次

 【質問】 フルセ−ヤって何?

 【追記】 フィリピンの歴史って,スペイン以前は何も分かってないの?

 【質問】 独立直後のオソン1世時代のギリシャなんか,オスマンよりも民衆は苦しかったよね? それでもギリシャでは,オスマン帝国に対する評価は良くはないの?

 【質問】 張飛とか呂布とかって,ものすごく強かったって言われてますけど,実際はどうなんでしょう?

 【質問】 チンギスハーン,李舜臣,武田信玄,筒井順昭他に,自分の死を隠せと言い残した人はいますか?

 【質問】 キリスト教は当初はカルト的存在だったの?

 【質問】 アメリカの独立が革命と言われるけど,他の国々の独立は革命とは言われないのはなぜ?

 【質問】 メキシコの場合もメキシコ革命って呼ばれてるよね?

世界史なんでも質問スレッド85

目次

 【質問】 インノケンティウス3世が教皇権の絶頂ですが,凋落後の教皇はどうなったのですか?

 【質問】 教皇が王冠をかぶせたり剥奪したり,十字軍なるもので異教徒を惨殺しまくったりするのは,聖書やペトロの教えのどこに基づいているのでしょうか?

 【質問】 中国皇帝はなんで,あまたある近隣諸国の中で,朝鮮王だけ格下に扱ったの?

 【質問】 宋が歴代王朝の中でも,高く評価されている理由はなんでしょう?


 【質問】
 クルド人は何故不遇なんですか?
 金融をやらなかったから?

 【回答】
 ジャルモ遺跡の住民が,クルド民族の祖先だといわれている.
 牧畜が始まったのは相当古い時代であり,牧畜に特化したのがクルド民族だという説がある.
 シュメール時代のグティ人も,アッシリア時代のクルティも,アナバシスに出てくるカルドゥコイも,セレウコス朝から独立したコルドゥエネも,せいぜいヴァン湖の南側の山岳地帯に細々と住み着いてる程度の連中だった.

 「クルド人」が今のような広大な地域に広がったのは,アッバース朝が弱体化してからのようだ.
 3世紀〜13世紀頃は,クルディスタンは政治的優位を持っていた.
 その時代は,遊牧民が優位だった時代であるが,後に同じ遊牧民出身の民族でも,トルコ系民族とは違う道筋をたどることになったわけだ.

 サラディンを出したりはしたものの,クルド人が一丸となって統一政権を作ったことはなく,イスラームを奉ずる多民族・多言語国家の間で分断されつつも,ぼちぼちやっていた.
 オスマン帝国は,テュルク系が中核とはいえ,多種多様な民族集団を抱え込んだので,クルド人も差別されることは無かった.

 しかし,オスマン帝国がトルコ共和国に変貌すると,「トルコ民族」というものが新たに作られて,「民族(国民)国家」となったが,せいぜいトルコ語を話す人々ぐらいのくくりだったため,イラン系の言語を話すクルド人は迫害された.
 イラクやシリアでも「クルド」はアラブとは違うし,イランでもペルシア人とは違う.
 なにより,連中の住み着いている地域には,莫大な石油が眠っており,各国政府としては彼らの独立を認めて,ほいほいとお宝を渡すわけにはいかない.

世界史板,2010/12/05(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 遊牧民族が征服しても同化されちゃったり他の遊牧民にやられて離散する中,テュルク系だけがなぜ幅広い地域で根付く事ができたのでしょうか?

 【回答】
 テュルクが西アジアに入る際,セルジューク朝というある程度まとまったでかい勢力として来た.
 それ以前にもマムルークなどとして来たり,部族ごと改宗して来たりはしたが,アラブ化やペルシア化してしまうことは少なく,イスラームを奉じつつテュルクであることはやめなかった.

 ただ,チュルク系だって結構呑み込まれて同化している.
 有名なところではブルガリア人.
 すっかりスラブ化して国名だけに残ってる.

 南回りでやってきたオスマン帝国の支配層で,取り残された一群に対しても同化圧が厳しくて,重量挙げのナイム・スレイマノグルとかあまりのことに逃げ出して亡命してるし.

 こっちはすっかり同化しているが,セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフは,ロシアに帰順したタタール人貴族の末裔だし,韓国の慶州y氏はモンゴル帝国時代に高麗に派遣されたウイグル人の末裔,モンゴルのケレイト部族・ナイマン部族は,ジンギスカン以降に部族まるこどモンゴルに同化した.

 逆に,言語的にはモンゴルと同一のタタールは,ジンギスカンに反抗的だったため,最東端にありながら,ヨーロッパ遠征の尖兵に使われたため,遅く合流したチュルク系の民族と混ざってしまい,チュルク化した.

世界史板,2010/12/05(日)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 タタール語は現在東西バラバラに分布しており,もともとモンゴルっていうわけでもないんじゃね?
 韃靼人の子孫がタタールというわけてもない.

 【回答】
 「タタル」はテュルク語で「他人」程度の意味であり,もとは突厥やウイグルがモンゴル高原周辺部にいた,一部の異民族を呼んだもの.
 モンゴル部の祖先である室韋は「三十姓タタル」,ケレイト部を中核とする阻卜らは「九姓タタル」と呼ばれた.
 モンゴル勃興時にはタタルを自称とする部族がおり,チンギスの父も大叔父も彼らに謀殺された.
 それでも一部は,モンゴル王室に取り入って生き残っている.

 漢人・ペルシア人・ルーシ・マジャル・フランクたちは,テュルク語を話すクマン人やウイグル人などからの伝聞により,モンゴル帝国に属する連中を「韃靼」「タタール」「タルタル」と呼ぶようになったが,これは他称にすぎない.
 14世紀末以後,モンゴル高原にオイラトと割拠抗争したのは「大モンゴル国」であったが,明朝はクビライ皇統の断絶で「大元」が滅んだとし,モンゴル(蒙古)と呼ばず,タタル(韃靼)と呼んだ.
 モンゴルから皇統を引き継いだ,満洲の大清は,韃靼という呼び名を用いず,彼らの呼び方どおり蒙古(モンゴ)と呼んだ.

世界史板,2010/12/06(月)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

2202010/12/08(水) 15:14:26 0
>>215
金は茶葉を得て南宋は銀や絹・馬を得て双方モノは得てるにしても,茶葉
を輸入するために税源になる富が南宋に流れ込んだら金の国家財政を圧迫
するし南宋のほうじゃ歳幣を遥かに上回る銀・絹等が還流してくるんだから,
双方ラッキーにはならんの.だから金じゃ茶葉の生産をしようとしたり,官
僚以外の茶の飲用を禁じようとしたりしたけど,失敗してる.
まあ,扱ってるものは違うがアヘン貿易と構図は似てるな.個人間の相
互の利益とは全く違うのが分からんのかねえ.

前スレでも書いたが,ちなみに対遼は軍事費の節約になったが,対西夏は
講和後も西夏方面の軍備を解けなかったから,国家財政では総合的に見て
大赤字になってるの.単純な貿易構造だけの話じゃない.

どちらが切実に相手のモノを欲しがるか,それをどれだけ持ってるかで
交換の価値基準が全然変わるんだから,そんな個人単位の利益の話をして
ても仕方がない.

あ,念のために言っておくが金は金王朝のことなw

2712010/12/09(木) 05:52:25 0
>>265
遼の場合は契丹族が中心だからな.歳幣で贅沢が染み付いてたのは契丹族の支配層であっ
て,一般民衆はそれ程でもなかったとは思うよ.
だから契丹族は金の時代でも軍事力として利用できたし,逆に女真との通婚を
勧めたりして警戒し続けなければいけない相手だった.

金の場合は華北が元々中華圏で,本来江南の経済と密接に結びついてというか,
最初から江南に依存した経済体制が唐代から出来てしまっているし,北宋代に
それが促進されてしまっている.北宋代には米等の農産物も大量に華北に運んで
る状態だったんだから.

>>252->>253の指摘は結構的を得てるんだけど,暴利じゃなくても住人の大多数
である華北の漢人にとっても江南の物産は茶葉も含めて最初から必需品なんだよ.
女真族が贅沢を覚えなくても,歳幣で満足した以上,南宋経済圏に入り込まな
ければ華北は保てなかった.本来一体の経済圏だったのを分割してしまっていた
から,依存度は遼の比じゃないし,圧倒的多数の漢人と雑居してたんだから,
漢化のスピードも半端じゃなかった分,一般女真族にとっても江南の物産は必需
品だった.
逆に南宋というか江南経済にとっては,唐代からずっと続いてた政府による華北
経営のためのコストがなくなったわけだから,余剰物産(贅沢品だけじゃなくて,
農産物も含めて)を江南開発や他の経済関連に注ぎこめた分,経済力総体じゃ北
宋時代を上回る結果になったんだよ.

最初から言ってるけど,北宋−遼,北宋−西夏,南宋−金の歳幣関係は細かく
見れば依存度,利害得失,引き起こされた結果は違うから個別に考える必要あ
るんだけど,そもそも基礎知識がない奴に言っても仕方ないし,とりあえず基
本的知識の間違いの指摘というか,歴史に無知なことをはっきりさせておくし
かないんだよな.本当にパオを相手にしてた時と同じだ.

2722010/12/09(木) 06:58:08 0
蒙古のオルドスなどで使われている茶葉は磚茶であって,杭州や武夷の品種とは違う.
これは,モンゴル帝国の頃から定着しているスタイルと考えられ,当時の状況を反映していると思われる.

宋の時代にそれほど茶葉の生産量が多かったわけでなく,明朝なってから一般化した.
明の時代に抹茶から煎茶への転換が進んでいる.
磚茶は大理国の玉渓・普?や徳宏などが主な産地なので
宋からみても冊封関係のある大理国からの輸入品ということになる.

茶葉には宋を通さないでも流通する経路が唐代にはあって
麗江−西寧−オルドスみたいな迂回ルートで北部へ運ぶことができた.
宋代の茶葉に関しては江南よりも,大理国の存在のほうが重要.

2942010/12/09(木) 18:58:08 0
アヘン戦争は清朝のイギリスへの侵略戦争.

http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/opium%20war.html

普通,戦争の名前は勝者によってつけられる.
だが,「阿片戦争」"Opium War"という名はアメリカ人によってつけられた.
この名前に従えば,イギリスにとり「不義の戦い」(陳舜臣『実録 アヘン戦争』)となるようにみえる.
もちろん現行の日本の教科書においても,イギリス側が阿片売却収入を原因として戦争が開始されたとし,大本営情報部が昭和18年に制作した宣伝映画『阿片戦争』も同様に説明している.
当然のことながら,中国人は「正義」の側にたち,「帝国主義」の被害者であると主張する.

こういった見方は正しくない.
イギリスは自由貿易を主張し,自国在外施設への中国官憲による暴力行為に反発し,戦争が開始されたのである.
これにたいし多くのアメリカ人は,阿片貿易の片棒を担いだことを隠しながら(フランクリン・デノボ・ルーズベルトの母方の祖父,ワレン・デノボは,阿片貿易で巨富を得た人物である)イギリスを非難し続けている.
そして,戦時中の日本の大本営にしても,対米英戦争を阿片戦争を引き合いに合理化したかったのである.


2952010/12/09(木) 19:16:58 O
東インド会社の対インド貿易独占権はなぜ廃止されたんですか?


2962010/12/09(木) 20:22:07 0
>>294
リンク先の文章から引くが,清で国法としてアヘン輸入が禁止されてるんだから,
清の法律が実効がないからと正当化するのは,単に論点のすり替え,「地方官が
実際に違反者を処罰せねば,実効があがることはない.」はないと言う前提自体,
それこそ,一論文書いてそれを論証しなければいけない話だな.
だいたい,違反者を処罰しなければ法律に実効性のないのはどこの国でも一緒の
話だけどな.
銀にしても銀本位制になったのは,西欧がどんどん出したメキシコ銀が最終的に
中国に行き着いた結果であって,輸出の重要性に気づいたとか以前の話だなあ.
その後も普通に銀は清の入超だったわけだし.
別に清の鎖国的傾向を擁護も弁護もしないし問題あるとも思ってるが,イギリス
が治外法権を認められてない限り,清の国法に従うのは国際法でも問題ないし,
林則徐もそれをついてるんだけどな.

アヘン吸引の禁止の具体策については黄爵滋の厳罰論しか挙げてないが,黄爵滋
は一年の猶予期間を置いてるし,林則徐はそれに加えて段階的指導を挙げて修正
論を出してる.吸引=即死罪というのは,明らかにそれを知っているのに敢えて
筆を曲げてる.

まあ,イギリスが自由貿易望んだからってのはイギリスの勝手であって,別にイ
ギリスを擁護する理由にはなんらならんな.アヘン禍を抜いても,単純に密貿易
を厳禁されてぶち切れて戦争に訴えたってだけの話で,単なる海賊か山賊の論理
なのは変わらないわな.

世界史板,2010/12/
青文字:加筆改修部分


 【追記】

2282010/12/08(水) 16:34:37 0
「貿易においては,輸出と輸入は等しい」という経済学の原則も知らんのかw

アヘン貿易だって当時はアヘンは毒物とはみなされておらず,〔要出典〕
茶葉に対抗できる商品としてイギリスが商品開発して売り込んだのだから,
貿易それ自体は非難されることではない.
悪いのは自分の財産が減ることを恐れて貿易を邪魔した清の役人たちだ.

戦争のおかげで清ではコカコーラ並みの安さで
アヘンが楽しめるというスーパーナチュラルハッピー国家になれたのだが,
イギリスが結局アヘンから手を引いたのは,その清国の安いアヘンがヨーロッパではもっと高く売れる,
ということがわかって大量に逆流してきたからだ.

それで中国のアヘン商人は大儲けしたわけだが,つまり貿易そのものは中立ってことだなw

2412010/12/08(水) 19:20:53 0
>アヘン貿易だって当時はアヘンは毒物とはみなされておらず,

は?イギリスが阿片の輸出を本格化したときには既に禁輸品だったんだが.
清朝内の弛禁論と厳禁論の対立でも寧ろ厳禁論は吸入の害に基づいて反対してるし,
弛禁論が敗退してる.

>悪いのは自分の財産が減ることを恐れて貿易を邪魔した清の役人たちだ.
お前,林則徐のことも知らないんだなあ.林則徐はアヘン厳禁論者だが貿易禁止
論者じゃないし,イギリスのエリオットとのやり取りも国際法調べてやってるわ.

>貿易それ自体は非難されることではない.
別に個人的感情抜きにしても,阿片貿易は当時清朝どころかイギリスでも非難の
声あったし,イギリスのアヘン戦争の決議でも9票差というギリギリの線で,
「かくも不正な戦争,かくも永続的に不名誉となる戦争を私はかつて知らない」
と反対派の議員にも言われるくらい,当時ですら灰色どころか限りなく真っ黒な戦
争という認識はあったんだが.

別にアヘン戦争とアヘン貿易の害悪をここで論じる気はないが,無知はきっちり
指摘しておかないと,世界史板のレベルが下がる.この馬鹿はあまりにも歴史に
無知すぎるし,今まで指摘された間違いに何一つまともに反論していない.

もう3度目くらいになると思うが,改めて言っておく.
歴史の勉強してから出直せ.これ以上喚いても単なる馬鹿にしか見られんよ.

・・・やり取りして感じたが,基本的知識がない,自分の非を認めない,
自分は負けてないと屁理屈こねるところなんか,パオ臭がしてくるわ.

世界史板,2010/12/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 古代中国人がコーカソイドだというのは本当なんですか?
 モンゴロイドだとばかり思ってましたが.

 【回答】
 「○○は本当は○○人だった」というのの九割方は「ウソ,大袈裟,紛らわしい」です.
 そして2chの情報は,眉に唾を付けて読みましょう.
 私がこれから書く話も,伝聞与太話ですので,話半分ならぬ話一割もないくらいで聞いてください.

 主流は新モンゴロイドか,旧モンゴロイドかの違いはありますが,モンゴロイドが主流です.
 たとえば,前3世紀の兵馬俑はモンゴロイド顔ですね.
 おそらく秦人でしょうが将軍俑もありますしし,それ程後じゃない景帝期以前の陶俑もありますけど,特にコーカソイドという顔立ちでもないんですよね.
 古代の豪族の家から出土した布に描かれた絵においても,モンゴロイド形質が見て取れます.
 たまにコーカソイドっぽいのが出るのも事実ですけど.
(面白いことに,漢代とかの中国の絵って,後世より結構写実的だったりするんですよね)

 古代中国人がコーカソイドであるという言説は,主に日本や欧米で主張されるもので,中国では否定されています.
 また,それ故にこの「古代」という言葉の定義は,主に唐成立以前,或いは五胡の進入以前を指します.
 中国で古代というと違うことを指すのですが,面倒なので割愛します.

 その白人とする論拠ですが,以前NHKで,日本人のルーツを探る番組が作られた際,古代中国などの様々な遺伝子サンプルを集めて,日本のシンクタンクで鑑定をしました.
 その結果からわかったこととして,春秋,戦国,秦漢の山東省から泰山近郊にかけての集団のDNAが,モンゴロイドとは異なる結果を示しました.
 春秋,戦国の斉・魯地域はコーカソイドの近縁集団となり,秦漢の同地域は中央アジアのコーカソイドとモンゴロイドの混血形質,それ以降はほぼモンゴロイド形質が出ている,との結果がでたという話です.
 これが事実とすると,孔子や孫子,劉邦などが軒並みコーカソイド或いはその混血になります.
 実際,孔子は極めて高身長に体毛が豊かであったといわれますし,劉邦の容姿は髯や眉が豊かで美しく,鼻が高く,口が大きくて顎がしっかりしていたとされます.
 劉邦の子孫の劉荘は,うなじが赤毛であったと東観漢記は伝えます.
 コーカソイドを想起してもおかしくはない容姿であるのは事実です.

 まぁでも,はっきりと申し上げますと,結論は出ません.
 日本でこういった言説をもてあそんでいるのは,主に現代中国について,気にくわないという政治信条を抱いている人間であるのも事実ですし,そういった人間が現代日本に残る古代中国の残り香を見て,古代中国人は現代中国人とは人種からして違ったんだとしたいから,無理を押して言っている可能性も否定出来ません.

 そして欧米には,アジア人に偉人がいると認めたくない勢力の関与を否定出来ないでしょう.
 最近は白人による「歴史のホワイト化(歴史の覇権主義といわれている)」が起こっていて,
「あれもこれも古代の白人がなした成果に違いない」
とか,
「現代の偉大な産物はすべて白人がなしたものなのだ」
って話に持っていく風潮が増えているそうです.〔要出典〕
 その手の人たちにかかると,「遺体が見た目,金髪だから」というだけで,「モンゴル平原に白人少女の埋葬が!」なんて言いだしたり,他の地域の人種の骨も,「骨格が大きい」と,それだけで「白人」だとされてしまいます.
(どういうわけかドイツ系の歴史学者が,こういうことをよく主張するんだな,これが)

 また,ぶっちゃけ古代人と人種が違うなんて,現代中国人が認める訳がないのも事実です.
 どこがやっても信憑性がないんですよね.
 つまり諦めてください.

世界史板,2010/12/09(木)
青文字:加筆改修部分

 大体,中国なんて広い地域において,特定の人種しか存在しないと考えるほうがおかしいからね.
 西域諸国や北方の遊牧民などの影響で,コーカソイドの血も混じってない訳はないだろうね.

オツガイ ◆EAbyJft1LY : 世界史板,2010/12/09(木)
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 懐かしいな.
 この学説が出た頃は世界史板にも,スレッドが何度も立ったんだよな(笑)

 2500年前に山東省にコーカソイド集団がいた,という説のソースはこれ
2000年オックスフォード大学ジャーナル掲載論文
‘Genetic Structure of a 2,500-Year-Old Human Population in China and Its Spatiotemporal Changes’

 著者の一人には,中国科学院遺伝研究所の王瀝という人もいた.
 一般への初出は2002年11月15日初版 「東京大学公開講座75『ヒト・人・人間』」.

 結論的には,

――――――
 これにより,現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が今から2500年前にはユーラシア大陸東端の黄河河口域に存在していたこと,2500〜2000年前の間に,現在の東アジア系の人類集団が移住してきたこと,そして移住してきた現在の東アジア系の人類集団に吸収される形で両集団の間で融合が起きていたこと,が示された.
http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/12_kiban/hyouka21/shinchoku_gaiyo/summary_62_ueda.pdf

「古代中国人類集団の遺伝的多様性とその変遷ならびに生活史の解明」
Ancient Chinese: their Genetic Diversity and Life History

東京大学・大学院理学系研究科・植田信太郎教授
――――――

 どの程度妥当性があるかはともかくとして,2ちゃんやデムパサイトのトンデモではなくて,まっとうな学説なので,一応.

世界史板,2010/12/10(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 八王の乱で気になった事がある.
 王の側近の佞臣や寵臣が,政治に害悪を与える事は良く言われるが,実は王族に権力を与える方がもっとヤバいんじゃないか?と思った.
 王族に大きな領土を与えて封建したせいで,そいつらが争ったり,王位簒奪を狙ったりして,内乱が起きる事の方が多いように思う.
 それなのに,王族に大きな領土を与えて封建する事が,洋の東西において,中央集権化まで常識化してたのはなんでだろうか?

 【回答】
 周の封建制もヨーロッパのフューダリズムも,王朝に中央集権国家にするスキルがなかったというか,「国」全土を直接把握するだけの力がなかったから,官僚の諸侯化が起こるのを追認したり(フランク),功臣,王族を使って血族的・集団的連帯で地方を統御するしかなかった(周).
 殷なんかは,一種の呪術的な手法で,地方統御をしてる.

 中央集権化するには,どうしてもそれなりの統治経験の積み重ねの必要があったんだよ.
 官僚制度とかな.
 フランスじゃ,王領の拡大による相対的な王権の強化を,何世代かかけて行ったし,中国じゃ封建後の戦国諸国が,それぞれにそれを試行錯誤していった結果,最終的に法家主義を取った秦が勝ち残ったということ.

 漢の場合は郡国制度は,不安定な国初に,周的な血縁関係を重視した連帯意識を取り入れたけど,世代交代で連帯感が薄れたことに加えて,安定した中央政府が,地方の直接把握に乗り出したから,呉楚七国の乱が起こってる.

 中国だと晋や後の時代も,諸侯王に強力な地方権力与えてる場合があるけど,それは大抵,その王朝の開祖が血族的連帯感で王朝を守ること,王権を固めることを期待してるんだよ.
 臣下を信用できなければ,後は血族を信用するしかないからな.
 明の洪武帝なんかは,その典型かな.

 ただ,やっぱり世代が交代すれば,中心になってた開祖がいなくなるわけで,連帯感が薄れて内乱,どっちが勝っても王朝の名は残るけど,結局は中央政府による,王の強力な統制・全土の把握という結果になるだけなんだが.

 フランスのヴァロワ朝なんかは,ブルゴーニュ公はヴァロワ家から分かれてるけど,王権の強化に対抗しつづけて半独立状態の挙句に,ブルゴーニュ公位がハプスブルク家に渡るという,また変わった結果になったが.

世界史板,2010/12/11(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 今まではだしのゲン読んで,
「アメリカって酷いな…」
と思ってましたが,実際悪いのはパールハーバーに奇襲攻撃した日本ですよね?

 【回答】
 良い悪いというレベルの話をしちゃうと,ウヨサヨぐちゃぐちゃしてるこの世界じゃ,簡単に洗脳されるぞ.
 どっちも理論武装してるから,最初に「教えた奴」に取り込まれるだけ.

 あえて言えば,良い悪いじゃなくて,植民帝国時代ももう終わろうという時代の趨勢の中で,それに拘った日本が,空気を読めなかったとしか言えない.

 そら,非難するなら,外交当局のドジでも,宣戦布告前に奇襲した日本に非難の声が出たのは当たり前だし,目論見が外れて長期戦になって国土が焦土と化してもモノもないのに,無理やり戦争続けた日本が愚かとも言えるし,爆撃で非戦闘員まで巻き込んだり,原爆まで使ったアメリカだって十分非難の対象にはなるがな.

 個人的心情自体でどちらにでも「こっちが悪い,悪くない」って感じちゃうから,一歩引いてネットじゃなくて,関係書籍を当たったほうがいい.
 それでも明らかにイデオロギー色の強いのは避けなければいけないから,難しい話なんだがな.

 とりあえずコヴァのゴーマニズムは止めとくのが正解,としか言いようがない.

世界史板,2010/12/11(土)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

3872010/12/11(土) 16:25:08 0
現在の新疆ウイグル自治区って,清がジュンガル征服→清支配下の「新疆」となる
→中華民国,人民共和国に引き継がれる(独立運動を弾圧しつつ)→中国曰く,「固有の領土」
って流れでおk?大雑把だけど.

あと疑問なんだが,清は満州族でその清が征服,支配した土地を引き継いだ形でその後の漢民族の中国が固有の領土といえるのか?
できれば中立な意見希望m(_ _)m 色々間違ってたらすまn


3882010/12/11(土) 17:04:51 0
>>387
清を打倒した中華民国は,清の旧領すべてを固有の領土と主張した.
中華民国を大陸から追い落とした中華人民共和国も,中華民国の領土は当然,自分たちの固有の領土だと主張した.
歴史的な経緯は関係なく,単に「前政権の領土は全部俺らがいただく権利がある」と言った政権が
二代にわたって続いただけ.


389 : オツガイ ◆EAbyJft1LY : 2010/12/11(土) 17:11:03 0
>>387
経緯に関してはそんな理解で大体合ってると思うよ.

それで,固有の領土云々についての僕の意見だけど,そもそも歴史を振り返るに,
「固有の領土」なんてものは実際にはこの世のどこにも存在しないと思うよ.
領土を決めるのはあくまで当時の時代の中での成り行きによるところが大きい.
(当然,武力による侵略などもそういった成り行きに含める)
中国の主張だってあくまで正当性確保のための建前論だしね.


3902010/12/11(土) 17:19:51 0
「中国」の用語が指す範囲については,清末以降各人の間で議論があった.
革命家の中には,「明代に十五省,清代に十八省が置かれた範囲」あるいは「漢代に郡県が置かれた範囲」が
「漢民族・中国の固有の領域」であり,朝鮮や越南を「回復」し,蒙古・西蔵・回部は自立してもよいとする意見もあった.
この領域を「支那本土(チャイナ・プロパー)」と呼び,当時は漢民族が満洲族から独立して回復すべき地域とみなされた.
武昌起義の際の軍旗は「十八星旗」といい,これは「支那本土の十八省」を表している.

しかし辛亥革命後,中華民国の国旗を定めるにあたり,十八星旗や青天白日旗も候補に挙がったが,
かつて清朝の海軍旗であった五色旗を用いようという話が持ち上がる.これは「漢・満・蒙・回・蔵の五族共和」という理念を表すとされ,
清朝の皇帝から「全てを」譲られたのであれば,とりもなおさず清朝の旧領土は全て「五族共和の国」中華民国のもので,
中国は清朝の最大版図を指す,ということになり,領土が縮んでしまう「支那本土」論はなりを潜めていった.
その後,袁世凱の北京政府が五色旗を用いた(のち満洲国も用いた)ため,反袁派は青天白日旗を用いたが,
旧清朝の最大領土が中華民国の領土である,という主張は変らず,現在の台湾にある政権もこの主張を取り下げていない.
中華人民共和国もほぼ清朝の旧領土を保ったが,モンゴル国(外蒙古)だけはソ連の助力で独立している.


3912010/12/11(土) 17:21:07 0
>>387
ジュンガルの支配層は蒙古族.中心地域は滅亡して,遊牧集団は崩壊しバラバラになった.
もともと少数だったカザフ族の遊牧民が,西から大挙して入植してきてその空白地帯を埋めた.
清朝からはシボ族,エベンキ族,キルギス族ハカス人などが東部から警備兵として駐屯.
東部のハミやトルファンは,漢人の回族が主流集団として住みついていたが,西方にも入植.
1930年代軍閥時代の馬家軍はこの回族が基盤.回族は西夏・吐谷渾・西遼などの遺民を自称.
もともと誰かが代表して冊封されていたわけでもなく,清朝の直轄経営だった.

実際のところ,オアシス都市のウイグル族カシュガル人とかウイグル族ホータン人といった人々は
蒙古族,カザフ族,回族の支配に加えて,清朝の警備兵に支配されるようになっただけで
それほどウイグル民族としての意識はなく,「都市名+人」のラベルしか存在しなかった.
カザフ族は遊牧民だし,シボ族とか回族とかあちこちに分散しているし
オアシス都市の住民には,他にもタジク族やウズベク族も混じる.
ウイグル民族だけのエリアというのはホータンあたりだけ.

実際のところ,ぐちゃぐちゃのモザイクなので,新疆全体では利害関係が一致しない.


392 : オツガイ ◆EAbyJft1LY : 2010/12/11(土) 17:32:13 0
>>391
「ウイグル人」という民族概念自体,近代になって無理矢理作り出されたものだからね.
たまたま昔同じ地域に存在した国家(天山ウイグル王国)の名を,
中国から独立するための大義名分として引っ張り出した感は否めないなぁ.
新疆がなかなか独立出来ないのは,こういう統一的民族意識の形成が,
上手くいかなかったせいだと思う.未だに「ウイグル人」の概念に疑問を抱いてる,
新疆の住民はかなり多いからね.こういう状況はバルカン半島なんかとも似てる気がする.


3932010/12/11(土) 17:35:25 0
現代の「ウイグル」という名称自体が民族主義の中でオアシスのテュルク系
住民たちが昔の名前を復活させただけの限りなく人工的な区分だからなあ.
>>391の言うとおり,ぐちゃぐちゃのモザイクだから新疆がウイグル人の土地
とも言えないし,下手にナショナリズムを強調するのも危険な土地ではあるな.


3942010/12/11(土) 17:41:26 0
遊牧系が「東トルキスタン」と呼び
オアシス系が「ウイグル」と呼ぶ異様さ.

清朝が回民反乱や苗族反乱,そして太平天国などで荒廃した地域の住民を
新疆に入植させて,まるでアメリカ合衆国のようにぐちゃぐちゃ状態にした.
宗教宗派が違う者が一緒にいるので,融合も全然進まない.


395 : オツガイ ◆EAbyJft1LY : 2010/12/11(土) 17:42:23 0
>>392
誤)上手くいかなかったせいだと思う.
正)上手くいってないせいだと思う.

世界史板,2010/12/11(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 完全な縁故登用で,誰も期待してなかったのに,仕事させたら開花した歴史上有名な役人っている?

 【回答】
 誰も期待してなかったかどうかは知らんが,完全な縁故なら衛青と霍去病は有名だな.
 バックアップするシステムが凄いのかも知らんが,漢の外戚軍人は異様に強い奴がたまに出てくる.
 前漢だと,あと前述の霍去病の弟の霍光なんかは有名.
 関白の語源となった名政治家.

 あと,漢代だと後漢の竇憲あたり.
 竇憲は外戚としては腐敗の頂点なんだけど,皇帝に目を付けられて処罰に怯えて,
「匈奴ぬっ殺してくるんで,命ばかりはご勘弁」
っつって出てって,本当に北匈奴を西に放逐して,中国の歴史から消してきたという,有能な困ったちゃん.

 有能な外戚みたいのは大勢居るんだけど,期待されてなかったと考えられるのはなかなか見つからないな.
 縁故採用となると,多分に血縁者との同一視というか,血縁者と同様の能力を期待されるから,期待がないってのは少ないわ.

世界史板,2010/12/12(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オーストリアは何を意図して,ボスニア=ヘルツェゴビナを併合したんですか?
 ど〜考えてもセルビアの反発を招く,過激な政策じゃあないかと.

 【回答】
 意外かも知れないけど,ベルリン会議においてセルビアは親オーストリアだったんだ.
 これはロシアが親ブルガリアに走り,大ブルガリア公国を作ろうとしたせいなんだけど,それでセルビアはオーストリアの経済的援助(≒経済的支配)を受ける代わりに,ボスニア・ヘルツェゴビナの実質的支配権だけを,ベルリン会議において認めることになった.
(名目上の宗主権は,あくまでオスマン帝国にある)

 結局,オーストリアとセルビアは豚戦争などを通して,仲が悪化するんだけど,そんな状態の時にオスマン帝国内において,青年トルコ革命(1908年)が起きてしまった.
 この革命によって出来た憲法は,全民族の平等な権利と,大幅な地方自治を認めたもので,当然,名目上はオスマン帝国領となってるボスニア・ヘルツェゴビナでも適用された.
 それによるボスニア・ヘルツェゴビナでの汎スラヴ主義の台頭を恐れたオーストリアは,この地域の完全併合に乗り切ったんだ.
 これはオスマン帝国の反発を招いてしまい,ボスニア危機という外交危機が起きたけど,結局オーストリアがオスマン帝国に,多額の金銭を支払うことで収拾.
 ロシアも日露戦争のせいで疲弊してたので,これを承認し,味方のいなくなったセルビアも,しぶしぶ併合を認めざるを得なかった.

オツガイ ◆EAbyJft1LY : 世界史板,2010/12/14(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『補給戦』という本によれば,欧州で常備軍の設立が遅くなった理由に食料の問題がありましたが,中国はどうやって,補給の問題を解決したのでしょうか?
 やっぱり,麦と米の生産効率の違いのせいでしょうか?

 【回答】
 秦漢時代以降であれば,基本的に現地調達と屯田と,河川や秦が敷設した街道を利用した補給の複合です.
 現地調達の中身が略奪か購入かは,個人の趣味の領域でしょう.
 前漢の屯田遺構が,西域にかなり多数現存している事は,写真付きの概説書などにも載ってますね.
 また,対異民族圏の戦闘において,中国側から攻め入った場合には,餓死者を多く出す事がよくありました.
 前漢や新の匈奴戦,後漢の武陵蛮戦などでは,補給がとりわけ大きな問題として議論になっています.
 新の匈奴戦,隋の高句麗戦においては,悲惨な事態になりました.
 あるいは李靖の突厥征服における騎馬による寡兵戦略も,補給問題として取り上げていい事象かも知れません.

 こう言った事態は,中原の内戦においては,想定外の災害でもなければほとんどありません.
 これらは街道や都市,村落などに依存していたということの傍証になるかも知れません.
 内戦と防衛と言うレベルで考えれば,それで十分だったのでしょう.

 また,欧州と違って山岳が少ない事も,欧州との比較の上では大きい要素かも知れません.
 中国史上全体で,山岳地域の四川に籠もられると戦乱が長引く事や,四川で陰惨なレベルの略奪,虐殺が多いこともそこから来ているのかも知れません.
 諸葛亮は,非常に補給に苦労していたといいます.
 北宋の統一戦においては,後に規律正しい指揮をする将軍として知られる人物が,略奪を行っています.
 そうせざるを得ない状況が,山岳にはあるのでしょう.

 もう一つ言えば,秦漢〜魏晋あたりですと,前線に保存食を常時貯蓄する制度があったとも聞きます.
 少なくとも前漢後期以降は,均輸用の常平倉があちらこちらにありますから,これを流用した補給もあり得たでしょうね.
 また,首都を中心とした官製の貢物や,均輸用穀物の都市間輸送が常態化しているので,これも利用されたでしょう.

 まぁ,こういった色々なことの複合でしょうね.

世界史板,2010/12/17(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 カリグラがローマ市民権をバラ撒いたのって,あまり高い評価受けてないけど,納税者や軍役人口を増やし,ローマへの帰属意識を高める妙策だと思うんだけどなあ.
 カリグラの評判が悪いから,これも失政扱いされたのかな?

 【回答】
 基本納税者たる「属州民」がいなくなってしまったので,彼らの収入の十分の一である「属州税」が納税されなくなった.
 ローマ市民に課せられる税金は,相続税や奴隷解放税などで,定期収入にはなりにくく,結果的に臨時税を乱発することで,税収減を補填するしかなかった.
 これはローマ市民にとって増税であり,当然嫌がられた.

 また3K職場の軍役を進んでやる人間は少ないが,属州民からすればモチベーションのひとつに,
「補助兵として軍役を勤め終えれば,ローマ市民権という『特権』を得られる」
というのがあった.
 その特権を「平等に」ばら撒いて,ただの一般市民と同じにしてしまった.
 そこへ
「今日からローマ市民だ,祖国を守れ」
といわれても,頑張ったところで得られるものが少ないなら,いまさら軍役なんかやりたくもない.
 戦う相手は蛮族ばかりで,そうそう略奪もできん.

 また,従来の,先祖が頑張って獲得したローマ市民権を持つ人々からすれば,新たに「たなぼた」で市民権を得た連中は気に食わず,差別意識を抱いた.
 この違いは,「新市民」がいくら努力しようが埋めることが出来ず,社会的にも格差が固定された.

 そんなこんなで,国家ローマへの帰属意識はむしろ低下した.

世界史板,2010/12/18(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 軍務以外の時でも,軍服を着ている皇帝や王がいるのはなぜですか?

 確かに,皇帝・王は,建前上最高統治者であるので,政務や軍務に係るのは分かるのですが,軍隊より政府の方が上層機関であるのに,軍務以外のとき(要は政務のとき?)にも彼らが軍服を着ている理由が分かりません.
 軍服の件以外にも,皇帝・王は政府よりも軍隊に近い存在だと感じさせられることが多々あります.

 例えば,今NHKでやっている「坂の上の雲」で,ロシアのニコライ二世皇帝は軍務以外でも常に軍服を着ていますし,戦前の皇族やイギリス王族は軍隊としての教育を受けています.
(同時に政治に関する教育も受けているのならば,この点では軍隊重視にはなりませんが)
 また,wikiの「貴族院(日本)」の項目にも,
「皇族は原則的に軍人であったので,軍人の政治不関与の建前からも,(貴族院への)出席は好ましくないとされた」
と書いてありました.

 皇帝や王は原則,軍人なのでしょうか?
 もしそうであれば,その理由や歴史的経緯が知りたいです.
 ネットで検索してみても,あまりしっくり来る答えがありませんでした.

 【回答】
 結論から言えばTPO.

 軍服着てると強く勇ましく見えるので,君主にそうあってほしい・ありたい,というような時勢下では,必然的に軍服が好まれる.
 逆に今のように,示威の必要がない(むしろ忌避されがちな)時勢下では,天皇でも防衛大臣でもやたらめったら軍装することはない.

 なんで軍装なのかと言えば,権力=軍事力(暴力)だから.
 政府の方が上層機関なのではなくて,「最高権力が政府にあるから,軍隊が政府に従う」というのが正確な表現.
 だから戦前日本では「最高権力が天皇にあるから,軍隊が天皇に従う(国会には従わない)」ということになるし,権力が統一されていない中世などでは,各領主が別個に軍隊を持つということになる.
 統一権力のない世紀末では,誰もが暴力でヒャッハーということになる.

 そして,参政権と,共同体の維持のための奉仕というものは,表裏一体の権利と義務.
 外敵のような判り易い対象から,国家という共同体を防衛するということは,古来,もっとも重要な奉仕活動だ.
 政治に参与する権利,そこか血縁で派生する,政治に参与することの出来る人を出す家督,さらに家名を伴う完全な名前.国家共同体を防衛する義務,そこから派生しる武装する権利.というものが,支配側の階層に生じ,対して,被支配階層には,家督・完全な名前,武装する権利が無い.

 これは,古代のポリス時代のギリシャの小都市国家でも,アテネやスパルタが参政権の無い下層民を戦役に 狩りだせば,代償として市民権(参政権)を付与せざるを得なかったり,日本の封建時代で言うと,参政権のある者に,苗字・帯刀権,氏姓のある名乗りが限定されていて,そうでないものは,完全な名前も武装権も無い.

 ヨーロッパの王族なんてものは,参政権の頂点だから,当然,常時,武装していることが或る種の義務とされ,武装していること=軍装なわけだ.

 要は,権力者が権力のどういう背面を強調したいのか,ってこと.
 積極的に軍服を着るのは,つまり権力の軍事的背面を強調したいということなのだろう.

世界史板,2010/12/20(月)
青文字:加筆改修部分

 また,欧州で戦争が「貴族のお遊戯」だった時代,所謂ハレの服装で戦争を行っていた影響もあるのかも知れないです.
 それが,式典上の礼服と一体化する流れを生んだのかも.

 さらに,勲章は君主から与えられたものの中でもっとも名誉でしょうし,貴族はそれを身につけて式典へ向かいたいでしょう.
 そして君主側でも,自分の権威を受け入れている証として,それを身につける姿を確認したいでしょう.
 勲章が一番映えるのは結局軍服ですし,勲章を手に入れる事が出来るのは結局ほぼ軍務です.
 貴族の義務でもありますし,貴族=高級軍人ですから.

 そんな流れの中で皇帝や王は,それなりに装飾のついた軍服を着る必要が出てくるでしょう.
 何も無しのプレーンな軍服だったら,色々権威的に微妙ですし.
 仮に色々貴族や大臣に任せきりの君主だった場合,「あいつは何もやってない」という意識を,式典において再確認させることになって,下克上に繋がりかねませんし.

世界史板,2010/12/20(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フルセ−ヤについて知ってる人いる?
 なんか,ググっても日本語のページしか出てこないんだが,本当にこんなのあるの?

 【回答】
 フルーシーヤ,フルースィーヤとも.
http://en.wikipedia.org/wiki/Furusiyya

 アラブの武人やマムルークなどが学んだ,中近東の騎士道.
 ファラスは「馬」,ファーリスは「騎士」を意味し,イランのファールス(馬に乗る者),ペルシアと同じ語源.
 個人の武芸のみならず,男気やりっぱな知恵弁別,また軍略・兵法をも含む言葉とされる.
 アラブやペルシアが,遊牧民の騎馬軍団によって勢力を拡大したことはいうまでもなく,彼らは名誉ある身分の者として,見事なふるまいが求められたこともいうまでもない.

 理想としてはサラーフッディーンを上げれば充分であろう.

 マムルークに関しては,佐藤次高という人がいろいろ書いているようだ.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%AC%A1%E9%AB%98

世界史板,2010/12/23(木)
青文字:加筆改修部分

マムルークの訓練

(画像掲示板より引用)


 【追記】
 フィリピンの歴史って,スペイン以前は何も分かってないの?

3112010/12/26(日) 21:57:09 0
679 名前: ◆EAbyJft1LY [] 投稿日:2010/11/28(日) 19:16:03 0
>>678
先スペイン時代のフィリピンに関する史料はかなり少ないけど完全に未開だった訳じゃないよ.
シャカ暦の記された碑文が見つかったり,バイバインと呼ばれる文字を持ってたり,
マギンダナオとかいうイスラーム王国が興ったりしてるよ.

680 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 19:37:28 0
「フィリピン諸島」という名前はスペイン人からの他称であり,
それ以前からこの諸島が政治的・文化的統一体としてあったわけではない.

初期の住民はネグリト,次いでマレー系住民で,紀元後数世紀頃にはジャワ方面から文化が伝来したようだ.
中国の文献には10世紀末から14世紀にかけて,マニラのことらしい麻逸・摩逸・麻里・麻里魯といった国名が見え,
「麻里国人は木綿の布で身体を覆い,中国や大食(アラビア)と物々交易を行う」「青銅の神像を祀る」などと記される.

14〜15世紀には,スマトラ方面からのムスリム系移住者が南部の島々に来て,
スールー諸島にスールー王国を,ミンダナオ島にマギンダナオ王国を建てた.
またルソン島などにもブルネイから来た人々によるイスラーム系都市国家が存在した.
16世紀のマニラは6000人の人口を持つ交易地で,金・蜜蝋・蜂蜜・蘇木を輸出し,陶磁器・鉄製品・織物・雑貨を輸入した.
その交易網はマラッカを介してインド洋全域から中国南部に及んでいる.

世界史板,2010/12/
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 独立直後のオソン1世時代のギリシャなんか,オスマンよりも民衆は苦しかったよね?
 オスマン治下以上の重税が課せられたりして.
 それでもギリシャでは,オスマン帝国に対する評価は良くはないの?

 【回答】
 独立直後は,どこもそんなもんだ.
 ソ連だって革命直後は,飢餓地獄で悲惨なもんだった.

 大体,最盛期のオスマンの治世と,独立直後の若い国比べるのって,かなりアンフェアだと思う.

 では,ずっと支配されていればどうなったのか?
 クルドみたいに,トルコから独立できなかったところは,かなり悲惨なことになっている.
 アルメニア人も今でこそソ連崩壊で独立しているが,議論が続いているとはいえ,虐殺はあったろうし,クルドは80年代ぐらいまで,自分たちの言葉すら話すこと禁止されていた.

 革命や独立は綺麗事ではなく,痛みを伴う.
 それは事実だろう.
 しかし,痛みを伴わねば,いつまでも他民族に他律的に,支配され続けることになる.
 どちらを取るか,取らないか,それが民族自決の精神というもので,他者がどうこういう領域ではなく,歴史の判断だろう.

世界史板,2010/12/27(月)
青文字:加筆改修部分

 民族感情として,ギリシャやブルガリアやセルビアが反トルコになるのは,そんなに分からない話でもない.
 ただ,歴史を学ぶ上ではある程度,それを相対化して考える必要があるし,ギリシャ人だってオスマン帝国支配時代に,常に虐げられ続けて来た訳では決してないからね.
 まぁ,そういう各国間での歴史認識のずれは,イデオロギーも絡むから,かなり難しい問題ではあるんだけどね.

オツガイ ◆EAbyJft1LY :世界史板,2010/12/25(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 張飛とか呂布とかって,ものすごく強かったって言われてますけど,弓矢で遠くから狙ったり,10人くらいでいっぺんに攻撃すれば,簡単に殺せそうなイメージなんですが・・・
 実際はどうなんでしょう?

 【回答】
 昔の戦争は,個人の強さが戦いに影響する場合があったのは事実だよ.
 人間は殺し合いをする場合,殺傷行為に対して精神的ストレスがかかるんだ.

 これは米軍で研究されたことだけど,3%の割合で殺人行為に対して,ストレスがかからない人間がいる.
 そういう人間が,昔の合戦的な戦争スタイルの戦争に参加した場合,脅威となりえる.
 何故なら常人は人一人殺しても,かなりのストレスがかかるのだけど,そういった人間には殺人によるストレスがかからないので,無差別的に殺人ができる.
 それをはたから見たとき,周囲は恐怖を感じるだろう.
 人間が恐怖心にかられた場合,冷静な判断力を失うので,その脅威となる対象から逃げるとか怖気づいて動けなくなるとかそういう状態になってしまう.
 そのために,あなたの言うように取り囲んで殺すなどの行為が難しくなる.

 しかし当然,昔の人もそういう個人の猛者に対して,集団で対抗することを考えた.
 それが個人の武勇に影響されず,戦争をするために個々の連携をとって戦う訓練や陣形そして兵法が生み出されたわけです.
 訓練無しでは冷静さを失ったときに,そのような行動がとれませんが,訓練を受けた兵士の場合,指揮官の命令どおり行動するので,指揮官の命令によって冷静さを取り戻すことができ,集団で反撃できるわけです.

 近代の戦争においても,天才的なスナイパーや急降下爆撃の天才や戦車の天才などが,一時的ながらも少数で戦果をあげて敵を遅滞することもあります.
 それを考えると,三国志演技のお話がすべてまるっきり嘘をはいえないと思いますね.
 もちろん丸呑みはできないですけどね.

 【反論】
 その「異常人」と猛者との関係性が不透明.
 猛者は「異常人」が多いというデータがなければ.

 それとは関係なしに,古の戦場には所謂一騎当千的な人物はいたと考えれている.
 もちろん,千人と同時に格闘したり「無双」(笑)するのではなくて,騎虎の勢いで持って怯ませたり敗走させたりする人.
 これは戦場においては,感情が「伝染」することとも関係している.

世界史板,2010/12/27(月)
青文字:加筆改修部分

〔要クロスチェック〕


 【質問】
 チンギスハーン,李舜臣,武田信玄,筒井順昭他に,自分の死を隠せと言い残した人はいますか?

 【回答】
 本人がそうしろと指示したというのは,ちょっと思いつかないけど,何らかの時間稼ぎのために,残された家臣たちが君主の死を隠蔽した事例ならある.

 有名なところでは,巡行中に急死した始皇帝.
 趙高らが遺書を偽造するなど,後継者を都合良くする工作をするため,都に戻るまで始皇帝の死を隠した.
 死体の悪臭をごまかすために,皇帝の車に大量の魚を積んで輸送させたという.

 アイユーブ朝のアル・サーリフなんかも面白いな.
 彼が死んだ時,エジプトはルイ9世の十字軍と戦っている緊急事態.
 跡継ぎのトゥーランシャーは,遠くイラク方面にいた.
 そこでトゥーランシャーが戻ってくるまでその死を隠し,事実上,寡婦のシャアジャル・ドゥッルが対十字軍戦を指導した.

世界史板,2010/12/27(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 キリスト教は当はカルト的存在だったの?

 【回答】
 そりゃ,そうだろう.
 ユダヤ教を批判して,それとは異なる教えを説いて,開祖が処刑されたんだから.
 当時からすれば,新興宗教のカルトだろうよ.

 ちょうどあの頃のユダヤって,キリスト教の宗教改革の頃と似てて,
サドカイ派(エルサレム神殿中心のカトリック)
パリサイ派(ラビ中心のプロテスタント)
エッセネ系諸派(共同生活する集団 いわゆるカルト)
が混在してた.
 そして,バプテスマ教団や原キリスト教も,エッセネ派の一派だったんじゃないかといわれている.

 さらに言うと,イエス(ヨシュア)が生きていた頃は,原キリスト教を迫害していたパウロ(サウロ)が,イエスが死んだあとになって,
「蘇ったイエスに会って私は改心した.
 イエスは死ぬことによって原罪を引き受けたのだ」
とか電波受信して,それを広めたのが今のキリスト教の起こり.
 ちなみにこのエピソードが,「目から鱗が落ちる」の元ネタだったりする.

世界史板,2010/12/27(月)〜12/28(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アメリカの独立が革命と言われるけど,他の国々の独立は革命とは言われないのはなぜ?

 【回答】
 革命と言うのは,政治や社会を根本から変えるという意味がある.
 また,権力の階級間での移動とも言える.

 それを考えると,階級社会においては,平民が貴族王族階級を倒したフランスの場合は,フランス革命と呼ばれる.
 これは貴族主体の社会を平民主体の社会に根本から変えたから.
 権力が貴族階級から平民階級に移った.

 では,アメリカ独立革命はどうか?
 今までのイギリス本国による本国→アメリカ植民地という支配体制から,アメリカ(被支配者)がイギリス(支配者)を破り,イギリス型の政治体制の枠を外れて,自分たちの政権を打ちたてたという意味で,革命と呼ばれる.
 支配者であるイギリスからアメリカへ,権力が移動したと見れば,やはり革命と言えると思う.

 逆に明治維新は,士農工商の下位層が武力で政権を打ちたてたのではなく,支配者層である薩長や公家が幕府を倒すという形で行われたから,これは支配階級間での権力の移動なので,革命とは呼ばない.

 ちなみに,ハイチやベルギーの独立も革命と言われているね.

 他方,冷戦時代のハンガリーのあれは革命か蜂起か反乱かで,未だ定義が定まってない気が.

 ロシア革命なんて,セミレーチエ反乱に二月革命にコルニーロフ事件に十月革命だしな.
 失敗には容赦ない.

世界史板,2010/12/28(火)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 メキシコの場合もメキシコ革命って呼ばれてるよね?

 【回答】
 メキシコの独立革命と,階級運動のメキシコ革命は違うよ.
 メキシコ独立革命は,支配者であるスペイン本国vsクリオーリョの,武力による権力奪取で,彼らの政権が誕生したから権力の移動があったと言えるから,革命と言えると思う.

 メキシコ革命は資産家階級のディアスから,農民や労働者が武力で権力を戦い取った,階級間の権力移動.
 無論,メキシコ革命もフランス革命同様に,長い紆余曲折があるから,簡単には語れないけど.

 革命の定義には,しばしば,武力などの手段を用いることも入るから,「独立」というもの全て「革命」と位置付けるには,疑問があると思うよ.

世界史板,2010/12/28(火)
青文字:加筆改修部分

 メキシコ独立はミゲル・イダルゴの反乱から始まってるから,革命と言えなくもない.
 確かに,現地政府の反乱という見方も出来なくはない.
 けど,色々な勢力が存在したから一概には言えない.

 メキシコ革命も同じで,農民たちも参加してたから,そういう見方も可能.

 まぁ,どちらも色々な勢力がいたから,それらの特徴を1つにまとめるのは,不可能なんだけどね.
 結局,最後はカウディーリョたちが勝つし.
(とはいってもカルデナスは,農民や労働者寄りの政策を行なってるし,メキシコ革命は簡単にまとめられないほど,かなり複雑な運動なんだよ)

オツガイ ◆EAbyJft1LY :世界史板,2010/12/28(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 予備校や学校の授業で,ローマ教皇の話が出ますが,インノケンティウス3世が教皇権絶頂と教わり,そこから凋落していくと習ったのですが,それ以後の教皇の話は授業では出ません.
 凋落後の教皇はどうなったのですか?
 特に,絶対王政から各国での革命,そして両大戦期.影が薄くなった時期の教皇について,簡単に教えてください.

 【回答】
 13世紀末,十字軍活動が失敗に終ったことで,権威が凋落し始める.
 14世紀には,台頭してきたフランス王に連れ去られ,アヴィニョンに教皇庁が移る.
 15世紀にはローマに戻り,ルネサンス芸術のパトロンとなる.
 16世紀には,贖宥状(免罪符)で荒稼ぎしたせいで宗教改革が起こり,教皇は対抗宗教改革を行って,イエズス会などを世界中に派遣.
 17〜18世紀にもそれなりの権威はあり,ガリレオ裁判などが有名だが,絶対王政諸国や啓蒙主義国家には,権威があまり及ばなくなっていく.
 19世紀にはナポレオンにコケにされたり,世の近代化に反対したり,イタリア統一に抵抗してバチカンに引きこもったりする始末.
 20世紀に入ると微々たる権威しかなくなるが,共産主義に反対してナチスに篭絡され,ユダヤ人迫害にも思い切った反対をしなかったとして,非難を受けたりもしている.
 教皇が自ら世界に飛び出して,活躍し始めるのは1960年代から.

世界史板,2011/01/08(土)
青文字:加筆改修部分

そして現在のローマ法王


 【質問】
 教皇が王冠をかぶせたり剥奪したり,十字軍なるもので異教徒を惨殺しまくったりするのは,聖書やペトロの教えのどこに基づいているのでしょうか?

 【回答】
 王冠を授ける,は,フランク王国シャルルマーニュをローマ皇帝に認定したとこから始まってて,言うなれば行きがかり上そうなった.
 蛮族の酋長は,ヨーロッパのキリスト教社会(民衆)に対する権威を手に入れることで,統治がし易くなり,大助かり.
 教皇は,イスラムのカリフと違って,軍事力を持たない坊主の親玉にすぎないから,強力な軍事力に庇護してもらえて大助かり.
 つまり相互扶助みたいな感じだった.
 教義とは無関係.

 で,皇帝の冠を外すときは,例えば皇帝以外に実力者が複数いて,彼の権力基盤が脆弱なときは,「破門するぞ」というのは脅しになる.
 民衆が離反しやすくなるということだから,上手くすれば自分の発言力を高められる.

 で,キリスト教は元々,現世利益を捨てて来世で幸せになろう,という教え(だから貧乏な地域でもハンパ無い寄付が集まる)なので,権力に対して従順だった.
 むしろ布教のため,積極的に権力を利用しようとしたし,コンスタンチヌスのときに彼に国教認定させて,権力に食い入ることに成功.
 聖職者は,異教徒の聖職者や異端者との論戦に勝利するため,徹底的に理論武装.
 これがキリスト教哲学の下敷きになってる.

 あとは,ローマ在来の多神教(ヴィーナスとかジュピターとかのやつ)などの神殿や神像を徹底破壊.
 多宗教の国家だったローマを漂白してしまった.
 攻撃的な遺伝子を元々持ってると言える

 十字軍は教皇ウルバヌス2世が,教会の権威を高めるため,
「異教徒をやっつけろ!」
と煽り立てたのが始まり.
 そして煽りに乗って,異教徒を滅ぼせば神が喜ぶと,単純に信じた信者が出かけて行って,異教徒を殺した.

 中世の教皇庁やカトリック教会の歴史は,堕落と腐敗にまみれてますよ.
 ラテン語しかない聖書を読めるのは,一部の教育を受けた者だけ.
 「ペトロの教え」など,いくらでも捏造できる.

 ついでに言えば,教皇は「イエスの代理人」じゃなくて,「天国の鍵を預かったペトロ」の「後継者」.

世界史板,2011/01/09(日)〜01/10(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国皇帝はなんで,あまたある近隣諸国の中で,朝鮮王だけ格下に扱ったの?
 日本国天皇,ベトナム皇帝,チベットのラマ,タイ王,ラオス諸王,中央アジアの諸国などあるのに,なんで朝鮮王だけ格下に扱う=属国にしたの?

 【回答】
 国内の封建領主も外国とのやりとりも,全部,同じ形式の冊封朝貢で行う.
 皇族とか功臣とか王とか郡司とかに任命するわけだが,外国(支那は外国の概念が無かったが)の元首も,形式上は同じ扱い.

 そこで,国内の領主に対して睨みが利くよう,
「あんな遠くの,習俗も違うような蛮人まで,皇徳を慕い帝威に恐れおののいて従ってる」
というふうな外見を作るわけだ.
 遠方からきたら,
「こういう作法だからみんなの前で伏礼して,恭々しく貢物の目録を読み上げでて,大国の皇帝として褒めてくださいね」
とお願いする.
 で,たんまりとそのお礼の手土産を持たせる.
 これが遠方の国とのやりとりの実体.
 あの倭寇の日本のすぐ近く琉球,インドのとなり緬(ビルマ)や泰(タイ)まで来るよ,となると,国内の王や郡司も滞りなく,朝貢という形の税を納めてくる.

 朝鮮に対してなんで厳しかったといえば,気に入らないことをすれば,すぐに攻めていくことが出来たから.
 琉球やビルマや西域なんて,簡単に攻めて行けなかったし,行ったら返り討ちにあってしまうが,朝鮮は勝手知ったる我が裏庭のようなもの.
 言うこと訊かなければ攻めていけばいいし,実際に攻め込まれている.
 まぁ,求めるだけちゃんと貢納してくれば,王様の身分にお墨付くらいくれてやんよ,という具合.

世界史板,2011/01/19(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 宋が歴代王朝の中でも,高く評価されている理由はなんでしょう?
 どうも,軍事的に弱体な政権という印象が拭えませんが.

 【回答】
 高く評価というか,軍事的には弱体だし政治的には党派争いが激しく,契丹・西夏・大理・女真などに圧迫されたため,支配できた面積も秦にすら劣る.
 しかし,江南を中心として経済的に発展し,膨大な人口と莫大な富を持ち,技術的発明がなされ,当時の世界では相当に高度な文化・文明を築いていたことは事実.
 周辺各国から突っつかれて歳幣をたかられたりはしたが,比較的平和で安定した一時代を謳歌した.

 また,唐代の北族・異国文化がこなれて「中国的」となり,江南風の風流優雅なイメージが定着していった.
 日本からすれば,宋銭を大量に輸入したため,数百年ぶりに貨幣経済が復興したり,禅宗や喫茶の風習なども南宋から取り入れたりしたので,北朝より文化的な親しみがある.

 それと,軍事的に弱体だった理由は,節度使や監察使といった連中が半独立化した唐を教訓に,地方の半独立政権の目を潰して,地方の長官から兵の権限をとりあげて,禁軍を派遣して中央が軍を司るようにしたから.
 そのため,内訌の目はなくなったが,どうしても軍事の対処は遅れがちに.
 いわゆる遼金の北虜の遠因にもなった.

 で,足りない分を私家軍が補うようになった.
 岳飛や韓世忠などだね.

 よく誤解されるが,国境戦では対応が遅れがちで領土は少ないが,宋は粘り強い.
 蒙古との襄陽攻防戦以前にも,四方八方敵だらけだったが,その度に大軍を私家軍が撃破している.
 金の梁王宗弼や海陵王等が宋に侵攻しているが,岳飛や韓世忠,梁紅玉,虞允文といった私家軍や,官軍の名将らが国を守り,よく収めている.
 先程の海陵王は,宋に対する親征に敗れ,逃亡中に味方兵に殺されて敗死している.
(なお,王とあるが,死後王に降下させられたのであって,当時は皇帝)

 この,遼や金や猛虎などと私家軍との戦い,岳飛の死とか崖山の戦いで滅んでいく様とかにも,宋は日本人好みの悲劇性が詰まっている.
 日本で喩えていうと,平家の隆盛滅亡や秀吉の出世,大阪夏の陣みたいな心情に匹敵する.

世界史板,2011/01/19(水)〜01/20(木)
青文字:加筆改修部分


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